二十五

 五回目の呼び出し音で出た。
「はい、セドラです」
「アヤ?」
「あ……神無月さん!」
「そう。ひさしぶり。元気?」
「……元気よ。とうとう声が聞けた。……うれしい」
 たちまち涙が噴き出したような鼻声に変わる。
「脅迫高校生、心配したわ。神無月さんが殺されたら私も死ぬつもりだった。生きていてもしょうがないもの。命まで狙われたのに何も咎めずに許してあげて……立派なことしたわ。売名行為って馬鹿なこと言ってる人もいたけど、有名なのに名前なんか売る必要ないじゃない、ねえ」
「ただのいたずらだって感じてたからね。脱毛、うまくいってる?」
「ふふ……きれいよ。もう完璧にきれい。おなかの肉も取れたわ」
「だれかと寝た?」
「だれとも。また逢いにくるって約束してくれたから」
「四カ月も!」
「うん。そんなのなんでもないわ。……ほんとに、いま日本じゅうでいちばん騒がれてる人の声なのね……。こういう関係だけのほうがホッとする。電話だけの関係」
「三連戦が終わった十五日にはすぐ広島へ飛ばなくちゃいけないから、今回は逢えない。ひょっとして、二十二日の夜に逢いにいけるかもしれない」
「…………」
 悲しげな沈黙に耐えられない。これでは遠征先のホテルがセックスの私書箱になってしまうと思ったけれど、やさしい声をかけた。
「きょう逢いたい?」
「はい、三十分でもいいから。いま試合前でしょう?」
「うん、六時から。夜の十一時には部屋にいる。赤坂見附のホテルニューオータニ、五○八号室。直接部屋にきてくれてだいじょうぶだよ。妊娠は?」
「生理が終わったばかり。妊娠したらしたでいいわ。神無月さんの子供だもの。きょうは十時に店を閉めて、きっちり十一時半にいく。中央線で吉祥寺から四谷に出て、丸ノ内線で一駅。こっちを十一時に出ても悠々間に合う。帰りはタクシーで帰るからだいじょうぶ。お風呂に入っていくわ。……お化粧なしね。少しシミがあるの」
「関係ないよ」
 結局こうなってしまった。
 十九日に広島からオータニに帰ってきて、二十日から大洋三連戦、二十二日の夜は御殿山に泊まり、二十三日の昼に帰名する。そこからは二十五日の巨人戦一試合を挟んで、二十八日の大洋戦までかなりゆっくりできる。二十八日から大洋二連戦、三十一日から広島三連戦。すべて中日球場だ。六月四日から川崎でアトムズ二連戦、七日から甲子園で阪神二連戦、十日から中日球場でアトムズ二連戦、十三日から後楽園で巨人三連戦とつづく。私書箱の生活だけでも無理のないようにしなければいけない。
 二時。江藤たちと鰻の特上を食う。
         †
 明治神宮球場。芝が心持ち湿っている。
 水原監督はスターティングメンバーを思い切りいじってきた。試走の最終段階に入ったと見ていい。一番から、島谷、一枝、江藤、私、中、高木、菱川、新宅、浜野。新宅は意外だったが、これが最終テストだろう。
 アトムズの先発は快速球の松岡弘(ひろむ)。百四十五キロ程度だが伸びてくる。ただフォームが美しすぎるので、速球に威圧感がない。カーブの割れはいい。百八十六センチ八十キロの大男。常に顔がにやけている。気持ち悪い。浜野の倉商の一年後輩に当たる。岡山県出身の平松と合わせて岡山三羽ガラスと呼ばれている(らしい)。
 試合開始直後、一番バッターの島谷が初球のストレートをコンパクトに振り抜いてバックスクリーンに打ちこんだ。五号ソロ。一回先頭打者初球ホームラン。めずらしいものを見た。これできょうも圧勝かと思ったが、一枝、江藤、私とすべて速いスライダーにやられて、セカンドゴロ、セカンドゴロ、ファーストゴロ。一対ゼロ。
 その裏、先発の浜野が初回に一点献上。武上、福富シングルヒットのあと、高倉左中間二塁打で一点。ロバーツ、豊田を内野ゴロ、久代にライト前ヒット、西園寺三振。
 二回表。松岡は速球を見せ球にしか使わなくなった。中をカーブで三振、高木をスライダーで三振、菱川外角スライダーを右中間二塁打、新宅内角シュートをセンター前ヒット、一点。浜野ショートゴロ。二対一。
