七

 円陣を組む。田宮コーチが、
「金太郎さん、代表でカツいけ!」
「はい!」
 青森高校を思い出してドスを効かせた。
「ええええ、イグゼ、イグゼ、イグゼ!」
「オオー!」
 スパイクの紐を締め直してベンチに入る。バットボックスとヘルメットの位置を確認する。蜂の巣に差しこみ、ヘルメットを撫でる。腰を下ろし、広島のバッティング練習に目を凝らす。山内と今津が当たっている。衣笠と山本浩司はさっぱりだ。苑田と山本一義はポチポチ。去年阪神からきた朝井という男もまあまあだ。総じて貧打。午後一時、広島のバッティング練習終了。
「よし、いこ!」
 みずから声を発しながら、バットを握ってグランドへ跳ね出る。ワッと大歓声が上がる。二万四千五百人で満員になるスタンドにもうほとんど空きがない。バッティングケージに入る。監督・コーチ以下、レギュラーたちがケージの背後に陣取る。吉沢捕手に一礼。丁寧に礼を返される。
 内野スタンドの奇妙な形に気づく。バックネットからポールまで、外野スタンドの二倍の高さがある。それでいて一層しかないのだ。バックネット席を除いて内外野の座席はすべて木製のようだ。三塁側スタンドの向こうに、原爆ドームが見える。レフトスタンド上方に、陽射しよけのスライド看板。北村の主人の写真帖で見て真正面と思っていたスコアボードが、中日球場のように右にずれている。シチズンの広告時計が一時二十分を指している。
 球場の外壁から落下地点までは、常に三十メートルを足し算する。百二十メートルでライトの看板に達するので、百五十メートルで右中間場外、百七十二、三メートルでセンター場外。目測に誤りはない。
「若生さん、膝もと、真ん中、外角と、低目を三球つづけてください!」
「オッケー!」
 広島チームがケージの後ろに飛んでくる。衣笠、山本浩司、興津が水原監督と江藤の背後に立つ。山内一広は怖い顔をしてベンチから出てこなかった。一球目、膝もとにスピードボール。掬い上げる。きょう最初の手応え。よし。ライナーでライト場外。江藤が、
「よっしゃ、一本!」
「ウッホー!」
 衣笠が泣き笑いのような顔をする。フラッシュが球場じゅうで瞬く。二球目、真ん中低目スピードボール。腰を入れて掬う。右中間、照明灯の右横をライナーで抜ける場外。
「よっしゃ、二本!」
「すごすぎる……」
 衣笠と山本が青い顔をしている。巨漢の興津は目をひん剥いていた。彼がかなり美男子なのに気づく。三球目、外角低目のスピードボール。踏みこみ、両腕をしっかり伸ばして絞りこむ。スコアボードのわずか左を越えていく場外。バックスクリーンの真上だった。水原監督が、ホホホと女のように笑った。三塁側の味方ベンチから盛大な拍手が上がり、内外野のスタンドに怒号のような歓声が満ちた。私は尻ポケットからグローブを出し、
「レフトから見てますからね!」
 と江藤に声をかけて守備位置へ走った。江藤は初球をレフトスタンドの中段へ放りこんで、ファーストの守備についた。中は三球目を右中間の最前列へ打ちこんだ。一枝は六球目をレフトポール際へ巻き落とし、高木はあのレベルスイングで初球を左中間前段へ突き刺した。太田、菱川、千原、江島とつづき、それぞれ三球目までにホームランを打った。徳武はバックスクリーンに打ち当て、葛城はスライド看板の裾に打ち当てた。私に飛んできた打球は島谷のレフトゴロだけだった。彼も左中間の深いところに打ちこんだ。
 ホームランショーが終わると、二時を回っている。カープの守備練習。江藤が、
「金太郎さん、ソバ食うぞ!」
「はい!」
 みんなでドッとロッカールームへいき、カープうどんを食う。室内に狭苦しい選手食堂があるので、火を使う温もりがきて暑い。高木が、
「夏はここでめし食うのたいへんだぞ。扇風機もないし」
 うどんのトッピングは、肉か天ぷらかキツネ。私は天ぷら。菱川と太田は、うどんのほかに肉の串焼きも食っていた。
 二時十五分。ドヤドヤと守備練習に戻る。開幕初戦。愉快だ。
「ダッシュします」
「オッケー、ワシは片道」
 センターにぽつんと立っている鏑木に手を振る。こちらに気づいて、首にぶら下げた笛をピッと鳴らした。ダッシュ。両ポール間百八十メートルを全力でいく。途中から中が加わる。百メートルを越えたあたりで足がドタドタになるが、走り切る。江藤がゆっくりやってくる。
「ワシャ、七十メートルであごが上がる。ぼちぼちやらんと、どっか傷めてしまうかもしれん」
「ぼくも、全力で二往復したら、肉離れを起こしかねません。これからはゆっくり一往復にします」
 中とレフトポールまでジョギングで戻っていく。とつぜん鏑木の前から中がダッシュする。私も合わせる。
「やっぱりヘバッてないね」
「でも、連続ダッシュはきついです。巨人は百メートルを五本やると聞いてますが、効果ゼロだと思います。筋肉や肺は持続的にコツコツ鍛えないと」
「そのとおりだよ」
 鏑木の周囲に三、四人寄り集って、五十メートルダッシュをやりはじめた。笛の音が間歇的に聞こえる。外野の守備練習三本ずつ。セカンド返球二本、バックホーム一本。あとはもっぱら内野の守備練習になる。外野は球拾い。足もとがフワフワしだした。観客席を見つめても焦点が合わない。何も目に映らないまま、刻々と開幕戦の試合開始時間が迫ってくる。
 二時半、ベンチに戻って中列の端に座る。中が、
「金太郎さん、初回の席順は、一列目左から打順どおりと決まってるんだ。球界の習慣でね」
「そうなんですか!」
 みんないっせいに笑う。
「オープン戦のときから黙ってたけど、そうなんだよ。一列目には先発選手、二列目は控え選手。打席をこなすごとに、右端に座る。引っこめられたら、二列目に座る。引っこめられた選手の代わりの選手が、二列目から一列目に移動する。三列目はコーチたちが立ったり座ったりする場所なんだ。でも私は金太郎さんみたいに自由でいいと思うな」
 江藤が、
「よかよか! 一列は十二人座れることになっとる。二列目までに適当に座ってとればよか」
 トンボ係が内野グランドを均す。ライトスタンド、レフトスタンドでカープの大きな応援旗がいくつも振られる。笛の音、太鼓の音。この球場では左右の外野スタンドが広島ファンで埋まるようだ。ビジターチームの応援団は、ポール際と三塁側内野スタンドに追いやられている。私は目をいっぱいに見開き、見るものすべてがめずらしいグランドとスタンドの光景を記憶のフィルムに焼きつける。ベンチを見回すと、どの顔にも、いよいよ始まったという気負いが感じられる。
 とつぜん何の愛想もないバッテリー発表が始まる。そのシナのない発声に、かえって緊張感が高まる。
「中日ドラゴンズのバッテリーは、小川、木俣、広島東洋カープは、安仁屋、久保でございます。先攻の中日ドラゴンズのスターティングオーダー、並びに審判員を発表いたします。一番、センター中、センター中、背番号3。二番、ショート島谷、ショート島谷、背番号30。三番、ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9。四番、レフト神無月、レフト神無月、背番号8……」
 ボッと発火するような喚声。五番以降は、高木、木俣、江島、太田、小川だった。小川はブルペンへ、スタメンはベンチの一列目に移動した。広島は、一番セカンド苑田、二番ショート今津、三番レフト山内、四番ライト山本一義、五番ファースト衣笠、六番センター山本浩司、七番サード朝井、八番キャッチャー久保、九番ピッチャー安仁屋。
 主審大里。巨人贔屓で有名な男だと聞いている。つまらないデマだろう。一塁塁審久保山、二塁竹元、三塁山本。レフト線審谷村、ライトは岡田、彼も巨人贔屓で名が通っている。私はそういったすべてをデマとして聞き流す。あしたのダブルヘッダーはネット裏にいる控え審判員がどこかに入り、彼らの中のだれかが控えに回る。
 バックネットの前で球審を仲立ちにしてメンバー表が交換される。開幕戦なので、セレモニーが行なわれた。地元の高校の合唱部がバックスクリーンの上に現れた。人が乗れるほどの幅があるとは知らなかった。二葉あき子のフランチェスカの鐘が流れる。暗い色調の女学生のソロ。胸にくる。作曲はあの古関祐而だ。宇野ヘッドコーチが、
「ああ、なつかしい」
 と呟いた。水原、根本両監督に着物姿の女が花束贈呈。カープの選手が守備に散る。控え審判員に付き添われて山田節男という広島市長の始球式になった。フラッシュが散発的に光る。これも目に焼きつける。中が打席に立ち、ツーバウンドのボールを真剣なスイングで空振りする。スタンドのまばらな拍手。そんなのどうでもいいから早くやれということだ。市長が控え審判員とともに去ると、安仁屋の投球練習が始まった。中日ベンチがじっと見入っているのに気づいて、ストレートしか投げなかった。

