五十八

 枝垂れ柳を門の両側に植えた大名屋敷のような建物に入る。徳川園にもこれと似たような建物があった。水原監督が、
「河文(かわぶん)は明治前までは尾張の徳川家御用達(たし)だったからね。塀や門はもちろん、主屋(しゅおく)や厨房が文化財になってるんだ。きょうは、酒はビール二本まで。腹いっぱい食って帰ろう」
「オース!」
 二人の仲居に式台で丁寧に挨拶される。土間の水原監督の書を横目に式台に上がり、襖を取り外した十二畳二間つづきの和室に通された。玄関の書が自分の手だということを監督は言わない。言うも何も、それ以前に、だれもその種のものに関心がない。
 広々とした、掛軸と花の部屋。水原監督の『梅耐寒苦発清香』とちがって、この部屋の掛軸の字は読めない。すでに箸と座椅子が用意されていた。薄暮の庭に椎の古木が立っている。水原監督がしみじみと眺めやり、
「戦災を生き延びてきた椎の木だよ」
 諸所でタバコの煙が立つ。品を取り繕った女将らしき中年女が、料理長ふうの男と連れ立って入ってきて、深々と叩頭した。
「いらっしゃいませ、水原さま。きょうはまた大勢お連れなさって、どういう風の吹き回しでしょ。何かうれしいことがあったんですか?」
 セックスアピールのまったくない五十過ぎの女だ。タクシー時代の顔見知りだと菅野が言っていたが、実際単なる顔見知りで、気に入っているわけではないのだろう。太り肉(じし)の料理頭も貫禄がなく、女将の添え物という感じがする。にこにこしているだけで、ひとことも口を利かない。おそらく、ここの料理がうまいとするなら、配下の料理人の腕がいいからにちがいない。
「少年野球教室がうまくいってね。気分がいいんだ」
「まあ、それで選手のみなさんをお連れする気になったんですね」
 ここにきて食事をするのは、水原監督が前もって決めていたことだ。野球教室の成功とは関係ない。だいたいこの女に野球教室なんて何のことかわからないだろう。
 色気のない女は色気がないというだけで、即刻私の中で善人の範疇を外れ、発言のすべてを胡散くさく感じるようになる。目くじらを立てるほどのことでないとわかっていても、できれば何かをしゃべってほしくないと思う。崖の長屋のお婆さん、ひろゆきちゃんのママ、大家の坂本のお母さん、サーちゃんのお母さん、英夫兄さんの女房のミッちゃん、千年小学校の下椋先生、牛巻病院の婦長さん、山田三樹夫のお母さん、名古屋西高の松田先生、吉永先生の友人の西森さん……そして、母。水原監督は女将に、
「ここはイチゲンさんお断りの店だから、私がいないと選手たちは入れないからね。これからはもうきみたちは馴染み客だ。大枚持って好きなときに食いにきなさい。きょうは清水の舞台から財布を投げ捨てる覚悟でやってきましたよ。うまいものを食えば、彼らのあしたのエネルギーにつながるし、これからも家族を連れてくる気になるだろうしね。私が現役でいるあいだは、ドラゴンズにイチゲン客はなしだよ」
 女将の顔を見て言う。敷居の高さを暗に批判している。
「もちろんでございます。そちらさまが神無月選手ですね。水も滴るいい男。今後ともご贔屓に」
 私は軽く会釈した。早く去ってほしい。
「みなさまテレビで拝見するお顔ばかりで、緊張してしまいます。きょうはこの板長が腕によりをかけて、ごちそうを作ると申しております。どうかおいしいものをお腹いっぱい食べて、ご機嫌よくお帰りくださいませ。お飲み物は?」
「ビールを三十本。そのあとのお酒はいっさいいりません。あしたは一時から巨人戦ですから」
「わかりました。ただいまビールをお持ちします。どうぞごゆっくり」
 また二人でうやうやしく平伏して去った。すぐに活きのいい朗らかな仲居たちがビールを持って入ってきた。着物の尻を触りたくなるほどセックスアピールがある。たちまち気持ちが晴れ上がり、食欲が出てきた。ビールをつぎ合い、江藤の音頭で乾杯。半田コーチの姿がない。
「半田コーチは?」
 去年まで同僚だった杉山が、
「球場でタクシーを呼んだあと、その中の一台に乗って帰りました。むかしから日本料理が苦手だそうで。気を悪くしたわけじゃありません」
 水原監督が、
「きのうからカールトンさんはその予定だったので、気にしないで。……ああ、きょうはじつにいい日だ」
 中が杉山に、
「金太郎さんのホームランを見て、腕が鳴ったでしょう」
「鳴らなかった。あれはホームランというのとは別物。ホームランはスタンドを目指すものだけど、あれは空を目指してた。打つというより、発射だね。ぼくも軟式野球のホームランバッターだった。それを見こまれてプロにきた人間だからよくわかる。あんなふうに軟式ボールは飛ぶはずがない。鬼神の技だよ。……それにしてもドラゴンズはよくまとまったチームになった。去年は年明けに西沢さんの十二指腸潰瘍悪化、そして辞任。杉下さんの二度目の監督就任。速球本格派の小野を大洋から獲得。西鉄へ広野を出して、十勝を計算できる田中勉獲得。河村と徳武のトレード。着々と地固めして……」
 高木が、
「四月二十日から九連勝、その後八連敗。おととし最多勝だった健太郎さんが十勝しかできなかった。おととし首位打者だった中さんも眼をやられて、長期欠場。俺は堀内に顔面にデッドボール喰らって、長期戦線離脱。悪いことはつづくもんで、五月の末から十一連敗、ちょっと勝って六連敗。六月下旬には杉下さんが就任八十日で休養。本多さんが代理監督やったけど、チームの運気は上がらず、二桁連敗がつづく。どこまでつづくヌカルミぞ。球団創設以来初めて全球団に負け越して、とうとう最下位。いったい去年は何だったんだろうな」
 江藤が、
「雨は降る降る人馬は濡れるで、まとまるはずがなかろうもん。ただノロノロ歩くことしかしきらんかったとたい」
 一枝がビールを一息に飲み、
「夏用のノースリーブのユニフォームってやつな、黒と赤の混ざったやつ。杉下さんのデザインだったろ。派手で薄気味悪くて、あれが不運の象徴だった。半年で廃止になってよかったよ」
 中が、
「あのノースリーブ、慎ちゃんの腕がグロだって非難された。慎ちゃんばかりじゃない。いい大人の着る服じゃなかった」
 木俣が、
「そんなところへ、軍神水原茂が噴水のように湧いて出て、野球神神無月郷がその水を飲みに天から降りてきた」
 吉沢が、
「禍福はあざなえる縄のごとし。禍が大きかったから、福もバカでかかったんですね」
 ゴマ豆腐が出てきた。うまい。つづいて鯵のたたき。開き以外は生臭くて食えない魚だが、お替りしたいほどうまい。四角い蒲鉾の入った吸い物。うまい。水原監督が、
「うまい料理が立てつづけに出てくるね。さ、暗いむかし話そのへんにして、大いに食べましょう」
 江藤が、
「監督、ワシら古参は、この先よくもって六、七年。そのあいだにほかのベテランもどんどん衰えていくわけやろう。金太郎さん一人に頼っとるわけにいけんごつなります。来年のドラフトのことはもう考えとりますか」
「うん、大きい基本を考えてる。毎年ピッチャー一人、野手一人採ろうと思ってる。今年のドラフトは、三本木農業から日本軽金属へいった戸板光成、早稲田の谷沢健一。どちらも採れなかったら、一人もいらない」
「戸板は、榊さんがずっと狙っとるピッチャーですばい。青森で金太郎さんと戦ったことがあるげな。バッターは焦って採る必要はなかでしょ」
「うん、ない。ただ、谷沢はほかへは獲られたくないバッターなんだ。獲れるうちに獲っておきたい」
 小川が、
「谷沢って、左だろ。外野か一塁だな。肩はどうなんだ」
 菱川が、
「ふつうですね」
「打力は慎ちゃん以上か」
「それはありえません。シュアですけど」
「じゃ割りこめないな。採っても新人のうちは守備の控えか、代打か」
 水原監督は、
「はい、三、四年はそうやって使おうと思ってます。大学四年間で三割五分以上打ってるし、けっこう活躍してくれるでしょう。戸板はローテーションピッチャーになってくれると思う。戸板が安定するまで、もう一本、柱がほしいな。土屋が伸びてくれればいいけど……」
 星野秀孝のことを思い出した。一人二本のビールが空になった。だれも次を要求しない。あしたの巨人戦が頭を大きく占めている。太刀魚と中トロのお造り。一口でぺろり。鴨の炊き合わせ。歯応えのある肉だが美味。キャベツの春巻。絶品。もずく。ふつう。ようやくめしになった。桜海老の炊きこみめし。麩とミツバの赤味噌汁。うまいが、食い足りない。太田が、
「腹がふくれませんね。これでデザートでも出されたら、ギャフンだ」
 みんなの気持ちを口に出してくれた。水原監督が、
「たしかにこれだけじゃ、腹いっぱい食って帰るという最初の約束を破ることになっちゃうな。酒の〆ということでカレーうどんを頼めば、単品で出してくれるだろう」
「それお願いします!」
 全員が手を挙げた。
「杉山さん、じつは田宮さんが来年から東映フライヤーズの一軍ヘッドコーチでいくことが本決まりになった。夏までにフライヤーズの監督に就任することを前提にね。きみに打撃コーチを要請したら、来年からきてくれるかね」
「もちろん喜んで。ただ、もう一年、解説者をやってみたい気持ちなんですよ。しっかり外からの目を養ってから、内側へ入りたいと思うんです。昨年まで、自分の指導はあまりチームの役に立っていなかったように感じられるので、教えるための基礎をもっと磨きたいといいますか……。今年、ドラゴンズは確実に優勝します。そこへ私のような未熟な者が、ほいほいコーチにいくというのは、棚から落ちてきたぼた餅に食いつくようで、しっくりしません」
「噂どおりの人だね。神経が濃やかで、心やさしい。そういう気質の人間は、気が長いので選手の育成に長けている。きみの指導のおかげで木俣くんが成長したことは有名だ。しかし、そういう気質は自分を殺してしまうことがある」
 みんな水原監督の顔を注視した。
「昭和二十四年のきみは、開幕からホームランを一試合に二本のペースで打って、百本は確実に打つと断言する人もいたほどだ。いまの金太郎さんと同じだ。それがとつぜん失速して、結局三十一本に終わった。どうしてだろうね、わかりますか」
「……この気質のせいということでしょうか」
「それだけじゃない。心やさしく気が長い気質に、反省癖が加わったせいです。ホームランが出なくなると、その気質で考えこんでしまったからなんです。きょうきみがみずから進んで野球教室にきてくれたのは、あのころのきみと同じペースでホームランを打ちつづけている金太郎さんに会いたかった、会ってその人となりを見たかった、そうでしょう? 見た結果、きみはひどく感動した。何かに気づいたからです」
「はい、人の模範となって、嫌味がない……」
「だけではないんですよ。それはこういうことでしょう。……金太郎さんもきみと気質が似ている、神経が濃やかで心やさしい、しかし、一点、ちがうところがある。それは、金太郎さんは考えこまないということだ。一試合くらいホームランが出なくても、何とも思わない、と言うより、打てなかったことを自分の技量のせいにしない。相手がすごかったと素直に認めるんですよ。そしてそのすごいボールを打つために、全力で、かつ楽しんで研究する。わざわざ難しいボールを打って凡打することを楽しむんですよ。そこまではわからなかったかもしれないが、金太郎さんの楽天性には気づいたはずだ。他人にどう見られてもいい、自分の技能が最高だと信じる楽天性だ。ダウンスイングの否定がそれをよく物語っている。キャンプ早々、ドラゴンズの連中に掬い上げるのはまちがっていないと諭したくらいだからね。きみは直観的にそれに気づいた。ぼくの見るところ、きみは本質的にその楽天性を持っている。だからこそ人を教えられる。自分を信じろと教えられる。きみは選手をけっしていじろうとはしないはずだ。私もいつまでも球界にいられるわけじゃない。なるべく早いうちにきてくれたまえ」
「はい!」
 テーブルの全員が拍手した。木俣は薄っすらと涙を浮かべて拍手していた。子供たち一人ひとりのバッティングフォームを矯正せずに、ただボールを待つ構えをして見せた杉山の姿が浮かんだ。


