八十八

 ハイエースで堂々と門前を出る。報道陣はまったく姿を消してしまった。世間の耳目を騒がせた一件が理想的な落着の仕方をしたようだ。マスコミにとっては、私が騒ぎ立てることがいちばん痛快な展開だったにちがいないが、そうでないかぎり、もう何の興味もない。
 名駅通を下広井町から名駅南三丁目に出る。水主(かこ)町から大須通へ入り、堀川を渡り、西大須から伏見通をひた走る。
「国道19号から国道1号に入ります」
 見慣れた熱田神宮南の交差点まで二十分。内田橋のほうへいかずに伝馬町へ左折する。伝馬町につながるこの国道一号線は、昭和三十年代後半に幅広く新しく敷き替えられたのを、中学生のころからめずらしい気持ちで眺めてきた直線路だが、交差点を真っすぐ横断して乗り入れるのは初めてのことだった。閑散とビルが建ち並ぶ道を走る。民家はほとんど見えない。東海道本線の高架をくぐる。
「長く熱田区で暮らして、この道は伝馬町のほうから眺めただけで、一度も通ったことがない。工場ばかりなんだね」
 天童が、
「国道一号線て標示にありました」
 菅野が、
「うん、東海道」
「私、こんな長距離のドライブ、生れて初めてです」
「天童ちゃんは、クニどこだっけ」
「山梨県の笛吹市です。きれいなところです。桃と葡萄が日本一。笛吹川の岸辺の石和(いさわ)という町の農家で育ちました。近所に石和温泉があります。石和中学校にかよいました。山と畑に囲まれた中学校です」
「長女?」
「はい。そこを卒業してから、集団就職でトヨタ自動車に入りました。昭和二十四年、神無月さんの生まれた年です」
「十五歳か」
「はい……四人兄弟の長女ですから、仕送りしなくちゃいけなかったので」
 千佳子が、
「戦後の農家ってたいへんだったんでしょう? でも、この仕事してなかったら、神無月くんに遇えなかったわね」
「はい、運命に感謝してます」
 睦子が、
「笛吹川って、きれいな名前」
「土地に笛吹き権三郎という民話があって、川音が彼の吹く竹笛のように聞こえるというので、そういう名前になったということです。鮎が名産です」
 私は、
「深沢七郎の原作で、高峰秀子が主演した映画にもなってるね。十年も前かな。観たことないけど。四歳のとき、野辺地のじっちゃのラジオで聴いた笛吹童子を思い出すな。ヒャラーリ、ヒャラレッロ」
 菅野が、
「笛吹川とは関係ないようですよ。映画は東千代之介と中村錦之助と高千穂ひづるでしたね。千代之介は武士になり、笛の名手の錦之介は面作りになる」
「笛吹童子は錦之介だったのか。逆に記憶してた」
 松田橋を渡り切って右折して、二車線の道をひたすら進み、なつかしい笠寺球場のある笠寺を過ぎ、十分ほど直進。星崎一丁目の交差点。さらに十分走って、長坂南に着く。名古屋市緑区。かつては鳴海と言っていたあたりだ。左折する。古風な町並になる。
「もうこのへんはぜんぶ有松ですよ」
 菅野が言う。商人屋敷のような板塀が延々とつづく。《有松絞り》の看板。菱井桁の紋章を染め出した暖簾。この模様の浴衣は野辺地でも見たことがある。すべてが有松絞りの製品販売店だ。
 車を駐車場に停め、有松鳴海絞会館と看板の出ている一軒の大店に入る。歴史的な説明が書いてある玄関の壁書きは読まない。読まなくても人が読んでくれる。睦子が、
「古い町なんですね。絞りの開発者の竹田庄九郎という人の手で一六○八年にできた町ですって。尾張藩が特産品として保護したのね。そういえば、北斎や広重の浮世絵にも鳴海宿が描かれてます。絵の下に名産有松絞りと書きこんであったわ」
 菅野が、
「ふうん、この町並はそんなに古いのか。ん? 名古屋市町並保存第一号。知らなかった」
 一階が製品販売場になっていたので、さっそく買物をする。井桁模様はほとんどなく、雪の結晶のようなものが多かった。全員、浴衣を買う。自分のものと、頼まれていたものと。頼まれたものは図柄を変えた。それで私のポケットは一万円札一枚になった。
 女三人は自分の財布の紐をゆるめて、ほかにハンカチ、スカーフ、エプロン、袋物などを買った。みな満足して表の道に出、ハイエースの後部トランクに買出し品を収めてから、板塀と白壁の古風な町並を歩いた。箱庭のように美しい。やがて、青森の港の一画で見かけたような瀟洒な住宅街に出た。年季の入った商家に混じって、信用金庫、歯医者、内科クリニック、郵便局、灯油店などが点在している。食い物屋や生活のための小売商店はない。大きな庭と駐車場を備えている住居が多いところから見て、定期的に車で都心へ買出しに出かけるのだとわかる。もう古い町並ではない。マンションの建ち並ぶ大通りに突き当たり、引き返す。
「一万円残ってるから、それで鳴海のうまいものを食って帰ろう」
「鳴海にうまいものはありません。広小路のキッチンマツヤへいきましょう。味噌カツとエビフライの有名店です。昭和三十七年に開店してまだ七年ですが、名古屋では押しも押されもせぬナンバーワンのレストランです。五名からの個室がありますので、のんびり食べられます」
「ぼくは味噌カツはいいや。味噌ってのがどうも。味噌煮こみうどんも、むかしおふくろと食って懲りたから。しょっぱくて、硬くて。エビフライは食べるよ」
「味噌煮こみうどんは柔らかくてもまずいです。極上トンテキランチ、私はそれにします」
 車で大通りに戻り、一路キッチンマツヤを目指した。
「四十分ぐらいかかりますが、四方山話をしてればすぐです」
 菅野がみずから十六歳のころの学徒動員の話をする。
