十三

 座敷へいく。菅野やトルコ嬢たちは昼めしの真最中だ。すっかり元気を回復したイネのおさんどんにソテツが忙しそうに加わっている。数時前の痴態の名残などまったく感じられない。初体験の戸惑いも喜びもオクビにも出さないで、キビキビ動いている。トルコ嬢の一人が、
「ソテツちゃん、なんか腰のあたりがツヤッぽくなったよ。さては―」
 別の一人も、
「あんた、ちょっと薄く化粧しとらん? 化粧するなら眉を細く剃ったほうがええよ」
 何を言われても、どこ吹く風とやりすごし、これっぽっちの気配もにおわせない。大した十六歳だ。
 直人がスプーンを放り出して私に飛びついてくる。抱き止め、追ってきた睦子たちといっしょに食卓につく。
「ポンポンだいじょうぶ?」
「うん、いたくない」
 食卓のみんなが私たち三人に律儀にお辞儀をする。おりに触れて垣間見える、由緒ある置屋本来の謹直な暮らしぶりに心が安らぐ。この安らぎをいままで意識したことがなかった。主人はこの家の歴史は浅いようなことを言っていたが、遠く大正期から政府指定の妓女差配所として始まったとすると、少なくとも半世紀の歴史がある。その歴史に寄り添って暮らしてきた奉公人たちの心構えが、北村夫婦はもとより、塙席の夫婦や、礼儀正しく静かな賄いたちや、芸妓たちの物腰に偲ばれる。それは、カズちゃんやトルコ嬢たちの立ち居にも仄見える。しっかりしたヒエラルキーまで感じる。
 何代を数えるのか知らないけれども、広大な土地、使用人の数、すでに取り壊した長屋数軒を抱えていた規模などを考えると、まぎれもなくお大尽と言うにふさわしい素封家だ。銀行との付き合い(ときどき、その筋の関係者らしい人びとが頭を低くして出入りするのを見かける)、納税の嵩(×千万とか×百万と帳場から聞こえてきたことがある)、政治家や役人や、アンダーグラウンドの人びとや、商店主や企業主たちとのさりげない付き合い。
 ―私が出会ってきたのは、かいつまむと、合船場に象徴される故郷に根を張った土着人、ひろゆきちゃんの家庭に象徴される最小単位で〈独立〉した都会人、飯場や大学やプロ球団に象徴される各地から蝟集した根無し人(デラシネ)。
 みな階級が不分明な、富裕の度合いも不分明な集団だ。北村席はおそらく三番目の集団に属しているのだろうが、階級は不分明にしても、冨はベールで隠されていながら確固としたものがある。そしてそれを、企業のように誇らかに打ち出さない泰然とした集団だ。
 そんな大層な家での一日は、まず朝早く離れから聞こえてくる女将の読経と居間の神棚への礼拝に始まり、賄い女たちの玄関と土間と門周りと室内の掃除があり、段取りのいい朝食があり、私たちの食後のむだ話をよそに、洗う順番も干す順番も狂いなく決められた洗濯仕事がある。洗濯は北村夫婦棟の裏庭の、広い水場を備えた洗濯場で行なわれる。そのそばにかなり大きなモルタル小屋があり、ゆったりとした間隔で大型の洗濯機が五台置いてある。衣類、シーツ・タオル、下着等、用途に応じて使い分けられているようだ。洗い上がると、膨大な量の洗濯物が何本もの物干し竿に干される。その中には本人たちの衣類下着はもちろん、主人夫婦や、トルコ嬢を除いた寄食者の分も含まれる。トルコ嬢たちの洗濯場と物干し場は、少し離れた別の一角にあり、截然と区別されている。
 昼めしのすんだ午後は、週に何度か賄いたちの有志が一つ部屋に集められて(二階の奥の窓側の十六畳)、裁縫や、活け花や、習字の習練がある。文江さんをはじめ、二人三人の師匠顔した男女が週に一回あて出入りするのを何度か目撃した。夕刻にはいっせいに蒲団叩きや洗濯物の取入れや食事の支度があるという案配だ。
 彼らの中で自分がどういう立場にあるのかわかっている。長居する大事な客というのが当たっている。寄食者であることはまちがいないのに、とんでもなく高い壇に祀られているので、ひたすら快適な空間を用意された貴賓客の待遇だ。彼らは私のためを思って、荷厄介な家族のにおいを消し、苦楽を共にする家族の一員という意識を持たせないようにしている。私にできるのは一方的に慕い寄ることだけだ。
 トモヨさんが直人と保育所へ出かけると、睦子と千佳子を誘って庭に出る。キッコ、天童、丸、台所の後片づけをすましたイネとつづいて降りる。曇り空。睦子が美しい。彼女に比べるとやはり、母親のたたずまいはかなり見劣りするものだったとわかる。睦子にほんとうにすまないことをした気になる。彼らが歩きはじめると、私の横にいた天童に声をかけた。
「天童さん、あとで耳掃除」
「はい……」
 逡巡している様子を見て、女たちがくすくす笑う。私は気づき、
「あ、そうか、膝に頭をのっけると―」
「はい」
「でも、抵抗力がついたんじゃないかな」
 キッコが、
「そういうのって、抵抗力はつかんのやない?」
 帰省していたせいでその場を目撃していなかったイネにキッコが耳打ちする。
「んだな!」
 と驚いている。天童が、
「もう、あんなに大きいカスは出ないと思います。……きょうはやめましょう」
 千佳子が、
「私が取ります。きのうの夜はごめんなさい。つまらない話をしてしまって。さっきムッちゃんとも話したの。もう神無月くんをどうでもいい話に引きずりこむのはやめようって。神無月くんの疲労が大きくなるからって。……ムッちゃん、きれい。どんどん和子さんに似てくる」
 私はイネに、
「お父さんはもったいない人だった?」
「へ?」
「もったいない命だったと思うと、涙がこらえられないだろう」
 杉山啓子を思いながら言った。
「どんだんだべなあ、ワはかっちゃと同じくれ泣いだども。……弟と妹がいぢばん泣いだ。トッチャは夏も冬も仕事ばりしてるふとだった。休みの漁船さいっしょに乗って、釣りしたぐれしか思い出がねな」
「イネと弟妹は齢が離れてるの?」
「弟は四つ下、妹は六つ下だ。弟は高校出てからずっと漁師やって三年目だ。うぢさ金入れでら。妹は今年高校出たばりで、一年間は美容師見習いだつけ」
「二人とも高校にいかせたんだ。お母さんとイネの力だね。えらいな」
「十五から働きづめだおん、キョウダイ二人ぐれ高校さいがせられるべせ」
「十七歳で名古屋に出てきたんじゃなかったの」
「三十四年に十五で桜通の近藤紡績さ入(へ)って、十七で辞めて北村さきた。賄い募集の新聞記事見てせ」
「北村席にきたおかげで、籠の鳥になってくれたから、二十五歳できれいなままのイネに遇えた。お母さんはどんな仕事してるの?」
「漁協で荷出しの日雇いをしてら。実入りが少ねのに、ただでね仕事だでば」
 千佳子が、
「おうでば、ゆるぐね。オラも、とっちゃかっちゃが、おなずえんた仕事してるすけ、よぐわがる」
 式台に上がりかけていた女たちが振り向いて、千佳子のズーズー弁を賞讃するようにパッと笑った。イネはそんな笑いに気づかずに、
「すばらくすたっきゃ、とっちゃの保険が入るべし、弟や妹もそのうぢ、かっちゃの面倒見るようになるべおん、まんずだいじょぶだこった」
「貯金を趣味にするのもいいべたって、たまには仕送りもしてやんだよ」
 実のある掛け合いが始まる。
「はい。ワは長女だすけ、すたらこどはよぐ考えでら」
 私は、
「イネ、困ったらカズちゃんに言って。ぼくの給料ぜんぶ預けてあるから」
「だいじょぶだ。この八年で貯めた金ががっぱあるすけ、なんも心配いらね」
 取り立てて草木を見ることもなく、ぞろぞろ座敷に入る。私は菅野に、
「青森でプロ野球開催って、一年にいっぺんぐらいあるの?」
 菅野は即座に答える。
「昭和二十五年六月に、青森市営球場で巨人対パイレーツ戦、去年の七月にやっぱり青森市営球場で大洋対広島戦があっただけです。当分プロ野球の青森県開催はないんじゃないでしょうか」
「そう……じゃ、仕方ないな。青森の人たちにはプロ野球人としてのぼくの姿をグランドで見てもらえないわけだ」
「テレビだけですね」
 優子が、
「菅野さん、詳しいのねえ!」
「青森に住みつづけた場合、神無月さんのグランドでの姿を一年にどのくらい見れるかなって調べたことがあったからね。そしたら、ぜんぜんそんなチャンスないんだよなあ。びっくりしちゃった」
 千佳子が、
「神無月くん、耳カス取ります」
「ほい」
 座敷に寝転がる。耳掻きと綿棒を持って睦子がキッコといっしょにやってきた。縁側を向いて正座する。私は千佳子の膝に頭を載せ、悪いほうの右耳を上向けた。左耳の耳鳴りは小さな音に落ち着いている。千佳子は耳穴の浅いところをいじりながら、なかなか奥まで掻き匙を届かせようとしない。呼吸がおかしくなっている。
「やっぱり、溜まってません。やめますね」
「そんなことないよ。じゃ、綿棒でお願い」
「はい、う……」
 キッコがケタケタ笑い、イネが半信半疑で寄ってきたとたん、千佳子は私の頭をあわてて畳に下ろすと、膝立ちになって、尻を突き出しながら前にのめった。畳に両手を突いて尻を前後させる。居間にいる北村夫婦も菅野も気づいていない。
「あらら、ほんとだでば!」
 キッコが膝を代わり、耳掻きを手にした。
「わ、どんどん濡れてくる。ちょい、どっか触られたら危ないわ。神無月さん、千佳ちゃんのどこを触ってん?」
「どこも」
「取り終わるまで触らんといてね。ああ、ムズムズする」
 キッコは慎重に耳掻きを使い、かなりのカスを取り出した。綿棒で後始末をする。
「もうだめ、パンツぐっしょり。ああ、どこでもいいから触って」
 膝を撫でる。
「あ、気持ちいい、う!」
 膝が跳ねた。赤らんだ顔がトロリと私を眺め下ろす。睦子が興味津々の顔でやってきた。
「不思議ですね。興味あるけど、遠慮しておきます。いますぐしたくなりますから」
「うちも、これ以上は遠慮しとくわ」
 キッコも赤い頬で美しく笑った。
「芝居であらへんで」
 私は微笑ましい気分になり、玄関から芝庭に出る。筋トレと素振りはあとに回す。メロディをハミングしながら、ラジオ体操を第二までやる。女たちが出てきて、いっしょにやる。保育所から帰ってきた着物姿のトモヨさんが飛び石に立って、賑やかな庭を微笑しながら眺めている。
         †
 三時。ジャージ姿の菅野が元気な声で、
「もうひとっ走りしますか。きょうはちょっとサボって走りましたからね。四時か五時ぐらいから雨だそうです。いまのうちですよ」
「オッケー」
「西高まで走って、花屋でおやつ。往復一時間。帰ってくると四時半くらい。いいですね」
「いや、花屋をやめて、そのまま帰ってきましょう。面倒がないほうがいい」
「了解。帰宅は四時。レッツゴー!」
 女たちに手を振り、玄関から走り出す。
「ピストル魔、つかまりましたね」
「そうですか」
「十九歳。神無月さんや山口さんと同じですよ」
「十九年で、終の棲家を牢屋に決めちゃったんだな。非常識な人間が常識の檻の中で暮らすのはたいへんだ。もう夢の中では暮らせない」
「妄想の中で暮らすだけですか。あ、またバンがいるな。あしたのサイン会はたいへんですよ。フラッシュで目をやられないようにしてくださいね」
 バンは並走しながら何十回もシャッターを切っていたが、西口のコンコースの前までしか追いかけられなかった。コンコースを走って名古屋駅前に出、市電道を走る。大鳥居までの太閤通や日赤までの銀座商店街とともに、西高までの〈名無し〉の道はこの二、三カ月でおおよそ定まったランニングコースなので、目に親しんだ街並をあらためて記憶しようとする。市電停留所の名前を基点に覚えていく。
 名古屋駅前。左手に中央郵便局前。右折。振り返ると、背の高いビルばかり。右奥に名古屋駅の駅舎、左奥に大名古屋ビルヂングが見える。名駅二丁目。X字路。右手に古そうな居酒屋の建物。
「味噌串カツがうまい店です。ほとんど個室なのが変わってます」
 ビルの谷間に、鳥八、米寅、越後屋といった食い物屋がはまりこんでいる。めしどきにサラリーマンたちでごった返す通りのようだ。左手の細道にチラリと小さな神社が見えた。
「桂芳院というちっちゃな寺です。入口に島崎地蔵尊があります。ちょっと寄り道しましょうか」
 曲がりこむ。通りに面して五体の地蔵。延命、子育て、身代わり、水子、合格祈願と書かれた看板が立っている。何でも屋だ。門前の立札に、