         五十九

 水原監督の温かい長広舌のおかげで、みんなの口が軽くなった。伊藤久敏が、
「タオルでシャドーをやって見せていたとき、教えるというのがいかに難しいかわかりました。どうやって自分は投げられるようになったんだろうって考えちゃうんですよ。結局わからない。だから、でき上がっている自分の姿を見せればいいや、努力の結果そうなったんだからって。強制しない、いじらない、ただ自分の姿を見せる、それが基本ですね」
 千原が、
「神無月くんも、自分の振り方を見せてただけですからね。俺があれで得たのは、知識ではなく勇気です。アッパー、ダウン、そんな技術的なことはどうでもいいから、ゆったり構えて、スピード豊かに振る。いままでの自分でよかったんじゃないか、とね。そうすると、その基本のうえで、いままでの自分を百パーセントにしていなかったものが見えてくる。あの屁っぴり腰と肘挙げの精神です。技術じゃなく、精神なんです。型破りを気にしないという精神です」
 カレーうどんが出てきた。水原監督が、
「さあ、これを食って帰りましょう」
 ズルズルやりながら、しゃべり足りない連中が話しはじめる。新宅が、
「どんなやつにもファンがいるというのを知って、気が引き締まった。年に二十試合、三十試合しか出られなくても、ファンはかならず見てくれているんだって。監督が、プロ野球選手は十万人に一人だと言ってくれて目が覚めた」
 木俣が、
「おまえも三年前のドラ二だもんな。捕手としての能力はおまえのほうが上だ。打力がついたら俺はかなわない」
 吉沢が、
「私も感動しました。カムバックしてくださいと言われて……。散りぎわをしっかり見てもらおうという気になりました」
 私は立っていって、吉沢の手をとった。
「一試合でも多く出られることを祈ってます」
「ありがとう。あなたの情け深さは、いつも身に沁みます」
 江藤が、
「ガキたちがシートバッティングしとるとき、金太郎さんが泣いとるのを見て、ワシも泣いた。どこまでやさしくできとるんやろな」
 中が、
「私も泣いた。特にホームラン打ったときは大泣きした。バッターボックスの金太郎さんの顔に、子供たちのために、観客のために、ドラゴンズチームのために、みんなのために打つという悲壮なまでの決意が滲み出てたからね。六十本をこの決意で打ってきたんだって、気楽に打ってたんじゃなかったんだって、ゾッとするくらい感動した」
 杉山が、
「どうも、私のやさしさとは質がちがうようです。あまねく照らす光みたいなものですね」
 水原監督が、
「吉沢くん、あした先発だよ」
「ほんとうですか! ありがとうございます」
「二打席凡退したら、木俣くんに代わる。木俣くんも二打席凡退したら新宅くんに交代してもらう。来月の川崎遠征からは、控えはピチッと控えに回ってもらう。故障が出ないかぎり、ずっとレギュラーメンバーでいく。控え選手は名古屋にいるあいだにいい印象を残しておいてください」
 一枝が、
「あしたの巨人は必死でしょうね」
「うん、まちがいなく総力戦でくる。結果しだいでは、次回からは、あきらめるなり、自信をつけるなりで、固定メンバーでくるだろう。あしたはうちもベンチメンバー全員を使おうと思ってる。一番から四番までは全打席いってもらう。先発は浜野。継投予定は、水谷寿伸、伊藤久敏、小野、田中勉、山中、小川」
 小川が、
「俺もですか」
「全員だ。おとといアトムズ戦で、長嶋が六、七号、王が八、九号を打った。火が点いたね。ほかの選手も引きずられるだろう。浜野一人では無理だ。こっちも総力で二人を抑える。コテンパンにノシたら、この一年のペナントの行方は決まったも同然になる」
「オース!」
 太田が、
「長嶋、三百号です」
「王は?」
「三百六十五号」
 たちどころに答えた。水原監督が、
「太田くん、あした髪を切っておきたまえ。野球帽の後ろから伸ばしすぎの髪が覗いていたよ。敵にナメられるからね」
「はい、わかりました。すみませんでした」
 みんな思わず後ろ髪に手をやった。
 めいめい、タクシーを拾って帰った。水原監督は杉山とタクシーに乗った。私は、最後に江藤たち三人組がタクシーを拾うまで路上の涼しい風に吹かれた。江藤が、
「何か考えながら歩いて帰る気やろ。いけんいけん。いっしょにいこ。駅まで送ってく」
 私は太田と菱川と並んで後部座席に座った。私が長いこと黙っているので、太田が語りだした。
「また、褒めちぎられたことを考えこんでたんでしょ」
「そうだね。神無月、おまえって、何者だい? いい意味じゃなく、いつもそういう声が聞こえてくる。ほんとに、自分は何者なんだろうって思う。……恥ずかしくなるんだ」
「自分が何者かなんて、本人にはわかりませんよ。神無月さんは、その、何者にもなりたくないやつ、と他人の俺が説明しておきます。スッといなくなりそうな予感のする人だから、俺は神無月さんと会ってる一瞬一瞬を大切にしてます。神無月さんを愛してる人たちは、みんなそういう気持ちでいるでしょうね。何者でなくても、俺たちにとって神無月さんはすべてなんです」
「そうたい、すべてやけん、金太郎さんのおらん人生は、無ばい」
 助手席の角刈りの後頭部が断定した。彼らは変人だ。その証拠に彼らは、私の話を聴くときや、問いかけに応えるときに、考えられないほどの子供らしい純真さを示す。彼らを騙しているような気になるほどだ。とにかく、彼らが私を忘れてくれたほうがいい。彼らに対する私の未練がどれほど強いものだとしても、そうあるべきだし、そのほうが私も苦しくない。菱川が、
「手放しに褒められてると思うと、神無月さんも居心地が悪いんでしょう。でも神無月さん、俺たち褒めてるんじゃないんですよ。自分のしていることを考えてください。いっしょにいて神無月さんのことを話題に出さないのはたいへんなんです」
 太田が、
「神無月さんは人間を信じますけど、人の褒め言葉は信じませんから、褒める必要なんかないんだってことはわかりますよ。でも、だれも神無月さんを褒めようと気を使ってるわけじゃないんです」
 江藤が、
「金太郎さんに感動せんやつには、じつに都合よか性格ばい。そういう無礼を金太郎さんは何とも思わんのやけんな。礼儀をわきまえた者に感謝はするが、彼らの評価は信じとらん。あまりの評価の高さに悩む。驚くべき性格やが、つまるところ、自分に自信がないんやなァ」
「そのとおりです」
「やや、金太郎さん、早とちりすなよ。能のなか人間の自信のなさと意味がちごうとるけんな。能のありすぎる金太郎さんほどの男が、心底自信がなかっちゃん! ワシには理解できんゆうことばい! ばってん、その性格を変えることは無理やろう。理屈のなか血みたいなもんやけん、変えられん。この四カ月で、どうすればよかかわかってきたっちゃ。金太郎さんを空気やと考えたらどげんやろう。だれも空気のことは褒めんし、気にもならんやろ」
 運転手が、
「驚きました! みなさんはすごい人たちですね。人間同士がこんな話し合いができるなんて知りませんでした。驚きです。あ、すみません、横から口出しして。私、みなさんの大ファンなんです。ドラゴンズの選手を乗せたのは初めてのことなので、舞い上がってしまって。神無月選手が超変人だとわかりました。天下の神無月選手をふつうに褒めるのに周りのみなさんが四苦八苦してるのは、見ていて気の毒なくらいです。ただ……バッティング以外のことは、本人のいないところで褒めつづけるしかないと思いますよ。たしかに人格のすばらしさは、テレビを観ているだけで感じます。しかし、本人にしかわからない内面的な劣等感みたいなものはかならずあるんですよ。キリストや釈迦だってそうだと思います」
 江藤がうなずき、
「なるほどのう。ばってん、ワシらは金太郎さんの劣等感をほじくっとるわけやない。自分の偉大さを偉大とも思わずに暮らしとる謙虚すぎる男に、実際すごい男やと教えて、拍手したいだけばい。……褒められると気楽になれんのは金太郎さんの気質たい。野球やろうと気質やろうと、ワシらは褒めたいことを褒める」
 私は笑って、
「野球の自信はありますけど、人間としての実力がないんですよ」
「実力? どうも性格のことではなさそうやな。そうか! いわゆる魚心のことか」
 江藤がやさしい目で振り向く。
「そうです。世間が水心を持つのは、魚心のあるやつに対してと決まってますからね。世間に水心を持たれる人間を偉大な人間というんでしょう? それがないやつには、足跡どころか、爪痕も残させてはくれない。ちっとも偉大じゃない」
 菱川が手を挙げて、
「なんですか、魚心って」
 江藤が、
「世間に対する好意のこったい。世間に好意を持てば自分も好意を持たれる。それを金太郎さんは人間としての実力ゆうとる。ばってん、少なくとも、魚心は才能でなか。そんなもん持たんでよか」
「そう言ってくれてうれしいです。でも、才能というのは魚心のない負け犬の愛嬌です。勝ち犬には要りません。勝ち犬には才能がなくても魚心と野心があればいい。それこそ社会に生きる人間としての実力です。ぼくに才能があるなら、その負け犬の愛嬌だけをみんなで楽しんでほしいんです。それですべて円満解決です」
 菱川が、
「社会的に成功して、教科書に載るような人間にもなれないのに偉大な人間と言ってくれるな、人間として褒めてくれるな、ということですね。つつがなく教科書に載るような人たちに負けてあげたいわけですね。よくわかりました。しかし俺は褒めつづけますよ。そんなやつらより、神無月さんはずっと高級だ。神さまがちっちゃな社会で成功して、教科書なんかに載るはずがない」
 運転手が、
「たしかに、スポーツに秀でた人は、リンカーンみたいに教科書に載りませんね。みんなを楽しませてくれた人よりも、みんなに社会的経済的な利益を与えた人ばかりが歴史に残ります。でも、神無月さん、みんなを楽しませる人もちゃんと歴史に残りますよ。ベーブ・ルースもチャプリンも歴史に残ります」
 江藤が、
「運転手さん、金太郎さんはどんな分野でも歴史に残りたくなかとです。じゃけん歴史に残りたがる人間を偉大な人間だと言っとるんです。残りたがらない人間は、人間的に実力がないと言っとるんです。ばってん、そういう自分に絶望しとるんやなかとばい。心から喜んどォんばい。ただ褒められると、せっかく褒めてくれても、自分は野心のない人間だから褒め損だよ、褒めた甲斐がないよと、申しわけなかち思っとう。どうね、おもしろか男やろう。これで、野球の歴史ば塗り替えた大天才のわけやけん、こっちは非常に複雑な心持ちになるばい」
 運転手は、
「聞いていて自分が恥ずかしくなります。私、名古屋大学の医学部を出て、国家試験に通って医師免状も得たんですが、その神無月選手の言う、歴史に残りたいってやつで、渡米して細菌学の研究をするために、いまこうやって渡航資金を貯めているんです。私は神無月選手の分類だと、偉大な人間に属す可能性があることになりますね。恥ずかしい。神無月さんの社会的な名望に対する嫌悪は、資格社会の面倒なシステムへの徹底した反発じゃないんでしょうか。資格の獲得による身分の安定を嫌ってるわけじゃなさそうです。きっとそういう努力をして安定した人には温かい視線を注いでいると思います。……結局、ひっくるめてそういうことには無関心なんでしょうね。階段を上る手続がとにかく面倒くさい。ほんとに面倒くさくていやになります。面倒くさがりというのは、一言で、怠惰。怠惰というのは、動かないということです。じっと動かない人は、周囲の人に明鏡止水といった感じを与えることがあります。西郷隆盛が山岡鉄舟のことを、命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、なんとも始末に困る人、と言った、あれですね」
 私は、一つの考えに没頭している運転手の帽子を見て、とつぜん笑いだした。彼の言葉は格別笑うようなことではなかったけれど、私はなんだか無性に笑いたかった。
「正解! そのとおりです、運転手さん、いや、将来の細菌学博士、面倒くさくなく生きるためなら、この世のすべての利益を捨ててもいいと思ってます」
「神無月さん、笑わないでください。私、精いっぱいなんです。やけっぱちと言ってもいいくらいです。私には六十本のホームランは打てませんし、神無月さんのように、周囲の人たちから全幅の信頼と愛情を受けることもできません。ホームランに匹敵する名誉を得て、周囲の信頼と愛情を受けるしかないんです。自己信頼が激しいわけです。有名になれる力があるのに、だれもステージに連れていってくれない。それもこれも、社会的な手続を踏まないからだ―」
 私は、
「自己信頼と言うより、社会信頼ですね。社会に守られてこそ、名声を手に入れられるというね。自分自身に対する絶対的な自信がない。そういう自己信頼のなさを、とりもなおさず無能というんじゃないでしょうか。社会的人間としての実力はありますけどね、個人としては無能です。せっかく医者になったのだから、有名になんかなろうとせずに、有能さを発揮して、苦しんでいる人たちを助けなくちゃ。たしかに、そんなことをしているうちに、北里柴三郎のような社会的名声はどんどん遠ざかります。しかし、あなたの個人的価値はどんどん高まります。個人的に無能な人間の価値は低い。名声は処世の実力の結果であって、本来的に社会が必要とするものではありません。社会が必要とするのは個人の有能さです。ただし、有能な個人が手続を怠ると名声を与えてくれません。きちんと手続を経て得た名声は偉大なものとして記録に残ります。あなたはそれが口惜しいんでしょう。手続を怠ったばっかりにってね。死して皮を残さないという気持ちでありさえすれば、すべての名望は人生の目標でなくなります。あなたの有能さを待ち望んでいる周囲の人たちに応えるべきです。ぼくは周囲の人たちが喜びさえすれば最高に幸せです。世界の人たちはいらない。周囲の人たちにぼくの野球を観て楽しんでもらう。歌も、文章も、こうしてしゃべっている言葉も、みんな、ぼくのすぐそばで聴いたり読んだりして楽しんでもらう。楽しむことに評価は要らないんです」


