百三十四
午後三時。トシさんに電話を入れる。
「試合が終わったら御殿山にいきます。夜遅くなります」
「はい! 夜食は?」
「お願いします。雅子は?」
「元気、元気」
「二人とも、下着脱いでおいてね。玄関入ったらすぐ後ろからするから」
「はい! たぶんそうなるだろうって福田さんも言ってました」
ノースリーブのアンダーシャツの上からユニフォームを着る。ダッフルにスパイクとグローブ、タオルを納れ、帽子をかぶり、バットケースを持つ。ロビーに選手たちがたむろしている。出発まで三十分。コーヒーを注文して、小川の隣に座る。
「先発は田中章だな。好調らしいぜ」
「チビの田中ですか。スリークォーターのストレートが速くて、カーブ、シュートもするどく切れるんですよ。二打数二安打、一ホームラン、一フォアボール、一デッドボール。相性はいいと言えますね」
「たしかそのホームラン、中日球場の場外だったろ。金太郎さんに相性なんかないさ。ふつうに打てばいい」
バスが到着する。みんなでぞろぞろ玄関を出る。ファンの歓呼、シャッターの音、フラッシュの光。ロビー玄関脇に取り付けてある小型温度計が二十六・七度を指している。試合が始まるころには二十三、四度くらいになるだろう。ベルトを締め直し、スパイクの紐の弛みを直し、尻のお守りを確かめる。
きょうの試合が終わったら、吉祥寺へいき、あしたの午前には名古屋に出発。午後からは二十三日まで一週間名古屋でノンビリすごせる。と言っても、十八日からの阪神二連戦、二十日からの巨人三連戦がある。それでも一週間名古屋にいられると思うと気分がゆったりする。
バスに乗りこむ。走り出すと足木が立ち上がり、
「みなさん新聞でお読みになったと思いますが、オールスターの監督推薦が決まりました。まず、すでに発表されているファン投票一位ですが、セリーグは、投手阪神江夏豊、ほか十二名監督推薦、その中に小川健太郎、小野正一、田中勉が入っています。田中勉は事情があり辞退、田中の補充巨人浜野百三。ファン投票二位だったアトムズの藤原真は推薦されませんでした。捕手阪神田淵幸一、ほか二名監督推薦。巨人の森と大洋の伊藤勲です。一塁手巨人王貞治、監督推薦江藤慎一。二塁手アトムズ武上四郎、監督推薦巨人土井、ファン投票三位の高木さんは推薦されませんでした。三塁手巨人長嶋茂雄、監督推薦大洋松原。遊撃手阪神藤田平、監督推薦巨人黒江。ファン投票三位の一枝さんは推薦されませんでした」
ああ、とため息が洩れる。
「外野手中日神無月郷、中利夫、巨人高田繁、ほか監督推薦三名。パリーグは、投手、近鉄鈴木啓示、ほか監督推薦九名。捕手南海野村克也、ほか監督推薦三名、野村はケガで辞退、補充西鉄村上公康。内野手一塁手東映大杉勝男、二塁手ロッテ山崎裕之、三塁手西鉄船田和英、遊撃手近鉄安井智規(としのり)、ほか監督推薦四名。外野手は阪急長池徳二、近鉄永淵洋三、東映張本勲、ほか監督推薦四名」
みんな静まり返っている。彼らの関心事は、川上が何人中日の選手を推薦したかということだけだ。
「結局ドラゴンズから出場するのは、投手小川健太郎、小野正一、一塁手江藤慎一、外野手、中利夫、神無月郷の五名です。選ばざるを得ないところを選ぶのではなく、贔屓目で選んでいます。森と黒江と土井を推薦して、明らかに実力が上の木俣さんと高木さんと一枝さんを選ばなかったのは遺恨を残すでしょう。巨人が九人ですから、その三人を選んでいたら九対八で釣り合いがとれていたんですがね。涙を呑みましょう。お三人さん、今年は忍んでください」
「オー!」
三人がこぶしを挙げた。一枝が、
「中日の五人組、ホームラン打ってもコーチに抱きつけないぞ。コーチはだれだ?」
「阪神の後藤監督と、広島の根本監督です」
「気持ち悪いぞ!」
遺恨を忘れて賑やかに笑い合う。これが中日ドラゴンズだ。
「パリーグはどうしますか」
菱川が、
「いりませーん!」
中が、
「ピッチャーだけ、頼みます」
「じゃ、ピッチャーだけ。阪急梶本隆夫、ロッテ成田文男、ロッテ木樽正明、西鉄池永正明、東映金田留広、東映田中調(みつぐ)、近鉄清(せい)俊彦」
小川が、
「金田兄弟対決か。それをハイライトにするつもりだろうな」
高木が、
「金太郎さん、三試合で十人だ。十本頼むぞ」
「はい! いや、四、五本なら」
大拍手。水原監督が、
「まずはきょうの試合だ。たぶん金田はリリーフで出てきて勝利投手になろうとする。そのためには自軍が負けていなくちゃいけない。しかも二、三点差でね。金田が出てくるまでになるべく大差をつけておいてください。同情などもってのほかです」
「オース!」
「好調の田中章は打ちにくいので、なんなら、しっかり負けてくれてもいいです」
笑いが弾ける。田宮コーチが、
「金太郎さん、アンダーシャツは?」
「きょうだけノースリーブにしました」
「慎ちゃんとちがってイロっぽいな」
爆笑。水原監督が、
「涼しそうでいいね。七、八月はそれでいこうか。ノースリーブにしたい人がいるなら、球団で購入するよ」
菱川と太田だけが手を挙げた。江藤が、
「ワシも次の阪神戦から着るかな」
「かんべーん!」
小川が叫ぶ。
「グロすぎる。美しくなーい」
「何を言うか、筋肉美の男に向かって」
「二の腕が美しくなーい」
笑いが止まない。宇野ヘッドが、
「三試合六人のトーナメント式ホームラン競争の詳細が球団本部に届いてる。十球投げてもらって何本ホームランを打てるかの競争だ。読み上げるぞ。第一戦と第二戦、六時から六時四十分。第三戦、五時五十分から六時四十分。各球場セ・パ二名ずつ出場。第一戦東京球場、セリーグ神無月、王、パリーグ長池、野村、四人から勝ち抜き一名。第二戦甲子園球場、セリーグ長嶋、江藤、パリーグ張本、土井、勝ち抜き一名。第三戦平和台球場、セリーグ田淵、山本一義、パリーグ大杉、山崎、勝ち抜き一名。三人の勝ち抜き者で、そのまま平和台で決勝」
「山内さんは出ないの?」
私が言うと、太田コーチが、
「オールスター男も年だからね。賞金は五十万。金じゃないということだ」
中が、
「いや、けっこうな金額ですよ。ふつうのスタンド入りのホームランは一本一万円、盗塁は下着の詰め合わせセットですから、五十万円は大金です」
ホームラン一本に一万円出ていたとは知らなかった。
†
守備練習のあと、ロッカールームでみんなとニューオータニのなだ万弁当を食い、ダッグアウトに戻る。
「読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ、九回戦のスターティングメンバーを発表いたします」
務台鶴嬢の平板な声に心なしか熱がこもっている。
中日ドラゴンズ、一番センター中、二番セカンド高木、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番ライト菱川、七番サード太田、八番ショート一枝、九番ピッチャー小川。読売ジャイアンツ、一番ショート黒江、二番センター高田、三番ファースト王、四番サード長嶋、五番ライト国松、六番レフト末次、七番セカンド土井、八番キャッチャー槌田、九番ピッチャー田中。球審太田、塁審一塁筒井、二塁久保田、三塁平光、線審ライト竹元、レフト鈴木。
水原監督が、
「務台さんの声が少し上ずってるね」
足木マネージャーが、
「一塁側入場口周辺に寝袋を持ちこんで一夜を明かしたフアンが、二千人もいるそうです。あの声は、務台さんなりに彼らに感謝を表す熱い声でしょう」
長谷川コーチが、
「悪評紛々たるジャイアンツに二千人の徹夜組か。ありがたいね。その熱烈な巨人フアンに応えて、きょうは三十分も早く開門したというじゃないの」
森下コーチが、
「きょう負けると四連敗やさかいね。祈りをこめたアナウンスになるわけや」
水原監督が、
「巨人は、阪神三連戦に二連勝したあと一敗したんでしたね。きょうの試合に負けると四連敗か。なるほど」
