六十四

 一球目、高橋一三はストレートを外角高目に遠く外した。スタンドが敬遠を危惧したブーイングの声を上げた。敬遠ではない。彼はどうしていいかわからないのだ。怒り肩の首がくるくる二塁の江藤を見たり、自軍のベンチを見たりしている。ベンチに川上監督はいない。球場を去ったわけではないだろう。連絡役の牧野コーチがときどき奥を振り返るのでわかる。だれもマウンドの高橋一三に声をかけてやらない。彼らは私のバットが飛びすぎるバットでないことをじゅうぶん知っている。身から出た錆とは言え、自分たちのチームリーダーがあしたからタダですまないことも知っている。巨人の選手たちは、とりわけ高橋一三は孤立無援だ。何もかも擲(なげう)ちたくなるだろう。ヤケクソな気持ちでど真ん中ストレートを放ってくるにちがいない。
 二球目のセットポジション。球場内が静まり返った。からだを折り畳み、左手を地面に打ちつけるような低いフォーム。渾身の速球が真ん中胸のあたりにきた。両腕を真っすぐ伸び切らせ、左掌で押し出す。
「やったァー!」
「いった、いった!」
 一塁ベンチの仲間たちが飛び出す。ボールは低い弾道で右中間左奥のスコアボードへ伸びていき、時計の上のダイキンエアコンの文字に当たった。たなびく三本の旗の真下だった。悲鳴のような歓声が沸き起こった。スタンドが総立ちになり、惜しみない拍手を注ぐ。
「今季最高のロケット!」
 森下コーチと固い握手。行く手に差し出した王の手のひらとタッチ。二塁に向かいながらライトスタンドへ大きくヘルメットを振る。歓呼の声が間断なく立ち昇る。三塁の前で江藤の背中が足踏みしている。私が数メートルに近づいたのを確かめ、彼は水原監督とタッチし、私は水原監督と抱擁する。なかなか離さない。そこへ、
「カンナヅキちゃん、最高よ! きょうはごめんね」
 長嶋の甲高い声。水原監督と腕を組んでしばらくいっしょに走る。最後に尻をポーンと叩かれる。チームメイトの花道を通ってホームイン。フラッシュ、フラッシュ、さらにフラッシュ。江藤の抱擁。マウンドを見ると、高橋一三が帽子を取って私に最敬礼していた。チームメイト一人ひとりと抱擁していく。バックネットへ手を振る。ウォー、と何百人も振り返す。ゼロ対四。下通のアナウンス。
「日本記録の更新でございます。ただいま神無月選手が打ちました六十一号は、ニューヨーク・ヤンキーズのロジャー・マリス選手が昭和三十六年に樹ち立てたホームラン記録とタイ記録でございます」
 半田コーチが、
「はい、バヤリース、飲んで! キリンビールが望遠レンズでコマーシャルフィルム撮ってるヨ。金太郎さんにお金ガッポリ入るように、小山オーナーが代理人契約したネ」
「テレビですか!」
「安心して。新聞写真、街の看板」
 宇野ヘッドが、
「フロントは金太郎さんに関しては算盤の手を止めてるから、マージンを刎(は)ねることはないよ」
 吉沢がボックスに向かいながら、
「よくぶち殺してくれました。私も殺す」
 初球、彼は高いフライをレフトへ打ち上げた。高田がフェンスをこすりながら動いて、金網ネットすれすれでキャッチした。惜しい。島谷、三振。江島、三振。私は走って金田にバットを返しにいく。
「佐々木小次郎の長バットお返しします。いい切れ味でした」
「おお、みごとやった。ワシャ、読売ジャイアンツの使用人やから、何も祝福の言葉はかけられん。このベンチにおらんかったら、あんたを抱いて接吻したいわ」
「祝福まみれの言葉です」
「きょうはほかのバット使えんのやろ。それで打ちや。記念にとっといて」
 ベンチにいた巨人軍の連中から和やかな拍手が湧いた。敵ながら私のファンが多いのだろう。金田のバットをバットスタンドに挿し、レフトへダッシュ。中とキャッチボール。
「金太郎さんはおっかないなあ。好きだよ!」
 速い球が胸もとにくる。
「自分でもおっかないです! 大好きです!」
 速いボールを投げ返す。中は菱川へ投げ渡し、
「菱、好きだよ!」
「中さん、大好きです!」
 レフト線審の福井が笑いをこらえ切れず、思わず下を向いた。曇り空から風が吹いてきた。風はいつもなつかしい。大瀬子橋の風、東海橋の風、牛巻坂の風、堤橋の風、青高の一本道の風。
 二回表。四番、長嶋、浜野の内角低目のストレートを打ってショートゴロ。五番国松、内角低目のカーブを打ってライト前ヒット。六番末次、真ん中低目のカーブを打ってサードゴロゲッツー。堅実島谷、胴が長い。
 二回裏。八番一枝、ツーナッシングから真ん中高目のカーブを打ってセンター前ヒット。浜野、ツーワンから三振。中、ツースリーから三球ファールで粘ってフォアボール。高木ワンワンからの三球目内角カーブを掬い上げて、レフトスタンド中段へ十二号スリーラン。ゼロ対七。江藤初球をレフト上段へ二十五号ソロ。下通の軽やか声。
「江藤選手、二十五号ホームランでございます。昭和三十四年入団以来、千三百三十二試合目にして、二百五十号の記念アーチでございます」
 大きな拍手。知らなかった。ほぼ五試合に一本か。大スラッガーだ。江藤は三塁を回ったところで足を止め、水原監督としばし抱擁。花道の私たちとも一人ひとり固く握手。ピッチャー高橋交代。マウンドを降りるとき、怒り肩の黒いアンダーシャツが目を拭っていた。好きな男になった。ゼロ対八。
 リリーフは渡辺秀武。彼からは左中間の鉄塔へ十号を打っている。相変わらずストレートが重そうだ。金田のバットを三度素振りしてボックスに入る。牧野コーチのコールでとつぜんキャッチャーが吉田から槌田に代わった。捕球練習。ドラゴンズの猛攻に静まり返ったスタンドを眺めながらバッターボックスに入った。
「男として、人間として、尊敬しとります」
 槌田がボソリと言った。
「それは、どうも」
「先ほどは失礼しました。精いっぱい勝負します。さ、こい!」
 渡辺のスリークォーターの腕が長く伸びて、ブンと振られる。伸びのある外角低目のシュート。バットが届く限界のストライクだが、見逃すとつけ上がる。しこを踏むように腰を据え、屁っぴり腰で強振する。何千回も練習してきたスイングだ。もろに芯を食った手応えが左手の土手に返ってくる。長嶋がわずかにショート方向へ動いて、意味のないジャンプ。ボールが急上昇していく。江藤のホームランの軌道に重なってどんどん昇る。レフトの看板をわずかに越えて夜の中へ消えた。
「オオオオー!」
 一塁側スタンドから驚嘆の声が上がる。満員の観衆へ驚きが伝わっていく。
「神無月ィー!」
「金太郎!」
「ハレルヤ!」
 森下コーチとタッチ。王のグローブとタッチ、滝のグローブとタッチ、黒江のグローブとタッチ、長嶋のグローブとタッチ、水原監督とハイタッチ。
「万人の誉れだ、金太郎さん!」
 仲間たちの花道。夢。堤川のほとりのあの森で、私はいまなお死にぎわの夢を見ているのじゃないのか。
「神無月選手、第六十二号のホームラン、世界新記録でございます。盛大な拍手でお迎えくださいませ」
 バヤリース、二本目。一口つけて、太田に渡す。
「どこから撮ってるんですか」
「わからナーイ。でも撮ってる」
 二十一本目のアベックホームラン。ゼロ対九。吉沢、チョコンと合わせたセカンドライナー。これで木俣と交代だ。島谷、内角速球に詰まってサードフライ。彼も太田と交代だろう。チェンジ。
 三回表。滝、三遊間ヒット。私の前にゆるいゴロが転がってくる。左足の前で丁寧に捕球し、軽くワンステップして、湿ったボールを二塁へ低いワンバウンドで返す。一塁や二塁にランナーがいるときには打球にチャージをかけ、二塁に送球するか三塁に送球するか本塁に送球するかを瞬時に判断する。大フライの背走は? 打者が打った直後の打球の見切りと、打球を振り返りながらのステップの切り返しがスムーズにできるかどうかがキモだ。打球が失速したときがいちばん厄介だ。しかし、内野守備の困難さに比べればラクなものだ。槌田、三振。渡辺、セカンドゴロゲッツー。
