第三部


五章 出陣



         一

 トモヨさんが時計を見上げて、男たちに声をかける。
「さ、そろそろ時間ですよ」
「こぞっていくのもなんですから、お父さんたちとトモヨさんは家にいてください」
 主人が、
「初陣に玄関見送りはないでしょう。帳場と厨房さえ空にしなければいいんだから。大した人数じゃない、みんなでいきますよ」
 女将が、
「駅の見送りは男二人でええわ。丸ちゃんもいかんでええ。女がゾロゾロ歩いとると目立つで。私は切火をして、玄関で見送りますよ。トモヨも駅の階段は危ないから玄関までにしなさい。店の子たちもそうしてや」
「はーい」
 キッコの声が混じっている。私は首をひねって彼女の顔を捜した。視線の突き当たった先に笑顔があった。女将が式台の縁に座る男たち四人の肩に切火を打った。ソテツとイネがじっと見ている。全員で、
「いってらっしゃい!」
「いってきます」
「ご無事を祈ってます」
「ありがとう」
 睦子と千佳子を随えて玄関を出、青々とした芝を眺めながら踏み石をいく。主人と菅野が門前をキョロキョロと見る。睦子と千佳子が私の両腕に組みついた。菅野が、
「二台ほどいます」
 睦子たちが離れ、がんばってください、と言いながら手を振った。四人で応える。
「がんばります」
 六人がぞろぞろ歩きだすと、いつものとおりバンが寄ってきて、追い抜きしなに何度かシャッターを切った。菱川が、
「ああなるともうマスコミのサガですね。何の役にも立たない写真だ」
 江藤が、
「撮らせとけばよかっち。仲良しこよしの写真やけん、チーム団結の図として何かに載せてくれたほうが都合よか」
 太田が、
「長谷川コーチの話だと、山本浩司がセンターの先発で出るらしいですよ」
「広島出身の山本がカープを愛しとるのは、金太郎さんがドラゴンズを愛しとるのとそっくりばい。あいつでカープは強なるやろう」
 私はうなずき、
「スタメンで出るということは、オープン戦の調子がよかったんですね。あのときの試合では衣笠がソロを打ち、山本は打点なしの二安打でした」
「ほうやったか? 憶えとらん」
「怖いのは、衣笠と山本浩司と山内さんです。その三人を除けば、何と言うこともないチームです。あしたの先発は小川さんでしょうから、まず勝って、悪くて二勝一敗でいきましょう」
「あのときは勉ちゃんが完投したな」
「五点取られました。小川さんなら二点どまりです。大勝します」
「広島は昭和二十四年の創設以来、去年の三位が唯一のAクラスで、あとはぜんぶ四位以下ちゅうウルトラ弱小チームばい。勝ってあたりまえだけに怖か。広島ファンも怖いしな」
「過激なんですか」
 菱川が、
「広島ファンは、敵チームの選手に乱暴狼藉を働くことで有名です」
「このあいだは、その気配はありませんでしたけどね。中日球場だったからかな」
「関係なか。中日に対して柔らかくなったのは去年からたい」
 太田が、
「長谷川コーチのおかげです。広島は彼の古巣なんですよ。長谷川さんは昭和二十五年に二十歳で入団テストを受け、初代監督石本秀一の目に留まって入団したんです。たった百六十七センチなのにボールがめっぽう速い。その年から十五勝を挙げ、その後十年間エースとして君臨しました。昭和三十年には三十勝投手になり、最終的に百九十七勝も挙げてます。昭和四十年からは監督もやりました。愛知県の半田出身ということもあって、去年ドラゴンズにきてくれました。そんな人がベンチにいれば、野次もかけにくいですよ」
「長谷川さんは、弱小チームの勝利ばほとんど稼ぎ出した小さな大投手ばい。国鉄の金田みたいなもんたい。古巣の広島とやるときは何とも言えん気持ちやろのう」
「昭和三十五年に、中日球場で初めて長谷川投手を見ました。ボールの判定に怒って、マウンドを駆け下りてジャンプすると、グローブで審判の頭を叩き下ろしたんです。退場でした。その印象が鮮やかすぎて、いまの温厚さが信じられないくらいです」
「その試合、ワシも憶えとる。森がサヨナラホームラン打った」
「そうです!」
 江藤はまぶたを煙らせ、
「なつかしかァ。雨雨権藤のころや。板ちゃんもよう投げとった。大矢根やらもおったばい。サード前田、キャッチャー吉沢。あれから九年も経ったとね。今年からは野次なんちゅう下品なもんばやめて、純粋に野球に入れこむばい」
 主人が私に、
「ムッちゃんのお守りは、ユニフォームの後ろポケットですな」
「はい、一年間そうします」
「百人力の金太郎さんが、お守りてか!」
 ひとしきりコンコースに賑やかな笑い声が上がった。主人は一等車の切符を買って私たちに渡した。ホームで菅野に抱きしめられた。
「デッドボールに気をつけて。何かあったら、広島に車を飛ばしていきますからね。心おきなくがんばってきてください」
 固く握手した。菅野と主人は江藤たちとも神妙に握手した。
「存分に戦ってきてください。市民球場は狭いので、ポンポンいきますよ」
 新幹線が滑り出し、私たちは窓ガラスのこちらから手を振った。江藤の目がまた潤んでいる。
「なんでやろか、金太郎さんの目ば見ると泣けてくるばい。……一人ひとりを見るときの目がかならず永遠の別れのごたる目ばしとる。そんなはずはなかけんが」
         †
 広い一等車に客はまばらだったので、のんびりと旅ができた。菱川が広島球場の特徴を語りだす。
「十二球団のフランチャイズではいちばん狭く、ほかの球場でフェンス直撃の打球が飛ぶと、市民なら入ったとよく言われます。……レフト最上段に日よけの可動式広告板があります。……出塁したランナーはスコアボードに黄緑色で表示されます。プレイボールがかかると、なんか行進曲が流れます」
 太田が、
「軽騎兵序曲というらしいです」
 私は、
「ああ、スッペの、パー、パッパパ、パッパパパー」
 江藤が顔をほころばせ、
「おお、それそれ」
 菱川が、
「カープうどんという肉うどんがうまいですよ」
「川崎球場と同じですね。柴田のおばさんどうしてるかな」
 太田が、
「思い出す人がちがいますね。俺は川崎ガールズを思い出しちゃいますよ。川崎戦は今月末です」
 米原を過ぎたあたりで、ソテツ弁当を食う。ヒレカツ、鶏照焼き、煮玉子、筑前煮、ポテトサラダ、切り干し大根、オシンコ。鮭の入っていない幕の内弁当は生臭くなく、じつにうまい。あまりにうまいので、四人無言になったほどだ。江藤が、
「七月いっぱいまでは体力消耗の時期ばい。うまかもんばモリモリ食って、体力つけとかんと、すぐにバテてしもうばい。八月はホームの試合が多かけん、体力ば稼げる。ホームランは体力のある八月までにたっぷり打っておかんといけん。大洋の桑田と新人王ば争って、痛い目ェ見たんはそれができんかったせいばい」
「昭和三十四年に同期でプロ入りした桑田武ですね」
「おお、打率はワシのほうが上、打点は同じ、ホームランは十五本と三十一本やった。当然新人王を持っていかれた。ホームランでダブルスコアの差がついたんは、体力がなかったせいやろうもん。桑田は練習の虫やったけんな」
「その後の桑田はどうだったんですか」
「おととしまで九年間、平均して二十五本打ちよった。典型的な長距離ヒッターやな。十年目の去年、別当監督に使うてもらえんようになって、一本しかホームラン打てんかった。それで頭にきたんやろ、つかみ合いの喧嘩ばして、今年巨人にトレードされた。終わったごたるな」
「さびしい話ですね。エイトマン……印象深い人だったのに。その後の江藤さんの九年間の活躍のことを考えると、桑田の運命がさびしく感じられます。体力は大差なかったと思います。長いプロ生活は体力よりも気力が勝負です。江藤さんのその後の気力は尋常じゃありませんでした。新人賞なんか目じゃない。首位打者二回ですよ」
 江藤はニッコリ笑った。
 十一時二十六分新大阪到着。タクシーに乗る。遠くの山並と近くの住宅の群れを眺めながら走る。みんな無言を通す。私たちの雰囲気に気を差した運転手も話しかけない。淀川を渡り、十五分ほどで大阪駅到着。十二時四分に一時間に一本しかないという特急に乗る。ふたたび会話が始まる。江藤が、
「むかしの傷口をほじくり返すようですまんが、どうしても金太郎さんに訊きたかことのあると」
「どうぞ、遠慮なく」
「……夜遅く帰ったくらいで、おふくろさんが金太郎さんを島流ししたことばい。暴れて親ば殴ったとか、悪さして警察の厄介になったとかゆうなら、わからんこともなかばって、親友の見舞いをつづけたせいやろうもん。八カ月ゆうんはすごかもんたい。とにかく悪かことはしとらん。なしてか」
 私は少し考えてから、
「失くしたものは貴重品であることが多いですよね。母が最初に失ったものは、父でしょう。母にとって、ぼくは父よりも大事な貴重品だったんですよ。父で得られなかった夢が託せるという意味でね。ぼくが友人や女にかまけて家に寄りつかなくなったとき、それを失ったんです」
「貴重品なら取り戻そうとするばい」
「母は失ったとわかると、あきらめてヤケになる性質です。どうでもよくなる。でもそのおかげで、ぼくたちはこうして遇えました」
「そりゃそうやがのう……」
 江藤の涙腺が一瞬危うくなった。菱川が、
「ひどい話ですよ。……寺田さんや松葉会の人たちが、しゃにむに恩返ししたくなる気持ちがよくわかります」
 太田が、
