百十七

 大崎をアイリスの前で降ろした。空いていた一部屋を、家賃を払って借りているのだと言う。家賃はたった一万円だと言った。主人が隘路に消えていくジョージの背中を見やりながら、
「素子の話やと、よう女が出入りしとるらしいわ。仕事ができるで、和子はなんも言わんらしい」
 菅野が、
「分に合わないことしてると、そのうち墓穴掘りますよ」
「ふつうの男は、女二人でも処理し切れんからな。子供でもできたらコトや」
「ぼくの場合、お父さん夫婦が子供をほしがってるという特殊事情があるから、そういうケースには当てはまりませんけど、何人も同時に妊娠させてしまうと全体の生活が滞るので、なんとか妊娠させないように気をつけてます」
「それでも和子の子供が見たいわ」
「トモヨ奥さんは和子さんと瓜二つなので、直人が本孫みたいなもんですよ。お嬢さんは避妊を心がけてるでしょうが、妊娠したらかならず産む人です」
「それを待っとる。四十にならんうちにな」
「トモヨ奥さんに産まれる今度の子が女だったら、お嬢さんそっくりになりますよ」
「神無月さんの血も入るで、将来怖いわ」
 則武の家の前で主人と降りる。運転席の菅野に、
「じゃ、あしたの朝、ランニングで」
「はい、お休みなさい」
 走り去る。カズちゃんとメイ子とキッコが居間で茶を飲みながら待っていた。主人はすぐに離れに去った。
「素子は?」
「広野さんに英語を教えてもらう日だって、早めに帰ったわ」
「みんな勉強家になって、心強いね」
「素ちゃんもキッコちゃんも根が頭いいから、辛抱が利くわね」
         †
 深更までカズちゃんとメイ子とキッコの肉体にかまけた。カズちゃんとメイ子が危険日だったので、キッコに二度放出した。二度の交わりのあいだに何ほどの時間も置かなかった。柴田ネネ、詩織と立てつづけに交わってからこちら、性欲が高校時代の一時期のように急に昂進しはじめた。阪神遠征の期間を置いたことも原因しているかもしれない。カズちゃんが、
「キョウちゃん、このごろ興奮してるわね。本格的に青春がきたみたいよ。なんだかうれしい」
「ぼくは正直、恥ずかしい」
「恥ずかしがることないわよ。みんなを幸せにしてるんだから。いまがピーク。私たちもいまのうちにうんと恩恵にあずからなくちゃ」
 キッコが、
「神無月さんとしかせんようになってから、オマンコが強うこすれて、えげつのう気持ちええ」
「それわかります。包んでる感じ。私、何百人もの男としてきたけど、そうなったこと一度もなかったから」
 メイ子が言うと、カズちゃんが、
「女はイクときに締まるだけで、ふだんは赤ん坊を産めるくらいゆるいの。そのゆるいオマンコが締まってキョウちゃんのオチンチンにピッタリくっついちゃうのね。私たちはみんなキョウちゃんに遇うまでは、一度もイッたことがない太平洋だったということよ」
「こわ! 最初から最後まで締まらんほんものの太平洋って、あるん?」
「相当あるみたい」
「神無月さん、そういう人に遇ったことある?」
「高校のとき、蜘蛛の巣通りで一度太ったおばさんにお相手してもらった。ぼくの目には六十歳ぐらいに見えたけど、素子が言うには七十歳のオバアチャンだって。ずっとゆるゆるだった」
「それで神無月さん、イケたん?」
「おばさんが途中からものすごい高速で腰動かして、ぼくをイカせた。どこもこすれないでそうなったから、手品みたいだった。出したら、ぼくの尻を叩いてケラケラ得意そうに笑ってた。彼女は何も感じなかったみたい」
 カズちゃんが、
「気の毒だけど、そういう女の人もいるのよ。私たちでなくてよかったわね」
 二人しみじみうなずく。
「……後楽園から帰ってきたら、いよいよ康男さんに会いにいくのね。あなたたちには遠慮してもらうわ」
 キッコが、
「当然や。神無月さんと関係ない人と会うんは向こうも迷惑やろ。千佳ちゃんとムッちゃんに詳しく聞いたんやけど、泣いてまった。小学校四年生からの友だちがヤクザやさん。そのヤクザやさんからご恩返してもらうという形で、北村席も護られとる。すごい因縁でっせ」
「ヤクザは隠れた最大権力者だからね。一国を牛耳ってる。仲がいいと最高の恩恵をこうむるけど、一般の人たちはヤクザが大嫌いだから、彼らと付き合ってる人を遠ざけようとする。いわゆる村八分だね。芸能人やスポーツ選手も同じようにされる。政治家と警察と資本家とマスコミだけは追放されない」
「なんで?」
「その〈四者〉は大むかしからヤクザと強い絆で結ばれたお友だちだからだよ。一般人の嫌悪感ぐらいではその関係はぐらつかないんだ。友だちがヤクザだとわかってると、怖くて袋叩きも追放もできないだろ」
「じゃ、神無月さんもお友だちやからだいじょうぶやないの?」
「ぼくには、追放されそうになったときヤクザに庇ってもらえるほど〈四者〉並の権力がないので、結局一般人にいじめ殺される。だから松葉会のワカは、ぼくが彼らと付き合ってる事実をマスコミに嗅ぎつけられるのを極端に恐れてるわけなんだ。マスコミは、怖いお友だちのヤクザは非難しないけど、彼らと付き合ってる一般人は非難するからね。非難すれば新聞が売れるし、一般人はマスコミに反撃しっこないから。康男に会いにいくのもよほど気をつけてやらないとバレてしまう。だから大勢で行動できない。いま、ドラゴンズに田中勉というエース級のピッチャーがいて、なんだか不穏な空気が彼の周りにただよってる。ヤクザが彼に会いにベンチ裏によくくるんだ。借金の返済を求めてるんだろうと思う。どうしてそんな借金を作ったか理由はわからないけど、彼の選手生命は風前の灯だろうね。江藤さんも自動車整備工場の経営が傾いて、町ヤクザの借金取りに訪ねてこられたせいで危うい思いをしたことがある。水原監督に叱られて借金を返済し、商売を見切って助かった。返済金は水原監督が出したって噂だ。ぼくは金がらみじゃないけど、交際してることにはちがいない。まんいちバレたら、野球生命は終わる」
 カズちゃんが、
「そういうことよ。わかったわね。何も悪いことをしていないのに、世間は許してくれないの」
 そう言ってカズちゃんは唇を引き締めた。
         † 
 翌朝、四人でシャワーを浴びて、軽い朝食をとった。三人の女が出かけたあと、無理やり排便しながら、中日スポーツを読む。まず一面に、引分け挟んで十八連勝日本タイ記録の記事。何か細かく説明してあるが、読まなかった。二面に、

    
球界大物二人が選ぶ歴代大物ランキング

 という小さい記事が載っている。こちらのほうが興味深い。

  野村克也   一位 神無月郷
         二位 尾崎行雄
         三位 稲尾和久
         四位 山内一広
         五位 榎本喜八
  米田哲也   一位 神無月郷
         二位 稲尾和久
         三位 尾崎行雄
         四位 中西太
         五位 金田正一


