七

 バスが富山から西へ金沢目指してひた走る。空が淡い紫色に染まっている。丘を切り通したほとんど信号のないアスファルト道。何号線か知らないが、富山市と金沢市を結ぶ一般国道だ。近景に樹木の群れ、遠景に連山。
 監督はじめ全員がスーツに着替えている。ブレザーを入れたバッグを持たずにロッカールームに入った私だけは、まだユニフォームを着たままだ。帰りぎわにスパイクを運動靴に履き替え、バットやグローブを持ってロッカールームを出たけれども、着替え場所にしようと思ったバスがファンに囲まれていたのでブレザーに着替えることができず、スパイクと用具類をバスに持ちこんで足もとに置く破目になっている。水原監督が、
「とにかく時計が無事でよかった。時計の壊れた野球場はサマにならないからね」
 彼の隣にひっそりドラゴンズのウグイス嬢が座っている。三十代の落ち着いた女だ。菱川が、
「百六十メートル級でしたね。それにしても神無月さんのホームランはよく飛ぶなあ」
 田宮コーチが、
「両足を動かさないで打ってもバックスクリーンまでいっちゃうんだからね。バットに仕掛けがあるのかと思っちゃうよ」
 半田コーチが、
「ライフルね。ズドーン!」
 江藤が、
「この打撃戦でよう四時半に試合が終わったな。一点差でサヨナラ勝ちしたのは初めてやろう」
「ぼくも初めてのサヨナラホームランです」
 江藤省三が、
「四月二十三日のアトムズ戦で、安木から延長十一回裏にサヨナラツーランを打ってますよ。これで二本目です」
 小川が、
「おいおい、金太郎さんよ、あんたはとぼけた男だなあ」
 水原監督が、
「すばらしいですね。きっと打ったとたんに忘れてしまうんでしょう」
 太田が、
「大洋の桑田が三十六年にシーズン三本のサヨナラホームランを打ってます。江藤さんとアベックホームランも、もうすでに十本打ってるんですけど、これの記録は去年のONの十四本です。どちらも簡単に破りますね。ところで、きょうみたいな試合も接戦と言うんですか」
 たがいに少ない得点同士の一点差ゲーム、というイメージがたしかにある。そのイメージとの齟齬を感じて、みんなで頭をひねる。長谷川コーチが、
「もちろん接戦と言うんだよ。クロスゲーム、シーソーゲームとも言う。お客さんがいちばん喜ぶ」
 菱川が、
「なんで、あそこで神無月さんを敬遠しなかったんですかね」
 木俣が鼻の穴をふくらませて、
「俺だよ、俺。このあいだあいつのカーブをホームランしてるからな。怖かったんだろ」
「神無月さんより?」
「きょうも左中間の二塁打二本打ってただろ。ふつうのピッチャーには、その試合で当たってるやつか、苦手意識を持ってるやつがいちばん要警戒なんだよ。あの試合もこの試合もなくコンスタントに打つ選手は、意外とピンチでは軽く見られる。たまには打てないこともあるだろうって油断しちゃうんだな。しかし、金太郎さんとの勝負を選択したとは畏れ入ったな。気の毒な男だよ。金太郎さん、きょうは十割だった?」
「四の三です。あとはフォアボール」
 中が、
「私ね、金太郎さんが打席でキャッチャーを見ないことに、巨人戦で初めて気づいたんだ。私らはボックスに立つと、キャッチャーが動く気配で、内角に構えているか外角に構えているか察知するよね。それを逆手にとって逆球を放られることがある。よくやられたなあ。いまは見ないから、駆引きなしでバットを振れる。金太郎さんはハナからキャッチャーを見ないから、そんな面倒はない」
 私は、
「長谷川コーチ、ちょっと訊いていいですか」
「お、きたな。何だ、遠慮なく訊いてくれ」
「三塁側にはないのに、一塁側のベース付近にだけ白い線で囲んだゾーンがありますよね。あれは何ですか」
 車中大笑いになり、しばらく止まなかった。長谷川コーチは顔を引き締め、
「いやいや、みんな笑ってるが、選手でも知らないやつがときどきいるんだ。ファンはほとんど知らん。あれはスリーフットレーンと言ってね、幅約九十センチ、長さ約十五メートルある。内野ゴロが飛んだ場合ふつう、一塁へ送球される。そのとき打者走者がラインの内側、つまり内野側を走ったらファーストの守備を妨害することになる。打って走り出したときはそれでもいいけど、一塁ベースに近づいたら、かならずスリーフットレーン内を走らなくちゃいけないことになってるんだ。レーンの内部を走ってファーストの守備を妨害したらアウト。その間の進塁や得点は認められない」
「ファールグランド側の外でもだめなんですか」
「一塁手が送球処理しようとしてせせり出てきたときに、一塁手を避けるためならいいけど、ぶつかったら外でもアウト。レーンの中を走ってれば、ぶつかっても何も言われない」
 高木が、
「そこまでは俺も知らなかった!」
 と言うと、一枝が、
「ウソだろ! 金太郎さんのまねすんな」
 と叫んだ。ふたたび車中が大笑いになった。
 空がとっぷり暮れた。運転手はずっと無言だ。帽子から覗いた後頭部の白髪から齢を重ねたクマさんの生活を思う。房ちゃん。郷太郎―そうだ、郷太郎という名前なのだ。いつかかならず彼らに会わなければならない。
 バスがひた走る。自販を立てた平屋の茶店や、農家と温室のセットをときどき見かける。さびしい。このさびしさを生きる意味だと思いこむ。そう思うことで、もっと生きたくなる。深い峡谷に架かる長い橋を渡る。谷底を流れる姿のない川の名はわからない。私は中に、
「ファンのためにと思ってプレーしてますが、すべてのファンと交流することはできませんね。……サインをしたり、握手したり、手を振るぐらいしか」
 水原監督が振り向き、私のほうへ目を眇(すが)めて、
「心だけでいいんですよ。どうせジカに接触することはできないんだから」
「はい。少なくとも、彼らの存在を感じるようにしてます。大阪球場のときにも言いましたが、小学校のころスタンドに座ってたときの自分の気持ちを忘れられませんから。ぼくは野球選手になれたからいい。なれない子がほとんどなんです」
 涙がこぼれ落ちた。
「泣いてるの、金太郎さん―」
 中が小さく叫んだ。江藤が、
「ワシも泣くばい!」
 タオルを出して顔を覆った。太田と菱川もまぶたを押さえた。水原監督が、
「今年の私たちが強い理由は、これだよ」
 と言って、指で目縁をこそいだ。下通嬢もハンカチを出す。後頭部だけの運転手がポツリと、
「プロ野球選手がそういうかたたちと知って安心しました。息子が中学で野球をやってます。プロ野球選手になってほしいと思います」
 運転席の隣に座っていた宇野ヘッドコーチが、
「運転手さん、プロ野球選手がそういうかたじゃないんだ。神無月金太郎がそういうかたなんだよ。俺たちはね、彼を尊敬してるし、大好きなんだ。朱に交わって赤くなったというわけだ」
「はあ、まことに」
「金太郎さんが野球選手でいるうちにドラゴンズに入団するしか、こんな幸せは手に入れられないよ」
「ドラゴンズに入れます」
 三たび明るい笑いが湧いた。
「あ、押し寿司、食い忘れた!」
「おー、ワシもや」
 下通嬢が立ち上がってこちらを向き、お辞儀をする。
「申し遅れました。中日球場の場内放送を担当させていただいております、球団広報課の下通(しもとおり)みち子と申します。今年で十二年目になります。毎年ホームチーム主催の地方遠征の際には帯同させていただいてます。新人のかた、初対面のかた、どうぞよろしくお願いいたします。あのう……富山の鱒の押し寿司は食べられませんでしたけど、鯖の押し寿司は金沢が本場で、ふつうに手に入ります。金沢のホテルのかたに頼んで、あしたバスに乗るときに、小鯵と鮭の押し寿司もいっしょに届けさせましょう。好みが別れますので、ご希望のかたはお手をお挙げください」
 私を含めて十人ほどが手を挙げた。
「わかりました。それではあした乗車のときに十人前お届けします」
 お辞儀をして、ついと挙げた顔が、むかしの吉永先生に似ていた。私をチラッと見てからフロントに向き直り、腰を下ろした。
 一キロ以上もある長いトンネルを抜けて、ごちゃごちゃ国道が交差するインターチェンジを北上し、森本という分岐点を別の国道へ左折する。金沢市に入る。富山と変わらない街並。
「市電が走ってない」
 私が言うと、運転手が、
「北陸鉄道の市電は、おととしの二月の建国記念日に廃止されました。赤と白のツートンカラーのきれいな市電でした。最後の日は、都ホテルの前から花電車が左右に分かれて出ていきました。バスも赤と白のツートンカラーだったですね」
 太田に時間を聞くと、七時三十五分。ここまで一時間四十分。駅前に八階建ての都ホテルがそびえている。屋上に東芝のネオン広告塔が突き出している。クリーム色の壁面がしっとりと目にやさしい。高層ビルはこの一つしかない。水原監督が、
「オリンピックの前年に建てられたホテルでね、金沢の最先端だ」
 屋外駐車場へ乗りいれる。十人に余る男女の従業員が出迎える。
「お疲れさまでございました!」
「いらっしゃいませ!」
 ダッフルを担ぎ、バスの腹から下ろしたバッグを提げ、もう一方の手にバットケースを持つ。導かれて玄関を入る。バスの運転手もいっしょに入る。あしたの福井移動のために宿泊するようだ。ダッフルを担ぎ、スポーツバッグとバットケースを提げている格好は同じだが、私だけユニフォームを着たままなので一般客たちの目を引く。水原監督がにやにやしている。下通嬢が、
「ちょっと背番号に触っていいですか」
「どうぞ」
 私が尾崎にしたのと同じようなことをする。そっと撫ぜる。
「ありがとうございました。……三十二号ホームラン、おめでとうございます」
「どうも」
 中が、
「下通さんは金太郎さんの大ファンだからね」
「大、大、大ファンです。この仕事をしててよかったって、今年ほど思ったことはありません」
 江藤が、
「ワシらも同じや。握手!」
 下通と握手をする。
「香箱ガニを食べさせてくれる店はありませんか」
「カニは十一月から三月です。特に香箱ガニは短くて、十一月と十二月の二カ月しか食べられません」
「はあ、そうですか」
 菱川が、
「神無月さん、川崎のインタビューで、記憶できませんと言ってませんでしたか」
「フッと思い出しました。あとは福井の越前そばでしたね」
「まいった!」
 ロビーの隅に、噴水が地下水のようにモコモコ湧き上がっている場所がある。おびただしい量の草花を活けた大きな花瓶が中心に据えられている。うるさくない装飾だ。ロビーは見わたすほど広い。一般客が私のユニフォーム姿を眺めている。壁に具象画が何枚も架かっている。このホテルは街のステイタスシンボルのようだ。足木マネージャーと田宮コーチがチェックインのサインをしているあいだ、チーム全員ロビーのベンチにくつろぐ。水原監督が太田コーチに話しかけている。
「おえらがた連中が試合後にロッカールームに詰めかけてこなかったら、もう少し早く到着できたのにね」 
「はあ、せっかく報道は早く引き揚げてくれたんですがね。市の関係者はしつこいですわ」
「プロ野球は市の振興の目玉になるからね。下にも置かない扱いだ」
「野際陽子にはまいりましたよ」
「私は左幸子のほうがよかったよ」
 同感だ。噴水の脇階段の降り口に、都ホテル地下食堂街というネオンが灯っている。ホテルの下部がすべて食堂街になっている構造なのだろう。足木マネージャーが部屋割を告げにくる。五階、六階、七階に分けられて、私だけ五階の十号室。名鉄ホテルと同じ割り振りだ。八時から七階大広間でバイキングの夕食、朝も同じ広間でバイキングとのこと。「外で食べてもかまいません。そのときは領収書をお願いします」
 江藤が私に、
「このホテルのシングルは狭かよ。きれいで落ち着いとるばってん、ゆうたら寝るだけの部屋やな」