「母親のヤケクソのおかげで俺たちに遇えたというのは言いすぎですよ。災い転じて福となしたにしても、神無月さんが精神的にものすごい努力をした結果でしょう。自然にいまの状態になったわけじゃない。神無月さんのほうが何倍も失ったものが多かったんですよ。でもヤケを起こさなかった。俺は、神無月さんと出会えた運命にただ感謝するだけです」
 江藤が私の手を握り、
「くどかごたるが、これから金太郎さんに悪さするようなやつは、ワシャ、ぶち殺しちゃるけんな」
「お気持ち、ありがたく受け取っておきます」
 一時二分姫路到着。高円寺や阿佐ヶ谷程度の大きさの駅。四人とも手荷物は小さなバッグ一つなので身動きがラクだ。大男四人、多少人目を引くようだが、だれも近寄ってこない。それ以前に人の数が少ない。二十分ほどの待ち時間で、山陽本線播州赤穂行鈍行に乗り換える。六両編成。江藤が、
「あと二回、相生と三原で乗り換える」
 置き捨てられたような駅に停車していく。田畑と民家と空と低い山並。二十分もしないうちに相生到着。遠く山並を控えた物寂しい駅。ホームをたがえてすぐに三原行に乗車。
「ここから三時間で三原、そっから一時間十五分で広島たい」
 車内で十分ほどわいわいやっていたが、複線の車窓には遠山と田圃と民家以外に景色がなく、三原で別の鈍行に乗り換えるまでの三時間、大きなからだの四人、硬い座席に後頭部を押しつけて眠りこんだ。
 ふと倉敷駅で目を覚ますと、菱川がなつかしそうな目でホームを眺めていたが、私は声をかけなかった。四時十八分、小ぶりな三原駅に到着。腕時計の気温は十六・三度。いい陽気だ。弁当を仕入れる。浜吉(はまきち)のかきめし。十分待ちで五日市行に乗り換える。中央線のような淡いオレンジ色の車体。ここから一時間余りだ。
 さっそく弁当。めしの上に薄味の牡蠣が四個、蓮根煮、椎茸煮、太めの錦糸玉子が載っている。うまい。みんな黙々と食う。車窓の景色は〈まったく〉変わらない。変わらないからこそ、旅のバックグラウンドになり得るのだと気づく。新幹線のように車窓の景色が見えなくてもいいという理屈だ。


         二

 江藤が菱川に、
「省三が言っとったぞ。浜野とおまえが岡山弁で仲良さげにやり取りばしとったとき、喧嘩の強かち自慢ばしよる浜野に、神無月さんには勝てんやろて笑ったら、顔にパンチが飛んできて、それを掌でハシッと受けたて。ほんとね」
「はあ、やわいパンチでしたから。あれは、喧嘩は弱いですね。人間もこまい。知恵で生きていくタイプの男ですよ」
「おまえ、自宅までスカウトがいって、入団を決めさせられたらしかな。スカウトはだれやった」
「柴田という人でした。毎日十時間も貼りつかれました」
「柴田崎雄さんか。しつこかことで有名やけん。板ちゃんを獲ったスカウトたい。おまえ南海へいきたかったんやろ」
「はい。鶴岡さんの人柄に惚れこんでましたから。南海の倍の金を積まれて、オヤジが折れました」
「あのときの記事、憶えとるぞ。中日にいちばん誠意を感じた、中日はもっとも働きやすい場所だと思う、目標は江藤さん」
「……調子いいこと言って、恥ずかしいですね。プロに目標となる人なんかいません。尊敬するだけです」
 太田がボソリと言った。
「浜野のことなんか考えたくもないです。胸くそ悪い」
「太田も中津ではピッチャーをしてたんだよね」
「はい、高校時代はだれでも、ちょっと目立つとピッチャーをやらされますから、俺みたいな不適格者もゴロゴロいるわけです」
 一時間半の旅は長い。弁当を食い終えると、また四人うとうとした。私は西条という駅で一度目覚めたが、また眠りこんだ。
 夕方五時五十八分広島駅到着。女の声のアナウンス。
「お疲れさまでした。広島ァ、広島です、お忘れ物のないよう、お気をつけて願います」
 ほのぼのとした声を聞いて一挙に疲れが吹き飛ぶ。空が高い。ロータリーの広い巨大なビル駅だった。目の前にさっそく市電。うれしい。太田が、
「全国で六番目に大きな駅だそうです」
「ぜんぶ言える?」
「はい、東京、博多、新宿、天王寺、池袋、そして広島です」
「底抜けのバカやな。タクシー乗るぞ。菱、助手席に乗れ」
「ほい」
 大型タクシーに乗る。鬢(びん)の毛が白い運転手だ。
「お……」
 運転手はすぐ気づき、何か話しかけたそうにする。先手を取って尋ねる。
「世羅別館までどのくらいで着きますか」
「十分から十五分で着くよ。世羅別館は巨人さんと中日さん御用達(たし)じゃのう」
 二千円くらいと踏み、運転手に手渡す。
「余ったら取っておいてください」
「こんなにくれんでええけぇ。この半分もかからんでいけますけ、千円だけもらっときます。それで余ったら、オツリはいただきますき。お三人は江藤さんと、空から降りてきんさった神無月さんじゃろ。それから倉工出身の菱川さんに……」
「太田です。大分中津工業出身の新人です」
「思い出した。ピッチャーから転身したスラッガーじゃろう」
「はあ、ピッチャーといっても、ブルペンで何球か投げただけで、失格の判子を捺されました」
「長谷川良平にじゃろ」
「はい」
 背の低いビル街を走る。信号も少ない。遠くに山並と、雲を浮かべた青い空が見える。
「大阪球場へいくときも、こげんして走ったのう」
「はい。たったひと月前ですが、なつかしいですね」
 橋を渡り、大きな川沿いに走り、五分ほどで市電の通る路に出る。
「駅前通りじゃ。もっと下流にある平和通りゆう道路は、幅百メートル、長さ四キロある」
「この通りは名古屋の久屋大通りや若宮大通りと似てますね。並木は剪定されているからよくわからないな。ハナミズキにしては背が高くて枝が密すぎるし」
「三十年代の供木運動のときに、市民がめいめい持ち寄って植えた高木低木じゃけぇ、いろいろ雑ざっとるんですよ」
「そうですか。でも美しい。市電もきれいだ」
 肌色と緑のツートンカラーの車体を眺める。タクシーの運転手はわが意を得たりとばかり、
「広島の市電は、総延長距離も車輌数も日本一じゃ。地下鉄がないせいで、市内を路面電車の路線が網羅しとる。最近日本じゅうで市電が姿を消していっとるが、路面電車が交通の主役というのは広島しかないんです。大正元年から走りよる」
 観光ガイドの解説口調になる。菅野もときどきこうなる。江藤が、
「さずがに原爆のときは走れんかったやろなあ」
「それが江藤さん、ピカドンの三日後に焼け野原の中を市電が走ったんじゃ。しかも運転手は、広島電鉄が経営していた女学校の生徒さんたちじゃった。いま渡っとる橋は京橋ゆうて、川は京橋川じゃ。次に渡る橋は稲荷橋。このあたりやないが、原爆ドームがよう見えるので有名な橋は、天満川に架かる緑大橋、太田川の支流二本に架かる西平和大橋と平和大橋です」
 稲荷橋東詰という標識を右折して橋を渡る。左右に緑の空地を配した見通しのいい道に出る。街路樹の密度が異様に濃い。
「景色が大阪とそっくりばい」
「どちらも水の都ですからね」
 運転手が、
「ほいじゃが、大阪ほどビルがごちゃついとらんじゃろう」
「そうですね。すっきりしてる。その原爆ドームというのは、もともと何の建物だったんですか」
「物産陳列館じゃ。外人さんの設計で、大正四年に建てられたもんじゃ。高さ二十五メートル。ああ、この左手が、原爆の子の像のある平和記念公園じゃ。ほら、あっちのビルのあいだに原爆ドームが見えるじゃろう?」
「おお、見える、見える。何度か広島にきたばってん、こっから見たことはなかったばい」
「記念物となると、悲惨さがなくなりますね。きちんとした建築物に見える」
 私が言うと運転手は、
「そうじゃのう。本来それではようないのじゃろうが、そうしとけば観光都市という名目でふところをあったかくしておられますけぇ。政治は何でも金にしてしまいよる。話は別じゃが、カープファンというなぁ、噂ほどワヤクチャじゃないよ」
「おお、それはワシもずっと感じとった。西鉄なんぞとはモウゴテちごうとる」
「県民のほとんどがカープファンだとか、負けたら機嫌が悪くなるとか、野球がある日はかならずカープ戦を観戦しよるとか、そんな人たちはおおかたおらん。球場にいけばカープファンが多いのは当然のこって、球場連帯というやつじゃ。現にわしゃ、中日ファンじゃき。長谷川が一塁コーチに立っとる姿を見て、神さまのきんさったええチームに入ったなあと思ったんじゃけぇ。なんも気にせんと、あしたは思い切りがんばりんさいよ。この並木通りを曲がったら世羅別館です。はい、七百二十円。オツリはいただいときます。ラッキーな日じゃった。ありがとの」
 少し細道に入りこんで、私たちを降ろした。自分も運転席を降りて、一人ひとりと握手してから走り去った。六時十分。北村席を出てから約八時間。移動も一仕事だ。
 世羅別館は背の低いビル街に埋まりこんだ和風旅館だった。写真では三階建てに見えたが、よく見ると四階建てだ。
「広島遠征は、毎年この旅館ばい」
 四人で玄関からロビーへ入る。広い。照明の効いた天井は低く、床は大理石だ。箱庭を眺める大きなガラス窓が竹格子の御簾を上げ下ろす仕組みになっている。落ち着く。フロントから離れたところに花を添えたテーブルと椅子が何組か置いてあり、フロントのカウンターは白い大理石だった。一般客の姿がまったくないのに気づいた。ロビーの窓際のテーブルに一人ポツンと小野がいて、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。江藤が手を上げて声をかけた。私たちはお辞儀をした。
