七十六

 食事が和やかな騒音の中で進んでいる。菅野以外もうだれも私たちの話に耳を傾けていない。なぜ主人が延々とこんな話をしているのか、ようやくわかってきた。一流と呼ばれてきた選手の一人ひとりが、けっして幸運とは言えない事情を抱えながら、天性の才能で切り抜け、いまプロ野球人としてグランドに立っている。おまえだって運の悪さを抱えて生きてきただろうが、才能で切り抜けて同じグランドに立った。その点ではまったく彼らと同じだ。新人だろうと、ベテランだろうと、一流と呼ばれる者は並大抵の経験の蓄積でグランドに立っているのではない―それを言いたくて、こと細かに説明しているのにちがいない。
「昭和三十三年から三十四年にかけて続々と大物新人が入団する一方で、川上、藤村といった大選手が引退していき、プロ野球の世代交代が一気に進みました。長嶋、王、村山、江藤、桑田ら新世代の活躍は、プロ野球の人気を沸騰させました。中でも、巨人―阪神戦の人気はすごかった。あの後楽園の天覧試合がその象徴です。天皇も人の子、巨人―阪神戦が観たかったんやろう」
「さっき言った、ちょうどそのころが野球のことを忘れていた時期です。さぶちゃんに噂で聞いただけでした」
 菅野が、
「藤田・小山両エースの投げ合いで始まった巨人対大阪十一回戦。観衆四万。一対ゼロから小山は長嶋に同点十二号ソロ、坂崎に逆転五号ソロを打たれた。三宅のヒットで二対二の同点にし、藤本の十二号ツーランで四対二と逆転した。が、七回裏小山は王に四号同点ツーランを打たれた。そこでマウンドを降りた。あとはだれもが知ってる話です。それ以来小山は王が苦手になった。三十七年、二十七勝十三完封を記録して阪神を優勝に導いた年も、王にだけは打たれてます。翌三十八年にはパームボールで王を完璧に抑えたけれども、十四勝しか挙げられんかった。で、三十九年に、山内と交換でオリオンズにトレードされた」
「世紀の大トレードですね」
「はい、十一年間で百七十六勝も挙げて、トレードされました。村山と両雄並び立たずなどと書き立てられてね。その年、小山はオリオンズで三十勝を挙げました。二百六勝。現在二百六十七勝です。三百勝も近いうちに達成するでしょうね」
「借りるには厚すぎる胸板ですね。来年のオープン戦では思い切りぶつかっていこうと思います」
 主人はうれしそうに微笑み、
「長嶋入団から十年、法政三羽烏では、そういう飛び抜けたベテランの円熟期の中で、とてもじゃないが革命は起こせんわ。ただ神無月さんが舞い降りてきただけです。彼らと楽しく遊んでください」
         †
 素子とアイリスの二階階段へつづく隘路の前で別れ、カズちゃんとメイ子と傘を差して歩きながら、わけもなく歯笛が鳴った。島倉千代子、からたち日記。二人の女がフフと笑った。電柱に蚊柱が立っている。
 ―柴山くん。
 疎遠になった人びとのことを考えた。
「柴山くんとはもう一生会えないだろうな。ときどき思い出すんだ。青木小学校二年のとき、彼に歯笛の吹き方を教えてもらった。お風呂屋さんの子で、学校の帰りに寄っていくように誘われて、大きな湯船にいっしょに飛びこんだこともある。彼はどこかへ引っ越していってしまった。もう彼とは会えない。そこにいけば会えるわけじゃない人たちはなつかしいなあ。野辺地の床屋の三島平五郎ちゃん、お父さんが首を吊ったあとどこかへ引っ越していった。ひろゆきちゃんの家の庭番の娘の京子ちゃん、一家でどこかへいってしまった」
「そんふうにポツリポツリいなくなるわけじゃないのよ。クラスごと、学校ごとごっそりいなくなるの。訪ねていって会えることのほうがめずらしいわ」
 メイ子が、
「そうですね。自分に会うために人は生きててくれるわけじゃありませんものね。むこうから会いにくることもないでしょうし、ましてやこんなに有名になってしまうと、もうだれも会いにきません」
「……言っときたいことがあるんだ」
「なあに」
「ぼくはカズちゃんたちとだけ、生涯をともにする。だれにも会いにいかない」
「ありがとう。キョウちゃんに見合った女になれるよう、がんばるわ」
「私もがんばります」
「有名になったかもしれないけど、出世はしない。したくないから。―このまま、ただの野球選手」
「そのほうが私も張り合いがあるわ」
「どんどん捨てようと思う。手に入れよう、手に入れようと思っていると、何も得られない。捨てようと思うと、不思議と大切なものだけが手もとに残る。その残ったものこそ自分の生き方を左右するものだよ。それを大事にするためには、いつも身軽でいなくちゃいけない」
 玄関に入り、いつものように玄関で服を脱ぎ捨て、全裸になって風呂へいく。湯を埋めながら、湯殿でシャワーを浴び、髪やからだを洗う。三人で寄り添ってゆっくり湯に浸かる。
「そういう、子供がおもちゃを捨てたがらないような、手もとにとっておく感覚があるのとないのとでは、仕事にも人生にも大きなちがいが出てくるわね。手もとに残っている感覚を持ってる人は、それに安心して、ほかのいろんなことに気づくことができる。いろんなことに気づく人は、いろんなことに興味を持ったり、毎日何かを探したりする。手もとに大切なものがある感覚って、どちらかと言えばアブノーマルなものね。いまの世の中では金太郎飴のような画一的な考え方や感覚がよしとされてるから、変わった考え方や感じ方をすると、子供扱いされたり変人扱いされたりしちゃう。そういう世の中では、少ないもの大事に抱えてる感覚ってなかなか育たないものよ。だから私たちみたいに寄り合って暮らさなくちゃいけなくなる。でもね、変人や子供がいたほうが世の中はいいほうへ向かっていくものなのよ」
 愛らしい八重歯を覗かせて笑う。
「おたがいの大事にしてるものを見せ合って、おたがいに足りない部分をカバーし合い、修正し合って助け合うからですね」
「そう。世の中の代表のトップの人間は、助けるだけじゃなく、進んで助けてもらう度量がないとだめ。キョウちゃんはそういうトップにも恵まれたわ」
「……だれにも会いにいかないと言ったけど、クマさんにだけは会いたい」
「かならずいきましょうね」
「カックンとやったっかな、チョイサッと」
 二人はわけもわからず微笑んだ。
         †
 明け方、浅間下の夢を見る。夢うつつに詩が湧き、五時半起床。カズちゃんの美しい寝顔が横にある。メイ子は離れで寝ている。カズちゃんの机に向かう。

 父が母を あるいは
 母が父を捨てたか……
 詩を閉じこめた いとけない日々は去れ
 ただ わたしは
 父を訪ねていった夜のことが気がかりだ
 横浜の 暗い二階につづくきざはし
 父の瞳!
 それよ ちからなく打ちおろす鶴嘴に似ていた
 ―わたしの好むものだった
 母のご恩は いっときに掃き消され
 その貌(かお)の翳りは 永々の暗い花となった
 あの女は何者だったか
 父の肩口からわたしを見ていた太った女
 男と女の契りのために
 生い立ち死ぬると思われた女
 あの女の
 けっしてうなだれようとしない姿勢を思い出す
 さても 怠惰は怠惰を生み
 無関心に裏打たれた父への郷愁(おもい)が
 この夜も 父に似た子をさいなむ


