百二

「江藤さん、平和台のオールスターのときは実家に帰れますね」
「そんな暇あるかな」
「一足早く前の日にいけばいいですよ」
「ほうやな。オールスターに出られたらな」
「出られるに決まってるでしょう」
 太田が、
「俺も監督推薦で選ばれたら、大分にいってきます」
 菱川が、
「大分についていっていいか。選ばれたら」
「いいですよ。大歓迎です」
 私は、
「今年のオールスターの監督は川上でしょう。得票数がかなり上でも中日のメンバーが監督推薦されることは難しいと思いますよ。ファン投票一位でないかぎり、ベテラン以外はたぶん出られませんね」
 太田が、
「各チーム三名程度の監督推薦ですよね。川上でなくてもだめかもしれないな。いまのところ、神無月さん以外の一位通過当確は、ファースト王、サード長嶋」
 私は、
「え! 江藤さんじゃないの」
 菱川が、
「世間というのはそういうものなんですよ。長嶋・王が常に一番。江藤さんは、監督推薦になるでしょう」
「それもお体裁でな」
「……ぼくの責任だ。川上の復帰を勧めたから」
「いや、川上の人間性の問題たい。今回はやつの正念場だ。中日のメンバーを選ばんと世間から袋叩きになる」
 太田が、
「セカンドの一位が武上です」
「信じられないな。高木さんを選ばないファンの感覚」
「名人すぎて、あたりまえのプレイに見えるんですよ。口惜しいけど仕方ない。サード長嶋、ショート藤田平、ライトロバーツ、センター中さん、レフト神無月さん」
「ピッチャーは?」
「先発江夏、中継ぎ高橋一三、抑え堀内。実際はその分類じゃなくても、ピッチャーはそういう名目で三人が一位で選ばれるんです。キャッチャーは田淵。二十八名定員のうち十一人決まってます。そのうちたった二人がドラゴンズです」
 菱川が、
「チームがダントツトップを走ってても、関係ないんだな」
「ファンちゅうのは特定のチームの固定客ぞ。ほかのチームば歯牙にかけとらんけん、自分のチームの選手に集中的に投票ばする。ほやけん、どのチームもかならず二人か三人選ばるうやろう。オールスターの投票ばするファンについて言うちゃれば、自分の贔屓チームのファン数がほかのチームのファン数と大差ないちゅうこったい。全国区の金太郎さんは別格。ドラゴンズちゅうチームと関係なく投票さるうけんな」
 太田が、
「江藤さんと王は数百票差らしいですよ」
「ちゃんとファンは投票してくれとるちゅうこったい」
 太田が、
「監督推薦枠は十七人。川上が監督なら、たしかに中日から選ぶことは渋るでしょうね」
 私は、
「いくらなんでも得票差が近い選手は選ぶでしょう。選ばなかったら、今度こそ世間から袋叩きですよ。江藤さん、高木さん、小川さん、小野さん、それからたぶん木俣さんも選ばれる。田淵以外にキャッチャーがいないわけだから」
「いや、達ちゃんは選ばれん。いまのところ四位や。監督推薦は森と伊藤勲やな。セカンドは土井、ショートは黒江、サードは松原。三位以下のモリミチと修ちゃんは外される。ましてや太田や菱川や島谷は手が届かん」
 菱川が、
「たしかにそうですね。水原監督は前年度最下位チームなので、コーチとしてさえ出場できないわけだし。三位以下の得票の中日のメンバーは外されますね」
「外野の推薦は、高田、山本一義、山内やろな」
 私は、
「今月半ばに監督推薦の結果が出るんですよね。ドラゴンズのメンバーが軽視されるような事態になったら、オールスター出場を辞退しようかな」
「そりゃ、いけん、金太郎さん。オールスターを出場辞退すると、オールスター明けの十試合に出れんゆう罰則がある。故障が原因で辞退しても、その罰を科されるんぞ」
「そうなんですか! 十試合はきついなあ」
「一試合でもきついわ。金太郎さんが出んかったら、みんなやる気をなくしてまうやろうもん」
 大正橋から寂れたビル街を戻っていく。ほとんどのビルが三階建てのマンションだ。こういう街を高級住宅地と言うのだろう。江藤が、
「大風呂にいくか」
「いきましょう!」
         †
 会食では、お替わりオーケーの一人用スキ焼と、八十グラムのステーキが出た。抜群にうまかった。あしたの球場持参の弁当もスキ焼弁当に決めた。会の途中で足木マネージャーが立ち上がり、
「水原監督から大事な発表があります。食事をつづけたまま聞いてください」
 水原監督が立ち上がり、
「突然だが、板東英二くんが今年かぎりで退団することになった。来年度はうちのピッチングコーチとして入閣する予定だったが、みごと反故にしてくれた。いくら叱りつけてチームに留まるように説得してもだめだった。きっかけは川上事件だよ。もう黙っていられないと言うんだ。巨人一辺倒のこの一党独裁的な球界の体質を、メディアを通して批判しながら、有能な選手をかばい、育てるべく、プロ野球界の質的向上を目指していきたいとね。あしたの試合を観たあと、名古屋に戻って、CBCの野球解説者として米国視察の旅に出るそうだ。記者会見はせず、球団発表にまかせるとの意向だ。実際、選手登録の期限は今期いっぱいなので、何度か登板のチャンスはあるだろう。じゃ、板東くん、ひとこと頼みます」
 浴衣姿の板東がにこにこ立ち上がった。一転、引き締まった表情になり、
「みんな、腹に据えかねとると思う。チームがこんなに好調なのに、こんなに毎日不愉快なのはなぜやとな。ワシは頭が怒りで爆発しそうやで。金太郎さんのホームランを見るたびに、目が痛くなるのはワシだけでないやろ。刺されて死ぬところやったんやで。三原さんや、金田や王や、平松や伊藤勲がどんなええこと言ってくれても、ちっとも変われせんわい。巨人帝国や。巨人の天下や。もう何をやってもだめやとわかった。幸いワシは舌がよう回る。これで一刻も早くなんとかしよう思った」
 怒涛の拍手。
「怒りを治めるために、思い出話、一ついくわ。飲み食いしながら聞いて。愚痴っぽい自慢話になるで。マスコミ、オフリミットやからええやろ。宮田が八時半の男なら、ワシは八時四十五分の男やったんや。しかし、ぜんぜん騒がれんかった。巨人の選手やなかったからや。ワシがストッパーの元祖やで。大リーグの投手分業制をいち早く取り入れたのが中日の近藤貞雄さんやった。あの人がワシをリリーフエースに抜擢した。肘の持病を抱えとったこともあって、短いイニングを投げさせてもらえるのはありがたかったわ。おかげで、昭和四十年に十二救援勝利、四十一年に十二、四十二年に七。先発勝利があたりまえの時代に堂々たるもんやで。そんなええピッチングしとってもテレビに映らんのよ。ワシの出番のある試合はもつれて長引くことが多くてな、ナイター中継は七時から始まるのがふつうやから、中継が八時四十五分で終わるころに登板するわけや。ほやからワシの人気は出んかった」
 みんな笑う。板東も苦笑いする。
「ワシは背番号でもええ思いをせんかった。30番を二度、14番を二度つけとる。徳商時代に夏の甲子園で、いまも破られとらん大会八十三奪三振をマーク。昭和三十四年に鳴り物入りでドラゴンズに入団したけど、もらった背番号は30やった。中日では戦前から歴代監督が背負った数字やで。選手がそんな番号つけるのはワシが初めてやった。騒がれて入団したのに、空いてる数字がない。大きな番号いうのは二線級がつけることが多いから、ワシはそれがいやでいやで……」
 むかしを知る本多二軍監督が、
「板ちゃん、それは誤解だ。三十三年まで指揮官だった天知監督が退任して、背番号30が浮いた。新監督の杉下さんが現役時代と同じ20番にこだわったことから、板ちゃんがエース番号を引き継げなかった。そこで話題集めも兼ねて監督ナンバーを背負わされることになったんだよ。ぜんぜん二線級の意味じゃなかったんだぜ」
「ほお、そうやったんですか。愚痴を言う意味がなくなってきたな。とにかく、三十六年濃人監督になって、晴れて14番をもらった。その年に球団最年少の二十一歳で開幕投手になり、十二勝も挙げた。それがたった二年で30番に逆戻り。杉浦監督とソリが合わんかったからや」
 水原監督が、
「柳川事件だね」
「ほうです」
 本多二軍監督が、