「天神山中学を出た翌年、昭和二十年の二月の話です。大雪でした。雪を踏み分けて、名古屋駅集合。四月には帰れるということで、最小限の身の周り品を持っての動員でした。熱田駅に近い稲永新田という埋立地にある宿舎は、少し傾いてて、突っかえ棒がしてあった。到着したその晩、名古屋大空襲。B29の大編隊が夜空一面にごうごう市内のほうへ向かっていった。空は彼方のものすごい炎上を反映してました。この世のものとは思われない光景を防空壕の中から茫然と茫然と見上げると、雪が上空からしんしんと落ちてくる。物悲しかったですね」
 国道一号、星崎、笠寺、堀田。
「動員先の工場は宿舎からだいぶ離れていて、毎朝隊列を組んで出かけました。支給された戦闘帽に日の丸の鉢巻、国民服にゲートルというカーキ色のいでたちで、防空頭巾をかぶり、非常袋を背負い、冬枯れの土手を寒風突いて軍歌を唄いながら、歩調を合わせて兵隊のように行進していくわけです」
「工場ではどんなことをやらされたんですか」
 国道19号に入る。
「ドリル打ち作業、庶務会計の補助なんかですね。工場には師範系の男女の学徒、女子挺身隊人たちがあふれ返ってました」
 西高倉、山王。
「三月十日に寮も空襲を受けて全焼。そのあとは防空壕生活になりました。昼は工場、夜は防空壕、ときどき空襲の毎日です。当然四月に帰れなくなったんですよ。やがて生活用のバラックが建てられました。空襲の合間、灯火管制の薄暗い廊下でゲーテを読んでるやつがいたなあ。戦局が進むにつれて空襲は激しくなって、毎晩のようにサイレンが鳴り、敵機は志摩半島を北上中、の警報ですよ。ただちに防空壕に避難できるように、着のみ着のまま、ゲートルを巻いたまま寝ました。そして警報、また壕へ避難。無事に壕から出てくると、バラックで蚤との戦いです。寝床のあたりを跳び回るのをみんなで大騒ぎして退治しました。夜が明けると、近くの田んぼに焼夷弾がめり込んでいたりしてゾッとしました」
「死者は?」
「何十人も死にました。ほんとに命懸けの毎日でしたからね」
「菅野さんは危ない目に遭わなかったの?」
「遭いました。壕に逃げこむのが間に合わずに、畑の畝(うね)に突っ伏してザーッという爆弾の投下音を聞いたり、白昼グラマンに襲われたりもしました。そのときも何人か死にました」
「奇跡の生存者ですね」
「いやあ、ハハハハ。それからは敵の上陸に備えて竹やりの練習をする事態となりました。ついに一夜の爆弾投下で工場が焼失、瀬戸の山中に疎開したんですが、もはや作業なんかできる状態ではなく、八月十五日の無条件降伏でわけもわからないまま解散しました」
「いつだったか名古屋大空襲の話をしたとき、西区の被害は少なくて運よく助かったみたいなことを言ってたけど、そんなたいへんな経験をしてたんですね」
「いやあ、ハハハハ。たいへんな経験と言っても特殊状況下の団体経験で、生き残った者として死んでいった人たちの分まで命を大切にし、幅広い読書をして自己教育に努め、集団や組織の狂気に巻きこまれないような強い個人となっていきたい、なんてありきたりなことを神無月さんを前にして言いたくなかったんで。……経験というのは個人的に特殊なものにかぎりますよ」
 広小路通到着。四十分がたちまち経った。菅野が、
「広路(ヒロジ)と言わずに、語調を整えるために広小(コウ)路と言うらしいです」
「広い街路という意味なのに小路と言うんだね。日本語はいいなあ」
 テレビ塔を前方に眺めながら東新町から左折。三越、丸栄を過ぎて、広小路御園まできて御園通を左折。
「ここ右折なんですが、一方通行なので左に曲がって駐車場を探します」
 すぐに二十四時間パーキングがあった。車を停めて、広小路まで全員徒歩で後戻り。
「昼は十一時から三時、夜は五時から十一時。まだ二時半。ぎりぎりだいじょうぶです」
 信号を渡ってすぐ右手に、黒地に白文字のキッキンマツヤという看板が見えた。昼下がりのビル街を歩いているサラリーマン連中が、オッと口を開けたり、振り返ったりして私たちを見る。さっさとマツヤに入る。広い店だ。六人用の個室を頼む。カウンターやテーブルの客たちがどよめいた。
「キャー、神無月さん!」
「金太郎!」
「負けんじゃねえぞ!」
「人間じゃないってわかってっから、好きなようにやれ!」
 水原監督の記事の影響を受けている。客たちにお辞儀をしながら、黒服の中年女店員に案内されて個室へいく。掘り炬燵式の席につくと、女店員が、
「あの……」
「サインはお断りします」
「いえ、そうではなく、ただ驚いたもので。私、こちらでホールチーフを勤めております××と申します。ご来店、ほんとうにありがとうございます。これからもどうぞご贔屓にお願いいたします」
「はい、こちらこそ。よろしく応援のほど。店長さんやマネージャーさんの挨拶は不要にお願いします。極上トンテキランチ一つ、ハンバーグランチ一つ。睦子たちは?」
 睦子が、
「知多牛のステーキランチ」
 千佳子が、
「私、ヒレ味噌カツランチ。とにかく初めてだから食べてみる」
 天童が、
「和風トンカツランチを」
 私はメニューを見ながら、
「一人ひとりに、エビフライを二本ずつ、若鶏の串焼き二本ずつつけてください。それからサラダを適当に見つくろって大皿で」
「承知いたしました」
 ビールを飲みたかったが、菅野が気の毒だったので控えた。掘り炬燵の個室は襖で人目が遮られていたので、私たちは心ゆくまで声を出し合い、肉料理に舌鼓を打った。
「菅野さん、ここは名店ですね。ほんとにうまい」
「よかったです、気に入ってくれて。女の子たちはどうだった?」
 みんな声を揃えて、
「最高!」
 睦子が、
「神無月さんが付け加えてくれたエビフライと若鶏は、別腹でおいしく食べられました」
 天童が、
「自家製和風ソースがおいしかったです。大根おろし、しそ、ネギでさっぱりいただけました。めずらしいトンカツですね」
 千佳子が、
「味噌カツ、いけたわよ。自家製トンカツソースというのがゼツの味。神無月くんも食わず嫌いなんかせずに、今度食べてみればいいわ」


