七

 太田が私に、
「王侯貴族の心中事件ですか」
「うん、ハプスブルク家の皇太子と男爵令嬢との」
 菱川が、
「知らないなあ。八十年も前のことでしょう。何ですか、ハプスブルクって」
 中は、
「オーストリアの皇族一家で、九世紀からつづくヨーロッパ随一の名家だよ。同じ時期に成立した神聖ローマ帝国の帝位を代々受け継いできた家だ。第一次大戦直前の政治状況はさすがにわからないけど、オーストリアが保守的な国体だったことは知ってる。ルドルフ皇太子はオヤジにたてつく急進派だったんだよね。放蕩生活のせいで淋病持ちになっちゃっから、それに感染した女房が不妊症に罹って子供を産めなくなった。一人いた子は娘だから、帝位を継ぐわけにはいかない。夫婦仲は悪くなる。ルドルフは外に三十人も子供を作ってたらしいけど、王侯貴族じゃないから跡は継がせられない。それが死にたくなった理由だろうということで結局自殺説に落ち着いたんだけど、無理がある。放蕩者が跡継ぎのことなんか心配するかな。遊びまくってる行動から推(お)して、自殺などしっこないリベラルな楽天家だとわかるからね」
「ぼくもそう感じました」
「うん、そこで、理屈の通った他殺説もあったんだ。もし心中する気なら、友人を同行しないだろうということ。狩りをしようと友人を誘ってロッジへいってるからね。皇太子は頭に銃創を負い、マリーは頭から血を流してベッドに裸体のまま横たわっている状態で発見されたが、皇太子がそんなありさまで発見されることを望むだろうかということ。家具がひっくり返されて激しい争いの跡が見られ、壁におびただしい血痕が付着していたこと。二発ではなく何発も銃声が聞こえたこと。皇太子の右手がサーベルで切断されていたこと。何年かして研究者が愛人の遺体を発掘して調べたら、銃創はなく、マリーは鈍器による頭蓋骨骨折だとわかった。だれかがマリーの頭を殴って殺し、皇太子を銃で何発も撃ったというわけだね」
「保守的な国体を維持したい要人の仕業ということですか」
「陰謀説によるとそうだね」
「少し知ってるどころじゃないですね」
 秀才の高木時夫が、
「中さんの歴史知識はすごいんだよ。それでさ、皇太子が死んだせいで跡継ぎが長いあいだ決まらないので、結局皇帝の甥のフェルディナントに帝位を譲るということになった。皇太子の死のショックもあって、皇帝は民族融和策をとるようになってたけど、このフェルディナントが国粋主義的な野郎で、とうとうサラエボ事件で夫婦ともに暗殺された」
「第一次大戦勃発の原因ですね。ふうん、うたかたの恋がそこまでつながるわけか。でもそれほど残酷な殺し方をするとなると、皇太子に怨みを抱いている人の犯行ということになりますね」
 中が、
「彼が関係した女たちの夫や父親の中には何人も容疑者がいたそうだ。政治的な暗殺かもしれないよ。皇帝は二十代のころに暴漢に首を刺されて生き延びた経験があるし、彼の妻はルドルフ皇太子と同じで自由主義者だったから、ルドルフの死後何年かしてアナーキストに刺し殺された」
「映画は悲恋に終始してました。そんなキナ臭い場面は一つもなかった」
 高木時夫が、
「やっぱり暗殺じゃないの」
「すっきりしました。きょうは後楽園の選手食堂で食べよう」
 江藤が、
「何じゃそりゃ」
 みんなで大笑いしながら、私が自室に戻るのを見守った。有意義な映画鑑賞になった。
         †
 対巨人四回戦。巨人の先発は渡辺秀武、中日は小川健太郎。
 この日の江藤は、ひたすら怒り狂ってブンブン振りまくり、内野ゴロ三、三振二のノーヒットだった。この気分がみんなに伝染して、ことごとく渡辺の内角に食いこむ重い速球に詰まって凡フライを打ち上げた。結果は六対六の延長十二回時間切れ引き分け。時間切れというのは、三時間半を超えて新しい延長回に入れないというものらしい。初めて知った。
 小川は五回裏まで投げ、四回に末次のツーラン、五回に王のスリーランを浴びた。背面投げは試さなかった。六回から浜野に代わったが、七回に長嶋にフォアボール、柴田の代打の国松にライト前へ打たれたところで若生に交代し、その若生が森にライト前へ打たれて一点を失った。
 ドラゴンズは、中と高木と私と千原が一安打。私の内訳は、ピッチャーライナー、ファーストフライ、ライトフライ、八回表に初ヒットの中と高木を一、三塁に置いて、ライト最前列へ高いフライの三十八号スリーランを打ったが、五打席目はレフトフライ。九回表に、連続フォアボールで出た島谷、江島を置いて、若生の代打の千原が右中間へ一号スリーラン。目の覚めるような当たりだった。九回裏からは松本忍が出てきて、十二回裏まで打者十六人、奇跡的に零点に抑え切った。
 小川は被安打九、浜野一、若生一、松本四。十二回を投げ切った渡辺秀は被安打四だった。インタビューはなく、両ベンチともすみやかに球場をあとにした。校庭で放課後に野球をやって、とっぷり日が暮れてから帰ってきたという感じだった。結局選手食堂へはいかず、攻撃の合間に売店でメロンパンを買ってきて食った。
 拾い物の引き分けだったので、バスの中の水原監督は終始上機嫌だった。
「三時間五十分か。長い試合でしたね。千原くん、松本くん、お手柄でした。きみたちのおかげで引き分けました。この引き分けは勝ちに等しい。金太郎さんのスリーランで少し追いつき、千原くんの同点スリーランで括弧を閉じたけど、連打で追いかけることができれば言うことなしだったね。とにかく負け試合をよく同点にしてくれた。そして松本くんがよく同点のまま凌いでくれた」
 松本は口惜しそうに、
「九回に巨人ベンチから、小僧おまえが投げるのか、抑えられると思ってるのか、という野次が飛んできました」
「無名の選手をからかうのは下品だね。でも、九回、十回と投げてるうちに、おやおかしいぞと思っただろう。カーブがよかった。王、長嶋、国松を三者連続三振だものね。十二回には、フォアボールの末次を一塁に置いて、あと一人というときに代打吉田孝司のサードゴロを太田くんが弾いて、ツーアウト一、二塁、もし一発出ればサヨナラ負けになるという大事な場面で、きみは顔色一つ変えず、最後の打者の土井をサードゴロに仕留めた」
「カーブが切れてたので、自信を持って投げました」
 童顔をほころばせながら言う。
「三年前、王からカーブで三振を取ってるものね。きょうが五十二試合目か」
「はい、四勝七敗です」
「今後もっとからだを作ることだね。百七十八センチもあるのに細すぎる。まだまだ成長の余地がある。きょうの渡辺秀は好投してたけど、千原くんにやられた。金太郎さんに打たれるのは想定内だとしても、代打の千原くんにやられるなんて考えてなかっただろう。お手柄。どんな球を打ったの?」
「真ん中のスライダーです。インコースに投げる予定の失投だったと思います」
「失投を逃がさないことがバッティングの基本です。ほんとによくやった。江藤くん、きょうは心が暴れてたから、見ていて痛々しかったよ。もう落ち着いた?」
「はい。川上が出てこんかったけん、溜飲ば下げました。あしたからはだいじょうぶです」
「荒川くんが一日代行で出ていたから、川上くんは球団から謹慎を食らったか、不貞腐れてボイコットしたかのどちらかだろうね。こんなに早いコミッショナーの呼び出しはないはずだからね。彼をかわいがる人に宥められて、おだてられて、あしたからまたえらそうに出てくるよ。安心してぶちかましなさい」
「はい!」
「金太郎さんが狙われても、けっしてベンチを飛び出さないように。無視していれば、いずれ世論に潰される。きのうの金太郎さんの悲愴なインタビューも相俟って、いずれ巨人に対する他球団の風当たりも強くなるだろうしね。ビーンボールを放るのが十二球団でいちばん多いのは巨人のピッチャーだというのは有名だ。恥ずかしいことだね。うちがだれかを狙っちゃだめだよ」
「オース!」
 部屋に戻って、ひさしぶりにグローブとスパイクを磨いた。シャワーを浴びて、ルームサービスでビーフカレーとサラダの盛り合わせ。食べ終えて食器を廊下に出す。テレビを観る。日本テレビ、11PM。三木鮎郎とホステス役のジューン・アダムズ。消す。机に週刊現代がサービスで置いてあったので、手に取ってベッドに横たわる。フロントのだれかが好意で置いてくれたのだろう。1969年5月1日号、創刊十周年記念特別号。定価60円。
 ・笹沢佐保 喪服の殺意
 ・21世紀社員がとるべき人間接触法
 ・30代で家を持つための最良策
 ・5月相場で大活躍する筆頭銘柄
 ・姿を消した永山則夫の兄弟たち
 ・EC121機撃墜事件でこれからどうなる
 これが記念特別号か。読むべき記事がない。EC121機というのも、正体を確かめたくない。どうでもいい。グラビアを開けると、天馬と江夏の決闘、という写真が見開きで載っていた。これを見せたかったのだとわかった。四月十九日甲子園阪神―中日一回戦一回表と写真に注がある。江夏の投球ボールが手から離れ、私がバックスイングに入ろうとする瞬間の写真だった。二枚の写真の裾に重ねて白抜きの文章が記されている。