「知らない人たちに説明するよ。毎年三月一日から、社会人野球終了時の十月三十一日まで八カ月間、プロは社会人をスカウトしないようにという決まりがある。中日がそれを破って、昭和三十六年の四月に日本生命の柳川福三外野手と契約し、入団を発表した。社会人野球協会は怒ってプロ野球界との断絶を宣言した。いまそこに座っている門岡も、高校に退部届を出していないうちにスカウトした。それで日本学生野球協会もプロ野球界と断絶した。それ以前から学校や企業側が、将来アマチュア指導者候補として目をつけた人材をプロに入団させないように、金に糸目をつけずに入学・入社させて囲いこむという汚いことをしていた。だから中日球団側の主張は一貫して、先走ったように見える行為はすべて職業選択の自由を奪うのはおかしいとの考えから出ている、というものだった。そうやって採った中商後輩の柳川を杉浦監督が猫かわいがりして、板ちゃんから14番を奪って柳川につけさせた」
 板東が、
「西沢コーチはかわいがってくれたけどな。その年のオフにワシは遺恨を断ち切って、杉浦監督をワシの結婚式に招待したんや。そしたらあろうことか、彼は祝辞で、来年は板東を使わないと言ったんや。披露宴が台無しになったで。よほど目の敵にしとったんやな。四十年に西沢さんが監督になって、14番に戻った。柳川は44番。いっちょ活躍せんでこの年かぎりでクビになった。一打席しか立たんかった。三振やった」
 一人の思い出の宇宙は広い。知らない話がどんどん出てくる。
「四十年からワシは勝利を呼ぶ男て言われた。肘の手術もちゃんとしたし、いまでも無理すればまだ投げれる思う。コーチを兼ねてこっそりクローザーかなんかやって、ドラゴンズで長生きしようかとも考えたけど、今回目に余る事件がつづいて吹っ切れた。ロートルで投げとるより、球界全体の役に立たんとあかん思ってな。長々と愚痴をしゃべったのも考えがあってのことや。監督の独裁はロクな結果にならんゆうことや。そういうことを解説者はいっちょしゃべってくれん。ワシはしゃべる。そこんところようわかって、みんな笑って送り出してくれや」
「オー! がんばれよ!」
 大拍手、蛮声、怒声。
「みんな幸せやで。水原、三原みたいな自由放任野球の名将はめったにおらん。そういう人でなくちゃ、セ・パ両リーグで優勝させることなんかできん。そこへ神無月郷ゆう、ごつい金棒を持った五月五日生れの鐘馗(しょうき)が降ってきたんや。名将に悪魔祓いの金棒を授けようとして降ってきた神さまをドブに突き落とすやつがいたら許さんやろ」
「許さん!」
「金太郎さん、あんたは野球の天才なだけやないで。人間の守り神と信仰される鐘馗さまやで。ここにいる連中はみんな野球の天才たちや。でも神さまやない。神さまは自分の作品である天才を引っ張っていかんとあかん。ホームランを打ちつづけて、みんなを引っ張っていかんとあかん。降りかかる火の粉は、ラジオ、テレビで吹き飛ばしちゃるからな」
「板ちゃん!」
「板東さん!」
 江藤を先頭にドッと押し寄せて、握手攻めになった。私と小川も遅れて寄っていって握手した。
「金太郎さん、明石キャンプのご無礼、お許しあれ。アホやったもんで、神さまやとわからんかった。くだらん置き土産を残してった浜野も許したれ。そのうちワシみたいに気づくときがくる。あれは取り入るのがうまい腰ぎんちゃくや。巨人でもしばらくはうまくやるやろ。ワシや健太郎に取り入ったみたいにな。しかし、野球は政治やない。最後は才能の勝負や。常勝巨人ではあまり使ってもらえんやろ。ベンチメンバーで長つづきはするやろけどな。さあ、話したいことはぜんぶ話した。飲んで、食おう」
 彼はニコニコ顔に戻ると、手招きされて水原監督たちのテーブルへいった。


         百三

 六月七日土曜日。七時起床。快晴。気温十四・九度。うがい、歯磨き。
 朝食のあと、国鉄芦屋駅を通って阪神線芦屋駅まで独りで散歩する。大原町の閑静な住宅街を歩いて、国鉄の駅舎に出る。平屋の瓦屋根の駅舎だ。庇に〈芦屋駅〉の看板。西武新宿線の井荻や上石神井などの駅と似ている。橋上駅化するための工事が始まっている。猫の額のロータリーに松の木が数本植わり、阪神タクシーが二台停まっている。人の姿は数えるほど。母子連れが手を引き合って歩いている。駅舎の角に赤い丸ポストが立っている。どこにでも見かける商店街ふうの駅前道路にバスの停留所がある。バスがやってきた。乗降客の男たちはほとんど背広、女たちは若きも中年もミニスカートだ。
 大正橋から芦屋川河畔に出る。ため息が出るほど並木が美しい。背の高い建物はほとんどなく、豪壮な邸宅が多い。川沿いを阪神芦屋駅に向かって歩く。業平橋まできて、市電にぶつかった! 胴から下が焦げ茶色、上がクリーム色のずんぐりした車体だ。しばらく眺めてから、松並木を歩いて阪神芦屋駅へ。阪神電車芦屋駅のプレート。橋上駅のホームに乗降客がかなりいる。形ばかりの屋根がある。防風壁はない。振り返ると、六甲の山々の景観がすばらしい。風が吹き通す駅なので、タイガースの応援歌ではないが、寒い日は六甲おろしの風に身を切られるだろう。
 ガードをくぐって横道に入りこんでみる。三階建ての芦屋市役所。三階建ての重厚な白レンガ造りの精道小学校。それを過ぎると、古すぎる民家や商店の軒並。明治大正期から変わっていない景観にちがいない。ひょっとしたら江戸以来のものを補修しながら生き永らえてきた家々かもしれない。自転車に乗った主婦が通る。
 寂れた道を阪神芦屋駅のほうへ引き返す。遠くに六甲の山並。レンガのアーチ門の芦屋警察署。古さが何とも言えない。川沿いに出る。見はるかす松並木。なるほど〈松風通り〉か。カトリック教会の緑の尖塔。どこもかしこも緑だ。青空を呼吸する。
 幅広の業平(なりひら)橋の東詰に出る。右折して少し直進し、左折して細道に入る。旧家の軒並を過ぎ、線路に突き当たって跨線橋を渡る。たぶん国鉄の駅前からつながっている通りに出たようだ。右折して、大正橋へ歩いたときに見覚えた商店街をひたすら歩く。駅前にたどり着く。小一時間歩いた。薄っすらと汗をかいている。
 一般道から階段を昇り、回廊を歩いて、竹園旅館の玄関前に立つ。フラッシュを浴びせられながら、二十人ほどにサインする。フロントですき焼き弁当を注文する。部屋に戻って、腹にかいた汗のせいで激しい下痢。シャワー。二時間ほど仮眠。起きて、グローブとスパイクのツヤ出し、バットの乾拭き。すべて自動的にやっているのが不思議だ。深いさびしさに襲われる。早くさびしさを紛らす球場へいきたい。甲子園へは歩いていけばどのくらいかかるだろう。一時間? 一時間半? 何を考えてるんだ。バットを提げてトボトボいく気か。
 ホテルの精肉部にいって、評判のメンチカツ三十枚を北村席宛てに郵送してもらう。あしたの昼には届くとのこと。何をやっている。さびしい。
 ユニフォームに着替え、ダッフルを担ぎ、バットケースを持つ。フロントでスキ焼弁当を受け取る。四、五人が好みの弁当を受け取っている。ほかの連中は甲子園の選手食堂で食うつもりだろう。
 四時、回廊下の一般道に降りる。カメラを手に整然と居並ぶファンたちの声援に背中を押されて阪神バスに乗る。高まり、静まる毎度の歓声、嬌声、激励のかけ声。ものものしい警戒。ホテルマンたちの丁寧な挨拶。丁寧に返す。返さない選手もいる。
 二十分の街並が始まる。バスガイドがついているが、西鉄バスのように風物案内的なことをしゃべるわけではなく、行儀よく助手席に座っているだけだ。時おり通りかかる市電に目が和む。長谷川コーチが、
「四、五年後に全廃されるそうだ」
 朝からだれとも口を利いていなかったので、うれしくなってしゃべりだす。
「ここもですか。そう聞いただけで、道の趣がないように見えてきますね。車用に整備された路をいく自動車や、人や、その周りの新しい建物がぼんやり浮かんできます」
「そうだな、締まりがない」
「締まりがないのは現代文明の特徴です。便利になると人は怠けますから」
「野球はだいじょうぶだよ。いつまでも手作業だからね」
「はい」