 両者に名を上げられた稲尾の関連記事も載っていた。
 どんな鉄腕も八年も酷使されれば傷む。稲尾は昭和三十九年に肩の故障で一勝も挙げられなかった。彼がそれまで常時百五十キロ以上のボールを投げていたことをさまざまなプロ野球人が証言していた。彼は絶望の中で肩の快復に取りかかった。鉄のボールを作らせて、それを自宅の庭のネットに向かって投げ、痛みを倍加させる荒療治を試みた。西松の勉強小屋の孤独な腕立て伏せを思い出した。翌年痛みが突然消えてマウンドに復帰したが、ボールの威力は激減していた。
 その状態のまま彼は昨年までの四年間で四十一勝を挙げた。ボールを投げられること自体奇跡のようなものだったのに―。ほとんど稲尾と同じ状態の、尾崎や金田や杉浦や村山を私が打てたのは、考えてみればあたりまえのことだった。野村も米田も尾崎の名前を挙げているのがうれしかった。
 尾崎の話を聞きたい気持ちで菅野の到着を待つ。最近キッチンに据えたテレビを点ける。また『信子とおばあちゃん』だ。チャンネルを替える。ママとあそぼうピンポンパン。替える。東海テレビでニュースをやっている。大気汚染についての論評。
「昨年度、大気汚染防止法……継続的に摂取される場合には……シアン化水素、六価クロム、ジクロロメタン、水銀……ダイオキシン、ホルムアルデヒド……早急に抑制……環境基準……を撤廃するとともに……事業者の責務……罰則の強化……」
 人間が富を求めた結果だ。聞く耳持たない。画面を消して熱弁を封じる。野辺地のバスの屁、浅間下のドブ溝、堤川の生活排水の泡、新宿や池袋の石造りの醜怪な建物群、排気ガス、クラクション、満員で息苦しい地下鉄。どんな人間の営みも、感覚器が美と捉えれば忘れがたい思い出になる。
 ―堀川! 大瀬子橋から見下ろす。赤い旗を立てたダルマ船が楕円形の船首で水面を切ってくだってくる。砂利を満載した喫水線ギリギリの船とすれちがう。
 ジャージ姿の菅野がきた。
「尾崎のこと知ってるだけ話してください」
「―尾崎行雄ですね」
「はい」
 菅野はキッチンテーブルに腰を下ろす。私はコーヒーを二人分いれる。
「……中退と、スカウト合戦ですかね。二年生で中退したのが昭和三十六年の十一月の何日だったかな、その翌日、大阪泉大津の尾崎家にまず阪急がきました。夜中の二時だというんだから異常ですね。父親が頭にきて門前払いしようとしたところへ、叔父が出ていって応対して、十一月十一日に、朝十時からまとめて話を聞くということにしました」
「三十六年か、トモヨさんの三十二歳の誕生日だ」
「はあ―。で、十一日の九時四十五分、予定より早く阪急がやってきて、叔父に五千万を提示。監督訪問はなし。十一時半、東映のスカウトと水原監督がやってきて、阪急より出すと断言。水原さんはかならずみずから訪ねていきます。一時、南海スカウト訪問、条件提示せず。二時、阪神スカウト訪問、条件提示せず。夜七時、巨人スカウト訪問、三時間も粘って、条件提示せず、川上監督の訪問もなし。結局監督まで顔を出して条件を提示したのは東映だけでした。翌十二日、尾崎本人が家の玄関で『豪快なパリーグが好きなのでセリーグ球団にはいかない』とだけ発表。十四日午後四時、地元の小学校の体育館に百人の報道陣を集めて、叔父と尾崎が会見発表。―本人の意思により東映に入団することに決めました。尾崎は『母の希望する南海は地元で便利、大毎は打線が強い。両方とも捨て切れませんでしたが、東映に決めました。水原監督にお会いしてたちまちフアンになったからです。それに東映には、浪商の先輩の張本勲さんや山本八郎さんもいらっしゃるので、うまくやっていけると思います』と答えました。尾崎は水原監督に惚れたんです。神無月さんの場合とまったく同じです。……人間ですよ」
 オープン戦で尾崎に対面したとき、水原監督についていきなさいと言った理由がわかった。
 菅野と表に出る。快晴。風が少し強い。
「名城公園までいくという話でしたけど、きょうは桜通を走って、堀川にぶつかったら戻りましょう」
「オッケイ!」
 名古屋駅のコンコースから桜通に出る。まばらな一つひとつのビルが道路の果てまでくっきり見える。イチョウ並木の下を一気に泥江(ひじえ)町の交差点まで走る。堀川に架かる桜橋に出る。
「一休み!」
「アイアイサー!」
 石積みの大きなアーチ橋から、ゆっくり流れる堀川を見下ろす。灰色の川が流れている。点々と立つ糸杉の木。この川が大瀬子橋までつながっている。狭い岸辺につむじ風が砂けむりを上げる。
 橋そのものに目を移す。親柱の胴に金属製の桜のレリーフが埋めこまれ、いただきに桜の木をあしらった橋灯が載っている。高欄が親柱から親柱へ走り、ところどころ桜をモチーフにした透かし彫りの装飾が施されている。欄干の下部も桜の形に刳り抜いた欄間になっている。
「桜通だから、橋飾りが桜まみれなのはわかるけど、並木に桜がないですね」
「はあ、この桜通りは昭和十二年にできたんです。私が八歳のときです。その当時は桜とイチョウが交互に植えられてました。ところが桜は排気ガスに弱くて枯れてしまったので、いまはイチョウしか残ってません。あの上流の橋は伝馬橋、下流の橋は中橋です」
 私はうなずき、
「帰りは少しスピードを上げますよ」
「アイアイサー!」
 橋のもう一方のたもとからスピードを上げて走りだす。堀川沿いに桜橋から伝馬橋へ、錦通に出て名古屋駅方向へ進路を変える。公園が見えたのでペースを落とす。
「西柳公園です」
 猫の額のような公園に入ると、ひんやり風が吹いている。都心の公園の常で、周りをビルに囲まれているのだが、それでも緑が多いので、からだの熱が退いていく。しばらくビルを見上げてから、また走りだす。時々脇見をする。入ってみたいと思わせる小路がないのでひたすら直進する。名鉄百貨店に出た。左に笹島の交差点を眺めながら、市電路に沿って走る。近鉄百貨店を過ぎ、駅前の青年像の前に出る。ようやく歩きだす。汗ビッショリだ。菅野の呼吸も荒い。信号を渡りコンコースに入る。西口に出て、
「二時間ぐらいしたら、北村に昼めしを食いにいきます」
「ほーい!」
 手を振って別れた。則武の家に向かって歩きだす。


