百四十九

 四時。阪神チームがバッティング練習に入る。藤田の柔らかすぎるバットさばきや、田淵のふんぞり返り打法に目を凝らしているうちに、餃子しか食っていなかった腹がへってきた。菱川と太田を誘い、選手食堂へいって五目そばを食う。彼らはラーメン。シンプルなラーメンも悪くないが、五目そばのほうが食っていて楽しい。醤油ラーメンの上に、キャベツ、白菜、もやし、椎茸、タケノコ、ピーマン、人参、豚肉、エビ、イカが混ざり合って載っている。片栗粉でとじたとろみと、ほんの少し入っているゴマ油がうれしい。食っているうちに麺が伸びてくる。それも楽しい。最後のツユまで飲んだ。これで三百五十円は安い。ツケ。給料から天引き。やはり袖なしアンダーシャツでやってきた太田が、
「飯田南海が十四勝十五敗のあと、一勝して五分の星に戻し、それから十一連敗です。二十連敗するだろうと言われてます。うちと比べて天国と地獄です」
「去年までの南海って、強かったんだよね」
「はい。昭和二十一年に、弱冠三十歳の鶴岡さんが監督になってから、二十三年間、Bクラスだったのはたった二回、リーグ優勝十一回、準優勝九回、日本シリーズ優勝二回。とんでもなく強いチームでした」
「野村のおかげ?」
「野村は昭和二十九年からです。ホームランを打ち出したのは三十一年からですから、野村以前の十年間もめちゃくちゃ強かったわけです」
「どうして鶴岡さんは辞めちゃったの。まだ五十そこそこだったんでしょ?」
「いつまでも同じ人間が監督してたら、球団の発展は望めないって、記者会見で発表したんです」
「馬鹿げてる。それ以上のどんな発展を望んだわけ? 水原監督は六十歳だよ。まだまだ監督をする体力がある。鶴岡さんは気力がなくなったか、引き留められるほど好かれていなかったか、仲の悪い人間がいたかだね」
 ベンチに戻ると、スタンドが超満員になっている。カメラマンたちの姿はなく、阪神のブルペンに江夏が出てキャッチボールを始める。
 五時。中日の守備練習。外野が先だ。左中間に寄って田宮コーチのノックを待つ。強い当たりは、わざとクッションボールにしてサードへノーバウンドで返球する。左中間のフライを二塁へノーバウンドで、クッションボールは三塁へノーバウンドで、ゆるいゴロはホームへ低くワンバウンドで。それだけやって上がる。汗はかいていない。
 阪神が守備練習に入った。江夏が三塁側のブルペンで、依然として軽い投球練習をしている。まじめにからだを低く沈め、きちんと手首を利かせて投げている。
 ―山田三樹夫!
 不意に彼の笑顔が浮かんだ。何かに没入が始まると、どこからともなく彼の笑顔がやってくる。彼の命の有りようは美そのものだった。思想そのものだったと言っていい。彼のような完結体の人間に、どんな行動が必要だったろう。勉強とか、学級委員とか、スキー大会とか、進学とか、そんなものは要らなかった。心の埋め草とか、隠れ家とか、そんなものも必要なかった。ただ死の一瞬前まで、魂だけの人として、静かにあの部屋に横たわっていればよかった。
 ―山田くん、ぼくは行動しなければ生きられない。きみのように魂だけになり切れないんだ。ありきたりの人間なんだよ。だからこうやって生きるしかない。でも、きみの透き通った笑顔を忘れたことはないよ。いつも微笑みながら、そうやって空の高みから見ていてね。きみの笑顔を思い出すとき、ぼくは自分をつまらない存在に感じ、だからこそ懸命に生きていかなくちゃって思うんだ。山田くん、いつまでも十六歳の山田くん! ぼくのことを忘れず見守っていてね。
「阪神タイガースの練習時間終了でございます」
 トンボが入り、白線が引き直される。
「本日は中日スタジアムにご来場くださいまして、まことにありがとうございます。間もなく中日ドラゴンズ対阪神タイガース第八回戦を開始いたします」 
 下通のしっとりとした、息継ぎのリズムのいい低い声が流れ出す。バックネット前でメンバー表の交換が行なわれる。両軍全員がベンチに収まった。スタンドで物売りの声がかしましくなる。六月中旬の日は長く、球場全体がまだ明るんでいる。眼鏡をかけ、スコアボードの旗を見やる。無風。セイコーの時計が五時五十分を指している。少し紫立った水色の空が背景にある。
「両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻阪神タイガース、一番、ショート藤田、ショート藤田、背番号6、二番、レフト山尾、レフト山尾、背番号21、三番、センター辻佳紀(よしのり)、センター辻佳紀、背番号29」
 一枝が、
「ヒゲ辻は明大で俺と同期だ。言ったっけ?」
「忘れました」
「四番、ライトカークランド、ライトカークランド、背番号31、五番、キャッチャー辻恭彦(やすひこ)、キャッチャー辻恭彦、背番号20、六番、ファースト和田、ファースト和田、背番号12、七番、セカンド吉田、セカンド吉田、背番号23、八番、サード大倉、サード大倉、背番号1、九番、ピッチャー江夏、ピッチャー江夏、背番号28」
 ここにきてようやく、ウオー! という喚声。
「つづいて、中日ドラゴンズのスターティングメンバーをお知らせいたします。一番、センター中、センター中、背番号3」
 最初からドッと喚声が上がる。ベンチに微笑みが拡がる。水原監督が、
「怖い喚声だ。期待に添えなかったことを考えるとね」
 ベンチの微笑みが収まる。
「二番、セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番、ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番、レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
 連続していた歓声がドンとまとまる。
「五番、キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番、ライト菱川、ライト菱川、背番号10、七番、サード葛城、サード葛城、背番号5、八番、ショート伊藤竜彦、ショート伊藤竜彦、背番号7、九番、ピッチャー小野、ピッチャー小野、背番号18。審判は、プレートアンパイア福井、塁審は一塁手沢、二塁竹元、三塁千葉、外審はライト谷村、レフト井上、以上でございます」
 谷村と聞いて板東を思い出した。谷村友一。徳島商対魚津高校の三塁塁審。もっぱら関西で審判をしている。同志社大学卒業後、関西六大学と高校野球の審判を務めた。本職は三菱商事社員。二足のワラジを履きこなしている。いつかスポーツ新聞の審判特集のときだったか、彼が寄稿していた言葉を憶えている。

