十三

 下通が、
「どうかしたんですか、そこの公園が? 中央公園のことですよね」
「はい。その中央公園の右手に、かなり大きな岡倉天心の像があったんです。天心は横浜出身だと記憶してるんですが、どうして福井に」
「ごめんなさい。私、そういう方面は……」
 隣のテーブルで聞きつけた中が声をかける。
「金太郎さん、天心の父親が元福井藩士だったんだよ。武士から商人に転身して、横浜で貿易商になった。そこで天心は生れたんだ。茶の本を出版したとき、天心は福井の永平寺で記念座談会をやってる。その程度のことが福井県とのゆかりだろう。天心自身は福井で暮らしたことはない。十六歳のときに十三歳の娘と結婚してるけど、その娘は大岡越前守の血筋なんだ。大岡は適当につけた官職名とは関係なくずっと関東にいたわけだから、娘とは福井で知り合ったんじゃなく関東で知り合ったんだ。天心は東大だから」
「越前守というのは適当につけた官職名なんですか」
「そう、領地名と関係なく、官位の叙任手続のとき、家の慣例や本人の好みで申請したんだよ。伊達家や島津家が代々名乗ってた陸奥守や薩摩守は遠慮したみたいだね」
 宇野ヘッドが、
「中くんは何でも詳しいね」
 若狭牛とブロッコリーの塩炒め。うまい。海老団子、福井ポークの春巻。うまい。
「中さん、茶の本は読みましたか」
「うん。茶をたしなむ心は文明の根本と言ってる。ドキッとさせる本だった」
「内省の時間を持てなければ茶をたしなめない、と言ってますね。内省こそ文明であって戦力に長けることが文明ではない。日本が茶をたしなんでいるだけの国であったころは野蛮国と呼び、戦争に勝つようになったら文明国と呼びだした。それはおかしい。文明とは偉大な精神のことであって、殺戮する能力のことではない、と。―彼はなんとか芸術というものを文明と呼びたがってる気がします。芸術はたしかに内省に基づきます。しかしそれは個別の精神性であって、万人に影響を与えるものではない。善であれ悪であれ、万人を巻きこむ現象やものごとを〈文明〉と言います。茶は万人にいきわたる文明ではなく個別の〈文化〉でしょう。野球もそうです。個別の精神で行なうスポーツです。ところが戦争や、科学の発達といったものは、国ぐるみ万人を巻きこみますから文明と言えます。茶を文明と呼ぶことは無理なんですよ。芸術は芸術のまま、ひっそりと生き、ひっそりと滅んでいくべきです。そんなわけで、ぼくはあの本を途中から読めなくなりました」
 下通の目が潤んでいる。中が、
「二つとない頭脳だね。そういう気持ちでぼくも、もう一度読み直してみるよ」
 揚げ豆腐の酢辛(すぱから)ソースかけ。
「うまい!」
 ひとしきり笑いが起こり、しばらく止まなかった。水原監督が、
「中くん、なんてすてきなひとときだろうね」
「はい!」
「金太郎さんのおかげで、野球だけでない毎日を送れる。中日ドラゴンズに監督として招かれてほんとによかった。吉祥寺に金太郎さんに会いにいった日が運命の日だった」
 小野が、
「私もキャンプの初日を忘れられません。板ちゃんが大見得切って、こてんぱんにやられちゃって」
 板東が離れたテーブルから、
「めくら蛇におじずってやつだよ。しかし、あのときはほんまに、プロってなんやろて思ったわ。あしたのめくらはだれや。外木場か。あいつ最初のショックのせいで、四連敗しとるんやで。あしたで五連敗や」
 イカと旬野菜の辛味炒め。うまい。めしがほしいと思ったところへ、明太子とレタスのチャーハン。うまい、うまい、とテーブルに伝染していく。
「ありがと、ござまーす」
 へんなアクセントの料理長が出てきた。
「あ、半田コーチと同じだ!」
 私が言うと、半田コーチがひょうきんな表情を作って睨み、
「私のは少しちがうよ。ありがーと、ございまーす」
 下通が思わずチャーハンを噴き出しそうになった。料理長は、
「おいし言って食べてくれたお礼に、当店からのサービスね。エビチリでーす」
 何人かの店員が各テーブルに配っていく。
「チャーハンお替わりの人、言ってね。うんとスタミナつけて、あしたがんばてよ」
 腹の皮がすっかり突っ張った。
 食事のあと、水原監督と私と下通と中を除いた全員が、同じ階のバロンというバーへ連れ立っていった。監督が彼らの背中に声をかけた。
「十一時までにはベッドに入りなさいよ。じゃ、あしたカメリアでね。朝食はこの階のカメリアしかないから気をつけるように」
「ウィース!」
 まだ九時半だった。私はラウンジのソファで、しばらく公園の景色を見ていくことにした。三人にエレベーターの前で就寝の挨拶をした。下通と握手した。監督と中はその様子をにこやかに見ていた。
 公園の景色を眺めているうちに、ふと、西高に転校して半年ばかり読書三昧の生活を送っていたころ、朱牟田(しゅむた)夏雄という人が訳した『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』という奇妙奇天烈な長編をゴツゴツ読み挿しながら読了したことを思い出した。また読みたくなった。自分がああいう趣味的で滑稽な生活を送っていると感じたからだ。野球道楽と女道楽。極端な道楽がもたらす非人間性。人格破壊。
 本の中の登場人物はどんな道楽に浸っていたっけ? 天才児育成道楽、城郭築城術道楽、包囲戦道楽、自伝執筆道楽。作者の名はたしか、ローレンス・スターンだった。一行一行がおもしろかった。私は行で読む人間で、森を見ないで木ばかり見ることに苦痛を覚えないタチだ。木が美しければ、森の醜怪さは気にならない。つまり、小説の登場人物に託した人格破壊というテーマは気にならない。
 しかし、小説の外にいる生身の人間となると話は変わってくる。大いに気になる。私は道楽のいきつく果てに人格破壊があるとは思わないので、いや、そう思うと生きる希望がなくなるので、ほんとうに作者が衷心こめて道楽は人格破壊につながると思っていたかどうかを確認したいのだ。著者はそんなことをひとことも書きつけていないからなおさら確認作業は難しいものになるだろう。
 面倒くさくなってきた。破壊なら破壊でけっこうではないか。どうせ彼もわれもマトモとは思っていない。……たぶんいま思いついたことを忘れて一読するだけですまし、確認などしないにちがいない。再読するかどうかすら心もとない。
 部屋に戻る。カーテンを開け、夜の福井市街を眺める。ただのビルと、ただのネオン。ビルやネオンの構造の精緻を知る人にはそうは映らないにちがいない。
 出発の荷物を確認する。OK。浮雲が出てきたので、読みだす。書き出しから主人公ゆき子の深い倦怠に胸を刺され、読み進めなくなった。高峰秀子の映画とちがって、倦怠感が神経質でなく健康的なので、よけい胸にくる。
 テレビを点ける。男じゃないか、という関西局系の刑事ドラマをやっていた。第五話・友だち、という題字が出る。関口宏が新米刑事役をやっている。署長は志村喬、先輩刑事は二谷英明、もう一人の刑事の名前は知らない。関口を思う恵子役の藤田弓子がドンくさそうだがかわいらしかった。好みではない。
 十一時。私の人格破壊に協和するために素子がやってきた。いつもより穏やかで長い行為があり、馥郁と香るようなアクメと射精があった。行為に律儀さと愛があった。名を呼びながら愛のある射精ができた。愛しさの中で素子の反応を見つめられた。
「キョウちゃん、やさしかったよ」
「そう?」
「うん。長く感じて、柔らかくイケたわ。ありがとう」
「素子を愛してるからね。もっと素子に気持ちよくなってもらいたいんだ」
「そんなこと気にしとったら、勃たなくなってまうんやないの?」
「だいじょうぶ、愛しいと思うときちんと興奮するから」
「その気持ちはお姉さんにいちばんたくさん向けてあげてね」
「わかってる」
 愛の行方は決められない。私に価値があれば、愛が私の行方を決める。
 風呂を入れ、抱き合って小さな湯船に浸かった。
「きょうはどこを回ったの」
「足羽山(あすわやま)公園、そのすぐそばの愛宕坂、それから養浩館庭園。足羽山って、市内にポツンとある小山。そこから見える夜景がきれいらしいんやけど、昼間の景色もよかったよ。テレビ局の塔がたくさん立っとった。シダレ桜の名所なんやて。運転手が百名所とか言っとった。桜は終わっとった。歴史博物館みたいなものもあったから、それも見物してきた。ようわからんかった。動物園もあったけど、いかんかった。芸能人にまちがわれてあっちこっちから写真撮られたわ。神無月郷の女ですって言いたかったけど、もちろん言わんかった。愛宕坂はそんなに長くない石段で、両側にふつうの家が建っとった。坂の途中から福井の町が見えた。茶道美術館ゆうのもあったけど入らんかった。養浩館ゆうんは福井藩の殿さまの別邸で、むかしおめかけさんが住んでたんやて。鯉の泳いどるちんまりした庭で、お屋敷の縁側とか部屋とか、時代劇で斬り合いをする舞台を見とるようやった」
 とめどなく話す。さびしさが伝わってきた。私はきつく抱き締めた。
「ずっといっしょにいようね」
「死ぬまで」
 からだの水気を拭い合い、全裸でベッドに入った。
「愛しとる」
「ぼくも」
「あしたキョウちゃんが寝とるうちに、ごはん食べて、野球場に向かうけど、気にせんと寝とってね」
「うん」
「外野席で見とる。捜さんで」
「わかった」
 素子の背中を撫でながら、越前そばをルームサービスで届けてもらおうかと思っているうちに、強い眠気に襲われて意識が遠ざかった。
         † 
 目覚めると九時半で、素子の姿はなかった。シャワーを浴びながら歯を磨き、二日ぶりに枇杷酒でうがいをしようとして、スポーツバッグの底に詰めたままだったことに気づく。取り出してあらためてうがいをする。