         八十九

 やはり店長がやってきた。料理帽を取って平伏し、
「やや、どうぞそのままで。お手を煩わせません。挨拶だけです。ただのお客さんじゃありませんのでね。天下に轟く神無月選手ですよ。挨拶をしなかったとあっては、無礼のそしりを免れません。あまり出歩かないかたと聞いておりましたが、そのかたがわざわざ当店にいらしてくださったのですから、幸甚の至りです。お礼の申し上げようもございません。ありがとうございました。料理はご満足いただけましたでしょうか」
「すべてに大満足です。記憶に残る味でした。この味が恋しくなったら、また寄らせていただきます」
「ぜひお立ち寄りください。いつもお待ちしております。いろいろなもめごとに煩わされて、さぞご心痛のことでしょうが、名古屋市民はみんな神無月選手の味方です。何ごとにもめげずに、伸びのびとプレーなさってください。いつも応援しております」
「ありがとうございます。全力でがんばります。じゃ、これで失礼します。有名なお店なので何の宣伝も要らないでしょうが、知り合いには機会あるごとにこの店を勧めておきます。この人たちも知り合いが多いので心がけるでしょう」
「恐縮です。ぜひお知り合いにご紹介をお願いいたします」
「それから、きょうを含めて、けっしてサービスなどなさらぬようにくれぐれもお願いしておきます。ごちそうさまでした」 
「ありがとうございました。レジまでご案内いたします」
 私は勘定書と一万円札を出した。店長はレジ係からレシートとつり銭を受け取って私に手渡すと、人払いのつもりか私たちの先に立ちドアまで導いた。私たちがドアを出たあとも、ホールチーフの女と二人で深々と礼をした。
 車中ではみんなはしゃいでいた。睦子が、
「キッチンマツヤは、名古屋のすべてを知るための第何歩目かしら。北村席、太閤通、熱田神宮、名古屋城、中日球場、テレビ塔、名古屋大学―」
 菅野が、
「千佳ちゃんたちがいってないのは、大須観音ぐらいかな」
「羽衣とシャトー鯱も見ておいたほうがいいよ。それからパチンコ屋。ぼくがまだいってないのは、ドンコ競馬場だ」
「それは今度、男同士でいきましょう。千佳ちゃん、ムッちゃん、トルコには顔を出さないほうがいいですよ。秀吉にゆかりのある花街も、たしかに名古屋の歴史的な一面ではあるんだけど、置屋とかトルコなんてのは、胸を張って生きられない女たちを寄せ集めて成り立ってる商売ですから、どこかに悲惨なにおいがただよってます。初々しい若い女がそういう雰囲気に共感するのは感心しませんし、彼女たちの生活に直接タッチしてるわけでもないので、遠い同情です。私は北村席の生業を軽蔑してるんじゃないんですよ。社長はなるほど女たちの稼ぎの一部をいただいて商売してますが、心の底に救済の精神を持ってます。個人的な事情にひしがれて、やむを得ずギリギリの手段に頼って暮らしている女たちを、少しでもいい条件で働かせてやりたいと考えてるんですよ。神無月さんのように人間的な共感からじゃなく、抱えている負担を少しでも軽くしてやりたいという経済的な同情からです。神無月さんも、部外者が同情などするのは軽はずみだとわかってるんですよ。神無月さんのほうから女たちに軽々しく声をかけることは、ほとんどないでしょう? あちらから声をかけて、倒れこんできたら救い上げますけどね。見ておいたほうがいいと神無月さんが言ったのは、へたな同情は軽はずみな考えだと思わせる世界もあるということを知ってほしかったんでしょう」
 天童が、
「そうなんですよ。神無月さんは、個人が抱えている事情なんかにこれっぽっちも同情しません。そんなものをかなぐり捨てて神無月さんを求めると、抵抗なく受け入れてくれるんです。そして、同情の以上の愛情も分けてくれるんです。こちらから声をかけないかぎり、神無月さんはけっして動きません。あなたたちもそうだったでしょう?」
「はい!」
「素人女も玄人女も、人間的に差別してないということなんです。ふつうの人間には、まずそういうことはできません」
 菅野が、
「天童ちゃんの言うとおりだよ。私のその差別感を揺らがせたのが、神無月さんやお嬢さんだったんですよ。社長夫婦もそうです。受け継いできた生業だから投げ出さずにやりつづけてますけど、いまではしっかり人間的な共感を持って女の人に接してます。辞めたい人は辞めればいい、やりたい人はちゃんと支援するよという気持ちです」
 睦子が、
「辞めたい人を受け入れるのが、アイリスとアヤメですね。やりつづけたい人は……」
「北村席の名代(みょうだい)で、社長夫婦が面倒を見てあげます。神無月さんはそういう人たちを安易に手近な女と見なさない。妓女という看板に価値を認めてあげる。この世界出身のトモヨ奥さん、素ちゃん、メイ子ちゃん、天童ちゃん、キッコちゃんには、とてもやさしく接してますけど、それ以外の女には、ごく自然な態度で、無関心を通してるでしょう? ぜったいトルコには遊びにいかないし、膝も尻も撫でることをしないし、口も利かない。自分に引き寄せて彼女たちの看板を汚さないためです。それでも、ステージで歌を唄うときなんかは、女たちの顔をやさしく見回したり、毎日なるべく座敷に長くいるようにしたりして心を砕いてるんですよ。積極的に女として見ずに、人間として尊重してるんです」
 北村席に戻ると、ミズノの保田からジャージ五着、ウインドブレーカー三着、夏用のアンダーシャツ十着、白のアンダーソックスが五十足届いていた。岐阜名物、明宝ハムの五本詰め合わせセットも二箱。バット職人の久保田五十一さんからも、二十本のバットといっしょに封書の手紙がきていた。
 私が手紙を読んでいるあいだ、女たちは有松絞りの浴衣を試着しながらはしゃいでいた。女将が帯を何本か持ってきて合わせている。