 水原監督がベルトのバックルに手を添えながら、三塁コーチャーズボックスへ歩いていく。正三時。試合開始。
「プレイー!」
 大里の甲高い声が空に上がる。軽騎兵序曲。昭和四十四年四月十二日土曜日。気温二十一・二度。微風。私のプロ野球公式戦初試合。千年小学校の校庭から十年。プロ野球選手としていま私はここにいる。ふるえるほどの感激が胸に迫る。
 背番号3の中がバッターボックスに入る。島谷はネクストバッターズサークルへ。中は並行スタンスで姿勢を低くする。初球、サイドスローからさりげなく外角シュート、見逃し、ストライク。キャッチャーの捕球音がオープン戦よりもするどく、そして重く聞こえる。かつて記憶したプロ野球の音だ。三塁側スタンドから木の板を打ち鳴らす音が聞こえてきた。左隣の高木に、
「あれは?」
「しゃもじ。宮島の名産品。勝ち勝ち(カチカチ)のゲン担ぎだね。広島の中日フアンは貴重だよ」
 二球目、外角低目、ストライクゾーンに落ちるシュート、三塁線にファール。打球の音までオープン戦とちがう感じがする。安仁屋がボールをしごいている。もう一球同じコースに投げれば、確実に中の餌食になる。
「二塁打か? 三塁打か?」
 木俣の声。わかっているのだ。三球目、やはり低目のシュート。左手を離し、右手一本で叩く。ゴツ! という音。あっという間に三塁線を抜けていった。ホーバークラフト! 山内のワンバウンドの返球。中は自重して二塁で止まった。
「イエ!」
「ヤ!」
「ヨーオ、ホホホイ!」
 胴長の島谷がバッターボックスに入る。江藤はネクストバッターズサークルへ。太田が、
「島谷さん、進塁打、進塁打!」
 私は太田を睨みつけた。太田はとっさにうなだれ、
「すみません。高校野球時代の癖が出ちゃいました」
「ぼくたちはプロだ。狙うのは常に打点だ。ここは進塁打じゃない。ヒットで一点か、ホームランで二点だ。島谷さん、ホームラン!」
 声をかけたとたんに、島谷は外角のスライダーを叩いた。ライナーで右中間を抜けていく。三塁側スタンドからドーと歓声が上がる。中が生還して一点。島谷はスタンディングダブル。水原監督が頭上で手を叩いている。太田が涙ぐみ、
「これがプロですね」
「そうだよ、おまえ、いつもホームランを狙え。凡ゴロを打っても悔いがないようにするんだ」
「はい!」
 江藤が打席に入った。
「さ、慎ちゃん! いこ!」
「ゴゴゴ、ゴー!」
 背番号9が森徹の7に重なった。ネクストバッターズサークルに向かわずに、ベンチの鉄棒をつかんで身を乗り出す。初球、高目の直球、バックネットへファールチップ。タイミングはピッタリだ。ここから先はすべて変化球になる。外角のスライダーがつづけて二球きた。二球とも一塁スタンドへファール。すべて振る。すばらしい! 次は百パーセント、食いこんでくるシュートだ。ホームランか凡ゴロか。シュートが胸もと高目にきた。ふつうのスタンスで振ればバットが折れる。江藤はしっかりと左足を引き、芯を食わせてレベルに打ち下ろした。
「よし、いった!」
 太田が、
「切れるか!」
 ベンチじゅうが、
「切れない!」
「切れない!」
 根本監督が一塁ベンチ横に出てきて、ギョロ目を悲しげに瞬かせた。水原監督が両手を腰にポールを眺めやる。最後に首を少し左に傾けた。線審の谷村が大きく白手袋を回した。ファンファーレが鳴りわたる。江藤が肩を怒らせ黙々と走る。水原監督とタッチ、すぐさま抱擁。
「抱擁第一号!」
 高木が叫んだ。ベンチの連中が走り出る。私はだれよりも早くホームベースに出迎え、握手する。乾いたアナウンス。
「江藤選手、今シーズン第一号のホームランでございます」
「金太郎さん、すまん。今季のドラゴンズ一号いただいてしまったばい」
「だれが一番目でもかまいません。ナイステクニック! ナイスホームランでした!」
「サンキュー!」
 江藤がみんなの手でベンチに押されていく。三対ゼロ。


