四十 

 次打者の江藤もひたすら外角のシュートを待っている。オープンスタンスに構えていることから外角の投球を誘っているとわかる。一枝も高木も、初球はかならず内角高目のストレートだった。内角にくれば高低関係なく見逃し、ど真ん中にきたらオーバーアクションの空振りをして狙い球をわからなくさせる。まぐれ当たりでスッ飛んでいったらいったで結果オーライ。小ざかしく裏をかいて初球から外角に投げてきたらバシッと打つという戦法だ。
 初球、真ん中低目のストレート。豪快に空振り。大歓声。わずかにシュートしている。私の狙い球が決まった。外角低目ストレート。あのナチュラルシュートで内角にこられたら窮屈だし、打ってもほとんど詰まるだろう。外角なら腕を伸ばして叩ける。見逃し三振覚悟で内角は捨てよう。
 たしかに投球間隔が長い。江藤はじれずに待つ。二球目、外角低目に力のあるストレート。江藤は待ってましたとばかり思い切り踏みこみ、振り抜いた。みごとにボールの下を叩いた。舞い上がる。いった! 江藤はヘルメットを地面に叩きつけ、肩を怒らせて走り出す。背番号28が両手を膝に突いて、上半身だけでライト方向を見やっている。舞い上がりながらラインドライブしていく。白球はラッキーゾーンをわずかに越え、ブルペンキャッチャーが見送った先のスタンド前列に突き刺さった。中日ベンチがはしゃいで飛び出していく。ファンファーレのウィリアム・テル序曲が響きわたる。江藤が打ちこんだボールが、ライトの芝生に投げ返される。係員がダッシュして拾いにいく。江藤は怒り肩をさらに怒らせ、二塁、三塁と回り、水原監督と片手でハイタッチ。ラインぎわで待ち構える私とハイタッチ。出迎えの連中へ突入する。六号ツーラン。ほかの球場とちがってホームランのアナウンスはなく、次打者の名前だけが呼ばれる。三対ゼロ。
 三塁側の内外野から金太郎コールが上がる。フラッシュがおびただしく光る。中日の球団旗が振られ、鉦太鼓が響きわたる。味方ベンチが固唾を飲んでいる。かけ声すら上がらない。待ちに待った対決だからだ。江夏はボールをしごきながら、めずらしく逡巡している。田淵が駆け寄る。すぐに駆け戻る。キャッチャーボックスから私に柔らかく声をかける。
「敬遠はしないよ。真っ向勝負だ」
「お願いします」
「さ、いこ!」
 江夏はようやく振りかぶり、右足をグイと胸に引き寄せ、上半身を弾ませて腕を振り下ろす。内角低目、剛速球、コースいっぱいストライク。喚声、喚声、アナウンサーの声の切れ端が空に昇る。
 ―これがプロのボールだ。ついにぼくはプロ野球の一員になった!
 二球目、ど真ん中高目の剛速球、ボール。
「ナイスアイ!」
「ボール見えてるよ!」
「槍ィ!」
 江夏はマウンドを歩き回り、ロジンバッグをいじったり、ボールを腰にこすりつけたりする。何人かのアナウンサーの興奮した声が、スタンドの喚声の中で、遠く、近く重なる。三球目、渾身のストレートがクッと曲がり、顔に向かって伸びてくる。少し上体を反らしたあごのところで田淵が捕球する。強烈なシュート。ウオオオ、という驚きの喚声。江夏が私に向かって左手をひらひらさせる。謝っているのだ。潔い男だ。私も腰に手を当てうなずき返した。ぜったい外角は投げてこない。江夏は決意したのだ。とすると、次の球は、デッドボールにならない内角の高目だ。おそらく胸のロゴのあたりの外し球だ。そのボールがドスンとくるか、少しお辞儀をしてシュートしてくる。ボックスの後ろに目いっぱい下がって、一心にレベルスイングをしよう。
 四球目、江夏が脚を引き上げたとたんに、半歩後ろへ下がって、江藤のように肩の高さにバットを据えた。うなりが聞こえるほどのスピードで胸を目がけてボールが突進してきた。ほんの一瞬、スッと曲がろうとした。肩からそのままレベルに打ち上げた。
 ―よし、喰った!
 ピンポン球になった。フラッシュが連続して瞬き、球場内がボールの行方を追うために静まり返った。私が一塁ベースに到達する前に、ライトのスフィンクスの右横の観客席に白球が突き刺さった。看板のすぐ下だ。江夏は屈まずに、直立してライトスタンドを見ていた。森下コーチもタッチを忘れ、上の空でスタンドを見ている。セカンドの吉田も、ショートの藤田も、サードの小玉も、みんな私がダイヤモンドを回るのを無視して、ひたすらライトスタンドを眺めていた。水原監督はちがった。満面の笑みを浮かべてハイタッチをし、抱き締めた。待ち構えている仲間たちも、みんな笑いで顔をくしゃくしゃにしていた。一人ひとりが私を抱き締め肩を抱いた。コーチたちまでが順番を待って抱擁した。十二号。六本目のアベックホームラン。四対ゼロ。半田コーチが、
「生きててヨカタよ、金太郎さん。イッしょう忘れないよ。ライフルショットね」
         †
 四時五十五分試合終了。五対二で勝った。
 江夏は九回まで投げて、十二個の三振を奪った。一枝が二個、高木が一個、菱川が一個、木俣が二個、葛城が一個、太田が二個、小野が二個、太田の代打の島谷が一個。一回以降ヒットを打ったのは江藤と私だけで、江藤はホームランのあと、左中間の二塁打、センターライナー、フォアボール。私はホームランのあと、フォアボール、外角低目のストレートを叩いてバックスクリーン左への十三号ソロ、外角の小さいカーブを引っかけてショートゴロだった。阪神の得点は四回の裏に出た田淵の三号ツーランのみ。小野も江夏も完投。中日六安打、阪神六安打。水原監督の予言どおり、ホームランの数でカタがついた試合だった。六連勝。
         †
 翌日のダブルヘッダーの第一試合は、若生智男という、眉とヒゲの濃い、大宮デンスケのようなとぼけ顔のピッチャーに牛耳られて、ゼロ対一で負けた。ゆるい変化球にどうしてもタイミングが合わず、三打数一安打、四球一、その一本も高く弾んでセンター前に抜けていった打ち損ないのヒットだった。なんとかチャンスを広げようとして盗塁を成功させたが、残塁に終わった。安打の数は中日のほうが多く、一枝、三の三、菱川の代わりに入った葛城と、太田の代りに入った島谷が一安打ずつ、それに私のヒットで六安打。いっぽう阪神はカークランドとピッチャー若生の一本ずつ、そのうちの一本が七回に出たカークランドのソロホームランだった。これまたホームランで決着がついた。伊藤久敏はその一本で負け投手になった。自分の無様を棚に置くわけではないが、高木と江藤がノーヒット、それに木俣の代わりに入った新宅がノーヒットだったのが痛かった。水原監督は第二試合の始まる前にベンチのみんなをロッカールームに集め、
「ときどき負けておかないとね。四十敗はする予定だから、まずその一つを消化したと思いなさい。伊藤くん、すばらしいピッチングだったよ。馬鹿力の外人のせいで貴重な一勝を逃がしちゃったね。外人は金太郎さんといっしょで低目が強いから、胸もとを攻めるようにしなさい」
 と言っただけで、あとは微笑して次の試合の継投策を長谷川コーチと話していた。
 第二試合は一転して、サンドバッグ状態になった。十九対一の大勝。眼鏡男の私は、黒い空から降ってくるカクテル光線の下で、打ち、守り、走った。全員安打、私と江藤は仲良く三の三、フォアボール一。私は伊藤幸男という大柄の変化球ピッチャーから二本、鈴木皖武(きよたけ)という小柄な変化球ピッチャーから一本、三打席連続でホームランを打った。すべて内角低目のカーブをライト中段へ持っていったもので、江藤か高木か一枝を塁に置いてのツーランだった。江藤もその二人から、二塁打、シングル、シングルを打った。ホームランは私の三本だけだった。変化球は前で叩くという基本をあらためて確認した。江藤が、