深く気にしていない顔だ。ベンチからグランドに昇って、明るい芝と土が見えた瞬間に全身が酔ったようになった。カクテル光線に映えるビッシリ満員のスタンド。練習のときに見なかったバックネットを見やった。十列目くらいに山口とおトキさんを発見した。帽子を取って振った。同時に大歓声が返ってきた。二人が立ち上がって手を振る。山口の言ったとおり、おトキさんが輝くように美しい。
後楽園は一、三塁側の内野フェンスが低いコンクリート製で一メートルぐらいしかなく、防御ネットも張られていないので、最前列の客と視線が同じ高さでぶつかる。バットケースからバットを抜くときも、ベンチに帰るときも、すぐそこに彼らがいる。彼らはグランドの臨場感や選手との一体感に興奮している。視線の熱さでそれがわかる。私は自分も観客に戻って、思い出の中に置いてきた人たちとなつかしい時間を共有する不思議な気分になる。試合開始二十分前。
「進駐軍、岡山軍政部……」
横に並びかけた二十二歳の菱川がボソリと言った。
「軍がいろいろな家の蔵の食糧を封印しましたからね。そのついでに女子供にいたずらもして帰ります。……負けたのだから仕方がないというあきらめムードです。……母は明るい人です。大恋愛だったと言ってます」
私は菱川の大きな肩を抱いた。彼の気苦労の多かった人生を思った。
「四歳、五歳のころのお父さんを憶えてるでしょう?」
「はい。カシアス・クレイに似てました」
「グローブを買ってくれましたか」
「高いグローブをね」
「昭和二十七年のサンフランシスコ講和条約発効の年に、お父さんは帰国したんですね」
「はい……」
「野球場は特別な場所です。特別な人生を送ってきた人間にふさわしい」
「―きょうも暴れますか」
「精いっぱい」
中がバッターボックスに入った。太田球審のプレイのコール。小柄な田中章に小柄な中がからだを縮めて対峙する。スリークォーターからの初球、外角低目の速球、見逃す。ストライク。中が首をひねる。わずかに外れたように見えたのだ。するどく変化したのにちがいない。能力のある新人だ。金田までの橋渡しで投げるのがもったいない。二球目、内角高目の速球、見逃す。ストライク。やっぱり少し変化しているのだ。三球目、外角低目の速球、尻を突き出して当てようとする。空振り。走って戻ってくる。
「切れてるよ!」
ベンチに報告する。高木がボックスに入る。やはり二球見逃し、三球目の外角カーブに空振りする。戻ってきて報告。
「曲がりがいい。ちょっと苦労するかも」
江藤がバッターボックスへ、私はネクストバッターズサークルへ。初球から外角の高目を強振。一塁スタンドへファール。二球目、のけぞるほどの内角シュート。わずかにボール。好調とはこういうことだったのか。純粋なストレートはない。意識してストライクゾーンへわずかに変化するボールを散らしている。三球目、同じ内角高目、空振り。砂を掌につけ、一回素振り。どっしり構える。四球目真ん中低目のスライダー。強振。引っかけて長嶋へのゴロ。
―負けるかもしれない。
百三十五
水原監督が夜空を仰いで悠々とベンチに戻る。守備位置へ走る。小川は飄々と投球練習をしているようだが、ボールにいつもよりスピードが乗っている。レフトからでも球のキレのよさがわかる。
ずんぐり黒江、二球目をピッチャーライナー、小川が股間にグローブを差し出した先のプレートに当たって撥ね上がる。江藤の前へ転がり、内野安打。黒江、高田の初球に盗塁。高田ハーフスイングで木俣の前にわざとよろける。木俣は投げられない。太田球審を振り返って守備妨害の注文をつけたが、はねつけられた。二球目、真ん中高目のスローボールを伸び上がって打って、レフト前ヒット。私は腰を落さず捕ってワンステップし、ホームへ強い返球をする。黒江三塁でストップ。ノーアウト一塁、三塁。
小川は苦手な王をどう処理するか考えている。初球、山なりのスローボール。王、そっぽを向いて見逃す。ボール。二球目、すばやいモーションで内角低目へスライダー。王、思わず打ちにかかり、ぎこちなく掬い上げる。しまったという身振りで走り出す。高いライトフライ。黒江タッチアップして生還。ゼロ対一。
ワンアウト一塁。長嶋、真ん中低目の速いカーブを引っかけてショートゴロゲッツー。長嶋は左足を引いてフルスイングするので、フォロースルーのときからだがかなり右へ傾く。それが格好いいということになっている。私はそうは思わない。軸がぶれない回転がいちばん美しいに決まっている。彼は入団してから数年はこういう打ち方をしなかった。いつのころからか極端に左足を引くようになった。理由はわからないが、彼なりの理論があるのだろう。
三塁コーチャーズボックスに向かう前に、水原監督がベンチで、
「川上監督いわく、金太郎さんは一瞬の彗星のように輝いて去っていくだけの存在で、野球の歴史を変えられないそうだ。後継者がいないから大きなうねりが生れないということらしい。後継者がいたら、それは天才と呼ばない。しかし、歴史をうねらせるのは例外なく模倣のかなわない天才だ。金太郎さんはファンをうねらせ、やはり後継者のいない天才であるきみたちもうねらせた。歴史など変える必要はない。後継者などクソ喰らえだ。ただ感動し、生きる支えにし、同じ時代、天才同士スクラム組んでともに進めばいい。天才の人生なんて彗星に決まってる。神無月郷を侮辱する言葉は許せない。それはきみたちをも侮辱する言葉だ。叩きつぶせ!」
「オォォー!」
「四番、レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
金太郎コールがスタンドから噴き上がる。ウェイティングサークルからバッターボックスへ向かいながら、バックネットへ手を振った。大歓声が応える。おそらく木俣との悶着が原因でベンチにさげられている森が、川上監督と並んでこちらをするどい眼で見ている。いつだったか長谷川コーチに聞いたことがある。巨人を去る直前の水原監督にインサイドワークを買われて、巨人軍歴代最強の捕手藤尾茂を外野へ追いやった男、森昌彦。当時手薄だった外野に、打力にすぐれ強肩の藤尾を回すことは水原監督の苦肉の策だったらしい。森にとって、水原監督は大恩人ということになる。しかし、そんな話、長谷川コーチから以外、聞いたこともない。ましてや川上信奉者の森は口に出したくもないことだろう。
森が野村と仲のいいことは有名で、それがキャッチャーボックスでの〈ぶつくさ〉に影響していることはまちがいないし、ピッチャーを庇わない告げ口屋であることも有名だけれども(ピッチャーを庇ってキャプテンの地位まで取り上げられたのはキャッチャー時代の藤尾だった)、川上はその姑息な告げ口がチーム力向上に役立っていると公言した。どんなチーム力だろう。川上信奉者だが、根にサッパリと何もない長嶋と、森が犬猿の仲だというのもうなずける。
「よろしくお願いします」
太田に頭を下げ、バッターボックスに入る。掘れている足もとを均し、構える。眉の太い田中章の童顔が私を睨みつける。ほんとに小さいピッチャーだ。右手を隠したグローブを膝につけて屈み、槌田のサインを覗きこむ。うなずき、振りかぶり、スリークォーターから投げこんでくる。速い。外角へ大きく外れる速球。
―野球の歴史を変える?
ボールを投げ、打ち、走るだけのゲームに、何か進歩と言えるようなことが起こるのだろうか。試合場の器の大きさが変わり、ユニフォームが変わり、選手の体格が大柄に変わっていくだけのことではないのか。技術的なものは低下していくような気がする。子供たちの情熱の歴史が変わることは恐ろしい。水原監督の言うとおりだ。野球の歴史を変えてはならない。少年たちの野球に対する情熱の歴史を変えないためにも、私は〈原始人〉にならなければならない。
二球目、ベースの角をかすめる外角の速球。ボール一つ低い。しかしストライク。ワンワン。叩きつぶす。ここで一敗すれば、巨人は生き返ってくるような気がする。三球目、真ん中、顔の高さへ速球。外し球。見逃せばずるずる敬遠になる。上からかぶせるように打ち下ろす。インパクトの瞬間を目がはっきり捉えた。硬いボールがわずかに凹んだ。笠寺球場!