 江藤が、
「ようやく金太郎さんがしゃべったばい。朝独りで散歩にいって帰ってきてから、めし食うときも、廊下を歩いとるときも、バスに乗るまでずっと思いこんだ顔をしとったけんな。話しかけられんかった」
「すみませんでした。血液が沈滞してると言うか、意識が死んだようになってる日がときどきあるんです。過去や現在や未来のことを思わないときです。時間と関係なく、命のことを思うときです。とくに周囲の人間の命を思うときです。出会うべくして出会った人といつまでいっしょに生きられるだろうかと……」
 水原監督が、
「すまないね金太郎さん、みんな金太郎さんばかり見てるんだ。金太郎さんのことが気になってしょうがないんだよ。金太郎さんは、ほんとに私たちのことを大切に思ってくれてるんだね。……でも永遠にはいっしょに生きられないんだ。悲しいね」
 太田が、
「水原監督! いつまでもいっしょに生きましょう! この瞬間だって〈いつまでも〉の一部でしょう。監督の言う永遠は頭の中で作り上げた未来です。ほんとうの永遠はいまのこの瞬間ですよ。だから監督も、俺たちも、神無月さんといっしょに永遠に生きられます。悲しくなんかないですよ」
 そう言いながら目頭を拭っている。水原監督もタオルを出した。菱川がウウッと嗚咽し、江藤も中も高木も一枝も手で涙を拭った。長谷川コーチが、
「浜野言うところの〈甘ちゃん集団〉が、野球以外にできることがこれか。揃いも揃って泣くことしかできないとはな。私も泣くよ!」
 みんな笑いながら目をこすった。
 国鉄芦屋を過ぎ、宮川から国道四十三号線に入る。打出、香櫓園、今津、久寿川と一本道を走ること二十分。ツタの葉がびっしり茂る甲子園球場に到着。甲子園駅からつづく松並木が松風通りと同じくらい美しい。
 人波。甲子園駅ばかりでなく、阪神梅田駅や神戸三宮駅から球場に向かう道は大混雑だ。国道沿いに入場券売場がAからFまで並び、試合開始二時間以上も前だというのに、ものすごい群衆が列をなして球場を取り巻いている。警官が列を仕切っている。券売口、入場口ともにアーチ型で、一階部分のすべてをツタに埋めこむようにぐるりと取り囲んでいる。学生帽、麦藁帽、手拭、坊主頭。ナイターの行なわれる日には、試合開始の三時間半前の午後三時になると、早くも外野席の入口の門が開けられる。
 彼らを遠く見て、三塁側売店基地棟一階駐車場に入る。甲子園に一般駐車場はない。先回とちがい、数十人のファンが仕切り鎖の外に集まっている。人垣の前に、警備員に混じって、サラリーマンふうの背広を着た松葉会組員が両手を広げて三人、四人立っている。バスを降り、彼らに礼をして通用口に入る。一般の人たちが立ち入ることのできない陸橋を通って、監督コーチ控室やインタビュールームのある広い回廊へ。会場警備員が何人か立っている。
 ズズッと奥へつづく回廊の途中の選手食堂前から、さらに細い回廊に曲がりこむと、両側に用途のよくわからない部屋や、素振り部屋や、風呂場のドアが並び、廊下の壁にはフェアプレーを心がけるようにといったコミッショナー通達が貼ってある。素振り部屋に入って鏡の前に立つ者もいれば、さっきの回廊を五十メートルほど歩いてラッキーゾーンの投球練習場に向かう者もいる。きょうは小野と伊藤久敏だ。細い回廊のいちばん奥のドアがロッカールームになっている。内部はきわめてシンプルで、パイプ椅子、狭いロッカー、安っぽいスリッパといった按配。ほとんどのビジターチームは宿舎からユニフォームでくるので、連戦の場合ロッカールームは荷物置き場になる。高校野球のときはマスコミ関係者に開放されるため、ロッカーはすぐ撤去できるように可動式になっている。ロッカールームの奥のドアがベンチに通じている。一度階段を降り、また上がらなければならない。
 二列三十脚プラスチック椅子のベンチに入る。椅子の背面にラバーが置かれている。ダッグアウトは意外と深く掘られていて、捕球のために飛びこんだらケガは必至だ。一列目の上は天井がないが、二列目の上はすぐ天井だ。ちょっと油断すると頭をぶつける。ベンチの左端には洗面台がある。使ったことはない。ベンチの左横は、体操の平均台のような細長いシートを渡したカメラマン席。座り心地はぜったいよくない。寒いときや雨のときはたいへんだ。
 ベンチ前に立って見る球場の景観は球場のすり鉢型のせいか、案外狭く見える。グランドの土はきめ細かく、適度の湿り気があり、ココアパウダーのようだ。私としては、もっと重く足裏に響く中日球場の土を絶妙だと感じる。
 大聖堂の天蓋のような大鉄傘(さん)を見上げる。傘の下に入場者の声が響く。芝がこの上なく美しく輝いている。バックスクリーンが雄々しくそびえている。
 四時四十分、ベンチ気温二十・一度。タイガースのバッティング練習終了と同時に、ドラゴンズのバッティング練習開始。バッティングピッチャー大場隆広。二年間未勝利のピッチャーだ。イの一番にケージに入り、デンスケ若生のボールを頭に描きながら、大きなドロップを十球投げてもらう。若生はドロップピッチャーではないが、目を慣らすためにやる。水原監督と田宮コーチが見守る。レフト前に強い打球を十本打って外野に回る。同じように江藤がドロップをライト前に打ち返している。
 巨大球場がドラゴンズのバッティング練習開始から十分もしないうちに、人で埋まり尽くし、通路にもあふれる。
 スタンドの一角に、鉢巻を締め、旗や幟を振る人びとがひしめき合っている。阪神タイガースの私設応援団だ。宗教的な人びと―ひろゆきちゃんの家の夜の群居の法悦。母のすがった藁。彼らは人とともに活力にあふれる命を生き延びるためではなく、生動する肉体のにおいのしない命を独りよがりに生き延びるために群れ集う。人とともに生きるということは、すべての人が日々死んでいく存在であることに驚きながら、自分の命を含めたあらゆる命をいとおしいものと見なすことだ。それなのにあの集会にはその慈愛のにおいがしなかった。スタンドの応援団にもそのにおいがしない。生動する肉体のにおわない集会に絶えず煩わされると、驚きと慈しみを忘れる。
 あれから私は、世界にはいろいろな宗教があることを知った。それらはみな、他人の命も自分の命もいとおしんでいなかった。感激を鎮めるように諭していた。日々の死から逆照射される日々の豊かな生に意義を与えていなかった。私は生来、人生をそういう〈教え〉とは相容れない、驚嘆と慈しみにあふれたものと捉える大望を持っていたので、集う人びとからは何の影響も受けずにしまった。
 一枝、中、葛城、菱川が、鏑木とフェンス沿いに走りはじめる。私も混じる。瞬間、おびただしい数のシャッター音が破裂し、五万人を超える観客から地鳴りのようなどよめきが湧き起こった。江藤もランニングに加わる。
「いつかドラ一はウンコだと金太郎さん言っとったな。さっきの大場はおととしのドラ一たい。いい速球とドロップの切れるピッチャーでな、期待されとったんばってん、サッパリ」
 一枝が、
「一軍には四回しか登板しなかったんじゃない?」
「おととしの九月の巨人戦で、山中が三回に三点取られ、リリーフの久保が五回に一点取られたあと、その裏広野のスリーランとワシのソロで同点にして、さあ追い上げ開始というときに、六回に出てきた井手が、柴田フォアボール、黒江ツーラン、長嶋ヒット、王二塁打で一点、森ヒットで一点、田中久寿男三振、末次サードライナー、四点取られてツーアウトで交代した。八対四。去年までおった水谷ミチオが一人抑えてチェンジ。七回に一人押さえたところで大場が出てきて、三者連続フォアボールを出しよった。当然ピッチャー交代。そのあと北門が抑えたばってん、八回に代打の国松にスリーランば打たれたりして、結局十一対五で負けた。四点取られた井手はピッチャーの才能がなかけん、西沢監督の温情がアダになったちゅうくらいですませらるうばってん、よか速球持っとって、ドラ一で入団した大場が三連続四球は根性がたるんどる。ワシャ頭にきて、大場がシラーッと座っとるベンチにグローブば叩きつけたとたい」
 葛城が、
「あれはすごかったな。グローブが撥ねて大場の顔に当たった」