         百十八

 とつぜん勃起してきたので、タオルを腰前に垂らして歩く。深夜の飛島寮状態だ。垂れたタオルが盛り上がる。人目があるので直立して歩くのに逡巡する。これはならじと、文江さんの家へ足を向け走り出す。まだ午前十時前だ。家にいるだろう。少し前屈みで小走りになる。
 文江さんは庭木に水をやっていた。
「文江!」
 背中が、ヒャッとすくみ、振り向いて、
「キョウちゃん! うれしい、逢いたかったわ。どしたん?」
「これ見て、これ!」
 股間を指差す。
「わ、すごい―」
「ひとっ走りしたら、こうなっちゃった。いまだいじょうぶ?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、早くしよ!」
 文江さんは玄関に入り、戸を閉めて錠をすると、スカートの下をもぞもぞいじってパンティを脱ぎ下ろし、式台に両手を突いた。私はスカートを背中までめくった。陰毛に包まれたきれいな性器が濡れて開いている。小陰唇が呼吸している。
「かわいそうに、つらかったでしょう。出さんと治まらんもんね。一度ここで出してまってね」
「うん!」
 私は股間の小陰唇を舐めたあと、ジャージのズボンを脱ぎ、突き入れた。
「ああ、キョウちゃん、ええよ! すぐイッてまうよ!」
 イグッとうめいて尻を持ち上げる。腹が痙攣する。膣がうごめき、緊縛し、本格的な収縮が始まる。私はピストンを激しくする。
「あ、イク、何度でもイク、キョウちゃん、イク!」
 入口、真ん中、奥と、段をこしらえて締まりはじめる。亀頭が引っかかり、たちまち射精が近づく。
「文江、イクよ、イク!」
「ああああ、気持ちええ! 強うイク! イックウウ!」
 腰が落ちるので腹を抱え上げながら律動する。
「あああ、たまらん、イクイク、ククク、イク! キョウちゃん、愛しとるよ、愛しとるよ、あああ、イクウ!」
 私を揉みしだきながら、勃起の素をしっかり搾り取る。なかなか文江さんの痙攣が止まない。
「文江も溜まってたんだね」
「すごく溜まっとった、ああ、イクイク、イク!」
 じっとして文江さんの鎮まるのを待つ。痙攣を繰り返しながら、数分かけてようやく細かいふるえが止まった。
「スッキリしたわ、キョウちゃん、もう、幸せ!」
 そっと抜く。
「あ、もういっぺん、イク……」
 腹を絞り、美しい性器から三和土に薄い精液をポタリと垂らす。昨夜あれほどキッコに吐き出したのに、どうしたことだろう。朝は性欲がなかった。理屈はない。とにかく溜まったのだ。危ういところを文江さんに救われた。ここで出さなければ、則武まで歩いて帰るのがたいへんだった。
「文江、ありがとう」
「何言っとるの。ありがたいのは私やわ。ああ、気持ちええ。ほんとにスッキリした。私もまだけっこう体力あるな」
 下半身を曝したまま立っていると、文江さんは両手を突いたまま振り向き、
「シャワーで流さんと」
 ニッコリ笑ってしゃがみこみ、口に納めて舌を使った。スカートの端が精液に触れていた。そのことを言うと、
「着物に着替えるから、ええんよ」
 と頓着しない声で答えた。二人でシャワーを浴びて出て、全裸で居間のテーブルに向き合う。
「きょうは?」
「十一時から河合塾、成人教室。五時から、ここで子供教室」
「充実してる?」
「うん、キョウちゃんの野球と同じくらい充実しとる。キョウちゃんほど苦労はないけど。九月の毎日展で三人に入れば、今年の末には七段になるやろね」
「すごいなあ文江は。まだ書道に復帰してから三年も経ってないのに。天才だね」
「この道よりわれを生かす道なし。武者小路実篤」
「天に星、地に花、人に愛」
「節子の本を借りて、日本の本も外国の本もだいぶ読んどる。キョウちゃんの言うことがようわかるようになってきた。でも、キョウちゃんのほうが、本よりもすばらしいこと言っとる」
「きょうの夜は、節子とキクエのところにいってくる。あしたの夜は、百江と優子」
「優子って?」
「天童さん」
「ああ、あのきれいな人。きっとお願いされたんやろね。たいへんやね。東京にもおるんやろ?」
「いる。しっかりかわいがってあげようと思ってる」
「えらいねェ、キョウちゃんは。私、尊敬で胸がいっぱいになるわ」
 二人で同時に置時計を見た。十時半。
「しよう。文江が上になって、もうイケないところまでイッて」
「はい!」
 文江さんは私に跨って手を握り合わせ、そろりそろり動きだす。
「ああ、すごい。当たる……ああ、もう、あイク、イクイクイク、キョウちゃん! イク!」
 手を握り締める。膣が異様に複雑にうねりはじめるので、すぐに射精が近づく。烈しいアクメがつづく。
「もう、あかーん!」
 叫んで離れたとたん、精液が噴き出して高く飛んだ。文江さんは苦しげに痙攣しながらそのことに気づかないでいる。ティシューをまとめて抜き取り、亀頭にかぶせる。さらに抜き取り、畳や胸にかかった精液を拭う。薄い精液なので拭いやすい。文江さんは全身を搾るように最後のアクメを終えると、ぼんやり目を開け、
「あらあ……キョウちゃん、漏れてまったん! 私が抜いたせいやね。ごめんね。気失いたくなかったんよ。私のオマンコ気持ちよかった?」
「すごく」
「うれしい!」
 抱きついてくる。フッと気づき、
「あかん、時間やわ」
 私のものを握り、付け根を丁寧に舐める。カリの溝を舐め終わってから、濡らして絞ったタオルをとってきて、胸と腹を拭う。
「キョウちゃん、先に帰って。私、着物着んとあかんから。また気が向いたときにきてね。いつでも待っとるで」
「うん、またね。仕事がんばって」
「キョウちゃんもな。死ぬほど愛しとるよ」
 全裸のまま廊下へ出ていった。二階へ上がる足音がする。私は下着をつけ、ジャージを着ると表へ出た。則武でジムトレをする予定だったが、そのまま北村席へ回った。
「練習しまーす!」
 玄関で声をかけ、バットを持って池の端に出る。徐々にスピードを上げながら、各コース三十回ずつ振る。百八十本。トモヨさんがやってきて、最近池のそばに据えたばかりのベンチに腰を下ろして眺める。
「お父さんと菅野さんは?」
「見回りです。お昼には帰ります」
 ベンチの周りに紫陽花が群がり咲いている。塀沿いに大きめの柳が何本か植わっている。
「柳、植えたの?」
「はい、先月ですよ。気づきませんでした?」
「ぜんぜん」
 三種の神器を終え、塀まで歩いていって垂れ下がる柳の葉を顔に当てながらゆっくり歩きだす。爽快だ。トモヨさんも腹を突き出しながらいっしょに歩く。柳。東海橋。もうすぐ康男に会える。
「また男の子のような気がします。暴れ方に力があるんです」
「そのほうが直人も喜ぶよ。いっしょに同じ遊びができる」
「ちょうど二歳ちがい。どんな兄弟になるのか楽しみです」
「お転婆な女の子かもしれないよ。それはそれで楽しみだね」
「はい。あと二カ月」
 最後に一升瓶をやる。
 二人で居間に入る。千佳子と睦子はいない。大学だろう。テレビが点いている。女将が、
「せっかく買った自転車、菅ちゃんちっとも使わんもんだで、千佳ちゃんがお城のマンションにいくとき乗っとるわ。女の子たちも使わせてもらっとるよ」
「自転車って、案外乗らないものですね」
「使わんなあ。歩けるところは歩いていってまうし、ちょっと遠いと車になる。あしたは雨やそうや。きょうは晴れてよかったね」
「はあ、あしたは雨ですか。じゃ、ノンビリだな。ランニングやめてゴロゴロしてよう」
 きょうの先発は小川だ。確実に勝つと思うけれども、油断なく援護しなくては。あさっての巨人初戦は小野だろう。あと二戦の先発はわからない。連敗があるとすればその三連戦だ。ソテツが、
「お昼はカツと豚汁です。うんと食べてください」
 台所で、ジュージュー、パチパチとカツを揚げる音がする。イネがコーヒーを出す。
「そろそろ疲れが出るころでねェの? 旦那さんが新聞読んでて、六月になると故障者続出だってへってましたよ」
「春先から激しい練習をしてるとそうなる。ぼくはだいじょうぶ。学校の体育レベルの練習しかしてないから」
「でも、さっき庭で……」
「あれは基本練習。やったうちに入らない。基本でも一年じゅうつづければ、一時的に激しくやるより鍛えられる」
 主人と菅野が何人かトルコ嬢を引き連れて帰ってきた。アイリスの第一陣も到着。カズちゃんと素子は二陣のようだ。メイ子と百江と天童と丸とキッコが座敷に入る。
「キッコ、ちゃんと定時制いってる?」
 女将が、
「それなんやがね。キッコ、成績いいんやと。昼間部と同じ実力試験問題で、夜間部のトップやと。昼間部でも十番に入っとるらしいわ」
「やるなあ!」
「まかしとき」
「勉強はきついの?」
「月から金まで週五日、五時半から一限目四十五分、六時十五分から給食二十分。弁当持ってきてもオッケー。お嬢さんがアイリスで日替わりサンドイッチ作ってくれる。六時三十五分から二限目四十五分、十分休憩、七時三十分から三限目四十五分、十分休憩、八時二十五分から四限目四十五分。九時十五分授業終了、十時まで部活のあと下校。それを四年間」
「部活は何やってるの」
「卓球。からだが丈夫でないと、勉強にも身が入らんさかい。ヘヘ」
「かなりハードだね。いま何歳」
「二十二歳。卒業は二十六歳やな。五月の末の編入やったけど、高校中退しとったし、試験の成績が並以上やったさかい正規生にしてもらえた」
「学費は?」
「ほとんどタダ。定時制就学支援金があるさかい。あたし、千佳ちゃんたちと同じ名大にいくつもりや」
「がんばれよ」
「がんばる。千佳ちゃんとムッちゃんがついとるし」
 トンカツが運びこまれる。かぶりつく。
「うまい!」
 厨房で賄いたちの拍手が上がる。主人が、
「きのう高橋一三が阪神戦で八勝目を挙げましたよ」
「そんなに勝ってたんだ。うちの三本柱は七勝だ」
「六連勝が止まった八日に、宮田が山本浩司の打球をあごに当てて登録抹消です。槌田が右太腿肉離れ。そろそろキャンプの特訓が祟ってケガ人の出る季節ですな。ドラゴンズとは無縁です」


