三十四

 近眼鏡をかけ、ジャージ姿で出る。玄関前でシャッターの音に取り囲まれ、ついてこようとしたカメラマンもいたので、
「本を買いに散歩にいくだけです。ついてくるなら遠く離れてください。ファンに気づかれてうるさいことになりますから」
 振り返らずクネクネと十五分ほど歩いて、八丁堀という市電停留所に出る。やはり二組の男たちがカメラを抱えてレンズを向けている。天満屋八丁堀ビルという百貨店ふうの大きな建物があったので入ってみる。七階と八階が丸善になっていた。エレベーターで上がる。何食わぬ顔で何人かの男たちがカメラを手にエレベーターの中に立っている。
 書棚の前に立つと、バシャという音がした。河出書房の世界文学全集が全二十五巻も並んでいたので、第三巻スタンダールの『赤と黒』を買う。六百九十円。また買ってしまった。西高に転校したばかりのころ花の木の西図書館で手に取り、ルソーの『告白録』に似ているとカズちゃんに示唆され、結局、気にかけたまま読まずにいて(カズちゃんが再読して返却した)、飛島寮にいたころもう一度文庫本で買って、雑に読み終えた小説だ。今回は綿密な読了の目標を持って読み返してみよう。これとスポーツバッグの底に入っている青春の蹉跌で、日中の空いた時間をすごせる。
 もときた道を八丁堀から戻っていく。低い家並の商店街を歩く。八百屋、魚屋、たばこ屋、床屋、ミシン販売店、パチンコ店、ビヤホール、饅頭屋、不動産屋。いずこも同じ、あらゆる種類の店がある。手に煙草を挟んだメンパンに下駄の男、白やオレンジのミニスカート、芸妓と連れ立って歩いているポックリ履きの婆さん、学生帽の中学生、ギリシャサンダル姿の小学生の女の子。自家用車、バス、オート三輪が走り、リヤカーが通る。開発が進み、歩道橋も完備した平和通り近辺とは趣がちがう。それでもさすがに大八車や馬車は通らない。タクシーを拾い、
「どこでもいいから、有名なお寺へ」
 海のそばの国泰寺(こくたいじ)という寺へ連れていかれる。鼎(かなえ)のような白いコンクリートの山門のすぐそばに白神神社、その隣にNHKの放送ビルがあった。神社には入る気にならず、フロントガラスからぼんやり見つめた。二台の車が追いつき、窓から身を乗り出してカメラを構え、私がタクシーを降りるのを待っている。運転手が標準語で、
「ここは爆心地から六百メートルです。被爆した楠木が境内にあります。国泰寺には大石内蔵助の妻女りくと、三男の墓があります」
「浅野内匠頭と四十七士の墓は東京の泉岳寺ですよね」
「はい、正確には、討入り前に切腹した萱(かや)野三平の供養墓を入れると四十八基です」
「供養墓というのは?」
「ご遺骸のない墓です」
「赤穂というのは広島県ですか」
「兵庫のほうです」
「なぜここに内蔵助の奥さんと息子さんの墓があるんですか?」
「三男の大三郎は、内蔵助の討入り当時、りくのお腹にいたんですが、赤穂取り潰しのあと、十二歳になったとき、世間の人気者の息子だということで、広島藩の浅野本家に召抱えられました。内蔵助と同じ千五百石の知行取りにしてもらったんです。いっしょについてきたりくは六十八歳で亡くなり、大三郎は六十九歳でこの地で亡くなりました」
 こういう話は結局よくわからない。車を降りて運転手と二人で墓を見にいく。さびしげな塔墓が二基、崖の小森を背景に立っていた。
「りくは大きな女で、百八十センチあったと言われてます。内蔵助とは蚤の夫婦ですね」
「グラマーだったんでしょう。温かく包みこまれる感じだ」
 掌を合わせるとフラッシュが光った。
「何ですかね、あれは」
「さあ、観光客特集か何かで撮影してるんじゃないですか」
 運転手は野球をあまり知らないようだ。煩わしい会話にならなくてすんだ。ついでに海のほうへ出てもらった。しきりに市電がすれちがう。猿猴(えんこう)川と元安川の合流点まで車を走らせたが、だだっ広い川と遠景に山並が見えるきりで、海らしき広がりが目に飛びこんでこない。世羅別館まで戻ってもらう。最後までしつこく白いバンが二台ついてきた。
 世羅別館に洋室は数えるほどしかない。プロ野球チームが泊まる部屋は和室で、大きな角テーブル、小さなカラーテレビ、小さな冷蔵庫が置かれている。部屋の壁や天井は年代ものといった感じがするけれども、掃除が行届いていて十二畳もある。一つ残らず上クラスの部屋だ。安い部屋を求める客は、隙間風の吹きこむような建てつけの悪い部屋に通されると菱川が言っていた。入団当時は彼らもそうだったそうだ。夜は仲居が布団を敷きにくる。仲居たちはサインを求めず、律儀で、愛想もいい。食事は宴会場でも自室でもとれるが、自室でとる場合は仲居がおさんどんをする。監督、コーチ陣、トレーナー、マネージャー連は、四階の個室に泊まっている。
 浴衣を着て大浴場にいく。浴槽は黒い石枠、湯殿は大きな四角いタイル貼り、湯はかけ流し。ほかに湯浴み客は二、三人。落ち着く。頭髪を洗う。
 浴衣姿でロビーのソファに落ち着き、大窓から中庭を眺めていると、眉の太い小柄な男が近づいてきて、頭を下げた。グランドでときどき見かける顔だ。
「日野と言います。二軍と一軍をいったりきたりです。今回も二軍から上がってきました。私、神無月さんの大ファンで、こうして口が利けるのを楽しみにしていました。すげえ美男子ですね」
 私は黙って太い眉の角面を見つめた。ソファを勧める。
「井出さんはどうしてますか」
「がんばってますよ。野手転向を目指して本多コーチや岩本コーチに鍛えられてます」
「二軍も試合があるんでしょう?」
「一軍よりあります。ただ二軍戦は、ケガから復帰途中の一軍選手が調整する場でもあるんです。有望株でなければなかなか出場機会はありません。このあいだは中さんが調整にきてました」
「井出さんは有望株じゃないんですね」
「打撃は一朝一夕で力がつくものじゃありませんから。二打席ぐらいは出してもらえますけど、打てないと何試合も出してもらえなくなります。……私も神無月さんと同じドラフト外で、おととし松下電器から入団したんです。中大時代は同期に高橋善正、二年先輩に武上四郎がいます。武上さんとは二遊間でコンビを組んだこともあります。去年は一枝さんの控えで四十八試合も出させてもらったんですが、打てなくて。一割三分、ホームランゼロ、打点一、三振十五。また二軍に落とされて、きょうは今年何度目かのベンチ入りです。しばらくベンチウォーマーでしょう」
「それなら呼んだ意味がない。めしは?」
「いまからです」
「いきましょう」
 すでに球団貸切の宴会場でみんなわいわいめしを食っている。私が日野と入ってきたのに驚き、江藤たちが膳を抱えてやってきた。
「おまえ、金太郎さんに口利いてもらったとや?」
「はい、おっかなびっくり話しかけました。気さくな人でよかったです」
「ラッキーやったな。言っとくけど、一人ボーっとしとるときは、声をかけたらいかんばい。ワシらも遠慮しとうっちゃけん」
「はい」
 太田が、
「日野さん、ひさしぶり。また一軍ですね」
