百二十三
 
 主人たちに笑顔で迎え入れられながら、座敷に寝そべった。イネが枕を持ってくる。
「お疲れさま。毎晩、だいじょうぶだが?」
「半日で疲れは取れる。ただ、これからはもっと控えようと思う。三日にいっぺん、いや十日にいっぺんぐらいに」
 主人が新聞を持ってやってきて、あぐらをかき、
「計画なんか立てずに自由にしなさいや。やりすぎかどうかは、自分のからだに考えさせればええ。こりゃだめだと思ったらしなければええし、やれると思ったら好きなだけやればええんです。女を悦ばせるのが神無月さんのエネルギーもとだゆうことは、うちの連中はみんなわかっとります。女だけやない、人を喜ばせるのが神無月さんのあらゆるファイトのもとや。喜ばされとる人間はだれも文句つけようがないし、何の不満もあれせん」
 新聞の見出しが目に心地よく飛びこんできた。

 
中日十三連勝
  
小野・田中勉・小川でG戦も三連勝か 
   プロ野球タイ記録引分けなし十八連勝へ驀進


 イネが、
「お嬢さんと結婚してしまれば、みんなあぎらめで手を引くのにな。それがいぢばん神無月さんが自分を大事にするやり方でねべが」
 主人が、
「神無月さんを檻に入れたいんか。そんなのは和子の考えやないとわかっとるやろ。一人だけのものにして縛ることで、神無月さんが小さく固まってまうのががまんできんのや。だからだれにも手を引いてほしくないんやないか。だいたい、イネ、おまえ手ェ引きたいと思ったことあるんか」
「……んにゃ」
「だろ。和子は正しいことをしとるという自覚を持っとる。ワシもそう思う。ワシだって娘がかわいい。だから、最初は神無月さんを不届きな男やと思った。いくら和子の望みだからといって、ほかの女に手を出しすぎやろうと頭にきた。ただのスケベ野郎やと決めつけた。ようトクと嘆いたもんや。……和子とちがって人を見る目がなかったんやな。こうして五年も神無月さんを見てくると、実際の話、神無月さんは、何も考えとらん無色透明みたいな人間やとわかったんや。神無月さんのほうが人に色をつけるんやな。神無月さんを好きになる人間は、何のわだかまりもなく無色の中に引きこまれて、勝手に自分で自分の色模様をつける。そうやって神無月さんに自分の色を見せて喜んでもらう。そういう神無月さんのことを自分を大事にせん男やと人は言うかもしれん。しかしな、神無月さんが自分を大事にしてみい。ワシらの入りこむ余地はないで。自分の得になる人間や集団を選んでそいつらの垣根の中に入ってまって、どんどん垣根を厚くして、ワシらをチラッとも振り返らんようになるぞ。そうやって自分で色をつけていく人間やったら、ワシらは神無月さんにとってあってもなくてもええ紙切れ同然や。それでも自分を大事にしてほしいんか。何が自分を大事にや。そんな気持ちは、ワシらのような凡俗の人間が持つもんや。神無月さんは、無色透明の水や。何も考えとらん。自由とか、不自由とか、小粒だとか、大粒だとか、安全だとか、危険だとか、スケベだとか、道徳的だとか、そんな基準を持っとらん水や。何でも溶かしこむ海のような水や」
 菅野が、
「社長のおっしゃるとおりです。無色と言っても、無気力とはちがうんです。私たちはもちろん神無月さんを愛してますし、神無月さんは、自分を愛する人の好きにさせまままでいますけど、神無月さんもちゃんと私たちを海のように包んでくれてるんです。無色でない私たちは神無月さんの包容力で微妙に〈変色〉します。気に入った人間を好みのやり方で受け入れる不思議な強制力のせいで微妙に変色してしまうんです。自分も神無月さんも快適な色にね。神無月さんといると、時間が惜しくない。時間の経つのが速くて、惜しいなんて感じてる暇がない」
 主人が、
「イネ、ソテツ、ほかの女たちも、よう聞いてな。神無月さんをあきらめる人間なんかおらんぞ。神無月さんの自由この上ない行動で、迷惑をこうむったやつはおるか? おらんやろ? 何も考えとらんのに、だれにも迷惑をかけん人がおるんだよ。……そんな人に気に入られたら最高の幸せやで。そんなすばらしい幸せは喜んで受け入れんとあかん。しかし求めたらあかん。神無月さんの自由の表現には、いろんなやり方がある。野球はいちばん目立っとる一つやし、歌も、文章も、しゃべることも、あれも、ぜんぶその一つや。好きに表現してもらったらええやないか。神無月さんがいなくなったときのことを考えてみい。どう慰められても取り返しがつかんで」
 ソテツが私に、
「神無月さんは、私たちみたいに、希望を持ったり、絶望したりしますか」
 トモヨさんが、
「それは、無色の人には答えられない質問よ。あえて郷くんに希望や絶望があるとするなら、私たちを愛するエネルギーが有効か無効かという考えで決まると思うわ」
「有効か無効かって?」
「幸福を与えられるか、与えられないか。つまり〈人徳〉があるかないか」
 ソテツが、
「神無月さんが私たちに幸福を与えるのは、お嬢さんに対して不道徳なことじゃないんでしょうか。どうしてお嬢さんは、神無月さんに不道徳なことをさせて、人間的に大きくしたいなんて思うんでしょう。人間を大きくするのは道徳じゃないんですか」
「また初めのころみたいなことを言い出すのね。いつも苦しいほど郷くんに抱いてもらいたいと思ってるのに、いざとなるとどこか後ろめたいんでしょう。ねえソテツちゃん、道徳って、会ったこともない大勢の人に認めてもらいたいって気持ちの表れよね。大勢の人に従う心のことね。自分の心に従う〈人徳〉のことじゃないわ。社会とか世間とか、大勢の人の顔が浮かぶ? 知ってる人の顔しか浮かばないでしょう? あなたの考えだと、顔の浮かばない人たちは、みんなえらい道徳家ということになるわね。顔の浮かぶ人はみんな不道徳ということにもなる。その身近な不道徳な人たちがあなたのしてることを正しいことだと認めてるとしたらどう? あなたのしてることを認めてくれるのは、身近な不道徳な人だけということになるわ。お嬢さんもその一人。その不道徳なお嬢さんはみんなに、郷くんに愛されながらそばにいなさいと言う。お嬢さんのそういう心こそ、人を慈しむ〈人徳〉よ。でもソテツちゃんの言う道徳というのは社会の法律やしきたりのことね。〈人徳〉じゃない。〈人徳〉というのは、自分の知り合いのすることを人の歩むべき倫(みち)としてうなずいてあげることなの。郷くんを愛し、郷くんに愛されることが自分の願いで、人の倫として正しいと認めてくれる人がいるなら、素直にその〈人徳〉に従いましょうよ」
 雨音が強くなる。イネが、
「だども世間にはこういうことは隠さねばなんねんですよね。世間がいじめるからだべ? お店の女の人たぢは、あたらこと毎日してるのに、世間に何も言われねし、いじめられもしねな。なして?」
 菅野が、
「異常と見るかどうかだけのことだね。女が商売として男たちを相手にするのは、世間にふつうにあることだけど、一人の男が何十人もの女を相手にするのはふつうにあることじゃない。世間というのは、ふつうを好む人たちが、ふつうに暮らす世界だから、ふつうでないものに目くじらを立てるんだね」
 私は、
「世間道徳云々より、じつはぼく自身が肉体というものを後ろめたく思ってるんだよ。生理に押されて行動する肉体そのものが後ろめたい。精神には素直になれるけど、肉体には素直になれないんだね。人間の本能だと肯定してみたり、ぼくを愛する人たちに幸福にしてもらってありがとうなどと励まされたりして、別に後ろめたいことはしてないんだと気を取り直すことで、なんとか折り合いをつけてるというのが正直なところなんだ。道徳は精神そのものだから、道徳を尊重する人は後ろめたくない。だから、ぼくと関係のある女の人たちが、後ろめたくて苦しいなら〈ふつう〉に戻ったほうがいいと思う。そうすれば世間が守ってくれて安らかな気持ちになるでしょう? そのほうがぼくも安らぐ」
 女将が、
「神無月さん、イライラするやろうけど、許したって。この子たち怖いんよ。女って、世間のいやがることを秘密にしておくのが怖いんよ」
「イライラして皮肉を言ったんじゃありません。ほんとうの気持ちです。皮肉は最低レベルのユーモアです。ぼくにはユーモアを言える冴えはない」
 トモヨさんが、
「ソテツちゃん、あなたはどうしても、郷くんや和子お嬢さんの生き方に不道徳なものを感じるようね。それなのに郷くんに抱かれたいということは、郷くんを自分の慰みものとして利用しているということになるわ」
「……ちがうんです。私、みなさんのように強くなりたいんです。世間の目なんかに平気でいたいんです」
 菅野が、
「神無月さんのように天才ならいざ知らず、私たちのようなふつうの人間は平気でいられないよ。だから、気を強く持って、秘密を守ろうとしてるんじゃないの。自分の〈心がけ〉しかないんですよ」
 私は、
「ぼくも平気ではいられません。長いあいだ世間から認められようとして暮らしてきましたから。世間の代表のような母と縁を切ったのも、世間に対する恐怖から逃れて、秘密を固く守ろうと決心したからです。世間から認められようと思わなければ、怖いものがなくなりますから、たとえ秘密を壊されて追放されても、心安らかに暮らせます」
 主人が、
「私も、もともとこういう商売やったんだが、いままではどこか遠慮してるようなところがあったんですよ。神無月さんに会って、神無月さんの心持ちに感動してからは、自分を恥じるような後ろめたい気持ちがなくなった。別の世界が開けたんですわ。ものよりも人間の世界というんかな、とにかく生れて初めての世界やった」
 女将が、
「私もなんですよ。人の目なんて、避ければ、ないのもいっしょ。そう考えたら、心のこともからだのことも、あけすけにしゃべれるようになったんですよ。恥ずかしいことじゃないって、神無月さんに教えてもらったから。あけすけになると何がいいって、人にやさしい気持ちになれることやよ。何でも許せる。こんな人間にしてもらったご恩は、大きすぎて測れるもんやない。私はどんなことをしても、神無月さんにご恩返しをしますよ」
「申しわけありませんでした!」
 ソテツとイネが畳に両手をついて平伏した。何ごとかと店の女たちや賄いたちも集まってきて、様子を見守った。一人の賄いが、
「女将さん、私たちもときどき、神無月さんのことを仲間内で話してました。おかしいんじゃないかって。悪口のつもりじゃなかったんですけど、とにかく神無月さんにも神無月さんと関係のある女の人にも近づかないようにしようって、暗黙にうなずき合ってたんです。私たちみんな、神無月さんのことが大好きなのに、お話も、歌も、野球も大好きなのに、素直になれませんでした。ほんとにすみませんでした。ソテツちゃん、イネちゃん、私たちの目が気になってあんなこと言い出したのね。ごめんね。冷たくしちゃって。みんな羨ましかったのよ」
 ほかの賄い女が、
「私、かよいですけど、家に帰ればごくふつうの世界が待ってます。主人がいて、成人した勤め人の息子と娘がいて、主人の両親がいて。だれ一人、神無月さんのように自由奔放な行動や発言ができるはずもありません。もともと持って生れた才能と気質がちがうので、私は羨ましいとも思わず、ただ感動してただけでした。でも、やっぱりちょっと怖いような気がして、近づけないでいました。これからは自然に話しかけようと思います。神無月さんも私たちを怖がらずに、どんどん話しかけてくださいね。よろしければお手つきをしてくださっても……」
 みんなワッと笑った。幣原がやさしく微笑んでいる。近記れんが、
「神無月さんに近づきたいのは山々なんですけど、一度もお店にきてくれたことがないでしょ? 私たちのことを不潔がってるんじゃないかと……」
 菅野が、
「それこそ、あたりがマスコミだらけだからだよ。それに、店にいったらあんたたちが大騒ぎするだろ。私が、私がって奪い合いになる。それでなくても神無月さんのスケジュールは手一杯だ。あんたたちに出す精はないよ。根本的にね、神無月さんはどんな女も不潔がらないタチだ。神無月さんとしたいなら、まず心底惚れこんで、その気持ちを打ち明けることから始めないとね。とにかく忙しいからね。すべて神無月さんしだいということだよ。いま言ったこと、約束したわけじゃないからね」
「はーい!」
 うれしそうにはしゃぐ。女将が、
「あんたたちなんやの、神無月さんとドッコイドッコイの子供やないの。さあ、お昼ごはんの仕度」
 トモヨさんが、
「きょうは、天ぷらソーメンライスです。姫竹の炊きこみごはんと、ムラサキツユクサのおひたし、豚汁もあります」
 どやどやとカズちゃんたちが帰ってきた。百江と天童と丸と四人だ。
「すごい雨よ。あしたほんとに晴れるのかしら」
 菅野が、
「全国的に晴の予報です」
 大部屋がいつもよりも親密な雰囲気にまとまった。後ろめたい気持ちが消えないまま私はあらためて新聞をめくった。
「お父さん、溜まった東奥日報、貸してください」
「ほいよ」
 主人が持ってきた東奥日報の日曜版だけを小脇に抱えて、トモヨさんの離れへいく。机に向かいスタンドを点ける。二十部ほどある。
 私の特集記事が載っている。その記事を作るために浜中たちは、さまざまな土地にでかけ、さまざまな人びとを取材していた。毎回見開き二ページを割き、青森高校の項ではインタビューをする人物の範囲を拡げていた。


