百五十二

 カズちゃんや素子やソテツたちも縁側にやってきて、戸をすべて開け放つ。柿の木の黄色い花が浮き上がる。直人もチョコチョコやってくる。そして私がばっちゃに訊いたように、
「あれは? あれは?」
 とやりだす。
「ランタナ、ヤマボウシ、ユリ、ライラック……」
 トモヨさんが直人の横に坐り、
「おとうちゃんはお花のことは何でも知ってるのよ」
 と言って頭を撫でる。
「名前だけは、だいぶね」
 素子が、
「紫蘇の葉みたいな葉っぱの中に、鈴なりの葡萄の房みたいなものがぶら下がっとるのは何?」
「紫式部。実が紫で、重なり合った実をシキミというので、ムラサキシキミ。駄洒落だね。勝手に生える潅木だ」
「一、二、三、四……たくさん花びらのあるあの菊みたいな紫の花は? 柿の木陰に咲いとるやろ」
「都忘れ。ミヤマヨメナ。春に咲くめずらしい菊だ。植木職人の腕がいい。柿の木とマロニエを広い間隔をとって植えてる。すごく大きくなる木だから、そのうち生垣代わりになるよ。柿の黄色い花とマロニエの白い花のコントラストがすばらしい。マロニエはトチノキの一種だけど、実を拾って食べちゃだめだよ、毒だからね。ソテツ、この庭に咲いてる草花で食べられるものは?」
 ソテツは得意げに、
「庭全体で食用のものがだいぶ採れます。春はツクシ、ヨモギ、たんぽぽ、ドクダミ、ツクシに似たオオバコ、ふき、ふきのとう、ノビル」
「ドクダミも食べられるの?」
「はい、天ぷらで。夏の初めは、母子草、ナズナ。夏は、紫蘇、秋は、おひたしやゴマ和えにするミゾソバくらい」
 カズちゃんが、
「ナズナって、ぺんぺん草のことでしょう?」
「はい。実が三味線のバチに似てるのでそう呼ばれます。ほかには、一月から四月のカラシナ、二月から九月まで咲いてるハコベ、春先だけのセリ、すぐそばにドクゼリが咲いてるので危ないです。ドクゼリは茎が太くて、においもないのですぐわかります」
 トモヨさんが、
「さすが料理長! 郷くんの植物博士は知らない人がいないけど、ソテツちゃんの知識は意外だったわ」
 百江が、
「実践が伴ってるだけに、迫力があります」
 私は、
「あしたの昼、まだここに咲いてる春の草と、初夏の草をぜんぶ天ぷらにしてくれる?」
「わかりました!」
「菅野さん、景品の倉庫番とイベント、忙しいですか?」
「いまのところイベントの申しこみはゼロです。予定としては、十一月の東奥日報さんの取材、日時不定ですが阪神電鉄さんの最長不倒楯の授与、秋月先生主導の市民栄誉賞の授与。シーズン末には各賞の受賞で、目の回る忙しさになると思います。ホームランの景品はかなり増えて、小屋がいっぱいです。先日また酒が積み上げられました」
 イベントに満たされた時間の歩みはのろい。こののろい時間の流れに浸されて、あとどれくらい生きられるだろうか。三十歳まで? 二週間、三週間、ごっそり一まとめにして過ぎ去るのでないかぎり、三十歳までの時間は気が遠くなるほど長い。なぜ三十歳まで? 二十歳を越えてしまったからだ。三十歳を越えたら四十歳が標(しるべ)になる。
 野球や友情にかまける生活は単純だけれども、単調ではない。単調でなければかならずドラマがある。ドラマがある日常は秒針しか進まない。単調な時間でないかぎり、素早く過ぎ去ることはないのだ。ドラマのない単調な生活にあこがれるけれども、叶わない。一試合一試合、一秒一秒の会話を単調な日課と捉えられるほど、私は感激の薄い人間ではない。野球をつづけるかぎり、人と対話をつづけるかぎり、日々は突発的な感激に停滞させられながらのろのろ進む。そうやって十年が二十年でも生きるしかない。決意やがまんは要らない。決意し、がまんすれば、ほかにしたいことが出てくるというのでもない。
 とつぜん―人のいない、単調な熱田神宮を、時間を忘れて歩きたくなった。ひさしぶりにヤスコに逢ってやりたいという気持ちもある。四月の初旬からもう三カ月近く逢っていない。しかし逢えばドラマが起こり、時間の歩みが遅々となる。逢えるというのは私の独りよがりで、彼女は私に逢いたくないかもしれない。それもドラマだ。そういう反応をされれば、内省のせいで時間の歩みが止まる。