         六十

 菱川が、
「運転手さん、よく憶えておいたほうがいいですよ。こういう人間がまちがいなくこの世にいるんです。このへんで、手を打ちましょう。どうも、理は神無月さんにあります。たしかに、待ってる人間を迎えにこないのが社会です。神無月さんはそういう社会と折り合いがつけられないんですから、ほんとに仕方ないこととしてあきらめるしかない」
 江藤が、
「ワシは、金太郎さんと生きられるだけでうれしかよ。こうやってごしょごしょ言えるのは、すべて贅沢たい」
 運転手が、駅前の降車場にタクシーを停め、
「神無月さん、国民的な賞をいただいたらどうします」
「もらっておきます。ぼくを愛する人が喜んでくれますし、そんなものは教科書に残りませんから」
「安心しました。どんな賞でももらってください。きょうのことは生涯忘れません」
「おつりは渡航費の足しにしてください。断らないでね。乗りかかった船は降りてはいけない。あなたはアメリカにいくべきです。ぼくのまねをする必要はないですよ。有名になっても人は救えます。成功をお祈りします」
 男はじっと一万円札を見つめ、
「ありがとうございます。感謝します」
 とポツリと言った。
 三人は駅前でタクシーを乗り捨て、新しいタクシーを求めてロータリーの乗り場の列についた。彼らの気持ちがよくわかった。彼らはゆったりタクシーに乗りこんだ。助手席の江藤に、
「あしたは浜野さん一人でだいじょうぶでしょう。吠えなければ」
「初回に点を取ってやろ。じゃ、あした、九時半な」
「はい、失礼します」
「バイバイ。むちゃくちゃ愛しとるぞ」
「俺もです!」
「俺もです!」
 三人で手を振って遠ざかっていった。
 街灯のない暗い道を北村席まで歩く。前から三つの影が近づいてくる。カズちゃんと素子とメイ子だ。
「そろそろじゃないかと思って迎えにきたわ」
 ユニフォームの入ったダッフルを受け取る。
「何時?」
「九時を過ぎたばかり。コーヒー飲んで帰りましょう」
 北村席の玄関を入ると、ワッと一家が出てきた。主人が一声、
「見ました、見ました、CBCで三十分枠のニュース特番をやりました。監督、現役レギュラー打ち揃って地域貢献活動に参加するのは、プロ野球史上初めてのことだそうです」
 キッコが、
「子供よりも、神無月さんばっかり映しとったで。子供よりかわいらしくてきれいやった」
 主人が、
「ふつう、少年野球指導はテレビのニュースになりませんわな。スポンサーが四つもついとった」
 菅野が、
「子供たちや親たちのインタビューもありましたよ。みんなすごい喜びようでした。あのホームランはすごかったですね。みんな泣いてるのを見て、私たちも泣いてしまいました」
 トモヨさんとソテツがコーヒーを持ってきた。
「疲れました?」
「グッタリ。子供の指導は現役選手にかぎるね。もとプロ野球選手の肩書を活かして少年野球に打ちこんでる人が多いみたいだけど、その立場になったらぼくにはとてもできない。引退した選手なら、のんびり教えてやるのがかえって余裕に見えたりして、貫禄もあるということなんだろうけど、ぼくはだめだ。余裕を見せて真剣味を欠いちゃいけないって考えちゃう。一球一打、ボールに取り組む姿勢が影響を与えるんじゃないかと思うと、気が抜けない。それだけに現役時代より疲れると思う。現役選手のあいだだけ、素直に引き受けようと思う。グッタリ疲れる体力があるうちにね。でもきょうは、水原監督を駆り出して、めしまでおごってもらって、迷惑かけちゃったなあ。やっぱり、二軍か新人選手にいってもらうべきかな。そのほうが子供たちも気がラクだ」
 主人が、
「神無月さんがいかん言うたら、来年からもうレギュラーはだれもいかんで」
 菅野が、
「てなこと言いながら、神無月さん、また頼まれれば、にっこり笑っていってあげるんでしょ?」
「いや、公式戦より疲れることには参加したくないというのが本音だね」
 睦子が、
「それで選手のみなさん真剣だったんですね。感動しました」
 千佳子が、
「あのホームラン。みんなの願いをこめたホームラン。試合と関係ないのに、みんなホームランに願いをこめるのが不思議でした。勝ち負けと関係なく、ホームランを観にいくのが野球の真髄だってわかった。勝敗が決すると、ぞろぞろ球場から出ていく人たち、あの人たちは野球が嫌いなのかしら。勝敗だけでいいなら、ほかのどんなスポーツでもおなじことになるわ。野球にしかないもの、それはホームラン」
 私は笑って、
「勝負がかかってないときはそれでいいけど、贔屓のチームに勝ってほしいときは、バントも内野安打も楽しいものなんだよ。そういうときは、ホームランは真髄じゃなくて、チーム勝利の一要素になる。たとえば、あしたの巨人戦、ぼくたちのホームランは観たくても、王や長嶋に中日のピッチャーがホームランを打たれるのは、あまり観たくないでしょう?」
「ほんとだ。ぜんぜん観たくない。じゃ、きょうの願いは何だったのかしら。チームの勝ち負けと関係のないホームラン」
「ぼくにホームランを打ってほしいという願いだよ。ベンチ全体にその気持ちを強く感じたんで、ぜったい一振りで決めたかった。小川さんもそういう気持ちだから、ど真ん中に投げてきた。それでベンチ全体の願いに応えることができた。みんなホッとして泣いちゃったんだね。教導員やスタンドの人たちは泣いていなかった。特定の個人を応援する気持ちがチームメイトほど強くないということなんだ。それに、彼らはそれほどホームランの美しさを望んでいない。ドラゴンズファンの彼らには、ふだんは、犠打や適時打や、チームの勝利でじゅうぶんなんだ。ぼくにとってホームランは、ぼくのホームランを愛してくれる人たちに捧げたい個人的なプレゼントだ。確実に捧げられるとはかぎらない。だからいつでも緊張するし、ホームランを見たい人も願うしかない」
 ソテツが、
「子供たちが打って走るのを見ながら、神無月さん泣いてる姿がテレビに大きく映ってましたけど、どうして?」
「いい打球を飛ばす子もいたからね。十年前の自分の姿に重なったんだ。本格的に野球を始めたのがちょうど十歳だったから。……きょうの子供たちも十歳だった。この中の何人が、情熱を持って野球をつづけていくんだろうと思ったら泣けてきた」
 女将が、
「江藤さんもボロボロ泣いて、あれを見てもやっぱり泣いてまったわ」
 素子が、
「江藤さんて、キョウちゃんが泣くと、すぐもらい泣きするんよ。うちらといっしょや。ひょっとして女やないの」
 菅野が、
「あんな筋肉質の女がいたら怖いですよ」
 私は睦子に、
「子供たちは何て言ってました? 感想のインタビューはあったんでしょう?」
「すごく細かいところまで、わかりやすく、きちんと教えてくれたから、実践してみようという気持ちになりました、とか、簡単に、よかったと思います、とか、神無月選手がショートバウンドの上がりぎわでさばけと言ったので、そうしてみようと思います、とか、自分の悪いクセみたいなものが見つかったので、それをこれから直していこうと思います、とか、自分をコーチにアピールして、バッティングを中心に守備でも活躍していきたいと思います、とか」
「思います、思います、か。優等生だな。コーチにアピールって何だ? 監督のまちがいじゃないか? 大きいホームランを打ちたいとか、小川選手のような速い球を投げたいとか、そういう子供らしい意見はなかったんだね。プロ野球選手は子供たちからあこがれてもらわないと存在価値がない。選手はだれかインタビューを受けてた?」
 菅野が、
「だれも。インタビューされないのは不思議ですね。近づきがたいんだな。撮影ばかりしてましたよ。そう言えば、最後に球場を周回してたとき、水原監督が受けてましたね。千佳ちゃん、監督何て言ってた?」
「型ができていておとなしい子が多いね、子供のうちはもっと自由に野球を楽しんでほしいんだがね、いずれ本格的に野球というものに取り組んでいけば、自分をきびしく律することを覚え、きびしい鍛錬を積み重ねて一人前の野球選手になっていくものだ、それからどう言ったんだっけ、ムッちゃん」
「そうなると不思議なことに、幼いころ楽しく野球をやった人間は、野球は楽しい感動的なスポーツだというところに戻ってくる、神無月郷がそれを体現している人物です、彼は楽しいものを見て笑い、興奮し、感動して泣きます、きょうも少年たちのプレイを見て泣いてたでしょう、ドラゴンズの連中は、プロのきびしさの中で野球の楽しさを忘れていた、感涙を忘れていたんです、神無月郷は、楽しみ、感激するのが野球本来の形だということをチーム全員に思い出させてくれた、みんな楽しく、笑ったり、泣いたりしながら、少年のころのように野球をやるようになった、いまのドラゴンズがあるのは彼のおかげです、子供たちは、全身これ野球の楽しさと情熱に満ちあふれている神無月郷から、スポーツの本質を学び取ってほしい」
 二人の記憶力にみんな舌を巻いて拍手した。千佳子が、
「ムッちゃんの記憶力って、ちょっと特別なんです。横山さんのカメラ眼みたいなんです」
 私は、
「お父さんと菅野さんの野球知識は尋常でないし、山口の社会的知識、カズちゃんの世間的知識。とにかくここは何でもござれの館だな。ここで年とっていきたい」
 主人が、
「年とるだけでなく、ここの畳で死んでください。ワシらを看取ったあとでね」
「そうさせてもらいます」
 菅野が、
「蒲団の周りで、集団自殺になるんじゃないんですか」
「そのころはみんな爺さん婆さんですから、その気力がないですよ。ぼくは手を握ってもらえば大往生です」
「往生の話はまだまだ先のことや。しかし水原監督、ええこと言うなあ。そのとおりや。神無月さんの溌溂とした動きに合わせてドラゴンズの連中も動いとるようやった。ホームランを打たれたときの小川さんのうれしそうな顔ったらなかったな」
 主人の横顔を見ながら天童が、
「少し齢のいった人もインタビューに答えてましたね。ヌボーッてした人」
「杉山悟な。去年までコーチやった。いまラジオで解説やっとるわ」
 千佳子が、
「子供も大人も神無月選手から学べるのは情熱だけであって、技術は鬼神のものなので学べません、と言ってましたよ」
 私は、
「鬼神でも何でもなくて、小学校の時のアイデアで打ってるだけなんだけどな。そのアイデアを学ぶのが難しいのかもしれない。スイングスピードの速い人は身につけられると思うけど」
 菅野が、
「そのアイデア、ぜひ聞きたいですね。まだだれにも話してないんでしょう?」
「うん、コースなりのスイングの仕方はして見せたけど、アイデアはしゃべってない。振るときのイメージなので、実際にピッチャーに投げてもらいながら振って見せないとわからないと思う。外角は引っ張る感じで、つまり腰を早めにひねり、内角は流す感じで、つまり腰を少し遅らせてひねる。それだけなんだ。衝突点まで持っていくスピードがもともと速いことを利用するわけ。外角は引っ張る感じでちょうど振り遅れずにセンターより左へ打ち返すことになるし、内角はファールにしないできちんとライト方向へ打ち返すことができる。真ん中は高低に関わらず、強いインパクトで芯を食わせることだけを考える。この打ち方でバットが届けば、ほとんどスタンドに入る」
「……簡単そうですけど、やっぱり杉山さんの言うとおり鬼神のものでしょうね。バットスピードの速さが異常だと、いつか新聞に書いてありましたから」
「頭の中身といっしょで、ぼくの野球は小学校から変わってないんです。からだが大きくなって、力がついただけ」
 夜が更けはじめ、少年野球教室の話も終わって、睦子が腰を上げた。
「あしたの朝きます。金魚槽のカビ取りと、糞掃除もしなくちゃいけないので」
 私は、
「家族の一員だものね。魚も人間に馴れるんだよね」
「そう! 指に吸いついてきたり、頭を撫でさせたりするんです。かわいい」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、金魚の話を聞くだけじゃなく、今度時間が空いたらいって泊まってきなさい」
「そうする。一度もいってないものね」
「そうよ。薄情なんだから」
「そんなことありません。神無月さんは忙しくて―」
「冗談よ。キョウちゃんが薄情のはずないでしょう」
 千佳子が睦子を門へ送って出た。