 ご無沙汰しております。くる日もくる日も神がかりのご活躍、絶えず目にいたし、快哉を叫びつづけております。そして、その活躍を支えるべく、覚悟も新たに精魂こめてバット作りにいそしんでおります。
 神無月さんは静かな構えから、瞬速でバットを振り終わります。神技なのでだれの目にも止まりません。王や長嶋のような人目に立つ華麗な打撃フォームのほうが、その打撃成果のいかんを問わず、平明な打撃フォームより人に感銘を与えるというのは明らかです。実際、人の注目を浴びないような打撃フォームは、打撃フォームではないと考える人も多いのです。しかし、人にその動きを少しも意識させない神無月さんの打撃フォームは、華麗、平明などの域を超えて、品格があり、実直で、無双です。やはり神の域のもので、人の注目を浴びることなく、完璧です。それゆえ、神無月さんの打撃フォームが云々されたことはいままで一度もありません。バッターボックスで構え、とつぜんホームランが弾き飛ばされ、すでに神無月さんが一塁ベースに近づいているからです。そこに打撃フォームはあってなきがごとくです。
 今回の騒動では、私の名誉を回復するための並々ならぬご尽力、思わず感涙をこぼしました。野球人である前に、正しき人であろうとする神無月さんの心意気に涙が流れたのです。神無月さんは私が一目で惚れこんだ人です。その自分の素朴な心持ちもうれしかったのです。出会えたことに心より深甚の感謝を捧げました。
 シーズンオフに、一度お宅をお訪ねしたいと思っています。二十歳の神人と二十六歳の凡夫。一献酌み交わすことができたらこの上ない喜びです。
 神の一振りのために、これからも力の及ぶかぎり狂いのないバットを作りつづける所存です。ご健康第一に、まずはこの一年を乗り切ってください。お時間を拝借いたしました。
  神無月郷さま       久保田五十一 拝

「吉沢さんゆうかたが、奥さんといっしょに夕方お伺いしたいって、ついさっき電話してきよりました。お受けしときましたよ」
 女将が言う。
「はい。酒を飲む人かどうかわかりませんけど、用意しといてください。もうすぐ球界を去る人です。明るい気持ちになるよう、周りを女性で埋めましょう」
 女たちが浴衣姿で立ち、艶を振舞った。私は、
「みんなきょうは、その格好がいいね。あでやかだ。吉沢さんより、ぼくが楽しい」
 主人が、
「吉沢さんは今年何年目やろか」
 菅野が、
「昭和二十九年に中日に入団して、三十七年に近鉄へ移籍、今年中日に戻ってきて、都合十六年目ですね」
「中日を出される前の三年間は、メインのキャッチャーやったな」
「はあ、打者の読みを外す頭のいいキャッチャーで有名でした。濃人に嫌われて近鉄に飛ばされました。近鉄では移籍後四年間、正捕手を張ってましたが、その後、木村や児玉に抜かれて下降線、ずっとコーチ兼任でした」
「で、中日に戻ってきたわけだ。出場機会もほとんどなし、と。今年で引退やな。神無月さんはどう思う?」
「そう思います。一割後半から二割の打者ですから、チームへの貢献度は木俣さんの比ではありません。インサイドワークを後輩に伝える役目も、新宅さんや木俣さんでこと足りるでしょう。出番はありません。……ぼくはあの人の穏やかさが好きなんです。チームメイトにとても親切です」
「態度に気をつけなあかんな。おだてるわけにはいかん。もっぱら聴くほうに回らんと」
 菅野が、
「三十五年に、村山から勝ち越しホームランを打ったこともありますよ。その翌日も、小山からセンター前の決勝打。いい時代もあったんです」
「とにかく本人まかせや。そういう去りゆく者が神無月さんと口を利くゆうんは、身もふたもない言い方をすれば、地虫が声の届かん星に語りかけとる格好やろ。プロ野球界の上下関係を考えればな。それは本人がいちばんよう自覚しとる。星が応えてくれるだけで満足や。神無月さんは応える。自分を星とも思っとらんし、吉沢さんを地虫とも思っとらんからな」
 トモヨさんとソテツがコーヒーを出した。トモヨさんが、
「睦子さん、今夜帰るとき、明宝ハム一本持っていって。大きいのよ。二週間は食べられるわ」
「はい、いただいていきます。ステーキにして食べます」
「二本ぐらいは今夜使えるわ。ビールも半年ぐらい郷くんの景品で全部まかなえる。ありがたや、ありがたや」
 イネが直人を保育所から連れて帰ってきた。店の女たちが取り囲んで彼の頬にキスをする。
「おやつ! ホットケーキ!」
「はいはい」
 直人は厨房に走りこむ。主人が、
「吉沢さんには、娘が孫を連れて遊びにきてることにするぞ。和子に言っとけ。万人が神無月さんを理解できるわけやないからな」
 私は、
「お父さん、お母さん、トモヨさん、キッチンマツヤにいったことあります?」
「直人がお腹にいるころ、みんなでいったことありますよ。菅野さんの車で、おトキさんや文江さんもいっしょに。おいしい店ね」
「そうか、人に勧めるって店長に約束したけど、北村席は開拓できないな。チームメイトに勧めるといっても、どう勧めたらいいかわからない。名古屋大学しか販路を開けないな」
 女将が、
「有名店やから、だれに勧めんでもええんですよ。また神無月さん、気ィ使ってまったんやろ。千佳ちゃんもムッちゃんも気にせんほうがええよ」
 二人はにこにこ笑っている。トモヨさんが、
「満員だったでしょう」
「うん、カウンターもテーブルもぎゅうぎゅうだった。個室で食ったけど」
 主人が、
「それよりよくファンに捕まらなかったですな」
「みんな声援するぐらいで、絡んでこなかったですよ」
 ソテツが、
「イネさん、今度いっしょにいこ」
 主人が、
「神無月さんが遠征に出たら、ワシが連れてったるわ」
 トモヨさんが男物の帯を持ってきたので、私も有松の浴衣を着た。
「ひょう! ええ男やのう」
 主人と菅野が見上げ、女たちが絶句した。直人がベトベトした手で触りにきた。イネがあわてて、
「こらこら、ハチミツがついてまるべ」
「これ、東京にもっていくかな」
「いやいや、目立たんほうがええです。それでなくても目立つんやから。散歩もできませんよ」


