十三
田宮コーチが、
「ファンも選手もみんな怒ってる。水原さんがいちばん怒ってるが、顔には出さない。金太郎さんも冷静に頼む」
「ぼくはだいじょうぶです。先発オーダーはだいぶ代わりますね」
「金太郎さんと江藤と中と高木は代えない。特に利ちゃんは、千五百安打がかかっているからね。この三連戦は、その四人だけを固定して、あとはどんどん代える。へんなことが起こらないうちに試合をチャッチャと終わらせたいんでね」
水原監督とコーチ陣がロッカールームの入口に迎えた。
「金太郎さん、とんでもない災難だったね。私の口も災いのもとだったかもしれん。きょうから金太郎さんと私のインタビューはすべて禁止にしてもらった。この三試合はさっさと勝って、さっさと引き揚げよう」
「はい、こちらこそご迷惑かけてすみませんでした。とにかく、何があっても暴れませんので安心してください」
「うん、暴れるときはちゃんと要員がいる。ね、宇野くん」
「はい、退場食らっても、世間からなんのスカンも食らわないようなやつはいくらでもいます。私を含めてね」
三時。ドラゴンズのバッティング練習開始。レギュラーたちが私をガードするようにズラリと取り囲んだ。球場の中にいてまでこんな過剰な反応をするのは滑稽に感じるが、彼らの心根をありがたいと思う。江藤が、
「いくら大洋戦でも、巨人ファンが恐ろしかけんな。レフトはあまり深う守備位置とらんほうがよかぞ。瓶が飛んでくるかもしれん」
高木が、
「三原さんの記事や金田さんのインタビューがあるから、だいじょうぶだろうとは思うんだけどね」
「念には念入れないかん。金やんは命懸けでしゃべったっちゃん。ありがたか」
島谷、太田、江島、千原、伊藤竜、葛城、徳武、新宅、江藤弟、高木時、吉沢までみっちり一時間打ちこむ。島谷も江島も伊藤竜も当たっていない。内野フライか逆方向のファールばかりを打つ。
「ファールボールにご注意くださいませ」
下通のやさしい声。レギュラーは三本ずつ。だれもホームランを打たず、外野へのライナーですます。守備練習も控え選手のみ。
四時。大洋の選手たちがグランドに混ざり合ってきた。スタンドの通路にも、看板の下にも観客があふれた。大洋のバッティング練習開始。ホームランをすでに七本打っているキャッチャーの伊藤勲、四本打っている中塚、三本打っている松原、このあたりが要注意だ。昭和三十五年に、巨人の藤尾というキャッチャーが、開幕四十二試合目で九号を放ったことが新聞に大きく載ったのを憶えている。大したペースではないが、王が怪物に変身する三十七年までは、巨人軍の中では頭抜けたペースだったのだ。結局彼はシーズン十五本で終わった。伊藤勲は二十二試合で七本。藤尾をはるかに凌ぐペースだ。いまのところ王は、まだ五本しか打っていない。三十九本という私の本数は論外ということになる。
中日ブルペンでは小野、大洋ブルペンでは大柄な高橋重行と、小柄な左ピッチャー平岡一郎が投げている。高橋重行からは唯一の三振を喫している。平岡は登板数二年連続ナンバーワンの男。王キラーと言われている。ワンポイントか、一イニングだけ投げて引っこむピッチャーだ。きょうは要所で私にぶつけてくるだろう。なぜ王が打てないのかよく見きわめておこう。
スターティングメンバー発表。眼鏡をかける。大洋ホエールズ、一番から近藤昭仁、近藤和彦、重松省三、松原誠、伊藤勲、中塚政幸、ロジャース、林健造、高橋重行。
ロジャースは初めて見る。パンフレット。百九十一センチのバカでかい黒人。昭和三十五年のサンフランシスコ・ジャイアンツのメンバーだったようだが、記憶にない。打球を上からかぶせて吸い取るように捕球するので、黒いタコと呼ばれているようだ。ショートの守備練習を見たかぎりでは、ただ上からハエでも叩くようにグローブをかぶせて取っているだけだった。
トンボが入る。ライン引き。スタンドに不穏な空気は流れてない。ビールを飲んだり、アイスクリームを舐めたり、自家製のサンドイッチをつまんだりしている。中日球場の店頭販売の食いものは高くてまずいことで有名だ。味噌串カツも、たこ焼も、だれも買わない。
中日ドラゴンズのスタメン発表。中、高木、江藤、神無月、ライトに江島、ショート島谷、サード徳武、キャッチャー吉沢、ピッチャー小野。ついに吉沢さんが先発だ。ブルペンで小野の球を張り切って受けている。
球審岡田、一塁太田、二塁松橋、三塁鈴木、線審レフト平光、ライト山本。ドラゴンズが守備に散る。レフトスタンドを見やる。それだけで歓声が沸く。
「すてきー!」
「ええ男!」
「百本打て!」
四十号まであと一本。
まぶしい八基の照明塔、CBCテレビの宣伝が目立つバックスクリーン、緑色のスコアボード。中日球場のスコアボードは十三回まで切られている。途中経過のボードは、巨人―阪神、サンケイ―広島。まだ何も書きこまれていない。デーゲームのパリーグは二試合終了。阪急―東映、三対二、西鉄―近鉄、三対五。エンゼル球場や熱田球場で試合をするのが夢だった。いまは? 現実との境目がわからない。胡蝶の夢。私であり、蝶である。どちらも自分であることを感謝して受け入れる。
中とキャッチボール。中のボールが美しく私に迫り、私のボールが美しく中へ伸びていく。内野ではボール回し。江藤、高木、島谷、徳武と正しいリズムで回る。そのとき、何を思ったか徳武がサードからショートへ返すボールを島谷ではなく、二塁ベースの近くに立っていた松橋塁審にかなり強く放った。高木がギョッとした顔をしたが、マッちゃんは素手で軽くキャッチして高木へ転送した。さすがもとプロ野球選手だ。観客席がヤンヤの喝采になった。目玉のマッちゃんは照れくさそうに後ろ手を組み、バックスクリーンを見やった。徳武の声が聞こえた。
「マッちゃん、まだいけるじゃない!」
徳武は、きょうはもうこのパフォーマンスだけでお役御免という雰囲気を背中にただよわせながら、小野にポンとボールを渡した。きょうの彼は打つだろうと思った。
レフト線審平光さんの傍らに立ち、うつむきながら小声で話しかける。三十一歳の若手の審判。インサイドプロテクター、片膝を突いて判定するニースタンス。ストライクゾーンが広いのでよく選手たちから渋い顔をされている。
「故意のぶっつけか、すっぽ抜けかはわかりますか」
平光もうつむいて答える。私は彼の温和な細面が気に入っている。
「球が速くてすっぽ抜けがちなピッチャーは何度か経験することでわかります。そういうピッチャーの審判をするときは、顔のあたりにこないかとヒヤヒヤしますね。右ピッチャーのシュートが右バッターの顔にきたらまずよけられない。堀内選手が高木選手にぶつけたのがそれです。スポーツとしてのあり方を考えれば、よくすっぽ抜ける投手は試合では使ってほしくない。打者に死球の恐怖感を与えて勝負するというのはスポーツマン精神に反します」
温和な顔が微笑んだ。
岡田球審のプレイボール。一番、近藤昭仁、背番号1。十年選手。小さい。大毎時代の小野は昭和三十五年の日本シリーズ第四戦で、この男に先制適時打を打たれている。近藤はその日本シリーズの最優秀選手になった。二割五分がやっとの打者。ホームランも年間五本前後しか打たない。野球選手の印象は、チャンスに強いかどうかで決まる。名前を覚えられる選手のほとんどはレギュラーで、かつ、スコアリングポジションでの打率が高い。つまり打点が多い。近藤昭仁の打点は多くない。彼の名声はその日本シリーズで決まったようなものだ。人生一回のマグレ男に、小野はトラウマなど感じていないはずだ。それなのに、ツーストライクと追いこんでから弱気の外角勝負をしてライト前のヒットを打たれた。江藤が足の速い近藤の背中にピッタリくっつく。リードを大きくとらせず、盗塁を防ぐためだ。
二番、近藤和彦。打撃フォームの異常さで有名な男だ。一回見たら一生忘れない。左バッターの彼は右手でグリップエンドを握り、左手の二本指にバットの腹を軽く乗せて、天秤を担ぐような形で構える。天秤打法と言われている。チョンと軽打するようにしか見えないが、四十パーセントの長打率を誇っている。ホームランも一シーズン十本前後打つ。彼を最初に見たのは、浅間下の福原さんの家のテレビでだ。正真正銘の好打者だった。それほど大柄に見えないが、江藤とほぼ同じ百七十九センチ、七十九キロ。初球外角高目カーブ。流し打った打球が、ファールフェンス沿いに飛んできた。徳武と私でスライディングキャッチを試みる。二人とも失敗。そのときスタンド前列から、
「きれいごとばっか言ってんなよ!」
という野次が投げつけられた。ブルペンで投球練習していた池田重喜が思わず立ち尽くし、サードの徳武があてもなくスタンドを睨みつけた。水原監督が何ごとかとベンチから出た。私は徳武に向かって両腕で×印を作った。
「さ、徳武さん、冷静にいきますよ」
「オッシャ!」
気を取り直すというほどのこともなく守備に戻る。川上と同じ考え方をする人びとがいることは少しも不思議ではない。私はかえってさっぱりした気分になり、腰を落として身構えた。水原監督がベンチの脇に立ったままでいた。近藤和彦はじっくり選んでフォアボール。ノーアウト一、二塁。小野の球は走っているので心配ない。