 カズちゃんの腕が首を巻いた。
「おはよう、天才さん。泣いちゃった。涙が乾いたら、ノートに清書しておくわ」
「庭でトレーニングする」
「いってらっしゃい」
「あしたの朝は、五百野に少し手を入れる」
「はい、がんばってね」
 パンツ一丁でジムトレ三十分。ミズノのジャージを着て庭に出る。寝転がって、翼の形で十キロダンベルを五十回。立ち上がって、両手で一升瓶二十回。一升瓶は北村席に二本、則武に二本置いてある。ふつうの軟便、シャワー、歯磨き、洗髪。
 五月二十八日水曜日。快晴。十八・四度。微風。空がまぶしい。どんどん気温が上がっていく感じだ。三種の神器をやっているうちに菅野が庭に入ってきた。
「自分で自転車を買ってきましたよ」
「あれ? プレゼントしてもらうんじゃなかった」
「そうそう甘えてられませんよ。北村に置いときました。きょうはどこへいきましょうか」
「初めていくところがいいね。テレビ塔にしよう。バットを持っていく」
 バットを担ぎ、家の中に声をかける。
「テレビ塔まで自転車でいってくる。一時間ぐらいで北村席のほうに帰る」
「はーい」
 北村席の門まで自分の自転車を牽いて歩く。菅野はガレージに並べてある自転車を得意そうに掌で示す。荷台のない軽快そうな自転車だ。
「すてきな自転車だね」
「はあ。あまり使わない気がするので、千佳ちゃんにでも役立ててもらいます」
 サドルチューブに貼りつけてある認識票の番号と姓名が新しい。サドルの高さを調整し、出発。バットを担ぎ、片手運転。笹島へ出て、柳橋を目指す。人も車も少ない。ビルのふもとの枝垂れ柳の並木を過ぎていく。
「気持ちいいなあ!」
「はい!」
 広小路伏見。菅野の車輪のスポークがキラキラ光る。歩くと大儀な道が自転車だと楽しい。枝を扇子形に広げたケヤキ並木がいつまでもつづく。街路が暗くなるほどの並木がすばらしい。糸杉に似たイヌマキやこんもりしたハナノキも混じっている。長者町、呉服町と走り、信号待ちも含んで二十分で栄着。久屋(ひさや)大通を走ってテレビ塔を北に見やる緑地帯へ。栄広場から広々とした芝の空間に入り、自転車を横たえる。菅野はストレッチと五十メートルほどのダッシュ往復数本、三種の神器適度に。私は素振り百八十本。片手素振り五十本ずつ。散歩者たちが遠く眺めている。しかし菅野が小柄のおかげで、同伴の男がプロ野球の選手だと気づく人はいない。薄っすらと汗をかく。
「街なかなのに、いい空気だなあ」
「ほんとですね。あしたは名城公園へいきましょう」
 栄の信号へ戻って渡り、エンゼル球場跡地へいく。小さな噴水のある広大な広場になっていた。遠くテレビ塔を眺めやる。はるかな思いが寄せてくる。
 砂地の矢場公園から、しゃれた白川公園を経て、名駅通へ出、笹島へ戻る。八時半。ぴったり一時間。みんながめしを食っている。
「ただいまあ!」
 女たちが、
「おかえりなさーい!」
「菅野さん、シャワー」
「オッケー」
 下着を替え、さっぱりして食卓につく。ソテツたちの用意するオーソドックスな朝めしを菅野が喜ぶ。
「このごろ大喰らいになりました。あっちこっちで、一日じゅうめしを食ってるからですね。肥っちゃうなあ。今朝も一膳、家で食ってきたんですよ。これは小田原産のアジの開きですね。別腹だ」
「食べられるときは、どこで出されたものでも食べちゃうことよ。寝食忘れちゃうことってけっこうあるから」
「その埋め合わせですか。いやあ、寝食を忘れるのは、神無月さんの野球を観てるときくらいです。今夜はだれが観にいくのかな」
 カズちゃんが、
「私と素ちゃんとメイ子ちゃんは忙しいから、当分無理。たまにはゆっくりおとうさんと二人で観てきたら?」
「いやあ、社長のほかにも話し相手がいないと、楽しさ半減ですよ」
 カズちゃんが、
「しょっちゅう年間席が一席空くわけね。じゃ、やっぱりアイリスのスタッフを一人ずついかせることにしたら? 森さんや島さんにも、一度はキョウちゃんの姿を観てもらわないと。スタッフはぜんぶで十五人くらいだから、三カ月もすれば一巡するでしょう。六時半までに球場に着くためには、べつに車に乗っていく必要なんかないわ。いつもどおり五時で上がって、名鉄でいけばいいのよ」
「そうですね、六時半試合開始にじゅうぶん間に合います。中日のバッティング練習は三時半から。神無月さんは三時には入るんでしょう?」
「三時半ちょっと前」
「じゃ、三時ごろ出ましょう」
「はい、二時半ごろここでユニフォームに着替えます。ソテツ、鮭おにぎり二個とウインナー持ってくからね」
「わかりました」


         七十七

 私は菅野に、
「バックネット席って、いくらぐらいするんですか」
「二千円です。年間席ぐらいゆったりした特等席になると三千円です。内野特別席は八百円から千円、内野一般席は四百五十円、外野席は二百円ですから、とんでもない差です」
「それじゃ、連れてってあげれば喜ぶね」
「そりゃ、もう」
 主人が、
「外野席は、七回の表から無料になりますよ。でも満員だから入れんな」
 九時を回ってみんな持ち場へ散った。菅野と主人は賑町へ。カズちゃんとメイ子たちはアイリスへ。私は自転車で則武へ。机に向かい、五百野にかかる。
 父に会ったあとの心の充足(さびしさという充足)と、母への幻滅(後ろめたい幻滅)を表現しようとして悪戦苦闘する。