 ぼくは野球を愛しています。プロの世界で生きていくには、野球を愛することが必要です。

 板東はどうしているだろう。ラジオやテレビに出ているという話は聞こえてこない。
 小野がマウンドに上がる。ヒョロリとした長身。手首を背中まで大きく引き、グローブを高く掲げ、長い左腕が肩を中心にクルリと回る。鞭のようにしなって振り下ろされるというのとは少しちがう。真っ向上段、刀剣の弧の軌跡だ。いつもよりも制球がいい。ストレートが走り、大きなカーブがクンと切れる。
 昭和三十五年に三十三勝を挙げ、最多勝利、最優秀防御率、最高勝率、最多完封勝利の四冠を取った男。百勝ピッチャーになってから八年、去年までに六十四勝を挙げ、今年すでに八勝して負けなし。来年中に二百勝を達成するだろう。衰えたりとは言え、相変わらずフロントやチームメイトから篤い信頼を受けている。
 ライトの菱川がスタンドに向かってユニフォームの腕をからげ、腋毛を見せて笑いを買っている。菅野の言ったとおり、袖なしアンダーシャツだった。
 プレイボール。中日戦でしこたまヒットを稼ぐ藤田平がバッターボックスに入った。三塁側スタンドの鉦太鼓がうるさくなる。黄色と黒の応援旗が揺れる。
 藤田初球の外角カーブを見逃し、二球目内角低目のストレートをライト前ヒット。彼は一打席目にかならずヒットを打つ。
 二番山尾。大きい。ピッチャー上がりの七年目。低打率。強肩俊足。故障の多い藤井の代役だ。どういうバッティングをするか忘れた。初球を打って、私への平凡なフライ。
 三番辻佳紀。ヤクザっぽい顔、おおげさなヒゲ。低打率、ホームラン七、八本。ツーツーから三振。
 四番カークランド。去年阪神に助っ人にきたガタイの大きな黒人。全試合出場して、打率二割四分七厘、ホームラン三十七本、三振百四。ホームランか三振かのバッター。サンフランシスコ・ジャイアンツでマッコビーとクリーンアップを打った男と聞いたが、まったく憶えていない。カーブ、ドロップ、ストレート、三球三振。チェンジ。田宮コーチの檄。
「さー、打ってこ、ぶちかましてこ!」
 水原監督が尻ポケットに手を入れた格好で、レフトスタンドを遠く見やりながらコーチャーズボックスへ歩いていく。バックネットの定席を見ると、菅野と女二人が座っている。アイリスの広野と茂木だ。彼女たちは目いっぱいめかしこんでいた。
「一番、センター中、背番号3」
 中がヘルメットをかぶり、バットを提げて、直接ベンチから目の前のバッターボックスへ歩いていく。高木がネクストバッターズサークルに入る。中ァ、中ァ、と少年たちの声援がかしましい。中は葛城や吉沢と同い年の三十三歳。中日はよくおじさんチームと言われる。三十六歳の小野を筆頭に、三十代は小川、中、葛城、吉沢、江藤、徳武、田中勉の八人。二十代後半は一枝、高木、伊藤竜、千原、新宅、門岡、木俣、伊藤久敏、山中、若生、記者会見もしないで〈ほぼ〉引退した板東の十一人。二十代前半は菱川、高木時、江島、太田、私、巨人へ移籍した浜野、阪急へ移籍間近の島谷の七人。なんとピッチャーを除いたレギュラーメンバー八人のうち、五人が二十代後半以上だ。菱川、太田、私が三十歳になるころには、主要メンバーの全員が四十の坂にさしかかり、坂を越える者も七人いることになる。これほどの人材は二度とふたたび集まらない。数年もすれば冬の時代がやってくるだろう。
 中、ワンスリーから二度空振りして三振。高木、バットの先に当ててセカンドゴロ、江藤、内角速球で空振り三振。江夏の三振行進曲が始まった。
         †
 結局江夏は三振五個しか奪えなかった。私も二回裏の初打席にツースリーから真ん中高目のストレートでチップ三振を食らった(今シーズン四つ目)。あとの二つの三振は、中がもう一つ、伊藤竜が一つだった。小野は三振しなかった。江夏がまともに相手にしなかったからだ。