         六十一

 主人が、
「あしたの先発は?」
「浜野です」
「根性男か。ちゃんと投げこみやっとるんかな。いっちょ、球が速くならん」
「地肩がプロにしては弱いんです。百四十キロ前後は投げられるんですけどね。地肩を鍛える基礎的な方法は遠投なんですけど、ほんとうに肩を強くするのは、四、五十メートルを低い球でキャッチボールすることなんです。キャッチャーの二塁送球みたいにね。最初は低いまま届かなくても、いずれ届くようになります。金田がよく二塁からホームへ投球しながらマウンドに近づいていく、あれです」
 カズちゃんが、
「さ、キョウちゃん、お話はそれくらいにして、則武に帰ってお風呂に入って寝ましょう」
 キッコが首を傾げて笑いながら、
「六月三日まで名古屋でんな」
「うん、そのあいだにね」
「ワもお願げします」
 イネが手を挙げた。
「だいじょうぶ、十日もあるから」
 千佳子が戻ってきた。カズちゃんが、
「あなた、あしたの巨人戦を観にいくんでしょう?」
「はい、いきます、ムッちゃんといっしょに。バッティング練習から観ます」
「日曜日だから、アイリス組もいくわよ」
 素子が、
「入場券とったで、六枚。一塁側ベンチ上、特等席。解説者の菅ちゃん、お姉さん、メイ子ちゃん、百ちゃん、うち、キッコ。千佳ちゃんとムッちゃんはおとうさんと予約席」
 ひっそりと私たちのそばにいる百江に、
「一塁側で観るの、初めてじゃない?」
「はい、丸い線の中にいる選手を間近に見られるのがうれしいです。とてもきれいだから。特に神無月さんはずば抜けてきれい」
「美しさは長嶋が最高だね」
 菅野が、
「長嶋は、ウェイティングサークルにいるときも、テレビカメラを意識しているそうです。神無月さんは何の意識もなくきれいです」
「やっぱり、長嶋は……。ぼくも少年たちの目を意識したことはあったな。このごろは考えなくなった」
 キッコが、
「白丸の中にいろいろ置いてあるやろ。あれ、何や」
「共用バット、滑り止めスプレー、ロジンという滑り止め粉、バットの錘(おもり)。何も置いてないことも多い。ぼくはどれも使わないから、サークルのちょっと外、審判寄りに立ってる」
「球筋を見るためでしょう?」
「そう」
「あしたは巨人戦ですから、開場は一時間ぐらい早まるかもしれません。ホームチームのバッティング練習をすっかり見れるでしょう」
 主人が、
「確実に三時開門やろう。二時十五分に出よまい。年間席やから、球場に着いたら売店のあたりをうろついているうちに案内がくるわ」
 菅野が車で引き揚げたあと、カズちゃん、素子、メイ子、百江と五人で帰った。女たちは浮きうきと歩いた。カズちゃんが、
「キョウちゃんが野辺地へ送られる日、地図帳の隅に詩が書いてあって、とてもすばらしい詩だったから、そこを破いて形見にもらったことがあったわ。キョウちゃん憶えてる?」
「カズちゃんがピリッと破いたことは憶えてるけど、詩は……」
 カズちゃんは呟くように、
「こっそり人生は流れ、いつのまにか遠い日々になる。思い出をさかのぼり、根を生やそうとする私に、そよ風がやさしく未来へ肩を押す―すっかり同じ言葉じゃないけど、そういう意味の詩だった」
 メイ子が、
「すてき! 十五歳でしょう」
「そう。永遠に汚れることのない美しい心」
 素子が、
「信じられんわ。詩もホームランやったんやな」
 百江が、
「美しいホームランのような心ですね」
 カズちゃんが、
「ホームランで思い出した。私ね、キョウちゃんだけじゃなく、だれのホームランも観たい気がするの。王も、長嶋もね。ホームランて、詩のように美しいから。たしかに勝負の一要素かもしれないけど、ホームランを観た一瞬だけは勝負を忘れるでしょ。中日には勝ってほしいし、キョウちゃんのホームランも観たいし、相手チームのホームランも観たいし。贅沢ね」
 私は、
「すごくよくわる。子供のころ、中日球場で観戦していたとき、ドラゴンズの勝ち負けに関係なく、どちらのチームのホームランも観たかった。日米親善野球のときなんか、長嶋や王はどうでもいいから、米軍の大ホームランが観たかった」
「マッコビーね」
「うん」
 メイ子が、
「がっかりするホームランてあるんですか?」
「ある。たとえば、六点差、七点差で追いかけているときのソロホームラン。これはがっかりする。ホームランを打った選手がダイヤモンドを回ってるとき、冷たい風が吹くよ。観客も寒いだろう。だれも拍手なんかしないからね。だからぼくは、そういうときはヒットで出ようとする。後続の打者の連続ヒットを期待するんだ。相手が追いつけないほど大差で勝ってるときは、ソロホームランで花を添えてもいいかなと思う。どうせなら勝ち試合に花を添えたい。ホームランは勝ち試合でこそきれいな花火になる」
 カズちゃんが、
「どんなときもヒットで出ようとなんかしないで、かならずホームランを狙ってね。負け試合ならかえって、みんなキョウちゃんのホームランを観たいのよ」
「ほうよ、ほうよ。ヒットなんか観たないわ」
「そのほうがファンは喜ぶだろうね。でも、水原監督が非難される。わがままな選手ばかり抱えているって。チームプレイもできるということを示しておかないと、監督生命が縮まる」
「……たいへんね。水原監督にはいつまでもやってほしいし」
 五人、アイリスを過ぎ、則武の家までくる。玄関を入り、ピカピカに磨き立てられている廊下を見る。
「横浜、三畳板の間。飯場、三畳タタミ部屋。阿佐ヶ谷、荻窪、六畳タタミ部屋。それを生活空間にしてきたぼくが、いまはこれか。分不相応だ」
 素子が、
「分て?」
「足は裸足、住まいは藁小屋、服は腰巻か貫頭衣、それが本来の人間の〈分〉だ。遊びやセックスは草はらでやる。それ以外はぜんぶ分不相応。この服も、靴も、バットも、グローブも、眼鏡も、野球場も、この家もぜんぶ不相応。でも、この秩序立った道徳社会では裸足で腰巻だと警察に職務質問される。藁小屋に住んでいると浮浪者にまちがわれる。アオカンを見つかったら警察に引っ立てられる。すべて気取った文明の不便さだ。妥協するしかない」
 キッチンに入る。百江とキッコが茶の準備をする。カズちゃんが、
「金閣寺を建てたり、聚楽第を建てたりしたのは、文明との妥協?」
「権力誇示だ。やりすぎだ。同じようにこの家もやりすぎだ。大所帯の北村席はやりすぎじゃない。必要な空間と質素さにあふれてる。この家は広すぎる。五人くらいで暮らすべきだ」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんがそう思うなら、そうすべきね」
 素子がキッチンテーブルに向かってしゃべりだした。
「キョウちゃん、馬鹿なこと言ったらあかんよ。文明とか権力とか、なんか、調子に乗っとるように聞こえるわ。キョウちゃんはいつもええこと言うから、すごいなと思って聞いとるけど、いまのはまちがいや。人間の〈分〉は住む家や着るもので決まらんよ。自分を何やと思っとるの。とんでもない人なんよ。人間の分がどうのこうのなんて、少しもはまらんわ。家も着物もどうでもええ。そんなことより、ここは、キョウちゃんとお姉さんが出会ってから、十年かけてやっとたどり着いた安住の場所やないの。こういう立派な家の形しとるけど、贅沢物やないよ。お姉さんのお父さんとお母さんの心のこもったプレゼントやがね。ありがたく、そのままの形でいただくのが人として正しいことやよ。キョウちゃんは、お母さんとの旅暮らしや飯場暮らしが長かったせいで、六畳一間、三畳一間が自分の分やと思いこんだんやね。ちがうちがう。どんな家もキョウちゃんの分やない。飯場もこの家もキョウちゃんの分やない。どこにおってもええし、おらんでもええ。たまたまおるところにおればええし、おりたくなくなったらおらんようにすればええ。ただ、せっかく安住の場所を作ってもらったんやから、なるべくここにおりなさい。ときどき、うちらをお客さんで呼んでね」
「素ちゃん! ありがとう」
 カズちゃんが素子を抱き締めた。
「ありがたいことがあるかね。あたりまえやがね。キョウちゃんもこれからは悟りきったようなことを言って大事な人を困らせたらあかん。お姉さんも何でもかんでもキョウちゃんにうなずいたらあかんよ。二人とも神さまの威厳がなくなるがね」
「素子、ほんとにありがとう。目が覚めた。ここはぼくとカズちゃんの安住の場所だ。安住に照れちゃいけないね。素子の言うとおりだ」
 メイ子が目を押さえながら、
「私、この家にいていいんでしょうか」
 素子が、
「わかっとらんな。安住の場所だから、だれかがじゃまだとは言っとらんでしょ。あんたは女中さんや。この家の仕事人やないの。ええに決まっとるわ。キョウちゃんに惚れてもらえて、ときどき抱いてもらえる待遇のええ女中さんや。鯱のナンバーワンより大出世やろ。私なんか考えてみい、もっと運がええで。太閤通にボーッと立っとったのを拾ってもらって、惚れてもらって、何百回も抱いてもらって、勉強させてもらって、資格取らせてもらって、部屋までもらって、このあいだは北陸のホテルでキョウちゃんとじっくりお話することまでできたんよ。まだ二十九やけど、いつ死んでもええわ。キョウちゃんは、心の広いお姉さんに守られて、私みたいな女を二十人も三十人もこしらえたけど、だれ一人離れていきよらん。あたりまえや。キョウちゃんのそばにおると幸せやからや。こうしていることが不幸やないからや。キッコなんか借金帳消しにしてもらって、高校まで通わせてもらっとるやないか。でも、きちんと遠慮しとる。千佳ちゃんもムッちゃんも遠慮しとる。あんたもバンス帳消しにしてもらったやろ。そういうのは甘えていいんよ。みんな助けてもらっとる。キョウちゃんも、お姉さんも、金は人に恵むためのものと思っとる変人やから、ふところ勘定せんのよ。でもな、いくら幸せでも、一つだけ遠慮せなあかんことがある。お姉さんとキョウちゃんとの関係に割って入ったらあかんということや。二人の関係はぜったいのものやし、壊れたらあかんものや。二人が許すかぎりはいくら甘えてもええけど、二人が許さんとなったらぜったい甘えたらあかん。一心同体ゆうても、キョウちゃんとお姉さんほどの一心同体には逆立ちしてもなれん。二人が仲ようしとるときは、ぜったいじゃましたらあかん。極端なたとえやけど、道端でキョウちゃんがお姉さんを抱きたなったら、垣根を作って隠したらんといかん。いつでも、うちらが抱いてもらえるのは、二人のおこぼれやと思わんといかんよ」
 百江が、
「じゅうぶんわかってます。お嬢さんが、もうあんたキョウちゃんとしないで、と言ったら、ぜったいしない覚悟はできてます」
 カズちゃんがその場で裸になり風呂場に向かったので、私たちも倣って、裸になって風呂場へいった。湯を埋める。前を洗い、五人、空の浴槽に尻を落として、湯が上がってくるのを待つ。カズちゃんはほのぼのと笑いながら、
「おこぼれだなんて、さびしいこと言わないの。われこそは神無月郷の女だと思ってほしいわ。キョウちゃんの女は、一ミリの差もなく一心同体よ。人間としてのたたずまいというのかしら、一人の男に愛を打ちこめない多情な女はみじめだと思うし、純情な一穴を通して胸を張る男もみじめだと思う。私はキョウちゃんにそういう男であってほしくなかったの。人間としてゆとりがないと、いっしょにいられないから。ごはんのおかずだって何百何千種類もあるし、それを味わって初めて食通になれるのよ。若いからだはたくさんの女を知らなくちゃいけないと思う。からだの健康のためももちろん大義名分としてあるけど、キョウちゃんには女の通になってほしかったの。本質的にキョウちゃんは芸術家だし、観察することに喜びを覚える人だから、たくさんの種類の食べ物を味わってほしかったの。通になったって、だれよりも純粋でいられるし、愛情深くいられるのは、キョウちゃんそのものが証明してるわ。人生もそう。苦難の人生、努力の人生、才能を認められる人生、幸運の人生、すべてを経験してほしかった。そして、経験してくれた」
 私を抱き締めた。
「このキョウちゃんは私のものよ。でも私一人のものじゃない。キョウちゃんはあなたたちのものよ。でもあなたたちだけのものじゃない。心も、からだも、才能も、ぜんぶ私たちのものよ。でも私たちだけのものじゃないの。あたりまえのことだけど、キョウちゃんは、キョウちゃんのものなの。でもキョウちゃんをいちばん必要としてないのは、キョウちゃん自身よ。わかるでしょう? 人に必要とされなければ捨てようとするわ。私たちが必要とするものを捨てられたらたいへん。だから、必要だと叫ばなくちゃいけないの。必要だと叫ぶ人をたくさん作らなくちゃいけないの。集団防衛ね。四六時中ピッタリキョウちゃんにくっついていられるわけじゃないんだから。野球の通、女の通、人生の通、そういう自分を楽しみながら、私たちのために生き延びてもらうの」