三番重松。近藤昭仁より小さいが、意外な長打力の持ち主だとわかっている。何年か前のオールスター戦で尾崎行雄からホームランを打った男だ。ツーツーから私へ大きなフライ。フェンスギリギリで捕る。スタンドからするどい怒声。
「こらァ、地獄野郎!」
二塁の近藤昭仁がタッチアプしたので、徳武へワンステップで強いボールを送球する。ノーバウンドでストライク。近藤昭仁は四、五歩走ったところであわてて戻った。大歓声。レフトスタンドからは野次。
「フェンスもっと前に作らんかい!」
これで初回、なんとか凌いだなと思ったら、四番松原にパチンとセンター前に打たれた。近藤昭仁還って一点。敵の先制点。こうなると中日は勢いづく。そのことはどのチームも知っている。小野は中塚をうなるような速球でセカンドゴロゲッツーに切って取った。
「何かあったの?」
駆け戻った私に水原監督が訊いた。
「かわいい野次が飛んできただけです」
徳武が、
「きれいごとばかり言うんじゃないと、まあ、川上監督の受け売りですな。彼の支持者もいるということです。当分、あの手の野次は聞き流しましょう」
「警戒を強めよう。足木くん、警備のほうへひとことかけておいて」
「はい」
足木マネージャーはベンチ裏へ出ていった。コーチャーズボックスに向かう水原監督の背中を見ながら菱川たちがざわついたが、
「集中せんね!」
江藤の一声で鎮まった。
中が強い素振りをしてバッターボックスに入った。大洋の攻撃のあいだ静かにしていた一塁側スタンドがにわかに騒がしくなった。中日の怒涛の攻撃を予感しているからだ。先取点を取られた中日はかならず荒れ狂う。
「一番、センター、中」
ウォーと歓声が上がる。ファンたちは、中があと一本で千五百安打に達することを知っているのだ。中は高橋重行の初球を痛打した。サードライナー。スタンドからアーというため息が漏れる。外角のシュートだった。高木、内角のシュートを打ってサードゴロ。筋肉の硬そうな松原が基本どおりの姿勢で捕球して送球する。江藤、外角のカーブ、外角のストレートと見逃し、ワンワンのあと、内角高目のシュートをきっちりレフト前へ持っていった。シュートがキーポイントだ。きょうは四打席四ホームランでいけるかもしれない。
「四番、レフト、神無月」
なんともシンプルな下通のアナウンスだ。耳に心地よい。
「ウォォォ!」
といつもの歓声が上がる。バックネットを振り返り、ヘルメットを直す。主人と菅野とメイ子が手を振る。
「お願いします」
岡田球審に小声で挨拶して打席に入る。伊藤勲がビックリして私を見上げる。初球の外角シュートを左中間へ打つと決めている。高橋はかならずベースから一つ外したボール球を投げてくる。バットの先でベースの外角の端をコンコンと叩いて飛距離を測る。両翼九十一・四四メートル、中堅百十一・八九メートル、フェンス高一・七メートル。ボール一つ外れても芯を食って左中間に飛びこむ。私の仕草で外角が危ないと思ったのだろう、初球、内角膝もとのカーブ、ボール。今度はベースの内角の角をコンコンとやった。水原監督のパンパン。まるで合いの手だ。二球目、真ん中低目の速球。
「ストライー!」
ホオオ! というスタンドの嘆声。手を出さない。彼の得意ボールを左翼へ打ち上げると決めている。三球目、お決まりの胸もとすれすれのクソボール。スタンドがドッときたが、私がピクリとも動かないので、ホーと静まる。四球目外角へ逃げる速いシュート。
―いただき!
左翼の空の高みをイメージして振り抜く。瞬間、江藤が両こぶしを突き上げた。走り出してすぐ、打球がラインドライブして左中間の場外に立つ照明柱の広告板を直撃した。平光線審がクルクル右手を回す。長谷川コーチとタッチ。
「今回はロケット!」
十四
一塁を回ったとたん、下通が喚声にまぎれて、
「神無月選手、第四十号のホームランでございます」
とアナウンスした。気が早いと思ったが違和感はなかった。
「松橋さん、いい軌道でしたか」
セカンドベースを通過するとき二塁塁審の松橋に尋く。
「じつにきれいだった」
小声で答えた。喚声の渦に揉まれながら水原監督とハイタッチ。
「四十号、おめでとう!」
「ありがとうございます!」
ホームイン。江藤と握手。中が奇妙に熱い抱擁をする。
「私もきょう決めるよ!」
高木の初めてのやさしいヘッドロック。次打者の江島が大事そうに両手で握手。菱川と太田が抱きつき、
「百五十メートル!」
「百五十五メートル!」
と叫ぶ。吉沢が、
「みごとでした!」
徳武と握手。
「あの野次野郎、金太郎さんを焚きつけちゃったな」
「ホームラン、期待してます」
「おお、俺もいくか!」
私は島谷と軽くこぶしを打ち合わせ、ベンチの連中とタッチしていく。半田コーチがバヤリースを差し出す。
「キャノン、ズドーンね」
「江島も一発いけ!」
田宮コーチが叫んだとたん、江島が高い打球を打ち上げた。葛城が、
「いっちゃったか!」
白球がレフト前段に舞い落ちる。江島、長谷川コーチとタッチ。からだを傾けて一塁ベースを回る。すぐさま下通のアナウンスが流れるかと思いきや、江島が水原監督とタッチしたあたりでようやく、
「江島選手、今季第一号のホームランでございます」
私に対する露骨な贔屓だ。江島を迎えに出る。
「ナイスバッティング!」
「大きなカーブ。うまく打てた! この一本はうれしいなあ」
三割近く打っている菱川に比べて、一割五分も打てない江島は、ライトの熾烈なポジション争いをするというわけにはいかないけれども、少ないチャンスをこうしてものにしていけば、年間通してコンスタントに使ってもらえるだろう。きょうは三振をつづけないかぎり菱川に交代することはない。雑な仕事をすると感じていた江島の印象が、少しよいほうへ変わった。島谷ショートゴロ。チェンジ。一対三。
二回以降はいつもと同じ展開になった。二回裏、徳武一号ソロ。三回に中がツーアウトから右中間にスリーベースを打って千五百安打に到達した。下通の澄んで温かい声が記録達成を告げた。
「中利夫選手、四月二十四日の三百盗塁達成につづいて、本日五月十日、千五百本安打の達成でございます。盛大な拍手をお送りくださいませ」
花束贈呈はなかった。三塁側スタンドから物が投げこまれることを懸念しての配慮だったにちがいない。中は三塁ベース上で帽子を振って応えた。高木三振。一対四。
中は四回表の守備につくとき、ベンチのみんなに、おめでとうと熱い握手で祝福された。私はいっしょに守備位置へ走りながら、
「すみませんでした。ぼくのせいで、花束―」
「なに、花束がどうしたの?」
中はトボケ顔でやさしく笑った。
四回裏。先頭打者の江藤センターバックスクリーンへ十六号ソロ、私がライト場外へ四十一号ソロ。一対六。ピッチャー平松に交代。これが不調で、シュートがほとんどボールになり、ストレートを狙われて、江島、島谷、徳武と三者連続ヒットを許してあっという間に降板。及川というドロップピッチャーに交代。ノーアウト満塁。吉沢さんがレフト前にポテンヒット。江島還って一対七。ついに吉沢さんに初ヒットが出た。思わず目が潤んだ。ベンチのみんなの目も光った。江藤が、
「オーバーに祝福したらいけんぞ。最後の花道と誤解しゃるうけんな。吉沢さんはまだまだいけるばい」
小野ファーストゴロ。ランナー動けず、ワンアウト。中ライト定位置へ犠牲フライ、島谷還って一対八。ツーアウト一、二塁。高木ライト前ヒット、徳武還って一対九。江藤ピッチャーライナー。及川はほとんど全球ドロップ。しかもコントロールがいい。
五回裏、私ショート左へ内野安打。ひさしぶりに盗塁。江島サードゴロ。島谷センター前ヒット、私が還って一対十。徳武大きなレフトフライ。吉沢三振。
六回裏、小野三振、中フォアボール、すかさず盗塁。高木センター左へ落として、中生還。一対十一。江藤ライト前ヒット、ワンアウト一塁、三塁から、私ドロップの曲がり鼻を掬い上げて右中間最前列へ四十二号スリーラン。一対十四。江島センターフライ。島谷レフト上段へ四号ソロ。いつだったか、目立たないけどよく打ってるな、と木俣が言ったことがあったけれども、まさにそのとおりだ。一対十五。ベンチも中日ファンも叫びやめる暇がない。敵の攻撃はあっという間に終わるし、味方はホームランを打ちまくるし、楽しくて仕方がないだろう。徳武キャッチャーフライ。
七回裏、木原というサイドスローの大柄なピッチャーが出てきた。ストレートはいっさいなし。カーブ、スライダー、シュート、あたりまえの変化球。吉沢ピッチャーゴロ、小野立ちん坊の三振、中ライトへライナーで打ちこむ二号ソロ。四月十三日の広島戦以来のひさしぶりの弾丸ライナーだ。一対十六。高木サードライナー。
八回裏、クリーンアップ、江藤、センターライナー、私、内角スライダーをセカンドゴロ、江島、サードライナー、三者凡退。