 
秘密愚痴聞き地蔵尊におまいりの方は中に入り左へおすすみください

 住職のものと思われる自転車やリヤカーの置いてある門内へ入りこむ。左へ進むと、菱に組まれた竹格子の前に、石でできたかわいらしい半跏思惟像が据えてある。人の話を聞くように右手を耳に立て、左手には石の宝珠を載せている。毛糸で編んだ赤いよだれ掛けを垂らし、赤いベレー帽をかぶっている。子供の顔だ。直人に似ている。
「よだれ掛けの布は、しょっちゅう変わります」
 この子供地蔵に気軽に秘密を打ち明け、愚痴を聞いてもらうということのようだ。思うこともなく本通りへ戻る。


         十四

 那古野の電停の五叉路から市電の線路がゆるくカーブして北上する。軒が低くなる。病院が何軒か建てこんでいる。法泉堂、美栄堂、黄河。記憶し直そうにも建物の正体がわからない。菊井町の電停の十字路。大垣共立銀行、富士銀行、民家、喫茶レストランオブラート、菊井薬局。上飯田行の電車が右折していく。車掌の背中が見える。菊井四丁目の電停。弘扇堂、得体の知れない大ビル、マンション、岐阜信用金庫、郵便局、ガソリンスタンド、肉屋、川端敷物。えりかなどという飲み屋も混じる。
「さっきから何をキョロキョロ見てるんですか。また暗記しようとしてますね」
「うん。いろいろ思い出をたぐろうと思ったけど、無理だね。たいていの人は正体を明かさないで暮らしてる。無記名社会。電話でつながってるんだろう。たまたまいった場所しか記憶し直せないね」
 菅野は応えず、笑っている。菊井二丁目電停の十字路。名古屋歯科医療専門学校。周囲に歯科医院が多いのは偶然ではなさそうだ。名無しビルの連なり。こんなところにでっかい学校が! 五階建て円形校舎。愛知女子高等学校? 聞いたこともない。
「大正時代にできた古い女子高です。全国一万の高校の中で最下位レベルだと聞きました。落ちこぼれ救済の高校ですね。それほど長い歴史があるのに、一人の有名人も出していません」
「西高だって同じゃないの?」
「神無月さんが出ました。少なくとも落ちこぼれ高校ではないですよ」
 片側三車線の菊ノ尾通り、押切電停の大交差点。東海銀行。文芸春秋。富士フィルムの大きなネオン。右手が花の木の家、それを少しいけば金原の家。
「左へいきましょう。まだ息が上がってないですね」
「平気、平気」
 なつかしい家並が展がる。菊ノ尾の交差点にくる。詩音。榎小学校。民家ばかりになる。
「はい、花屋の通り。素通りしますよ」
「オッケー」
 天神山までの低い家並を見通しながら左折する。スピードを上げ、環状線まで一気に駆け抜ける。八坂荘には寄らなかった。パチンコ屋が駐車場になっていた。枇杷島青果市場。
「高三の年末、ここでバイトした」
「憶えてます」
「あのころはお世話になりました」
「どういたしまして」
「よく荷物を運んでくれたし、いろんな女たちを乗せてきてくれた。知多まで遠出したこともあったね」
「それ以上言わないでください。泣きますから」
 環状線を南下する。竹井という蕎麦屋が目に入る。
「この店、法子がぼくと再会したとき、バイトをしてた店です。彼女の叔父さんの店だそうです。やっぱり、食べていきましょう」
「やった! 腹へってたんですよ」
 店内に入ると、二組の客がいた。あのときは雨が降り出していっときに立てこんできた。きょうも雨がきそうだけれど、降り出さないかぎりよほどのんびりした感じで食える。あの日にはいなかった中老の女が注文を聞いた。
「カツ丼ともりそば」
「私も同じで」
 男が品出しの窓から覗き、息を呑んだふうだった。女と同じような年輩で、痩せて眼鏡をかけている。法子一家のだれとも似ていない。あわてて出てきて、
「中日ドラゴンズの神無月さんですね。二年前の師走に、雨宿りでたまたまここに入られたでしょう。そして、法子と偶然再会して……」
 中老の女はびっくりしたように立ちすくんだ。神無月と聞いて、二組の客がこちらを注視する。
「はい。あのとき、何を食べましたっけ」
「きしめんでした。法子が天麩羅そばなんかやめとけって言ったので」
「そうでした。よく憶えてますね」
「法子の応対がひどく印象深かったんで。そんなすごい人とは知らず失礼しました。あなたを追いかけて東京へいった法子は、いまは大出世して、来年は神宮前のほうに店を出すそうで、あのときも法子が言ってましたが、ほんとに福の神のようなかたですね。―どうか三冠王を獲って、中日を優勝させてください」
「がんばります」
「できればあとで……」
「はい、画用紙でも何でも」
 男は女に耳打ちして厨房に引っこむ。女は戸を引いて表に出ていった。
「節子さんといい、法子さんといい、たしかに神無月さんは福を授けてますよ。私は神無月さんといっしょに行動してると、キントン雲(うん)に乗って見たこともない世界にすっ飛んでいく感じがします。そうだ、福の神は吉祥天と言うんですが、吉祥天が姉だとすると、弟か妹は何だと思います?」
 私の答えを待ちながら得意げに蕎麦をすする。
「福の神の年下の親族……福に格上も格下はないから、思い切って下げて、貧乏神?」
「ああ、当たっちゃった。そうなんです。だから貧乏神を大切にすると、姉が喜んで貧乏神を福の神に変えて、大切にした人を幸せにしてやるんだそうです」
「たとえばぼくが福の神だとすると、貧乏神はだれ?」
「神無月さんと一親等でつながった年下のすべての人たちです」
「一人もいないよ。イトコはいるけど」
「イトコは四親等です」
「神無月さんに貧乏神の血筋は要りませんよ。一人で貧乏人も金持ちも、みんなを幸せにしてますから」
「よくわからないけど、そうだとうれしいね」
 店主が品出しをする。カツ丼をもりもり食う。うまい。蕎麦もうまい。瞬く間にたいらげる。中年女が紙袋を手に戻ってきて、厨房に入った。ふたたび出てきて、うやうやしく色紙とマジックペンを差し出す。すらすらと書く。竹井さん江。
「ありがとうございます。これで客足が何倍にもなります」
「法子の叔父さんだそうですが」
「はい、法子の母親の従妹がこいつです。私はその亭主で、まあ他人です」
 確実に他人だ。二組の客はとっくに食い終えて、ひっそり私たちを眺めている。立ち去りかねているのだ。意を決したふうに一人の若い男が言った。
「巨人をぶっ潰してください!」
「わかりました。約束します」
 客たちは上気した顔で、一人ひとり私と握手して帰っていった。入れ替わりにドッと三組の客が入ってきた。菅野がおどけたふうに目を丸くした。私は、
「ここは年越し蕎麦を作ってますか」
「はあ、大晦日には店も開けますし、お持ち帰りもやってます」
「都合がつけば大勢でくるかもしれません」
「ぜひ! お待ちしてます」
 女房が、
「心よりご活躍をお祈りしてます」
「ありがとうございます。精いっぱいやります」
 夫婦と握手をした。店を出ると夫婦は暖簾の外に出てきて、深く辞儀をした。私たちも会釈して立ち去る。腹ごなしに、平べったい町をしばらく歩いた。栄生駅前の二車線からガードをくぐって右の鳥居通りへ進路をとる。