         百十九 

 菅野が、
「フリーバッティングは三時からですね」
「二時四十五分にロッカールームに入ります」
「了解。二時過ぎに出ましょう」
「天童さん、あしたの夜ね。百江さんといっしょに」
「はい!」
 天童が思わず声高に応える。
「菅野さん、今夜、日赤にお願いします」
「アイアイサー。二人とも夜勤ならどうします?」
「帰ってきましょう」
 女将が、
「試合から戻ってくるまでに電話で聞いといてあげる」
「すみません」
 めしをお替わりする。いっとき箸の音が高まる。主人が、
「二、三日のあいだに七人も八人も回るのって、きつくあれせんですか」
「あと五、六年もすれば、きつくなると思います。そのときはみんなに協力してもらいます。ね、ソテツ」
「え? 私はまだお手が……」
「そうだったっけ? ごめん、ごめん」
「いまお願いします!」
「いま? あしたの夜、百江と優子といっしょにね。慣れた女がいたほうがいい」
 百江が、
「女の十代は、いちばん好奇心が強いころだから、神無月さんも応えてあげたくなるのよね」
 女将が、
「いちばんしたい盛りは、三十代から五十代やろ。特に五十代やな。文江さんと百江さん」
「節子とキクエも、四十代、五十代の人を優先してあげなさいと言ってました。その世代の性欲がいちばん強いからって」
 トモヨさんが、
「看護婦さんが言うんだから、まちがいないでしょうね。私もいやになるくらい性欲がありますから。この子を産んでしまったら、いちばん求めるのは私じゃないかしら」
 主人が、
「となると、五、六人産む勢いやな」
「もう四十ですから、それは無理です」
 女将が、
「五十代は百ちゃんとお師匠さん、四十代はトモヨ、三十代が、和子、メイコ、優子。神無月さんもたいへんや」
「私もいます!」
 丸信子が思わず手を挙げ、真っ赤になってうつむいた。トモヨさんがじっと丸を見つめ、
「信ちゃんもそのうちお願いしましょうね。お店を退(ひ)いてからだいぶ経ったものね」
「はい……」
 主人は上機嫌にうなずき、
「なるほどな、畑候補がだいぶおるゆうことや。いずれ産みたいゆうやつが出てくるやろ。トモヨは引退してええぞ」
 トモヨさんが、
「だれも産みたがらないと思いますよ。お嬢さんを見習ってますから。お義父さんも二人でがまんしてください」
「ハハハ、それでええか。神無月さんも子供のことを考えずに、無理せんと気楽にやってください」
 菅野が、
「それでも、たいへんはたいへんですよ。神無月さんでなければこなせない。私ならあっというまにアゴが出ます」
 主人が、
「一人でも持て余しとるもんな」
 トモヨさんが、
「郷くんは超人ですから。でもやっぱりセックスはとても疲れるので、私たちも郷くんに甘えずに、じゅうぶん節制しないと」
 女たちが強くうなずいた。女将が、
「無理に自分を抑えんようにしとかんと、心遣いもぎこちなくなってまうで」
 丸が、
「女将さんが言うのは、がまんできなくなったら自分で慰めろっていうことでしょ」
「……まあ、そうや」
 天童が、
「それは無理です。ぜんぜん気持ちよくないから。それしか知らないふつうの女は気持ちいいんでしょうが、私たちが神無月さんに教えられた気持ちよさに比べたら、ゼロみたいなものです。そんなものしないほうがマシ。一年でもじっと待ってたほうがいいです」
 トモヨさんが、
「私もイヤ」
 女将が、
「そりゃそうやね。男に教えられた気持ちよさに比べたらね」
 主人が照れくさそうに頭を掻く。なぜか菅野もつられて頭を掻く。思わず私も頭を掻いた。ソテツが、
「私は、つい自分でしちゃいます」
 キッコが、
「それがトモヨさん奥さんの言う好奇心やよ。若いからそれで落ち着くんやね。大人は〈実質〉を求めるから」
「私も大人です」
「でもついやってまうんやろ? 適当に気持ちいいことして数こなそうとするのが、若さの好奇心ゆうんよ」
 イネが、
「オラは、やんね。せっかく神無月さんを待ってる気持ぢがもったいねもの。神無月さんにもらうものが汚れる気がして」
 カズちゃんと素子が帰ってきた。座のみんながパッと笑って、話を打ち切りにかかった。新しくおさんどんが始まる。先発組は腰を上げ、
「交代!」
 と明るく声をかけながら座敷から出ていった。
「連勝記録と、シーズン最多勝記録はわかりますか」
 主人に訊くと、書棚からプロ野球記録辞典を取り出し、
「昭和二十九年の南海の純粋な十八連勝、三十五年の大毎が一分け挟んで十八連勝、それはきのうドラゴンズが達成しました。南海の記録があるもんで、きのうはあまり騒がれんかったな。次は、四十年の南海が一分け挟んで十七連勝。最多勝は、いまより十も二十も試合数が多かった時代のことやが、三十年の南海の百四十三試合で九十九勝。最高勝率は二十六年の南海の百四試合で七割五分ぴったりや」
「南海ばかりですね」
「ほうやな。セリーグだと、昭和二十六年の巨人の最高勝率七割三分。巨人はそれ以外にほとんどチーム記録を残しとらん。今年のドラゴンズは、開幕六連勝、一敗して、十三連勝、引き分け、一敗ときて、三連勝、一敗して、六連勝、引き分けを挟んで、十二連勝中や。四十勝三敗二分け、勝率九割三分。最終的に八割はいくでしょう。とんでもないですな」
 カズちゃんが、
「松坂屋が増産したタオルを完売して、新製品の天馬シャツも売り出したとたん完売したんですって。もう、キョウちゃんの人気は、巨人大鵬卵焼きなんてものじゃないわよ。売り上げの印税は、キョウちゃんの言ったとおり、球団預けにしてたらしいけど、村迫さんから電話があって、全額私の口座に振りこんだって連絡してきたわ。ミズノはおとうさんの口座でしょう?」
「ああ」
「もうどうしたらいいかわからないわね。せめてホームランの景品のための倉庫は作ったほうがいいわよ」
「ほうやな。今月中にエアコン付きの簡易倉庫を建ててもらうわ。仕分けの貯金は、三つ四つの銀行と話がついとる。きちんと神無月さんの口座を作ったで安心してや」
「これで来年の給料も上がるって言うんだから、もうたいへん。キョウちゃんに暇がないから、お金の使い途もなかなか思いつかないのよ。素ちゃんや千佳ちゃんに車買ってあげたり、オフに帰省したぐらいじゃ一向に減らないわね」
 菅野が、
「お嬢さん、そうでもないんですよ。高い税率の所得税を払ったり、住民税を払ったりしたら、五割ぐらいしか残りません」
「それはわかってる。毎年五割も残ったら、十年後にどうなると思う? ホームランの賞金だって莫大なんだから。とにかく使えるときに、使うべきものに使いましょう」
 カズちゃんはせっせと箸を動かしながら、
「そういったことも含めてマネージャーみたいな人が必要ね。これからはどんどんキョウちゃんのスケジュールが忙しくなってくるでしょう。一人、ちゃんとしたマネージャーを置きたいのよね。スケジュール管理をしっかりできるような人。菅野さんはおとうさんの右腕だし、将来の経営をまかせられることになるから、まず無理ね。とにかく、菅野さんみたいな身近な人じゃないとだめ。気心知れた人じゃないと、お金に勝手に触ったり、動かしたりしちゃう。人と交渉したり、面談したり、電話を受けたりしても、物怖じしない人じゃないといけないわ。私としては、うちの女の人のだれかを立てたらどうかと思うの。二十代か三十代の活発な人がいいわね」
 カズちゃんが天井を見上げる。
「……みんなそれぞれ忙しそうね。素ちゃんかキッコちゃんがしっかりした性格だから合ってるとは思うんだけど、素ちゃんはアイリスの大黒柱だし、キッコちゃんは勉強中だから無理」
 トモヨさんがうなずき、
「キッコちゃんはそうですけど、素子さんは忙しくないでしょう。ただ、マネージャーの仕事って女ではなかなかうまくいかないこともあると思うんですよね。私がやってもいいんですけど、その点が心配」
 素子が、
「心配心配、うちぜんぜん自信ない」
「トモヨさんは北村席の顔として、キョウちゃんを家庭に迎えるという大仕事をいつもしなくちゃいけない人よ。出産も近いんだし、そんなことしてられないわ。メイ子ちゃんのレジ係はほかの子にもできる仕事だから、なんならとも思うんだけど、アイリスのレジをまかせられるのはメイ子ちゃんだけだし。それに、則武のお家の面倒も見てもらわなくちゃいけないし、留守がちになったら、私とキョウちゃんのリズムが狂っちゃうわ」
 菅野が小さく手を上げ、
「やはり私がやりましょう。トルコのほうに携わりながらでも、じゅうぶんできます。社長、その景品小屋の隣に、マネージャー事務所みたいなバラックをくっつけて建てて、電話を引いてくれませんか。いろんなイベントの申込を受けられるようにね。名刺は自分で作ります。中日ドラゴンズ神無月郷マネージャー・菅野茂文、というやつ。事務所の名前は、そうですね、オフィス神無月」
 私は、
「少し格好つけて、ファインホースがいいですよ」
「なるほど、すばらしい馬か」
 賑やかな拍手が上がった。主人が、
「じゃ、そうしてくれるか。うちの仕事の合間に覗いてみてくれればええからな」
「はい。とにかく神無月さんのスケジュール管理をきちんとします。来年あたりから忙しくなるに決まってますからね」
 カズちゃんが、
「お願いするわ。お仕事に影響の出ない範囲でやってくださいね。四六時中詰めてる必要はないんですよ。電話なんか十日に一度も鳴らないでしょうし、イベントの申し入れだって年に何回あるか」
「まかせてください。いままでも、移動切符の手配や、球場はじめいろいろな場所の送り迎えをしてきたんですから」
「お給料は、おとうさんの出すものに上乗せします」
「いえ、何もいりません。給料はたっぷりいただいてます。それでなくても席には常々ひとかたならぬお世話になってますから」