試合は八時半を少し回って終わった。チャッチャと終わった部類になる。大洋は九回表までゼロ行進。小野は一回に二安打を打たれものの、二回から九回表まで近藤和彦の一安打に抑え切った。三振四、フォアボール四、自責点一。田中勉と並んで五勝目。
全員水原監督と握手し、インタビューを断ってロッカールームへ引き揚げる。水原監督と宇野、太田、半田の三コーチは警備員に護られて素早く球場を出た。選手たちも厳重に警備員や球場係員に護衛されて通用口を出た。小野が、
「吉沢さん、最高のリードだったよ。四勝目をありがとう。みんなも十六点をありがとう」
「ウィース!」
長谷川コーチが、
「あしたの第一試合は木俣だ。第二試合は新宅。第一試合の先発は山中、リリーフは健ちゃん。第二試合の先発は勉ちゃん、中継ぎは伊藤久。何か質問は」
私は、
「あしたの大洋の先発は平松ですよね」
「たぶん」
「一枝さんは平松殺しですから、早く殺してしまうと、長引きますね。交代して出てくるピッチャーをわざと打たないわけにはいかないので、どうしても大量点になります」
田宮コーチが、
「それでいい。とことん取ってくれ。山中と小川でトントンといけば、きょうぐらいのスピードで終わる。早く終われば疲労回復にたっぷり時間をかけられるという利点はあるが、それより何より、今回は金太郎さんの身が危ういという情報が乱れ飛んでるんでね、チャッチャと引き揚げたかったわけだ。この三連戦で何ごともなければ、またふだんどおりゆったりした気分で野球ができるさ」
「すみません、ぼくのせいでご迷惑おかけして」
江藤が、
「ここが正念場たい。ふだんから金太郎さんば守る守るて口にしとって、いざコトが起きて守れんごつなったら、ワシらはホラ吹きになってしもうとたい。特にアウェイの巨人戦は一年じゅう警戒せんばいけん。読売新聞と川上哲治は日本のドンやけんな。宗教みたいに信じとる人間は大勢おる。金太郎さんの才能が千年に一人、万年に一人のものでも、そぎゃん連中には関係なかばい。これからは後楽園が広島球場や甲子園球場より危なか場所になるやろうもん」
森下コーチが、
「いま水原さんたちが早々に引き揚げたんは、球団事務所から鈴木セリーグ会長へ電話するためや。慎ちゃんや田宮さんの言ったことが現実にならんように、ジャイアンツ球団に申し入れるようお願いするためやな。マスコミにも騒ぎ立てんよう鈴木会長から手配してもらう。水原監督さん一人の力じゃどうもならん。ドラゴンズ球団首脳やら財界やらをバックに物申すしかない。川上監督が球場で金太郎さんと握手すれば話は一発ですむんやが、ぜったい握手はせんと臍曲げとる。もとはと言えば、ぶつけたれと彼が選手に命じたことが発端や。そこはひた隠しにしとる。これからも言わんやろ。本人も選手もな。金やんにしてもそこは言わん。そこさえ言わなければ、生意気野郎が野球界の功労者にタテついたちゅう図式で通せるからな」
「ぼく、謝っちゃいましょうか。そうしたら彼らはホッとするでしょう」
長谷川コーチが、
「二度とそういうことは言わないでね。日本じゅうのファンが泣くよ。俺たちも泣く。金太郎さんがインタビューで言った意見が正しいことは、ジャイアンツ球団サイドも、選手たちもわかってるんだよ。その人たちも胸の底で泣くことになる。何も金太郎さんは我を通してるわけじゃない。理不尽な中傷を柳に風と受け流してるだけだ。それがあまりにも格好いいんで、川上監督一人がカッカしてるんだよ。それに乗るファンが出てくる。心配なのはそこだ。とにかく警戒しましょう。本日はこれで終わり。解散」
「オース!」
人混みの中を駐車場まで十人以上の選手に守られて歩いた。松葉会組員もガードマンも周囲に目を光らせていた。どういう情報が流れているか知らないが、無益なことをしているような気がした。巨人ファンが私のホームランだけでも気に入ってくれれば、こいつを潰すのはもったいないという気持ちが起きる。殴ったり、刺したり、撃ち殺したりする気分にはならない。私は周囲のフアンたちに手を振った。ワーッと歓声が上がった。
「名古屋はだいじょうぶだ、東京で気をつけろ!」
「私は巨人ファンだが、きみを認めている。きみは球界の救済者だ。真の巨人ファンならきみを傷つけようなどとはけっして思わない!」
彼らにも〈その類〉の危惧があるようだ。
「しばらく表は出歩くな!」
「あと二試合、俺たちも見張ってるからな!」
「神無月さん、気をつけて!」
トランクに用具を放りこみ、車に乗りこんだ。組員がからだを折る。私は森下コーチや長谷川コーチや江藤たちに手を振って頭を下げた。車が出た。メイ子が手を握ってきた。菅野が、
「四十二号、おめでとうございます」
「ありがとう。あしたも打ちますよ。平松の速球。シュートは遠く逃げていくので、見送ります。三振しそうなときだけは手を出します」
「すてきだなあ、神無月さんは。今朝、大手三紙に、三日以内に神無月を殺す、という予告状が舞いこんだみたいなんですよ。愉快犯のいたずらだろうということらしいんですけどね、しっかり警戒しないと」
「だれもそんな情報教えてくれなかったですよ。心配かけまいとしたんでしょうね。そうか、それできょうはへんに警戒がきびしかったんですね。異常な人間はそんな手紙を書く前にぼくを殺してます。巨人ファンのやったことですよ。幼いやり口だから、中学生か高校生でしょう。すぐ犯人は見つかりますね」
街路樹を濾(こ)して見える夜空の藍色が目に涼しい。ラッパズボンやミニスカートが歩いている。同じ世代の男と女だ。眼を逸らす。逸らした視線を彼らに悟られることはない。視線の先に、自分にふさわしい、ただ一つの、彼らに馴染もうとしない未来が見える。
「神無月さんは肝が太い。何も気にしとらん。どこまでも別世界の人や。よう生まれてきたわ」
主人がハハハと笑い、まぶたを拭った。
十五
北村に戻ると、カズちゃんたちがまだ座敷で、がやがやテレビの臨時ニュースを観ていた。賄いたちや店の女たちの姿はなかった。トモヨさんは直人と寝てしまったのだろう。千佳子と睦子が仲良く画面に目を凝らしている。素子が、
「あ、キョウちゃん! お帰り。捕まったわ。東京の十六歳の高校生やったらしい。朝日と毎日と読売に脅迫状を出したんやて。警察が消印調べて、手紙出したポストまで見つけて、そこらへんを聞きこみして見つけたんやと。封筒の指紋が一致したって」
主人が、
「なんだ、神無月さんの言ったとおりやな。車でそう言っとったんや」
菅野が、
「よかったあ! あしたからまた安心して野球ができますね」
電話が鳴った。女将が出て、
「ありがとうございます」
としきりに言っている。
「神無月さん、水原監督さんやよ」
電話口に出ると、
「金太郎さん、心配かけたね。これで安心だ。セリーグ会長とジャイアンツ球団に、安全対策を申し立てたばかりのところだった。あしたから心置きなく野球をやってください。川上監督もこれで少しは懲りたろう。いま、長谷川コーチから電話もらった。金太郎さんは胸を張っていなさい」
「ほんとにすみませんでした」
「だれに謝るんだね。謝ってしまいましょうかと金太郎さんが言ったとき、長谷川くんは金太郎さんの幼いころからの苦労を考えて、胸が痛んだそうだ。こうやって生きてきたのかってね。抱き締めたかったと言ってた。今度から抱き締めたいときは抱き締めるようにと言っといた。私も江藤くんもそうしてるってね」
「あのう―」
「はいはい、何でしょう」
声が笑っている。
「その少年はどうなるんでしょう」
「また余計な心配をしてるね。これだけ世間を騒がせたとなると、その少年は刑事裁判を前提に逮捕されることになる。少年の親族側が、刑事裁判にしたくない、要するに前科者にしたくない場合は、金太郎さんに対する精神的ダメージを金に換算して、慰謝料を払わなくちゃいけない。少年側の親族が金太郎さんに慰謝料を払って示談にして、逮捕を避けるんだよ。それを金太郎さんが了承したら社会復帰できる。しかし金太郎さんは金なんかいらないと言うだろう。脅迫罪は示談にしないかぎり刑事罰を科すしかないんだ」
「示談にしてやってください。お金はいりませんけど」
「……そうか。やっぱりそうなるか。お金は要らないというわけにはいかないんだよ」
「いくらぐいですか」
「悪質性が高いから、二百万から三百万ということになる」
「逆恨みされてかえって窮屈になります。悪質というより、いたずら程度で考えられませんか」
「いたずらにしては度が過ぎてるから、百歩譲って単発的な脅迫行為ということで考えれば、百万円以下という法律がある」
「それの最低金額は?」
「数万円ということになってる」
「一万円だと、イイコぶってると言われて、またうるさいことになりますから、五万か十万ぐらいでどうでしょう」
「わかった。ぜんぶ金太郎さんの代理として、弁護士を立てて球団のほうで始末するようにする。しかし、金太郎さん、人を脅迫して、大勢の人間に迷惑をかけて、タダですむなんていう甘やかしは本人のためにもよくないよ。示談金はどうしても出してもらいましょうね。そうしないと少年に前科がついてしまう。ただし、彼の家庭に負担をかけない程度に計らいます。早稲田実業の補欠選手なんだよ。王の熱烈なファンでね。家庭は貧しくない」