「きょうは十キロぐらい走ることになりますよ。休み休みですけど」
「あしたは西高の正門から引き返そうかな。栄生のガードの上を通っているのは何線ですか」
「名鉄線と東海道本線と新幹線です」
「そっか、法子は船方から神宮前に出て、名鉄に乗って栄生で降りて、さっきの蕎麦屋まで歩いたんだな。まじめな女だ」
「法子さんか……みんな福の神です。さ、走りましょう」
 ところどころに街の飾りのように電話ボックスがある。郵便ポストと同じように、心を和ませる美しい発明物だ。曇り空が広い。空の広い町を走る。笈瀬中学校、十王薬局、トヨタカローラ、亀屋芳広。
「亀屋芳広?」
「お菓子屋さんです。和菓子、洋菓子、デコレーションケーキ、何でも作ってます」
 本陣X字路。コメダ珈琲。
「則武の家へ入る路の角がコメダだ。一度も入ったことがないけど、あそこよりはうまそう店構えだね」
「はあ。私も則武の店には入ったことがありません。そこの交差点が鳥居通三丁目です。越えれば日赤です」
 鬼頭倫子に遇ったのはこのあたりだった。だれにも消息を知られていない女。彼女はある種の行方不明者だ。雅江も甲斐も中学校から向こうの彼女の消息を知らなかった。じつは小学校のころからだれ一人、彼女の自宅すら知らない。鬼頭倫子にかぎらない。たいていの人間は行方不明の闇に沈んでいる。鬼頭倫子を行方不明にする人もいれば、私を行方不明にする人もいる。
 左折。日赤の周囲を右回りに走る。レッドロビンの生垣と金網に取り巻かれた巨きな建物だ。垣根が途切れると正門前の通りになる。節子とキクエのアパートが近い。きょうこそしっかり確認しよう。彼女たちの引越し手伝いをした菅野が言う。
「たんぽぽ薬局の裏の、二階建て新築アパートです」
 裏手の道を曲がりこむ。新樹ハイツ。ピカピカだ。
「正門から二分。未婚、既婚、全員日赤の看護婦さんのようです。壁は八坂荘よりも厚いのでだいじょうぶ」
「何が?」
 菅野はニヤニヤ笑うだけで答えず、
「一階三世帯、二階三世帯。キクエさんの部屋は一階の玄関口、節子さんは廊下を挟んで向かいです。キクエさんの隣も独身の看護婦さん。その向かいは共同の洗濯場になってます。一世帯の間取りは、八畳一間、六畳一間、六帖の台所、一帖のトイレ、二帖のタイル貼りのガス風呂、三畳の納戸。夫婦者も同じです。豪華なほうですよ。賃一万二千円。めちゃくちゃ安いです。住宅手当として日赤から援助金が出るんだそうです。節子さんとキクエさん以外は、二階に夫婦者二世帯、独身看護婦一世帯、一階に独身看護婦三世帯です。子供ができたら退寮、動物は飼えません」
「よく調べたね。さすが菅野さん。二階に共同洗濯場はないの」
「はい。一階と同じ空間はサロンふうの娯楽部屋になってるようです」
「働き手を大事にする企業は信用できる。節ちゃんとキクエの将来は安泰だ。勉強した甲斐があった。おお、広い駐車場だなあ」
「車が十台ゆったり停まれます。北村からここまで、車で五分そこそこでこれます。アパートの隣が美容室ですよ。至れり尽くせりですね。正門の前の道を真っすぐ二キロいけば椿神社です」
「へえ! じゃ、北村席まで歩いても四十分かからない」
「そういうことになります」
「よし、この道も暗記するぞ」
「またですか。困った人だな」
 遊郭街ふうの町並を見物しながら走りだす。きしめんみやこ、コーヒートミタ、シャトー鯱、令嬢、大スーパー西川屋、旅館金波、西川屋前の空き地を挟んで、北村席の二階建て女子寮二棟。裏手に羽衣の大きな建物が覗いている。蕎麦いとう、インペリアル福岡、トルコファースト、令女プール、塙席経営のトルコ銀馬車。
「すごいな、このあたりは」
「羽衣と鯱に比べれば、どれも零細企業です」
 令女プールの前に、遊郭だとはっきりわかるみごとな二階建ての旧家がある。路を見下ろす細かい格子戸がみごとだ。宝石店スイス堂、小島酒店、理容みすず、山田時計店、高岡薬局、名古屋中島郵便局、中村畳店、川口表具店、呉服のつたや、鵜飼ふとん店。何度も走った道だが、あらためて眺めると感慨深い。片側三車線の環状線にいき当たる。駅西銀座商店街の看板。もう一枚の看板は椿神社前にかかっている。五分ほど走って椿神社に到着。
「新樹ハイツまで走って十分。歩けば三十五分」
「ゆっくり歩いてそのくらいですね」
「ついに北村席の周囲をすべて征服した気分だ」
「わかりますよ、その感覚。タクシーを転がして何年目かに、そう感じて爽快な気分になったことがあります」
「菅野さんの周囲というのは、北村席の周囲じゃなく、中村区の周囲でしょう。スケールがちがう」
「車の行動範囲と人間の行動範囲を比べれば、同じようなものですよ。おやァ、やばいですよ、雲が黒くなってきました。急いで帰りましょう」
 椿神社から二分で北村席に走り戻った。新聞社のバンはいなかった。収穫十分と考えてあのまま会社へ帰ったのだろう。その類の写真を一度も紙面で見たことがないので、何を収穫したのかは見当がつかない。
 菅野がクラウンのトランクからスーツを取り出して抱え、門に踏みこんだとたん大粒の雨が落ちてきた。二人で奇声を上げながら玄関に飛びこむ。ソテツが出てきて、
「お帰りなさい! イネさん、タオル!」
 イネが二人分のタオルを持って式台に出てきた。彼女といっしょに走ってきた直人が、
「おとうちゃん、おふろ!」
 と舌足らずな声で叫ぶ。
「お、いい子だな。保育所はどうだった」
「たのちかった!」
 早番の仕事を終えたトルコ嬢たちが賄い連中に立ち混じって、洗濯物を奥座敷に投げこむように取りこんでいる。天童や丸たちも手伝っている。主人夫婦の姿はなく、トモヨさんが店番のような格好で居間のテーブルについていた。
「遅かったですね」
「ちょこちょこ道草をしたので、二時間のランニングになっちゃった。お父さんたちは?」
「アイリスの新人ウェイトレスさんの様子を見にいってます。葛西美代子さんというかたからおハガキきてます。ミヨちゃんね」
「うん」
 ハガキを受け取って読む。中島秀子さんを目標にがんばっています、と大きな字で書いてある。スクラップブックが五冊目になったと、小さく書き添えてあった。
「あとまるまる三年か。来年はヒデさんが受験しにくる。どちらも今年じゅうに逢いにくるだろうな」
「シーズンオフだといいですね。おやつは?」
「食べてきた。じゃ、菅野さん、風呂いこう。直人、おまえも入るか?」
 首を振ってトモヨにすがりつく。
「あれ? おとうちゃんといっしょに入りたかったんじゃないのか」
 首を振る。トモヨさんが、
「私と三人で入りたいんですよ」
 首を振る。なるほど、やっぱり私と二人きりで入りたいようだ。
「あしたおとうちゃんと入ろう」
 ニッコリ笑ってうなずく。
「ムッちゃんはバスで帰りました。金魚が届くし、授業の予定表を作らなくちゃいけないからって。あさってはくるんじゃないかしら。水原監督には会いたいでしょうから」
「千佳子は?」
「お勉強」
 雨が激しく屋根瓦を打つ。雨音を聞きながら、菅野と湯に浸かった。菅野が長い息を吐いてから話し出す。