「変化の少ないうちに叩かんといけんて肝に銘じとっても、つい忘れてしまうっちゃん。ホームからピッチャーまで十八メートルちょいやろう、バッターボックスは横幅百八十センチ、まあ二メートルとして、前にグイッと出るか後ろにぎりぎり退がるかで、一メートルちょいしかちがわん。球速の感じ方はほとんど同じたい。それなのに後ろに退がるやつが多いんは、ピッチャーからなるべく遠く離れたいゆうスケベな気持ちからやろうな。その分、変化球にやらるっちゃん。ボックスの縦幅は一メートル二十センチ。前に出切らんのはデッドボールが怖いからやな。前に出てデッドボールなるんは、最初から球五つも外れとるボールやろ。ボックスの前の隅に立てば、ストレートも変化球もほとんどストライクコースに入ってきよる」
「そのとおりです。だから、変化する前に叩ける。第一試合では、きのうの喜びのせいでぼんやりしてて、そのことを忘れてました」
「二線級やろうと油断したこともあったのう。どんな試合も、考えられるだけ考えて、ぶっ叩けるだけぶっ叩かんといかんばい」
「そうですね」
 鈴木のあと、七回からあの天覧試合の村山実と対戦した。右腕の血行障害にもかかわらず、カーブとフォークの切れはさすがだった。数球しか投げなかったストレートは走っていなかった。江藤も私もフォアボールだったが、四球はその二つきりで、打者十二人に対して、散発二安打、三振三で零点に抑えた。ザトペック投法は健在で、私は不覚にも目頭が熱くなった。
 ドラゴンズは、山中、坂東、小川と三回ずつつないでいき、打者三十四人、散発五安打、三振十で一点に抑えた。一点取られたのは勝利投手になった山中だった。三回にゲインズにラッキーゾーンに打ちこまれたものだった。
         †
 夜、一同宴会場に会した。目立たない程度に新聞記者たちが散っていた。宇野ヘッドコーチが立ち上がり、
「ついに一敗を喫したが、勉強になる一敗だった。百五十キロのピッチャーには緊張するが、百二十、三十キロの変化球ピッチャーにはついつい油断してしまうということだ。第一試合は、みんなコテンパンにやられた。ところが第二試合は、柳の下を狙って送りこんできた変化球ピッチャーを逆にコテンパンにノシた。これはすばらしい。しかし今回のようにわかりやすいピッチャーはめったにいないんだ。ストレートにスピードがあって、変化球も切れるというエース級のピッチャーを叩けるかどうかが常に課題になる。たしかにきのうの試合では、早い回にクリーンアップが江夏を切り崩した。しかしあとがつづかず、金太郎さんがソロを打ったきりだ。どんなエースも、一種類の球に絞って待たれると頭を抱えてしまう。最低その程度の工夫はしてくれ。あとは臨機応変。その場の直観」
 水原監督に代わり、
「何度も言いますが、四十敗は確実に喫すると覚悟してください。負けたときは、個人の研究課題だけを頭に残して、チームの勝ち負けのことはきれいさっぱり忘れてもらいたい。ドラゴンズだって負けるのだという事実をファンも噛みしめなくちゃいけない。それでこそ応援に力が入るというものです。一点差勝ちや一点差負けを喋(ちょう)々する輩が多いが、勝ちは勝ち、負けは負けです。そこに何の差もない。高校生じゃないんです。予選で勝って笑うな、負けて泣くな、優勝したときだけは高校生のように思い切り笑って泣きましょう」
「オー!」
 太田コーチに代わり、
「あさって二十二日から中日球場でアトムズ三連戦だ。この食事のあと、深夜に移動ということも難しいだろうから、あしたの午前早く、それぞれの待機場所へつつがなく移動してください。アトムズ三連戦は六時半開始のナイターになる。二十二日の三時半くらいまでに、中日球場に集合。うまく都合がつかない者も、六時までにはかならずベンチに入ること。先発予定は、初戦小川、二戦浜野、三戦田中勉、控えは、小野と伊藤久敏以外の全員。小野と伊藤は、アガリでベンチ入りなしだから、ゆっくり休養してくれ。じゃ、めし食って解散」
 適当に酒も入り、カラオケこそなかったが、長大なテーブルのあちこちで歌い出す者もあり、賑やかな会食になった。
「稲尾さんの好きな歌」
 と立ち上がって、田中勉が太い美声で『見上げてごらん夜の星を』を唄っていた。野辺地中学校の冬の校庭を思い出した。目をつぶって聴いている私に江藤が、
「八試合で十六本。きょうの第一試合のようなことが四十回あっても、百本は打てるやろう。ワシらは歴史を目撃しとるばい」
 高木が、
「江夏から打った一本目、あれと中日球場の時計塔と、どっちが飛んでるかな」
 一枝が、
「同じくらいだろう。百六十メートルはいってる。俺なんか一生に一本も百三十メートル級のホームランは打てない」
「まあそうだけどさ。とにかく金太郎さんのホームランは鑑賞用だ。阪神のやつらも楽しんだろう。甲子園のスコアボードが看板より低い位置にあることに初めて気づいたよ」
 菱川が、
「あそこまで飛ばされると口惜しくないんでしょうね。江夏もさばさばした顔をしてましたよ。彼の念願は、神無月さんから三振を取ることになったんじゃないですか」
 田宮コーチが離れた席から、
「そういえば、金太郎さん、八試合三振がないぜ。太田、三振数のシーズン最少記録は?」
「多いのは野村の百十二だって知ってますけど、少ないのはちょっと」
 長谷川コーチがヌッと顔を突き出し、
「古い話になるよ。シーズン三百打数以上で三人いる。たった六三振だ。昭和二十一年の坪内道典、昭和二十六年の川上哲治と酒沢(さかざわ)政夫」
 私は、
「川上しか知りませんね」
「坪内は戦前のライオン、朝日、戦後のゴールドスター、金星、大映といろんなチームを渡り歩いて、最後は中日ドラゴンズに骨を埋めてる。酒沢は百五十三打席連続無三振で有名だ。彼も坪内と同じチームを転々として、最後は阪急だ。ぜんぶ昭和二十年代までのことだよ。三十年代以降はそんな大記録は出ていない。ただ、彼らはみんな、金太郎さんみたいな強打者じゃない。川上さんも大下みたいな強打者と言えないだろう。ベーブルースに匹敵する強打者で、三振の少ない選手は過去に一人もいないんだよ。歴史を目撃してるとするなら、それも一つだね」
「ベーブルースの三振数はどうなんですか」
「二十二年間で、シーズン最多三振を五回も記録してる。だいたい九十個ぐらいだね。野村は百十二という記録を持ってて、去年までの十五年間で千個以上の三振をしてる。王も三振は多い。百を超えたシーズンもある。ふつう、スラッガーというのはそういうものなんだよ」
 太田がブレザーのポケットからパンフレットを取り出し、
「長嶋は少ないです。去年まで最少二十八、最多七十四です」
 水原監督が、
「長嶋茂雄はスモール金太郎だよ。華があって、チャンスに強くて、とぼけていて、大らかだ。でも、ラージ金太郎になる部分が欠けているんです。もちろん野球の成績は金太郎さんよりスモールなのは当然として、思考力、人間的なふくらみ、情緒、慈愛といったものがほとんどない。実際に金太郎さんに出会ったわれわれは、才能はもちろん、そういう豊かな情緒にあふれていることにショックを受ける。長嶋を前にして泣きたくなる人はいないでしょうが、金太郎さんを前にすると泣きたくなります。人は自分に見合った人間しか愛せない。その意味では、長嶋のほうがはるかに庶民に愛されるだろうね。彼のほうが庶民を突き離している分プロらしいし、金太郎さんは庶民に気兼ねする分プロらしくないからね。金太郎さんは、私たちのように実際に出会って、生活をともにした人間にその真価を認められる人だよ。それでも金太郎さんは、出会ったことのない庶民も愛そうとする。神無月郷の人間の大きさは測り知れない。そういう気組みは私の生き方に大いに影響を与えている。きみたちもそうでしょう」
 賛同の声ががやがやと上がった。一枝がハンカチで鼻をかんだ。