         百二十

 女将が、
「選手個人のマネージャーって、どういうことをするん?」
 主人が、
「自宅と球場の送迎、自主トレの手伝い、負傷したときの病院の付き添い、自宅から遠征先へ向かうときの切符の手配といったものやな。菅ちゃんがこれまでやってきたことばかりや。それに、このあいだの野球教室みたいなイベントの申込みがあったら、その質を考えて選手本人と諮り、選手のスケジュールに合わせてそれを受け、日時や報酬を決めたりすることが加わるわけや。神無月さんが名古屋におるときは、菅ちゃんは朝から晩まで獅子奮迅の活躍をしとる。だから菅ちゃんには世間並の何倍も給料を払っとる」
 女将が、
「いろいろ考えると、マネージャーいうのは女には無理な仕事やね」
 カズちゃんが、
「そうねえ、送迎やトレーニングの手伝いまでは気づかなかったわ」
「個人付きマネージャーにもと野球選手が多いのはそのせいやな」 
「ぼくがアウェイのときは、菅野さんはどんなふうにすごしてるんですか」
「午後の見回りが終わったら、少し女将さんと帳簿調べをしてから帰ります。日曜日は休みます。けっこうラクさせてもらってるんですよ。家族サービスにも不自由してません」
「安心しました」
「社長は、正式な会計士と税理士を二人ずつ雇ってます。千佳子さんがいずれ資格を取ったら五人になります。私は計算頭でないので、帳簿つけが関の山です。将来経営に携わるような分際ではありません」
 トモヨさんが、
「経営は理屈や計算じゃないでしょう。お義父さんの経営の仕方をいちばんよく知っているのは、菅野さんとお義母さんです。ところで、トルコにはいまも松葉会の組員さんたちが詰めてますか」
「相変わらず無給で四人詰めてます。ありがたいことです。もう五回と言わず、厄介な客を追い払ってくれました。塙の銀馬車のほうにも一人詰めてもらってます。北村席の周辺には、一日に何度かその中の二人が見回りにきます」
 カズちゃんが、
「中日球場や遠征先の球場のほうに毎回詰める人たちも含めたら相当の人数よね。無給で働いてくれるのはもちろん感心するけど、ぜったい身分がバレないような服装をしてるのも立派だと思うわ。煙草代と断って、心づけだけでも渡すようにしないと。五万円ぐらいずつね。来週訪ねたときには、ワカさんたちにきちんとお礼を言わなくちゃ。ああ、おいしいトンカツと豚汁だった。北村席の台所は日本一だわ。ごちそうさま」
 カズちゃんと素子が箸を置いて、急いで出ていった。
         †
 フリーバッティングをしていたとき、ケージの後ろにピッチャーの松岡がノソリとやってきて、落ち着いた声で話しかけた。顔はニヤケている。
「きょう、私、投げます。お手柔らかに」
「こちらこそ。あらためて見ると、大きいですね! 何センチですか」
「百八十七です」
「ぼくより五センチ大きい」
 背広姿の記者たちが二十人余り、自軍の選手たちが五、六人見守っている。私は打ちつづける。松岡は水原監督や田宮コーチと並んで打球の行方を見つめながら、うるさく背中に話しかける。
「私、二十二です」
「そうですか」
「契約金で親に家を建ててやりました」
「殊勝なことですね」
「あなたのような人格者が、いつまでもお母さんを許せませんか」
 とつぜん言った。私はバットを止めて、振り向いた。
「ぼくのほうが拒否されてるんです」
「そんな親、この世にいませんよ」
 この男に対する苦手意識が芽生えた。
「それはあなたの狭い経験内での判断です」
「しかし、自分の母親に拒絶される人生て、いったい何なんですかね」
 隣のケージで打っていた江藤が、
「事情を詳しく知らんことは口にせんほうがよかぞ! おまえ、人間の心の根本的な欠陥を目の当たりにしたことはなかろうもん。欠陥だらけの肉親に生理的に嫌われる苦しみは、おまえにはわからん」
「だから、そんな親はいませんて。親に対する反発なんて麻疹(はしか)みたいなものです。だれでも罹りますよ」
「やかましい! 反抗期やら生やさしか話とはちがうっちゃん。神無月郷を人並に考えなしゃんな。持ち場に戻ってウォーミングアップでもしとれ!」
 水原監督が松岡の肩を叩き、
「松岡くん、きみが親に家を建てて孝行する以上に、金太郎さんは親族に考を尽くしてるよ。肉親以外の他人にも濃やかな心配りをする。どうして私たちがこれほど金太郎さんを愛してると思う? 心の質とかさばりがちがうんだよ。親だ子だという矮小な世界に彼は住んでいない。彼に世間道徳を説いてもムダだ。きみはきみの世界を大事にしなさい」
 ニヤケ顔の松岡は、水原監督に頭を下げると、グイと胸を反らしてベンチへ戻っていった。
 主審原田の右手が高々と上がり、プレイボール。中日のマウンドは小川。アトムズの先発は松岡とわかっている。
 一回から両投手ともすばらしい投球を見せた。中日打線は、きわどいコースの速球で追いこまれてからボールになるシュートやスライダーやフォークを打たされ、当てるだけのゴロやフライに終始した。五回裏まですっかり松岡・加藤バッテリーの術中にはまってしまった。三振は三つしか喫しなかったが、決め球のシュートで十九個の凡打の山を築いた。私は松岡に四打数一安打に抑えられた。ファーストライナー、セカンドゴロ、センターフライ、センター前ワンバウンドのヒット。その一本でようやく一矢報いたという格好だった。彼の好投だけでなく、芽生えたばかりの人間的な苦手意識が大いに影響していた。水原監督が、
「金太郎さん、きょうは気分が穏やかじゃないね。ほんとに繊細な心だ。一日ぐらい彼に花を持たせておきましょう」
 田宮コーチが、
「親族は金太郎さんの弁慶の泣きどころだな。敵のキャッチャー連中に気づかれないようにしないとイジられるぞ」
 中日は六回からようやく、中、江藤、私、木俣、江島、小川で一本ずつ計六本のヒットを打ったが、すべて散発で、結局八回裏に中が打った九号ソロホームラン一本だけでα勝ちした。決め球のシュートが曲がり切らずに内角に甘く入ったのをひっぱたいたものだった。高く上がって右翼席ファンのど真ん中に落ちた。