 フロントに上品な黒地の制服を着た男と女が一人ずつ立っている。背後の壁に丸時計と、各部屋の届き物を入れる蜂の巣状の封書入れ、その上方の棚に営業認定証が何枚か立てかけてある。壁にも認定の額がぶら下がっている。彼らは私たちに向かって丁寧な礼をした。
「いらっしゃいませ。本年もご来館ありがとうございます。一年間よろしくお願い申し上げます。みなさまのお荷物はお部屋のほうにお届けしてございます。さっそくですが、入館のサインをお願いいたします」
 書式にただ名前だけをサインする。江藤はサインをしながら、
「もうみんな到着しとりますか」
「はい、監督さま、白井さま、小山さま、村迫さまが二時ごろ、ほかのかたがたも四時ごろまでにはご到着なさいました」
「これでもいちばん遅かったか。今年はみんな張り切っとるな」
「監督、コーチのかたがたは四階に、選手のかたがたは二階と三階にお部屋をご用意してございます。江藤さまと神無月さまは、二階の一号室、菱川さまは徳武さまと二階の六号室、太田さまは木俣さまと二階の三号室でございます。お部屋のカギをお渡しいたします。外出なさる場合は、フロントにお預けくださいませ。お荷物お預かりします。お部屋のほうにお届けしておきます」
 バッグを預けた。小野が寄ってきて、
「私は浜野くんと二階の十号室だ。ちょっとコーヒーでも飲まないか。どうせ初日の会食が終わるまではこの格好だからね」
 背広の襟をしごく。ぼちぼちコーチやレギュラーたちが降りてきて、ロビーのテーブルに陣取る。監督以外のコーチ七人、投手九人、野手十七人、三十三人全員が揃った。トレーナーたちの姿はない。六つ七つのテーブルに分かれると、大した人数に見えない。たがいに挨拶し合う。緊張している。あちこちでシャッター音がしはじめる。神出鬼没のマスコミ関係者たちだ。それでもカメラ取材がほかの客の迷惑にならないようにホテル側に自粛を促されている。ファンは最初から、ロビーや駐車場からシャットアウトを喰らっている。テーブルが和みはじめた。浜野と島谷が声高に話し合っている。
「浩司もスタメンだそうだ。バッターは得だな」
「どこが」
「一年目からどんどん使ってもらえるだろ。ピッチャーは二年、三年かかる」
「どういう理屈だ。バッターでもだめなやつは、ずっと二軍暮らしだ。新人では金太郎さんと太田と俺、三人もいるとおまえは思ってるわけだ。おまえは新人で使ってもらえる唯一のピッチャーだからな。しかしバッターも実際のところ、金太郎さん一人だぜ。初年度からどんどん使ってもらえるのはオープン戦で結果を出した有望株にかぎるんだよ。山本浩二は活躍したんだ。田淵を見てみろ」
 田宮コーチが割って入り、
「オープン戦で少しでも活躍してマスコミに採り上げられた新人は、ドラゴンズの神無月郷、島谷金二、太田安治、浜野百三、カープの山本浩司、ライオンズの東尾修、オリオンズの有藤道世、ブレーブスの山田久志、そのたった八人だ。まあ、田淵はそのうち出てくるだろうが、巨人の島野も、ホークスの富田も、どこに姿をくらましてしまったのか一向に出てこない。それにしても、中日の四人という数はすごい」
 小野の読み差した新聞に、『神無月くんはいいバッターになる』という見出しがチラリと見えた。うれしいような、やるせないような気がした。江藤が私の視線に気づいて、
「すでにとんでもないバッターである、のまちがいやなかね」
 太田が、
「長嶋のコメントも載ってますよ。―あの子どこからきたの、青森から、ふうん、雪から生れた雪の精ね、打つ瞬間にパーッて、なんかキラキラ光るね、うん、やっぱり雪の精だ、百本? それに近いところへいくね、ワンちゃんもたいへんだ、でも神無月くんは記録うんぬんと関係ない場所で輝いてると思わない? 長く見ていたいな」
 長谷川コーチがやってきて、
「さすが長嶋は本質を捉えてるな。金太郎さんをライバルと思ってない。いいバッターになるなんて言ってる王はまだまだだな。川上なんか、金太郎さんに努力やら人間の道を説くんだから、笑止だね」
 記者の群れをギョロリと睨み、
「聞こえなかっただろうね? 雪の精に鏝(こて)を当てるのなんか簡単だからな。金太郎さんを殺したくなかったら、見ざる聞かざるだ」
 半田コーチが、
「さあ、一年間ほとんど家に帰れなくなりまーす。子供の顔も見れなくなりまーす。みんな、さびしいさびしい季節よ」
「小川さんはお子さん三人でしたね。つらいですか」
 小川はニヤリと親しい視線を私に返し、
「つらいよ。金太郎さんにも子供が〈いたら〉わかるよ」
 江藤が私の肩を抱き、
「わかるぞう」
 と言った。記者の一人がだれにともなく、
「どれくらい帰れなくなるんですか」
 巨人、国鉄と渡り歩いて、長い東京暮らしの宇野ヘッドコーチが、
「五十二歳の東京在住の男の話じゃあんまり参考にならんかもしれんが、たとえば後楽園で三連戦、神宮で三連戦という場合なら、六日間自宅にいられる。しかし、デーゲームでなければ試合が終わるのが九時過ぎだろう? ミーティングをして帰れば、十一時過ぎになる。うちは試合後のミーティングをしない方針だからありがたいがな。ま、そんな時間には子供は寝てるわな。朝は子供が学校にいく時間に俺が寝てるから、結局いっしょにいる時間はほとんどない。比較的いっしょにすごせるのは、オールスター休みと、シーズンオフくらいのもんだ。シーズンオフも、秋季キャンプやら付き合いゴルフやらで、こつこつ時間を取られるわな。オープン戦はデーゲームだから、東京でやるときは、夕方以降は家族といられる。夕方のんびり家族といられるときは、できるだけ外へ食事にいく。子供になついてもらうためだよ。はー、その息子も娘も、とっくに結婚しちまった。古女房のところに帰るより、チームに帯同してるほうがずっと楽しいや」
 記者たちがドッと笑った。


         三 

 開幕戦に帯同した森下二軍コーチが、
「今夜は会食だが、あしたから今後一年間、夕食はめいめい好きにとれ。会食は、たまにフロントがきたときだけだ。外で食ったら、領収書をマネージャーの足木さんに提出。毎月の給料へ払い戻す。移動費も、単独行動の場合は、かならず出発する駅名を申告するように。特別行事の夕食会もときにはあるから、連絡事項には常々注意しておくこと」
「ウース!」
 江藤に、
「食費や交通費は給料外なんですか」
「もちろん球団持ちたい。足木さんには、金太郎さんは名古屋駅から乗車と伝えとく」
「ありがとうございます」
「ヒシ、領収書のもらい方を太田に教えちゃれ」
 菱川は得々と、
「一人で飲み食いしたときは、レジで中日ドラゴンズ宛ての領収書を書いてもらう。それを足木さんに出す。大勢で食った場合は、先輩にまかせておけばいい。あとで人数でそれぞれの分を等分して渡せばいいから。おごってくれることもあるしな。交通費は、帰りの分も合わせて振りこまれるけど、帰りに寄り道したら、その分は自費になるから申告できない」
「細かい乗り継ぎは、どうすればいいんですか」
 江藤が、
「交通費には、かならず片道三千円上乗せして給料が払われるけん、足は出ん。申告すっとは、単独で動く場合の駅名だけばい。ふだんの駅名は一度申告したら引越しするまで何もせんでよか。遠征地からの帰りは、ホテルに近い駅から計算される。ワシらの場合広島駅から名古屋駅までばい」
 しっかり野球という仕事をしている気分になった。金そのものの肌触りはなかった。
「金太郎さんが一人で飲み食いに出ることはなかろう。ホテルで食わん場合は、いっしょにいったワシらがぜんぶやるけんよか」
「神無月さんがレジに立つ姿は想像できませんよね」
 菱川の言葉に太田はうなずき、
「中学のころも、部活の帰りにみんなといっしょに今川焼きを食ってる神無月さんの格好がね、どっかぎこちないんですよ。ものを食うこと自体信じられん感じでした。ホンザンというやつの家でタコ焼食ったときもそうだったなァ。コーヒーはいいんですけどね、あごを動かすことがどうも似合わない」
 小野がうなずきながら私を見つめている。江藤が、
「吉永小百合やら、芦川いづみやらも、そんなふうやったな。京マチ子、岸恵子もな。ワシの女房は、ものを食っとっても不思議やないが」
 板東がヌーボー顔の吉沢を連れてやってきて、
「慎ちゃんの女房は、宝塚のスター瀬戸みちるや。きれいやで。ワシなら慎ちゃんみたいなつれないことは言わんわ」
「金太郎さんの前で芸能界の話ばせんとけ。ワシがそういう場所に出入りしたんは若気の至りや。子供もおるけん、責任は取る」
「そういう場所って、どこのことですか」
「地方地方にそういう飲み屋があるっちゃん。流行っとる店のオーナーは、芸能界やスポーツ界に広か人脈を持っとるけん、有名人の溜まり場になるとよ。そぎゃん店は、よう秘密ば守るけん、有名人同士安心して付き合うことがでくっとたい」
「友だちのまた友だちということになっていくわけですね」
「そぎゃんたい。激励パーティーゆうんもクセモノばい」
 浜野が離れたテーブルで冷めた表情で聴いている。私は、
「小野さんの奥さんは女優さんですよね。やはりパーティか何かで」