         百二十四

 校長小野真一(59)
 神無月くんが転校した名古屋西高校の土橋元治校長(59)とは東大時代のスキー部仲間だった関係で、神無月くんの噂は時間のズレなくよく耳に入ってきました。こちらでは野球で神がかりの活躍をした生徒でしたが、あちらでは勉学にいそしんだようです。東大に進まれ、そこでも神がかりの活躍なさったことから、土橋くんは顕彰碑を建てた。私どもも彼に倣って顕彰碑を建てました。神無月くんの業績を過不足なく刻むことは到底無理ですが、その一部は後世に伝えられたと思います。神無月郷くんは、太宰治、寺山修司と並んで、わが校の最大級の誇りだと申し上げたい。
 一年時担任・数学科主任西沢利治(41)
 私は神無月くんのことをダンディくんと呼んでいました。じつに風采の美しい、それでいて堂々とした生徒だった。勉強の仕方が変わっていて、どの科目も一度首席を取ると、もうこだわらないんです。ホームランを一本だけ打ったら満足してしまうようなものです。竜飛岬へのバス旅行で、彼が車中で歌ったカンツォーネが忘れられない。思い出すだけで目が潤みます。
 一年時国語科教諭・野球部監督相馬克彦(34)
 どんな人間かと訊かれても、表現のしようがないです。頭が飛び抜けてよく、野球は天才、人格は神のようでした。何度感動したか知れません。彼に遇えたのは人生の奇跡です。生涯の大切な思い出です。世界一のホームラン王になることを心から願っています。
 一年時秋までの花園町の下宿先主人葛西哲夫(52)・カオル(41)夫妻
 神無月さんがここを出られて以降は、だれにも間貸ししておりません。彼でなければもうだれにも貸したくないというか、それほど強烈な印象のかたでした。彼と暮らした半年間を思い出すと胸が熱くなります。映画に、食事に、いろいろ出かけました。常に独特の意見をおっしゃるかたで、いつも傾聴させられました。もう一度、いや、何度でもお会いしたいです。雲の上の人になってしまわれましたけど。
 健児荘管理人羽島百合子さん(51)
 あらゆる意味で永遠に忘れられない生徒さんです。いまでもそこの廊下の端の部屋から、ひょいときれいな笑顔を見せてくれるような錯覚に陥ります。歌がうまく、心に滲み通るような声でした。よく夜遅くまで読書なさっていました。すばらしい野球選手になられたんですね。うれしいです。また遊びにくるという約束をいつまでも信じて待っています。
 最近の日曜版には、北村席で撮ったドラゴンズのチームメイトたちとの記念写真が載っていた。こちらから東奥日報に送ったものだった。詩のいくつかもうまく切り取って載せていた。冬に野辺地に帰省したときは、ちょっとした騒動になるかもしれないと思った。
 寝室にいき蒲団に横たわる。立木の葉を打つ雨音に耳を傾ける。五百野の浅間下の章を考える。工場でボルトを洗いながら私に笑いかけた母の顔が浮かぶ。私の中に残っている母の笑顔と言えば、あれしかない。だからきらめいて輝かしい。
 文章を書くことは生半可な仕事ではない。長大な時間と一途な意気ごみが要る。野球をやめないかぎり、真剣な創作など夢のまた夢だ。
 トモヨさんがタオルケットをかけにきた。
「少し寝ておいたほうがいいです」
「そうする。アイリス組は出かけた?」
「はい、いま素子さんとメイ子さん、それからキッコちゃんが食べてます」
「いい子を産んでね」
「はい。元気な赤ちゃんを産みます。安心してください。節子さんやキクエさんもついてますから」
「うん。新聞、お父さんに返しといて。おやすみ」
「おやすみなさい」          
 美しい唇にもう一度長いキスをした。 
        †
 夕方の五時に目覚めた。一瞬自分がどこにいるのかわからないくらいの熟睡だった。まだ雨音がする。
 枕もとに畳んである下着に替え、ミズノのジャージを着て居間へいった。主人と菅野は出かけていた。厨房の包丁の音が高い。女将と笑顔を交わして座敷へいく。直人と女たちが遊んでいる。ジャンケンを教えている。直人には勝ち負けの意味がわからないようだ。女たちのまねをして懸命にこぶしを振り下ろす。トモヨさんに、
「直人の耳と鼻、異常ない?」
「はい、日赤の耳鼻科で診てもらって、少し治療しました。もうだいじょうぶです」
 千佳子が目についた。ベージュの上着と、赤い膝丈のセミタイトスカートを穿いている。
「あれ、千佳子いたの。学生らしいクラシックな服装だね。見ちがえたよ」
「ただいま帰りました。きょうはいちばん科目が多い日だったの。雨だったし、何だか疲れちゃった」
「睦子は?」
「金魚といっしょに西の丸。四年間の勉強計画を立てるんですって。私も夕食が終わったらやってみます。豊田講堂の前で文江さんに遇いました」
「へえ!」
「名大の書道部に招かれて、一時間ほど指導してきたって言ってました。振袖ふうの着物の上から臙脂の袴を穿いて、びっくりするほどきれいでした。頬の肉がまだ重力に負けてなくて、とってもシャープなイメージ。みんなしっかり生きてて、すてき」
 女将が、
「耕三さんが千佳ちゃんに、会計士なんて横道に逸れずに、しっかり司法試験を目指したらどうやって言ってな」
「そうですか。千佳子はどうなの」
「はい、私も最近、お父さんには申しわけないんですけど、そんなふうな気分になってたんです。しっかり北村席の法務を担当して、ふつうに生活できる程度の報酬をもらったほうがいいって。弁護士事務所のお勤めはしません。弁護士が儲かるなんてのはむかしの話で、事務所なんかに勤めたら安月給で下働きばかり。刑事事件を担当する人は、ほとんどボランティアです。そんなことをするくらいなら、北村席の法律部門を担当するつもりでいたほうがいいって」
「北村席の法律部門て、どういう仕事?」
「契約書の審査、訴訟対応、紛争解決、業務の適正を確保するための体制を作ること、組織のルールや業務プロセスを整備すること、などです。北村席ぐらい大きくなると、ビジネス弁護士が必要になると思うんです。松葉会とのあいだに正式な業務計画も結ばないといけないと思います。専門でない経理のほうに口出しするつもりはありません。四年生卒業の時点で、司法試験の合格を目指そうと思うの」
「よくわからないけど、たいへんそうだ。でもすてきだね。がんばって」
「はい。この秋から、司法試験の準備のために、笹島の向こうの予備校にかよいます」
「学資はぼくが出すから安心して。いくらぐらい?」
「年間五十万円ぐらいです。もうお父さんに相談しました。出してくれるそうです」
 私は女将に、
「お母さん、ぼくのプールを使ってください。金は役立てなければ持ち腐れですよ」
「はいはい。そうしましょ」
 早めに直人の食卓が整えられる。彼の好物のオムライスと、コーンスープ。果物は、あんずとメロン。クリームたっぷりのケーキとか、ふっくらした大福とか、歯が溶けそうな菓子は出さない。
 主人たちとアイリス組が帰ってきた。直人より遅れて運ばれてきた大人の皿は、アジの南蛮漬け、ごぼうと牛肉のしぐれ煮、たたきキュウリの浅漬け、ナスと青菜とキノコに豆腐と油揚げを入れた具だくさんの味噌汁。それにビール。食事を終えた直人は、トモヨさんと入浴し、歯を磨いてもらい、離れの床に就く。
 天童と百江が私の両脇に坐る。カズちゃんが、いただきます、と箸をとると、座が賑やかに動きだし、ビールのつぎ合いが始まる。トルコ嬢の一人が思い切ったふうに、
「あの、私、来年の一月で年季明けですけど、このままこちらの従業員として、賄いか、アヤメのほうに勤めさせてもらえないでしょうか」
 幣原に似た細い目をした痩せた女だ。カズちゃんが、
「もちろんいいわよ。三上さんは、子供が一人いるのよね」
「はい、実家のほうに。二十三のときに産んだ女の子で、いま十歳です」
「その子を引き取るの」
「はい、この近所にアパートを借りて、いっしょに暮らすつもりです」
「子供はそれを望んでるの」
「はい、いっしょに暮らしたいってよく手紙がきます」
 菅野が、
「三上ちゃん、クニどこだった?」
「山口の周防太田です。実家は柑橘類の農家をやってます。還暦を過ぎた父母に子供を預けてるんですけど、いつまでもそんなふうにしているわけにいかないし、私の兄弟も早く引き取れってうるさいんです。私の仕事が知られているので、父母も私も肩身が狭いし、ましてや子供は……」
「親子で実家に住めないわけね。いいじゃない、連れてくれば。希望を持って親子の暮らしを始めたいわけなんだから。経済的にきびしい生活になるでしょうけど、それも生甲斐でしょう。どんなにつらい人生でも、子供といっしょだと思うだけで救われるわ。こっちで暮らそうって決める前は、どうするつもりだったの」
「高校時代の友だちが大阪にいますから、彼女をツテにしてとも思ったんですけど」
 大阪と聞いて、キッコがチラと彼女の顔を見た。
「仕事は何するつもりやったん」
「その友だちのお父さんが、養老院を経営してるんです。そこで仕事をさせてもらおうと思ってました。従業員宿舎もありますから子供と住めます」
「大阪はやめとき。悪いのに引っかかるで」
 カズちゃんが、
「ツテなら、北村がいちばんね。ここで安い部屋代と食費を払っていっしょに暮らせばいいじゃない」
 女将が、
「そうしなさい。いまからせいぜい貯金しとき」
 話は具体的に進み、それきり話題に出なくなった。食後、カズちゃんたちと門を出る。
「床屋にいってくる」
「今夜は帰ってね。夏用のブレザー買ったから」
「うん」
 太閤通のいつもの理髪店にいく。閉店間際なので店主夫婦のみ。無口な私に無口で対応してくれるのでありがたい。頭頂部だけを少し残して、すっかり刈り上げてもらう。
 席に戻ると、麻雀の牌音のする座敷で、天童と百江が笑顔で待っていた。三人で、庭を見下ろす天童の部屋に入った。丸の隣部屋だ。三人裸になって寝転がりながら、最近買い整えたらしいミニステレオセットで流行歌を聴く。
「丸ちゃんが先に買って、とてもいいからって勧められて」
 フランク永井、島倉千代子、青木光一。
「昭和三十年代初期か。いい時代だ。まだ十年しか経っていないけど、なつかしい」
 百江の乳首をいじりながらしゃべる。優子は敏感すぎるのでいじれない。彼女は私のものを握っている。
「きょう、危ないので、百江さんにお願いします」
「うん」
 高島台や浅間下のことを語る。優子が、
「その時代を書くんですか?」
「こつこつ書いてる。なかなか完成しない。あとふた月もあればでき上がる」
 優子を顔に跨らせ、シックスナインの格好で感じすぎないように舐める。優子は私への愛撫を忘れて尻を突き出し、数秒で強いアクメに達する。痙攣している腹を百江が下からさすったとたん、愛液が私の首に飛んだ。
「天童さんて敏感ですね。女の鑑」
 天童をそっと脇へどけると、ゆっくり百江が跨って腰を沈めてきた。顔に顔を寄せ、愛しげにキスをして腰を止める。
「たっぷり出してくださいね」
「うん」
 動きはじめる。
「同志社の息子さん元気?」
 百江はいったん動きを止め、
「それが、学生運動が激しくなって、この六月から半年間、全学バリケードストというものに入ったんですって。まったく学問のできる状態じゃないようです」
 おのずと動き出す。
「あ……だめ」
 もう一度動きを止め、気を散らそうとして話す。
「息子は大学の寮に入ってるんですけど、神学部の学生なので将来は牧師の道を目指してて……あ」
 からだが求めるのかゆるやかに動く。
「学生運動に参加すべきかどうか悩んでて……あ、だめだめ、イッちゃう、イクイクイク、イク! うううん、イク! 抜きます、あとでくださいね、あとで!」
 あわてて離れてからだを引き攣らせる。すぐに天童に挿入する。
「やん! イク! 神無月さん、愛してます、イク!」
 優子の膣は私の付け根、胴体、亀頭とまんべんなく締めつけ、波打つ。この中へ放出したいが、百江に出さなければいけないので射精寸前でこらえる。
「好き好き好き、あああ、神無月さん、大きくなった、イク、イク! 好きいい! イックウ!」
 律動しそうになったので、とっさに抜いて百江に突き入れる。
「あああん、気持ちいい! イク、イク、ううう、イックウウ!」
 グンと陰阜が跳ねて私を深く咥えこんだ。いちどきに茎の周囲に愛液を滲み出させる。すっかり律動し終えて抜き、天童の膣に挿し入れて安らぐ。優子も動かない。やさしくうねる膣が私を宥めながら、新しく収縮する。
「……神無月さん、好き、愛してます、あ、イク……」
 口を求め、私の口の中へひたむきな発声をする。私は天童のからだにぴったり伏せて重なる。汗ばんだ胸の皮膚を合わせる。これだけやさしい反応は、人のやさしさに寄り添うような愛を感じる。天童は私の心の声が聞こえたのか、にっこりうなずいた。
「少し精子が入ったかもしれない」
「妊娠も幸せですから……。愛してます。泣きたいほど」
 百江の手が伸びてきて、私の手を握った。