         八

「四番、レフト神無月、背番号8」
 三塁側スタンドから期待の歓声が上がった。ヘルメットをしっかりかぶり、大里の背中を回ってボックスに立つ。フラッシュの光がしばらく瞬いて止む。喚声も消えた。オープン戦ではふるえなかった膝がかすかにふるえている。
 ―初球のシュートをレフトへ。
 ボックスの前部に進み出、平行スタンスに構える。内、外、どちらの変化球も投げてみたい気持ちにさせるためだ。チラッと久保のミットを見やる。外に構えている。まちがいなくシュートだ。安仁屋が腕を振った瞬間、外角でないとわかった。
「危ない!」
 菱川の甲高い声が耳に聞こえたとたん、高目のスライダーがあごを目指して曲がってきた。反り返って後ろへ倒れこむとき、ヘルメットが飛んだ。
「この野郎、ぶち殺すぞ!」
 江藤の怒声とともに何人かが走り寄る足音が聞こえた。私は立ち上がって尻をはたいた。まったく驚かなかった。
 ―それにしても、この不快さは何だ。
 危険球なぞ、暴力と言えるほどのものではないと私は思っている。しかし、不快さがたぎる。
「だいじょうぶです! だいじょうぶ!」
 マウンドへ駆け寄っていこうとする江藤やコーチや選手たちを手で止めた。水原監督もアンパイアのところまできていた。わなわなと唇がふるえている。
「大里くん、予想できたことが起こった場合、それなりの対策を講じるべきだろう。安仁屋くんはコントロールのいいピッチャーだ。こんなことが起こるはずがないよね。ビンボールは予測できたことだ。それなりの対策をとったらどうだ! きみの立場もつらいものがあるだろう。神無月くんを贔屓してると取られたらたいへんだものね。しかし、贔屓したまえ! クニの宝だからね。もう一球同じところにきたら、退場だよ!」
「は、わかりました―」
 アンパイアがこんな対応をとることは十中八九ない。判定に関しては審判の判定は最終的なものなので、抗議したら退場になる。これは判定に対する抗議ではないが、態度に対する苦情だ。水原監督の印象は悪くなる。監督はじめ一同駆け足で引き揚げた。キャッチャーの久保が小さい声で、
「すまんかったな、ぶつける気はなかったんやで」
「だいじょうぶですよ。デッドボールにならなくてよかったです」
 バッターボックスに入り直すと、幸いなことに膝のふるえが止んでいる。
「プレイ!」
 大里が右手を挙げた。二球目、力のないカーブがベース上で弾んだ。くさいところを突きながら、敬遠をする作戦に切り替えたようだ。私をフォアボールで出し、高木でゲッツーを取るつもりだろう。次は自信のあるシュートを外角の低目へ外してくるだろう。しかしボール一つ外したくらいでは危ない。私が振る気にならないようにボール二つ外してくる。中さんの打ち方ならどうにかなる、と考えた。踏み出した足がバッターボックスの白線を少しでも踏んでいるかぎりは、反則とは見なされない。何度も頭に叩きこんだことだ。思い切り踏みこもう。
 三球目、案の定、外角低目のシュート。中の片手打ちを意識しながら、しっかり踏みこみ、左掌を押し出すように曲がりハナを叩く。捉えた。
 ―真芯か?
 左中間の二塁打と見て、猛スピードで走り出す。川崎球場のあの声が一塁コーチズボックスから聞こえた。
「ロケット、ロケット!」
 レフトの山内と線審の谷村が打球の行方を見送っている。加速度をつけて伸びていったボールは、照明灯の鉄脚に当たってスタンドに跳ね返った。一瞬異様な静寂が球場を包んだ。何秒か遅れて、ウオオオー! という喚声に変わった。ファンファーレ、フラッシュの嵐、拍手、重なり合ううなり声。セカンドベースで疾走をゆるめ、観客の歓呼に笑顔で応えながらふつうのスピードで走りだす。水原監督とハイタッチ。そして抱擁。
「金太郎さん、歴史の始まりだよ!」
 と尻を叩かれる。太田や菱川が三塁の走塁ゾーンまでやってきて抱きつく。ネット裏の小山オーナーと白井社主にピースサインを出し、テレビカメラに向かってもピースサインを出した。その私を仲間たちが揉みくちゃにした。木俣が、
「中日球場と同じところへブチ当てたぜ。みごとじゃ、褒めてつかわす!」
 シーズン一本目のアベックホームラン。四対ゼロ。ワンアウトも取れずに、安仁屋は大石弥太郎に交代した。顔の長いタコ踊りの大石はオープン戦でも、一人目の外木場に代わって出てきた。スピードがある。太田が、
「こいつ、俺と同じ大分出身です。昭和三十五年の佐伯鶴城(さいきかくじょう)時代に完全試合やってるんですよ。阪急にいって、二軍でタイトル総なめしたのに一軍でいまいちで、例の〈大石交換〉で広島にきたんです。俺が名古屋から大分に転校したときには、相当な有名人でした」
「一軍でいまいちって?」
「五年間で一勝しか挙げてません」
「それでよく二十勝投手の大石清と交換トレードで採ってもらえたね」
「速球に見どころがあったんでしょう。長谷川監督に出会って、スピードを褒められて開眼ですよ。思い切っていけば打たれない、のひとことだったそうです」
 高木がその思い切って投げこんできたストレートを情け容赦なく、一塁線に三塁打を放った。木俣初球高目のストレートに詰まってサードフライ。江島がツーナッシングからセンター犠牲フライで高木を返し、五点目。太田内角低目ストレート見逃しストライク、二球目同じコース空振り、三球目真ん中高目ファールチップで三振。
 一回の裏、広島がさっそく反撃を開始した。苑田、小川の初球のカーブを叩いてレフト前ヒット。今津、ワンツーから同じくカーブを叩いてライト前ヒット。山内、ノーツーから外角ストレートを右中間へ二塁打。三連打で一点。ノーアウト二塁、三塁から山本一義が内角スライダーをライト前へ痛烈なヒット。二点追加して三点。怒涛の四連打。一塁側内外野スタンドのしゃもじの合奏。旗が何本も打ち振られる。
 小川の目が醒める。衣笠カーブ、カーブ、ストレートで三球三振。山本浩司、ツーワンからストレートに詰まってセンターフライ。朝井、初球のシンカーをセンター前ヒット。久保ノースリーから三球つづけてストレートを見逃し三振。五対三。派手な攻撃のわりにホームランが出ないので効率が悪い。小川はケロリとしていて、
「愛嬌、愛嬌、三点ぐらいくれてやらないと、臍曲げられる」
 板東が、
「ブルペンへチョロチョロ出ていくの控えたで。健太郎の気が散るからな」
「サンキュー」
 二回の表、小川がレフトオーバーの二塁打で出た。中、内角のシュートで三振。島谷ツースリーから三振。大石はほとんど直球しか投げてこない。江藤、センター前へ詰まったヒット。小川帰って六点。私は金太郎コールの中で、ノーツーからオープン戦とまったく同じ真ん中高めのカーブをライト中段へライナーのツーランホームラン。八点目。高木三塁強襲の内野安打。木俣、初球の外角ストレートを一、二の、三で右中間二塁打。高木長駆帰って九点。太田二球足もとのファールのあとセカンドフライ。当たっていない。
 二回裏、二打席凡退の太田は一枝に代えられた。ショートの島谷がサードに入る。太田はさばさばした顔で、二列目に陣取った。カチカチの音がやかましくなる。大石三振。苑田フォアボール。今津レフト前ヒット。ワンアウト一、二塁。
 バッター山内。小川が私に向かってグローブを振った。シュート打ちの名人にシュートを試す、という意味だとすぐわかった。ホームランを打たれるかもしれないという警戒信号だ。打たれても、九対六。どうしても、きょうのシュートの威力を試してみたいのだろう。この心意気があるからこそ、小川というピッチャーはドラゴンズを背負ってこれたのだ。私は守備位置を塀ぎわまで下げた。いざとなれば塀を駆け上がるつもりだ。
 初球、人を食ったようなスローカーブ。ボール。山内はサッとバットを引き、バッターボックスを外した。次はシュートだ。山内にもわかっている。猫背に構える。小川のシュートは高速で有名だ。二球目、内角低目にシュートが曲がる軌道がはっきり見えた。見逃し、ストライク。打ってもらわないとどうにもならない。三球目、打ってもらうためのシュートが腰のあたりに食いこんでいった。バット一閃。彼のいつもの軌道で高く舞い上がる。一塁側の内外野スタンドのどよめき。私はその場にたたずんで軌道を見定めようとした。最前列に落ちるとわかった。捕れるかどうかわからないが、私は二、三歩前進してから勢いをつけ、塀によじ登って金網の向こうへグローブを差し出した。みごとにボールがグローブの先に収まった。カープファンの失望の叫び。谷村が右手を高々と上げてアウトのコールをする。苑田タッチアップ、三塁へ。体勢が崩れているので三塁送球は間に合わない。サードの島谷にワンバウンドで返す。小川とショートの一枝がグローブを叩いて私を称賛している。ツーアウト一塁、三塁。バッターは四番山本一義。小川、ビュンビュン速球。ツーツーから三振。九対三のまま。ベンチへ走り戻ると太田コーチが、
「ほい記念品。第一号ホームランのボール。球団のほうにいただくよ」
「はい。このボールをキャッチした人は?」
「二十代の青年。交換に記念ボールをあげるからだいじょうぶ。はい、こっちのボールにサインして」
 新品の硬球にサインする。太田コーチは廊下で待機していた場内係員に手渡した。私はベンチ奥の籠に蓄えてあるニューボールを一個つまみ上げ、《プロ第一号・悪友久遠・康男へ・郷》と書いた。太田が、
「寺田さんにあげるんですね」
「そう、あいつはぼくが小学校のときに打った軟式のホームランボールを、いまも大切に持ってるんだ」
 三回表、小川見逃し三振。中、一、二塁間ヒット。すかさず盗塁。島谷、浅いセンターフライ。江藤、三塁ベースに打球が当たる内野安打。中、三塁へ滑りこんで、ツーアウト一、三塁。金太郎コールが立ち昇る。ドラゴンズの応援旗が激しく打ち振られる。
 ここでピッチャー、左の白石に交代。妙に威圧感のある大顔の眼鏡おやじ。外角低目のスライダーをスコアボードへ打ち当てた記憶が甦る。ふつうのスピードでふつうに変化する。こういうピッチャーがいちばん打ちにくい。初球、内角低目のシュートを打ちにいって、ファーストゴロに倒れた。スリーアウト。この先白石を苦手にしそうな予感がよぎる。不思議なことに、私が凡退したとたん広島ベンチから、
「アー……」
 というさびしげなため息が漏れた。彼らも私に打ってほしいのだ。それは利益の競合を越えた心からのホームラン願望だった。
 この軟投の白石が、四、五、六回と好投し、九者連続で凡打に抑えた。九人目の私はまたスライダーを引っかけてファーストライナーだった。このときも広島ベンチは不安そうに沈黙していた。小川もその後を三人、五人、四人で切って取り、六回の裏まで両軍0が並んだ。レフト上段から西日が射してきた。広告つきのボードがスライドして遮る。ライト後方には広島城が、三塁側スタンド後方には原爆ドームが見える。
 守備位置からベンチに戻った私は、ユニフォームのベルトを締め直し、スパイクの紐の緩みをきつくした。ロッカールームに戻ってバットを新しくする。千原陽三郎が鏡の前でバットを振っていた。
 七回表、ようやく高木が白石を捉えた。内角スライダーを叩きつけて三塁線を抜く二塁打。そしてスラッガー木俣がついに第一号ホームランをレフト中段へ打ちこんだ。ファンファーレが高々と鳴り響く。木俣は飛び上がって水原監督とハイタッチする。抱擁なし。忘れたのだ。十一点。半田コーチが足踏みしてはしゃいでいる。田宮コーチがいつもと同じ科白を叫ぶ。
「二十点いくか!」
 オープン戦では広島から十五点むしり取って勝っている。つづく江島ライト前ヒット。太田の代わりに入った一枝が三遊間の深いところへ内野安打。小川の代打に千原がベンチ裏から出てくる。二十六歳、六年目。投手として入団してバッターへ転向。去年、狂い咲きのように十四本のホームランを打った。ボックスの前で素振り。バットが波打つダウンスイング。ワンワンからの三球目、やや外角高目のカーブを引っ張って、打球の強すぎる右中間へのシングルヒット。歯がゆい。バットを波打たせずに素直にレベルスイングをしていれば、バックスクリーンオーバーのホームランだった。江島ホームをつけず、無死満塁。板東がブルペンへのっそり歩いていった。勝ち戦の処理だ。
「中さん、満塁ホームラン!」
「プレッシャーかけないでよ。一人か二人は還す」
 約束どおり、中は初球を右中間浅いところへ落として、二人を返した。十三点。ノーアウト一塁、三塁。島谷はここまで二塁打、三振、センターフライ、レフトフライ。代えられるかと思ったら、そのまま出た。当たりそこねのサードゴロだった。島谷一塁アウト。三塁の千原動けず。中二塁へ。ワンアウト二、三塁。森下コーチが、
「葛城、この裏から二番サードに入ってくれ」
「ほい」
 江藤、シュートを引っかけてボテボテのセカンドゴロ。千原ホームをついてアウト。ツーアウト一塁、三塁。白石は内角低目のスライダーで私を二打席連続で仕留めている。ここで打たないと私は一年間彼のお得意さんになる。キャッチャーの久保がマウンドへ走った。塁が一つ空いている。白石は頑なに首を横に振った。打ち取る自信があるのだ。久保がベンチの根本監督を振り返る。根本も頑なに一塁を指差した。白石は口惜しがってプレートを蹴った。険悪な雰囲気だ。白石は久保に肩を叩かれ、渋々敬遠を承知した。私は彼の気持ちを信用できなかったので、ボックスでしっかり構えた。
 初球。なんと白石はセットポジションではなく、ワインドアップで投げてきた。外角高目へ外す。ボール。バットが届かないほど遠くではない。未練がましい。久保が、
「コラァ!」
 とフィールドに聞こえるほどの大声で怒鳴りつけた。根本監督がマウンドへ走っていき、白石からボールを奪った。これはミスだ。きょうの私を相手にするかぎり、白石に続投させるべきだ。