 阪神は二回表に、ダンプ辻のソロで一点、三回に藤田平のソロで一点、あとはピタリと沈黙した。中日は四回に、レフト前の詰まったヒットで出た伊藤竜を小野が送り、中がセンター前に打って一点を返し、高木ショートゴロフォースアウトのあと、江藤が三十三号ツーランをレフトスタンド上段に打ちこんで二対三と逆転した。ツーアウトから私は、初球外角低目の小さいカーブを打って、レフト線へ二塁打。木俣ピッチャーゴロ。
 六回裏、先頭打者で回ってきた第三打席は、印象に残る勝負になった。真ん中高目の速球を二球つづけて見逃して、ツーナッシング。江夏は第一打席と同様、どうしてもそこで空振り三振に取りたいようで、しつこく高目のストレートを投げてくる。私はそれから三球連続でバックネットにファールした。外角低目へ曲げるか、同じ真ん中高目へ投げてくるか。たとえ外角でも、私に低目は禁物だ。外角高目はチョンと合わされる。むざむざそんなヒットを打たれるのは口惜しい。
 ボールにするつもりがないなら同じコースにちがいないと踏んで、私は少しバットを高く構えた。レベルスイングをやめ、上から叩こう。六球目、ど真ん中高目へ猛スピードのストレートがきた。首の高さだったのでダンプ辻が中腰になった。上からしっかり叩く。左手のかぶせを意識した。ほんの少し振り遅れたが、うまく芯を食った。ホームランの感触だったけれども、センターへ高く舞い上がったので、ぎりぎりバックスクリーンの裾にぶつかると思った。
 森下コーチがバンザイをしている。線審の谷村が右中間へ走っていって右手を回す。右中間へ飛んだのだ。スコアボード横の鉄塔をこするようにしてスタンドに落ちた。どよめきが叫び声に変わった。江夏が右膝を突いてライト方向を見やっている。苦しげな顔ではなく、キョトンとしている。水原監督と両手でハイタッチ。あと二十本、という監督の声が背中に聞こえた。
「神無月選手、第八十号のホームランでございます」
 下通の声が弾むようだ。ホームインしてバックネットにピースサイン。ドッと歓声が上がる。迎えに出た仲間たちに背中を叩かれ、尻を叩かれる。ベンチ前に整列したチームメイトと順にタッチしていく。江藤が、
「距離はそれほどでもなかけんが、美しかホームランやった。振り遅れたんか」
「はい、左手で押しこみました」
 太田が、
「でも百四十メートルはいってるでしょう。あの照明塔に当てた選手はいませんよ。アベックホームラン、何本目ですかね」
「数え切れんたい。新聞が勝手に数えるやろ。半田コーチ、金太郎さんにバヤリース!」
「はいなァ」
 そして私たちの打線もそれきり沈黙した。残る一打席、江藤はライトフライ、私はセカンドゴロに終わった。初打席の三振は、最後のボールが内角かなり高目の小さなカーブだったので、初球からそれを狙った。やはり初球にそれがきたが、ほぼ真ん中にきたので叩きつけようと思っていたアテが外れてレベルスイングになってしまった。真芯に当たってセカンドゴロになった。
 結局二対四αで勝った。小野は江夏より多い七つの三振を奪った。山尾の代打で出た田淵をショートゴロに切って取り、和田の代打の西村も大倉の代打の後藤も、外野フライに打ち取った。藤田の二安打、辻の一安打の計三安打に抑えて無傷の九勝目を挙げ、江夏は八本の長短打を打たれて四敗目を喫した。試合後のインタビューで水原監督は、
「冷やひやの勝利でした。小野くんの力投と木俣くんの好リードがなければ勝てなかった。ピッチャーで勝った。収穫は、好投手の江夏くんから神無月くんと葛城くんが二安打を放ったのをはじめ、散発ながら万遍なく八安打を打てたことだ。ただ、畳みかけることができなかったので、高得点に結びつけられなかった。剛速球で抑えこむばかりでなく、頭を使ったコンビネーションで投げる江夏くんから連打するのは難しい。彼の投球術のすばらしさに強い印象が残りました。あしたからはネジを巻き直して、ドラゴンズらしく畳みかける攻撃を目指したい。ホームランや剛球はまぎれもなく野球の華だけれど、連打もそれにまさるとも劣らない華だからね」
 とまじめな表情で語った。