 球史に残る初対決。球史に残るドラマの始まりだ。結果はまず天馬の一勝。右翼看板下に打ちこむ特大の十二号ソロだった。これからもファンを熱狂させつづける神無月対江夏の対決を予見させる一発だった。王対江夏のライバル関係も熾烈だったが、神無月と江夏もそれに比肩するものになった。打倒神無月に燃える江夏は「ローテーションに関係なく、できるかぎり中日戦に先発させてほしい」と志願し、神無月を打ち取ったら査定アップというオプション契約まで結んだ。

 江夏とバッテリーを組んだ田淵幸一は、全盛期を引っさげてプロ野球界に登場した天馬神無月に果敢に挑む若武者の陰の努力を間近で見ている。「彼はああ見えて努力家で、コントロールをつけるため宿舎ではいつも畳に寝転がり、天井に当たらないギリギリの距離までボールを投げて指先の感覚を養っています。彼は手が小さく指が短いので、ベンチで常にボールを握り、手のひらにボールの感覚を馴染ませています」


 指先の感覚まではわかるが、あとは意味不明。
        †
 五月八日木曜日。八時起床。清水谷公園で一連の鍛練、晴。気温二十・一度。風が強い。サツキでみんなと和定食。ホテル弁当を頼む。ロビーでくつろぐ。新聞記事が目に入る。

    
神無月5の1 1本塁打 ペースダウン
           
延長十二回 巨中引きわけ

 対巨人五回戦。先発は田中勉と城之内。きょうも延長戦になった。
 中日、高木レフト上段へ六号ソロ、江藤レフト最上段へ十五号ツーラン、私ライト中段へ三十九号ソロ、菱川の代わりに先発した伊藤竜彦レフト中段へ一号ツーラン、太田の代わりに先発した葛城レフト上段へ二号ソロ。対する巨人は、長嶋三号ツーラン、末次四号ツーラン。中日十四安打、巨人十三安打。十回裏八対九のサヨナラで負けた。乱打戦の印象はなかった。
 中は六の二、高木五の一、四球一、江藤六の二、私五の三、四球一、伊藤竜四の二、四球一、葛城五の一、木俣三の二、四球一、一枝四の一。きのう水原監督が危惧したとおり連打が出ず、ホームラン以外では一点しか取れなかった。それに対して巨人は、ホームランで四点、連打で五点取った。六対六の同点で四回から継投した浜野が負け投手になった。勝ち投手はおととい投げたばかりの高橋一三だった。高橋は七対七の同点になった九回から継投し、葛城に逆転ソロホームランを打たれたが、その裏長嶋を三塁に置いて末次のセンター前適時打で同点にしてもらい、十回裏土井を二塁に置いて黒江のライト前サヨナラ打が飛び出して、三勝目をプレゼントされた。


         八

 巨人のインタビュー風景を尻目に球場をあとにした。きょうのバスでも、水原監督の表情は相変わらず柔らかかった。
「畳みかけることを忘れてるよ。深情けは禁物。初心を取り戻そう。盗塁が中くんの一つというのもさびしい。もっと溌溂と走り回りなさい」
 鏑木が、
「全員水準以上の足ですから、引っこみ思案にならずに走ってください」
 葛城が、
「全員はオーバーでしょ。私はだめ。すっかり衰えた」
 徳武が、
「俺もだめ。三年間走ったことがない」
 木俣が、
「俺は一年に一回から三回走ると決めてるんだ。案外足は速いんだけどさ、小回りが利かない」
 菱川が、
「足の遅さは俺が一番でしょう。入団以来、一回しか盗塁したことないすよ。鏑木さんは贔屓目がすごいな。きょうの五本のホームラン、みんな中段から上段までライナーでいきましたね。気持ちよかった」
 高木が、
「生涯最高の当たりだった。葛城さんは軽く合わせてたな」
「私はマグレ当たり。ひさしぶりにヒーローかなと思ったら、あっという間に同点にされちゃった。金太郎さん、五の三?」
「はい」
 水原監督が、
「走るチャンスは、フォアボール入れて三回あったね」
「反省してます。出しゃばらなくても何とかなるだろうと、サボった気でいました」
「森は野村と同じで、盗塁のタイミングを外すのはうまいけど、いざ走られると肩は弱いよ。きょうは何もイヤミを言わなかったんでしょう?」
「はい、まったく無言でした。それだけに怖いものがありそうです」
「川上くんもずっと柱の陰にいたね。だいたいあの男は、むかしから他人と協調したがらないエゴイストで、人を統率できる器じゃなかったんだが、監督になってガラリと変わってしまった。なるほど独裁者という形をとったんだな」
 太田コーチが、
「水原さんが三原に代わって監督になったころ、よく川上を叱ったそうですね。私はそのころ松竹ロビンスにいたんですが、二人の仲の悪さはしょっちゅう聞こえてきましたよ」
「仲が悪いと言うよりも、性格を叩き直したかったんだね。一試合三ホームランを年に二度やったり、ホームラン王を獲ったりして、いい気になってたからね。それでアメリカに野球留学させた。帰ってきたら、少し素直になってたよ。監督という立場がいかに偉大かわかりました、なんて言ってね。どうも悪く学んじゃったみたいだな。長嶋が入ってきて四番の座を追われて引退。私がカメラマンを殴って、いまの川上みたいに球団から謹慎を食らったとき、彼が監督代行をした。それが彼の監督業の初めだね。翌年私は東映にいった」
 私は、
「独裁こそ監督の本分だと誤解してしまったんですね。とにかく巨人は強くなった。彼の独裁のせいだと世間は思いこんだけど、じつは王、長嶋のおかげだった。二人が打てなければ、ただの弱小チームです。きょうこそ二十点取るべきでしたね。残念だ」
 田宮コーチが、
「阪神が広島に三連勝して十一勝八敗になった。大洋もきょうアトムズに三連勝して、十勝九敗二分け。うちは十九勝二敗一分け。どちらも六ゲーム以上引き離してる。しかし油断せず、貪欲に戦おう。夕食はめいめい好きな店でとってください。きょうはゆっくり寝て、あしたの午前、元気にめいめいのねぐらへ散ってくれ。フロントに鍵を返し忘れないように。あさって中日球場三時集合」
 ロビーで解散。
         †
 翌十日の朝刊に、川上監督の二週間謹慎の記事が出ていた。中が、新聞に掲載された球団を通じての川上監督の謝罪文を小声で読み上げた。

 このたびは、一社会人として自覚に欠けた私の言動により、神無月郷選手に多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。ならびに、ファンのみなさま、関係者のみなさまはじめ、多くのみなさまに与えた尋常でない精神的打撃につきましても重ねて深くお詫び申し上げます。神無月郷選手にはこれからは誠意をもって対応してまいる所存でございます。まことに申しわけございませんでした。

