百四十六

 私は睦子に、
「きょう授業は?」
「二人ともソフトボール。雨なので、室内講義に切り替わりです。サボります。室内講義って退屈で」
「わかる」
 雨の授業で知り合った辻さんの話をする。千佳子が、
「人って、いろんな情熱の向けどころがあるのね」
「ワシはこれだがや」
 七十九号目の写真をスクラップブックに貼り終えた主人が、満足そうにコーヒーをすする。ホームランとその他の記事を貼り分けて、五、六冊のスクラップブックを作り上げている。ふだんはサイドボードの納戸にしまってある。
「ぼくの行動はそんなに種類がありますか」
「ありますよ。①ホームラン、これはキャンプの紅白戦からぜんぶ。もう二冊目に入っとります。②ファインプレーと好走塁、危険球と乱闘など、バット騒動や暴漢襲撃もこれに入れとります。③練習風景やグランドのさりげないスナップ写真、北村席からのランニングはもちろんこれ。④旅館や日常のスナップ写真。⑤批評。青森高校のスクラップブックは和子が作りましたし、東大のものは私が五冊ほど作りました。寝室に飾ってあります」
 女将が、
「ほんまに、神無月さんヒトスジやわ」
 睦子と千佳子が、
「私たちの作ってるのはもっと大雑把ね」
「ほとんど東奥日報の日曜版」
 すでにジャージに着替えていた菅野が、
「じゃ、ランニングに出ましょうか」
「オーライ」
 二人、合羽を着て雨の庭に走り出す。門前に立つと雨の糸がはっきりわかる。椿神社までひとっ走り。
「さ、いこ!」
 ベンチのかけ声を真似る。空全体に薄い雲がかかっている。名古屋の街も賑やかなのは駅の周辺だけで、駅から少し離れるとすぐに静かな住宅街になる。灰色の空と雨に濡れる瓦屋根。駅西銀座の看板をくぐる。トタン屋根の廃屋が混じる商店街。車椅子の青年に傘を差しながらこちらへやってくる中老の女。
「めずらしい図だ。一瞬のうちに彼らのつらい人生がわかる」
「……神無月さんはいつも、人や家や空を眺めながら走りますね」
「この世に未練のあることを確認するためにね。生きていたい気持ちの確認。これをしないと、毎日に張りがなくなってくる」
「生きていたい気持ち……。サラリーマンが年次総会や忘年会をするのも、そういう意味なんでしょうね」
「それは生活に節目を作って励むためで、この世への未練とはちがう」
「ちがいますか」
「生きていたいというのとはね。でも、思いのままにこういう言葉の探り合いをしているのは楽しいね」
「はあ。言葉の探り合いも、生活の節目の励みじゃなく、この世への未練のほうですか」
「うん、言葉を交わし合って生きたいという未練だね。未練は習慣的な節目じゃなく、ぼんやりした感覚だからね」
「なるほど」
 あまりなるほどでもない調子でうなずき、照れたように笑う。
「たこ焼、らいおん堂、か。食べていこう」
「ほい」
 軒のない店前に立って菅野が注文する。オヤジ一人で切り盛りしている持ち帰り専門店のようだ。先に会計を要求される。菅野にまかせて、一歩後ろに下がる。六個入り二人前で三百円。傘を差した先客が二人いる。彼らが受け取って帰ると、私たちにパックが二つ渡される。店先にいられたらじゃまだという顔をするので、歩きながら食う。
「うまい!」
「うまい!」
 衣が適度に硬く、中が柔らかくて熱い。生地に味があり、タコも大きい。道端の芥箱にパックを放りこみ、走り出す。家、家、家。道がなければ草原と森だった場所。人間の営みを見ることには飽きがきているけれども、草原と森だけの風景も見たくない。人工の道の景色と空を見ることで、未練を引きずる。駅西銀座出口のゲート看板をくぐって環状線へ。雨に濡れたアスファルトの道。飽きてきた。空にも飽きた。突発的な言葉と感覚がなければ命をつなげない。言葉を紡ぎ出す人びとのところへ戻ろう。
「帰りましょう」
「オッケー」
 踵を返してスピードを上げる。野球の言葉でも、学問の言葉でも、容易でも、難解でも何でもいい。言葉がほしい。
「青森では、雪が降りはじめてからよりも、その前の晩秋のほうが寒く感じるんです」
 こんな言葉ではない。菅野の顔から表情が抜ける。唐突すぎる言葉を把握しきれずに当惑している。
「雪が降ってしまうと、あったかいんですってね」
 菅野は当惑したまま言葉を返す。