         六十二

 カズちゃんの乳首をいじる。素子とメイ子の乳首をいじる。私の屹立したものを素子が握った。
「ほしい?」
「まだ。すぐイッちゃうから」
 私が立ち上がると、カズちゃんは私の尻をつかんで、屹立したものを含んだ。そして頬ずりした。三人で順繰り同じことをする。水位の上がってきた湯にゆっくり浸かる。湯殿に上がって、四人でシャボンを使う。私は、
「いま世の中で起きていることを教えて」
「腐るほどいろんなことが起きてるわ。神無月フィーバー以外のことがね。でも、知らなくても何の差支えもないことばかりよ。たとえば、先月、渋谷のデパートの清掃ゴンドラが落ちて、下を歩いてた小学生三人が即死した―知らなくてもいいでしょう?」
「うん」
 メイ子が、
「ピストル射殺魔少年逮捕」
「それ知ってた。そのせいでぼくの殺害予告事件があれほど騒がれたんだ」
 素子が、
「じつは……おとといの二十二日にも、キョウちゃんを新幹線で爆殺するゆう予告電話が川崎市役所に入ったらしいんやけど、翌日のキョウちゃんの予定を知っている関係者がだれもおらんゆうことを川崎署が調べて、いたずら電話やと判断したゆうことやった。キョウちゃんの乗る電車がわかったら、車内捜査を念入りにやるつもりやったんやて。でも警察でも行先を調べられんかった」
「御殿山にいってた」
 カズちゃんが、
「チラッと新聞に小さく載ったし、テレビのニュースでもやってたけど、バカらしい話よね。おとうさんも、キョウちゃんに言ったらあかん、くだらんことは黙っとれって言ってたわ。ほかのニュースは、東名高速道路全線開通。これは知っておいてもいいかも。役に立つこともあるでしょう」
「知ってた」
 素子が、
「あしたはダービーやよ」
「ん? 買おうかな」
 辻さんを思い出した。七夕ダービー。タニノハローモア。九番人気。カズちゃんが、
「買うなら、森さんか島さんに頼んで買ってもらうわよ」
「背番号8だから、8番、18番、28番の単勝一万円ずつ」
「わかった」
「当たったら、馬券を買ってくれた人に五割あげてね。五割はぼくたち五人で一割ずつ山分けしよう」
 もう一度ゆっくり湯に浸かって出た。カズちゃんが、
「じつはきょうは、私ちょっと危ない日なの。三人のだれかが受けてね」
 素子が、
「出してすぐ抜いてくれるならええけど、あとであのグングンされると死んでまう。メイ子ちゃんお願い」
「私もあれは……百江さん」
「はい、覚悟します」
         †
 五月二十五日日曜日。七時に起きると、枕もとに新しい下着が畳んで置かれている。起き出して歯を磨き、無理やり脱糞。親指一本と小指二本、固形で出た。喜ぶ。下痢でないときの量の少なさに驚く。居間に下りてテレビ。あすの村づくり・島に生きる。アナウンサーの声がわざとらしい。ぼんやり観流す。女二人が台所で動き回っている。素子と百江の声が聞こえない。それぞれの塒(ねぐら)に帰ったのだろう。しとしと雨。すぐに球団広報に電話する。早番の係員が出て、昼には上がる雨なので決行するとのこと。
「キョウちゃん、もうすぐごはんよ」
「三十分待って」
 パンツ一枚、裸足で雨の庭に出て、素振り。三種の神器。雨にまみれながら汗をしっかりかき、シャワーを浴びてサッパリする。裸体のままジム部屋で十五分。ふたたびシャワー。下着をつけ、食卓に着く。ひどく腹が減っていた。白菜の浅漬け、目玉焼き、ウースターソースと赤ワインでソテーしたステーキ、ジュンサイの味噌汁、どんぶりめし。
「菅野さんから、きょうはランニングなしですねって電話あったから、ハイって答えといた。よかった?」
「うん。素子はアイリスに帰ったの」
「お腹すいたって、北村にいったわ。待ちきれなかったみたい。一晩でエネルギー使い果たしたのね」
「私も使い果たしました。結局私にお鉢が回ってきて……。最後にいただくのはとてもうれしいんですけど、腰が抜けます」
「百江さんが青息吐息だったから仕方ないわ。このあいだ、根気がもたないって言ってたものね。私もラクじゃなかったのよ」
「はい、止まらなかったようですね」
 壁の温度計を見る。十六・六度。コーヒー。新聞が置いてある。

    
天馬がやってきた!
      
少年たちの願いを〈男気〉実現
 俠気、熱血! 中日ドラゴンズ外野手神無月郷(20)が二十四日、名古屋市の中日球場で、中、江藤、高木、木俣らレギュラー選手とともに、六十人のちびっ子たちを臨時指導した。約三時間、予定を一時間以上も超える熱血指導だった。みずから打撃を実演して大ホームランを披露。例年二軍選手一人が赴くささやかな少年野球指導だったが、今年は天馬みずからが率先して申し出、感銘したレギュラー連やトレーナー連が積極的に追随したものであり、水原茂監督(60)、カールトン半田一軍守備コーチ、もとドラゴンズのホームラン王であり昨年まで一軍・二軍の打撃コーチを務めた杉山悟氏(43)まで参加して、観衆一万五千人を集める華やかなイベントとなった。
 天馬はもっぱら捕球、バットスイングの要領の指導に熱を入れ、他の選手連も、守備姿勢、走塁のリード姿勢、ティ打撃の方向などを熱心に指導した。
 イベントの最後を飾って、少年たちの熱い要望を入れ、エース小川健太郎(35)との一球勝負を披露した。初球、アトラクション的に小川は超スローボールを放り、神無月は超スローで空振りして場内の爆笑を誘う。二球目、一転して小川が猛速球を投げこむと、神無月のバット一閃、みごとにライトスタンドの看板まで弾き飛ばした。このときベンチの監督、選手ほぼ全員が涙を流したのは胸打たれる光景だった。神無月が「一球でホームランを打つ」という少年たちとの約束を守って、軟式バット一振り、飛ばないと言われる軟式ボールに壮絶な飛距離を与えたことに狂気感涙したのだ。中学以来の友太田安治(19)は、「信じてはいましたが、軟式ボールなので心配でした」と語り、菱川章(22)は、「神無月さんは心一つで飛ぶはずのない距離を飛ばす。泣くしかない」と語った。
 親たちの感想を聞くと、「もっときびしくしてほしいですね」とか、「野球を通じて子供に礼儀、ものごとに取り組む姿勢が身についたようだ」とか、「一歩さがってしまう性格のうちの子が積極的に走り回っていた。胸にきました」などとさまざまだ。選手の代表格の中は、「子供たちには楽しい野球を目指して、そのうえでうまくなってもらいたい。そこが原点ですね。指導するものはそこを忘れてはいけない」とキリリと眉を上げて語った。
 肝心の子供たちは、「ドラゴンズのみなさんが教えてくれたことを忘れずに、野球の練習に取り組んでいきます」「プロの人に教えてもらえることにワクワクしました。もっと練習してうまくなりたい」「ぼくはからだが小さいけど、中選手や高木選手や一枝選手選手みたいに守備の達人になりたいです」「神無月選手の教え方がすごくわかりやすかった。やっぱりプロの人はオーラがちがうなあと思った」と、もろ手を挙げて指導法に共感を示した。指導員の一人は、「一カ月分の練習をした感じです。濃密な三時間でした。来年もきてほしいですが……」
 彼の視線の先に、チームメイトに紛れてさりげなく去っていく天馬の大きな背中があった。
 今回のイベントは、これからの子供たちにとって非常に貴重な体験になった。将来プロ野球選手になりたいと夢見ている子供たちは大勢いる。夢を抱いている彼らの目は輝き、走り回る姿は生きいきとしている。そんな子供たちの一人ひとりに声をかけ、懇切丁寧に激励・指導する選手たちの姿に感激を新たにした。
 今後、うちにもきてほしいという少年グループや成人団体の要望はあとを絶たなくなるだろう。これからもこのような野球教室をさらに広め、多くの子供たちに夢と希望を与えていただきたいと切に願う。