 太田が、
「こんなの、川上監督が言ったことじゃないでしょ。誠意をもって対応って何ですか」
「もうビーンボールを投げないということかな」
 私が言うと、江藤がガハハハと笑い、
「あんなゲスのために涙流して損したばい。もったいなかことしたァ」
 菱川が、
「あとは読売球団のスポークスマンが記者会見でもして、チョンですね」
 朝食のとき、足木マネージャーが、
「川上監督当人からではなく、ジャイアンツ球団側からドラゴンズ球団宛てに謝罪の電話が入りました」
 と伝えた。私はどうでもいいことだと思っていたので、江藤や太田たちと黙々とめしを食った。 
 十一時過ぎ、江藤、太田、菱川と品川駅からひかりに乗る。すでにほとんどの選手が午前の早いうちに出発していたので、車中で三人とゆっくり話ができた。
「小川さん、いつ背面やるんですかね」
「来月の巨人三連戦やな。また新聞に叩かるうぞ。おもしろかァ。おもしろかことばかり起こりよる。広島の四回戦の審判、マッちゃんやったろ」
「はあ、五月の三日でしたね。富山球場、野際陽子が始球式だった」
「ほうや、あのときおどけたパフォーマンスをやった球審のおっさんたい。本人が言うには、自分は三流のまま阪急から国鉄へと渡り歩いた一・五軍選手やと……しみじみ言うとった。いまの野球と昭和二十年代の野球とで大ちがいなところは、カリスマ性のある選手がいないことやそうや。つまりスターがおらんちゅうことやが、すぐれた個人が手柄を上げて試合を勝ち取る戦国時代のやり方が、チームワークで試合を勝ち取る現代ふうのやり方に変わってきたて。英雄の力量はあまり関係せんらしか。王、長嶋が登場して、ほんの少しむかしの雰囲気に戻りかけたと思ったら、二人を常勝巨人のチームワークの道具にしてもったいない使い方をしとる。そういう欲求不満なところへ、とうとう神無月郷という戦国武将が現れた。やあやあ、われこそは、と大音声で名乗りを上げて、ばったばったと敵を薙ぎ倒していく。チームワークなんかそっちのけのドラゴンズという軍団がついていく。この日まで生きていてほんとによかった言うて、あの目ン玉に涙浮かべたわ。ワシも泣いた」
 菱川がうんと強くうなずき、
「まったくそのとおりです。高校時代から、勝ってもチームの勝ち方にどこか欲求不満のところがありました。いまはまったく不満がありません。ところで、昭和二十年代の戦国武将というと、どういう人たちですか?」
 名古屋に着くまで、その類の話になりそうだったので私は喜んだ。
「ワシャ昭和三十四年の入団やが、ホームラン王ば獲るつもりやったけん、ホームラン王についてはよう調べた。まず国鉄の町田行彦。金太郎さんより少し小柄な男や。強肩、強打、俊足。二十七年に十八歳で国鉄に入団して、三十年に三十一本打ってホームラン王になった。西の中西、東の町田と言われた。長島が金田から四三振ば食らった試合で、決勝ホームランば打っとる。ワシやモリミチのような構えから、山本浩二のごたるスイングばしよる男でな、ホームランバッターはたいてい強烈なスイングをするけん、腰ば痛めて引退した。マッちゃんとは長野北高校の同級生らしか。彫りの深か美男子で、いわゆるオーラちゅうものがあった。タコ、あとをつづけてくれ」
 太田が小冊子の年鑑をダッフルから取り出し、
「戦後再開したプロ野球からそういう選手をセ・パの順で拾い上げていくと、一リーグ時代の昭和二十一年から二十四年までのホームラン王は、天才大下の二年連続、青バットの青田、物干し竿の藤村とつづいていきます。二リーグ制になった二十五年からは、眼鏡の別当と、五十一本の小鶴、二十六年は青田と大下、二十七年は杉山と深見です」
「深見?」
「深見安博、当年五十歳。いま広島でコーチをしてます」
 江藤が、
「おととし西沢監督から聞いた話やと、のっそりデカちゃんと呼ばれとった杉山悟はドラゴンズの超大型怪力打者で、ボールが金太郎さんのロケットのごつ飛んでいくもんやけん、対戦する投手はふるえ上がったらしか。杉山・西沢のコンビはいまのON以上やったと」
「EK以下ですね」
 と太田。江藤は笑いながら、
「茶化さんでもよか。当然たい。で、対抗策はビーンボール。デカちゃんは頭にデッドボールを食らってから下降線になった」
「高木さんは復活しましたね」
「デカちゃんとちごうて、気の強かけん」
「翌年の二十八年は、藤村、中西」
「いよいよ中西登場!」
 私ははしゃいだ。
「やつのことはすべて伝説になっとるけん、説明はいらん。藤村が二十七本に対して二年目の新人中西は三十六本や」
「一年目は?」
「十二本。金太郎さんは何も気にせんでよか。知る必要もなか」
「二十九年、青田、中西」
「青田という人もしぶとく何度も出てきますね」
「百七十センチしかなかホームランバッターたい」
「いよいよ昭和三十年。さっき言った町田、中西。三十一年、青田、中西。三十二年、青田、野村」
「いよいよ野村登場!」
 またはしゃいだ。
「三十三年、長嶋、中西」
「いよいよワシの入団の年、昭和三十四年、桑田と山内やろう。ワシは桑田に新人王ば持っていかれた。クドかな」
「青田、中西の時代が終わったんですね」
「ほうや。パリーグは山内の時代が二年つづいて、野村の時代に入っていく。セリーグは王の時代に入った」
「昭和二十年代は、連続ホームラン王の時代ですね。青田、中西。戦国武将か。それが三十年代に入って、ピタリと止んだ。松橋さんがむかしの雰囲気が戻ってきたと言ったのは、野村と王が登場したからでしょう。でもその二人とも、戦国武将の派手さがない」
「松橋さんが言うんは、金太郎さんには奔放さと派手さに加えて、それを越えた上品な輝きがある、過去のだれにもなかったものだてな。ワシは、これから先もなかと思うばい」
 太田が、
「神無月さんと野球ができなくなったら、思い出だけで生きてくことになりますよ」
「いっときいっときを大切にせんば」
「オス」
「ウス」
 名古屋駅のホームに大勢の記者団が、デンスケとカメラを持って待ち構えていた。彼らの中に雑じって北村席の人たちが何人も迎えに出ている。ホームで人混みに揉まれる危険を察知してか、トモヨさん母子はきていなかった。
「お帰りなさい!」
 主人が進み出て手を握った。
「名古屋は暑いですね!」
「今年初めて三十度を超えました」
 そこへマイクが突き出され、
「五時から読売ジャイアンツ球団代表の謝罪会見だそうです。神無月選手のご心中はいかがですか」
 菅野が私の腕をつかんだ。黒服が二人やってきて、マイクやデンスケを押し分ける。
「何も考えてません。失礼します、一日一日が大事なので」
 菅野が私の腰を人混みからもぎ取るように抱える。江藤たちがダッフルやバットケースを頭上に掲げる。黒服がグングン私の背中を改札につづく階段へ押していく。
「謝罪に対してはどう対応なさいますか」
「別に。野球選手は野球場という野原でしか遊べない蝶です。それを野原とひとからげに所有する企業があって初めて、野原で舞い飛ぶことができるということは認めます。つまり企業主の持ち物であることは否定しません。私たちはたしかに、企業人の掌中でしか生きられない〈たかが〉蝶です。しかし、そこを居直ってはいけない。美しいから所有されるとも言えるからです。それが〈されど〉です。いつも〈されど〉の気持ちで自分の命の意味を探らなければ、どんな蝶も希望を持って生きていけません。されどを考えない、たかがで終わっている言葉は聞くに値しません」
 江藤たちも加担して私の背中をコンコースへつづく改札のほうへ押していった。主人夫婦や丸や千佳子や睦子が、イネやキッコが、人混みを抜け出しながらあとに従った。マイクが何本も人混みに紛れた。菅野が私の腰を抱きながら、
「ああ、十日ぶりに神無月さんの言葉を聞けた! うれしいなあ。ね、江藤さん」
「おお、ワシャ、毎日うれしか。タコ、菱、改札抜くるぞ! 荷物落とすな。切符持っとうや。抜けたら駆け足ばい」
「ホーイ!」