 二回裏に浜野はノーアウトで五点取られた。丸山ライト前ヒット、松岡ピッチャーライナー、武上左中間二塁打、ワンアウト二塁、三塁。福富ライト前ヒットで二者生還、高倉センター前ヒット、ワンアウト一、二塁。ロバーツ右中間深く破る二塁打で二点追加、豊田のライト前ヒットで一点追加、久代(くしろ)サードゴロ、豊田フォースアウト、ツーアウト一塁。西園寺左中間二塁打、ツーアウト二、三塁。打者一巡して丸山ピッチャーゴロ、浜野ハンブル、久代生還して一点追加、六点目。松岡ショートゴロ。チェンジ。ランナーが続々生還する背中を見ていて、ソフトボールの試合を見ているような錯覚に陥った。二対六。
 三回表、島谷フォアボール、一枝ショートゴロゲッツー、江藤セカンドゴロ。江藤はスライダーを打とうと意地になっている。
 三回裏、浜野に代わった若生和也がこれまた打ちこまれる。武上三振、福富ファーストゴロのあと、高倉ライト前ヒット、ロバーツセンター前ヒット、豊田左中間を抜いて、一点。ツーアウト二、三塁。久代に代わって入ったキャッチャー加藤俊夫がライト前にヒットを打って二点。ツーアウト一塁。西園寺一、二塁間へ内野安打。ツーアウト一、二塁。丸山セカンドゴロ。二対九。
 四回表、私、スライダーをうまく掬って、ライト最上段の場外弾防御ネットに当たる四十六号ソロ。外野スタンドの最上部に広告看板のないことと、観客が満員だったことにあらためて気づく。一塁を回るとき、バックスクリーンの上にコカコーラとキリンビールの看板広告が乗っかっていることに気づいた。広告はそれと、スコアボードの下部の〈シチズン時計〉だけだった。頭上で帽子をくるくる回していた水原監督とハイタッチのみ。
「みごとでした! いずれあのネットは越えますよ」
 三対九。中、外角スライダーを思い切り引っ張って右中間二塁打、高木落ちるシュートを引っかけてサードゴロ、菱川内角シュートを払い打ってレフト中段へ七号ツーラン、新宅センターフライ、若生の代打江島真ん中高目ストレートをレフト前ヒット、島谷フォアボール、一枝外角スライダーをライトフライ。五対九。反撃もここまでだった。
 四回裏、若生続投。松岡センター前ヒット、武上三振、福富ライト前ヒット、高倉ショートゴロゲッツー。
 五回表、江藤スライダーをようやく打ってライトライナー。こだわりつづけている。松岡との長期的な対決を考えているからだ。見習おう。きょうはラストイニングまで松岡の変化球対策に没頭するしかない。私ファーストライナー。さっきは外角から入ってくるスライダーだったので見やすかったが、真ん中から内角へ曲がってくるスライダーは微妙に芯を外す。中外角高目速球で三振。
 五回裏、若生に代わって板東登板。ロバーツセカンドゴロ、豊田レフト前ヒット、加藤右中間深いところへ二塁打、豊田還って一点。西園寺レフトフライ、丸山ライト前ヒット、加藤還って一点。松岡一塁線を抜く三塁打、丸山還って一点。武上ショートゴロ。五対十二。旗色が悪すぎる。
 六回表、江藤ファーストフライ、私センターフライ、中セカンドライナー。
 六回裏、板東続投。福富三振、高倉レフト前ヒット、ロバーツライトフライ、豊田センター前ヒット、加藤フォアボール、ツーアウト満塁。西園寺ライト前ヒット、二点。丸山レフトフライ。五対十四。      
 板東に代わった門岡と松岡の投げ合いで、七回以降ゲームが膠着した。中日が負けると悟った観客がざわつきはじめた。七回表、高木から始まったドラゴンズ打線は、打者九人すべて凡打(私の最終打席はライトライナー。松岡にこれで八打数二安打、一本塁打。苦手な投手になりそうだ)、アトムズは七、八の二回で打者八人、散発二安打。
 五対十四のままα負けした。勝利投手松岡、敗戦投手は浜野。一枝と江藤と高木がノーヒットだった。負けた瞬間、スタンドがどよめいた。江藤は、さばさばした顔で、
「つかんだばい」
 と言った。私も、
「つかみました」
 と言った。
「打たん」
「ぼくも同じです。真ん中から水平に曲がってくるボールは掬い上げられません。外角から曲がってくるときだけ手を出すことにして、あとはシュートかストレート打ちに徹することにしました」
 八時四十分に試合が終わった。インタビューがないので、さっさとバスで引き揚げた。水原監督が、