 私がたった一度大歓声を引き起こせたのは、九回表、東条を二塁に置いて高山が打ったレフト前ヒットを、猛然とダッシュしてバックホームし、クロスプレーで東条を刺したときだけだった。私が滑空させたボールは、両手を上げて滑りこむ東条の左腋をかすめて木俣のミットに突き刺さった。東条の上半身が、ブロックした木俣のからだにドシンとぶつかった。
 二時間五分で試合が終わった。終わってみればピッチャー二人だけが奮闘した試合だった。松岡も小川も完投し、小川は被安打七、三振一、フォアボール二。スイスイと八勝目を挙げた。
 きょうはアイリスからだれも観戦にこなかったので、北村席の門に主人を降ろして見送ると、ガレージの暗がりでユニフォームを脱ぎ、下着ごとそっくりワイシャツとズボンに着替え、そのまま節子とキクエのもとに向かった。
「用意周到でしたね。ありがとう」
「もののついでという感じは神無月さんに似合いません。やあ、きょうは苦戦でしたね。いずれ松岡はこっぴどく叩いておかないと」
「ストレートのコントロールがいいんで、これからも苦戦するでしょう」
 九時半を回ったばかりだった。二人の部屋には明かりがなかった。
「腹がへった。帰ってめし食いましょう」
 菅野がハタと手を拍つ表情で、
「そう言えば、女将さんが新樹ハイツに電話して確かめておくと言ってました」
「そうだった! あのまま北村席に寄ればよかったんだ。いまごろみんなで笑ってますね」
「着替えなんか持ってくる必要なかったなあ」
「いえ、助かりました。ユニフォーム、汗まみれだったから」
「昼間三十一度あったそうですよ。しかし、社長も私たちも忘れていたとはね。ちょっと北村に電話してきます」
 菅野は車を路肩に停めて、公衆電話ボックスに入った。すぐに戻ってくる。
「二人とも深夜上がりだそうです。十二時前に帰ってくるということでした。守山駅までドライブして、田舎の夜景色でも楽しんできましょうか」
「いいですね。途中で天ぷらそばでもすすって」
「グッド! 道草しても一時間半で新樹ハイツに戻れます」
 今朝ランニングしたばかりの桜通へ向かう。桜橋を渡って久屋大通りへ。右手にテレビ塔を眺める。高岳の交差点の先、小川という標識を左折。三車線の道を直進。ビルばかりで食べ物屋など見当たらない。徳川美術館を指す矢印がある。いつかこのあたりへきたことがある。赤塚の交差点。大曽根。伊勝の英夫兄さんの家を訪ねる市電に乗って、ここを通った。岡田先生と鶴舞公園に練習試合にいったときにも通った。方角がまったくわからない。ただ名前を憶えている。
「このあたりの道は瀬戸街道と言います。あと五分で着きます」
「蕎麦屋がないねえ」
 矢田二丁目。矢田五丁目。家並が低くなり、だんだん寂れた景色になってきた。町の灯りがほとんどない。名鉄瀬戸線の鉄路に沿って矢田川橋という大きな橋を渡る。氾濫原の異様に広い小振りな川が流れている。遠く名鉄線の橋脚を舐めている。矢田川橋を渡り切って、田舎じみた商店の点在する町並に入る。民家や駐車場を挟みながら商店が並んでいる。ここから守山駅までの通りがこの土地の繁華街だろう。
 ここにもコメダ珈琲店、鮨屋、美容院、郵便局、ラーメン一番軒か。食いたいのは蕎麦だ。またラーメン屋、トタン家も現れる。野辺地の町並。米屋の二階にダンス教室。取り合わせが不気味だ。
「それにしても、きょうのバッティングは不発でしたね」
「不発も不発、してやられました。松岡の球が走ってたこともあるけど、それ以上にまじめなニヤケ顔が不快だったからね。この一年やられそうだ」
 バッティングケージでの話をする。
「対応のしようがないですね。常人でないスポーツ選手たる者、知恵者ぶって常人の倫(みち)を説いたりしちゃいけません。不愉快だったでしょう。どんな世界にもそういう本分を忘れたやつがいるんだなあ。しかし神無月さん、不愉快になってまでそんなやつの言うことを聞いてやるのは、痛々しい心遣いですよ」
「……うん」
「神無月さんは自分独自の眼鏡をかけて世界を見てます。想像力という眼鏡ですよ。だから自分の世界に住んでる人間に同じ感受性があると想像しちゃうんです。それは神無月さんの希望です。たいていの人間は神無月さんほど繊細じゃなく、神無月さんのような想像力にあふれた人には耐えられないような環境にいても平気なんです。親子とか、夫婦とか、会社とか、村や町や学校とか、四六時中そんな現実的なものに取りつかれて、あたりまえのように生きてるんです」
「それって、真剣に没頭すると、遊びや冒険を排除するものばかりですね。遊びや冒険のない生活に耐えられる人たちということか」
「はあ……なるほどね」
 葬儀場二階建てビル、惣菜店、自転車屋、向かいにバイク店、電気屋、薬局、町北(まちきた)という標識、喫茶店、不動産屋、軽食屋、農協ビル、三階建の図書館、浅野の家のような二階家もちらほらある。眼科、学生服店、新聞店、左折。守山自衛隊前駅に到着。ここまで三十分弱。蕎麦屋は一軒もなかった。
「自衛隊前駅?……」
「守山自衛隊がそばにありますから。守山駅というのはないんですよ。守山という名前そのものは有名ですけど」
 駅舎は小屋ふうの造りで、周囲の景色に溶けこんでいる。駅前は開けておらず、背の高い建物も見当たらない。ロータリーはなく、十台ほど停まれる駐車場があり、民家の並びにポツンと床屋がある。都心より少し気温が低い。いまは昼の暖かさが残っているけれども、夜中から明け方にかけては相当冷えこむだろう。黒い空の雲の流れが速い。
「わび、さび、という感じのドライブでしたね」
「戻りますか」
「はい」
 瓦が崩れ落ちそうな小寺がある。庫裏に灯りが点っている。どんな家にも人が住んでいる。廃屋はめったにないが、見かけると荒涼とした気分になる。
「日本という国は、大都会以外はぜんぶ田舎なんだなあ。名の知れた小都会も……」
「ですねェ……」