         四十一

 浜野がガハハと笑い、
「江夏はさばさばしとったかもしれんが、僚友田淵がしょんぼりしとったのがかわいそうだった。さっき電話をしたよ。神無月のことをでかい人間だと言っとった。いっしょにプレーできるやつは幸せだって。おまえトロトロしとる、と金太郎が言っとったぞと教えたら、反省してる、がんばると応えた」
 私が、
「言っちゃったんですか!」
「バッター月旦がロッカールームに聞こえてきたからな。おまえの言うことは的を得てるよ。あいつはお坊ちゃん育ちだから、チヤホヤされるとつけあがっちまうんだよ。もっと言ってやらんといかん。おたがい巨人にいかなくてよかったなと言って、電話を切った」
 吉沢が、
「神無月さんは私どもにも礼儀正しく接してくれます。近鉄にはそんな選手は一人もいませんでした。オールスターにも四回出ましたが、やはりそんなスター選手は一人もいなかったですね」
 浜野が、
「俺、田淵を介して江夏と話をしたことがあるんだよ。プロたるもの、弁慶的な態度が必要だと言ってたな。つまり、意識してえらそうにする必要があるということだよ」
 その話はさっき太田に聞いたばかりだ。江藤が、
「ワシはこの何カ月かでその考え方はまったくなくなってしもうた。たしかにプロの使命は勝つことばい。威張りたかて思うとるやつは、勝てば威張れるばい。ばってん、負てしもうたらどうすっとね? もう一度威張るために、負かされた相手ば打ちのめすよう鍛錬するか、それとも、威張れんようにさせられたことば憎むしかなか。自分ば負かした相手がハナから何も考えとらん人間やったらどうすっとね? 勝とうと負けようと、どこ吹く風みたいな人間やったらどうすっとね? 鍛錬しても空しいし、憎んでも空しいかろう。江夏がさばさばしとったんは、今回、直観でそう感じたけんたい。田淵も同じたい」
 徳武が、
「金太郎さんは〈勝つ〉ということをどう思ってるの? ぼくなんか、いまの自分の状況を敗北と捉えてるけどね」
「人に勝つとか、自分に克つとか、よく人は言いますが、一度もそういうことを考えたことはありません。ということは、負けることも考えたことがない理屈になります。頭にあるのは、勝敗と関係のない〈美〉だけですね。自分が美しくあり得たか、心も行動も―。ぼくは徳武さんの心や行動を美しくないと感じたことがありません。用いられずんば去るという社会的摂理からすれば、それは敗北に分類されるんでしょうが、技量や年齢から考えた単なる道具としての衰えでしょう。道具は使えば衰えるのはあたりまえで、それは敗北というものじゃなく、休息と言うべきものでしょう。人間的な美とはまったく関係がありません」
 葛城が、
「心や行動の美というのは、どういうもの?」
「心が美しくあるためには、日々人間のことを思わなければいけないし、行動が美しくあるためには努力と感謝が欠かせない、そういうものです」
「感謝って?」
「自分を行動させてくれる対象に対する報恩の気持ちです。行動の素は感動ですから、自分を感動させてくれた対象に対する報恩です。野球は原始的に胸をふるわせるほどぼくを感動させてくれましたから、鍛錬と成果で感謝を表します。友人は全肯定という義侠でぼくを感動させてくれましたから、全幅の友情という形で感謝を表わします。女性は愛という命の存続の根本を教えて感動させてくれましたから、愛し返すという行動で感謝を表わします」
 水原監督が、
「これ以上は何を言っても、問いかけても、同じ反応だよ。金太郎さんは清濁併せ呑む総合的な人間であって、野球人という一つの分野に分類される存在じゃない。金太郎さんがいなくなれば、私たちはただの野球チームの一員に戻る。彼がいることで、中日ドラゴンズというこの単なる野球チームが、一段高い世界に属しているんだ。めずらしいだけの存在と思うならば、めずらしがってかわいがってやればいいじゃないか。人畜無害なんだから。彼にいつまでも私たちのそばにいてもらいたい。そうして、不思議な世界をいつまでも体験させてほしい。乾杯!」
「乾杯!」
 また江藤が抱き締めてきた。小川と木俣がビールを持って寄ってきて、
「あさってのフリーバッティングのときさ、ちょっと試したいボールがあるんだよ。打席に立ってくれる?」
 木俣が、
「まだ未完成なんだ。王対策の背面投げ。振りかぶって後ろに腕を下ろしたとき、手首だけで投げる。健さんはものすごく関節が柔らかいんだよ」
「ベースに届くんですか」
「届く、届く。びっくりさせるのが目的だから、一試合に二、三球しか投げないよ。ランナーなしで王が打席に入ったときだけ。一個でも凡ゴロを取れればいいやって感じ」
「わかりました。打っちゃっていいですか」
「いい、いい。それで使えるかどうかもわかる」
「ぼくにゴロじゃなくホームランを打たれたら使いませんか」
「きっぱりあきらめる」
 徳武が、
「ぼくにも打たせろよ」
「だめだめ、左バッターだけ」
 千原が手を挙げ、
「私にも―」
「本気で打てよ」
「はい。小川さんのストレートの切れは抜群で、うなりをあげてきますからね。変化球もするどく切れる。内角のスライダーと外角のシュートは、一度もジャストミートしたことがありません。でも、背面投げなら打てるでしょう」
「打てる。ショートゴロくらいならな。外野にパーンと飛ばすつもりで振れよ」
「わかりました」
 小野までやってきて、
「小川くん、聞きたいことがあったんだ」
「何ですか」
「小川くんは、キャンプ初日から全力投球できるよね。平気でフリーバッティングでも投げてるし。あれ、どうなってるの」
「バーベル、ダンベルですよ。居間に置いてあるんです。ピッチャーはウエイトやっちゃいけないってことになってるでしょう。筋肉が硬くなるからって。迷信だね。肩と腕力だけじゃピッチャーはだめなんですよ。全身を鍛えなくちゃ。水泳もOKですよ。肩なんか冷えないから。ま、ブルペンでどんないい球投げたって何の役にも立たない。実際のバッターを相手にしなくちゃ」
「……考えてみたら、そのとおりだ。さすが沢村賞。うーん、ウエイトか」
 マウンド上でピョンピョン跳ね上がるような身のこなしで、低目の両サイドにシュートとスライダーを投げ分ける変幻自在なピッチングを思い出した。小川は木俣をへんな二重まぶたで睨んで、
「それより達ちゃん、おまえ浜野の根性を鍛えなきゃだめだぞ」
「わかってますよ」
 十時を過ぎて、酒や懇談がつづいている中、江藤と部屋へ引き上げて風呂に入った。
「博多の家にはときどき連絡入れてるんですか」
「たまにな。アメリカ人んごつやさしゅう相手しきらん。女房子供は遠くでワシのことを偲んでくれちょるばい。健太郎なんか、家が千種やけん、近すぎるゆうてぼやいとる。四人の子供がじゃかましかて。ばってん、ノンプロじゃめし食えんゆうてプロにきたんは、ほんなこつ家族のためやけんな。野球やれるならどこでもよかちゅう人間やけん、スケールがちごうとる。金太郎さんと同じ大天才たい」
 江藤がからだを洗っているあいだに風呂を出て、備えつけのティバッグの緑茶を飲む。やがて江藤が上がってきて、自分も茶をいれながら、
「一枝が泣いて、鼻かんどったの。水原さんはよかことば言う。頭が切れる。めずらしがってかわいがってやれ、か。ワシらの気持ちばスッと表現してしまう。吉沢さんも言っとったが、ワシもオールスターでいろいろなスター選手に会った。やつらは挨拶もせん。たとえ挨拶しても、体裁つけとるだけたい。自分がいちばんと思っとるけんな。尾崎と杉浦はちごうとった。心から挨拶しよった。金太郎さんはええ眼しとる。尾崎の背番号ば撫ぜとったのを見て、ワシゃ目が熱うなった。ああいうふうに人を心から尊敬できるゆうんはどういう心の仕組みやろうて思うと、鳥肌が立ったばい。……水原さんの言うとおり、いっしょに時間をすごしゃんかぎり、金太郎さんのすごさはわからんたい。あしたは北村席さんに寄らんで帰るわ。寮でちょっとバットば振りたかけん」
 江藤が寝入ってから、机で浮雲。
 ―すばらしい。登場人物たちが血肉を躍動させて生きている。かつて埴谷雄高の死霊を読んで以来、文学一般を信頼しなくなったが、これを読んで思弁的文学を捨てればいいだけのことだと気づいた。芸術への深い信頼が回復した。観念的な思わせたっぷりの思弁的小説は、登場人物のだれ一人として肉体を獲得しない。観念の亡者たちがとりとめのない世迷言を延々と吐きつづけてやまない。観念の亡霊に取り憑かれる文学人はいつの時代にも存在し、ドストエフスキーのような過去の天才作家たちがこしらえた深い思想を看過し、難解な表現だけをまねて、なんだか自分も難解な観念の理解者であるかのように錯覚して満足している。そういう作品は、難解好きな文学青年ばかりでなく、職業的な文芸評論家や編集者にも支持され、一つの時代を巻きこむ。
 文学は、温かい血肉にあふれる思想をふつうのだれにでもわかる言葉で構築しなければならない。その意味で浮雲は文章芸術の高みにある。林芙美子には時代の文学的流行などにはまったく左右されない確固たる信念があり、それはすべての文学人の戒めとなり得る。
 たしか林芙美子は放浪記か何かにこんなことを書いていた。
 ―イズムで文学があるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。
 浮雲には人間が描かれている。悩んだり、喜んだり、シラけたり、退屈したり、絶望したり、一時の快楽に溺れたり、自殺したいと思ったり、未練たらしかったりする人間が描かれている。じぶんをくだらないロクデナシと思いながら、その思いから抜け出せない人間を描いている。だれ一人として潔癖な人間はいない。すばらしい!
 埴谷雄高は時代の寵児となり、いまなおつまらない小説を書き継いでいる。
 二時就寝。
         †
 四月二十一日月曜日。八時起床。ふつうの排便、シャワー。耳鳴りが消えている。枇杷酒でうがい。
「遅くまで起きとったな。ひょっと目が覚めて、金太郎さんの背中見とったばい。……光っとった。……病気せんようにな」
「はい」
 江藤がカーテンを開ける。霧雨。十五・三度。汚れ物とバットを北村席に送り返す。一階の『マグネットカフェ』で、仲良し四人組でモーニング。スクランブルエッグ、ソーセージ二本、ベーコン二枚、めし。パンは食わない。
         †
 午後一時過ぎ、ダッフルとスポーツバッグを肩に、四人名古屋駅の新幹線ホームに降り立つ。曇り空から霧雨が舞いこんでくる。主人と菅野と千佳子が迎えに出ていた。
「どうも!」
 江藤たちが明るく挨拶する。女将は彼らに用意してきた傘を渡した。主人が、
「テレビ放送がないんで、全試合ラジオで聞きました。江夏を打ちこんだ試合はもちろんのこと、一敗した試合もすばらしかった。手に汗握りました」
「恐縮ですたい」
「若生デンスケにやられた」
「ははあ、そう言えば彼は似てますな。大宮敏光に」
「金太郎さんがそう言うけん、笑うたばい。速球派のころは打ちやすかピッチャーやったばってんが、ウルトラマンになりよった。いずれ固定したメンバーになれば、ドラゴンズはもっと強うなります。菱と太田の二人はもう動かんやろう。利ちゃんが二十六日からの阪神戦に戻ってきたら、八人パチッと決まります。だれかが故障するまではな」
「中さんはだいじょうぶですかね」
「毎年のことばい。だいじょうぶ」
 女将が、
「お茶でも飲んでいってください」
「いや、こいつらとバットを振りますけん」
 私は千佳子に、
「あしたからナイターなんだ。夜に甲子園の荷物が届くと思うけど、クリーニングに出すようにイネかソテツに言わなくちゃ」
 菱川が、
「あわててクリーニングに出さなくても、もともとホーム用五着、ビジター用五着あるんじゃないんですか」
「そうだった」
「二軍なんか一着しか支給されませんよ。俺たち一軍控え組はホーム、アウェイ二着ずつです。三連戦はいつも一着でしのぎます。もったいなくて」
 太田が、
「もう一着作ってもらえることになったはずですよ」
「そうだ、三着になったんだった。もう寮のほうに届いてるはずだな。ただ、五着はすごいよ」
「そんなものケチらずに着ればよか。毎年支給されるんやけん。じゃ、金太郎さん、あした球場で」
「はい、あしたは朝のランニングを控えてゆっくりします。球場に早目に入って、少し走ります。鏑木さんきてますよね」
「きとる。あの人はバッティングピッチャーもやってくれるし、ケージ出しの手伝いもやってくれる。頭が下がるばい。それじゃ」
 江藤たちとは名古屋駅のコンコースで別れた。主人が彼らの背中を見送り、
「この連戦は疲れたでしょう」
「いや、大して。ゆっくり風呂に入ります」
 西口に出ると菅野が私に傘を差しかけ、
「めしを食ってから入ったらどうです?」
「いや、めしは風呂から上がってからにします。そのあと夕方まで寝ます」