         百二十五 

 天童が、
「秋から表彰表彰で忙しくなりますね。このあいだ千佳ちゃんと、いくつぐらい賞をもらうのかしらって調べたんです」
「どうだった?」
 優子は私を包みこんだまま、
「確実なのは、新人王、三冠王、ベストナイン、リーグMVP、日本シリーズMVP」
 百江が、
「高輪プリンスホテルですって」
「名古屋観光ホテルじゃないんだね。セ・パ両リーグの表彰だから当然かもしれない」
 すっかり萎んだのでソッと抜く。かすかに天童がうめく。すぐに百江が私のものを口に含む。天童が、
「私設団体が与えるいろいろ細かい賞の授与とか、市や県が催すイベントは、名古屋で行なわれると思います。たとえば、ホームラン新記録、打率新記録、打点新記録、甲子園場外ホームラン、地域貢献」
「新記録は表彰されない。三冠各賞があるからね。甲子園は記念のメダルをもらうだけだよ。地域貢献て、野球教室?」
「はい」
「あれは球団行事だから、お礼はとっくに球団のほうにしてると思う」
 心ゆくまで私のものを舐め終わると、百江は私に並んで横たわった。
「神無月さんが野球選手だということをつい忘れてしまいます。野球とは関係のないところでもっと大きな人だから。たぶん、神無月さんは、世間のことも、野球のことも、私たちのことも、何も考えてないんだと思います」
「へたの考え休むに似たり。ぼくはソクラテスでもトルストイでもアインシュタインでもない。とにかく行動に出る。そうしたほうがいいと思ってるからじゃなく、ものを考えられないからなんだ。行動したあとのことはわからない。ただ、行動の結果を反省し、その責任だけはとるつもりでいる」
 百江はフフフと笑い、
「神無月さんが反省するんですか? 責任までとるの? 似合いません。神無月さんにはボーッとしててもらわないと、なんだか気詰まりです」
 天童が、
「そうよ、神無月さん。好きにすることしか似合わない人っているのよ。何をやってもわがままにならない人っているんです。することぜんぶが、人の感動のもとになる人っているんです。百江さんの言う、ボーッとしている結果だと思う。いま〈行動〉って言いましたよね。何も考えられないから行動するって―最高だと思います。大して考えられない人が、考えて行動するよりすてき。私たちはただ、神無月さんに思いどおりに行動してほしいだけなんです。ソクラテスやトルストイやアインシュタインが、どれほどえらくて頭のいい人かは知りませんけど、考えるために考える人たちに魅力は感じないし、神無月さんより頭がいいとも思えない。それはきっと、その人たちが、考えようとして考えてるからだと思います」
 涙ぐましい弁護だ。その弁護が正しいなら、私のような頭の悪い矮小な人間が、大手を振って大道を歩けることになる。しかし、考えようとして考える人びとにこそ私たちは導かれ、恩恵をこうむっているのだ。いくら弁護されても、私は人類を導けるほど頭はよくないし、恩恵を与えられるほど広大な人間でもない。
 優子に門まで送られ、百江と手をつなぎ夜道を歩いて帰る。
「きょうは体力があったね」
「ええ、不思議なくらい」
「文江さんも体力が戻ってた。体力なんて、忙しく生きてれば、そうそう簡単になくなるものじゃない」
「そう思いました。年甲斐もないなんて考えるのをやめることにしました。きょうもありがとうございました。……天童さんの言ったことを深く考えないでくださいね。神無月さんの考えてることは水を通したみたいにわかります。底のない謙虚な人ですから。ボーッとしてるようで、信じられないほど頭をめぐらす人です。……褒められたら素直に喜んで感謝し、思われているとおりの人間になるための努力をしよう、きっとそう考えたんでしょう? ぜひそうしてください。幸い神無月さんは、努力を惜しまない性質を持って生まれた人ですから、努力すればますます輝きます。努力を惜しまない人に、余計な努力だと言っても意味がありません」
「余計な努力なんて、ないよ。星の高みにいる人は人間世界にいくらでもいる。ぼくは彼らを目指したことはない。地上で、自分と、自分を愛してくれる人のために、せっせと努力する」
 夜空が白っぽく晴れ上がっている。細い三日月が浮かんでいる。
「結局、息子さんは学生運動はやらないことにしたの?」
「できれば神学一筋に打ちこみたいそうです。日本基督教団に所属している遠藤彰さんというプロテスタントの偉大な先生がいて、その人についていきたいと言ってました。此(こ)の春と書く此春(ししゅん)寮というところで暮らしてます。卒業したらどこかの教会に派遣されます。ただ、学生運動への勧誘が多くて悩んでるんです」
「下宿するように言ってあげて。政治運動と宗教活動は正反対の思想だ。両立するはずがない」
「はい、そう手紙を書いてやります。ごめんなさい、身内のつまらない話をしてしまって」
「どんな話も、真剣な話はつまらないと思わない」
         †
 六月十三日金曜日。快晴。朝七時から十九度。ひさしぶりにふつうの便が出る。耳鳴りも小さい。おろし納豆ごはん、目玉焼き、豆腐の味噌汁。
「三日間、気をつけていってらっしゃい。何かあったら飛んでいくから」
「だいじょうぶ、心配しないで」
 メイ子が、
「毎晩テレビで応援してます。お帰りは十六日ですね」
「うん、帰ってきたら、一週間名古屋だ」
 二人が出ていく。居間の鴨居に、濃紺の生地の薄いブレザーとズボン、淡い黄色のワイシャツが掛けてある。菅野を待ち受け、八時半から日赤までランニング。菅野が帰ったあと、ジムトレ二十分、ダンベル五分。庭に出て素振り百八十本。三種の神器、一升瓶、シャドー。手足の爪を切る。耳垢を取る。シェーバーを弱く当てる。
 十時、北村席に出かけて、一家とコーヒー。トモヨさんに、
「直人は?」
「二時まで保育所です」
「よろしく言っといて」
 女将がホホホと笑う。千佳子が私に、
「東大が七月から全学部授業再開ですって」
「あ、そう。授業が止まっていたことも知らなかった」
 菅野がプッと噴き出し、
「あ、そう、でチョンですものね。母校もクソもない。おかしいな。きのう、初の原子力船むつが進水しましたよ」
「それ、何」
「あ、そう、じゃないんですか。困ったな、よく知りません」
 座敷じゅうに笑いが上がる。主人が、
「野球の話せんと、菅ちゃん」
「何かあったかなあ。山本一義百号本塁打、水谷実雄ウエスタンの試合で一試合四本塁打の新記録……広島ばかりですね」
「その水谷は今度の広島戦で代打で出てきますね」
「でしょうね。うん、少しかぶりついてきた。好きだなあ、そういう神無月さん」
 主人が大声で笑った。
 ソテツ、イネ、千佳子、主人、菅野が駅まで送ってくる。江藤、菱川、太田の三人と新幹線改札前で合流。ソテツが江藤に弁当を四つ渡す。イネが、
「神無月さんをよろしぐお願げします」
 四人が笑顔でうなずく。一家は当然のように入場券を買って新幹線ホームまで送ってきた。主人が、
「つつがない三日間を。デッドボールに気をつけて」
 江藤たちは一家五人と固く握手した。
「巨人戦は油断しませんけん、安心してください。いつも家族以上の心遣いに感謝しとります」
 私は主人と菅野とだけ握手した。
 十一時三分、窓の内と外でうなずき合って出発。車内ですぐにソテツ弁当。まずは食うこと。野菜天ぷらの甘辛煮。
「相変わらず絶品やのう」
 会話が弾むが、話の内容は改築のなった昇竜館の内部施設のことがほとんどで、記憶に残らないものばかり。江藤に訊いた。
「昭和三十九年のオールスターって、憶えてますか? そのあたりから野球をまったく観なくなったんで」 
「オリンピックの年やな。長嶋と広瀬が出場を辞退した年やからよう憶えとる。ワシは五回目のオールスターやった。監督は川上と中西。セリーグの外野三人は、オールスター男の山内、二年目の柴田、それとワシ。パリーグは、高倉、張本、土井。内野は、セリーグは、吉田、王、桑田、クレス」
「クレス?」
「大洋におったホームランバッターくさ。その年は三十六本打って、王に次いで二位やった。パリーグの内野は、榎本、ブルーム、小玉、スペンサー。給料が安いてゴネて今年辞めた男ばい。ワシは、第一戦、第二戦は五番、第三戦は六番を打った。四番は、桑田、桑田、マーシャル。MVPは、金田、マーシャル、スタンカ。セリーグの二勝一敗やった」
「江藤さんの成績は?」
「十二打数五安打、打点一、三振二、ホームランなし。第二戦で優秀選手賞。大したことなか」
「すごい打率ですよ。尾崎とは戦いましたか」
「おお、第二戦に出てきて、五回、六回と二イニング投げた。尾崎からセリーグが喰らった唯一の三振がワシや。速かった。よか思い出たい。尾崎が一本打たれたホームランは重松のソロやった」
 太田が小冊子を開き、
「その中日球場の第二戦は五対一でセリーグが勝ったんですが、江藤さんとマーシャルで三打点挙げてます。ぜんぶ東京オリオンズの小山からです。尾崎は重松のソロと藤井のヒットで二点取られてます」
「つまり、ワシは生涯にたった一度しか尾崎と対戦しとらんわけや。それが三振たい」
 菱川が、
「俺、高校三年のとき、中退してドラゴンズにきたんですけど、その年、テレビでそのオールスター戦観てます。だいたい、三試合ともホームランが少なかった。第一戦の江藤さんと近藤和彦の二塁打、第二戦のマーシャルの二塁打、第三戦の近藤和彦の二塁打が印象に残ってるくらいで、やっぱり江藤さんの三振が圧巻でした。あのいつもの空振りですよ。顔のあたりを振ってました。尻餅をつきそうになったはずです」
「そぎゃんやったな」
 太田が、
「ホームランは第二戦の重松のソロ、第三戦の山内のソロ、パリーグにしても第三戦で二本打っただけで、スペンサーと石井晶のソロでしょう。スタンカと小池の二点タイムリーで勝ったようなものです。野村なんか、三試合ノーヒットですよ」
「そう言われてみると、つまらんな。金太郎さんはそんなもん観んでよかったばい。今年はちごうとるやろう」
「すごいことになるでしょうね」
 二時前、ニューオータニ着。歓声を上げる人だかりを縫ってフロントへ。チェックインのついでにフロントに、あしたから二日間のカツ重弁当注文。赤坂あたりは外食の不毛地帯だ。まともなめしにありつこうとしたら、日比谷や虎ノ門まで出る必要がある。
 部屋に落ち着く。荷物はすべて届いている。ブレザーとワイシャツを洋箪笥に吊るし、ユニフォームを着て運動靴を履く。江藤に電話を入れる。
「試合のあと、ひさしぶりに山茶花荘に寄りますか」
「よかな。試合は九時半ごろには終わるやろ。予約しとくわ。試合前に選手食堂で蕎麦ぐらい入れとこうや」
「はい」
 スポーツバッグに入れて持ってきた小型テープレコーダーを取り出す。去年の春に手に入れたものは持ち運びに不便なので、カズちゃんが先日一回り小さいフィリップ社のものを買ってきてくれた。圓生の長編『ちきり伊勢屋(上)』を聴く。すばらしい音質、すばらしい語り。日本版クリスマス・キャロル。それでもやはりウトッとなって、一時間ほど寝入ってしまった。