         八 

 ボーイや従業員たちといっしょに、二台の客用小箱のエレベーターと、二台の従業員用大箱のエレベーターに分乗する。監督・コーチ連と、控えの選手たちは業務用の大箱のエレベーターに乗り、レギュラーたちは小箱のエレベーターに乗った。下通嬢は大箱に乗って、男どもの荷物でからだを揉まれるほどの距離に混ざり合っていたけれども、キクエを十も老けさせたような彼女をだれも女として意識していなかった。かわいそうな気がしたが、私も心が動かなかった。
 大箱につづいて小箱が出発した。エレベーターの壁に『おかしな二人』という映画のポスターが貼ってあった。私がそれをじっと眺めていると、女子従業員が、
「地下街には、映画館もございます。お気が向いたらどうぞ。十時半閉館です。ドラゴンズのみなさまは無料になっております」
「これ去年の映画ですね。ジャック・レモンとウォルター・マッソー。名優だけど、少しわざとらしい」
 板東が、
「ワシ、去年のオールスター休みに家族で観にいったで。ジャック・レモンのわざとらしいユーモアは俺の目指すものなんだ。この味出したいよな」
 江藤が、
「目指さんでも、とっくに出とる。いつ芸能界デビューしてもよか」
「ありが、とうなら」
「いもむしゃハタチ」
「みみず十九でヨメにいく」
 男たちが唱和する。この地口を飯場で何度か聞いたことがあった。いもむし、ではなく、ワタシャではなかったか。にこにこ顔の男子従業員が、
「居酒屋、おでん屋、中華料理店などもございます。でも、町の人間が大勢集まりますので、何かと不都合があるかと」
 中が、
「私は目立たないから、いってみようかな。金太郎さんは囲まれちゃう。慎ちゃんも菱も目立つ」
「ワシャ、ラーメン食うばい」
 菱川が、
「俺もいきますよ。顔黒いけど、知られてないですから」
 太田が、
「じゃ、俺も。神無月さんはバイキングにしたほうがいいですよ」
「そうする。兼六園球場まではどのくらいですか」
 にこにこ顔が、
「三キロと少し、車で十分ほどです。兼六園を囲む道を通っていきますが、外郭の石垣しか見えません。十一時から練習開始と聞いておりますので、ゆっくり園内見物している時間はございませんでしょう。いつかオフのときにでも、ゆっくりお越しください。雪の兼六園もいいですよ」
 まず私が五階でボーイといっしょに降ろされる。案内された洋室はたしかに狭かった。床頭を窓に向け壁に接しておかれたふつうのシングルベッド、造り付けの机、小椅子、小さな冷蔵庫、壁に一枚の抽象画。整頓された気分にはなるが、安らがない。荷物をベッドの裾に置き、白シャツに黒ズボンのボーイに訊く。
「野球は好きですか」
「はい、一家でキチガイです。ほとんど高校野球見物ですが、この時期やってくるプロ野球はかならず観に出かけます。たった一日しか試合がありませんので見逃せません。あしたは仕事を休みます。これ、きょう届いたユニフォームです」
 金沢は富山よりも街並が鄙びている。しかし市電をいち早く廃止してしまうような都会気質の人びとの住む街だ。交通量を見ても、廃止する必要があったとは思われない。都会気質と外国伝来の野球は切り離せない。フランチャイズは常に大都市に置かれる。この街の人びとは野球好きだろう。ユニフォームを受け取り、ベッドに置く。
「兼六園球場は外野席の幅が狭いんです。それでも内野席が広いので二万人入ります。巨人―大映戦で十何本もホームランが飛び出て、両翼九十メートルを九十九メートルに、センター九十七メートルを百二十二メートルにしたんですが、今度はホームランがほとんど出なくなったので、最終的に九十二メートルと百十三メートルにしたんです」
「巨人ファンですか」
「テレビ放送が巨人戦しかやらないので、私を含めてほとんどの人がそうでしたけど、今年は神無月フィーバーのせいで中日ファンが多くなりました。ぼくもそうです」
「プロ野球の魅力は何ですか」
「まずホームラン。次に速球。ほかには、惚れぼれするようなスーパーキャッチ、華麗な併殺プレー、一瞬の隙をつく好走塁。つまり、素人野球にはないぜんぶです。……神無月選手とこうしてお話しているのが夢みたいです。間近で見るとまぶしすぎて圧倒されます。失礼します」
         †
 ブレザーの上下をバッグから取り出し、衣桁(いこう)にかける。少し皺が寄っている。まる一日着たユニフォーム一式を脱いで段ボール箱に入れる。狭いバスタブに立つ。備えつけの歯ブラシで歯を磨き、シャワーで頭から足先までを洗う。風呂を出て、帽子の縁を洗い、洗面台に置く。綿棒で耳垢を取る。ボーイから渡された新しいユニフォームを小椅子にかける。ワイシャツとブレザーに身を固め、七階の大広間へいく。
 監督、コーチたちはルームサービスでもとったのか姿がない。男たちがわいわいやりながら、すきっ腹にめしやパンを詰めこんでいる。一般客がいないところを見ると、この時間帯をドラゴンズの貸し切りにしたようだ。トンカツを二切れ、肉ジャガ、肉野菜炒め、ウインナー、豚汁、ライス大盛り。肉まみれで体力の回復を図る。見回すと、葛城や徳武やピッチャー陣のほとんどがいる。江藤らラーメン組の姿はなく、中や高木や一枝もいない。バイキングに食傷して外へ出たのだろう。
 ふと、遠くのテーブルを見ると、目玉のマッちゃんがいる。審判員と選手が同じホテルに泊まるのはまれなことだと思うけれども(巨人との親睦戦のとき、明石グリーンヒルホテルで井筒や富澤たちと歓談できたのは例外的なできごとだ)、ひょっとしたらいままでも遠征の際には、なるべく食事などの時間を重ねないようにして宿泊していたのかもしれない。そう思うほうが自然だ。寄っていって話を聞きたいが、審判員と選手は親しく口を利いてはならない不文律がある。ましてやいまは公式戦の最中だ。
 マッちゃんがこちらを見たのでお辞儀をした。手のひらを上にして、どうぞというふうに自分の向かいの席を示す。喜んでトレイを持って寄っていく。松橋は立ち上がってもう一度辞儀をし、握手を求めた。私は盆を置いてしっかり握手した。柔らかくて大きな手だった。
「さ、食べましょう。プロ野球選手の時間は貴重です」
 向かい合って箸を動かす。気分が浮き立つ。
「この齢になって、つくづく才能というものの深淵を覗きこみました。極致と言っていいでしょう。神無月さんの試合には、審判員のだれもが出たがっているんですよ」
「光栄です。すみません、規則を破らせてしまって」
「実際の話、規則なんかないんです。みんな判定に情実が入らないように自粛しているだけのことでして。誤審はありますが、情実審はありません。いや、とにかくすごい。水原さんともお話しました。自身がプレーヤーとして超一流でなかったために、素直に才能というものを認められる、とおっしゃってました。私どもも同じです。ほとんどがプロ野球出身者ですから」
「おいくつですか」
「三十四です」
「お若いですね」
「高校から阪急に入団し、国鉄と合わせて五年しか野球をしないで引退しました。ホームランゼロ、打率一割八分。大投手金田正一さんと何度かバッテリー組んだのがいい思い出です。金田さんにはいまも懇意にしてもらってます。審判としては、転身して十年後の昭和四十年にようやく日本シリーズに出場したくらいのペーペーです」
 松橋はしきりに箸を動かし、咀嚼する。
「審判員というのは非常に威厳がありますが、噂どおり、やはりもとプロ野球選手がほとんどなんですね」
「しかも、ほぼ全員が、もと高校球児です。もとプロ野球選手はおよそ三分の二。栄光の影をチラリと見た人間ばかりです。年齢は二十一歳から五十四歳です。採用条件に百七十五センチ以上という項目があるので、みんな大柄です。実際には、もっと小さい人はいくらでもいますけどね。身長よりも情熱と体力で採用することが多いからです」
 松橋が食べ終えた。私はゆっくりと箸を動かしつづける。
「審判員のかたたちは選手に勝るとも劣らない長時間の肉体労働していらっしゃる。俊敏な動きのもとになる基本的な体力は必要不可欠になりますね。体力はどうやって鍛えてらっしゃるんですか」
「トレーニングは毎日、各自でやっています。デーゲームならば早めに球場にきて外野近辺でアップ」
「そう言えば、ときどき審判のかたが雑じってますね」
「はい。ナイターでしたら、午前中にジョギングや近所のジムでひと汗流す。選手は試合の半分はベンチに座っていますが、審判は一度試合が始まったら、春先や晩秋の冷たい雨に打たれながらも、夏場の炎天下でも、三時間以上立ちつづけなければいけません。いかに調子が悪かろうが、フルイニング出場が原則です。からだが資本なので、手入れは欠かせません」
「判定そのものもたいへんな仕事ですよね」
「ええ、たいへんです。ストライク、ボール、アウト、セーフは、目の前のプレーに対して判定するのですから、勇気というものは必要ありません。その気のゆるみから誤審が生じたりします。先日の……」
「大谷さんですね」
「はい。あれは気のゆるみと言うより、過度の緊張から出たものでしょう。水原監督は見かけとちがって、考えるより行動が先というタイプですが、興奮しても言葉に詰まるとか何を言っているのかわからないということがありません。顔は真っ赤になって目は怒りを含んでいるのに、言葉は常に理路整然としていて冷静そのもの。審判はファールチップを見定められるくらいの眼力がなくちゃいけないと諭す。そのうえで眼鏡を毟り取る。この眼鏡はダテか、ちゃんとしたものに替えろというわけです。退場を宣告するどころか、反論すらできません。その後大谷さんは、神無月くんにホームラン一本損させちゃったな。もともとド近眼だったから、しっかり目に合うコンタクトに替えたよ、とサバサバした感じで言ってました。これが判定というより判断となると、もっと厄介です。ボークや、守備妨害や、走塁妨害、退場など、判断力と勇気、つまり非常な積極性が必要とされます。大トラブルにも発展しかねないジャッジをするわけですから、それを納得させるための人間性も必要になってきます。そういったことを総合して行なえる審判こそ優秀な審判であり、高い評価も得られるんです」
「松橋さんは選手たちにも尊敬されてますよ」
「目玉のマッちゃんでしょう?」
「ジャッジも一流です。あのストライクコール、大好きです」
「それは人格じゃありません。ジャッジもパフォーマンスに凝っているうちはまだまだです」
「耳が痛いです。ぼくは、パフォーマンスを大事にしてる部分もありますから」
「そうは見えませんよ。自然とそうなってるという感じですね。と言うより、スターにとってパフォーマンスは重要な要素だと思います。見ているだけで心が華やぎますから」
「ありがとうございます。そう言ってもらって少し安心しました。くどく聞きますが、ポール通過の判定は難しいんでしょう?」
「はい、難しいです。線審はポールを見上げて判定しますから、右か左の〈通過〉だけに注意を集中します。ポールを〈かすった〉かどうかには注意がいかないんです。当たればもちろんわかりますけど、多少かすっていても音がしないかぎりラインドライブぐらいにしか感じられません」
「なるほど……」