「ピッチャーの不甲斐なさは措いといて、きょうの負けは意義深かった。松岡に完全に一本とられたね。これからのアトムズのピッチャーは松岡一人と言っていい。それを攻略するために、みんな凡打覚悟で難しいスライダーやシュートに手を出していた。見ていてもちろんわかったよ。島谷くんの初回のホームランは初球ストレートの出会い頭だったとしても、そのあと、しっかり二つもフォアボールを選んでいる。金太郎さんはアウトコースのスライダーを百五十メートル、そのほかはすべて内角スライダーをミートしようと努力していた。菱川くんは内角高目のシュートをレフトへホームラン、右中間へもカーブをきっちり二塁打している。江藤くんと一枝くんと高木くんはノーヒットに終わったが、ひたすら内外角スライダーに絞って、悪戦苦闘していた。松岡の持ち球だからね。何かをつかんだようだね。表情でわかる。新宅くんは、外角のスライダーを引っ張ってセンターへ打ち返した。あれも一つの対策だ。合格。シーズン中は三割がたの試合に出てもらうよ。あしたは早めに勝負を決めてしまいましょう。二十点いきますか。ハハハハ」
 九時半の最終客としてギリギリ間に合ったので、江藤たちと大挙して十七階の『リブルーム』でしっかりステーキを食った。スープはオニオングラタン。精をつけた。あしたのスタミナは万全だ。食事を終えるとみんなは最上階のバーのほうへ回った。私は部屋に戻り、あしたのユニフォームや用具の用意をして、シャワーを浴びた。
         †
 ドアにノックの音がし、別人のように美しくなってアヤが現れた。淡いシアン色のワンピースに薄紫のカーディガンをはおっている。薄っすらとファウンデイションを塗っているのは、やっぱりシミが気になるからだろう。
「神無月さん!」
 キスをし合う。服の上から胸と陰部をまさぐる。
「ああ、うれしい、やっと逢えた!」
 服を脱がせ、抱きかかえ、ベッドに横たえる。大切にブラジャーを外し、パンティを取る。それから私も全裸になる。腹の脂肪のくぼみがすっかり消えている。腹をさする。
「いまも二日にいっぺん走ってるのよ」
 得意そうに微笑む。
「お尻の穴を見るよ」
「いいわ」
 両脚を持ち上げ、覗きこむ。自分で言ったとおり、肛門の周りがすべすべしていて、股の付け根までむだ毛がない。脱毛したばかりのピンク色ではなく、淡い茶色のふつうの肌になっている。大きな陰核包皮とほとんど同じ色だ。心なしか陰毛も少なくなって整っている。ふっくらとした大陰唇が舌を誘う。そっと小陰唇を咬む。弾力がある。
「ああ……好きよ、神無月さん」
 舌の移動につれてゆるやかに反応が始まり、
「あ、イクわね、神無月さん、ああ、イク!」
 記憶していたよりも慎ましくアクメに達した。ひくついているクリトリスをこすり上げながら大切に挿入する。熱い。こんなに熱い膣だったか。壁がヒクヒクと包んでくる。
「ああ、固い! 当たる、この感じよ……いつも、いつも、思い出してたわ」
 子宮が降りてきて亀頭を押す感覚を思い出した。動く。今度は慎ましいというわけにはいかず、たちまち昇りつめ、激しく痙攣する。子宮が降りてきた。ぶつけてやる。
「あわ、気持ちいい! だめだめ、またイッちゃう、あ、ふくらんだ、神無月さん、ふくらんだ、いっしょに、いっしょに」
「イクよ!」
「いっしょに、いっしょに、愛してる、愛してる、ううーん、イク! ウン、イク!」
 結合部を離さず痙攣しつづけるのは半年前と同じだ。私の律動も快適になる。その分彼女の快感が限界を越えて苦痛に変わる。
「だめだめだめ、死んじゃう、苦しい、もだめ、苦しい、あああ、イクウ!」
 私の律動がやむと、苦痛が快楽の余韻に変わり、弱い痙攣がつづく。私を抱き締める力が強くなり、快感が退いてきた証拠になる。愛しさが募り、口づけをする。からだを離して並んで横たわると、アヤは尻のあいだにティシュを挟んだ。
「この半年、どんどん神無月さんがえらい人になっていって、さびしくてさびしくて、気がへんになりそうだった。へんな出会い方をしちゃったし……私えらそうにしちゃったから、気を悪くしてるだろうなって思ってた……雲の上の人がもう連絡なんかくれるはずがないってあきらめてた」
「えらい人というのが気にかかるけど、忙しくなったのはほんとうだね。雲の下にいるけど、駆けつける時間がなくなった。だから駆けつけてもらうしかない。女は何十人にも増えちゃったし、セックスも忙しくなった」
「冷たそうにしゃべってるけど、抱き方でほんとに温かい人だってわかる。私は半年にいっぺんでじゅうぶんなのよ」