 ジャージを着てロビーへ降りる。しきりにシャッターの音がする。人があふれている。宿泊客に混じって報道陣がきのうの倍もいる。福井テレビの腕章をしてビデオカメラ担いだ男が、化粧の濃い女性レポーターといっしょに近づいてきた。
「福井テレビです。ちょっとインタビューさせていただいてもよろしいでしょうか」
「はい、いいですよ」
 さっそくライトで照らし出され、吊りマイクが下がってくる。
「ようこそ福井へ」
「はあ」
「福井の印象はいかがですか」
「整ったきれいな街です。人びともべたべたしていなくて、慎み深い感じです」
 ホテルマンたちに抱いた印象から適当なことを言う。
「自分中心で効率第一の県民だという風評がある中で、うれしい感想です。気候はいかがでしょう」
「富山、金沢、福井と移動してきて、北陸三県の気温が暖かいので驚きました」
「きょうは、お昼には三十度近くになるそうです。いまは二十一度です。絶好の野球日和ですね」
「そうですね」
 アナウンサーは手のひらに書いたメモを見て、
「では、花火のようにホームランを連発する神無月選手に単刀直入にお伺いします。神無月選手にとってホームランとは?」
「個人的には小さい幸福ですが、野球を愛する人びとに応えられるという大きな幸福も感じられるものです。最近認識したことです」
「どういうことでしょう」
「かなり長いあいだぼくは、ホームランを打つことを個人的な達成の満足で終わらせるところがありました。その意味で、学校の野球部もプロ野球のチームも、限定された幸福を提供するだけの個人的な場所にすぎませんでした。でも、全国のプロ野球ファンの応援の熱心さを見て、個人と応援者の幸福の融合する場所に自分がいることに気づいたんです。個人の幸福にばかり浸っていると、大勢の人びとの幸福を見すごしてしまい、みんなで一体となって幸福に浸る貴重さを忘れてしまいます。でも、個人的な幸福に浸ることを軽視すると、鍛練がおろそかになり、プロ野球ファンの幸福は叶わないことになります。打席に入るたびにそのことを思います。自分のためにはもちろん打つ、人びとのためにも打つ。ホームランを打つ喜びをファンの喜びに融合させるために」
「ホームランと言っても、とても深いものなんですね」
「技能は才能に基づいた努力にすぎませんから深いものではありません。それを人びとの幸福に役立てるための気組みは深いものだと思います。プロ野球選手はだれもが先天的に攻走守の能力の持ち主です。速球や変化球を投げる能力、長打を放つ能力、守る能力、走る能力。個人的にその快感に浸ってばかりいると、いま言ったアンビバレンツに陥ることになります。その気組みの不足に対する反省は欠かせません。でないと、人間的に劣った存在となり、ロボットのような機械的で味わいのない装置と化します。ぼくも大学野球のころまではロボットの要素の強い人間でした。ホームランを打ちさえすればいいと思っていました。才能を自分以外の人びとの幸福に役立てる気組みが足りなかった。反省のない人間はだれも愛せないし、褒められることはあっても愛されることはありません。人は愛し愛されて、初めて充実して生きられる存在です。才能を持った個人は、彼自身が独立して偉大なのではありません。才能とともにその内省の深みを人びとに愛され、人びとの愛に感謝し、できるかぎり愛し返すことができて初めて偉大な存在となるんです。ぼくはまだまだです。そうあるべきだと認識したばかりです。努力します」
「……ありがとうございました」
「どういたしまして」
 一般客や選手たちから盛大な拍手が立ち昇った。


         十四 

 水原監督が、
「さ、金太郎さん、めしいくぞ!」
「はい」
 江藤や一枝たちに腕を抱えられてカメリアに向かった。
 北陸最後の食事だ。昼めしを食わないつもりでたっぷり入れることにする。どんぶり山盛りのめし、卵焼き、インゲンの和え物、ハタハタ、きんぴらゴボウ、納豆、煮シイタケを載せた温麺、たくわん。下通と向かい合って食う。
「すてきでした。言葉が魔法のよう。監督、いまのテープ手に入ったら、いただくことはできませんか」
「わかった。足木くん、福井テレビに連絡して掛け合ってください。二つお願いね。私もほしいので」
「はい」
 中が、
「意見というのは、情熱と激しさをもって発言されるべきものだね。だれかからケチをつけられないかと恐れているような、熱のない、弱腰の上品ぶった態度で発言されるものじゃない。あなたにとって××とは? 人生です、命です、すべてです。そういうのは何も考えていない証拠だ」
 田宮コーチが、
「ぜんぶテメエのことだものな。しかし、何も答えられないような木偶坊はそれでいいと思うぞ。金太郎さんみたいには自然に答えられない。無理をしないことだな」
 水原監督が、
「いつも考えていれば、無理をしなくてすみますよ。無理なくきちんとした答えをするようにみんなも訓練しておきなさい」
 部屋に戻り、排便。数年ぶりにふつう硬さの便が二本出た。きょう持っていくスポーツバッグの中身を確認する。底に枇杷酒、その上に、吉川英治、浮雲の文庫本、いのちの記録、その上にワイシャツ、ブレザー、いちばん上にジャージ。ダッフルには、グローブ、スパイク、タオル類、眼鏡、運動靴。
 ユニフォームを着、帽子をかぶる。バットケースに北陸用の二本を入れた。運動靴を履く。お守りを確認。ロビーに降りる。フロントに鍵を返し、集まってきたファンにしばらくサインをする。ロビーにいた選手全員もそれをする。バスが玄関に着いた。出迎えることをしなかった従業員たちが、玄関に縦列する。見送りはするようだ。昨夜鍵を渡してくれた従業員が握手を求める。
「お話できたことを一生忘れません。来年の北陸シリーズを楽しみにしてます」
「はい、そのときにまたお会いしましょう。お元気で」
「がんばってください。いつも応援しています」
 縦列が横列になり、全員で頭を下げる。玄関前のファンたちが手を振る。振り返す。来年までここにこないのかと思うと胸に迫るものがある。
 五月五日月曜日。若葉の季節の中で、ひっそりと二十歳になった。快晴。白い雲のかたまりを浮かべた空が青い。静かな街並を抜け、併行する北陸本線の鉄橋を左手に見ながら足羽川を渡る。両岸に緑濃い並木。川を渡り終わると市電道。足羽山公園口とある。目と鼻の先に小山が見える。町並にポツンと一つ突き出たような小山だ。素子はここへタクシーできたのか。
 市電道を横切り、さびしい軒の並びを過ぎ、足羽山の下の短いトンネルを抜ける。山裾に沿って進む。ポツポツと木造の家ばかりになる。車はほとんど走っていない。左折。稲田の道を小高い丘に向かって進む。やがて、丘と見えたのは遠い山並だとわかった。
 青空の下に福井県営球場の灰白色の三層の外壁が迫ってきた。ホテルを出て十五分ほどでついた。塀を巡って、一般駐車場へ入る。周囲の道沿いに、みっしり糸杉が植えられている。
 正面のりっぱな柱列に息を呑む。コンクリートの柱数十本でネット裏の観覧席を支えている。最上段に立派な屋根がかぶせてある。
 ゲート前にものすごい人混み。チケット売場の四つの窓口に長蛇の列ができている。窓口が異様に小さい。上壁に〈福井県営球場〉のレリーフ文字。中日―広島、福井新聞の看板。内野の指定区分が、い・ろ・は、になっているのがめずらしい。人混みを取り囲むように、焼鳥屋の露店が並んでいる。
 バスを降りるとき水原監督が、
「きのう言い忘れたけど、福井は油揚げに並んで焼鳥の消費量も日本一なんだよ。足木くん、あとで適当に百本ぐらい買って、ベンチのみんなに配ってくれ」
「わかりました」
 関係者出入口に、警備員たちに雑じってようやく松葉会組員の姿が見えた。時田はいない。この球場は地方にしては別格の大球場だということだろう。彼らに辞儀をする。直立して、しゃちこばった辞儀を返す。
 清潔な回廊を通って、これまた清潔なロッカールームに入った。監督たちはスタッフ控室へ、池藤と鏑木は勇んでトレーナー室へ。
 運動靴をスパイクに履き替え、バットを持ち、全員こぞってベンチに入る。質素だが東京球場のように広い空間だ。すでに業者の手でヘルメットやバットが届いている。
 グランドへ飛び出す。無数のフラッシュが光る。記者たちがベンチの周囲でうごめいている。外野スタンドの後方に薄ボンヤリと連山の雄大な景色がある。球場を見回す。上段にコンクリートの大屋根がかぶさるネット裏はきわめて広く、中日球場以上だ。中段に放送局のブースが三つほど並んでいる。その最上部から外野に向かうにしたがって座席数が少なくなっていき、鎌の刃型のスタンドを形成している。ベンチの端まで吊りネット、あとは内外野とも防御網が張り巡らしてある。思っていたより外野スタンドが広い。立ち見も入れて十列以上ある。それでもフェンスから二十メートルも飛べば場外へ出る。ライトポールまで百メートルの距離を半速で走ってみる。たどり着き、少し呼吸を早めるだけですぐ胸苦しさが正常に戻る。体調良好。
 十一時、ドラゴンズのバッティング練習が始まる。中の打球がフェンスに当たった。フェンスはコンクリート。広い球場なので追走の仕方は簡単。フェンスを向いて走り、勘どころで振り向けばいい。塀ぎわのファールボールはスライディングをして捕る。