 カズちゃんたちがアイリスに戻っていくのを見届け、トモヨさんの離れにいって、机の抽斗から何万円か握ってジャージのポケットに入れる。座敷に戻る。一家の人たちに散歩にいってくると告げる。トモヨさんが、
「どちらへ?」
「雨の熱田神宮」
「ま、ロマンチック。ジャージで?」
「うん。晩めしごろには帰ってくる」
「はい、気をつけていってらっしゃいね」
「うん」
 下駄を突っかけ、傘を差し、眼鏡をかけて出る。素足に雨が降りかかる。名古屋駅前からタクシーに乗り、熱田神宮へと告げる。眼鏡顔にジャージ、そこへ下駄ときては、運転手も話しかけるのに気が引ける。
「あいにくの雨で、阪神さんは星も拾えずご帰還ですね」
 私だとわかっていた。単調な無意識の時間がすぐに終わってしまった。意識的なドラマに戻るしかない。
「運転手さんは、昭和二十九年には名古屋におりましたか」
「おりました。私は中区生れの根っからの名古屋人です。終戦のときは十三歳で、三重県に疎開しておりました。中区の中央商業高校の一期生です。昭和二十三年に発足した高校です。二年生のときに普通科ができて中央高校になりました。二十六年に商業科を卒業して、しばらく西区花の木の春日井製菓に事務員で勤めておりましたが、三年で辞めてタクシーに移りました。二十九年はちょうどそのころです。二十九年というと、ドラゴンズの初優勝のことが知りたいんですね」
「はい。神宮は取りやめて、船方へお願いします。もと住んでいたところを歩きたくなりました」
「了解。二十九年は名古屋ドラゴンズから中日ドラゴンズへ名前を戻した年でしてね」
「はい」
「前年にナイター設備も完成していて、八月にはNHKが中日―巨人戦をテレビで初中継しました。初優勝の勝率は六割八分三厘で、この球団記録はまだ破られてません。優勝勝率の高さでは、昭和二十五年に松竹の小西得郎の七割三分七厘というのがありますし、水原監督も、二十六、二十八、三十年と七割台を三回記録してます。川上は四十一年に六割八分五厘が一回あります。今年のドラゴンズはぜんぶ破るでしょう」
 この男も野球キチガイだ。初優勝の細部を語り出されたのではたまらない。当時の世情を訊くぐらいにしておこう。
「たった十五年前ですけど、ぼくは五歳でアメーバのような記憶しか残ってません。その年はどんなできごとがありましたか」
「二月にジョー・ディマジオが、結婚したてのマリリン・モンローと新婚旅行で来日しましたよ。ディマジオ自身の来日の理由は、セリーグコーチのためというものです。中日の奈良のキャンプにも顔を出しました。同じ月に中日スポーツが発刊されてます。八月には、さっき言ったNHKのテレビ初中継。中商が夏の甲子園で五回目の優勝」
「野球以外のことではどういうものがありました?」
「第五福竜丸、自衛隊発足、空手チョップの力道山」
「映画は?」
「ゴジラ、二十四の瞳、七人の侍、ローマの休日」
 立て板に水だ。タクシー運転手の底力だ。みんな菅野だと思えばいいようだ。
「野球に戻って、その年の打撃記録を教えてください」
「セ・パの順でいきますね。首位打者、与那嶺要、レインズ」
「レインズ?」
「阪急の助っ人外人です。盗塁王も獲りました。本塁打王、青田昇、中西太、打点王、杉山悟、山内一弘」
 もういい、じゅうぶんだ。
「ありがとうございました。博識、感じ入りました。やっぱり、神宮で降ろしてください。お参りしていきたくなりました」
「了解。雨の熱田神宮もオツなものですよ。けっこうな人出だと思います。いやあ、野球界の史上最高の偉人と言葉を交わすことができて光栄の至りでした。巨人戦、がんばってください。応援してます」
「全力を尽くします」
 西門で降ろされた。人に引きずられない、単調で無機的な時間がどうしても必要だ。
         † 
 傘を差して灰色の鳥居をくぐる。入ってすぐ右脇の南神池のそばにある清め茶屋に寄る。抹茶と清め餅のセットを注文する。茶をすすり、小さな白い小判形の餅を竹ベラで切って食いながら、池の亀を数えたり、雨空を眺めたりする。小学校時代より池の水が澄んでいる。横井くん……。
 手水舎で手を清める。注連縄を巻いた大楠を眺める。本殿にいき、百円を投げて、手を拍ち、辞儀をする。こんなことをしている自分がおかしい。本殿裏側から南門に向かって延びる〈こころの小径〉を歩く。加藤雅江ときた道だ。