         九

 私も食い終えた。
「ところで、試合開始前のいつごろ球場に入られるんですか?」
「質問魔とは聞いてましたが、楽しくなるほどの速射砲ですね。それでいてクドさを感じさせない。答えたくなる。不思議な人だ。球場に入るのは、ふつう、入場者と同じ試合開始の二時間前ですが、ケージに入ってコールの練習をしたいときには、三時間前に入ります。そのときは、目慣らしのために投球練習場でピッチングを見たりもします。それからシャワーを浴びて汗を流し、軽食を採ります。満腹は厳禁。集中力が落ちます。試合開始直前に濃いコーヒーを飲み、いざ出陣です」
「いつだったか気づいたことなんですが、スコアボードに発表されてる審判のかたではない審判員が、ネット下の網戸の中に見えたことがあったんです。たしか岡田さんじゃなかったかな。中さんに、控え審判員の存在を教えていただきました。六人以外にも審判員は何人もいらっしゃってるんですか?」
「一人きてます。きょうは大谷さんでした。ルール適用の誤りのないように、常にルールブックや試合内規を傍らに置いて、すぐ確認できる態勢をとっているんです。控え審判はほかにもボール磨きの仕事があります」
「それも聞きました。どういうものですか、それは」
「硬球のニューボールの表面についている薄いパラフィンの膜を、泥を混ぜた砂でこすり落とすんです。じゃないと、滑って投げられませんから。六、七百個は磨くのでたいへんな作業です。試合前は全員の審判でやりますが、試合開始後は一人でやらなくちゃいけません。……神無月さん、こんな話をしてたらキリがなくなりますよ。そろそろミコシを上げてください。あしたは、私は控え審判です。あさって福井でお会いしましょう」
「長々とありがとうございました。つまらないことばかりお訊きして、すみませんでした」
「つまらなくはありません。本質的な質問ばかりで、答えるのに熱がこもりました。こちらこそ要領よくお答えできなくて申しわけありませんでした。野球の大天才とお話ができて楽しかった。ふだんの細かい目配りを感じて、さすがと思いました。あしたはネット下から観ております。がんばってください」
「はい、それじゃ寝ます。お休みなさい」
 深く礼をする。浜野を中心に賑わっているピッチャー陣にも礼をして、部屋に戻る。
 ブレザーをジャージに着替える。ブレザーは畳んでスポーツバッグにしまった。しばらくごそごそやっていると、チャイムが鳴った。ドアを開けると、両手に小さなデコレーションケーキを捧げ持った素子が立っていた。フレアスカートを穿き、バッグを小脇に抱えている。スッとドアの内に入り、
「二十歳、おめでとう!」
「ありがとう。五日まであと二日あるけど」
「あしたは移動で、逢うのがまた夜になるでしょう? お別れのセックスを大事にせんとあかんし、あさっては、球場からそのまま名古屋。誕生祝いはきょうしかあれせん。ケーキ食べたら、うちすぐに部屋に戻る。いっしょにグズグズおったら、キョウちゃんがしたなってまう。あしたにちゃんととっとくね」
「わかった。ぼくもケーキ食べたら、ちゃんと歯を磨いて寝るよ」
 短くて小さい蝋燭を二十本丁寧に立て、マッチをすって火を点ける。
「わざわざ買ってきたんだね」
「ケーキだけ。蝋燭は名古屋から持ってきたの」
 部屋の明かりを消す。素子はパンパンと手拍子をとりながら、湿ったアルトでハッピバースデイを歌う。
「……ハッピバースデイ、ディア、キョウちゃん、ハッピバースデイ、トゥー、ユー」
 私は一気に火を消そうとしたが、数本残り、二度目で吹き消す。口づけをする。
「あかん、キョウちゃん、舌絡めたら勃ってまうよ。ほら!」
 私のものをズボンの上から握り締める。
「ほんとにきょうはあかんの。あれだけ強うイクと二日目は無理。あした、からだ壊れる覚悟でするでね、がまんして。このエネルギーの分は、あしたホームラン打って」
「うん」
「でも、うれしいわあ。いつもあたしに勃ってくれて」
 目を潤ませる。
「素子のことを愛してるから」
「あたしも!」
 抱きついてくる。すぐに離れて、ケーキから蝋燭を引き抜いてティシューで包み、バッグに入れる。用意した裁縫用の糸で押し切って四つに分ける。糸もティシューにくるんでバッグに入れた。大きな一切れだ。
「さ、食べよ」
 手づかみで食べる。夕食を終えたばかりで進みがのろいが、食べ切る。
「あとは、あしたの朝食べてね」
「うん」
 素子は首をかしげながら私を見つめ、
「いつかキョウちゃんも死ぬんやね。……こんなきれいな顔が、この世から消えてなくなるんやね」
「素子もね」
「あたしなんかどうでもええわ。キョウちゃんの顔と、言葉と、雰囲気が消えてまうのを見るのがつらいんよ。……しょもないことやけど、つらい。先に死にたいわ」
「四十年も五十年も先のことだ。考えただけで気が遠くなる」
「……でも、キョウちゃんが死ぬのを見てから死にたいゆう気持ちもあるんよ。お姉さんも言っとったけど、あたしらを見れなくなったら、キョウちゃん、どんなに悲しむだろうって。それは死ぬよりつらい悲しみだろうから、そんな目を見させたくないって。あたしらのつらさより、キョウちゃんのつらさを考えるほうが耐えられないって」
「ありがとう。でも、ぼくは長生きして、みんなを一人ずつ看取るよ。悲しみに浸って晩年を生きたいんだ。ぼくの生きた顔を見て、幸福の中で死んでほしい。それがみんなに対する感謝の印だ」
「……やっぱり、先に死にたい。キョウちゃんより長生きしたくない」
「堂々巡りだね。おたがいせいぜい長生きしよう。そして、ボケちゃおう」
「うん!」
 なんだか解決がついた。
「何階に泊まってるの」
「八階のレディスシングル。同じシングルなのに、この部屋より広いよ。おかしいね」
 素子はうれしそうに立ち上がると、バッグを持ち、チョンとキスをしてドアを出ていった。
 急にさびしくなり、テレビを点けた。『路地裏の太陽』というNHKドラマをやっていた。よく裕次郎と共演していた日活の大坂志郎、『赤ひげ』の〈ねえちゃんきれいだ〉という科白で有名な、黒澤お抱え子役の頭師(ずし)佳孝、『つづり方兄妹』の二木てるみ、テレビ俳優の山田吾一や藤間紫たちが出ている。頭師と二木は『赤ひげ』でも共演している。
 倍賞千恵子の『下町の太陽』みたいなものかと思って観る。大戦前に栄えていた生糸産業が戦後になって廃れた前橋市―それが書割だ。前橋はやがて競輪で盛り返した。貧乏暮らしの主人公父子は、なけなしの金を持って競輪に出かけては、スッカンピンになって戻る。父親はきょうも屋台酒。すってんてんのはずなのに、毎日の飲み代はどこから? 展開はおもしろいけれども、心の救済を予感させない。救済がなければ、涙は流れない。父子で車券名人になるというストーリーはどうだろう。それ以外、カタルシスを起こしようがない。
 そんなことを考えているところへドアがノックされた。ドアを開けると、下通嬢が立っていた。かわいらしいミニスカートを穿いている。薄く化粧した顔も、バスの中よりも愛らしく見える。吉永先生の鼻を少し高くした顔だ。
「下通さん……」
 彼女は部屋の中を覗きこみ、
「狭い部屋ですね。あら、ケーキを?」
「急に食べたくなって、さっき、フロントの人に買ってきてもらいました。半分も食べてしまった」
 下通はボーッと立ったまま、ケーキを見ている。
「甘党なんですね。……すみません、三十分ぐらいお話したら帰ります。私がきたことは内緒にしてくださいね」
「はい……あなたもですよ。これはたいへんなことですから」
「はい」
 ドアを閉めた。勧める椅子といっても、造りつけの机の椅子か、ソファかベッドぐらいしかない。何も言わないうちに下通はベッドに腰を下ろした。
「あさって誕生日ですね。選手名鑑で知りました。二十歳、おめでとうございます」
「どうもありがとう」
 ウグイスのような声ではない。少し低音の、ふるえる声だ。私は机の椅子に座った。斜め横から耳と頬を見つめる形になった。下通はしばらくうつむいて考える様子をしていたが、思い切ったふうに、
「……好きです」
 と言った。勇気を奮った証拠に、大きく呼吸している。
「私、三十二です。ちょうど一回りちがいますね。……初めて中日球場の放送席から神無月さんを見たとき、小学生みたいに胸がときめきました。それ以来、ずっとときめいています。若いころに恋愛も二度ほど経験があります。でも、こんなにときめいたことは一度もありません。……それだけをお伝えしにきました」
 ドアへ立っていく。
「ぼくが初恋だということですか?」
 私を振り向いて、
「はい」
 と応えた。
「光栄です」
 下通は深呼吸すると、
「ほんとうなんです。こんなに男の人を好きになったのは、生れて初めてです。今回も二日間いっしょに旅ができると思うと、飛び上がるほどうれしかった。……もう少しお話したかったんですが、もうじゅうぶんです」
「……話というのは……もしかして」
 私はすぐに心を決めた。 
「……はい。小学生の心でときめいても、それだけでは苦しいので」
「下通さん、ぼくとその種の関係をつけても、恋愛関係にはなれません。なぜなら、あなたは中日ドラゴンズの大切なウグイス嬢だからです。いつも目の前でプレイする選手と恋愛関係になってしまったら、あなたの声は変わってしまいます。もうあの日本一美しい声は出せません。その責任を感じながらプレイするのはごめんです。……九年前の昭和三十四年、あなたはもう中日球場のウグイス嬢をしてましたね」
「はい、二年目でした」
「ぼくは十歳でした。三十四年から三十六年までの三年間、中日球場に何十回もいきました。そのたびにあなたのきれいな声に耳を傾けた。あなたの声を聴いて育ったと言っても言いすぎじゃない。入団式のときも、あなたのまねをして、会場一同の拍手喝采を浴びました。泣いてる人もいました。あなたの声はみんなの心の原点なんです。その意味であなたは雲の上の人です。からだは生理反応ですから食べ物のようなものです。声の調子に影響は出ないでしょう。心は一介の選手のところへ降りてきてはいけません。声に影響が出ます。あなたの声はスタンドの観客のものです」
 下通は机に近づき、唐突に服を脱ぎはじめた。
「おっしゃりたいことはよくわかりました。雲の上から降りてきたのは、神無月さん、あなたです。一介の人間は私たちです。一介の人間の能力はいつも一定です。肉体を交えたくらいで声は変わりません」
 ブラジャーと丈の短いパンティだけになった。
「ここからはひとこともおっしゃらないでください」
 床頭のスイッチを押して部屋の灯りを落とし、窓からやってくる淡い街の灯だけを部屋に満たした。
「一介の人びとに降りてきたからだに触らせてください。これは私の一方的な気持ちです。人間同士なら、片想いという表現も当てはまるかもしれません。でもこれは供物(くもつ)のようなものなんです。供え物をした私が恩寵を受けるんです。神無月さんが手で私のからだに触る必要はありません。何もしないでください」
 下通は椅子に座っている私の手を引いて立たせ、ジャージの上下を脱がせ、パンツを引き下ろした。私を抱き締めながら、そっとベッドへ倒れた。額から始めて、目、頬、鼻とキスをしていく。その途中でブラジャーを外し、パンティを片手で脱いだ。外へ開いた形のよい豊かな胸と、淡い陰毛を、窓からの人工の外光が照らした。私のものは小さく萎んでいた。
「かわいらしい。ローマの石像のよう」
 太腿から足先へ唇を滑らせていく。戻ってきて、乳房で陰茎をこすり、わずかに回復した私のものを満足げに含んだ。舌の全体を使って亀頭を舐める。だれもがする本能的で自然な行為なので、取り立てて違和感はなかった。たちまち素子のときと同じ量の血が流れこんだ。下通は驚いて口を離した。言葉を発しないで、しばらく窓からの光にそれを透かし見た。かすかに微笑んだ。まったく吉永先生に似ていない彼女だけの顔だとわかった。