 新しいバットのラップを剥いで、タオルで乾拭きし、ケースに二本納める。節子からプレゼントされたジュンケイのグリースをグローブの捕球ポケットにほんの少量指で塗り、本体全体によく拡げる。いまのところ捕球面が浮いた感じはしないので、まだミズノに内部の接着グリース交換を頼む必要はないだろう。この、接着グリースがグローブの内部に塗られているという知識は、ホテルで同室したときに中から得たものだ。
 足の爪を切り、指の爪を磨く。
 八時十分。三人で北村席に出かけていく。主人と菅野が居間で新聞を読んでいて、直人が素子の膝に乗り千佳子とソテツにめしを食わせてもらっている。ソテツが、
「直ちゃん、おとうちゃんにおはようは?」
「おとうちゃん、おはよう」
 澱みなくしゃべれるようになった。
「おはよう。きょうは保育所?」
 トモヨさんが厨房からやってきて、
「いいえ、日曜日ですからお休み。こうしてお大名みたいにごはんを食べるのが好きなんですよ」
 菅野が、
「素ちゃんから聞きましたけど、ダービーの馬券買うんですって? きょうは泥んこ馬場ですよ。まともにはこない」
「東大の先輩が競馬名人で、去年優勝のタニノハローモアを前々から予言しててね。ダービーでたぶん単勝、複勝の馬券を取ったと思う。学生ノミ屋までやってた猛者で、夏前に中退して、全国ギャンブル行脚に出た。それを思い出してなつかしくなって。競馬なんて当たるはずがないよ」
「それで、8、18、28ですか」
 スポーツ新聞の馬柱を見る。
「ニシキオール、ダイシンボルガード、ドウカンオーか。当たるといいですね」
 ふたたびコーヒー。主人が、
「巨人の多摩川寮で二軍選手殴打事件。入院。そのまま退団。だれが当事者かは書いてないですね。川上監督の言。最大の被害者は巨人軍。辞めてくれてよかった。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかったこと」
「ひどいな」
「何様でしょうね。その二軍選手は、野球だけが人生じゃないと言って辞めたそうです」
「その選手の気持ちもわかるし、気の毒だとも思うけど、野球だけが人生じゃないという言葉は、そういう人のためのものじゃないでしょう。才能がありながら、いろいろな事情で挫折した人の言葉です。才能のない人は、もともと野球が人生じゃなかったんですから、そんなことを言うのは単なる強がりの捨て台詞です」
 百江に用意させたユニフォームを着る。防水眼鏡をダッフルに入れる。睦子がやってきた。かわいらしく着飾っている。百江が、
「わあ、かわいい!」
 一家も思わず感嘆した。カズちゃんと素子が睦子の頬にキスをする。主人が千佳子の手を引いて並ばせる。
「こりゃすごい。マネキンやないか! 和子と並んだらロシアの皇室やなあ。カメラ持ってこい」
 私は驚きの目を瞠った。三人の顔がそっくりなのだ。私はトモヨさんと素子とキッコとメイ子とイネに、前列に膝を突いて並ぶように言った。トモヨさんは直人を抱いて並んだ。微妙なちがいのあるコピーだった。菅野が、
「女優の大部屋だね。すごいわ、こりゃ」
 主人が、百江と天童と丸とソテツに、
「おまえたちも並んだらどうや」
 三人あわてて手を振った。丸が、
「あとで写真を見て、生きる自信を失います」
 女将が八人の服の乱れをチェックし、主人が三枚ほど写真を撮った。女将が、
「一族みたいに、みんなよう似とる顔しとるわ。神無月さんが日本中から集めてきた感じやな」
 厨房や座敷から集まってきた女たちがうなずいた。口惜しそうな表情の女は一人もいなかった。カズちゃんと睦子とトモヨさんの顔が群を抜いて妖しい光輝を放っていた。ほかの女たちは彼ら三人の娘のようだった。