 思いがけない肥沃な〈時〉が、母を裏切るまいという決意に忘却のシーツをかぶせ、できあがったシーツの上に重石を載せた。

 三十分も考えあぐねてでき上がった文章がこれだ。愕然とする。わけのわからない文章だ。ものをきちんと考えられる人間が、自分の抱えている差し迫った問題を扱うとき、読んだ人間が理解できるように平明に表現しない精神はねじ曲がっている。等身大よりもすぐれた頭の持ち主に見せかけたいので、人はこういう作為を凝らす。ハッパフミフミ。私はいったいいつまでこんな軽薄な言葉を書き連ねているのだ。ものごとを表現したいなら、自分の使う言葉の意味が大勢の人の使う言葉の意味に反しないように、懸命に工夫しなければいけない。身体能力をカナメとする野球のようなスポーツとちがって、佳い文章を書く能力は生まれつきのものではない。苦労して身につける技術だ。思いの容量を明確に伝える努力こそ、私のようなバカモノがしなければならない苦労だ。レトリックはその苦労の範疇に入らない。
 文章を書くことを《中断するか、捨て去るか》考えながら北村席へいく。ソテツの用意した天ぷらうどんとライスを食いながら考えつづける。結論を出せないまま、新しいユニフォームを着た。お守りを尻ポケットに入れる。書くことは私を《ねじ曲げる》。
 グローブをシーム皮で磨き、スパイクをタオルで拭き、三和土に握りの先端を打ちつけてバットの響きを聴いた。ブオンという響きのものを取り除き、乾いた音を立てる古いバットと、セロファンを剥いた新品のバットを一本、ケースに入れた。
 書くことはもともと精神を素朴さの方向へ正すことなのに、知性をてらう私を極限までねじ曲げる。これ以上私をねじ曲げるものはそうそう見つからない。中断などしないで思い切って捨ててしまうのがいい。主人が、
「神無月さん、緊張してますね。平松ですか」
「あ、いや、朝になるたびに、素朴な野球選手であることのありがたさを感じるんです。一筋に生きたいと思います。十分ほどカエル歩きをやってから球場へいきます。ソテツ、おいしかった。ごちそうさま」
「おそまつさま」
 立木から池までの斜面をカエル歩きで往復する。どう心に折り合いをつけても、人は何かをやっていなければ生きていけない。菅野が芝生に出てきて、
「きょうは山下の先発だと思いますよ」
「ああ、秋山のコピー。一、二回で、平松に交代でしょう」
 北村席の門前に報道陣の気配はなかった。バット問題が一段落し、ニュースの種がないと見ると、退きぎわもすみやかだ。
 主人を助手席に菅野の運転するクラウンで二十分。中日球場到着。何本もそびえるコンクリートの柱を見上げる。いつものように人びとが駐車場から正門ゲートにかけてひしめいている。なぜか警官が数人、人波を御している。縄を張られた通用口までの通り道に警備員が居並び、要所要所にきびしい顔をした松葉会組員がいる。厳戒態勢だ。
 主人と菅野に別れを告げ、用具を持って縄の張られた道を進む。道が終わりかけて通用口が近づいた刹那、黒いジャンバーを着た大柄の一人の青年が刃物をきらめかせて走り寄り、私の腹を目がけて突き出した。私はとっさに身をかわして男の足首を蹴って払うと、うつぶせに倒れた青年の背中に強く膝を押しつけた。間髪置かず左手で首筋を押さえつける。かなり苦しかったのだろう、青年は両足をばたつかせた。組員の一人が走り寄り、男の右手を蹴って刃物を飛ばし、腹に思い切り蹴りを入れた。警備員があたふたと駆けつけ、私に代わって三人がかかりで男を抑えているところへ、四、五人の警官が警棒を持って走ってきた。組員は姿を消した。フラッシュが間断なく光る。私はとっさに警官に向かって叫んだ。
「事件にしないでください! 事情聴取は受けません。あとはお願いします」
 私はほかの警備員と組員に護られて通用口を入った。コーチや水原監督がやってきた。記者とカメラが追ってくる。これでまた、せっかく鎮まっていた北村席の数寄屋門が騒がしくなる。
「どうした! 金太郎さん」
「何ごともありませんでした。だいじょうぶです。大ごとにしないようにお願いします」
「写真なし! 写真なし!」
 組員たちの怒声が聞こえる。監督とコーチ連が警官の中へ紛れていった。あっという間に騒動が終わった。江藤が葛城と小走りにやってきて、
「何かあったとね!」
「だいじょうぶです。ことなきを得ました。暴漢は警察に捕まりました」
 刑事らしき男が早足で廊下をやってきて、
「おケガはありませんか」
「何ともありません。大ごとにしないでください」
「それはお気遣いなさらぬよう。いまも水原監督からきつく言われましたので。ただ、暴行の現行犯なので逮捕いたしました。襲われた瞬間だけお聞かせください」
「刃物をよけて、足払いを食わせました。うつぶせになったところを膝で背中を押し、掌で首筋を押さえつけました。ぼくは馬鹿力なので少し痛かったようです。あとは警備員と警官にまかせました。ぼくにはがんらい被害意識がありません。起訴したり、裁判にしたりしないでください。よろしくその筋のかたたちにお伝えください」
 記者たちが懸命に鉛筆を動かしている。
「記者のかたたちにお願いします。大きく扱わないでください。こういうことはハヤリですので、大ごとにすると蔓延します。こんなことで忙しくなるのは御免です」
 記者たちが走って散った。刑事も、
「ご迷惑おかけしました」
 と大声を上げて早足で去った。
 水原監督とコーチ陣が走り戻ってきた。水原監督のユニフォーム姿を初めて間近でとくと見た。水色の帽子、胸の濃いブルーのロゴ、左袖に黄金の竜、左の腹部に大きな68の番号、ワイシャツのように襟を出した濃紺のアンダーシャツ、濃紺のベルト、左手首に時計、薄汚れた灰色の皮手袋をしている。見るからにダンディだ。歯が白いので日に焼けていることもわかった。めったに見ないが、三塁コーチャーズボックスからベンチ方向を睨んで指示を出す姿は精悍で、惚れぼれする。
「きのう巨人が広島戦で大敗したことが引き金だろう。三十二歳の、ただの巨人ファンだった。すべて金太郎さんが悪いと考える逆恨みだ。即刻、川上くんの復帰を申し入れる。とにかくこの風潮を止めなきゃいけない。やられ損だけど、金太郎さん、がまんしてくれるか」
「屁でもないですよ。慰謝料もいりません。それでまた暴力沙汰が起こるでしょうから」
「わかった!」
 江藤と葛城に脇を守られながらベンチに入る。みんなざわついているが、私の明るい顔を見て、あえて問いかけることはしなかった。
 三時半、レギュラー陣バッティング練習開始。私は外野でポール間ランニング。一枝、高木、中、江藤の順で打つ。太眉オヤジ面の水谷則博と、ノッペリ若生が投げている。一枝と中の打球がするどい。鏑木が、
「きのう巨人が堀内でやられました。広島に十対四。牧野巨人、出足悪しです」
「たぶん、川上監督があした戻ります」
「え!」
「いろいろぼくの周辺が不穏な状況なので、彼を戻さないかぎり治まらないんです。選手たちもホッとして、これから連勝すると思いますよ」
「そうですかねえ。なんだか腹の虫が治まらないな」
 島谷、木俣、江島が打つ。島谷が当たっている。
「打ってきます」
 水谷のケージに入り、
「外角カーブだけ、お願いします」
 レフトスタンドへ二本、センターへ二本打ちこんでベンチに戻る。
 大騒ぎになっている。水原監督が、
「あしたから川上復帰だ。五時から読売ジャイアンツ正力オーナーが陳謝の記者会見をする。ニュース速報で金太郎さんが襲われた瞬間のビデオが流れた。読売としても、もうどうしていいかわからない状態だ。金太郎さんの意向は伝えた。金太郎さんからの申し出によって、読売側は慰謝料を払わないことを公表する。金太郎さんを襲えば、球団経営が危機に陥ることも公表すると明言している。読売新聞の購読者数がこのひと月で三割方減ったそうだ。川上は謝罪しない。謝罪すれば、またファンたちが金太郎さんに危害を加える。川上の一方的なヤリ得だったが、金太郎さんには忍んでもらうしかない。とにかく金太郎さんの命が重要だ」
「侮辱され、命を狙われ、仕掛けたほうが処罰されないというのは、どういうことなんですかね!」
 徳武がスパイクの底金をコンクリートに打ちつけた。
「得なんてものじゃない。傍若無人だね。金太郎さんは今回の暴漢の不起訴処分も申し出ている。慈悲の心からではない。裁判沙汰になって証人として呼び出されることを、とんでもない時間の浪費と考えているからだ。金太郎さんが殺されないかぎり、犯人は裁かれない。金太郎さんの甘い態度が加害者側を増長させ、ひっきりなしに災難を招いていると言えなくもないが、金太郎さんの気持ちも考えてほしい。とにかく金太郎さんが襲われなければいいだけのことで、そういう対抗策をとるしかない」
 水原監督たちが、テレビカメラの用意された会議室へ去った。大洋チームが和やかにバッティング練習をしている。江藤が私の肩を抱き寄せるだけで、みんなうなだれている。
「どうしたもんやろなあ。……野球、やめんでくれや」
「やめませんよ。こんな楽しいもの」
 菱川が私の手を握って甲をさすった。中が、
「ホームランを打つの、やめようと思ってない?」
「やめようとは思ってませんが、打たないことで喜ぶ人が多ければやめます……」
「……巨人ファンは全員喜ぶだろうね。ドラゴンズチーム内にも、浜野みたいな巨人ファンがいたくらいだもの。あいつに毒づかれたのには驚いたろう。まあ、打たなければ喜ぶ人の数は多いよ。しかし、国民の七、八割は金太郎さんのホームランを望んでいるな。私たちドラゴンズのメンバーもね。安心して打ちなさい。……ホームランを打つためにせっかく天から降りてきたんだから」
 中はタオルで目頭を拭った。高木が、
「みんなで引き止めないと、月の世界へ戻っていっちゃうぞ」
 大洋が守備練習に入った。水原監督とコーチ陣が戻ってきた。水原監督は別当監督を手招きし、ホームベースのところにいって何やら話した。田宮コーチが、
「滞りなく会見が終わったよ。けっこういろんなことをしゃべってたぞ。川上はあしたから現場復帰。神無月選手の慰謝料拒否に関して、それにうなずくことは同選手に対してあまりにも不当な処遇と判断されるので、とうてい承諾できない。いずれかならず同選手に何らかの形で支払うという約束のもとに、ドラゴンズ球団本部に謝罪金として二億円を預け置く。暴漢に対する神無月選手の不起訴申請に関して、寛容の意を酌んで受諾したい。検察当局にその旨を伝えた。あすの午後にも拘束が解かれて釈放される模様である。保釈金は読売新聞社が支払う。理由は明白である。先回の脅迫少年の事件といい、今回の暴行未遂事件といい、引き金を引いたのは読売ジャイアンツ側であり、またこの殺伐とした現代おいて、神無月選手の打ち出す共存協和慈愛の精神はもはや夢物語ではなく、現実的に国民に有効に機能するものとして捉えられるべきだからである。その神無月郷をひたすらいじめ抜き、だれ一人何らの罰も受けなかったこれまでの一連の結果に対する感謝を、われわれはハラワタに沁みこませ、神性具有者とも考えられる神無月郷選手に今後いっさい干渉しないことを誓う。川上氏に謝罪の意思はあるようだが、あえて球団の命によって控えさせているのは、彼が謝罪した場合、先回、今回とつづいた凶悪な事件と類似の事件がまた神無月選手の身に起こるかもしれないという、ドラゴンズ球団側の危惧を考慮してのうえである。なお全国の巨人ファンに声を大にして警告させていただきたい。神無月いじめの状況がこの先もつづいた場合、読売新聞社経営の雲行きが怪しくなり、伝統ある巨人軍を手離すこともあり得るということである」
 だれも拍手しなかった。宇野ヘッドが、
「口だけだね。暴漢を防いだときのあの金太郎さんの身のこなしと、あっという間に捕り押さえた手際のよさは日本じゅうに知れわたった。球団社長の誓いや警告よりも効果絶大だ。もう襲ってこない」
 太田コーチが、
「とくにジャイアンツの選手には効果満点だろうね。金太郎さんの慈愛の精神は万人には浸透しにくい。人間は争いたい生きものだからね。人間の尊厳に関わる場所にいつも金太郎さんは立っているけれども、節穴の目にはなかなか見えない。ホームランとか、喧嘩の強さとか、目に見えるもののほうがショックだし、わかりやすい。喧嘩の強い人間にはだれも喧嘩を売らない。バッターボックスに立つだけでふるえあがることになる。あの録画ビデオは、金太郎さんをナメていた人間どもにはじつに効果的だった」