 三回裏。江島、センターオーバーの二塁打。一枝、右中間へ三塁打。江島還ってゼロ対十。きょうも二十点が見えた。浜野、ファーストフライ。中、センター右へ二塁打。一枝還って十一点。高木ライト右へ痛烈なワンバウンドのヒット。中還って十二点。江藤の初球に高木二盗。江藤、深いライトフライ。高木三塁へ。私、思ったとおり敬遠。ツーアウト一、三塁。吉沢の代打木俣、左中間へポトリと落とす適時打。高木還って十三点。私は二塁へ。ツーアウト一、二塁。島谷の代打太田、レフトオーバーの二塁打。私還って十四点。木俣三塁へ。ツーアウト二、三塁。渡辺から高橋明にピッチャー交代。いつのまにか川上がベンチにふんぞり返っている。牧野は腰ぎんちゃくのように寄り添っている。江島ショートフライ。チェンジ。
 四回表。ライトの守備が江島から菱川に代わった。高田、フォアボール。こういう意味のないフォアボールはかならず得点に結びつく。浜野は中堅ピッチャー以上にはなれないだろう。一流にも超一流にもなれない。ドラゴンズが優勝をつづけるには、あと二人、エース級のピッチャーが必要だ。黒江、太田の前にバント。高田二進。ゼロ対十四からバント。川上の根強い人気のもとがここにある。一点でも返せば、さらに人気が沸騰する。巨人軍はこうして優勝を重ねてきた。王、三振。内角高目がひどく苦手のようだ。長嶋、内角高目のカーブを打って左中間にテキサスヒット。ランナー還れず、ツーアウト一塁、三塁。国松ライト前へ痛烈なヒット。高田生還。一対十四。三塁側スタンドから熱狂的な拍手が立ち昇る。巨人は天皇の地位にある。川上監督が何をしようと、その行為のせいで最下位になろうと、その地位は揺らがない。末次、ショートゴロ。
 四回裏。高橋明の特徴のないボールを先回の対戦でどうやって打ったかを思い出そうとする。ホームランは打っていない。たしか右中間の二塁打だった。太田、センター前ヒット、菱川、ワンスリーからフォアボール。一枝ライトフライ。太田三塁へ。ワンアウト一、三塁。浜野二遊間へ内野安打。太田生還。一対十五。ワンアウト一、二塁。中、セカンドインフィールドフライ。ツーアウト一、二塁。高木、左中間最前列へライナーの十三号スリーラン。一対十八。ツーアウト、ランナーなし。江藤の強烈なサードゴロを長嶋トンネル。二塁打になる。私、二打席連続敬遠。ベンチの金田が何か叫んだが、川上監督はそっぽを向いていた。木俣がレフト前へ火の出る当たりを飛ばす。打球が速すぎて江藤還れず。ツーアウト満塁。太田、外角低目のカーブをうまく掬い上げて一塁線ギリギリに落とす走者一掃の三塁打。二十一点。
 菱川のところで、高橋明から金田にピッチャー交代。大差ゲームの敗戦処理にも拘らず、金田のからだが青白く燃え上がっている。百四十キロ前後のストレート、落差の大きいするどいカーブ、基本はその二つ。横に滑るカーブやスローカーブや、曲がりの少ないシュートを投げることもあるが、多投はしない。敗戦処理とは言え、これまでの三人のピッチャーと意気ごみがちがうので、ストレートにも威力があるように見える。初球内角に低く切れこむカーブ、空振り。二球目外角低目ストレート、空振り。三球目内角高目ストレート、空振り。すごい。
 五階表。金田の焔が仲間たちに静かに燃え移る。槌田センター前ヒット。金田、私がホームランを打ったのと同じ作りのバットで、右中間最前列に一号ツーラン。金田がバッターボックスに入る前から、浜野はやられるだろうと思っていた。金田は二十年間で三十八本もホームランを打っている強打者なのだ。内角低目のストレートは餌食になる。三対二十一。川上監督はベースを一周して還ってきた金田を大儀そうに出迎えた。気に入らないのだろう。高田の代打、森永、外角カーブ攻めで三振。黒江内角低目攻めで三球三振。きょうの浜野は三振が目立つ。手もとでボールが切れているのだろうか。そうは見えない。王、胸もとのストレートに詰まりながら、ライトスタンド最前列に十号ソロ。調子に乗るとこれだ。川上はにこやかに出迎える。四対二十一。長嶋、顔の高さの速球(彼の大好きなコースだ)をひっぱたいて、レフトスタンド中段へライナーの八号ソロ。川上監督のにこやかな出迎え。人格低劣としか思えない。五対二十一。末次の代打、相羽セカンドゴロ。浜野責任回数終了。
 五回裏。金田、一枝へ明らかに意図的なフォアボール。浜野の代打、伊藤竜ピッチャーゴロゲッツー。よくわからない一枝のフォアボールだ。ホームランを打たれるポカを犯したくないということだったのだろうか。宇野ヘッドが、
「連盟は川上をお仕置きするらしい。どの程度かわからんが」
 中、外角へ落ちるドロップを打って三遊間へ内野安打。
「平光さん以下審判団も罰金を喰らうらしい」
 高木真ん中高目のストレートに押されてレフトフライ。
 六回表。水谷寿伸登板。先頭打者滝をフォアボールで出す。なぜだ? 槌田フォアボール。なぜ? 不調ではない。速球が切れている。金田、二匹目のドジョウを狙って力み返り、キャッチャーフライ。森永の代打桑田(エイトマン! 今季七回目の起用、九回打席に立って二四球七三振ヒットなし)、フォアボール。大砲桑田が三振かフォアボールの人に落ちぶれてしまった。ワンアウト満塁。大量点になる。黒江、きれいに流し打ってライトの左へヒット。滝、槌田生還。七対二十一。ワンアウト一、二塁。桑田は三塁まで走れないほど足をやられている。桑田に来年はない。
 ピッチャー、小野に交代。たぶんワンポイント。これで大量点は防げる。王、外角のスライダーをのめって打ってショートゴロゲッツー。
 六回裏。江藤、ストレートとドロップカーブにきりきり舞い。ようやく当てて、ぼてぼてのセカンドゴロ。もう頭から滑りこむようなスタンドプレーはしない。肩を怒らせて軽やかにベンチに戻ってくる。
「きょうの金やんは別人たい。金太郎さん、一本いっちくれ」
 いよいよ私の番になった。まだ金田はノーヒットだ。足先でマウンドを均す。手首を振る。喚声を味わうように外野スタンドを振り返る。槌田を横目に見る。サインを出していない。金田は大きく振りかぶり、腕を叩き下ろす。少し右上にボールが飛び出した。天井から落ちるカーブだ。最終的にボールの落ち着く場所はわかっている。とにかくホームベースだ。幅はかならずストライクの幅。三十センチほどキャッチャーのほうへいざって後退した。顔に向かってやってきたボールが急速に落ちてくる。その軌跡は見ない。真ん中低目の一点でボールが通過しようとするところを目がけて、バットを素早く振り出す。
 ―少しバットの先だ! でもいくだろう。
 低い弾道だ。二塁打、三塁打を想定して全力で走り出す。腕をグルグルやっていた森下コーチが驚いて飛び退くほど、私は大きくふくれて一塁ベースを蹴った。速力を上げて二塁ベースを目指す。大柄の井上線審が右中間へ走りながら右腕を回している。入ったのだ。ボールの行方はわからない。私はスピードを緩め、二塁を蹴った。水原監督が頭の上で手を叩いている。長嶋は腕を組んでライトスタンドを見つめていた。水原監督と笑い合いながらハイタッチ。
「どこですか!」
「照明塔の裾までいった!」
 金田が静かにスパイクでマウンドを均している。吹っ切れている顔だが、相変わらず青白く燃えていた。江藤、菱川、太田が、静かな花道を作る。中、高木、一枝の柔らかい笑顔。半田コーチのバヤリース。下通のめずらしく遅めのアナウンス。
「神無月選手、六十三号のホームランでございます」
 七対二十二。十五点差をひっくり返されることはないだろう。木俣、サードゴロ。太田セカンドゴロ。