         十五

「ああ、つくづく幸せだ」
「ぼくも幸せです。イヤなにおいのしない内風呂に入れて」
「ハハ……。イヤなにおいの内風呂ばかりに入ってきたんですか」
「青梅、伊勝、浅野の家。飯場に入ってからはまずないですね。平畑のころは少しにおいましたけど。何だかんだ言っても、浅野の家を除けば、この五年間はにおいのしない風呂に入ってきました。幸せです」
「飛島のころは神無月さんが洗ってたんでしょう? わが家の内風呂もにおいますよ。そういうときは私が洗ってました。女は手を抜くんですよ。北村の女たちはちがいますけどね。……このあいだ毎日新聞のスポーツ欄に、神無月さんの目のことが書いてありましたよ」
「何て?」
「―この世でいちばん力強い目は、赤ん坊の目だ。いっさいの邪念や雑念を排除した目だ。ピッチャーに向かって目をギラつかせているうちは、まだ半人前だ。素直にすべてを受け入れる目こそ、赤子の無心の境地にある目だ。長嶋以来ひさしぶりにその目を見た。そのあとこうつづけるんですよ。さすがの長嶋も、ボールを捕らえる瞬間は鬼の目になるが、神無月は微笑んでいるのだ」
「スポーツマン金太郎みたいに純朴に映ってるんだね。漫画の主人公のように無心にはなれないよ。バッターボックスでいろいろ考えているから、ピッチャーの顔を睨みつける暇がないだけなんだ」
「あの静かな顔で、めまぐるしく考えてるんでしょうね」
「精いっぱいね」
「そう言えば、中日の久保の自由契約のことも書いてありましたよ」
「久保? ドラゴンズにそんな選手いたんですか」
「久保征弘(まさひろ)。中日生え抜きというわけじゃなく、昭和三十七、三十八年に、弱い近鉄で二十八勝、十九勝と勝ち星を挙げて柱になった男です。といっても、ほとんどの勝ち星はリリーフで稼いだものでしてね、酷使されて、わが権藤と同じ運命になりました。おととし中日にきたときは使いものにならなかった。揺れる球で打たせて取るのが得意だったんですが、肩肘やられてるものだから大して揺れなくなってて、それでなくても変化球に慣れてるセリーグのバッターには通用しなかったんですよ。零勝五敗」
「打たせて取る、か……」
「神無月さんにも、どんなに工夫しても打ちにくいボールってありますか」
「アウトコースのシュート。バットの先に当たることが多いんだ。読み切ったら、クローズドに構えて、芯を食うように踏みこまなくちゃいけない。きたボールを打つという気持ちになれるのは、並のピッチャーの内角と真ん中だけだね。それでもスライダーとかフォークとか、変化されると打ち損なっちゃう。長嶋の四打席四三振……」
「はい。昭和三十三年四月五日」
「あのときの球種を調べたことがあったんだ。全打席暗記した」
「へえ! どんなふうでした?」
「第一打席、初球、内角高目、速球、空振り。金田がプロのスピードを目にもの見せたんだね。長嶋は高目が得意だ。だからそこに投げた。かならず振るから。逆に低目は不得意なので振らない。二球目、外角低目のカーブ、見逃し、ストライク。ね、振らない。三球目、真ん中低目のカーブ、見逃してボール。四球目、内角高目の速球、スピード負けして空振り、三振」
「ふうん、なるほど……」
「第二打席、初球、外角高目カーブ、ボール、遠くて手を出さず。遠くなければ長打だった。二球目、内角低目カーブ、ボール、当然手を出さず。三球目、内角低目カーブ、手を出したくないけど、同じところに二球つづけてきたうえに、ストライクくさかったので打ちにいって、ハーフスイングのファール。嫌いなコースはなかなかヒットにできないものだよ。四球目、外角高目カーブ、ボール、また遠すぎたんだ。ワンスリー。ぼくなら次は内角か真ん中高目の速球に意識を持っていく。で、五球目、外角高目の渾身の速球、空振り。このボールがすごい。当てさせないくらい速い。ぼくも読みを外した。長嶋は読まない人だけど、内角を意識するぐらいのことはしてたと思う。次のボールはぼくもわからなくなった。長嶋の苦手な内角低目のカーブか速球だろうと考えた。六球目、外角高目カーブ、空振り、三振。外角を三球つづけたんだ。びっくりだね」
「うーん、すごい。金田は力だけじゃなく、頭も使ってたんですね」
「そう。もう、次の打席からは予測してもどうにもならないとあきらめるよね。コースは内・外・真ん中、高さは高・中・低、掛け算して九つもある。その一つのコースに対して三種類のボールを投げるとすると、二十七種類だ。低速・中速・高速のスピードも加味すると八十一種類。混沌そのものだ。おもしろいでしょう。ぼくはそれでも予測する男なので、高低だけに絞ってみた。第一打席は、高目・低目・低目・高目。第二打席は、高目・低目・低目・高目・高目・高目。かならず高・低・低できて、あとは高目をつづけるんだと予測した。第三打席、初球、真ん中高目の速球、空振り。思ったとおりなので、ぼくならホームランにしてます。二球目、内角低目のカーブ、バントの格好をして空振り。何も考えない長嶋は混沌のまま、不得意も得意もなく、しゃにむにバットに当てようとする。三球目、不得意な外角低目の速球を空振りして、三球三振。高・低・低だったでしょう?」
「神無月さん! あなたは天才ですね!」
「いや、考えるのが好きなだけです。第四打席、初球、内角低目速球、ボール。初めて低目から入った。金田が自分のセオリーを変えて、遊びはじめたんです。一本ぐらい打たれてもいいやという遊びじゃなく、きょうの調子ならどう投げても打たれないから、頭に浮かんだとおりに投げてやれという遊びです。もしぼくが長嶋なら、やはり遊び心に切り替えて、きた球を打つことにする。二球目、真ん中低目のカーブ、ボール。低・低できた。金田は明らかに遊んでる。三球目、真ん中のいい高さにカーブ、ストライク。ぼくはたぶんホームランにしたと思う。四球目、内角高目に速球、ボール。振ってくれれば幸いの外し球。ワンスリー。第二打席から予想すれば、金田はワンスリーになると、外・外とつづける。ただ、ここは遊んでいるのでどう投げてくるかわからない。五球目、真ん中、手ごろな高さのカーブ、空振り。これを打てなかったということは、よほど切れ味がするどかったということです。六球目、真ん中、いい高さのカーブ、空振り三振。長嶋にはこの打席しかチャンスがなかったのに、ほんの少しでも考えることをしなかったから、四三振を食らってしまった。ぼくの言ったことはぜんぶ結果論だけど、偉大なピッチャーと対峙するときは、きた球を打つだけではうまくいかないことが多い思うんです。ペナントレースって、そういう苦難の連続でしょう」
 菅野はバシャッと顔面を湯で洗うと、
「感激だなあ。計算機だ。だれが何と言おうと、神無月さんは空前絶後の天才です。新人がオープン戦で一本でも本塁打を打つのはめずらしいことで、王の五本や長嶋の七本という記録はマレが上にもマレです。神無月さんは三十四本ですよ。それだけでじゅうぶんシーズンのホームラン王を争える数です。百本はいくでしょう。そして、プロ野球がつづくかぎり、その記録は破られないでしょう。さ、背中を流させてください。」
 菅野は湯から上がり、私を床几に坐らせると、そっと背中をこすった。
「……きれいだなあ。このからだを痛めつけるデッドボールが怖い。そんな現場を目撃したら、私、気を失いますよ」
「心配しないで。スピードボールはかなり速くても見切れる自信がある。……やっぱりオープン戦から長嶋はすごかったんだなあ」
「はい。打率は二割七分で大したことなかったんですがね、特に左ピッチャーを打ちこみました。前年二十六勝九敗、防御率一点台の大毎のエース小野正一からも豪快なスリーランを打ってます」
「小野さんから―」
「はあ、小野は身長百八十五センチ以上の速球ピッチャーです。それで、開幕戦の金田も打つだろうということになったんです。日本じゅうが長嶋長嶋で、開幕戦にはネット裏に岸総理大臣が観戦にくるほどの熱狂振りでした。神無月さんがどうしていつも長嶋と並び称されるかというと、二人とも野球の芸術家だからです。プロ野球には技術者と、芸術家がいます。技術者は、プロと呼ぶのにふさわしい技量や身体能力で、チームのために尽くすプレーヤーで、ほとんどの一軍プロ野球選手はこれです。芸術家は、結果的にチームのためにも尽くしますけど、チームの勝ち敗けや球団組織の思惑とか団結の価値観とかを超えて、独自の世界を表現するプレーヤーです。華。におい。雰囲気。オーラ。たとえば金田、中西、稲尾、長嶋、王、尾崎等々。芸術家は大観衆に囲まれたグランドで、自分にしか出せない独特の霊気を放ちます。その代表的人物が長嶋だったわけです。しかし、長嶋の数倍のスケールの神無月さんが現れた。いまや日本じゅうが神無月一色です」
「佐藤栄作は観にきますか」
「こないでしょう。巨人戦でないし、後楽園球場でもないので」
 背中を代わった。
         †
 台所がかしましい。トモヨさんは雑巾を縫っている。直人はいない。菅野はスーツを着てアイリスに出かけた。
「直人は寝てるの?」
「はい。保育所で寝かせてから連れ帰ってもいいんですけど」
「家のほうが安心して寝られるだろう。晩めしまでちょっと離れの机で本を読む。鴎外全集置いてあったよね」
「はい。大きい本棚のいちばん下です」
「わかった。あしたのサイン会は、紺のスーツでいく。こっちにあったっけ」
「お嬢さんのほうだと思います。きょうは向こうでお休みください」
「そうする」
 雨の中庭を眺める窓辺で机に向かう。抽斗の中に一万円札が乱雑に入っている。則武の抽斗も同じだ。ハガキや便箋も並んでいたので、ミヨちゃんへの励ましの手紙と、野辺地のじっちゃばっちゃに宛てて、無沙汰をしているが元気でやっている、秋から冬にかけてたぶん遊びにいく、くれぐれも元気でいてほしいと、というハガキを書いた。思いついて、ユリさんにも同じことを書いた。
 全集の一巻一巻を書棚から取り出し、ヰタ・セクスアリスを探す。見つけ、机に座り直して、開く。ヰタはラテン語の生活という意味だと、むかし山口か相馬から聞いたことがある。性的生活。主人公、性欲の薄い哲学者金井湛(しずか)。自己省察的モノローグ。

 小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない……人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮である……こんな立場から見たら、自分は到底人間の仲間はずれたることを免れない……性欲というものが、人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを徴すべき文献は甚だ少ない……

 金井は六歳のとき、二人の女が猥褻な絵本を見ているところにぶつかる。七歳、大人から親の房事をほのめかされる。十歳、蔵に入りこんで猥褻な絵本に遭遇する。十四歳、オナニーを覚えたが、頭痛や動悸がするので以後いっさいやらなかった。
 読めども読めども、直接的な男女の性描写が出てこない。これを発禁にした人びとの恐怖を疑う。それでも、ためになる部分もあった。醜男は好色たり得ないこともある―その特殊な精神作用だ。

 自分の醜男子なることを知って、所詮女には好かれないだろうと思った。この頃から後は、この考が永遠に僕の意識の底に潜伏していて、僕に十分の得意ということを感ぜさせない……人情本を読む。何だか、男と女の関係が、美しい夢のように、心に浮ぶ……その印象を受ける度毎に、その美しい夢のようなものは、容貌の立派な男女の享(う)ける福で、自分なぞには企て及ばないというような気がする。それが僕には苦痛であった……青年男女の恋愛がひどく羨ましい、妬ましい。そして自分が美男に生れて来なかった為めに、この美しいものが手の届かない理想になっているということを感じて、頭の奥には苦痛の絶える隙(ひま)がない……

 こういう感覚の持ち主がいるなら、だれのことだろうかと身の周りの人間の中から捜してみると、紀尾井が浮んだ。
 けっこうな美男子で、女を精液を吐き出すただの穴と見なしている犬的(シニック)な人間というものも学んだ。犬が汚いものに鼻を突っこみたがるのと同様、あらゆるものを汚さなくてはすまない犬的な人間がいるというのだ。彼らは神聖なものをけっして認めない。ふつうの人は神聖なものを多く有している分、弱みも多い。犬的な輩に遭遇したらいちころだ、というものだ。
 金井湛は二十歳になり、童貞のまま見合いをする。不成立。見合いの相手は政治家夫人になり、若くして病死する。なんのこっちゃ。どこまでいってもセックスのことは書いていない。看板倒れの気配が芬々(ふんぷん)としてきた。金井はその年の冬に置屋に上がって、ついに男になる。描写は皆無に近い。

 ……手腕はいかにも巧妙であった。しかしこれに反抗することは、絶待(ぜったい)的不可能であったのではない。僕の抵抗力を麻痺させたのは、慥(たしか)に僕の性欲であった。

 信じられないがこれだけだ。だれもセックスの具体的なことなど描写したがらないのだ。自分は清潔であると書きたがる。啄木のローマ字日記が赤裸々な性行動の記録の白眉だと思うけれども、コイツスの具体描写も、性器の具体描写も、女の声の具体描写もいっさいない。将来私が書くべきだと腹の底で決意した。その前に、何年かけてでも、五百野を仕上げなければ。