         二十六

 シャワーを浴びて、服を整え、『にいづ』から深夜のルームサービスで鰻をとる。竹重と特重。私は竹重。
「仲間とステーキ食ったから。さ、食べて」
 アヤは、小鉢、煮物、肝吸い、新香などをめずらしそうに見る。串焼きも一本ずつつけてもらった。ビールで乾杯。
「野球選手って、いつもこんな贅沢なものを食べてるの?」
「うん、食いものは贅沢する。精力が資本だから。今夜もステーキを食った」
 アヤは山椒を振り、大切そうに一箸ずつ掬いながら、
「お客さんが言ってた。今年のドラゴンズが強いのは、もちろん神無月さんの神通力のおかげだけど、一人ひとりが凡打のときも一塁へ全力疾走するからだ、そういうあたりまえのことがいちばん難しい、チーム全員がそれをやっているのはドラゴンズだけだって」
「たぶんそのとおりだと思う。でもそうやってるのは今年からだよ。たいていのチームは夏場に調子のピークを持ってくるように、春は流す。夏はめいめいの選手が疲労のせいで動きのなまる時期だから、そこで失速しないためにね。中日も去年までは夏場にターゲットを絞ってたようだ。今年はどこにもターゲットを絞ってない。どんなときも全力。疲れたら、疲れたなりにがんばる。でも疲れが極端な形で出ないように、春先から猛練習をしないようにしてる。疲労と関係なく連敗も何度かするかもしれないけど、五連敗、十連敗はしないと思う。さ、これを食べ終えたら、ぼくたちは二回戦だよ」
「はい!」
 二回戦が三回戦になり、アヤは半死半生になった。三回戦目は五分経っても痙攣が止まず、離れたあとも尻を突き上げて悶えた。ひょっとしたらもう逢えないかもしれないという恐怖がアヤを貪欲にさせる。しかし体力の限界がきて、彼女はそれ以上のセックスをあきらめた。私は彼女の恐怖を和らげるために、三カ月にいっぺん逢うことを約した。
「三カ月後……うれしい。愛してるわ。神無月さんのためなら何でもする。命もあげる」
「歌は唄ってる?」
「ときどき。リクエストがあったときだけ。暇なときは、神無月さんのテープをかけながらビールを飲んでるの。神の声。悲しくて泣いちゃう。偶然聴いたお客さんが、だれだそれって訊くから、中日ドラゴンズの神無月郷って言うと、笑って信じてくれないの」
「どうせ信じてくれないなら、童貞奪ってやったとでも言ってやったら」
「うん、言ってやる。奪われたの、私だけど」
 二人で笑い合う。
 一時半を回って、アヤは帰っていった。廊下の外れを曲がるまで微笑みながら手を振り合った。男と女であることのさびしさ。今夜話したかったのはたぶんそれだ。しかし、さびしさを共有しているのだと慰めても空しいし、さびしさに痛む胸を開いて見せる術も私にはない。
 シャワーを浴び、逢瀬の名残を洗い流す。私は〈まじめな〉人間ではないけれども、心持ちが誠実な人間なので、別れたあとの人の気持ちに無関心でいられない。永久に愛すると口では言っても、せいぜい数十年のことだし、それもたいていは寝床の中だけの告白だけれども、せめてその数十年のあいだは、相手の身と心に関心を持ち、自発的な愛情が胸の一隅を占める人間でありたい。そう思うことで、一瞬、自分の命に価値があるように感じ、温かい気分になれる。
 しかし自分の心の奥を探ると、そういう控えめな未来をさえ疑っている冷たい投げやりなものに突き当たる。けいこちゃん、ようこちゃん、京子ちゃん、福田雅子ちゃん、内田由紀子、高橋弓子、鬼頭倫子、清水明子、河村千賀子、甲斐和子、杉山啓子……肉体を交えていないというだけの理由で、私の短い半生のあいだに関心を失ってきた女の数を数える。とは言え、肉体は欠かせない条件ではないという確信がある。私はいま周囲にいる女たちの肉体に好意を持ち、その肉体がすばらしい精神的なたたずまいを見せてくれることへの感謝として、ある意味、義務的にセックスをこなしている。義務を怠れば、倦怠と無関心に侵されるかもしれないという恐怖がある。