         六十五

 七回の表。ついに小川が出てきた。大差で勝っているのにエースを投入する総力戦だ。水原監督は野球を楽しんでいる。小川が生きいきと投球練習をする。ボールの伸びが際立っている。ギューンという感じだ。
 先頭打者は長嶋。ユニフォームの左袖をたくし上げる独特の格好でバッターボックスに入る。初球内角シュート。バットを後ろへ水平に引いて止める。これも独特だ。
「ストライーク!」
 砂を手につける。左袖を手繰る。左足でリズムをとる。ややオープンスタンス。もう一球真ん中高目の速球。空振り。三球目、外角へ速いカーブ。打ちにいく長嶋のからだが外へ流れ、ヘッドアップスイング。ショートゴロ。じつに芸術的な打ち取り方だ。センターの中と遠く見つめ合い、うなずき合う。国松、一、二塁間に強い当たり、高木、横っ飛びに跳びついて寝そべったまま手首だけで送球。アウト。球場を揺るがす喚声。プロだ。これぞプロの技だ。プロという表現には虫唾が走るが、こういうときは素直にプロという言葉が口をついて出る。プロとは人より金をとるという意味ではない。人より高度の技能を常時示すことができるという意味だ。相羽の代打、林。だれなんだ。相羽と言い、林と言い、末次に変えてまで使う価値があるのか。スローカーブをうまく引っかけてセンター前ヒット。小川が遊んでいる。林、初球に盗塁。木俣は二塁へ送球する気配を見せず、高木も放っておけという感じで一歩も動かなかった。滝、三振。金田、三振。
 七回の裏。菱川ライト前ヒット。一枝、小さいカーブをセンターライナー。小川、ストレートをバットの根っこに当ててファーストゴロ、進塁打。中、内角カーブをライトフライ。金田を打てない。
 八階の表。桑田、浮き上がるストレートをサードライナー。黒江、真ん中カーブを私の前へヒット。すかさず盗塁。王、内角速球に詰まりながら右中間へ二塁打。苦手なものは苦手なのだ。仕方がない。黒江生還して八対二十二。この攻撃力はさすがだ。二十二点取ったことを忘れてしまう。ワンアウト、二塁。長嶋、大きなセンターフライ。王、三塁へ。滝、レフトフライ。バックネットを見つめながらベンチへ戻る。
 八回の裏。最後の攻撃だ。かつての三振奪取王が一つも三振を取っていない。それなのに、私と菱川と中を除いた全員を抑えこんでいる。高木、内角カーブに詰まってサードファールフライ。江藤、懸河のカーブをレフトライナー。私、初球、懸河のカーブをファールチップ、二球目外角のストレートをファールチップ、三球目膝もと小曲がりのカーブをファーストライナー。王、拝み取り。
 金田は打者十六人を相手に真っ向勝負をして、被安打三、フォアボール一、凡打十二に抑えこんだ。守備位置へ走りながら、私はマウンドを降りかけている金田に一礼した。このすばらしいピッチングに敬意を払わなければならない。金田は大きく笑いながらグローブを上げた。守備位置から中に、
「エー、イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 中が応えて、
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 ライトの菱川も、
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 小川と内野もいっせいに、
「オオー、イグゼェェ!」
 平光球審の右手が上がる。
 槌田、見逃し三振。曇り空のままだ。芝生を梳(す)いてくる風が涼しい。金田の代打土井の打球が私の前にワンバウンドで弾む。意味のない代走が出る。千田。意味を持たせるために盗塁する。内野陣のだれも見ていない。槌田がさびしく二塁ベース上に立つ。桑田、ワンストライクのあと、三塁線に痛烈なファール。木田ッサーのあこがれたエイトマンがこんなところにひっそり生きている。打順は一番、背番号は一つ少なくなって7。私の頭上にフライが上がった。白球がくっきりとした輪郭で落ちてきた。捕球。永遠の別れの握手をしているような気分になった。ツーアウト。千田がぼんやり塁を離れている。終わらせてしまおう。私は、
「一枝さーん!」
 一声叫ぶと、ショートの定位置にいた一枝目がけて低く強い送球をした。
「シュウちゃん!」
 高木も指差して叫ぶ。一枝は振り向いて私の送球を捕球すると、塁へ逃げ返る千田に倒れこむようにタッチした。アウト! 富沢塁審の右手が上がった。怒号が上がった。
「ナイスプレイ!」
 中がセンターから声をかけてきた。小川がグローブを振っている。試合終了。審判団が整列し、バックネットに向かって平光のゲームセットの右手が高く上がる。下通の澄みわたった声。
「中日対巨人六回戦は、ごらんのように八対二十二をもちまして中日ドラゴンズの勝利となりました。この勝利をもちまして、わがドラゴンズは、現在三十五戦、二十九勝四敗二分、破竹の進撃をつづけております。今後とも惜しみないご声援とご支持のほどよろしくお願い申し上げます。本日はご来場まことにありがとうございました」
 私はホームベースに走り戻り、帽子を取って平光球審に一礼した。
「きょうはご心労おかけしました」
「とんでもない。迷惑をおかけしたのは私です。しっかり叱られてきますよ。あなたは怪物だとしても、心があります。胸を揺すぶられました」
 観客の大喚声にまぎれて報道陣がなだれこむ。巨人チームは速やかにベンチから姿を消した。バックネットの北村一家に帽子を振る。観衆の歓呼が戻ってくる。
「神さま!」
「釈迦!」
「キリスト!」
「ホッテントット!」
 皮肉を言う理由はないので、たぶんマホメットのまちがいだろう。水原監督が、
「金太郎さん、逃げろ!」
 一タイミング遅れた。マイクとカメラに取り囲まれた。大歓声に包まれながら、CBCテレビのアナウンサーにマイクを突き出される。仕方なく、監督、コーチ、レギュラー陣が残った。
「すばらしい試合でした! 私ども、長年取材と実況をつづけてまいりまして、プロ野球選手の心技体のうち、技と体はどうにか聴衆に伝えることはできても、心はまったく伝えられませんでした。きょうはそのもどかしい思いが晴れました。川上監督から理不尽な抗議を受けたにも拘らず、取り乱しもせず、立派でした」
「かなり不穏でした。人間が至らないもので」
「いや、立派でした。金田さんのバットで打つというアイデアで問題を解決なさった。バット職人久保田五十一氏の名誉を守るために、バットを調べ尽くせと霹靂のごとく命じられた。しかし、心中で吹きまくる嵐は、金田投手のバットもちゃんと見ろと審判やキャッチャーに一喝した態度に表れておりました。私ども全員溜飲を下げました。神無月選手の冷静さ、沸騰する怒り、その結果のさりげない大ホームラン、逐一目撃いたしました。そしてきちんと放送いたしました」
「金田さんのバットもあんなに飛ぶんです。飛距離は、幼いころからのぼくの努力の賜物です。そこへ久保田五十一さんの頑丈なバットが加担してくれる。もうこの種の疑惑はいっさい払拭してください」
「疑惑を抱いているのは特定の少数です。ほかのだれも抱いておりません」
「平光さんには気の毒をしました。彼を責めないでください。きょうの圧巻は、金田さんのピッチングです。みんなきりきり舞いでした。ぼくも二打席目は金田さんに完璧に打ち取られました。じゃ、きょうはこれで」
 四勝目を挙げた浜野と水原監督を残し、蝟集する報道陣を抜けてレギュラーたちといっしょにベンチへ走る。各社のマイクが追いかけてくる。振り払って、ベンチからロッカールームへ駆けこむ。歓声で迎えられる。菱川と太田に抱きつかれる。中が、
「今度はシッカリ裁定されるよ。不正行為や有害行為はかならずコミッショナーに告発しなければならないことになってるからね。まず議決のために、オーナー会議、実行委員会が動く。諮問機関として調査委員会が開かれ、コミッショナーが最終執行する。少なくとも川上監督は期限つき職務停止、最大譲歩して制裁金を科されるか、戒告処分を下される」
「本気であのバットを疑っていたんだとしたら、気の毒な気もしますね」
 江藤が、
「金太郎さん! 今回は同情の余地はなかぞ! ずっと許してばっかりおったら、パンクしてしもうとたい」
 高木が、
「俺たちは許さん。だれも許さん。ベーブ・ルースでさえこんないちゃもんをつけられたことはなかった」
 一枝が、
「アメリカ人は、すごいものを目にしたら、嫉妬するより先に尊敬しようとするからだろう」
 太田が、
「バットにどういう仕掛けがあると疑ったんですかね」
 葛城が、
「重さに制限はない。長さは百六センチ七ミリ以下、太さ六センチ六ミリ以下。バットの先がスパンと切れてないこと、バットに詰め物をしないこと、空洞にしないこと、ぐらいかな。金太郎さんはどれにもひっかからない。鉄でも詰めてると思ったのかな」
 徳武が、
「何も考えてないよ。嫌がらせをしたかっただけだ」
 浜野が戻ってきた。江藤は浜野を睨みつけ、
「浜野、おまえ、騒ぎのときベンチの隅に隠れとったやろ。どげんつもりか。勝たせてもらって礼も言っとらん」
「ありがとうございました! しかし神無月、久保田バットを使ってもいいとなってから、わざわざ金田さんのバットで打つこともなかったろうし、それを調べろとまでいうのはやりすぎじゃないの」
「久保田バットに関しては、川上監督の実見調査がすんでませんでしたし、金田さんのバットに関しては、審判と吉田捕手は公平を期さなければならないと思いました。そこだけサボることは許されない」
「屁理屈だな。鬱憤晴らしもあったんじゃないか」
「鬱憤が溜まるに決まっとろうが! おまえはどっちの肩持っとるんか!」
「子供の喧嘩をしてほしくなかっただけですよ」
 菱川が浜野の眼前に顔を突き出した。
「神無月さんを嫌ってるだろ―」
「彼にかぎらず、甘い人間は好きじゃないですね。甘いからつけこまれる」
 小川が、
「バットを疑われたのは、甘かったからか?」
 千原がたまりかねて、
「カラさというのはどういうものだ! 人にいちゃもんをつける精神か。それはカラいと言うんじゃなくて、セコいと言うんだ。セコいやつはつけこまれないに決まってんだろう。せいぜいセコく生きればいいさ」
 小野が、
「そうですよ、浜野くん、金太郎さんは甘いんじゃなくて、きびしくて、やさしい人なんです。大きい人なんですよ。だから何でも許してもらえると思っちゃう。実際許してあげるんですが、甘いからじゃない。わがままな人をきびしく判断してあきらめるという、やさしさを持ってるからです。個々の人間に対する不干渉。海のような人です。飛びこんでくる人しか包みこまない。その雄大さを眺めて、ときどき水浴びさせてもらうというのがいちばん適切な接し方です。私たちはみんなそうしてますよ。批判するなんて、考え及びもつかない」
 島谷の暗くうつむいた顔に目がいく。きょう二三振の島谷に元気がない。
「小野さん、面倒くさがりとひとことで切ってください。海とは言わず、雨上がりの水溜まりのように静かにしてますが、足を突っこむと泥が撥ねます。みんな自分のことで忙しいんですよ。ぼくもその例に漏れません。―島谷さん、元気がないですね。差し出がましいようですが、島谷さんは振るときにスタンドを見てますよ。打撃ポイントを見るようにしたらどうでしょう」
 島谷は薄く笑い、
「わかってるんだけどね。どうしてもあごが上がる。あごを引こうとすると、引きすぎちゃう。どっちにしてもボールがよく見えない」
 江藤が、
「こんなときに仲間の心配なんかしとることはなか。また甘いと言わるっぞ」
 浜野がこっそり着替えにかかった。