「積もった雪が滑り落ちやすいように、屋根は裏庭のほうに向かって急傾斜になってるんです」
「はあ、玄関のほうへ落ちたらたいへんですからね。……ふるさとがなつかしいんですね」
 そういう脈絡にとったか。
「はい、なつかしいです。海くさい風、湿った雪のにおい。なつかしさを覚える反面、いざふるさとに降り立つと、どうにも落ち着かないんです」
 とつぜん、頭の奥で光るものがある。頭の奥に眠っていた考えが浮き出てくる―これが言葉というものだ。言葉は突発的に吐き出され、脈絡をつなげるように結び合わされる。私もこの言葉のような突発事に出会い、脈絡をつなぎ結び合わせて生きてきた。
「遠征先のホテルを出るとき、北村席に送り返すために段ボール箱をガムテープで巻いてフロントに出すんです。いつ、どこでどうなったのかわからないけれども、いまぼくはここにいる。ふるさとを遠く離れてここにきてしまったなと感じます。いま走ってるときもそう感じました。そのじつ、ぼくはその遠いふるさとがどこかわからないんです」
 脈絡合わせの言葉だ。何の違和感もなく、こうやって生きてきたのだ。この生き方にだけは飽きないので、生きていられる。常に全力で終止符を打ってきたこの生き方に未練がある。空や海や自然の景色には飽きる。飽きるものには命の未練をつなげない。
 北村席到着。昼めしどき。座敷に人間があふれ、言葉が逆巻いている。カズちゃんの声が聞こえる。玄関に合羽を脱ぎ捨て、菅野と二人で風呂へ直行。脱衣場で競うように服と下着を脱ぎ捨て、前も洗わず湯船に飛びこむ。
「けっこう冷えましたね。この時期の雨は冷たい」
「走っている時間のほうが長かったんだけど、ジャージが防水じゃないから滲みとおっちゃったんだね」
 背中をそっと流してもらう。菅野の背中をゴシゴシ流す。
「お父さん夫婦は五十六歳と六十歳だよね」
「はい」
「名古屋を一歩も出たことがないんだね」
「はい。私もです。四十年間、学徒動員のときでさえ名古屋を出たことがありません。遊山の旅ではもちろんいろいろ出かけましたけど、生活の場所として名古屋に根を生やしてます」
「生活の場所が一定しているというのは、とてもいいことだね。足もとが揺らがない。ぼくは小さいころから転々としてきた。ついに転々とする仕事に就いた。だから落ち着き場所が土地じゃなくて、人間なんだ」
「そういうことなんですね……。相当引越ししたんでしょうね」
「うん。もの心つかないころから、二十年間、引越しの連続だ。熊本田浦町から始まって東京高田馬場、その二つは記憶がない。田浦町はいつか訪ねてみようと思ってる。それから青森野辺地町、青森三沢市、神奈川横浜市、愛知名古屋市。そして環状線に乗るみたいに舞い戻ったり往復したりして、野辺地町、青森市、名古屋市、東京都、名古屋市。でも転々としたおかげで、終生の恋人や友人に遇えた。土地ではなく、人間と終生の契りを結ぶことができた」
「いい話ですね。私もその人間の一人なのがうれしいです」
 風呂を出て、脱衣場に用意してあった有松の浴衣を着る。菅野はジャージのまま。
「ぼくだけ悪いね」
「雨なので、私は一日、送迎仕事ですから」
 座敷へいく。女将が、
「ほう! ええ男や。熱田祭りの花火大会は、毎年六月五日やけど、今年は遠征でいけんかったね。来年はどうやろな」
 主人が、
「あかんやろ。堀川まつりは二日と三日やし、ま、プロ野球選手に祭は縁がにゃあわ」
「ぼくが中学生のころ大瀬子橋で見た花火は、六月五日だったんですか?」
「そうです、一度も日程が変わったことはありませんよ」
「おかしいな、浴衣を着て団扇を持ってた節ちゃんたちと橋のたもとで出会った。真夏の印象しかない」
 六月に浴衣に扇子はない。真夏だ。熱田祭ではなく、ただの花火大会だったのかもしれない。いや〈熱田祭〉と確実に聞いた覚えがある。まちがいなく暑い夏だった。菅野が、
「中部地方でいちばん早く打ち上げられる花火大会です。大瀬子橋は見物の名所です。そこから見たんですね」
「うん、おふくろに連れ出されてね。おふくろと節ちゃんがにらみ合って……悲しい思い出だ。人混みで自分の腕がおふくろの腕に触れたイヤな感触を忘れられない。たしかに真夏だった」
「六月に入ると三十度近くになる日がつづくので、真夏だと勘ちがいしたんですね」