         百五十

 試合が二時間もかからずに終わったので、十分ほどのミーティングがあった。太田コーチが、
「きょう、大洋戦に巨人が勝利した。高橋一三が九勝目を挙げた。堀内の六勝を足して十五勝。勝ち星の三分の二を二人で稼いでいる。この二人で巻き返してくる。ただ、高橋一三はアガリなので、三連戦ではまず投げてこない。ここのところしばらく対戦していない堀内と高橋明だ。ここを叩いておかないと、巨人は息を吹き返す。あさってからの三連戦は、三勝するつもりでがんばってほしい」
「オース!」
 水原監督が、
「まずはあしたの阪神戦です。雨でほぼ順延の予想になってるが、いつカラリと晴れ上がるかもしれない。試合があれば、打ち勝って勢いをつけるよ」
「オース!」
 アイリスの店員二人とハイエースに乗って帰った。
「退屈な試合だったでしょう」
「とんでもない。打撃戦と投手戦、両方観られて楽しかったです。球場がとってもきれいでした。目が洗われると言うんでしょうか、芝生と土が美しくマッチしてて」
 広野が言う。茂木が、
「神無月さんと江藤さんのホームラン、豪快で驚きました。ボールがあんなに飛ぶなんて信じられません。ずんぐりした辻という人のホームランはレフトの前のほうにポトンと落ちましたし、藤田という人のホームランもライトぎりぎりでした。ぜんぜん迫力がなかった。それより神無月さんの二塁打のほうがずっと迫力があって、わくわくしました」
 菅野が、
「あんなに美しく滑りこむ野球選手は、球界に神無月さん一人です。ふつうは、多少ドタドタするものです。中さんと高木さんと菱川さんは別ですけどね。きょうは三人に長打が出なかったな。巨人で美しく滑りこむのは、長嶋だけ。長嶋にしても、神無月さんのような自然さはない。どこか作った派手さがあります。ところで、あした、強い雨らしいですよ」
「七月の初旬は代替試合で忙しくなるな」
 広野が、
「駐車場までの人混み、たいへんでしたね。触られたり、つかまれたり、写真を撮られたり。……大勢の人たちに囲まれる生活に慣れてしまうと、身近な人と接する感覚が麻痺してしまいませんか?」
「それはない。大勢の人はほんとうの意味でぼくを愛していないから、愛情で応える必要がない。だから、ぼくを愛する身近の少数の人だけに愛を注げる。大勢の人に愛されたいという時代もあったけど……遠いむかし、有名病にかかってた少年のころ、あの観衆みんなに愛される日がくるという錯覚を抱いてた。彼らの生活の彩りの一つの要素に、有名人がいて、そいつらを娯楽として見物するだけで人間として愛するわけじゃないということを知らなかった。心もからだも愛してくれるのは、ぼくを詳しく知っている身近な人だけです。つまり、愛を得るためには、人は有名になる必要がないということなんです。ぼくは、野球場で観衆は見ない。手を振ることはあっても、見つめない。ファンのためにというのは、商品である人間としての建前で、商品であるあいだはなるべく大勢の人を喜ばせなくちゃいけないという博愛精神に満ちた建前で、本音のところでは、ぼくは監督やチームメイトや、身近な少数の人たちのために全力でプレイしてる。新聞やテレビに持ち上げられて不毛な愛を買うためじゃない。身近な人を愛せなくなったら、人間として生まれてきた意味がなくなる」
 菅野が、
「私はあなたのファンですという言葉は、壁を作ってることになるんですね」
「うん、あなたを愛していないという意味になる。愛があるなら、あなたと心中しますと言う」
「そういう言葉は、触ったりつかんだり写真を撮ったりするファンには言えませんね」
 茂木が、
「野球にかぎらず、神無月さんみたいな気持ちで暮らしてる有名人は、ちょっといないでしょう」
「たぶん、ドラゴンズ以外には一人も。……芸能人やスポーツ選手のほとんどは、そうされることに喜びを感じる人たちばかりだ。うれしいことに、ドラゴンズにはそういう浅はかな人はいない。有名であることに違和感を抱いてる人たちばかりです。有名という権威を得たい馬鹿は、ドラゴンズから去っていく。彼らは、権威では得られない愛情の存在を知らないんだと思う。こういうドラゴンズがつづくあいだは、ぼくは野球選手でいるつもりです」
「すてき。北村店長が好きになった人のすばらしさがわかります」
 広野が、
「いつか店長が、キョウちゃんがいちばん好きなのは野球じゃないのよ、人間なのよ、と言ったことがありました。こういうことだったんですね」
 菅野が、
「心中する覚悟がないなら、ファンだけでいろということですよ」
 北村席に九時に帰り着いた。菅野と主人はそのまま車に乗って夜の見回りにいった。ソテツとイネが玄関に出迎える。賄いたちは片づけの最後にかかっている。トモヨさん母子は寝ている。アイリス組は帰宅したか、部屋に戻って寝たかのどちらかだ。キッコは十時までは定時制の部活。トルコ嬢たちが座敷でテレビを観たり、花札をしたりしている。いつもの風景だ。
「ソテツ、納戸部屋の箪笥から下着とジャージを出して風呂場に置いといて」
「はーい」