         六十六

 江藤は浜野の背中を冷やかに見送り、
「金二はホームラン狙いをやめればよかよ。ワシの〈わざと〉スイングは、わざとあご上げる空振りをして、ホームランを狙っとるように思わせるためのものや。そんな荒いバッティングしとるなら簡単に打ち取れると思いこむ。それで同じようなコースか、きわどい逆球を投げてきよる。そこをパカーンや。若いころはそれでもよかったばってん、年とってくると腰と首に響くようになった。ヘッドスライディングもやめたし、無茶振りもやめようと思うとる。おまえは当たれば飛んでいくばい。ふつうにボールを見て、ブッ叩いてみい。ワシもこのごろはぜんぶふつうに振っとる。きょうの金太郎さんみたいなのは、ふつうでも異常でも打てん。打てるのは金太郎さんだけくさ」
 菱川が、
「たしかに神無月さんだけは打ちましたね。ボールを見るといえば、きょうの金田からのホームラン、ボールそのものは見ないでホームベースを見てましたよ」
 太田が、
「そうそう、下ばかり見てた」
「あんなするどいボールの軌道は追いかけてもムダだから、デッドボールの軌道でないことを確認したあとは、最終落下点だけを見てた。かならずホームベースに落ちてくるから」
 中が、
「金太郎さん、それ、手品だよ。ベース上で一瞬ボールを止めて見るんだろう? それができるのは球界で金太郎さん一人だ。川上がむかし言った、ボールが止まって見えるという話もでたらめらしいからね。止まって見えたら、プロの打者なら九割打つだろう。三割ぐらいで何言ってんだということだよ」
 田宮コーチが入ってきた。
「みんなそろそろ腰を上げろよ。興奮してるのはわかるが、それぞれの計画に戻れ。しかし、きょうの一件はひどかったな。バットのせいで飛びすぎるなんて考えたこともなかったよ。どうやりゃ飛ぶバットにできるんだ? 鉄を入れても無理だろう」
 高木が、
「世論が許さないところまできちゃったな。川上という男もどこまで皮肉れてるんだか」
 小川が、
「よほどの覚悟があったんだな。何十年もプロ野球でやってきて、こんなことしたの初めてだろう。進退賭けてまで金太郎さんを憎んでるんだ。何も金太郎さんに悪さされたわけじゃないのに。気の毒な男だ。見てて憐れだよ」
 吉沢が、
「異常なものは許せないって人間、初めて見たな」
「母がそうでしたし、飯場の東大出の所長がそうでした。自分の常識は正しいと考えるふつうの人です。そういう人が、いさぎよいスポーツマンの世界にいたのがめずらしかっただけでしょう。めずらしいので、王や長嶋でさえ尊敬してるわけです。ぼくは彼のえらそうな態度が小学校のころから嫌いでした。えらそうにする人間は、例外なく劣等感のかたまりですから」
 葛城が、
「俺も尊敬してたもんなあ。当時のほとんどの野球選手がダンディなホームラン王大下より、野球の神さま川上のほうを尊敬してたんじゃないか。いま見ると、神さまでも何でもない。ホームランは少なかったし、打率も三割ちょい、並よりすこしマシな野球選手というところだね。並以下の俺としては、こんなこと言うのはちょっと気が引けるけどさ。金太郎さんを見ちゃうとなあ」
 小川が、
「金太郎さんに比べたら、王も長嶋も影が薄いよ。あしたから彼らどうするんだろ。川上は長期謹慎だろ」
 徳武が、
「腰ぎんちゃくの牧野が監督代行だね。巨人、陽、斜めなりだ」
 水原監督が戻ってきた。
「水谷くん」
「はい!」
「きみをローテに入れることにした。打撃投手卒業だ」
「ありがとうございます!」
「きょうの連続フォアボールは最低のできだったが、じつに伸びのある速球を投げていた。もともとよかった肩が回復したんだね」
 西区の公団住宅からかよってきている二十八歳の丸顔が、うれしそうにうつむく。小川が、
「三十四年に入団して、すぐ肩をやられたんだよね。十年か。長かったな。すっかりいいの?」
 小川より入団五年先輩の男が、後輩に頭を低くし、
「もうすっかり。四十年、四十一年と、ちょっと回復して十勝以上挙げたんだけど、今回はすっかりいい。肩が軽すぎて、コントロールが乱れた。若手に負けないようにがんばらないと」
「その前に、俺に負けないでよ」
 太田コーチが飛びこんできて、
「川上のクビがまたつながったぞ! 長期自宅謹慎だそうだ。上が面倒に思えば、そのまま解任もあるかもしれないが、世渡りのうまい川上だからそれはない。近鉄が川上招聘に名乗りを上げてるようだが、川上の年俸を考えると無理だね。金太郎さん、今回は同情しないほうがいいよ。球界のためでもあるんだからね。あんなことされてまで同情するのは、逆に金太郎さんのほうが人格異常だと思われる。ファンの信頼を失うよ」
「はい。静観します。もともと何の関心もありません」
 水原監督が、
「浜野くん、巨人にいかなくてよかったね」
 浜野がキッと視線を挙げて言った。
「監督は打者のバットに疑いを抱いた場合は、審判に目視の判断を求めてよいことになってます。彼の行為自体は不正なものではありません」
「もう巨人―中日は六回戦だよ。いままでいくらでも突っかかることはできたろう。しかも、一度異議を申し立てて、科学調査もすませてるじゃないか。それをまた蒸し返して、このありさまだ。あきらかな有害行為だろう。金田のバットで飛びすぎたことには不満はないのか。確かめたければ、なぜ逃げたんだ」
「それですよ。つかつかとベンチに歩み寄ったからです。あれはない。無礼千万です。きょう川上監督に対して神無月の働いた無礼は、取り返しのつかないものですよ。ただおとなしくバットを差し出しておけばよかったんです」
「なんだって!」
 水原監督が声を荒らげた。浜野は腹を決めたようにしゃべりだした。
「こと巨人に関して言わせていただくと、この日本において、巨人軍はそこまで軽い権威じゃないですよ。各界からの防御体制は万全なものがあります。大学で言えば東大ですよ。腐っても鯛。野球選手たるもの、万難を排して巨人軍に逆らわないようにすべきです。つまり、万難を排して巨人軍に入団すべきです。実力のない選手はもちろん、有能な選手もそういう努力をして、選手生命を潰されないように万全の注意を払うべきです。親方日の丸という組織の権威は複雑で奥が深い。中日ドラゴンズが十連覇してもそれは変わりません。日本という国は、一度できあがった権威に何千年も従う仕組みになってるんです」
 悲しい人間だと思った。これがすべての人間の考え方とは思わなかったが、現実はそうかもしれないと納得できた。
「じゃきみは、巨人軍と金銭トレードするなら受けるかね」
「受けます」
「さっそく、考えておこう。私はすぐに動くよ。四勝という勲章をぶら下げていきたまえ」
「きょうから動いてくださってけっこうです。金銭トレードならスムーズに進むでしょうから」
「わかった。すぐ動こう。せいぜい高く買ってもらうようにするから安心したまえ。野球の醍醐味よりも組織の団結が好きな人間とは、私もうまくやっていけない」
「俺も、甘えん坊たちとはうまくやっていけません。強い弱いじゃない。人間として長いものに巻かれない姿勢はまともじゃない。そういうのを甘ちゃんと言うんです。何万年も人間は長いものに巻かれて生きてきたんですよ。それを、あるインタビューで神無月と水原監督は否定した。いかなる手段でも彼らから報復されて当然です。川上監督のいやがらせも、その一端にすぎない。いやがらせの是非などどうでもいい。それが権威社会の構造です。俺は腹が立たない。権威もない雇われの天才におべっか使うよりは、ずっと立派な態度だと思うので」
 水原監督は、
「きみにとって長いものは巨人軍と、東大と、あとは何かね」
「政治家と、学者です。あとはもろもろの企業の長。少なくとも雇われの天才じゃない」
 菱川がヌッと出て、
「おまえ、ぶん殴られたいのか!」
「甘ちゃんはすぐこれだ」
 菱川がこぶしを構えると、森下コーチが後ろから腕を抱えた。
「殴ると試合に出られなくなるぞ。おまえはうちの貴重な人材だ。つまらないやつを殴って将来を失うことはない」
 浜野が、
「それ、甘ちゃんの常套文句ですよ。傷の舐め合い」
 がんらい短気な森下コーチは目に怒気を含み、
「親しき中にも、だぞ」
「俺はあなたと親しくありませんよ。あなたはもともと二軍の内野コーチでしょ。遠征の帯同でもないのになんで一軍にいるんですか」
 水原監督が微笑しながら、
「私が二軍から借り出してる。彼のファイトは一軍の景気づけに有効だからね。きみはそんなことまでキョロキョロ気を配って生きてるのか。上下関係によほど敏感なんだね。それなら言いやすい。上位の監督および同輩以上のチームメイトを侮辱したという理由できみを提訴をします。コミッショナーに報告しなくちゃいけないことになってるんでね。きみの言うとおり提訴自体は不正な行為じゃないですから。提訴の間にトレードの話を進めます」一カ月間出場停止の
 宇野コーチや太田コーチは慶応のよしみで引っ張ってきたが、森下コーチは日本シリーズの対戦で水原監督が気に入り、いつかいっしょに仕事をしたいと祈念していた人物だ。同僚としての思い入れは強く、いつもそばに置いている。彼を揶揄した浜野の罪は重い。江藤が、
「雇われ、雇われでないに関わらず、天才はおまえにとって何や」
「生物界の変種ですよ。たしかに人間の目で見れば脅威ですよ。チーターやカメレオンが人間界に闖入してきたようなものですからね。しかし、人間はそんなものに支配されない。観賞はしますけどね。支配権はあくまでも人間の側にあります」
「そういうものは殺すべきか」
「人間を支配したいと自己主張したらね」
「ぼくの価値のなさをよく言い当ててくれた!」
「金太郎さんは黙っとれ! 金太郎さんは自己主張からもっとも遠い人間ばい。生まれつき自分に価値がないと思っとる奇人ばい。自分を捨てとる俠客やぞ。きちんと引いとる人間がこんなやつに、チーターだカメレオンだと罵られるいわれはなか。浜野、おまえが涙ながらに昔話をしたときは、ええ人間や、見どころある男やと思った。錯覚やったごたる。言っとくがな、おまえ、金太郎さんがおらんかったら一勝も挙げれんかったぞ。自力で勝てるのは健太郎と小野さんと勉ちゃんぐらいや。そんな力ではとうてい巨人ではやっていけん。高橋一三や堀内、城之内のいる中で、二線級のピッチャーとしてしか扱われん。それも自分で掘った墓穴や。ワシには関係なか。無能でも庇ってくれるのが親方日の丸と思ったら大まちがいぞ。おまえはカメレオンよりも価値がないわ」
 浜野はせせら笑うと、無言でロッカールームを出ていった。水原監督が、パチンと手を拍ち、
「さ、早く話を進めないとね。水谷くん、ますますきみが腕を上げる必要が出てきたよ」
「はい、がんばります!」
 半田コーチが、
「オーナーが、ドライーチを手離しますかァ?」
「きょうの話をすれば一発だね。ただ、巨人が受け入れるかだよ。伸びシロのない男だからね。二千万以上で買い取ってもらわないと、ドラゴンズは赤字だ」
 中が、
「彼はどこで狂ったのかな」
 宇野ヘッドが、 
「入団式のときだね。金太郎さんに酒をついで回れと命じた。金太郎さんは素直にそうした。水原さんが怒って止めた。そして浜野を叱ったんだ。浜野は川上監督と同様、天才を憎むタイプだ。自分のほうが上だと確信してるわけじゃなく、とにかく、すごいものが憎いんだ。凡人が心の根っこに持ってる感情だよ。私たちのだれにでもあるめずらしくもない感情だが、ふつうは権威を超えた絶対物にぶつかると、そういう気持ちは感動して揺らぐもんだ。彼は権威以外のものに感動しない。権威以上の絶対物の存在を信じていないからだよ。本能的に権威が怖いんだね。権威は逆らう者に悪さをするが、絶対物はどんな悪さを仕掛けても報復しないからね。天才は権威に侮られやすい」
 水原監督が、静かに成り行きを見守っていた太田コーチに、
「太田くん、こういう状況になった。ま、放出して痛くもない戦力だが、一軍ピッチングコーチとして、水谷くんばかりでなく、伊藤久敏くんや山中巽くん、若生くん、門岡くんたちもしっかり鍛えてくれたまえ」
 長谷川コーチの姿がない。彼は本来二軍投手コーチなので、遠征のときはかならず帯同するけれども、本拠地に戻って二軍につききりになったのだろう。太田コーチが一軍投手コーチであることをいつも忘れる。
「はい。新人の水谷則博も計算に入れておきます」
「トレードの話は、みなさん、本決まりになるまで口外しないように」
「ウィース!」
「ところで、板東くんはどうしてるのかね」
「肘の調子が悪くて、二軍で調整してます。今年は投げられないんじゃないでしょうか」
「そう。ほかに故障してるピッチャーがいたら、無理をさせないようにね」
「はい」
「金太郎さん、きみは江藤くんの言うとおり、徹底した奇人だ。しかし、けっして甘ちゃんじゃないし、弱い人間でもない。権威者よりも怖い人間だ。きみの逆鱗に触れると、そこいらの権威者は尻尾を巻いて逃げ出す。川上監督もベンチの奥へ逃げたじゃないか。よく無能を言い当ててくれたなんて、ほんとの甘ちゃんをつけあがらせるようなことを言っちゃいけない。彼らはきみが怖いんだ。人間がほんとうに恐れるのは、突出した才能と神性を帯びた人格だ。きみは愛らしいいっぽうで、この上なく怖い。どんな権威者も徒手空拳のきみを怖がる。堂々としていなさい。私たちは、きみがこの世にいるかぎり、きみに従うし、きみを守る。なぜなら私たちは、きみに感動しているからだよ。わかったね」
「はい」
 田宮コーチが、
「じゃ、二十八日木曜、大洋戦、午後三時より球場入り。遅くなった。きょうこれで解散しよう。川上問題に関して取材を受けたら、好きに応えてよろしい。ただし、将来巨人軍にいきたい人は穏便なことを言うように」
 笑いが上がる。一枝が、
「野球選手たるもの万難を排して巨人軍に入団すべき、だもんな」