         百二十一

 矢田川べりに出て氾濫原沿いに走る。対向車がない。暗い土手の一本道を走って、矢田川橋に出る。もときた道を帰っていく。極端に車が少なく、歩いている人の姿も見かけない。スーパーやファーストフード店さえ見当たらない。丘を下るゆるやかなカーブの道路に出る。
「神無月さんに会うまでは、こういう景色もさびしいと思わなかったんですよ。よく見つめなかったからですね」
 フロントガラスに霧雨がきた。ワイパーが扇形に夜の町並を切り取る。
「こういう景色の中に、人間がいなければ、もっとさびしいな」
「はあ、とんでもなくさびしいですね」
「人間がいても、人間の話をしてないと、さびしい。生きているなら、浮世に留まりたいですね」
「……浮世離れしている人ですから、そういう反動があるんでしょうね。神無月さんは根本的には人間嫌いです。それを軌道修正しようとする本能があるんですよ。留まりたいのは、好きな人間だけの浮世……泣けます」
 十二時までまだ一時間近くある。菅野が、
「きっちり都会の夜景でも見ましょうか」
「はい」
 久屋大通りからテレビ塔を回って、広小路伏見の名古屋観光ホテルへいく。
「地上十五階、高さ八十一メートル。いまのところ、名古屋では一番の夜景スポットです」
「一度きたんじゃなかったっけ」
「はい、入団式のときですね。宇賀神さんがいらっしゃったときです。快適な物忘れだ」
 隣接する駐車場に車を停め、霧雨を髪に載せて豪壮な広いロビーに入る。子供の身長ほどもある三つ四つの植木鉢から巨大な観葉植物がそびえている。ロビーの空間にみごとに調和して並んでいる。幼木なので木の種類はわからない。フロントに近づいていくと、紺の制服を着た青年二人の男性従業員が礼をし、
「いらっしゃいませ、神無月さま、おひさしぶりでございます」
「え! 憶えてるの?」
「もちろん。それでなくてもご高名なかたですから。きょうは、ご宿泊ですか?」
「いえ、夜景を見ようと思って。三十分ほど」
「かしこまりました。最上階の西ウィングの伊吹の間がよろしいでしょう。夜景の見える大窓の脇が、マルコポーロというカウンターバーになっております。軽いお食事もできます。ご案内いたします」
 エレベーターに乗り、最上階までいった。
「夜景と申しましても、このへんはビルが密集していませんのでネオンが少なくて、それほどのものは期待できませんが」
 青年が言う。
「軽食がとれればそれでけっこうです」
 ホテルマンというのはきちんとしている。四角四面という言葉が似合う。フロントの前に立ったときの安堵感のもとはそれだ。青年は広間の入口まで案内し、
「サービス料は無料ですので、ご安心してお食事なさってください。……いつもご活躍を目にして胸躍らせています。百号ホームランが待ち遠しいです」
「ありがとうございます。がんばります」
 カウンターに坐り、口ひげの上品そうなバーテンに、
「酒ではなく、食事を」
「かしこまりました。スパゲティなどいかがでしょう」
「じゃ、ミートソースお願いします」
「かしこまりました」
 目の前で茹で、炒め、調理しはじめる。青年の危惧を裏切り、大窓からかなり色とりどりのネオンが眺められる。美しい。
「菅野さん、いけるじゃないの」
「そうですね」
 マスターが、
「さっきフロントから電話が入りまして、驚きました。高名なおかたですから、出歩くのもご不便でしょうね」
「いえ、こちらのマネージャーといっしょに、いつも車で移動しますから」
「マネージャーさまですか。今後ともご贔屓によろしくお願いいたします」
 菅野は名刺がないのをもどかしそうに、
「マネージャーというより、腹心の付き人ですね。これからはオフにかけて、神無月のいろいろな表彰や記者会見などがこのホテルで行なわれることでしょうから、くれぐれもよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。ところで、きょうの昼は三十一度だったそうですね」
「はあ、そうみたいですね」
 菅野と顔を見合わせて笑う。
「試合がたいへんだったでしょう」
「いやに暑いなとは感じましたけど、試合になると夢中ですから」
 三十一度の余韻は霧雨の中にも残っていた。しかし、冷房の効いたホテルから出るのが億劫になるというほどではない。ミートソースが出てくる。評価は特A。
「うまいなあ。バーの食べ物じゃない」
「ありがとうございます。日ごろ食べ歩いて勉強しております」
「友人にバーテンダーがいるんですが、小器用なだけで、あなたのような品がありません。品というのはものごとに打ちこむ情熱からしか出てきません」
「畏れ入ります」
「ああ、うまかった。ごちそうさまでした。またミーソースを食べにきます」
「ぜひ。お待ちしております」
「四十代とお見受けしましたが、これからもここにずっといらっしゃいますよね」
「はい、ここに勤めて十年になります。辞めろと言われるまでいるつもりです」
 菅野が、
「へんな人でしょう? 気に入った人間と別れることを極端に嫌う気質なんですよ」
「気に入っていただけて、恐縮です」
「人生、すれちがいだと思いたくありませんから」
「吉住と申します。この話、帰ったら女房に伝えます。情熱、絶やさないようにいたします。ありがとうございました」
 うまい水を一杯飲み干し、菅野が勘定をしてバーを出る。バーテンは広間の出口まで送ってきて頭を下げた。青年がエレベーターの前で待っていて一階へ導き、フロント頭とともに玄関に見送った。
「受賞パーティでお待ちしております」
 傘を渡そうとするのを断り、霧雨の中、駐車場へ向かう。
「菅野さん、ごちそうさま。おいしいけど、高いスパゲティだったね」
「だいじょうぶです。必要経費として、社長に請求できますから」
「きれいな夜景だったなあ」
「ほんとに。噂には聞いていましたが、これほどとは。あのホテルマン、謙虚すぎますよ。あしたは、朝八時ごろ迎えにいきます。いいですか」
「十時ごろでいいです。どうせ節子たちは今週遅番でしょう」
「わかりました。ランニングどうします?」
「雨だから中止にしましょう。一日のんびりする。あさっての昼過ぎに東京出発だ」
「いよいよ、後楽園で巨人三連戦ですね。高木さんが堀内にぶつけられたみたいなことが起こらなければいいけど」
「起こらないでしょう。むこうも戦々恐々ですよ。堀内は少しアゴを上げて投げる癖があるので、ときどき右バッターの内角へスッポ抜けるんですね。左バッターの内角にスッポ抜けることはありません」
「ローテーションから考えて、堀内は投げてこないです。城之内、渡辺、金田でしょう」
「こっちは、小野さん、山中さん、小川さんだな。二勝か全勝、ホームラン三本」
 新樹ハイツに十二時少し過ぎに着くと、節子の部屋に灯りが点いていた。菅野の車が帰っていった。灯りのある部屋のドアを叩くと二つの笑顔が現れた。節子が、
「いらっしゃい。私たちも十分前に帰ったばかりよ」
 一人ずつ長いキス。二人のふくよかな陰阜を両手で握る。親愛の挨拶だ。二人もクスクス笑いながら交互に私の股間を握る。土足棚の上の花瓶に二輪の紫陽花が挿してある。部屋に入ると、テーブルの上にビワと桃を入れた盆が載っていた。取り付けたばかりのエアコンが快適だ。
「北村席のご主人に取り付けていただきました」
「キクエの部屋にもあるの」
「はい。とても助かってます」
 キクエが、
「三人でお風呂入りましょう。女将さんから病院に電話が入って、席に寄らずに菅野さんと出たと言ってたわ。まだ入ってないんでしょう?」
「シャワー浴びただけ」
 三人張ったばかりの湯に入る。菅野と守山へいってきた話をする。節子が、
「そういうしみじみしたドライブもオツね」
 キクエが、
「守山……。私も名古屋のことをほとんど知らないから、少しずつ知っていかないと。でも忙しすぎて、なかなか」
「お姉さんは元気?」
「幸せそのもの。キョウちゃんに出会ってから、何もかもうまくいってるわ」
「キクちゃんが勇気を持ってキョウちゃんにぶつかったからよ」
「よく西高のあたりまで走るんだ。花屋は相変わらず繁盛してるよ」
「奥さんやマスター、元気にしてました?」
「うん、お婆さんもね」
「八坂荘は?」
「むかしどおり、ドヨーンと建ってるよ。ポテトサラダの肉屋もあのまま」
 キクエは節子と顔を見合わせ、
「私の歴史の始まった町……。あのあたり、何町と言ったかしら」
「名西二丁目」
「そうだった。すっかり忘れてた。……西高の文化祭、思い出すわ」
 節子が、
「あのときのキョウちゃんの歌声、広い講堂に響きわたったわね。みんな感動してた」
「もうそろそろあれから二年になるのね。キョウちゃんを西高の廊下で初めて見かけてから三年と……」
 節子が、
「私は牛巻病院のロビーで初めて見てから五年と二カ月。そのキョウちゃんはいまや、日本一、世界一のバッター。日本じゅうのファンたちを喜ばせてる。私たちも、もっともっとたくさんの患者たちを喜ばせなくちゃ」
 節子はそう言いながら、じっと私のものを握っている。
「逢いたかった」
「これに?」
「うん、キョウちゃんのこれに。何度も夢に見たわ」
「私も。夢の中でイッちゃったの。からだがいつもみたいにふるえるのがぼんやりわかった。朝、パンティがゴワゴワしてたのでビックリしたわ。ほとんど男の夢精と同じなのね」
「ごめんね、いつも長く放っておいて」
「いいの。私たちも忙しすぎてそれどころじゃないんだけど、からだが勝手にそうなっちゃうの」
「なんか、うれしいな」
「うれしいの?」
「うん、性欲のない聖女はつまらない」
 節子が、
「キョウちゃん、性欲のない聖女なんてこの世にいないのよ。出産のあと、そうなってしまう人はたまにいるけど」
 キクエが、
「たまにね。トモヨさんはだいじょうぶ。このあいだ外来できたとき訊いたの。恥ずかしいぐらいあるんですって」
「でもキクちゃん、私、まだ夢精したことないわ。そうなってみたい。どんな感じ?」
「キョウちゃんにイカせてもらうのとほとんど同じ。しっかりイッて、からだがガクガクふるえるわ。キョウちゃん、上がってお蒲団にいきましょう。もうがまんできない」
「私も」
 いつもの性の饗宴が始まった。
 挿入する前に亀頭を小陰唇に沿って滑らせながらクリトリスを刺激するとき、いつも神秘的な思いに捉われる。その一点の愉悦を食前酒にして、大きな快楽の訪れを期待しながら迎え入れ、そして期待を超えた大きな愉悦に打ちのめされ、制御の利かないふるえに身をまかせる―二種類の性を生きられる女のからだの神秘。クリトリスの小さな愉悦ですまし、生涯それしか知らない女が大半だとカズちゃんに聞いたし、素子にも聞いた。その事実は、女の快楽を自分とひとしなみに考え、女の深い神秘に蹂躙されることのない男にとっては安心の素だろう。
 コブ茶漬けの休憩を挟み、饗宴は二時までつづいた。二人に一度ずつ射精した。節子もキクエも愛らしい声を上げながら、私の射精の瞬間に進んで腰を動かして苦痛に近い快感を味わった。快楽がからだの隅々までいきわたって満足した二人は、ビワと桃を果物ナイフで剥き、蒲団に寝転がって私に食わせた。それから三人で安らかに眠りについた。