「うん、ありがとう。試合前のシートノックにはときどき出てたんだけどね。二軍宿舎に戻らないでベンチ入りするのはひさしぶりだ。菱と太田がいなくなって、二軍はドングリになった。その中から選ばれた。怖いよ。一軍に上がれば緻密な作戦に組みこまれる。失敗が許されない。ガチガチに緊張する」
 私が、
「緻密? みんな伸びのびやってますよ。全力で好きなようにやって、たくさん失敗すればいいじゃないですか」
「好きなようにやって成功率の高いレベルの人間ならいいですけど、私たちはそうじゃないから二軍にいるんですよ。ベンチの指示に従います」
 菱川が、
「指示は何も出ないよ。本多さんみたいに細かいことは言わない。ただ、打てないと、二打席ぐらいで代えられる。なんせクリーンアップが神無月さんの六割九分を筆頭に、みんな四割近く打ってる人ばかりだから、こっちも刺激を受けて、へたな小細工なんかしなくなっちゃう。開幕から二十八試合、バントの犠打なんか一つもないよ」
 私は、
「中さんが一つやりました」
「あ、そうでした。ま、とにかく、選球、ヒッティング、立ち位置、すべての教科書は神無月さんだ。二軍にいるときより千倍も勉強になる。ベンチなんか見ないで神無月さんを見てればいい」
 江藤が、
「そのとおりたい。金太郎さんをよォく観察することばい。ただ、代走ぐらいしか、なかなか出番はなかぞ」
「はい、わかってます」
「プロ野球の選手としていちばん重要なことは、オーラを身につけることばい。お客さんなしでプレイしとるわけやなかけんな。お客さんからお金ばもらってプレイを見せとる以上、才能があるのはあたりまえで、その先が問題ばい。こいつは打ちそうだ、この勝負はこっちが勝ちそうだ、そういう雰囲気は野球を知らんお客さんも感じる。それがオーラたい。オーラは目標に向かってぶれない心から生れるったい。ヒットを打ちたい、速球を投げたい、レギュラーになりたい、連続出場したい、一つタイトルを獲りたい、何でんよか。金太郎さんなんか、ホームランを打ちたかしかなかぞ。それが打席に立つと青白い炎のように燃え上がって見える。怖(えず)かほどばい。……生まれつきの光やけん、かなわんとは思うばってん、プロらしくあるためにはそれが必要だとワシは悟った。その十分の一の光でも発するためには、まじめに、情熱的に野球をやるしかなかよ」
 菱川が、
「一軍というのは、二軍のようにボサッとしていたり、ただギラギラしていたりしないんだ。とにかく明るい。真剣な明るさというか……少なくとも焦っていない。みんなよく練習するし、取り組む姿勢もまじめだ。それが明るさに結びついてる。焦ってるだけでまじめに練習しないやつは暗い。出場機会も少ない」
「うん、よくわかる。二軍にいると、仲間内に見せることばかり考えて、お客さんの存在を意識したことはあまりなかった」
「二軍戦は客が入らんけんよ。プロ野球は客に見せる商売ぞ。何のための給料ね。ワシは一度も二軍を経験したことはなかばってん、ウェスタンの試合は見たことがある。すぐわかったんは、身内感覚でチンタラやっとるけん相手と勝負する強い気持ちがなかゆうこったい。今回もそうなんやぞ。お試しの昇格やから失敗してもお咎めなしで二軍に戻されるだけ、なんちゅうこと考えたとったら、その場でおしまい。もう上がってこれんぞ。プロ野球でちゃんとめしが食えるのは、一軍だけやけんな」
「はい!」
 江藤のしつこい言葉を聞いているうちに、彼がそこまで言うのは、一人でも多く後進を育てたいからだとわかった。あと七、八年もして、江藤たちベテランが続々とやめていったとき、残った選手たちが雑魚だったらドラゴンズに未来はない。しかし、二軍に長年留まっているような選手にもともと才能があるとは思えない。前進も後退もなく停滞している二軍から有力な人材を獲得できないとなると、有望な新人が直接一軍に入ってくるしかない。江藤が言うようなオーラは要らない。そんな選手はチームに一人、二人いれば観客は溜飲を下げる。オーラはないけれども、まじめに練習し、才能があり、ファンを意識する選手が少数いれば、チームは成り立つ。私は二杯目のどんぶりにめしを盛りながら、
「一割しか打てないということは、日野さんの打球はゴロが多いでしょう」
「はい」
「強い打球を打とうと思って、どの高さもダウンスイングをしてるからです。二割五分打つには、掬い上げる必要があります。せいぜいレベルスイングまで。木俣さんのマサカリは臨機応変にやってます。ひどく高いボールだけを叩きつけてるんです。ここにいる全員がそうしてます。胸から下のボールは掬い上げて芯を食わせるか、レベルスイングでボールの下を叩くかです。その結果打ち損なってゴロになるなら仕方ありません。五回のうち二回ぐらいは打ち損ないますからね。せっかく一軍にきたんです。二軍に戻らないようがんばってください」
「はい」
「ダウンスイングを言い出した巨人軍で、馬鹿正直にダウンスイングをしているのは、キャッチャーの森一人です。ああ、もう二人いた。黒江と高田。あとは全員レベルスイングかアッパースイングです。だからあれだけ打てるんです。二軍の選手に教えてあげたいですね。野球もできない、日本じゅうの小中高の野球部の監督が、ダウンスイング、ダウンスイングと繰り返したばっかりに、日本にいいバッターが育たなくなってしまった。大リーグは全員アッパースイングです。低目を打てない打者にスラッガーはいません」
 江藤が、
「最大のヒントば教えてもらったのう。あしたは掬い上げる打ちこみばしてみい。小学校のとき、そうしとったやろう」
「はあ……」
「二軍じゃ禁止されとるかもしれんが、一軍じゃダウンスイングは禁止じゃ」
「アッパーの意味がいまひとつ……」
「膝と足首のあいだは、ほんとうのゴルフスイングです。からだの前方で当てることでゴルフクラブのようにわずかに上昇角度を作り、かつ芯に当ててしゃもじで掬うようにします。膝からあごまでは、ボールの下を刀で削ぐようにバットを叩きつけるんです。そのときバットがダウンに出ても、レベルに出ても構いません。あごから上は、打ちたければ打てばいいですが、ぼくはなるべく打たないようにしてます。長嶋の天覧試合のホームランは、あごのあたりをレベルで掬い上げたものです。目から上はマサカリになります。マサカリと言っても真上から叩きつけるわけではないので、ボールの下を叩いて掬い上げてることになります」
 菱川が、
「わかる? 俺たちは実践してるからよくわかるけど」
「……膝からあごまではボールの下を叩く、マサカリもボールの下を叩く、と」
「そう。膝から下はゴルフクラブを振るように、からだの中心よりも前で叩いて角度をつける。ボールの上を叩くか真芯で捉えるダウンスイングは、強いライナーかゴロを打つための打法です。ダウンスイングの言い出しっぺである川上監督は、典型的なアッパースイングでした。自分がやらないことを人に勧めちゃいけない」
 江藤が、
「そういうきびしいことを言うのは金太郎さんだけで、どいつもこいつも巨人に入りたがる。あの金田でさえな」