         九

 改札員に切符を渡すと、みんなで小走りになった。新聞で事情をいち早く知っていた人たちも混ざって、コンコースがてんやわんやになった。通りがかりの見物も紛れこむ。とたん、二人三人と別の松葉会の組員たちが現れ、私たちの行く手をほとんど暴力的に掻き分け、追ってくる報道員を押し留めた。ロータリーにハイエースが用意してあった。組員たちが主人夫婦と私たち三人を押しこむと菅野が車を出した。睦子と千佳子が窓の外で手を振った。イネやキッコや丸は、小走りにガード沿いに走った。
「席の門も突破しますよ。あっちにも松葉の人たちがきてくれてます。きのうは一日中、川上監督関係のニュースをやってましたからね。きょうこうなることは見えてたんです」
 菅野が言うと、女将が、
「まず、ごはん食べて落ち着いて」
 江藤が、
「北村席のめしはうまいのでいただきます。そのあとは、宿舎に戻ります。あしたは金太郎さんの四十号に花ば添えんと」
 主人が、
「神さま気取りの人間にはぶつけてやりたくなる、か。川上監督が五分でも神無月さんと話をしていたら、何の気取りもない赤ちゃんだってわかったろうにな」
「あ、新幹線にバットケース忘れた!」
 菱川が、
「ケースじゃなく、バットを忘れた、と言ってくださいよ。俺が持って降りました」
「サンキュー。ケースだけください。それきのう使ったバットだからあげます。傷んでませんよ」
「いただいときます。バットは忘れても、グローブとスパイクを入れたダッフルは忘れないんだからなあ」
「グローブは青森高校のときにカズちゃんが買ってくれたものだし、スパイクは高円寺のフジという喫茶店のマスターがプレゼントしてくれたアメリカ製のものですから。両方とも大切なものです」
 主人が、
「きょうは三時にミズノの人がきますよ。スパイク頼んだらどうですか」
「いまのを履き古してからにします」
 門前に到着すると、バンのドアの前に二人の組員が立ち、私たちを門の引き戸へ導いた。
「松葉の人たち、何人ぐらいきてるんだろう」
「ぜんぶで十人はいますね。世間は大騒ぎですから、牧原さんもきょうあたりこうなることは見越してたでしょう」
 社旗を掲げた新聞社の車が何台も路上に停まっている。
「朝早くからこれですよ。マスコミの対応は早いなあ」
 門前にはマイクはなく、フラッシュだけが光る。自社のテレビカメラに向かって何人かのアナウンサーがしかつめらしくしゃべっている。通りかかる私にマイクを突き出そうとすると、組員に押し返された。
「川上監督の発言は人権侵害だと思いませんか」
「怒りの胸中をひとこと」
「コミッショナー裁定が生ぬるかった場合の対抗策は」
「告発のご予定は」
 無言のままみんなで門の内に入る。主人が、
「川上監督も人騒がせなやつやな。えりゃあ迷惑や。神無月さんが野球をやりたなくなったらどう責任をとるつもりや」
 玄関にトモヨさんたちが直人といっしょに立っている。
「お帰りなさい!」
 トモヨの抱擁を受け、直人の小さい手と握手し、座敷に入る。主人が、
「さあ、くつろいで。めしめし。ビール、コップ!」
「あわただしい、落ち着きゃあ」
 女将が笑う。ソテツが瓶ビールとコップを持ってきて平伏する。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。家の前が大騒ぎになっちゃってごめん。御用聞きも入ってこれないだろう」
「こんな騒ぎ一日、二日で治まります。私の腹の虫は一日二日じゃ治まりません」
 江藤が、
「ソテツちゃん怒っとるなあ。ワシャきのう泣いたばい。まともな気持ちで泣いたのが、きょうは馬鹿らしか。ソテツちゃんも相手にせんのがよかよ」
 トモヨさんが、
「嫉妬は子供のものですよ。川上さんは、よほど子供のころいい目を見たんでしょう。そしてお山の大将のまま育っちゃった」
 そう言って、直人と座敷の積木へいった。
 川上は私の母と似ている。意志というものがない。話すことは平板で、身振りも生ぬるく、怒りも、希望も、笑いも、熱意も、激情も、絶望も、何もない。いまの私は、母に対してと同様、川上にも何の反発も感じない。感情が凍結してしまっている。
 おそらくふつうの人びとよりも貧しい生活、頻繁な転居、挫折と希望の反復、光の見えてこない将来への不安、そういったものが私の人生の色調を決定し、私が遇うことになる男や女の種類を決め、身の周りに起こるできごとと私との関係に影響を与え、直面しなければならない事態や状況に対処する私の態度を決定したのだろう。うまく死に損ない、大きな僥倖に捕まえられて蘇っても、ついに抜け出ることのできなかった私の奇矯なものの見方は、母やそれに類する人たちに苦しめられながらのろのろとすぎていったこの何年かのあいだに定着したものだ。薄暗い色調。その色調をめずらしがる奇特な人びとを私に引き寄せ、僥倖の嵩張りは増したけれども、大きすぎる僥倖には、私はかならず疑惑の目を向けようとする。私を自意識の薄い人間にしたのもこの色調なら、自分を捕らえようとする得体の知れない苦悩に親しく近づくためにたえず動き回るようになったのも、この暗い色調のせいだったからだ。
 私は十五歳にして、どんな経験によっても消し去ることができないような、人生に対する一つの信念を持った。人生とはどういうものかという疑問に対する、教育や説教などでは諭すことのできない一つの結論だった。それは、人が生きる意味は、人が無意味な苦悩の中から意味を搾り出そうと悶えるときにのみ訪れるという結論だった。
 十五歳のある日から、私はその結論に沿って生きる姿勢を獲得したのだけれども、おのずと私はその姿勢を活かせるような生活を追求する運命を背負った。そしてその生活の中で、他人の苦しみを洞察して全肯定する人間になり、苦しさを嫌う怠惰を徹底して許さない人間になった。自分と同じような考え方をする人びとに惹きつけられ、彼らが自分の人生を語るのを何時間でも聴くようになり、この世の定見に反逆する人間の側にいつも加担するようになり、何の助けにもならないけれども、感情のドラマに直面して畏敬と讃嘆を掻き立ててくれる会話というものを熱愛するようになった。そして、やさしくもあれば残酷でもあり、乱暴でもあればおとなしくもあり、毒薬にもなればいい薬にもなる、振幅の大きい奇妙な人間になった。
 千佳子と睦子、イネとキッコが戻ってきて、私と抱擁し合い、イネは台所へ去り、ほかの三人は直人の積木に加わった。菅野が、
「川上は十八でプロに入って、十九で首位打者と打点の二冠を獲ったんですよ。そりゃ天狗になったでしょう。でもホームランはたったの四本。二十一歳でまた二冠、またホームラン四本。妙でしょう? ホームランを狙わない時代だったんですよ。ホームラン王でもせいぜい八、九本まで。大下が入ってきて二十本打って、とつぜん華やかなホームランの時代になった。川上は調子を狂わされて、ホームランばかり狙いはじめた。もともと周囲に左右される人間で、わが道を往くのタイプじゃないんですよ。打率こそどうにか三割を打ってたけど、ホームランに拘るせいでもう首位打者にもなれず、三冠はほかの人間に獲られつづけました。大下や青田のようにやすやすとホームランを打つ選手が憎かったはずです。昭和二十三年に青田と並んでようやくホームラン王を獲れた。二十五本です。ほかの冠はだめ。王が巨人にいてよかった。ほかのチームにいたら、いまの神無月さんと同じ憂き目を川上から見させられてますね」
 私は江藤に、
「川上監督の言動を考えるヒントになりました。たぶん……無力感です。無力感を抱いた権威者だと思います」
 ラスコーリニコフとちがって彼は権威者なので、殺人こそ犯さないが、心の動きは同じだ。周囲から軽視されているという無力感から、自分というものの影響力を確かめようとして暴挙に出る。彼は追いつめられていない。追いつめられた人間は無力感ではなく絶望に冒される。絶望した人間は活動しない。江藤が、
「ワシもわかった。そこまでガックリきた人間に、トモヨさんが言ったような個人的な嫉妬はないかもしれん。たぶん性格的に変わらんのは、周囲の花形に左右されるゆうとこだけやろう。あこがれて近づこうとするんやな。現代の金融社会では野球選手なんかいっちょ役に立たん言うとったやろう。いまの花形は金のある企業やと信じとる証拠たい。プロ野球選手は慰みもんやとも言うとった。優勝して企業の機嫌ばとらんといけんとな。そのために必要な道具は長嶋と王やなかろうか。その二人のじゃまをする金太郎さんを潰したかったわけや。ビーンボールごときでな。腹立てて暴れてほしかったんでなかか? 単純な男やのう。アホらしゅうなってきた」
 私は、
「企業側としても、川上をやめさせたら、もう優勝させてくれる監督はいないですよ。水原監督も三原監督も巨人に愛想を尽かしてるから呼び戻せない。結局川上監督はやめさせられませんね。きょうやる会見も茶番でしょう。本人は出てきません。天下の大監督に頭を下げさせたら、企業の印象は大幅ダウンですから」
「ほうやろのう。テレビなんぞ観る必要なか。寮でバットでも振っとろう」
 カツ丼が用意された。太田と菱川がさっそくかぶりつく。
「うまい!」
 江藤も箸を立てる。
「ああ、ここの食いものはまっことうまかね! ホテルと比べもんにならん」
 私もタレの滲みたカツに齧りついた。
         †
 江藤たちが引揚げると、私も直人の積木に加わった。シンプルなピースをどう扱えばいいのかわからない。
「バス」
「ビルジング」
「ベッド」
 そんな言葉を呟きながら、直人は立方体や角柱の木切れを組み立てる。なるほどそう言われればそんなふうに見える。
「デンシャ」
「オウチ」
 熱心な作業を何度も繰り返す。人間が人間として生きるための本能的な活動なのだろうと思う。
「オヤマ」
「テレビトウ」
「ダンダン」
 階段のことだな。睦子が四角く囲んだ空間を作り、
「これは?」
「オフロ」
 即答する。
「よくわかったわねえ。いい子、いい子」
 頭を撫ぜる。ふと、ニューオータニで書きさしていた雅江への礼状のことを思い出し、トモヨさんの離れの机にいって、雅江ではなく、ユリさんと四戸末子に宛てて、

 元気でいることを祈っています。シーズンオフに逢いにいきます。日取りは直前にお知らせします。送った金は気にせず必要なことに使ってください。返信不用。

 という簡略なハガキを書いた。勝手口で下駄を履き、報道陣のいない裏門から出て則武の家に戻った。机から百万円を取り出し、郵便局に出向く。ユリさんと末子に宛てて五十万円の電信為替を送った。つまらないことをしているというやるせない気分がしたけれども、深くは考えなかった。
 私はもの心ついて以来、的の定まらないうすのろな頭のせいで、裏切りや絶望や唐突な別れといった、だれもかれもが経験するわけではない悲哀を経験してきたけれども、心ならずも有卦に入ったいまの生活は、大した苦楽のない単調な時間の中で流れているように感じられる。この先にしても、多少の迫害や誤解や中傷はあるかもしれないけれど、深い悲しみもなく、おそらく同じように起伏のない、のっぺらぼうの人生がつづいていくだけだろう。太陽とやさしい言葉だけ―人びととの好誼(こうぎ)をアクセントにして、のっぺらぼうの中に破滅の影が見え隠れするこの日常こそが、生まれたときから自分に予定されていたふさわしい生活だったように思われる。私は素直にうなずき、その時間の細部を微笑みながら生きていこうと決める。裏門へ戻った。やはりだれもいなかった。
 三時に近く、カズちゃんが店を抜けて戻ってきた。女将がカズちゃんに、
「たいへんやったんやない、門のとこ」
「うん。とばっちり食っちゃったわねえ。あ、キョウちゃん、お帰りなさい。おかげさまで、北陸シリーズ以来、毎日お店が超満員。半月分の売り上げが出ちゃった。あしたは四十号ね」
 千佳子が、
「これからは二試合に一本のペースでも、百本はいきます。打率は最終的に四割から六割のあいだ。ノーヒットの日が十試合くらいあっても、四割五分は固いです。ソロホームランが多いので打点は少ないですけど、二百五十はいくと思います。ダントツで三冠王はまちがいないです」
「寝て起きて野球、寝て起きて野球。楽しいね。よきにつけ悪しきにつけ、大学までのグランドとはちがったことが起こるし」
 カズちゃんはうなずき、
「川上監督、雲隠れしたみたい。今回のことがいい教訓になったわよ。もうだれもキョウちゃんにはチョッカイ出さないわ。これからはゆっくりと野球ができるわね。そろそろミズノの人がくるころでしょ。契約書を確認したら、私、すぐ戻るから」