 カズちゃんが、
「お母さんはあのころ、たしか四十ぐらいじゃなかった?」
「二十六のときの子だから、そうだね」
「文江さんや百江さんより十も年下よ。それなのに気持ち悪かったのね」
「うん。名古屋にきて以来、萎んだ感じの人になったし、人間としても嫌ってたから、皮膚がカサついてへんに生温かい爬虫類のように感じた。小学校四年生までは、と言うより名古屋の飯場に入るまでは、いっしょにベッドで寝ていても嫌悪感はなかったんだけど、いつのころからかまったく受けつけなくなった。顔が嫌いになったときだ」
 睦子が、
「顔を嫌われたら、おしまいですね。老化とは関係ないものですから」
「神無月くんの嫌いな顔って?……」
 千佳子が自分を見てくれというように私の目を見つめるので、
「根拠のないプライドに満ちた顔」
 菅野が、
「根拠があっても、神無月さんはプライドが大嫌いです。自分を捨てた人しか好きになりません」
 チーズをたっぷりかけたナスとひき肉のグラタンが、食卓に並べられた。それとスパゲティボンゴレ。キッコが菅野に、
「自分を捨てるってどういうことなん?」
「自分以外の人間を愛するとか、犠牲になるとか」
 私は、
「自分より他人のほうに価値があると信じること。差別なく」
「……難しいですね」
「難しくない。自分をいとしんでいなければ、自然とそうなる。おふくろは、義務的な労働の合間は休み、それが終わると寝るだけで、生活の寸暇を使って他人のために何かをすることはしなかった。翌日も労働するだけで、ぼくに弁当を作ることさえしなかった」
 しゃべっているうちに、思いがけなく怒りで心が黒く染まった。
「労働って、他人のためやないの?」
 カズちゃんが微笑して、
「自分のための社会的体裁と、自分のための貯蓄ね。他人のための労働というのは、家族のために身を売ってきた北村の女の人たちの年季奉公とか、ボランティア活動のような慈善労働ね。社会的な体裁は整わないし、貯蓄が目的でもないわ」
「自分を捨てられない人間は、人のためには何もしない。そうして自分のために簡単な作業を積み重ねるんだ。カズちゃんの言った貯蓄などもその一つ。そして単純作業の成果を他人と比較したがる。他人と比較してプライドを持ったり、失ったりする。自分を捨てる人には他人のために生きるという根拠のある信念があるけど、プライドや自尊心はない。プライドや自尊心は、自分だけを愛する人間特有のものだ」
 フォークにスパゲティを巻きつけた。トモヨさんとイネと賄いたちが、おさんどんを終えて食卓についた。


         百四十七 

 トモヨさんが、
「キョウくん、怒っちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、おふくろを思い出して、ついね」
 主人が、
「ワシも、思い出しただけで腹が立ってきますよ。江藤さんが爆発しそうになっとったなあ」
 カズちゃんがフフと笑う。トルコ嬢の一人があごを動かしながら、
「神無月さんは、私たちと考え方が根っからちがうね。私、自分を捨ててないことがはっきりわかった。自分のためばかりに生きてきたから」
「意識して捨てるものじゃない。気質の問題だよ。気にしないほうがいい」
 天童が、
「私も、ついこないだまでそうだったのよ。いまは自分を捨ててる。意識してじゃなく、気づいたらそうなってた。神無月さんを喜ばせるためにそうなった自分がうれしい」
 睦子もうなずきながらグラタンにフォークを使う。カズちゃんが、
「自分の口を養う労働ぐらい簡単なものはないわ。そしてその簡単なものを人のためにやってると勘ちがいしてる人がほとんどね。もっと進んで余計なことをしなくちゃ。余計なことしか、人のためにならないんだから」
 主人がトモヨさんを見て、
「余計なことのかたまりがここにおるがや。妊婦は自分を捨てて子供を産むために生きるしかあれせん」
 女将が、
「トモヨ、ほんとにいいかげんにしなさいよ。フウフウ言っとるやないか。朝はもっと寝とき。夜も早く寝んとあかん。一日じゅう台所に立ちすぎや」
「お義母さんは、出産前、どのくらい動きました?」
「臨月は、ほとんど動かんやったよ」