「いったア!」
ベンチの叫び声。右中間へ真っすぐ伸びる低い弾道が徐々に上昇していく。右中間スタンド中段の通路に飛びこんだのを確認して、森下コーチとタッチ。竹元線審の白手袋が回っている。七十七号。すかさず一対一の同点。負けられない。いつものとおり先攻逃げ切り。王が腕を組み、まぶしそうな目で微笑している。左手が親指しかない筒井塁審が定位置に走り戻ってくる。土井、黒江、長嶋の前を過ぎ、水原監督とハイタッチ。水原監督は私の腰に手を添えて伴走する。
「ネット裏にだれかいるの?」
「山口です」
「そうか、山口くんが!」
江藤が跳び上がって抱きつく。祝福のヘッドロックがかかり、尻が叩かれる。中が、
「金太郎さんのああいう弾道、初めて見たよ。ギューンと昇って、フワッと落ちた」
「中学校のとき一度ありました。あのころの仲間の顔を思い出しながら回りました」
ネクストバッターズサークルに向かう太田が、
「俺、あのとき、初めて神無月さんに抱きついたんです。泣いてたの憶えてますか」
「憶えてる」
「ありがとうございます!」
半田コーチのバヤリースを含みながら、木俣の打席を見つめる。中京商業、甲子園に四回出場、三十六年夏、尾崎に完封負け、山中巽、江藤省三の後輩、慶大受験不合格、中京大学在学中二度の優勝、新宅の駒大に敗北。三十八年愛知大学野球リーグ首位打者・MVP。中退してドラゴンズ入団―エリート。
初球、私と同じ真ん中高目へストレート。同じように叩き下ろす。田宮コーチが、
「これもいったア!」
私とまったく左右対称にレフトスタンド中段の通路に舞い落ちる。
「木俣選手、第十七号のホームランでございます」
叩きつぶせ! 手荒い祝福に加わり、お尻をポンと一叩き。
「お、蚊が刺したか?」
木俣がおどける。二対一。きょうから後楽園のロッカールームに大型冷蔵庫が備えつけられた。半田コーチはそこからバヤリースを運んでくる。
「ほかの人、勝手に冷蔵庫開けて飲んじゃだめヨ」
菱川、三球目の外角カーブを流し打ち、王の逆シングルのミットの下を抜く。二塁打コース。国松がクッションボールにもたついているあいだに菱川三塁へ滑りこむ。太田、初球空振りのあとの二球目、意表を突いて長嶋の前へセーフティバント。長嶋、ファールになると見てしばらくボールの行方を見つめていたが、結局ベース前で掬い上げる。菱川走れない。ノーアウト、一、三塁。水原監督の〈にせ〉ブロックサイン。一枝がわざとらしくうなずく。自発的なバントか、ヒットエンドランと見る。ボール、ストライク、ボールと見逃し、巨人の内野がそのつど前進する。四球目、内角シュートを強振して長嶋の頭を越す二塁打。菱川生還、太田三塁へ。三対一。ノーアウト二塁、三塁。
小川が打席へ。ベンチ前に長谷川コーチが出て、しきりにブロックサイン。スクイズと見る。小川はバントの構えで二球見逃した。ツーナッシング。巨人ベンチはわけがわからなくなっている。三塁スタンドも一球一球にため息をついたり、笑い声を上げたりする。田中章は二球外角へ遠く高く外した。ここの一点は死活問題になるからだ。小川はやはりバントの気配を見せる。ツーツー。五球目、小川はスリーバントの構えをする。田中はバントを失敗させる速球で三振を取りにきた。ど真ん中ストレート、小川待ってましたとばかり強振。ジャストミート。ベンチの叫び声。
「ヨッシャ、ヨッシャ、ヨッシャー!」
センター高田背走から全力疾走に切り替えてバックスクリーンへ突進する。背中を向けたまま逆手のグローブを差し上げてジャンプ! 届かない。いや? スタンドに入った! 森永エールチョコレートの〈ト〉の真上に飛びこんだ。二塁から走ってきた塁審久保田の右手が回る。ファンファーレとともに噴水が上がる。驚嘆の混じった嵐のような歓声。小川がピョンピョン跳ねながらダイヤモンドを周る。
「小川選手、第三号のホームランでございます」
おととい私が壊してキャラメ〈レ〉になった照明塔のネオンが、キャラメ〈ル〉に直っているのに気づいた。長嶋の目の前で水原監督とハイタッチ。やめてくれ、やめてくれ、というジェスチャーをしながら小川は仲間の群れに飛びこんだ。
「バヤリースはいらないよ。ビールない?」
「置いてません!」
ベンチの爆笑。六対一。一段落して、中三振、高木ショートゴロ、江藤ショートゴロ。小川の肩を冷やさないための早打ちだ。水原監督にはわかっている。
二回裏から七回裏まで小川は、打者二十四人、黒江、末次、土井、槌田のシングルヒット四本、王、長嶋にフォアボール一つずつ、高田、王、槌田、田中章を三振に取り、無得点に抑えた。
スタンドが極限まで沸いたのは、三回と六回、王に対して例の背面投球をしたときだった。ついにお披露目をした。それぞれ2―0、2―1と追いこんだあとの一球で、背中からシュッと山なりのボールが飛び出てきて、ベースに届くか届かないかのところで木俣のミットに収まった。王はまったくタイミングを狂わされた形で見逃した。ワインドアップ後に引いた右手を腰の後ろに残し、手首を利かせてそのまま背後から弾き出す曲芸まがいの投球だ。最初の投球はストライクで見逃し三振。その瞬間、王ばかりでなくスタンドの観客全員が呆気にとられて静まり返った。二度目の投球はボールだったが、ひとしきりフラッシュが瞬いた。王は次のストレートでセンターフライに切って取られた。このときはスタンド全体から噴火のような喚声が湧き上がった。
八回表までのドラゴンズは、三回から私と中と高木だけを残し、江藤の代わりに千原、菱川の代わりに江島、木俣の代わりに新宅、太田の代わりに葛城、一枝の代わりに島谷を入れて、巨人に〈追撃させる〉布陣を敷いた。しかし巨人の追撃はなく、ドラゴンズも立ち直った田中から、中が二本、私と江島が一本ずつの散発三安打。私の残りの二打席はセンターライナーとフォアボール。ゼロ行進。
小川に代わって伊藤久敏が出てきた八回裏から、巨人の猛追撃が始まった。田中章の代打金田がライト前ヒット、一塁側スタンドがまるで凱歌を上げるようにどよめいた。黒江同じくライト前ヒット、ノーアウト一塁、二塁。高田ボテボテの三遊間ヒット。満塁。王セカンドライナー。長嶋、センター前ヒット、二点。ワンアウト一、二塁。国松フォアボール。ふたたび満塁。末次、ライト前ヒット、二点。土井、三塁ファールフライ。ツーアウト一、二塁。槌田、レフトスタンドへ一号スリーラン。七点入れて、六対八と逆転した。熱投小川の勝利が消えた。
「返り討ちだァ!」
「くたばれ、ドラゴンズ!」
上品な後楽園球場とは思えない野次だ。
「男、金田!」
「四百勝!」
二度目の打席に入る金田が大歓声を浴びる。あっけなく三振。チェンジ。
「すみません、小川さん」
シャワー室から出てきたばかりの小川に、伊藤がしきりに謝る。
「俺、スリーラン打ったから機嫌いいし。それより、みんな、金田に同情するなよ。久敏を勝ち投手にしてやって」
タオルで頭をゴシゴシやりながら、こだわりなく笑う。池藤が彼の肩にビニールの氷嚢を巻きつけてテーピングする。
九回表、中日の攻撃なのに巨人の応援が激しい。ライトスタンドで三本も四本も球団旗が振られる。ここで同点にするか逆転してα負けが消えたときに備えて、ブルペンに内臓の悪い山中が走る。木俣がキャッチャーを勤めている。山中は登板しないだろう。
「ジャイアンツ選手名鑑いかがすかァ!」
こんなに回が押し詰まっても、巨人軍の選手名鑑を売りつづける場内店員の声がする。後楽園が巨人ファンのふるさとだということがしみじみとわかる。バッター三番千原、背番号43。江藤に代わってここまで二打席ノーヒット。彼は意外なところでかならず長打を飛ばす。期待する。金田がストレートを誇示した投球練習をしている。言うまでもなくカーブとドロップでくるということだ。
「外角カーブ、外角ドロップ」
私が呟くと、
「そうだね」
千原も呟く。いっしょにベンチを出る。
「それでも誇り高き速球を投げてきますよ」
「狙いはそれなんだ。辛抱強く待つ」
百三十六
金田、千原への初球。鳥の翼のように振りかぶり、背中を丸めて投げ下ろす。外角へ小さいカーブ。ストライク。千原は前にのめって打ち気を見せる。金田はカーブ狙いだと考える。
「ボール見えてるよ、見えてるよ!」
「陽ちゃん、踏ん張って!」
二球目、打ってみろと顔のあたりから外角へ落ちるドロップ。ストライク。千原は反り返る。のめったり反り返ったり、好きなようにやられている。次は外すつもりで内角のストレートを投げてくる。振ってくれれば儲けもの、空振りか、内野ゴロだ。千原が私を見返った。私はうなずいた。
「千原さん、一発!」
三球目、膝もとの内角ストレート。窮屈だが、まともに打てるのはこのボールしかない。踏みこみ、右腕を畳んで掬い上げる。
「よし、セカンドの頭!」
ライナーで右中間へ一直線だ。国松と高田の真ん中を抜いた。悠々スタンディングダブル。私の打順だ。一塁が空いていても、槌田は金田御大に敬遠の指示は出せない。ストレートはもう投げてはこないだろう。味方が五点差をひっくり返してくれたのだ。負けたくないにきまっている。ドロップは手を出さず、外角の小さなカーブ、一本狙い。屁っぴり腰ではなく、クロスに踏みこんで、しっかり打とう。初球か二球目だ。