「驚いてワシを見たけん、下で出直せ! て怒鳴った」
 菱川が、
「出直すどころか、二年間バッティングピッチャーのままですね」
「江藤さんが実力をうまく出せない人に腹を立てる気持ちもよくわかりますが、久保さんというピッチャーの代わりに井手さんを出す必要はなかった気がします。久保さんは五回まで一点に抑えたんですから大したものです。続投させるべきでした。大事な場面で実力のない人を試してみようとした西沢監督は、勝ち試合を逃がしましたね。才能のない人に温情を与えることは致命傷になります。江藤さんは才能のない人を叱れないタチです。でも、ほんとうは井手を叱って身の程を知らせるべきでした。……その四点がなければ勝ってたと思います」
「そうやろうなあ。癇癪の向けどころがちごうとったかもしれん。大場も気の毒したのう。井手はいまだにバッティングピッチャーにもなれん男やのにのう」
「ところで久保さんって、だれですか」
「久保征弘。近鉄で最多勝も最優秀防御率も獲った男や。下り坂になってから、おととし中日に移籍してきてゼロ勝四敗やった。今年阪神に移ったばってん、二軍におるげな。あの年は、健太郎と板ちゃん以外はみんなウンコやった。よう二位に留まったわ。健太郎が二十九勝、沢村賞の年やったからな。板ちゃんも十四勝挙げたし。今年はその板ちゃんがウンコにならんうちに抜けてもうた。去年あたりからドラフトのウンコが溜まってきたばい」
 菱川が、
「明石でしばらくいっしょに練習したとき、今年で自由契約だろうって、さびしそうに言ってましたよ」


         百四

 二周目に入る。鏑木がベンチに去り、太田が加わる。
「ウンコって、たとえばだれですか」
 私が江藤に尋くと、
「ドラフト始まって五年やが、ドラ一のウンコだけを挙げていくと、一年目の豊永隆盛」
 聞いたこともない名前だ。中が高木の打球を拾ってホームベースに投げ返しながら、
「豊永は一軍に一度もきたことがないね」
 一枝が、
「四十一年に一回とワンアウトまで投げたことがある。八人にヒット三本打たれて、二点取られた。それっきりだ」
 江藤が、
「二年目の大場隆広、この年はドラ一だけやなく八人ぜんぶウンコやった。三年目の伊熊博一、四年目の土屋紘、五年目の浜野百三。浜野はまあまあとして、みんなウンコやったと思っとったところへ、金太郎さんが土屋に助け舟を出した。ワシも助言した。今年土屋は花が咲くかもしれん。そろそろ星野秀孝に顔を出させるけん、もう少し待ってくれ。ドラ一以外でどうにかものになったのは、初年度二位、三位の、新宅、広野、三年目二位の伊藤久敏」
 菱川が、
「その年の井手はカックラキンでしょ。よく三位で指名しましたね」
「信じられんたい。四年目は江島、若生ぐらいか。それでも大したことなか。とにかくドラフトで漁った選手はほとんどウンコやな」
 私は三種の神器に移り、
「そういう悪い制度は永遠につづきますよ。人気を好んで才能を嫌う庶民に波長を合わせるからです。ぼくたちの代で野球は終わります。連覇というものは消えて、庶民といっしょに騒ぎ立てる小粒な者同士のお祭り騒ぎになります。見るべきものはありません。いまの野球を楽しみましょう」
 太田が腕立てをしながら、
「俺も最後のプロらしくがんばります。ドラはだめだと言われないようにね」
 葛城が腹筋の首をもたげ、
「ドラじゃないけど、俺も最後のひと踏ん張りだ。五十試合は出してもらいたいなあ」
 私は、
「葛城さんはドラゴンズ何年目ですか」
「六年目。五年連続でほとんど全出だったんだけど、今年から減ったね。五年間でホームラン五十五本、打点二百六十一、打率二割七分四厘。悪くないんだが、アピールポイントがなくて。齢も……ね」
「一流の成績ですよ。そこまでとは知りませんでした。今年は太田と菱川さんと交代で、もっと出場できますよ」
「そうあってほしいね」
 五時四十五分から阪神の守備練習十五分間。それにつづくドラゴンズの守備練習の十五分間は、中と菱川と三角キャッチボールをするだけですませた。肩にも肘にも違和感はない。カメラマンたちが寄ってきて、キャッチボールの様子を撮る。ライトスタンドから野次が飛ぶ。
「なに仲良うやってるんや、オカマとちゃうか!」
「ホームランばかり打ちおって! 野球盤やっとるんとちゃうでえ!」
 かと思うと、センターのスタンドあたりからは、
「甲子園で百号見せてくれェ!」
「オールスターを観に東京と福岡へいくねん!」
「中ァ! 中年の星!」
 中が手を振る。レフトスタンドからは、
「神無月くん、ボールが飛んできたら、たまにはエラーしてや! 少しはモッサイとこ見たいさかい」
 私は腕で×印を作る。レフトスタンドが沸く。甲子園球場は一塁側三塁側関係なく、スタンドほぼすべてを阪神ファンが埋め尽くす。観客たちは総じて後楽園とはまったく雰囲気がちがう。後楽園は落ち着いたホワイトカラーふうの比較的生活レベルの高いと思われる人たちが多く、値段の高いネット裏には、大企業の重役や高級官僚といった雰囲気の人物たちが座り、わずかに廉い内野席には中小企業のサラリーマンや、学生や、少年たちが座っている。応援団が占拠しているさらに廉価な外野席ですら、ビール片手のビジネスマン特有の空気がただよっている。
 それに比べて甲子園は、職人や工員、さらに日雇労働者といった、関西地区の典型的な工業地帯に住む労働者が多いようだ。そういう泥くさい威勢のいい男たちが、一日の重労働を終え、ストレスを発散させるために球場へ足を運ぶ。地下足袋にねじり鉢巻といったスタイルの彼らが、決勝ホームランに大喜びしてグランドに飛び出し、旗を振りながら選手といっしょにダイヤモンドを回る光景を何度かテレビで目にしたことがある。もう一度鏑木がベンチから出てきて、
「ダッシュ忘れてますよ!」
「オーライ!」
 みんなでライトポールまでダッシュして、そのまま三塁ベンチにUターンする。ロッカールームに集い、江藤たち数人とすき焼き弁当を食う。残りの二十人近くは選手食堂へいった。あっという間に平らげた菱川は、
「食い足らないな」
 と呟くと、鏑木に頼んで〈甲子園カレー〉を買いにいかせた。
「内野席の売店がいちばんうまい。ホルモン入りね」
「承知しました」
 鏑木はすぐに戻ってきた。
「満員で無理でした。代わりに焼鳥買ってきました」
「サンキュー、ベター、ザン、ナッシング」
 ムシャムシャ串からむしり取って食う。
「菱川さん、英語できるんですか」
「かたことね。生まれの事情が事情だから」
 六時半、水原監督と後藤監督がメンバー表交換。後藤監督の顔を見てハッとする。歯の出具合といい、ずんぐりとしたからだつきといい、小山田さんそっくりではないか。戦後五年間の大阪タイガースの主力選手だったようだ。チームスローガンを〈お祭り野球〉と言ったことで有名な人だ。好感を抱く。
 頭上高く雲がたなびいている。暮れかかる空を見上げながら眼鏡をかける。野球場の空はいつも美しい。スタンドに支柱を突き出すスフィンクス型の照明塔。えも言われぬたたずまいだ。スコアボードに旗が五本。かすかにライトに吹き流されている。土と芝のコントラストが目に沁みる。
 一塁側スタンド、ライトスタンドの太鼓、笛、鉦、ラッパ。黄色と黒の縞模様の応援旗が波打つ。三塁側スタンドとレフトスタンドの観客は応援を控え、和やかにざわめいている。二十人に余るトンボたちのみごとなグランド整備の合間に、スターティングメンバー発表。
「阪神タイガース対中日ドラゴンズ、六回戦のスターティングメンバーを発表いたします。先攻は中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番ライト菱川、ライト菱川、背番号10、七番サード葛城、サード葛城、背番号5、八番ショート太田、ショート太田、背番号40、九番ピッチャー小野、ピッチャー小野、背番号18」
 きょうの太田はショートを守る。二打席当たりが出なければ一枝か島谷に代えられる。