「いや、そういう会合じゃない。仁木多鶴子というんだが、目立たない女優でね」
「ああ、仁木多鶴子さん。大映の女優ですね。陸軍中野学校という映画ではホステス役で出てました。市川雷蔵と小川真由美が主演で、小川はスパイの嫌疑を受けて恋人の雷蔵に殺されるんです。あれは悲しかったな。仁木さんは『あゝ江田島』にも出てましたね。若尾文子が主演の『女は二度生まれる』では、フランキー堺の奥さん役をしてた」
「よく知ってるねえ。あらためて東大だって思い出すよ。昭和三十五年に『一刀斎は背番号6』という映画に共演したときに知り合ったんだ」
「あ、その映画、名古屋に転校してすぐのころ、叔父に名古屋駅前に連れていってもらって観ました。五味康祐原作の大人版スポーツマン金太郎。看板に《プロ野球のスター選手総出演本格的野球映画》と書かれていたのを覚えてます。一刀斎の菅原謙二と、合気道の師匠の娘の仁木さんが仲良くなるんですよ」
 長谷川コーチと田宮コーチもやってきて、周囲のテーブルが賑やかになった。田宮コーチが、
「あの映画には、俺も稲尾も山内も野村も出てたんだよ。いま思うと、一刀斎は金太郎さんだな。ピンチヒッターで全打席全ホームラン」
「最後は日米親善野球でホームランを打つところで終わりでしたね」
 小野が、
「そうだったね。プロ野球選手なんざ、みんなチョイの間出演でね。多鶴子はぜんぶで四十本ぐらい出たかなあ、去年引退した。世間ではぼくに対して非難囂々だったよ。川崎敬三と並ぶ上り坂の大映ニューフェイスを引退させたってね。上りも下りもない、ふつうの女優だったのにね。そういう目立たない女優でも、もてないぼくにはボタ餅でね。飛びつくように結婚したよ。ぼくはちょっとミーハーなところがあってね、車は五十八年型ベンツ、中古で百五十万もした。女房も……」
 中がヌッと顔を出し、
「小野さん、それ、卑下しすぎですよ。プロ野球商売に芸能界はつきものです。サイン会での金太郎さんの芸能人苦手発言に影響受けてますね。あれは生活の喧騒を避けるための金太郎さんの個人的決意であって、何もチームメイトに向かって皮肉を言ったわけじゃない。いまだって、純粋に好奇心から質問して、楽しくしゃべってるんですよ」
 木俣も高木といっしょにやってきて、
「若造が口を挟んですまんことやけど、いまも守道さんと話してたんやが、金太郎さんは愛の人ですよ。女房は芸能人かあ、なんて馬鹿にするつもりで言ったんじゃない。人の恋愛話が大好きなんだな。しっかり結婚して家庭を築いてるなら、そういう芸能人のことを浮ついてるとは思わないはずですよ」
 高木が、
「小野さんが結婚したのは二十六歳のころでしょう。飛びついたんじゃない。じっくり選んでますよ。おまけに夫唱婦随だ。藤本勝己も二十六歳で島倉千代子と結婚したけど、今年離婚したし、金田は二十二歳で九歳年上の榎本美佐江と結婚して、八年で離婚した。みんな江藤さんや小野さんみたいに最後まで添い遂げられないわけよ」
 みんなずらずらと周囲のテーブルに腰を下ろした。江藤が、
「どういうきっかけで、どんな女と結婚しようと、最後まで面倒見るのが男たい。監督もフロントもまったく同じや。話は変わるけどな、ワシは濃人さんの引きで中日にきた男やけん、彼のことを悪く言いたくはなかが、あの人が天知中日をだめにした。板ちゃんもよう言っとる。生え抜き組とソリの合わなかったワシを立てて、森や吉沢さんをクビにしたとな。ちがうんだ。ワシは生え抜き組とは何ということもなかった。濃人が森と、そこにいる吉沢さんを感情的に好かんかっただけばい。そのとき東映の監督やった水原さんはこの話を聞いて、吉沢をパリーグに出すなんてセリーグの損失だと言ったっちゃん。今年水原さんが近鉄から呼び戻した」
 吉沢が首をこちらへ傾け、
「大阪はいまひとつ馴染めなかったなあ。ドラゴンズに戻って、やっぱりふるさとへ帰ってきたという気分だね。名古屋には知り合いがけっこういて、近鉄にいたころもよく帰ってきてた。もう一度がんばってくれと激励してくれる人が多いんだ。球団の好意で、むかしと同じ33番をもらって、プロ生活十七年目を迎えられた。がんばるよ」
 板東が、
「えらいもんですわ。ワシも吉沢さんに負けんように、まだまだがんばらんと」
 木俣が、
「俺もポジション争いがきびしくなりましたよ。第一人者の吉沢さんのワザを盗んで、なんとか脱落しないようにします」
「何言ってるの。おまえは看板だよ」
 小川が、
「吉沢さんは投球練習で一球一球要求するコースがちがう。きわどいコースとか、考えられないコンビネーションだったりね」
 長谷川コーチが、
「ピッチャーたちに与えるアドバイスが適切だ。ズバリとポイントを言い当てるから、投手陣の信頼も厚い。近鉄でコーチを兼務していただけある」
 この上なくみんなの言葉が温かい。
「ありがとうございます。うれしいですよ。昨年に比べたら、プレーヤー一本だからラクです。カベからの再出発だ。一試合でも多く出してもらいたいですね」
 カベというのは、ブルペンキャッチャーのことだ。要するにピッチャーの練習相手だ。カベ要員からレギュラーに上がることはめったにない。
「吉沢さんは、お住まいはどちらですか」
「神無月くんの家のそばだよ。名楽町の荻野荘というアパートだ。一階の二号室。いつか遊びにきてください。小野くんや江藤くんじゃないが、責任を持って養ってる女房がもてなすから」
「はい。かならずいきます」
 いつのことになるだろうと思った。江藤が、
「話のつづきやが、結局濃人が九州出身の選手ばかりかわいがりよるから、干された選手が反発したという図やろうもん。反発したやつらを全員トレードに出したわけや。森、井上登、吉沢さん。信じられん。森は本塁打王で打点王やったとばい。穴埋めにニューカムやらドビーやら外人いれて、おまけに権藤をバンバン使って潰しおった。それでも三位にしかなれんかった。いまの小山オーナーや白井社長みたいな俠客が乗り出してくる五年も前の話たい。球団経営を感情とコネにまかせとったボロボロの時代やった。その代表格が無責任男の濃人やったとはのう。当時は気づかんかった」
 田宮コーチが、
「白井社長はいつも、中日ドラゴンズのよくないコネ関係をぶっ潰すような野球をやってもらいたいと言ってるよ。彼は頭がよくて、責任感も強い人なので、あのころのドタバタをうんざりしながら見ていたんだろう。それで、一気にこの濁ったドラゴンズの体質を改革するために水原さんを招聘したわけだ。そこへ金太郎さんが天から降ってきた。ドラゴンズは黄金期を迎えたよ」
「めし、いきますよォ!」
 浜野が私たちの会話を遮るような大声を上げた。みんなで一階の宴会場にいく。五人の首脳が最前部の長大なテーブルについている。三人用の大テーブルが十一脚四列で縦に並び、コーチ、レギュラー陣三十三人が腰を下ろしている。加えて、マネージャー、トレーナー、スコアラーなど五人掛けの角テーブルが二脚、列の後部に陣取る。総勢四十人に余る人びとが、前方中央のフロント席に注目する。半田コーチが、
「かんぱーい!」
 へんなアクセントで乾杯の音頭をとった。
「乾杯!」
「今年は、ホームラン、たくさん出そうなので、バヤリース中止ね。ポケットマネー、危ない」
 村迫が、
「だいじょうぶですよ、カールトンさん、球団が負担します」
「そ、ありがと。内野守備鍛えるよ。江藤さん、島谷さん、太田さん、覚悟してね。モリミチと一枝さん、心配ないけど、やっぱり鍛えるね。外野守備は田宮さんにまかせる」
 その田宮コーチが、
「この会食は報道陣シャットアウトだ。のんびりやってくれ」
 順序立った飲み食いの作業は難しい。先付に出されたりんごのみぞれ和えとやらが口からこぼれ落ちる。布ナプキンの存在意義は食物の飛沫の汚れ防止であって、食いこぼしを受けるためのものではないけれども、私にはとても便利なものだ。隣のテーブルに座った浜野が、
「神無月はガキだな。マンマ、マンマしてやらないと、めしも食えん。みんな笑ってるぞ」
 だれも笑っていない。
 小山オーナーと白井社主に挟まれた水原監督が立ち上がり、訥々と話しはじめる。三人の両脇に、村迫球団代表と榊スカウト部長が露払いのように控えている。
「どうぞ、食べながら聞いてください。オープン戦同様、今年からは、試合前、試合後のミーティングなるものを極力行なわないようにします。その時間をウォーミングアップやマッサージ等に費やしてください。これまでどういうミーティングをやってきたか知りませんが、たぶん先発投手の傾向でも探ったり、サインの打ち合わせをしたりしてきたんでしょう。それはたしかに有効なことだとは思います。しかし、そういうものは、試合前の個人間の情報交換でじゅうぶん足ります。そうやって一分でも多く、各自、持てる技量の最大限の発揮に努めることに集中しなければいけません。データ野球はミーティングで上から指示するものじゃなく、個人の研究結果をたがいに伝え合うことによるものでなくちゃいけない。きょうからその打ち合わせはきみたち同士で行なってください。つまり、選手間のミーティングはこれを最後とさせていただく。ミーティングは監督・コーチにまかせてください」
 安堵と賞賛の拍手。