         十

 やがて唇が昇ってきて私の口を塞いだ。唇を離し、私の目を見つめながら、胸に手を突き、腰を大きく跨いでしゃがむ。指を添えてゆっくり腰を下ろした。ウッと小さくうめいたきり、無言のままゆっくり動き出す。うれしい、と呟き、快楽を求めるというよりも結合の喜びを確かめる動きにいそしんでいる気配だ。表情から察して、私に射精させようというやさしい気持ちから尻を上下させていることがわかった。応えようと思った。やがてやさしい気持ちを忘れさせる変化が彼女のからだに訪れたようだった。
「神無月さん、私……」
 呼吸が速まり、膣が特有の反応を伝えてきたとたん、下通は息をつめながら私の首を強く抱いた。陰阜を前後させて痙攣する。皺が寄るほど目を固くつぶる。
「あ、神さま……私、こんなこと……」
 純粋に驚いている。ふたたび私の唇を求め、舌を絡ませながら動きはじめた。すぐに口は離れ、あわただしい呼吸をするだけの器官になる。うめき声に重みが増し、脈動が強い緊縛に変わっていく。
「あ、あ、愛してます、ごめんなさい、ま、また、私!」
 下通は胸に手を突いたまま尻を収縮させたり弛緩させたりして、ままならない反射にわが身をまかせている。自分を襲っている快楽に戸惑っているようなので、確認させてやるつもりで下から数度突いた。下通はとつぜんの快感に上半身を直立させ、私の両手を求めた。組み合わせて体重を支えてやる。下通は自棄のようにみずから往復を速め、たちまち強いアクメに達すると、しゃがんでいた両脚を立て膝にし、私の両脚を挟みこむように硬直させた。烈しい痙攣に伴って膣がこれ以上なく硬く締まる。ついに射精が迫り、習慣のようにカズちゃんの顔を思い浮かべた。私は一瞬の判断で下通の腰を持ち上げて結びを解き、射精した。律動で飛び出した精液が彼女の下腹とみぞおちにかかった。瞬間、下通は私に向かって倒れこみ、精液を糊にしてからだを重ねた。荒く呼吸するだけで、ひとことも快楽の発声をせずに痙攣を繰り返す。
「愛してます、神無月さんだけ、生涯に一人……」
 うめきながら言うと、口を情熱的に吸ってきた。応える。からだに自由が利くようになると、下通は跨いでいた脚を揃え、肩を並べるように仰向けに横たわった。下腹が窓の光の中で時おりふるえる。肩に鳥肌が立っている。私は添い寝をしたまま、彼女がすっかり鎮まるのを待った。
「ありがとうございました。……これが肉体だとしたら、私はいままで肉体を知りませんでした。からだの中に光が走りました。一生の思い出にとっておきます」
 彼女はシーツが汚れないように、枕もとのティシュを多量に抜いて、自分と私の腹部を拭った。私はベッドから降りて机にいき、ポットの氷水をコップに注ぐと、ベッドに起き上がっている下通に差し出した。彼女は一息に飲み干した。
「きょうかぎり、つきまとうことはしません。これからは、神無月さんの心の近くで見守っています」
 下通は汚れたティシュを握ってトイレにいった。迷いも救いも私の意志で、自由も束縛も私の意志だと昨夜念じたばかりだ。たとえそれが思いがけないものだとしても、私の意思が招いたものにちがいない。
 ―私は迷わずこの女を救うことができた。
 下通はトイレから戻ってくると、下着をつけ、服を着た。
「帽子、いつもああやって洗うんですか」
「いつもじゃないけど、気づいたときにね。ケーキ、食べますか?」
「はい」
 素直に答える。
「手づかみですよ」
「はい。紅茶いれますね」
 コーヒーテーブルで見つめ合いながらケーキを食べ、紅茶を飲む。下通は裸の私に頓着しない。
「そんなに食べて、胃もたれしません?」
「少し」
「無理しないでください。それ、私がいただきます。……中に出してくれてよかったんですよ。神さまの子供を身ごもるなんて最高の幸せですから。……つらいほど感じることを初めて知りました。こんな経験は一度でじゅうぶんです。だれかに伝えるなどという気にもなりません。……またあしたから元気に仕事ができます」
「うん、おたがいがんばろう」
「アナウンスの声はぜったい変わりません。安心してください」
「うん。いつか、駅西に遊びにきてください」
「はい、チームのどなたかに誘われたとき……。そういうイベントがあったら、かならずまいります」
 ニッコリ笑うと、瞬く間にケーキを平らげた。指を舐め、ナプキンで拭った。
「ほんとうにきょうはありがとうございました。心から感謝しています。あと二日、精いっぱいアナウンスします。お休みなさい」
 と言って、そっとドアを開けて出ていった。私はシャワーで股間を洗い流し、下着とジャージをつけた。 
         †
 五月四日日曜日。八時起床。晴。十九・一度。七階大広間でバイキング。バタートースト三枚、ベーコン、ソーセージ、スクランブルエッグ、ポテトフライ、サラダ。うまさにびっくりする。洋食オンリーでしっかり食う。
 ロビーで北陸中日新聞。十二球団監督の今季のペナントレースに向けての〈思い〉が載っている。
 中日ドラゴンズ水原監督―形ができた。チャンスで仕留める成功率が高い。シーズンを通してこの成功率をいかに維持するかが問題。
 読売ジャイアンツ川上監督―ピッチャーに制球力があることを頼みに、打撃陣を強化してなるべく連敗を避けたい。ONの健在は心強い。
 阪神タイガース後藤監督―田淵が入ったことで打線におもしろみができた。中日戦でどこまで勝率を上げられるかがすべて。本塁打製造機の神無月の攻略は度外視したところで戦うしかない。
 広島カープ根本監督―中継ぎの強化に励むしかない。課題だらけで頭がまとまらない。山本浩司と衣笠が大砲になってくれと願う。
 アトムズ別所監督―ここまで二十戦近く戦って、正直計算どおりいかなかったところも、計算以上にいったところもある。〈怪物〉対策は計算外。腹をくくってシーズンを乗り切るだけ。
 大洋ホエールズ別当監督―投手、野手の総合力でAクラスチームにぶつかる。飛躍する選手が出てきてほしいが、なかなか期待したようにはいかないものだ。
 阪急ブレーブス西本監督―勝ちっぷりも大事だが、負けっぷりも大事。ギリギリの負けっぷりが出るようになったので心強く思っている。今年も優勝を狙う。
 近鉄バファローズ三原監督―順調だと思う。もちろん悪い部分もあるが、シーズンを通して成長できる。とにかく選手の健康が大事。
 ロッテオリオンズ濃人監督―いい形できているのはまちがいない。若さを前面に出していきたい。
 東映フライヤーズ松木監督―選手各自、さらに貪欲に自分のポジションを取るようにがんばってほしい。
 西鉄ライオンズ中西監督―先発投手陣が少し落ち着いてきた。その点ホッとしている。
 南海ホークス飯田監督―できることを選手がやれば勝てるチームだと思う。
 ユニフォームに身を固め、乾いた帽子をかぶってロビーに降りる。お仕着せのスーツを着たフロントマンに、きのう着たユニフォームと下着とワイシャツを詰めた段ボール箱を差し出し、送付手続をすませる。九時半チェックアウト。ダッフルと大バッグとバットケースを持って兼六園野球場へ出発。下通がバスの中を歩きながら、押し寿司をきのうリクエストした男たちに配った。
「申しわけありません。鯖がなくて、鱒しか手に入りませんでした。でも遅ればせながら富山の鱒寿司が食べられることになりました」
 熊笹に包まれた鱒の押し寿司三個が入っていた。笹寿司というものらしかった。バッテラによく似た味で、酢めしと昆布の調和が絶妙だった。私と江藤たちは下通にVサインを送った。下通はうれしそうにコックリをした。
 駅前を抜けると、とつぜん街並に緑が多くなる。背の高いビルはまったくない。人と建物が古代の大気の中に息吹いている感じで、そこへ私たちが未来からやってきて車で走り回っている錯覚に陥る。きのうと同じメンバーの背中がバスの座席に並んでいる。下通嬢の背中も、明るくフロントガラスを眺めている。昨夜のことが嘘のように思われるほど溌溂とした背中だ。
 田宮コーチが発表したスタメンはきのうと同じ。先発ピッチャーは田中勉。たぶん完投する。
 兼六園野球場の外周に建ち並ぶ民家のたたずまいは、裾に石垣を巡らせてあるだけの殺風景なものだが、家々の庭の立木が濃い緑の枝葉を差し伸べてアーチをなしている。目を洗う瑞々しいアーチの下を走る。石垣と石垣のあいだに、青森の葛西家のような簡素な平屋が点在している。水原監督がふと、
「栄冠は君に輝くは古関裕而の作曲、加賀大介の作詞だ。昭和二十三年に作られた。加賀は石川県人だ。野球小僧でね、試合中に脚にケガをしたのがもとで骨髄炎を起こして切断した。野球への思い断ちがたかった加賀の情熱が歌詞にこめられてる―」
 知らなかった話に感情が激震した。私は大声で唄いだした。