         四十二

 大きな腹のトモヨさんが門まで出迎える。
「お帰りなさい! 甲子園はどうでした?」
「きれいだった。大きくて整然としてて」
「さあ、新聞、新聞」
 主人が早足で庭石を踏んでいく。玄関に女たちが並んでいる。
「お帰りなさいませ!」
 イネとキッコが華やいだ声を上げる。女将がイネに、
「お風呂、沸いとる?」
「はい、沸いでます。流し場だけチャッと湯垢掃除します。吉沢さんというかたから、神無月さんに遊びにきてもらうことになって喜んでいる、住所をお知らせする、という電話がありました。メモしておぎました」
「ありがとう。律儀な人だ。こんなに早く」
 居間に落ち着く。主人が、
「吉沢さんというのは、松商学園のキャッチャーですね。巨人にいった堀内庄と甲子園でバッテリー組んでた」
「中日から近鉄へいって、また今年中日に戻ってきたキャッチャーだと聞いてます」
「強気のリードで定評のあるキャッチャーでしてね。河合保彦からレギュラーを奪ったんですけど、濃人の粛清政治のあおりで近鉄にトレードされたんですよ。近鉄では正捕手だったんやが、去年相川プラス杉と交換で中日に戻ったんですわ」
 二人とも名前に聞き覚えがない。
「詳しいことは知りませんが、つらい目を見たと聞きました」
「一度ここに呼んでお話したいですな」
「そう伝えます。喜びますよ。ところで河合保彦ってピッチャーじゃなかったですか」
「あれは河村保彦。紛らわしいですよね。河合は、昭和二十九年、杉下とバッテリーを組んで、ドラゴンズの初優勝と日本一に貢献したキャッチャーです」
 主人がニコニコ新聞を広げ、
「これこれ、きのうの新聞です」
 大見出しが目を射った。

   
マシン! 一ミリの狂いもなし!
     エゲツナ! 別格インパクト百六十五メートル弾甲子園看板直撃 


 看板の少し下ではなかったか? バットを振り抜く姿、外野フライを捕る姿、望遠で撮った眼鏡顔など、適当な大きさにカットされた私の写真が散りばめられている。

 天馬神無月が満を持して江夏と対戦した。オープン戦以来、神無月の打撃の調子はうなぎ上りなどという生やさしい形容ですむものではなく、自動化したマシンの精度をいよいよ高めているとしか言いようがないものだ。若武者が超近代的マシンの鎧を着た雰囲気さえ醸している。
 江夏は極限まで緊張していた。対する神無月は機械のように落ち着いている。ようやく田淵のサインにうなずき、投げこんだ初球はインコース低目の猛速球。まかりまちがえば神無月の〈いただき〉になるコースをぎりぎり抉るストライク。マシン神無月はピクリとも動かない。長い投球間隔。田淵が鼓舞の声をかける。奪三振王江夏がここまで緊張する姿を見せるのは初めてのことだ。王に対戦したときでさえここまで緊張していなかった。二球目、真ん中高目さらにスピードを乗せた速球。ボール。マシンはやはり動かない。江夏は落ち着きなくマウンドを動き回る。三球目、神無月の顔目がけて飛んできたボールがかすかに曲がる。田淵が神無月の顔の前でキャッチした。マシンはわずかに上体を反らせただけだ。ボールの勢いから予測して、顔の直前で曲がると見切っていたのだ。恐ろしい眼力に驚き、田淵もしばらく茫然とたたずんでいた。江夏が目立たないように謝罪の合図を送る。神無月は微笑してうなずいた。われわれ記者たちのあいだに感嘆の息が洩れた。これから何年にもわたって好敵手でありつづけるだろう二人に、友情のようなものさえ感じたのである。
 四球目、江夏の足がプレートを蹴り、上体が滑らかに力強く倒れこむ。胸もとの快速球。見逃せばボールだ。どこからバットが出たのかと思われるほどのスピードで光が一閃する。ボールをひしゃぐ衝突音。別格のインパクトだった(写真右上)。打球の速度と角度がえげつなかった。規格外の打球が青空目指して伸びていく。前人未到の距離だと一目でわかった。右翼照明灯の足もと、看板の最下部へ白球が矢のように突き刺さった。だれもがこのホームランを目撃できたことに深く感動し、そして感謝して静まり返った。黙々とダイヤモンドを回る神無月の孤高の姿。やがて孤独なマシンを慰撫する海鳴りのような大歓声が上がった。水原監督が抱き締める。こいつは神でも機械でもないぞ、血のかよった一人の男なのだぞ、というふうに。泣き笑いの顔で仲間たちが次々と抱き締めていく。目頭が熱くなった。
 われわれ、現代社会のスポークスマンである報道人は、ふだんは何の軋轢もなく人びとに受け入れられる。神無月郷は冷やかに扱われる。与えられるのは驚嘆の喚声だけ。彼には社会的に発したいメッセージがないからだ。道端で立ち止まって野球少年たちに快くサインをしてやる姿からわかるように、彼は個々のファンをこよなく愛してはいるのだが、みずからの野球の技量や成果に関するメッセージを社会全体に届けようとしない。だから自分やチームの展望も語らない。ただ、どこからかやってきて、野球をしているだけだよ、という姿勢を貫徹している。
 彼にどう応対されてもいい。彼の超絶な野球人としての姿を目撃し、それに驚嘆できさえすれば―。われわれ報道人も神無月ファンと同様、そろそろそういう気持ちになってきている。水原監督やチームメイトのように彼を心の底から愛する気持ちに。