「後攻は阪神タイガース、一番ショート藤田平、ショート藤田、背番号6、二番サード小玉、サード小玉、背番号3、三番ファースト和田、ファースト和田、背番号12、四番ライトカークランド、ライトカークランド、背番号31、五番センター藤井、センター藤井、背番号19、六番キャッチャー田淵、キャッチャー田淵、背番号22、七番レフトゲインズ、レフトゲインズ、背番号35、八番ショート吉田、ショート吉田、背番号23、九番ピッチャー若生、ピッチャー若生、背番号27。球審谷村、塁審一塁福井、二塁山本、三塁大谷、線審ライト井上、レフト鈴木、以上でございます」
 阪神のメンバーが守備に散り、三十二歳の大男若生がマウンドに上がる。若生は三十を過ぎてから球威が増したと言われているけれども、しっかり腕を振るスリークォーターのフォームが整っているように見えるだけで、球威はそれほどとは思わない。やはり外から内へするどく落ちてくるカーブが決め球だ。フォークはコントロールが悪いので決め球にならない。
「プレイ!」
 谷村の裂帛のコール。中が入ったバッターボックスがベンチから遠い。しゃがみこんで構える。右足でリズムをとる。ネクストバッターズサークルの高木の背番号1がベンチの右に見える。内野グランド一面にスフィンクスの複眼の光が降り注ぐ。外野は薄暗い。それがいい。
 デンスケの初球、胸のあたりを速球が通過した。ストライク。いい予感。見逃されたボールは決め球に使わない。見逃しを考えて次もくる。二球目、速球が内角低目にきた。掬い上げて目の覚めるようなライト前ヒット。ピッチャーは読まれたらダメだ。三塁側スタンドがいっせいに騒がしくなる。鉦、太鼓の連打。旗も振られる。胸が躍る。生きている。ここしか生きる場所がない。
 高木、バッターボックスへ。江藤ゆっくりネクストバッターズサークルへ。膝を落とし、バットを肩に立てかけ、グリップを腰まで引いて静止した。初球、内角のするどいカーブ、空振り。
「ヨ!」
「ホー! モリ、いこう!」
「イヤー!」
 合いの手が始まった。ドクドク血管の音がする。田宮コーチが、
「落ちる球、落ちる球!」
 そのとおり。ここからは変化球の嵐になるだろう。二球目、中スタート。外角へストレート……落ちた。フォークだ! つんのめって見逃し、ストライク。中が滑りこんでセーフ。あれに手を出しても当たらない。高木は両手に砂をこすりつけた。私は叫んだ。
「一球だけストレート!」
 ツーナッシングからの三球目、中ふたたびスタート。高目の速球。クソボール。空振り三振。いい仕事だ。田淵三塁の小玉へショーバウンドの送球。中タッチを回ってよけてセーフ。大歓声。高木の仕事人ぶりに感心しながらネクストバッターズサークルに向かう。片膝を突く。
 バットを長く持った江藤の美しい立ち姿。初球外角のカーブ。ストライク。江藤、ピクリともしない。水原監督のパンパンがようやく始まる。二球目、外角へ渾身の速球。腰を入れて振り抜く。セカンド頭上でラインドライブしていく。怒り肩が一塁へ突進する。森下コーチの叫び声。
「いった、いった、いったァ!」
 ベンチの叫び声が呼応する。
「ヨッシャー! イッター!」
 ライトのカークランドが塀ぎわで空しくジャンプ。線審鈴木の白手袋が激しく回る。ラッキーゾーンで投球練習をしていた権藤がボールをキャッチしてスタンドへ投げこんだ。すぐにグランドへ投げ返された。中日ベンチの笑い。ボールボーイが拾いに走る。江藤はのしのしとダイヤモンドを回り、水原監督とタッチ、群がる仲間に抱えられてホームイン。二対ゼロ。
「江藤選手、二十九号ホームランでございます」
 江藤と握手し、バッターボックスへ。三塁側スタンドの歓声と拍手が球場全体にこだまする。
「若生、カーブが曲がっとらんやんけ!」
 ノドを絞る怒声。
「きょうもアベックご招待か! ええかげんにせえよ!」
 甲高い叫び。ヘルメットを取り、谷村に向かって礼をする。狙いはフォーク一本。若生がマウンドの足場を均す。ロジンバッグをつかんでポトリと落とす。粉煙が上がる。猫背に振りかぶって、初球、外角シュート、ボール。わざとつんのめる格好をする。外角を狙っていると思わせるためだ。田淵が小さい声で、
「だめだめ、騙されませんよ」
「内角こない?」
「だめだめ」
 水原監督のパンパンパンパン。私は三塁を見やって笑いかける。二球目、外角カーブ。ベースをかすめてストライク。またハーフスイングをしてつんのめる。
「だめだって、神無月くん、だめ、見えてる」
 三球目、顔の高さへストレート。ボール。田淵は考えに考えている。フォークを外角へ落とすつもりだ。四球目、若生が投げ下ろしたとたんに私は、
「フォーク!」
 と叫んだ。フォークが外角から真ん中へ落ちかかった。失投だ。むだのない理想的なフォームで掬い上げ、ギュッと左掌を押しこんだ。両腕のモーメントを最大限に利かす。ロケットの感触。
「ドヘェェ!」
 歓声が渦巻く。森下コーチが飛び跳ねる。群青の空へ白球が伸びていく。
「史上初ゥ!」
 森下コーチが空に向かって叫び上げた。白いボールの影がスッと看板の外へ消えた。球場がワーンと鳴る。スフィンクスが微笑む。小さな水原監督も飛び跳ねている。
 ―ついにやった。甲子園球場の場外ホームラン!
 瞬く間にホームまで花道ができた。水原監督と抱き合いながら跳ねる。フラッシュが稲妻のようにきらめく。江藤が、
「百九十メートル!」
 と叫びながら抱きつき、走行を妨害する。みんなで飛びついてくるので前へ進めない。振り切ってホームインする。谷村がしっかりとホームベースを指さす。田淵がじっと見下ろす。
「神無月選手、六十九号のホームランでございます。なお、阪神甲子園球場創設以来、初めての場外ホームランでございます」
 地響きのする歓声と拍手。江藤と菱川が私の両ももを抱え上げ、ベンチへ運んでいく。抱き止めた徳武の抱擁。半田コーチのバヤリース。


         百五

 田宮コーチが、
「足木さん、あのボール、手に入るかね」
「百パーセント入りません。神無月郷の日本初の甲子園球場場外ホームランですよ。手に入れた人間はだれも手渡しません。百万円出してもだめでしょう」
 宇野ヘッドが、
「金太郎さん、百号は甲子園で打て。ボールがグランドに戻ってくる」
 ベンチが笑いで沸いた。
 ようやく木俣がバッターボックスに入った。ワンアウト、ランナーなし。三対ゼロ。初球、内角をえぐる速球。反り返ってよけた左袖をかすった。デッドボール。木俣はうれしそうにバットを投げ出して一塁へ走った。六番菱川。美しい下半身の据わり。きょうもライト狙いか。初球真ん中高目へスピードボール。ハーフスイング、ストライク。直球狙いだ。いや、私と同じ考えなら、いまのはフェイクだ。外角の変化球を待っている。若生無意味なファースト牽制。ベースに戻った木俣がわざとらしく両手をセーフの形に拡げる。ネクストバッターズサークルに葛城の背番号5がある。二球目、外角低目のカーブ、菱川のバットが快音を発した。センター藤井とレフトゲインズが走る。抜いた。菱川豪快に一塁を蹴る。木俣どすどす三塁へ。藤井二塁へ送球。吉田タッチ、セーフ。
 七番葛城。
 ―葛城さん! 犠牲フライなど考えずにホームランを打ってください。
 百七十三センチ、八十三キロの幅広のからだが両肩をすぼめて立つ。全身をバネにしてミサイルを弾き出す構えだ。二度も打点王を獲っている。最多安打、最多塁打も二度記録している。チャンスに強いのだ。
 初球、外角カーブ。ボール。大毎オリオンズで八年間共に戦った同期の桜に向かって若生智男が淡々と投げる。二人とも同じ昭和三十九年にオリオンズを追われた。私が思うほどたがいの想いは深くないのかもしれない。セリーグにきて、すでに五年も対決してきた仲なのだ。どんな想いがあっても、勝負師は勝負をつけなくてはならない。二球目、内角シュート、低目ぎりぎりストライク。若生は葛城が速球に強いことを知っている。外野に打ち上げられたら一点だ。変化球に終始するだろう。内野ゴロならホームタッチプレイ。葛城はダウンスイングはしない。かならず掬い上げる。セットポジションから三球目、同じコースにカーブ。ストライク。ツーワン。私は叫んだ。