         七十八

 カールトンコーチが、
「神無月さん、カラティ、強いね。だれも知らなかったよ」
 太田が、
「あんなの序の口ですよ。周りに人がいなかったら、その男、死んでます。神無月さんには突っかからないにかぎるんです」
 水原監督が揚々とやってきて、パンパンと手を叩き、
「さあ、二十分ぐらい守備練をやってきてください。あと四十分で試合開始だよ。別当さんも心配していたから安心させてきた。川上がホームランに嫉妬しているせいで神無月くんのフォアボールは増えるだろうが、フォアボールは打率に好影響を与えるものとプラスの方向に考えて耐えてくださいと言ってたよ」
 私は守備練習に向かわずに、ロッカールームにいってソテツ弁当を広げた。鮭おにぎり二個とウインナー数本。五分で食い終え、走って守備についた。
 スタンドのざわめき。売り子の呼び声。看板広告、ネオン広告。ライトスタンドで赤と黒ツートンカラーの球団旗が揺れる。観客に種々の注意を促す下通の落ち着いた声。白制服のトンボがグランドを均す。
「本日は中日スタヂアムへご来場ありがとうございます。間もなく中日ドラゴンズ対大洋ホエールズ十回戦の開始でございます」
 ドラゴンズの先発は小野、キャッチャー木俣。一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番ライト菱川、七番サード島谷、八番ショート一枝、九番ピッチャー小野。島谷に当たりが出なければ太田に、菱川に当たりが出なければ江島に交代させる正規のオーダーだ。千原、伊藤竜、葛城、徳武、江藤省三は代打要員、新宅、吉沢は守備要員、日野はすでに二軍に戻されている。十七人の打撃陣に、小川、小野、田中勉、伊藤久敏、水谷寿伸、山中巽、若生和也の八人の投手陣が加わった二十五人のメンバーだ。板東は二軍で調整しているので、当分ベンチに入らない。浜野は巨人に去った。
 大洋ホエールズのスタメンは、一番セカンド近藤昭仁、二番ライト近藤和彦、三番サード松原、四番ファースト中塚。現在チーム唯一の三割打者だから? 安易な考えだ。五番キャッチャー伊藤勲、六番センター江尻、七番ショートロジャース、八番レフト重松、九番ピッチャー山下。
 球審平光(二軍審判経験なしのエリート。バット事件は気の毒をした)、塁審一塁(しゃがんでホームインを確認することで有名)丸山、二塁大里(気の弱そうなおとなしい人)、三塁(長嶋一塁ベース踏み忘れ事件の)竹元、線審ライト久保田(水原東映時代の土橋と並ぶエースで三十七年の初優勝に貢献した。同じ年に最優秀防御率も獲っている。四十一年に巨人にトレードされ、一勝一敗、翌年引退。八十勝五十八敗。引退してすぐ審判員になった。三十五歳で転身した二年目のピッカピカ新人)、レフト鈴木(元大洋ホエールズの選手。一軍出場なく翌年引退。目立たない人)。
「ビール、いかがすかァ!」
「アイスクリーム、いかがすかァ!」
 眼鏡をかけてネット裏を見ると、主人と菅野に並んで、見慣れない若者の顔がある。アイリスの店員だろう。大洋のメンバー発表。下通の潤った声がスタンドにこだまする。守備に散る。外野スタンドの最上段の看板ぎわを夕映えのオレンジが縁どり、それにつづく薄紫の空に濃い灰色の雲が絨毯のように敷かれている。バッテリーと内野手に明るい光線が当たる。外野手はひっそりと淡い光の中に隠れ住む。平光球審のプレイボール。
 一回表。小野の足もとのロジンバッグの白煙が目に涼しい。試合開始を喜ぶ慎ましい喚声。一番近藤昭仁、フルカウントから三振。二番近藤和彦、ツーワンから三振。ブンと速球がうなる感じだ。三番松原、ワンワンから私の前へゆるいバウンドのヒット。四番中塚、フルカウントから外角速球を見逃し三振。木俣がポンとマウンドにボールを放る。相変わらず小野の球数が多い。大股でベンチへ走り戻る。
「負けんなよ、金太郎!」
「足柄山! 力持ちィ!」
「きょうも打てよォ!」
 笛、太鼓、旗。ふだんと変わらない。何ごとも起こらなかったようだ。フィールドテレビカメラを脇に見て、ベンチに降りる。
「さ、利ちゃん、いこ!」
「きょうも、いこ!」
 三列しかない長椅子の最後列にコーチたちが座る。彼らの背後には鉄格子で覆ったアルミサッシの窓。その下の棚にヘルメットがずらりと並んでいる。江藤と並んで最前列に座る。ガムテープを巻いた太パイプに視界をじゃまされる。長方形のパイプ枠には金網が張られていて、打球防止になっている。一試合に一、二度、右バッターがカットしたファールボールがダッグアウト飛びこんでくる。
 バックネット下の放送席や記者席に灯りが点っている。両軍ベンチに居並ぶ顔。野球をするだけの男たちが在り処(か)を得てグランドを眺めている。
 一回裏。大洋の先発は山下律夫。一番、中。初球のシュートを流し打って三遊間のクリーンヒット。高木の二球目、中あたりまえのように二盗。三球目山下しつこくシュート。足もとへファール、ツーナッシング。四球目、落ちるシュートを空振り三振。
 江藤、グリップエンドに手のひらがかぶさるほどバットを長く持って、ゆったり構える。高木とちがってバットはからだからかなり離している。少し前屈みになり、左肩越しにピッチャーを睨み据える。いつ見ても美しい。初球の直球をファールチップ。平光球審のマスクに激しく当たる。平光はマスクを外して首を回した。だいじょうぶかと江藤が声をかける。片手を挙げてだいじょうぶという身振りをする。伊藤勲が、平光の首筋を叩いてやる。観客から和んだ笑いが上がる。伊藤勲はすでに十二本のホームランを打っている。四十本ペースだ。プロ野球の歴史が始まって以来、一度の例外もなく、ホームランペースは下降する。疲労の蓄積が主な理由だろう。人はどうしてもイーブンペースで行動することはできない。そして蓄積疲労はパフォーマンスを阻害する。一度蓄積してしまうと、連日のパフォーマンスの合間に除去するのは難しい。ケガをせず、一定のペースで押し切るのがいちばん効率がいい。貯金も借金も作らないということだ。ランニングも毎日やるのは逆効果だ。私のからだがそう教える。
 二球目、外角カーブ。またバックネットへファールチップ。ボールが思ったより切れているのだ。素振りを二回。ふたたび美しい構え。三球目、内角高目のシュートが胸もとを抉る。ボール。次は打つ。いつもの私の直観だ。四球目、目の高さから揺れて落ちるシンカーをきっちり捕まえた。するどい金属音。白球が高く舞い上がった。
「ウオォォォ!」
 喚声。私はネクストバッターズサークルから打球の行方を追った。
「大きい! 大きい! これはいったか! 入った、入った! ホームラァン! 江藤ツーランホームラーン!」
 実況放送の声が流れてくる。左翼上段の出入口に飛びこんだ。江藤は片手をこぶしにして突き上げ、からだを傾けながら一塁ベースを回る。長谷川コーチはタッチを忘れ、拍手しながら打球を見送った。二十六号ツーラン。いち早くホームベースに駆けつけて待つ。水原監督とタッチして回ってきた江藤と握手。抱擁。
「江藤選手、今季第二十六号のホームランでございます」
 江藤は難を逃れるように丸めた背中を叩かれながらベンチへ。私は帽子を尻ポケットにしまい、CにDが交差した額章をつけたヘルメットを深くかぶる。一瞬静まり、うなるような歓声が沸き上がる。
「金太郎!」
「神無月!」
「神さまァァ!」
 三塁ベンチ脇のカメラが私に正面から照準を当てる。大洋ベンチが固唾を飲んで見守っている。サイドスローの山下は弾むように踏み出して初球を投げこんできた。曲がりの大きいスライダーが膝もとを狙ってくる。ボールと判断したが、掬い上げやすいコースなので、わずかに右足をオープンに引いて振り抜いた。真芯。近藤和彦の右へ低いライナーが伸びていく。急速に曲がり落ちる。ライトポールの内側を直撃してスタンド前段へ撥ねた。ふたたび場内が一瞬静まり、歓声が沸騰した。
「天馬ァ!」
「大天才ィィ!」
 長谷川コーチが拍手し、きょうは一塁を守っている小柄な中塚が帽子を取った。近藤昭仁、ロジャース、松原の前を過ぎて、水原監督とハイタッチ。
「打って打って、打ちまくれ!」
「はい!」
 ホームベースに出迎えた次打者の木俣と田宮コーチと握手。黒帽子かぶった平光球審がホームベースのマウンド側に立ち、私の足もとを凝視する。
「神無月選手、六十四号のホームランでございます」
 江藤が抱擁してくる。菱川や太田、一枝たちと握手。バックネットにヘルメットを振る。熱い歓声が返ってくる。控えのチームメイトたちのいつものまじめな歓迎。ベンチ前のロータッチ。半田コーチのバヤリース。飲み干せない。菱川が奪い取り、最後の一滴まで飲み干して、ネクストバッターズサークルへ肩を揺すっていく。
 木俣、初球、ヘルメットをかするデッドボール。丸っこいからだがバットを握ったままマウンドへ向かいかけたが、とっさに帽子を脱いだ山下にうなずき、何ごともなかったかのように一塁へ走る。菱川胸もとのシュート。プチッとかすった音がした。岡田球審は聞き逃さず、デッドボールの宣告。菱川は残念そうに一塁に向かった。
 ここまで山下のストレートは、江藤に放った初球の一球のみ。しかし、大して速くもないストレート攻めに切り替えたら、めった打ちにされる。七番島谷。二重まぶたの目がどんよりとしているせいで、大きな鼻がますます大きく見える。三振の島谷―この先入観がチームメイトから払拭されないと、彼の一試合完全出場は望めない。初球のシュート、三塁線にファール。二球目、外角カーブ、空振り。木俣が二塁ベース上から島谷に向かって、しきりに高目を振る格好をして見せている。たしかにいまの島谷への配球から空振りを取ろうと思えば、三球目は高目に伸びる球がいちばん考えられる。真ん中か、内角のストレート。それほど速くはないとはいえ、多少浮いてくるので、ファールチップしないようにかぶせて芯を食わせなければいけない。
 三球目、やはり内角高目のストレート。ドラゴンズでいちばんダウンスイングの得意な島谷が、掬い上げるのではなく上から叩き下ろした。三遊間に強いゴロが飛んだ。ロジャースが横っ飛びに跳びついたが、どこにも投げられない。ふつうならゲッツーだ。木俣だったらホームランにできるボールをダウンスイングで内野安打にしてしまった。島谷は嘆くどころか、一塁ベース上でしたり顔をしている。水原監督は苦い顔だ。
 ワンアウト満塁。ホクロの一枝。鼻の左脇に大きなホクロがある。最初は見つめるのを遠慮していたが、慣れてしまうと彼特有の愛嬌に感じる。田淵ふうの左足を上げるバケツ打法でレベルスイングをする。十二球団最強の八番バッターだ。
 初球、内角シンカーを気のない空振り。ベンチのだれもがニヤリとする。江藤のヘルメット飛ばしと同様、一枝がよくやるピッチャーを油断させるためのフェイクだ。たいてい次のボールを生き返ったように強振する。二球目、外角スライダー、ドンピシャでガツン。
「よーし! 抜いた!」
 田宮コーチが叫んだ。糸を引くような打球が右中間を抜いていく。一枝は腿を高く引き上げて走る。
「回れ、回れ!」
 木俣ホームイン、菱川ホームイン。一枝、二塁を機関車のように回って、島谷がホームインする間に三塁へ華麗な滑りこみ。走者一掃の三塁打。中が、
「修ちゃん、今年初めての三塁打だな。けっこう足が速いや」
 高木が、
「スライディングが絶品だよ」
 ゼロ対六。ワンアウト三塁。ブルペンを飛び出してきた小野が、ボールボーイからバットを受け取るとそのままバッターボックスへ走っていった。ノッポの小野は半身を縮めながらけっこう慎重にボールを見て、三球目のローボールを打ち上げた。ライトへの浅いフライ。一枝は近藤和彦の捕球を見てタッチアップ。ツーバウンドのバックホーム。肩が弱い。クロスプレーにはならない。一枝はホームベースを駆け抜け、はしゃいでベンチ連中と連続のタッチ。ホクロが頼もしく見える。ゼロ対七。ツーアウトランナーなし。中、ツーツーから二球ファールで粘って、ライトライナー。チェンジ。
 二回表。伊藤勲、ワンスリーから二球空振りして三振。踏み出した左足の格好がいい。きょうは彼に打たれそうだ。江尻、初球外角高目をセンター前ヒット。芯叩きのダウンスイング。ロジャース、これも初球を一、二塁間へ抜けそうなゴロ。高木が飛びついて、一塁の江藤へトス。ぎりぎりアウト。江尻二塁へ。重松これまた初球の外角カーブをうまく打ってライト前ヒット。江尻生還。一点。山下そのまま打って、ツーナッシングから真ん中高目をセンター前ヒット。ほぼ病気。近藤昭仁、ツーツーからショートゴロで重松三塁封殺、チェンジ。一対七。
 二回裏、やはりピッチャー交代。平松に代わる。それなら代打を出さなかったのが解せない。一塁ベンチから見る平松のボールがやたらに速い。体重移動と腕のしなりは芸術的と言っていい。きょうは五打数一安打かもしれない。チームが負けることはないだろう。小野なら六点差を守り切れるはずだ。