         九十

 私はカラオケのほうへ歩いていき、
「千佳子、お願い」
「はーい」
 千佳子はすぐに機械をセットする。
「演歌! 潮来笠」
 イヨーッ! と歓声が上がる。千佳子がボタンを操作しているあいだにステージのマイクの前に立つと、店の女たちを先頭にドッと一同が集まってきた。前奏がかかり、手拍子が入る。

  潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
  薄情そうな渡り鳥 
  それでいいのさ 
  あの移り気な風の吹くまま 西東
  なのにヨー
  なぜに目に浮く 潮来笠

「よ! 大統領!」
「神無月幸夫!」
「大天才!」
 私はマイクを突き出し、
「次、お父さん!」
 主人があわてて飛んできて、

  田笠の紅緒が ちらつくようじゃ
  振り分け荷物 重かろに
  わけは訊くなと笑ってみせる
  粋な単衣の腕まくり
  なのにヨー
  後ろ髪引く 潮来笠

 聴ける節回しになっている。やんやの喝采。
「次、菅ちゃん!」
「ほーい!」
 菅野がステージに飛び上がった。直人がいっしょに走っていく。菅野は片腕に抱き上げた。イネもステージに昇って抱き取り、菅野に並びかけた。伴奏のあいだ菅野がしゃべる。
「これカラオケ教室の課題曲ですよ。じゃ、練習の成果を」

  旅空夜空で いまさら知った
  女の胸の底の底 ここは関宿
  大利根川へ 人に隠して流す花
  だってヨー
  あの娘川下 潮来笠

 主人より声が高く伸びる。マイクを突き出された直人が、アーアーと言う。一座が明るく笑った。
「いよ! 菅ちゃん、名人!」
 まんざらでもなさそうに頭を掻きながら戻ってきた。トモヨさんとソテツが気を利かせてビールを運んでくる。テーブルがビール瓶とコップで埋まった。
「つづきは吉沢さんがきてからやな」
 吉沢のヌーボーとしたやさしい顔を思い浮かべた。彼は歌うかもしれない。いい思い出を作ってあげたい。どんぶりに盛った焼きソバのつまみが出た。
 五時少し前に、吉沢夫婦がやってきた。私は浴衣をジャージに替えて、門まで出た。三十六歳の気恥ずかしげな笑顔と、少し気難しげな女の笑顔が立っていた。女のほうが年上に見えた。
「いらっしゃい、吉沢さん。奥さんもいらっしゃい」
「すみません、とつぜん押しかけて」
「とんでもない。よくいらっしゃいました」
 二人は丁寧な辞儀をして数寄屋門を入り、庭石を伝って歩きながらまぶしそうに周りを眺めた。
「たしか、タニマチのお家だとか」
「はい、スポンサーの家です。北村耕三さんと言うんですが、そのかたにここから五分ほどのところに二階家を建てていただきました。そことここをいったりきたりしながら、適当に寝泊りしてます」
「そりゃまた、どういうご縁で」
「ここの娘さんが、いま三十五歳のかたですが、ぼくの熱烈な野球ファンで、小学高学年のころからもう十年も応援してくれてるんです。その縁です」
 主人夫婦と、早番中番で戻っていた女たちが式台に出迎えた。華やかな雰囲気に二人は目をパチパチさせた。主人が、
「いらっしゃい。驚きましたか。ここはもと置屋でしてな、この中の何人かはトルコ嬢ですわ。こいつは愚妻のトク。これは長女のトモヨで、いま孫を連れて遊びにきとります」
 女将が、
「まあ、どうぞどうぞ上がってください」
 浴衣姿の千佳子と睦子が座敷に案内した。トルコ嬢と思っているようなので、
「その二人は、ぼくが青森高校にいたころの野球部のマネージャーです。縁あって、いまは二人とも名古屋大学にかよってます」
「私らはトルコ嬢ですよ」
 近記れんが仲間たちを手のひらで示しながら笑う。幣原がやはり仲間たちを示し、
「私どもは賄いです。そのおチビさんが直人ちゃん」
 吉沢はいちいちうなずいて応え、直人にまで頭を下げる。直人は吉沢夫婦に近づこうとしなかった。
「のんびりビールでもやってください。そのうちめしになりますから」
 トモヨさんと、浴衣の天童がビールとグラスをたっぷり持ってきた。私と主人と吉沢夫婦につぐ。吉沢の女房が特徴のない顔を私に向け、
「ドラゴンズと自由契約なさったとき、契約金のほかにかなり積まれたんですか?」
 主人が苦い顔をした。私は答えた。
「ゼロ円です。ぼくのほうからラブコールした形ですから当然です。いちばん最初は、高三のとき、ぼくが一人暮らしをしていたアパートに村迫代表がお見えになって入団を懇願されましたが、もともと意中のチームだから懇請は不要だと答えました。ぼくは契約金以外いっさいもらっていません。契約金もいらなかったんですが、それだと球団の経理に不都合が起こるような雰囲気だったので、いただくことにしました。すべて母親と祖父母にくれてやりました。母親は受け取らずに、祖父母、つまり彼女の両親に送りつけました」
 女房が口をあんぐり開けた。カズちゃんたちが帰ってきた。
「あらいらっしゃい。吉沢さんと奥さんね。北村の娘の和子です。すぐそこでアイリスという喫茶店をやってます。こちらは従業員の人たち」
「どうぞよろしく!」
 吉沢夫婦は素子たちにも頭を下げた。カズちゃんたちはそのまま風呂へいった。主人が、
「神無月さんは、いまも給料のほとんどぜんぶを人のために使います。残った分は娘たちが預かって、いつでも人のために役立てるよう貯えています」
 吉沢が女房に、
「神無月さんは人格者なんだよ。ふつうの考えでは理解できない」
「ぼくは人格者ではありません。格というものから縁遠い人間です。食べたり寝たり遊んだりの費用をすべて北村さんからいただいています。ポケットに十万円と決めて入れといて、なくなる都度補充してもらいます。一年じゅうそんなふうです。その十万円を使うこともめったにありません。きょうひさしぶりに、有松絞りの浴衣と、キッチンマツヤの飲み食いで使いました」
 菅野が、
「吉沢さんは松商学園時代に、四回も甲子園に出てますね。昭和二十五、二十六、二十七年と」
「はい、ぜんぶ二回戦までで負けてます。一年目の夏は一回戦熊本済々黌、翌年の夏は二回戦京都平安高校、その翌年の春は一回戦兵庫の芦屋高校。このときは、巨人にいった堀内庄をエースに立てて戦ったんですが、芦屋の植村にやられました」
「植村は大毎にいって、そこそこ活躍しましたね。短い選手生命でしたが」
 私は、
「巨人の堀内って、三人いるんですか?」
 菅野が、
「二人です。昭和三十年代の堀内庄と、いまの堀内恒夫。もう一人、堀のつくピッチャーは堀本律夫です。昭和三十五、三十六、三十七年の三年間しか巨人にいなかったピッチャーで、三十五年に二十九勝挙げて、最多勝利、新人王、沢村賞。雨雨権藤の名づけ親です」
 吉沢が、
「詳しいですねえ!」
 私は、
「この二人は野球の生き字引なんです」
「じゃ、うちが芦屋にやられた年の夏を覚えてますか」
「はい、春は芦屋の優勝、夏は松山商業。松商学園は二回戦で、山口県の柳井商工の森永に完封負けを喫してます」
「すごい!」
 私は菅野に、
「森永って、いま巨人にいる森永ですか?」
「はい、専修大学からバッターに転向して、熊谷組、三十三年に広島入団、四十二年に巨人移籍。広島時代の三十七年に首位打者を獲ってます。三割七厘。史上最低打率の首位打者で有名です」
 女房が不安そうな顔をした。率直な発言を悪口ととる気質のようだ。賄いたちがオヤツで散らかっていた大テーブルをいったん片づけ、ビールと酒と、料理の皿を運びこみはじめた。いつもの和洋折衷の豪華な食卓だ。吉沢夫婦はその彩りの豪華さのことも、周囲の人間たちに対する感想もいっさいない。賄いの手で小皿や鉢に盛ってもらった料理を口に入れて、うまいとも言わないし、睦子や千佳子の浴衣姿を眺めても、その容姿に感嘆したふうも見せない。腹がへっているのだと思い、賄いたちは夫婦にめしを盛った。吉沢の妻はすぐに食いはじめた。店の女たちもいっせいに箸をとる。千佳子が箸をとらない吉沢に酌をする。吉沢はビールグラスを傾けながら、
「私の将来なんかも言い当てちゃうんでしょうね」
「それは無理です。占い師じゃないですから」
 菅野はようやく菜(さい)をつつく箸を手にとった吉沢に言った。菅野も主人も、吉沢といっしょにビールを飲もうとしない。女将が吉沢にビールをつぎながら、
「せっかく神無月さんに会いにきたんやから、神無月さんとお話すればええがね」
 主人が、
「ささ、とにかく食べて。料理自慢のやつらが作ったものですから」
 睦子は進みののろい主人や私のコップに酌をする。吉沢は女将につがれたビールを含み、ようやく箸を動かしはじめた。考えこんでいる。私に話したいことがかならずあるはずだ。カズちゃんや素子たちが風呂から上がってきた。さっそく箸をとる。吉沢がしゃべりはじめた。
「神無月さんは不思議な人です。……どんな選手にも上昇志向というものがあります。私のような峠を越した人間にもそれはあります。ある程度の上昇志向は、その人間を成長させるうえで欠かせないものです」
 カズちゃんが口をもぐもぐさせながら、
「ある程度って?」
「人を蹴落としても何とも思わないような、というほどではない上昇志向です」
「上昇志向というのは、人を蹴落としてもというものだと思うけど―。遠慮してたら上昇なんかできないと思いますよ。で、だれにでもある上昇志向が何だって言うんですか?」
「適度の上昇志向がなければ、現状の安定を目指す無気力な人間ができ上がってしまいます。ところが、不思議なことに神無月さんには上昇志向がありません。安定も目指していないし、無気力でもない。淡々と楽しそうに野球をしている。さらなる高みを目指しているという雰囲気もありません。金銭にも無欲だとわかりました。神無月さんは何者なんでしょう。やさしい言葉をかけてもらってつい甘えたということもありますが、それを知りたくて、きょうお訪ねしました。これからの私の人生の指針になると思いますので」