 永遠に私のアンニュイを打擲しつづけるだろうと私が信じている女は、カズちゃん一人だ。私はつまるところ、カズちゃんの心と肉体にしか関心がない。だから、彼女との類似を感じるトモヨさんや睦子とセックスをするときは、義務的なものを感じない。そういうかぎられた女に無限の愛情が存在すると私が信じることは、一般の人びとからは滑稽な思いこみだと思われるだろう。たしかに、彼らにとって思いこみは苛烈な現実から逃げ出すための手段かもしれないが、私の場合は理想の現実に近づくための手段なのだ。私の思いこみには効能がある。自分が苛烈な現実を理想の現実に変えて生きていると保証し、快楽の歓びなど色あせてしまうほどの強烈な精神の歓びを与えてくれるからだ。
         † 
 五月十四日水曜日。八時起床。快晴。十九・三度。起きてすぐ荻窪のトシさんの自宅に電話する。
「おや、キョウちゃん! いいの? 電話して」
「うん、トシさんの声聞きたくて」
「うれしいわ、ありがとう」
 六十二歳と思えない少し高音の、羽毛のように軽やかな声だ。
「きょうは水曜日だから、休みでしょう?」
「そうよ。……一月にお別れして以来ね。四カ月ぶり。野球をしてる姿を観たのは、ついきのうだけど。いま東京?」
「うん、アトムズ戦、神宮球場。今回は寄れないけど、今月の二十二日の夜は御殿山にいこうと思ってる」
「え? 日本シリーズが終わるまでこない約束だったでしょう?」
「そんな約束した?」
「したような……」
「たとえそうでも、現実として十カ月も逢わないなんて無理だよ」
「ほんとね。わあ、ものすごく楽しみ。チームではうまくやってますか」
「怖いほど順調」
「集団は規則まみれでしょう。感情と規則は水と油です。うまく溶け合えなくてもじっとしていれば無事ですからね」
「うん。雅子は元気?」
「元気、元気。山口さんとおトキさんは三鷹に新居を構えたから、このごろ、御殿山に風を入れにいくのは三、四日に一度。福田さんは適当に泊まったり、かよったりして、キョウちゃんの机で勉強してます。法子さんとは十日にいっぺんくらい会って、コーヒー飲んだりするわ。私、ときどき河野さんのところにも顔を出すのよ。ひと月にいっぺんくらいかな。元気よ、河野さん。このごろからだが燃えるようになることがあるみたいで、キョウちゃんがくるときはかならず呼んでって言ってた」
「やっぱりそうか。中年女が性欲に耐えるのはきついね」
「いいえ、キョウちゃんに抱かれることを思い浮かべるとそうなるだけで、いつも顔と言葉を思い出してるからからだだけ燃えるなんてことはめずらしいのよ。いつもキョウちゃんをテレビで観られるし、待っていればかならず逢えますから」
「二十二日は、たいへんなことになるね」
「ほんとね。それも楽しみ」
「翌日までゆっくりしよう」
「はい。……愛してるわ。……キョウちゃん、あと何年か、かわいがってね」
「死ぬまでね」
「愛してます。命を懸けて―」
 電話を切り、シャワーを浴びて、排便。遅いバイキング。江藤組三人と、小川と中と小野が大テーブルでいっしょにめしを食っていた。同席する。江藤が、
「金太郎さん、三島由紀夫を知っとうと?」
「はい、名前だけは。金閣寺と潮騒と憂国ぐらいしか読んだことはありませんけど」
「きのう二時から駒場九百番教室で東大全共闘と討論会ばやったと新聞に載っとる。東大祭の一環として招いたんやと。どういうことかいのう」
「さあ、まったく。九百番教室は、教養学部ではいちばん大きい教室だとは知ってますけど。すみません」
 中が、
「話にならなかったらしいね。きょうTBSで十分ぐらい録画放送するらしいよ。全共闘って、学習した知識を振り回すだけの集団でしょう。三島のような、自分の頭でものを考える人間と太刀打ちできるはずがない。三島も無理やり引きずり出されて、話すことがなくて災難だったね」
「憂国を読んでもわかりますが、三島は行動の根もとに死を据えてますからね。知識というのは未来に使おうとするためのものでしょう。未来を閉じようとする死の願望と、未来志向は噛み合いません」
 小川が、
「こらあ! わけのわからん会話をするな。やつらがどんな話をしたか一般紙に載ってるぞ。読んでもよくわからん」
 彼が示した一面に、太い眉の三島が両手を腰に、アーチ型の柱の下の学生群を睥睨している写真が大きく載っていた。

     
和気あいあいの「対決」
       
―三島由紀夫氏東大全共闘と討論
 公開集会では、学生たちが前宣伝ほどに咬みつかず、三島氏は「全共闘一日参加」を楽しまれた格好だった。会場に充てられた九百番教室は東大教養学部でいちばん大きい教室だが、九百数十名の学生がつめかけ超満員。