         七十九

 先頭打者早打ちの高木、初球、山下で目を慣らしたシュートを強振。バットを折りながらレフト前にポテンヒット。よし。江藤、高目のストレートを二度空振りしたあと、内角低目のシュートを見逃し三振。サバサバした顔でベンチに戻ってくる。
 下通のアナウンスに重なり合うように金太郎コール。プライドの高いピッチャー平松政次。かならず内角で勝負してくる。内角低目か高目のストレートに照準を絞る。外角の小さいカーブは無視。予想してレフトへ押しこまないかぎり、ほとんどセカンドゴロになる。シュートは強く押しこんで振る。
 ボックスの前方、左隅近くに右足を固定する。胸もとが狭い。こうすれば内角を攻めてくるにちがいないし、たとえ外角のシュートを投げられても、ストライクならすべてバットが届く。左肩が早めに開いたらシュート。なるべく見逃そう。江藤がホームベースに散らした土を平光主審が小箒で掃いているあいだ、伊藤勲が話しかけてくる。
「昭和三十五年の夏の甲子園、一回戦で青森高校に負けたんです」
「え、青森高校の甲子園出場は昭和二十六年だけじゃないんですか」
「二十六年と三十五年の二回出てます。私は宮城の東北高校でした。青森高校は二回戦で埼玉の大宮高校に負けました」
「知らなかった。ぼくは四十年入学です」
「新聞で見ました。四年前からあなたを知ってます」
 穏やかなしゃべり方とヤクザっぽい細面が似合わないが、好感が持てた。
 初球、曲がりのいいシュートが外角を舐める。ストライク。もう一球きたら、強い当たりのファールを打つ。二球目、高木スルスルと盗塁。アッと気づいた平松はタイミングを狂わせ、外角ド高目にストレートがすっぽ抜ける。伊藤勲ジャンプして捕球。三球目、またシュートだ。腰を入れずに腕だけで思い切り叩く。レフト線へライナーのファール。あと三十センチでフェアだった。これでもうシュートは投げてこない……はずだ。インコースにヤマを張る。四球目、またもや外角シュート! 腰を入れて踏みこみ掬い上げる。レフトポールに向かって舞い上がる。爆発する喚声。平松はからだをよじって打球の行方を見やった。レフト線審の鈴木が、両手を揃えてポールの外側へ押し出す身振りをした。ファール。
「ホオォォォ―」
 喚声が萎んでいく。平松の目が妖怪のように光っている。まちがいなくもう一球シュートだ。シュートをぜったい打たれたくないのだ。思い切り踏みこむためにボックスの後方へ少し下がる。横滑りの激しいシュートを投げてくる……はずだ。五球目、なんと、膝もとの豪速球がきた。ゴルフスイングでジャストミート。ライト内野スタンド奥の通路へライナーのファール。歓声が大拍手に変わる。平松の頬が少し微笑するようにゆがんだが、目は光ったままだ。
 次に何がくるかまったくわからない。しかし次の球をかならず打つ。野球の現場にマニュアルは利かない。経験を重ねることで工夫が生まれ、それが身についた知恵になり、これまでできなかったことが少しずつできるようになる。ほんとうの答えは、瞬間瞬間の現場にしかない。麻雀のマニュアル本は読んだが、野球のそれは読んだことがない。マニュアルが利かないということを幼いころに肌で学んだからだ。経験と工夫。とりわけ人とちがった工夫。それによって直観が研ぎ澄まされる。
 六球目、きた! 外角低目にするどいシュート。バッターボックスの白線にスパイクが交差するほど踏みこみ、屁っぴり腰でレベルに強振する。いい具合に芯を食った。上昇していく。ワッ! と伊藤が叫び声を上げる。平松は打球を見ないでグローブを膝に叩きつけた。レフトの重松が一歩も動かない。打球が看板にぶち当たると同時に線審鈴木の右手が回った。長谷川コーチとタッチ。黙々とダイヤモンドを回る。歓声が背中を押す。ショートのロジャースが声をかけた。
「キャント・リジスト・リスペクティング・ユー!」
「サンキューー! イッツ・ア・グレイト・オナー」
 高木が水原監督とハイタッチ。私は三塁で歩を緩め、水原監督と両手でハイタッチ。
「屁っぴり腰おみごと! 目の覚めるライナーだった。見惚れた」
「ありがとうございます!」
 今度は揉みくちゃの歓迎。尻や背中やヘルメットを叩かれる。一枝のキス。下通の興奮したアナウンス。
「神無月選手、第六十五号のホームランでございます。六十二号より一本一本が世界記録となっております」
 バヤリース。夢うつつに一気に飲み干す。江藤が、
「逆方向の看板ぞ。一直線やった。ふとかホームランたい!」
 一対九。木俣、外角カーブを引っ張ってショートゴロ。菱川、内角低目のシュートを空振り三振。
 三回表。天びん担ぎの近藤和彦、一、二塁間を抜くぼてぼてのヒット。きのう名鑑を眺めていて、彼が百七十九センチ、七十九キロもあることにあらためて驚いた。彼はバッターボックスではバットを高く掲げ、ガニ股でからだを屈めている。小さく見えたのはそのせいだろう。
 松原、低いレフトライナー。私のところにラインドライブで飛んできた難しい打球をスライディングキャッチで処理する。中塚センター前クリーンヒット。打法が中に似ているが、中ほど動きに切れを感じない。一応臨時四番バッターの面目を施した。小野がアブナイ。凌ぎ切ってほしい。ワンアウト一、二塁。伊藤勲のセンターへ抜けそうなライナーを高木好捕。すぐ一枝へトス、飛び出していた近藤和彦にタッチしてアウト。チェンジ。これは凌いだとは言えない。
 三回裏。島谷ヘッドアップの空振り三振。彼はだれからも、何も学ばない。頑固な求道者だ。花開くときは大輪を咲かせるかもしれない。これだけ使われるにはどこか見どころがあるということだろう。一枝、外角ストレートを打ってセカンドライナー。小野三振。
 四回表。島谷に代わって太田がサードに入る。江尻流し打ってサードゴロ。太田溌溂と捕球し、鉄砲肩で送球する。宮中以来見慣れた投げ方だが、もちろん八年のあいだにかなり垢抜けた。ロジャース三振。打率一割台、ホームラン二本。私が五歳のときから野球をしてきた三十五歳のもと大リーガーは、年間十本もホームランを打てないロートルとして日本の観客の前に醜態をさらしている。もともと二割五分、年間五本のホームランをコンスタントに打つ程度の打者で、十一年間目立たずに大リーグ生活をしてきた。いまは黒いタコなどと呼ばれて日本の球団に重宝され、すでにホームラン二本。出世と言えるのかもしれない。それでもきっとさびしいだろう。私に賞賛の声をかけた調子がけっして明るいものではなく、心の萎れた晩年を感じさせた。重松三振。百六十六センチの中距離ヒッター。当たれば飛ぶスイングだ。固定レギュラーの迫力がある。