 ゆっくりジョギングしながら周回を始める。とんでもなく大きい黒灰色のバックスクリーン。その上にさらに大きい横長のスコアボードが載っている形だ。センターフェンスのわずか右寄りに122と白く書いてある。青高一年、初めて硬式野球を始めたころ、百二十メートル飛ばすのがやっとだった。いまは軽々と飛ばす。背が伸び、筋力がついたとはいえ、不思議だとしか言いようがない。バックスクリーンからバックネットを見はるかすと、支柱を何本も立ててデンとかぶさっている屋根が、世界史の教科書に載っていたパルテノン神殿の復元模型のように見えた。みごとな三日月形のスタンドが翼のように拡がっている。少し中央から逸れて眺めると、ブーメランのようにも見える。すごい勢いで外野に客が入りはじめた。走って席を占領しようとしている。
 三種の神器、シャドー、淡々とやる。報道員たちがビデオカメラを肩に何人も寄ってきて撮影する。鏑木がマウンドからおいでおいでをする。
「そろそろバッティングやってくださーい! 満員になりました」
「はーい!」
 スパイクの紐を結び直して走っていく。
「小川さんがバッティングピッチャーやってますね。おとといのきょうで、だいじょうぶなんですか」
「気持ちいい球場だから投げさせろって。みんな手を焼いてますよ。神無月さんじゃないとだめです」
 ケージに走っていき、
「小川さん、上がりですよ。休んでください!」
「オットットォ。上がりじゃないよー。ベンチ登録されてるからな」
 小川はおどけた様子で、両手を広げて蛇行しながらベンチに駆け戻った。初めて見るバッティングピッチャーが投げはじめた。ケージ裏の田宮コーチが、
「去年のドラ一の土屋というんだ。カーブとシュートがいいから、二軍から呼んでもらった。外木場対策で打ってみてくれ」
「はい」
 筋肉質。スリークォーター。冷静そうな男だ。初球に投げた低目のボールの伸びがよかった。
「いまの直球、自信のボールですね!」
「はい!」
「全球種、お願いします!」
 カーブ、掬い上げてライト場外へ。ギッシリ埋まったスタンドがワッと沸いた。
「うへえ!」
 土屋は背番号26をこちらに向けてライトの空を眺めながら叫んだ。シュート、踏みこんで打つ。ワンバウンドで左中間フェンスに打ち当たる。これも打球を振り向いて、
「すげえ!」
 と叫んだ。低目の直球。伸びがいいので、芯を食わせるだけでバックスクリーンまでスッ飛んでいった。
「バケモンだあ!」
 案外おもしろい男なのかもしれない。一軍に上がってきてくれればいいと思った。
「ありがとう!」
 広島のバッティング練習のあいだ、足木マネージャーの買ってきた焼鳥をみんなで齧る。小川が、
「なんじゃこりゃ、うめー!」
 とため息をついた。たしかにうまくて、みんな三本ずつ食った。だれも広島チームの打撃練習を見ていなかった。私は衣笠と山本浩司の打撃だけはしっかり見ていた。二人とも腰を入れて振っていた。とりわけ山本浩司の腰の回転は強烈で、いつか腰を痛めるのではないかと思った。そのことを江藤に言うと、
「山本は大学のころから腰をやられとるらしかぞ」
 と言った。新人でそれなら、プロで長つづきするだろうかと心配になった。
 両チームの守備練習が終わり、メンバー表の交換があり、下通嬢がスターティングメンバーを発表する。きょうも透き通るような美しい声だ。彼女が杞憂だと言ったとおり、これまでとまったく同じ潤いのある快いトーン。きのうの兼六園ではこの声を意識しなかった。そのくらい自然だった。
 苑田、今津、衣笠、山本一義、山本浩司、井上、興津、久保、外木場、とアナウンスしていく。スタメンで美男子の興津が出ている。
「井上って初めて聞くなあ。背番号25? そういえば練習でいい打球を飛ばしてたね」
 太田が、
「井上弘昭、おととしのドラ一です。がっちりしたからだしてますけど、中距離ヒッターです」
 中日は、中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、島谷、浜野。球審大谷、一塁久保田、二塁富沢、三塁原田、線審はレフト松橋、ライト太田。
 江藤が、
「大谷さん、水原さんに眼鏡ば毟られて以来、コンタクトレンズにしたげな」
「やっぱりほんとなんですね」
 高木が、
「俺もコンタクトだよ。金太郎さんもそうしたら?」
「試合中に落としたときが厄介です」
「うん、俺も二回落としてる。予備のコンタクトを持ってないとたいへんだ」
 浜野がマウンドに上がる。雲が動いて、土と芝の球場を明るいまだら模様がゆっくり横切った。満員のレフトスタンドに向かって守備に走る。歓声に帽子を振って応える。フラッシュが瞬く。レフト線審の松橋に礼をする。松橋は私に向かって照れくさそうに帽子を取った。
 中とキャッチボール。菱川がライトスタンドに手を振っている。みんなサービス精神が板についてきた。プロはプロの技術を見せさえすれば見る側の感情などどうでもいい、というシンプルな客観性に馴染んだ選手が多い。彼らはがんらい他人の興味を満足させる気がないので、自分のプレイを眺める人びとの心の動きにはまったく無頓着だ。私はそういう氷のような仮面をかぶった職人たちをこの三カ月にわたってたくさん見てきた。彼らのプレイは冷静で、絶妙で、華麗でさえある。でも、そんなに長所がありながら、ひどく淡い印象しか残さないのはなぜだろう。たぶん、彼らのプレイに奥行きのある人間性を重ねて想像できないからだ。折に触れて怒ったり、笑ったり、口惜しがったり、愛嬌を振りまいたり、考えこんだり、そういう人間くさい選手が神技を披露すれば、よほど印象が強くなり、思い入れを深くして彼らの野球に酔うことができる。
 風が強い。散水。放送局のブースが三つとも埋まっている。福井テレビ、福井放送、NHK。なかなかプレイボールがかからないと思ったら、きょうも始球式をやりだした。中学生らしいユニフォーム姿がマウンドに上がる。ちょうど私が腕を手術したころの年恰好だ。下通の麗しい声が、昨年優勝した地元の少年野球チームのエースピッチャーだと紹介する。初々しく帽子を取ってバッターの苑田に挨拶する。少年は百十キロほどのストレートを投げた。山なりだが、立派なストライクだった。苑田がゆるい空振りをした。
 ―だめだ、真剣に振らなければ。
 球審の大谷がストライクをコールした。真剣さが足りないとは言え、この形でやる始球式こそ正式なもので、富山球場でやったような、守備側がバッターボックスに立つなどというのは見苦しい。それにしても、私ならホームランを打って、少年に一生の思い出を作ってあげたのに。


         十五

 浜野のピッチング練習。腕があまりしならない。ストレートの伸び、カーブの曲がり、どちらも切れていない。球速は最速で百三十キロ前半。ほとんどが百二十キロ台。大学時代はこんなに遅くなかった。肩か肘、特に肘を痛めているのかもしれない。しかし、配球がよければいけそうだ。勝てば二勝目。一勝でも多く挙げて、幸福な気分に満たされた素朴な人間になってほしい。
「中日ドラゴンズ対広島カープ六回戦の試合開始でございます。観衆二万二千百人、満員御礼でございます。五月五日午後一時、天候晴、気温二十七・○度、風七・二。砂埃防止のため散水いたしました」
「プレイ!」
 大谷球審のコール。
「一番、セカンド、苑田」
 田中勉と同じ三池工業出身。ホームランを打てない中西二世。山本浩司のせいでセンターからセカンドへ回された男。二世はたいがい一世よりもはるかに小粒だ。浜野、初球真ん中高目の速球でストライク。歓声が上がる。富山や金沢と同様、歓声も地方都市らしく整然としている。二球目、中西二世は内角高目のシュートに詰まってショートフライ。
 今津光男。この男の名前は、小学校のころ下通の美声で何度も聞いた。もと中日ドラゴンズのレギュラーショートで、まったく打てないバッターだった。二割弱の打率でここまで生き延びたのは、ひとえにその守備力のせいだろう。大リーグ級と言われている。彼の守備はあのころの印象にない。姿格好と立ち居は巨人の黒江に似ている。今津は七球粘ってフォアボールで出た。なんだ、せっかくのいい出だしがこれで台なしだ。こんな打者を警戒してフォアボールで出す意味がわからない。大ミス。かならず失点につながる。巨人はこの僥倖で勝ちつづけてきた。いわゆる相手チームの自滅というやつだ。自滅する人間は権力志向者に多い。
 衣笠祥雄(さちお)。名門平安高校出身。ぬくぬくと野球をしてきた平均レベルの連中の巣窟、野球名門校。その中で突出した人間だけは名門の冠をかぶってよい。この男は突出している。フルスイングの男。父は在日米軍人。おそらく菱川と境遇は同じだろう。まだ二十一歳。背番号28なので鉄人28号と呼ばれている。笑顔のすばらしい鉄人28号。28号は初球を私の前に球足の速いヒットで転がしてきた。
 ワンアウト一、二塁。ここでおととい三ホームランの山本一義だ。いったいこの男は何者だ。名門広商。山本浩司は同県の大スラッガーだった彼にあこがれ、同じ法政大学に進学したという。初球、藤田平に似た撫でるようなスイングの空振り。いやな予感。浜野は二球目三球目と内角のきびしいところを攻める。山本二球つづけて一塁線へファール。何やってるんだ。構えを見ればわかるだろう。内角が得意なのだ。外角で勝負しろ。撫でるようなスイングのスラッガー山本一義は、四球目の内角高目のボール球を引っかけてセカンドゴロ。ああ、助かった、と思ったら、意外に球足の速い高いバウンドが一、二塁間を抜けていった。芝を咬んで打球が遅くなったので、今津が悠々生還した。墓穴その一。本塁カバーに入った浜野を見る。カリカリしていない。打ち取ったはずだと思っている。この分ならだいじょうぶだろう。ノーアウト一塁、二塁。一対ゼロ。