         九十一

 私は深く息を吸い、
「ひとことで言うと、ぼくはやる気のある人間ですが、ある場所から別の場所へ上昇したいとは思わない人間です」
「やる気―」
「一つの場所で動こうとする気持ちです。やる気をなくしてしまうのはじつに簡単です。人間はサボりたい生きものですから。だから起爆剤を求める。小学生のころは起爆剤がなくても、野球が好きだという気持ちだけでサボらずにすみました。そこへ他人の手で中断される事態が生じた。野球にたいする情熱が揺らいだ。サボったわけです。何ごとかを中断して悩んだりするのは、精神のサボリです。そうなった自分をそのとき他人のせいにしなかったのは、自分が野球をほんとうに好きじゃなかったんじゃないかという疑問が湧いたからです。考えて、考えて、何だかどうでもよくなって、そのとき初めて、人間は人間以外を好きになれないとわかったんです。他人を好きだと思い、他人から好きだと思われるからこそ、人は生きていける。それがわかって、あらためて野球に打ちこめるようになりました」
「人を好み人から好まれるというのは、野球をするうえでは直接の起爆剤にならなかったんですか」
「なりませんでした。それを理由に何かに奮い立つというものではありませんから。死なないで、つまり命を中断しないでサボらず生きていけるという自覚をもたらしてくれました。サボらず生きていけるなら起爆剤はいらない。奮い立つ必要がない。それに気づいてからは徹底して起爆剤を求めなくなった。上昇も下降もない、ただ静かに、人を愛し、人に愛されながら生きていく。より長く生き延びるために、本能的に血が騒ぐことをしながらね。一つは野球、もう一つは、歴史や政治や経済じゃなく人間を描いた文章を読んだり書いたりすること。その二つのうち、自分に才能があるのは野球でした。自分はただ血が騒ぐことをしているだけなのに、その成果を人が喜ぶものを才能と言います。喜んでもらえればそれをすることが生甲斐になる。生甲斐になればサボりません。将来、文章で大勢の人を喜ばせる才能があるとわかったら、文章を書くつもりです。ぼくは、そんな単純な気持ちで生きている人間です」
「野球に対する疑問は解けたんですか? その、野球が好きじゃないんじゃないかという疑問は……」
「解けません。本能的に血が騒ぐとわかっただけです」
「それは好きだということじゃないんですか」
「好きなのは愛する他人だけです。好きな人を前にすると、血は静まり、安らかな気持ちになります。バッターボックスに立っているときのようにドキドキしません。つまり野球は、血が騒いで、やり甲斐があり、向いてもいる仕事でもあるとわかりました。いまなお野球そのものが好きなのかどうかわかりません」
 主人が、
「上昇とか無気力とか、神無月さんには起こりえない気持ちなんですよ。私たちが気持ちを安定させて生きていけるのは、そういう神無月さんを見ているおかげです。神無月さんがここにいてくれるだけでいいんです。私たちもただそばにいたいだけですから」
 吉沢の女房が一膳を終えていったん箸を置き、
「次元のちがうお話なので、私どもの参考にはならない気がします。神無月さんの不思議な人となりを知っても、何の助けにもならないんです。私どもは、来年からの生活が危ういんです。才能があるからこそ、うちの人もプロ野球選手になれたんでしょうが、その才能が際立ったものでなかったようで、この十六年間相当苦労をしてきました。野口さんや河合さんに競り勝って、せっかく主力選手になれたと思ったら、わけもなく濃人さんに嫌われ、八年もいた中日を追い出されました」
「濃人粛清のあおりですね」
「はい。移籍した近鉄でまだ六年も正捕手を務める力があったんですよ。この二、三年のうちに若手のライバルが現れて、交換トレードに出され、三十六歳にもなって中日に戻ってきましたけど、いまや木俣さんの全盛時代です。もう一花咲かせることは無理でしょう。水原監督はよく使ってくれてます。けれども結果が出せません。今年が最後だと覚悟してます」
 私は、
「近鉄では最後の二年間、コーチをなさってたんですよね。その道があるじゃないですか」
 吉沢の妻はとつぜんすがるような目になった。
「球団が適任と考えなければコーチ職を依頼されません。推薦してくださいますか?」
「はい、喜んで。ぼくの推薦の効果のほどはわかりませんが、水原監督に進言してみます」
 進言はムダになるかもしれないという危惧があった。
「いや神無月さん、お気遣いはけっこうです。男は退きぎわが肝心です。おまえも失礼なことを言うのはやめなさい」
「でもあなた、野球にずっと関わりたいと……」
「力があればね。もう気持ちは吹っ切れてるよ」
 大型の扇風機が二、三台回っている。少しからだが冷える。私は吉沢にビールをつぎながら、
「それでもぼくは進言します。特にピッチャーに対するコーチングは聞き応えがありました。フォアボールなんか怖がらずにどんどん腕を振れ、と山中さんに言ってたのを聞いて感心した覚えがあります。ブルペンキャッチャーはもったいない。コーチに適任だと思います」
 吉沢は首筋を撫ぜながら微笑し、
「剛速球タイプのピッチャーにコントロールのよさを求めると、ストレートの伸びが落ちてしまうんです。荒れ球を直そうと思うと球威はかならず落ちます。それではそのピッチャーの魅力が台無しになります。百四十キロ程度を投げるピッチャーはプロ野球界にはザラにいます。百五十キロ以上のボールを投げるピッチャーとなると、圧倒的に少なくなります。うちだと、小川、小野、田中勉、山中の四人です。山中だけがこの二年、思いどおりの活躍ができていない。権藤のあとのエースとして三年ほどがんばってたんですけどね。少し荒れ球なので、決め球を直球ではなく変化球にしようとするような気の弱さがあるからです。エースの決め球はストレートと決まっているんですよ。フォアボールなんか怖がる必要はない。連続で四つ出したって、一点なんですから」
 吉沢の女房にソテツが二膳目のめしを盛った。女房はすぐに箸をつけた。トモヨさんは直人を抱いて、小刻みに惣菜とめしを与えている。吉沢はひたすら皿のものをつまみながらコップを傾けた。私や一家の者たちは、めいめいお替わりをし、箸を動かした。やはりビールは飲まなかった。主人が、
「中商の山中ですか。三十六年の夏の甲子園で、浪商の尾崎と投げ合って、十四対ゼロで負けましたな。チームメイトにたしか木俣もいて。いまの話だと十四点も取られるはずのないピッチャーなのにな」
 菅野が、
「権藤と小川のはざまの数年間、毎年十五勝くらい挙げてましたね。剛球のイメージがないのが弱いところだな。今年は胃腸をやられて、ほとんど出番がない。気が弱いと内臓にくるんですね」
「おなかいっぱい!」
 と直人が叫ぶと、食卓に一段落ついた。賄いが少しずつ皿を下げはじめる。吉沢の女房が主人に、
「ここは大きなお屋敷ですが、何部屋ぐらいあるんでしょう」
「離れも入れれば、二十くらいあります」
「ほとんどの部屋は、トルコ風呂のかたがお住まいなんですか?」
「それと、住込みの賄いと、アイリスの店員と、名大生一人と、私たち夫婦です。神無月さんやお仲間たちは、ときどき客部屋に泊まります。もともと置屋ですからな、雑居があたりまえみたいなもんです」
 素子が、
「家庭という雰囲気がせんもんで、奥さん、落ち着かんのやないの。うちらはこれがいちばん落ち着くんよ」
 キッコが、
「江藤さんたちもホッとする言うとったな」
 吉沢が、
「水原監督も、フロントのかたもいらっしゃったそうですね。たしかに、ここにいるとくつろぎます」
 女房が、
「アパートじゃくつろがないでしょうよ。あなたもここに下宿させてもらったら?」
 カズちゃんが聞き流して、直人を抱き上げ、
「カラオケでもやる?」
 女房が、
「いえ、私どもはこれでおいとまします。控え選手というのはいろいろ雑用が多くて、前日出勤やら忙しいんですよ」
 立ち上がった。吉沢も立ち上がる。一同立ち上がり、礼をする。吉沢が、
「神無月さん、きょうは失礼しました。ご主人、奥さま、ごちそうさまでした。おいしかったです。また、きっと寄せてもらいます。神無月さん、私のことなど気にせず、野球に集中してください。じゃ、あさってグランドで」
 夫婦で玄関に立つ。妻は気難しそうな顔を崩さない。吉沢は、
「あ、ここでけっこうです。みなさん、お騒がせしました。ではごきげんよう」
 ソテツとイネが門まで送っていった。菅野が、
「吉沢さんの家はどこなんですか。私、送っていきますよ」
 百江が、
「送られたくないと思いますよ。奥さんはいま惨めな気持ちになってるはずですから」
 カズちゃんが、
「あの奥さんには感覚でわかるのよ、控えの選手が生き永らえるには、人気選手に積極的に絡むことだって」
 主人が、
「それとも、人気選手のいじられ役になって、チームを明るくするムードメーカーになるか、乱闘要員になるかやろな」
「吉沢さんにはまったくその気はないから、奥さんイライラしてるのね」
「どちらもあの人には無理や。神無月さんがいくら進言しても、フロントは気に留めんやろ。今年かぎりやな」
 菅野が、
「あのフォアボールの話ですがね。いくらボールに威力があっても、四つ連続で出すなんてのはもう問題外のノーコンで、一つ、二つ出せばかならず相手にチャンスを与えるものですよ。進言するとき、その話はしないほうがいいです。吉沢さんを好きだから辞めさせないでくれと神無月さんが言えば、百パーセント残留になるでしょうが、チームに損害を与えます。本人が言ったとおり、退きどころなんですよ」
 私はうなずきながら、それでも水原監督に言ってみようと決めていた。彼は杉山をコーチに誘ったように、指導者の資質を人格で判断する人間だ。しかし、杉山はかつてのホームラン王であり、吉沢は何者でもない。進言してもだめだろうなとは思った。ソテツとイネが戻ってきた。ソテツが、
「いやな人。あなたたちは神無月さんのあちらのお世話もするんですか、なんて言うんですよ。汚いものでも見る眼で。いいえ、しません、神無月さんは女に関心ありませんからって答えときました」
 アハハハとカズちゃんが笑った。座敷じゅうが笑った。トモヨさんが、
「お世話してるのは郷くんなのにね。あのかた、吉沢さんのお世話をまともにしてないんでしょう」
 素子が、
「あの二人、もうすぐ別れると思うわ」
「別れたら、吉沢さんにいい人を見つけてあげないと」
 トモヨさんが眠そうな直人を抱き上げながら言った。カズちゃんが、
「そうなったら、もうここに遊びにくることはないと思う。吉沢さんは、山口さんとちがってキョウちゃんに友情を感じてないもの。感じてる人は弱音を吐かずに奮起するわ。太田さんや菱川さんみたいにね」
 メイ子が、
「吉沢さん、弱音を吐きました?」
「吹っ切れてるという言葉は弱音よ。吹っ切れた人は、まともにがんばらなくなるわ。せっかくキョウちゃんに会いにきたのに、もったいないことしちゃったわね。キョウちゃんから学べるものはたった一つ、やる気だけ。それは人に信頼されたり愛されたりしてないと湧いてこないものよ」
 睦子が、
「やる気というのは上昇志向とはぜんぜんちがうものですね。上昇志向の人には信頼や愛情はじゃまですから」
 女将が、
「分け隔てのないことはええけど、神無月さん、これからは落ち目の人は呼ばんようにしたほうがええわ。何話してええかわからんし、後味も悪いで」
「はい。ご迷惑かけました」
 カズちゃんが、
「あの奥さんがいなければ、何ということもなかったのよ。この世の諸悪のもとは、オトコ日照りの女ね。それか、ワルでもないのに男たちから悪女なんて呼ばれて、偽のオマンコをやりまくってる女」
 キッコがハハハハと声を上げた。
「さ、少し飲んで、カラオケやったら帰りましょう」
 トモヨさん母子は風呂へいった。