         九

 ピッチャー大羽が告げられる。彼の名前は知っていた。王の五打席連続ホームランを阻止し、五試合連続のホームランも阻止した男。両手を大きく広げるフラミンゴ投法で有名だ。格好などどうでもいい。球威があるかどうかだ。ない。白石よりない。その白石はグローブをベンチの椅子に投げつけ、奥の通路にサッサと姿を消した。
 ボールワンから始まる。金太郎コールが盛り上がる。
「金太郎!」
「ホームラン!」
「金太郎さん!」
「場外ホームラン!」
 初球、外角遠く外す。王キラーの大羽は私を抑えるために出てきたのではなさそうだ。この二人だけは返しておきたいと思った。左右中間の二塁打か三塁打。ネクストバッターズサークルの高木を振り返って、流し打ちのバッティングポーズを示した。好きにしろというふうに笑ってうなずいた。二球目、外角高目へ外すゆるい球。私はバットを手から離して投げ出した。コンと当たり、サードの頭をフラフラと越えた。フェアグランドで弾みファールグランドへ転がっていく。サード、ショートと、深い守備から前進してきたレフトが三人で追いかける。その間に二者生還した。十五点。
 私は二塁ベース上からスタンドを見回した。観客は大喜びしていた。ホッとした。ツーアウト二塁。高木、内角低目のカーブを掬い上げて深いレフトフライ。チェンジ。試合の大勢が決したと見て、ネット裏の記者たちがあわただしくいききしはじめた。
 カチ、カチ、カチ、カチ、しゃもじの合奏。満員のライトスタンドから大喚声が上がり、大旗小旗が打ち振られる。
 七回裏、小川に代わって板東登板。五番衣笠が打席に入った。十五対三。七、八、九三回で十二点を返すのはまず不可能だ。しかし、坂東のボールが投球練習場の印象とちがって、明らかに小川より伸びがない。衣笠の初球、火の出るようなゴロが私の前に飛んできた。腰を落として捕球する。六番山本浩司は、ワンスリーからフォアボールを選んだ。朝井、きょう二本目のセンター前ヒット。あれれ。ノーアウト満塁。しかし次の久保はだいじょうぶだろう。きょうは三打席とも三振だ。でも、どんな打者でも、十本のうち一、二本はヒットを打つ。いやな予感がする。初球真ん中高目のストレート。ボール。久保はじつにタイミングのいい見逃し方をした。軸のぶれない腰が坐った見逃し方だ。
 ―打たれる。
 二球目、スッと真ん中低目に力のないストレートがいった。久保はみごとなゴルフスイングをした。打球が舞い上がり、レフト上段に落下するまで私は一歩も動けなかった。満塁ホームラン。カチカチカチカチが波のように押し寄せてくる。ここの球場はうるさいと気づいた。うるさい。神経に障る。十五対七。
 板東はあと何点取られるだろう。水原監督は何点までがまんするだろう。大羽の代打に興津が出た。背番号10。小学校五、六年のころ、飯場のテレビのナイター中継でよく彼を観た。バックネット方向からピッチャーとバッターだけを大写しする前近代的なアングルなので、ピッチャー、バッター、キャッチャー、アンパイアまで一列に並んだ四人しか見えない。興津は長嶋のホームランをアピールで取り消したあの藤井と同様、派手さのない、ときどき思い出したようにホームランを打つバッターという印象だった。きょう、美男子だと知った。彼はむかしキャンプで腰をやられたと、試合前のベンチで太田が話していた。それ以来腰痛持ちなので大活躍できない。この手の話はよく聞く。キャンプで無理をして、野球生命を棒に振るような故障をする選手が多すぎる気がする。すべて〈地獄の〉何とやらのせいだ。コーチの見栄と自己満足のせいだ。
 板東はボールが急に伸びはじめ、興津をショートゴロに切って取ると、苑田キャッチャーフライ、今津三振、と後続の三人を凡打に退けた。どうにか後続を凌いだという雰囲気ではない。早いカウントでポンポンと打ち取った。こういう勝負の綾はプロ野球独特のものなのだろうか。
 八回表、照明塔六基にぽつぽつ光が点じはじめる。ロッカールームへいき、湿らせてよく絞ったタオルで顔を拭い、眼鏡をかける。ベンチに戻る。オッ、とみんなで微笑する。
「高木さん、カクテル光線という言葉の響き、すばらしいですね」
「ああ、いいね。酒のカクテルからきてるんだ。昼の光に近づけるためにいろいろな種類のライトがカクテルされてる。水銀灯、白熱灯、ハロゲン灯。野球少年ならみんなあこがれるのがナイターのカクテル光線だ」
 ピッチャー大羽から小柄な宮本洋二郎に交代。森永と交換に巨人から広島にきた男だ。ヒョロヒョロ球。あとはだれが出てきても敗戦処理なので、みんなサクサク試合を切り上げるつもりで打席に立つが、宮本のコントロールが定まらない。打ちようがない。木俣フォアボール、江島フォアボール、一枝フォアボール。満塁。板東、振り遅れのファーストゴロ、衣笠板東にタッチしてホームへ送球、木俣フォースアウト。久保サードへ転送、悪送球。ボールがファールグランドに転々とするあいだに江島ホームイン。一枝三塁へ。ツーアウト三塁。十六対七。中ボテボテのサードゴロ、朝井ハンブル。一枝ホームイン。十七対七。葛城の初球に中が易々と盗塁。高木が、
「よっしゃー! 三百盗塁達成だ!」
 中にピースサインを掲げる。中日ベンチがいっせいに拍手する。わけがわからず、私も拍手する。半田コーチが目を潤ませ、
「十五年で、三百盗塁よ。やったねえ」
 場内アナウンスが流れる。
「中利夫選手、今季初盗塁により三百盗塁達成でございます。昭和三十年より本年四十四年にかけ十五年目にして三百盗塁を達成いたしました。この間、昭和三十五年に五十盗塁で盗塁王に輝いております」
 菱川が小さな花束を持って二塁ベース目がけて駆けていく。中はお辞儀をして受け取り、四方のスタンドに花束を振る。フラッシュが何発も瞬く。水原監督が拍手している。いつのまにこんな趣向が目論まれていたのだろう。中から花束を受け取ったボールボーイがベンチに駆け戻り、足木マネージャーに手渡す。中は満面の笑みを浮かべて帽子を脱ぎ四方のスタンドに振った。
 プレイ再開。葛城二球目を打って、レフトフライ。チェンジ。
 八回裏、板東は先頭打者の山内にセンターへホームランを打たれた。外角のストレートだった。ボールの伸びが多少増したにしてもやはり微妙に力がないのだろう。衰えたりとは言え、山内ほどの強打者にかかってはひとたまりもないのだ。
 十七対八。あしたの先発予定の小野に交代。ウォーミングアップを兼ねてのことかもしれない。山本一義速いストレートにタイミングが合わず、四球で三振。山本浩司ツースリーまで粘ってショートゴロ。きょう一安打の朝井、ストレート、ストレート、大きなカーブであえなく三球三振。さすがだ。
 九回表、田宮コーチが、
「ようし、慎ちゃんから全員ホームランを狙え。自分なりに理想のスイングをしてくれ」
 江藤が、
「金太郎さん、打とうごたるか?」
 と私の眼鏡を覗いて尋く。表情からすると、もっとホームランを打ちたいかと訊いているのにちがいない。
「いえ、満杯です」
 江藤はにやりと笑い、
「ほなら、ホームランば打ってくる。みんな、出迎えんでよかよ」
 オーとベンチが華やぐ。江藤の言葉に誇張はない。宮本も板東と同じだ。力のないボールでプロ野球界の強打者を凌ぐことはできない。江藤は二球じっくり見逃し、ワンワンからの三球目の内角低目のお辞儀球を左中間に高く舞い上がるホームランを打った。
「江藤選手今シーズン第二号ホームランでございます。なお、これで江藤選手、神無月選手が一試合に二本ずつホームランを打ったことになり、史上初のダブルアベックホームランを達成いたしました」
 場内大喝采になる。江藤は呆れ顔の水原監督とタッチし、抱擁し合い、迎えに出る仲間を手で追い払い、
「きょうのトリは金太郎さんたい。もう一本いくばい!」
 私は宮本の外角低目のストレートを簡単に捉え、江藤と同じ場所にホームランを放りこんだ。三号。水原監督とタッチ、抱擁。
「三本で始まったか! 打てるうちに貯めときなさい」
「はい!」
 六の四、ホームラン三本、打点六。プロ初戦、できすぎの滑り出しだ。高木は意義深いセーフティバントをして、アウトになった。
 ―小野さんの肩を冷やさないためだな。
 ベンチの気温は十七・三度。決して暖かくはない。高木は笑いながら一塁から戻ってきた。木俣ショートゴロ、江島センターフライ。協力体制貫徹。十九対八。
 九回の裏。一塁側の観客席にいつの間にかポツポツ穴が開いている。ファンに見離された広島のビッグイニングになった。やはり小野をあしたに温存するために、水原監督は門岡信行の登板を告げた。八年目、太田と同じ大分県出身、百八十センチ、七十五キロの大柄な右ピッチャーだ。一年目に十勝、二年目にフォークの投げすぎで肩を壊したと聞いている。おととし九勝九敗で返り咲いたものの、昨年は三勝六敗でパッとせず、今年はキャンプからよくバッティングピッチャーに駆り出されている。
 ボールがまったく走らない。つるべ打ちになった。山内レフト前ヒット、山本一義レフト前ヒット、衣笠右中間二塁打、山内還って一点。山本浩二左中間二塁打、二者生還して三点。プロの力量がどういうものかを思い知る。二軍選手の大半が永遠に出てこられないことも思い知る。不思議なことに、私の気持ちはスタンドの広島ファンのそれに切り替わり、心臓が踊った。
 ―もっと打たれろ!
 朝井、深いライトフライ、山本浩司三塁へ進み、久保センター前ヒット、四点目。宮本の代打藤井がレフト上段へツーランホームラン。六点。藤井は感情のない死んだような目でダイヤモンドを一周する。ワンアウトランナーなし、十九対十四、五点差。江藤と私の二本のアベックホームランが決勝点になりそうもない予感がしてきた。左の速球派伊藤久敏に交代。三年前のドラ二。登板数は多いが、去年まで一勝しかしていない。将来を嘱望されている。苑田センターフライ、ツーアウト。今津ライト前ヒット。山内センターへ大きな当たり、ときめきが最高潮に達する。中、背走してキャッチ!
 終わった―。
 生まれて初めてのプロ野球公式戦を戦い終えた。六時六分。試合時間三時間六分。おびただしい数のフラッシュがきらめく。スタンドを見回す。人びとがゾロゾロ移動していく。グランドに報道関係者があふれている。伊藤久敏が長谷川コーチと握手。水原監督に肩をひと叩きされる。薄氷とは言わないが、肝の冷える闘いだった。ベンチ前で小川がひょうきんな仕草で胸を撫で下ろしている。責任回数を終え十五対三で交代したので、ぎりぎり勝ち投手は小川になる。アナウンサーや報道記者が何十人となく駆け寄ってくる。
 ベンチ横の録音取材は私、江藤、水原監督の順になった。
「すごい試合でしたねえ」
「はい、すごかったです。広島の打線は強力です。あらためて、得点を重ねることに飽きてはいけない、取れるだけ取っておかないと危ないということを学びました」
「飽きてたんですか?」
「はい、十五対三のとき」
 記者たちが笑った。衣笠と山本浩二が、一塁ベンチの中でボーッと立ってこちらを眺めている。彼らを尻目に同僚の選手やスタッフたちがどんどん引き揚げていく。三塁ベンチの中日レギュラーたちはめいめい、ペンと手帳を持った新聞記者たちの取材を受けている。
「決勝ホームランを打った江藤さんにお伺いします。チーム、個人とも、満足のいく滑り出しですね」
「はい、大満足ですたい。なんせ、牽引車の馬力がちがいますけん」
「天馬ですからね」
「はあ、その天馬からドラゴンズ一号を奪ってしもうたのが心苦しかです。三番打者の役得だと思うことにしますばい。きょうは、ワシら以外にホームランば打ったのは木俣だけやろう。攻撃がまだまだ効率的でなかなあ。まんべんなくホームランば打てる打線にしぇないかん」
「ホームランは最大の効率ですか」
「言うまでもなか。ヒット、フォアボールと噛み合えば、ダイナマイトばい。もともとホームランば打てるバッターがプロにくるわけやけん、どのチームでも可能でっしょ。アベックホームランの記録は何本ね」
「ONの六十一本です。昭和三十四年からの十年間です」
「二、三年でそれば破らんと」
 小山オーナーと白井社主たちが手を振って、ネット裏から引き揚げていった。私も手を振った。いつものとおり、誤解した客たちが騒いで手を振り返す。ふたたび私にマイクが向けられる。
「神無月選手に関する専門筋の見解では、仕上がり途上のピッチャーを打ったオープン戦の成績は、シーズンに入ったら通用しないというものでしたが」
「ぼくもそう思ってます。きょうも白石さんのボールを二度打ち損じました。これからは打ち損じが増えていくと思っています。ぼくの野球人生は、初めて打ったボールがホームランになるというマグレから始まりました。マグレはいつか止まります。その専門筋のかたがたのように、マグレと見抜いてくれる人が大勢いるほど気がラクになります。無理をしなくていいんだなと思うからです」
「……ありがとうございました。神無月選手と江藤選手のインタビューでした」
 レポーターは呆気に取られ、ニヤニヤ笑っている水原監督にマイクを移した。
「最後に水原監督にひとこといただきます」
「私もきょうは、もういいかげんに打棒を収めろと思った瞬間があったんですが、いまの江藤くんの言葉で反省しました。負けるかもしれない試合展開になってきて焦りましたよ。取れるだけ取る、戦いはそうでなくてはいけないんですね」
「巨人はアトムズに敗れました。一歩リードですね」
「帳尻を合わせてくるチームですから、星一つのことで一喜一憂はできません。とにかく八十勝以上しなければ優勝はないでしょう。そんな星勘定はともかく、お客さんをわくわくさせる試合ができたことを喜んでいます。あしたもがんばります」
 やはり鉄扉の外の駐車場が黒山の人だかりだった。歓声が上がる。松葉会の組員が四人に増えていた。時田の顔もあった。警備員といっしょになって、交通整理よろしく、私たちをバスへ導く。私は時田に、
「これ、康男にあげてください。第一号のホームランボールです」
「は、お預かりしました。あした以降になりますが」
「それでいいです」
 彼は大事そうにハンカチにくるんで背広のポケットにしまった。