金田はベルトをたくし上げ、マウンドをうろうろする。心が決まり、こちらを振り向く。サインなし。セットポジションから翼を羽ばたかせる。初球内角胸もとの速球。ボール。並行スタンスで立ち、外角狙いを気取られないようにする。千原はほとんどリードをとっていない。二球目、内角ドロップ。ストライク。すごい切れだ。危うく裸の二の腕に当たりそうになった。私は読まれないようにしっかり考える。どうこられようと狙いは一つ。外角の小さなカーブ。百パーセント次だ。
三球目、槌田が左膝を突いて低く構えた。金田はそれを見て、二塁へノロリと牽制球を投げた。土井から返球を受け、すぐにマウンドへ槌田を呼ぶ。森のやるように低く構えるなということだろう。森はよくこれをやるので、次が低目だとすぐに悟られてしまう。走り戻った槌田はホームベースを中心で、ごくあたりまえの構えをした。金田は胸を張り、羽ばたき、腕を振り下ろす。親指と人さし指が開いていなかったので外角ストレートと読む。カーブではない。スピードボールが真ん中腰の高さから外へわずかに曲がり落ちる。カーブだった! とっさに踏みこむ。ひっぱたく。しっかり食った。上昇角度よし。センター高田、レフト末次、一歩も動かない。打球はかなり時間をかけてレフトのカルピスの看板を越えていった。森下コーチと強くタッチ。金田を除いた八人全員がレフトの夜空を見つめている。噴水。八対八。これでα負けなし。長嶋のうつむいた顔を過ぎ、水原監督とロータッチ。
「ありがとう! 延長になっても勝つよ」
「はい!」
仲間たちに揉みしだかれてベンチへ。一枝が、
「延長は御免だぜ。今夜じゅうに名古屋行の新幹線に乗りたいんだよ。このまま決めてくれ!」
高木が、
「修ちゃんは女房孝行だからな」
「それはおまえだろ。俺は子供孝行だよ。四つのかわいい盛りだ」
葛城が、
「まかせろ。決めてやる」
ノーアウト、ランナーなし。五番新宅、ドロップにきりきり舞いして三振。江島、ドロップに詰まったが、センター前にポトリと落とす。ワンアウト一塁。葛城、ドロップと高目のストレートを捨て、五球目、内角の低いカーブを掬った。あっという間に左中間フェンスを直撃。二塁打。江島長駆ホームイン。九対八。とうとう勝ち越した。島谷ドロップの連投にあえなく三球三振。ツーアウト二塁。伊藤久敏に代打伊藤竜彦が告げられる。十一年選手二十九歳。素振りのスイングが力強い。感情の淡い静かな横顔だ。
控え専門の選手はどういう経緯でプロ野球選手になり、どんな不足があって控え選手としていまこのグランドに立っているのだろう。きっと、小学校や中学校の校庭で走り回っていたころの誇りにあふれた顔はしていない。たださびしそうにグランドにたたずんでいる。江藤と同期、高木の一年先輩、中の五年後輩。どこで差がついたのか。
初球、真ん中高目のストレートをすばらしいスイングでファールチップ。これだったのだ。形ではなく実質だったのだ。実質で差がついた。素晴しいスイングをしても、まともに当てなければボールは飛ばない。まぐれでいい。当たってくれ! 二球目懸河のドロップ。空振り。これだ。狙いが定まっていないのだ。頼む、何を振ってもいいから当たってくれ! 三球目、外角から外角へ逃げるシュート。一塁線へファール。バットにヒビが入り、走って代わりのバットを取りにくる。予備のバットをバットケースから見つけられないらしく、おろおろしている。
「伊藤さん、ぼくのバットを差し上げます。次のボールは内角高目のストライクになるストレートです。もしドロップがきたら捨て球ですから、思い切って見逃してください。そのあとも内角高目のストレートです」
「わかった。このバット、ありがたくいただくよ」
大事そうに握り、走ってボックスへいく。江藤が、
「金太郎さんの読みは当たるけんなあ。竜ちゃん、うまくミートできればええけど」
四球目、胸もとにスピードの乗ったストレートがきたが、あらかじめ左足を引く心準備があったので、思い切り振ったバットにボールがまともに当たった。
「オオー!」
「いったァァ!」
彼の潜在能力を示すような、とんでもなくするどい打球が夜空を切り裂き、瞬く間に最上段に突き刺さった。一塁側内外野のスタンドからアーとため息が洩れた。森下コーチが小躍りして喜び、伊藤竜彦とガッチリ握手して、尻をバンと叩き、二塁へ向かう走路へ送り出した。中日ベンチ全員がグランドに飛び出し、ホームベースに列を成した。伊藤は水原監督と握手し、私たちの祝福で揉みくちゃになった。
「伊藤竜彦選手、今季第二号のホームランでございます」
半田コーチからバヤリース。
「おめでと」
「ありがとうございます。飲みたかったんだこれ! 感謝するよ、神無月くん、あんな大きなホームラン、生れて初めてだ。一生の思い出になった」
十一対八。山中がブルペンからベンチに戻ってくる。伊藤久敏が山中に、
「すみません、あとをお願いします」
え、山中が投げるのか。
「全力でやる。まかせて。サヨナラ食らったらごめんな」
「とんでもないです」
小川が、
「こら、久敏、俺の力投を忘れんなよ」
「ありがたァす! 忘れません。五点もあったのにひっくり返されて、申しわけありませんでした」
「金田が出てきて、巨人ベンチ張り切っちゃったからな。仕方ないよ。おいおい、浜野が出てきちゃったよ」
金田に代わって、浜野が登板する。
「なんだ、どうした、試合捨てたのか!」
宇野ヘッドコーチが叫ぶ。捨てたのだ。川上の姿がベンチにない。ツーアウトだけれども、ここから大量点になる。打順が一番に戻り、中と高木が仲良く右と左に連続で二塁打を浴びせてまず一点、千原と私がライトスタンド上段に連続でアーチを架けて計四点をもぎ取った。千原三号、私七十九号。つづく江島がライト前のヒットで出、新宅のセカンドフライでやっと攻撃終了となった。十五対八。
九回裏は山中が、黒江三振、高田ピッチャーゴロ、王セカンドゴロ、すべてフォークで討ち取って試合終了。時計は九時四十一分。ネット裏の山口とおトキさんに手を振り、彼らが通路へ姿を消すのを確かめてから、小川と伊藤久敏と三人並んでインタビューマイクの前に立った。このとき、二十人くらいの観客が一塁内野スタンドを越えて乱入して収拾がつかなくなったので、インタビューを放棄して、松葉会の組員と警備員に護られながら全員バスに戻った。
バスの中で水原監督は、小川の好投を褒めちぎったが、背面投球は品がなく、彼の大らかな性格と才能に見合っていないので、やめるほうがよいと言った。
「一人ぐらい不得意な相手がいたほうが、張り合いがあるし、人生がバラエティに富んだものになりますよ。ただ、そういう相手には全力でぶつかるべきで、くさいところをついて歩かしたり、猫だましを喰らわしたりするというのはよくない。チームの士気に関わってくるんです」
「じゅうじゅう承知ノスケ。これっきりにします」
それから、千原の右中間二塁打とライト上段のホームラン、それから伊藤竜彦の大ホームランを褒めた。
「伊藤竜彦くんまでは、わがチームの実力ですが、最後の四点は巨人のミスです。十一対八ならまだじゅうぶん追撃圏内にあったんですよ。そこで浜野くんを投入したらオジャンでしょう。九回裏に逆転して、浜野くんを勝利投手にしたかったんだね。中日に意趣返しさせるつもりでね。野球に対する真剣さに欠けてます」
小川が、
「自分から出ていって、意趣返しもないでしょう。中日にいれば十勝はできたのに」
高木が、
「勝ち星よりも権力の毛布を選んだんだ。自業自得だ」
宇野ヘッドが、
「巨人にとってこの三連戦はこの上なく大事だった。ドラゴンズと九戦して、一勝七敗一分けじゃ、完全にうちのお得意さんになってしまったことになるからね。ここで三連勝していれば、四勝四敗一分け、まったくのイーブンだったんだよ。そもそも神さまにケチをつけたのが、ケチのつき初めだったね。すべて川上一人の責任だ」
水原監督が、
「権力者にとって、権力を嫌う人間が天才なのがいちばん頭にくることだからね。うちは何連覇しても権力者にならない。気楽だね。しかも天才の巣窟だ」
千原が明るく笑っている。島谷は沈黙して窓の外の夜を見ていた。中が一枝に、
「修ちゃん、何時の新幹線だ?」
「品川十時六分が最終だ。間に合わない。あしたの朝にするよ」
水原監督が、
「金太郎さんは、今夜は吉祥寺か?」
「はい、友人カップルが待ってますから。夜の電車でのんびりいきます」
「山口くんだね。よろしく言っといてください。またギターを聴かせてほしいってね。あの家はくつろぐ」
田宮コーチが、
「夜更かししないで、ゆっくり休むんだぞ。十八日の阪神戦に名古屋で会おう。今度はまちがいなく江夏でくる。うちは小野くんをぶつける。投手戦になるぞ」
「はい。がんばります。投手戦と聞くと平常心でいられなくなります」
中が、
「吉祥寺というのは電撃契約の御殿山だね。水原監督が直接出向いた」