         十六

 座敷で寝転がり、夕食前のテレビを観る。直人にパンケーキを食べさせながらカズちゃんが天童や丸たちとしゃべっている。
「勤務三日目で足が痛いって言い出した人がいたから、三日分の給料を出して辞めてもらったわ。ほかの二人は、おとうさんおかあさん菅野さんのお墨がついたので正式採用。広野さん二十三歳、南山大卒で一年間商社事務経験者。少し英語ができるから、まんいち外人がきたときにも活躍してもらう。アイリスの二階に住むことになりました。これで素ちゃんもさびしい思いをしなくてすむわね。茂木さん十九歳、中村高校出身。自宅通勤。天童さんと丸さんは、曜日をちがえて週休一日でお願い。なるべく土日に重ならないように決めてね。土日は休みたがる人が多いから。みんなのお休みの調整がついたら、勤務予定表を配ります」
 天童と丸は顔を見合わせ、
「私、金曜」
 丸が言うと天童が、
「私は月曜。プロ野球が休みのことが多いから、ひょっとしたら丸ちゃん……」
「そう、私もおんなじ。金曜日はたいてい、セリーグのプロ野球はお休みでしょう」
 パンケーキを食べ終えた直人をトモヨが抱き取り、ちぎった鱈のソテーを混ぜた重湯をスプーンで食べさせる。食欲旺盛だ。私といっしょにテレビを観ていた素子が、
「あしたのサイン会、何時やった?」
 カズちゃんが、
「一時、松坂屋七階催事場特設ロビー。出席するのは水原監督、キョウちゃん、江藤さん、中さん、高木さん、小川さんの六人。素ちゃん、いきたい?」
「うちは仕事ひとすじ」
 キッコが、
「うちらはみんなでいくことになっとるよ」
「千佳ちゃんは?」
「私もいきます。まだ神無月くんのサインを持ってないので」
「いま書いてもらったら?」
「少しでも努力して手に入れたいんです」
 百江が、
「ユニフォームを着ていくんですか」
「紺のスーツ。ユニフォームは、会場で着るように言われるかもしれない」
「用意します」
「運動靴も用意して」
「はい」
 カズちゃんが、
「監督、選手、一人当たり二百人にしか整理券を配らないらしいから、会場に早めにいかないと危ないわよ。整理券は二時間前から配るんだって。キョウちゃんの券なんか、一分で終わりよ。江藤さんや中さんや高木さんも、あっという間でしょうね」
 キッコが、
「十時ぐらいから並ばんとあかんわ! それから買い物したり、食事したりして待っとればええな」
 私は、
「そんな無駄な時間使わなくてもいいよ。いまから色紙買ってきて。みんなにサインするから」
「あかん、あかん、ありがたみがなくなるわ」
 トモヨさんが、
「その広野さんという商社のかたって、名古屋の商社ですか?」
「そう、栄のToo(トゥー)という会社だって。創業五十年の老舗らしいけど、事務機器の販売が主なので、退屈で、新天地を求めたんですって」
 主人が、
「二人とも明るくて、テキパキしとったな。足痛い言い出したやつは暗かったわ」
「三十過ぎの主婦ね。わざわざ中川区からきてくれたんだけど、パート気分のつもりだったので、裏切られた気持ちになったみたい。昼どきはたいへんだから」
 菅野が、
「選手は何時に松坂屋に入るんですか」
「十二時くらいじゃないかな。もっと遅くてもいいかも」
「送っていきます。松坂屋には駐車場があるので」
「ありがとう」
「あしたは松葉さんが五、六人くるでしょうね」
「だね。何も起こらないよ」
「寮住まいでないメイン選手は、たいてい付き人が同行するんですが、神無月さんの場合は松葉さんがその代わりのようなものですね」
 カズちゃんが、
「サイン会のペイが十万円振りこまれてたから、抽斗のお金に足しといたわ。直ちゃん、はい、おしまい。よく食べたわねえ。オレンジジュース飲む?」
 こっくりする直人に頬ずりする。トモヨがオレンジジュースを持ってくる。
「どうして十万円もくれるんだろうなあ。心苦しいよ」
 主人が、
「自分がどれほど球団を儲けさせてると思っとるんですか。十万円なんかはした金でしょう。来年からは球界ナンバーワンの年俸になるんですよ。スターであることに慣れてくださいよ」
「少しずつね」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん。あなたはヒーローなのよ。国民の英雄。輝くスター。ぼんやり空で瞬いていればいいだけの人。気を使う必要なんかないのよ。……たまには隕石みたいに降ってきてほしいけど、アハ……」
 夕餉の食卓が賑わう前に直人が眠くなった。目をつぶり、カズちゃんの胸に反り返って口を開けている。
「さ、歯を磨かなくちゃ。いつも口をこじ開けて磨いてやるんですよ」
 トモヨさんが抱えて離れの風呂へいった。
 豚汁、チキンソテー、まぐろのヅケ、鯵の南蛮漬け、じゃがいものミルク煮、ナスの醤油炒め、豚肉野菜炒め、大きなコロッケ、煮こみハンバーグ。ソテツが大皿を並べながら、
「昼間のニュースで、神無月さんの毎朝のランニング姿と、キャンプの練習風景と、オープン戦のホームランの場面を映してました。ゲストの男の人が、野球という単純なスポーツの中で、いちばん単純なホームランを目指して、一心不乱に生きる神無月郷という男が好きだ、尊敬さえするって言ってました。野球って単純なんですか」
 私は思わずうれしくなり、
「そのゲストが言いたかったのは、単純というより、集団でやるスポーツの中で、野球はいちばんわかりやすく、この上なく美しいということなんだと思う。たしかに単純なイメージがあるよね。野球ファンが心から喜ぶのは、ピッチャーの速球とバッターのホームラン、その二つしかないからね。あとはすべてそのバリエーションで、ルールもとても簡単だ。ほかのスポーツと比べてみようね。競走・競泳スポーツは個人のスピードを競うだけで、攻撃も守備もなく、単純かどうかと考える以前の分野だ。サッカーやラグビーやバスケットは、小技の仕掛け合いで攻撃と守備が瞬時に入れ替わるし、ルールも複雑だ。バレーボールやテニスや卓球やバドミントンは、小さな陣地に入ったか入らないかを一瞬のうちに確かめ合うせせこましいスポーツで、選手の技もそのことだけに絞られる。めまぐるしすぎて、観客は落ち着いて観戦できない。じつは、そういう野球以外のスポーツの目立った欠点は、肌を露出しすぎるせいで美しさと精神性を感じさせないということなんだ。長袖、長ズボンでやるスポーツは野球だけだ。からだの大半をユニフォームで覆う行為は高貴な恥じらいの精神を象徴してる。ぼくのようにわかりやすい人間が、最初で最後に選んだのが、いちばんわかりやすいスポーツの野球と、いちばんわかりやすい人間の愛情だった。とてもシンプルだけどいちばん美しい運動と、とてもシンプルだけどいちばん美しい精神だった。わかりやすく美しいものは、深い。そこに人間は感動する」
「私、野球が好きです!」
 菅野が、
「おいおい、ソテツちゃん、神無月さんが説明してくれなかったら、好きじゃなかったのか?」
「よくわからなかったんです。これからはしっかり観ます」
 主人が、
「いやあ、ワシも説明してもらって、なぜ野球が好きなのかハッキリしましたよ。顔と手以外出さないスポーツは、たしかに野球だけだ」
 カズちゃんがほんとうにうれしそうな声で、いただきまーす、と言った。いっせいに箸やフォークの音が立ち昇る。
「ところで、神無月さん、そのバリエーションのことで聞きたいんやが、キャッチャーというのがよくチームの要だと言われますね。どういうことですかな。要というのは、神無月さんのような選手のことじゃないんですかね」
 主人がコロッケをもぐもぐやりながら訊く。
「戦略上の要という意味で言われてるようですね。でも、インサイドワークで敵をまるめこむというような抽象的な意味よりも、具体的な守備位置からきてる考えだとぼくは思ってます。フィールドを扇にたとえると、捕手だけが要の位置に陣取って、フェアゾーンを見渡しています。その場所で敵の監督の動きを見たり、ピッチャーの投球を一球一球考えたり、バッターの表情を窺ってサインを出したり、野手に守備位置の指示をしたりします。背中にいる球審の性格や癖まで感じ取ろうとする。グランドでは監督以上の存在だという意味でしょう」
「なるほどなあ」
 菅野もチキンソテーをもぐもぐやりながら、
「三冠でいちばん獲りにくいのは何ですかね」
「打点でしょう。前の打者がどれだけ出てくれるかにかかってますからね。他力本願。今年は江藤さんがお掃除してくれる可能性がとても高い。江藤さんが返し損ねたランナーを浚うか、ソロホームランで稼ぐことになりそうです。打点王は危ないかもしれない。でもファンは満足してくれるでしょう。ベーブルースはこう言ってます。ファンは二塁打三本じゃなく、ホームラン一本を見にきてるんだ。ホームランには選手自身ばかりでなく、ファンを魅了する何かがあるんでしょうね。どんなにヒットを重ねても、ヒットメーカーという職人的なにおいのする言葉でくくられてしまう。菅野さんもさっき風呂で言ったように、ホームランバッターは芸術家なんですよ」
         †
 寝転んでぼんやり夜の庭を眺めていた私に、カズちゃんが、
「顔色が冴えないわね。あしたのサイン会いきたくないんでしょう」
「機械的にサインするのが、どうもしっくりしないんだ。人を馬鹿にしてるみたいで」
「だいじょうぶ、キョウちゃんは自然に微笑んじゃうわよ。みんな満足するわ」
 女将が、
「ふんぞり返れる人やないからねェ。何も考えずに色紙だけ見とればええんよ」
 八時を過ぎても雨脚が激しくて、止みそうになかった。降りつづけたからといって、あしたのサイン会が中止になるわけではない。主人が、
「あさってくるお偉いさんたちも顔を出すと思いますよ。その人たちに会って前挨拶をしとこうぐらいに考えて、気楽にいってらっしゃい」
「はい」
「村迫代表や、現場の榊スカウト部長や、オーナーの小山さんもええ人らしいやないですか」
「底抜けにいい人です」
「優勝を狙える強いチームを作るには、オーナーの姿勢がいちばん大事です。プロ野球ゆうのは、がんらい儲かりにくい商売なんですよ。それでもオーナーが経営に取り組む理由は、とにかく野球が好きで、ホームチームの大ファンだからです。もしそういう情熱をオーナーがなくしたら、監督やコーチや選手がいくら努力しても、チームは低迷するでしょうな」
 菅野が、
「何日か前にも、小山オーナーは朝日新聞のインタビューを受けてます。―日本一のチームを作り、地域社会への貢献として、プロ野球のほんとうのおもしろさや豪快さを名古屋市民にお見せしたい。金儲けのためだけに球団経営をするのではない、あくまでも名古屋市民への奉仕である。私は水原監督に『すべてをまかせる、金に糸目をつけないから日本一のチームを作ってくれ』と申しあげて就任を要請した。ちなみに、球団および名古屋市民に最大の貢献をすることが目に見えている神無月選手の契約金の問題だが、ここ数年来の有力選手に対する趨勢から考えてもまことに低廉な金額で、われながら球団経営者特有の吝嗇のなせるわざと考えざるを得ず、大いに反省している。来季以降は、二倍と言わず、三倍にも跳ね上げる予定である」
 主人がうなずき、
「白井中日新聞社社長、小山球団オーナー、水原監督というラインがしっかりしてるんだな。東海財界もしっかり後ろ盾についとるとゆうし、神無月さんがいるかぎり、順風満帆やろう」
 素子がカズちゃんに、
「一億円を軽く超えてまうゆうこと?」
「そういうことね。税金を引いてもすごいお金。欲のない人間は困っちゃうわね。どうするの、キョウちゃん」
「わからない。何も思いつかない。トモヨさんや福田さんにあげたり、千佳子や睦子にあげたり、北村で困ってる人にあげたりしてくれない? あとはお父さん、お母さん、カズちゃんたちが必要なときに使えばいい」
「何言ってるの、だれも必要ないわよ。ほんとに必要な人がいたら援助してあげるけど」
 主人が、
「ワシらは援助する側や。神無月さんからは受け取らん。神無月さん、金はいくらあっても困るもんでにゃあ。分割預金で銀行に入れっぱなしにして、毎年利子だけもらっとけばええ」
「利子もいらないなあ」
 カズちゃんが、
「いつかまとまって役に立つときもあるでしょ。気に病まないことね」
「そうだ、十人乗りくらいのバンを一台買ってくれませんか。これまではちょっと大勢で出かけるときにはタクシー呼んでたでしょ。クラウンだけじゃ不便です。雨の日のトルコの送り迎えもたいへんだ。きょうだって二往復ぐらいしなくちゃいけないでしょう」
「そんなことは……」
「これはお願いです。買ってください」
 女将が、
「気づかんかったわ。ごめんね、菅ちゃん、あした注文する。何日か辛抱して」
「いやあ、恐縮です。バンがあればだいぶ手間が省けます」
 座敷の女たちがうれしそうに手を叩いた。やはり狭いクラウンに押しこめられるのはいやだったのだ。主人が、
「中日球場へも何人かでゆったりいけるな。ワシも気づかんかった」