「彼の名前が出ることは―」
「名前も経歴もぜんぶ伏せるから心配しなくていい。ほんとに、彼も、金太郎さんの人柄を知ってたら、こんなことはしなかったろうにね。やあ、長くなった。すべて解決だ。じゃ、あした十一時、中日球場で」
「ありがとうございました。ご心労をおかけしてすみませんでした」
「謝るのはやめなさい。いまいちばん心を痛めてるのは金太郎さん本人だよ。気を取り直してね」
知将水原茂の真心だった。私は小学生のころ、三塁コーチャーズボックスであごをツンと上げてそっぽを向いている独特のポーズから、彼の性格に酷薄なものを感じていた。あのポーズの中にこんなやさしさが隠されていることを知らなかった。
「失礼します」
「お休み」
「お休みなさい」
受話器を置いたとたんにまたベルが鳴った。
「江藤や。話中やったな。監督からか?」
「はい」
「よかったなあ。いまみんなで万歳三唱したところばい。きょうは金太郎さんになんも事情を言わんと、巨人ファンがどうたらこうたら、ただギョロギョロ警戒して、金太郎さんも何やと思っとったやろ」
「はい、あの野次のせいかと思ってました。それにしちゃ大げさだな、と。帰りの車で事情がわかりました。ご心配をおかけました」
「なんの、なんの、ひさしぶりに燃えたばい。金太郎さんといっしょにおるとドラマが起こって楽しか。ちょっと待て、菱が何か言いよる」
菱川に代わった。
「六回裏に、ライナーで右中間の最前列に打ちこんだ三本目のホームラン、当たり損ねですか」
「はい、落ちぎわを早く叩きすぎて、バットの先っぽでした」
江藤がまた電話を奪って、
「能天気やのう、こいつらは。大事件が解決したばっかりやぞ。じゃ、もう切るけん。あした十一時」
バンザイの声が聞こえた。中の声も混じっているようだった。
「中さんにおめでとうと言っといてください。いまほしいものがあったら、いずれ知らせてくださいと」
「トシちゃん、なんかほしいものはなかかて」
「二千本安打!」
大声が聞こえた。つづけて、ワハハハと笑い声が上がった。グッドナイトと言って江藤は電話を切った。女たちがカズちゃんを先頭にみんなで抱きついてきた。トモヨさんが離れから起きてきて、
「たいへんな一日でしたね。いま離れでテレビを観てたんですけど、結局ぜんぶ川上監督がまいた種ですよ。その高校生だけを責められない。王さんや長嶋さんが優柔不断なのも引き金になったと思うわ。その子、王さんのファンだって言うじゃない。とにかく解決してよかった。何ごとも順風満帆というわけにはいかないです。こういうちっちゃな嵐がときどきあるのも楽しいものよ」
カズちゃんが、
「ほんと、とても楽しい。メイ子ちゃん、きょうは楽しかった?」
「はい、とっても」
メイ子が睦子と千佳子に、きょうの徳武と松橋塁審の話をした。千佳子が、
「わあ、見たかった。そういうのってテレビに映らないから」
主人が、
「むかし長嶋も、たまに審判に送球してたなあ。たいてい塁審は逃げてたけど」
「球場でしか見られないパフォーマンスはすてきですね。長嶋は本番でも広岡の前の打球をかっさらうパフォーマンスをしてましたよ。何度か見た」
「そう、越権行為。広岡は苦笑いだよね。腰を落として構えてたところを持ってかれるわけだから」
菅野が、
「絹のハンカチ、広岡」
「え?」
「守備の天才広岡はそう呼ばれたんです。難しい打球を簡単な凡打みたいに処理してしまう。滑ったり転んだりのスタンドプレイはやらない」
「歴代最高のショートは、牛若丸吉田やろ」
私は主人に、
「吉田義男ですか」
「はい、阪神の吉田は小柄やったから、そう呼ばれたんですがね。大リーガーからも絶賛されるほど守備範囲が広くて俊敏、捕球してからものすごく早い。遠井がもう少し遅い球を投げてくれと言ったくらいの強肩。今年はコーチ兼任になりました。来年引退かな」
野球の話をさせたら彼らは天下一品だ。戦前戦後のプロ野球をほとんど見てきたのだ。トモヨさんが、
「郷くん、きしめん食べる」
「あ、食べる。天ぷらきしめん」
「また天ぷら?」
「じゃ、ホウレンソウと油揚げを載せたやつ」
「ワシらにもくれんか」
メイ子といっしょに睦子と千佳子も立ち上がる。
「あしたは千佳子と睦子だね」
「え?」
二人の顔がパッと輝く。
「そっちじゃなくて、ナイター」
二人は恥ずかしそうに笑い合う。カズちゃんが、
「あした、してもらいなさい。あさっては百江さんとキッコちゃん。十三日の午前からキョウちゃんは遠征に出ちゃうから。みんなひと月に一回と決めて、辛抱強く待つのよ」
「はい!」
女将が、
「どんだけうれしいんやろねえ。こんなに喜んでもらえたら、神無月さんも男冥利に尽きるわ」
菅野が、
「私なんか、ふた月に一回でも面倒くさがられますよ」
「ワシはちがうぞ」
「ま!」
女将が主人の膝を叩いた。女たちがうれしそうに笑った。私たちのする会話は、私たちの世界にいない人間が聞いたらとうてい信じられるものではない。心は人を自由な感覚へ解放するけれども、解放された感覚は人を不自由な倫理の檻に閉じこめる。しかし、自由不自由に関わらずそれが現実である以上、感覚も倫理も紛れもない人生だし、人生は常に真実なのだ。
†
五月十一日日曜日。七時起床。薄曇。きのうより少し気温が低い。枕もとの腕時計を見ると二十度。一連の日課。
焼き鮭、卵焼き、ホウレンソウのお浸し、板海苔、白菜の浅漬け、豆腐とワカメと長ねぎの味噌汁で朝めしをたっぷり食い、カズちゃんとメイ子を送り出したあと、迎えにきた菅野とランニング。日赤病院まで往復。ランニングのあいだだけ驟雨にやられる。則武に戻り、
「あとで北村席にいきます」
「ほーい」
濡れたジャージをパジャマに替える。ザッとシャワーを浴び、机部屋にいって、五百野の原稿を無作為に五枚ほど見直す。父のことを考えただけで頭が混乱する。かつてのような共感を覚えなくなった。いのちの記録を開く。
私は長いあいだ彼のことを、草場の昆虫のようになすすべもなく、ひっそりと息づく美しい芸術家だと思っていた。水屋から見つけた〈幾五百野〉の写真を信じていた。しかし彼はまちがいなく生来の芸術家ではなかった。一つも作品を残さなかった。それは探ってみなくてもわかる。保土ヶ谷の自転車屋の階段で直覚した記憶を私はずっと胸の底にしまっていた。彼のからだから滲み出していたのは、創造の源とはなり得ない根強い倦怠だった。芸術家でありたいと願いつづけたモドキ。母子を捨てたことが悪行なのではない。何も創らなかったことが悪行なのだ。彼は芸術家として正しい行いをしなかった―モドキは人間としても正しいことができない。今後、彼に共感することは難しいだろう。共感の思い出を書きつけて訣別する。
モドキ芸術家の目的は〈てらう〉ことで、真の芸術家の目的は〈創造〉だ。モドキ芸術家は倦怠に屈して、人生をあるがままに見送る。現実に食傷しているという意味で、モドキ芸術家は真実に肉薄する正しい行動ができない。
真の芸術家は人生を観察し、分析し、表現し、彫琢し、現実が持つ真実に肉薄する。彼は人生をそのまま写すのではなく、自分の観察と分析を信頼して、人間にも書割にも真実味のある潤色を加える。だから、登場人物の一連の行為に彼の心情や性格が結びついてくる。書割としての自然や社会を描写する場合も、形式的な装飾として使うのであって、自然回帰や社会回帰を願っているわけではなく、現実の中で生きる人間の真実に肉薄する作法の一つと考えている。
創造―魂で築き上げた幻の楼閣。芸術家モドキは創造しない。彼の築く城は彼が〈見かぎった現実〉の片隅に建てた中空の小屋だ。彼は自分のダラケた物思いに身を預けて小屋に籠もり、人生を傍観する。だから、人びとが支え合い慈しみ合う感情を感じ取ることができない。彼は観察者であって、行為者でないからだ。
十六
電気シェーバーでヒゲを剃る。チリチリと聞こえるか聞こえないかの快い音がする。
下痢をしながら新聞を読む。いきまなくても湯のように便が出る。快適。
カズちゃんが三カ月契約でとった朝日新聞。テレビで観る意味不明のニュースと同じように、一、二面の記事の意味がさっぱりわからない。これを理解できる能力というのはどういうものだろう。私のようなアホは、どんな記事を読んでも戸惑わされるばかりで、世の中の不可解なことが不可解なりにぼんやり見えてくるということもない。とにかく何をどう考えていいのかわからない。たとえば、
乗車券、清涼飲料、タバコ、牛乳、チューインガムなど菓子類、切手、はがき、おしぼり、焼そば、衛生用品、おみくじ、現金からコインロッカー、写真撮影サービスにまで。日本自動販売機工業会の調べでは、十年前全国で一万台だった自動販売機がとうとう百万台を突破した。半数が東京にある。