 討論の中で、全共闘幹部・芥正彦氏が赤ん坊を肩車して登場、衆目を驚かせた。三島氏は、歴史や伝統といった枠組の中に自分を置き、日本人であることを積極的に認める立場であることを表明し、一方、芥氏は、そういった関係性を重視することで歴史に〈やられ〉、人殺しになると主張、無国籍人たろうと叫ぶ。全共闘員の一人が、
「関係を捨象して論を立てたところで観念のお遊び」
 と、三島氏に近い主張をし、会場から拍手を浴びた。三島氏と東大全共闘が単純に敵対しているわけではないことがわかり、場内にやわらかい雰囲気が流れた一瞬だった。
 最終的に三島氏は、
「諸君は思想と知識だけでこの世に君臨している知識人の自惚れた鼻を叩き割った。他のものはいっさい信じないとしても、諸君の熱情は信じます」
 として、概ね学生運動を評価、
「きみたちが天皇とさえ言ってくれれば手をつなごう」
  と締めくくった。


 小野が、
「熱情って何だろうね」
「打算や保身や、従属、嘘、詭弁、財物といったものとは無縁のものだと思います。命を懸けていない人は持てないものです」
「全共闘の連中にはあるの?」
「疑問です。三島の思いちがいか、社交辞令でしょう。少なくとも、赤ん坊を肩車して登場した人にはありません。自分たちは未来を背負っているという陳腐な比喩です。三島は天皇という心中相手を思い定めているという意味で、しっかりとした情熱を持っています。情熱とは命を捨てる覚悟のことです」
「ふうん」
 ふと三敗目を喫したことを思い出した。二十二勝三敗一分け。水原監督が四十敗は覚悟しなければならないと言った意味がよくわかった。ちょうど五分の一の試合を消化した時点で三敗なら、単なる比例計算をすれば十五敗だが、そんな正比例的にものごとが進んでいくはずがない。上昇直線の大小の凹みを足し算すれば、最悪四十敗は喫するだろうということだ。
「初めて大差負けしましたね」
 小野が、 
「きょうは私と水谷くんだ。抑えるからね」
「お願いします」
 小川が、
「きょうあたりからレギュラー固定になるかもね。木俣がカナメになるだろう。打率は三割近いし、盗塁阻止率四割五分以上。両リーグでも三本指だからね。ナンバーワンは田淵」
「その盗塁なんですが、この二十六試合、どのチームもほとんど走りませんね」
 小野が、
「そうだなあ、例年より少ないな。パリーグは福本や広瀬という花形がいるから、周りも引きずれられて走るよね。セリーグは完全に神無月くんの影響だ。中日相手にコツコツ得点しても、神無月くんや慎ちゃんに取り返される。それで焦って、持ち分を忘れてる感じかな。相手が中日でなくても荒っぽい試合をしてる」


         二十七

 食事を終え、ロビー階の玄関から腹ごなしの散歩に出る。高層ビルの谷間に、石垣を土台にした白壁の旧家が建っている。紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡とある。人通りの少ない道を選んで歩こうと思っても、細道がない。ひたすらオフィスビルの下を歩き、擬宝珠(ぎぼし)とランタンのある瀟洒な小橋に出る。両岸を森に縁取られた浅い川が流れている。行く手に繁華なビル街が見えるので、それを嫌って左折しようとするが、そちらもビル街だ。右折して細流沿いに進む。
 川と見えたのは彦根藩井伊家の堀だった。途中から進めなくなり、国道246号青山通りと書いてある陸橋を昇る。ビルの風景しかないので陸橋を降りて先へ進む。どういう構造だろう、この街区は。樹木の気配を消した空間。林や森を求めて元赤坂という区域を歩く。緑に囲まれた広い土地があるが、豪壮な瓦門がガッチリ閉じられていて、入ることができない。道ゆく人に訊ねると、東宮御所と答える。底冷えのする階層社会を感じる。千万年生きても近づけない遠い社会。神秘的な振舞いを義務づけられた、気の毒で畏れ多い人びと。彼らの中にもきっとプロ野球のファンはいるだろう。踵を返す。
 昼が間近だ。腹は減っていない。はとバスのガイドが小旗を持ち、観光客を連れてぞろぞろやってくる。
「こちらが赤坂迎賓東門でございます。かつては紀州藩徳川家中屋敷表門でございました。これから迎賓館赤坂離宮の本館内部の見学をいたしましてから、ホテルオークラでランチをいただくことになります。それではまいりましょう」