 四回裏。中、真ん中低目のカーブを叩いてライト前ヒット。高木、初球真ん中低目のストレートを打って高いバウンドのサードゴロ、中動けず、高木だけアウト。江藤ツーワンから内角シュートを打ってロジャースの前にゆるいショートゴロ、ロジャース走り出していた中の背中にグローブをかすらせそのまま一塁送球、ゲッツー。順調な二時間半ペースだ。
 五回表。平松、打ち気満々の三振。近藤昭仁サードゴロ。この有名な男のことがよくわからない。野球に関しては、燻し銀と呼ばれ、バントの名手ということぐらいしか知らない。プレイを見るかぎり、まったく特徴のない選手だ。女優の北沢典子の亭主だということは中学生のころから知っている。北沢典子は、小学校五年のときクマさんに連れていってもらった由利徹と南利明の『カックン超特急』という映画に出ていた。それで近藤昭仁という男が記憶に残った。早稲田時代には末次と同期だったらしいが、大学ではホームランを一本も打っていない。大洋にきてからは毎年五本程度打っている。高木と同じ背番号1、守備も同じセカンド。百六十八センチ。高木より一回り小さい。昭和三十五年に入団した年に、三原監督に率いられた大洋が球団創立以来の初優勝。そのときの日本シリーズで最優秀選手になっている。ついている。
 近藤和彦、胸の高さのストレートを打ってライトフライ。打つ瞬間に天びんが崩れ、ほかの強打者と変わらない美しいフォームになっていた。
 五回裏。私の打順だ。大歓声。もう耳障りではない。眼鏡を押し上げ、ヘルメットを深くかぶる。ヘルメットも煩わしく感じなくなった。
「イヨッ!」
「ヨーホ!」
「いきましょう!」
 水原監督のパン、パン。外野の照明塔が快適なまぶしさだ。鞭のようにしなやかな平松のからだがマウンドからホームベースに向かってなだらかに倒れこむ。初球、ストレートがかなり浮き上がってくる。胸の高さ。ストライク。
「さー、いった!」
「ウホホーイ!」
「もう一発!」
 二球目、同じ高さにストレート。ロゴの上の高さだ。平光球審がきょうは高目をとるので、たちまちツーストライクになった。
「なんじゃ、コラー!」
 審判に対する森下コーチの野次だ。直観。もう一球くる。同じストレートか、ストレートを高目から曲げてくる。ボックスの前に出る。右肘を引いて左掌押し出し。少年たちの前でやって見せたスイングだ。三球目、平松の左肩が開かないので、シュートではない。真ん中高目のストレート。強振。下を叩きすぎた。こすって高いセンターフライ。完敗。一塁ベースから勢いよく引き返す。
「ドンマイ、ドンマーイ!」
 平松を見やると、蒼白の顔をしていた。
 木俣、シュートをこね打ちしてショートゴロ。菱川、カーブにのめってセカンドライナー。二人とも芯に当てられない。平松のピッチングがほとんど完璧になってきた。
 六回表。松原ライト前ヒット。身のこなしがカクカクしているが、バットがよくボールに届く。見た目より意外とからだが柔らかいのかもしれない。中塚三振。やっぱりなァ。四番はこの一戦だけの試し使いだ。小さくてゴツイ体格のこの男は七番ぐらいが似合っている。五番伊藤勲、真ん中低目のストレートを豪快なスイングでレフト中段へ十三号ツーラン。やっぱりなァ。フォロースルーがじつに美しい。大柄なからだが、ボールを遠くへ飛ばす感覚を体得しているようだ。三対九。
 打ち取っても打たれても、小野は坦々と一定のペースで投げる。六番江尻亮(あきら)。ピッチャー上がりの早稲田出。この男は息の長い中堅バッターになるだろう。ボールに逆らわずやさしく捕まえる。私のバッティング練習中にケージに近づいてきて、
「あなたは短い詩を新聞に書かれてますね。大の読書家だとも聞きました。私もよく本を読みます。ヴェルレーヌを愛読してます。短歌も俳句も少し齧ってます。私の参加している同人誌に発表していただけませんか」
「遠慮します。発表の意思がないのであしからず。東奥日報という新聞に渡した詩は、その社の記者に知り合いがいて、彼が記事を書く上でエピグラフとして利用したいと言うので了承しただけです。発表という大げさなものではありません」
 と応えた。江尻セカンドゴロ。重松、私の前にワンバウンドのヒット。平松、またも打ち気満々の三振。きょうは一本いくかも。
 六回裏。太田、ノーワンから内角高目のストレートを打ってレフトオーバーの二塁打。軽いレベルスイングでもっていった。島谷はこうは打てない。一枝、外角ストレートに喰らいついて高いバウンドのファーストゴロ。チームバッティングだ。太田が進塁してワンアウト三塁。小野センターフライ。タッチアップで太田還って、三対十。きょうの小野は犠打で打点二の活躍だ。
 中、真ん中低目のカーブを打って、ライト中段へライナーの七号ソロ。彼のホームランは芸術品だ。低く銀の糸を引くようにスタンドに突き刺さる。照れくさそうに水原監督とハイタッチ。手荒い歓迎。三対十一。
「半田コーチ、私もバヤリース!」
「はい、大盛り」
 わけのわからないことを言う。ツーアウトランナーなし。高木ノーツーから三球目のインハイのストレートを左中間へ痛打。これも芸術品。江藤キャッチャーフライ。エッホ、エッホと言ってベンチに戻る。私も太田からヒョイと投げられたグローブを受け取り、ネクストバッターズサークルから走って守備についた。中と菱川と私でのんびり三点キャッチボール。トンボの整備が入り、五分ほど観客席がくつろぐ。売り子の声が高らかに聞こえる。
 七回表。近藤昭仁の代打ジョンソン(黒人の中背の左バッター。初めて見た。一年かぎりの助っ人の雰囲気を漂わせている)、内角のクソボールに詰まってショートフライ。やっぱりなァ。近藤和彦、デッドボールすれすれのフォアボール。小野きょう初のフォアボールだ。松原、小野の落差のあるカーブをこすって高いセンターフライ。中塚高目ストレートをチップ三振。
 七回裏。きょう四回目の打席だ。ノーアウトの敬遠はないことを心頼みにバッターボックスに入る。伊藤が中腰になり、
「精いっぱい追い上げるつもりなので、失礼します!」
 明らかな敬遠の形ではないが、平松はバットの届かない外角高目にスピードボールを二球つづけた。ノーツー。さっきストレート勝負で私をねじ伏せたばかりなのに、どういう気分なのか。二打席目のホームランを思い出して尻尾を巻いたのか。平松の目の光が消えている。野次が激しくなった。別当監督が訝しげにベンチ前に立つ。彼にもこの敬遠は意外のようだ。
 三球目、同じコースへうなるような速球が投じられる。私は打つ気のない感じで、バットを肩に担いだまま見逃した。手を伸ばせばなんとか届くという距離ではない。ノースリー。次の敬遠球を狙うと決めた。ランナーを溜める必要がないので、ヒットではなくホームランを狙う。顔よりも高い位置を打つには、木俣をまねて刀を振るようにすればいいだろう。