         六十七

 主人が助手席で煙草を吹かしながら、
「巨人戦は、やっぱり悶着が起こりますな」
 菅野が、
「飛びすぎるバットか。神無月さんのホームランを打つ才能を信じてなかったということですね」
「ホームランて、もともと信じられないものですからね。打った自分も信じられない。信じられないほど遠くまで飛ぶとなったら、手品に見えるかもしれない。でも川上監督は自分でもホームランを打ったことがあるんですよ、百八十一本も。だからホームランそのものは信じられる。すると信じられないのは距離だ。だからバットを疑ったんです」
 千佳子が、
「好意的に解釈しすぎだと思う。ホームランの距離だけに嫉妬して、あんな世間を騒がすようなことが何度もできます? 世間に叩かれてもいいとまで思って、ある人間に対して冒涜的な行動をとるとするなら、それは才能そのものへの復讐しかないわ」
「復讐か……。となると、才能に対すると言うより、五月六日のインタビューに対する復讐としか思えないな。距離に関しては、王とか外人とかの場外ホームランを何度も見てるわけだから、バットに疑いなんか持ってなかったと考えたほうがいい。野球の神聖さを冒瀆する利益社会と言われて、カッとなった。そっちだろうな。でも、そんなことで復讐したくなるものかな。親会社がいちばんの権威だと自分で言った人だよ。神聖さの冒瀆でけっこう、それが本来の姿だ、よくぞ言ってくれたと開き直るのがふつうじゃないかな」
 睦子が、
「その自分で言った、企業がいちばんの権威だという言葉が、自分の感覚にはまってなかったからだとは考えられませんか。しょうがなくて言っちゃったというか、親会社の機嫌取りで言ったというか、ふだん企業の奴隷であってはならないと思っていたところへ、神無月郷という青二才から指摘されてしまった、そんなこと言われなくてもわかってるんだよ、やむなく営利集団のためにチームを強くして見せなきゃならないことだってあるんだよ、だいたい被雇用者の選手ごときが自分を雇ってくれる親会社の意向に従わなくてどうするんだ、って」
 私は、
「それも一理あるけど、彼はあのふてぶてしい態度からして、どう見ても骨の髄から権力志向者だと思うんだ。企業の奴隷である自分を疑ったことなんかないはずだ。巨人の大監督と一介の野球選手、そのどちらに世間がつくか、こういう嫌がらせで自分が世間の袋叩きに遭うかどうか、そういうことを実験して、自分の権力の強さを測ってるんじゃないかな。そしてたぶん自分はお咎めなし……」
「まさか!」
 全員で叫んだ。菅野が、
「権力実験ねえ。三人ともおもしろい考え方ですけど、才能に対するなりふりかまわない復讐という、千佳ちゃんの考えがいちばん近いと思うな。暗い結論ですけど」
 主人が、
「もっと暗い結論があるよ。神無月さんが爆発的に暴力をふるうという話を鵜呑みにして、そういうきっかけを作って神無月さんを荒れ狂わせる。そしてプロ球界から追放する。ホームランを打つ才能や容姿の美しさに対する嫉妬や復讐からじゃなく、ただ嫌いなものを追放する。ワシらは神無月さんを見た瞬間から好きになった。その逆の人もいると思うんや。暗いけど、シンプルな結論やろ」
 睦子が、
「とすると、川上監督はこれまでのいやがらせの理由をぜったい言わないでしょうね。そんな一瞬の嫌悪感をだれもわからないでしょうし、わかったとしてもうなずかないでしょうから。そして、神無月さんに謝ることもぜったいしない。謝る理由がないから。神無月さんに許されようとも思わない。許されなければならないようなことをした覚えもないから。川上監督は神無月さんを嫌うだけにしておけば、こんなことにならなかったでしょうにね。……神無月さんのお母さんには嫌悪感に理由がありました。自分を捨てた男に神無月さんが似ているという理由が。川上監督にはそういう潜在的な理由がありません。……きっと社会から罰せられると思います。自分が頼みとした社会から」
 菅野が、
「とにかく大問題になりましたよ。川上監督が巨人を追われるとなると、神無月さんの身辺がますます危険になります。そのことは松葉会の若頭さんもとっくに承知してると思いますよ。警固が厳重になるでしょうね。神無月さんの身の危険を察知して、連盟が川上監督を不問に付すということもあり得ますね」
 浅間下で胸にかけられたドブの水を思い出した。彼らにそうする理由があった。私はただ彼らのそばを通りかかることさえ許されなかった。サーちゃんのツバ。ほとんど口を利いたこともなければ、日常的につるんで遊んだこともなかった彼らだからこそ、報復はしやすかった。自分の不実が原因の報復なら、私は甘んじて受ける。母を信じた結果の不実は私の責任だ。今回は?……
         †
 食卓が整い、ソテツたちのおさんどんが始まった。夜のニュースは川上監督の件でかしましかったが、北村席のだれもそれを重大視していなかった。金田にバット借りにいく場面が映し出されている。
「今度も許してあげるんやろ」
 キッコが言った。
「どうでもいいな、野球さえできれば」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんがそれでも、世間が許さないでしょう。あら、ベンチに走ってった。江藤さんの羽交い絞め。この冷静な顔でズンズン近づいてこられたら、ふつうの人間は縮み上がるわね。どんなときも命を捨ててる顔をしてるから。川上監督は逃げちゃったんでしょう? あ、金田さんがバットを渡した。すごく怖がってる顔。でも、申しわけないって表情ね」
 直人が主人の膝で、おとうちゃんと連呼しながら画面を指差す。
「見てみ、森下がかんかんになっとるわ」
「水原監督は森下コーチをとても気に入っていて、いつも二軍から呼び寄せてるんです。飾り気のない明るい人で、ぼくがホームランを打つたびに一塁コーチャーズボックスから、ロケット! と声をかけてくれます」
 森下コーチの野太い声を思い出しながら言った。
「森下の口癖は、野球しかできんようなやつはあかん、というもんやが、万能の神無月さんが気に入ったんやな」
 菅野が、
「森下は福岡の八幡高校だったかな。たしか昭和二十五年のセンバツに出てます。愛知県からは瑞陵が出ました」
「へえ、瑞陵が」
「はい。たしか、初出場の静岡の韮(にら)山高校が優勝しましたね」
「ほうやった。八幡高校時代の森下の同期は、いまの法政の監督の松永怜一。森下は南海にいったけど、松永は法政にいった。名三塁手で、長嶋ばりのアイドルやった。法政といえば、今年の山中正竹はどこへいくんやろな」
 睦子が、
「プロからは指名されないようです。小さいうえに、四十何勝も挙げるくらい酷使されてては、プロで長く使えないということらしいです」
 スコアボードの時計の上方を直撃したホームランが映し出された。
「ボールの上がってく角度からして、バットのせいやないとわかりそうなもんや」
「わかってると思いますよ」
「ほやな、わからなければただのアホだ。おお、森下コーチが平光を小突いとる。今年の水原監督がどれほど人集めに奔走したか、川上にはわからんやろ。第一目標はドラフト外で神無月さんを獲ることやった。これが拍子抜けするくらいうまくいった。オープン戦たけなわのころの週刊新潮やったか、文春やったか、水原監督の手記が載っとったな。神無月くんと初めて東京で会ったとき、金はいらないと本人の口から聞いて腰が抜けるほど驚いた。また、契約書を読みもしないでサインをする透き通った瞳を見て魂が融けるほど惚れこんだ。野球を人生の一大事と考えておらず、学校の運動場の野球とプロ野球とのあいだに何のちがいも見出していない表情だったからだ。そして、彼にとっては実際そうだった。彼は毎日天真爛漫に打ちまくっている。……それを読んで感動しましたよ。神無月さんのことをピタッと言い当てとる。かわいがってもらえると心底感じました。神無月さんを獲ったあとは参謀役のコーチスタッフを固める。宇野、太田、森下、岩本を呼んだ。長谷川、田宮、半田、本多、塚田は据え置き。天下の水原の声がかかったということで、みんなスワと馳せ参じた。メンバーを見ると、口うるさく言わずに見守るタイプばかりです」
 主人は直人の小さな手を握って揺すった。私は好物のナスの味噌炒めをどんぶり飯の上に載せて掻きこむ。庭の木の葉がいっとき雨音を立てたがすぐに止んだ。カズちゃんが、
「このネクストバッターズサークルの中でわれ関せずみたいな顔をして立ってる人、木俣さんでしょ?」
「うん」
「北村に遊びにきたことあったかしら」
「うーん、憶えてないな」
「キョウちゃんのことものすごく尊敬してるのに、距離をとってる。仲良くすると、危険なことに巻きこまれるって直観してるのね。巻きこまれることが怖いんじゃなくて、これまでの生活が変わることが大儀なの。でもこの目は信頼できるわ。最後はわが身を捨てる目。女の目よ」
 主人が、
「捕手には守り型と攻撃型がある。巨人の森は守り型。木俣は攻撃型や。神無月さんだけじゃなく、木俣もクロ金太郎と呼ばれとった。マサカリ打法と呼ばれとるのもそのせいや」
「木俣さんも金太郎と呼ばれてたことは本人から聞きましたが、その連想でマサカリ打法と言われてることは知らなかった。木俣さんもチームメートも、そんなことぜんぜん言わなかったから」
「神無月さんを立てたんやな。木俣は中商のとき甲子園にいって、三割を打った。南海から誘いがきたけど、中京大にいって首位打者になった。一年で中退してドラゴンズに入った。高木時に競り勝って正捕手になった。あとから入った有望新人新宅も振り切った。南海にいってたらどうなってたかなあ。野村を押しのけて正捕手になれたかな」
「それ以上になったでしょうね。ホームランを量産する力があるだけじゃなく、野村とちがって肩がいい。そして、野村とちがって明るい。これはカナメとなる人物の大切な要素です」
 千佳子が、
「ホームランて不思議ですね。ゴロやフライはあたりまえに見えるけど、ホームランだけは不思議。どうすればあんなに飛んでいくのかしら」
「ホームランが生まれる条件は二つあるんだ。一つは、打球の初速が大きいこと、もう一つは、打球が二十五度から三十五度の角度で飛んでいくこと。この二つがパチンとはまると、どんな小柄な人でも驚くほどボールは飛ぶ。じつはもう一つあって、これはホームランバッターと短・中距離バッターを分ける要素なんだけど、ボールの中心より少し下を叩いて逆回転を与える技術。この技術は練習で多少は身につけられるけど、おおよそ先天的に決まってる。スイングはアッパーでもダウンでもレベルでもかまわない。ドラゴンズの選手はほとんど全員この技術を持ってる。巨人の選手はほとんど持っていない」
 素子が、
「でもドラゴンズでたくさんホームランを打つ人は何人もおらんよね。ホームランを打つにはもっと条件があるんやないの?」
「ボールに当てる確率だね。つまり、動体視力のよしあし。これこそ先天的なものだ」
「ホームランバッターは生まれつき?」
「打球の初速、下叩き、視力の三つ兼ね備えている打者は生まれつき」
「木俣さんも?」
「うん、木俣さんも、江藤さんも、菱川さんも、太田もそうかな。木俣さんはたいてい矢田の大幸球場のほうへいってて、二軍選手に混じってやってる。そういえば、木俣さんにかぎらず、フリーバッティングのときしかほかの選手の練習を見たことがない」
 菅野が、
「木俣は練習の虫ですよ。タクシーを転がしてたころ、真っ昼間よく大幸球場にいって時間を潰してました。背番号23が二軍選手といっしょにボールを追っかけ、バットを振ってました。彼は自己管理の鬼で、節制に努め、自宅にジムまで作ってます。神無月さんよりも派手なやつを」
 テレビを消し、和やかな食事に戻った。