「私も直人のときはそうしました。でもお医者さんに、臨月になっても、階段の昇り降りや、軽いスクワット、散歩や体操、家事などは、具合が悪くないかぎり進んでやるようにと言われました。きちんとしたスポーツはだめだそうですけど」
「とにかく、長く立たんとき」
 菅野が、
「お嬢さん、アイリス、毎日満員でたいへんでしょう。椙山か名大のあたりに支店を出すことを考えたらどうですかね。店員は学生のバイトを雇えばいいし」
「これ以上手は拡げないの。欲張らないことが商売の基本よ。喫茶店一つ、食堂一つまで。学生街って案外昼間は人が少ないのよ。夜は寝静まっちゃうし」
「はあ―」
「八月にアヤメを出したら、計画はぜんぶ終わり」
 素子、メイ子、百江が帰ってきた。
「お疲れさま。さ、交代」
 カズちゃんたちが颯爽と立ち上がった。
 肘枕で寝転がり、ガラス障子を透して、庭のアジサイに降りかかる雨を眺める。素子たちの箸の音が聞こえる。ひんやりとした畳の感触が心地よい。そばに睦子と千佳子が横坐りでいる。脈絡もなく、囲炉裏や柱時計のある野辺地の板張りの居間を思い出す。ばっちゃや善夫や義一と寝起きした八畳も思い出す。窓ガラスのヒビに桜形の切り紙が貼ってあり、梁天井は黒ずんでいた。―四歳。
 合船場にはじっちゃがベッドで寝起きする仏間と、善司の勉強部屋はあったが、ばっちゃと子供の寝部屋というものはなかった。ばっちゃと子供たちは納戸のような部屋に寝ていた。善司が長じて家を出ると、善夫が勉強部屋で寝た。
 じっちゃをえらいと思ったこともなければ、ばっちゃを気の毒だと感じたこともなかった。私はそういう環境の中でぼんやりと周囲を眺めているきりで、だれとも争わず、心もかよわせなかった。私は仲間たちとの強い連帯のようなものから外れていた。あのころからだ、大勢の中で自分一個の感情を静かに守り、他に主張をぶつけず、協調も競い合いもしなくなったのは。
 素子が、
「アイスコーヒーに向いてる豆は何やろね。いまのところブラジル一本やから、芸がないわ」
 メイ子が、
「専用の豆というのはないんじゃないかしら」
 メイ子の声を聞いて、六月十九日の誕生日に彼女にプレゼントしようとしていたことを思い出した。あしただ。
「冷たいほうが酸味を強く感じるやろ。酸っぱ味の強い豆はあかんわ。苦味がある深煎りか、甘みのある中煎りでないと」
「苦味のある深煎りはマンデリンでしょ? 甘みのある中煎りはコロンビア、ブラジル」
「それでいこ。注文を受けるときに苦味と甘みを説明するようにしよ。ピーチやマスカットみたいな甘みのあるイルガチェフェゆうエチオピアの豆もあるやろ」
「舌噛みそう。それも説明につけ加えましょ」
 菅野がトルコ嬢たちに声をかける。
「午後出の人、出かけますよ」
「はーい」
 立ち上がった女たちの中に、木村しずかや近記れんや、このあいだ顔を覚えたばかりの三上という女が混じっている。私は千佳子に、
「最近、早出の人たち、お昼に帰らないの?」
「帰ってくる人はめったにいません。寮の食堂で食べて、もう一仕事したい人はして、三時ごろに帰るみたいです。一時から三時まで、家の中がとても静かになるの。このごろ直ちゃんのお迎えは三時過ぎ。私がいくこともあるわ」
「睦子のお母さん、元気でいる?」
「はい。弟に電話したら、毎日おとうさんといっしょに張り切って仕事してるって言ってました。おとうさんはいつも弟やおかあさんに、スーパーマンにかわいがってもらえる睦子は幸せだ、並の男にかわいがられたってつまらない、ほんとにラッキーだったって、しみじみ言うんですって。なんだか複雑な気持ち」
 睦子の母親はあの夜のことについては固く秘密を守っているようだ。千佳子が、
「素直に喜べばいいのよ。将来ぜったい結婚を押しつけられないわ。お母さんはお父さんと同じ気持ちなの?」
「それ以上。先々月ここから帰るとき、二度と現れない人だから一生離れちゃいけないって言ってた。ときどき様子を見にきたいけど、青森から名古屋は遠いので、やっぱり一年に一回遊びにくるのは無理かもって」
「当然だよ。睦子が里帰りしてあげればじゅうぶんだ」
「うちなんか、まだ一回もきてないわ。私が神無月くんの女だって、まだハッキリとは知らないし」