         六十三

「一番、センター高田、センター高田、背番号8、二番、ショート黒江、ショート黒江、背番号5、三番、ファースト王、ファースト王、背番号1、四番、サード長嶋、サード長嶋、背番号3、五番、ライト国松、ライト国松、背番号36、六番、レフト末次、レフト末次、背番号38、七番、セカンド滝、セカンド滝、背番号32、八番、キャッチャー吉田、キャッチャー吉田、背番号9、九番、ピッチャー高橋一三、ピッチャー高橋一三、背番号21」
 下通のさわやかな声がスタンドにこだまする。中日ドラゴンズは、中、高木、江藤、神無月、吉沢、島谷、江島、一枝、浜野。
 曇り空の下の芝生が濡れて清らかに光っている。雨は落ちていないので、眼鏡はかけない。ネット裏の三人に手を振る。主人、千佳子、睦子。一塁ベンチのすぐ上のスタンドの一角に、菅野とカズちゃんたちが七、八人ずらりと並んでいる。
 バッティング練習は三本しか打たなかった。三本とも、いちばん目標にしやすい右中間のスコアボードに当てた。三本目のとき、一枝のパネルが外れたが、すぐに差し替えられた。守備練習は足もとが悪いのでやらなかった。雨天シートは内野フィールドにしか敷かない。雨上がりの外野の環境はひどく悪い。滑って足首を捻挫しないように気をつけなければならない。ただ、どんな強烈な打球でも芝を噛むと勢いを削がれてすぐ止まるので、左中間右中間を深く抜かれることがめったにないのはありがたい。
 球審はインサイドプロテクターの〈審判先生〉平光。片膝突き、指をひょいと突き出してジャッジする。ストライクゾーンは広い。慶應大学のマネージャー以外野球経験がないという変り種。しかしセリーグの主力審判としての信頼は篤く、去年一年間、セ・パ交流制度によってパリーグの野球も研究してきた学者審判だ。塁審は、一塁目玉のマッちゃん松橋、二塁富沢、これまた社会人審判出身の重鎮で、あの天覧試合のレフト線審だった。三塁鈴木、大洋に入団したが試合出場のないままその年に退団して審判になった人。目立たず、ひっそりしている。ライト線審大柄の井上、黄金時代末期の西鉄で一塁手として八年やって引退し、東京オリンピックの年に審判になった。平光同様ストライクゾーンが広いことで有名だ。レフト線審福井、三十七年に一般公募で銀行マンから審判になった変り種だ。めしより好きな甲子園のすぐそばに自宅を建て、高校野球観戦に自転車でかよい詰めたという奇人。彼も去年パリーグ留学をしている。私が会ってみたかった二人の審判はもう退職してしまった。私がルールブックだと言った二出川延明と、暴言を吐いたという理由で天下の金田と村山を退場処分にした国友正一だ。
 浜野の調子は? ストレート、百三十七、八キロ。球筋が垂れている。変化球の切れもぬるい。三回もてばバンザイか。プレイボール。
 一番高田、ダウンスイング男。高田ファールと名づけられる無意味な引っ張りファールで有名だ。今回もそれを三球つづけた。三球とも追わずに、塀沿いに転がってくるのを待つ。ボールボーイに投げ返すのが煩わしい。真ん中から内を投げるなよ。四球目、サードゴロ。
 二番、チンチクリンの黒江、プロ野球の美観を損なう男。三振。王、内角高目の釣り球で三振。浜野にしては上出来もいいところ。スタンドの満員の観客を眺めながら一塁ベンチに外股で戻る。水原監督が三塁コーチャーズボックスに歩いていく。轟きわたる声援。高橋一三が投球練習をし、内野陣がさりげない守備練習をする。緊張感が伝わってくる一瞬だ。
「一枝さん」
「はいはい何でしょう、金太郎さん」
「ピッチャーが投球練習しているあいだ、一塁手が各野手にボールを転がして、それを野手が一塁に投げる練習をしてますが、あれはやらなくちゃいけないんですか」
「やらなくてもいいんです、金太郎さん。しかしだれも考えないことを訊くね。あれは習慣なんだよ。ただ、やるなら練習ボールでやって、最後に自軍ベンチに戻さないといけない。練習ボールで試合をやっちゃいけないという規則があるからね」
「練習ボールというのは?」
「製造過程で検品落ちしたボールだ。公式球と大差ないけど、試合で使うボールは製造されたものの中で最高のものを使う」
「もう一つ。ボールボーイはどんな仕事をしてるんですか」
「試合の円滑進行のための補助作業。ベンチ脇に二名、ファールラインに二名」
「はあ……」
「あれは球団社員じゃなく、アルバイトだ。キャッチボールができれば採用される。試合前練習の手伝い、ピッチングネット出し、グランド整備やライン引きの手伝い、審判へのボールの補充、試合中のバットやヘルメットの片づけ、ファールボールの処理、グランドイベントの手伝い……さびしそうな目しないでよ」
 先頭打者の中、真ん中高目のカーブ、外角低目の速球と、楽しげにアコーディオンをする。ノーツー。三球目、顔のあたりから落ちてくるカーブをライト前へ痛打。
「勝った!」
「勝った!」
 一枝も叫んだ。だれが何と言おうと、初回先頭打者の中が出れば勝ちなのだ。ここで重要なのは、勝利を確信しながらツルベ打ちをすることだ。二番高木、初球真ん中低目のストレートを彼独特の渋い音で打ち返す。左中間を真っ二つに割った。いつもの二塁打コース。中、大きなストライドの俊足を〈浮かせ〉てホームイン。高木、二塁へ美しい滑りこみ。江藤、初球真ん中高目、ヘルメット飛ばして空振り。ファンたちご満悦の爆笑。二球目、外角のしょんべんカーブを右中間へ。一直線にコンクリートフェンスに打ち当たった。高木ホームイン、江藤二塁へ。ゼロ対二。金太郎コールが立ち昇る。
「タイム!」
 巨人ベンチから声が上がった。川上監督が肩を左右に揺すりながら平光に近づいてくる。自軍のネクストバッターズサークルのそばに平光を呼び寄せ、何かしきりにしゃべっている。平光が走ってきて、
「神無月くん、申しわけない。これは形だけのものです。もうすでに調査は終わっているので、疑っているわけではありません。川上監督がバットを実見で調べてくれと言うので、他意なく拝見します。吉田くん、きみも立ち会ってください」
 私からバットを受け取り、キャッチャーの吉田と二人で木目を見たり、掌に載せて重さを量ったりする。水原監督が猛烈なスピードで駆けてきた。
「なんという無礼なことをする! この天に恥じない神無月が、不正バットを使っているとでも言うのか! イチャモンに決まってるじゃないか。きみも天下の平光だろ。むざむざそんな姦策に乗って、恥ずかしくないか! そうまでして喧嘩を売ってくるなら容赦しない。放棄試合にするぞ! この遅延を引き起こしたのは巨人軍だからね。放棄試合はトラブルのモトになったチームの敗戦となる」
 五人の審判たちも走ってきた。そしてなすすべもなくホームプレートの周りに立ち尽くした。マッちゃんが目に涙を浮かべていた。一塁ベンチ全員がいまにも飛び出さん勢いになった。三塁ベンチの控え選手の何人かが呼応してベンチの框に足をかける。菱川がベンチの前でバットを掲げ、
「このバチ当たりどもが! でえれえ嫉妬焼き野郎!」