 山本浩司。衣笠と同様、フルスイングの男。上背も体重もあるのに毎度のこと小さく見える。屈んだ構えのせいかもしれない。六大学で対戦したときの印象を思い出せない。三羽ガラスの中では田淵しか憶えていない。初球、二球目と外角低目の速球を見逃し、ツーナッシングからの三球目、真ん中高目から落ちるカーブをヘッドアップぎみにシッカリ捉えた。打った瞬間、私は打球を追うことをあきらめた。高く舞い上がり、やや左中間寄りのスタンドの中段に舞い落ちた。
「山本浩司選手、今シーズン第一号のホームランでございます」
 山本はスッスッと素早くダイヤモンドを回る。ホームベースを駆け抜け、三塁ベンチへターンし、ベンチ前に立つ仲間たちとタッチしていく。手荒い歓迎はない。四対ゼロ。ノーアウト。江藤と木俣がマウンドに駆け寄り、浜野に声をかける。水原監督はベンチの前列から動かない。
 六番、きょう知ったばかりの井上。バットを立てた構えから大物狙いだとすぐわかる。モコモコした体型、モコモコしたスイング。ツーツーから外角の速球を振って三振。ワンアウト。
 七番興津がバッターボックスに入った。二割五分、ホームラン十五本。それが彼の十一年間の平均値だ。中堅としてまあまあ成功した選手だ。バッティング練習では目立たなかった。ただ、フォロースルーのときにけっして片手打ちにならないことに好感を抱いた。内角低目のストレートを打ってサードゴロ。たぶん広島は〈スミ四〉になる。もう一点も入らない(ことを祈ろう)。
 八番久保祥次。太田の話だと、広島大学職員からテスト入団した変り種。広島広陵高校では補欠だったらしい。それがいまでは田中尊とレギュラーを争っている。自分を信じて踏ん張っていれば、どう開花するかわからないというところだろう。つくづく野球は退きぎわの難しいスポーツだ。それが、くたばれヤンキーズという映画のテーマだった。バスケットボールやサッカーをあきらめ切れないという話は聞いたことがないし、そういう話は物語にもならない。久保三振。チェンジ。
 駆け戻りながらライトスタンドを見る。素子を見つけられない。あの観客に紛れて見物しているなら、もう名古屋に帰るまで顔を合わせることはない。マウンドに上がった外木場の投球練習をベンチから観察する。ダイナミックではないが、村山と同じように全身を使って投げる。ちんまりしたからだから、びしびし速球が投げこまれる。
「一番、センター、中」
「いぐぜー!」
 私が声を上げると、ウヘヘへとみんなうれしそうに笑った。高木も笑いながら、
「イグゼー!」
 と叫んで、ネクストバッターズサークルへ向かった。中、初球のストレートをバックネットへファール。二球目するどいカーブを一塁スタンドへライナーのファール。三球目外角高目釣り球の速球を空振り、三振。気力の充実した外木場に一人目でぶつかるのは難儀だろう。
 高木、腰まで下ろしたグリップの位置が決まっている。見るからに手首の強そうな構えだ。百七十四センチ、七十二キロ、細身。全身バネ。去年の春、堀内から顔面にデッドボールを受けて意識不明になった。回復して、一年間低迷したが、ホームランは十本打ってキッチリ自分の平均値をクリアした。初球外角低目カーブ、見逃し、ボール。二球目内角低目のシュート、足もとに危うく自打球になりそうなファール。ワンワン。次は、外木場がいちばん多投する外に逃げるカーブか、外角ストレート。高木もそう読んだはずだ。三球目、カーブがするどく曲がって逃げた。ジャストミート! あっという間に打球がライト前にワンバウンドで弾んだ。
 ヘルメットをギュッとかぶり、ネクストバッターズサークルへ。膝を突き、バットのグリップを肩に凭(もた)せる。この姿をかならず少年ファンがあこがれの目で見ていると知っている。私が長嶋の姿を憧れの目で見つめたように。みっともない姿勢はとれない。背筋を伸ばす。いや、自然な感じで少し丸める。
 江藤が打席に立つ。目に浮かぶ。真ん中高目。まず尻餅をつくほどの空振りをして見せる。十回のうちの一、二回のパフォーマンスにしても、強烈な印象だ。かすらないほどのボールではなかったのに空振りされたそのコースにはもう放ってこない。出会い頭でやられたらたいへんだと思うからだ。そこで外角にくる。遠く外れないかぎり江藤の餌食になる。簡単なシナリオだ。
 しかし初球、外角低目の速いカーブ、見逃し、ストライク。水原監督のパンパン。二球目、内角高目のストレート、ボール球を強打。三塁をするどく襲う。ベースに当たって大きく跳ね上がる。水原監督があわててよけた。ファールグランドへ転がっていく。高木三塁へ滑りこむ。江藤は二塁へ。打席に向かう。
「さ、金太郎さんいこ!」
「イッパツ!」
「ソトコバちゃん、コッパ微塵!」
 大歓声の中、構えたとたんに間髪置かず敬遠。スタンドが上品にざわめく。出塁してファーストベースに立つと、衣笠が、
「仕方ないんだよ。ここで一本神無月くんに打たれたら、怒涛の勢いでこられるからね。そうなったらまず、いまの野武士軍団には勝てない」
 と笑った。私はこの男が好きだ。
「ぼくを出したことを後悔しますよ。弱気は常に墓穴を掘ります」
「じつはぼくもそう思うんだよ」
 と言って、守備姿勢をとった。ワンアウト満塁。木俣、ツーワンと不利なカウントに追いこまれる。四球目、真ん中に浮き上がるストレートを打って、サードフライ。一塁スタンドのため息。ツーアウト満塁。
 菱川、初球の内角シュートに手を出して、自打球。ワンバウンドで脛に当たった。痛いにちがいないけれども、痛みを顔に出さない。二度ほどジャンプして紛らす。二球目、同じコースを詰まりながらしっかりと振り抜き、ふらふらレフト前へ落とした。打球が浅いので、高木だけ生還した。水原監督がファーストに向かって手を叩く。菱川を褒めているのだ。一対一の同点。ツーアウト満塁のまま。
 太田が宮中のころのようなとぼけた様子で打席に入る。もう完全にプロ野球チームの一員だ。肩から力が抜けている。耳のあたりにグリップを上げ、自然体で構える。シュートがくれば左足を引き、カーブがくれば左足をクローズドに踏み入れる。初球、内角低目にシュートがきた。左足を引きながら、少し窮屈な感じでうまく芯を食わせる。あっという間にショートの頭を越え、左中間をライナーで抜いた。走者一掃の二塁打。太田二塁上で右手を突き上げる。水原監督が彼を指差しながら拍手。歓声がうねるが大歓声ではない。このざわめきが臨界点なのだとわかった。ホームランを打っても同じだろう。
 四対四。衣笠がグローブを腰に当て、天を仰いでいる。外木場、ほぼノックアウト。しかし、ほかにピッチャーは大石、白石、安仁屋を除けば二線級しかいないので代えるわけにいかない。これ以上打たれたら、白石を出すしかない。島谷は太田につづけとばかりシュートを強振するが、詰まったショートゴロ。スリーアウト。
 二回表。九番ピッチャー外木場、センター前ヒット。これだ。ピッチャーに打たれるのは中日投手陣の手抜きというよりは、娯楽めいた息抜きになってしまったようだ。苑田サードゴロ、ゲッツー。今津、三振。チェンジ。
 二回裏。浜野ファーストゴロ。中三振。きょうの中は当たっていない。膝の調子が悪いのかもしれない。高木、初球カーブを一塁スタンドへファール。客の一人がもの慣れないふうに手を差し出して、手首に当てた。ほどなく腫れ上がるだろう。ほとんどの観客は硬球の恐さを知らない。二球目、カーブをライト線へ痛打。ラインから五センチほど切れる。アーッと観客が喉を鳴らす。彼らは敵味方関係なく、プロ野球を観るのが楽しいのだ。三球目、シュートを引っぱってショートゴロ。野球がこういう凡打の連続のゲームだということを観客は知らなければいけない。
 三回表。三番衣笠、フォアボール。山本一義、セカンドゴロゲッツー。ツーアウト。劣勢のチームはやる気なさそうに見えるが、けっしてそうではない。中日のように、十点取ろうとか、二十点取ろうとなどという気概はないが、少なくとも同点を免れて引き離そうというファイトを抱いてプレイしている。きょうの浜野はストレートが百三十キロやっとで、配球も悪い。棒球狙い。広島の突破口はそこにしかない。
 五番、きょうホームランを打っている山本浩司。初球、スッと内角ストレート。ゲ! さっそく棒球か。三塁線強烈なファール。浜野はファールを打たせたとでも言わんばかりの得意顔だ。これはやられる。二球目、外角低目へ小さなカーブ。山本のめって強打。菱川の前へ矢のように打球がフッ飛んでいく。彼のセンスは長嶋級だ。菱川、胸に当てて抑える。ツーアウト一塁。
 六番井上。構えの雰囲気からして、三振かホームラン。相当なスピードがないかぎり内角はすべてやられそうだ。外角の変化球で押すしかない。初球外角ストレート。百三十キロ弱。ストライク。井上がピクリと動いた。直球に強い証拠だ。二球目、内角へせり上がるシュート。ボール。三球目、外角すれすれへカーブ。ボール。浜野が審判を指差して文句をつけている。吠えるより恥ずかしい。木俣も江藤もなす術がない。高木も黙殺している。四球目、真ん中高目のシュート。明らかな失投。バット一閃、私の頭上に一直線に伸びてくる。少し追いかけ、あきらめた。レフトスタンド最前列に突き刺さる。ホーとスタンドがさざめく。井上がホームインし終わると、太田コーチが出てきて浜野に右手を差し出した。浜野は素直にボールを渡し、うなだれてマウンドを降りた。六対四。
「中日ドラゴンズ、選手の交代を申し上げます。浜野に代わり、ピッチャー小川、背番号13」
 盛大な拍手。彼の沢村賞は津々浦々に知られている。広島ベンチの形相が変わった。小川がピョンピョン跳び上がってピッチング練習をする。ツーアウトランナーなし。小川真ん中ストレート一球で、六番興津をショートフライに打ち取った。きょうも勝った!