写真撮影サービスに(いたる)まで、の意味だろう。それはいい。自販機が百万台を突破したからと言って、どういう考えを持てばいいのかわからない。東京にたくさんあるということは、都市化の象徴、ひいては文明の象徴ということか。別に頭に刻みたい知識ではないし、文章の意図を理解したいとも思わない。口もとを粘つかせないで納豆を食うにはどうすればいいか、といったような記事があれば、そのほうがはるかに役に立つ。
すでに知的に自己形成を終えている人たちの寛容に甘えた、雑読用の読み物は二度と読まないことにする。
スポーツ欄を見ておく。さまざまなスポーツと並べて小さく結果が載っているだけで、目立つ見出しは、神無月ハイペース四十二号、のみ。政界、経済界の記事の十分の一の重み。これが一般の人たちの知的関心の配分だ。野球に対する思いなどどこからも窺われない。私は自分の属している世界の注目度の低さを知り、ホッとする。かくも見捨てられた世界で威張り腐っている人たちの気が知れない。
五キロのダンベルを二つ持ち、裸足で庭に出る。腕の鍛錬、蝶々の形で百回。バットを振る。高目のストレートをイメージして、外、内、真ん中と、五十本ずつ振る。片手振り左右五十本ずつ。三種の神器。片手腕立て三十回ずつ。最近、肩の筋肉が異様に盛り上がってきた。関節の故障の予防になる。めでたい。思いついて、蛙歩き、小庭を十往復。これはいい。グランドでも、ポールからポールまでやってみよう。いや、やめよう。時間がかかりすぎるし、どこかの筋を痛めそうだ。ジム鍛錬二十分。
十一時。シャワーを浴び、ミズノのジャージを着て北村席に出かける。きのうのきょうなのに門前にはまったく人影がない。おそらく取材禁止令が出ているのにちがいない。すでに菅野たちが居間に待ち構えてコーヒーを飲んでいる。睦子と千佳子もおしゃれをして控えている。その場でジャージを脱ぎ捨て、百江の用意したユニフォームを着る。女たちの頬が赤らむ。主人や菅野まで顔を赤くする。
「凛々しいもんですなあ。じつに美しい」
睦子のお守りを尻ポケットに入れる。
「菅野さん、玄関に立てかけてあるバット、息子さんにあげてください。一度使ったものですが、ほとんど新品です」
「はい、ありがとうございます」
「ちょっと五分だけ、一升瓶をやってきます」
つっかけを履いて庭に出、転がっていた一升瓶を拾い上げて、五十回ずつ手首の鍛錬をする。玄関に戻ってスパイクを履き、グローブとバットを乾拭きし、タオルを首に巻く。
「出かけましょう」
ソテツから大きな鮭おにぎりを一つ受け取ってダッフルに入れる。今度はちらほら取材の人影が見えるが、無視してクラウンに乗りこむ。助手席に主人、後部座席に私と名大生二人を乗せて走り出す。菅野が、
「テレビが朝から同じことばかりやってます。神無月さんの意向で告訴なしと、百回も繰り返してます。神無月さんの示談金は五万円だけに留めて、新聞三社も慰謝料請求をしないことになりました。犯人は都内の某高校一年生としか発表されてません。ようやく王選手がインタビューに応じました」
千佳子が王の言葉を繰り返す。
「私のファンがやったこととなると責任の一端を感じないわけにはいかない、少年に対する神無月選手の判断にあらためて、沈着で剛毅な人柄を感じた、一連の騒動には自分たち巨人軍選手の煮え切らない態度も大いに関係してきたと思われるので、巨人軍の団結を固め直すという意味でも、これからは正々堂々とした姿勢で試合等に臨みたい」
「王さんには何の責任もないのに」
睦子が、
「川上監督と長嶋選手は沈黙、三原さん以外の他球団の監督も沈黙してます」
「長嶋さんの頭には何もないよ。監督たちの態度も当然だ。みんな面倒だから早く忘れたいだろうね。ぼくも面倒だ。押し寄せると思ったマスコミがこなくてほんとに助かった」
菅野が、
「マスコミが聞きたいのは怨み節です。神無月さんはいちばん取材のし甲斐のないタイプでしょう。彼らは性格破綻者ですから」
「きついこと言うなあ、菅ちゃんは。神無月さんが野球界にいるあいだは、マスコミとは持ちつ持たれつの関係でいかんとな。東奥日報さんの件もあるし」
睦子が、
「私、ナイターって大好きです。目が洗われる感じがします。プロ野球の象徴ですね。あんなすごい設備、ずっとむかしからあったんですか?」
主人が、
「中日球場は昭和二十八年からやな。二十六年の大火災のころにはあれせんかった」
菅野が二人の女に、
「煙草の火が原因で、中日球場が大火災になったことがあったんですよ。客席は隙間だらけの板っ切れだったから、下に新聞紙がたくさん落ちてたんです」
主人は、
「小学生だった高木さんが、その日たまたま中日球場の一塁側スタンドにいて、火事に遭遇したそうですわ。危うく逃げることができたと言っとりました」
私は、
「すごい偶然ですねえ。高木さんは中日球場に取りつかれてるようなもんだ。ドラゴンズにくる運命だったんですね」
主人が、
「ほうやな、ありがたいことだがや。火事のころに入団した人たちが、いまコーチやっとるんでにゃあか?」
菅野が、
「そうです。二十四年入団の杉下は去年監督やって辞めましたね。二十五年は本多逸郎、球場を建て替えた二十七年には太田信雄。いまのコーチです。昭和十二年に十五歳で入団した西沢は、おととしまで監督やって辞めました。その間、ホームラン王服部受弘、完全試合の藤本英雄、ホームラン王小鶴誠なんて大物もいましてね。まあ、藤本も小鶴もチラッと中日にいただけで、記録自体は中日で作ったものじゃないですけど」
「で、二十八年、ナイター設備というわけや。後楽園、大阪、西宮に次いで四番目。六年前の三十八年にカクテル光線に改良された。神無月さんが見とった三十四、五、六年は改良前やな。少し暗かったやろ」
「はい、球場全体が。それでも美しかった。スポットライトがピッチャーとバッターに集まって。……バットがキラキラ光るんです」
千佳子が、
「いまより妖しい雰囲気なのね。見てみたかったなあ」
「お父さん、まだまだわからない野球ルールがあるんですよ。仲間たちには訊きすぎたんで、これ以上質問するのはちょっと恥ずかしくて」
「何ですか? 素人のほうが知っているということは往々にしてありますよ」
「ボークです」
「ははあ。まず、ランナーが塁にいるときのピッチャーの反則行為と言っときましょう。これを咎められると、ランナーが次の塁へ進塁を許されます」
「はい」
「たとえば、投球動作を途中でやめる、両肩が動いたあとで牽制する、爪先をバッターに向けながら牽制する、バッターが構えていないのに投球する、セットポジションで完全に静止しない、投手板に乗っている状態で落球する」
菅野が、
「細かいことを言えば、もっともっとあります。結論から言うと、神無月さんにはどうでもいいことです。神無月さんは小さいころから、どうでもいいことは覚えてこなかったんですよ。新聞を読まないようにね」
私はかすかに微笑し、
「ルールという意味では、ちょっと大げさな話になりますけど、ぼくは社会的な慣習を何も知らないで生きてきたんです。覚えてこなかったと言うよりは、知らないで生きてきた。飯場に入るまで社会経験はゼロだったと言っていいでしょう。たとえば年中行事は、野辺地のお盆以外、正月を含めて一つも経験がない」
睦子が、
「正月もですか!」
「厳密に言えば……重箱に入ったおせち料理を食べたことがなかった。高円寺でみんなが作ってくれたのを食べたのが初めてだった。クニの祖父母も、ぼくを連れ歩いた母も、世間の行事に無関心だったせいだろうね。武士の家系だと誇らしげに祖父は言っていたけど、武士というのは世間行事に無関心のようだ。四年生のとき西松の飯場に入って以来、一つひとつ、母でない人びとのおかげで経験を積み重ねることができた。それでもまだ、ほとんど体験していないことばかりなんだ。クリスマス、正月料理、誕生祝い、すべて高円寺が初めてだった。睦子や千佳子は、ほとんど経験してるだろう?」
「はい、ぜんぶ」
二人で交互に言いはじめる。
「七五三」
「おせち料理」
「七草粥」
「桃の節句。端午の節句は男の子じゃないから知らない」
「誕生会」
「クリスマス」
菅野が、
「われわれふつうの人間は、ふつうの行事にまみれて一生をすごすんですよ。ほんとうのところ、神無月さん、羨ましくもなんともないんでしょう?」
「羨ましくはないけど、ものを知らないことが何かさびしくてね。いちばん肝心な野球のルールさえ知らないとはね」
「わかりますよ。不足があるという感じなんでしょう。完璧な人間なのにね。私は、そういう神無月さんに感動する人間ですから、逆に、ものを知っていたらかえってさびしい気がしますよ。ホームランを打って輝いていればいいだけの人が、なんで野球ルールまで知ってなくちゃいけないのって感じです。私みたいな人間どもは欲が深いですから、学者でもないのにものを知りすぎです。これまでの小じんまりした自分の人生というか、神無月さんに遇うまでハッキリ意識したことはなかったんですが、こう、先行き、器の決まっている生き方というのか、とにかく欲だけの、薄っぺらい人生でしたよ。……神無月さんはくだらないことは覚えなくていいです。これまでいろいろ知らなかったこともぜんぶ覚えなくていいです。くだらないことを知りたいときには、私たちがぜんぶお教えします。私、神無月さんのことが大好きです。神無月さんは美しい。何もかも美しく生まれついてる」