「さて、いよいよあしたの広島戦からペナントレースが始まりますが、こうして諸君たちがつつがなく開幕を迎えられたということは、プロ野球選手として今年もここにいられたということにほかなりません。じつにめでたいことです。おのおの、自分の才能に感謝してください」
 大拍手。水原監督はまじめな顔で、
「感謝ですよ。驕ってはいけません。きみの手柄ではなく、天の手柄なんですから。残念ながらここに参加できなかった選手たちのことも心の片隅に置きながら、プロ野球人としてますます高いプライドを持ってがんばるように。これからの一年間、山あり谷あり、たいへんなシーズンになると思います。いくら新聞で強気なことを言っても、かならずそうなるんです。いいことばかりはつづきません。一日、一日、めいめい自分のベストを尽くして、最後まで脱落しないことを念頭に置いてがんばるしかないんです。たがいに信じ合い、助け合っていきましょう。できれば、尊敬し合い、愛し合っていきましょう。現場の指揮は私がとるわけだから、きみたちは余計なことを考えず、思い切ってグランドで暴れてください。一つ、お願いがあります。きょうかぎり、チームのために、などという言葉を口に出さないでいただきたい。自分の向上と喜びのために、向上を喜んでくれる者のために野球をやりなさい。そのあとに初めてチームの勝利がついてきます。思い切って暴れるには故障が最大の敵になります。今年からはたとえリリーフでも連投はさせません。故障の原因になります。バッターは、二十打席ノーヒットになったらベンチに下げます。工夫なく素振りを多量に繰り返した結果ノーヒットになったと見て、腰や手首の故障の蓋然(がいぜん)性を下げたいからです。それから、いわゆる機略の小技ですが、みなさんは高校野球の選手じゃなく、ファンを背負ったプロなんだから、プロらしく独立独行でやらなくちゃいけない。どうしてもその機略が必要だと思ったら、たがいにサインを出し合って敢行してください。それじゃ、私の監督寿命が尽きるまで、いっしょにがんばっていきましょう」
「オース!」
「がんばるばい!」


         四

 宇野ヘッドコーチが立ち上がり、
「いま監督のおっしゃったサインの件ですが、オープン戦と同様、基本的にゼロ、出さないということにします。選手同士で決めて出し合う分にはまったくかまわない。ただ、監督も私たちコーチ陣も、ときおり手振りをしたり、帽子やからだの一部を触ったりしますが、気にしないように」
 哄笑。水原監督が手を挙げてもう一度立ち上がり、
「ユニフォームを触るいわゆるブロックサインは、私が編み出した日本初のものだったんだが、しきりにユニフォームを触る姿がキザに映るらしくて、そういう軽薄な指導者のもとではチームがゆるんだムードを醸すとまで叩かれたこともある。そういう記事こそ、チームの和を乱す。これからも私はサインの身ぶりをつづけますが、ノーサインだとマスコミに知れると、またどこかの厳しい監督さんたちから叩かれますので、緘口令を敷きます」
「オース!」
 長谷川コーチが、
「あしたの試合は三時から、あさってのダブルヘッダーは二時からだ。目標十連勝!」
「オー!」
 白井社主が立ち上がった。男ぶりの悪くない、角張った野生的な風貌だ。
「心身ともに、溌剌と、一年間を乗り切ってください。ケガをした場合は、徹底的に治療に専念していただく。その際の援助は惜しまない。技量の衰え以外に、馘首(かくしゅ)の理由を設けないので、安心してプレーしてください。なお、選手の見聞を広めるためと称して、財界有力者らと会食をしたり、高名なお坊さんの講話を聴く会を催したりする球団もあるようですが、ドラゴンズはいたしません。野球に打ちこむ時間を損ないます。彼ら有名人は自分の邁進してきた〈道〉しか主張しない。それを言うなら、諸君たちも野球道に邁進してきた優秀な人びとです。他人の〈道〉から知り得た知識は、かえって邪念になります。見聞は広まりません。諸君たちに大いに期待しています。以上」
 大拍手。白井が座ると、小山オーナーに代わり、
「一度でもファンをガッカリさせるような怠慢プレーをしたら、承知しないよ。猛反省を強いるために自宅謹慎を命じるからね。エラーや三振は怠慢の結果じゃなく、勇気ある冒険の結果だから、どんどんしてよろしい。不可抗力を恐れない、楽しい、胸躍るような野球をしてね」
「オース!」
 彼らのテーブルの脇にいた主任ふうのウェイトレスがマイクに寄り、
「ただいまからお出しするお料理は、本館スタッフがまごころこめて用意いたしました自信作でございます。箸を止めずに、新鮮さとお味をご堪能くださいませ」
 と素早く言った。全員あらためて箸をとった。品書きが皿鉢の下に敷いてある。書かれてあるとおりのものが適当な時間を置いて出てくる。牡蠣西京味噌焼き、海老・こんにゃく・玉子カステラの串刺し、千枚大根黄身いも、イクラ、ふぐ皮の煮こごり、イカ塩辛、甘鱈のお椀、刺身盛り合わせ、カラス鰈の柚子焼き、茶碗蒸し、豚角煮(北村席より味が薄い)。後部席の鏑木ランニングコーチが立ち上がった。
「こんばんは。鏑木です。オフを待たず、今季ペナントレース中も来シーズンも、ランニングコーチを正式にやらさせていただくことになりました。めでたく定職にありつけたということより、熱意と才能あふれるみなさまたちと、この先少なくとも二年間をすごすことができるという喜びのほうがはるかに大きいです。どうかよろしくお願いいたします。さて、これまでどおりのルーティーンは、球場に入ってから守備練習の合間にダッシュとジョグをしていただくことですが、朝食前に走りたいかたのために申し上げますと、この別館を並木通りへ出まして、左折して直進すると、三筋先に大交差点がございます。平和通りです。分岐路を無視して、それをひたすら道なりに二キロほど直進しますと、猿猴(えんこう)川という川に架かる鶴見橋の西詰に出ます。川の西岸は住宅地、東岸はマツダの工場地帯となっていて、大した景色ではないので、川風でも吸って息を整え、そこから引き返せばよろしいでしょう。橋詰の階段を下って岸辺に降りても、めぼしいものはございません。各遠征先で、同様の情報をお伝えするつもりでおりましたが、みなさまの独創性を失わぬよう、ほどほどにします」
 腰を下ろした。浜野がフロントのテーブルにビールをつぎにいっている。会場に有線が流れる。小川知子、初恋の人。太田が、
「小川知子がこの曲を発売してすぐ、恋人のカーレーサーが死んだんですよ」
「へえ、そうなの。不吉な曲だね」
 菱川が、
「福沢諭吉のヒ孫の、福沢サチオというもと慶應ボーイらしいです。トヨタ車の試走中に起きた事故で、とぼけとおすトヨタにサチオのオヤジがかんかんになって、裁判を起こしたという話です」
 江藤が、
「おまえら、どうでもええこと、よう知っとるな。小川知子て、だれや」
 太田が、
「ゆうべの秘密って、去年ヒットしたでしょ」
「ああ、あれか。かったるい歌い方をする女やのう。素人でなかね」
「女優ですから歌は素人です。十九歳。この広島出身ですよ」
「何に出とるんか」
「大奥マル秘物語」
「知らんな」
 カルメン・マキ、時には母のない子のように、森山良子、禁じられた恋。どれもこれも聴くに堪えない。
 世羅鍋というものが出てきた。具は、広島牡蠣、広島牛、広島豚、県産のシイタケ・ねぎ・ニラ・ニンジン・里芋と県尽くしだ。鍋の味噌味は絶妙だ。
「スープは、広島県飲食業組合と県内企業のオタフクソースが共同開発したものでございます」
 ウェイトレスたちが説明する。食いきったころ、ふぐの唐揚げ。うまい。浜野がまだ自分のテーブルに戻らずに、板東やコーチたちにビールをついで回っている。ようやく戻ってきて、鍋と唐揚げを一気に平らげる。
「こんなもの、ちまちま食ってられん」
 木俣のテーブルへ立っていく。江藤が、
「落ち着かんやつやのう」
 有線が止み、カラオケが始まった。森下コーチが森進一の『港町ブルース』を歌う。いい調子のダミ声だ。六番まで歌い切る。
「広島がないですね」
「静岡から四国のあいだを飛ばしよったな」
 私は、
「散歩に適当な名所はありますか」
 菱川が、
「鞆(とも)の浦は有名ですけど、福山市だから、ここから百キロもありますよ」
「遠か」
 太田が、
「神無月さん、やばいです。また散歩癖が出てますよ。明石はたいへんだったからなあ」
「このあたりは川の下流でしょう。めしのあと、タクシーで河口までいってみます」
「ワシもいくばい」
「俺も」
「俺も」
 ウェイターが聞きつけて、
「何もないですよ。牡蠣養殖場があるきりで」
「やめましょう」
 私は即座に言った。
「すみません、早計でした。あしたは初戦です。あさってはダブルヘッダーですし、ゆっくり休養をとりましょう」
 三人ホッとした表情になる。カラオケがつづく。ほとんどコーチ陣、マネージャー、トレーナーだ。私は江藤に、
「開幕戦は二軍コーチも帯同するんですか」
「長谷川さんと森下さんはな。本多さん、岩本さん、塚田さんは連絡係で名古屋に残っとる。森下さんゆう人は、もと南海のサードたい。ガッツのあるプレーヤーでな、昭和三十四年の巨人相手の日本シリーズで、三塁にスライディングしてきた与那嶺をレスリングごつ組み敷いたんぞ。もともと与那嶺ゆうんは、アメリカンフットボールのタックルスライディングを日本に持ちこんできた男でくさ、川上と交替で首位打者ば獲り合うこと三回、生涯打率も川上と並んで三割一分ゆうすごいやつばい。いままでの野手はその威光にひれ伏してタックルされるままになっとったんやが、森下さんはちごうた。与那嶺のタックルでボールば弾き飛ばされたとたん、なんと、ホームに向かった与那嶺に押しかぶさって走塁を妨害したんや」