         八十

 とつぜんタイムがかかり、別当監督が平松のところへ走っていく。伊藤勲も岡田球審も走っていく。水原監督も私のところへ走ってきた。
「ぜんぶ空振りでいいから振りなさい」
「ホームランを打つつもりでした」
「それならもっといいね。とにかく振りなさい。三振でいい。ファンは金太郎さんのスイングを観にきているんだよ」
「はい!」
 話し合いにどういう決着がついたのか、別当監督がゆっくり戻っていく。
 四球目、さらに遠く外した。爪先立って大根切りで思い切り空振りする。ボール二個届かなかった。内外野のスタンドがどよめいた。これ以上遠くするにはキャッチャーがボックスを外さねばならない。そうなるとキャッチャーはボークをとられるが、進塁を与えられるランナーがいないので、私の出塁が指示されるだけだ。もともと私を塁に出す策だったのだから、バッテリーにとっては痛くも痒くもない。伊藤はキャッチャーボックスの外へ飛び出すかもしれない。
 五球目、伊藤が飛び上がった。私もボックスを外さないように飛び上がって空振り。ボールは伊藤のミットの先を越えてバックネットにぶつかった。ツースリー。伊藤勲が、
「神無月さん、三振する気ですか」
「いや、打つつもりです。どうにか当てようとしてるんです」
「当たりっこないですよ」
「観客はこの瞬間しか観られない個人同士の対決を観にきてるんです。チームの勝ち負けなんか、あしたの新聞で確認できますからね。一打席ごとの対決で結果を出すのは、ピッチャーとバッターの宿命です。恐れても仕方がない。さっきはぼくをセンターフライに打ち取ったじゃないですか。こんなに点差が開いている状況で、敬遠は無意味です。たとえこのまま三振しても、無意味なことに敗北したぼくの誇りは傷つきません。平松さんの誇りは傷つきますよ」
 伊藤は、タイム! と大声で言って、マウンドへ走っていった。何かしきりに平松に話しかける。平松は何度も激しくうなずいた。ひっきりなしにフラッシュが光る。戻ってきた伊藤は、
「勝負します。打てるものなら打ってみてください!」
「はい!」
 平松の目に光が戻っている。私は水原監督に手を挙げた。彼は、ポンポンと拍手を返した。私はベンチを振り返って手を挙げた。いっせいに拍手が返ってきた。平松は大きく振りかぶり、渾身の力をこめて、真ん中から外角へ流れるシュートを投げこんだ。素直なフォームで打ち抜いた。
「ウオオオー!」
「抜けろォォ!」
「いっちゃえー!」
 低い弾道で右中間へ伸びていく。江尻と近藤和彦が猛烈なスピードで走り寄って簗(やな)を狭め、同時に飛びついた。交差した二人が立ち上がり、ヴェルレーヌの江尻がグローブを差し上げた。右翼線審の久保田が真っすぐ右手を突き上げてアウトのコールをする。激しいフラッシュのきらめき。観客が総立ちになり惜しみない拍手を送る。ベンチに戻ってからもしばらく喚声と拍手がやまなかった。徳武が、
「いやあ、すごかった、感動した!」
 五人も六人も握手を求めてくる。半田コーチが、
「私、ふるえたよ、生れて初めてよ」
 宇野ヘッドが、
「毎日毎日ドラマだな。人生やめられん!」
「五番、キャッチャー、木俣」
 下通のアナウンスの喉が詰まっていた。田宮コーチが木俣に、
「こっからの平松は打てんぞ。やられてこい!」
「へーい」
 実際、木俣は三球三振だった。一球もかすらなかった。菱川の代打江島、高目の速球にバットを止めてピッチャーゴロ。
 八回の表。伊藤勲、力強いフォロースルーで右中間を抜いた。スタンディングダブル。ピッチャー交代。マウンドを降りる小野に暖かい拍手が送られる。顔の四角い松本忍が出てきた。私は中と遠く視線を交わし合った。ゆるいスライダーとフォークだけのサウスポーなのだ。フォークもあまり落ちない。中が叫んだ。
「忙しくなるよ!」
「オーライ!」
 眼鏡をしっかり固定する。江尻が打席に入った。初球をやさしいスイングで右中間へ打ち返す。速い球足で抜けた。中、快足を飛ばしてフェンスに滑りこみ、クッションボールをみごとな手際で処理して二塁で刺殺しようとする。セーフ。伊藤欣喜して生還。四対十一。大男のロジャース、初球、レフトポールをはるかに切れる大ファール。場外へ飛び出した。二球目、一転して流し打ちに変え、一塁線を抜いた。江島、ファールラインぎわで抑えて二塁送球。ロジャース、ドスンと滑りこんでセーフ。江尻、風のように生還。三連続二塁打。五対十一。伊藤の宣言した〈精いっぱいの追い上げ〉が始まった。重松フォアボール。ノーアウト一、二塁。
 平松の強靭そうな細身がバッターボックスに立つ。初球、空振り。すばらしいスイングだ。巨人の堀内に匹敵する。ナメてはいけないぞ。と思ったとたんに、私に向かって大飛球が打ち上がった。打球に勢いがある。これは入る。数歩走って、追うのをやめた。すごい勢いで中段に飛びこんだ。人垣が素早く割れた。
「平松選手、今季第一号ホームランでございます」
 スリーラン。八対十一。勝負の行方がわからなくなってきた。ピッチャー交代。松本は五点取られた。彼を試運転させる必要があったのかどうか。たぶん今季出場はこれ一回かぎりだろう。
 まだノーアウト。ベンチにもブルペンにもいなかった田中勉が出てきた。最近の彼はどこにいるのか見当がつかない。控室でひっそり考えごとをしている図が浮かぶ。それから、ときどき廊下でひそひそ話をしている柄の悪い男の姿も浮かぶ。
 近藤昭仁の代打のジョンソンに代わって関根がセカンドに入っていたので、田中勉はこのラクな男から料理にかかることになる。ラクな男ではなかった。二球目のストレートをパカーンと左中間に打たれた。二塁打。重松のフォアボールを挟んで六連打。何ごとが起きたのかという感じだ。水原監督が微笑みながらピッチャー交代を告げる。田中はたった二球で降板。ときどきブルペンでキャッチボールをしていた小川が、ひょいひょい跳びはねながらマウンドに登った。三球だけ投球練習して、オッケーと叫ぶ。肩のでき上がりの早いピッチャーは守備陣にとてつもない安心感を与える。
 近藤和彦をツーナッシングからスローカーブでセカンドフライ、松原は初球のスローストレートをセンターへ大飛球、中塚をツーナッシングから内角速球でどん詰まりのショートゴロ。七球で始末した。
 八回の裏。一枝、センター前の小飛球。江尻スライディングキャッチ。小川一球も振らず見逃し三振。中、初球をピッチャーライナー。
 九回の表。伊藤勲、高目の速球に詰まってピッチャーフライ、江尻内角スライダーを打ち損なってファーストゴロ、百九十センチのロジャース、ツーナッシングから外角カーブによろめいて空振り三振。ゲームセット。報道陣がグランドに雪崩れこむ。平松と伊藤が私のもとに走ってきて、最敬礼した。平松が、
「ありがとう、神無月くん、目が覚めた。結果はどうあれ、男は勝負しなくちゃいけないということをしっかり頭に叩きこんだ。まだ二勝しかしてないけど、これからは勝ちつづけるよ」
「がんばってください」
 伊藤が、
「試合前にたいへんなことがあったと、さっき聞きました。もめごとばかりで、同情します。そんなそぶりをおくびにも出さずに、平然と野球に打ちこんでる姿に潔いものを感じました。あなたと同じプロ野球人であることを誇りに思いながら、私も努力を重ねていこうと思います。これからも闘うときは精いっぱいぶつからせていただきます。……それから、一ファンとして言わせてください。あなたを尊敬しています、そしていつも応援しています。百本、五百本、千本、ホームランを打ちつづけてください。じゃ失礼します」
 平松も真剣な表情で、
「失礼します」
 彼らが礼をして去ると、三十人に余る報道記者に取り囲まれた。江藤や菱川たちレギュラーが壁になるように、私の前面に立った。水原監督とコーチたちは私の背後に立った。
         †
 北村席に向かう車の中で、
「江藤のツーランから始まって、平松が敬遠をやめて、一転して勝負に切り替わるまでドラマの連続で息継ぐ暇がありませんでした。まだ感動が醒めません」
 学生ふうのアイリスの店員が言う。
「あなたは学生ですか?」
「はい、名大理工学部三年、大坪といいます」
 菅野が、
「あのセンターライナーがクライマックスでした。泣きました」
「ワシも泣いた。お客さん、みんな泣いとったわ。男と男の真剣勝負を見れたんやからな」
 菅野がハンドルを大事そうに操りながら、
「平松もよく決意しましたね。彼の今後を決める一球でしたよ。神無月さんの全力の空振りに胸打たれたんですね」
「ホームランを狙ってたんだけど、ボール二つ届かなかった」
「二つって……敬遠ボールには届きませんよ」
「敬遠にかぎらず、ボールはバットが届かないかぎり打てないね。長嶋の敬遠のときみたいにすぐそばに投げてくれれば打てるけど」
 主人が、
「はあ、昭和三十五年の七月、やっぱり大洋戦でしたね。二対二の同点の五回、ツーアウト、ランナー二塁。大洋のピッチャーは鈴木隆、キャッチャー土井。大根切り、レフトオーバー、沖山だったか近藤和彦だったかが転倒して、ランニングホームラン。それが決勝点で、巨人が四対二で勝ちました」
 私が、
「ランニングホームラン? ちゃんとスタンド入りしたホームランでしたよ。大洋戦じゃなかったと思うけど」
 菅野が、
「ああ、スタンド入りはその年の開幕戦ですね。国鉄戦。長嶋は敬遠ボールを二度ホームランしてますから。金田が一回に四点取られて降板して、村田元一が出てきた。五回に長嶋を敬遠しようとして、ツーランを打たれた」
「それです。こうやって打ったんだと、大根切りの格好をして笑いながらホームインしてきました」
 主人が、
「そうでした、そうでした。……神無月さんはとぼけて話そうとせんけど、いま神無月さんを待っとるあいだ、ラジオで暴漢騒ぎのことばかり放送しとりましたよ。駐車場で降りてからそんな恐ろしいことがあったんですな。ワシらばかりでなく、お客さんのほとんどが知らんかったと思いますよ。いやはや、どこまでつづくヌカルミぞですが、しかし、これできれいサッパリ終わりでしょう。神無月さんの半端でない強さにビックリしたやろうし、理非曲直がどこにあるかもわかったやろう。神無月さんに何もかも許されれば、いくら鈍感なやつでもわかりますよ。許されるほうに非があるに決まっとりますからね。侮辱を許し、脅迫を許し、暴行現行犯まで許した。検察が戸惑ってるらしいです。神無月さんには何をしても許されると知るのは、考える頭のある人間にとっては恐ろしいことです。許す人間をいい気になって痛めつけてきた自分の醜さを思い知るからですよ。つくづく後悔して、もっとやってやれという邪心は消えてしまって、申しわけないことをしたという気持ちになるでしょうな。……すばらしい。ワシは神無月さんに命を捧げますよ。もういくばくもないですが」
 菅野が、
「社長、まだ五十六でしょうが。二、三十年でもう一つ人生を生きられます。……あの空振りは神無月さんそのものでした。臆病の卑怯さ、と神無月さんはよく言いますが、それを戒める強烈なアッパーカットでした。あのまま振ってれば、まちがいなく神無月さんは三振するわけですよ。平松が卑怯なやり方で勝ち、神無月さんが正々堂々としたやり方で負ける。それを見て考えないやつは馬鹿ですよ」
 大坪が、
「あの敬遠のとき、伊藤が神無月さんに何か話しかけてましたが、憎まれ口でも叩いたんですか?」
「いや、三振する気ですか、と訊いたので、こんな点差が開いているゲームで敬遠しても無意味だ、無意味なことに敗北してもぼくの誇りは傷つかない、平松は傷つくだろう、と言ったら伊藤は平松のところへ飛んでいきました」
 主人が、
「ガーンときたんでしょう。野球とか、チームの勝敗とかを忘れて、人間のあり方に気づいたんですな」
 大坪が、
「感激です! 野球のすごさに隠れてしまって、神無月さんのほんとうのすごさは見えない。お会いできたことを光栄に思います」
 笹島の交差点を曲がる。菅野が、
「大坪くん、太閤通一丁目だったかな」
「あ、はい、ここでけっこうです。きょうはほんとにありがとうございました」
 大坪は車から降りて深々とお辞儀をした。主人が助手席の窓から、
「また、あしたからがんばってや。和子を助けたって」
「それはあべこべです。助けられているのはぼくたちのほうです。きょうはほんとにすばらしい一日でした。今度は、父母や弟と球場へ出かけようと思います。神無月さん、野球はもちろん、あなたという人間をいつまでも応援しつづけます。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」