「葛城さーん、一発!」
 四球目、外角スライダー、カット。阪神ベンチに打球が飛びこむ。
 次は内角へ落ちるフォークだ。まちがいない。失投がなければ空振りになる。私は祈った。葛城がボックスの少し前に出た。読んだのだ。前で叩く。呼びこんだらフォークは打てない。五球目、フォークが低目から低目へ落ちてきた。よし、見送った。ボール。ツーツー。葛城がスッとボックスの後ろへ下がった。高目の伸びるストレートと読んだ。私の読みと同じだ。変化球をすべて見送られているので、空振りを取るならそれしかない。六球目、真ん中ストレート! 少し高いか? かぶせてレベルに叩いた。芯をこすった。高く舞い上がる。上がりすぎか。いや、伸びる。レフトのゲインズが金網フェンスぎわを右往左往する。ジャンプ。届かない。ラッキーゾーンにいた小野と伊藤久敏の前で弾んだ。ベンチ全員がおめき声を上げながら飛び出す。森下コーチと強いタッチをして一塁を回る葛城を若生が穏やかな表情で見つめている。水原監督と笑顔でタッチしたあと、徳武を先頭の花道の連中に抱きつかれながらホームイン。ベンチでコーチや控え選手たちと真っ赤な顔で固い握手。
「葛城選手、今シーズン第三号のホームランでございます」
 六対ゼロ。先発の小野がラッキーゾーンのブルペンからスタンド下の通路を通ってベンチに戻ってくる。代わりに門岡が通路へ出ていった。祭りを終わらせたくない太田は力み返り、初球を打ってキャッチャーフライ。ここで力まないほうがおかしい。小野はチョコンと合わせたピッチャーライナー。
         †
 七対ゼロで勝った。小野は阪神打線をシャットアウトして九勝目を挙げた。打者三十一人、被安打四、三振八、フォアボールなし。二回以降の中日打線は、若生に代わった権藤正利に、単発三安打、一点に抑えられた。いつものパターンだ。どんなにそうではないと言い張っても、勝てるとわかると戦意が失せてしまうのは仕方のないことだ。ただそのダメ押しの一点が、九回表の私の七十号ソロホームランだったので観客は満足したようだった。〈懸河のドロップ〉を掬って、ラッキーゾーンすれすれに打ちこんだものだった。ほかの二打席はセカンドゴロとショートライナーだった。私以外の二安打は、太田に代わった一枝の左中間二塁打、小野の右中間二塁打だった。七対ゼロの波風の少ない勝利だったが、小野と権藤の好投が試合を引き締めた。
 翌日八日日曜日、ロビーで騒ぎ立てているみんなに促されて新聞を見ると、私の場外ホームランの推定飛距離は百八十八メートルと載っていた。公式戦では世界最長とあった。千原が首をひねり、
「非公式戦て何だろうな。オープン戦のことかな」
 江島が、
「紅白とか交流戦とか練習試合なんかも含むんじゃないんですか」
 小川が、
「日米親善もな」

  
神無月世界最長不倒一八八メートル! 
 中日ドラゴンズ神無月郷選手(20)が七日甲子園球場の対阪神六回戦において、初回若生智男投手から打った場外ホームランは、四メートル前後の誤差を考慮して推定百八十八メートルとわかった。打球は甲子園球場右翼外壁下の二車線の道路(車幅14メートル)を越えて、五階建てマンションビルの四階ベランダに飛びこむと、引き戸のガラス窓を割って室内で止まった。それで飛距離の測定がかなり正確なものになった。最終回に同選手が打った九十四メートルのホームランの、ちょうど二倍の距離にあたる百八十八メートルであったことに、われわれマスコミ雀は無理やり数字の因果を感じて嘆息しきりである。
 ベランダの窓ガラスの破損に対して、ドラゴンズ球団本部職員が出向いて、住人の××さん(39歳・建築事務所経営)に対して弁済修理を申し出た。××さんは、ガラス窓の修繕はマンションの管理費でどうにでもなると断り、災難と幸運が同時にやってきた記念としてボールの贈与を懇請した。球団は、神無月選手本人が保持にこだわっていないことに鑑み、代替のボールではなくホームランボールそのものを進呈することに決めた。ちなみに、ボールが飛びこんだとき別室で食事をしていた××さん夫妻は、泥棒が闖入したものと誤解し、廊下に飛び出して隣人の室に避難し、警察に通報したとのこと。警官が駆けつけて実情を知り、あらためて心から驚いたと語る。夫妻はきょうの試合前に甲子園球場を訪れ、神無月選手からボールにサインをしてもらい、記念撮影をしたあと、ドラゴンズ球団の招待で試合を観戦することになっている。
 ホームランを打たれた若生智男投手(32)は、
「ボールの行方をぼんやりと眺めましたよ。見上げる目の角度がこれまで経験のないものだったので、現実のこととは信じられなかった。その後の打席で神無月くんがセカンドゴロやショートライナーを打つのを見ても、まだ現実感がなく、あのホームランのあとで遊んでるのかなと思いましたが、最終回に権藤さんからラッキーゾーンに打ちこんだふつうのホームランを見たとき、やっと現実に引き戻された感じがしてホッとしました。名誉か不名誉かわかりませんが、球史に名を残せたことを幸いに思います」
 と語った。


 マネージャーの足木が顔を覗かせ、
「四時半にご夫妻がこられますから、サインと撮影をお願いします。阪神電鉄が記念の楯の作成にかかってます。シーズンオフに名古屋まで出向いて表彰したいそうです。予定が決まったら後日お知らせします。面倒でしょうが、球団の宣伝にもなりますし、なるべく出席してください」
「わかりました。適当にお取り計らいください」
 小川が江藤に、
「巨人、七連勝だってさ。どうなってんの」
「白石問題のカウンターが利いてきて、そろそろ息切れやろう。四十試合で王が十二号、長嶋十号か。この二人はめげんな。しかし、並のペースやな。セカンドキングはワシのようやの」
「最多勝は、俺か親分だな」
 小野が、
「私が獲ります」
「親分は打ちこまれないからなあ」
「健ちゃんもそうだよ。ただ、健ちゃんは王に弱いでしょ。その分、巨人戦で私が稼がせてもらいます。勉ちゃん、ちょっと肩の具合悪いみたいだし」
 やはりここにも田中勉の姿はなかった。太田が、
「俺、名古屋で打ちこみやります」
 菱川が、
「キャッチャーフライか? 気にしないほうがいいぞ。ああいうときはだれでも力んじゃうもんだ。いまの中日は人材豊富だから、一打席でも出させてもらえるだけありがたいと思わなくちゃ。でも、しばらく葛城さんの尻を追っかけることになるな」
「あの押しこみ、すごかったですね。芯こすっただけなのに入っちゃった」
「恥ずかしいから、あまり褒めんでくれ!」
 葛城が離れたテーブルで手を挙げた。江藤が、
「そろそろオールスターが本決まりや。モリミチが武上、土井の次で三位ゆうんが解せん。監督推薦、ぎりぎりやろ。ショートの一枝なんか五位ぞ。黒江より腕がいいのに、ひどいもんやな」
 高木は、
「俺は出られないだろう。あきらめてる。いい休養になるよ」
 一枝が、
「モリも俺も来年だ。水原さんがオールスターの監督をやるからな」
 みんなでロビーのカフェにモーニングを食いにいく。大根と豚肉の煮物、ポテトサラダとハム、鮭、コロッケにウィンナー、卵焼き、トマト、ブロッコリー。仕切りのあるプレートに雑多に盛られた惣菜をおかずにどんぶりめしを食う。小川が、
「竹園に入る前に、勉ちゃんと長居のオートレースにいったんだけどさ、これ買えこれ買えってうるさく言うから、買ってみたんだよ。そのとおりにきた。驚いた」
 高木が、
「健ちゃん、それちょっとやばいんじゃないの。勉ちゃん、なんか危ないことやってるかもよ」
「俺もなんだかヤバイ感じがしてさ。儲けさせてもらったけど、早々と帰ってきた」
「ときどき中日球場の正面ゲートのところで、おかしな雰囲気のやつらが勉ちゃんを待ってることがあるだろ。君子危うき、だよ」
 小野が、
「私も一度オートに誘われたが、断った」
 江藤が、
「あいつ、大借金抱えとるんでなかな。そのおかしなやつ、ヤクザやな。勉ちゃん、西鉄時代からオートに入れこんどたって話やろ」
 中が、