目に手を当てる。私は返事のしようがなく、
「ありがとう。でも、教えてもらえることは心強いんですよ」
と応えた。
「菅ちゃん、泣いたらハンドル危ないよ」
主人も目をゴシゴシやっている。睦子たちもすでにハンカチを出していた。窓を開けると湿った風が入ってきた。並木の葉が風に揺れる。風を顔に当てる。真昼の街路がきのうと変わらず文明を乗せて動いている。人が歩き、車が走り、電車も走っている。
―私は美しく生まれついてなどいない。
ルールを教え諭しながら愛してくれる者の中で私は滞りなく行動できるけれども、彼らの作る防壁の外に出ると、何やら気分が毛羽立ってくる。ひとことでは言い表せない重苦しい恐怖を感じる。私は社会知識に欠けた人びとといっしょに城塞に籠もっているのではない。それにあふれた人びとと城に暮らしている。ただ、愛する彼らに守られて外の世界から孤立しているのだ。彼らに孤立の意識はない。社会生活も立派にできる人たちだからだ。私の目には、垣の外の人たちはみんな大道を自由に闊歩しているのに、私は閉じ籠もっているように見える。たとえ垣の外に出て大道で遊んでも同じだ。自由がないように感じる。彼らは意識して奇を求め、そのために垣の内に籠もっているわけではない。外に出る目的のない私を慈しんで、付き合ってくれているのだ。垣の外の私は行儀よく、小心翼々としているけれども、彼らはびくびくしていない。
私はいつのころからか、自分が世間の隅に逼塞することしかできない気質を、万事につけ自分にまとわりついている倦怠のせいにするようになり、そのために苦しみをいっそう大きくしてきた。ときには、自分の倦怠に信憑性がないと感じ、ただのウスノロがぼんやりと何も考えられずにたたずんでいるだけではないかと思い当たり、やりきれなさに悶えたりした。私は絶えず自分を馬鹿で覇気のない変人と罵り、自己達成を疑い、あきらめながら生きてきた。自分の性格に関わる私の苦しみは根拠のないものかもしれないし、もとを探ればじつにくだらないものにしかいき当らないかもしれないけれども、私はその劣等感に滑稽なほどこだわってきた。事実、私を愛する者たちが、そのこだわりのせいで私を変人扱いしているのは疑いのないことだとしても、同時に彼らはまた確かに私を尊敬もしているのだ。しかし、私はついに、自分が彼らから尊敬されているということさえ、私の劣等感を助長するものだと思うようになってきている。そこに私のいっさいの不幸が含まれていることはわかっている。
―尊敬に値しないものが尊敬されている。
女たちを見るにつけても、自分が絶えず彼女たちの行く手を妨げているのではないかと煩悶する。何よりも私を苦しめるのは、彼女たちが自分と同じような劣等感にまみれた変人なのではないかという考えだ。しかし、あんなすばらしい女たちが、劣等感にまみれながらこの世に存在するはずがない、また存在するべきものでもない。
―彼女たちはどうして私から離れないのだろう。この無用の男から。大きな期待を抱いて、私を有用人にしようとしているのだろうか。それとも、私以外に関心のないある種のニヒリストなのだろうか。
そのどちらでもないことを、私は露ほども疑っていない。私に何も望んでいないことだけは疑いを挟む余地がない。彼女たちは脆く弱い存在ではない。借り物でない自分自身の言葉を使うことができ、深い自信の中で落ち着き払っている。脆く弱い人間は、あんなに落ち着いてはいない。彼女たちこそ何者かだ。
十七
私は睦子と千佳子の横顔を見た。涙が流れてきた。
「あ、神無月さん、泣かないで」
睦子が手を握る。千佳子が手を重ねる。
「こんなに幸せでいいのかなって。神経がおかしくなった」
菅野が、
「神無月さん! だめだめ、そんな墓が近いような言い方はだめ。じっとものを考えたあとで、そんなこと言っちゃだめ。心臓が爆発しちゃいますよ。よかった。中日球場に着きました。運転できなくなるところだった」
主人が掌で顔を拭いながら、
「……神無月さんの、幸せという言葉、信じますよ。何があっても、空しくならない、さびしくならない。いいですか、信じますよ」
ファンの人混みがなつかしかった。睦子と千佳子と抱擁して車から降り、近寄ってくるファンの手を一人ひとり握った。組員の手も握った。警備員の手も握った。十人も二十人もサインを書いた。
「よかったな、神無月!」
「思う存分やれ!」
「えらかったぞ、金太郎!」
「男のカガミだ!」
「いつも応援してます」
「負けないで! がんばって!」
「きょうもホームラン打って!」
通用口まで迎えにきた水原監督と半田コーチに抱きついた。二人とも私の背中をポンポン叩きつづけた。
「ぼくに何も望まないでくださいね」
水原監督は背中を叩きつづけながら、
「わかってる、わかってる、ここにいてくれるだけでいいからね」
ロッカールームにレギュラーたちが待っていて、ドアを開けたとたんに、
「金太郎さん、バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
三唱した。江藤が、
「さ、ホームランば打ちにいこう」
みんなでロッカールームから飛び出した。
†
「中日ドラゴンズ対大洋ホエールズ、第五回戦の試合開始でございます」
ダブルヘッダー。二時試合開始。対大洋五回戦。予想どおり、平松が先発だった。大歓声の中、守備に散る。下通のアナウンスの声が明るい。きのう右翼線審だった山本が球審に回る。こういうこともあるのかと思った。キャッチボールで近寄っていきながら中に訊くと、
「四人制だとこうなるとは聞いたことがあるけど、六人制ではまずないね。何かの都合があったんだろう。ふつうは、球審をやった翌日は、控え審判。それから、線審、一塁、二塁、線審、三塁、球審と廻る。きょうはへんだね。きのうの二塁のマッちゃんが、レフト線審になってる」
「ほんとだ」
「それもまあ、都合のものなんだろうけど。控え審判というのも、けっこう仕事があってね、試合開始二時間前に、当日分の七ダースのボールを特殊な砂で揉んでからボールボーイに渡さなくちゃいけない」
「富山でバイキングのときに松橋さんに聞きました」
「革製のボールはとても湿気を吸いやすくて、百四十五グラムという基準値を保つためにとても薄いパラフィンで包まれてる。これをこすり取らないとツルツル滑るので投げられない」
「はい、そう言っていました。審判が磨くというのが意外でしたが」
きょうはライト菱川六番、サード太田七番、ショートに一枝二番、二番の高木が八番に回った。一枝が平松に強いからだ。
一回表。山中のボールに勢いがある。平松を打ち崩せば大差勝ちだ。近藤昭仁セカンドゴロ、近藤和彦三振、松原レフト前ヒット、中塚サードフライ。順調な出だしだ。
平松の投球練習。緊張の一瞬。江藤が、
「うへー、速かのう!」
高木が、
「あれにシュートを混ぜられたら、オシャカだな」
一回裏。中バッターボックスへ。初球胸もとをえぐるストレート、ストライク。
「さ、利ちゃん、軽くいこ!」
軽くいけるスピードではない。二球目外角低目に高速シュート。三塁ベンチへファール。みんなが予想したとおり平松の超スピードボールをうまくミートできない。三球目外角ストレート、なんとか当ててショートゴロ。
―これは危ないかな。
平松に強い一枝、真ん中低目のストレートをうまくミートするもショートライナー。江藤三球連続でストレートを空振りして三振。バットとボールの隙間はほとんど空いていなかった。
二回表。伊藤勲サードゴロ、外人にしては小柄なジョンソンファーストゴロ、ロジャース三振。山中がほんとうにいい。
二回裏。激しく歓声が上がる中、私は内角高目のシュートに詰まってセンターハーフライナー。バットが折れた。木俣外角ストレートをこすってライトフライ。菱川内角高目のストレートにヘッドアップして三振。投手戦になる気配だ。
三回表。重松三振、平松私の前にヒット。またピッチャーに打たれた。好調山中にしてもこれか。ピッチャーは鬼門だ。ここで近藤昭仁が気落ちした山中からレフト最前列へ目の覚めるようなツーラン。
「近藤昭仁選手、第二号のホームランでございます」
二対ゼロ。試合が動きだした。あんなに小柄でもホームランは打てる。ホームランというのは、タイミングとミートなのだとつくづくわかる。近藤和彦三振。松原振り遅れて詰まったセカンドゴロ。
三回裏。太田シュートを片手で払って三遊間のヒット。ナイス。突破口を開いた。投球間隔を置いてむだに考えはじめた平松から高木フォアボール。いつも思うが、好調のピッチャーがとつぜん何を考えはじめるのか不可解だ。得意球のシュートを打たれたことか? どんな得意球だって打たれることもあるし、出合い頭もある。気に病むことではない。