         十七

 カズちゃんとメイ子に挟まれて寝た。二人の手を握って眠ろうとすると、興奮して起き出したカズちゃんが、
「ごめんねキョウちゃん、すぐすむから」
 と言いながら、私のものを含んで可能にさせ、跨った。生温かいものに締めつけられる感覚を確かめる。両手を結び合わせる。
「ゆっくり楽しんで。ひさしぶりだから」
「はい」
 摩擦で感覚器の刺激を増して射精したいという気分にはならない。いつまでも交わっていたい。熱い襞が密着の度合いを増しながら上下し、やがて茎や亀頭全体を強く押し包んでくる。カズちゃん特有の緊密に吸い上げる圧力が生じる。柔らかい筋肉の発達した壁は私の膨張で押し返され、強い快感の中で急速に緊縮し、固く茎全体を握り締める。カズちゃんのからだ全体が硬直し、陰阜から肩にかけて激しく痙攣する。膣は締まったり緩んだりして熱を発し、激しく沸き立つ。私に生理的な快感が突発し、射精が迫ってくる。カズちゃんは心ゆくまで果てると私の射精を待たずに離れた。
「メイ子ちゃんにあげて」
 待ち兼ねていたメイ子が跨ってくる。メイ子は私の腹に手を置いてあわただしく腰を上下させながら素早くアクメに達する。そして連続する強い拍動の中へ心地よく私の精を吐き出させた。
「愛してます、愛してます!」
 抱き締められ、ぼんやりとした恍惚感が射してくる。カズちゃんが私の手をとる。私の意識があるあいだ、カズちゃんはずっと手を握っていた。
「愛してるわ、私のキョウちゃん」
         † 
 朝のテーブルでコーヒーを飲みながら新聞を見ていて、四連覇している巨人よりも前年最下位の中日のほうが、マスコミの取り扱いが質量ともに圧倒的にまさってきていると感じた。しかし、チーム力や選手の能力はかならず巨人と比較していた。私はあらためて、プロ野球人気の中心に読売巨人軍がどっかりと座っていることを思い知った。水原監督のコメントが載っていた。
「一度きりの優勝だけを狙い、連覇は狙わない。優勝すれば、連覇はただの現状維持になり、どんなに油断するまいとしても、フロントと選手に悪しきプライドが芽生え、無意識のうちに気のゆるみが出る。連覇に備えて驕(おご)ったチーム作りが始まる。その驕りの中で果たされるかもしれない連覇に、私は関心が持てない。最高の緊迫感の中での一度のリーグ優勝と、一度のシリーズ優勝を狙う。わがチームには、緊迫感をけっして失わない悲壮な気質を持って生まれた神無月郷なる男がいる。彼を見ているだけで、私の中に勝敗ではなく野球そのものへの情熱がみなぎる。わがチームの選手たちもそうにちがいない。彼がドラゴンズに留まるかぎり、あえてプライドのヨロイをまとわなくとも連覇は果たされるだろう。それは市民と球団に対するボーナスである。とにかく開幕戦から坦々と、ただ一度の優勝を目指す」
 胸が熱くなった。
 おいしい朝食が始まる。カズちゃんが、
「うちも電子レンジ買っちゃった。便利よ。特にごはんの温め直し」
「何度か使いました。ほんとに便利です。あら、十五分もしたら菅野さんがきますよ」
「……このごろ、冷静に自分のことが考えられるようになった。……プロ野球選手で幸福だって」
 メイ子がきょとんとし、カズちゃんがまじめな目つきになった。
「ぼくは、人が下等だと見なす仕事に就きたいという一種マゾ的な気分に陥ってた時期があった。土方が理想だってむかし言ったことがあったね」
「うん、あった。逆説的な美学ね。そんな身に合わない美学はいつか破綻するわ」
「実際、土方は下等でもグロテスクでもないけど、少なくともぼくが理想とする美しさは持ってなかった。カズちゃんは見抜いてたんだね。そんなことぜったいさせないって言った。退屈な単純労働は人間性を否定する拷問だって。そうとも気づかずに、ぼくは自分をそこに留めておこうとする自虐的な人間だった。憐れに思っただろうな」
「ぜんぜん。とても純粋な考えで、キョウちゃんらしいって思ったわ。でも、それじゃキョウちゃんは幸せになれない。キョウちゃんが幸せじゃないと、私も幸せじゃない。そう思っただけ。キョウちゃんは身も心も根本的に美しい人だから、それにふさわしい生き方をしなくちゃいけないわ。さ、ごはん食べちゃって」
「野球しかない。シンプルな人生っていいな」
「そうよ。身に合わないどんなまねごとも、大勢の人を不幸にするわ。一心同体の人たちをね。それはキョウちゃんの不幸でもあるの。それは私が許せない。キョウちゃんの嫌いな表現かもしれないけど、野球以外は慰みものでいいの。いいかげん自分の価値を知りなさいね。私は十年前から知ってたのよ。キョウちゃんは私の心臓。これからもずっとそうよ。私の心臓の形をした神さま。キョウちゃんが死んだら、私の心臓は止まるの。そういう人が私のほかに一人でもいるかぎり、私はその人たちといっしょにキョウちゃんを愛するわ」
 みんなで箸を置き、二杯目のコーヒー。玄関の戸が開き、菅野が声をかけた。
「はーい。背広、鴨居に掛けとくわね」
「小さめの麦わら帽子買ってきましたよ」
「ありがとう! これに眼鏡をかければ万全だ」
 眼鏡をかけ、麦わらをかぶる。
「ピエロですよ。かえって目立っちゃうな」
「気にしない。レッツゴー!」
 西高に向かって走り出す。
 四月九日水曜日。八時。快晴。気温十一・九度。風がある。
 走りながら、奇妙に浅野の家のことばかりを考えている。
 ―通り土間の途中から昇っている階段。ふだんは二階の二間の一つに、タケオさんが籠もっている。浅野の居住空間の十畳は古い畳が侘びしく黄ばんでいて、剥き出しの窓から射す陽がその上に薄い四角形を作っている。木で組んだ狭いベランダの外には、町工場のコンクリート塀。左右に隣り合って、くすんだ民家の屋根。その向こうに白い空があった。
 あそこが悲しみの出発点ではない。野辺地のミースケも、青梅のネズミも、自転車屋の階段もちがう。悲しみが始まったのは四歳から九歳ではない。それ以前にすでに確実に蓄積された悲しみがあった。記憶にない北帰行の途次で芽生えた悲しみかもしれない。もしそのときの写真が残っていたら、私は赤子に似合わないひどく打ち萎れた顔をしているだろう。
 走り終えて北村席の門前で菅野と別れ、則武の家に戻る。シャワーを浴びてから、テーブルの食器をシンクに片づけ、音楽部屋にいって、ポール・アンカのLPを二枚聴く。すぐに北村席へ出かけるのはよそうと決めている。思い返して、ふと感じたことがあったからだ。