         百二十六 

 三時四十五分、歯を磨く。ダッフルを担ぎ、バットケースを提げて玄関へ。きょうも野球ができる。胸の高鳴りを祝福する歓声と、シャッターの音と、フラッシュの光。警備員と松葉会組員のきびしい眼光が祝福を保証する。
 四時出発。後楽園まで選手専用バスで二十分の道のり。皇居に沿って曇り空の下の内堀通りを走る。左手は高層ビル街、右手には桜田濠とか半蔵門とか千鳥ヶ淵といったものがあるらしいのだが、立木の垣に視界を遮られてまったく見えない。
「そこの建物、英国大使館。戦前に建てられたものだよ。イギリスが永代使用権を持ってる。安い賃貸料は日英間の厄介な問題だ。総領事館は大阪にある」
 物知りの中が言う。相変わらずサッパリ意味がわからない。私の一生の枷になる無知蒙昧。飯場の三畳間から抜け出せない空気頭。大使館の鉄門の前に、灰色の制服の日本人守衛が一人立っている。
 千鳥ヶ淵交差点を過ぎて、左右にビルが林立する通りに入る。中が右手のビル群を眺め、
「この裏手に、戦没者の墓地があるんだ。第二次大戦の身元不明の人たちの遺骨が葬られてる」
 何か言わなくてはいけないと思い、つまらない質問をする。
「何人くらいですか」
 水原監督が、
「三十五万八千柱だったかな」
 空気頭が気の利いた感想を言おうとする。
「すごい数ですね。……生きて野球に没頭できるのがうれしいです」
 どこも気が利いていない。
「ああ、ほんとにうれしいね」
 右に二松学舎大学。正面にコンクリートの鳥居が見えてくる。
 中が、
「靖国神社。あの奥に、大村益次郎の像がある」
「何をした人でしたっけ」
「幕末の軍学者。軍神と呼ばれてる。維新政府の創設を妨害する幕府軍を近代兵器で打ち破った。上野彰義隊も幕府軍の一つだ。大村は維新確立の大恩人だね」
 水原監督が、
「戊辰戦争とか、上野戦争などだね。大村は、幕府軍に対処できずに困っていた西郷が腰を抜かしたという天才だ。目から下より頭のほうが長い不気味な顔をしてる」
 中が、
「医者の息子だったから、贅沢して、長崎や大阪で医学と蘭学を学んだんだ。彼自身は藪医者でね、蘭学だけは達者だった。ペリーなんかが日本に迷惑かけてた時代だから、蘭学の需要が出てきた。幕末の名君、宇和島藩の伊達宗城(むねなり)に目をつけられた。で、藩のお抱え学者になった。仕事は蘭学や兵法の講義、洋書の翻訳。日本で最初の女医になるシーボルトの娘楠本イネに、オランダ語を教えたこともある。参勤交代にくっついていって、蕃書調所(しらべしょ)で講義するうちに、長州藩から声がかかって、兵学を教えるわ、軍艦建造の製鉄所を作るわ、高杉晋作の奇兵隊を指導するわ、そのかたわら私塾で教えるわ、八面六臂の活躍をした。彼の軍事的な先見の明に嫉妬を焼く人もたくさんいてね、その人たちに暗殺された。どの時代も衆にすぐれると殺される」
 知識の泉。太田が、
「中さん、野球選手ですか?」
「おお。名選手だ」
 バスの中にドッと笑い声が湧いた。
 右に武道館に通ずる田安門、神田神保町の雑踏に入る。街をゆく人たちをぼんやり見やる。野球をすることで私が〈守って〉いるものは、私自身ではなく、目の前を通り過ぎていくこの人たちなのだと確信する。身が引き締まる。左折して水道橋へ。渡って後楽園球場に到着。すさまじい人だかり。バスを降り、駐車場からフラッシュの光を縫いながらビジターチーム通用口へ。巨人戦というので、ふだんよりガードマンの警戒がきびしい。背広を着た松葉会の組員たちも五、六人いる。ほとんど浅草の事務所で見かけた顔だ。
 監督・コーチ陣と廊下で別れ、徒党をなしてベンチに入る。四時半。ジャイアンツはすでにフリーバッティングを終えて、ベンチ前でうろうろしている。ベンチの最前列に川上の姿はない。内野二階席の壮観、切り絵のように貼られた内外野の天然芝が美しい。
 四時三十五分、さっそくバッティング練習に入る。新聞記者やカメラマンたちが右往左往する。バッティングケージに江藤と高木が入る。私は太田や菱川たちと外野の芝生へ走る。人の埋まりはじめたレフトスタンドが沸く。手を振る。拍手と歓声。打球が飛んでくる。楽しい球拾い。合間に腹筋、背筋、腕立て。フェンスに沿って鏑木とランニング。鏑木が、
「ホテル裏のコース、ちょっと狭くて物足りないですね。グランドで走るほうがマシかな」
「走らないよりマシです」
「きょうは打たないんですか?」
「はい、この三日間は打ちません。巨人ベンチの視線が不愉快なので」
 一時間のあいだに、ほぼ全員打ち終える。私が打たないことにチームメイトのだれも注文をつけない。観客の隙間がなくなってきた。私たちがベンチに引き揚げるとジャイアンツが守備練習に入る。ノッカーは眼鏡の荒川。打ち上げられ、落ちてくるボールの行方を追いかける。王のじょうずなグローブさばき、ずんぐり黒江と小柄な土井のベテランサラリーマンふうのコンビネーション、長嶋のすかした送球モーション。内野手のようなたたずまいの高田の強肩(尾崎のあとの浪商のエースだったと高木が言う)、大きなグローブを持ってすばしこそうに走る内股の柴田、末次の地味な捕球。いつも感じることだが、長嶋を除いてダイナミックな選手が一人もいない。こんなものを見て喜ぶのは、ただ星勘定の好きな人間だけにちがいない。中日ドラゴンズは全員ダイナミックだ。一枝でさえエネルギッシュな動きをする。見ていてこれ以上楽しいチームはない。
 短い時間を利用して選手食堂で江藤たちとかけそば、いなり寿司を食う。片隅のテーブルに薄紫のライラックが活けてあり、かすかな芳香がただよってくる。リラ、ムラサキハシドイ。やさしく気品のある香り。家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし―吉井勇。野辺地や青森市では野原や民家の庭でよく見かけたが、東京でライラックを目にすることはめったにない。花屋からでも仕入れたのだろう。菱川が、
「高田は学生時代に七回もベストナインになってますけど、神無月さんも二季連続で獲ってるんですよね」
「そうなの?」
「タイトル受賞会見というのがあったでしょう」
「欠席した。助監督が代わりに出てくれたはず。打者の小さなレプリカが部室に飾ってあったから」
「腰が抜けますね」
 ベンチに戻る。巨人軍の守備練習終了。選手たちが引き揚げる。ドラゴンズの守備練習になっても、私はベンチに座ったままでいた。夕方六時を回ってようやく陽射しが翳り、かすかに涼しさを感じる。薄明るい球場にカクテル光線が注ぎはじめる。左翼内野席後方の日立の巨大なネオンが明るい。眼鏡をかけてネオンの輪郭をハッキリさせる。守備練習終了。
 メンバー表の交換。グランド整備。一塁側のブルペンに、城之内と浜野が出る。三塁ベンチがざわめく。務台鶴嬢のアナウンスが流れる。胸ふるえる瞬間だ。ウグイス嬢の声を聞くと、いつも、どんなときも、胸がふるえる。