山中三振。ワンアウト一、二塁。中、外角高目の速球にチョコンと当てて三塁前セーフティバント。もちろんセーフ。ワンアウト満塁。平松は気の強い男だと聞いているが、なぜか早い回でこうなってしまう。気の毒だが、いま一つ運気に乗れないシーズンになるかもしれない。特に中日には勝てないだろう。一枝、初球三塁線ファール。シュートに詰まってバットを折る。痺れた手を振りながら走ってベンチに戻る。
「次、見てろよ。グランドスラム」
「よ、修ちゃん、平松キラー!」
ニヤリと笑い、新しいバットを持つとゆっくり打席に入る。二球目内角高目シュート。左足を引き、払うように叩く。太田と同じ打ち方だ。カツッという軽くこするような衝突音がしたとたん、ボールが上空へ昇った。上昇する角度を見るまでもなく、すぐホームランだとわかった。みんなでベンチから飛び出す。レフト上段まで飛んでいった。一枝は一塁の森下コーチと激しくタッチし、平松に礼を言うようにヘルメットを上げた。平松はマウンドの土を蹴った。水原監督が一枝の尻をバンッ。
「一枝選手、第四号のホームランでございます」
一枝はホームベースで手荒い祝福を受けたあと、独特の肘タッチでベンチ前を小走りに過ぎていく。
「見た? 山内打法」
「見ました、しっかり」
「バヤリース、いりますかァ?」
「いらない」
田宮コーチが、
「ほんとに修ちゃんは平松に強いなあ」
二対四。どうも投手戦ではなさそうだ。ネクストバッターズサークルに立つ。江藤、初球、高目のストレート。ここで途切れてはいけないという意気ごんだ空振り。ひっくり返る。大拍手。この空振りのあとの江藤は怖い。ライト方向へ長打を狙う。カーブを投げると持っていかれる。学習が足りない。カーブがきた。体重を乗せて流し打つ。伸びる、伸びる。背走していた近藤和彦があきらめて足を止めた。ライト前段へライナーで突き刺さった。江藤も森下コーチにタッチし、一塁ベースを蹴りながらヘルメットを脱いで平松に挨拶。二塁を回り、三塁を回り、水原監督と片手ハイタッチする。同じ手順、同じ祝福。
「江藤選手、第十七号のホームランでございます」
ネクストバッターズサークルを出て江藤と握手。
「カールトンさん、バヤリースもらってよかね。一枝の分余っとるけん」
「どうぞ!」
半田コーチの明るい声。二対五。大洋にすれば平松交代かどうかの分岐点だ。すぐに決まった。別当監督が出てきて、森中を告げる。私は彼からは先月北陸遠征前に、内角カーブをライト場外へ、外角シュートを左中間へ打ちこんでいる。いまのところ二打席二ホームランだ。
「ホームラン、ホームラン、金太郎!」
シュプレヒコールが一塁側スタンドから波のように拡がる。伊藤勲がマウンドへ走る。ワンアウトランナーなしで、何の相談だ? 敬遠? それならピッチャー交代しなくてもできる。
初球、黙っていたらスパイクに当たりそうなカーブ。飛び上がってよける。伊藤捕球できずに後逸。二球目、真ん中高目に全力の速球。顔の高さなので振らない。無口な大男の伊藤が股ぐらで懸命に印を結んでいる。敬遠と見せて、ここから三球つづけて微妙なコースへストライクを入れてくるだろう。森中、伊藤のサインを覗きこむ。痩せたフランケンシュタインのような顔だ。うなずき、振りかぶり、オーバーハンドから投げ下ろす。外角低目、ホームベースをかすらせようとするシュート。私に対しては失投だ。踏みこんで叩きつける。いつもの感触。球場全体にいちどきに歓喜の叫び声が上がる。森中がガックリ片膝を落とす。白球があっという間に左中間の場外へ消えていった。何本目のアベックホームランになるだろう。森下コーチとタッチ。下通の気の早いアナウンス。
「神無月選手、第四十三号のホームランでございます」
リズムを合わせた大きな拍手がザッザッザッと寄せてくる。
「この時代に居合わせてよかった。ありがとう」
二塁手の近藤昭仁が私に声をかけた。
「グレイト!」
ショートのロジャースも声をかける。三塁手の松原は両手を腰に立ち尽くしている。水原監督とハイタッチ。
「彗星だった。きのうのウサを吹き飛ばしてくれたね!」
「はい!」
†
五時十分過ぎに第一試合が終了した。三対十一で連日のα勝ちをした。大洋は伊藤勲の八号ソロを加えたのみ。ドラゴンズの残りの五点は、森中から菱川の六号ソロ、交代した及川から高木七号ツーラン、六回から継投した小川が及川から一号ソロ、同じ及川から私のセンター前一点適時打だった。私は五打数二安打、凡打三(センターライナー、セカンドゴロ、センターフライ)。チーム安打は十七、中、一枝、高木が三本ずつ、私と菱川と太田が二本ずつ、江藤がホームランの一安打、小川がホームランの一安打、木俣だけ五のゼロだった。山中三勝目。もうだれが何勝目で、だれが何号ホームランかを知るのは、新聞で確かめないかぎり無理になってきた。
第二試合開始前に、ベンチで鮭おにぎり。レギュラーたちは選手食堂へ。食後すぐにロッカールームで短いミーティングが行なわれた。宇野ヘッドが、
「開幕から二十四試合戦ってきたが、そろそろオーダーを固定する時期にきた。この先ますます固い団結を図る意味でも、ここでチーム構成、作戦、人間関係等、ひとこと物申す者がいたら聞いておきたい」
一枝が、
「特になし。金太郎さんが気兼ねせずに野球ができるようになって、バンザイだ」
浜野が浮かない顔をしている。知ったことではない。木俣が、
「なし!」
高木が、
「文句ゼロ!」
十八
太田コーチが、
「ところで、五月二十四日の土曜日に、中日球場で恒例の小学生野球教室があるんだが、だれか参加してくれないかな。翌日巨人戦のナイターだけど」
「ぼく、出ます」
私は手を挙げた。俺も俺もとレギュラーのほとんどが手を挙げた。
「なんだ、例年ならだれも手を挙げないから、こっちから頼んでいたのにな。あんまり参加してくれても、主催者のふところに負担がかかるんだよ」
「ぼくは無料で」
「ワシも」
「俺もめずらしく一本打ったから、景気づけに無料奉仕をするか」
小川が言うと、田宮コーチが大笑いして、
「わかった。きてくれるやつはみんなきてくれ。足代くらいは出す。子供たち喜ぶぞ。六十人も参加するんだ」
水原監督が、
「私も出ますよ。帰りにみんなにめしをおごります」
「や、監督は東京に予定が……」
「ないない。古女房と孫娘の顔を見に帰るだけだ。巨人戦が終わったら、二日の中休みがある。ゆっくりいってくるよ」
池藤が、
「あの、私も参加したいんですが。子供たちに、デッドボールや突き指なんかの応急処置を教えてやりたいんです」
鏑木が、
「私も基礎トレーニングを」
結局ベンチ入りしている全員が大挙して押しかけることになった。水原監督がうまそうに煙草を吸いながら、
「帰りのめしは、栄の河文にしよう。野球教室が終わったらみんな着替えてね。ユニフォームやジャージじゃ入れてくれないから」
長谷川コーチが、
「第二試合は勉ちゃんと、浜野。大洋はたぶん島田源太郎と池田重喜だろう」
田宮コーチが、
「ショートは島谷、控え一枝、サード太田、控え徳武、ライト菱川、控え江島と千原、キャッチャー木俣、控え新宅と吉沢。モリミチは二番に戻す。徳武と江島と千原は、太田と菱川にだいぶ後れをとってる。きょう控えで打てなかったら当分使わん。達ちゃん、五のゼロはないだろ。十三日のアトムズ戦のフリーで五十本いけ。振りが荒くなってる。当たりゃ入るんだから大振りしなくていい。セリーグのキャッチャーで三割三十本打てるのはおまえしかいない。もっと正捕手の自覚を持ってくれ。太田、おまえも荒い。木俣といっしょに五十本。出合い頭のホームランなんか狙わないで、もっとシュアにいけ」
「ウス!」
「健ちゃん、あさっては二人に投げてやってくれんか」
「オッケー。鉄の肩の出番だね」
「もう一人必要でしょう。俺も出ますよ」
水谷寿が言った。吉沢が、
「俺と時ちゃんがキャッチャーいきます」
「たのんます」
私は田宮コーチに、
「ぼくも打ちこみます。第一打席のセンターライナーは明らかにミスでしたから」
「あのセンターライナーはミスじゃない。しっかりとした打ち返しだった。あと三メートルもずれてたら長打だった。金太郎さんは量を超えた質がある。プロの世界は量よりも質だ。しかしそれは最高レベルの選手にだけ通用する言葉だね。並の人間は何と言ってもやっぱり量をこなさなくちゃいけない。愚直に、ひたむきにね。量をこなして初めて高い質が生まれる。金太郎さんが量をこなしてないとは言ってない。素振り千本とか、千本ノックとか、五十メートルダッシュ十本とか、そういう馬鹿な鍛錬をやらずに、自分なりに目的を持った特訓を多量にやってる。入団以来のからだの成長と筋肉のでき上がり具合でハッキリわかる。おそらく尋常でない練習量だ。そこを経て、いまの質に至ってる。量よりも質だと言える段階にある。いや、その両方とも関係ない段階かな」
舌打ちが聞こえた。浜野だった。江藤がギョロリと睨んだ。
†
ダブルヘッダー第二試合。対大洋六回戦。グランドキーパーが何人も出て内野の土を整備する。照明塔にぼんやりと暈(かさ)ができはじめる。眼鏡をかける。芝生の鮮やかな緑が目に沁みる。ユニフォームのベルトとスパイクの紐を締め直す。コンクリートの上で足踏みし、土を落とす。