 北村家にとって、朝夕の食事ばかりでなく、それを挟んだ前後の時間はひどく貴重なものだ。厨房が調理で賑わったり、飛びこみの野菜売りや魚売りやトルコ嬢相手の衣類雑貨売りの行商が勝手口に腰を据えたり、銀行屋や会計士が訪ねてきたり、客部屋で寄り合いがあったり、掃除洗濯蒲団干しがあったりで、とんでもなく忙しい。そこへ面接や、馘首の申し渡しに出かける用足しが紛れこむ。そうした喧騒のすべてが北村家のふだんの生活の中に秩序立って溶けこんでいるので、私が顔を出すとその調和を狂わせる。ふとそう感じた。
 ―影のようにひっそりしていればいい。ちがう。影は終局気づかれる。彼らのスケジュールの一部になればいい。いや、それは無理だ。彼らの計画には入りこめない。直人の父親とは言え、初対面から客人であった関係は是正できない。気の置けない、手間のかからない客人であればいい。忙しい時間にはなるべく目につかない客。ふと見るとゴロゴロしている客。
 音楽を聴き終え、二階の机に向かう。五百野を二枚と少し書いた。きょうもまた保土ヶ谷の父を訪ねていくくだり。書きながら涙を流す。これも毎度のこと。単語には軽薄なものと、心地よく厚ぼったいものがある。それは感覚で識別できる。素直で、簡潔で、文法規則から外れない文章。それが最善だ。語彙と連語は大勢の人びとの慣用に従うこと。てらいの多い文章は、人を混乱させる。誠実に、根気よく思考する人間は、どれほど複雑な考えでも、緻密に、明解に表現することができると信じる。ものを深く考えられる読者なら、良心的な文章の明晰な表現を通して、どんな複雑な考えも理解できる―常にそう考えながら書くこと。極端に筆が遅くなる。それでも五百野は八割方完成に近づいた。
 最近あまり本を読まなくなったのは、野球生活のせいばかりとも言えない。自分のほんとうの務めは、自分に向いたことをやりながら、周囲の人びとの心とともに生きることだと悟ったからだ。
 野球と、会話と、セックスと、創作。どう考えてもその四つしかない。野球とセックスは年齢とともに衰えるだろう。やはり会話と創作だけが残るのだ。自分が人間に生まれついたという途方もない幸運を、会話と創作によってできるかぎり味わい尽くす。それが私の使命だ。使命を遂行する喜びを満喫しなければならない。野球への没我―それは私の局部的な才能が与えた最も無機的な使命だろう。セックス―感覚が求めるセックスを精神が求めるセックスに転化させる。それも困難な使命だ。
 しかし、そう決意してもからだのどこかが乾いた感じがして、時おり使命から離れ、孤独な読書を求めるのはなぜだろう。読書にはずいぶん時間を費やしてきたけれども、飢渇感が癒されたことはない。だからまた読みたくなる。横浜の貸本と同じだ。
 寝室の鴨居に吊ってある水色のワイシャツと紺の背広を着る。新品の白い靴下。イタリア製の薄茶のローファを履く。すべてカズちゃんの贈り物。着せ替え人形。それがうれしい。ノーネクタイ。ポケットに十万円。
 十一時。晴。十四・二度。北村席の手すきの時間だ。則武の家から北村席まで歩いて七分ほどかかるが、カズちゃんたちと歩くと短い。アイリスから北村席までは五分だ。それだけ道のりで江藤や高木たちともいろいろ話ができた。会話の相手のいない七分は長い。
「ほう! 水も滴るやが」
 居間に現れた私の背広姿を見て主人が思わず立ち上がり、トモヨさんも立って肩の埃を払う格好をする。整理券をもらいにいかなかった女たちが寄ってきて触りまくる。キッコが、
「ネクタイせんと」
 女将があわてて夫婦の離れへいって、真っ青なネクタイを持ってくる。首に当てて、
「すてきやわ。紺の背広に合うわ」
 菅野が真剣な顔で絞める。私は女たちを見回しながら、
「サイン会はいかないの?」
「ドサッといったら迷惑やから、代表で二人いったわ。れんさんと、しずかさん」
 キッコが答える。
「だれ?」
「麻雀しとったときに名前尋いたやろ? 近記れんさんと木村しずかさん。写真撮るゆうて出かけていったわ。いまごろ並んどるんやない? 開場の三時間前には整理券がなくなるらしいから、並んでもあかんやろうけど」
 優子が紙袋を捧げて、
「これ、百江さんから。ユニフォーム一式と運動靴、それと帽子です。玄関に置いときますね」
「サンキュー。きょうは出勤じゃなかったの?」
「調整表ができるまで、丸さんと二人お休みです。あとでサイン会にいきます。遠くから見てます」
 昇竜館の江藤に電話をする。
「ご苦労さまです。きょうのサイン会でユニフォームを着ますか」
「いらん、いらん、ラフな格好でよか。サインペンも球団が用意するけん、なんもいらんたい。松坂屋の裏手にガードマンが立っとる。そっからエレベーターで、七階へいくごたァ。控室にみんな溜まっとる」
「どういうことをやるんですか」
「長いトークやらパフォーマンスはせん。司会に紹介されて、お辞儀して、ひとことしゃべって、すぐサインにかかるだけばい。サイン渡すときに握手。二百人に握られると手が痺るうぞ。男は強う握ってくるやつが多かけん。最後に、質問、撮影会。質問はそれぞれのゲストに五人がする。質問者は整理券で決まっとう。撮影会は、十分ぐらいファンに写真ば撮らせる。ファンといっしょには撮らん。秋の中日球場のサイン会のときは集合写真ば撮る。フラッシュ直接見んようにせいよ。目ェやられるけん。じゃ」
「はい、ありがとうございました」
 門まで家内の全員が見送りに出る。どうしても物静かな店の女や賄い婦の何人かを見てしまう。見送りの中に、おトキさんより年長の六十年配の女がいる。あたかも老婆のなりをしていて、配膳に出てくることはめったになく、いつも目深にかぶった手拭の下から外界を覗くようにして、前屈みの摺り足で厨房をいききし、漬物樽の大きな蓋を開けて野菜を漬けたり、出入りの丁稚が届けた魚を塩漬けにしたり、大鍋に小豆をあけて炊きこみをしたりしている。その老女も含めて、何人かの女たちが物静かなのが窮屈だというわけではない。目に留めてしまうのは、もの言わぬ人たちのシンとした時間の流れを気に入っているからだ。物言わぬことで、謎めいた陰影を帯びて目に映る。クラウンに乗りこむ。
 サイン会という名の激励会―開幕前の各チーム恒例の行事のようだ。初めての経験なので胸がときめく。高校にも大学にもない授業開始前のイベント。七、八分で松坂屋に着く。菅野はだだっ広い駐車場に車を入れて駐車券を受け取る。松坂屋ビルのシンボルの丸菱マークを見上げる。雨上がりの土方。クマさん。なつかしさがこみ上げる。紙袋を持って、久屋通りを右に見ながら裏手へ一分ほど歩き、警備員が何人か立っている南口に近づく。彼らは敬礼して、
「神無月選手とマネージャーさんですか」
「いや、私は身内です」
 菅野はあわてて答える。
「お身内のかたは、正面の通常口から七階の大催事場へお回りください」
「はい」
「じゃ、菅野さん、二時間後に駐車場で」
「了解」