「文学ですね」
「こんなふうに書きたくなる気持ちにさせるんですよ。よくわかります」
 菅野が新聞を受け取り、食い入るように読んでいる。
「お風呂、きれいになりました」
 イネがやってくる。うれしそうに微笑む。女将が、
「上がったらごはんにしましょう。神無月さん、すぐ寝るそうやから」
 トモヨさんが、
「離れを使ってください」
 湯船に浸かっているとイネが入ってきた。
「いってこいって奥さんに言われて」
「もう、いいの?」
「はい、出してもだいじょぶです。千佳ちゃんに教えでもらった。今月は十八日から二十五日です。マンジュ、うずうずしてらった」
 握ってくる。立ち上がって含ませる。
「ああ、このカモ、逢いたがった」
 縁に坐らせて、脚を開き、舐める。
「ああ、いい、神無月さん、好ぎだ、好ぎ好ぎ、ああ、すぐイグよ、イグ、イグイグ、イグ!」
 グイと両脚を伸ばし、縁に両手を突いて思い切り痙攣する。静まったところで、湯に立たせ、後ろを向かせる。ゆっくり挿入する。
「あああ、好きぎだよ、神無月さん、死ぬほど好ぎだよ、ああマンジュいい、こたらに気持ぢいいこど、この世にあるってが、あああ、イグよ、イッてまるよ、あ、あ、あ、イグウウ!」
 ブルンと尻が跳ねる。うねって締めつけはじめる。私にも兆しが押し寄せ、
「イネ、イク!」
「あああ、愛してるじゃ! ああああ、気持ぢいい! いっしょにイグ! イグウウ!」
 律動をしっかり与え、悶え狂うからだを抱き締める。
「止まんね、止まんね、イグイグイグ、イーグウウウ!」
 右手を伸ばすので、しっかり握ってやる。左手で痙攣をなだめるように腹をさする。目をつぶった愛らしい顔が振り向き唇を求める。吸ってやるとまた痙攣する。どれほどの快感なのか想像もつかない。ほとんどの女がこうならないということが理解できる。私という男が生れてきた意味の一部はここにあるのだろうが、そうでない男がほとんどだということも理解できる。
 引き抜くと、イネはふるえながら、流れ出る精液を指で掬って口に含む。
「おいし」
 イネは湯殿に出て股間を洗い流し、ようやく落ち着き、微笑みながら湯に沈んでくる。
「ごっそさま。からだがうだでぐ軽ぐなりました」
 頭を預けてくる。
「ああ、好ぎだ。ワなてみ女を抱ぐ人でねこどわがってらたって、抱がれると、ちゃっけころがらワのこど好ぎだったんでねがって錯覚してまる。いい気になってしまる。すみません」
「小さいころに遇ってたら、すぐ好きになってたよ。かわいいから」
「神無月さん!」
 長いキスをする。
「あだし、お嬢さんのアヤメがでぎあがったら、そっちの店さサブチーフってのでいぐこどになりました。チーフは百江さん。九月ぐれからだと思います。なんだが、おっかねよんだ」
「だいじょうぶだよ、適任だ。イネはボーッとしてて、カドがないから、みんな窮屈でなく働ける」
「ほんだな? だばいいども。訛りが……」
「そのままでいいよ。お客さんにも親しまれるだろう」
 イネはちゃぷちゃぷ湯をもてあそびながら、
「……ドキドキして、ラジオ聞ぐの、たいへんだった。日本一のピッチャーから大っきたホームラン打って、夢中で拍手してしまった。菅野さん、やっぱり、やっぱりって言いながら泣いでだよ。女の人たぢは跳ね回るし。水原監督と抱き合ったって放送してらった。江夏さんは、唇ゆがめでだげど、少し笑ってだってよ。ジンどきた。男ってきれいだなって思った」
「ぼくはきれいな人たちに囲まれてる。男も女も。このお湯みたいに、いつまでも浸かっていたい」
「ワも」
 からだを洗い合ってから上がった。イネは台所へいき、私はトモヨさんの離れへいった。カズちゃんたちの声が聞こえてくる時刻まで眠った。
         †
 起き出して、歯を磨く。直人が洗面所に走ってくる。
「おとうちゃん、ちゃちん、おとうちゃん、ちゃちん」
 居間にいくと、主人と菅野が切り抜き用にどっさり週刊誌を買いこんできていた。女将とトモヨさんまでがしきりにページをペラペラやっている。直人が主人にまとわりつく。
「広島戦の特集が出ましたんでね」
「そんなにたくさん! すごい値段でしょう」
「一冊七十円から百二十円です」
 言われても物価の感覚がない。四歳か五歳のときじっちゃにもらった五円、保土ヶ谷日活の小人料金十五円、康男におごってもらった屋台のラーメン三十円で感覚が終わっている。自分の給料の正体は永遠に知れない。
「朝日グラフには、外木場が投げたときの実況アナウンスのソノシートも入ってるんですよ」
 廊下越しの座敷にカズちゃんたちがいる。キッコや近記れんもいる。入っていくと、ワーッと拍手が上がった。
「やったね、キョウちゃん。尾崎、金田、江夏、これで対戦したい人とぜんぶ当たったわね」
「うん」
 素子が、
「全員からホームラン打ったがや」
「きのうは、村山さんとも対戦した。フォアボールだった。杉浦さんからもホームランを打ったし、あとは稲尾さんだけ。でも、対戦しないうちに引退していっちゃうな」
「あしたのアトムズには、対戦したい人はいないの?」
「ぜんぜん。一度オープン戦をやったけど、だれが出てきたのかも忘れちゃった」
「じゃ、また打ちまくりね」
「きのうの若生みたいなこともあるから気をつけないと」
 千佳子が、
「成績ノートはつけてますから、いつでも訊いてくださいね」
「うん、ホームラン十六本だけはわかってる」
「盗塁、二回」
「二回? ああ、江藤さんとのダブルスチールも入ってるんだね。中さんがいないうちに、うんと走ろうと思って」
 カズちゃんが、
「ケガをしないようにね」
「チャンスを広げる走り方しかしないよ。どうもフォアボールで出ることが多くなりそうだから」


         四十三

 天童が丸の顔を見て、
「今度のナイターが、ちょうど火水木で月金を外れてるから、二人とも観にいけないんです。残念」
「六時半からでしょ。五時には上がるんだから、おとうさんに連れてってもらいなさい」
 丸が、
「旦那さん、あしたいいですか」
「ええぞ。火水と、信子、優子の順で連れてってやる。三人座れるで、木曜日にもう一人いけるぞ。いったことないやつ」
 ソテツが手を挙げた。
「おまえ、野球わかるんか」
「わからなくても、観たいです」
「そうよ、おとうさん、連れてってあげなさいよ」
「わかった。ほかには」
 キッコとメイ子が手を上げる。
「よし、三日目ソテツ、阪神二連戦は、一日目キッコ、二日目メイ子の順でいこ」
 カズちゃんが、
「いままで中日球場にいったことある人は?」
 百江が、
「私、オープン戦の東映戦で」
 カズちゃんが、
「私はその東映二回戦にいったわ。このあいだの巨人戦の初日は、文江さんと、節子さんと、キクエさんと、千佳ちゃん、ムッちゃんだったわね」
 千佳子が、
「私はオープン戦の広島戦を入れて二度いきました」
「北村の子もアイリスの子も、ほとんど観てないんじゃないの。もう、これから順繰りいきなさい」
 みんなでうれしそうに胸の前で手を叩いた。カズちゃんが、
「阪神の二連戦は二日とも私もいく。江夏を見たいから。私は一塁スタンドの指定席で観るからいいわ。いきたい人は私といっしょにいきましょ。れんさんもしずかさんもいきたいでしょ?」
「はい!」
「トモヨさんはしばらくお預けね」
「はい。身動きとれませんから」
 と言って愉快そうに笑った。
 NNNの特番ニュースフラッシュという番組で、私が〈ジョギング仲間〉とランニングをしている姿や、花屋でマスターや女将さんやお婆さんと歓談しながらオムライスを食っている笑顔や、中日球場の正門で子供たちに囲まれてサインしているまじめな顔や、江夏からホームランを放って黙々と走る横顔がつなぎ合わさって映し出され、

 
庶民の応援を追い風にして羽搏く天馬神無月郷

 というテーマで放送された。みんな食卓を離れてテレビの前に集まった。菅野が、
「ジョギング仲間!」
 としきりに冷やかされる。
「苦肉の策で、そう答えたんですよ」
 青森高校野球部室での相馬先生、西高顕彰碑の傍らに立つ土橋校長、東大野球部グランドでの鈴下監督、なんと飛島建設寮の大沼所長までがインタビューを受け、みごとに私を褒め上げていた。
「人間的な深みに圧倒され、野球の才能を忘れるほどでした」
 と相馬先生は言い、
「奇抜でいて、馥郁とした人格だった。末永く本校の誇りとなる人物だ」
 と土橋校長は語り、
「たとえもう一度生まれ変わっても、二度とふたたび巡り会えない神人であり、慈愛の人だった」
 と鈴下監督は目にタオルをあて、
「外面も内面もあんなにかわいらしい子はいない。永遠に自分の息子だと思っている」
 と大沼所長は目を潤ませた。母までチラリと登場して、
「野球はあの子にとって、東大を捨ててまでもやる価値のあるスポーツだったんでしょう。ラクをするのが嫌いな変人を生んでしまったということですね。つつがなくプロ野球の世界で生きていってほしいと思います」
 と、彼女にしては殊勝なことを言った。千佳子はムッとして、
「冷たい」
 とひとこと言った。
 賑やかな食事のあと、私はひさしぶりに主人や菅野たちと清酒を飲み、直人をあぐらの中に抱きながらマイクを手にカラオケをやった。ピンキーとキラーズの恋の季節を唄った。直人は膝の上でキャッキャッと叫んだ。千佳子が写真を撮りまくった。家中のものがほのぼのと酔い、酒に弱い私が座布団を枕に眠りこんでしまってからも唄い騒いでいた。
 菅野の肩を借りて車に乗りこみ、則武の家につくと、カズちゃんとメイコに下着だけにされて蒲団に押しこまれ、前後不覚に眠った。
         †
 眠りが足りすぎている感じで目覚めた。明け方の五時。カズちゃんの寝室にいた。寝床の中で命の原初を思い巡らす。母ともう一人の女と幼女のいる部屋、私に突かれて転げていく幼女、公園の暗がりを歩きながら私といっしょに三輪車を探す母の横顔、じっちゃの膝で読む新聞のひらがな、だるま印の一九五三年のカレンダー、肩に飛び乗ってくるミースケ……。すべて四歳までの走馬灯だ。
 葉を打つ雨音がする。枕もとのタイメックスは十六・八度。蒲団を抜けてカーテンを開ける。小雨。にわか雨のようだ。風呂場にいき、歯を磨きながらシャワーを浴びる。風呂を出て枇杷酒でうがい。乱れ箱に入れてある新しい下着に替える。
 ―下着を替える習慣はいつから?
 思い出せない。浅間下の風呂屋から? たぶんそうだろう。とにかく風呂というものに馴染んでからだ。西松の飯場に入ったころには習慣づいていた。原初の記憶に比べたら何ほどのものでもない。どうでもいい。
「おはようございます」
 メイ子が起きてくる。
「おはよう。まだ五時半だよ。寝てればいいのに」
「いえ、よく寝ました」
「カズちゃんは?」
「私の離れに。もう三十分もしたら起きてくると思います。この雨、だいじょうぶでしょうか」
「ぜんぜん平気だね。傘を差すかどうか迷う程度の雨だ。グランドのオシメリだよ。野球場は人工的に工夫されて土を敷いてるから、よほどの豪雨でないかぎり、水はけが利いてるんだ。マウンドとホームには一応シートを張るしね。中日球場五連戦なんて夢みたいだ」
「そうですね。私も毎日そばにいられて夢みたいです」
「人間て、家にいたい動物なんだね。動き回りたくないというか」
「そうですよ。出歩くにしても、自転車で乗り回せる距離がいいですね」
 カズちゃんがキッチンに姿を現した。メイ子がパッと笑い、
「あ、おはようございます」
「おはよう。キョウちゃん、早いわね」
「きのうは、昼も夜も寝た。酒を飲むといつもああなっちゃって、みんなと長く騒いでいられない。山口もよしのりも、松尾も御池も、東大の野球部連中も、ドラゴンズのチームメイトも、みんな酒の酔いを楽しむことができる。もう少し酒を楽しめるようにならないと、みんなをシラケさせてしまう」
「三つも連続して試合をやったから疲れてたのよ。疲れを取るには睡眠しかないの。菅野さん、何時に中日球場にいくって?」
「二時」
「キョウちゃん、早めに球場に入りたいって言ってたでしょう。北村でお昼食べて待ってればいいわ」
 朝食ができるまで机に向かう。高島台から浅間下への引越し。宮谷町の空が鳴っていた描写。坂本の大家さんの描写。直人の顔を思い出し、鉛筆が止まる。あの子は私のような生活を送らないですむだろう。父から隔てられていない日常が生きる力となるような生活を。それだけでも救われた気持ちになる。
 牛巻坂をまったく書いていないことに思い当たる。たしか、自殺した男の末期(ご)の夢の中で明るい未来が約束されるような小説のアイデアもあった気がするが、思い出せない。
「ごはんよー」
「ほーい」
「はい、中日新聞。川上監督が何か言ってるわよ」