「そんなくだらないこと言わなくていいよ。親子の絆って、そういうものだ。秘密を持ってなくちゃいけないんだ。あけすけな睦子やカズちゃんたちは特異体質。人間のスケールが大きく生まれたんだ。ふつうの家庭にスケールなんか要らない。そんなもの持ちこんだら、めちゃくちゃになる。家庭の規模は最初にでき上がったときから決まってる。それ相応に仲のいい親子でいればいい。人間、〈あえて〉なんてことはしなくていいんだ」
 千佳子が私の腕に抱きつき、
「私、幸せ!」
 親に引き戻されるまでの幸せだろうと思った。四年後、五年後、いずれ私は彼女を静かな目で見送ることになる。それまでは固く抱いてやろう。睦子も私の背中をひしと抱いてきた。彼女には強い愛情と使命感を覚えた。
 雨が上がった。庭に出て三種の神器。神器というのはおかしいな、とふと思う。名前を変えようか。三種の身鍛。ジンタンみたいでますますおかしい。神器でいいやと思い直す。
 一升瓶、左右二十回ずつ。素振り、二十本掛ける九。片手素振り左右三十本ずつ。きょうは少し多めに。汗に汗が重なる。座敷の喧騒を聞きながら二度目のシャワーを浴びにいく。これでも二百四十本しかバットを振っていない。千本振るというのは、からだの破壊行為だ。
「いいにおいだ!」
 卓につく。いそいそとイネが大盛りカレーを持ってくる。掬って口に放りこむ。辛くて深い味だ。
「うまーい!」
 たちまち平らげる。お替わり。
「二時二十分ぐらいに出ますか」
「いや、一時過ぎに。きょうはたぶん江夏なので、特打ちをしておきたいんです。ちょっと昇竜館に電話します」
 スプーンを途中に玄関へいき、江藤に電話する。
「よう、あしたの順延、知っとうと?」
「はい」
「ええ骨休めになるやろ。きょうは江夏やな。十五日の広島戦に二回三分の二を投げて負け投手になってから中二日」
「何勝何敗ですか」
「四勝三敗。じっくり静養したはずやけん、ビシビシくるぞ」
「はい、それで、一時半ぐらいから特打ちしようと思って。松本忍投手を借りられませんか」
「松本? ああ、二軍のサウスポーやな。大幸球場やないか? ちょっと大幸球場に問い合わせてみるわ。折り返し電話するから待っとって」
 五分もしないで電話が鳴った。
「本多さんが快く承知した。松本と星野秀孝を差し向けるから、思う存分打ちこんでくれちゅうことやった。ワシも出る。松本はカーブピッチャー。星野は速球が切れるし、シュートもパームも投げる」
「ありがとうございました。じゃ、一時四十分に」
「おう」
 星野秀孝とついに対面する。たしか去年入団で、江島、若生と同期だ。一軍で使われないのはコントロールが悪いからだと聞いている。菅野が、
「特打ちですか。きょうにも八十号という人が? 天才が練習好きだと、向かうところ敵なしになりますね。球場に着くのが一時半か。ふつうの練習時間より一時間半も早く出るんですね」
「うん。三時から四時までがホームのバッティング練習時間、四時から五時までがビジターのバッティング練習時間。五時から五時半まで、両チーム十五分ずつの守備練習時間。六時試合開始」
「きょうは六時ですか」
「うん。細かくずれこんできても、六時半試合開始。練習交代の時間取りと、守備練習の時間がまちまちだからそうなる。守備練習はだいたいビジターのバッティング練習のあと十五分ずつなんだけど、ごくごくまれに、それぞれのバッティング練習のあとすぐつづけて十五分のこともある。ケージをいったん引っこめてね。ところでお父さん、来月からの送迎が新しい運転手さんになるというのは?」
 主人が、
「松葉さんが手配してくれた人で、ふだんは羽衣か鯱に詰めとります。神無月さんも見知った人やと思いますよ。本人がそのようなこと言っとりましたから。中日球場で試合があるときは、これまでどおり菅ちゃんが神無月さんを送り迎えします。松葉さんは、晴雨に関わらず、ハイエースで店の女の子を送迎する役回りです。所帯が大きくなったので、そうすることにしたんですわ。北村や寮に住んどらん子で、近くから直接大門まで歩いてこれたり、遠くても市電でこれたりする子はええんですが、中途半端なところに住んどって、歩くと三十分ぐらいかかる子が二十人ばかりおるんです。北村の女たちは、雨で神無月さんが試合中止のときだけ、菅ちゃんがやります。結局、大まかなところはいままでと変わらんのです。菅ちゃんとワシが忙しいときは、その新人が神無月さんを球場へ送って、試合終了時間に迎えにいきます。気のいい男ですから気兼ねは要りません。土曜日からクラウンは新車になりますから、乗り心地いいですよ。もう一台は紺のマークⅡで、和子の車です。古いクラウンは下取りしてもらいました」