「そりゃ、一点でしょ」
 太田が呆れ顔で言う。
「こぼれたボールを処理しようとしたプレイの延長、一連の動作の勢いでそうなった、とアピールして、お咎めなし。みごとなもんやった」
「本多さんのような二軍監督の役割って何ですか」
「一軍監督いうんは、チーム作りに自分の野球観ば反映させていく人ばい。ばってん、二軍監督は自分の持ち味なんか出したらいかん。一軍と二軍の意思疎通ば図る、一軍の戦力となる選手ば育てて供給する、仕事はその二つばい。自力でチームの方向性ば決めることはできん。サラリーマンで言うたら、中間管理職やろう。食卓と畑と言ったらわかりやすか。客にうまか食事ばさせるんが一軍、その食材ば作る農場が二軍。ファームて呼ばるるのはそういう意味たい」
「ちょっと待ってください。その論法だと、食材は常に二軍にありということになります。二軍経験のない選手は、どういう評価になるんですか」
「……難しか問題ばい。もともと畑で大事に育てる手間のいらん食材やったとゆうことやろうもん。一軍のフィールドで味の落ちた食材になったら、二軍の畑に植え替えてもとの味を取り戻すよう休ませちゃる。つまり、もともと病気知らずやった一軍選手が病気にかかったら、二軍で治療して一軍にお返しするちゅうこったい。ファームはそういう役割も果たしとる。ばってん、治療やリハビリするんは本来二軍の務めやない。プロ野球選手としての実力が劣っとるせいで二軍にいる選手ば鍛えて、一軍の役に立てる、そういう意味での〈食材〉を発見する場所やないといけん。もともと味のよか一軍選手はあえて丹精こめて作らんだっちゃ、ハナからごちそうばい。ま、二軍選手はごちそうの添え物たいね。そぎゃん意味の食材と思うてくれ。……太田も菱川も、もともとごちそうたい。添え物やなか」
「なるほど」
 江藤は太田たちを見つめ、
「まあ、こいつらが成長したんは、二軍の手柄やなく、金太郎さんの手柄やけどな」
 三十代の見知らぬ男がマイクの前に立ち、高い声で『グッド・ナイト・ベイビー』を歌う。
「だれですか」
 私が尋くと、菱川が、
「去年引退した法元さん。今年からスカウトをしてます。榊さんの下で働いてるんですよ」
 江藤が、
「スカウトは忙しかぞ。年間百人以上見て歩く。ほとんどホテル泊まりばい。選手よりも暇がなか」
 二人前ほどの飯櫃と赤ダシの味噌汁が出る。満腹が近いが、とにかく食っておかなければいけない。一人前をしっかり食う。最後にグレープフルーツのシャーベットが出た。胃が驚いたのか、腹具合が悪くなり、下痢をしに立った。トイレから出てくるとき、部屋に引き揚げる水原監督とフロント陣に遇った。白井は走ってきて握手し、
「天然記念物のきみを一日でも多く見ていたいというのが、われわれの切なる願いだよ。健康に気をつけてがんばってくれたまえ」
「はい、がんばります」
 村迫が、
「牡蠣にでも中(あた)ったんですか?」
「いや、すべて新鮮でした。シャーベットの冷たさに胃袋が驚いたんでしょう」
 水原監督が、小山オーナーと榊と顔を見合わせ、にっこり笑った。
「浜野くんとうまくやるんだよ。金太郎さんと正反対の人間だから、感情的なぶつかり合いもあるだろうけどね」
 榊が、
「彼は神無月さんにぞっこんですよ。そばにいるのが照れくさいんでしょう。あれはふだんの浜野じゃありません」
 まったく逆の気がした。榊への信頼が少し揺らぎかけたが、北村席での彼の振舞いを浮かべ、言葉よりも行動に注目すべきだと思い直した。小山オーナーが、
「あしたは何本かなあ。四打席四三振でもいいよ」
 ワハハハとみんな笑った。白井が、
「あしたはネット裏で観てるからね。かならずヘルメットをかぶるように。プロ一号ホームランボールは、時期を見て中日球場に飾ることに決まってるから、かならず回収するよ」
「はあ、ありがとうございます」
 ハハハと水原監督が笑い、
「何も考えていないんだね。すてきだ。じゃ、あした、球場で」
 五人、手を振ってエレベーターのほうへ去っていった。
 会場に戻ると、半数ほどの選手がすでに自室へ引き揚げ、残った者たちでテーブルを自由に移動しながらビールをつぎ合っていた。小川が、
「俺が先発、中継ぎは板ちゃん」
「監督に言われたんですか」
 板東が、
「電話、電話。あさっての第一試合の先発は小野さん、中継ぎは浜野。第二試合は決まっとらん」
 浜野の姿はなかった。八丁堀のサウナにいったと菱川が言う。小川が、
「あしたも出番があると思ってるのかもしれんなあ。板ちゃんはともかく、俺が打たれるわけがないだろう」
 板東が小川の尻にこぶしを叩きこむ。
「ワシらも風呂入って、寝るばい」
 江藤のひと声で、みんなバラバラと散会して各々の部屋へ戻っていった。


         五

 江藤といっしょに二階の一号室に入り、靴と靴下を脱ぎ捨てる。広い畳部屋だ。背広の上下を壁の衣桁に吊るし、下着一枚になる。まず、部屋に届いている用具の確認をする。ユニフォーム三着、ケースに入ったバット三本、空のダッフル、グローブ、スパイク、運動靴、帽子、タオル類、枇杷酒。あした着るユニフォームをソファに延べる。江藤もまったく同じようにする。
「参考になるばい。本能的に寸暇を惜しんどる。長嶋と王がこの一号室が相部屋で、バットを振って毎年畳をだめにするゆうんは有名な話ばい」
「ふーん、そうなんですか」
 部屋の真ん中でバットを振ってみる。窮屈な感じだ。
「やめます。背中に圧迫感がある」
「ワシもここでは集中してやれん」
 それでも二、三回振ってみる。いい風切り音だ。
「ナイス! 打球が見えます」
「サンキュー! たしかに背中が心配たいね」
 浴衣に着替え、スリッパを履いて大浴場へいく。黒御影に縁どられた、だだっ広い浴場だ。すでに高木や中や木俣たち、五、六人が、湯に浸かったり、からだを洗ったりしている。江藤が、
「金太郎さんの風切り音は、ふるえ上がるほど恐ろしかよ。中西太以上の音やと関根潤三が新聞に書いとった。百五十メートル以上を飛ばしているのはその二人きりなのもうなずける、中西は腱鞘炎で選手生命を縮めたが、神無月は二百本以上はバットを振らないと聞いたので安心している―とな」
 中が、
「バッティングばかりじゃない。金太郎さんの肩が強いことにあまり注目されないのは残念だね。これまで肩の強い選手は何人か見てきたけど、金太郎さんの肩は強烈だよ。レフトからの送球を見るだけで釘づけになる。地を這いながら上昇していく」
「肩と肘は大事にしてます。左肘で懲りてますから。筋力をきちんとつけ、使いすぎないことですね。左腕もかなり回復してきました」
「左腕が万全やったら、どうなっとったんやろうな。オソロシか」
「バットスピードは、腰やないかな。あのひねりはすごいで」
 板東が言う。小川が、
「金太郎さんの能力をあれこれ詮索してもしょうがない。授かったものだ。最大のポイントは、練習をしすぎないことだろう。金太郎さんの練習といえば、だいたいランニングと筋トレだろ? そしてその総量はだれよりも多い。ふくらはぎを見て驚いた。金太郎さん、みんなに見せてやってくれ」
 後ろを向いて、ふくらはぎに力を入れて見せる。板東が、
「うお! 運慶快慶だ。ちょっとおらんな。腕は!」
 力瘤を作る。
「かあ! 力入れんときは女なのに、入れるとこれか」
「左腕は細いです。これが手術痕です」
 江藤が、
「おお、多少細かな。力瘤も少し小さか。握力は?」
 手を差し出したので、握る。江藤は思い切り握ってくる。本気で握り返す。
「ちょちょ、ちょっと待て! たたたたあ! 金太郎さん、反則や」
 太田が飛んできて、
「やばいすよ、神無月さんの握力は。七十以上あるんですよ」
「それは右だ。左は、この一年、片手腕立てを鍛えてきたから、むかしの五十数キロは超えてるだろうけど、七十はいかないと思う。握力はバットを振り切れるだけあればいいんだ。王も長嶋も江夏も四十キロそこそこだと聞いたよ」
「ほんとですか?」
「週刊ベースボールを立ち読みした」
「金太郎さんの左は六十いくつってことね? ワシは右六十八、左は六十五あるぞ。いまの痛さはそんなものでなか。七十は確実いっとる。金太郎さん、右はすごかことになっとるぞ」
 筋肉自慢の小川が、
「どらどら、ちょっと右手で……」
 ギュッと握ってくる。弱い。少し握り返す。
「あ、こりゃだめだ。骨が砕ける。何だその握力は! 藤波トレーナーが、金太郎さんの筋肉は綿のように柔らかいと言ってたが、ハガネじゃないか」
 高木が、
「柔軟なハガネってことじゃない? 先天的なものでしょ」
 みんなで湯船に浸かる。菱川が戸を滑らせて入ってきた。江藤が股間を洗っている菱川に、
「汚かのう、おまえのからだは。ゴツゴツしよる」
 菱川が、
「神無月さんにくらべたら、みんな汚いですよ。俺は男ですから」
 中が、
「金太郎さんを女だと思ってるだろ。まあ、こっちきて、握手してみろ」
 大男の菱川はこわごわ寄ってきて、私の右手を握った。
「柔らかいですね」
 江藤が、