「はい、あのときは驚きました。村迫さんと榊さんがごいっしょでした。あの家は、ぼくのファンの不動産屋のお婆さんがくださったものです。北村和子さん初め、みんなで老後の面倒見を申し出ても、彼女はやんわり拒否しています。拒否されてもだれもあきらめませんけどね」
水原監督が、
「そういう人たちだね、和子さんのお仲間たちは。優勝が決まったら、球団フロント、コーチ陣、レギュラー陣みんなで北村席にお伺いしようと思っている」
「ぜひ。主人たちも喜ぶでしょう」
江藤が菱川と太田に、
「北村席のめしはごちそうたい。たらふく食わんばな」
太田が、
「はい。女の人が寄ってくるのは苦手ですけど」
菱川が、
「嘘つけ。楽しみにしてるだろうが」
事情を知らない連中もいっしょになって和やかに笑った。水原監督が、
「女性も、日ごろのプレーのエネルギーになる」
森下コーチが、
「監督はツワモノやったからな」
「過去形で言わないでよ。とにかく男にとって、女性は心の支えになるんです」
監督コーチとともに食事をしに去っていく連中にロビーで別れの挨拶をし、送り返す荷物をまとめに部屋に戻った。十時半を回っている。シャワーを浴びて、下着を替え、ブレザーに着替える。ダッフルにグローブとスパイクを入れ、汚れたユニフォームは下着類といっしょに段ボール箱に納める。バット三本を入れたケースとスポーツバッグを載せてフロントのカウンターに預ける。いつものことなので、送り先を書く必要はない。鍵を返す。手ぶらになる。
「お気をつけて。二十八日のおこしをお待ちしております」
アトムズ戦のことを言っている。数人の従業員に玄関まで見送られる。ゆるい車道のいただきが玄関なので、フロントは実質二階にある。星のない夜空を見上げながらスロープをくだる。
百三十七
大通りに出、黒い樹木に縁どられた堀を渡り、明るい赤坂見附駅まで歩く。習慣のように眼鏡をかける。丸ノ内線の券売機で四谷までの切符を買う。十一時二十分。十二時までには吉祥寺に着く。狭苦しい地下鉄の車内。けっこう客がいる。天井灯が消えたり点いたりする。
四谷で国鉄の切符を買い、中央線快速高尾行に乗り換える。車内は適度に混んでいるけれども、みな疲れてうつむいたり眠ったりしているので、私には気づかない。安心して眼鏡を外す。不思議に緑が多い見慣れた沿線の夜景。ビルと民家の混在する風景をボンヤリ眺める。交差する高架の道路を見送る。命があることと同義に感じる点景。似たような造りの親しみ深い駅を過ぎる。高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪。一年も暮らさなかった東京。それなのに克明に覚えている。
十一時四十五分に吉祥寺に着いた。日曜日の深夜の街。ネオンはポツポツあるが、人はほとんど歩いていない。空が黒い。この空の下にまる三カ月年暮らした。たった三カ月なのに、野辺地や青森の空よりもなつかしい。
マサキにムクゲの混ざった生垣に煉瓦の門がはまっている。新調したようだ。菊田という表札が埋めこまれている。庭がこんもりとした樹木に包まれている。門を入り、短い庭石の導路を歩いて玄関に立つ。菊田・福田という軒燈が点っている。
「ただいまあ!」
「おかえりなさーい!」
トシさんと雅子が二人で式台に端座して迎える。声を聞き、姿を見たとたんに勃起しはじめる。トシさんも雅子もフレアスカート。どちらにも欲情する。屈みこんで両腕で二人を抱き寄せ、長い口づけを交わす。たちまち下腹にギッシリ血がみなぎる。彼女たちも同じだろう。
「穿いてない?」
「穿いてません」
「すぐお尻見せて」
「はい」
トシさんは土間の沓脱石に裸足で下り、上がり框に手を突いて六十三歳の尻を向ける。雅子もサンダルを突っかけて三和土に下り、私のズボンと下着を下げる。
「わあ、立派! ちょっとすみません―」
かぶりついて舐める。それからトシさんのスカートをまくり上げて股間を曝し、自分は式台に戻ってトシさんの真横に正座し、先輩の手首を握る。私はトシさんのふくよかな尻を見つめ、丸みに沿って撫ぜ、尻たぼを親指で両側に開いて陰部を見つめる。快楽の道具が濡れて光っている。陰核の花びらを目に納め、ゆっくり挿入する。
「トシさん、なつかしいね、この感触」
後ろから手を回してトシさんの陰阜を強くつかむ。
「うう、キョウちゃん、イッちゃう、あ、あ、あ、イッちゃう!」
すぐに達した。間歇的に尻を前後させている隙に、さらに深く挿入する。
「うーん、イク!」
自動的な尻の前後運動でトシさんのアクメが重なる。雅子がしっかり右手でトシさんの手首を握り、左手で尻たぼを抱えて沓脱石から落ちないようにする。私は柔らかいヤスリに亀頭を戻して射精を早める。
「ああ、キョウちゃん、もうだめ、止まらなくなっ……ううう、イク、イク!」
「雅子、お尻!」
「はい!」
雅子はトシさんから手を離し、式台に両手を突いて五十三歳の尻を向ける。トシさんから引き抜いて陰毛のない性器に突き入れる。膣の微細な動きが射精を促す。
「あああ、神無月さん、愛してます、イク! イクイク、イク、イク!」
愛液を沓脱石の先の蹴込み板に飛ばしながら、白い尻をブルンブルンとふるわせる。私は腰を止め、限界までがまんしてから引き抜いて、トシさんに挿入する。射精する。
「あああ、キョウちゃん、好きいい! うーん、イク! キョウちゃん、もうだめ!」
トシさんから引き抜くと、雅子が律動するものを咥えて夢中で吸う。
「……がまんできません、もう一度入れてください!」
雅子が大きな尻を私に向ける。挿し入れる。
「す、すごい、イク、イクイクイク、イク!」
腹を抱えて膣のうごめきを愉しむ。抜き去ると、雅子は式台に腹からへたりこみ、幾度も尻を跳ね上げる。トシさんも框に腹をすりつけながら悶えているので、二人を抱え上げて式台に仰向けにしてやる。二つ腹が跳ね、愛液が強く飛ぶ。トシさんがうめき、雅子が荒く呼吸する。トシさんは懸命に腹をすぼめ、尻をもう一度ふるわせて一筋長い愛液を飛ばした。雅子が呼吸を整え、どうにか立ち上がる。
「タオル、濡らしたタオルを持ってこないと」
そのまま大きな尻を揺らしながら、のろのろと風呂場へいった。トシさんに語りかける。
「相変わらず、すごかったよ、トシさん」
「恥ずかしい……」
「愛してる」
「私も、死ぬほど……」
雅子が戻ってきて、私のものとトシさんの股間を拭う。タオルを裏返して、式台や沓脱や蹴込に飛んだ愛液も拭う。私は性器を曝して土間に立ったままだったことに気づき、着ているものすべてを式台に脱ぎ捨てて、キッチンに入った。彼女たちもすっかり全裸になってついてくる。
テーブルに食事の支度がしてあった。焼き魚、炒めもの、おひたし、おしんこ、心をこめて作ったおかずをつつき、温め直したアサリの味噌汁をすする。
「うまいなあ。試合が長引いちゃったから、いまごろ腹がへってきた」
雅子が、
「二人でテレビを観てました。解説者が、逆の方向へ場外ホームランを打てるのは、日本で神無月さんただ一人だと言ってました。大リーグのゼネラルマネージャーやスカウトたちも特別席に何人かきていて、神無月さんはアメリカでも軽く百本打つだろう、守備も走塁も超一流だ、アメージング、アメージングってベタ褒めでした」
「山口とおトキさんがネット裏に観にきてたよ」
「ええ、いかないかって声をかけてもらいましたが、二人のデートをじゃましたくなかったので遠慮しました」
トシさんが、
「おトキさん、すごくきれいになったのよ。このあいだも言いましたけど、三人いっしょに水泳教室にかよってるんです」
「八月にトモヨさんに二人目の子供が産まれる。四十歳。これが最後の子だ。高齢出産。母子ともに無事だといいけど」
トシさんは、
「心配しないで。何万年もつづいてきたことですから。いまは専門のお医者さんもたくさんいる時代です。万に一つの不幸も起こらないでしょう」
雅子が、
「トモヨさんが何枚か直人ちゃんの写真を送ってくれたんです」
「子供ってこんなにかわいいものだって教えたかったんでしょう。ほんとにかわいらしい。不思議な生きものですね」
「トシさんは子供がいなかったね」
「はい」
雅子は箸を置いて、からだをねじり、水屋の抽斗から薄い簡易アルバムを取り出して開いた。私は見覚えのある写真を眺めた。トシさんはすでに雅子から見せられていたらしく、うなずきながらにこやかな顔で私を見つめている。ガラガラを見上げながら手を差し伸ばしている姿、長靴を履き、何を思うのか北村席の廊下でうつむいてぼうっと立っている姿、座布団に坐って自分の足先を真剣に見下ろしている姿、席の女たちに手を伸べて歩き出そうとする姿、トモヨさんに抱かれてかすかに微笑んでいる姿。その母子像。直人の顔は、国際ホテルのロビーで、母のかたわらに寄り添って微笑していた私によく似ていた。それにしても美しい母子だ。雅子はその母子の顔を大切そうに指で撫ぜてから、アルバムを抽斗に戻した。
「きらきら輝いていて、まるで発光してるよう」
「神さまの種から生まれたんだもの、かぐや姫みたいに光り輝くのはあたりまえよ」
「……いつか、けいこちゃんの悲しい話を聞きましたけど、ときどき思うんです。神無月さんの深いさびしさを……」