 三回裏。江藤、初球内角高目シュート、出た、空振り、尻餅。観客がドッと沸く。二球目外角のストレート、見逃し、ストライク。あれ? 江藤の餌食にならない。三球目外角のカーブ、一塁側スタンドの鎌の刃の先っぽへファール。そうか、回を追って外木場のボールがキレはじめたのだ。好投するピッチャーはかならずこのタイプだ。四球目、真ん中へストンと落ちるカーブ、空振り三振。外木場が立ち直った。二点差が大きく感じられた。
 ネクストバッターズサークルを出ると初めて大歓声が上がった。両軍ベンチ横の記者たちがカメラに屈みこむ。ネット裏のブースからも中継の声が聞こえる。
「怪物ゥ!」
「天馬ァ!」
 人びとがゴマ粒にしか見えないライトスタンドを見つめた。見つめる視線で素子にメッセージを送ったつもりになる。衣笠がグラブにこぶしを叩きこみ、守備の構えに入る。初球、久保が立ち上がり、外角に遠く外した。またもや! 場内が騒然となる。初めて観客が声を荒らげた。
「何や、そりゃ! きも小せえ!」
「負けたら金返しぇよ!」
 けっこうきつい野次だ。記者席でフラッシュが連続して光る。根本監督が小走りにマウンドへいった。主審も走っていく。内野全員が集まる。明らかな敬遠の形をとるなという監督命令だろう。くさいところを突いて歩かせろ、という声が聞こえてくるようだ。実際には騒音のせいで何も聞こえない。放送席から流れてくる声が高い。


         十六

 ゲーム再開。二球目、外角高目のカーブ。ボール三つ外れている。ノーツー。もう一球外角に投げると、明らかな二打席連続敬遠だとばれてしまう。高校野球ではない。高い入場料を取っているプロ野球なのだ。ヤマを張った。内角高目の明らかなボールになる球か、内角低目の明らかにボールになる球を投げてくるはずだ。低目は地面すれすれのカーブ、高目は顔に近いストレートだろう。くさいところには投げてこない。カウントをよくして打たれでもしたら藪蛇だ。
 三球目、予想に外れて、恥も外聞もなく外角に遠く外すシュートを投げてきた。思わず見逃した。ノースリー。内外野のスタンドが大騒ぎになり、物が投げこまれる。外野手と線審はあわてて内野フィールド近辺に退避し、私もベンチへ戻った。こんなに気の荒い県林だったのか。ボールボーイと球場係員がゴミ集めに走る。水原監督が往時を思い出すようにコーチャーズボックスから三塁側スタンドを眺めている。私はベンチ前に出て、素振りを繰り返した。江藤が、
「金太郎さんにホームランば打たせて、あとはぜんぶ抑える気持ちでいけばよかろうもん。それでもがんばれば勝てるっちゃん。優勝争いやないんぞ。何ばしよっとか。プロやろが」
 下通が声調を乱さずに、物を投げこまないようにと早口でアナウンスする。三分ほどの中断になった。外木場は腹を括ったように投球練習を始めた。速球ばかり投げこむ。
「バッターラップ!」
 私がバッターボックスに立ったとたん、外木場は間隙を置かず、真ん中高目に剛速球を放ってきた。高すぎるが、ここしかないと判断して叩き下ろした。センターへ飛んでいく。真芯なので、守備位置で打球がお辞儀をするだろう。凡打のほうがいい。次打席から勝負してくれる。打球を見つめながら走った。え? 山本浩司が打球を前方に捉えながらのバックをやめて塀に向かって疾走し、ジャンプした。グローブの先を越えて122の塀にショートバウンドで当たった。山本浩司の肩はいい。三塁打は無理だ。二塁でストップ。スタンダップダブル。観客が怒涛のように沸き返る。物を投げこんだ甲斐があったというかのごとくだ。ボールボーイがヘルメットを受け取りに走ってくる。脱いで渡し、尻ポケットから帽子を出してかぶる。
 ワンアウト二塁。まだドラゴンズにはホームランが出ていない。中日ファンは欲求不満だ。
 ―木俣さん、頼む、打ってくれ。
 木俣が顔の高さの素振りをしている。よろしく、一本! しかし、そう簡単に願いは通じない。木俣はあえなくセカンドへのハーフライナーに打ち取られた。つづく太田サードゴロでチェンジ。
 三時を回り、陽射しがカッと熱くなった。ベンチ気温二十七・四度。三十度というのは誇張ではなかった。ほとんどの客がハンカチやタオルを頭に載せたり、麦藁帽をかぶったりしている。
 四回、五回と両軍三者凡退。浜野も外木場も投げつづけた。四時半までには試合が終わりそうだ。グランド整備が入り、六対四のまま六回の表になった。
 五番山本浩司、ライトラインぎわの浅いフライ。六番井上、ピッチャーゴロ。タンク型のからだが転がるように一塁まで走る。七番興津、ツーツーから深いセンターフライ。これで広島は九者凡退。
 六回の裏。私は先頭打者としてバッターボックスに入った。外木場の顔に弱気の影はない。味方の追加点を願ってひたすら力投しようという覚悟が感じられた。初球外角低目へシュート。ボール一つ外れていると見たが、ストライクのコール。水原監督のパンパン。
「ヨ!」
「さあ、いけ!」
「ソロでいいよ、景気づけ!」
 二球目、内角低目カーブ。ベースをよぎったように見えたが、大谷の判定はボール。三球目外角高目シュート。ホームランを打つつもりで強振。バックネットへファール。思ったより沈まなかったので、空振りに近いファールチップになった。四球目、外角低目へ逃げていくシュート。ボール。ツーツー。また水原監督のパンパン。ホームランへの期待がこめられている。一塁スタンドから野太い声。
「天馬ァ、ホームラン!」
 外木場の持ち球はするどいシュートとカーブだ。カーブはホームベースの外の高いところからギリギリ外角低目へ曲げ落としてくる。にじるように十センチ前に出る。五球目、きた! カーブが高目からスライドして落ちてくる。軌道を追いかけたら打てない。急速に落ちかかる一点に見当をつけ、渾身の力で振り抜く。食った。木俣の言う〈外角で芯を食ったらぶっ飛んでく〉というやつだ。高く上昇していく。センターの山本浩司が一歩も動かず見上げた。きょうは一塁コーチに出ていた長谷川コーチと、三塁コーチの水原監督が同時にバンザイをした。スコアボードの右上の審判表示プレートに当たった。
「モンスター!」
 と叫んで長谷川コーチが尻を叩いた。スタンドが総立ちになって拍手をしながら、さまざまな叫び声を発している。水原監督がピョンピョン跳びはね、強くハイタッチをすると私の腰に手を回してしばらく走った。天覧試合の長嶋だ。
「すみません、ライトへ引っぱれませんでした」
「いい、いい、時計は無事だ」
 チーム総出で迎える。木俣がヘッドロックしながら、
「な! ぶっ飛んでったろ!」
「はい!」
 からだじゅうを叩かれ、ベンチへ引きずられていく。スタンドがいつまでもどよめいてている。
「神無月選手、第三十四号のホームランでございます。なお、新人のシーズンホームラン記録三十一本は、一昨日富山県営球場で三十二号を打った時点で、すでに更新しております」
 ふたたび喚声。半田コーチがバヤリースを差し出し、
「ライフルじゃないネ、キャノン。ボールがコメツブになったヨ」
 コーチ連中やベテラン連中やトレーナーたちに握手を求められる。外木場はめげた様子もなく淡々とマウンドを均している。六対五。まだ五点取られただけなのだ。五番木俣が初球を待つ。久保が立ち上がって、
「さ、いこ!」
 と外木場に声をかけた。外木場は手を挙げ、サインを覗きこみ、うなずき、振りかぶる。
 外木場が投げ下ろす。外角へ猛速球。ストライク。木俣バッターボックスを外して素振り一回。二球目、ど真ん中へスピードの乗ったカーブ。ジャストミート。痛烈なレフトライナー。ほんの少し振り遅れている。外木場がふたたび蘇生した。
 六番菱川、内角ストレートを力で押しこんでレフトオーバーの二塁打。もう本物のスラッガーだ。五番をまかされてもいいかもしれない。七番太田二遊間の詰まったゴロ、今津飛びついたものの止めただけ。ワンアウト、一、三塁。島谷左中間へ詰まったハーフライナーの飛球。山本浩司捕ってセカンドへ返球。菱川生還。六対六。ついに同点。小川ファーストファールフライ。
 七回表。小川もナメた様子を見せずに淡々と投げる。久保三振。外木場私の前へゴロのヒット。苑田私へ浅いフライ。今津私への大飛球。ポールぎわで捕球。両翼百メートルなければホームランだった。ホームランをめったに打ったことのない三十一歳の小兵だけれど、怪力だ。
 七回裏。半田コーチにバヤリースの前借をする。一気に飲み干す。
「イツ、返しますか」
「東京で。早ければこの回」
「この回にしてください」
「わかりました」
 森下コーチが、
「なんて会話じゃい。しかし、試合の進行が早いなあ。三時間以内で終わってまうんやないか。二軍戦はこうはいかん」
「どうしてですか」
「ピッチャーのコントロールが悪い、バッターのファールが多い、この二つや。ファール五、六本はふつうやで。バットスピードも、ピッチャーのボールのスピードも一軍にひけをとらんのに、バットに当てられん、まともにホームベースに投げられん」
「悲しいですね。素人に雑じったらピッチングもバッティングも抜群でしょうけど、力差がありすぎるのでいっしょに遊んでもらえないし、結局プロにいるしかないですものね」