 行列の中に見覚えのある女の顔があるので、じっと見た。たった二カ月前だ。忘れるはずがない。黒スーツを着たその顔も立ち止まり、私を見つめ返して息を呑んだ。彼女は小旗のガイドに何やら話すと、列を離れてやってきた。深々と辞儀をする。ポニーテールが揺れ、首筋のほつれ毛が昼の陽射しにきらめく。
「おひさしぶりです、神無月さん」
 そう言って大きな目を見開く。
「こちらこそ、大信田さん」
「まあ、名前を!」
 一瞬、クリクリ目が潤んだ。
「忘れません。二歳の息子さんはお元気ですか」
「はい! そんなことまで―」
「きょうは、なんでまたはとバスに?」
「入社十年目の新規研修のために、西鉄から派遣されたんです。はとバスを学んでくるようにって。きょうあすあさってと、三コース回ります。行列の人たちはみんな全国のベテランガイドさんたちで、十年研修というものに参加してるんです。旗を持ってる人はガイド兼指導教員です」
「息子さん、何日もさびしいでしょうね」
「だいじょうぶです、面倒見のいい両親に預けてきましたから」
「息子さんの名前は?」
「大吉です」
「え!」
「何か……?」
「ぼくの父と同じ名前だったもので。八歳のころに、ほんの一瞬会ったきりの父ですが」
「……そうですか。九州では、よくある名前なんですよ。神無月さんは、きょうはどうしてこんなところを?」
「朝食後の散歩です。遠征なんですよ。アトムズ戦。きょうあすまでです。第一戦はきのう終えました。あさっては広島へ移動します」
 大信田は迎賓門で待っている小旗をチラチラ気にしながら、
「どちらにお泊まりですか?」
 頬を赤らめて尋く。
「ホテルニューオータニです」
「私は都市センターホテル。都心に近くて、安いので会社もそこにしたんでしょう。研修員はみんなそれぞれ宿泊するホテルがちがいます。でもすごい偶然ですね。ニューオータニからは道を二筋挟んで五分ほどですよ」
 さらに頬を赤くする。私は少し躊躇してから訊いた。
「お訪ねしましょうか」
「私がまいります」
 顔をすがすがしく挙げて私の目を見つめた。
「十時半にはホテルに戻ってると思います。五○八号室です。外来者は何も訊かれないので、安心してきてください」
「はい。何時ごろに?」
「十一時過ぎなら」
「わかりました。それじゃ、列に戻ります」
 カズちゃんと同じ場所に八重歯があった。まるでカズちゃんと対面しているように胸がときめいた。家庭の事情は訊かなかった。これまでの事情はあっても、現在の事情は何もない眼差しをしていた。
 浮きうきとホテルに戻り、朝食をともにした仲間たちと合流した。太田が、
「散歩ですか? 何もなかったでしょう」
「なかった。シャレた橋を越えて、赤坂離宮の東門までいってきた。ああいうふうに身分そのものを見せつけられると、平民の営みが虚しく感じられるね。悪趣味だ」
「平民!」
 笑いが沸いた。中が、
「東宮御所か。あそこは戦後、国の財産になったんだ。皇族さんが借家に住んでるようなものだ。彼らにしても虚しいし、気の毒だね」
 レギュラーメンバーで十七階の『ふみぜん』にいく。ロースカツ定食。なす田楽。高木が、
「今夜の大洋は、たぶん好調の藤原真だ。二勝一敗。俺たちにしか負けてない」
「このあいだは二十二点取って袋叩きにしましたけど、ぼくは彼からホームランを打ってないんですよ。きのうの松岡といい、変化球をコンスタントに打つことが課題になってきました」
 江藤が、
「変化球打ちはプロ野球選手みんなの課題たい。ワシ、知っとうばい。金太郎さん、変化する前に叩く技を使うのに飽いたんやろう、きのう松岡相手に、変化したあとで叩く練習ばしよったろ。ばってん、うまくいかんかった。いままでどおり前で叩けばよか。だれでん使える技やないけんな。みんなバッターボックスの後ろのほうでびくびく構えよるもん。ピッチャーの機嫌ばとっとるようなもんばい。料理してくださいやって。ボックスの前のほうで構えたり、足ずらしたりするんは、中日のバッターだけやろ。金太郎さんに教えられたけんな。お師匠さんがちがうことしたらいけん」
 菱川が、
「速球に対する動体視力をもっと強化しないと、なかなか神無月さんのようには前に出られないですよ」
 太田がえらの筋肉を尖らせて咀嚼しながら、