「生涯に何人の女と出会えるかわからないけど、中にはぜったいに消せない傷を残していく女もいる。けいこちゃんがその一人なのは確かだよ。折に触れて思い出すことがあるし、それはこれからも変わらないだろうね。でも、それは恋愛感情じゃないんだ。けいこちゃんが恋人としてぼくの心に戻ってくることはない」
雅子はにっこり笑った。トシさんが食卓を片づけながら、
「キョウちゃんはどうして野球選手になったの? 初めて荻窪駅で遇ったときの印象は、芸術家そのものだったけど」
「理路整然と答えることは難しいな。……ぼく自身は芸術家でありたいと思うけど、創作に飢餓感を覚えるほどの才能がない。だから、飢餓感をいつも持ってる野球をする―相当効率的な選択に見えるけど、効率の問題じゃなく、確実に持ってる才能で〈いま〉人を喜ばせたいという、ぼくの中では〈まとも〉な選択なんだ」
「芸術家も野球選手もきつい選択よ。キョウちゃんはそこにいるだけで人が喜ぶ人間なんだから、公務員とかサラリーマンというラクな手もあったでしょう? 何をしたって人は喜ぶわけだから」
「才能が要らないので、美的じゃない。自分を決定できない〈永遠の猶予期間〉にいるようで、気持ちが悪い。持てる才能を使って美的なことをすること。それだけは自分に課している最低限の枷なんだ。そこにいるだけで人が満足する人間などいない。何かの行動をし、何かをしゃべる、それで初めて人に満足感を与えることができる。セックスもその一つだとぼくは思ってる」
雅子が、
「神無月さんがありたいと思っている芸術家って、何なんでしょうね」
「魂の救済。世の中の喜怒哀楽を一手に引き受ける聖職だろうね。情熱はあっても、引き受ける腕がないなら、人間についてどうのこうの言っても、ぜんぜん信用が置けない。人間のことを深く知りもしないくせに、知ったようなことを説いてもまったく説得力に欠ける。芸術の究極の目的は、熟練した表現による人助けだと思う。それはぼくの未来の課題だ。未熟な表現では助けられない。それなら、表現が未熟なうちは、ぼくにはせっかく肉体の才能があるんだから、未来を待たずに〈いま〉人助けができるんじゃないか、自分の理想は言語表現による魂の救済だけど、その仕度が整うまでのあいだは、野球で人びとを救済してみたらどうだろう、野球でも芸術家に近い仕事ができるんじゃないか、そんなふうに考えたんだ。おかしな理屈に思えるけど、人から見ればおかしなことでも、当人の中では理屈として完結してることもある。とりわけぼくは、もの心ついたころから、野球以外の職業を考えなかったというハンデがある」
トシさんが、
「野球をしながら、人間の奥深さを学んで表現の基礎にしていくのね。肉体の天才たちと、どんな意味でも天才でない私たちのあいだをいききしながらね」
「それはあまりにも自分を馬鹿にした言い方だよ。天才というのはある目立った分野の高レベルな才能の持ち主の呼称だ。数学の天才、政治外交の天才、武術の天才、金儲けの天才、発明の天才、彫刻の天才、音楽の天才……。主婦の天才とか、買い物の天才とか、子育ての天才、愛情の天才、などということは言わないけど、人にはかならず自分が携わる目立たない領域にさまざまグレードの才能がある。その分野が社会的に目立つかどうかのちがいだけだ。とにかくぼくは自分の持てる才能で、自分なりに人に充実感を与えたくて生きてるんだ。それがぼくの充実でもあるからだよ。さあ、ゆっくり風呂に入ろう」
二人の胸に凭れて湯に浸かった。しみじみと二人の背中を流した。悲しみの塒(ねぐら)。たまさか知り合い、生きてここにともにいるかぎり、目に納め、触れなければいけない肉体だ。
「長生きしてね、二人とも」
雅子が、
「もちろんです。死ねなくなりましたから」
「いつまでも生きますよ。キョウちゃんが生きてるかぎり。……やさしい人」
トシさんはそっと目に手を当てたようだった。
「福田さんと二人で、いつも語り合うんです。キョウちゃんがいま死んじゃったら、すぐ二人で死にましょうねって」
「だめだめ、生き残ったぼくの心に傷が残る。明るく生きられなくなる。だいじょうぶ、二人が生きてるあいだ、ぼくは死なないよ」
雅子は石鹸を流すと湯殿で横坐りになり、
「神無月さんが死んだら、私たちはみんな死ぬでしょう。法子さんも、和子さんも、みんな」
トシさんがうなずき、
「キョウちゃんは太陽だから、みんな自然と死ぬのね」
風呂から上がって、もう一度交わり、三人心の底からくつろいだ。仰向けになって手を絡め合い、褥から窓の闇を透かして井の頭公園の林を眺めた。
「毎日、新聞記者たちに取り囲まれるのはたいへんでしょう」
雅子が言う。
「三、四十人が押し寄せる。甲子園の場外ホームランのときは特別室に百五十人くらい集まった。シャッターの音やフラッシュの光は煩わしいね。それでもたいへんだとは思わない。ボンヤリ応対してるから」
「気疲れはないんですね」
「ない。からだの疲労もない。人間は毎日やることに飽きないようにできてる。だから同じことをして生きていられる。大切な動物性だ」
深夜二時。三人、だれともなく無言になり、動物のように眠りに就いた。
百三十八
八時過ぎまで眠った。六時間ほど熟睡した。六月十六日月曜日。きょうは康男が白鳥に帰ってくる日だということがすぐ頭に浮かんだ。あしたの昼に会いにいく。
トシさんと雅子はすでに台所で物音を立てていた。下着をつけ、台所に顔を出す。
「おはよう」
「おはようございます! お風呂沸いてます」
「ありがとう」
歯を磨き、ふつうの軟便をし、シャワーを浴び、湯に入る。静かな耳鳴りがうれしい。湯から上がると、新しい下着とパジャマ。いつもこの瞬間に深い幸福感が押し寄せる。
雅子がスクラップのために何紙か買ってきていて、食卓に置いてあった。焼魚、目玉焼き、漬け物、味噌汁、心尽くしのオーソドックスな朝食をとりながら、見出しだけ眺める。
竜十六連勝
巨倒神無月三発七十九号
巨人三タテ 中日またもや巨人を狩って十六連勝
引分け挟んで二十二連勝
引分けのあと現在十六連勝で、あと二勝で昭和二十九年の南海の純粋十八連勝とタイ記録になると書いてある。あと三連勝すれば日本新記録か。引分けを挟んでもやはり十八連勝が最高で、昭和三十五年に大毎オリオンズが達成しているとつけ加えてある。したがって引分けを挟んでも十九連勝が日本新記録で、六月十一日の対アトムズ九回戦を七対二十二で勝利した時点ですでに達成ずみだとのことだ。ここまで騒がれるとは考えてもいなかった。とにかくあと三勝して、純粋な連勝記録を作ってしまおう。
なお大リーグのチーム連勝記録は、引分けを挟まなければ、昭和十年シカゴ・カブスの二十一連勝、引分けを挟めば、大正五年ニューヨーク・ジャイアンツの二十六連勝だという話だ。つまり、あと五連勝すれば引分け挟んで世界新記録、六連勝すればやはり引分けを挟まず世界新記録になるということだ。どちらも新記録樹立は可能な感じがする。
あきれたシーソーゲーム
必死さに欠ける巨人 追撃考えず浜野投入
神無月同点弾・葛城決勝二塁打
伊藤竜・千原・神無月ダメ押し弾
「この白菜の漬け具合、最高だね。ナスの糠漬けも絶品だ」
「白菜は菊田さんが漬けてるんです。糠漬けは私」
国鉄の夜間バスが走るようになったとか、日本のGNPがドイツを抜いて世界二位になったとか、江東区で小学校五年生の女の子が誘拐されて殺されたとか、食卓でいろいろ世間のできごとを聞いた。四方山話をしているうちに、トシさんが店に出かける九時に近づいた。最近はいつも九時から店を開けるのだと言う。
「じゃ福田さん、また夕方に荻窪のお家でね。来年の五月までゆっくり短答式の問題集を勉強して、その試験に合格したら、八月の論文式の試験は三年連続で受験できるから、あせらず気長に勉強することよ。質問を溜めておいてね。週に一度ぐらい適当に顔を出すから。知りたいことがあったらすぐ電話ちょうだい」
「はい。ほとんどこちらの家で勉強してます。長丁場ですけど、よろしくお願いします」
「わかったわ。じゃ、キョウちゃんを吉祥寺駅まで送って、その足で仕事に出るから」
玄関で雅子にキスし、
「また、都合がつく日にくるからね」
「はい、いつでもお待ちしてます。愛してます」
「ぼくも愛してる」
満面の笑みを浮かべて手を振る雅子に手を振り返す。トシさんと駅に向かって歩きだす。
「あさっては水曜日だね。きっと店がお休みの日を雅子の特訓日に当ててるんでしょ」
「そう。月に一回だけど。そのほかは、週に一度御殿山か荻窪の福田さんのお家に顔を出すんです。勉強のしすぎで倒れていたりしたらたいへんだから」
「二人ともえらいね。感心する」
「二週間にいっぺん上板橋にもいってるのよ。中年を超えたやもめ女はさびしがり屋だから、励ましてあげないとね。河野さんも元気。すごく肉付きがよくなったわ」
「七月は立教の大学院の試験があるから、よく食べて、運動して、体力をつけとかないとね。トシさんにはいろいろ苦労かけるけど、よろしくね。感謝してる」
「いいえ。感謝するのは私のほう。すばらしい人生をいただきました」