「ほうなんや、二流のプロと遊ぶしかない。とにかくコントロールは悪いわ、バットに当たらんわ、二軍戦は四時間近くかかるのがしょっちゅうや。一軍戦はイライラせんから精神の健康にええ」
 ギン! といい音がした。中、ライト前ヒット。外角からカーブが曲がりすぎて真ん中低目に入ってきたようだ。失投ではない。
 高木の二球目に難なく盗塁。ワンワンからの三球目、内角カーブ、ネット裏の大屋根を越えるファール。ツーワン。四球目、高木は内角速球に振り遅れたが、高いバウンドでファースト衣笠の頭を越えるヒットになった。投げ勝っていたのに気の毒な男だ。ついていない。この先はナシ崩しになるだろう。中が生還して六対七。ここまでと踏んだか、根本監督がピッチャー交代を告げる。
「広島カープ、外木場に代わりまして、白石、ピッチャー白石、背番号55」
 またあの男と対戦するのか。痩せているのにドテッとした雰囲気が苦手だ。ガッチリした眼鏡顔もいやだ。ドテッと見えるのは、ふてぶてしい性格をしているからだろう。人間として芯から苦手なタイプだ。投球練習もどこかえらそうに見える。手首を伸(の)してキャッチャーに球種を教える様子にひたむきさがない。
 投球練習についていまもよくわからないのだが、次の球がストレートだ、カーブだ、シュートだとキャッチャーに伝えるとき、どうしてまともに手首を返す形を作らないのだろう。かならず手のひらをクネクネやる。実際にあんな投げ方をするはずがない。太田コーチに、
「投球練習のとき、投げる前に、手でクネクネ合図を送ってますが、あれは何ですか」
「ああ、あれね。こういう球を投げるぞっていう合図だ。地面に水平に真っすぐ突き出すとストレート、水平にずらすとカーブかシュート。高目低目の合図はない」
 江藤がバッターボックスに入って、スッと自然な形に構える。胸がいっぱいになる。名選手のバッターボックスの構えに見入るとき、彼の幼いころの大望が見える。私は自分と同じ大望を実現した人びとに雑じって野球をしている。この現実は並でない緊張を強いるので、疲労し、安穏とした大望の時代に戻りたくなる。大望を抱くだけで夢の中にいた自分に戻ろうとする。何かのまちがいでここにいる―でも、もうしばらくは厚顔を通そう。どれほど厚顔になっても、私を魅了した人びとの才能を侮り省みないほどの破廉恥になることはないだろう。
 セットポジションからの一球目、白石は人を食ったように真ん中高目のストレートを投げてきた。江藤が驚いて見送った。ストライク。白石はキャッチャーからの返球を受けるとすぐにまたセットポジションに入り、低目へ速球を投げこんでくる。ストライク。いつもとちがい、異常なテンポで投げようとしている。米田のような取っては投げ千切っては投げ状態になりそうなので、江藤が待てと手でさえぎり、足もとを均(なら)しながら時間をとった。均し終わると、白石はキャッチャーのサインも見ずに、またすぐにセットポジションに入り、全力投球をしてくる。外角高目、バックネットへファール。白石なりに考えて、高木の盗塁を防ぐと同時に、江藤にヤマを張らせない作戦をとっているようだが、見映えのいいものではない。中日ベンチに笑いが湧いた。四球目、また千切っては投げる。外角高目に外したボール球だ。江藤はさりげなく叩き下ろした。湿ったいい音がする。インパクトが強烈な証拠だ。ギュンと上がった打球は予想以上に伸びて、ゆっくりとライトの芝生席に舞い落ちた。
「江藤選手、第十三号のホームランでございます」
 江藤は長谷川コーチと控えめにタッチし、肩を怒らせ、のしのしダイヤモンドを回る。水原監督とも静かにタッチし、待ち構えている私たちを手で制して、一人ひとりと掌を打ち合わせるだけにした。ネクストバッターズサークルにいた私とタッチし、
「キリよく、十点、決めて帰るばい!」
 と声をかけてベンチに入った。
 六対九。ノーアウト。眼鏡男にワンアウトも取らせるつもりはない。歓声に逆らって白石はもどかしそうに振りかぶるとすぐさま初球を投げてきた。顔の前を通過。恒例行事。一瞬、中日ベンチが色めき立ったので、私は手を振って何でもないという仕草をした。二球目、ヘルメットの上を速球が通過。水原監督が、
「審判!」
 と叫んでコーチャーズボックスを出ようとした。大谷球審がひるんだ様子を示した。なんせ眼鏡を毟り取った水原監督だ。私は監督に、
「だいじょうぶです、ノーコン、スローボール!」
 と叫び返した。白石は、何を、という顔で、私を睨みつけた。水原監督が気を取り直して笑うと、中日ベンチからも和んだ哄笑が上がった。白石は真っ赤になっている。あわただしく振りかぶると、きょう最速のボールを内角低目へ放ってきた。フリーバッティングの感覚で打ち返した。ボールは気持ちのよい角度で上昇していき、あっという間にライト場外の森へ消えた。長谷川コーチとタッチ。芝の切れ目に立って腕組みしている衣笠に微笑みかける。衣笠も微笑み返した。喚声がわんわん響く。地方の球場の素朴な観客の喜びが耳に滲み入ってくる。水原監督とタッチ。
「金太郎さん、愛してるよ!」
「ぼくもです!」
 江藤に倣って、おとなしく居並ぶチームメイトたちと順にタッチしていく。初めて浜野が列の中に立っていた。
「神無月選手、十九試合目にして第三十五号のホームランでございます。オープン戦も含め、十三本目のアベックホームランでございます。ちなみに本日五月五日は、神無月選手の二十歳の誕生日でございます。どうか、暖かい拍手をお送りくださいませ。なお、私、中日ドラゴンズ球団広報課の社員下通は、ふだんは中日球場のアナウンスを担当しております。贔屓の引き倒しがありましたら、どうかお許しくださいませ」
 球場中が割れんばかりの拍手になった。両軍ベンチ、審判、広島内外野陣、白石までが拍手していた。江藤は大笑いしながら私を抱え上げ、品物でも見せるようにスタンドに向かって一回転した。


         十七

 六対十で勝った。浜野を継投した小川が投げ切り、四勝目を挙げた。外木場は五敗目を喫した。五時少し前に試合は終わったが、七時三十五分小松空港発の飛行機に間に合わせるために、インタビューは水原監督と私だけの十分で切り上げ、サイン会も色紙を用意した百人ほどで打ち止めにした。全員スタンドに手を振り、ロッカールームで着替えをすませると、荷物を手にすぐバスに乗った。下通とはバスの窓で別れた。下通は目にハンカチを当てながら窓の下から、
「この遠征は一生忘れられないものになりました。名残惜しいです」
 一枝が、
「金太郎さんとだろ」
「もちろんみなさんともです。一介の球団職員をかわいがっていただき、ありがとうございました。東京でもがんばってください。名古屋でお待ちしています。さようなら!」
 私たちも窓から手を振った。下通の周りを群衆が取り囲んでいた。彼らも手を振った。
 五月の日が暮れ遅れ、街路も並木も明るく輝いている。市街地を抜け八号線に入る。長谷川コーチが、
「浜野、二勝目惜しかったな。いずれ近いうちに両目が開くよ」
「どうも。一勝することが、こんなにきついものだとは思いませんでしたよ。チームのみなさんにご迷惑かけてすみません」
「おいおい、似合わんぞ」
 小川が言うと、
「ほんとに申しわけないんですよ。いつになったらプロらしいピッチャーになれるんかなあって」
 浜野はさびしそうな目で窓の外を見つめた。だれも声をかけなかった。小川が、
「十九戦して、十八勝一敗。いまのところ、勝ち頭は勉さんの五勝か」
 田中が、
「すみません、小川さんの勝ちが消えた試合で、ちょっと投げただけで一勝いただいちゃったのもありましたから」
「二十五勝ペースだな。小野ちゃんが四勝、俺も四勝。あとの六勝はだれだれだ」
 まだ一勝も挙げていない伊藤久敏が、
「山中さんが二勝、板東さんと水谷寿伸さんと浜野が一勝です」
 田宮コーチが、
「いまのところ、勝つのがあたりまえみたいになってるけど、あしたからの巨人三連戦はきびしいぞ。遠征の疲れが出るしな」
 水原監督が、
「三連敗するつもりで、しゃちこばらずにやってください。ただし真剣にね」
 中が、
「金太郎さん、あらためて誕生日おめでとう」
 おめでとう! と車中がいっせいに和した。
「ありがとうございます。ハタチというのはいい響きですね」
 江藤が、
「それだけかい。年寄りくさか。もっと喜ばんね。ワシャ、三十一ぞ。それでもまだ若いと思って、誕生日のたびにうれしか気持ちになるばい」
「はい、うれしいです」
 小川が、
「ハハハハ、俺は三十五だ。からだはハタチ。年とればとるほど、そのギャップがうれしいなあ」
 木俣が、
「健太郎さんは例外ですよ。ギャップありすぎ」
 今回出番のなかった葛城が、
「俺なんかまだ三十二なのに、めっきり長打力が衰えちゃった。スタメンで出たらチームの足を引っぱる」
 水原監督が、
「きみにはまだまだ活躍してもらうよ。巨人戦には徳武くんとともに代打で出てもらう。打ちこんでおいてください」
「はい」
 徳武が、
「私は古株の中ではいちばん若い三十だよ。……無冠のまま終わっちまったな」
 水原監督が、
「きみは、長嶋と並んで新人全試合フルイニング出場を果たした有能な人だ。長嶋だって三十三歳で、バンバン三十本以上のホームランを打ってるじゃないか。悲観的なこと言っちゃだめだよ」