         八十一

 十時半を回っていた。門前にバンが何台も停まり、サーチライトが明るくあたりを照らしている。クラウンを降りると、何十人も報道記者たちがビデオを抱えて肩をぶつけるようにくっついてきた。マイクを突き出し、
「刃物を突きつけられたときはどんなお気持ちでしたか」
「すばらしい護身の技でしたが、柔道か空手をおやりですか」
「バッターボックスで気持ちは乱れませんでしたか」
「保釈を申請したそうですが、犯人を憎いと思わないんですか」
「川上監督に謝罪を望みますか」
「ええい、うるさい! 憎いと思うのはむこうだろ。だからいろいろ仕掛けてくるんじゃないか。そんな気持ちをぼくは処理できないよ。勝手にさせとくだけだ。殺されれば法律が裁く。実害がなければぼくが放免する。あたりまえだ。憎しみに満ちた人間とそれ以上関わり合いになりたくないからね。遠くで憎んでいる分にはぼくは一向にかまわない。謝りたくない人間に謝らせることは、大木を引っこ抜くより難しい。そんな実現不可能な難しいことをするくらいなら、楽しい野球に没頭してるほうがマシだ。とにかく野球をやる時間を奪われないよう、あなたたちも祈っていてください。おしまい!」
 松葉会の組員たちが報道陣を手荒く道へ押し戻した。私たちは門内へ逃げこんだ。玄関の式台に女将が走り出てきた。
「よかったわあ、無事で! どこもケガしとらん?」
「はい、どこも。ご心配かけました」
 トモヨさんが泣きながら抱きついた。一家の女たちが二十人ばかりぞろぞろ出迎えた。カズちゃんも睦子たちもいた。千佳子が、
「ぜんぶビデオに撮られてました。刃渡り二十センチのナイフですって。男の手とお腹を蹴ったのは松葉会の人ですね」
「だろうね。さすがだった」
 睦子が、
「神無月さんは合気道をやるんですね」
「やらないよ。康男の見よう見まね。あんなことしたのも初めてだ」
 カズちゃんが、
「生まれつき喧嘩が強いだけよ。読売新聞の全面的な謝罪のおかげで、キョウちゃんはもうだれからも狙われなくなるわ。刃物をふるった人が、キョウちゃんの申請であしたの午後には釈放だもの、悪意を持ってる人たちも驚いて自粛するでしょう。中署の記者会見で、本来現行犯逮捕された暴行犯は拘留期間中には釈放できないけれども、今回は神無月氏より強い要望があり、初犯ということも考慮して釈放を決定したと言ってたから」
 主人が、
「ラジオでそう言っとったな。ただし半年間の追跡監視体制をとるらしいぞ。ほかにもいろいろ言っとった。神無月氏の身辺の警護を厳重にする、今後凶器を持って氏に危害を加えた場合、現行犯として射殺することもあり得る、今回について言えば、もし犯人が神無月氏によって取り押さえられていなかったら、その最悪の事態が予測された。神無月氏はその意味で、犯人の命を救ったということになる」
「どこから見ても彼は殺し屋じゃないですよ。射殺はひどい」
 トモヨさんがようやく私から離れ、
「お夜食、お夜食」
 と言いながら台所へ去った。トモヨさんとイネとソテツたちが、帰宅した男三人にホウレンソウと蒲鉾だけを載せたきしめんを出した。
「ああ、うまいなあ! きょうは風呂に入りたくないぐらい疲れた。このまま座敷で寝かせてもらいます」
 イネとソテツが、すぐに座敷に蒲団を敷いた。私はきしめんを食い終わるとすぐ、パンツ一枚になって蒲団にもぐりこんだ。その蒲団を剥いで、トモヨさんが湿らせたタオルで全身を拭いた。睦子と千佳子も手伝った。
「汗だけは取っておかないと、風邪をひいてしまいます」
 一家の会話はつづいた。主人が、
「川上の復帰は、三十一日後楽園のアトムズ戦からやそうや。神無月さんの身の安全を考えてのことやろが、口惜しいなあ。今回の事件はみんなあの男から出たものやないか。ついていく選手も選手や。いくら給料を巨人軍からもらっとるゆうても、恥ずかしくないんやろか。だれもコメントせんな」
 メイ子が、
「恥ずかしくないんだと思います。選手のみなさんは、川上監督と同じような体質と気質の持ち主だから、巨人軍にいったんじゃないでしょうか。明石キャンプで神無月さんをいじめた浜野選手は、この騒ぎの最中にあえて巨人軍に移籍したわけだし、そういう人たちが集まってると考えれば、何の不思議もありません。コメントなんかする人はいませんよ」
 素子が、
「慰謝料なんておかしいんとちゃう? キョウちゃんが受け取らん言っとるのに、ドラゴンズに預けるなんて」
 カズちゃんが、
「世間向けよ。こんなに反省してますって態度を見せるの。世間の人ってお金が良心だと思ってるから、それで帳消しになったと思うわけ。小山オーナーはあくまでも拒否したそうよ。神無月郷の受けた傷は金で治癒しない、無干渉でのみ治癒する、その金は川上さんに与えて、これ以上神無月に干渉しないという言質を取るよう要求する。神無月に干渉したことでもたらされたその利得によって、どれほど神無月郷が平安を望んでいるかを痛切に噛みしめてほしい。そのうえでなお神無月の人格が苛立たしいなら、プロ野球界を去るべきである―すばらしい人ね」
 菅野が、
「こうも言ってますよ。浜野の移籍料はいらない、惜しい選手ではないので。ただ、ドラフトを通していったん引き受けた選手に対する責任はキッチリ果たしたいので、その受け取らなかった移籍料で浜野の年俸を維持してほしい。びっくりしましたね。金銭トレードじゃなかったんですよ。ただでくれてやったんです。すべて神無月さんの環境を静かにするためです」
 みんなそれぞれの思いの丈の範囲で、私を守る人びとの気概に感動しているようだった。私を守るために有為の人びとが四苦八苦している。私のような特殊な感覚を持った人間にだけ意味を持たせて保護するのは、大勢の人びとが足並を揃えて暮らす社会では、どこかに無理が出る。だれかを傷つけて折り合いをつける〈安らぎ〉のあり方は、私の感覚にはそぐわない。まちがっていると囁く声がする。すべて私の、面倒を嫌う怠惰な性格を守るためだからだ。
 人間の才能を考えることによって、その個人に人格という勲章を与えようとする試みは無意味だ。ある才能を作ったのが、出生の秘密であろうと、特異な経験であろうと、愛読書であろうと、幸運な天賦であろうと、そんなことはどうでもいい。大事なのは、その人間がいまこの瞬間に万人に感動を与え、感動によって人を活動へと駆り立てるものかどうかということだ。もし、彼の才能に感動しながらみずから積極的な活動に駆り立てられることがなく、自己の類似点に投影してそれ以上を望まず自己満足に浸る機会を与えるだけのものなら、もはや彼の才能は人格とは無縁のものだ。真の人格者とは万人の徳義心を強め、万人を愚直で正しい行動に導くようにいっそう努力する人間のことだ。それ以外の人間は人格者と呼ばない。私には才能があるだけで、人格はない。才能が人格であろうはずがない。私の目的は静謐の中に生き延びるという自己中心的なもので、自分の存在を輻射して外に影響を与えることではない。そういう私の〈才能〉を人びとがさまざまな目的に利用することができるとは思案のほかだ。
 カズちゃんが枕もとにきた。
「そのうち静かになるからね。面倒くさかったら、しばらく野球を休んでいいのよ」
「面倒くさくない。野球に胸躍らなくなったら、休む前に、やめる」
「……キョウちゃんを守ることはみんなの真心よ。疑わないで受けてあげてね」
「うん。疑ってない。みんな幸福なら言うことはないよ」
 眠い。もう起きていられない……。
         †
 目覚めると、脇に床をとって睦子と千佳子が寝ている。心配だったのだろう。やさしい女たちだ。いつも感動するのは私のほうだ。柱時計は朝の六時半。睦子が目を開き、微笑む。
「おはようございます」
「おはよう」
 千佳子が目覚めた。
「神無月くん、おはよう。よく眠れた?」
「死んだように眠った」
 主人の声が居間から聞こえてきた。
「イネ、新聞頼む!」
 トモヨさんがやってくる。
「お風呂、どうぞ。千佳ちゃんとムッちゃんも」
「私たちはきのうの夜入りましたからいいです」
「もう直人起きてる?」
「はい。台所で幣原さんにまとわりついてます」
「相変わらず早起きだな。いっしょに入るか」
「わあ、喜びます。下着とジャージ置いておきますね」
「うん」
 睦子と千佳子は服をつけて台所へいき、直人を連れてきた。
「おとうちゃん、おふろ、いっしょ?」
「うん、いっしょ」
「チカちゃんも、ムッちゃんも、いっしょ」
 二人はうれしそうに、
「アイアイサー」
 直人も、
「アイアイシャー」
 睦子が直人を抱いて湯船に入り、千佳子が私のからだを洗った。交代で私と千佳子が湯船に浸かり、睦子が直人のからだを洗った。
「直人はどんなテレビが好き?」
「パーマン、ウルトラセブン、コメットさん」
 どれも知らなかった。
「おもちゃはどんなのがほしい?」
「ウルトラセブン」
 風呂に入れて戦わせるつもりだろう。睦子が、
「お風呂は親子の大切な会話の場ですね」
「親子で裸の付き合いができるのは風呂だけだからね」
 直人が睦子の胸にしゃぼんを塗りつけている。睦子はニコニコ笑ってさせるままにしている。千佳子が、
「毎日お昼近くに、ロンパールームという番組やってなかった? 五、六年生のころ」
「やってた。みどり先生。にこちゃんと、こまったちゃん」
 睦子は直人の頭にシャンプーハットをかぶせ、泡立てて髪を二束立てる。鏡に向かわせ、
「なーんだ?」
「てつわんアトム!」
 ひとしきりみんなで笑う。全員で湯船に浸かる。
「昭和四十四年、五月二十九日、木曜日、晴。二十歳になって二十四日も生きた」
 風呂の窓を開けて清新な緑を眺めながら、口に出して言ってみる。
「ところで二人の誕生日は何月何日?」
 木谷が、
「十二月二十日」
 睦子は、
「私は六月七日。あと九日で二十歳です」
 六月七日? ミヨちゃんと同じだ。千佳子が、
「私はあと七カ月。誕生日を知ってどうするんですか?」
「どうもしない。自分がゾロ目だから、なんだか訊いてみたくなるんだ。カズちゃんが三月三日、素子が一月一日、キクエが九月九日、トモヨさんが十一月十一日」
 睦子が、
「星占いの雑知識ですけど、ゾロ目って縁起がいいって言われてるんですよ。一一のゾロ目は旅立ちのを意味していて、困難な状況が解決することの示唆。素子さんやトモヨさんですね。三三はあの世の賢人からの助けを意味していて、生きていくアイデアに恵まれることの示唆。頭のいい和子さん。五五は人生の大変革を意味していて、幸運を呼びこむことの示唆。これは郷さん。九九は聖なる使命を意味していて、やり甲斐のある仕事に恵まれることの示唆。キクエさんですね」
「おもしろい!」
温まったからだで湯殿に出て、脱衣場に幣原を呼んで直人を預け、私は自分の頭に石鹸を立てる。睦子たちも髪を洗う。キッコが顔を覗かせ、
「こら、いつまでお風呂に入ってんねん。コーヒーはいったわあ。旦那さんたち待ってんで。もう七時半や。お嬢さんや素ちゃんたちもきてんで。千佳ちゃんとムッちゃんもそろそろ上がりなはれ」
「はーい」




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