         十

 バスの中で長谷川コーチに訊いた。
「敗戦チームは、試合後、特別なことをするんですか」
「広島は球場内の会議室で反省ミーティングをするよ。ミーティングのチームだからね」
「どんな内容ですか」
「たとえばシャットアウト負けをしたとするよ。原因は、投手のリズムが悪くフォアボールが目立った、エラーが出て失点につながった、安打数が少なくチャンスに打てなかった。そこで叱り役は、投手にリズムよく投げろと言い、エラーした選手に気持ちを見せろと言い、チャンスに打てなかった選手にしっかり打てと言う。暗い雰囲気の中でそんなことを言い合ってどうする? 言ったところで……だよね。そんなこと言われなくても選手がいちばんわかってるし、わかってることを言われたら腹が立つか落ちこむ。ドラゴンズが選手を交えたミーティングをやらないことにしたのは、そういうわけだからなんだ。ミーティングなんかしなくたって、打てなかったやつは、たとえ主力組でも、素振りをしたり屋内練習場で夜中まで打ちこんだりする。朝十時にはまた打ちこみをやり、特守もする。でも、チームが強くなるのはそういうきびしいシキタリのおかげじゃない。突出した選手が出てくるか、選手個人が飛躍したときだろうな」
 森下コーチが、
「遠征先でミーティングとか、特打特守なんかしてた日にゃ、翌日身動きとれんようになるぞ。昼前には全員揃って移動に備えんとあかんしな。それでなくても選手は疲れとるんや。休ませたらんと」
 長谷川コーチが、 
「広島の移動手段は、公共交通機関か、タクシーチケットだ。マイカー禁止。だれからも不満は出ない。それが広島の伝統なんだよ。高級車を転がして球場入りするなんてプロ野球選手の象徴的な絵は、広島には存在しない。いつかかならず強くなるチームだろうと思うが、ミーティングや規則の厳しさからは強さは生まれない」
 あたりまえのことなので何の感想もなかった。
 世羅別館の部屋に戻ってシャワーを浴びると、ブレザー姿で、江藤、太田、菱川と、夜の街に出た。
「あした、ライトで先発です」
 菱川が黒い顔をくしゃくしゃにして言う。
「よかったですね。太田は?」
「控えです。仕方ないすよ。ノーヒットでしたから」
「ノーヒットはノーヒットでも、三振とセカンドフライだから、内容が悪かったね」
「はあ、ためて打てたときはいい結果が出るんですけど。どうしてもボールを迎えにいっちゃうんです」
「あした、島谷さんが二打席結果を出さなければ出番だ。ホームランを狙えよ。おまえは長距離打者なんだから」
「はい」
「振り遅れを怖がらないことだよ。とにかく腰を残して打たなくちゃだめだ」
「あの、バットを投げたやつも、腰、残ってましたね」
「いやあ、あれは……」
 江藤が私の後頭部を撫ぜながら、
「ランナーがもったいなかったんやろ」
「はい」
 世羅別館から四筋ほどゴミゴミした家並を歩いて、だるま寿司という間口のひどく小さな鮨屋に入る。江藤のいきつけだと言う。菱川も何度かきているようだ。
「広島遠征のたびにきとる。ネタの新鮮さは広島一ばい」
 青地に白抜きでだるま寿司と染め抜いた暖簾を分け、戸を引く。大きな店内だ。
「いらっしゃいませェ! 江藤さん」
「オオ! 神無月!」
「菱川も太田もおるが」
「こらこら、呼び捨てにしたらいけんじゃろう」
 店の大将らしき人物が客をたしなめる。カウンターに五人も白服が立っている。客もカウンターと座敷にほどよく分かれて盛況だ。
「江藤さん、菱川さん、毎度。ええ試合でしたな」
「ああ、心臓に悪か試合やった。最後にワシと金太郎さんがホームランを打たんかったら、負けてたかもしれん」
「いやあ、三点差はなかなか追いつきませんよ。座敷のほうへ?」
「堅苦しか。カウンターでよか。適当に握って、こいつらに腹いっぱい食わしぇやってくれ」
「へい。広島は牡蠣とあなごが名産じゃけぇ、それはいちばん最後にお出しします。まず刺身の盛り合わせで、ビールでもいきますか」
「おう、ビールいこ」
「生ビールください」
「俺も」
 菱川が、
「俺はキリンのラガー」
 見るからに新鮮な盛り合わせが二鉢出る。客たちは会話を中断して静まり返っている。江藤が気を差して、
「みなしゃん、気楽にやってくれんね。この神無月ちゅう男は、注目されるんがバリ苦手ばい。わしらも適当にやりますけん」
 大将が、
「こいつが代表で観にいってきたんですよ」
 山田三樹夫に似た、いちばん若い頬の赤い顔の男がぺこりとお辞儀をした。
「初回から度肝を抜かれました。ふつうの野球じゃないですよ。まず中さんの二塁打で目が覚めた」
「島谷がよう返しおったの」
 菱川が、
「金二は安心してあれ切りでしたよ」
「打率を残せんタイプや。一試合に二本打つ気やないと首位打者は取れん」
 私は、
「中さんの三百盗塁はすごい記録なんでしょう?」
「ほうや。三百五十の吉田義男、三百九十の飯田徳治、四百三十の広瀬叔功、四百八十くらいやったか、木塚忠(ただ)助。木塚の記録はいずれ広瀬が破るやろう。利ちゃんは膝が悪かけん、無理やな。よう三百も走った」
 太田が、
「木塚は戦後、南海ホークスに九年、近鉄パールスに三年。三十六年から去年まで、近鉄のコーチ五年、オリオンズのコーチ二年。息の長い選手でした」
 江藤が、
「ほうよ、名ショートやった。佐賀の唐津出身の九州男児で、巨人からの誘いを『俺はカネでは動かん』ゆうて断った大物たい」
 菱川が、
「神無月さんの前にもそういう人がいたんですか」
「いたんだっちゃん。百六十八センチ六十キロしかなかばってんが、韋駄天、バカ肩、強打。大リーグから誘いば受けた日本人第一号たい。スモール金太郎やな。昭和二十五年には、プロ野球記録の七十八盗塁ばしたばってん、シーズン中に東急の猿丸ゆう球団代表から『チームのためじゃなく自分のために走っとる』ちゅうアホくさい中傷ば受けて、そのあと一個も走らんかった。そぎゃんところも金太郎さんそっくりやろ。金太郎さんは中傷ば受けても、本能でホームランば打ってしまうやろうがの」
「高木さんの盗塁はどうですか」
「うちで中を抜く可能性があるんは、高木ぐらいやなかろか。あいつ、いまのところ二百かそこら走っとるやろ」
 貝類の刺身を選ぶようにして食う。うまい。
「きょうのワシの打撃成績は、六の四、ホームラン二本、打点四。金太郎さんは六の四、ホームラン三本、打点六。一試合目だけ金太郎さんとデッドヒートばい。あしたからどんどん引き離される。目に見えとる」
「神無月さんのバッティングは、どう見ても人間業でないでしょ」
 店員の一人がカウンターから言った。
「人間でなかけん、だれもライバルにはできんとよ。教科書や参考書にもならん。いっしょにおって、力をもらうだけばい」
 太田が、
「江藤さんの言うとおりですよ。ファイトのもと。大切な人です」
 別の店員が、
「水原監督があんなに怒ったのも無理ないですね」
「金太郎さんも硬球に当たればケガするけんな。才能が人間並でないだけで、からだは人間やけん。これからはあげなボールが多うなるぞ」
 菱川が、
「まんいちのときは俺が切りこみます。江藤さんの〈ぶっ殺したる〉は物騒です。俺なら何も言わんでも威圧感があるでしょう」
「おまえもオープン戦の巨人戦で、ブチ殺したる言うとったばい」
 江藤はシャコをうまそうにつまみながら、
「あの鉄塔に当たった金太郎さんのホームランな、当たっとらんかったら、とんでもない飛距離やで」
「会心でした。うまく押しこめました」
 太田が、
「神無月さんの打球は、逆方向がロケットになりますよね。中西さんの平和台もそうでしょう」
 菱川が、
「同じバットスピードでも、巻きこむのと投げ出すのとでは、遠心力がちがうんじゃないんですかね」
「どっちにしても、ワシらはロケットにならん。バットに乗せて運ぶか、ラインドライブで打ちこむかや。中西以外でも、ロケットは何人か見とる。ぜんぶ助っ人外人やった。ただ、センター方向のロケットは、中西と金太郎さんだけやな」
 新鮮な握りが一揃いくる。赤身と、ジュクジュクしたトリガイがうまい。どんどん腹がへってきた。
「チラシください。トロとイクラ抜きで」
「へい。チラシ一丁、トロとイクラ抜き!」
「ワシらにも何も抜かんチラシくれんね」
「へい、上チラシ三丁、追加」
「アルコールはこれでやめとくわ。あしたダブルヘッダーやけん」
「二時からですね」
 山田三樹夫似の若者が、
「ワシ、バッティング練習から見にいったんじゃが、神無月さん、三本場外ホームランを打ったよな。ライト、右中間、スコアボード。狙って打てるんか」
「低目のストレートをわざと投げてもらったんです。いちばん力を乗せられるポイントだから。高目は簡単にはホームランにできない。小さいころから、掬い上げなければ遠くへ飛ばないバッターだった。それが幸いしたんです。たいていの選手は低目が苦手だからピッチャーは低目ばかりを攻めてくる。ぼくには絶好球になるというわけ。でもこれからは高目を攻められるだろうな。高目の素振りをうんとしなければ」
 江藤が、
「きょうのホームランもぜんぶ低目やった。待てよ、尾崎も金田も、金太郎さんは高目を打っとるで。杉浦も外角の高目やったろ」
「はい、気持ちを準備したからです。とつぜん高目にこられたら……」
 座敷の客が身を乗り出し、
「わしも硬式野球のクラブで野球をやっとる者じゃが、神無月さんと江藤さんの話はレベルがちがう。高目の伸びる球は準備しても打てるもんやないし、低目はもちろん打っても遠くへ飛ばん」
 太田が、
「それはダウンスイングやレベルスイングを後生大事に身につけてきたからですよ。そういう小中高と教わる打法は、強いゴロやライナーを打つためのもので、ボールを遠くへ飛ばすことを考えてないんです。ゴロを転がして相手のミスを誘おうというみみっちい打法です。遠くへ飛ばすには、低目を、ときには高目も掬い上げる必要があります。そのことを俺たちは神無月さんから学びました。飛距離は学べませんけど、ホームランを打つことは学べます。ダウンスイングでたまたまボールが遠くへ飛ぶことがあるのは、ボールの真芯ではなく、中心より少し下を叩いたからです。芯を食うと言います。つまり掬い上げてることになるんですよ。神無月さんの打法は理に適ってるんです。小学校からずっとホームラン王をつづけてこれたのは、その正しい理屈を実践してきたからです」
 菱川が、
「……ベーブ・ルースのゴルフスイングもそうだ。でも、神無月さんのは完全なゴルフスイングじゃない。低目を打ちにいくとき、バットの先をゴルフクラブのように下向きにするんじゃなくて、水平にカットするように出してる。足首のあたりだけだね、バットを立てるのは」
「レベルスイングの高低が広いというこったい。じゃけん、顔の高さも同じように打てる。手首の返しは永遠の謎たい」
 菱川が、
「あれはどう目を凝らしても無理ですね」
 太田がチラシを掻きこみながら、
「噂とちがって広島のファンは穏やかだなあ。プレーしやすかった。応援団にしても、肺活量に自信のあるボランティアたちが、一生懸命大声を張り上げるといった程度のものですからね」
 しゃもじの音が耳に障ったとは言えない。硬式野球クラブが、
「どんな球場でも、ガチガチのホームファンがビジターチームのファンを虐待するなんてことはないんじゃよ。悪名高き甲子園もそうじゃ。王のホームランボールがほしゅうて、巨人のユニフォームを着てライトスタンドに座っとるやつもおるけぇの。別にいじめられん。みんな無邪気なもんじゃ」
 菱川が、
「西鉄ライオンズは口汚かったですね」
「ありゃ、特別たい」