 式台でユニフォームを脱ぎ、すぐにシャワーを浴びにいく。からだを洗い流したあと、のんびり湯に浸かる。夜の庭―散策してみよう。ふと思った。
 ジャージを着て土間に下りる。柱の寒暖計は二十一・五度。暖かい宵だ。洗濯場からトモヨさんの離れにかけての広い裏庭にいく。ここは立木のほかは手入れが薄くて、下草の種類が豊富だ。タテに細い月が出ているだけで、生垣の外の街灯の明かりのほかは光が射さない。それでも花の色はわかる。京かのこの純白、漁火草の紅色、虫取りナデシコのピンクと白、猫じゃらしのようなショウマの淡いピンク、細いラッパが垂れ下がっている蛍袋のピンク、白バラ紅バラ黄バラも咲いている。サンダルを履いたイネが追ってきた。腕を取り、唇を求める。
「暗い庭、初めて見だ」
「きれいだろ」
「ほんだっきゃ」
 花の名を教える。いちいちうなずいていたが、やがて胸にむしゃぶりつき、
「してけねが、ここで」
「いいよ、溜まってた?」
「溜まってだ」
「ここで、お尻向けて」
「はい! 穿いてねすけ、だいじょうぶだよ。ションベしにいって脱いできた」
 洗濯機小屋の向かいのステージ部屋の壁に、両手を突かせる。スカートをまくり、腹に手を回す。イネは大きく足を拡げる。挿入し、左手の指でクリトリスを押し回しながら挿入する。早く射精をすませたいので素早く往復する。
「あああ、最高だじゃ、神無月さん、好ぎだ、愛してる、あ、もイグ、あ、イグ、イグイグ! 好ぎだ、好ぎだ、神無月さん、ううん、イグ! あいい、ああいい、またイグ、あああイグ! 熱ううう、好ぎだァ、きた、神無月さんがきた、いっしょに、いっしょにイグべ、イグべ、うううん、イグウ!」
 しっかり吐き出した。乳房を握り締め、イネの腰が落ちないように、腹に手を回して支える。何度も、好ぎだという言葉を繰り返しながら、私の付け根を縛り上げ、うねる膣でしごく。顔をこちらにねじ向け、必死で口を求める。さらに数回細かく痙攣し、ようやく静まった。
「ありがと、神無月さん、ありがと。うれしかったよ、泣きてほどうれしかったよ。待ってたんだ、ずっと待ってたんだ、ありがと。愛してる、死ぬほど愛してる」
 引き抜き、精液が垂れるにまかせた。イネは股間を指でこそぎ、口に持っていった。腹を絞って二度、三度それをしてから、スカートを下ろし、こちらを向いて私のものを清潔にした。手をつないで玄関に入る。外回りから菅野と帰ったばかりの主人が、
「いい声がここまで聞こえてきたぞ」
「やんだ、恥ずかし、旦那さん」
 菅野と顔を見合わせて笑い、ソテツもこらえきれないように笑っている。かよいの賄いたちは帰っていた。いつのまにか二階から下りてきた睦子が、
「すてきな声でした。ああいう声を出せたら、神無月さんにいつもかわいがってもらえますね」
 つづいて下りてきた千佳子が、
「ムッちゃんの声は、女の私も興奮するくらいすてきな声よ。私、へんなうなり声出してない?」
「千佳ちゃんの声も高くてかわいらしいわ。女が楽器だって言われるのは、そこからきてるんでしょ?」
 女将まで起きてきて、
「ほうやろね。あたしなんか、もうだみ声やから、ヒビの入った尺八やわ。ほんとに恥ずかしいわ」
 座敷の女たちがゲラゲラ笑った。女将が、
「お茶飲もうか」
「はーい」
 みんな揃って、座敷でテレビを観る。ちょうど十時。きょうも特別機動捜査隊。緋牡丹の女の巻。花札賭博中に起こった殺人事件。男なのに女として育てられた賭博師の出生の秘密と宿命? 馬鹿らしい。カルーセル麻紀がゲスト主演。気持ち悪い。波島進だけはいい。十五分もしないうちに飽き、キッコが帰ってきたのを潮に、菅野に乗せてもらって則武に引き揚げる。門まで睦子と千佳子、イネとソテツが送って出た。
         †
 六月十九日木曜日。九時起床。二人の姿なし。太田から阪神九回戦はやはり雨で中止との連絡。うがいから始まる一連のルーティーンのあと、快適な軟便、シャワー。ジム鍛練三十分。素振り百八十本。三種の神器。一升瓶左右二十回ずつ。翼の形でダンベルを二十回。
 ザンザン降りなので、菅野とのランニング中止。
 北村席にいき、主人夫婦と菅野とコーヒー。トモヨさんが直人を膝に乗せている。雨が強いので休ませたようだ。私の膝に乗り移ってくる。女将が、千佳子は睦子のマンションへ前期試験の勉強に出かけたと言う。
「一週間ぐらい泊まりこむんやと」
「輝いてる世界ですね。めったに見つからない沈黙の世界だ」
 菅野が、
「沈黙?」
「意に染まない者たちの介入がないという意味でね。心の充実はあわただしい世界じゃなく、沈黙の世界にしかないし、豊かな沈黙の世界は友とすごす時間にしかありません」
「友だち同士はあわただしくしててもいいんですか?」
「だめです。楽しく賑やかにしててもいいですが、あわただしいのはだめです。あわただしいというのはじゃまが入るという意味です。豊かな沈黙とは、心の充実を覚える沈黙のことです。そういう静かな世界はめったにない。ぼくは毎日その世界にいます」
「なるほどなあ!」
「私たちの世界のことですね、社長」
「ほうや。神無月さん、スクラップどうぞ」