「カズちゃんもクラウンにするんじゃなかったんですか」
「マークⅡのほうがええ言い出して」
「赤のボルボは?」
「とっくにディーラーに買い取ってもらいました」
「女の子の送迎の運転手が増えたということですね。菅野さんとそっくり入れ替わるものだと思ってた」
 菅野が、
「すみません、オーバーに言っちゃって。女の子の送迎のためと、社長と私が都合よく寄り合いなんかに出られるように手配したんです。ご心配かけました」
 カズちゃんが、
「菅野さんはキョウちゃんから離れられないわよ」
「はい、そのとおりです。神無月郷の運転手はやめません」


         百四十八

 ごちそうさまを言い、ステージ部屋でトモヨさんの用意したユニフォームに着替える。尻ポケットにお守り。
 江夏にバットを二本ぐらい折られそうな気がする。球場のほうにまだ二十本ほどあるので、予備バットはオーケー。ダッフルに替えのアンダーシャツ二枚。三回と六回に着替えるつもりでいつもアンダーシャツを持っていくが、着替えたことはない。グローブ、タオル、スパイクも詰める。
「カズちゃん、袖なしのアンダーシャツ、どう思う?」
「セクシーでいいわよ」
「じゃ、しばらくこれでいくかな。……どうも美しくないような気がして」
「もとが美しいんだから、どうやっても美しいわよ」
 菅野が、
「テレビに映ったとき、腕が白く輝いてました。まちがいなく美しいですよ」
「きょうから江藤さんも袖なしでくるんだ。三、四番コンビが袖なし」
「太田さんと菱川さんも、きっと袖なしですよ。ピッチャー、キャッチャーは、まず剥き出しはないでしょうね。それから高木さんや一枝さんも。一、三塁と右翼左翼」
「シンメトリカルということか」
「ワシは巨人戦を観にいきますから、きょうはテレビです。がんばってください」
「はい、いってきます」
 菅野にハイエースで中日球場まで送ってもらう。菅野はいったん帰宅。
 正面ゲートから回廊を通ってロッカールームに入る。江藤が大鏡の前でフォームをチェックしている。やはりノースリーブだった。鏡の中から微笑で挨拶する。長谷川コーチと二人の投手がいる。
「よろしくお願いします!」
 松本忍と星野秀孝が頭を下げる。私も礼を返す。長谷川二軍コーチが、
「好きなように命令してやって。素直に聞くから」
「わかりました。よろしくお願いします。実戦だと思って投げてください。シュートの多投をお願いします。二十本ホームランを打った時点で一応休憩にします。長谷川コーチ、外野の球拾いをお願いします」
「俺に頼まんでもだいじょうぶのようだぞ。ぞろぞろきたぜ」
 高木はじめレギュラー陣がロッカールームに入ってきた。葛城までいる。一枝が、
「さあ、球拾いをやらせてもらうか」
「江藤さん、連絡したんですか」
「菱川に言っただけや。ワシはホームラン三十本で休憩にするばい。そのあとで、選手食堂でみんなにラーメンでもチャーシューメンでもおごったる」
 雨天シートは取り外されている。球場係員の手でピッチングネット一つ、バッティングケージ一脚が用意される。木俣がキャッチャーに坐った。その木俣に、
「まず十本ずついきましょう」
「オッケー」
 コーチ陣がケージ裏に集まる。背番号35の星野は、シュート七球、カーブ三球放ってきた。目を瞠るスピードだ。百四十七、八キロ出ている。しかも切れる。かろうじてシュートを二本ライトスタンドへ、カーブを二本レフトスタンドに打ちこむ。六本ミートし損ねの凡打、内野フライ三本、外野フライ三本。太田や菱川や千原が球拾いに外野を走り回る。
「いいボールだなあ! なかなか芯を食わない」
 江藤に十球。同じように四本放りこむ。二本内野ゴロ、二本外野フライ。浮き上がるストレートを二球空振りした。
「星野、よかボールばい!」
 長谷川コーチが、
「秀孝、やるな!」
 ヒョロリとしたからだを折ってお辞儀をする。百八十センチくらいか。体重は七十キロそこそこだろう。投げ下ろすときに腕が鞭のようにしなる。