 急に森の翳りに入る。呼吸する鼻腔が心地よい。ここにも大楠がある。小径を出て、信長塀。小さな朱塗りの南新宮社でまた賽銭。上知我麻(かみちかま)神社。ここでも賽銭。そうしたい気分に従う。二十五丁橋を渡る。六つの祠(ほこら)が並んだ六末社を通り過ぎる。地べたを突っついている三毛猫のようにカラフルな鶏と鳩とカラスを横目に、もう一度西門へ戻って出る。
 伏見通。市電の姿を求める。20番をつけた緑とベージュのツートンカラーの市電に出会う。歩道橋に昇り、熱田駅に向かう後ろ姿を見送る。
 ―やっぱり寄っていこう。
 歩道橋を下りて白鳥小学校沿いの細道へ入る。民家に囲まれた青衾(ぶすま)神社の緑。傘を差してしばらくたたずんで眺める。小さな祠だが、ちゃんとした境内を持っている。そのまま民家のあいだを道なりに真っすぐ進み、国道一号線に出る。右手に白鳥橋が見えた。20番の市電に追い越される。白鳥橋の歩道を歩き、橋詰の交差点から左折して船方を目指す。船方の電停に到着。51番の市電に出会う。神宮からここまで二十分余りでこれた。右折して、二筋目の細道に入る。T字路に突き当たった右手の家。青衾(ぶすま)神社より緑が多い。玄関を開けて、こんにちは、と呼びかける。
「はーい!」
 私の声を聞き分け、廊下に音立てて飛び出してくる。ラフな臙脂のスカートを穿き、白いシャツの上に黄色い薄手のカーディガンを引っかけている。パッと笑顔が輝く。美しい。私に逢いたかったようだ。ゆっくりとした有機的な時間が始まる。
「逢いたくなって……」
「私も何度も神無月さんのこと思い出してたんですよ」
 下駄に気づき、洗面所から絞ったタオルを取ってきてタオルで足の裏を拭う。
「ジャージに下駄できた」
「取る物も取りあえずって感じで出てきてくれたんですね。こんなオバアチャンに逢うのに―うれしい!」
 二階からシュミーズ姿の小夜子が降りてくる。相変わらず長身ですらりとした体形だ。
「あら、神無月くん、いらっしゃい。五十女が恋しくなったの? 変人の極みね。ごゆっくりどうぞ。私はもう一眠りするわ」
 寝室にいき、ベッドに坐ったヤスコの隣に腰を下ろす。三人も寝られそうな大きなベッドだ。ヤスコは、東京でがんばっている法子のこと、来年内田橋に開店する酔族館のことを明るい顔で語った。
「つい先日、松葉会の親分に会って、水族館のことを言っといた。安心するように伝えてくれって。開店が近づいたら、挨拶の電話でも入れておけばいいよ」
「ありがとうございます。ミカジメは大事な問題ですから。あと半年で法子が帰ってきます。神無月さんについていって、花を咲かせて、実を持って帰ってくるんです。来月の末には、内田橋のウワモノの取り壊しを終えて、八月から普請に入ります。十二月に完成予定。ひと月かけて開店準備をして、二月一日にオープンです」
 ひと眠りしに二階へいったはずの小夜子が戸を開けた。
「私も話に混ぜて」
 盆にコーヒーを載せている。
「一月の人集めがキーよね。酔族館というおしゃれな名前にふさわしいメンバーを集めないと。コック、ホステス、ボーイ。ヨシエさんは厨房に入るって言うの。もう容姿に自信がないからって。言うとおりにしてあげたわ。自信のないままお仕事してると、長つづきしないもの」
 私はコーヒーをすすり、
「ヨシエさんは、もうすっかり主婦業に馴染んでるの?」
「そう、幸せなんですよ」
「それじゃホールに出るのは気が進まないはずだよ。法子なんか、パンティ二枚も穿いてるんだ。ぜったい触らせないって。その心配のない店だけどね」
「おかあさんもそうしなさい。何が起こるかわからないもの、年不相応にきれいだから」
「私はそんなことされたらブン殴っちゃう」
 私はヤスコの齢のわりにすべすべした手の甲をさすった。


         百五十三

「そうそう、神無月さん、私このごろ水泳教室だけじゃなく、生涯学習センターにもかよってるんですよ」
「何、それ」
「一講座二千円ぐらい払って、決まった曜日に授業を受けるんです。四月から七月と、九月から十二月。教育委員会総合学習センター。ここから十分も歩かないところよ。私はあれこれやらずに、短歌だけ。からだが単純な分、頭のほうを複雑にしたくて」
「何か作った?」
「はい、かならず実作しなくちゃいけないから」