「水原さんがいちばん嫌うタイプだね。それがほんとうなら、来年危ないよ。きょうも朝からオートにいってるの?」
「ほうやないかな。たしか、十日のアトムズ戦、勉ちゃんの先発のはずやろ。それまで雲隠れか? まあ、静観やな。アドバイスのしようがなかけん」
 鏑木がやってきた。
「腹ごなしに走りますか? コース研究できてますよ」
 菱川が、
「芦屋川沿い?」
「はい。川沿いのアスファルト道を南下して芦屋公園まで。河原の遊歩道は途中でぶつぶつ途切れるのでだめです。往復四キロ。ちょうどいいでしょう」
 私は、
「めしのあとですぐ走り出すと腹が痛くなるので、三十分後に」
「わかりました。中さんは甲子園のフィールドだけにしたほうがいいですよ」
「そうだね、長距離は膝に響く」
 三十分後、コーチ陣も混じることになり、二十人ほどで玄関前から走り出す。フアンの群れを突破して大正橋へ。鏑木に随って一列縦隊で走る。東海道本線の高架をくぐる。きょうも快晴。空がかぎりなく高い。ガス燈ふうの路灯の立つ桜並木の道を走る。豪壮な建物が多い。鏑木が、
「この先の一本向こうに架かる橋は業平橋と言いますが、伊勢物語の主人公在原業平はこの芦屋に住んでいたらしいです」
 太田が私に、
「だれすか、アリワラノナリヒラって」
「古今和歌集だね……」
 鏑木が、
「平安時代の歌人です。いまから千百年前の人。第五十一代平城(へいぜい)天皇の孫で、六歌仙の一人です。学問はなかったんですが、歌の天才でした。ほとんど古今和歌集に収められていて、有名な歌ばかりです。神無月さんもご存知でしょう。ちはやぶる―」
「はい。神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは、ですね。落語にもなってます」
 菱川が、
「どういう意味ですか」
「ちはやぶるというのは、神の枕詞で、『大むかしから聞いたことがない、竜田川が紅葉で真っ赤な絞り染めになるなんて』という意味です。真っ赤な葉が水面に映っているんですよ。竜田川は奈良県にあります」
 鏑木が、
「さすがです」
「単なる受験的知識ですよ。ただ、むかしの短歌は情緒的に奥行きがないですね。苦悩がない。だから学者が研究したがるんでしょう」
 壮大な芦屋市民センター。業平橋を渡ると見慣れた松並木になった。造形的に美しいシンプルな尖塔が見える。きのうも河川敷から眺めたカトリックの教会だ。
「カトリック芦屋教会です。芦屋のランドマークですね。これといった由緒はありません」
 ここにも宗教がある。どこにもかしこにもある。現在にも存在しないし将来にも存在することのない超人にあこがれる人びと。渇仰。人生のどうしようもない限界を征服しようとする悲願。
 芦屋税務署。橋をさらに二つ渡り、阪神芦屋駅のガードをくぐる。きのう散歩したのと同じ道を走っている。バカでかい芦屋市役所。周囲の塀が石垣だ。このあたりでコーチ陣は息切れ。


         百六

 建物のあわいを歩いて抜け、芦屋川を下流へ遠く見やると、右岸に住宅群、左岸が市庁街。幹線道路を渡り、芦屋公園到着。松林の中のただの空地だ。入りこんで休憩。座るベンチがない。土の地面なので、寝転んで三種の神器というのも気が進まない。松の木陰をみんなでうろうろ歩き回ったあと、山並をはるかに眺めやりながら引き返す。
 ロビーのテーブルで全員アイスコーヒーを注文して飲む。宇野ヘッドコーチに訊いた。
「川上という人についてお聞きしたいんですが、あれほど人間的に下卑たことをしていながら、ここまでフロントや選手たちから崇拝されるというのは、何か彼の一連の行動に対する悪印象を黙殺させるほどの根本的な美点があるということでしょうか」
「そんなものはないんだよ。……気取った求道者ぶりと、マメな〈声掛け〉による人心支配だね。それがうまく優勝に結びついているので、フロントの信頼も絶大だ。彼は真冬になると、主だった選手たちを岐阜の美濃加茂の寺へ連れていく。臨済宗の正眼寺という禅寺だ。朝三時に起きて、座禅を組んで経を聴く。厳冬に畳にじかに座ると、突き刺すように痛い。そういう精神修養めいた実践の中で、選手たちは野球の帝王学に関する薫陶を受ける。韓非子や三国志を読まされるんだ。いずれ浜野もやらされると思うよ」
 彼も感激と慈しみを忘れた権力という名の宗教の渇仰者だ。……私も文学を宗教にしているのではないだろうか。ものを書いたり、何かを文章で表現しようと思ったりすることほど、私の身の丈にそぐわないものはない。身にそぐわない大望を抱いて彷徨しているところをまんまと検束されて、文学という禅寺へしょっぴかれたのにちがいない。大望を抱く人間は検束されやすい。
「声掛けというのは?」
「うん、浜野から島谷に上機嫌の電話があったそうだ。なぜドラフトで自分を採ってくれなかったかがわかったと言うんだ」
「なぜですか」
「肩をやられているという情報があったからだ、と川上に〈声をかけ〉られたらしい」
「どうして上機嫌だったんですか」
「浜野は肩をやられていたわけじゃなく、もともと強肩じゃなかっただけだ。しかし、そう誤解されていたと知ると何だかうれしくなる。ピッチャーのくせに地肩が弱いからだよと言われるんじゃなくて、肩を壊していたからだよと言われれば、誇りは保たれ、遺恨は消える。やっぱり巨人にきてよかった、肩を鍛えて期待されていたとおりの活躍をしようと思う。じつにうれしい。だが、肩は先天的なものだ。鍛えられない。巨人ではリリーフを中心にしか使ってもらえないだろうな。これまでの彼の勝利は、ドラゴンズの打撃陣のおかげだ。巨人では何勝も挙げられない。大むかしは、川上と反目した選手はいた。まず現役時代の千葉茂と広岡達郎。彼らは川上の守備の杜撰さを責めた。ちょっと逸れた送球には手も出さずに背中を向けて、悪送球としてフェンスまで取りにいく、高いボールにジャンプしようとしない。川上が監督になってからの反目者もいた。これまた広岡。川上の特訓に異議を唱えていた。あんなに守備が怠惰だった野郎が、いまになって何をやってるんだということだ。週刊ベースボールで批判手記を連載した。川上は連載を中止させ、広岡のトレードを仄めかした。川上をよく思っていなかったマスコミはさんざん叩いた。四十一年に広岡が退団して解説者になったとき、川上は広岡が取材にきても口を利くなとチームの全員に命じた」
「つくづく執念深くて、こすからい人間ですね。そんな人間がいつから座禅をするようになったんですか」
「現役を引退してすぐだ。巨人の初代オーナー正力松太郎に誘われてね」
「権力つながりか。一種のご機嫌伺いだ。そんな坐禅は、人間改造のための自発的なものじゃないとすぐわかる」
「金太郎さんのように、彼が権力志向の体裁屋だとスパッと見抜ける人間はなかなかいなかった。だから、金太郎さんに仕掛けたことのすべてが嫉妬から出ているなどとはだれも信じない。ほかにNHKとのコネもある。NHKは、大学で言えば東大に匹敵する切り崩せないマスコミ界の牙城だ」
 私は腕組みをした。江島が、
「優勝から遠ざかれば、いくら川上でも辞めさせられるでしょう。優勝するまでやるなんてわがままは言えないし」
「そうだな、いまでもチーム全体がまとまってるわけじゃないしな。広岡以後も川上が不快に思っている人間がいるんだ」
 太田が、
「金田と王ですね」
「金田は意外と権力志向型なので、最終的には川上につく。問題は王だ。川上は打撃理論に自信があるから、周囲がイエスマンじゃないと気に食わない。長嶋でさえイエスと言う。川上の言うとおり実践なんかしないくせにね。王は頑としてうなずかない。もちろん座禅にも参加しない。そうしてホームランを打ちつづける。優勝の原動力だから川上もそれ以上何も言えずに黙るが、不快で仕方がない。俳優の丹波哲郎という男が週刊誌に書いてる。軍隊時代に上官だった川上に、ほとんどの部下たちが何度も私的制裁を受けた。戦後川上が、あのときは仕方なかったと彼らに頭を下げて廻った。その巧みな処世術を見たとき、川上の本性がわかったとね。王は川上のことを、たいへんな負けず嫌いで、ゴルフも麻雀もとにかく勝つまでやる、勝つまでやるからぜったいに負けない、と言ってる。金太郎さんに謝るはずがない」