  雲はわき 光あふれて
  天たかく
  純白のたま きょうぞ飛ぶ

 車中の全員が合わせた。

  若人よ いざ
  まなじりは 歓呼にこたえ
  いさぎよし ほほえむ希望
  ああ 栄冠は 君に輝く

 菱川はボロボロ涙をこぼし、下通はハンカチを顔に当てていた。前列の監督コーチ陣は立ち上がり、こちらを向いて感無量の顔で腕組みしていた。だれの目も潤んでいた。
 緑の道の外れに、ひっそりと球場の外壁が現れた。壁の高さは富山球場より少し高い。周囲を深緑(ふかみどり)の並木が縁取っている。一般の駐車場しかない。バスを降りる。いつに変わらぬ人だかりだが、慎み深い県民たちは寄ってこない。きょうは失敗のないようにダッフルとスパイクとバットケースのほかに、スポーツバッグも肩に提げてバスを降りた。田宮コーチが、
「球場の外は幅の狭い森になってる。その向こうは一般道だ。飛びすぎた場外ホームランは通行人や車に危険だが仕方ない。当たらないことを祈ろう」
 球場の中に入ってみると、狭いダッグアウトの後部に更衣室が設えてあるきりで、監督コーチ控え室も、むろんトレーナー室もない。売店、便所、喫煙所が入口ゲートの一カ所に集められている。観戦中にここへ移動してくるのは難儀だろう。選手用便所はロッカールームの奥にあった。私はふだん朝と昼と就寝前の三度小便をすればだいじょうぶなので、このあいだの川崎のように冷えこまないかぎり、球場の便所を必要としない。
 運動靴をスパイクに履き替え、バット二本を持ってベンチに入る。この球場も二列の短いベンチ。選手以外は立ち詰めになる。水道設備はロッカールームにしかない。
 グランドに上がる。バックネットはやはり直立金網。ネット裏のスタンドはかなり広い。ごく一部背凭れのある椅子になっている。内野スタンドはその半分くらいの幅。外野スタンドは帯のように狭い。
 バッティングケージが準備されるあいだ、フェンス沿いに歩く。外野スタンドと外野寄りの内野スタンドは石段で、あとはすべて板のロングシート。外野席は十列ほどしか坐れない。ファールグランドが異様に広い。ネクストバッターズサークルからバッターボックスまで相当歩くことになる。
 両翼九十一・四、中堅百十三。たしかに場外ホームランが出やすい。東大球場より少し広めの〈運動場〉の雰囲気だ。空が青い。松橋の言ったとおり、数人の審判が外野で柔軟体操をしている。
「こんにちは!」
 挨拶をして通り過ぎる。彼らは戸惑ったふうにお辞儀を返した。フェンスから突き立ったバックスクリーンとスコアボード。富山球場とそっくりだ。同じように左端が時計になっている。中心より右のほうへホームランを打とう。場外ホームランは立ち木の中へ吸われるよう祈る。



         十一        

 鏑木とジョギング。グランド二周。途中からほぼ全員が加わる。ポールからポールへダッシュとジョッグの組み合わせ二往復。三種の神器。江藤が屈伸で柔らかいからだを誇示しながら、
「きょうは市長も芸能人もこんらしいぞ。うれしか。ホッとするばい」
 その気持ちはよくわかった。今朝の新聞に私の空振りの写真が大々的に載っていて、希代のエンターテイナーという見出しがついていた。三十一号、三十二号ホームランのことは小さく書かれていただけだった。野際陽子が、
「とてもおもしろいかたなので、今度テレビにお呼びしてお話したい」
 とコメントしていた。だれがいくものか。私は野球選手なのだ。それにしても、新聞の扱いから、ホームランというものの社会的評価の低さがよくわかった。それならそうと割り切り、のんびり、気楽に、ホームラン記録を重ねていこう。
 門岡に三球投げてもらい、三球とも場外に叩き出してバッティング練習を終え、それからは守備練習までずっとベンチに座ったままでいた。舞い上がるボールが白く清潔に見える。観客は一万人ほど。空席が目立つ。こんなスタンドは初めてだ。試合開始直前、水原監督がベンチで、
「金沢の人たちに野球のおもしろさを教えてあげなさい」
 と言った。
 田中勉は予想どおり、完投、シャットアウトした。打者三十一人に対して被安打三、三振三、フォアボール一、五勝零敗。ハーラートップ。二位は小野の四勝、三位は阪神の若生と大洋の山下、わがチーム小川の三勝。
 広島のピッチャーは、五回まで三好幸雄、八回の裏まで宮本洋二郎。宮本は二度目の対戦、三好は聞いたこともないピッチャーだった。二回に私と木俣の連続ソロホームラン、三回に高木と江藤の連続ホームラン、四本とも場外だった。三回裏の私の第二打席はキャッチャーフライ。
 水原監督は三回で試合が決したと見て、四回裏の攻撃から、二番から五番までをそっくりベンチに下げ、高木の代わりに島谷、江藤の代わりに千原、木俣の代わりに新宅、私の代わりに江島を入れた。菱川は最後まで出場した。菱川は七回にレフトのはるか場外へ五号ホームランをかっ飛ばし、高木、太田と並んだ。三安打対十一安打。ゼロ対五で勝利。広島の三安打は、苑田、衣笠、山本一義のシングルヒットだった。これで開幕以来十七勝一敗となった。三時十三分試合終了。
         †
 サイン会には子供たちが三十名程度しか集まらず、水原監督やコーチ陣も参加したが、十分もかからずに終わった。
 ロッカールームでわいわい着替え、三時四十五分、何の未練もなく金沢をあとにした。ふと、この二日間、松葉会の男たちをまったく見かけていないことに気づいた。ホテルでも、球場でも見かけない。しかし、どこかで見守っていることはまちがいなかった。
 もう一つ。新聞にEK砲とほとんど書かれなくなった。やはり、ON砲より語呂が悪いということなのだろう。小野が田宮コーチに、
「きょう、三好というピッチャーが出ましたが、うちにも今年三好というのが入りませんでしたか」
「おお、三好真一な、四国からきたドラ五。ピッチャーでなく、野手だね。どうなの、本多さん」
「はあ、五年計画です」
「なるほど、ひとことだね。ドラ六の左ピッチャーもいたろ」
「竹田ね。あいつも伸びないなあ。目が悪くてね、眼鏡をかけさせたんだけど、その具合がよくないのかな。球の速さならドラゴンズナンバーワンなんだ。ただ制球力がね」
 ついこのあいだ話題になったばかりの二人の消息だった。江藤がいつか話していた〈掘り出し物〉の話題は出ない。
 大型バスのクッションが心地よい。林道のような国道八号線を南下する。最近ではバスの外の景色に目を凝らすことがなくなった。太田コーチが、
「きょう三安打が二人いる。利ちゃんと島谷だ。一枝はノーヒットなので、福井では三遊間を太田と島谷でいく。あしたはピッチャー浜野。チームの勢いを潰すなよ」
「まかしといて!」
 中が、
「浜野くん、広島戦は初登板?」
「いえ、水谷さんの継投をしてます。十二対ゼロのアヘッドで。……三点取られました」
 太田コーチが、
「そうか、口惜しかったろ。監督もその気持ちを考えて先発に指名したんだな。今度は水をこぼさんようにしてくれよ。あしたの広島はまちがいなく外木場だ。一枝以外は、きょうのスターティングメンバーを動かさないでいく」
 水原監督が宇野ヘッドコーチに、
「金沢って、この二月に自衛隊のジェット機が墜落した町だよね」
「はい。落雷のせいで、兼六園から三キロほど離れた市街地に墜ちたということでした。何人か死んで、家もかなり焼けたみたいですね」
「地元の人間からその話題がまったく出なかったな。どうしてかな。金太郎さん、どう思う?」