         十

 言ったとたんにチャイムが鳴り、ソテツが門に出る。背広を着た二人の中年社員を連れて戻ってくる。一人はアタッシュケースと菓子箱を入れた紙袋を提げ、一人は胸に大きな段ボール箱を抱えている。荷物を置き、二人玄関で丁寧に辞儀をする。主人と私に名刺を差し出しながら、
「株式会社ミズノ執行役員の中英(なかひで)三治でございます。営業本部に所属しております」
「同じく執行役員の保田(やすだ)久則でございます。スポーツ事業部に所属しております」
 主人が、
「ま、どうぞ上がってください」
 ミズノの社員二人は、主人に居間へ招かれ、座布団を勧められる。女将の手で襖の戸が閉められた。主人のほかに、カズちゃん、女将、菅野、トモヨさんが同席した。頭頂の薄い二つの頭が畳に手を突いて深々と礼をした。菓子袋を女将に差し出した中英が、
「上野うさぎやのどらやきです。一家でお召しあがりください」
「どうも、ご丁寧に、ありがとね」
 中英は私に顔を向け、
「神無月さま、お初にお目にかかります。開幕以来、鬼神のごときご活躍、瞠目して拝見しております。お噂にたがわぬ美男子ぶり、思わず立ちすくんでしまうほどでした。ふだんテレビで拝見させていただいてはおりますが、認識を新たにいたしました。その美しいおかたにわが社の宣伝媒体を務めていただけるのは光栄のいたりでございます」
 もう一度二人深く叩頭する。保田が、
「このたびはまことに身辺あわただしいことで、ご同情申し上げます。コミッショナーが関わるこの種の風はすぐに凪ぎます。コミッショナーというのはもともと、こういう名誉毀損の問題には不熱心ですし、マスコミにしても、神無月さんの倫理的行動ではなく、野球選手としての活躍に関心がありますから、やがて熱が冷めます」
 主人が、
「川上監督はどうなりますかな」
「本人不在のまま、芝居がかった会見がすめば無罪放免でしょう。しばらくの謹慎ののち、ふつうにベンチに戻ります。国民にしても、一日も早く雑念なく神無月さんのプレイを見たいわけですから、この先各球団が神無月さんを危険な目に遭わせさえしなければ、自然に忘れていくはずです」
 ソテツが茶を持ってきて、頭を下げて出ていくと、保田は段ボール箱を開け、ジャージ五着とウィンドブレーカー五着を取り出した。一つだけビニール袋を破り、目の前に拡げてみせる。右胸にミズノのマークの入った立派なものだ。
「最高級の素材を使って仕立てものでございます。すでに神無月さまの体型に合わせて作ってございます。ふだんのランニング、球場等でのトレーニングの際に、これを着用していただくだけの契約条件です。着用していただく選手をアンバサダーと申します」
 カズちゃんが、
「広告塔という意味ね」
 保田はにこやかにうなずいた。私は、
「ぼくのやるべきことはじつに簡単ですね」
「はい、簡単です。使用者の権威を広告素材に反映していただくだけです。これを年間五十着お送りいたします。神無月さまの場合、ジャージ、ウィンドブレーカーが広告素材ですが、機会に応じてどちらを着用してくださってもかまいません。出演料のほかに、その謝礼として当社の久保田五十一が作製したバット、年間百本が無料支給されます。ご希望があれば、グローブ、スパイク、バッティング用手袋等も無料支給いたします」
「ベストの形をした夏用のアンダーシャツ五着、それから白のアンダーソックス十足ほどいただけませんか」
「かしこまりました。さっそくご用意させていただきます。当初、五千万円の契約を予定しておりましたが、社主が一億でも安いと申しまして、累年足し高を加えるという条件で、本年度は一億円で契約する書類をご用意させていただきました」
 中英がアタッシュケースから二部の書式を取り出し、私の目の前のテーブルに置いた。一つは『ブランドアンバサダー業務委託基本契約書』、もう一つは『個別契約書』と銘打ってある。第一条、第二条、どちらも第七条まであって面倒くさそうなので、主人やカズちゃんのほうへ押しやった。女将とトモヨさんは廊下へ出ていき、主人、菅野、カズちゃんの三人が端座して手に取り、じっくり読む。カズちゃんが、
「契約は自動更新となってますけど、契約をしたくない場合はどうなるんですか」
「三カ月前までに意思表示をしていただければ、契約を解除いたします」
 私が、
「ほかのコマーシャルに出てもいいですか。たとえば、車とか。―友人に頼まれてるんです」
「別業種なので支障ありません。同業種の場合は、ミズノの個別契約が優先されます」
 菅野が、
「このサービス不要、という項目は?」
「ミズノ関係の、ラジオ・テレビコマーシャルへの出演はなさらなくてよいということです。神無月さまが辞退しておいででしたので」
 一億円のアラビア数字のスタンプが捺されているページが見えた。中英が、
「ほかに疑問の点がございませんでしたら、神無月さまのサインと契印をいただきたいのですが」
 三人がうなずいたので、私は中英が指で示したところにサインし、カズちゃんの用意した実印を二枚の紙に架かるように捺した。中英はサインと印を確認すると、書式の片割れをテーブルに戻し、ホッとしたように残った片割れをアタッシュケースにしまった。
「そちらをご保存ください。まことにありがとうございました。アンダーシャツとアンダーソックスは、後日、お送りいたします。久保田氏のバットは、今年の十二月よりふた月ごとに、二十本ずつ、八月までの五回、計百本をお送りいたします」
 カズちゃんが大任を果たし終えた様子で立ち上がり、
「じゃ、私、仕事に戻ります」
 男たちにお辞儀をして出ていった。主人が、
「どうぞ、膝を崩して」
 二人の男たちは正座したまま、にこやかに冷えた茶をすすった。中英が、
「娘さんですね。絶世と言ってよいほどの美女だ」
「ガラッパチの三十女ですよ」
 主人が笑った。保田がまたしげしげと私を見て、
「早くも四十号ですね。飛距離は言わずもがな、この本数がすごい。あと十五本で、王の五十五本に並びます。今月はあと十三試合が組まれてますので、ひょっとして、ですね」
 中英が、
「五十六号は、江夏投手から打ちたいですか?」
「だれからとも考えたことはありません」
「阪神戦は来月の七日までないので、その前に達成してしまいそうですね」
「五十五本目で、各チームの妨害があると思いますから、そこで滞るでしょう」
「ここまでのハイペースを止めようとしても……いかがなものでしょうね。四カ月も五カ月も妨害しつづけるわけにもいきませんし」
「三冠王の表彰式みたいなものはあるんですか?」
 中英が、
「ございます。十二月下旬にスポーツ紙三社主催で行なわれます。音頭取りは中日スポーツになるんじゃないでしょうか。出席拒否も可能でしょうが、一年目は素直にお受けしたほうがマスコミ受けもよくなると思いますよ。ファンは、神無月さんがいつどこで表彰されているか知りませんけど」
 菅野が、
「こういう交渉を仕事になさっているなら、これまでさまざまなプロ野球選手を見てきたわけでしょう。バッターとしての神無月さんの最大の長所は何ですか?」
 保田が即座に、
「ふところの深さです。内角外角ギリギリのボールを、まるでストライクコースのように捉えるんです。いま球界でこの技術を持っているのは、江藤さんと、長嶋さんだけです」
 江藤という名を聞いてうれしかった。中英が、
「話が尽きなくなりそうですね。私どもは楽しいんですが、プロ野球選手は忙しいおからだですから、そろそろおいとましないと。貴重なお時間をいただき、本日はまことにありがとうございました」
 私は、
「玄関まで送っていきます。記者さんたちにひとこと言いたいんで」
 主人が、
「放っておけばいいですよ」
「いや、彼らはぼくが川上監督に怒っていると思ってるでしょうから、その誤解をといておきます。張り合いがなくなれば、もう押し寄せないでしょう」
 ミズノの二人と門前で挨拶し、運転手付きの車が去ってから、私は記者団に向かって、
「みなさん、粘られてもむだです。そばでネチネチしゃべられたり、ぶん殴られたりする以外、ぼくはどんな仕打ちにも腹の立たないタチなんです。今回の記事に関しても最初から心が動きませんでした。ビーンボールにも、悪口にも腹が立ちません。もっとやってくれという意味じゃなく、何とも思わないということです。ぼくが試合後のインタビューで生意気なことを言わなければ、こんなことも起こらなかったと思います。ほんとに口は災いのもとです。大監督川上さんを謹慎にしたら、巨人軍の活動に破綻をきたします。ドラゴンズが円滑な活動をしているのも、偉大なる水原監督のおかげなんです。むかしから大監督は意見を率直に述べるものです。鶴岡監督、三原監督しかりです。大騒ぎをせず、即刻川上監督の謹慎を解いて復帰させるべきです。以上」
 実況のカメラが回っていた。私はすたすたと引き返した。主人と菅野もあわててついてきた。ミズノのジャージに着替え、ふたたび直人と積木に精を出した。
 三十分もしないで小山オーナーから電話が入った。
「ありがとう! 神無月くん。いま白井さんや水原さんとも相談して、川上監督の懲罰を軽減するよう、コミッショナーおよび読売球団に申し入れたところだ。彼らも実況を見ていて、ひどく感謝していた。どうか、あしたから何の気兼ねもなく野球に精を出してください。じゃ、きょうはこれで。北村のかたがたによろしく」
         †
 夜、則武の私の寝室でカズちゃんの性器をじっくり見た。中二以来だった。六年間見ていなかった。見ていたとしても、ほかの女といっしょくたに流し見ただけだ。少し長めの小陰唇、薄茶色の包皮から覗く小指の先ほどのクリトリス、淡いピンクの前庭。しみじみと見れば見るほど、私の人生のすべてがここから出発したように感じられた。
「ごめんね、カズちゃん」
「何が?」
「長いこと大切なオマンコ見なくて」
「フフフ、へんな人。素ちゃんも言ってたけど、どうしてこんなものをなつかしがるのかしら。見なくたって、何百回もしてくれたじゃないの。見られただけじゃ女は天に昇れないのよ。してもらえば、高く高く天に昇れる。そっちのほうがどれほどうれしいかわからないわ。さあ、入れて、たくさん精をちょうだい」
 安住の地へ私は滑りこんだ。その土地は私を固く抱きしめ、荒れ狂いながら恵みの雨で濡らした。嵐が静まり、言葉の陽が注ぐ。
「鶴田荘で私は生まれたの。母親はキョウちゃん。だから私の命はキョウちゃんから生れたの。好きにしてね」
「ずっと好きにしてきたし、これからも好きにする。そしてカズちゃんと二人で落ちぶれて、世間の片隅で生きるのが理想だ。そうしたいんだけど、何もかもなんだかうまくいっちゃってるね」
「才能って、それほど力のあるものなのよ。才能あるほとんどの人は、芽が出ないうちに落ちぶれちゃうのに、キョウちゃんは芽が出てうまくいっちゃった。理由があるのよ。才能があって努力するだけじゃだめなの。そんな人はいくらでもいるわ。愛されないとだめ。愛される人には、芽の出る運がついてくるの。愛されるためには、人間性が豊かでないとだめ。これが難しいの。ほとんど先天的なものよ。貧しい人間性を抱えて、才能と努力だけでうまくいったように見える人は、いずれ舞台から降りるまぎわに本性が曝け出されちゃう。それではうまくいったことにならないでしょう?」
「川上監督のことだね」
「彼にかぎらないわ。そういう人を気の毒がっちゃだめよ。愛のない人に同情は禁物。そこを同情してしまうのがキョウちゃんだってわかってるけど、だめな人はだめ。ずっとキョウちゃんを苦しめるわよ。川上監督にしても、謹慎が解けたことをキョウちゃんのおかげだなんてぜったい思わない。えらそうにしやがって、と腹を立てて逆恨みしてくるわ。巨人戦はこれからもほんとに気をつけてね」
「すごい確信だね」
「千佳ちゃんに図書館から野球記録の本を借りてきてもらって、川上さんの若いころからの写真をほとんど見ていったの。悪人だった。ほとんど憂鬱そうにうつむいて、トロフィーを持っておすまししてるときだけは作り笑いしてる。西鉄の野武士軍団の写真と百八十度ちがう。劣等感のかたまりの顔。彼以外の大選手の顔は明るくすがすがしかった。大下さん、青田さん、千葉さん、中西さん、豊田さん、暗いと思っていた山内一弘さんの顔もすてきに明るかった。川上さんと野村さんと榎本さんは、暗いという意味では肩を並べるけど、野村さんや榎本さんには善人性が滲み出てたわ」