         三十五

「金田は何年か前に出した『やったるで!』という本の中で、江藤さんのことをベタ褒めしてます」
「ほうね、初耳たい」
「―最近つくづく思うのは、藤村、岩本のような個性を持った打者がいなくなったことだ。ジェントルマンもけっこうだろうが、プロの選手は世をはばかって生きてはつまらない。その意味で中日の江藤は好きなタイプ。目を三角にして向かってくるところはじつにいい。セリーグのスターだと思うのは、長嶋、王、江藤だ―かいつまんで言うとそんなふうです」
「そう言ってくれるのはありがたかばってんが、ワシは長嶋や王とタイプがちがう。それより、いまの金田なら金太郎さんば褒めるやろ。金太郎さんば褒めずにだれを褒めても空しかろう。巨人へ入ると、どぎゃん選手でもマスコミやファンが放っておかん。寄ってたかってスターの座に祀り上げてしまうとたい。ほんとのスターならどうにかやっていけるばってん、能力のないやつは名前だけが先走って幻のスターで終わる。売り出すのも早かけんが、蹴落とすのも早いのが巨人たい。スターとして生き残ったのは、長嶋と王くらいのもんやろ。金田は巨人の広告塔たい。四百勝て書いてある広告塔。ピッチャー生命はもう終わっとる。金太郎さん以前の最高の打者は、長嶋でも王でもなか。中西太たい。マッハスイング、打球の速さ。金太郎さんが現れるまでは、ずば抜けてナンバーワンやった」
 爪楊枝を口に板東がやってきた。
「巨人が何やて? うん? おまえ見かけん顔やな。だれや」
「二軍から上がった日野です。よろしくお願いします」
「おう、がんばれや。慎ちゃん、巨人が何やて」
「巨人一番やった日本のプロ野球界が、金太郎さんの登場で崩れかけとるゆうこったい」
「ほやほや、宇野さんは去年まで『巨人に勝て』一本やったが、金太郎さんがきてから何も言わんようになった」
 日野を押しのけるように腰を下ろす。江藤が、
「宇野さんは、ピッチャーで肩壊して、二十三年に一回巨人を退団しとるんやなかね」
「おう、それから二年間、付き人ちゅう名目で山田五十鈴のヒモをやっとったらしい。二十五年に巨人の二軍監督に招かれて帰ってきたとき、肩が治っとるのがわかって現役復帰や。それからは名三塁手でならして、青田、川上とクリーンアップまかされて、なんと三割を打った。変わった人生やなあ」
 江藤は、
「ワシの一世代前の人やから、ようは知らんのやが、三割も打って、なんで巨人ば出されたと?」
「ハワイから柏枝(かしわえだ)ゆう有望な新人がきてな、宇野さんは助監督兼任プレーヤーとして二十九年に国鉄にトレードで出された。国鉄でも四番で二割九分を打った。水原さんに追い出されたと誤解しとったから、ずっと恨んどった。水原さんは慶應の後輩の宇野さんを監督にしたかったんや。巨人におったんでは、二年のブランクのある宇野さんは監督になれん思って、将来国鉄の監督にすることを条件に国鉄に出した。それを知らん宇野さんは水原さんを怨んで、巨人戦によう打つ男として名を上げた。水原さんが国鉄と交わした約束どおり、二年後に国鉄の監督になって、また巨人戦で燃えに燃えた。水原さんの気持ちがわかったのはずっとあとのことやったそうやからな。で、巨人には強かったけど、一度もAクラスになれんで三十五年に退任した。わがままな金田とは仲が悪かった言うとった。次の年から大毎の監督をやった」
 私は、
「ふうん、ぼくが山内に夢中だったころ、宇野コーチはオリオンズの監督をしてたのか」
「一年だけや。それから七年間は、ラジオの解説者をしとった。そのころ、二十九年のトレードが水原さんの温情だったことを知って感激した。宇野さんとちがって水原さんは、正真正銘、巨人を追い出される運命を味わった。人の将来を考えるちゅうのは、なかなかできることやない。水原さんはそういう人情の人やから追い出したんや。で、宇野さんは今年からうちにヘッドコーチできたというわけや。相変わらず『巨人に勝て。巨人に勝てば名が売れる』ゆうんが口癖やったが、金太郎さんがきてから、何も言わんでも勝てるようになって、張り合いをなくしてまったみたいやな」
 太田がえらそうに腕を組み、
「なんなんですかねェ。『日本のプロ野球は巨人でもってる、ファンは多いし、逆立ちしても敵わない伝統の力がある』、そう言われてきた巨人が、神無月さん一人のせいでいまやブランドでなくなったというのは」
 菱川が目の前でチッチッと指を振り、
「ブランドのままだろう。鬼ガ島の鬼としてな。桃太郎にやられるブランドだ。鬼ファンにすればニックキ桃太郎」
 板東が、
「宇野さんは国鉄の監督時代、金田を桃太郎として使いまくった。巨人キラーというコピーを作った最初の人や。もと巨人監督の水原さんに感謝してドラゴンズにきたせいで、巨人もさほど憎く思えなくなったんやろう。そこへこないだの川上事件や。またぞろ憎くなってきたはずや。たぶん、金太郎さんの鬼退治を見て、二人はむちゃくちゃ喜んどるで」
 江藤が、
「金太郎さんは、巨人やろうが何やろうが、何でもかんでも退治するけん、胸がスッとして、恨んどる暇がなかろうもん。それにしてもわからんのが金田の気持ちや。巨人キラーやったんやからな」
 私は、
「最近の金田さんはキラーだったころの勢いがありませんよ。フォーク、カーブ、スローボールしか放りません。戦う力がなくて、キラーのプライドもないなら、権威に守られたほうがいい。ごくふつうの人の考え方です。気持ちはよくわかります」
 太田が腕を解き、
「守られるというほどハッキリした考えじゃなく、ただのミーハーな巨人ファンの心理だと思います。金田の車はオースチンです。巨人に入団したのも、アタマがミーハーな天才のふつうの行動じゃないですかね。ふつうのところが一つもないという天才は、神無月さんぐらいのものですよ」
 板東が、
「ワシも腹の底からそう思うわ。天才モリミチもミーハーやしな」
「ぼくもボルボを持ってましたよ」
 太田は外人のように肩をすくめ、
「あれは和子さんの車でしょう。神無月さんは運転もできない」
 私は頭を掻き、
「ところであしたはナイターですよね」
 菱川が思わず反り返り、
「神無月さん、またトンチンカンなことを言う。予定表見なかったんですか。デーゲームですよ。一時から。あさってのダブルヘッダーは二時から」
 板東が、
「日野くんよ、びっくりしたやろ。金太郎さんは本気で言うとるんや。こういう連中といっしょに野球やるのきついで。せいぜいがんばりや」
「はい。いろいろ盗みます」
「盗めたらええけどな」
 ポンポンと日野の肩を叩いて出入口へ去っていった。
「さ、バットを振りに部屋に戻るか」
 江藤が菱川と太田に言うと、日野が驚き、
「どこで振るんですか」
「畳の上たい」
 三人で立ち上がり、すたすたいってしまった。私は日野と残った。
「畳が剥げる損害は宿泊料金に入ってるんです。球団との合意です。遠慮なく振ればいいんですよ」
「やってみます。神無月さんはふだん、どういう練習をなさってるんですか」
「ランニング、腹筋、背筋、片手腕立て、両手腕立て、チェストプレスなどで上半身の鍛錬、ダンベルで腕の鍛錬、空の一升瓶で手首の鍛錬。いずれバーベルも適当にやろうと思ってます。一升瓶はサボることもあります。片手素振り、両手素振り、球場でのポール間ダッシュ、五本から十本のフリーバッティング、たまに倒立腕立て」
「片手腕立てと、片手素振り、それに一升瓶というのは変わってますね。フリー以外の打ちこみは?」
「フリーの数本以外は、いっさいしません。実戦のボールとぜんぜんちがいますから。柔軟体操もやりません。からだは少々硬いほうが、瞬発力が出ます。ぼくは筋肉がもともと柔らかかったんですが、鍛えて硬くすることで打球が飛ぶようになりました。高校一年のときより五十メートルも遠くへね。ボールが反発する瞬間、硬い筋肉でガッチリ支えられるようになったんでしょう。ピッチャーはからだを鞭にしなくちゃいけないので、軟らかい筋肉は大事です」
「神無月さんは、どのコースも素直にバットが出ますよね。まるで予想してたみたいに」
「バットコントロールは、ふだんの素振りのときに、コースの想定をしてイメージを鍛えます。九コースのスイングの形を作っておくんです。単なる素振りは何の効果もない。九コースの素振りを三十本くらいずつするんです」
「九コース?」
「内角、真ん中、外角。高目、腰、低目。三掛ける三で九」
「なるほど! さっそくやってみます」
「外角低目を振るときは、芯を食うように振ると多少屁っぴり腰になりますが、踏ん張って振りつづけてください」
「はい、ありがとうございました」
 立ち上がって礼をすると、早足で去った。私の言ったことが、自分が実践してきた素振りの方法に多少の光を投げかけたのかもしれない。しかし、彼はまじめにやらないだろうと思った。
 部屋に戻り、広島の選手名鑑の復習。全十二球団の選手のプロフィールを載せた少し厚手の小冊子だが、太田が気前よくくれた。ところどころ赤く書きこみがしてあるのは、彼の勉強の跡だ。知らないバッターの名前を選んで見ていく。小川弘文、佐野真樹夫、鎌田豊、漆畑勝久、東山親雄、山本真一、井上修……おしなべて打率が低い。ホームランはおろか、長打もほとんどない。まず公式戦には出てこられない男たちだ。研究する必要はない。
『青春の蹉跌』を読む。三年前の女子大生殺しの天山事件をモデルに書いた作品だとすぐにわかった。西高三年のときに、この事件を新聞で読んだことがある。佐賀県の二十歳の短大生が十九歳の短大生を殺した事件だった。妊娠した女に結婚を迫られて殺す。小説のほうは司法試験合格生と女子短大生ということになっている。小説のほうは、殺す理由がもっともらしいだけに、かえっておもしろ味がない。たいていの男には〈将来〉というぼんやりした不気味な幻想がある。弁護士や医者や企業内出世といったような明確な目標のことではない。希望に満ちた行く手という曖昧模糊としたものだ。男はその進路に枷をはめられることを恐怖する。そこを描くべきで、話を単純にしてはならない。
 ルームサービスでビーフカレー。夜八時から予定していたとおりテレビに挑戦。金曜日のテレビ番組表が造り付けの机に載っている。ある局は、プロレス中継、東京バイパス指令、JALビッグ・イベント・ゴルフ、こよい酔わせて、11PM。ある局は、金曜ロードショー、ザ・ガードマン、蝶々・雄二の夫婦善哉、ニュースデスク、映画サロン。またある局は、今週のヒット速報、万国びっくりショー、乱舞、わが恋やまず、ニュース最終版、テレビナイトショー。NHKは、開化探偵帖、銀河ドラマ、ニュース、ニュースの焦点、芸能百選、時の動き、ニュース・スポーツニュース、ある人生。まったく関心が湧かない。どうやって興味を繋げばいいか。
 最もテレビらしくない金曜ロードショーからいくことにする。昭和三十二年の誇りと情熱というアメリカ映画。フランク・シナトラ、ケーリー・グラント、ソフィア・ローレン出演。ナポレオンが率いるフランス軍に追われて敗走するスペイン軍の遺棄した大砲の帰趨をめぐって、ナポレオンと対抗するスペインゲリラの隊長と、その恋人と、彼らに協力する英軍将校との三つ巴の物語。主役は巨大な大砲だ。隊長と将校に二股をかけるソフィア・ローレンのこれまた巨大な胸がキクエのそれにそっくりだ。ストーリーそっちのけでそればかり見ていた。
 チャンネルを替えるのが面倒で、つづけてザ・ガードマン、夫婦善哉と観る。根気が尽きた。
 深い夜がやってきた。『赤と黒』を開く。数年ぶりの再読。頭の中ですでに前半と後半が分かれている。頭脳のいいイロオトコ、ジュリアン。立身出世のために家庭教師となって近づいたレナール夫人を征服したのち、図らずも心から愛してしまったが、その恋愛関係は密告によって水泡に帰す。神学校の校長の計らいで侯爵家の秘書に鞍替えし、令嬢マチルドをたらしこむ。そうやって権力集団に紛れていく。この前半は熟読に値する。ただなぜそこまでして権力がほしいのか腑に落ちないので、行を追う目が滞る。私の性質と正反対の権力志向に喉のつかえのようなものを感じるせいで、ついつい速読になる。だれもが奇異な感じを抱く後半の〈死に急ぎ〉が、私の胸にはストンと落ちる。はやくそこまでいきたい。しかし、急がずじっくり読む。かつていのちの記録に記したのと同レベルの言葉はノートに記さず、それ以上の発見は記す。

・暴君に最も好都合な観念は、神の観念である。
・心を清らかに保ち、あらゆる憎しみの情を避けることが、おそらく青春を永続させる。

 この調子だと、読了に十日はかかりそうだ。
 深夜、バットを振る。九種類のコースを二十本ずつ。人に教えたことは自分もやる。外角を想定して振るときの屁っぴり腰の踏ん張りがだいぶ利くようになってきた。片手振り五十本ずつ。左手のタオルシャドーを百本に増やす。いつまでも左腕に未練がある。三種の神器五十回ずつ。片手腕立て二十回ずつ。シャワーを浴びて、深更二時寝床に入る。