  評価はまちがっていた
    天馬は全プロ野球選手の目標

 見出しだけで、あとを読まなかった。水原監督の苦笑いが浮かんだ。
「自分の直観でまちがっていないといったん思ったら、世間がどう言おうと、それを通すのが人間だ。振り返って、まちがってなかったと確信するかもしれないんだから」
「なかなかそんなふうに潔く生きられないものよ」
 どんぶり飯に目玉焼きとウインナーソーセージ三本を載せてショウガ醤油をかけたウインナー丼。豆腐とレタスの味噌汁。
「うまい!」
「朝はサッパリとね。朝からステーキの日もたまに混ぜて」
 彼女たちが出かけると、上半身裸になり、バットとタオルを持って庭に出る。霧雨が降っている。きょうから片手振りを五十本ずつ取り入れることにする。左腕の確認から。十本、二十本、痛まない。五十本やり切る。右腕五十本難なく。左腕のタオルシャドー、強めに二十本。まったく痛みがない。腕立て百回。片手腕立て二十回ずつ。腹筋背筋百回ずつ。二の腕の太さを比べる。やや左が細い。前腕はほとんど変わらない。肩の周りに関節を護る筋肉がしっかりついてきた。ジムトレのおかげだ。中一の手術から七年、ついにここまできた。素振り、腰の回転を意識して六コース五十本ずつ計三百本。パンツ一丁だったことに思い当たり、あたりを見回す。完全な遮蔽垣。汗をかき、雨に濡れた。もう一度シャワーを浴びにいく。
 カズちゃんの本棚から、定本生田春月詩集という本を取り出す。聞き慣れない名前の詩人だ。そのままカズちゃんの机で読む。
 家庭もあり、女性関係も潤っていた生田春月は、三十八歳で船上から海中に身を投じて死んだ。解説を読んでいくと、ひたすら絶望することが好きな男だったようだ。芥川の影響もあったのだろう(彼の自殺の数年前に死んでいた)、死ぬことが文学者の高名を保証すると信じていた節がある。正直言って、身につまされるありがちな生き方だとは感じ入ったけれども、いかんせん作品自体が粗雑かつ稚拙なので、せっかく感じ入った気持ちも醒めてしまうようだった。遺書の『海図』など、書き写すのも恥ずかしい。船内の壁に掲げてある海図は飛びこむ寸前の自分の心を表している、という意味不明のものだった。文明社会の中で不遇な詩人であるわが身を月に向かってかこち、商業主義の文章こそ新しい詩だ、と居直りの遠吠えをしている『オーサカ』という詩もあった。巻末に『聖書』という随筆も一つ載っていて、これまた流行を謳歌する既成詩壇に対する貧しい遠吠えだった。
 それでも三時間ほど熟読した。昼近くになった。雨の晴れた空の下を北村席へ出かけていく。千佳子は授業。トモヨさんがコーヒーをいれる。あとを追うように主人と菅野が見回りから帰ってきた。彼らにもコーヒーが出る。ほとんどの女が早番で出たようで、座敷に女たちの姿がまばらだ。キッコがアイリスのメニューらしきものを暗記していた。
「やってるね」
「来週から出勤するんよ。迷惑かけんようにせんと」
「雨、上がりましたな」
「はい。眼鏡が濡れずにすみます」
「雨のナイターのときはどうしますか」
「外してやります。あそこまで明るいと、日中と大差ないとわかったので。ただ、雨の薄暮のときが困りものです。眼鏡拭き拭きやるしかありません」
 菅野が、
「曇り止めを買ってきてあげますよ」
「そんなものあるんですか」
「あります。ふつうのスプレーの形です」