         百五十一

 雨に閉じこめられながら、昼めしまで、直人とじゃれながら主人のスクラップブックを読んですごすことにする。

 
詰まっても神無月異次元八十号
   
中日十七連勝 日本タイ記録まであと一     
 驚愕! 入るとは。打った瞬間ホームランという一発ではなかった。六回、先頭打者の神無月は江夏の真ん中胸もとに浮き上がる速球をセンターへ打ち上げると、かなりのスピードで一塁へ走った。芯を外されたように見えた。フェンスを越えないと思ったのだろう。バンザイをする森下コーチを横目に一塁ベースを勢いよく蹴る。しかしボールは落ちてこない。そのまま右中間スタンド照明塔の支柱上部に当たった。走りながら神無月はそのあたりを一度見た。江夏も膝を突き、肩越しに振り返った。脅威のパワーだ。
 池藤トレーナーいわく、「全身これ伸縮自在の柔軟な筋肉」。その筋肉のとてつもない結集力が常識外れの距離を生む。〈屁っぴり腰打法〉でも証明されているように、彼の下半身の安定度は抜群で、どんな崩れた姿勢でもバットに体重を乗せ、はるか彼方へ飛ばすことができる。
 この本塁打量産にいつストップがかかるのだろうか。すでに専門家たちのあいだでは、百五十本の予想数字が出ている。なんと王貞治の日本記録のおよそ三倍である。

 
 
南海・球団新記録十二連敗か
 二十日のロッテ戦が危惧されている。球団新記録十二連敗? 西鉄に次ぐ王者の凋落だ。それは中西・稲尾の衰えと、野村・杉浦の衰えに重なっている。
 現在驀進中の中日ドラゴンズを考えると、江藤・小川ということになる。江藤と小川だけではない。中も、小野も、高木も一枝も遠くない将来確実に衰える。なるほど今年の優勝はまちがいないところだろう。しかし連覇となると、神無月、菱川、太田たち若手がベテランの穴埋めをどこまでできるかにかかっている。手薄な投手陣も足を引っ張ることになるだろう。そうなったとき、たとえ鬼神と言えども、一人でチームを支えることは物理的に不可能である。つまり神無月を支えるベテラン勢の穴埋めが利かなくなったときが、西鉄、南海に準ずる凋落の始まりだろう。


 目立った記事はその二つだった。
 小野九回三安打零封無傷の開幕九連勝(左投手では球団初)、江藤江夏から三十三号決勝弾、神無月今季四個目の三振、といったドラゴンズ関連の記事はそろそろ新奇なものではなくなってきている。
 嘆きの神無月対策という見出しの論評記事があった。