「ギュッと握ってみんね」
 猛烈な力だったので、私も精いっぱい握り返した。
「てててて! 勘弁、降参!」
 彼は手を離すと激しく振った。私も痺れるように感じて同じように振った。
「菱川さん、強いなあ!」
「とんでもない。そんな力で握られたら手がつぶれますよ。俺、握力七十八で、入団当時球界最高って新聞に書かれたんですよ」
「憶えとらんぞ」
「小さな記事でしたから。それより、神無月さんの握力、軽く八十ありますよ」
 湯船に入ってくる。高木が、
「王や長嶋の握力は三十キロ後半だそうだぞ。バッティングと握力は、関係なさそうだな」
 小川が、
「ピッチングとも関係ない。江夏も三十キロ台だそうだ」
 私は、
「バッティングもピッチングも、力の総合力だと思います。そうだ、江藤さん、むかし立教三羽ガラスというのがあったでしょう。長嶋、杉浦、本屋敷。その本屋敷という人はどうなったんですか」
「本屋敷は万年Bクラスの阪急に入った。ついとった。弱小チームやったから一年目からレギュラー取れて、ショートで二番を打たせてもらえたけんな。巨人や南海なら使うてもらえんかったやろう。平凡な選手には、そういう微妙な運ゆうもんが大きく関わっとうたい。せっかくついとったのに、二割五、六分しか打てん。ホームランも一本。弱小チームでも活躍できんようでは忘れられる一方ばい。強豪チームで大活躍した長嶋や杉浦と比べたら、提灯に釣鐘たい。俊足巧打―よう聞く呼ばれ方やろう。そんなふうに呼ばれとうないやろう。その調子で阪急で六年、ますます打てんようになって、阪神に出されて五年やって、今年が六年目。まあ、ベンチをぬくめるだけで引退やろな。十一年で打率は二割そこそこ、ホームランも十本ぐらいしか打っとらんいうのは、三羽ガラスは買いかぶりやったというこったい。そういう選手とスター選手でプロ野球界は成り立っとる。非情なもんたいね」
 中が、
「そうそう非情とも言えない部分があるんだよ。大スター選手といっしょにプレイした人間は連鎖的に何十年も記憶されつづけるんだ。長嶋・王と言えば高田、柴田、広岡と出てくる。山内一広と言えば田宮、榎本、葛城、小野と出てくる。金田正一と言えば根来、飯田、徳武、土屋と出てくる。中西・稲尾と言えば、豊田、高倉、和田と出てくるし、野村・杉浦と言えば、広瀬、穴吹、スタンカと連鎖的に出てくる。尾崎行雄と言えば」
 小川が、
「出てこないぞ」
 太田が、
「張本、土橋、毒島、種茂と出てきますよ。神無月郷と言えば……俺たちは何十年も記憶されます。ありがとう、神無月さん」
 板東が、
「ワシも単品でほかのチームにおったら、あっという間に忘れられてまうで。ほんま、ありがたいわ」
         †
 寝物語で私は江藤に、
「江藤さんや小川さんばかりでなく、監督もフロントも、これまでのぼくの生き方を認めてくれました。信じられない気持ちでいます」
「だれでん、ありのままの自分をさらけ出すのは怖(えず)かもんたい。理性の仮面をかぶるけんな。みんなに気に入らるう存在であろうとするけんよ。そうせんとみんなに背を向けられると思うんやろのう。エズがることが金太郎さんを傷つけるったい。ばってん、さらけ出した人間に降りかかる現実は逆ばい。恐れとることはいっこう現実にならん。金太郎さんにどんだけ女がおっても、だれも嫉妬せんけん。みんな自分を理解しとる。みんな金太郎さんの作り出したものを見とるけん。―ところで、二軍にええピッチャーがおる。星野ゆうサウスポーや。何カ月先かわからんが、いずれ長谷川コーチに頼んでバッティングピッチャーに呼ぼうと思うとる。打ったってくれ。ノーコンやが、ええストレートば投げる」
 江藤は深い理解を示した。私は指で涙をこそぎながら、その名を記憶に留めた。
「星野ですね。わかりました。あした、鏑木さんの教えてくれたコースを走りますよ」
「よしゃ。菱とタコも誘っちゃろう」
         †
 四月十二日土曜日。六時半、江藤と同時に起床。カーテンを開けると快晴の空。六・三度。二十度まで上がる気配だ。うがい、歯磨き、交代でシャワー。
 七時、世羅別館の玄関前を四人で出発。白い雲が道路の彼方に浮かんでいる。中央通りから平和大通りへ。江藤、太田、菱川を一歩先へやり、一定の距離を保って走る。みんなあごを引き、呼吸を整えながら走る。ときどき肺に負荷をかけるために追い越す。たがいにこれをやる。江藤に並びかけて訊く。
「開幕戦をどっちの本拠地でやるか、決まりがあるんですか」
「ある。前年度の上位チームの本拠地でやる。組み合わせも、一位対四位、二位対五位、三位対六位になっとる」
 広島が三位だったとわかる。
「そのあとの組み合わせがたいへんですね」
「ようわからんが、コンピューターでやることになっとるらしか」
 京橋川にかかる人道(じんどう)橋の鶴見橋に至る。西詰めを渡り、東詰めの原爆記念樹である枝垂れ柳の前に立つ。もの思おうとするが、何も浮かばない。比治山の桜と電波塔を背景に市電の姿を瞥見する。青空と雲といっしょに柳の緑を見上げて引き返す。ここまで一キロと二、三百メートル。しっとり輝く街路樹の緑の中を引き返す。菱川が、
「水の街と言っても、こうして走ってみると、広島はビルの街だなあ」
「反動的な復興のせいでしょうね」
 太田が、
「車が少ないので、空気はいいですね」
「十年、遠征先の旅館から出かけたことがなかったけん、何もかも新鮮たい」
「鏑木さんサマサマですね」
 世羅別館のそばの小さな袋町公園で、ストレッチ、片手腕立て二十回ずつ。タオルを使って左腕のシャドー、きょうは増やして五十回。腹筋、背筋、五十回。江藤があぐらをかき、
「ここは牧野公園とそっくりやのう。こぎゃんそばにあったとに一度もきたことがなかったばい」
 菱川が、
「だいたい、宿泊先で朝走るというアイデアが湧かなかったですからね」
「きょうあす走ったら、また次の機会ですね。ダッシュはグランドでやりましょう。ポール間往復をブツ切りで二度やります」
「ワシャ、片道だけ一回や。あれはキツか。金太郎さんの頻脈やらゆうの、完治したごたるな?」
「速い鼓動のまま頑丈になったんだと思います」
 ふと、このごろ止まなくなった耳鳴りも心臓が速く拍つせいだと確信した。脳味噌の音など、気にしなければ何ということもない。


         六

 太田が熱心に柔軟をつづけている。
「神無月さんの柔らかさにはなかなか追いつかない。柔らかくないと、バネもつかないだろうな」
 一人でぶつぶつ言っている。私は、
「硬いより柔らかいほうがいいぐらいに考えて、関節と腱を鍛えることを重点にしたほうがいいよ。野球はスピードと瞬発力だから」
「よくわかります。でも、神無月さんは何にしても目に見える鍛え方をしてないでしょう。だから神無月さんの技能は目標にならないんですよ。ホームランを打つためには、その技能を徹底的にまねして血肉にし、自分なりに進化させながら新しいものをつけ加えていかなくちゃいけない。目標というのはそういうものです。ところが神無月さんは目標にする取っかかりがない。研究できない。奇跡の完成品だからですよ」
 菱川が、
「俺もそう思う。模範なんてものじゃない。練習中も、試合中も、ただ見ていたいだけになる」
 江藤が、
「ワシも学習を放棄しとるところはある。ばってん、あの手首の使い方だけはいつも目を皿にして学んどるぞ。あと一年くれ」
 私は、
「バントはどういう場合に必要ですか」
「何や、やぶからぼうに。―よくあるのは、ノーアウトかワンアウトで、ランナーが一塁におって、どうしても一点ほしい場合やろう。二塁に進めて次打者に期待する。ランナー二塁なら、三塁に送って犠牲フライを期待する場合、ランナー三塁なら、スクイズになる。自分だけ一塁に出たい場合はセーフティやな。そのバッターが当たっとらん場合は積極的にやるやろな」
 私は、
「次打者も当たってなくて、進塁したランナーを返せないということはザラにありますよ。まあ、バントするにしても、いまどきの野球ではドジャース戦法とやらで、すぐにバントシフトをとられます。ピッチャー、ファースト、サードがぜんぶ前進し、セカンドが空いたファーストに入り、ショートがセカンドに入るというやつです。よほど足の速いランナーでなければ、進塁も危ういです。少なくともプロと言われるバッターなら、ヒッティングの成功に賭けるべきで、そのほうが進塁や得点の確率も高いと思います。バントが必要なのは、おととしの中さんのように、足の速い短中距離ヒッターに首位打者の可能性がある場合のセーフティバントだけです。江藤さんは二度の首位打者を獲ってるのに、一度もセーフティをしてません。足で稼ぐ必要のない強打者だからです。いずれにせよ、バントは個人の利益のためにするものであって、チームのためにジカに役立つバントなんてありません。バントなんかするから、バントシフトをとられる。チームのためにならないことをして、相手に格好いいことさせて、何の得がありますか。ファンが喜ぶわけがないでしょう」
「なるほどなあ。入団して十年、いや、野球を始めて以来、聞かされたことんなかった考えばい」
「水原監督やコーチ陣も同じ考えだと思います」