         十一

 五月十日土曜日。七時半起床。うがい。ふつうの軟便。カズちゃんとメイ子と三人で入浴。歯を磨き、頭を洗う。
 八時半。コーヒーを飲んで二人は出勤。私は北村席へ。快晴。二十四・二度。暑くなる気配だ。北村席の門に報道陣の影はない。飛び石を歩ながら一面の芝の明るい緑と木立の深緑を眺める。トモヨさんと池の金魚を眺めていた直人が走ってくる。
「そうか、土曜日はお休みか」
「うん」
「おとうちゃん、きょうもやきゅう?」
「そうだよ。あしたも、あさっても野球。おとうちゃんは野球という仕事をしてるんだ。たくさんの人に役立つ仕事だよ。だからお金をもらえる。お金をもらう仕事はたいへんだけど、やり甲斐がある。来年おかあちゃんのからだがよくなったら、おとうちゃんの野球を観においで。直人はおとなしいから、やかましくして周りの人に迷惑をかけないだろう」
 トモヨさん母子といっしょに玄関を入ると、新聞を持った主人とジャージを着た菅野が待ち構えていた。幣原が出てきて直人を抱き上げる。直人はよく彼女にくっついて台所でうろついている。適当に飽きると座敷へいって、トルコ嬢たちにじゃれつく。
「どうしたんですか」
 菅野が、
「テレビカメラの前でしゃべった神無月さんの意見が、大々的にいくつかの大手新聞に発表されたんですよ」
「世論がたった一日で静まって、川上監督も謹慎を解かれて現場に復帰したそうや。川上は取材をいっさい拒否しました。王や長嶋も同じです。日刊スポーツの寄稿要請に応じたのは三原監督だけやった。まず記事を読んでください」
 菅野が、
「読み終わったら朝めしを食って、コーヒーでも飲んでからランニングに出ましょう」
「はい」

 仲裁者は時の氏神。最高のタイミングで神無月くんは仲裁に入った。しかも喧嘩を売られた当人が喧嘩を買わずに、売った人間を制裁しようとした第三者に寛恕を懇願したわけだから、まさにその名のとおり神のミワザ以外の何ものでもない。感激するところ大である。
 ただ神無月くんにひとこと申し上げたい。飛びぬけた才能を持っている者は、謙虚でいるとナメられるか、あるいは嫉妬によっていじめられるので、できれば無理をしてでも威張り腐るか、尊大をてらってほしい。無能な人間は、威張る人間や尊大な人間にコウベを垂れる。貴君の経歴を閲(けみ)して忖度したところ、幼いころから貴君が他から掣肘を加えられる悲しい暦日を送ってきた原因は、ひとえに貴君の謙虚さと内気さにある。さらにしかし、貴君は威張ったり尊大を振舞ったりできない気質の持ち主である。これはいかんともし難い。どうか掣肘を加えずに放っておいてほしいと意地の悪い人間どもに頼みこむか、それが不可能なら、やむなく球界を去るしかない。
 この十年、球界にはONのような選手がなかなか出てこなかった。フレッシュな魅力を持つ選手はけっこういるが、もう一回り大きく、観衆を釘づけにするようなスターが出てこなかった。それが突如、人知を越えた桁外れの選手が星のように降ってきたのである。千年に一度出るか出ないかと思われるこのスターを、嫉妬によって放逐したとあっては、球史に恥ずかしい汚点が永遠に残る。それだけは避けたい。球界の各方面の人びとに猛烈な反省と自粛を強いるしだいである。
 神無月くん、くれぐれも短気を起こしてはならない。貴君は謙虚で内気な人間に特有の、きわめて爆発的な悍気の持ち主であるとも聞き及んでいる。爆発すれば、それこそ貴君を放逐したい人間どもの手に絡め取られたことになる。貴君は曲折した人生を経て、ようやくプロ野球界に安らぎの地を見出した。安息の地を棒に振ってはならない。どうか、球団フロント、水原監督ならびにドラゴンズの諸兄に、神無月選手保護のために最大限の尽力を惜しまぬようにとお願いしておきたい。