 江藤が、
「長嶋が反目したら、オワリたいね」
 なんだか虚しくなり、アイスコーヒーをストローで掻き混ぜた。
「そんなチームに勝っても爽快感がないですね」
 菱川が、
「コテンパンにのせば、気持ちいいですよ」
 森下コーチが、
「さ、昼めしまでのんびりしろ。きょうは江夏だぞ」
「ウィース!」
 フロントにトンカツ弁当を頼みにいった。部屋に戻って北村席に電話をする。トモヨさんが出た。
「あ、郷くん、最長不倒おめでとうございます」
「ありがとう。変わったことはない?」
「……心配をおかけしたくなくて電話しませんでしたけど、郷くんが東京に発った夜、直人が四十度以上の高熱を出して一晩寝こみました」
「え、また! インフルエンザ?」
「そうじゃないみたいです。これで二度目です。全身に発疹が出ましたけど、翌日連れていったお医者さんの話だと、今回も〈とっぱつ〉というものらしくて、子供特有の一時的な発熱だと聞かされました」
「じゃ、翌日は熱が下がったんだね」
「はい、七度まで。前回と同じように、熱のせいでまた軽い中耳炎と鼻炎にかかったみたいですが、かよって治療するほどのものではなくて、二週間もすればよくなるらしいです」
「そう。いまは元気なんだね」
「すっかり。とにかく男の子は、三、四歳くらいまでは頻繁に熱を出すんですって」
「耳と鼻をやられちゃうと、根気のない子になるからね。ぼんやりしちゃう。これから熱を出したらかならず耳と鼻は診てもらってね」
「はい。いろいろな言葉を言うようになりました」
「どんな?」
「おいしい、チンチン、おっぱい、せんせい、どうぞ、かんぱい、よいしょ、黄色。白以外はぜんぶ黄色ですけど、わんわん、ぶっぶー、はっぱ、ばいばい、なんて片言をしゃべってたころが嘘みたいです。男ぶりはいいし、表情もいいし、かわいらしいことこの上ありません。怖いほどかわいいってみんなが言います。きょう、保育園の門を入るとき、赤ちゃんを連れたお母さんが通りかかって、うちの子と交換できたらいいのにって、つれないことを言ってました」
「そりゃひどい」
「ほんとに。でも、人さまから愛される子に生まれついてよかった。郷くんも小さいころはこうだったのかなと思うと、しみじみとした気持ちになりました」
「もの心つかないころが天国だ」
「私はいまが天国です」
「……勝ちつづけてるよ」
「七十本になりましたね。苦労していませんか? やさしい性格ですから」
「ぜんぜん。みんなとしっくりいってるよ。流産の危険が出てくる時期だから、気をつけてね」
「だいじょうぶです。こちらのことはいっさい心配しないで、野球だけに打ちこんでください。あしたは午後のお帰りですね」
「うん。帰ったら翌日一日ゆっくりして、十日からアトムズ戦だ」
「無事のお帰りをお待ちしてます」
「うん、それじゃ」
「さようなら」
「さよなら」
         †
 八日。ホームランボールが飛びこんだマンションの××夫妻と、バックネット席下の記者会見室で対面した。品のいい中年のカップルだった。会場を埋めた記者とカメラマンの数に驚いた。五十五本以上のホームランも、甲子園球場の場外ホームランも、日本で初めてのできごとなのだ。報道陣が詰めかけるのも無理はない。一般紙はきていなかった。こういうことを記事にするメディアと、ほとんど扱わないメディアに二分される。二分される理由は明らかだ。スポーツや芸能は〈知的〉な営みでないからだ。
 フラッシュが瞬く。私は微笑すら浮かべない。十二年前の自転車屋の暗い細い階段、そして五年前の真っ黒い車窓に映った顔、あれが私の原点だ。どんなできごとにも浮かれることはない。
 コチコチに緊張した男がボールを差し出す。ボールを受け取り、サインして返す。並みいる報道関係者のカメラが見守る中で、しっかりと握手。いっせいにストロボとフラッシュが光る。まちがいなく私のホームランボールであるという証明書がすでに阪神電鉄の手で作成されていて、この場に特別にやってきた電鉄幹部から夫妻に丁重に手渡された。水原監督、コーチ陣、マネージャーが拍手する。
「ボールが看板の上を通過した箇所に記念のポールを立てます。その下に貼り付けるパネルの説明書きに、××さまの窓に飛びこんだ経緯を記させていただきます」
「ありがとうございます。このボールは××家代々の宝にします。わがままを聞いていただいてありがとうございました。きょうは特別観戦席まで用意していただき、お礼の申し上げようもございません。一分、一秒、しっかり観戦して帰ります。中日ドラゴンズの日本シリーズ優勝を心から祈っています」
 妻が、
「神無月さんが見つめていられないほど美しいかたなので、主人には申しわけないんですけど、ひさしぶりに胸がときめきました」
「私もいつもときめいているんですよ」
 水原監督が応えると室内全体に笑い声が上がり、場が和んだ。私も笑った。記者の一人がうれしそうに、
「神無月選手がフィールド以外の場所で笑いました!」
 ひとしきり大量のストロボが焚かれ、フラッシュが明滅した。水原監督、コーチ陣、阪神電鉄幹部を交えての記念撮影。もう一度夫妻と握手してから、出席者全員に頭を下げ、ベンチに戻る。
 阪神のフリーバッティングがしまいにさしかかっている。みんな三塁ベンチに座って見学。背番号23。今年が最後と噂されている吉田義男のレベルスイングを見つめる。これほど真っ平らに振るスイングを見たことがない。江藤が、
「三十六歳のおっさんや。相変わらずええスイングしとる。牛若丸さんとはむかしからけっこう口を利くんやが、来年辞めたら球団には残らんそうや。解説者をやりながらステーキ屋を経営する言うとったばってん、ワシは自分の経験を話して、やめとけてアドバイスばした」
 水原監督が、
「金田が初めて満塁サヨナラホームラン打たれたのが吉田くんだったね。バッターの中でいちばん対戦したくないのが吉田くんだと嘆いてた。その吉田くんも引退するんだね」
 カークランドがケージに入る。田宮コーチが、
「モンジロウか。サンフランシスコ・ジャイアンツで、メイズ、マッコビーとクリーンアップを打った男だ。打率がネックだな」
 爪楊枝くわえてポンポン打球を弾き飛ばす。遠井、藤田、藤井。田淵はふんぞり返ってボールを叩き上げるのみ。ライナーでスタンドに放りこめない。将来かなり打ちだすとしても、多く見こんで四十本まで。そのほかの連中はみんな撫でるようにバットを振る。ボールは撫でてはいけない。叩き、ひしがなければ。
 ベンチからグランドに出る。同僚たちのバッティング練習が始まる。眼鏡をかけ、グローブを持って鏑木と外野に回る。鏑木はライト看板を指差し、
「あそこを越えていったんですね」
「はい。信じられないな」
「自分のやったことですよ。すごい手応えだったでしょうね」
「説明が難しいけど、真芯だったり芯を食ったりすると、手応えは大してないんです。芯を外れると、軟式も硬式もかなりの手応えです」
 ポール間ダッシュ。三種の神器。鏑木に背中を押してもらって前屈。ときどき飛んでくる打球をコーチ連や池藤たちがキャッチする。阪神の守備練習開始時間が近づく。仲間たちが集まってきた。中と一枝と三十メートル離れて三角キャッチボール。江藤や菱川たちはフェンス沿いのランニング。太田と高木はまだ名残惜しげに打っている。アナウンスが流れる。
「中日ドラゴンズ、バッティング練習終了です」
 阪神の守備練習。三宅バッティングコーチの内野ノック。つづけて外野ノック。きょうもきのうにつづいて観衆がびっしり埋まっている。売り子の張り切った声がほうぼうで上がり、ウグイス嬢のアナウンスが繁くなった。
 ドラゴンズ守備練習。このごろ田宮コーチは外野ノックをしない。レギュラー陣がガヤガヤ外野に寄り集まって、それぞれ勝手な練習をするからだ。いずれもとの習慣に戻るだろう。





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