         六十八

 トモヨさんが、最近取り付けたばかりの門前のインターフォンに、
「お会いできません」
 と応えている。応答器は玄関の柱に取り付けてある。
「ひとこと、ひとことでけっこうです。川上監督の長期謹慎が決定しました」
 トモヨさんの背中に、
「いま出ていくと言って」
 主人、菅野以下、ぞろぞろと私について出る。金魚の池のところでみんなを留め、門の格子戸を開けて出る。五、六台の中継車が連なっている。機材を満載したワゴン車の周囲で揉み合う取材陣。いっせいにライトを浴びせられ、ビデオを回される。ヘッドフォンをして首から機器をぶら提げた者、うつむいてミキサーを調整している者、竿マイクを突き出す者。
「川上監督の処分に関していかがでしょうか」
「関心ありません。彼のぼくに対する生理的な嫌悪感から起きたできごとですので、この結果に関して責任はとれませんし、とるすべもありません。ぼくは、この種の理不尽な所業には幼いころから慣れているので動じませんでしたが、疑惑のバットで打つことは憚(はばか)られたので金田さんのバットで打ったんであって、けっしてスタンドプレイではありません。疑惑のバットは科学的な機関に送付するよう、平光さんにしっかりお願いいたしました。バット作りの名人久保田さんの名誉がかかっているからです。これでぼくのバット検査は二度目になりますが、ぜひ、綿密に調べていただきたい。ぼくは野球をすることにしか興味のない人間ですが、そのためにさまざまな奇特の人たちが協力してくれています。その関係を破壊したくありませんので全力で平光さんにお願いしました」
「この種の所業になれているというのは?」
「ひとことで、幼いころからいじめられやすい子だったということです。どの世界にもこのにおいを見抜く人はいます。川上監督もその一人だったということにすぎません。しかし、川上監督もヤクザはいじめないでしょう。ぼくがその対極にあるように彼には察知できたということです。いじめられやすさはある意味ぼくの弱点でもあるので、この先いじめないでくれとは要求しません。自分がそういう体質の持ち主であるだけに、いじめない人には最大の愛で応え、いじめる人には極大の抵抗で応えます。と言っても、今回程度の抵抗が極大のところで、他人の名誉がかかっていない場合はほぼ無関心で応えます。先回の川上監督の見解の新聞掲載、少年の殺人予告、これらには無関心で応えました。今回もバット以外の件は同様です。関心ありません」
「川上監督が日本球界の大功労者であるという事実はどう思われますか」
「だれも反論することができないほど間然するところなき事実だと思います。ただ、功労者という意味でなら、戦前の三原さん、水原さんから始まって、プロ野球草創期の大下さん、青田さん、杉下さんはじめ、今日の長嶋さん、王さんにいたるまで、数十人、数百人の人びとが並び称されなければならないと思います。球界の興隆は特定の一人の功労の結果だとは思いません」
「これからの巨人軍はどうなるでしょうか」
「まったくいままでどおりの強豪でありつづけるはずです。一人の将を欠いて弱体化するような、ネジの少ない、脆いチームではないと信じています」
「ネジとは?」
「代替要員です」
「ドラゴンズはいかがでしょう」
「対照的に、ドラゴンズは将を代替すると、全体的な調和を欠く脆弱さを抱えています。偉大な野球人水原監督のもとにようやく結束がなったチームですから。まんいち水原監督が挑発され、騒擾を起こして辞任に追いこまれたり、あるいは、レギュラーメンバーたちが、ケガや失態を理由に長期休養に追いこまれたりしてネジ一本でもやられると、足並みが乱れること必定です。そういう事態は極力避けなければなりません」
 松葉会の組員が遠巻きに立つ姿が見えた。
「ネジ一本一本によって、危うく和が成り立っているチームであると?」
「もちろんどのチームもその意味では同じなのでしょうが、ドラゴンズはとりわけ交換ネジが何本もない瀬戸際のチームだと思っています。勢いはジェットコースターですが、ネジが一本でも緩むと、空中分解の危険性が高くなるチームです。ただ、簡単に交換できないだけに、そのネジ棒は太く、ねじ山も深い。才能と鍛錬と信頼で鍛え上げられた頑丈なネジです。それゆえ、選手一人ひとりが、自分はその強固なネジの一本であるという自覚を持ち、中日ドラゴンズというジェットコースター本体を破壊しないよう頑丈でいなければなりません。その自覚はみんな持っています」
「もうひとことだけ! この資本主義社会における正義とは何でしょう」
「ぼくが資本主義社会の正義に反する者と見なしての質問だと解します。資本主義社会の正義とは、積極的な金儲けです。正義とは社会全体の方向性です。しかし、社会全体ではなく、人間個人にとっての正義は、消極的な金儲けを基盤にする日々の小さな生活のまっとうです。積極的な金儲けを正義としないぼくのようなイデオロギーなき者は、ささやかな愛情にすがって日々生きていくしかありません。ええと、これで終わります。あした以降のインタビューは受けません。のんびりしたいので。以上」
 報道員の肩口の向こうにいる組員たちに礼をし、格子戸を閉めて門の内に入る。菅野が走ってきた。
「いまのインタビュー、実況でしたよ! 水原監督から電話が入ってます!」
 早足で玄関の電話に向かう。
「もしもし、神無月です」
「相変わらず一点非の打ちどころのない、すばらしいインタビューでした。インタビューの途中で、先回と同様、読売球団本部より小山オーナーのほうへ謝罪の電話が入り、川上くんを無期限謹慎に処したとの報告がありました。今回は甘い対応策をとっていられなくなったようです。監督代行は牧野茂くん。セリーグ連盟からも正式に連絡が入りました。世論がどう動くか気になるでしょうが、気にしないことにしましょう。金太郎さんがいじめられっ子だったことを信じるのは、かつてのいじめっ子だけです。過去に遺恨を残さないのが金太郎さんの美点です。本来強かった自分を隠した罰だと思って、いやな思い出を甘受してください。今回が最後のいじめっ子退治です。気をラクにね」
「はい、ありがとうございます」
 座敷に戻ると、カズちゃんが、
「キョウちゃん、忘れてたわ。ダービー当たったのよ。18番の単勝、ダイシンボルガード。六番人気で千三百九十円ついたから、十三万九千円返ってきたわ。半々の山分けだから、島さんに約束どおり六万九千五百円、私と素ちゃんとメイ子ちゃんとキョウちゃんが一万七千四百円ずつ山分け。でも、私のポケットマネー千円を足して、全体を十四万円にして、島さんにピッタシ七万円、キョウちゃんは三万円、私たちは二万円にした」
「へえ、よかったね」
 手渡された三万円を胸ポケットにしまう。菅野が、
「すごいな。当たっちゃったんですか」
「そう、島さんに尾頭橋の場外馬券売場までいってもらったの。8と28は五着と六着ですって」
「わざわざ買いにいってくれた人の手柄だ。払い戻しにもいってくれるわけだから当然の分け前だ。お母さん、六月はトリガイの季節です。六月一日は日曜日ですよね。お昼にトリガイをメインに三万円分の鮨をとってください」
「はいはい」
 カズちゃんが、
「じゃ、私の取り分で、塙さんにも届けてあげるように鮨屋さんに言って。トモヨさん、たまには直人を連れて塙席に遊びにいってらっしゃい。喜ぶわよ」
「はい、そうします」
 キョトンとしている素子とメイ子に、
「あなたたちは貯金しなさい」
「はい」
 二人でハイタッチした。
         †
 お城のマンションにはいかず、北村席の客部屋で睦子と肩を並べて〈まじめな〉話をしている。
「こんなに自然に抱き合えるのはなぜだろうね。何の手続もいらない。出会ったころからだった」