「本日は後楽園球場にご来場まことにありがとうございます。読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ七回戦、間もなく試合開始でございます」
 カンチンカンチン、ドンドンドン、鉦、太鼓を打ち鳴らすかしましい音。
「両軍のスターティングメンバーを発表いたします。先攻の中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木守道、セカンド高木守道、背番号1」
 高木時夫と区別しているのか? 先回は名前を呼ばなかった。
「三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
 スタンドが拍手とどよめきで揺れる。
「五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番ライト菱川、ライト菱川、背番号10、七番サード太田、サード太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー小野、ピッチャー小野、背番号18」
 小野は一人きりで三塁側のブルペンに出る。巨人の浜野が懸命に投球練習をしている。すぐに出番が回ってくるような勢いだ。
「対しまして後攻の読売ジャイアンツのスターティングメンバーは、一番ショート黒江、ショート黒江、背番号5、二番レフト高田、レフト高田、背番号8、三番ファースト王、ファースト王、背番号1」
 歓声と拍手。意外と小さい。
「四番サード長嶋、サード長嶋、背番号3」
 大歓声と大拍手。鉦、太鼓、旗。食事をした直後らしく、長嶋は歯をせせるように口を動かしている。グローブをはめ、膝を組んでいる。江藤が、
「ベースの踏み忘れ事件な。むかし週刊誌に載っとったインタビュー記事やったが、長嶋の言うには、自分の売り物は三塁打で、ダイナミックな走塁に人気がある、あのときも当たりがライナーやったから、てっきり三塁打だと思ってしっかり走った、それで踏み忘れたとばい」
「それはないでしょう。ベースを蹴った感覚を確認して次の塁に向かいますから。打球が意外に伸びてスタンドに入ったのに驚いて、思わず踏み忘れるということもない。ちょっと戻ってベースを踏めばいいことです。打った瞬間、三塁打にしたいと焦って踏み損なったんでしょう。踏み忘れたんじゃない。ところで、そういう場合、ベースタッチでアウトですか」
「そうたい。とにかく意味のない弁解たい」
「それでも、聞いた人はなんだか納得してしまうんでしょうね」
「五番センター柴田、センター柴田、背番号12、六番ライト末次、ライト末次、背番号38、七番キャッチャー森、キャッチャー森、背番号27、八番ピッチャー城之内、ピッチャー城之内、背番号15、九番セカンド土井、セカンド土井、背番号6。審判は、主審久保田、塁審は一塁鈴木、二塁太田、三塁竹元、外審ライト松橋、レフト平光(また平光さんだ)、以上でございます」
 江島が、
「神無月くんの言うとおりだ。三塁打にしたいという気持ちが先走りして、思わず踏み損なったんでしょう。すぐ気づいたけど、三塁打にしたいので戻れない。そしたら打球がスタンドに入ってしまったという順番ですよ。ホームランとわかったときに戻れば何の問題もなかったのに、格好よく一塁を走り抜けた姿を壊したくない、で、そのまま格好よく走りつづけた。彼はトンマな男じゃないですよ。目立ちたがり屋の、頭の回る男です。トンマのふりはこの先もずっとつづけるでしょう。人気の維持のためです。人気にだけ美学を求める―基本的に芸能人ですね。だいたい、ベースを踏んだかどうかの感覚がない足なんてあるはずがない」
 みんなで江島を見つめなおした。水原監督が拍手した。江島がうつむき、
「ちょっと怖いけど、悪口言ってみました」
「いいんだよ、そのとおりだから。長嶋の走塁の様子からして、踏んでないんだなとは思ったけど、私は執拗に竹元さんに抗議した。もちろん受け入れられなかった。私と長嶋のあいだに川上がうつむいてボーっと立ってたなあ。川上にもわかってたんだろう」
 首位攻防戦でもないのに、選手もスタンドも異様なムードに包まれている。歓声、シュプレヒコール、鉦、太鼓、大旗、小旗。
 ―わがチームの主砲に口舌に尽くしがたい悪さをした川上に復讐してほしい、それが景気づけ。
 ―ドラゴンズの悪癖が出て、いつ連敗地獄に陥るかもしれないからどんどん勝ち進んでほしい、それが本願。
 中日ファンは少数派だ。地元から、あるいはわざわざ遠隔地から大巨人軍のホーム球場にやってきて、小ぢんまりと味方スタンドに居並び、声を張り上げ、鳴り物を叩き、旗を振る。彼らの最大の願いは、個人的な復讐を景気づけにして、積年の劣勢をすべて吹き払うほどの大勝利をすることだ。コテンパンにノシてくれ、そして一日も早く十五年ぶりの優勝を決めてくれ!
 城之内がマウンドに上がった。変則なのに流れるようなフォームで、小気味のいい速球を投げこむ。悪役面だが魅力的だ。水原監督が初めて円陣を組むことを求めた。彼は陣の中心で両手を腰に置き、
「因縁の深い戦いだから、思わずカッとしてしまう事態が起きるかもしれないが、冷静にプレイしてください。私たちの目標は『滞らず驀進』です」
「オース!」
 川上監督が姿を現わし、三塁側ベンチの定位置に座った。悪びれた雰囲気はない。控え選手が露払いをするように両脇につく。中が打席に入り、久保田球審のプレイのコールが上がる。久保田は水原監督の東映時代を支えたエースピッチャーだ。五年間で六十三勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルも獲っている。弱冠三十五歳。現役時代に実績のある希少な審判員だ。水原監督が三塁コーチャーズボックスへ歩いていく。私は尻のお守りを確認する。長谷川コーチが、
「水原さんが東映の監督に就任した年に起用されだして、二十五勝を挙げたピッチャーだ。それまで六年間で十七勝しか挙げてなかった。足木マネージャーと豊川高校時代の同級生だ。金太郎さんのふるさとの野辺地で生まれたそうだ。父親が林野局の職員だったせいで各地を転々としたから、野辺地には三歳までしかいなかったそうだがね」
 水原監督がここでも一人救っていると思ったばかりで、久保田球審に関しては別に心動かなかった。中が打席に立った。きょうはコーチ陣の、ヨ、ホ、ホー、が出ない。するどい視線でじっと敵ベンチを窺っている。これといって悪さのしようはないのだが、なんだかぼんやり心配なのだ。私がバッティング練習や守備練習をしなかったことも効いている。一塁ベンチ上の観客の野次にも耳を傾けている様子だ。胸が締めつけられる。