新幹線の乗車券とグリーン車指定券を買う。東京駅十一時三十三分のひかり。トシさんを中央線のホームまで見送り、ドアに立つ美しい顔を見送った。ホームを上りへ変えようとして階段を降りているとき、三カ月にいっぺん逢おうと約束していたアヤのことを思い出した。五月の半ばにニューオータニでひそかに逢ってからまだひと月しか経っていない。しかし、ひと月も経てば女のさびしさは耐えられないものになるはずだ。改札内の公衆電話からセドラに電話する。寝惚け声でアヤが出た。まだ五時間も寝ていないはずだ。
「いま、吉祥寺駅。御殿山の帰り。十時十二分の新幹線に乗る。一時間半ほど時間がある」
「わ、うれしい! 東京駅まで送っていきます。ごはんは?」
「食べた」
「じゃ、東京駅の喫茶店でお茶を飲みましょう」
改札を見やって十分も待っていると、アヤが走ってやってきた。ジーパンに白い夏物の上着。私に向かって手を振り、出札口で切符を買う。改札を入ってきたところで握手。きちんと薄化粧をしている。薄く笑い皺のある目が大きい。
乗りこんだ電車は、出勤時間帯を少し逸れていたので、座れないけれども窮屈でなく立てた。見つめ合ったり、窓の外を見たりする。前の座席の客がときおり見上げるので、眼鏡をかける。ふふ、とアヤが笑う。野球の話をしないように気をつける。彼女にはつまらない長話になってしまう。彼女も川上監督をめぐるここしばらくの騒動のことを問いかけようとしない。正しい姿勢だ。雅子やトシさんにしても新聞記者の煩わしさのことしか問わなかった。
「セドラの意味がわかったわ。物知りのお客さんが教えてくれたの」
「へえ、どういう意味?」
「インドのヒマラヤ原産の柑橘類ですって。レモンの原種らしいわ。レモンの五、六倍の大きさがあって、ゴーヤみたいにゴツゴツしてて、いまはフランスのコルシカ島で栽培されてるみたい。食用じゃなくて、香水やリキュール酒の原料ですって。あの店の最初のオーナーがセドラリキュールを置いてたんじゃないかって言ってたわ」
「ふうん、物知りってすごいもんだな」
「ほんとね。どんなものか、うちもセドラリキュールを置いてみようかしら」
「売りになるよ、きっと」
前の男が視線を落としているうちに、チュッとアヤの頬にキスをする。アヤは真っ赤になって微笑む。愛らしい。
九時五十分、東京駅着。改札に切符を見せて途中下車。構内を出る。
「あと一時間半。お茶より、ネ」
「はい!」
八重洲口を出て、日本橋に向かって五分ほど小路を歩く。
「約束より二カ月も早くきてくれたのね。ふつうでない忙しさなのに。これからは気が向いたときだけきてくださいね。どんなに放っておかれても、ぜんぜん怨みませんから。ジョギングして、からだを鍛えて待ってます。神無月さんだけを信じてる。この世でいちばん信じられる人」
「商売はどうなの?」
「よくもなく、悪くもなく。女の子を一人雇ったから、ちょっと上向きかな。来月はカラオケを入れようと思ってる。流行は大事にしないと」
笑うと美しさがひき立つ。
「きれいになったね」
「このごろお客さんにもよく言われます。鏡を見ると、自分でもそう思う。神無月さんのことを考えてるだけなのに、こんなにきれいになっちゃった」
カズちゃんたちと同じことを言う。それでも常套文句に聞こえない。ホテルの建てこんでいる道筋に小さな連れこみ旅館を見つける。鈴を鳴らして戸を入る。勘定場ですぐに支払いをすます。顔の見えない窓口になっているので気詰まりでない。六千円。一階の部屋番号を教えられ、二人廊下を歩いて見つける。
ドアを開けて入ったとたん、アヤは抱きついてディープキスをした。六畳部屋の窓辺に蒲団が敷いてある。ビルに挟まれた建物の室内は暗い。窓からはビルの壁しか見えない。アヤはドアに鍵をかけ、全裸になると蒲団に仰向いて、ごく自然に股を開いた。屈みこみ、太腿を舐め上げ、小陰唇を咬み、大きな包皮を含む。アヤは私の頭を撫ぜる。
「ああ、神無月さん、愛してる、うう、気持ちいい」
顔を離して股間を見つめる。包皮からクリトリスがせり出し、呼吸するように動く。含むと、アヤは陰阜を突き上げて両脚を硬直させる。愛液が飛び出したので、口で覆う。抱きかかえ、愛液を口移しするようにキスをする。
「ああ、好き、好きよ好きよ、死ぬほど好き」
尻を向けさせる。ズボンと下着を脱ぎ捨て、乳房を握り締めながら奥深く挿入する。ひどく熱い。
「んんん、神無月さん、気持ちいい!」
「熱い、アヤのオマンコ」
「ああ、入れてるだけでイッちゃう、イク、イッちゃう、イクイク、イクウ!」
アヤの尻に突き返されながら、乳房を揉み、ひたすら前後に動く。
「いや、気持ちいい! イクイクイク! 神無月さん、愛してるわ、ああ、またイク、イクイクイク、イク! ああ、気持ちいい! イク!」
いつものとおり子宮が降りてきた。アヤの限界が近い。ぶつけたとたんギュッと締まった。たちまち精液が昇ってきた。
「アヤ、イク!」
「いっしょに、いっしょに、ウウ、イクイクイク! だめ、もうだめ、愛してる、愛してる、ううーん、イィックウ!」
きょうも結合部を圧しつけたまま痙攣しつづける。律動する陰茎をすべて包みこむように締めつけるのはアヤだけだ。
「し、死んじゃう、苦しい、あああ、イク!」
上半身を折ったので結合が外れた。アヤはしばらく肘を立て、尻を突き上げたまま強い痙攣を繰り返す。精液が太腿を伝って流れる。尻をさすってやる。膣口が出入りし、小陰唇が閉じたり開いたりしている。全身の痙攣が弱まっていく。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ、天国よ―」
振り向いた顔が妖しいほど美しい。キスをする。
「ありがとう、神無月さん。ごちそうさま。満腹になりました」
仰向けになり、枕もとのティシュを取る。心ゆくまで丁寧に拭き取り、起き上がって私のものを口で清める。
二人、服をつけ、小型冷蔵庫の缶コーヒーを出して飲む。部屋を出て、廊下を戻り勘定場を過ぎて表へ歩み出す。腕を組む。
「最近安心してます。……暴漢に襲われて以来、ピタッと神無月さんに直接危険なことが起こらなくなったし、野球のケガもしないから。悩ましいことはいろいろあるでしょうけど、こらえてくださいね……。お客さんの話題、神無月さんのことが多いんですよ。野球に興味のない人まで神無月さんのことを知ってるの。とても鼻が高いわ。……不思議ね、歌を聴きたいって、ふらりとやってきた美少年が、いまは日本一の―」
目もとを拭う。やはり一連の騒動を気にしていたのだ。私が肩を抱くとアヤは明るく笑い、
「神無月さん、結婚はしないの? 芸能界とか経済界とか引く手あまたでしょう」
「結婚はしない」
「そう……不幸にだけはならないでね。神無月さんにまんいちのことがあったら」
「死ぬんだね」
「そう―。私、神無月さんに遇うまでは、人は年を取ってみんな世の中に適応していくものだって思ってたの。未来より過去の時間が多くなったって思い知るからよ。だから過去を思い出しながら、残り少ないその日暮らしの小さな喜びで満足するしかないって。でも神無月さんは変わらない。そういう人たちの中でいつも最上の未来を求めてる。そういう人たちを救うために……。長い時間が経って、未来が残り少なくなってもきっと同じ。私も神無月さんのように変わらないことにしたの。変わらない神無月さんといっしょに死ぬことにしたの」
私はアヤの手をそっと握り、
「白髪だらけ、皺だらけの顔を見てもらうまで、ちゃんと生きるよ」
「それまで私も生きるわ。あら、十一時二十分よ」
東京駅に着く。
「ホームまで送ります」
「うん」
アヤはきょう二度目の切符を買った。新幹線のホームに昇る。私は手帳を開き、北村席の住所と則武の住所、それから電話番号を書く。ちぎって渡す。
「二つとも名古屋の家。どちらかにいる」
柱の陰でディープキスをしてから、新幹線のグリーン車に乗りこむ。十一時三十三分発新大阪行ひかり。桜色の頬のアヤに手を振る。アヤは一歩二歩走ったが、立ち止まって大きく手を振った。
百三十九
グリーン車には数人の客しかいなかった。みんな同じ方向を向いているので目が合うこともない。デッキにいき車内電話で名古屋に連絡する。昼の食事に帰っていたカズちゃんが出た。この新幹線が一時十四分に着くことを告げる。
「わかりました。午後は少し休憩もらって迎えに出ます」
「騒ぎになるからいい」
「そうね。やっぱりアイリスに出ます。巨人戦、何ごともなくてほんとによかった。さっききちんと松葉会から招待の電話が入ったわ。あしたはお昼を食べずに十二時半に出発しましょう。松葉会さんは食事会のつもりでしょうから、平らげないと失礼に当たるものね」
「うん。新聞記者はうろうろしてない?」
「すっかり姿を消しちゃった。ここに押しかけたって何の情報も得られないってわかったんでしょう。当分静かに暮らせるわよ。おとうさんが言ってたけど、東奥義塾の柳沢というピッチャーが、きのうテスト生でアトムズに入団したんですって」
「え!」