 中日スポーツはフロントページ以外の二面を使って、ホームランボールの行方を見つめる私のフォロースルーの全身写真を載せていた。見出しはなく、そのまま壁に貼ってくれとでも言うようだった。最終面には、これまでいろいろな場面で私がしゃべった片言隻句を名言集であるかのごとく螺旋状に散りばめていた。これも壁に貼ってくれと言わんばかりだった。
 ソテツ、イネが中心になっておさんどんが始まる。トモヨさんも、土曜休みの直人も、トルコ嬢たちも主人夫婦といっしょに食卓につく。最近ではこの時間帯にラジオを流している。五分刻みでいろいろな番組をやっていくので聞き流せる。適当に連続ドラマも流すし、新旧の音楽も流す。
 和洋の献立。ベーコンエッグ、長芋の明太子和え、シシャモ二尾、大根の朝鮮漬、板海苔、麩の味噌汁。
 ミズノのジャージを着て、菅野とランニングに出た。きのうの夕方からウソのように報道陣が退いている。則武のガードから名無しの道へ。暑い。きのうにつづいて日中の気温が三十度を超えそうだ。福井以来三十度近い日が多くなった。きょうは風がないので、試合で汗をかきそうだ。菅野が、
「三原さん、言ってくれましたね。胸がスカッとしました。しかし、神無月さんが彼の言うような女々しい人間でないことは、そばにいる私たちにしかわかりません。プロ野球界に安らぎなんか見出してないこともね。でも、そう思わせときましょ。みんなでビクビクしてくれてたほうが都合がいい」
「アメリカの黒人作家のボールドウィンも言ってる。人が憎しみに執着する理由は憎しみが消え去るとそれが痛みに変わるからだ、って。だから、憎しみは消えないんだよ。ドラゴンズが五年連続優勝でもすればそんな憎しみも消えて、だれも何も言わなくなるだろうって思いたいけど、だめだろうね。とにかく、がまん、がまん」
「はい。……五年でやめないでくださいよ」
「やめない。みんなのリズムが狂う。ぼくが黙ってることがこんなに騒ぎになるなら、黙らずに思い切り暴れたほうがいいのかもしれない。いってこいの喧嘩両成敗でね」
「そのほうが円く収まるかもしれませんね。おたがいちょっと呼び出されて終わり」
「だれが見ても怒って当然というときにね」
 浄心行の市電に追い抜かれながら走る。 
「ナイターの眼鏡顔、すっかり慣れましたよ。ときどきキラッと光るのが格好いい。あしから大洋戦ですね。あさってはダブルヘッダー。疲れるでしょうけど、十二日は休みですからのんびりできます。や、そうもいかないか。十三日の午前に出発して二十二日まで十日間の遠征ですね」
「義務感はないんです。だから疲れない。退屈しなくて、かえって救われてる感じです」
「救われてるのはいいですけど、倒れないようにしてくださいよ。それこそ救われなくなります」
 花屋に寄らず引き返す。
「オープン戦を含めて、大洋が中日球場にくるのは初めてだな。ま、そんなことはどうでもいいや。対戦したピッチャーを思い出せないんです。平松しか」
「バッターボックスに立てば思い出しますよ」
「それじゃやるせない。ふだん記憶力がいいなんて言われてるのに、詐欺師だね。ピッチャーによほど個性がないと、ボールにばかり注意が向いてしまう。……花屋に寄ればよかったかな」
「私が一週間に一度くらい寄ってますから、気を使わなくていいんですよ。きょうあたりは川上監督の話で持ちきりでしょうから煩わしいです」
「うん、煩わしい。マスコミって、騒ぎのもとを好んで作るね。もともと騒ぎたい性格の人間がマスコミにいくんだろうなあ」
 十一時に席に帰り着いて、菅野とシャワー。コーヒーを飲み終わると、主人と菅野が出かける。千佳子と睦子は大学に出ている。女将は帳場。直人を腹に乗せてじゃれる。トモヨさんが、
「さ、あと一時間もしたらアイリス組が交代でお昼を食べに戻ってきますよ。お義父さんたちも帰ってくるし」
 厨房があわただしくなりだした。女将に、
「千佳子たちは遅いの?」
「三時か四時くらいやないかな。ムッちゃんは金魚の世話したら、夜にくるんやない?」
 バットを振りに庭に出る。宗近棟梁が庭石伝いに歩いてきたので挨拶した。彼は頭を低くして笑いながら、
「天皇金田がインタビュー受けてましたよ。他人のよさを認められないのは人間として醜いと言ってました」
「チーム内での立場が悪くならなきゃいいけど」
「だいじょうぶですよ、天皇ですから」
 いっしょに玄関についていき、厨房に呼びかける。
「トモヨさん、空の一升瓶ある?」
「あります!」
「二本ちょうだい」
 イネといっしょにあたふたと一升瓶を持ってくる。
「何に使うんですか」
「手首をね。ありがとう」
 ぶら提げてまた庭に出る。ビール瓶に砂を詰めてやる選手は結構いるが、空の一升瓶はいない。人のやらないことをやる。
 手首を利かせて持ち上げてみる。バットより少し重い。久保田さんが最終的に決断して製作した私のバットの重さは、九百四十グラム。日によって軽く感じることも重く感じることもある。軽いまま、重いまま振る。外国人選手の中には千グラムを使うやつもいると聞くが、重すぎるとバットコントロールが利かない。インパクト部分の最大直径は六・五センチ。太いほうだ。長さ九十センチ。長いほうだ。〈物干し竿〉の藤村富美男は九十二・五センチ。握りの部分は太すぎず細すぎず、滑り止めは、息を吹きこむだけ。異物を付着させたり、ザラザラさせたりはしない。
 一升瓶の上下動、左右二十回ずつ。手首の疲労なく終了。初日は無理をしない。十日にいっぺんぐらいやってみよう。ふた月もやれば手首が軽くなるだろう。パンツ一枚になり、三種の神器に入る。芝が背中に心地よい。主人たちが帰ってくる。
「やってますな!」
「三連戦で暇がなくなるんで、きょうたくさんやっときます」
「遠くからでも筋肉がハッキリ見えます。金田がインタビューで川上批判をしたみたいですよ」
「いま棟梁に聞きました。登板数、減らされますね」
「四百勝がかかってるんですよ。フロントが許さないでしょう」
 アイリスの第一陣、制服を着た素子とキッコと丸が帰ってくる。私のパンツ姿を見て、三人で抱き合ってはしゃぐ。彼女たちについて戻り、そのままシャワー。サッパリしてミズノのジャージを着る。みんなが座敷でワイワイやっている。早番の女たちが昼めしに戻ってきて雑ざる。主人と菅野も雑ざる。主人が、
「なんですな、緊張で野球選手の顔色が変わるのには二種類ありますな。血管が拡張して赤くなる選手と、血管が収縮して白くなる選手。赤くなるのは長嶋、白くなるのは金田」
「キョウちゃんは?」
 主人は、
「蒼白いまま。アハハハ。デーゲームやとただ青っぽいだけやけど、ナイターのカクテル光線を浴びると、青が混ざってる分、冴えざえと凍りついたように見える。あれはきれいやなあ! あの顔が森を怒鳴りつけたんだ。森も怖かったろう。川上も怖かったはずや。それであんな憎まれ口になった。負け犬の遠吠えやな」
 私は菅野に、
「金田は、詳しくは何て言ったんですか。負け犬なんてこと言ったら、正直、もう巨人にはいられませんよ」
「……球場内にあっては、監督は最大の権力者である。相手が神無月くんだろうが、江藤くんだろうが、いくらでも暴言を吐けるし、暴挙にも出られる。それがいくら理不尽であっても、日本の球界を支えている功労者に無闇に逆らうことはできない。そんなことをすれば、のちに禍根を残すだけだ。しかし、球場外にあってはタダの人だ。暴言暴挙は簡単に見逃せない」
「きついことを言ったんですね。心配だ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、大局的に見れば金田のほうが日本球界の功労者ですから。しかし、長嶋も王も口チャック決めこんで、意気地がないですよね」
「尊敬してるんでしょう。尊敬する人が憎むものは憎い。ぼくは憎まれて暮らすほうがファイトが湧く」
 主人がファファと笑い、
「憎まれっ子ですか。三原さんは、神無月さんに世にはばかってほしいんやな」
 賑やかで楽しい昼食になる。ソテツとイネと幣原が溌溂とおさんどんをする。トモヨさんが直人に食べさせる。野菜餡かけうどん。
「このごろたくさん食べるようになって。これが大好物なんです」
 具を見ると、豚肉、キャベツ、ニンジン、シメジ、油揚げ。栄養満点だ。私たち大人もシンプルだが栄養満点。揚げたてのトンカツ、豆腐と野菜がたっぷり入った豚汁、スプーンで食う納豆とアボガドとキュウリとトマトの和風サラダ、そしてめし。肉がいやで軽くすませたい人には、味噌煮こみうどんか天ぷらきしめんと、めし。私はトンカツのほうをたちまち平らげた。