         四十四

 昼食が用意されるあいだ、私は主人に訊いた。
「中日の初優勝は球場で見たんですか?」
 主人は女将の顔を見て、
「見ました。トクと二人で観にいったなあ。一、二、六、七戦を中日球場でやったんですが、トクとは第一戦だけ観にいきました。私は優勝を決めた第七戦もいきました」
 菅野が、
「私は、会社サボって、その四戦をぜんぶ見ましたよ」
「何をおいても印象に残ってるのは、大エース杉下茂です。第一戦開始直前、杉下がキャッチャーの野口を坐らせて、五、六球、鬼の形相で全力投球したんですよ。杉下というのは、試合でもめったに全力で投げたことのない男で、投球練習も捕手を立たせてキャッチボール程度。だから全力投球を見て、びっくりしちゃって。打てるものなら打ってみろという西鉄に対するデモンストレーションだったんでしょう。で、十二奪三振」
 菅野が、
「第一戦は、センター本多の超ファインプレーもありましたね。左中間に抜けたと思った打球に飛びついた。だれの打球でしたかね」
「だれやったかな、忘れたわ」
「第七戦は、井上登の決勝三塁打」
「井上は山内と並ぶシュート打ちの名人やったな。その三塁打もシュートを打ったものや。優勝を決めた瞬間、杉下はボロボロ泣いて動けなくなってまって、西沢に肩借りてやっとマウンドを降りた」
「あの感激が、いや、それ以上の感激が、今年―」
「がんばります。涙でからだが動かなくなるという感激に浸ってみたいです」
 主人が天井を向いて笑い、
「今年の中日の選手たちは勝ちに慣れすぎているから、そういうことにはならないんじゃないですかね。そうなるのはファンでしょう」
 たっぷり食べてください、と言って、ソテツたちが中華丼ときつねうどんを持ってきた。しいたけの茶碗蒸し、餡かけ揚げ出し豆腐、玉子を溶いたコンソメスープもつく。
「シノブさん見かけないね」
 トモヨさんが、
「おととい、北村を辞めたんです。娘さんと同居することになって。これで、ホッとしてオバアチャンになれるでしょう」
「二歳の孫がいるんだったね。孫と祖父母との関係はすばらしいものだよ。野辺地のじっちゃばっちゃは、ぼくを二歳から五歳まで育ててくれた人たちだ。彼らのおかげで、ぼくの神経質な性格の角が削れたようなものだ。年寄りはのんびりしてるからね。それに、言葉を尽くした経験談は最高の情操教育になる」
 主人が、
「直人も、大きくなってからそう思い返してくれるやろか」
「かならずね。何でもいいから、うんと話をしてあげてください」
 女将が目頭を押さえた。主人が、
「いまごろ直人、保育所でクシャミしとるんやないか」
 菅野が、
「私も話をすべきですかね」
「はい、むかし話を。息子さんにも、お孫さんにもね。むかしのことは彼らは自分で体験できませんから。ああ食った。ごちそうさま。これで一晩じゅう走り回れるぞ。ん、一時か。あと一時間したら出かけます。二時半くらいに球場に入って、走りこみたいんで」
「直人を保育所から連れてきたら出ましょう」
「うん。イネ、ホームのユニフォーム一式と、新しいスパイクをダッフルに入れて。きょうの夜、甲子園の洗濯物が届くからクリーニングに出しといて」
「はい」
 ソテツが、
「きょうのお弁当です。神無月さんの好きな助六です。大きなイナリと海苔巻、三つずつ」
「ありがとう」
 主人が、
「五月の初旬の広島三連戦、裏日本ロードですよ。富山県営球場、石川県営兼六園球場、福井県営球場。三戦目が終わったその日のうちに羽田へ引き返して、翌日から後楽園で巨人三連戦。結局六連戦ですな」
「気が遠くなるけど、学校の授業といっしょで、気がついたら終わってますよ。からだを鍛えていればだいじょうぶです」
 菅野が、眼鏡の曇り止めを買いにいった。
         †
 ロッカールームで太田コーチから眼鏡を二つ渡される。重厚な革の小箱に入っている。
「防水加工がしてあるそうだ。きょうはもう降りそうもないけど、これからは雨の日もだいじょうぶだな」
 曇り止めを買う必要はなかったかもしれない。しかしスプレー式なので、噴いておけば相乗効果が期待できる。
 二時半。ロッカールーム一番乗り。五分ほど遅れて、江藤、太田、菱川が、さらに五分後に、若生、水谷則博らのバッティングピッチャーがやってきてユニフォームに着替える。
「江藤さん、早いですね!」
「少し早めに入るて言うとったやろ。何かある思ってな。リーダーには従わんば」
 則博は、
「神無月さん、こんにちは。俺、きょうはベンチです。よろしく」
「こちらこそ。登板があるの?」
「それはまだまだです」
 ベンチを出て鏑木コーチの姿を探す。白線の外側に据えたバッティングケージの足もとに屈みこんで、何人かの球場係員と車輪の安定具合を見ていた。ファールグランドにトンボをかけている係員もいれば、防球ネットを据えている係員もいる。裏方はこんなに早くから働いているのか。
「鏑木さーん!」
「やあ! 神無月さん、どうしたの、こんなに早く」
「ランニングそのものの基本をご教授賜りたくて」
「奇特な人ですねえ、超一流選手なのに」
 江藤たち三人もベンチから飛び出してやってきて、
「ワシらも頼んます! 金太郎さん、独り占めはいかんばい」
「仲良し四人組ですね。オッケー。いきましょう!」
 鏑木について走っていく。走りながらさっそく指導に入る。
「いざゲームに入ったら、ランニングフォームにはこれが絶対正解というものはありません。ふだん独りでやるランニングの基本姿勢からいきます。見てください」
 鏑木が立ち止まったので私たちも立ち止まる。
「背筋と腰は真っすぐ伸ばし、臍を意識して前進します。首や肩の力を抜き、足が着地するとき臍に体重が乗る感じです。これでスムーズな体重移動ができます。一周してきましょう」
 五人で走り出す。
「江藤さん、太田さん肩に力が入ってます」
「ワシゃ、怒り肩ですばい」
「俺も」
「そういうことじゃなく、ほんとうに力が入ってます。肩を引き上げるんじゃなく、肩甲骨を心持ち後ろへ引く感じ。そうそう。着地は踵を意識し、親指の付け根で地面を蹴る。太田さん、ふんぞり返りすぎ。腕は九十度に曲げ、肘を後ろに振れば、反対側の腕は自然に前に出ます。あ、お二人よくなってきました。これからもその走り方を忘れないで。神無月さんと菱川さんは最初から理想的な形で走ってます」
 鏑木が少しスピードを乗せたので、私たちも速度を上げた。
「肩に力が入ってないか、腰が落ちてないか、左右のバランスが崩れてないか、歩幅の狭いチョコチョコ走りになってないか、そのことをいつも考えて走ってください」
 菱川が、
「田淵ですね」
「はい、あの走り方です。あれは矯正できません。さあ、ストレッチに移りましょう」
 もとの場所へ戻り、
「いわゆるウォーミングアップにいきます。読んで字のごとく、からだを温めることです。ふだんは、走る前も走ったあともやってください。肉離れや腱の断裂を防ぐためのものですから。まず足首。肩幅に脚を広げ、片方ずつ足首を時計回り、反時計回りに回します。ふくらはぎとアキレス腱のストレッチ、両脚を前後に開き、踵を地面につけたまま、後ろの脚にゆっくり体重をかけ、腰を真っすぐ下に落とします。太腿のストレッチ、片側の足の甲を手でつかみ、踵が尻につくまで伸ばします。腰や尻のストレッチは、野球選手なのでいつもやっているみたいなものですから、オーケーです。ダッシュは野球の方法でめいめいやるでしょうから、お教えすることはありません。インターバルだけは、先日お教えしたことを守ってください」
「五十、四十、五十でしたね」
「はい。あとはご自由にどうぞ」
 もう一度周回をはじめる。五十、四十、五十。一分ほど休憩して、五十、四十、五十。もう一往復。
「あしたからは一往復にしたほうがいいですよ。それでじゅうぶんです」
 教えられたことをたちまち忘れてしまった。
 三時半に近くなって、ぼちぼちバッティングピッチャーが現れる。則博たち三人以外にも増えている。ベンチも埋まりはじめる。キャッチャーは吉沢と高木時。吉沢に近づき、
「ぜひ奥さんといっしょに遊びにきてくださいと、北村席のご主人が言ってました」
「そうですか、ありがとうございます。いずれかならず寄せてもらいます」
「オフにはぼくも遊びにいきます」
「お待ちしています」
 監督やコーチがケージの後ろに集まる。カメラマンたちも寄ってくる。私は江藤に、
「初めて見るピッチャーですね」
「サウスポーが松本忍。今年四年目。ノッポの右ピッチャーが外山博。名電工出身。今年三年目かな。松本はおととし三勝、去年一勝。もう伸びシロはなかごたる。外山は一勝もしとらん。今年かぎりやろ。金太郎さんに打ってもらえて幸せやろう」
 江藤は松本の投げるボックスに入り、私は外山のボックスに入った。
「五球お願いします。打ち取るつもりで!」
 五球ストレートできたが、すべてナチュラルにシュートした。シャッター音が連続で上がる。レフトスタンド前列に二本、センター右に一本打ちこみ、三遊間に二本ライナーを打った。三塁側のアトムズベンチに初めて見る顔が詰めはじめる。江藤と交代してもらって、左腕の松本を打つ。
「ぶつけるつもりで、顔のあたりからカーブを曲げてください」
 田宮コーチが、
「ほい、ヘルメット!」
 ケージの前に回って、ポンと投げて寄こす。顔のあたりからと注文を出しても、松本はどうしても投げられない。力のないカーブが無難なところからわずかに曲がってくる。すべてライトスタンドへ放りこむ。
「あと五本、ほんとに顔のあたりにお願いします!」
 水原監督が、
「松本くん、投げなさい! 金太郎さんは当たらないから」
 松本はうなずき、思い切り腕を振る。百四十キロほどのスピードボールが、顔のあたりから鋭角的にストライクコースに落ちてきた。しっかり捉えて打つ。ライト看板へ。緑のスコアボードへ。場外へ。ライトフェンスへワンバウンドで。ふたたび看板へ。
「ありがとうございました!」
「ちょっと待て!」
 小川と木俣が走ってくる。
「あ、忘れてました」
「忘れんなよ。三球だけでいいから」
 水原監督が、
「どうしたの、小川くん」
「いや、魔球をね」
 木俣が、
「吉沢さん、受けてやってください」
 木俣も水原監督と並んでゲートの後ろに回る。田宮コーチがにやにやしている。松本が小川に代わって後ろに控えた。小川はふつうのピッチング練習をしはじめた。すばらしいボールがくる。外山と松本が目を瞠る。木俣が、
「田宮さんが後押ししてくれたんですよ。王に使えるって。健太郎さんも王にはホトホト悩まされてますから、目先を狂わすしかないってことになったんです。股下からと背中からを考えたんですが、股下をくぐらすのは王に失礼だというんで、背中にしました。健太郎さんは手首が強いうえに筋肉が柔らかいから、すぐマスターしましたよ。ボークにならないと、キャンプにきていた審判に確認しました」