 歩いて世羅別館に帰る。玄関の外の狭い道路に報道陣とファンがたむろしていた。警備員が何人か立っている。思わず関係者専用の入口を探すが、球場じゃあるまいしそんなものがあるはずはない。仕方なく人混みに向かって進んでいく。
「キャー!」
 歓声が上がる。肩や腕を触られる。旅館の従業員たちが四人を庇うようにして中へ入れる。ファンたちが窓ガラスに貼りついて館内を覗きこむ。ほとんどの手にカメラが握られている。フロントで江藤が朝食時間について訊いた。
「午前七時以降十時までのあいだに、ご希望の時間に部屋にお持ちすることになっております。お弁当は……」
「作らんとやろ。知っとる。じゃ、三十分後に部屋のほうへ持ってきてくれんね」
「承知いたしました」
 江藤は軽く辞儀をし、階段口へ歩きだす。
「毎年のことやけんわかっとる。一応訊いてみた。昼は球場の食堂でソバでも食わんね。晩めしは部屋に注文することもできるそうやが、みんなと外へ食いに出たほうがよかろ」
「はい」
「松葉会さんは、この旅館に泊まっとらんごたるな。球場のそばのロイヤルホテルのほうかもしれん」
「球場の出入りの警護をするためですね」
 太田と菱川が好奇心に満ちた目で廊下を見渡す。太田が、
「いつか、寺田さんに会えるってことですよね」
「さあ、康男が球場の警護にくるかどうかはわからないな」
 太田と菱川が自動販売機に近づいていったので、江藤と階段を競争しながら走り昇って部屋に戻り、交代でシャワーを浴びる。汗に湿ったジャージを風呂場の紐に吊るし、下着をビニール袋に入れ、北村から荷物で送ってよこした大きなボストンバッグに詰める。いっしょに届いていたダッフルの中身を確かめる。遠征先ではこれから何年もこの作業をすることになる。
 三十代と二十代の小ぎれいな女中二人が、盆を捧げて入ってきた。話しかけられたくないので、私は窓辺の椅子に退避した。江藤が気さくに応対する。
「きれいやのう。ミス世羅、何代目と何代目ね?」
 歯の浮きそうな世辞にイヤミがない。
「まさか、世羅の従業員はみんな並ですよ。お客さんの気を惑わさないように、美人は面接ではねられるんです」
 やはりイヤミのない軽口で返す。
「冗談やろう。巨人さんも毎年ここを使うとね」
 あえて訊く。
「はい、この部屋に長嶋さんと王さんがお泊りになります」
「ほうね。金太郎さんと組まされんかったら、こげな豪華な部屋には泊まれんかったわけやのう。去年までワシは三階の一号室やったけん」
 三十代のほうが上品な手つきで支度をしながら、
「三階のお部屋はみな、このお部屋と同じ造りなんですが、テレビ、冷蔵庫、飾りつけなどの備品が最小限にしてあります。選手の気が散らないようにと、巨人さん中日さんからのお達しなんです。この部屋は巨人さんと中日さんの特別室です。昭和四十年以前は監督さんがお一人でお泊りになることになってました」
「そんな決まり、長嶋や王や金太郎さんにかかったらひとたまりもなかったわけや。今回水原監督は四階やろ?」
「はい、四階のお一人部屋です」
「長嶋と王は、よう部屋で素振りすっとか」
「はい。いらっしゃるたびにお部屋の畳をボロボロにしてしまうので、東京にお帰りになったあとはかならず畳替えです」
「ワシらはバット振らんけん、心配せんでよか」
「そうですか? どうぞご遠慮なく振ってください」
 女二人でおさんどんする。鮭の切り身、冷奴、板海苔、高菜漬け、スクランブルエッグとポテトサラダ、もずく、なめこの味噌汁。九時少し前だ。ドンブリ二膳食っておく。
「球場の昼のソバは、あわただしくて食えないかもしれませんよ」
「それでも食っといたほうがよかよ。うどん一杯でよかけん。まるっきりからだん動きがちがうけん」
「わかりました」
 二十代の女が、
「お二人を見てると、美女と野獣ですね。アラ、ごめんなさい」
「かまわん。金太郎さんは女と言うたっちゃよかくらい美しかけんな。恥ずかしゅうて、じっと見てられんやろ」
「はい、うちの従業員はみんなこっそり見てます」
「サインもらわんば」
「従業員は選手に迷惑をかけてはいけないことになってます。プロ野球チームがお泊まりになるときは、球団と関係ないお客さまの入館もお断りしてます」
 一般客の姿が見えない理由がわかった。
「ああ、食った。さ、金太郎さん、着替えるぞ。〈お守り〉忘れんなや」
「はい。その前に、ウンコ」
 女中たちが笑った。
 ふつうの快便。尻シャワー。枇杷酒でもう一度うがい。ユニフォームと帽子装着。ダッフルにタオル類を下敷きにして、スパイク、グローブ、眼鏡ケースを詰め、バットケースに久保田バットを二本収める。運動靴を履く。ヘルメットは業者の手で球場に届いている。
         †
 十一時半。玄関前の人混みを〈突破〉の勢いで抜け、館脇に停まっている中型バス二台に乗りこむ。博多とちがって、ガイドは乗っていない。監督・コーチ陣が前方の席を占める。あとのレギュラーたちはめいめい勝手に座る。もう一台のバスには、投手陣と控え選手、それからトレーナー、マネージャーたちが乗った。徳武や葛城、千原、伊藤竜彦、江藤省三などは、常に会合には出ているのだが、あまり顔を合わせない選手になってしまった。二軍などは、顔を合わせないどころではなく、意識の圏外にある。
 プロ野球という世界はけっして分業共同体ではない。一芸に秀でた個々の才人を寄せ集めた閉鎖的な部落だ。部落から弾き出されたメンバーは不適格住人と見なされ、隔離される。才能の格差の認識は簡単に取り払えない習いだと思うけれども、彼らをプロ不適格者と見なす偏見には慣れることができない。たとえ小規模な才能の範囲内でも、いったんプロ適格者と認められた以上は、まれに目覚ましい飛躍があり得るからだ。
 大きな通りや小さな通りを曲がりながら進み、やがて市電道に出る。八丁堀、立町、紙屋町。ビル街を十分も走らないうちに広島球場に到着する。球場の目の前を美しい市電が走っている。
 正面ゲートの入場券売場付近の路上から両翼にものすごい人群れが伸びている。危険を顧みず、動くバスに寄ってきて車体を叩く。
「神無月!」
「江藤!」
「中!」
「高木!」
 ほぼ全員の名が呼ばれ、半田! というものまである。森下コーチが、
「寝袋で徹夜組が千五百人やったそうだ」
 長谷川コーチが、
「開幕戦はいつもそうですよ。開幕戦以外の巨人戦もね」
 レフト側奥の関係者用駐車場にゆっくり入っていく。人混みが途絶える。バスを降り、潅木の繁みの前の鉄扉から監督についてぞろぞろ入る。鉄扉の脇に、見覚えのない紺スーツが二人いた。時田本人の顔はない。たぶん彼の配下だろう。私に軽く会釈をした。試合が終われば、この狭い空間を嗅ぎつけた人びとが詰め寄せる。私は二人の男に声をかけた。
「ごくろうさま。試合は観られないの?」
「は、適当に」
「入場券は?」
「は、いただいております。どうぞ、先を急いでください」
 深く頭を下げる。みんな承知顔で、私たちの会話を黙殺している。回廊を通って、屋内ピッチング練習場を視界によぎらせ、三塁側ブルペン裏の広いロッカールームに入る。いま視界をよぎったばかりの板東と浜野の残像が目にある。板東のボールが走っていた。小川や木俣が、筋骨隆々のからだを剥き出しにする。ほとんどの選手はロッカールームで着替える。ユニフォーム姿で帰りのバスに乗って宿舎へ直行する気がないからだ。あしたの試合は午後二時からなので、特に社交好きな選手は、夜の街へ繰り出そうという下心がある。江藤が彼らに声をかける。
「めしを食いにいくならよかが、せめてこの二日間は、遊びは控えれや」
「オース!」
 私は腕時計を外して小棚に置き、運動靴をスパイクに履き替え、ベンチに持ちこむ二本のバットをケースから取り出して手にとる。握って感触を確かめた。お守りを入れた尻ポケットに、五年余りでしなやかさを増したグローブを押しこむ。空のロッカーにダッフルバッグと一本のバットを立てる。
 マネージャー、トレーナー、スコアラーを連れて、水原監督が入ってきた。ベンチ登録選手二十数名が背筋を伸ばす。
「全員きてますか? きてますね、よし、ごくろうさん。いま広島のバッティング練習の最中です。うちは一時からです。スピードがあってコントロールもいい若生くんに投げてもらう。一時間早い開場になりました。もう八割がた入っています。一時になったら、金太郎さんから始めて、ここにいるバッター全員、二、三本ずつぶちかましてやってください。一枝くんも高木くんも、ホームランを打ってください。一本打つまではベンチに下がらないように」
「ふじゃ、じゃじゃぁ……」
 得体の知れない返事。
「では開幕に先立っての儀式。いままでは握手だけだったようですが、今年からは趣向を変え、激励の意味も兼ねて、熱い抱擁を適宜採り入れます。そのあと握手、ガッチリと握手する。まずロッカールームで実践。お願いします!」
「おあ、ふじゃじゃじゃ……」
 半田コーチが、
「グッドアイデアね。監督、ギュッといきましょ」
 半田コーチは率先して監督と抱き合い、握手する。次々と同じようにしていく。みんな照れくさそうだ。江藤は目を潤ませ、小さい水原監督を抱き締める。私は押し寄せてくる涙をこらえながら、
「がんばります」
 と小声で言った。水原監督も、
「頼んだよ」
 とふるえる声で呟いた。



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