         十二

「ソテツ、二時半に出かける前に、天ぷらきしめんね」
「はい、二時ごろですね。そんなものでいいんですか?」
「だいじょうぶ。ただし、大盛りにして」
「はい」
 キッコが不安げな顔で、
「どうして神無月さんが川上監督にいじめられたん? 口は災いのもとってテレビで言っとったけど、なんか相手の気に触ることでも言ったん」
「金ではなく野球に情熱を持てって言っちゃった。二十歳が五十歳に」
「ほうやった、インタビューでそんな意味のこと言っとったね」
 丸が、
「齢なんて関係ありません。私もあのインタビューはテレビで観ましたけど、何もへんなこと言ったと思わなかった。一から十まで正しいことなので、感動しました」
 素子が、
「正しいことやから、頭きたんよ」
 素子たちが手早くめしをすましたころに、カズちゃん、百江、メイ子、天童が戻ってきた。主人が、
「きょうワシらと観にいくのはだれや」
 はい、とメイ子が手を挙げる。
「レジを素ちゃんと代わって、三時半に上がらせてもらうことにしました」
 素子が、
「あしたは千佳ちゃんとムッちゃんやろ」
 菅野が、
「私、あしたの二戦目のほうに、〈自腹〉で店の女の子を五人連れていきます。ライトスタンドですけど」
「自腹って、五人で五百円やないの」
「はい。それでもハイライト五箱よりは出費です。千鶴ちゃんが連れてけってうるさいもんで」
「あの子、キョウちゃんのユニフォーム姿見たらシビレてまうわ。へんに寄ってこんとええけど」
 カズちゃんが、
「寄ってこないわよ。お家の借金でたいへんなときでしょ。ちょっとした息抜きよ。それにしても、キョウちゃんのユニフォーム姿って、どうしてあんなに美しいのかしら」
 私は、
「膝から下がポイントだね。ストッキングとアンダーソックスの混ざり合った色合。それからズボンのまくり具合。ふくらはぎのちょうど真ん中に持ってくると、ユニフォーム全体がみごとなバランスになる。これがまくりすぎてたり垂れ下がりすぎてたりすると、滑稽に映ったり、ドンくさく映ったりする。江藤さんや王は上すぎたり下すぎたりちょうどよかったりいいかげん、今年阪急に入った福本は上げすぎ、ちょうどいいのは長嶋。ぼくは小学校から彼の着方をまねしてる」
「ふーん、私、顔が美しいからユニフォーム姿も美しく見えるんだと思ってた」
「ちがうよ。スタンドから顔は見えないもの。さっきお父さんも言ってたけど、色しか見えない」
「そうかなあ」
 素子たちが茶を飲み終え、
「じゃ、キョウちゃん、きょうもがんばってね」
 三人立ち上がり、キスをして出ていく。バトンタッチの手際がじつにいい。カズちゃんたちも箸を使いはじめる。天童が、
「神無月さんのユニフォーム姿もきれいですけど、プレイがかかる前の内野手のキャッチボールも美しいですね。すごくボールが速くて」
「ああ、あれは草野球ではあまりやらないね。あのボールの回し合いには意味があるんだよ。ウォーミングアップ、送球ミスの予防、チームの気力の引き締め。エラーの中で一番多いのは送球ミスだ。これを防ぐのがいちばんの目的だね」
 菅野が、
「ボールの回し合いは見ていて惚れぼれしますね」
「はい、外野より内野のほうが大事なんです。一塁でだれかがアウトになると、ファーストからセカンド、セカンドからショート、ショートからサード、サードからファーストへ回す。イニング開始前だと、ファーストからサードへ回して、ショート、セカンドという順でファーストへ戻すというのもあります。あれを実戦のスピードでやるから驚くほど美しく見える。ところでお父さん、アトムズの監督は別所という人なんですけど、小三か小四のころ、チラッと近所の家のテレビで見たことがあるんです。全身をあまり使わず腕だけで投げているようなフォームでした。大投手だったと言われてますけど、どういう選手だったんですか」
「小三小四というと、神無月さんが九歳か十歳やね。昭和三十四、五年ごろや。ちょうど別所の最晩年です。全盛時代は昭和二十年代の十年間。二十四年に三原が南海から引っこ抜いた剛球投手で、それまで九十勝挙げてたほどの剛腕です。巨人にきて二百二十勝挙げました。三百十勝で引退。いまのところ、金田に次ぐ歴代二位です。決め球は右バッターのインコースにねじこんでくるようなシュート。バットを出せば、ボッキリ折れるどころか、腕が痺れて二、三日使い物にならないと言われたほどでした」
「重くてするどい変化球だったんですね」
「根性のある男でしてね、昭和十六年の選抜の準々決勝のとき、ホーム突入で左肘を骨折して、それでも三角巾で左腕を吊って延長十二回まで投げたんだが、激痛で降板、十四回にサヨナラで負けた。《泣くな別所、センバツの花だ》と讃えられました。日大に一年いて、巨人と契約したんやが、母親が勝手に南海と契約しちゃった。親権者の契約が優先するということで、そっちが成立。形はちがっても神無月さんと似てるね。もちろん別所のほうが野球をやれるだけ幸せな形やけど。昭和十八年に十四勝挙げて、ノーヒットノーランまでやり、戦後の二十一年も十九勝、翌年三十勝で初代沢村賞、その翌年も二十六勝。すさまじいでしょう。シーズン四十七完投というプロ野球新記録を打ち樹て、二十六対ゼロで完封という記録も打ち樹てた。そこで巨人への引き抜き事件が起きた。昭和二十四年ですから、神無月さんの生れた年やね。二カ月の出場停止処分を食らったあと、めでたく巨人の選手として出発し、それから十二年間エースの座に君臨した。一度も肩肘壊したことあれせん化け物や。昭和二十七年に三十三勝、三十年に二度目の沢村賞、三十一年二十七勝。奪三振は金田の半分程度やから、剛球やけど速球ではなかったゆうことやね」
「それ、いちばん打ちにくいタイプです。ホームランを打つのがたいへんです」
「十七年で百六十本ぐらいしか打たれとらん」
「やっぱり」
「金田はいまのところ、三百七十本打たれとるからね」
「いま、そんな砲丸投げみたいなピッチャーはいませんね」
「一人もおらん」
「ホームラン打てるのはラッキーだと思って、いまのうちにどんどん打たなくちゃ。別所みたいな男が出てくるかもしれない」
「神無月さんの場合、関係ないわ。別所やろうが、金田やろうが、いまのペースで打つしょう。三原監督は千年と言っとりましたが、私は、永久に現れんと思っとります」
 菅野が、
「言わずもがなですよ」
 カズちゃんたちが食事を終え、会話にひと段落ついた。イネの手でコーヒーが出る。主人夫婦と菅野が帳場に入った。私はコーヒーを一口すすると、
「ちょっと則武でレコードを聴いて、二時にきます」
 トモヨさんが、
「ユニフォームは離れに用意してありますから」
「うん、ありがとう」
 天童が、
「あの大きな新聞写真、私が部屋に貼らせてもらうことになりました。毎日眺めながら寝ます」
「そう、ありがとう」
 わいわい陽気なカズちゃんたちにくっついて出かける。
         †
 睦子のLPを物色し、モーズ・アリソンを聴く。アメリカの白人男性。四十代。ブルースの色が濃い声。みごとな唄いぶりではないが、音調は明るく、舌が滑るようで軽快だ。好みではない。でも、こうして一曲一曲聴いておく。
 イフ・ユー・リブ、ストップ・ジス・ワールド、エブリシング・アイ・ハブ・イズ・ユアズ、ローリン・ストーン、アイ・エイント・ガット・ナッシング・バット・ブルース、デイズ・ライク・ジス、フールズ・パラダイス、エブリバディ・クライン・マーシー。これがいちばん耳にシックリきた。
         †
 大盛り天ぷらきしめんを食う。美味。
「ごちそうさま。とてもうまかった」
 ソテツはイネの手を握ってうれしそうに笑った。
 二時十五分。気温三十・一度。湿気は感じない。直人に見守られながらユニフォームを着、ダッフルを担ぎ、帽子をかぶって玄関を出る。門までトモヨさんと、直人を連れた女将が送ってくる。門前に記者連中が二、三人いる。マイクもテレビカメラも、松葉会の組員の姿もなかった。男三人、クラウンに乗りこむ。助手席に主人、後部座席に私。
「メイ子は名鉄でくるの?」
「そうです、アイリスが終わりしだい。しかし、川上監督の件、こんなに簡単に落ち着くと思いませんでしたね」
「神無月さんの人徳の賜物やがね。山口さんが電話してきましたよ。いつも死ぬつもりでいる神無月は、少しずつ殺されることに慣れてる、なかなか死なないんでそのうち向こうがあきらめるから、って」
「山口さんらしいや。神無月さんが死んだら、私……」
「みんな抜け殻やろな。……巨人戦で一悶着なきゃええんやが」
 菅野が主人の横顔に笑いかけ、
「巨人戦は今月の二十五日にポツンと一試合あって、あとは来月の十三日からですね。さすがにひと月も経てば、悶着は起こらない状況になってるんじゃないですか」
「何が起こるかわからんですよ。二十五日は危ない。川上は神無月さんに短気を起こさせたいんです。とにかく油断できん」
「〈紳士〉巨人のやることですかね」
「巨人やなくて、川上や」
 尻ポケットにお守りといっしょに入っている選手名鑑のパンフレットを取り出し、大洋の選手名と顔を暗記する。いつまでも太田に頼っていられない。菅野が、
「オープン戦を入れれば、もうどのチームとも三回り目ぐらいになるでしょう。だいたい頭に入りましたか」
「主要な選手しか入らないんですよ。そうでない選手はすぐに忘れてしまう。大洋は平松と近藤和彦ぐらいかな。ほかの選手も、見れば、ああこいつかと思い出すでしょうけど。……むかしのエイトマンと対戦したかったな」
 主人が、
「メガトン打線、桑田武。プロらしいプロでしたね。おととしまで二百二十本もホームラン打ってたのに、去年は、松原を贔屓して試合に出してくれない別当ともめて、今年追い出された。つかみ合いの喧嘩までしちゃったんだからね。どうにか交換トレードで巨人にいったけど、〈紳士〉じゃないから使ってもらえないだろうなあ」
「まだ代打で二打席しか使われてませんよ」
 私は、
「同じ才能なら、華のあるほうを贔屓したくなるのがふつうなのに、別当監督も川上監督もふつうじゃないですね」
「川上の場合は、暴力沙汰が頭から離れないんでしょう。臆病な男だから。別当さんは自分が花形だったので、できあがってる選手より、できあがってない選手を育てるのが趣味だったんですよ。桑田はその趣味の犠牲にされた」
「善人の皮をかぶった独裁者だ。根気よく使ってもらって大成した選手は感謝感激雨あられでしょうが、才能の爛熟期にナマ殺しにされた選手はたまりませんね。そして巨人移籍か。また独裁者のところへいっちゃったな」
 球場の駐車場はファンでぎっしりだった。選手通用口までロープが張られている。田宮コーチと鏑木が待ち構えていて、車のドアまで迎えに出た。田宮コーチが、
「あたりに警戒して!」
「はい……何か危ないことが……」
「たとえ大洋戦でも、観客には巨人ファン、川上ファンが多いからね」
 グローブとスパイクとタオル類を詰めたダッフルをトランクから取り出し、主人と菅野に手を振って別れる。松葉会の組員らしき男たちが何人かいて、ガードマンと協力して群衆を仕切っている。ロープの張られた道を通用口まで歩く。
「がんばれよ、神無月!」
「俺たちがついてるからな!」
「何かあったら雪崩れこんでやる!」
「球界の宝がカスに負けんな!」
 仕切り縄を押してきて、肩を叩き、背中を叩く。彼らに小さくお辞儀を繰り返しながら通用口を入った。入り切ったことを確認すると、組員たちが深く礼をした。



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