 どうしても止められない―そんな究極の打者がプロ野球界に現れた。神無月郷(中日ドラゴンズ外野手・20)である。球界の頂点に君臨することになった彼を封じこめる対策は、残念ながらいまのところないようだ。彼と同じチームに属するピッチャーが、彼と戦う恐怖から免れているのはじつに幸いなことである。その幸運を生かして、中日のエース小川健太郎は王貞治に狙いを定めた。これまでさんざん痛い目に遭わされてきたこの天敵さえ抑えこめば、チームの敗け数も抑えられ、念願の優勝に大いに貢献すると考えてのことだろう。
 王は神無月が現れるまでの球界の王者であったし、今年もすでに十五本のホームランを打っており、七年前に本塁打王を獲得して以来の勢いが止まる気配はない。今シーズンも五十本前後のホームランを打つであろう。
 王を抑えることは各チームの念願であり、これまでさまざまな対策が講じられてきた。昭和三十八年の日本シリーズの、稲尾の変則投法。ピッチャーが足を上げるのと同時に王が足を上げるタイミングに着目し、一度下げた足をもう一度上げて投げる二段モーションで十一打数一安打に封じこんだ。金田も、スローボールを投げたり、足を上げたまま静止したりして、知略を駆使したが敵わなかった。昭和三十九年、広島白石監督の王シフト。典型的なプルヒッターである王に対し、内外野をすべて一塁方向へ寄せて揺さぶりをかけた。王は動じなかった。さらに昭和四十年、日本シリーズにおける野村克也の囁き戦術。野村は「王には通用しなかった」と完敗を認めている。
 そしてついに変則投法の極み、小川の背面投法となる。腕を後ろに大きく振り、そのまま腰の後ろから投球する幻術である。プロ野球史上唯一、アンダースローで沢村賞を受賞した大器が、苦手な王を抑えるために見せた執念の一投だった。「あらかじめ神無月で試して成功したものだ。少なくともホームランは打たれなかった」と電話インタビューで語った。この一投(正確には二投)のために、小川は木俣相手に毎日二百球以上投げこんだと言う。結果は、一投目はストライクで見逃し三振、二投目はボールで見逃されたが、次のストレートでセンターフライに打ち取っている。成功と言っていいだろうが、下品だという理由で水原監督に禁止命令を出されたと笑う。
 王が五十五本塁打の新記録を樹立した昭和三十九年、滅多打ちに遭っていた阪神の藤本定義監督が、破れかぶれになってショートの吉田義男をベース上に配置、吉田に腕をブンブン振らせて王の目をくらませようとした。これが王対策の中で、最もバカバカしいものであったにちがいない。
 神無月にはまだ何の対策も講じられていない。対策を講じるどころではなく、ただただ驚き呆れ、あんぐり口を開けて見守っているのが実情である。右にも左にも真ん中にもホームランを打ち分ける広角打法の神無月に対して、まじめだろうとバカバカしかろうと、一向にこれといった対策を思いつかないのである。たとえ思いつき、腕だめしに実行してみたとしても、難なく打ち据えられたときの挫折感を考えると、神無月に知略で挑戦することはあまりお勧めしたくない。全力でぶつかり、打ち損ないを期待するというのが妥当なところではないだろうか。
 ただいま神無月の打率は、驚異的な六割八分二厘。百三十五安打のうち、八十本がホームランである。しかし、彼とて三打席に一打席は打ち損なっている。その事実を心頼みにして、あしたもあさっても全力でぶつかっていこうではないか。悪あがきの中から案外有効な対策が生まれるかもしれない。