         四十五

「じゃ、いくぞ!」
 ふつうに振りかぶり、ふつうに腕を振った。いや、腕を振る前に、背中からフワリと空に向かってボールが投げ出された。
「ん? なんだ?」
 目の前にボールが落ちてくる。あわてて振った。まともに当たらず、ファールになる。
「やった!」
 小川が跳びはねて喜んでいる。
「ホー!」
 と水原監督が感嘆し、田宮コーチが相変わらずにやにやする。木俣が、
「ね! 奇想天外なフォームというわけでもないでしょ? もっとも、王から空振りを取ろうなんて思ってませんよ。へんなボールの残像を王の目に残せればいいんです。またあのボールがくるんじゃないかって、いやな感じを持ってくれればそれで成功です」
 小川が、
「よーし、じゃ金太郎さん、くるとわかってるときに打てるかどうかやってみてくれ!」
「はい!」
 構える。一連の投球動作が終わってからボールが落ちてくる。コーンと打った。どうにか三遊間に転がった。
「もう一球!」
 少し低い軌跡を描いて落ちてくる。しっかりミートしたつもりが、センター前にゆるいライナーになった。
「すごいですよ、小川さん。わかっててもまともに当たりません。わかってなかったら、見逃すか、せいぜいファールです」
「よし、よーし! つづけて投げないからだいじょうぶだ。王の一打席に一球投げる。打たれたら、しばらくお蔵入りだ」
 木俣とうれしそうにベンチに走っていった。水原監督が、
「金太郎さん、本気でやった?」
「はい。魔球とは言わないまでも、効果的なボールです」
 田宮コーチが、
「一打席に一球というのはやりすぎかもな」
「残像をちらつかせるという意味なら、二打席に一度ぐらいがちょうどいいんじゃないでしょうか」
 木俣が、
「俺もそう思う。言っとこう」
 四時十五分。空は澄みわたっている。夕方の気配が迫る。バッティング練習を終えてベンチに戻り、眼鏡をかける。ベンチの温度計は二十一・五度。半田コーチが早々とバヤリースを差し出す。
「ああ、おいしい。ありがとうございます」
「きょうもいけそね。三本くらい?」
「一本くらい。調子はいいです」
「金太郎さんはいつも同じよ」
 四時半。開門と同時に、照明灯の色ちがいの電球がぽつぽつ点りはじめる。観客席を眺める。空にまだ薄い青が残っている。緑のスコアボードが目に涼しい。すばらしい光景だ。
 ―彼らを許しても、過去は変わらない。しかし未来は変わる。野球を避けた道で、野球と再会した。
 アトムズの打撃練習。ベンチでソテツの助六を食いながら眺める。ロバーツと高倉がまじめに打っている。高倉がこねるようにして掬い上げる。小さいからだが生み出した工夫だろう。しかし見るべきものはない。たしかオープン戦でこのチームと戦ったが、試合の内容はほとんど憶えていない。ジャクソンという選手がタンカで運ばれたのが唯一鮮やかな記憶だ。横平と臼山がスタンドにいたような気がする。
 内野席はすぐビッシリになったが、レフト外野席にところどころ空きがある。数分もすれば埋まるだろう。そう思ったとたんに、大旗小旗を持ったアトムズフアンが行儀よく埋まっていった。呼応するようにライトスタンドが同じ状態になる。応援団というほどのものではなく、数人の仲間同士集まったというくらいのものだ。鳴りものもなく静かにグランドを見つめている。肺活量に自信のある熱しやすいフアンはベンチの上のあたりにいて、ここぞという場面でダッグアウトの天井に飛び乗り、扇子や団扇で三三七拍子の音頭をとりながら、腰の袋から紙吹雪を取り出して飛ばす。まだ飛ばさない。
 バックネットを見る。ゆったりした座席で主人と菅野と丸信子が笑い合いながら、グランドの選手たちを指差している。彼らのすぐ上に放送席のブースが三つ、すぐ下に二台のテレビカメラ。中日球場には屋根などないから、放送席の上には空が迫っている。たまにファールが場外に飛び出すが、正門ゲート前の通行人に当たることはないのだろうか。いつも心配になる。
 ダッグアウトには八人掛けのベンチが前後に四脚縦列している。三十二人分。窮屈な空間ではないけれども、二十五人の選手と監督・コーチ、トレーナー、スコアラー、マネージャーなどが入り乱れると、バット出しやヘルメット出しのときに肩や腰がぶつかって狭苦しく感じる。だから、トレーナーやランニングコーチは後ろの壁に接するように立っている。立ち上がって用具を取りにいくのが面倒なので、バットを握りっぱなし、グローブをはめっぱなしの選手もけっこういる。
 五時半を回った。中日の守備練習、アトムズの守備練習、十五分ずつ。
 外野では十人以上の選手やスーツを着た球団関係者たちがうろうろしている。遠投をし合っている者もいる。まず外野守備練習。田宮コーチが、
「外野! ノーバンでセカンドに一本、サードに一本、最後に塀ギリギリからワンバンでバックホーム一本!」
「オッケー!」
 ノックが始まる。ライトゴロ、菱川セカンドへノーバウンド送球。みごと! 同じく江島へのゴロ。中の不在の重責を背負っている不安が捕球動作に滲み出る。しかし、いい肩だ。一枝が、ナイス返球! と叫ぶ。私の定位置へもするどいゴロが転がってくる。腰を落とさず掬い上げ、その勢いのままステップなしで二塁送球。ショートバウンドするかと見えたが、一直線に高木の胸へ刺さった。一枝が手でヒュイヒュイとボールが浮き上がる仕草をする。菱川ライトゴロをサードへ。文句なしのノーバウンド、太田溌溂とベースにタッチ。パラパラと拍手が湧く。江島これまた伸びのある送球。感嘆の喚声が混じる。私はラインぎわのゴロを処理し、ワンステップ、サードのかなり手前を目がけて投げる。太田がボールの勢いに少し顔をよけるようにして捕球し、ベースにタッチ。ウオーというどよめき。塀ぎわからの菱川のバックホーム。低く美しいワンバウンド。木俣満足げにホームベースにタッチ。江島これまた矢のような送球。強すぎて三塁方向へ逸れる。スタンドが好意的に笑いさざめく。レフトの塀ぎわに高いフライが落ちてくる。捕球し、ツーステップして、マウンドのやや右、一塁ベンチの端を目がけて腕を振る。マウンドのわずか先の砂を削って弾み、ホームベースに突き刺さった。木俣がミットを叩き下ろすように捕球する。拍手と大歓声が逆巻く。ロバーツがベンチ前に出て拍手している。
 それが終わると、左中間右中間から、中継、バックホーム、キャッチャーからセカンドへ。その繰り返し三本。ここまで六分。
 外野が終わると、内野ノックこってり十分。高木、一枝のコンビプレイが冴える。目も覚めるようなゲッツーの連繋。太田も宮中以来の華麗な守備を見せる。江藤も3・6・3を雑作なくこなしている。その間私は、江島、菱川と遠投キャッチボール。最後にノッカーがキャッチャーゴロをホームベース前に投げてやってセカンド送球。キャッチャーフライで終わり。
 ベンチに座ってアトムズの守備練習をぼんやり見つめる。大柄な石岡がブルペンで投げこんでいる。きょうベンチに入ったときにはどこにいたのか気づかないほど地味な男だったが、あらためて見ると野辺地のボッケのような目立つ顔だ。石戸四六につづく準エース。右投げのオーバースロー。速くて角度があるので、高めのストレートがストライクに見えやすい。スライダーの切れがいい。スローカーブもある。パターンが見えた。ゆるいカーブでカウントを稼ぎ、勝負球は高目の速球か速いスライダーだ。ゆるいカーブを狙おう。
 ウグイス嬢のスターティングメンバー発表。アトムズ、一番セカンド武上、二番ライト赤井、三番センター福富、四番ファーストロバーツ、五番レフト高倉、六番キャッチャー久代、七番ショート西園寺、八番サード丸山、九番ピッチャー石岡。中日、一番ショート一枝、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番ライト菱川(阪神戦はセンターを守った)、七番サード太田、八番センター江島、九番ピッチャー小川健太郎。江島が中に代われば、最終形のメンバーだろう。
 主審手沢、塁審一塁大谷、二塁山本、三塁久保田、線審レフト平光、ライト丸山。 
 内野グランドの整備が終わり、中日チームが守備に散る。小川が投球練習にかかる。江島が緊張しているのでキャッチボールはしない。線審の平光と一瞬の雑談。
「平光さんが球審をするときのニースタンス、好きです。ストライクゾーンが広すぎるのが厄介ですけど」
「どんなに広くとっても、きみには狭く見えるだろう。こらこら、審判と親しく口を利いちゃだめだよ」
「はい」
 手沢のプレイボールの声。武上がバッターボックスに入った。
         †
 一対四で勝利。対広島二回戦と同様、ホームランがいかに有効な得点源になるかを証明する試合だった。小川はアトムズ打線を散発三安打に抑えこみ、小野、山中と並んで二勝目を挙げた。快刀乱麻ではなく、一刀両断という感じのピッチングだった。もちろん背面投げはしなかった。私はプロ入り二度目の四打席連続ホームラン(すべてソロ)を打って全得点を叩き出し、二十号の大台に載せた。
「神無月選手、今季二度目の一試合四打席連続ホームランでございます。シーズン二度は世界新記録でございます。どうぞ神無月選手に盛大な拍手をお送りくださいませ」
 ウグイス嬢の声が上ずっている。私はベンチ前に出て、四方のスタンドに両手を振った。割れんばかりの拍手と大歓声が立ち昇り、ひとしきり止まなかった。
「下通(しもとおり)嬢、泣いとるみたいな声やったのう。金太郎さんに惚れとるけん仕方なか。野球を多少でも知っとる男なら、泣く前にガタガタふるえるやろ。とんでもない記録やけん」
 江藤の微笑がほんとうにふるえた。アナウンサーの名前がシモトオリという変わった苗字であることを知った。
 石岡は三振を十個も奪い、私にホームランを四本打たれたほかは木俣と菱川に一安打を許したきり、ドラゴンズ打線を散発六安打に抑えた。ピッチャーにしてみれば打たれた気がしないだろうが、同じ選手にホームランを四本も打たれるというのは明らかに研究不足だ。アトムズの一点は、二塁打の高倉を西園寺がライト前にヒットを打って還したものだった。
 私のホームランの内わけは、内角低目のスローカーブを二本ライトスタンド上段へ、真ん中高目の釣り球のストレートをライトの看板へ、外角低目の速いカーブをスコアボードの時計の真下へ運んだものだった。
         † 
 四月二十三日水曜日。七時半。則武の二階の寝室で爽快な目覚め。ふつうの軟便、シャワー、歯磨き、うがい。
 きのうの四本目のホームランが打ち当たった場所が、デンソーという自動車部品メーカの看板で、中日球場初ということで三百万円の賞金が出た。そういう賞金は球団広報で一時受け取ってもらうように太田コーチに頼んである。いままで各球場の看板に打ち当てた賞金が先日まとめて広報から銀行口座に振りこまれたが、カズちゃんが言うには、ほとんどの会社が百万円で、合わせて五百万円以上あったということだった。
「睦子と千佳子にこれから毎月十万円ずつあげるようにして。ホームランにくっついてきた垢だからと言って、かならず受け取ってもらってね。キッコが高校にいくようになったら同じようにして。メイ子や素子や百江にもボーナス十万円、イネには不幸のあとだから二十万円あげて。とにかくお金で困ってる人で、無駄遣い癖のない人に援助してあげて」
「わかった。キョウちゃんはぜんぜんお金を使わない人だから……。アサヒビールから壜ビール一年分、三百六十五本分の引換券が届いたけど、何とか消化するように厨房に預けたわ」
 ミキサーで作った野菜ジュースを飲んで、迎えにきた菅野とランニングに出発。カズちゃんとメイ子は北村席へ朝食に。
「走ったら、北村のほうへ戻って朝食をとってね」
「うん」


五章 出陣 その4へ進む

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