         三十六

 五月十七日土曜日。七時四十分起床。五時間四十分寝た。じゅうぶん。洗面、硬くも柔らかくもないふつうの排便、シャワー、歯磨き。ミズノのジャージを着てロビーに降りると、連絡を取り合って集まったのだろう、運動着に着替えた野手レギュラー陣が新聞を読んだり、コーヒーを飲んだりしながら私を待っていた。
「おはようございます!」
 江藤が、
「遅かぞ。また夜更かししたんやろう」
 木俣が、
「オッシャ、いこう!」
 霧雨。顔にかすかに感じる程度。江藤、高木、中、一枝、木俣、菱川、太田、島谷、江島、千原、伊藤竜、新宅、葛城や徳武までいる。ピッチャーはいない。平和大通りに向かって走り出す。左折して猿猴川に架かる鶴見橋へ。ポツンポツンとビルがあるきりの並木道。爽快だ。首にタオルを巻いたジャージ姿の男どもが、エッホ、エッショと走っていっても、土地柄スポーツ選手のランニングを見慣れているせいか、振り向く人はほとんどいない。中が、
「先回もここを走ったの?」
「はい、四人で」
 木俣が、
「水くさいぞ、誘ってくれればよかったろう」
「コースを開拓してからと思って」
 一枝が菱川に、
「おまえらと慎ちゃんがいっしょに開拓したんだろ。開拓もいっしょにさせてくれよ、仲間外れにしないでさ」
 たもとまできて、千原が私に、
「一級河川むにゃむにゃ川。何て読むの?」
「エンコウ川」
「どういう意味?」
「さあ、エンもコウも、サルっていう意味ですよね。むかし川辺にサルがたくさん棲んでたんでしょうか」
「中卒には無理だな」
 高木が、
「だれだ、中卒だなんて嘘をつくやつは」
 木俣と伊藤竜が手を挙げ、
「中商卒だ」
 大笑いになった。橋を渡り切ると、鶴見橋東詰の電停。前方に坂道に沿った森。右も左も川沿いの市電道。
「ここまで三キロぐらい。毎日走るにはちょうどいいでしょう。引き返しましょうか」
 うまい朝めしを求めて帰路についた。葛城が、
「きれいな並木だなあ。肺が洗われる。何ていう木なんだろ」
 中が、
「原爆で廃墟になった町を緑化しようという目論見で、昭和三十年代の初めに市民が供木運動をして並木道ができあがったそうだ。いろんなな高木低木を持ち寄って作られた並木道だから、種類はわからんだろう」
 江藤が、
「それは金太郎さんに訊かんば。青森のおばあちゃん譲りの植物博士やけん」
 私は指差しながら、
「百日紅(さるすべり)、桜、サワクルミ、アメリカ楓(ふう)。フウというのは木偏に風、カエデです。あれはトウカエデ」
 歓声が上がり、指笛が鳴った。江藤が、
「東大と関係なかぞ。金太郎さんの特技やけん」
 わがことのように鼻の穴をふくらませた。帰り着くと、中がさっそくフロントの男に、
「猿猴川のエンコウって何ですか」
 と訊いた。年配の男はすぐに答えた。
「毛むくじゃらの河童です。海や川に棲んでいるという伝説の生きものです。人を襲い、お尻の穴に手を突っこんで肝を取ると言われてます。あの川岸はむかしから不気味な雰囲気がありましたので、そんな伝説ができ上がったんでしょう」
 みんなで拍手した。男は照れて、薄い髪を撫でた。女の従業員も微笑んだ。
         †
 十時半、世羅別館の駐車場から広交バスで出発。駐車場の周囲の傘を差したファンの群れへ手を振る。並木通りに出る。新天地、堀川町、胡町と通って八丁堀に出、左折して立町、紙屋町と走る。西鉄グランドホテルから平和台球場へいく道筋とそっくりだ。車中で水原監督に尋ねた。
「広島球場のあの時計、いつかやっちゃいそうな気がするんです。ライト場外よりスコアボードが近いんですよ。ドラゴンズの弁償ですか」
 中日球場によく似た緑色のスコアボードを思い浮かべる。ボード左にビジターの、右にホームのメンバープレート、それに挟まれて十五回までのスコアパネル、その左下に扇形のフィールドを象った審判プレート。六箇所に審判名が嵌めこまれるようになっている。その下にセリーグの試合だけの途中経過パネル、裾に広島テレビの広告、てっぺんにRCCテレビ、RCCラジオの広告。その広告に挟まれて四角いシチズンの時計。百二十数メートル飛べばスコアボード中央、百三十メートル飛べば確実に時計に当たる。
「広島球場の負担ですよ。あれはいつも心配してるんだ。一個ですめばいいが。ま、金太郎さんが壊したら、金網でも張って何らかの対策をとるだろう。あそこだけに中る確率を考えたら、何もしないかもしれないね。どうせなら越えてしまえばいいんだよ」
 木俣が、
「現実離れした話をしてるなあ。いままでスコアボード直撃だれかいるの?」
 もと広島監督の長谷川コーチが、
「バックスクリーンまでだね」
 菱川が、
「百七十メートルを何気なく打っちゃうわけだから、ボードは右中間だし、当たっても不思議はないですよ。とにかく越えちゃえばいいんですよ。それでも百五十メートルくらいでしょ」
 原爆ドームを左方に眺めながら大手町を右折。広島市民球場到着。世羅別館から七分とかからなかった。濃い緑の外壁。バスを降り、内野席からつながっている薄暗い通路を通って狭いロッカールームへ。監督、コーチは別部屋へ。
 十一時。ドラゴンズのバッティング練習開始。千原と日野がケージへ。曇空から絶え間なく霧雨が落ちてくる。ベンチで池藤トレーナーに気温を確かめる。池藤は腕時計を見る。十八・三度。
「この天気じゃ、きょうは二十度がせいぜいですね」
 バッティング練習の最中にカラリと霧雨が上がった。猛烈に明るい光がグランドに降ってきた。選手たちの濡れたヘルメットが乾いていく。ケージの周りには、竿マイクを突き出したテレビ関係者やカメラマンや記者たちがたむろしている。広島の選手も混じっている。私と江藤は日野の打ちこみを見守っていた。日野は反り返ってアッパースイングをする。
「ちがいます! アッパーって、からだを反らせることじゃないんです」
 入れ替わってケージに入る。左投手の大場に低目を要求し、からだをゆるやかに直立させ、ボールの下の地面を睨むようにしながら、バットをできるだけ水平に振り抜く形を披露する。打球が満員のライトスタンドの上段に突き刺さる。広島の選手たちが拍手する。
「振り出すバットの角度と、内角と外角で顔の向きが変わるだけです。真ん中のボールを叩くのと同じスイングです」
 また入れ替わる。日野はさっきと同じように反り返ってスイングする。九種類のコースのヒントはまったく役立たなかったようだ。と言うより、やっぱり彼は昨夜まじめにバットを振らなかったのだ。木田ッサーを教えた記憶が甦ってきたので、何も言わず、鏑木コーチのところへ走っていった。何人かの選手に腿上げを指導していた。
「まだニューオータニのランニング経路を教えてもらってませんよ」
「あ、ごめん、ごめん。東京に戻ったら、手書きの地図をコピーして配布します。あのホテルは一年じゅう使いますからね」