         九十二

 帰りの夜道でメイ子が、
「ふつう、神無月さんには近寄れないですよね。同業者ならなおさらです。離れすぎていて学ぶものがないでしょう」
「常識で計ると、近づくことのできる人だって判断しちゃうのよ。物差しは自分のものでなくちゃいけないけど、常識はだめ。それは大勢の人の物差しだから」
 素子が、
「常識で判断すると、キョウちゃんはどういう人になるん?」
「野球の天才。これだけは常識人だろうと、非常識人だろうと、否定できないわね。それから、ボーッとして扱いやすい人。すごく聡明なことをしゃべってるときも、ボーッとしてるように見えるでしょ? 知的な表情って、だいたい演技で作るものだから、キョウちゃんみたいに何の演技もしないめずらしい人種は、ボーッとしてるように見えちゃうのよね。東大優勝の記者会見でも、鈍感な新聞記者に馬鹿にされたのはそのせい。ホームランも、試験合格もぜんぶマグレ、人生マグレの連続、この顔を見たらそうとしか思えないわけ。次に、人情に篤くて騙しやすい人。キョウちゃんの人間観察眼はするどいから、だれよりも人に騙されにくい人なんだけど、それはぜったい見抜かれない。見境なく人に同情するせいね。最後に、不道徳で人間的にうさんくさい人って思われるわね。女と見ればのしかかるわけでもないし、心もこれ以上ないくらい澄みわたっているのに、やっぱりそれも見抜けない」
 百江が、
「見抜かれようと見抜かれまいと、神無月さんはどうでもいいと思ってるんですよね」
 カズちゃんはニッコリ笑い、
「そうなの。どうでもいいと思ってることも見抜かれないわ」
 アイリスの隘路にきた。
「みんな、きょうは寄ってってや。セイロン紅茶いれるから。広野さんも呼ぶで」
 甲斐和子に似た顔を思い浮かべる。興味がない。
「少し酔ったから、先に帰って寝てるよ」
 カズちゃんが、
「うん、寝てて。私たちは少しゆっくりしてくから」
 なんだかホッとして、女四人を見送り、則武に帰った。
 倦怠を覚えるほど疲れていたので、すぐに二階に上がり、勉強部屋の蒲団に入った。目をつぶって、ものを思おうとした。何もなかった。うとうとすると、人間の生き方には流行がある、という言葉が浮かんだ。たまたまある時期、ある集団に流行している生き方に本質的な価値があろうとなかろうと、人はその生き方をする。合船場、国際ホテル、高島台、浅間下、名古屋の飯場、ふたたび合船場……。
 環境の奴隷という言葉を聞いたことがある。特殊な人間などこの世に一人もいない。みんな環境の奴隷だという言葉だ。すぐれた真実だ。そのとおりだと思う。
 それぞれの環境を詳しく知ることができないので、奴隷同士、じゅうぶんに知り合うことはできない。だから人はたがいに自分を語り、思い出を語り、書いたものを見せ、隠れた細部、真実の手触り、真相を探るてがかりなどを与え合おうとする。江藤、小川、中、小野、菱川、高木、一枝、太田、水原監督やコーチたち、みんなその努力をしている。私もその努力をしている。しかしそれをしたがらない人びともいる。きょうの吉沢もその一人だ。せっかく二時間もいっしょにいて、知り合うことができなかった。彼が私を知りたいと思わず、私も彼を知りたいと思わなかったからだ。
 浅間下の灰色のドブ川で揺れていた水綿(あおみどろ)を思い出す。愛し合う者たちはあれだ。どんな環境の中でも肩寄せ合って存在を確認する。
         †
 六月三日火曜日。六時に目覚める。よく眠った。それなのに、からだがけだるい。カズちゃんの寝室にいき、隣にもぐりこむ。抱き締められる。
「あらめずらしい。朝勃ちしてないわ」
「こんなこともあるんだね。女のからだに飽きてきたのかも」
「だいじょうぶ、疲れてるのよ。きのうの吉沢さん夫婦のせいよ。無気力な人に会うと、キョウちゃんてそうなっちゃうの。セックスは気力だから、張り切った気持ちが戻ればすぐその気になるわ。きょうはお休みしましょ」
 とつぜん屋根が鳴った。
「すごい雨ね。もう二週間もしたら梅雨よ。あ、メイ子ちゃんがキッチンに入った」
 小鳥のキスをして、二人起き上がる。カズちゃんは服を着て台所へいき、私はシャワーを浴びにいった。熱があるようで、ぼんやりしている。まったく、だれにも会わない一日をすごしてみよう。
 シャワーを終え、用意してあった下着とパジャマを着て食卓へいく。メイ子が、
「目が赤いですよ。よく眠れなかったんですか」
「よく寝たんだけど、少し熱があるみたいだ。きょうは一日寝てることにするよ」
 カズちゃんが額に手を置く。
「少し熱があるわ。夏先の風邪ね。一日寝てれば治る。きのうずっと扇風機回ってたでしょう。いやなお酒を飲んじゃったし」
「酒は飲まなかった。ぼくはロマンチストのいる場所が苦手なんだ。自分の力のなさを人が手助けして回復してくれると思ってるような人間は、ロマンチストだ。ぼくは自分のことを現実主義者だと思ってる。だれかに救いを求める楽観主義者じゃなく、現実を現実のままに見る悲観主義者だ。宴会向きの人間じゃない。ロマンチストに同化できないから浮いてしまう」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは宴会じゃない場所でも浮いてるわ」
「助かりたい自意識のない人間は浮く。進化の過程で人間は悲しい失敗をした。助かりたいという自意識を持っちゃった。動物とちがってほとんどの人間は生き延びたいと意識しすぎる。自然界の素朴さから離れすぎてる。シロを連れ戻しに野犬収容所へいったときわかった。動物は愛する者を求めて生きるだけで、自分を生き延びさせたいとは思っていない。それが自然界の素朴さだ。その素朴さの基準からすると、とんでもなくふざけた話に聞こえるかもしれないけど、生き延びたいという自意識の強い人間は存在すべきじゃない。でもそういう人間がこの世の大半だ」
 メイ子が、
「神無月さんも、和子お嬢さんも、この世にいていいんですよね」
「うん。助かりたい自意識がないからね。素朴な自然児だ。たいていの人は、自分は助かるという錯覚に踊らされてる。セックスのようないっときの感覚的経験や、愛のような永続的な感情の経験が増えることで、疑問を植えつけられる。助かりたい自分はいったい何者なのかという傲慢な疑問だ。実際は何者でもない。ただ生き延びて、感覚や感情に拘りたいと願ってる小さな存在だ」
 カズちゃんが、
「ごくあたりまえの結論ね。メイ子ちゃんも、フッとわかったでしょう」
「はい。助かりたくないと感じて行動すべきだと……」
「そういう気持ちがあれば、自然に逆らった自分になろうとして、余計な行動をしなくなる。愛する者を求める以外の行動はしなくなるということよ」