「太田、キャッチボールやろう」
「ウス」
ファールグランドに出て、太田とキャッチボール。スタンドから拾い物をしたような歓声が落ちてくる。ヨーシ! という声が上がって、高木守道がやってきて私に並んでキャッチボールに加わる。強いボールを太田に投げる。太田がいい音を立てて捕球する。
「ほんとに美しい球場だ。俺の人生のすべてがこのグランドに詰まってる」
太田コーチもやってきてキャッチボールを見つめる。
「昭和二十三年十二月の球場開きで、ここでオールスター対抗戦が行なわれたんだ。寒い冬に徹夜をして並んだ二万人以上の観客がスタンドを埋め尽くした。チャンスやピンチでものすごい音がする。木製のスタンドでファンたちが足踏みするんだ。中日球場の名物になった。二十六年に守道の遭遇した火事で焼けて、二十七年に鉄筋コンクリートで再建された。それ以来この形だ」
高木が、
「二十八年にナイター設備が完成して、二十九年にはテレビ塔ができた。テレビ塔は関係ないか。とにかく日本一のグランドだ。土の状態が日本一いいからイレギュラーを考えなくてすむ」
試合開始が迫り、キャッチボールを切り上げる。歓声が横殴りにやってくる。
「楽しそうにやっとったな」
江藤が笑いかける。
「はい、中日球場物語です。高度経済成長期直前の」
「おう、あのころか。地元の中学生どもがボールボーイやっとってな、巨人戦になると三塁のロッカールームにサインもらいにいきよる。それから一塁ベンチにやってきてワシらにサインばねだるっちゃん。大目玉食らわしたった。おまえら先に巨人のサインばもらいにいきよったろ、どっちのファンや、浮気者が、てな」
思い出の質も風変わりだ。
「サインは?」
「一列に並ばしてよろしくお願いしますって声上げさして、サインしたった」
ベンチ脇のボールボーイたちが、ダッグアウトの笑い声に耳を立てている。
下通のスターティングメンバー発表の声がフィールドに流れる。ドラゴンズは、中、高木、江藤、神無月、島谷、菱川、太田、木俣、田中勉のオーダー。木俣を八番に落としたのは打撃が不調だからではなく、そろそろ当たりが出てきそうなので、下位打線の走者をゴッソリ浚ってもらうためだ。ホエールズは、一番から、ショート関根、セカンド近藤昭仁、ライト中塚、サード松原、ファースト伊藤勲、キャッチャー大橋、レフトジョンソン、センター日下、ピッチャー島田源太郎の布陣。別当監督はキャッチャーの伊藤をファーストに入れた。ころころと打順や守備位置をいじる監督だ。
背番号20島田源太郎。長嶋と同期入団。江藤の一年先輩。落差のするどいカーブが持ち味。ずんぐり、オッサン面。意外と背が高い。彼とは二度目の対戦になる。ヨイショという担ぎ投げ。遅いボール。この試合も大量得点が見える。
煌々と輝く照明塔は、一塁ベンチからぐるりと三塁ベンチにかけて三基、一塁スタンドやや後方に一基、内野と外野の切れ目に一基、スコアボード右脇に一基、左中間後方に一基、内野と外野の切れ目に一基、計八基。きわめて明るい。
一回裏、中、高木、遅いストレートを打って連続でライト前ヒット。いまの島田源太郎に完全試合の面影はまったくない。ネクストバッターズサークルで手招きする江藤に近づく。
「なめとるな。試合捨てとるんやろう。取れるだけ取ろ」
江藤フォアボール。私はスコアボードの右肩を越えていく四十四号満塁ホームラン。島谷、菱川、太田、連続三振。なぜ? 島田のボールが動きだしたのか。
二回裏、木俣三遊間ヒット、ほら、当たりだした。田中勉、二年ぶり生涯四本目のホームラン。水原監督とタッチし、物静かな男が小躍りして、ほんとうにうれしそうにホームインした。長谷川コーチの背番号66の背中がベンチからやさしくその様子を見つめていた。ゼロ対六。中センター前ヒット、高木三振、あれ? 江藤ショートゴロゲッツー。ん?
三回裏、私右中間二塁打、微妙に打ち損なった。ボールが縦に動く。落ちるカーブの真芯を叩いてしまった。初球に三盗。これで今季四つ目の盗塁になる。島谷三振、菱川ピッチャーゴロ、太田キャッチャーフライ。田宮コーチのアドバイスは遅効性のようだ。しかしこれでいい。シュアヒッターというのは打率の高いバッターのことだ。長打は少なく、ミートがうまい。それは菱川や太田の本領ではない。確実で堅実なバッティングは中と高木にまかせておけばいい。
四回裏、木俣センター前へクリーンヒット。田中勉三振。中ファーストライナー。高木三遊間の内野安打。江藤レフト前ヒット。木俣生還、ゼロ対七。私、敬遠。ツーアウト満塁。菱川サードファールフライ。チェンジ。これは抑えられているということか? 島谷と菱川と太田は、五回表の守備から一枝、葛城、徳武に交代させられた。
トンボが入った五回表、大洋は二塁打の関根を伊藤がライト前ヒットで返した。大洋の得点はそれだけ。一対七。
五回裏、徳武右中間に落とす二塁打。木俣、高目のボール球を扇風機のように振り回して左中間を抜く二塁打。徳武還って一対八。ついに八番バッターに有効打が出た。木俣三の三。田中勉三振。中左中間の三塁打、木俣還って一対九。高木センターへ浅い犠牲フライ。中還って一対十。ツーアウトランナーなし。江藤三塁線二塁打。私レフトライナー。
六回裏、一枝レフト前ヒット。葛城三振、徳武三振、木俣三振。遅いボールなのに異常に三振が多い。みんなほんのわずか変化するスライダーにやられている。
七回裏、田中勉ショートゴロ。中レフト前ヒット。高木三振。江藤サードゴロ、ゲッツー。
八回裏、私ライト中段へ四十五号ソロ。一枝ライト前ヒット、葛城とヒットエンドラン、ライト前へ抜けて一塁、三塁。徳武レフトフェンス直撃の二塁打。一枝生還して一対十一。ノーアウト二塁、三塁。木俣、ライト中段へ六号スリーラン。一対十四。
「木俣選手、六号ホームランでございます」
サンドバッグ状態の島田をまだ代えない。田中勉一塁線を抜く二塁打。中ショートフライ、江藤、ライト前ヒット、田中勉還って一対十五。ぐわんぐわんと球場内が金盥の響くような轟音になった。別当監督は意地になったようにピッチャー交代を告げない。きょうをかぎりに島田を引退させる気だとしか思えない。十五点も取られながら彼は三振を十一個も奪っているのだ。異様なピッチングだ。ピッチャーは軟投型に変身すると、まず生き延びられない。そんなことを思っていたら、ぼんやりしていた江藤が牽制球で危うくアウトになるところだった。時計が九時に近づいた。ワンアウト一塁。
「ドラゴンズの選手交代を申し上げます。神無月に代わりまして、バッター新宅」
ドッと拍手が上がる。背番号19、新宅洋志(ひろし)、二十六歳。眉毛の濃いオヤジ面。バッティング練習のときなどに木俣と並んで立つと、木俣が並外れて愛らしい顔に見える。レギュラー的な実力を持ちながら、打撃力にすぐれる木俣の陰に隠れ、四十年の入団以来地味な存在に終始している。それを知る根強いファンの歓声だ。
「さ、ヒロシ、男を見せろ!」
「ヨ、ホホイ!」
新宅はファールで六球も粘った。七球目にフェンス際まで大きなレフトフライを打ち上げた。二塁ベースの近くまで懸命に走り、ベースを踏んで戻ってくる。木俣を見ると、無言で目を赤くしていた。私は彼の膝に手を置いた。
「木俣さん……」
「俺、一年目、打てなくてさ。二割そこそこ、ホームランなし。百十三回打って、ヒット二十四本、三振も二十四個。エラーばっかして、三試合にいっぺんしか出してもらえなかった。このまま終わっていくんかなあと思って……。そのときの気持ちになった。二年目からホームラン十本以上打てるようになって、ほとんど全試合出さしてもらった。新宅は打てん。もう四年目なのに、これじゃあかんやろ。同い年なのに」
頬を拭った。葛城が木俣の肩を叩き、
「プロってのはそういうもんだよ、達ちゃん。活躍する選手もいれば、活躍できない選手もいる」
「むかし栄えた人はそれでいいです。晩年を惜しまれる。一度も栄えんと去っていくのは悲しいですよ。吉沢さんだってむかしは名キャッチャーでならした。新宅や時ちゃんは万年ブルペンキャッチャーで終わる」
新宅が温かい拍手の中をさわやかな顔でベンチに駆け戻ってきた。
「達ちゃん、俺しばらく出番なさそうだな。ブルペンとバッティングキャッチャーでがんばるわ」
そう言って、木俣の後ろのベンチに座った。たしかに吉沢とともに今シーズンの起用はもうほとんどないだろう。ずっとベンチの後部座席に座って戦況を眺めながら継投待ちをしていた浜野が、新宅の背中に、
「なに弱音吐いてるんすか! がんばるしかないんすよ。戦時中の沢村が言っとります。どうせ二十歳までしか生きられないなら、いまを楽しく生きよう」
またわけのわからないことを言い出した。みんな顔を見合わせた。浜野はしゃべりつづける。
「島田は別当に罰を食らったんだな。五回に味方がやっと一点取ってくれたのに、徳武さんと木俣さんの二塁打連打ですぐ一点を取り返された。万死に値する」