 私はハッとして、懸命に考えた。
「自然災害はもちろんのこと、国家機関が引き起こした災害に対しては、被災者は怒りの向けようがないんだと思います。裁判に訴えても、司法は政治的判断を避けるという口実で撥ねつけますか。水俣病のような民間機関が引き起こした災害なら、スクラム組んで闘うこともできますが……国家相手でないので司法が多少助け船を出してくれますから。数十人、数十戸で国家災害に立ち向かうとなると、スクラムも弱々しいし、司法は手助けしないし、ほかの市民にも賠償金ほしさの個人のわがままという感覚で捉えられてしまうんでしょうね。話が一人ひとりの人間の生き死にに関わる問題から逸れて、自衛隊うんぬんという公の政治問題に移されてしまった。それで被災者以外の大勢の人びとの気持ちが、国相手じゃ個人の事情をいくら持ち出しても敵いっこないよというように、ひと段落ついた感じになったんだと思います。大権力に対する個人の怒りは無力ですし、そういう怒りは大勢には伝染しません。怒りは個人対個人のときにのみ有効です。そんなわけで、何ほどもしないうちに市民全体が飛行機事故のことを忘れてしまったんですね。たった三カ月のあいだに」
 監督は深く息を吐いて、
「金太郎さん、きみには社会的知識なんてものは必要ないよ。その場で尋常でなく深く考えられるから。きみは社会的なことに知識がないんじゃなく、関心がないんだということがいまの応答でつくづくわかった。東大優勝の祝賀会で、金太郎さんをバカ呼ばわりした記者の顔を見たいものだね」
 太田コーチが、
「その記者はとっくに新聞界から干されたと聞いてます。バチが当たったんですな」
 下通が、
「ものごとを考えてわかろうとする人と、教えられてわかろうとする人の距離は、永遠に近づけないほど大きいと思います」
 江藤が、
「金太郎さんも監督も下通ちゃんも、ええ頭しとる。自分の頭で考えるゆうのは簡単でなかよ。下通ちゃん、きょうのアナウンス、一段といい声しとったばい。江藤選手第十二号のホームランでございます。気持ちよかったァ。日本一の声やな」
 太田が、
「長嶋がきのう大洋戦でようやく一号を打ちましたよ。王はいまのところ三本です」
「ワシの目標はそぎゃんところになか。金太郎さんの裾野から離れんこったい」
 五号を打った高木と四号を打った木俣が、バスの天井を見上げながら、
「俺、十八試合で五本ということは、少なくとも四試合に一本打ってるわけだから、シーズン三十本以上? 大したことないな」
 木俣が、
「俺もそうだ。ま、現実的な数字だな」
 太田が、
「俺も菱川さんも、そのくらい打てますね」
 水原監督が、
「皮算用なら、もっと大きな数字を考えなさい。ピッチャーを除いて、金太郎さん以外の七人のバッターが二十本以上打つとする。百四十本。そこへ金太郎さんのX本が加われば、何百年も破られないチーム最多本塁打記録になるかもしれない。それより、金沢のお客さんが野球を楽しんでなかったのが残念だ。だからクリーンアップを引き揚げました。先日もうそんなまねはしないと言ったんですけど、あの醒めた観客では諸君たちも甲斐がない気がしてね。めいめいホームランも打ったし、打率も下がらなかったからいいでしょう。この県はまだ野球が市民権を得ていないようだね。球場はもちろん、ホームランが打ちこまれる喜びの場所である外野観客席の狭さは異常です」
 下通が、
「田中さんの力投がほんとに空しく見えました」
 本多コーチが、
「福井県は野球ファンが多いぞ。おととしできたばかりの福井県営球場もすばらしい。二万二千人収容。両翼百メートル、中堅百二十二メートル、フェンス二メートル。去年遠征でいってみて驚いた。じつにきれいな球場だ。照明灯がちゃんと六基ある。広告の掲示なし。外野の芝生席は狭く見えるけど、奥へ幅がある。場外へ出すのは難しい。ま、金太郎さんの打球はほとんど場外だろうがね」
 長谷川コーチが、
「北陸の球場の特徴で、バックスクリーンにスコアボードが乗っかっている形だけど、フェンスから五、六メートルほど離れてるので圧迫感はない。もともと百二十二メートルもあるしね。時計は、スコアボードのてっぺんに三角山の形で突き出てる。全体が折紙の雛(ひな)みたいだ。百六十メートルも飛べばその頭にぶつけてしまうけど、金太郎さん、ぶつけないように祈るよ。水原監督が胸を痛めるからね」
「はい。引っぱるか、流します。だいたい、毎回そんなに飛びませんよ」
 木俣が、
「わからねえぞォ。外角で芯食っちゃったら、ぶっ飛んでくだろ」
 民家や商店や事務所が間隔を置いて連なるだけの道になる。三十分、一時間、森も林も山もない。フロントガラスの空が動かず、広い。まるで空を走っていくようだ。砂州のあいだを何筋も水が流れる川を渡る。何キロもある大きな橋だ。渡り切った橋の袂に手取川という看板が立っていた。
「下通さん、福井まで何時間くらいですか」
 振り向き、ニッコリ笑って、
「二時間半です。まだ半分きてません」
 高木が、
「金太郎さんが相手だと、やさしくていい顔するなあ」
「大ファンですから。身のほどわきまえずに媚びを売ります」
「ヒョウ、ヒョウ!」
 みんなの喚声を背に、一枝が、
「おいおい、この恋、叶えてやりてえなあ。金太郎さん、どうにかならんか」
 下通が、
「神さまに恋するのは失礼とは思いませんが、お参りして、お祈りして、ご加護のおかげでつつがなく暮らさせていただいたら、あとはありがとうと感謝するだけにしたほうがいいと思います」
「こりゃ、病気だわ」
 監督が、
「病気じゃないよ、一枝くん。われわれにしても下通さんと基本は同じだ。私は金太郎さんに惚れてるが、下通さんと同様、そのことを失礼とは思わないし、惚れた見返りを求めてもいない」
「そうたい! 惚れるのはこちらの勝手な気持ちばい。押しつけたらいけん。金太郎さん、あした誕生日やろが。浜野とワシらが勝利をプレゼントするけん、ノーヒットでよかよ」
 江藤が太い声で言った。
「はい」
「はい、はなかろうもん」
 和やかな笑いが車内に満ちた。小川が、
「ああ、いいなあ! こんな日を毎日送りたいよ」
「ボカァしあわせだなあ」
 一枝が言って、大きなホクロのある鼻をこすった。
 小松という町を通る。宇野コーチが、
「監督、茨城の百里基地からここの小松基地へ帰還する途中の自衛隊機が金沢に落ちたんですよ。基地に小松空港が隣接してます。帰りはそこから羽田へ直行です」
 下通が、
「私は福井から電車で名古屋へ帰ります」
 樹木のある山道に入り、石川県と福井県の県境にある牛ノ谷という峠を越える。民家が多くなる。大工場のような建物もポツポツ見えはじめる。ドライブインなども現れる。さらに三十分ほど南下をつづけ、完全な住宅街に入る。ホッとしてみんな人けのある景色に注目し、口数が少なくなる。在来線の踏切を渡り、野辺地に似た町区に入る。テレビアンテナを立てた民家に雑じって、不動産屋、クリーニング屋、薬局、仏具店、公園、中小工場などが並ぶ。場ちがいな高層マンションも建っている。ラーメン屋が現れる。現代文化の象徴だ。菱川が、
「きのうのラーメン、うまかったっすね」
「おお、絶品やったな。具はメンマとチャーシューとネギと海苔だけ。二杯いけると思うたばってん、やめといた。暴飲暴食は体調を崩す。まっこと北陸のラーメンはうまか。今夜も探りにいくばい」
「いきましょう」