「みんな同じですよ。それでもあえて前に出るんです」
 小川が、
「三時半出発だな。二時間何すっかな。川崎なら競馬場にいく手もあるけど」
 中が、
「競馬場からベンチ入り? 健さん、去年あたりから賭博どうのこうのってうるさくなってきたから、競輪とか競馬とかしばらく自粛したほうがいいよ。麻雀やパチンコはそれほどうるさくないけど」
「野球賭博や八百長やってるわけじゃないし、そんなに神経尖らせなくてもだいじょうぶだよ」
 小野が、
「プロ野球の八百長ってできるものなのかな」
 江藤が、
「百パーセント無理やな。勝つ八百長はないけん、やるなら負ける八百長やろ。ど真ん中投げたって打ち損じることが多かやろうし、フォアボール出そう思っても、敬遠でもせんかぎり打ってしまうやつが多か。わざとエラーするにしても、二度、三度とつづけてはやれん。タチの悪かヤクザから金ば借りて、返せ、返せ、返せんやったら八百長せい言われて、形だけやって見せとるいうんとちがうかな」
 菱川がハッとして、
「勉さん、しょっちゅうそんな感じの人きてますよ」
 小川が、
「ないない、あいつ勝ちつづけてるじゃないか。ハーラートップだぞ」
「ですよね」
 私は、
「ぼくの場合、松葉会の人たちとは中学三年以来の知り合いですが、彼らはそういう賭博系ヤクザではないし、現場のぼくを守るための一方的な援護なので、甘んじて好意を受けています」
 江藤が、
「金太郎さんの事情はフロントやら、水原監督やら、ワシらチームのみんなもよう知っとう。民社党の有力議員も絡んどるゆうこともな。ホテルや球場の護衛はその議員の命令やけんな」
 小野が、
「どういう事情で、あんな大護衛態勢をとってるの」
「小野親分は知らんかったか。話しとこ。金太郎さんが中学生のとき、大ヤケドした友人を八カ月の長きにわたって見舞いばつづけたゆうのが大もとばい。その友人が松葉会の幹部の弟やったけん、いろいろ具合の悪かことも起きた。金太郎さんにとってやなく、世間体を気にする母親や教師にとって具合の悪かことばい。そいつらに金太郎さんはねちねち責められた。それでも見舞いをやめんかったけん、最後は島流しを喰ろうた。友だちも野球もぜんぶなくした。そこから不死鳥のごつ立ち上がって、四年後にプロ野球選手になった。金太郎さんのそぎゃん不屈の心意気に松葉会の組長が感激ばして、組を挙げて自発的に恩返ししとるちゅう仕組みたい」
「壮絶だね」
「おお。松葉会の支援は純粋なもんたい。賭博やら八百長やらとはいっさい関係なか。松葉会の連中も目立たんようちかっぱ努力しよるし、金太郎さんにも近づいたらいけん、口利いたらいけんてきつく命令ばしよる。ばってん、マスコミはうるさか。ぜったい知られんごとしぇないかん」
 小川が、
「松葉会は山口組傘下の最大級の組織だな。賭博や麻薬をやらん典型的な武闘派の暴力団だ。収入源のほとんどは、飲み屋や商店のミカジメで上げてる。地回りヤクザを清廉潔白というのもおかしいけど、国貞忠治とか清水次郎長の系統だな。そこの組長に気に入られたとなると、金太郎さんは一生安泰だよ。かえって清潔に生きられる。しかしマスコミはそうはとらん。コミッショナーも同じだろう。俺たちは松葉会のマの字も口に出したらいかん。金太郎さんもそうだぞ。チーム内にはこのことを知らない連中もかなりいる。金輪際、口に出したらだめだよ」
「はい」
 太田が涙目で、
「何度も言いますが、野球やって、勉強やって、八カ月欠かさず見舞いをすることは逆立ちしたってできませんよ。俺はその目撃者です。ヤクザはもっと感動するでしょう」
 江藤が、
「ほうやろな。ばってん、川上のごたる〈紳士〉に知られたら、一巻の終わりたい」
「そのときは、ぼく一人が球界を去ればすむことです。ぼくは自分の魂も、みなさんの魂も、松葉会の人たちの魂も汚したくないので」
 みんな視線を落としながら黙々と食い終えた。小野が、
「フロントが知ってることが、いちばん心強い」
 と、ひとこと言った。その言葉を潮に、それぞれ自分なりの二時間をすごすために部屋へ戻っていった。私も自室に戻り、時間をかけてアトムズの選手名鑑の再確認をした。




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