 いつものとおりダッシュとジョグをする。守備練習には参加せず、左中間や右中間の球拾いを愉しむ。ネット裏の最前列に、小山オーナーと村迫球団代表の顔があるのに気づく。左右に数人を従えている。
「鏑木さん、貴賓席に座ってる人たち、球団関係者ですよね」
「ああ、そうですね」
「小山オーナーと村迫球団代表以外の人たちはだれですか」
「うーん、一度しか会ったことがないので名前は忘れちゃったけど、常務、編成部長、管理部長、かな」
「そんなに役職があるんだ!」
「肩書のある人はもっともっといますよ。私も正式名称はコンディショニングコーチと言うんです」
「舌を咬みそうだ」
「覚える必要はありません。ぜんぶ何々さんでいいですよ」
 守備練習が終わると、試合開始までの間隙を縫って、マイクとカメラが遠巻きにじわじわ輪を縮めてきて、
「いよいよ五十五号ですね」
「騒がれるのもあと二本です。五十五号と五十六号。五十六号より多い五十七号も五十八号も注目されません。また打ったかという程度のものです」
 レポーターは一瞬とまどい、
「王は百四十試合で達成しましたが、神無月さんは、きょう打てば二十九試合で達成することになります。一試合に二本近いペースです」
「いずれそれが、三試合に一本、四試合に一本になりますよ。とにかく、ぼくの所期の目標は、春に約束した八十本です。八十本打ったとき、またインタビューを受けます。失礼」
 ベンチに走って戻る。
 両チームのバッテリーの発表。水谷寿―木俣、外木場―田中。トンボが入り、白線が整えられる。スターティングメンバー発表。
 中日ドラゴンズ、中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、水谷寿伸。
 広島カープ、一番から、センター山本浩司、セカンド三村敏之、ライト横溝桂、レフト山内一弘、ファースト衣笠祥雄、サード興津立雄、ショート朝井茂治、キャッチャー田中尊、ピッチャー外木場義郎。横溝? 思い出せない。太田に、
「横溝ってどんな選手だっけ」
 太田の頭には入っている。
「横溝桂、岡山東高校、十五年目、三十四歳。左利き、外野手。百七十四センチ、六十八キロ。十四年間でホームラン三十六本、打率二割四、五分。まじめ」
「めったに使われない選手が十四年もその打率でやれるのはすごい。バッティングのいいチームなのに、なんで弱いんだろう」
「さあ、守備がザルだとは言われてますけど、それほど感じないですね。たしかにサードの興津は腰痛持ちだからあまり動けないし、藤井はファーストフライを捕っただけで、おお、よう捕った、とスタンドから拍手が湧くほどです。でも、エラーをしてるわけじゃないですからね。結局、打線のつながりじゃないのかな。ランナー貯めてドカン、ランナーいなけりゃドキューンがないんですよ」
         †
 三対二で僅差勝ちした。
 きょうの外木場は絶好調だった。カーブがするどく切れ、速球がうなりを上げて高めに決まった。打者三十四人、四安打、三敬遠、九三振。ヒットはいずれも単打で、中のレフト前一本、江藤のレフト前とセンター前の二本、私のライト前一本だった。三つの敬遠はすべて私に対してだった。私が歩かされるたびに、三塁側のスタンドは総立ちになってブーイングをしたが、ボールをよく選ぶ私が見逃すことを見こんで、キャッチャーが中腰になって顔の高さの外角へボール二つ外す程度の歩かせ方なので、キャッチャーが直立する明らかな敬遠でない以上、観客は不満の叫び声を空しく萎ませるしかなかった。
 七回に広島は、興津の二号ソロと、二塁打の朝井を外木場がライト前ヒットで還して二点先取した。敗色濃厚のドラゴンズは九回表、江藤がセンターフライでワンアウト。私は三つ目の敬遠。これを墓穴にしてやりたくなった。菱川ワンナッシングのとき、すかさず二盗を決める。それを木俣がバントで三塁へ送った! ツーアウト三塁。外野フライでは点が入らない。木俣の意図がわかった。一か八かのホームスチールだ。アウトならばそれで試合終了。生涯で初めてのホームスチール。心臓の鼓動が激しくなった。私はそれらしい気配をオクビにも出さず、ふつうにリードをとった。ボールが二つつづき、ワンツーになった。私は、
「菱川さーん、いっぱーつ!」
 と声をかけ、わずかにリードを大きくした。広島の注意が菱川に向いた。一発を警戒するバッテリーはかならず外角に外す。外木場がセットポジションに入り、田中尊が外角へからだをずらす。外木場の右手が振り上げられたとたん、私は全速力でホームベースへ突入した。案の定、仰天した外木場の投球が外角高く外れた。菱川が私を目の端に捉えて飛びのく。田中のキャッチャーミットと両膝が、尻を落とす私の体勢に一呼吸遅れてベースにかぶさってくる。私はその下をかいくぐるように右足をベースの角にかすらせて滑り抜けた。球審のセーフのジェスチャー!
「ウオォォォ!」
 まだ一点ビハインドであることを忘れているかのような大歓声だ。味方のだれもが茫然としている。やがてベンチじゅうが小躍りをし始めた。水原監督が笑いながら手を叩いている。ベンチに駆け戻ると、木俣がすぐ訊いた。
「わかってくれたのか!」
「はい、一か八か」ノーヒットの下位打線を刺激して、
 と元気よく応え、
「菱川さんにホームランが出て同点になることを願うのと、ホームスチールで一点取るのとはドッコイドッコイの確率だと思ったんですね?」
「そうだ。金太郎さんの足の速さは意外と知られてないからな。一点取ればきょう当たっていない下位打線の固さが解れる。そしたら連打が出るかもしれないと思った」
「出ますよ。常勝ドラゴンズですから」
 木俣がうなずいたとたん、菱川が右中間を深々と抜いた。一気にベンチと三塁側スタンドが沸騰した。沈着なはずの外木場の顔面が紅潮する。根本監督の意向なのか、広島ブルペンにはだれも出てこない。江藤が、
「いけるやろう! タコ、いけいけ!」
 外木場は内角のきびしいシュートでたちまち太田をツーナッシングに追いこんだ。半田コーチが、
「太田さん、ヒーローよ!」
 三球目、剛速球が胸もとへきた。見逃せばギリギリストライクだ。太田は左足を引き、少しかぶせ気味に払った。うれしい交通事故。みごとに芯を食った。打球は高く舞い上がり、時間をかけてレフトスタンドの中段に落ちた。ベンチが半狂乱になる。太田は一塁の長谷川コーチに尻をひっぱたかれ、三塁の水原監督に尻をひっぱたかれ、出迎えたチームメイトに全身をひっぱたかれた。三対二。逆転。
「修ちゃん、乗っかれ!」
 つづく一枝、乗っかりならず、レフトフライ。水谷三振。なぜかスタンドから大拍手が上がった。
 九回裏、水谷寿伸は下位打線をピシャリと三人で抑え、九回まで七安打を打たれながら薄氷の二勝目を挙げた。外木場は勝ち試合を逃し、手痛い六つ目の黒星を喫した。今季一勝しか挙げていない男の勝ち運のなさをつくづく感じた。