         十二

 228という道標のある道へ入った。分離帯が並木になっている。三階建てのビルが連なる。並木が途切れるあたり、高層ビルが間隔を置いて建ち並ぶ街の中心部に入った。ビルのあいだに夕暮れの空が見える。すでに六時半を回っている。城の礎石のような石垣と広い堀に囲まれた福井県庁を右手に見ながら、水辺を巡り、市役所を過ぎ、くねくねと何曲がりかして、看板の漢字が難しくて読めない神社(佐佳枝廼社)の鳥居を過ぎる。右手の大きな公園を眺めながら直進し、左折して停車する。ホテルフジタに到着。
 そびえ立つようなホテルだ。これまで宿泊した中では、東京と博多のニューオータニに次ぐ豪壮さだ。
「ほう、着きましたネ!」
 いままで眠りこんでいた半田コーチが目を覚まし、ウーンと伸びをした。みんなで腰を伸ばす格好をしながら玄関前に降り立ち、バスの腹から引き出した荷物を提げて明るいロビーに入る。運転手は市役所横の駐車場へバスを転がしていった。あとであらためてチェックインするようだ。二時間半でもバスの旅はけっこうきつい。広島チームの移動のつらさが偲ばれた。
 一、二階にテナントを入れ、三、四階に宴会場を設けているホテルだった。その都合からだろう、フロントが五階にある。エレベーターを分乗してフロントへいく。大理石造りの長いカウンターに女一人を交えた三人の従業員が姿勢正しく立っている。ボーイの出迎えがないので煩わしさがない。ロビーのソファに何人か一般客がくつろいでいる。大人数で乱入してきた私たちを物見高い目で見ている。彼らの中にはすぐに悟って、囁き合う人たちもいる。都会とはまったく反応がちがう。球場を新設したとは言っても、全体的に野球には無関心なのだ。そう言えば私も、北国から横浜に出てきて初めて野球を知った。
 報道関係者がちらほらいる。フラッシュを焚かないであわただしくシャッターを切っている。足木マネージャーが書式にサインを終え、部屋割りを告げにきた。私は六階のスーペリアシングル。中、高木、江藤、小川は七階のスーペリアシングル。ほかの選手と、足木マネージャー、鏑木ランニングコーチ、池藤トレーナーは八階のスタンダードツイン。監督・コーチは九階のスーペリアシングル。ルームサービスをしてくれるのは二階の焼き鳥店のみ。ただし十時半まで。必要なし。みんな早く部屋に落ち着きたいので、鍵を受け取るとこぞってエレベターへ急ぐ。ボーイが先導することはない。これもスッキリしている。
 バスの運転手がカウンターで鍵を受け取り、エレベーターのほうへいった。私はロビーに独りきりになった。部屋に入った瞬間の寒々しい空気が嫌いなので、ベンチに座って大ガラスの外を眺めた。シンプルな立木が並んでいる大きな公園が見える。子供用の遊園設備がところどころにあり、園全体に芝生を敷き詰めてある。ホテルの明かりが薄く届いているほかに、園灯も賑やかに燈っている。遠くに照明を施された噴水が昇っている。木の形と枝ぶりから察するところでは、桜、白樺、躑躅、ハコネウツギ、レンギョウ……。食事のあと散歩に出てみよう。
 ボーイの格好をした青年が寄ってきて、
「神無月さま、鍵お忘れですよ。はい、どうぞ。お荷物、お部屋にお運びしておきましょうか」
「あ、よろしくお願いします」
「八時からみなさま、当階のチャイナテーブルで夕食をなさるということになっておりますが、ご出席は任意とのことです。どうなさいますか」
「そこで食べます。あのう、このホテルの隣にある神社の名前が難しくて読めなかったんですが。佐藤の佐、佳人薄命の佳、枝、それからあれは何て読むんだろう、西のような字にエンニョウ、そして社」
 ボーイはニッコリ笑い、
「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)と読みます。歴代の越前藩主たちを祀った神社です。戦災や地震で焼けて、北陸では初めての鉄筋コンクリートで再建されました。境内の地下が当ホテルの駐車場になっております」
「そうですか。このホテルの守り神かと思いました」
 ボーイは笑いをこらえながら、
「従業員一同、神無月さまの美しさに驚きました。近寄りがたいものがございます。新聞でしか知らなかった怪物天馬の姿を間近に見られて光栄です」
「ありがとうございます。県営球場はここから近いんですか?」
「六キロほどです。車で十五分かかりません。すみません、図々しくお声をかけて失礼しました。では、どうぞごゆっくり」
 いつのまにか、見物の客たちの数が増えている。一定の距離を保ってくれているのでありがたい。水原監督が降りてきた。彼が単身で動くことはめったにない。
「や、金太郎さん、会食はまだ早いぞ」
「ボーッと景色を見てました。監督こそ、どうしたんですか」
「いや、土産物でも買おうと思ってね。フロントで聞いてきたよ」
「案内板で、一、二階になってました」
「そうか、ありがとう。あした以降のことを考えたら、この三、四十分しか時間がないようだし」
「そうですよ。どうぞ、いってらっしゃい」
「うん、じゃあとで」
 家で待つ人のために土産を買う水原監督のやさしさを思った。私にそんな考えはまったく思い浮かばない。出発したところへわが身一つを帰還させるだけだ。
 八時まで四十分ほどあるので、エレベーターに乗って下に降りた。公園に歩み入る。ロビーの窓から眺めると明るく見えたが、園内は薄暗く、遠近がよくわからない。眼鏡をかけていないことに気づいた。生れて初めて身の不便を感じた。胸ポケットを探って、近眼鏡を取り出してかけた。視界が明るくなった。芝も樹木もタイルを敷いている遊歩道もハッキリ見える。園灯が美しい。遠くから見えなかったが、松も梅もある。
 礎石の上に岡倉天心像が立っている。天心は横浜の生まれではなかったか。彼のことは美術に関係のある人としか知らない。『茶の本』という彼の著書を読みかけて、途中で放棄した記憶がある。私の読みさす本はたいてい世間の名著とされている。名だたる名著を読みさす瞬間に、いつも、世間に守られた教養書の世界で生きていくのは無理だと感じる。活字のもたらす効果は想像以上のものだ。一字一字が、私を校庭や教室から引きずり出した。しかし、どんな効果的な言葉でも表わせないものがある。