         百二十七

 中が一球目のカーブを見逃した。ストライク。久保田が内角寄りに前傾した構えから、真上に腕を上げてコールする。
「半田コーチ、バヤリースの前借、お願いします」
「これで二度目ね。かならず借金を返す人だから、安心よ」
 一息に甘いジュースを飲み干す。江藤が、
「カールトンさん、ワシにも一本。きょうじゅうに借りは返すけん」
 二度、三度に分けて飲み干す。酒飲みは甘いものが苦手なのだ。中、二球目の内角低目のストレートを強振した。田宮コーチが叫んだ。
「よっしゃ! 先頭打者!」
 あっという間にライトスタンド前段に突き刺さった。ヘラのカーブすれすれのところだ。目玉のマッちゃんがクルクル手を回す。中が手を叩きながらダイヤモンドを回っている。センターに噴水が上がる。味方チームにだけ上げる習慣は今年から廃止したようだ。水原監督とタッチし、迎えに出た私たちに、
「冷静に!」
 と言って、両掌で抑えこむ格好をした。静かにベンチの仲間と握手をしていく。
「中選手、十号ホームランでございます」
 高木は初球を一、二塁間へ、江藤は四球目を左中間へ打ち返した。点火した。ノーアウト二塁、三塁。
「四番、神無月、背番号8」
 拍手が爆発し、歓声がうねる。シュプレヒコールがこだまする。ここは後楽園だ。くすぐったい。初球を全力で振ろうと決める。城之内がゼンマイのようにからだを後ろへ巻き、巻き戻す。外角高目のスピードボールだ。届く。渾身の力で叩きつける。その瞬間、水原監督がパチンと頭の上で手を拍った。伸びていく。グングン伸びていく。レフトの高田が背中を向け、場外にそびえる森永キャラメルの照明塔を見上げている。仕切り看板を越えて《ル》のネオン文字にぶち当たり、火花が散った。一瞬のうちにルがレになった。七十三号スリーラン。歓声が山びこになる。森下コーチとタッチ。王が、
「スーパー、ウルトラ!」
 と声をかけた。右手を挙げて答えた。噴水を見やりながら、土井の前を過ぎる。黒江が、
「ありがとう!」
 と言った。これにも右手を挙げて答えた。長嶋はグローブを叩きながら甲高い声で、
「サーカス、金ちゃん、サーカス!」
 意味がわからないので反応できなかった。ホームランは曲芸ではない。努力と工夫の結晶だ。水原監督と抱き合う。
「吹き飛んだよ、何もかも吹き飛んだ! ありがとう」
 目が赤い。いまにも泣きだしそうだ。心から感動したのだ。思わず私の目から涙がこぼれ落ちた。出迎えた菱川や江藤たちの顔もゆがんでいる。太田が私の腰を抱いてベンチへ連れていった。タッチ、タッチ、タッチ。
「ありがとう!」
「サンキュー!」
 ベンチ全員が得体の知れない感動に酔い痴れている。とにかく感謝したいのだ。長谷川コーチが抱きついて、頬っぺたにキスをした。務台嬢のアナウンス。
「神無月選手、第七十三号のホームランでございます。なおこのホームランにより百六十三打点目となり、昭和二十五年、松竹ロビンスの小鶴誠選手が記録した百六十一打点を抜いて日本新記録の達成でございます」
 敵味方の別なく内外野のスタンドから大喚声が上がる。
「半田コーチ、借金返済しましたよ!」
「オーケイ、はい、もう一本マエガーリ!」
 一口飲んで、菱川に渡した。菱川は一口飲んで高木に、高木も同じようにして中に渡した。木俣バッターボックスへ。タイム。のしのし川上監督がマウンドにいき、城之内と森に何か話す。続投。三塁スタンドから、
「引っこめ!」
「ニンピニン!」
「ぶっ殺すぞ!」
 異様なムードの応援の大もとはこれだ。四対ゼロ。ノーアウト。
 五番木俣。外角のストレートを三球見逃してツーワン。四球目高目のストレートを大根切りで三塁スタンドへファール。五球目、胸もと高目すれすれのシュート。こねてファールチップ。
「ハア?」
 木俣が右手を耳にかざして、森にからだを傾けた。
「アホと言ったか? 俺の絶好球は人とちがうんだよ。個人の趣味に口を出すな! アホを三振させてみろ!」
 はっきり聞こえた。外角へスライダーがするどく逃げた。片手打ち、一塁スタンドへファール。
「まだ、まだァ!」
 木俣の叫び声。内角低目にシュート。窮屈そうにファール。ワンバウンドして自打球が脛にガツン。けんけんして痛がる。スタンドに笑いが巻き上がる。
「まだ、まだ、まだァ!」
 顔のあたりへカーブ。
「ホイいただき! 絶好球!」
 腰を引かず、しっかり叩き下ろす。
「いっちょ上がりイ!」
 叫びながら一塁へ走り出す。打球はすごいスピードでレフトポールを巻いた。森下コーチと握手。外野芝と内野芝に挟まれた土の走路をひた走る。私は心の底から感心した。この明るさ、この無頓着。悪口にはこの対策しかない。水原監督と握手してお辞儀し合う。叩く、蹴る、ド突くの出迎え。
「はいはい、アホがホームラン打ったぞ!」
 木俣が森に向かって叫んだ。たぶん森に、好球を見逃してボール球を振るアホとでも言われたのだろう。 
「木俣選手、第十六号のホームランでございます」
 五対ゼロ。ノーアウト。三塁側スタンドとレフトスタンドの喧騒の中、川上監督が球審の久保田に近づき、ピッチャー交代を告げた。真っ青な顔をした浜野百三が出てきた。同時に高橋一三がプルペンに向かう。
「城之内に代わりまして、浜野、ピッチャー浜野、背番号22」
「22のままか」
 千原が言う。高木が、
「偶然空いてたんだろうな。よかったじゃないか」
 菱川に初球のスライダーを右中間に打たれた。内股でちょこまか走る柴田とスロモーな末次が譲り合っているうちに、菱川は三塁へ滑りこんだ。太田、やはり初球のカーブを打って少し浅めのライトフライ。菱川タッチアップ。末次懸命にバックホーム。ワンバウンドで捕球した森に菱川が体当たり。森が吹っ飛び、ボールも吹っ飛んだ。何と言うこともなく久保田はセーフのジェスチャーをする。このエキサイティングなプレイに観客が沸きに沸いた。浜野はカバーに入ったホームベースの後方で、右手のこぶしをグローブに何度も打ちつけていた。高橋一三はいっとき投球練習をやめ、ブルペン横のベンチに藤田コーチといっしょに坐って戦況を見つめる。ワンアウト、ランナーなし、六対ゼロ。
 一枝、内角遅いストレートを叩いて三塁線を抜く二塁打。小野、痛烈なファーストゴロ。ツーアウト。一枝三塁へ。中、一塁線を抜く二塁打。一枝生還。七点目。留めは高木の左中間に飛びこむ十五号ツーランと、バックスクリーンへ真っすぐ突き刺さった江藤の三十二号ソロだった。私は敬遠気味の四球で出され、木俣がど真ん中の絶好球を驚いて見逃し三振した。十対ゼロ。