「大学受験をするつもりでプロ志望届を出していなかったから、ドラフトにかからなかったんですって。慶應を二度落ちて、いま二浪目。もともとキョウちゃんと野球をやりたい一心で六大学を受験したんでしょうけど、今年も力及ばず不合格。大学にいるはずのキョウちゃんはプロにいっちゃうし、志望届も出してないからプロの勧誘もこないし、いいかげん焦るわよね。背に腹は代えられない思いで、テスト生でいくことにしたんでしょう。先週アトムズのテストを受けて、もちろん合格」
「評判の悪い巨人は避けたんだね……えらいな」
「浪人生活でからだがなまってるので、出場は来年かららしいわ」
「からだができたら、今年の後半からくると思うよ」
†
一時二十分に北村席に帰り着いた。玄関の左手奥の客部屋から望む庭木立の陰に、臨時に建てた小屋らしきものが見える。景品小屋だろう。玄関に入って靴を脱ぐ。
主人夫婦と菅野は帳場にいて、銀行マンふうの男と歓談していた。私がただいまと言うと、お帰りなさい、と三人で帳場から声を投げた。厨房から、お帰りなさい、とソテツとイネの声が重なって飛んできた。
「寝転んどってください。いまいきます」
私は座敷の長卓に落ち着いた。ゆるくエアコンが利いていて快適だ。月曜日なので天童が厨房の洗い物を手伝っていて、うれしそうにコーヒーを運んできた。
「お帰りなさい。いよいよ公約の八十号ですね。中日球場で」
「うん、ついにね」
二階から千佳子と睦子が早足で降りてきた。
「お帰りなさい!」
二人で両腕にすがりつく。銀行マンを帰した主人と菅野が帳場からやってきた。女将はイネといっしょにトモヨさんの離れへいった。主人が、
「見ましたか。景品置き場、いちおう仮小屋を建てました。電話も引いてあります。いずれガレージの裏手に事務所をきちんと建てますからね。賞状やトロフィーの部屋も作ってね。そこの小屋はあのまま景品のために置いときます」
菅野が、
「ファインホースの看板もちゃんと上げますよ」
ソテツが飛んできて、睦子のそばにチョコンと坐る。千佳子が心配顔で、
「観客がなだれこんで、ケガはなかったですか」
「うん、素早く逃げたから」
睦子が、
「後楽園球場もあんなことがあるんですね」
菅野が、
「後楽園の内野フェンスは腰の高さしかないので、ああいうことが起きてもぜんぜん不思議じゃないんですよ」
主人が、
「四連敗で、ファンもドラゴンズにしか怒りの向けどころがなかったんやろう」
トモヨさんが大きな腹を突き出しながら、女将とイネに腕を借りてにこやかにやってきた。
「お帰りなさい、郷くん」
「大きくなったなあ。もうすぐだね。予定日は?」
「たぶん、八月の初旬です。中旬ということになってますけど、そんな気がするんです」
「あと二カ月か。ひと仕事だね」
睦子と千佳子が同時に、
「楽しみ!」
と言った。主人が、
「金田天皇、二点差を守れませんでしたね。守れないどころか、三点も上乗せして取られちゃって、四百勝は遠いなあ」
私は思わず笑い、
「あと三つですね。今年いっぱいかかるかもしれません」
「そうそう、神無月さん、名大コンビからいい話を聞きましたよ。神無月さんがちっとも引け目を感じる必要がないって話をね。モルモン教徒ですよ」
「は?」
イネと幣原もやってきた。睦子が、
「ユタのモルモン教徒は十九世紀の末まで一夫多妻で、創始者のスミスという人には四十人も妻がいたんです。十四歳の少女もその中に混じってたということです。政府が重婚を禁止したあとも延々とつづいたみたいです。そういう男性がいまも二万人から四万人いるんですって」
千佳子が、
「目的は子孫繁栄だと思うんだけど、きっと人間の性欲に対して教義が大らかなんじゃないかしら。でも重婚が禁止されてるなら、一夫多妻の人たちは世間の目を避けて暮らさなくちゃいけなくなるんじゃない?」
睦子が、
「私たちと似て非なるものね」
「ぜんぜん似てないわ。私たちも神無月さんも世間の目を避けてるわけじゃないし、たとえ知られたって、法的に結婚もしてないし、重婚罪にはならない。ただ常識的な人たちに悪口を言われるだけ。私たちの前で言うわけじゃないから、痛くも痒くもない」
「モルモン教というのは避妊や中絶を許さないから、とんでもない大家族集団になるでしょう。生活は苦しいはずよ」
睦子は少し首をひねって語を継いだ。
「性的な知識がないんじゃないかしら。それとも女がわがままだとか……」
千佳子はうなずき、
「その両方だと思うわ。何もかも私たちとはちがう」
トモヨさんが、
「そりゃそうですよ。それにね、そんなに女の人の数が多いと、男が役立たずになっちゃうことが多くなるんじゃないかしら。そういうのって、少し気の毒。だって、女はいつでもできるのに男はその気にならなきゃできないわけでしょう? おまけに、ふつうの女の人はただ自分が愛されてることを確認するためにちょっと気持ちよくなりたいだけで、自分の快楽を思い切り曝け出すことをしない。それじゃ男もつまらないわ。相手かまわない性欲がよほど昂進しないかぎり、なかなかその気になれないでしょうね。重労働の結果がつまらないんではね。いろいろ考えると、郷くんは理想的な男だし、私たちの関係も理想的なものね」
彼女自身の性欲が昂進していると感じた。女将が、
「トモヨも言うがや。小気味ええわ」
主人が、
「ザッとこんなふうでな。神無月さんは何も気詰まりに思うことはないんですよ。胸を張っとってください」
千佳子が、
「……激しく感じる女ってめったにいないわけでしょう。それって、感じる体質のせいというより、トモヨさんが言った〈自分を思い切り曝け出す〉大胆さがないせいね。大胆に曝け出すことが神無月くんの幸せになってるのよ」
睦子が、
「私たちの幸せにもね」
睦子の隣に坐っているソテツがポカンとし、主人夫婦もトモヨさんも菅野も、イネも優子も、幣原までうれしそうにうなずいた。
「三時ごろですか、直人の迎えは」
菅野がトモヨさんに尋くと、
「四時ごろでいいと思います。すみません、私、ちょっと横になります。朝から少し熱があって」
「だいじょうぶですよ。時間になったら迎えにいってきますから。ご心配なく」
「すみません、よろしくお願いします」
別の種類の熱だろうと思った。軽く交われば落ち着くにちがいない。トモヨさんは女将とイネに腰を支えられて離れにいった。睦子が顔を赤くして、
「あとでいってあげてくださいね」
さすがわかっている。
「うん。その前にひとっ走りしてくる」
菅野が、
「私もいきますよ」
主人が、
「サボらん人やなあ」
男二人ジャージに着替え、運動靴を履く。睦子と千佳子の自転車伴走で、中村日赤まで往復することになった。椿神社前に出る。自転車のスピードで走り出す。
「意外と遠征先ではランニングをする時間も場所もないんです。走るというのは定住した場所で習慣的にやらないとだめですね」
千佳子が、
「見習わないと。私、ちょっと大学サボリ気味だから」
「一年生の前期って、必須の講義が多いから、想像してたより自由は少ないんです」
「そう、そう」
菅野は黙々と走る。私は、
「授業が終わったあとで、大学でやることってないの?」
千佳子が、
「大学院生が主催してるセミナーが週に何回かありますけど、私もムッちゃんも出てません。そこで話が盛り上がって帰宅するのが遅くなるんです。時間の無駄」
菅野が、
「大学って、よく宿題を出すって聞きますが」
昭和通りの見慣れた景色の中を走る。右側は雑貨店、衣料品店、電気店が多く、左側は食べ物屋がずらりと並んでいる。睦子が、
「レポートは土日にまとめてやっちゃいます」
「私も。名大生集団は嫌いです。何かというと他大学と比較して、名大自慢をしはじめるの」
「ほんと。あれどうにかならないかしら。教授の質はいいけど、学生の質は最低。それだけ暮らしやすいですけど」
「付き合わなくてすむから」
「このあいだ、ソフトボールの打球を受けて泣き出した女の子がいて、びっくりしちゃいました。甘えてる。野球のきびしさを知らないんだわ」
みんなで笑った。金時湯を過ぎて環状線に出る。布団屋、判子屋、呉服屋、眼科、大人のおもちゃ屋、モロにもと遊郭ふうの二階家の旅館浅野屋。鵜飼の看板がチラホラ目につきはじめる。自転車を前後にして、しばらく無言で縦走する。毛糸屋、接骨院、モルタル造りの北京料理和華園、これは古い。看板が錆びていて、ほぼ廃屋だ。時計店、畳屋、表具屋、古本屋、目に親しい中島郵便局。ふいに二階建て、三階建ての民家やマンションの連なりになる。退屈な町並を走る。千佳子が先頭の睦子に並びかけ、
「トモヨさんの熱って、性欲よね」
「と思う。熱が出るくらいになるとつらいでしょうね。私たちと同じよ。からだが熱くて仕方ないときがあるでしょう?」
「ええ。でも妊婦って、そんなに性欲があると思わなかった」
菅野がまじめな顔で聞いている。
「中期を過ぎると、したい気分もオーガズムも何倍にもなるんですって」
最初の妊娠のときにもカズちゃんにそんな話を聞かされた覚えがある。菅野がさらにまじめな顔つきで、
「神無月さん、帰ったらすぐしてあげてください」
「うん」
大門近辺に入る。宝石時計店スイス堂、トルコ・ふぁーすと、トルコ・ブラジル、トルコ・インペリアルフクオカ。中村日赤が見えてくる。留めにトルコ・令女。軒並だ。
病院の生垣の前から、少しスピードを上げて引き返す。