「はい」
 吉沢が、
「しかし監督、全イニング出場の記録は、神無月さんとっくに終わっちゃいましたね」
「うん、四月の半ばにね。ぜんぶ出ても皆勤賞は並ぶだけのものでしょう。並ぶだけでは新記録になりません。それより徳武くん、葛城くん、首位打者は三十過ぎても狙えるよ」
 徳武が、
「常時出場がなければ無理です。常時出場すると、私の場合たぶん二割台の打率で低迷します。代打でよろしくお願いします。ところで竹中スコアラー」
 背広を着たヒョロリとした大男に呼びかける。
「はい」
「神無月くんの打率はいまどうなってるの」
「七割の後半です。最終的に五割前後に落ち着くと思います。ホームランは百本いくんじゃないでしょうか。打点は江藤さんと争うでしょうね」
 竹中惇(あつし)。濃人時代の三十七年に投手として入団してすぐバッターに転向、八年間泣かず飛ばずのまま去年退団した。江藤に電信柱と呼ばれてかわいがられている。江藤が、
「甘かよ、電信柱。見る目がなかね。少のう見積もって、打率六割超え、ホームラン百二十本超え、打点三百超えやろう。いずれにしぇ、過去の記録が参考にならんたい」
 太田が、
「神無月さんはタイトルなんか何とも思ってないんですよ。人に言われると、獲りますなんて答えてますけど、何の欲もない。俺ね、神無月さんに欲を持ってもらうために、褒めて褒めて褒めちぎったこともありましたけど、信じてくれないんで放っておくことにしました。褒めるより恩恵にあずかるほうがラクです。ラクをしながら自己鍛錬もする。俺たちが伸びることを神無月さんはものすごく喜んでくれますから」
 みんなしんみりした。高木が、
「金太郎さんは鍛錬の鬼だよ。絶え間なくやるという意味では、猛訓練を自慢してきた川上や金田や野村を越えてる。彼らは、百八十度開脚できるようにからだを曲げて苦しんだり、肺をいじめたりすることを鍛錬だと思ってる。そのくせ、野球にとって大事な筋肉を鍛えようとしない。つらいことで精神を鍛えるというなら、それは心の修練であって肉体の鍛錬じゃない。だから彼らは、片手腕立てとか、片手振りなんかとうていできない。俺たちが金太郎さんに見習うべきところはそこだよ。健ちゃんも同じ鍛錬方法だ。鍛錬が正しければ、精神も正しくなる。苦しさを求めるんじゃなく、正しさを求めるようになる」
「賛成」
 と中が小さく言った。
「私も若いころに基礎的な筋肉鍛錬を怠って、ただベース間を走ったり滑ったりしていたせいで、膝をやられてしまった。局部的な筋肉を鍛えておかないと、全体をつなげる部分を保護できないんだ。神無月くんは理想的な鍛錬をしてる。片手腕立ては、少年時代に痛めた左肘の回復のためにこの半年内に始めたらしいけど、前腕と二の腕の筋肉がじゅうぶんついたあとで、根気よくつづけるようになったんですよ。どうしてあんなにボールが飛ぶのかと疑問に思う以前に、ほんとに、見習うべき点をしっかり見習うべきでしょう」
 森下コーチが、
「二軍選手に金太郎さんの爪の垢でも煎じて飲ませるか。ただ、ダラダラ走るだけじゃあかん」
 八号線から三百五号線に入る。三十分ほどで二十号線に出る。遠くの空に薄紫が掛かっている。
「海沿いに走ってます」
 と運転手の背中が言うが、海は見えない。
 空港に到着。駐車場に入る。バスの腹からみんなで荷物を出し、玄関前で運転手の挨拶を受ける。
「三日間、楽しいお供をさせていただき、ありがとうございました。プロ野球選手がこんなに楽しくて思慮深いかたがたとは存じませんでした。できれば、次回いらしたときもまたお供をさせていただきたいと思います。私、富山観光バスの松木と申します。みなさまのご健闘とご活躍をお祈りしております。どうか一年間がんばり抜いて、前代未聞の勝率で優勝なさってください。それでは失礼いたします」
「さよなら!」
 狭いロビーにぞろりと立っていると、周囲からパチリパチリ写真を撮られる。
「お、神無月だ」
「天馬よ、きれい! 信じられない」
「江藤や中もいるぜ!」
「高木モリミチだよ」
「黒いの、菱川だろ」
「すみませーん」
 とつぜん並びかけて、友人に写真を撮らせて逃げていく女子学生もいる。水原監督が、
「足木くん、搭乗券オッケーだね」
「はい、だいじょうぶです」
「搭乗まで二十分しかない。全員いるね」
「確認しました。弁当も人数分用意してあります。ホテルフジタの牛肉弁当です。いまから配ります」
 鏑木や池藤も手伝って、段ボール箱から折り弁当を出して配る。
「羽田に八時四十五分に着きます。ニューオータニのバスが二台きてます。ニューオータニに着くのが九時半でしょう。弁当じゃ腹が足りないでしょうから、銘々ルームサービスで夜食をとってもらうしかないですね」
「仕方ないだろう。あしたは後楽園までやはりバスが出るんだね」
「はい」
「試合開始は?」
「六時です」
「ビジターだから、四時までに球場入りか。とにかくニューオータニに帰り着けば多少のんびりできるね」
「はい」
 搭乗して、みんなさっそく弁当を食いはじめた。腹がへっていたので、この上なくうまいと感じた。機内は帰京の一般客でかなり混んでいたが、大半の選手が食後の仮眠をとったせいか、だれもサインを求めにこなかった。
         †
 九時二十八分、ホテルニューオータニ着。安らぐ。地下駐車場入口前に報道陣とファンがひしめき、警備員がずらりと並んでいる。バスが入口に入りかけたとたん、フラッシュの光や喚声や嬌声に包まれた。広い地下空間でバスを降り、ホテル従業員が私たちをエレベーターに導き入れる。ロビー階へ上がる。出迎えた数十人の円柱帽が各選手の荷物を受け取り、それぞれの部屋へ急ぐ。江藤と並んで歩く。
「三日間、素子さんはきとったんか?」
「はい。部屋番号の連絡、ありがとうございました」
「いやいや。しかし彼女に遇わんかったのう。挨拶したかったとにな。よっぽど気ば使うたんやろう。金太郎さんの女はみんなえらかったい」
 江藤に手を振って別れ、出発のときと同じ五階の八号室に入る。ビジター用のユニフォーム三式と、下着六組、ワイシャツ三枚、タオル十枚、バット三本、スパイク一足が届いていた。ダッフルとスポーツバッグを持って随行してきたボーイが、
「お帰りなさいませ。北陸シリーズのご活躍、ホテルの者全員で拝見しておりました。三十分交代でテレビを観たんです」
「そうですか、ありがとうございます。こっちではどこのテレビが放送したの?」
「TBSとNHKでやってました。きのうのホームラン、すごかったです。あ、お荷物ここに置いておきます」
「ありがとう」


         十八

 ボーイが去ると、太田が部屋を覗いた。手にコーラ瓶二本と紙コップを持っている。コーヒーテーブルに置いて注ぎ、
「お疲れさんでした」
「お疲れ。ハードな三日間だったね。あと二日、踏ん張ろう」
 紙を打ち合わせてコーラを飲む。
「TBSで三日間、全試合実況中継したそうです」
「ボーイに聞いたの?」
「いえ、知人です。高校はちがうんですけど、中津出身の大先輩、ジャイアンツの吉村典(まれ)男さんから電話をもらいました。活躍おめでとうなんて、くすぐったい電話ですよ。先月十四日のアトムズ戦で、ニイング投げて勝利投手になった人です」
「ああ、そんな話があったね」
「彼の話では、テレビ解説者が神無月さんのことを、ホームランか三振かというバッターはよくいるけど、ホームランか敬遠かというバッターはプロ野球史上一人だって言ってたらしいです。夜は日本テレビで後楽園の巨人大洋戦を中継があって、そこでもゲスト解説者が、王や長嶋よりも神無月さんのことばかりしゃべってたって。神無月さんの才能のことじゃなくて、順調でなかった野球人生のことです。かつてどんなにすぐれた野球選手も、野球をするべき青春時代に野球をすることを妨害された人間はいない。神無月選手はその不遇に甘んじ、それを乗り越えてきたって」
「野球ができるできないで、多少の紆余曲折はあったけど、いざ野球をやるとなるとそれほど不遇だったようには思えないんだ。肘の手術とか、北へ島流しとか、南へ連れ戻しなんてものは、単なる回り道で、野球人生を妨げるほどのものじゃない。世間に流れてる話はみんな、ぼくに関心を持たせるようマスコミが潤色して刷りこんだものだ。信じるように仕向けられちゃったんだね。そうなると、ぼくの身にこれから何が起こるかとか、むかし何が起こったのかを知りたがるのは当然のことだよ。ホテルの玄関前に押しかけてる人たちがその代表だ」
「神無月さんはその才能で、とんでもない障害を乗り越えてきたからそんなふうに言えるんです。ふつうの人間ならその一つでも背負わされたらアウトです。おまけに、エピソードの一つひとつが作り話じゃないし、表に出ない、あるいは出せない痛快な話もいくらでもある。有名になるというのは、表に出しても不都合のない作りものでない身の上話を、みんなが真剣に聴くということなんです」
「うん。いわゆる苦労話や美談だね。そうやってファンは作られる。苦労してきた、いいことをしたというだけで、ぼくを身近に感じてね……」
「美談のほうはケチをつけられることのほうが多いけど、神無月さんの苦労話は、自分の苦労の多い人生と重なるんですね。ぜったい重ならないのに」