 小野は三回まで難なく三者凡退に打ち取った。三振は長嶋と土井と城之内から取っただけだったが、走りのいいストレートでカウントを稼ぎ、わずかに落ちるフォークボールで残りの打者を凡ゴロに仕留めた。巨人は四回、センター前ヒットで出た黒江を高田が送り、王ファーストゴロのあと、長嶋がセンター左を抜く二塁打を放って一点を返した。小野はふたたび七回まで三人ずつで打ち取った。八回、森がライト前ヒットで出たのを高橋一三が送り、土井三振のあと黒江がライト前に打ってもう一点返した。小野が失ったのはその二点だけだった。
 いっぽう、中日の攻撃は留まるところを知らず、浜野が五回に降板するまで毎回得点を重ねて十三点を奪い、十八対一で高橋一三に交代した。それ以降中日打線は沈黙した。
 江藤と私は五回までに二本のホームランを打ち、中、高木、木俣のソロホームランを含めて、ヒット十八本を放った。浜野から打った江藤の三十二号は、レフトのカルピスの看板に打ち当たり、私の七十四号は右中間のハクツルの看板に打ち当たった。アベックホームランはもう二十三回目になり、ダブルアベックホームランは四回目になった。ホームランも含めてヒットは、中三本、高木二本、江藤二本、私二本、木俣二本、菱川二本、太田一本、太田の代打の島谷一本、一枝二本、小野一本。すべて五回までのものだった。巨人の傘下で生き延びようとする浜野に引導を渡した格好になった。彼はもう中日戦には登板しないだろう。ほかのチーム相手に勝ち星を挙げてくれと祈るばかりだ。
 六回以降は、高橋一三の速球を打ちあぐね、江藤は二打席ともレフトフライ、私は脇腹へのデッドボールとセンターフライ。内角の速球をよけ切れずに脇腹の肉にぶつけられたとき、
「コノヤロウ!」
 と中日ベンチが一瞬色めき立ったが、水原監督がパンパンパンパンと激しく手を拍ったおかげでたちまち静まった。ナチュラルに食いこんできたシュートをよけたつもりでいて、わずかに目測を誤ったのだ。腹が少しヒリヒリしただけで、肋骨にはまったく響かない感じだった。いずれにせよ、高橋一三に代わってからのドラゴンズは、全員全打席凡打だった。
 十八対二。小野八勝目。小川と仲良く並んだ。インタビューは五十人を超える記者団の前で水原監督と中が受けた。私たちはベンチに引き揚げて、少しずつ弱まっていくカクテル光線や、黒ずんでいくグランドの芝や、名残惜しげにスタンドを去っていく観客たちを眺めながら、監督の弁に耳を傾けた。彼の心は黄金でできているので、その言葉にはどんなときにも耳を傾ける価値がある。きょうもジャイアンツはさっさと姿を消した。一人の記者が、
「ある種の遺恨試合の様相を呈していましたが、叩き潰したというところですか」
「そういう言い方をすると、あなたの立場が危うくなりますよ。神無月くんの心持ちと同様、巨人軍や川上氏に対する遺恨はありません。川上氏にしても、もとより神無月くんに遺恨などなかったのだと思いたい。怨む根拠がない。ふとした気の迷いというやつにちがいない。彼なりに後悔のホゾを噛む思いをしているはずです。その証拠に、今夜は置物みたいにおとなしくしていたじゃないですか。叩き潰したというのも当たっていません。高橋一三くんにコテンパンにやられました。一簣(き)の盛りを欠きました。優勝を目指す者にとって、よくない兆候です。初回から高橋くんと対決していたら、うちの勝ちは危うかったでしょう。ただ、そんな高橋くんに対して、三振を二つにとどめたのは収穫です。次の対決に希望が持てる」
「高橋投手は神無月選手をセンターフライに打ち取ったとき、ふだんの彼らしくもなく跳び上がって喜んでました」
「神無月がすごいバッターだからです。あの喜びようは、並のバッターに勝った喜び方ではない。優れた者に挑んでみずからを磨くという、ああいう本質的な喜びを求めて各チームのピッチャーが全身全霊でぶつかってくるようになったら、神無月もいまほど打てなくなるにちがいありません。それがまた神無月を磨くでしょう。きょう見ていて残念だったのは、浜野くんのだらしなさです。せっかく移籍を果たしたあこがれの巨人軍で鍛錬を積んでいなかった。集団の権威を学ぶ前に、みずからの鍛錬そのものに精を出したほうがいい。いまのままでは中堅どころにもなれない。移籍した意味がない」
 中にマイクが移り、
「今季二度目の先頭打者ホームランでしたね。あれでチームに勢いがつきました」
「きょうはドラゴンズの道祖神小野さんの投げる試合ですし、まず勝つだろうと予測していましたが、気を抜かないでいきたかった。それでなくてもいろいろな意味で、巨人戦には負けたくないという気持ちがありましたしね」
「打った球は?」
「内角低目のストレートです。いつも城之内さんが自信を持って投げこんでくるボールです。ふだんならあそこのコースもレフトへ押しこむように打つんですが、金太郎さんのように思い切り掬い上げました。もともと私はアッパースイングのバッターですから、うまく打てました。今季最高のアーチじゃないかな」
 自画自賛して胸を張った。
「きょうは五の三。中前打、左翼線二塁打、大暴れでしたね」
「三振がなかったので、四回ホームベースを踏みました。進軍ラッパ手の大任をしっかり果たせたというところです」
 帰りのバスで水原監督が、
「高橋一三は打者十三人、ほぼパーフェクトか。ランナーを出したのは金太郎さんのデッドボールだけ。彼を敗戦処理に使ってしまったのはもったいなかった。あした以降は、堀内、渡辺、金田。死にもの狂いでくるだろうね。二敗覚悟でいこう。木俣くん、よくがまんしたね。ぜんぶ聞こえてきたよ。森くんは性格悪いからねえ。野村くんのようなユーモアがない。それにしても木俣くん、みごとなホームランだった。金太郎さんと江藤くんも七十四号と三十二号。二人で百六本か。チーム本塁打も二百本を超えている。シーズン三百本は確実に達成できるな。もうしばらく、みんな狂い咲きしてくれ。プロ野球史に残る花火だ」
「オーシャ!」
 元気よくニューオータニに帰る。相変わらず田中勉は孤独な背中でロビーの奥へ姿を消した。部屋に戻ってシャワー。私服に着替えたベンチメンバーがロビーに降り、十時に打ち揃って山茶花荘の大座敷に入った。監督とコーチは日本料理の千羽鶴へ、葛城と徳武と島谷は肉を食いにリブルームへいった。