「手続が要らないくらい、神無月さんがすぐに快感を与えてくれるからです。早くそこへたどり着きたくて、私も手続きをまどろっこしいと感じます。郷さんは〈女〉の意識を変えてくれました。手続をロマンチックなものと思ってた女の意識を。おかげで、手続がないと愛を信じられない浅はかさがなくなりました。長ったらしい手続だけですまそうとする男がほとんどだから」
「ほとんどって、睦子はぼく以外の男は知らないのに」
「はい。小説を読んでも、テレビや映画を観ても、手続まみれ。そして、まだるっこいことをした代償をよこせって感じで、スケベったらしいんです。郷さんは何の手続もなくて、ちっともいやらしくないから、すぐ強い快感が襲ってきて、あっという間に……。自分でもどうしてそうなるのかわかりません。郷さんの動いてるお尻を触ってるだけで、何度もイキます。腰が止まったあとも何回もイキます。射精するときにいっしょにイクのはとても苦しいけど、苦しいだけでない充実感があるんです。私がイクたびに郷さんのものがピクピクってふくらむんです。私がイクと郷さんも気持ちいいんだなってわかると、うれしくて泣きたくなります。抜くときはとてもさびしいですけど、意地悪なからだはイッてしまいます。郷さんが抜いたあとでイクのはもう次の大きい波がこないから、苦しくなくてとっても気持ちいいんです。女って貪欲だなってつくづく思います」
「女にとって、オーガズムってどういうもの? つまり、どういう意味や、どういう価値があるの」
「郷さんはガッカリするかもしれませんけど、価値はありません。心でなく、からだの生理的な反応なので価値はありません。ほんとうに価値があるのは、抱き締められることです。それだけで満点の気持ちになります。豊かな愛を感じさせてくれるのは、快感を覚えることではなくて、ただ抱き締められることです。オーガズムを知らなかったときと同じ強さで郷さんを愛してるって感じるんです。最初、イクことを知ったときは驚いて、うれしくて、これこそほんとうの愛だと思いました。でも、そのうち、オーガズムだけでは愛と言えないとわかりました。心を充実させる価値があるように思えなかったんです。会話をしたり抱擁し合ったりするときほどの充実感がなかったからです。もちろん、郷さんが悦ぶことで自分も悦べばうれしい気持ちになります。でも、抱き締められていないと、うれしさが物足りないものに感じられるんです。その充実感を求めないなら、自分で虚しいオナニーをすればすみます。それこそ、いま神無月さんが尋ねているオーガズムそのものです。価値なんかありません。からだの満足感があるだけで、うれしさも幸福感も感謝の気持ちもありません。それは愛じゃありません。」
「こうして逢ったときに、セックスしなくても満点なの?」
「満点です。してくれれば、満点を超えます。特別なものに思えるんです。プレゼントのような。五分しか逢えないとか、十分しか逢えないときは、セックスだけで満点になりますけど、満点は超えません。そういう逢い方しかできないときは、それだけしてほしいと思います」
「で、みんな、あわただしいセックスをしても幸せそうなんだね。自分の気持ちも、みんなの気持ちもぜんぶわかった」
「……世の中の男と女が嫉妬でいっぱいなのは、心で愛してもいないし、からだの生理に寛容でもないからです。徹底的にスケベになれば、心の喉が渇きます。その渇きを癒やすために男と女が愛し合うんだってわかってきます。愛っていつも満点以上なんです」
 それからも睦子は私の上で何度も強く気をやった。快楽の余韻の中で、二人手を握り合うだけで、野球の話も川上の話もしなかった。
         †
 五時。起きぎわに尿意を催し、小便をして蒲団に戻ったが、勃起が治まらない。睦子が愛しげな仕草で下心なく握って、
「オシッコしても収まりませんね。どうしましょう。私は……もう腰が……できないと思います。キッコちゃん、呼んできます」
 一分もしないでキッコがやってきた。
「朝早ようはきついやろ。オマンコもちゃんと濡れんし。うち、一時間前に起きたさかい、すぐできるわ。それこそ神無月さんとするの朝めし前や。うち、十秒でイクさかい、神無月さん一分でイッて。ムッちゃん、神無月さんの手を握っといたげて」
 キッコは私の胸に手を置き、跨る。腰を落とし、
「固ァ! あかん、十秒かからん、あああ、好き好き好き、イックウ!」
 腰を本能的に前後にしゃくる。睦子が私の手を固く握る。
「あかん、あかん、またイク、神無月さん、一分もせんと死んでまう、あああイクイクイク、イク! 抜いてええ? あああ、イッてまう、イク! ごめんな、神無月さん!」
 腹を伸縮させて痙攣する。彼女が飛び離れるとき、膣口にこすられて射出の気配が走った。
「睦子!」
「はい!」
 できないと思うと言った睦子が懸命に跨る。品よく上下する。すぐに快感が募ってきたのか、五、六度激しく上下し、一度達し、さらに五、六度上下して、
「あああ、神無月さん、ふくらみました、気持ちいい、いっしょにイキます、愛してますゥ、イクウウ!」
 私が達すると同時に陰阜を強く押しつけた。痙攣するキッコを横目に、勢いよく迸らせる。手を引いて睦子を抱き寄せ、律動しながら口づけする。満点以上の愛を感じた睦子の連続的な痙攣が始まる。律動を終え、睦子の尻を握りながら脈動する襞からやさしい愛を聞く。
 朝寝に入った二人を置き捨て、全裸で風呂場へ降りる。廊下でばったりイネと遇う。私のものを見て、手で口を覆う。
「いまからお風呂磨き?」
「はい……」
「ぼくは、シャワー。ついでに、しちゃおうか?」
「はい、お願げします」
 イネは脱衣場に入り、全裸になる。
「いま出したばかりだから、空だよ、いい?」
「はい」
「前で? 後ろで?」
「顔見て、してじゃ」
 座位で口づけをしながらした。イネは短いあいだに心ゆくまで気をやって、たまらず離れた。射精はしない。
「好ぎだ。オラを離さねでけろ。神無月さんに捨てられたら、ワ、死ぬ」
「ぼくをつまらない人間に分類しないで。だれとも別れない」
 イネは心から安心して、私を抱き締めながらもう一度ぶるんとふるえた。


         六十九

 五月二十六日月曜日。八時半。うがいをして歯を磨いてから居間にいく。北村夫婦が水入らずで茶を飲んでいる。主人は新聞片手だ。
「おはようございます」
「おはようございます。世界的大偉人」
「何ですか?」
「六十二号ですよ。つまらん騒ぎで隠れてしまった」
 座敷は食事中。食事を終えたカズちゃんたちといっしょに、早出のトルコ嬢が三人出かけていった。早朝のサービスを始めたのだと女将が言う。
「寮の女の子の中には早起きの子もけっこうおってな、うちも三人くらいおる。客のほとんどは、年寄りや、タクシー、トラックの運転手。重宝されとるわ」
 座敷で朝のNHKドラマ『信子とおばあちゃん』を観ながら、ソテツのいれたコーヒーを飲む。菅野がトモヨさん母子を迎えにきて、保育所へいく。あさっての大洋戦まで試合がない。こんなにくつろげる日はめずらしい。
 月曜日なので天童は休日。浮きうきと賄いの手伝いをしたり、箒を手に座敷と廊下をいききしたりしている。私に、
「十時から名鉄の窓口で、世界新記録六十二号記念切手発売です。一人十シートまで。ソテツちゃんはもう出かけて並んでます。私ももうすぐ出かけます」
 彼女を見ているうちに耳が痒くなってきた。
「耳をしてくれる?」
「はい。耳掃除をしてるときは、へんなことしちゃだめですよ。鼓膜を破っちゃう」
「うん、片方の耳しか聞こえないのに、そんなことになったらたいへんだ」
 膝枕に頭を載せる。主人が入ってきて、
「はーい、きのうの〈まとめ〉です」
 私は天童の膝枕を離れてあぐらをかき、差し出された中日新聞を受け取る。スポーツ欄が開けられている。一つの紙面ぜんぶを使い、私が平光にバットを差し出す写真が文章の背景に載っている。