         十一 

 カウンターの一人の客が、
「あしたの先発は、たぶん白石じゃ」
「眼鏡オヤジ」
 おもわず私は言った。その客はハハハと笑い、
「外木場、大石、安仁屋と並んで稼ぎ頭じゃけぇ。どうのこうの言うても、三回、九人を完全に抑え切ったけぇのう。ちいとハブテて監督を困らせよったが、あのくらいの根性がないとピッチャーは務まらん」
 江藤が、
「なるほどな。しかし、白石は結局つかまっとるばい。六連打で八点取られとる」
「とつぜん制球が乱れたよね。しかし、神無月さんを二打席凡退させ、三打席目を投げないうちに交代させられたんじゃよ。あんな大差で、敬遠しろなんて言われて、アタマにきたんじゃろう」
 基本はシュートとフォークの逃げのピッチングなのに、気が強いのはおかしい。江藤は、
「そうやろうな。長年広島の野球を見とる人が、あしたは白石やと言うんやけん、白石でくるやろう。金太郎さん、白石のいいボールは?」
「カーブですね。キャッチャーミットにズシンと重い音がしました。右バッターの内角に食いこんでくると厄介じゃないでしょうか」
「ワシも金太郎さんもシュートにやられたが、そうか、カーブか」
「オープン戦では外角低目のスライダーをスコアボードまで持っていったんですが、カーブのほうが握りの深い分、重いんでしょうね。ぼくは何がきても射程圏なら打ちます。あのう、さきほどのかた、とつぜん制球を乱したというのはどういうことですか?」
「神無月さんを内角の変化球で打ち取ったのに気ぃようして、高木さんからほぼ全員に内角を投げだしたんじゃよ。ストレートを混ぜながらね。打たれたのはぜんぶストレートじゃ。彼はストレートの威力はいまいちじゃけぇ」
「それで制球を乱した、か」
「せえです。しかし八点取られたらいけん。すぐ修正せんと」
 江藤が、
「となると、あしたは変化球に手こずりそうやな」
「中日さんは、小野か田中勉でしょう」
「お見通しばい。大将、こんなにタメになる店やったかのう」
「むかしからそうですよ。ただ、これまでは選手のかたに話しかけられる雰囲気がなかっただけで。巨人さんがここにくると、プロのにおいをプンプンさせてて近寄りがたいってのはあったんですけど、江藤さんと菱川さんも去年まではそうでしたよ。どうしたんですか、今年の変身ぶりは」
「ジョワッチ! ここにおる金太郎さんのおかげばい。垣根のない人やけん。チームのみんなが影響ば受けとる。びっくりしたらいけん。こげんお人形さんみたいなすまし顔しとって、腹が痛うなったら、その場で、ウンコ言い出しよるけん驚くばい。人間、素直さがいちばん」
 ひとしきり店内が笑いで沸いた。大将の脇にいた重立った店員が、
「お宝ですね。そりゃデッドボールぶつけるやつが憎くなりますよ」
 四人でガシガシ、チラシを食う。大将が、
「さすが、食欲も一流だ」
 カウンターの二人組の女性客が、
「あの、きょう、私、こちらのお友だちに連れられて、初めてプロ野球を観にいったんです。練習のときから、三塁側のいちばん前の席で見ていたんですけど、ショックを受けることばかりでした」
 太田がヤニ下がり、
「はあ、どういうショックですか」
「まず一つ目は、野球選手ってめちゃくちゃ大きいことです。からだの大きさに感動しました。次に、野球って体育会系のおじさんのスポーツだって思ってたんですけど、帽子の下の素顔はとても若くて格好いい人が多いんです! その次に、試合が始まって、スピードやリズムに感動しました。テレビで夏にやっている高校野球とぜんぜん別物! 試合が終わったあと友だちと、選手がバスに乗りこむところを見にいこうということになって、球場の裏口で待ちました」
「すげなくされたでしょう」
 私が言うと、
「それはいいんです、あたりまえのことですから。一目見られればと思っていただけなので。出てきた選手たちはほんとうにめちゃくちゃすてきでした! とくに神無月選手は絵から抜け出てきたみたいでした」
「ありがとうございます」
 江藤も、
「ありがとう、お嬢さん、金太郎さんが褒められるとわがことのようにうれしか」
 太田が、
「俺もです。泣けます」
 菱川が、
「俺も。神無月さんは人に褒められない人生のほうをたくさん送ってきた人ですから」
「ほんとですか? 神無月選手を褒めない人って、頭へんなんじゃないですか」
 太田が、
「俺は神無月さんと中学が同級なんですよ。そのときの様子をしっかり見てます。神無月さんは教師たちから白い目で見られていました。神無月さんは親友を病院に見舞いながら、勉強もし、野球もしていたんですよ。ただ家に帰るのが毎日遅くなった。それだけのことで、ついに退学を喰らいました」
 江藤が、
「八カ月も見舞いにかよいつづけたとばい。世間のまじめな人たちは、そういう義俠ば許さんいろいろ事情を抱えとるし、素直に褒められん嫉妬というものもありますけん。肉親や教育者といった、特に身近な人間は素直になれないもんたい」
 友だちのほうが、
「週刊誌で読みました。……ほんとうだったんですね」
「いまの人生はばら色です。ありがたいです」
 最初の積極的な女が、
「プロ野球選手と私たちのような一般の女が、恋愛関係になることってありますか」
「さあ、知りません。ぼくはなりません。恋愛に費やすような時間はありませんから」
 菱川が、
「俺も二軍のころは、そういうことが、一、二度あったけど、一軍になってからはもう暇なしだね。一軍選手にしても、芸能界のパーティやら、テレビか何かの番組の共演やらがきっかけになってくっつくだけで、恋愛と言えるものかどうかはわからないな。健全な恋愛はあなたたちのものですよ」
 江藤が、
「耳の痛か」
 私は黙っている。太田が、
「耳が痛くないのは神無月さんだけです。神無月さんは女を人間として大切にします。恋愛の道具にはしません。だれよりも愛情深い人ですが、恋愛ゲームや、結婚ゲームを嫌います。だから、スキャンダルのネタもない。マスコミ泣かせです」
「でも、人間だから、性欲はあるわけでしょ」
「中学一年からきょうまで見てきて、正直、神無月さんに性欲はないです。精神的に信頼している女ならたくさんいます。それが一種のタニマチを形成しているので、ほかの女が入りこむ余地がない。彼女たちは俺たちにも親切ですよ。しかし、性欲は湧きません。人間的に高すぎるからです。神無月さんは彼女たちに感謝して暮らしています。ほかの女は目に入りません」
 江藤が、
「おまえ、よう金太郎さんのことを知っとるな」
「知り合ってから長いですから。神無月さんがしゃべりたがらないことも、いろいろな方面から聞き出して知ってます。神無月さんが北の怪物と騒がれてたころ、俺は九州の中津に戻って野球をやってたんですが、いつも新聞をくまなく読んで、神無月さん関連の記事を探してました。新聞じゃ表面的なことしかわかりません。俺がドラフトでドラゴンズに指名されたあと、神無月さんがドラゴンズに入団することになって、人生の奇跡を感じました。いまでは神無月さんのことが七割方わかります」
 江藤がしみじみと、
「そういうのを、邂逅てゆうんやろう? しかし、きょうは金太郎さん、よう食った。腹八分でやめとくほうやけん、プロ野球選手にしては食が細い。たらふく食わんといけんていつか説教しようと思っとった。体調管理で重要なんは、毎日きちんと食うことや。そうやないと野球をつづけていけんばい。嫌いなものを食う必要はなか。好きなものをたらふく食う。そしてよく寝る」
「はい。あしたの朝めしは、別館ですね」
「ハハハハ、だな。昼めしは球場の出前ばい」
「夜はまたここにきましょう。野球のおさらいができる」
 大将が、
「気を使わないで、神無月さん。目先を変えて焼肉でも食いにいってください。五月の半ばにまたお待ちしています」
 待ってますよ、とあちこちから声がかかった。
「じゃ、あしたは焼肉を食いにいきましょう」
 太田が、
「神無月さんは肉が嫌いでしょう。合わせなくていいです」
「安上がりにできとるのう。白菜の浅漬けと目玉焼きと味噌汁やけんな。ばってん、野球選手は肉ば食わんとやっていけんぞ。とにかく、肉とホルモンばたっぷり食って、ゆっくり寝ろう」
「あさっては何時の便ですか」
「十時の便たい。高木や中や小川たちも同じ便やろう。みんなで帰るぞ」
 こういう会話に客たちが目を見開いて聴き入っている。菱川が、
「小川さんは、広島競輪を見て帰ると言ってましたよ」
 一人の客が、
「四月は、競輪はなかったんじゃないかなあ」
 江藤が、
「競輪やないんやなかね」
 ヘヘヘという笑いが客たちのあいだで上がった。
「あしたの第一試合は二時からですよね」
「ほうや」
「第二試合は何時からですか」
「第一試合終了後、三十分以内に始めることになっとる」
 太田が、
「試合時間はだいたい二時間半から三時間半。きょうは三時間六分」
「とすると、九時ぐらいに終わるんだね」
 菱川が、
「通常時のナイターは、六時から六時半開始なので、だいたいそれでぴったしです」
 さっきの恋愛女がしつこく、
「二軍選手は、可能性ありってことですよね」
 菱川に問いかける。
「たぶんね。一軍に上がろうとして必死になってるやつは別だけど」
 江藤が、
「将来大物になる可能性のないやつばい」
「いいんです。小物でも。格好いいプロ野球選手なら」
「小物は格好いいやつも少なかぞ。その前にどぎゃんして近づくとやろか」
「手紙を書いたり、練習場にお弁当届けたり」
 江藤は笑いながら、
「それでめでたく結婚したとして、そいつはいずれクビになってプロ野球選手でなくなるばい。どうすると?」