 松本に交代。全力で、と江藤が要求する。彼が打っているあいだ、田宮コーチに訊く。
「何者ですか」
「おととしのドラ八。群馬の高校で軟式のピッチャーをやってた。巡回スカウトの田村くんがキャッチボールしただけで気に入り、杉下さんに紹介して大幸球場で入団テストを受けさせた。合格して、そのままドラ八。杉下さんの推薦を受けたからだよ。本多さんが二軍でハードに鍛えだした。去年、春のキャンプで慎ちゃんに評価されて、かなり自信をつけた。ノーコンのままなので、なかなか上に推薦できなかったが、今年水原監督にも視察の際に球威の確認をとってもらって、オーケーが出た。何カ月か一軍入りのチャンスを窺ってたところだ。いまの金太郎さんの言葉が太鼓判になった。もう一軍に上げる。松本は十五歳で長崎県から育成選手として名古屋にやってきて七年経つ。気の毒だが、いまの力では彼に未来はない」
「育成って何ですか」
「練習生として囲いこむことだよ。秀孝は育成じゃない」
 江藤と交代してケージに入る。松本のシュートがほとんど曲がらない。カーブは大きく落ちる。ライトへ二本、レフトへ二本放りこんだ。三本外角を要求し、屁っぴり腰でサードライナーを打つ。
「シュートとストレートを交互に、全力で!」
 すべてストレートと思って振ってみる。ライト場外へ二本、ライトスタンドへ二本、バックスクリーン一本、右中間ヒット二本。
「お化けェ!」
 長谷川コーチが叫ぶ。星野秀孝に交代してもらって、バッターボックスに立たず、江藤といっしょにしばらくケージの後ろに出る。レギュラーたちも集まってきた。
「球筋を見たいのでストレートだけ投げてください。コントロール無視で」
 五球見守る。速い、ホップする。木俣が、ヨッシャァ! と声を上げる。
「すげー」
 太田と菱川が嘆息した。江藤が打席に入る。つづけて二本空振りしたあと、センターへ一本打ちこむ。三本で終了。
「十一本か。これでやめとくわ。秀、おまえ高橋一三に負けとらんで」
 江藤に代わってケージに入る。ホームプレート前のふつうの位置で振って、二本つづけて下を叩きすぎてライトフライ。ボックスの前方に出て振って、ライトスタンド上段へ四本放りこみ、場外へ一本叩き出した。残り三球外角の高速カーブを要求し、屁っぴり腰で二本レフトフライ、一本レフトスタンドへ放りこんだ。
「十九本。ぼくもこれでやめときます」
 太田コーチが、
「痛めつけてくれたねェ」
「星野のボールは生きてましたよ。ストレートも変化球もホンモノです」
 長谷川コーチがあごをさする。
「ふうん、あさってから一軍に上げてみるか」
 田宮コーチと同意見だ。江藤もうれしそうにうなずいている。宇野ヘッドコーチが、
「あと五十球くらい投げさせたいから、レギュラーメンバーにも打ってもらおう」
 松本に交代。無表情だ。あきらめているのだ。菱川が打席に立つ。シュートを投げようとして曲がらないストレートを二本ホームランにする。場外と看板。菱川はサッサとベンチに引き揚げる。太田は十球のうちきっちり六本をレフトスタンドへ。相変わらず松本は無表情だ。痛々しい。しかし、彼もこれでプロを去るフンギリがついただろう。生き延びる道はバッティングピッチャーしかない。江藤は二人のピッチャーに、
「ラーメンいくぞ!」
 二人表情を崩して走ってくる。レギュラーたちは外野で柔軟をやっている。
「長谷川さんもいこう」
「ああ」
 選手食堂のカウンターで私は、
「星野さんは十九歳ですか」
「はい」
 長谷川コーチが松本に気を差すふうに、
「星野はいいストレート持ってるから、かなり将来性はあると思う。松本も昭和三十八年に十五歳で育成に入って、四年目から一軍で投げたんだが、去年までに四勝七敗。もう二十二だ。よほどがんばらないとな。全体的に鍛え直すしかないが、もう一味必要だ」
 松本忍は食堂の椅子に縮こまり、江藤と肩並べて神妙にラーメンをすすった。私は北村席でカレーを食ったばかりだったので、餃子一皿ですませた。長谷川コーチも倣った。江藤がラーメンの箸を止め、