         三十七 

 ふつうに苦戦しはじめたという感じだった。それでかえって、帰りの車中の水原監督はじめ、チームメイトの表情も鎖を外されたようにさばさばしていた。監督が、
「これで力を抜いて戦えるようになった。二十五勝三敗一分け。あしたから、頭に二勝一敗のソロバンを置いてがんばろう。二十五勝に加えると単純計算で九十勝。連敗よりも連勝のほうが多いだろうから百勝はじゅうぶん可能だ。さて次に、予想どおり、金太郎さんがまともに勝負してもらえなくなった。五十五本という新記録のせいばかりじゃない。ただ打たれたくないんだよ。ソロホームランもいやなんだ。だからあんなところで敬遠する。おそらくこれからはシーズン終了まで、四回打席に立って、二回ぐらいしかまともに打たせてもらえないペースになるだろう。そこからうまくホームランを拾っても、三試合か四試合に一本。九十本くらいで止まるかもしれない。百本打たせてやりたいなあ」
 バスの天井を見上げた。田宮コーチが、
「ピッチャーにしても、好調なうちとまともに戦えば大差負けすることは目に見えてるから、金太郎さんとの勝負を避けるのが第一条件になったんだな。なんとか一、二点までに抑えてワンチャンスでひっくり返す。そういう作戦でくることはわかってましたよ。あしたからは金太郎さんのことは忘れて、自分たちで大量点を叩き出すようにがんばってほしい。ピッチャーはゆるくいっていいよ。向こうもたくさん点を取れば、金太郎さんとも勝負する気になるだろうからね」
 小川が、
「前半に点をくれてやる。それしかないような気がしてきたな。きょうは五十五号がかかってたから、ここまで極端な歩かせ方をしたんだろうけど、記録作ってからも大して変わらないだろうな」
 私は、
「点をくれてやるのはやめてください。ピッチャーの勲章の防御率がめちゃくちゃになります。ゆるくいかないでください。ぼく一人の野球じゃないんです。みんなで優勝を勝ち取ると約束したじゃないですか。ぼくは確実にホームラン王は獲りますし、新記録も作りますからだいじょうぶです。ピッチャーがしっかり投げないチームは、かならず崩壊します。ご心配かけてすみませんでした」
 水原監督が涙を浮かべてうなずいた。うなずきが伝染した。
         †
 五月十八日日曜日。対広島八回戦。主審はどんなクレームも寄せつけない柏木、一塁は板東の魚津戦のときの三塁塁審谷村、二塁の大男はもと西鉄の一塁手井上、三塁はセリーグ所属の審判員だが去年一年間だけパリーグで修業した福井、ライトは去年外木場が完全試合をしたときの球審山本、レフトは野球経験なしでサラリーマンから転身した太田。もう見知った顔ばかりになった。みな審判としてはこれといった特徴はない。パリーグの露崎さんや、マッちゃんのような個性的な審判員はあまり歓迎されないのだろう。
 二時試合開始。小川の言ったとおりの展開になった。一回の表、安仁屋は中を三振に仕留め、高木と江藤にヒットを許したあと、私を歩かせて満塁策をとった。きょうのブーイングは、最初から絶望のため息に変わっている。きのうから五打席で四フォアボールはひどいものだ。決意した。次の打席からは外角のボール球を打ちにいく。内角は自打球が危ない。真ん中なら顔の高さでも打つ。木俣サードゴロ、5・2・3のダブルプレー。
 その裏、先発の伊藤久敏は、山本浩司を三振、三村を三振、山内フォアボール、山本一義をセカンドゴロに打ち取った。私が打たせてもらえないことを除けば、静かな滑り出しだった。
 二回表、菱川センターオーバーの二塁打、太田三振、一枝セカンドベース寄りのショートライナー、菱川飛び出してタッチアウト。
 二回裏、衣笠一、二塁間のヒット、興津レフトスタンドへ三号ツーラン。よし、先に点を取ってくれた。伊藤久敏の顔に安堵の表情が浮かぶ。朝井三遊間ヒット、田中センター前ヒット、安仁屋ライト前ヒット。朝井還って三点目。山本浩司三振、三村三振、山内ショートゴロ。
 三回表、伊藤久敏セカンドゴロ、中三塁前のセーフティ、楽々セーフ。もう安仁屋の顔に動揺の色が滲んでいる。高木ヒットエンドラン。一、二塁間を抜いて、ワンアウト一塁三塁。江藤センターへ犠牲フライ。一対三。ツーアウトランナー一塁。くさいコースをつかずに明らかな敬遠策に出る。田中の左足がキャッチャーボックスから出たので、私は柏木に、
「投球前にキャッチャーの左足が出てます」
 と指摘した。柏木はすぐさま、
「ボーク!」
 と叫び、高木を二塁へ進塁させた。根本監督が走り出てきたので、柏木はすぐにネット下のマイクに走り、自信たっぷりに、
「投球動作が終わらないうちに、キャッチャーがキャッチャーボックスから足を踏み出すとボークとなり、ランナーにワンベースが与えられます」
 と説明した。スタンドが大喝采になった。水原監督もベンチも拍手している。根本が詰め寄ったが、柏木は、
「だめだめ、戻りなさい!」
 と叫んだ。一塁が空いたので、バッテリーは本格的に敬遠の姿勢をとった。安仁屋がサイドスローからゆるいボールを放り出したとたん、田中がボックスの外へ踏み出す。
 ―バットが届くか? 無理か? 無理だ! バッターボックスを踏み出せば、アウトをコールされてしまう。
 ツーボール。三球目を辛抱強く待つ。はるか彼方の外角のボール。とうてい届かない。スリーボール。四球目はうなだれて見逃した。一塁ベースに立った私に代走の江島が出た。それを目にしたとたん観客が目に見えて減りはじめ、十分もしないうちに、ライトスタンドとネット裏以外の客のほとんどが引き揚げた。水原監督がベンチにやってきて、
「タクシーでホテルへ戻りなさい。このことはコミッショナーに提訴する。第二試合はスタンドはガラガラだ。興行としてのプロ野球がまさに崩壊寸前だ。即刻改善されなければすべての球団が経営不振に陥る。ゆっくり風呂に入って、めしでも食って寝てしまいなさい」
「いえ、ベンチで見てます。第二試合に出ます。夕方からやってくる予定だったお客さんもいるはずです。この異常な様子を見て、プロ野球機構の上層部は自発的に動くはずです。プロ野球の収入源を考えた場合、動かざるを得ません。問題は、プロ球団というものがどんなことをしてでも勝って、客がこなくても勝って、勝利の記録を残したいだけの集団なのか、プレーを見せて客に喜んでもらうための集団なのか、そこだけです。この試合はぜひ勝ってください。ぼくがいなくても、ドラゴンズには敵わないというところを見せつけてください」
「よーし、わかった! とにかくいま、白井社主と小山オーナーに連絡して、広島球団を提訴する準備をしてもらう。うまい具合に、ワシントンホテルに首脳たちが泊まっている。いまは金太郎さんの新記録を見るために、ネット裏にいるがね。宇野くん、十五分ほど采配をとってくれ。みんな好きに打ちまくってぶち殺せ!」
「オーッシャー!」
「まかしとけ!」
 水原監督はベンチ裏へ入っていった。すでに木俣が右中間に二塁打を放って高木を迎え入れていた。二対三。菱川バックスクリーンへ十号スリーラン、太田左中間の二塁打、一枝レフト中段へ五号ツーラン、七対三。伊藤久敏三振。
 三回裏から左ピッチャー伊藤の速球が冴えはじめ、六回裏まで散発二安打に抑えて小川に交代した。小川は打者十一人、三振三、凡打八に抑え切り、伊藤に二勝目をプレゼントした。
 四回の表からの中日は、安仁屋から交代した大石を打ちこみ、高木が八号、九号二打席連続ツーラン。十一対三。ホームランは六回まで四本だけだったが、七回以降も小川を除いた全員がヒットを打ち、理想的な連打でさらに十六点を毟り取った。私はベンチで声を出しつづけた。
 二十七対三で勝った。四時間になんなんとする試合で、第二試合は六時半からになった。
 水原監督がロッカールームに全員を集めて声を張った。 
「よくやってくれた。ここから百試合は遠慮なしでいってくれ。先ほど鈴木セリーグ会長が緊急記者会見を開いて、金太郎さんの六打席五敬遠に対し、広島球団に二千万円の罰金を科すと発表した。すでにその旨、球団側に通達された。おなじことをしようとしていた他球団も震え上がったろう。腰の重い連盟にしては迅速な処置だった。リーグ存続に関わる〈事件〉だったからね。このあいだの暗殺予告に関しては、巨人軍の責任を不問に付すという苦渋の判断をした。今回はそうはいかない。現実に金太郎さんを引っこめた瞬間に、連盟の収入源であるお客さんがサッと引き揚げたからね。行動に移して意思表示をしてくれたお客さんたちの勝利だ。これで金太郎さんのホームランは、あからさまには妨害を受けない。正しきプロ野球が戻ってきた。諸君、第二試合もぶっ殺してくれ。もう白石と雑魚しかいない。夜中までいけ!」
「オース!」
 ふだんになく水原監督は熱した口調で言った。眼球に血管が浮いていた。みんなでぞろぞろベンチに入る。どこから現れたか、浜野が混じっていた。監督の檄に応える声もいちばん大きかった。総じてピッチャーはふだん室内練習場かブルペンにいるので、あまり姿を見かけない。それでもベンチに座っているのを目にすることはたまにあるが、この浜野だけはほとんどいない。登板予定のときは顔を出す。きょうはビッショリ汗をかいているところを見ると、先発か中継ぎだ。
 眼鏡をキッチリかける。思ったとおり観客がまた満員になりかけている。宇野ヘッドコーチが、
「金太郎さんの言ったとおりだったな。第一試合で入れずにホテルに帰った客が、制裁金の情報を聞きつけて押しかけてきたんだろう。試合の途中で帰った客も、損したとは思っても金太郎さん見たさに戻ってきたんじゃないか。これで金太郎さんがベンチにいなかったら、お客さんは踏んだり蹴ったりだったぞ」
 第二試合。対広島九回戦。小山オーナーたちは貴賓席を動いていない。
 やはり浜野が先発だった。現金な男だ。檄に応える声がいちばん大きかったのもうなずける。自分の利益がかかっているからだ。
 広島は眼鏡の白石。もともと逃げない男なので、真っ向勝負でくるはずだ。夜中までいけ、という水原監督の檄が頭の中にある。球審谷村のプレイボール。ふたたび霧雨が落ちはじめる。曇り止めの効いた眼鏡には影響はないけれども、午後からずっと晴れるはずだった予報が恨めしい。
 中、バッターボックスへ。背番号3。百六十八センチ、七十三キロ、百メートル十一秒四、盗塁王。右膝に持病がある。最近彼の打ち方が〈ちょうちん打法〉と呼ばれていることを知った。低目の球にはからだを伸ばし、高目の球にはからだを縮めて、ストライクをストライクに見せない打法だ。見逃したときにはかならずこれをやる。ある種の習い性(しょう)にちがいない。小さな大打者。心の底から尊敬している。
 白石の初球、胸もとのストレート、からだを縮める。高目のストライクがボールになる。彼はローボールヒッターだ。膝の高さの外角を打つのは名人芸だ。二球目、そこへカーブ。流し打ってレフト前ヒット。
 ―これで決まった。
 第一打席の中が出るとかならずそう思う。
「さ、打ち殺すよ!」
「ボール、きてないよ!」
 第一試合で二本ホームランを打っている高木。ゲッツーを避けて、ワンワンからの三球目にヒットエンドラン。サードゴロ。フォースアウトは免れて、一塁アウト。犠打の格好になる。すぐさま江藤がライト前へ流し打って一点。金太郎コールが始まる。キャッチャーの久保がマウンドへ走る。
「ヤ!」
「ホー!」
「ヨ!」
「さあ、金ちゃん、五十五号いった!」
 ものすごい歓声。初球、外角のするどいスライダー、ボール。ボール一つ外している。二球目胸もとのストレート、ストライク。ボール二つ高く見えたが、高いコースに甘いのは谷村の癖だ。白石がよくボールを揉んでいる。うなずき、セットポジションから三球目、膝もとへゆるい球。シンカーだろう。揺れかけたところを掬い上げる。
 ―よし。タイ記録!
 バックネット上方から、いくつかの放送局のアナウンサーの叫び声が重なって聞こえてきた。興奮にまみれたスタンドの怒号。打球は暮れかかったライト場外の薄紫の空へ消えていった。大柄の黒い制服が腕を回す。
 ―あ、マッちゃんだ。第一試合の控えは松橋さんだったのか。
 新記録は彼に右腕を回してほしい。きょうじゅうに決めようと思った。ものすごい量のフラッシュ。グワン、グワンという喚声。森下コーチとタッチ。
「おめでとう! 神さま!」
 江藤が跳びはねながら走っている。
「おめでとう! 神無月くん」
 ファースト衣笠の声が重なる。その瞬間、江藤の背中の向こうから、彼と同じようにピョンピョン跳びはねている水原監督の姿が目に飛びこんできた。彼を目指して走る。三塁ベースを蹴り水原監督と抱き合う。
「一山越したね、金太郎さん! 愛してるよ」
 これで二度目の愛してるよだ。
「ぼくもです、監督!」
「神無月選手、このホームランにより第五十五号ホームランとなり、日本タイ記録の達成でございます」 
 江藤を先頭にみんな泣きながら待ち構えている。一人ひとり私を抱き締めて頬にキスをする。そうしようとみんなで決めていたようだ。日野も泣いていた。ベンチのコーチ陣も涙で迎えた。ネット裏の小山オーナーたちがずらりと立ち上がって拍手していた。長谷川コーチが、
「くたくただよ、金太郎さん、三年かかったみたいだ」
 半田コーチが、
「ワシも疲れました! なぜか疲れました。子供を産んだみたい。はい、バヤリース!」
 みんなでベンチにどやどやと腰を下ろす。田宮コーチが、
「ふるえが止まらないよ。こっから先は前人未到の山だ。ふるえながら眺めてるしかない」
 江藤が、
「ああ、生れてよかったばい!」
 タオルで顔を拭きまくる。