「うん、重ならない。ぜったい重ならない。パターンにはまる苦労なんて、だれもしてないからね。でも、自分を重ねたいという願望を満たす手段が、ぼくの身の上話しかないんだ。そんな個人的なことに共感を見出すのは難しいに決まってるけど、共感が難しいから軽蔑するということにもならない。人は有名になると軽蔑されないというのが世間のしきたりだからね。人間的な成長をほのめかすような身の上話で、野球しかできない男に一貫性を持たせれば、そいつが真実めいて見えるという仕組みだよ。じつはぼくが頭の悪い女たらしだと知ったら、世間は袋叩きにするだろうね」
「何を言うんですか! 神無月さんは、頭の悪い女たらしなんかじゃありませんよ。じつは神無月さんの苦労を自分に重ねて考えてる人なんかいないと思います。あまりにも異常すぎて、真剣に聴いても関心を持てないんですよ。嘘くさいと思ってる人もいるかもしれない」
「たしかに、想像できないことは嘘で片づけたくなる」
「だから、そういうことで神無月さんはファンや評論家たちに支持されてるんじゃありません。野球の神がかりの能力だけがいちばん興味深いことなんです。それはみんなテレビの画面を見ればわかることです。人間性の深さは、身近にいる人間にしかわかりっこありません。俺たちのような、神無月さんにやさしく口を利いてもらったり、笑いかけてもらえたりする立場の人間からすると、神無月さんにたくさん女関係があったり、周りの人間に対する信じられないほどのやさしさがあったりするのは意外な喜びなので、ますます尊敬と愛情のもとになります。ただ、尊敬したり愛したりできるのは、そういう意外な喜びを与えられた人間だけのラッキーで、そうでない人は、人から聞いたり活字で読んだりすることや、自分の目に見える範囲のことに喜びを見つけるしかなくなるんですよ。だから、目に見えないふだんの人間関係を知ってしまうと、自分がそういう幸福を与えられなかった嫉妬から、悪口を言って憂さ晴らしをする。まさか深い人間性からそういうことをしているとは信じられないからです。彼らには表に出しても不都合でない話しか聞かせちゃいけません」
「不都合な話って、女絡みか、ヤクザ絡みだね」
「親絡みも、性格絡みもあります。でも第一に女絡みですね。川崎のオバチャンから聞きました。あの騒ぎのあった日、俺も回が詰まってから給湯室にいったんですよ。弁当の話を聞きたくてね。神無月さんは便所の窓からオバチャンて笑いながら呼びかけ、彼女の身の上話を進んで聞き、お弁当ももらってあげて、最後に、きれいですねって言ってあげたそうですね。だれにも振り返られなくなったこの私にって、オバチャン泣いてました。また顔を出すって約束してあげたそうですね。オバチャンは、きれいだと言った自分の言葉の責任をとってくれんだってすぐわかったそうです。俺、その話を聞いたとき、もらい泣きしましたよ。この世知辛い世の中に、神無月さんみたいなダイヤモンドがいる。……野球を見てる分には、たしかに世間の人たちは神無月さんを袋叩きにはしないでしょう。その才能をこの世から抹殺するのが惜しくなるからです。しかし、そういうふだんの少しふつうでない心濃やかな振舞いは、たとえどんなに深い人間性から出たことでも、相手が女性となるとあれこれ尾ひれをつけて中傷されるものです」
「女たらし、年増好み―」
「はい……。俺は神無月さんがどんなことでも悪口を言われるのがいやなので、けっしてこういうことは外に洩らすまいと心に決めてます。オバチャンも、内緒にしてねって言いました。神無月さんを尊敬し、愛する人たちはみんなそういう気持ちでいると思います」
 太田は涙を指で拭った。
「太田とドラゴンズで遇えたのは奇跡だね。この〈人間関係〉を大事にしようね」
「はい!」
「阪急の開幕連続ホームランはどうなったかな」
「きのうの十七試合連続ホームランで途切れました。きょうはだれも打ってません。一対四でロッテに負けました。ところで今夜、食事はどうします?」
「機内で弁当食ったからいい。きょうはもう寝る」
「わかりました。ゆっくり休んでください。俺も寝ます」
「コーラありがとう」
「とんでもない。何か食う物をと思ったんですが、手に入れる方法がわからなくて。ハハハ、もう少しニューオータニに詳しくなるようにします。じゃ、お休みなさい」
「お休み。あしたもがんばろうな」
「はい」
 太田が出ていき、ジャージに着替えようとすると、チンボがコチコチに凝っていて、ブレザーを脱ぐのが難儀だった。〈物理的〉に女が必要なことがあると初めて感じた。
 安易な方法だが、気を散らすために走ることにした。ロビー階に降りる。フロントに鍵を預け、
「走ってきます」
「いってらっしゃいませ。正面玄関のほうは、まだファンのかたたちが何人かうろうろしていますので、裏口からお出になってください。この先の一階通路の椿の間の向かいに紀尾井町ビルへの連絡通路がございます。そこを通って表に出られるのがよろしいでしょう。通路の先の玄関から出たところが清水谷公園になっております。小泉八雲の『むじな』の舞台にもなっている由緒ある公園ですよ。園灯も点っております」
「わかりました」
 その小説を読んだことがなかった。
 紀尾井町ビルから外へ出ると、なるほど大きな公園になっていた。闇の下に黒い木立が眠っている。入口を入ってすぐ園灯に明るんだ広場があり、右手にかつて清水の湧き出ていた井戸跡の標示板が立っている。清水谷の由来が書かれているのだろう。〈柳の井〉と呼ばれていたようだ。左手の遊歩道の入口にハナミズキのピンクの花が咲き乱れていた。正面の平たい石段を歩いて登る。そこにも枯葉の散り敷いた遊歩道があったので、ビルの灯りを吸って明るんだ夜の中を走りはじめる。
 思ったより木立が鬱蒼としている。ムクノキが繁り、ケヤキの大木がたたずみ、二十メートル以上もありそうなヒマラヤ杉の巨木がそびえている。背の高い大久保利通哀悼碑が建っている。たしか、紀尾井坂の変だったか? 碑の裾に、菊に似たヒメジョオンが咲いていた。
 コンクリートの護岸の人工池が光っている。護岸にソメイヨシノの列、岸辺はほかに灌木が囲んでいるばかりで、花はない。黒い鯉が泳ぎ、カメが護岸の上を歩いている。宵闇に反射してわからないが、水質はいいようだ。走る道のところどころから、ニューオータニの円盤が垣間見える。ヤブミョウガの咲く道を真剣に走り出す。谷あり、坂あり、かなり高低差のある地形なので適度な運動になる。茶室のような建物がある。興味なし。奥までいくと崖になっていた。崖があれば谷がある、の道理だ。もう一周うつむいて走って引き返す。
 フロントにいって鍵を受け取り、
「玄関前の人たちは?」
「ようやく解散しました。あしたもご迷惑をおかけすると思いますが―」
「ファンがいなければプロ野球じゃないです。何ともありません。次の機会には玄関のほうから走ってみます」
 シャワーを浴び、きょう一日の汗を流す。頭をじっくり洗う。地肌に爪の先が当たったので、バッグの脇袋に百江が爪切りを入れたことを思い出し、あとで切ることにした。歯を磨き、裸のまま出る。窓辺で手と足の爪を切った。半月にいっぺんくらい切るようにしているが、ふと忘れているうちにだいぶ伸びてしまった。電話が鳴った。
「北村さまからお電話が入っております。おつなぎします」
 カズちゃんのなつかしい声。
「キョウちゃん? 三日間お疲れさま。すごい活躍、みんなテレビに釘づけになってたわ」
「うん、がんばった。みんな変わりない?」
「ぜんぜん。素ちゃんたら、帰ってきてから、おしゃべりしっぱなし。よほどうれしかったのね、いつ死んでもいいなんて言っちゃって。いまようやく千佳ちゃんとお風呂にいったわ。疲れてるのに夜遅く電話してごめんなさい。山口さんが国内コンクールで優勝したことを伝えたくて」
「やったか!」
「あしたの午前、林くんたちとオータニに会いにいくから言わなくていいって。でも早く知らせたかったから」
「ありがとう。そうか、やったか」
「お誕生日おめでとう」
「照れくさいな。なんだか二十歳というのは、乳飲み子が少年になったようで、ピンとこない」
「いつまでも少年でいてね。そうだ、法子さんからダイヤモンド針五本届きました。雅江さんからは、ういろうの五色セットが小包にまとめて送られてきたわ。千佳ちゃんは下着上下十組、ムッちゃんは大学ノート五十冊。品物はいただくけど、お金は断りました。私ももうお金はやめるわね。節子さんは最高級の革用グリース十個、キクエさんはディケンズ全集五巻」
「彼女たちのほうが手もと不如意なはずなのに」
「そうよね。でもこういうことは節目のことだから、遠慮しないでもらっておきなさい。これからいろいろな形でうんとお返ししましょ。おとうさんおかあさんからは、どうしてもってお金を五十万円もらっちゃったけど、ドラゴンズのみんなとお酒を飲むときなんかに使えばいいでしょう。いつもそんなことをしたらだめよ。えらそうだから。じゃ、切るわね。愛してます」
「ぼくも。お休み」
「お休みなさい」


六章 北陸遠征 終了

七章 進撃再開 その1へ進む


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