 
イチャモン! どこまで憎し神無月ぞ
 
またも川上監督狂気の沙汰 ついに無期限謹慎
   
ひっそりと世界記録六十二号
 まぎれもない事件だった。前代未聞の大事件だった。栄光の巨人軍と呼ばれているチームにとって、これは断じてあるまじき行為だった。神無月郷というスーパースターに対するこれほど無礼な態度をいままでだれも見たことがなかった。外国のマスコミは、すぐに〈クレイジー・テツ〉という見出しで、翌日の新聞の一面トップ記事として書き立てた。
 一回裏ノーアウト、ランナー二塁に江藤、バッター神無月。見慣れた図だ。すでにゼロ対二。このとき三塁ベンチから川上監督がのそりと歩み出て、平光球審をネクストバッターズサークル前に呼び寄せた。
「神無月のバットで打ったボールが飛びすぎる。調べてくれ」
 と言うのである。とっさのことにどう対処していいか判断しかねた平光球審は、神無月に、
「形式だけのことだからバットを見せてほしい。川上監督から要請があったので」
 と説明し、バットを手にとって調べる〈ふり〉をし、キャッチャーの吉田にも見るよう声をかけた。吉田も手にとって見た。
 なんたることだろうか。鉄か木かを判別するかのごとく、二人の男が神無月のバットを手にとって吟味している。目で見て何がわかるというのでもない。鬼の金棒のようにズシリと重いというのでもない。神無月は静かにその様子を見ていた。おそらくハラワタは煮えくり返っていただろう。そのときコーチャーズボックスから水原監督が走ってきて、
「この潔い神無月を侮辱するつもりか」
 と平光球審に詰め寄った。中日ベンチがグランドに飛び出さんばかりの不穏な空気に包まれ、球場内も一瞬興奮状態になった。神無月はこの一触即発の危うい状況を切り抜けるためには疑惑のバットで打ってはならないと判断し、味方の制止を振り切って巨人ベンチへ走っていき、目の前にいた金田にバットを貸してくれるように頼んだ。金田は快く了承した。このとき川上監督は、走ってきた神無月に襲われると誤解し、ベンチ裏から外の通路へ非難した。
 すでにホームベース近辺に集まっていた六人の審判員が、金田のバットを手にバッターボックスに戻った神無月に陳謝し、もとのバットを返そうとしたが、神無月は、
「そのバットは検査可能な機関に送付して、名匠久保田氏の名誉を回復してほしい」
 と要求した。彼はつづけて平光球審と吉田捕手に、いま手にしているバットは新しく持ち出した久保田バットではなく、金田投手から借りたものであることを確認するよう要求したが、二人とも見ようとしないので、見ろ! と一喝して無理やり確認させた。神無月はそのバットで、スコアボードを直撃する〈飛びすぎる〉ホームランを打った。
 これが事件の全容である。あらゆる観客が、両軍のベンチ全員が、そして報道関係者のすべてが、まるで自分が神無月に対して背徳の罪を犯しているような恥ずかしい気持ちになった。一人の卑劣な男に加担して清廉潔白な神無月を侮辱しているような気分になったのである。
 飛びすぎるバット、という申し立ては、これまで神無月が大ホームランを打ってきた事実を詐欺行為として全否定しようとする卑劣な讒言(ざんげん)である。敵軍の将の立場から〈飛びすぎる〉と泣きごとを言いたくなる気持ちはわかるが、〈バットが反撥しすぎるせいだ〉では、神無月本来の技量を疑う意地の悪いイチャモンであり、科学的根拠を欠いた非合理的な申し立てであると言わざるを得ない。
 次に、審判団が神無月に陳謝した点だが、筋ちがいである。陳謝すべきは川上監督であって彼らではない。筋ちがいの行為をした彼らは、軽度の処罰を受けてしかるべきであるが、神無月に敬意を表して謝罪したことは人間倫理にかなっている。平光は連盟に報告するにあたって、
「今回の騒乱が引き起こされたについては、すべて状況を正しく判断できなかった私の責任であります。神無月くんは讒言を誘致するほどの紛れもない怪物ですが、心魂浅からぬ怪物です」
 と語った。最後に、神無月が「見ろ!」と怒鳴りつけた点はどうだろう。最初に使おうとしていたバットだけ調べて、新たに使おうとするバットを調べないのは片手落ちだ考えるのは理の当然である。しかも、一度「見てください」と穏やかに言っても黙殺された以上、心ならずも威嚇的な口調になったのはいたしかたない。
 ところが驚いたことに、川上監督の邪知ではなく、この神無月の憤った態度を不遜と見なして、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ両球団事務所に電報や電話が殺到したのである。
「球界の大先達に盾突くとはけしからん」
「バットを貸せと巨人ベンチに迫った態度が許せない」
「審判や先輩に命令口調とは何ごとだ、即刻クビにしろ」
「永久追放だ」
「撃ち殺せ」
「八つ裂きにしろ」……
 悲しいかな! 
 神無月が落ち度のないバットに難癖をつけられたという根本的原因は、みごとに看過されている。総合的に見て、責められるべきは神無月郷ではなく、物議の大もとになった川上監督の卑劣な行為のみである。いっさい理が通らず、酌量の余地もないものであった。厳重戒告のうえ、無期限謹慎という処分は妥当であろう。いずれにせよ、彼の今季の現場復帰は絶望的となった。
 ちなみに、きょうの試合そのものは、八対二十二という大味なものではあったが、神無月の〈義憤〉を核に、なぜか両チーム結束し、ホームランあり、力投あり、ファインプレイありで、見どころ満載であった。とりわけ神無月が六十二号を放ち、一九六一年にニューヨーク・ヤンキーズのロジャー・マリスが百六十一試合で達成した六十一本を越え、わずか三十五試合目にして永遠に破られないであろう偉業を成し遂げたことは大事件であった。世界的に神無月が野球界の顔となったのである。これは野球界の枠を超えて世界に影響を与えるにちがいない。しかし、まことに残念なことに、無価値な〈事件〉でその偉業の影が薄くなってしまった。影が濃くなるまではおそらく百号を待たなければならないだろう。そのときこそわれわれは心から敬意をこめ、国を挙げて彼の業績を祝うべきだ。


「ついに、巨人中心の日本のプロ野球が根底から覆った感がありますな。しかし、自滅すると思いませんでしたよ。また、表にきてますよ」
「新聞、テレビですか。もう出ませんよ」
「当然です。来月の三日まで、のんびりしてください。試合があるので、完全にはゆっくりできませんがね」
 睦子と千佳子がシャワーを浴びた髪で食卓につく。静岡局作成の東名高速道路全通のニュースをやっている。
「新幹線が走り、いままた東名高速道路が完成して、静岡県は本格的な高速時代を迎えました。西に名古屋・大阪を、東に日本の中枢機能を集めたマンモス都市東京を置き、その中間に私たちの静岡県が位置しています。東名高速道路は、これら三大経済圏と静岡県の時間・距離を短縮しました。静岡県はいま、第七次総合計画を柱に、東海道メガロポリスの中核として生まれ変わろうとしています。東名高速道路は、県下の産業・経済・文化に大きな展望をもたらしていきます」
 さびしい山路の風景の中をまばらな密度で自動車が走る。千佳子が、
「これ、静岡県のニュース?」
 女将がほかのチャンネルに回す。同じような時間帯なので、たいてい五分程度のニュースをやっている。
「……東京から小牧まで三百四十七キロが開通、名神高速道路と結ばれて、東京から西宮まで五百三十六キロの交通の大動脈が完成しました。東名高速道路の総工費は三千四百二十五億円で、一キロ当たりおよそ十億円、名神高速道路の一・五倍かかりました。また東名と名神がつながり、東海道メガロポリスの形成が加速されることになりました」
 女将が、
「つまり、お金かけて便利になったゆうことなんやろ?」
「でしょうね。道路の質をよくして、信号を取り払ったということなんじゃないでしょうか」
 私は要領を得ないで答えた。コマーシャルが流れてきた。大橋巨泉だ。
「みじかびの、きゃぷりきとればすぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ、わかるよね、ブハハハ」
「何やろこれ、神無月さん」
「短いキャップを取れば、すぐすらすら書ける。すぎちょびれと、はっぱふみふみは合いの手でしょう」
 菅野とトモヨさんが帰ってきて、早出の者たち以外の北村一家がゆっくり朝食にかかる。おさんどんをしがてら賄いたちも食事をする。睦子が、
「そろそろ私たちも並ばなくちゃ。攻・走・守三種類出るらしいから、一種類十枚つづりを十シートずつ買えるとして、千佳ちゃんと私が三十シートで合計六十シート、ソテツちゃん三十シート、それでみんな合わせて全種類三十シートずつ買えるわね」
「ワシら夫婦と菅ちゃんで三種類三十シートずつ買うで、全種類六十シートになるわ。ぜんぶで六十シートもあれば、ええコレクションになるやろ。買い占めるわけにいかんしな」
 菅野が、
「それだけ買えば買占めに近いですよ。今年、名鉄はいろいろ出すことになりますよ。楽しみだなあ」
「……雅江のお母さんと相撲にいく約束をしてたんじゃなかったかな。お父さん、名古屋場所っていつですか」
「毎年七月の第二日曜が初日です。今年は……ちょっと待ってくださいよ(壁のカレンダーをめくり)……十三日から二十七日までですな。でも十二日から十七日まで、阪神三連戦、大洋三連戦」
「オールスターは?」
「十九、二十、二十二、東京球場、甲子園、平和台」
「二十七日までに一日取れそうだけど、体力的に無理だな。平和台から帰ってくるのが二十三日。その夕方から出かけるピンポイントもなんだし……。その夜泊まったら、二十四日に帰って、二十五日は川崎球場か。……やっぱり相撲はあきらめましょう」
 睦子が、
「加藤雅江さんとは、もうだいぶお逢いしてないんでしょう?」
「うん、四月の五日以来」
 女将が、
「相撲は無理にしても、おうちにはいってあげなさいや。三カ月、四カ月にいっぺんでしょうが」
「はあ……」
 千佳子が、
「気が進まないときは、無理しないほうがいいと思う。いくなら、あしたいってきたらいいんじゃないかな。そうしないと億劫になってしまってすっかり疎遠に……」
 睦子が、
「いくならきょうですね。あさっては大洋戦ですから」
「そうだね」
 菅野が、
「送りましょうか」
「いえ、やめときます。オールスター後でいいです。きょうあすはゆっくりしたい」
「いろいろあって気分が乗らないでしょうから、それがいいですな。じゃ、みんな、切手買いに出かけようか」
 睦子と千佳子も立ち上がる。




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