 打撃三十傑も眺めたが、自分が当事者になってみると、小中学生ころほどは興味が湧かなかった。六割八分台の私のほかに五、六人が三割から四割を打っていた。ほとんどがドラゴンズのメンバーだった。ホームランも、私の八十本と江藤の三十三本のほかは、多い者でも十数本だった。王を除けば、これまたほとんどがドラゴンズのメンバーだった。
 ステージ部屋へいき、試合代わりにもう一度きょうの鍛錬にとりかかる。自分の体重のみを利用した自重トレーニングだ。腕立て伏せから始める。大きな負荷をかけるために椅子に足を乗せて行なう。深くゆっくりと腕を曲げ、時間をかけて戻す。三十回。今度は腹筋だ。床に寝転がり、膝を曲げた状態でやる。後頭部で手を組まない。手を組むと、腕の力で上半身を起こしてしまうので腹筋を鍛えたことにならない。両腕を真横に広げて三十回。背筋鍛錬は両手を伸ばしてやる。三十回。
 第一陣帰宅の天童や丸やキッコたちがめずらしそうに寄ってきて、じっと眺めた。
「すごい筋肉やね。天才は隠れたところで努力する……」
「キッコは両親とも健在なんだよね」
「うん、もう五年も会っとらんけど」
「両親はどんな仕事してるの」
「共働き。オヤジは地元の会社員、オフクロは府の観光協会事務員、妹は大阪府大の二年生」
「妹もいたんだ」
「親孝行娘。うちは要らへん子や。必要としてくれるのは神無月さんだけ」
 覗きこんできた頬を撫ぜてやる。
「めし食って、午後もがんばってね。ぼくは風呂に入ってくる」
 カラスで風呂から上がると、キッコたちとめしを食った。女将が帳場に引っこみ、主人と菅野が見回りに出た。私は早めしをすませ、テレビの前に肘枕。日活の金子信雄が見覚えのある墓に酒をかけている姿を映し出したニュースが流れている。
「……オウトウキは俳句の夏の季語にもなっていて……発足当時は、太宰と親交のあった人たちが遺族を招いて、桜桃をつまみながら酒を酌み交わし個人を偲ぶ会でした……常連の参会者……佐藤春夫、井伏鱒二……いつの間にか……十代、二十代の若者が集まる青春巡礼のメッカへと様変わりしていきました」
 あ、きょうは六月十九日。桜桃忌だ。太宰治と山崎富栄が玉川上水で心中死体となって発見された日。筵をかぶせられた冨栄の傍らに父親が傘を差してションボリ立っていた。岸の斜面に太宰の下駄の跡が残っていた。富栄と結び合った紐を引っ張って岸へ戻ろうとして食いこんだ跡だった。―イヤイヤ死んだ男。スタンドプレイの一生。身長百七十五センチ、二十六・五センチの甲高足。線路が好きだった。名望と関係なく女に愛され、文章の天才だったが、幸いなことに学問の頭がなかった。学問があったらあの天才性は発揮されなかった。きょうも雨。なぜか底なしに悲しい。
「じゃ、キョウちゃん、またね」 
 キッコたちが出ていった。入れちがいに主人と菅野に連れられて、見覚えのある角刈りの男が座敷に入ってきた。手に色紙を持っている。
「あれ? 大阪で……」
「蛯名です。ひさしぶりです。神無月さんがいらっしゃるというので、お顔を拝見にきました。しばらくこちらの店舗のかたたちを送迎することになりました。これからはちょくちょく神無月さんのお顔を拝見できます」
 牧原若頭が三つの組の組長になると教えてくれたのは彼だったことを思い出した。
「ワカは先日の会合で牧原組組長ということになってましたが、三つの組を統括することになったんですよね」
「はい、この五月に浅丘組組長がお亡くなりになったので、正式に浅丘組組長になっていたんですが、いずれ三組を統合して牧原組となれば、松葉会系では最大の組になります」
 菅野がうんうんとうなずいている。
「蛯名さんは、ふだんは羽衣に詰めてるんですか」
「はい、今年いっぱい詰めます。来年はメンバー交代するかもしれません。すべて親分の命令です」
 ソテツと幣原が男どもにコーヒーを持ってくる。カズちゃんや素子たちが帰宅して食卓についた。蛯名に頭を下げる。
「いつもお世話さまです」
「は、気を抜かずにやっとります」
 トルコの早番組も帰ってきて、雨休み組と合流して座敷のテーブルに落ち着く。直人もトモヨさんによだれかけを掛けてもらって女たちのあいだに割りこむ。厨房の物音があわただしくなる。蛯名が、
「この色紙にサインをいただけますか。千鶴さんです。部屋に飾りたいんだそうです。ナンバーワンの頼みなので聞かんわけにはいかんので」
 素子が、
「あの子、図々しいことして。コシタンタンやな」
 主人と菅野がカハハ、アハハと笑った。私も笑って文江サインをした。千鶴ちゃんへと添えた。トモヨさんがニコニコ覗きこんだ。
「じゃ、私はこれで失礼します」
 蛯名が色紙を手に帰っていった。
 揚げもの、炒めもののごちそうが並ぶ。まず、直人には少量の鮭のチーズ焼き、小さなおにぎり、林檎、缶詰の蜜柑。私たちにはカツカレー、メンチカツ、ユーリンチー。
「ユーリンチー?」
「油、林、鶏と書きます。鶏のもも肉を揚げたものに、生姜と長ネギがたっぷり入った甘酢ダレをかけたものです」
 ソテツが説明する。油林鶏(ユーリンチ)。初めて聞く名前だ。生姜焼肉炒め、エビフライ、ナポリタン、めし。カツカレーのほかの惣菜は、すべて大鉢に盛られている。大勢で分け合って食べる原始生活。すばらしい。
 テレビが点けられる。まずNHK。四つの目という小学生向けの科学番組をやっている。カメラの速回しや遅回しの映像を見せる番組だ。この時間帯のテレビは食事のバックグラウンドなので、だれも見ていない。それでも近記れんが民放のニュースに切り替える。原子力船むつが東京の工場で進水したと言っている。来年青森の大湊に回航するというのはどういう意味かわからない。大湊を常時停泊港にするということか。どうせ反対運動が起きてチョンだろう。天気予報。
 私は新聞の三面以外の記事を読んでも、テレビのニュースを観ても何もわからない。未来の学者養成番組、社会事象解説番組、どちらも不可解だし、天気予報も概略しかわからない。つい最近までやっていた『ひょっこりひょうたん島』でさえ、理解困難な番組だった。私にわかるのは、野球と、簡単な文章と、女のからだだけ。
 食後にデザートの林檎と桃が出た。満腹になり、縁側の大ガラス戸を開け、軒下の濡縁に座布団を敷いて坐る。雨の落ちる夕暮れの庭を眺める。アジサイの赤紫が鮮やかだ。午後七時。まだ曇り空に明るさが残っているけれども、ツツジの生垣の向こうの家々は眠りに就いてしまったように静かだ。ムシムシする。あしたの最高気温は今年何度目かの三十度になると天気予報で言っていたが、実際にはもっと暑くなるだろう。あしたは桜通を走る。あの通りは並木が整備されているので、強い陽射しから脳天を守ってくれる。



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