「もとプロ野球選手の名前で、私が更生させます」
「二軍は、もとプロ野球選手とも言われんたい。そのくせプライドが高かけん、扱いにくか。一軍にしてからが、家に帰る時間のない選手がほとんどやろう。九時五時の生活なんぞ、野球に関わっとるかぎり永遠にできん。野球選手の女房は不幸ちゅうことばい。野球選手なんぞは、大勢の人を喜ばせるために生れてきた片輪者やけんな」
「そういうのって、なんか、卑下しているようでいて、エリート意識にまみれた傲慢さだと思います」
 私は、
「傲慢じゃなくて、現役のあいだは〈そのように片輪者として存在してる〉んです。大勢を喜ばせるためにね。エリート意識なんかサラサラ持っていない。ぼくは、現役を退いたら、すっぱり野球をやめて、少数の人の幸福のために生きるつもりです。ところで、これはぼくの意見ですが、一軍とか二軍とかに関わらず、プライドのある人間は小物です。けっして大物であり得ません。自分は自分の属さない集団では劣った存在だといつも考えて、いま属している集団に感謝しながらいつづける人が、どんな分野でもすでに〈大物として存在する〉んです。ここにいる人たちはみんなそうです。そういう人しか、お金を出して観にいく気はしないでしょう」
 大将が、
「すばらしいことをおっしゃいますね。目にきました。不思議な受け答えをする人なので、不気味な感じがしてたんですが」
 江藤が、
「赤ん坊たい。気取らんと、水か空気のようにしゃべるっちゃん。最初はバカかと思う人が多か。そこで考えが終わる人もおる。しゃべりだしたらこうなる。しばらく付き合わんとわからん」
 菱川は涙を浮かべて、
「神無月さん、ありがとう。馬鹿な自分に自信が持てました」
「グランドだから、そういうふうに自信を持って存在できるけど、グランドを出たら、江藤さんの言うように片輪者だよ。それさえわかってれば、傲慢とは無縁に生きられる」
 客の一人が、
「幼いころからグランドですでに大物として決定づけられてたという考えは、納得できるなあ。片輪者という劣等感を持ってるということもね。愛すべき片輪者だ。あしたも観にいきますよ。第二試合をね。宮仕えの身だから」
 和やかな笑いが拡がる。ほかの客同士が、
「俺たちはサラリーマン社会では劣等感を持たなくていいのかな」
「別にすぐれたものをこれといって持ってない小物なんだから、自分の属する集団でも劣等感を持ってたほうがいいんじゃない?」
「九時五時で女を幸せにできるぜ」
 女が、
「なんだか女の世界って、小さい感じ」
 私は、
「どんな規模の男も包みこむんですから、無限に大きい世界ですよ。その世界を小さくするのは、自分の幸福だけを考える心です。大事なのは、いっしょにいる時間よりも、愛する時間だと思う」


         十二

 江藤が立ち上がり、
「じゃ、大将、金太郎さんの話はおもしろうて深みにはまるけん、そろそろ引き揚げるばい。いつもどおり、一人一万置いとく。足りんかったら五月に払うけんな」
「とんでもない、じゅうぶんです」
「領収証は二万円で切ってちょうだい。経理がうるさかけん」
「わかりました。××くん、領収証、江藤さまほか三名さま飲食代として、宛ては中日ドラゴンズさま、よろしく」
「へーい」
「あしたの第一試合は、また別の一人を観にいかせます。毎度ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
 店員一同頭を下げる。
「よ! がんばれよ!」
「できたら広島にも勝たせちゃって!」
 ほうぼうから声がかかった。客たちの握手攻めに遭いながら店を出た。女たちの手も混じっていた。
 店を出ると、私はすぐに野球の話をした。
「江藤さん、素振りをしてから寝ましょう。少し畳をすり減らしますか」
「よっしゃ」
 太田が、
「俺たちもやろう。木俣さんもやるかも」
 菱川は、
「徳武さんは熱心にやってる。最後の年だって」
 江藤が、
「徳武もなあ……まだワシの一つ下の三十一やが。自分で引退を口にするのもつらかろなあ。去年はほぼ全試合に出て、ホームランも十一本打っとるし、太田や島谷がこんかったらレギュラーやったのにな。きびしか、プロの世界は」
 認識を新たにした。そのきびしいプロ野球チームが、有能な仲間同士のきわめてデリケートな感情の上に成り立っているという認識だった。無能だとその感情の恩恵も被れないという認識だった。たとえプロ野球選手になれていても、一軍選手になれていなかったらと思うと、胸の内にひょうと冷たい風が吹いた。私は、
「葛城さんも、ぼくが追い出す格好になりましたね」
「金太郎さん相手なら、だれでんあきらめる気になるばい。ワシのせいで、千原が追い出されたんが気ん毒や。とにかく、野手は二割七分以上打てんと、守備固め要員かピンチヒッターにされてしまうけん」
 太田が、
「あきらめないやつがいますよ。浜野。あいつは格好だけつけたがるけど、中身は人間のクズだな」
 菱川が、
「神無月さんが金田と堀内にぶつけられそうになったとき、やつだけニヤニヤしてたな。きょうの安仁屋のときも」
 江藤が、
「どげんやっかんだところで、金太郎さんに手ば出せん。無視、無視」
「あしたは生まれて初めてのダブルヘッダーだ。子供のころ、胸躍ったなあ。……江藤さん、苦手なピッチャーは?」
「技巧派のリリーフ投手やな。巨人の宮田、大洋の新治」
「新治って、技巧派だったんですか」
「おう。速球は大したことなかけんが、ドロップとシュートの制球力がすごかった。ようゴロに仕留められた。阪急の足立光宏も苦手やな」
 別館に戻ると、すぐに太田たちと別れ、部屋の畳で江藤と素振りをした。ビュン、ブンを経過して、ブッという音がしだしたあたりを境にやめた。大学野球のころは、ブッと音がするまで百本以上振らなければならなかったが、いまでは三十本くらいで達するようになった。
         †
 四月十三日日曜日。七時半起床。曇。十五・二度。枇杷酒、歯磨き、軟便。江藤と大浴場にいく。
 カランの前で頭を洗う。江藤は全身にシャボンを使いながら、
「省三は一球目をかならず見逃す。あれはいけん」
 ポツリと言う。
「ぼくもよく見逃しますよ」
「省三は観察のための見逃すんやない。早打ちして凡退するのを怖がっとるだけたい。ボール球でも何でも思い切りシバキ倒さんといけん。金太郎さんもワシも、三振とフォアボールの少なか。早いカウントから積極的に打ちに出るけんよ」
「ドラゴンズのバッターはほとんどそうですね。みんな、豪打、強打、巧打を兼ね備えてます。……八時半の男のどういうところが苦手だったんですか」
「二十秒ルールすれすれまで焦らす男でな、つい打ち急いでしまう。脳味噌の電球が消えたころに投げられるから、腹が立ってのう」
「江藤さんはピアノとギターを弾くそうですね」
「プロ野球界でピアノやるんは、ワシと王だけらしいが、なんの、素人の手慰みよ。ギターとジルバは、女房に手ほどきば受けてな。プロ級と言われていい気になっとったばってん、金太郎さんの歌と山口さんのギターば聴いてから、すっかりいらわんごとなった。むかしはよう飲み屋にギターば持ちこんで、軍歌やら流行歌やらうるさくみんなに聞かせよったが、やめた」
「もったいない」
「東京のタニマチにはたまに聞かせとる。夜中によう葛城と押しかけてごちそうになる」
「北村席のような?」
「いや、菅原謙次さんゆう俳優たい」
「ああ、七人の刑事。昭和残侠伝にもメインどころで出てましたね」
 どうしても、野球選手と芸能の世界の人びととのつながりは、測り知れないほど深いものがあるのだ。好漢江藤にかぎらないにちがいない。人格者水原監督はじめ、人間性豊かなあのコーチもこの選手も、みんな、運命的に断ち切れない関係があるのだ。
「さびしそうな顔せんといてくれんね、金太郎さん。金と金が引き合うつまらない人間関係たい。ワシはもう卒業した。金太郎さんに入学したけん。女房は勘弁せいや。宝塚の芸人やけんな。芸能界にも華々しい才能の持ち主はおる。否定できん。ばってん、彼らは彼らで芸人らしくやっとればよか。ワシら野球人は野球人らしくやっとればよか。何も付き合うことはなか。サイン会の金太郎さんの言葉、忘れとらんよ」
「彼らと知り合わない予防策を教えてくれませんか」
「金太郎さんには必要なか。不可抗力ということもなかろう。ばってん、ひとこと注意すっと……有名人気取りの芸能人やスポーツ選手は、酒のある場所をうろつくけん、派手な飲み屋には近づかんようにすることやな。ロクなやつが集まらん。知人の紹介ゆうんもクセモノばい。銀座、赤坂、麻布あたりの高級店の店長やらママさんのこったい」
「ロクでもない人というのは、どういう人ですか」
「金太郎さんの考えているとおりのやつらたい。金の余っとるやつらよ。大企業の重役連中、医者、文化人、国会議員、大手新聞の記者、テレビ関係者、プロスポーツ選手、相撲取りなんかもな。有名モデル、歌手、芸人、俳優、アイドル、漫画家。……激励会、忘年会、バーベキューなんぞも危なか。そいつらが集まってきよるけんな」
「予想したとおりというのが切ないですね」
「ワシを笑うてくれるなよ」
「まさか! 何から何まで信頼してます」
 部屋で朝食。鮭、冷奴、納豆、板海苔、スクランブルエッグ、茶碗蒸し、おしんこ、味噌汁の朝めしを仲居たちのおさんどんですまし、ロビーに降りると、ほぼ全員が新聞を見ていた。奥のテーブルでは水原監督やコーチたちまで新聞を広げていた。小山オーナーと白井社主の姿はなかった。手近なテーブルに座り、広げてあった新聞の見出しを見る。