         百二十二

 三人さわやかに目覚め、洗顔し、キクエの部屋に移動して朝食をとった。目玉焼き、サンマの開き、白菜の浅漬け、板海苔、豆腐とワカメの味噌汁。美味。
「こうしているとき、どれほど二人を愛しているかわかる。もちろんセックスのときも。女のからだの反応はあまりにも神秘的なので、感動でいっぱいになるけど、それとは関係なく深い愛情を感じる。ほとんど毎日セックスしているのに、女に対する尊敬心を失うことがない。尊敬心を失わないためにセックスしていると言っても言いすぎじゃない。でもそれ以上に、こうしている時間の充実感は並じゃない」
 節子が、
「私はそんなふうに分けられない。どんな時間も、ぜんぶ感動と尊敬と愛でいっぱい」
 キクエは、
「そう、ぜんぶ命懸け」
 二人に、
「肉体と心、どちらが欠けても満点じゃない?」
 キクエが、
「減っても満点、増えても満点。肉体と心という単純なものじゃなくて、キョウちゃんがしたり考えたりすること、どれ一つとっても満点。どれもキョウちゃんのぜんぶだから」
 節子が、
「ああ、私、そう言いたかったの。キクちゃん、頭いい」
「……ぼくもそう言いたかった」
「ほんと?」
 三人で賑やかに笑う。
「きのうの夜、もっと大勢の患者を喜ばせなくちゃいけないと言ってたけど、喜ばせるというのは、救うということだよね」
 節子が、
「そう、そのためには病院の悪い習慣や体制を改善しなくちゃいけないの。だから、勇気を持って上の人に〈物申す〉ということが必要なのね。自分の持ち場だけでがんばればいい、全体の多少の欠陥には目をつぶるしかない、というのでは〈世のため〉にならないの」
「細かい改革が全体を動かすということだね」
「そう。全体を動かさないと、大勢の人を喜ばせられない」
 康男のアパートのそばの公園のベンチに尻を引っかけるように腰を下ろし、怖いと呟いたあの遠い夜の節子と比べて、何という変わりようだろう。人は変わるのだ。キクエが、
「医師と看護婦の乱れた関係とか、看護婦や院内従業員の酷使とか、執刀医への袖の下とか、手術ミスの下位の者への責任転嫁とか、ぜんぶ患者さんの不都合として降りかかってくるんです」
「ふうん、それはどれも〈多少の欠陥〉じゃない。二人が負けるということは、正義が負けるということだね」
「少し大げさだけど、そのつもりでいます」
 二人でうなずき合う。キクエが、
「上層部というのは、大物とか呼ばれてるけど、簡単に言うと、稼ぎのいい人たちということにすぎないの。そもそも大物なんて存在しないんです」
「そのとおりだ。資産何十億の人間と、その日暮しの人間とのちがいなんて、ささやかなものさ。大物と呼ばれる人間は、自分はほかの人間とはちがう特別な存在だと思ってるんだろう。そんなやつ、ふつうの人間と同じ扱いをして、無意味なプライドをへし折ってやればいい。それが彼らに対する拷問だ。患者を拷問した罰は、正義の拷問で返さなくちゃね。……単純なことを言ってるようだけど、人間が単純さを失ったらおしまいだ。正義を失う」
 節子が、
「うれしいわ、キョウちゃん。勇気が出る」
 キクエが、
「医療に携わる者にとっていちばん大切なのは、自分ではなく患者なんです。大きな病院ほどそれを忘れてます」
「しっぺ返しを喰らって職を失ったら、何もかも忘れて、いっしょに暮らそう」
「仕事を忘れるわけにはいきません。もしもそうなったら、小さな、良心的な病院に移って、できるだけたくさんの患者さんを救います」
 節子が、
「もう二人のあいだでとっくに話し合ったことよ。でもうれしいことに、いまのところ私たちの〈申し立て〉は意外に受け入れられて、院内の体制が少しずつ改善されてきてるの」
「ぼくは勇気あるコツコツ人間が大好きだ」
 ご褒美、と言って、私は二人の唇にキスをした。
 傘を差しながら駐車場でもう一度二人とキスをして、オールスター明けの逢瀬を約し、菅野の車に乗った。たがいに手を振って遠ざかる。急に勃起が始まった。
「神無月さん、ズボンふくらんでますよ」
「最近へんなんですよ。十七、八歳のころみたいに頭の中と関係なく勃っちゃう」
「私も経験あります。すぐ溜まっちゃうんですね。一晩に三回もセンズリしたことがありますよ。私ですらそうなんですから、神無月さんの体力ならそうなって当然でしょう」
「きのうの夜、二度も出して、またこんな状態になっちゃう。最近は特に溜まりが早いみたいで、したばかりでもなかなか治まらない。こうなっちゃうとしばらくだめです。ちょっと恥ずかしいな。遠征先ではぜったい試合の前日や直前にやっちゃだめだ。ずっと忘れた状態でいないと」
「二十歳のあふれる精力のせいです。わかりました。途中でトモヨ奥さんに電話して、天童ちゃんを離れに呼んでおきましょう。裏門につけます」
「きょうは木曜だから、優子はアイリスです。優子と百江とはきょうの夜の約束だし、だいじょうぶ、こいつは単なる生理現象ですから。別に性欲があってこうなるわけじゃないので、そのうち治まります」
 こういう会話そのものがじつに恥ずかしい。
「しかし困りましたね。性欲がないにしても、出せば勃起は治まるわけでしょう。北村に帰ってずっとその状態ではいられませんよ。神無月さんはぜったいオナニーをしないとお嬢さんから聞いてるし……トルコの女ですませますか」
「いや、ほんとに何もしなくていいです」
「そっか、ゴムはだめでしたね。トモヨ奥さんはこの時期やばいし。―うん、思いついた!」
 車を羽衣に向ける。
「トルコはいかないですよ。そろそろ萎みかけてきました。だいじょうぶ」
 菅野は私の股間を見て、
「まだですね。まあまあ、悪いようにはしませんから。病気持ちの女はいません。二週間にいっぺん検査してるので、ふつうの女より健康です。じつは羽衣の裏が小庭になってるんです。玄関から入ると、すわ神無月がきたとなって大騒ぎになるでしょう。裏通りに車をつけてそこへこっそり一人呼びますから、そいつに出してサッサと引き揚げましょう。女にとっては名誉なことだし、しっかり口止めしときますから安心してください」
「……でも、サックなしでやってくれる人がいるかなあ」
「います、アテがあります」
 ズボンの前が突き立っている。神経がどうかしているのだろうか。ここまでしつこい勃起は初めてだ。菅野と会話を交わしながらこの状態なのだから、純粋な性欲からではない。飛島の部屋で深夜にこうなって大門まで自転車を走らせ、立ちん坊の素子を抱いたときは確かに性欲のせいだった。それでも彼女を抱く直前にはしっかり萎れていた。今回もそうなったらその場で断ろう。
 菅野は羽衣の裏通りで車を停め、コンクリートの塀に切られた門から小さな庭へ入っていった。傘を差し、前屈みになってあとに従う。数本の立木の陰に物干しがあり、何本かオシボリ様のタオルが干してある。取りこみを怠ったのだろう、雨の雫が滴っている。あまりにも現実的な生活の欠けらを眺めているうちに、少し股間がへこんできた。菅野に状況を説明して断ろうと思ったところへ、建物の裏戸から千鶴がかわいらしい顔を覗かせた。パンティが丸見えのミニスカート姿で小走りに寄ってくる。たちまち勃起が回復した。神経のいたずらな発作が、きちんと性欲に変わった。
「じゃ神無月さん、私、車で待ってますから」
 菅野はサッサと雨の中を門から出ていく。
「千鶴ちゃんか……驚いた。ナンバーワンが出てきちゃってだいじょうぶ?」
 傘を差しかける。
「だいじょうぶ。ちょうど一人目を帰したところだったから。連続では仕事をせん規則なんよ。三十分は空けなあかんの。わ、勃っとる。苦しいやろ。はよ出して」
「ゴムなしでいいの?」
「菅野さんに聞いとる。あたし、病気もないし、安全日やから安心して。ほんとは、ずっと神無月さんとしたいて思っとったんや。菅ちゃんに言われて二つ返事やったわ。お姉ちゃんにはぜったい秘密にする」
 千鶴は雨の当たらない立木の陰に私を導き、私のズボンを引き下ろして、しゃがみこみ、目の高さに凝視する。私は傘を閉じて立木に立てかけた。
「なにこれ! おねえちゃんの言ったとおりや。入るんかな」
 亀頭の先をひと舐めして濡らすと、パンティを脱ぎ、立木に両手を突いて、尻を突き出した。小陰唇が黒いという以外は細かい性器の様子はわからないが、とにかく突き入れた。
「う! すご!」
 あわただしくこする。
「う、すごい、イカん、イカんよ、気持ちええだけや、おねえちゃん、感じてごめんな、あああ、気持ちええ!」
 緊縛がこないので、手を前に回してクリトリスをいじりながらピストンをする。
「あかん、やん、神無月さん、イッてまう、あたしイッてまう、おねえちゃんに悪い、あかん、あかん、おねえちゃん、ごめん! あああ、イク、イクイクイク、イイイク!」
 ギューッと締まった。射精がきた。
「あああ、大きい! イクウウウ!」
「千鶴ちゃん、イクよ!」
 グンと射精する。
「ヒイイ、イックウウ!」
 腹を抱え、出切るまで律動する。
「あかんあかん、ま、またイク、強うイク、おねえちゃんごめんなさい! イクイク、イイ、イク、イク!」
 不随意な運動で落ちかかる腰を持ち上げ、じっとしたまま自由に痙攣させる。千鶴は尻を突き出し、腹を縮めて達しつづける。やがて、
「か、神無月さん、やっと終わった、抜いて……」
 ズルッと抜くと、
「やん、イク!」
 木の幹にすがって、二度、三度と腹を絞る。ポタポタと小陰唇を伝って精液が滴る。美しい尻にキスをする。ブルッとふるえる。
「……もうええわ、ちゃんと終わった、ああ恥ずかしい、好きなだけイッてまった」
 形のいい尻を撫ぜる。
「……いつもイッとるみたいやろ。ちがうんよ。男を喜ばせるために芝居でイク言うだけで、イッたことなんか一度もあれせんかったんよ。これがおねえちゃんの言うイクことなんやなと思いながら大声出したわ。信じられんほど気持ちよかった。オマメちゃんとぜんぜんちがうんやなァ。神無月さんのチンボが引っ掻きまくるんやもん、かなわんわ。おねえちゃん幸せやわ」
 尻を向けたまま、潤んだ目で振り返ったので、長いキスをした。
「ありがとう、千鶴ちゃん。ぼくもやっと治まった。ちゃんと萎んだ。千鶴ちゃんはかわいいから、興奮した」
「……これからも遠慮のう声かけてな」
 さびしそうに言った。千鶴はミニスカートのポケットに用意したティシュで自分の股間を拭うと、パンティを拾い上げて穿き、しゃがみこんで私のものを長い時間かけてしゃぶった。長い睫毛だった。
「ナマのチンボを舐めるのも初めてや。うれしいわ。……菅ちゃんに、声かけてくれてありがとうて言っといて」
「うん、伝えとく」
 私はパンツとズボンを引き上げ、ワイシャツをたくし入れてしっかりベルトを締めた。千鶴が抱きついてきた。抱き締める。
「気持ちが限界や。はよ帰って。苦しなる」
 手を振って門を出た。菅野が運転席でうまそうに煙草を吸っていた。
「やっと萎みました。ありがとう。千鶴ちゃんも、声をかけてくれてありがとうと伝えてくれって」
「はあ、本音でしょうね。神無月さんなら、お金はいらないって言ったんですから。すみません。知り合いでない子をと思ったんですが、どうせならナンバーワンがいいと思って。あの子は口が固いから、素ちゃんに洩れることはありません」
「本人もそう言ってました。これきりにします。新樹ハイツにいったら、朝はきちんと鎮まってから帰るようにします」
「そんなに堅苦しく考えることないですよ。またそうなったら、千鶴ちゃんにお願いしましょう。蚊みたいに刺して、ハイさようならも、後ろめたいでしょう。元気が出ないときもあれば、あり余るほど精力があふれてることだってあります。自然なことです」
 笑いながら煙草を窓の外の雨の中へ弾いた。




7章 進撃再開 その12へ進む

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