 方言で怒鳴った。喧嘩っ早いという評判だった浜野は、ベンチの後ろの壁に貼りついている。長嶋と王は、われ関せずというふうを懸命に装いながら、スパイクで守備位置の地面を均している。両軍ベンチ飛び出て肩を付き合わせるような乱闘にはなりそうもない。私は平光に、
「きょうはもうそのバットでは打ちません。考えがあります」
 ひとこと言い、巨人ベンチへ走っていった。いっせいにフラッシュが光る。あわててベンチを飛び出した木俣や太田を両手で止めた。葛城と徳武がすわっとダッシュしてくる。水原監督と平光アンパイアも小走りにやってくる。
「早まるなァ! 金太郎さん、早まるな!」
 二塁ベースから突進してきた江藤が背中から両腕で私を巻き取り、
「金太郎さん、短気起こしたらいかんばい!」
「ちがいます! 誤解です!」
 三塁ベンチを覗きこむ。葛城と徳武が両側から腕を取った。剣呑な空気を察知したどよめきが球場全体から上がった。川上監督はいち早くベンチ裏に逃げて姿をくらましていた。三方を固められて身動き取れないままバットスタンドを睨んだ。立ち上がって迎え撃つかと思ったベンチ要員のほとんどが、いっせいに目を伏せた。控え捕手の槌田が飛び出してきて私と胸を合わせた。
「なんだきさま、暴力を揮うつもりか!」
「間抜けなことを言わずに、ぼくの様子から察してください」
「生意気な!」
 私は槌田を相手にせず、三人を引きずって、目と鼻の先の長椅子に座って私を睨み上げている金田に近づいた。
「ワシは巨人軍に使われとる身じゃ。アルジを守るために受けて立つぞ」
 私は笑いながら、
「金田さん、バットを貸してください。自分の持ちバットは疑われていますので―。自軍のバットもだめでしょう。ほとんど長距離打者ですから」
 徳武たちが拍子抜けしたように腕を離した。平光は納得顔でホームベースへ小走りに戻り、水原監督は微笑しながらコーチャーズボックスへゆっくり歩いていった。
「おう! 持っていけ! ようがまんしたの。ワシャ、このチームの一員でおるのが恥ずかしいわ。勘弁してくれよ」
 彼の隣に座っていた森が苦々しい顔でうつむいた。私は金田からバットを受け取り、葛城と徳武の背中について、味方チームが何人か不安げにたむろしているホームベースに戻った。平光が真っすぐ頭を下げ、
「公正であるべき審判員にあるまじき行動をとりました。川上監督のとつぜんの申し入れにあわてて、道理を考える間もなく、反射的に失礼なことをしてしまいました。どうかご寛恕ください。このバットはお納めください」
 審判六人全員で帽子を取り、頭を下げる。巨人守備陣も全員集まってきた。集まってきただけで謝罪をするわけでもない。とんでもないことになったという不安の色だけを見せてうろたえていた。高木と中がベンチから出てきた。短気な高木が、
「敵のバットを借りてもいいんだろ。うちのバットが信用されてないんだからしょうがねえじゃねえか」
 長嶋と王が、私ではなく、しきりに高木や中を説得しようとする。長嶋が、
「モリさん、中さん、もう解決したからオーライよ」
 半田コーチのような口調で言う。王が、
「神無月くん、申しわけなかった。どうか自分のバットで打ってください。怒りを鎮めて」
「まだ問題がありそうなフェイスしてるねえ。男は広いフィーリングで戦わなくちゃ」
「いや、使うわけにはいきません。目で見ただけではわからないと思うので、そのバットはしかるべき筋に預けて、科学的に分析してください。そして調査した結果をかならず公に発表してください。かならずですよ。意地を張ってるわけではありません。そのバットを作った久保田五十一さんの名誉がかかってるんです。一度連盟調査部の結果が出たと新聞で読んだんですが、あれはどうなったんでしょうか。金田さんのバットはだいじょうぶだと思いますけど平光さん、いちおう実見してください」
 見ようとしない。
「見るんだ! 見ろ!」
 私は球場じゅうに響きわたる怒声を上げた。平光はあわててバットを見下ろす。
「おい、吉田とやら、おまえもだ。なに目を逸らしてる、さっきぼくのバットを手にとって調べてただろ。見るだけでいい、見るんだ! レントゲンの目で見ろ。金田さんのバットだぞ!」
「……だいじょうぶです」
 年上のプロ野球選手が小さくなって殊勝に応える。私はいたぶっているわけでも、腹を立てているわけでもなかった。人間は自分のしたことの責任を取るべきだ。平光は潔く謝罪したから、これ以上責める気はない。
「確かだろうな。確かでないと打席に立てない。張本人が逃げ隠れした以上、ぼくは声を荒らげてでもこのバットが正常であることを保証してもらわなければならないし、正常だと信じて、さっきのバットと変わらない気持ちで同じような当たりを飛ばさないと、久保田さんの誠実さを証明することができないんだ」
 平光が、
「だいじょうぶです、神無月選手、どうぞこのバットで打ってください」
「よし、それなら、試合再開しましょう。平光さん、この中断の理由を正確に、かつ手短にスタンドのみなさんに伝えてください。そのバットは控えの審判員のかたにお渡しください」
 五人の審判員が散った。巨人軍の選手たちがフィールドへ戻り、ドラゴンズの連中もベンチに戻った。浜野がようやくブルペンに出てきて投球練習を始める。平光はネット下方の穴からバットを差し入れ、念入りな様子でしゃべった。さらにマイクを手に、中断の理由も正確にしゃべった。
「かくのごとく、川上監督から提示された疑義は、神無月選手のボールが飛びすぎるのでバットに何らかの細工があるのではないかというものでございました。なお、神無月選手は、ご自身の予備バットではなく、巨人軍の金田選手のバットで打撃をいたします」
 観客が大荒れになった。下通が、
「物を投げこまないでください! お願いいたします! 神無月選手の心中を察して、どうかお鎮まりください」
 水原監督がまた走ってきて、
「よくこらえてくれた。誇りに思う。金太郎さん、そのバットでかならずホームランを打ってくれ」
「打ちます。久保田さんの名誉がかかっています」
「自分を捨てて人の名誉を守るとはね……」
 ふたたびコーチャーズボックスへ歩いていった。江藤が今度は正面から私を抱き締め、二塁へ駆け戻った。葛城が、
「また一つ、すばらしい思い出ができたよ」
 と呟いて徳武とベンチに戻った。十人に余る係員が投げこまれた瓶やゴミの片づけに走った。もちろん、両軍八名のボールボーイたちもいた。太田も菱川も、中や一枝や高木も混じっていた。記者たちが、忙しく席を立ったり、座ったり、去ったりしている。吉沢がネクストバッターズサークルから、
「ぶち殺せ!」
 と怒鳴った。彼に似合わない怒りの言葉だった。
 金田のバットは握りが細く、少し長めで、久保田バットと同じくらいの重さだった。軽く投げ出してやれば、するどい打球が飛ぶだろう。プレイ再開。十八分の中断だった。



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