「松本、おまえ、本気でやっとらんやろ。球が死んどる。ワシも金太郎さんも、全力で投げてくれ言うたやなかか。打たせんように投げろちゅうこったい。星野は一生懸命投げとった。金太郎さんに打たれたのは仕方なか。天馬にはまだまだ通用せんゆうことやけん。おまえはワシらにホームランば打たせようとして投げとった。俺はおまえにわからしぇようとして、最初は五本内野ゴロば打ったとよ。気づかんかったやろ。ワシらは調整にきたんとちがうんぞ。江夏対策できたんやぞ。おまえ、曲がりなりにも一軍で四勝した男やろ。しっかりせんかい」
 胸番号44に懇々と言い聞かせる。励ますのは有能な人間だ。無能な人間だけが教えようとする。最も有能な教育者は自分自身だ。幸いドラゴンズには教えようとする人間がいない。励ますだけだ。
「軟式からきた星野よりも球が伸びんでどうする。金太郎さんのご指名のおまえについてきた星野が、お墨付きばもろうて、あさってから一軍ばい。―おまえも死にもの狂いでやれや」
「はい……」
 胸番号35はわれ関せず焉(えん)と麺をすすっている。素直なボールを投げてもらったから打てたが、ストレートが外角をクロスして伸びたらかなり手こずるピッチャーだ。しっかり胸を張って投げ下ろす速球のスピードは、まちがいなく江夏よりある。この男は巨人に移籍した浜野百三が足もとにも及ばない活躍をすると確信した。
 グランドにベンチ入りの全員が現れる。水原監督、コーチ連、トレーナーもグランドに入る。カメラマンや記者たちが入り乱れる。ストロボの明滅に目をつぶされる。バッティング練習が始まる。星野と松本が三十球ずつ投げたあと、背高痩せっぽちの外山博と、今年ドラ二の水谷則博が投げる。どちらもバッティングピッチャーのテスト試用だ。ケージに長谷川コーチがつく。先日、水原監督の口から外山という名前は出なかった。太田のパンフレットに外山は右の本格派と書いてあるが、肝心のストレートが走らないので、変化球ばかり要求されている。名電工出身の三年目で、これまで登板なし。今年が瀬戸際だろう。瀬戸際の選手が多い。今年だけ多いのではなく、プロ球団は常にこうなのだろう。則博のボールは速いが、少しお辞儀をする。何度か登板の機会はあるだろうが、当分二軍暮らしにちがいない。同期だけになんとかモノになってほしい気がする。
 五人ほどの外野手に混じって球拾いをする。彼らも次々とケージに入る。私はもうきょうは打たない。星野秀孝がフェンス沿いに黙々と走っている。並びかけると、恥ずかしそうに首で挨拶した。背は私より少し低いくらい。痩せている。あと五キロほしい。軟式出身と聞いたが、あのボールの走りはがんらい手首が強靭な証拠だ。
「がんばってくださいね。あなたならふつうに活躍できるから」
「ありがとうございます。がんばります」
 ベンチに戻って、太田に訊く。
「軟式やってて、そのままプロにきた選手知ってる?」
 彼はロッカールームに戻って、厚めの資料本を持ってきた。
「えーと、まず、昭和二十五年から三十三年まで巨人にいた大友工(たくみ)、サイドスローの速球ピッチャー、百三十勝五十七敗、三十勝一回、二十勝二回、ノーヒットノーラン一回、七者連続三振、金田よりも速いボールを投げたと書いてあります。あとは、おととしまで東映で投げてた土橋正幸、ごぞんじ大エースです。それと、うちの星野秀孝。その三人です」
「砂の中からダイヤモンド発見だね。大エースになるぞ」
「長谷川コーチに聞きました。あさってからの予定を繰り上げて、きょうから一軍に入るそうです。神無月さんにいいボールを投げたということですけど―ほんとですか」
「うん、江夏よりスピードがある」
「ええ!」
「コントロールも悪くなかった。球種を決めて投げてもらったから打てたけど、そうじゃなかったら三割も打てないだろうな。彼と土屋紘(ひろし)さんが加わったことで、優勝は確実になった」
 小野がブルペンで投げはじめる。吉沢が受けている。プロ野球選手になって初めて悲哀を感じたのは、一軍帯同のブルペンキャッチャーとバッティングピッチャーという存在にふと注目したときだった。しかし大勢の控え選手を見ているうちに、それにもすっかり慣れた。
 葛城と伊藤竜の当たりがするどい。水原監督と田宮コーチがじっと見ている。きょうは彼らが先発だ。太田と一枝は控え。小野は肩慣らし程度ですぐ上がった。




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