         百二十八

 城山店主が大きな個室へ導き、仲居たちを従えて平伏する。
「本日の大勝利、おめでとうございます」
 小野が店主に声をかけた。
「すごい重厚な店ですね」
「こちらが日本料理『なだ万』の本店でございまして、天保元年の創業以来今年で百四十年になります。この日本庭園内の数寄屋造りの建物は、日本建築の第一人者村野藤吾先生の設計でございます」
 だれのことだかわからない。みんなだまっている。
「十二名さまをお納めできる個室が五部屋ございまして、料理人を含め五十人の従業員が勤めております」
 江藤が、
「ご主人、きょうのおすすめは何ね?」
「六月限定の、鮎と初夏の味覚コースがよろしいでしょう。お酒はいかがいたしますか」
「ビールをまず十本ほど」
「承知いたしました」
 木俣が、
「小野さん、決め球のストレート、きょうもビシビシ決まってましたね」
「達ちゃん、もうカモフラージュはいいよ」
「え、カモフラージュ?」
 一枝が頓狂な声を上げる。小野は、
「味方にまで隠す必要はないさ。ぼくのいちばんいいボールはね、ストレートじゃないんだよ。ほんの少し落ちるフォークなんだ。フォークを生かすために、決め球はストレートだと意識させたかった。ぼくのストレートなんか、百四十四、五キロでしょ。だから新聞談話でも何でも、決め球のストレートがよかったって、わざと言いつづけてきたんだ。でもそれを見抜いたのが達ちゃんだった。決め球はフォークでしょって、いつか室内練習場で言ったよね」
「はあ、そうでした」
 小川が、
「俺もわかってたけどね」
 菱川が木俣に確かめた。
「ほんとですか」
「はっきりそうだと小野さんは言わなかったけど、俺はそう見た。大毎時代から、小野と言えば直球と決まってた。みんなそう言ってたしな。でも俺はちがってた。小野さんと言えば、フォークなんだ。たしかにスピードボールは絶品だけど、真ん中にピッと落ちるフォークは、だれでも打ちそこなうか空振りしてしまう」
 私は、
「ぼくも、きょう気づきました。二回と三回に、長嶋と土井から取った三振はフォークボールでした」
 料理が続々と出てきた。笹を敷いた上に青竹の筒板を置き並べ、その上に大ぶりの焼き鮎四匹が姿よく載っている。子鮎の唐揚げと、フランス料理ふうの一口大に四角く切った煮こごり、笹に包んだチマキ、冷たい野菜の盛り合わせ、冷奴、うなぎの蒲焼三切れ、アスパラの肉巻き、香の物、鮎めし。
「どうぞごゆっくりお召し上がりくださいませ」
 運んでくる都度仲居たちが頭を下げて去る。みんなでビールをつぎ合い、箸を動かす。江藤が、
「金太郎さん、最後のセンターフライ、打ちにくそうやったな。ワシと同じような振り方しとった」
「高橋一三は最後にガクンとからだを沈めて投げてきます。あれで少しタイミングが狂ってしまうんです。からだの開きが遅れて、食いこんでくるボールに詰まる。打球が高く上がっちゃう」
「同じたい。手の振りも遅れて出てくるやろう。いままで打ち崩しとったのが嘘みたいやのう」
「これから高橋一三に対しては、内角は低目以外は捨てることにします。右打者は入ってくるカーブを狙えばいいんじゃないでしょうか」
「カーブも高目はやっぱり食いこまれる。ワシも低目を狙うことにするわ。王も内角高目は泣きどころやもんな。ところで、王に打者転向を命じたのはだれか知っとうと」
 太田が、
「水原さんでしょう」
「そのとおり。荒川やない。むかし王から聞いた。キャンプのとき、ちょうど見物にきとった近鉄コーチの千葉茂が、こりやあかん、球がやさしい、と呟いたんやっちゃ。助監督の川上も王にバッター転向をほのめかしたらしいわ。王はキャンプ中に正式に命じられるのを覚悟して待っとったが、あらためて水原さんから、あしたからピッチャーやらなくていいよ、と言われたときはさびしかったて言うとった。王、王、三振王の年やな」
「そのシュプレヒコール、はっきり憶えてます」
「一年目はそれもあって、ヤケクソでよう遊んだちゅう話ばい。銀座あたりにしょっちゅうかよって、朝帰りはザラやったげな。寮の歴代三ワルは、王、堀内、柴田やと。ちょっと考えられんやろう」
「あんな聖人みたいな人にも、そういう時期があったんですね」
 みんな大満足して食事を終え、隣り合った者同士あらためてビールをつぎ合う。江島が江藤に、
「俺、水原監督にオールスター後のトレードを願い出ました。今年のような奇跡的なペナントレースは二度と経験できないでしょうが、それよりも、自分の野球生活を納得のいくようにしめくくりたいと思って」
 一枝が、
「どっかのチームにいって、全出場を狙うか。金太郎さんの下で小間使いみたいに働くのは自分らしくないか。納得いかんか」
「勘弁してください。一試合でも多く野球をやりたいだけです。試合に出たいんです」
 中が、
「まだプロ二年目だろ。一年目から七十試合も使われて、今年もけっこう重宝されてるじゃないか。きみは将来金太郎さんといっしょにドラゴンズを背負っていく人材だ。トレードは早計なんじゃないか。水原さんは諒解したのか」
「考えておくといってました。とにかく俺は、だれかのクロコでいるのはつらいんです」
 千原が、
「俺は江島の四年先輩だから、優勝できないチームのつらさや空しさというものをよく知ってる。そこへとつぜん幸運が巡ってきたおかげで、自分の持ち場がかえってよくわかった。俺の器はクロコだ。どう逆立ちしたってレギュラーにはかなわない。だから縁の下の力持ちに徹しようと決意した。そうやって、一度でも多く優勝を経験しようと決めたんだ。それが俺の納得のいくしめくくりだ。どうせあと二、三年でクビだ。俺はドラゴンズに骨を埋めるよ」
 高木が、
「島谷もトレード願いを出したようだ。開幕日以降は、新人のトレードもオーケーだからね。命令されたんじゃなくて、自分で申し出た場合、慰留がないかぎり取り下げるのは難しいぞ。本気なのか? 水原さんは動きが早いからな」
「本気です。島谷と同様、パリーグに新天地を求めます」
 江藤が、
「ま、やれるとこまでやるしかなか。二十二歳の菱川、二十歳の太田がおれば、金太郎さんを中心に十年は安泰やろう。俺も中も一枝も、あと五、六年がいいとこばい。モリミチは七、八年いけるやろ。三十五歳の健太郎と三十六歳の小野さんは、あと二年といったところやろな。勉ちゃんもあと七、八年はできそうやが、身辺事情が危ない。ほやけん、よっぽどいいピッチャーが入ってこんかぎり、三連覇は危ういで。二人いいのが入ってきたら、五連覇まである」
 中が、
「そこまで連覇すれば、おのずといい選手も集まるだろう。安心して辞められる」
 幕の内弁当やチラシ弁当を球場にお届けできます、と主人が言いにきたので、中と高木以外の全員が予約をした。
「試合前はめしを入れない。蕎麦をすする」
 中が言うと、
「俺もうどん蕎麦だな」
 高木が応じた。
「ではお二人以外のみなさまには、あしたの五時に球場の選手控え室にお届けいたします。煮ダコと煮ホタテがおいしいですよ」
「控え室って、ロッカールームのことですか?」
「はい、そちらへお届けいたします」
 水菓子にメロンが出てきて、お開きが近づいた。太田が江藤に、
「あのインタビューアー、だいじょうぶですかね」
「上から大目玉は食らっても、クビにはならんやろう」
 菱川が、
「悪人に気を使うという仕組みがよくわかりませんね」
「それが社会の仕組みたい。善人には気ば使わん。善人とうまくやっていこうと思わんけんな」
「悪人とはうまく……」
「みなまで言わんでも、わかっとうやろう。世の中そうやって動いとる。ばってん、ワシらはそぎゃん気ば使わん」
「はい」
 みんな笑顔で立ち上がった。店主たちがやってきてまた深く畳に叩頭した。
 ほろ酔いで部屋に戻り、すぐに床に入る。約束を交わしていない柴田ネネからも詩織からも電話はない。ひさしぶりに大の字にからだを伸ばして眠った。
         †
 六月十四日土曜日。九時起床。爽快な目覚めに驚く。窓の外は青空。タイメックスは二十四・九度。耳鳴りほとんどなし。枇杷酒でうがいをし、軟便をし、歯を磨きながらシャワーを浴び、最後に洗髪する。
 ジャージを着て十六階の中広間にいく。バイキング。一般客が多い。地方のホテルとちがって、彼らが選手に近寄ってくることはめったにない。ファンは玄関にいる。水原監督とコーチ陣の大テーブルに江島と島谷が座って話をしている。先発の田中勉が四人掛けテーブルに一人座ってめしを食っていた。私は角盆を持って、菱川と太田のテーブルに着いた。太田が、
「慰留されてるんですかね。でも、菱川さんがいたんじゃ、当分外野には食いこめないですからね。江島さんは正解じゃないんですか」
 菱川が、
「太田がいたんじゃ、島谷も無理だ。やつら正解だよ」
 私は、
「トレードは正解でも、新天地で活躍できるかな」
 菱川が、
「神無月さんの圧力がなくなれば、そこそこやれると思いますよ。結局、神無月さんや俺たちのことを共に戦う仲間と見るか、ライバルと見るかのちがいでしょう。俺なんか、レギュラーの人たちを学ぶ対象とは見ても、追いつき追い越せのライバルと見たことはありません」
 太田が、
「同感! しかし、パリーグに移籍するにしても、西鉄はあまりにも弱小だし、今年の南海は連敗に継ぐ連敗。やり甲斐があるとすれば、西本阪急か三原近鉄でしょう。ロッテは濃人だから、中日フロントがトレードを渋る」
「長池さん、いま何本打ってるのかな」
 私が尋くと二人はキョトンとし、それから大きく笑った。菱川が、
「神無月さんといると、この世に煩わしいことなんか何もないという気になりますよ。楽しいなあ」
 あらためて三人の箸が動きはじめる。太田が、
「十二本です。菱川さんが十五本、俺は十三本。きょうの日刊スポーツに打撃三十傑が載ってますよ」
 新聞を差し出す。菱川と覗きこむ。

 
強さ尋常ならず十四連勝
 
ドラゴンズ勝率九割三分超え!
 
小野が小川と並んで無傷の八勝目を上げた。これに田中勉の七勝を加え、三人で二十三勝ゼロ敗。
 六月十三日、巨人戦を五勝一敗一分けとした試合後の勝利インタビューで、水原監督は川上監督に対する遺恨はないと語り、懸念されていた不安を打ち消した。川上監督にもいっさい目立った動きはなく、試合を通じて終始紳士然とベンチの最前列に座っていた。ただ、初回に木俣と森のあいだに一触即発めいた対立があった。しかし木俣はその直後に十六号ホームランをレフトスタンドに叩きこんで城之内をノックアウト、浜野を引きずり出して徹底的に打ち据えた。七回、高橋一三の神無月への死球の際、中日ベンチに不穏な空気がただよったが、水原監督のコーチャーズボックスからの自粛を促す檄によってことなきを得た。
 ホームランがものすごい。天馬神無月の七十四本は雲上のできごととして、昨年この時期十本しか打っていなかった江藤が三十二号を放ち、シーズン十数本しか打っていなかった高木がすでに十五本、中十本、一枝ですら七本打っている。昨年二十一本打った木俣が十六本なのもきわめてハイペースだ。特筆すべきは、昨年一本しか打っていなかった代打屋の菱川が、レギュラーを張るようになってすでに十五本、新人の太田が十三本、島谷が八本打っていることだ。彼ら以外のホームランも加えると、チームホームラン数が二百十本になんなんとしている。すべて神無月効果であることはまちがいない。
 今季ドラゴンズが樹立するさまざまな記録を、今後打ち破るチームが現れるかどうか。いずれにせよ、現在のところチーム成績四十二勝三敗二分け。勝率九割三分三厘。中日ドラゴンズはとどまるところを知らず無敵の進撃をつづけている。




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