         十八

 タテカンに関係者入口と書いてあるドアから導かれて入る。紙袋に入れてユニフォームを持ってきたのは、ファンに野球選手としての姿を思い出してほしかったからだ。サインを始める前にお色直しで着ることにした。
 七階で業務用エレベーターから降りて、二メートル幅の廊下を歩く。廊下の外れにガードマンが四人立っていた。報道関係者控室という貼紙と向かい合わせの、選手控室のドアを開けて入る。長テーブルに向かい合って、江藤たち四人が茶を飲んでいた。
「よう!」
 四人が手を挙げた。辞儀をする。水原監督はまだ到着していない。各選手の付き人らしき者の姿はなく、松坂屋の制服を着た男が二人、女が一人テーブルのそばに立っていて丁重に頭を下げた。
「付き人のいる選手がほとんどだと聞きましたが」
 中が、
「どこで? ドラゴンズにはそんな選手は一人もいないよ。金太郎さんぐらいじゃないかな。菅野さんという付き人がいるのは」
 小川が、
「菅野さんは無給のボランティアだろう。多球団の有名どころは、けっこう有給で雇ってるよ。新人の田淵までそうだ」
 高木が、
「その背広、グッドだな。なんだか差がつくね。金太郎さんだけ別世界の輝きだ。いい男すぎる」
「何や、その紙袋は」
 江藤が尋く。
「お色直しに、ユニフォームを。やるなら徹底的にと思って」
 小川が、
「ますます差がついちゃうな。……ヘッヘッヘ」
 四人で笑い出す。
「どうかしたんですか」
 江藤が、
「金太郎さんの電話があってからな、この三人に連絡して、ユニフォームば持ってこいて言うたっちゃ。金太郎さんが持ってこんやったら、着んつもりやった。もう、松坂屋の人たちには段取り伝えといたわ」
 中や高木が入団規約の小難しい話をした。十四年という数字が何度も出てきた。興味深く聞いていると、給仕係の女子社員が入ってきて緑茶を出した。いっしょに入ってきた二人の男の一人が、
「私、進行係の××と申します。よろしくお願いいたします」
 もう一人の男が、
「私、統括部長の××と申します。こちらの女性スタッフは××です。私どもは場内整理にあたる三十名の従業員の差配をさせていただきます。催事場へのお客さまは、十二時半で入場を締め切らせていただきました。ただいま、大催事場に二千人ほど集まっております。水原さま、江藤さま、高木さま、中さま、神無月さま、各々充ての整理券を獲得した二百名さまに、順番にサインをしていただくことになります。サイン会では長卓を六脚用意いたします。色紙、ボール、ユニフォーム等への書きこみは、サインペンでお願いいたします。サインペンは基本的にファン負担ですが、弊社が用意した分もございます。残りの千人ほどのみなさまは、サイン会以降の行事にのみ参加していたくことになっております」
 進行係の××が、
「午後一時より、私による選手紹介、つづいて選手ご本人による自己紹介の短いコメントをいただきます。そのあと、お申し出の通り、そこの和室でユニフォームに着替えていただき、サイン会開始となります。それから各選手それぞれ六人の質問者に応答していただきます。これも整理券で決まっております。報道関係者は中日新聞さま、中日スポーツさま、日刊スポーツさま、朝日新聞さま、毎日新聞さまの五社が催事場に入っております。サイン会が終わるとファンによる撮影会となります。ファンと集団写真、ツーショット等はいたしません。すでにお客さまには申し渡してあるのでご安心ください。散会となりしだい、こちらの控室に戻っていただき、帰り支度のお着替えをしていただきます」
 スーツをダンディに着こなした水原監督が、六十半ばの貫禄のある品のいい男に連れられ、にこやかな表情で入ってきた。
「やあ、みなさんご苦労さん。二時間、精いっぱい愛想を振り撒いてくださいよ。江藤くんから連絡もらって、私もユニフォームを持ってきましたからね。こちらは、われわれ中日ドラゴンズの大スポンサー、松坂屋グループの社長さんです」
 白髪を七三に分けた老人が、
「当百貨店のあるじ、伊藤鈴(リン)三郎でございます。本日はご足労いただいてありがとうございます。いまや日本じゅうの話題を独り占めなさっている中日ドラゴンズの中心選手のみなさま、並びに大監督水原さまにわざわざお越しいただき、松坂屋百貨店といたしましても宣伝効果絶大でございます。今後もいままで同様、さまざまな形でドラゴンズ賛助の労を惜しまぬつもりでございます」
 進み出て、私たち一人ひとりと固く握手する。鼈甲眼鏡の奥の目が涼しい。水原監督は微笑みを絶やさない。
「お帰りにはお土産をご用意いたしました。高級ガラスの食器でございます。なお、お帰りの際にお食事をなさりたいかた、またお車が必要なかたはお申しつけくださいませ。じゃ、きみたち、よろしく頼んだよ」
 また深々と礼をしてドアを出ていった。女子社員が、
「ではみなさま、こちらへどうぞ」
 回廊を通り、非常口から会場に入った。一堂に集まった二千人の人びとから、どよめきと拍手が上がった。老若男女の人びとが通路をいく私たちの名前を連呼しながら肩や背中を叩く。係員の背中について壇に登る。
 水原監督を真ん中に、三脚の長テーブルに二人ずつ、左から、高木、中、水原監督、江藤、私、小川の順に着席した。カメラとマイクが最前列に陣取った。すさまじいフラッシュ。うつむいて閃光を避ける。アナウンスが流れる。
「本日はご来場まことにありがとうございます。お待たせいたしました。わが愛知県民の心の拠りどころである中日ドラゴンズを、昇竜となって天上へ導く六人のかたがたの登場でございます。紹介の要もないとは思いますが、一応お名前を申し上げておきます。テーブル向かって左から、球界歴代最高の名セカンド高木守道選手!」
 立ち上がって礼をする。高らかな喚声と拍手。
「高木です。歴代最高はさておき、今年も守備の要となってドラゴンズを牽引してゆく覚悟です。たまには一発かまします。なんせわがメンバーの打撃力が桁外れなので、牽引というより、起爆の導火線を踏んで消さないように気配りすると言い直しておきます」
 着席する。盛んな拍手に頭を掻いている。
「ありがとうございました。次に、俊足巧打好守、歴代ナンバーワンの名センター、中利夫選手!」
「一番、センター、中です」
 温かい笑いと拍手。
「今年も二塁打三塁打をかましまくりますよ。故障、不振、ケガを乗り越えてやってきた選手生命、あと数年と考えております。最後の花道をみずから飾らせていただきます」
 着席して胸を張った。拍手と喚声の中で小さなからだが大きく見えた。
「ベテラン中選手の悲壮な決意をお聞かせいただきました。ありがとうございます。ところで、野球をやっているうえで、中選手にとっての幸せとは?」
「毎日、きょうはここがよかったな、ここが悪かったなって気持ちは、ふつうの生活では味わえません。そういう経験ができるのはすごい幸福ですね。じゃこれで」
 盛んな拍手。
「ありがとうございました。お三人目は、王貞治の三冠王を二度までも阻止し、首位打者に二度も輝いた歴代ナンバーワンの闘将、江藤慎一選手!」
 江藤はスックと立って直角の礼をし、
「今年は金太郎さんに便乗して、ホームランば量産します。目標は彼の半分です。今年の花火は派手になるやろうと思っとります。水原監督はハイタッチで腱鞘炎を起こすんやなかろうか。そんな感じですばい。期待しとってください」
 喝采、笑いの中に、江藤、江藤、と子供や女の声がかかる。
「闘将と呼ばれる江藤選手の原動力は何ですか」
「いちばんはやっぱり、球場に足を運んでくれるファンの応援やろうもん。結果が出る出ないに関わらず、ワシのプレイを見て喜んでくれとるのがハッキリわかるけん」
「やはり現場ファンの力は大きいですね。ありがとうございました。さあ、いよいよプロ野球界の彗星、天馬、神無月郷選手です。こうして見ているだけで、申し上げる言葉がございません。なんと物静かな様子でしょう。しかし、彼と控室でお会いしたとき、鐘衝き丸太にグワンとやられたよう感じがいたしました。江藤選手たちも、出会ったとたんに水爆だよとおっしゃっておりましたが、たしかにグワンと吹き飛ばされたんです。神無月選手にひとこといただきます。どうぞ!」
 フラッシュの嵐。私は立ち上がって最敬礼し、
「雰囲気だけの人間です。中身は空っぽです。ここにいらっしゃる大選手がたと比べるべくもありません。物静かなはずです。野球以外何も考えてないんですから」
「どうしてそんなにホームランを打てるんでしょう」
「みなさん私のホームランについて言いますが、わかりません。この能力は私のものじゃありません。足、腰、手首、その連動がどこからくるのか。私はただの道具で、この能力に驚いているふつうの男で、この能力に操られているとだけ申し上げておきます」
「ふーむ……その能力の結果の個人記録は頭にございますか」
「ホームランを六十五本以上打ちたいということと、ドラゴンズの一人ひとりを慕っているということしか頭にありません。ホームランのほかの個人記録は何も思いつきません」
「慕っているというのは?」
「ぼくはドラゴンズの一人ひとりを愛してるんです。その結果が自分の個人記録に結びつくなら、それはぼく自身の手柄ではなく、彼らが〈褒め棚〉から落としてくれるボタ餅です。チームへの貢献を目指して突き進んだせいというより、餅を食べたせいでエネルギーが貯まったからです。水原監督はじめ、江藤さん、中さん、高木さん、木俣さん、一枝さん、小川さん、小野さん、菱川さん、葛城さん、徳武さん、千原さん、吉沢さん、同期の太田、島谷さん等各選手のすべてを愛しており、意気相投(あいとう)じています。中日ドラゴンズで野球をすることが、十歳のころからの夢でした。夢を実現したいま、あとはひたすら燃え尽きるまで野球をするだけです」
「マスコミ、芸能嫌いと聞いておりますが」
「別にマスコミは嫌っていません。音楽、映画、落語等、芸能人の才能は生きる感覚を潤してくれるので尊敬しています。だから鑑賞に留めてます。見るかぎりでは、彼らの会合はその才能に見合わない俗なにおいを発するので苦手です。近づくつもりはまったくありません。したがってその種のスキャンダルは起こしようがありません。どうかその手のチャンスを虎視眈々と狙っている報道関係のかたがたはあきらめてください。テレビやラジオの純粋な報道番組は、チームメイトと同伴するという条件のもとでお引き受けします。しゃべりすぎました」
 礼をして着席した。一瞬静まり、怒号のような喚声と拍手が爆発した。なかなか鳴り止まない。
「神無月選手、ありがとうございました! どうですか、水爆だったでしょう? 野球界一の変人と言われる小川選手も尻尾を巻いて逃げ出すでしょう。では、わが中日ドラゴンズの大エース、沢村賞、小川健太郎選手、どうぞ!」
 小川は苦笑いして立ち上がり、
「金太郎さん、よくしゃべりやがったなあ。いつもながら圧倒されるぜ。ピッカピカにアタマいい男だからね。野球は神そのものだけどさ。好きな人間の中に俺を入れてくれてありがとよ。泣きそうになったぜ。いつも金太郎さんはこうやって、俺たちを泣かせるんだよ。中さんも、慎ちゃんも、守道も、ほら、監督まで泣きそうになってるだろ。神さまに泣かされるから俺たちはやる気になるんだよ。きっちり二十勝挙げてやる。チームのためというより、俺もこのごろ野球をやるのが楽しくて仕方ないんだ」
 座った。聴衆がみんな立ち上がって大喝采する。司会者が、
「私は緊張のあまり、泣けません。ただただ感動しています。サイン会を長くやらせていただいておりますが、こんなサイン会は初めてです。それでは最後に、長嶋・王以前以降の巨人軍に在任中、何度もペナントを手にしたばかりでなく、乞われて乗りこんだ東映に奇跡の優勝をもたらし、ようやく西に目を転じて、わが中日ドラゴンズを救わんと駆けつけてくださいました水原監督、歴代ナンバーワン優勝請負人、お願いします!」
 水原監督はゆっくりと立ち上がり、
「こんなすばらしいサイン会、私も初めてですよ。チームメイトともども、からだの細胞が入れ替わったんですね。現実の話、私は、昨年十一月に神無月くんに出会って以来、聖水を浴びた心地がしております。先ほども神無月くんは、芸能界の話などを辛辣にしておりましたが、この録画を観て野球選手のほとんどすべてが耳を痛めることと思う。野球選手たるもの野球もやらずに何を浮かれてるんだという怒りが、神無月くんをしてそう語らせたのでしょう。彼は野球界の枠を越えて影響を与える人物です。さて、先日私は、かならず一度優勝します、と新聞に答えて、約束の十字架を背負いました。みなさまもかならず優勝させるという応援の十字架を背負ったことになります。ここの五人はじめ、選手たちの背負う十字架もまことに重いものになったと言わねばなりません。重荷を背負っては、進撃がままならない。理想は神無月くんの言うように、楽しく自分の本分を果たしたうえでのタナボタ優勝です。最下位からの優勝ですから、形はタナボタですが、わがチーム力を考えれば必然です。するべきことは、結果ばかりを見据える大望の重荷を降ろして、野球そのものを楽しむということでしょうね。選手、ファン、一丸となって野球を楽しみましょう。そうすれば、おのずと優勝も転がりこんできます。わがチームの破壊力は大リーグ顔負けです。ライバルはございません。それでも、四十敗はするでしょう。そのときどきに、けっして腹を立てずに、やさしい気持ちで見守ってください。以上」
 ウオオオー、と二千人の歓声が渦巻いた。司会も拍手しながら、
「ありがとうございました! ありがとうございました! では、監督選手たちがお色直しをしてまいります。いましばらくお待ちくださいませ」



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