「無理なく自然な心持ちで生きるために、ぼくたちは自分を別ものにしていくお決まりの自意識を後ろめたく思うべきだ。助かって、富を求め、地位を求め、家庭を求め、子供のいる団欒を求める―人間として自然な行動のように見えて、自分を別段階へ打ち出す不自然な自意識に満ちてる。ぼくも、与太郎で自然にいるべきだったのに、助かりたい自意識のせいで不自然な野球選手になってしまった。そうなった以上、この世にいるべき人間であるためには、生き延びたいという意識を後ろめたく思いながら暮らさなくちゃいけない。でもそういうことを素直にやれる人間は浮いてしまうんだ。それが、この不自然な世界で自然に生き延びようとする代償だ」
 メイ子が、
「……なんとなくわかります。子供のいるトモヨ奥さんも、不自然な自意識に満ちてるんでしょうか?」
「満ちてない。自意識を捨てたから。だから、浮いてる。何もないところに肉体を造りあげ、その肉体に魂を吹きこみ、住みにくい世の中に放りこむことはその肉体と生き延びようとする典型的な延命願望だ。ぼくも加担者だ。その願望を捨てる代償は測り知れない。トモヨさんといっしょに代償を払わなくちゃいけない。彼女はもうそれに気づいてる。本来の自然な自分であるためには、ぼく以外の存在なんか必要なかったということにね。モジリアニの話が出たとき、もしぼくが死んだら、直人を置いて自分も死ぬ、と言った。それが愛する者を求める本来の自分だと言ったのと同じだ。カズちゃんはそれをたしなめた。子供といっしょに生き延びようといったん決意したからには、その子との同伴の義務だけは果たさなければいけないということだ。ぼくが野球選手として野球といっしょに、山口がギタリストとしてギターといっしょに、カズちゃんが献身の人として周囲の愛する仲間たちといっしょに延命しようとした覚悟を実行しつづけろということだ。それは覚悟したことから生まれる義務であって、願いじゃない。願いは、助かりたいという自意識を捨てて、愛しい者をただ思うことだ。―そこさえ揺らがなければいい、同伴しようと覚悟した存在がいなくなったら、愛する者と手を取り合って滅んでいこうという願いがあればいいだけのことだ―とカズちゃんはトモヨさんに言ったんだ。……吉沢さんにも奥さんにも、助かりたいという自意識だけがあって、求める愛がなかった。ただの楽観的なロマンチストだった。シロにも劣っていた」
 カズちゃんが、
「わかりやすいでしょう? 自分でない自分になろうとする人間は、愛する者と死のうという願いだけをしっかり抱いてこの世の義務にまみれよう、という覚悟のない人間だということよ。トモヨさんはわかってる。でも、キョウちゃんに左右される人生を送っちゃだめ。別の自分になったんだから、その人生も歩まないと。キョウちゃんも、山口さんも、私たちもね。吉沢さん夫婦も、手に手を取り合いながら生きて滅んでいく覚悟があれば、冷たく扱われたり、仕事を失うことなんか何でもなかったのにね」
「その覚悟をするために、ぼくは毎朝目覚めるんだ」
 メイ子が、
「私たちも毎朝そのために目覚めるんですね」
「うん、その覚悟をもって現実の中で生きるためにね。いま以上の自分になろうとしてくだらない努力なんかしないで、愛する人たちといっしょに滅んでいくという覚悟を確かめるために目覚める。別段階の自分になればつらい経験も増える。でも、ぼくたちはみんな勘のいい現実主義者なので、ロマンチックのマジック眼鏡はかけない。義務を抱いたまま苦しい経験をお受けして生きる」
 カズちゃんが、
「ごはんどきには似合わないご高説だったわ。でもとても気分のいい話だった。私たちにはキョウちゃんしかいない、キョウちゃんには私たちしかいない。そのことを美しい言葉で言ってもらった」
 メイ子が、
「私たち以外の人たちには、神無月さんの言葉は毛嫌いされるかもしれないですね」
「ぼくもようやく自分の本質を受け入れられるようになった。そいつらのためにしゃべることはしない」
「さ、食べましょう。キョウちゃん、きょうはこのまま寝てなさい。あしたから東京遠征よ。こじらせたらたいへん」
「だれも見舞いにこないように言っといて」
「了解。昼ごはんはアイリスから持ってこさせるわ。何がいい?」
「オムライスとミートソース。両方とも小盛りで」
「わかった。氷枕作るわね。ゆっくりお休みなさい」
 私が蒲団に入るをのを確かめ、雨の中へ二人で出かけていった。
 枕もとに置いてあった粉末の風邪薬を飲み、目をつぶる。うとうとして汗が出る。だれの人生にも罠がある。ものごとは変わるという思いこみだ。ほかの町に引っ越し、新しい人に出会い、生涯の友になる。あるいは、恋に落ち、これまでにない充実感を得る。クソのような充実感。充実感に幕が引かれ、混乱が始まる。充実感に幕が引かれる? 幕引きの混乱などまっぴらだ。
 ―同時に何人もの女を愛せるか。同じように愛せるか。
 クソのような質問だ。ふつうの男が考えるやり方では愛せないだろう。そいつらの覚悟のないロマンチシズムがじゃまをする。
 ―自分を悪人と思うことは?
 まちがいなく悪人だ。しかし、私という悪人は、カズちゃんたちのような悪人を別の面倒くさい善人から遠ざけている。悪を一種類に絞る恩恵を与えている。
 ―死。
 いつだったかアウシュビッツの大量の遺骸の写真を見た。一人ひとりの死顔を見た。そこに読み取ったものがある。死を受け入れていること。初めはちがっても、最後には死は安らぎに変わる。彼らは恐れていたが、そのとき初めて理解した。人生という知ったようなドラマは、適当な思いこみと、馬鹿げた願望にすぎない、愛も憎しみも、思い出も痛みも、すべて同じものだ、すべて同じ夢だ。自分は何者かであるという迷妄が生み出した夢だ。眠い。遠くで耳鳴りがする。
 ひと眠りすれば、生きる活力が戻っているだろう。
 二時間ごとに目覚めて、時計に眼をやる。寝汗をビッショリかいている。あのとき加藤雅江といっしょに見舞いにきた杉山啓子は死んだのか。あんなに人形のように美しい女が死んだのか。ヒヤヒヤとした風が吹く。加藤信也も喘息で死んだ。喘息で呼吸困難に陥って死ぬとはどういうものだろう。横地美樹は自殺した。みんな通り過ぎた人間だ。
 お仕着せ姿の素子が昼めしを届けにきた。生きた明るい女。ホッとする。
「汗ビッショリやがね。からだ拭くわ」
「素子、好きだよ。大門であった日から、ずっと」
「うちも。命懸けやわ。暗い目しとるよ。あかんよ。おそがいがね」
 洗面器にタオルを用意し、私を全裸に剥く。
「きれいなからだやなあ、ほんとに。勃っとらん。具合悪いんやね」
 首、背、腹、足指の股まで拭いていく。
「うちを生かしとるキョウちゃんや。死ぬほど好きや。オムライスも、ミートソースも小盛りで持ってきたよ。一人で食べられる?」
「うん、寝っ転がって食う」
 新しい下着とパジャマを着せ、
「食べたらまた寝てな。夜にまたチラッと見にくる」
 唇にキスをして出ていく。




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