    
凶(郷)弾三発!

 江藤と笑い合う。浜野や板東と同じテーブルにいた小川が、
「おーい、EK砲!」
 と呼んだ。板東が、
「イケイケ砲!」
 と合わせる。江藤といっしょに近づいていく。江藤が、
「浜野、きのうは投げさしてもらえんかったな。勝ちゲームにおまえば出すのはもったいなかったんやろう」
 浜野は聞かないふりをする。おためごかしとわかっている。板東が、
「ふざけろ。ワシのほうがもったいないわい。久保がまぐれ当たりしおって」
 山内にもセンターオーバーのホームランを打たれている。自分の球威がなかったことは棚に上げている。去年の六月に右肘のネズミを取ったばかりなので仕方のないことだとみんなわかっているが、負け惜しみは聞きたくない。小川が、
「小野も伊藤も後続を三人で断って、板ちゃんと門岡の尻拭いをしてくれたし、結局勝ったんだから、ファンにはサッと忘れてもらえるよ。次でがんばれ」
「あーあ、みんな意地悪やわ。ワシが五点取られたあと、小野でなく浜野出しとけば、余計な六点は取られんかったということにしとくわ。それで浜野の面目も立つやろ。六点取られたやつ、だれやった?」
 わざとらしく言う。浜野はにやけながら、小野や徳武たちとコーヒーを飲んでいる大先輩の門岡を冷たい目で眺めた。門岡は小さくなっていた。果たして今年の浜野が、新人のころの門岡のように十勝も挙げられるかどうか。江藤が、
「板ちゃん、打たれた身にもなれや。弱冠二十九歳でご老公て言われるようになるぞ。手術した肘まだ治っとらんのとちがうんか。球威なかったで。門岡はたしかにカーブもスライダーも切れとらんかった。打たれても仕方なかったと思うばい。ばってん、打たれたくて打たれるピッチャーなんかおらんのやぞ。浜野、おまえなあ、一度ノックアウト喰らったほうがよか。人の痛みがわかるようになるけん。健ちゃん、何や、イーケーホウゆうんは、間抜けな感じやのう」
「ここ見てみろ」
 小川がテーブルに新聞を広げた。

   
お待たせ! 開幕戦K砲1・2・3号 E砲1・2号
       
球界新記録アベック弾二発 EK砲揃い踏み
           
中日最強の開幕投手小川六回三点でピシャリ
 常勝巨人軍のON砲が、ついにその王座を十五年の眠りから覚めた昇竜ドラゴンズのEK砲に譲り渡した感がある。北の怪物、天馬、といった呼び声を斜に見て、オープン戦の驚異的な記録も眉唾ものと眺めていた斯界のオブザーバーたちも、グウの音も出ないありさまとなった。
 E砲六の四、二ホームラン、K砲六の四、三ホームラン(新人一試合三発は昭和三十三年六月二十二日の長嶋以来十一年ぶり。開幕戦では初)。一回と九回にEK砲揃い踏み(プロ野球史上初のダブルアベックホームラン)。木俣もそっと一号の花を添え、取りも取ったり十九点。広島も必死に十四点を返したとは言え、力尽きた。エース小川は一回に三点を〈進呈〉したあとは、六回まで無失点に抑えて〈試運転〉を終え、中継ぎの板東にバトンタッチした。順調な滑り出しだ。七回以降の十一点は板東、門岡ら中継ぎ陣の献上した得点だが、どこか名将水原のファンを思う余裕の采配が感じられた。
 中心となる選手の機動力と、彼らを牽引する監督の采配が、しっくり噛み合わないと選手全体の歯車が噛み合わないのは自明だ。昭和二十九年、西沢・杉山・杉下・石川ら中心選手の機動力と、温情監督天知の采配がガッチリ噛み合い、最大馬力で優勝を遂げて以来、十五年が経った。その長きに渡って徐々に両者の噛み合いに不具合を生じ、機能停止にまで近づいてきていることは否めない。二リーグ分裂以降、昭和三十八年までの十三年間で二度の五位を挟んでAクラスを堅持してきたドラゴンズが、三十九年以降の最近五年間で、三十九年、四十三年と二度も最下位に転落したのがその証であろう。
 ところが今年に入ってとつぜん、中日ドラゴンズの歯車が滑らかに力強く機能しはじめた。従来突出した個性というだけの存在に甘んじていた中、高木、江藤、木俣、一枝という有力な中心選手を凝集させ、ガッチリ噛み合わせる神無月郷を得、加えて強力な回転動力となる水原茂を得て、これまで機能を十全に果たせなかった機構がついに動きはじめたのである。
 中心選手が個々の歯車として強力に噛み合い、それを動かすエネルギーを監督が伝達すればそれでいいというものではない。回転機能をスムーズに持続させる潤滑油が必要である。チームは冷たい機械ではなく、温かい人間である。監督と中心選手の意識と言動は、チーム全体の意識と言動のありようを、つまり歯車の回りようを大きく決定づける。それがなければチーム全体は機能しない。球団フロントの評価によると、水原監督と神無月郷はまさにそのありようの要であり、二者の意識と言動が油となって個々の歯車に注され、全体の意識と言動を円滑に機能させているというものである。
 とりわけ神無月の意識と言動は、きょうのインタビューにも覗われるように、奇異に映るほど素朴な人間味と謙虚さと慈愛にあふれていて、チーム全員を魅了している。彼の最大の信奉者である水原はもちろん、レギュラー選手陣、コーチ陣の信奉の度合いは尋常ではない。初回の神無月への危険球にベンチ総立ちとなり、代表者として飛んでいった水原の激高のさまはそれを象徴している。神無月は「何でもありません」と連呼して、たちまち彼らの気分を鎮めた。
 ゲーム後の久保の証言によれば、その場で彼が神無月に「すまなかった」と謝罪すると「デッドボールにならなくて得をしました」と応じたという。バッティングチャンスを得したという意味である。そのあとの第一号ホームランだった。これこそがチーム全体の意識と言動を決定づける人間的な潤滑油なのである。この〈油を得た〉歯車機構は当分回転することをやめないだろう。


「褒めすぎですね」
 小川が、
「いや、このとおりだよ。いいことを言う。意識と言動は人のほんとうの姿を映す鏡だからね。きのうの巨人―アトムズ戦、長嶋四のゼロ、三振一。王四の一、三振一、両チームホームランなし。阪神―大洋戦もホームランなし」
「そうですか。一センチリードですね。あ、そうだ、水原監督に天覧試合のことを聞きたかったんだった。記録フィルムでしか観たことがないので」
 江藤が、
「それ、ワシの入団の年ばい。ワシも聞きたか。菱、タコ、おまえらもこい」
「はい」
 浜野が、
「俺はいいです、むかしのことは」
 菱川が、チッ、と舌打ちした。小川が、
「天覧試合は俺が立正佼成会で準硬式をやってたころだ。ラジオで聞いてたのでよく憶えてる。俺も話を聴かせてもらおう」



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