         三十八

 私を見つめながらボーっとしていた木俣が、審判の大声に促され、まぶたを拭いながらバッターボックスへ走っていった。そして初球を左中間スタンドに放りこんだ。尻ポケットからタオルを出して顔を拭い拭い、水原監督とタッチ、大歓声と私たちに迎えられてホームインした。みんなに抱きかかえられるようにしてベンチに戻ってくる。
「何号だ?」
 徳武が訊くと、真っ赤な目で、
「五号か? 六号か?」
 と答えた。太田が、
「八号です」
 と答えて、ネクストバッターズサークルへいった。中が、
「きょうは私も打つよ。お、いった! まず菱、三者連続」
 レフト中段へ第十一号。喜びすぎて菱川は一塁ベースにつまづいて転び、衣笠に助け起こされてスタンドの爆笑を誘った。背高と中背の黒い顔二つが並ぶ。胸の熱くなる光景だった。高木が、
「球場に戻ってきたお客さん、よかったなあ。こんなめずらしいもの観れて」
 うなだれてマウンドを降りる白石を見つめながら、葛城がしみじみと、
「まるで水爆だ。もう十年遅く生れていれば、俺も現役で参加できたのにな。……三十試合で五十五本か。これは現実のことなんだよな。金も払わないでこんな特等席で眺めてていいのかな」
 みんなで菱川を迎えにいく。私とちがって手荒い歓迎。私は固く握手した。早くも五点入った。太田、高いレフトフライ。一枝センター前へライナーのヒット。浜野ショートフライ。
 二回表から八回表まで中日は毎回得点、十九対三で勝った。江藤が二十一号満塁ホームランを打ち、中も四号、太田も八号を打った。私は、白石に代わった大羽、秋本から、セカンドゴロ、ファーストゴロ、ファーストライナーと凡打を繰り返し、ようやく四人目の西本から八回表の第五打席で、スコアボードの時計に当たる五十六号ソロを打った。針は九時五十五分を指していた。松橋は右中間まで走っていって、大きく右手を回した。ウグイス嬢の場内放送が流れる。
「神無月選手、第五十六号ホームランでございます。日本新記録でございます」
 轟く喚声の中、水原監督といっしょに手をつないで三本間まで走る。噛み締めるようにホームインし、厳粛にベンチ前に立ち並ぶ仲間たちと両手でタッチしていった。長谷川コーチがホームベースを見やり、
「気兼ねしないでいってきなさい。特別なことだから」
 三人の着物姿の女がホームベース前に並んでいるところへ引き返し、嵩のある花束を受け取った。六人の審判も帽子を取り、いかめしい姿勢で並んだ。松橋の大きな目に涙が光っている。広島チームもベンチ前に整列していた。私は足木マネージャーに花束を渡し、四方のスタンドにヘルメットを振った。
「あらためてお知らせいたします。中日ドラゴンズ、神無月郷選手、ただいま第五十六号のホームランを打ちました。これは昭和三十九年、王貞治選手が五十五本のホームランを打って新記録を樹立して以来、五年ぶりに破られたシーズンホームラン日本新記録でございます」
 五十五号のときにはさりげなく流れたアナウンスがおごそかな調子で流れた。強い耳鳴りがする。盛大な拍手と大喚声の中で、私はひたすら両手を振った。三分ほどゲームが中断し、カメラマンたちがホームベース前へなだれこんでストロボを焚きまくった。
 大粒に変わった雨をヘルメットに受けながら、木俣が大きなセンターフライを打ち上げてスリーアウトになった。
 浜野は八回裏まで打者三十人、被安打五、三振三、四球一の三失点に抑え、二勝目を挙げた。三失点の内訳は、山本一義の六号ツーランと、朝井を二塁に置いての久保のライト前タイムリーだった。上出来の投球だった。
 五回からパラパラ落ちはじめた雨は、八回表の中日の攻撃が二死に差しかかったとたんにどしゃ降りに変わった。雨はやむ気配がなく、八回裏広島の攻撃終了時点で中日の降雨コールド勝ちになった。
 九時三十五分、報道陣、テレビカメラを前にした臨時記者会見が、球場内の特別応接室で行なわれた。監督、コーチ以下、ベンチ入りした選手全員が私の背後の椅子に座った。水原監督が、
「十五分以上は勘弁願います。ダブルヘッダーで選手たちも疲れておりますし、あしたの午前中に移動なので」
 質問が始まる。
「神無月選手、ただいまのお気持ちをお聞かせください」
「五十五号を打ったとき、水原監督が一山越えたねとおっしゃりました。ふた山越えたらラクになるよという意味です。その後の三打席は苦しみましたが、連なる山を越えてラクになりました」
「新記録はもちろん自分へのプレゼントでしょうが、自分以外ならだれにいちばんプレゼントしたいですか」
「ごらんになっておわかりのように、ぼくはチームの全員に愛されています。愛ある人たちの前でこれまで何十本もホームランを打ってきました。このホームランは一本目と変わらず彼らへのプレゼントです。これからも孤独に一本一本打っていきますが、すべて彼らへのプレゼントです。チームのみなさん、これまで見守ってくださってありがとうございました。くたくたになったでしょう。心身ともにご苦労をおかけしました。水原監督、〈一回〉優勝しましょうね。ぼくたちがかならずプレゼントします」
 水原監督が、
「ああ、それが残っていたね。采配に少しでもミスがあると取り逃がす魚だ。優勝はぼくの責任なんだよ。ぼくからチームのみんなにプレゼントする。きみたちは自分の才能を発揮しながら楽しんでいなさい」
「ただいまホームラン五十六本、打点百十六、打率六割八分零厘。前人未踏の地を歩みつつある神無月選手ですが、三冠王はまず確実として、ご自身それぞれの数字はどの程度に落ち着くと思われますか」
「打率は四割五分前後になると思います。打点は二百前後で江藤さんと最後まで争うでしょう」
「ないない」
 江藤が顔の前で手を振った。フラッシュの雨が注ぎ、ビデオカメラが回った。
「五十五号と五十六号のホームランボールは、一つは路上で発見した球場係員から、一つは広島市の袋町の男性から、二つとも入手できました。五十六号のボールは正面ゲートロビーに永久に展示される予定です」
「そうですか。五十五号は拾われた係員のかたに私からその記念ボールと寸志を、五十六号は、無理にとは申しませんが、その男性のかたが手離してくだされば、そのかたにサインボールとネット裏の年間ご家族優待証をさしあげます。足木マネージャー、手続をお願いします」
「わかりました!」
 明るいざわめきが起こった。
「五十六号は時計の基盤に当たったとのことで、損傷は微小だそうです」
「そのようですね。当たった瞬間八時五十五分を指していた針が、このインタビューの始まる前に九時二十分まで動いていましたから。壊れなくてよかったです。時計が動かなくなったらたいへんだと思っていました」
 一人の記者が手を挙げ、
「王選手へメッセージはございませんか」
「王さんの総本数には生涯かけても追いつけません。微笑をもって見守っていてくださいとお伝えください」
 いっせいにフラッシュが光った。
「現在のドラゴンズの快進撃の原因は?」
「言うまでもなくドラゴンズ選手たちの圧倒的なポテンシャルです」
「いまの喜びを伝えたい人は」
「もちろんドラゴンズのチームメイトにですが、もう抱き合って喜びと感謝の気持ちを伝えてしまったので、遠くでぼくを気にかけてくれているここにいない人たち、そのかたたち全員に、テレビカメラを通して、幼いころからあまり笑うことのなかったぼくの笑顔を伝えたいと思います。とりわけ名古屋市立宮中学校の野球部のかたがた、青森高校の野球部のかたがた、東大の野球部のかたがた、名古屋市熱田区平畑の西松建設の社員のかたがた、名古屋市中村区岩塚の飛島建設の社員のかたがた」
「肉親のかたは?」
「伝えるとするなら、ぼくを真の意味で育ててくれた青森県野辺地町の祖父母に。彼らは野球を知りませんけど」
 記者たちの笑い。
「川上監督へのメッセ……」
「はーい、ここまでにします!」
 足木が一声上げて立ち上がり、選手たちを廊下へ導いた。警備員と球場職員が厳重に取り囲み、駐車場へつづく通用口へ押していく。ドアの外に松葉会の組員たちとファンの群れが待ち構えていた。
         †
 十時から深夜の十二時まで、大宴会場で祝五十六号特別祝賀会が催された。別館じゅうほとんどの職員や仲居たちが駆り出されて給仕をした。水原監督が、
「雨がやんだそうだ。早く帰ってお祝いしろという雨だったんだね。根本監督からは、きちんと謝罪のメッセージが球団本部に届いた。同時に、前人未到の記録おめでとうという祝辞もね。金太郎さん、これから何本打つかわからないが、とにかく日本新記録樹立おめでとう!」
「ありがとうございます!」
「おめでとう!」
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「乾杯!」
 小さな長谷川コーチが音頭をとった。太田コーチが、
「さあ、食った、食った。世羅別館の特別メニュー、瀬戸内料理だ。ありがたくいただこう!」
 足木マネージャーが、
「王選手から長い祝電が届いてます。『インタビューのお言葉届きました 褒めてくださってありがとう 微笑どころではありません あきらめの大笑いです ぼくのほうが十年多く野球をやっているんです 総本数は多いに決まってます あなたをいろいろな意味で模範にして野球に励みつづけます』」
 大拍手。いっせいに箸の音が立つ。日野が立ち上がり、
「二軍からきて毎日勉強させてもらっている日野です。入団二年目、二十四歳。二軍戦で少し当たりが出るたびに、一軍に引き上げてもらっていますが、ベンチの隅にいるのも恥ずかしいくらいとんでもない実力差を感じています。一軍選手のものすごさを見て、自分を砂粒のように感じました。きょうも、ただただ、驚きの一日でした。感動でいっぱいです。神無月さんには掬い上げるという打法を教えていただきました。アッパースイングでない掬い上げるという意味が理解できないままです。懸命に体得していこうと思っています。神無月さん、天馬の名にふさわしい大記録達成、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 腰を下ろした日野に中がもぐもぐやりながら、
「私はね、日野くん、引っ張り専門のアッパースイングだったんだ。いまひとつシックリしないものを感じていたんだけど、ここにいるみんなと同様、金太郎さんを観察して開眼した。掬い上げるという意味はね、芯を食うように叩きつけるということなんだよ。ダウンじゃない、叩きつける。刀で切るようにね。達ちゃんのマサカリも同じだ。ダウンじゃない。掬い上げてるんだ。金魚掬いのように、真芯の少し下を掬う、つまり捕まえるということだ。バットが下から出ようと上から出ようと関係ない。ただ、足首のあたりはゴルフスイングになるけどね。真芯に当たることが多いから、よほどバットの角度をつけないと飛距離はあまり出ない。そこをホームランにするには外人並の腕力が要る。金太郎さんが日々腕立ての訓練を欠かさないのは、そういう理由だ」
 太田が立ち上がり、
「俺、日豊本線中津から出てきた田舎者の太田です。いま住んでいる西区の昇竜館の回りも田んぼや畑が多くて、大分の景色とあまり変わらないのでホッとしています。その景色を眺めながらいつも思うんです。この日本の景色の中に神無月郷がいるんだって。不思議だなあって思います。中学のときまでは、名古屋の熱田区に住んでました。神無月さんと名古屋の中学校で出会ったのは人生最大の奇跡です。前置きが長くなりました。そのころから神無月さんのバッティングは謎でした。振り出しが速く、手首の返しもミートポイントもさっぱりわからない。日野さんが言ったように、アッパースイングでもダウンスイングでもない。とにかくボールがすっ飛んでいく。刀というのはあらゆる方向から振り出します。わかったんです。刀を振り出す要領で、ボールをほんの少しこするんです。ゴルフクラブのヘッドに少し角度がついているでしょう、あれです。あれを神無月さんは小学校のときからやっていたんです。並大抵の動体視力じゃありません。それに猛烈なスイングスピードが加わる。学べるものじゃない。俺は芯を食うことだけを鍛錬しました。これからは確実に三割、二十五本打てます」
 盛んな拍手。江藤が、
「そこを何カ月かかけて、みんな学んだっちゃん。これは革命たい。日野くん、叩き上げるんでも打ち下ろすんでもなか、カットするんぞ。あんた身長何センチね」
「百七十一です」
「利ちゃんよりも大きかやんか。利ちゃんはもう四本も打っとるばい。しっかりマスターせんば。送り返されっぞ」
「はい!」
 菱川が、
「俺は十一本打ってます。エヘン。たぶんもう送り返されません」