「キョウちゃん!」
 素子が走ってくる。
「素子!」
「二階のお蕎麦屋さんからひょいと窓を見たら、キョウちゃんが公園に入っていく背中が見えたんよ。追っかけてきた。だれも見とらんと思う」
「見ててもいいよ。江藤さんや太田たちには、素子がきてること伝えてるから」
「やだ、せっかく遇わんようにしとったのに」
「彼らも山口と同じ一心同体の男たちだよ。水原監督もね。ごはん、途中だったんじゃない?」
「食べ終わってお茶飲んでたとこ。今夜十時半ころいくね」
「ええと、ぼくは何号室だ?」
 ボーイから受け取った鍵をポケットから出して見る。
「六階の五号室よ。今夜でお別れやわ。この公園がたった一度のデートらしいデートやね」
「ほんとだ。大切な時間だ」
「楽しかった。一日中キョウちゃんのそばにいて、しっかり野球見て、抱いてもらって、こんな幸せあれせんわ」
「今度は、栄養士の免許をとったときだね」
「楽しみ。三年後……」
「きょう、ネット裏にいなかったね」
「うん、キョウちゃんのホームラン飛んでくるの見たくて、ライトの外野席に入った。すごかった。頭のずっと上を越えて、外へ飛び出してった。あんなものに当たったら死んでまうわ。そのあと、キョウちゃんが引っこんでまったから、すぐ福井にきて、市内をタクシーでぶらぶらしとったんよ。その話はお部屋でするね。もう戻ったほうがええよ。あたし、先にいくね」
 少し背を屈め、スカートを揺らして公園を出ていった。首筋に戦慄が走った。これからいくらでも豊かな人生を送れるはずの人間が、たった一人の他人に心とからだを縛られて生きるなどということが許されるものだろうか。許されるはずがない。人はもっと自由な生きものだ。私はだれかから彼らを奪い、彼らからだれかを奪った。おまえはだれも奪ってないと彼らは言うかもしれない。そうだ、私はそういう我欲のない人間だ。限定した一人の愛を引き寄せることを躊躇する人間だ。オシドリのように一対を全うする人間関係を愛の極致と見なすなら、その躊躇は愛のないことを証明している。
 ただ、私の人生の革命の出発点は飯場だった。私はそこの一対多の人間関係の中で、横溢する無償の愛の存在を知り、一人ひとりに報いるべき感謝という感情を知った。青森高校野球部、東大野球部、中日ドラゴンズチーム。感謝の感情が分散されないと、その一つひとつを愛に満ちた人間関係として捉えることができなくなった。
 ……考えても詮がない。彼らの真心が決めたことだ。真心が選択して彼らのいまがあるだろう。真心が決定した〈いま〉はいじれない。彼らの真心は悲しみよりも幸福を選択したはずだから。
 五号室に入ると、ユニフォームと下着が届いていた。フロントに降り、段ボールの厚紙を一枚、ビニール紐を一巻きもらって五号室に戻り、組み立てた箱に、襟の汚れたワイシャツ一枚、使った下着のすべて、汚れたユニフォーム一式、使ったタオル数枚を詰める。睦子のお守りは忘れずに取り出した。箱の上に使用済みのバットを二本載せ、紐で縛りつける。あした着る新品のユニフォームをソファに延べ、新しいジャージに着替える。箱を持ってフロントへ降りる。郵送を頼み、北村席の住所を書式に書きこむ。従業員が緊張している。みんなでじっと見つめているのがわかる。
「じゃ、よろしくお願いします」
「かしこまりました!」
 チャイナテーブルという中華料理店にいく。きょうも江藤たちの姿はない。小川や田中勉や木俣や浜野もいなかった。下通がコーチ連に交じって水原監督たちのテーブルについている。監督が手招きする。近寄り、一礼して、椅子を引いて座った。前菜が出てきた。みんなのまねをして膝にナプキンを広げた。
「お土産は買えましたか」
「うん、たっぷり買って、もう送った。酒のつまみばかりになっちゃったよ。自分の好きなものばかりだからお土産にならないなあ。サバのへしこ、小鯛の笹漬け、塩ウニ、越前そば、竹田の油揚げ、若狭カレイの干物。越前そばは、あしたの出発前に下の蕎麦屋さんで食ったほうがいいよ。予定に入ってただろう?」
 森下コーチが、
「監督、ホテルの蕎麦屋は夕方からですよ」
「そうか、それじゃバイキングに期待するしかないな」
 ビールの大瓶が五本出てくる。長谷川コーチが、
「金太郎さんはだめだよ。弱いことは慎ちゃんから聞いてる」
 田宮コーチと下通嬢が、私を除いた全員にビールをつぐ。
「彼らはラーメンを食いにいったんですか」
「そう、タコも混ぜて三人で。慎ちゃんと菱川は食い道楽なんだ。金太郎さんも広島で連れていかれただろう」
「はい、二軒ともうまい店でした」
 水原監督が、
「太田くんもいずれ食い道楽になるな」
「あのう、監督、サバの〈へしこ〉って何ですか」
「福井名物だ。塩漬けにしたサバの糠漬け。大根に挟んで食うとうまいんだ。あとは読んで字のごとしだが、竹田のアブラゲ。大きいぞ。店員の説明だと、福井は油揚げ消費量が日本一だそうでね。どこにあるか知らないが竹田村というところで、大正末年に創業した谷口屋の油揚げが最高らしい。それを十枚も買った」
 森下コーチがビールグラスにつける厚い唇をじっと見ていると、下通が私の顔をうかがい、
「あら、また神無月さんの質問が始まりそう」
 森下コーチが、
「勘弁、勘弁、飲むのに忙しい」
「森下コーチはピストンサインで有名ですが、何ですか、ピストンて」
「オーバーアクションのブロックサイン。自分でも何やってるかわからないんだよ。アハハハ」
「今年はやってませんね」
「作戦指令をする前に、パカーンて大きなの打っちゃうんだもん。それに、ブロックサインの元祖の監督が、出すふりをしてるだけだなんて言っちゃうし。でもときどきやったときはチラッとでも見てよ」
「はい、楽しくなりますから。あのう、そこの公園に―」
 本多コーチを見つめると、
「こっちも勘弁してよ、食うのに忙しいんだから」
 みんなでフカヒレとあおさの玉子スープをすすっている。私もすする。よくわからない味だが、すすり切る。




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