         三十九

 会場全体に酒が入りはじめた。
「省三もいったりきたりしとるが、日野くん、あんたの目から見てどうね」
「バッティングも守備も頭一つ抜けてます。一軍に定着してもちっともおかしくありません。ただ、おとなしいかたなので、アピールがへたのようです」
「七光りと思われたくないんやろ。クニへの仕送りはワシがするから、ただ野球に励んどればええと言っても、せっせとオヤジオフクロに孝行するやつやけんな。タコ、おまえもそうやろう?」
「俺は雀の涙です。月給六万から、一万円仕送りしてます」
「六万!」
 私が驚くと、
「二軍のときは三万でしたよ。神無月さんは? 一千万くらいですか」
「三百万……。もらいすぎだ」
「え! たった三百万? 国民的英雄が」
 江藤が、
「そうなんだ、ワシらと大差ない。球団の見こみちがいだ。来年からは月給一千万以上になるやろう。確実にな。それにしても、タコ、仕送りが少なかね」
「オヤジは国鉄職員、姉は六つ年上だし、兄は二つ上で、二人とも働いてますから、家計は比較的ゆったりしてるんです。五年以内には名古屋に家を建てて、家族を呼ぶつもりです」
「おお、それがよか。とにかく来年からはもっと送ってやれ」
「はい」
 一枝が、
「おまえ中津工業のとき、大分県営球場で場外ホームラン打ったんだってなあ。百三十メートルの伝説のホームランになってるそうじゃないか」
「はい、あれきりあんなでかいホームラン打ったことありません。相手チームのエースの速球を目つぶって振りましたから、偶然芯を食ったんでしょう。あんなでかいやつをもう一度打ちたいですね」
 私は、
「どの球場も、スタンドじゃなく、最上段の看板がフェンスだと思って打つんだ。そうすればふだんのフェンスが近くなるし、ときどき場外も出る」
「それはどうですかね。神無月さんとは先天的に飛距離がちがいます。神無月さんにとって百三十メートルは大ホームランじゃないでしょう」
 太田は日野を振り向き、
「日野さん、俺はラッキーだったんですよ。太田コーチと同姓だったんで、すぐ名前を覚えてもらえたんです」
「そんなことで一軍には引き上げてもらえないよ。実力だ。明石じゃ、第二球場でいっしょに練習した仲だけど、やっぱり菱と並んで飛び抜けてた。明石のホテルの相部屋、寒かったなあ。食堂から電気ストーブこっそり借りてきて部屋で点けて、ホテルのヒューズ飛ばしちゃった。本多コーチにさんざん叱られた」
 私が、
「そんな楽しいことがあったんですか。まるで修学旅行みたいだ」
「二軍は抜擢組以外、グリーンホテルじゃありませんでしたから」
 太田が、
「名前を覚えてもらったり、一軍と同じホテルに移してもらったり、俺はつきまくってましたけど、もう一つ、ついてたことがあったんです。グリーンホテルの廊下を歩いてたとき、たまたま水原監督に遇って、名前を訊かれて答えると、おお、きみが太田か、いいバッティングしてるんだってな、金太郎さんと昔馴染みだというじゃないか、彼を見習ってがんばれよ、と言ってくれたんです。あれで一軍の控えに上げてもらったんだと思ってます。直接声をかけてもらったのは、あとにも先にも、あれ一度きりです」
「それこそ修学旅行みたいにコーチが夜回りするようなホテルじゃ、そんなこと起こりっこないよな」
「でも、日野さん、せっかく一軍にきたんです。二度と戻らないようにがんばってください」
「うん」
 菱川が、
「名古屋というところは、地元意識が強くて、中日の選手が街を歩いてると、ファンが群れてもてはやす。寮の周りを歩いてるだけで、飲みに連れていかれておごられる。すると夜の素振りもついサボってしまって、翌日は不振ということになります。いまはノコノコついていきません」
 高木が首を振り、
「菱、太田、おまえたち、意外性の男と呼ばれてるの知ってるか」
「はい」
「ガタイの割に、実績がアンバランスすぎるからだよ。俺のような小粒なやつだって平均二割五分前後、ホームラン十本前後打つんだ。それで意外とは思われない。からだに見合ってるからだな。おまえたちのガタイだと、二割七、八分打てればいいとして、二十本台のホームランは少ない。俺たちよりたくさんホームラン打って、意外だなんて言われたんじゃさびしいだろう。三十本台だ。それだけ打てば意外だと言われなくなる。それに二十本台じゃ、将来金太郎さんの左大臣・右大臣やってられないぞ。いまは慎ちゃんと達ちゃんが右と左の大臣だけど、いずれ五年もしたらおまえたちが務めることになる。サボらず素振りして、目標を四十本台にしろ。そしてコンスタントに三十本打て」
 太田はぺこりと頭を下げ、菱川は敬礼の挙手をした。高木は、
「日野くん、きみは顔が売れてないだけに、もっと出場回数を増やして、二割五分、十五本ぐらい打たないと、レギュラーは難しい。代走か代打どまりになっちゃう。よほど努力しないとな。なにくそという気持ちで」
「がんばります!」
 会も終わりに近づいたころ、小山オーナーと村迫球団代表が二人で駆けつけ、ひとしきり祝いの言葉を述べると、オーナーが私を呼び寄せ、長細い箱を開けてロレックスのチェリーニというシンプルな腕時計を示し、
「日本記録を打ち立てた人物へのご褒美にしてはささやかな贈り物だと思うが、いずれ納会で、もっと身になるものを差し上げましょう。いま、球団広報の電話が鳴りっ放しだそうだ。コマーシャルやら、サイン会の申込みやらが殺到してるらしい。あらら、そんな心配顔しなくていいよ、すべて断ってもらってるから」
 村迫代表が水原監督に、
「じゃ、失敬します。あした早く東京へいって、セリーグ会長と面談しなくちゃいけないのでね」
「は、よろしくお願いいたします」
 小山オーナーと村迫はみんなに手を振りながら、足早に自室へ戻っていった。
         †
 広島空港から羽田空港まで一気に飛んだ。みんな発売されているかぎりの新聞を買い漁って、機内で読みふけった。菱川が、
「ベーブ・ルースは生涯に五十本以上のホームランを四回打っていて、そのすべてが百四十試合以上かけてるそうです。具体的には、五十四、五十九、六十、五十四本。試合数はそれぞれ、百四十二、百五十二、百五十一、百五十四試合です。三十試合の五十六本というのは、人類がつづくかぎり破られないだろうと書いてあります」
 一枝が、
「こっちには、飛距離のことが書いてあるぞ。日本の狭い球場のホームランはメジャーと対比して参考記録にしかならないと言われるのがふつうだが、金太郎さんの場合は百三十メートルから百八十メートルのホームランなので、ぎりぎりスタンド入りした二本を除いて、五十四本はメジャーでも悠々大ホームランだって。歴史上比類なきホームランバッター、偉大なる神の業、と書いてある」
 太田が、
「王が、神無月くんは神の域に達した人なのでただ跪(ひざまず)くのみ、だそうです。長嶋は、人間の世界に神さまがいるのは楽しいね、です」
 江藤が、
「三原が書いとる。神無月郷がいるかぎり中日はどこまで連覇するかわからない、孤高の彼は期せずしてチームを統率し、精神を陶冶し、革命家の趣を呈しているからだ、各チームはこの和を乱そうとして必死になるだろう、しかし彼一人を抹殺しようとした広島の暴挙は許せるものではない、正々堂々と打ち倒す方策を練るべきであって、それこそファンが望んでいる才能と才能の対決であり、プロ野球の本姿(ほんし)である、と言っとる」
 高木が、
「お、こっちは金太郎さんの凡打コースだ。内角のスライダー系統、ただしホームランと紙一重と書いてある」
 中が、
「ホームスチールの記事は小さいね。木俣ビックリバント策、以心伝心、神無月即断、菱川に一声かけて絶妙スタート」
 木俣が、
「あれはすごいな。菱川さん一発! だろ。あんなこと言って走りだしたら、菱には打たれたくないし、どうしても外角投げたくなるよな。俺もバントで進めたはいいけど、あそこからどうなるのか見当つかなかったよ」
 私は、
「ぼくが走り出したことに外木場がびっくりして、ちょっと投球モーションが緩んだことと、外角のド高目にいっちゃったことが幸いしました」
 菱川が、
「ツーアウトなのを忘れて、一瞬スクイズと錯覚して外したかもしれないですね」
「それもあるか。とにかく外へ投げたくなるな」
 二時にニューオータニに着き、届いている荷物の確認をし、なだ万の店主の息子の一平くんの礼状をフロントから受け取る。

 サインを机の前に貼りました。友だちに見せて自慢しています。ほんとにありがとうございました。神無月さんの大ファンなので、いつもホームランの球種や打球のコースや飛距離の記録をつけながらテレビを観ています。きっと百本のホームランを打ってくれると信じています。

 五、六人連れ立ってすぐ『なだ万』へいく。めずらしく仲間に木俣が雑じっている。割烹着の城山店長と、仲居がぞろりとやってきて、平伏すると、
「神無月さま、新記録達成おめでとうございます」
 と、全員まじめに声を合わせた。
「ありがとうございます。一平くんの手紙受け取りました。百本かならず打つとお伝えください」
「ありがとうございます。どれほど喜ぶことか。ほんとに畏れ入ります。きょうは腕を揮わせていただきます。ホテルに戻ってくれば、なだ万にかならずいらっしゃると思っておりましたので、すでに準備にかかっております。料金はいただきません」
 中が、
「ご主人、それはちょっと大盤振舞いが過ぎるんじゃないの」
「いえ、新記録も生涯に一度なら、新記録を作った人に大盤振舞いするのも生涯に一度です。これは決めていたことですので、お気遣いなく」
 一枝が、
「じゃ遠慮なく金太郎さんのご相伴に預かるか。まず瓶ビールを五本ください」
「承知しました」
 東京も名古屋に負けず劣らず〈戻ってきた〉という感じが強くなった。たぶん待っている女がいるからだろう。女が港だという意味が皮膚全体でわかってきた。まだ肉体を接していないミヨちゃんからトシさんまで、女は年齢にかかわらずホッとさせる。究極のところ、肉体は関係ないのかもしれない。私の母はホッとさせない。異様な緊張感がある。肉体とは関係なく〈戻れる〉場所ではないからだ。
 仲間たちのどの顔もはち切れんばかりに笑っている。木俣が、
「こわっぱどもに、どうやって野球を教えようかな」
 江藤が、
「今週の土曜日やったな。手取り足取りということになるんやないか。のう、金太郎さん」
「ぼくは少年の心に戻ろうと思います。こう打つ、ああ投げる、とからだを密着して教えられても、まず頭に入らない。型は自分で作っていくものです。ノックしてやって守備練習させたり、軽く投げてやってバッティング練習させたりしたらどうでしょう。ぼくも彼らといっしょに順繰り守備につきます。捕球するだけにします。バッティングはしません。ケガをさせてしまいますから。あまりにもひどい子がいたら、からだに触れて教えてやる」
「それでいこ!」
 太田がこの場にいない島谷のことを、
「島谷さん、出場機会が少なくなりましたよね。もう少し明るくすれば、水原監督に気に入ってもらえるのに」
 木俣が、
「あれは暗いなあ。チームのムードに響く。よう打つし、守備も堅実で、どこにも欠点がないのにな」
 一枝が、
「水原さんの高商の後輩だろ? 目をかけてもらってあたりまえなのに、あまり声がかからん。水原さんはムードを重視するから、能天気ぐらいがちょうどいいんだ。しかし、三回もプロ入りを渋ったのはなぜかな。中日にドラ9で入ったのも謎だ」
 木俣は、
「セリーグにいきたかったんだろう。や、待てよ、一年目のドラフトのサンケイはセリーグだったな。関東だから蹴ったのかな。二年目、三年目が、東映と東京の上位指名だった。やっぱり関東を嫌ったのかな。四国電々にいたからな。わからん。プロでやるのが怖かったのかもしれん」
 菱川が、
「そっちじゃないですかね。田宮コーチが、三振が多すぎる、犠牲フライが打てない、と言ってました。いまのところ三振はチームトップです」 
 高木が、
「犠牲フライはたまたまのものだからまあよしとして、三振はどうしたものかなあ。俺も三振するときは一試合に三つぐらいしちゃうけど、コンスタントにはしないなあ。金太郎さんは三振ゼロだよね」
「どこかで一個したような気がします」
「一個?」
 だれも憶えていなかった。菱川が、
「大洋戦じゃなかったですか」
「あ、大洋戦だ。四月三十一日、高橋重行」




七章 進撃再開 その5へ進む

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