「憶えてる歌、ある?」
「……初夏の日の 土の香りを身にまとい きみ翔(か)けるフィールド われもひとつに」
「すばらしい―」
「ほんとね、おかあさんの歌は愛があふれてる」
 それ以上、さしたる話題も出ないまま、三人沈黙してコーヒーをすする。小夜子が、
「……じゃ、私、少し遠慮するわ。帰るときは声をかけてね」
 小夜子が去ったとたん、ヤスコは私をベッドに押し倒し、胸に抱きつく。ジャージを引き下ろし、ズボンと下着を脱がせる積極さに、驚きよりも安堵が湧く。肉体の行為はまったく遠慮がないほうが安らぐ。
「わ、うれしい、ビンビン!」
 ヤスコは喉の奥から深い息を漏らし、深く含む。舌を徐々に下腹に這わせていき、おのずとシックスナインの形になる。短い小陰唇、大きいクリトリス。美しい性器だ。
「イカせないように、ピラピラだけ舐めててくださいね。しばらく神無月さんのものを舐めていたいですから」
 言われたとおりにしているうちに、
「だめです、がまんの限界。オマメちゃん舐めてください!」
 舌先をつけたとたん、
「ああ、好き、イク!」
 ガクガクと私の顔の上で大きなクリトリスを前後させ、一筋あごに愛液を吐いた。横に転がり、私を待つ。挿入する。
「ああ、いい気持ち! 神無月さん、愛してます! 好きです、好き好き好き、あ、イク! あああ、浮いちゃう! ううう、うーん、イク! イッ!」
 一瞬、猛烈に締まった。私はおのずと吐き出し、ゆるやかに律動する。ヤスコのからだが動かない。薄目を開けて気を失っている。急いで抜き去り、彼女の横に仰向けになる。陰茎が直立して、締めくくりの強い律動を残したまま脈打つように前後している。ヤスコの腹に手を置くと、かすかにうめいてもう一度強く痙攣した。それきり規則正しい寝息を立てはじめた。気絶の一種だろうか、完全に寝入っている。ドアがこっそり開いて、シュミーズ姿のままの小夜子が忍び足で入ってきた。ベッドのそばに立ったまま囁く。
「ついでに私も……」
 私の隣に横たわる。小声で、
「わ、大きい、神無月くん、すごいもの持ってるのね」
 夢中で亀頭を吸った。狂ったように茎を舐め上げる。私がピクピクして留めの律動を迎えようすると、
「イッてすぐ触られるとつらいでしょ? 入れてくれる? こすらなくてもいいから、入れるだけでいいの。おかあさん―」
 小さく声をかけるが、まったく動かない。
「おかあさん、ごめんなさい。入れちゃうわね」
 そう言ってシュミーズの下のパンティを脱ぎ、母親の顔から遠くむこう向きに跨ってゆっくり腰を沈めた。瞬間、私は残りの精液を一気に吐き出した。
「ウ! すごい! 大きい!」 
 そり返り、両手を私の胸の両側に突いて、かすかに陰阜を動かす。予想外の緊縛に襲われ、私は最後の律動をしっかり終えた。
「あ、きちゃった、イクわね、イク、ああ、おかあさん、法子、ごめんなさい、イクウウ! やだやだ、腰が動いちゃう、だめえ! イクウウ!」
 声を上げながら反り返って何度も尻を前後させる。しかし達しつづける体質ではないようで、痙攣も数度脇腹を揺するだけの慎ましいものだった。それきり高潮は急速に治まった。慎重に私から離れ、枕もとのティシューを股間に入れる。
「妊娠は? 少し出ちゃったけど」
「だいじょうぶ、私は危ないことはしないの。法子にはぜったい内緒にするから安心して。ありがとう。あなたみたいなきれいな子とセックスできるなんて一生に一度ね。こんなに強くイッたのも初めて」
 ようやくヤスコが首をもたげて、きれいな目で小夜子を見つめ、
「あら、あなた、神無月さんとしちゃったの?」
「うん、ごめんなさい……。上の部屋でおかあさんの声を聞いてたら、何年ぶりかで濡れちゃって、がまんできなくなって」
 ヤスコは乳房の上で手を組み、
「仕方ないわ。あなたずっと神無月さんのこと好きだったもの。でも、法子には内緒にするのよ。あの子、小夜子のセックスなんか考えたくもないみたいだから。……神無月さん、余計な気を使わせて、ごめんなさいね。小夜子を許してあげて。こうなるのがこの子の願いだったの」
「ぜんぜん気なんか使ってない。ヤスコが気を失って、出し切らずに抜いて待ってたら、ちょうど小夜ちゃんが入ってきて、最後の一搾りをしてくれた」
 小夜子は、
「神無月くん……あなた、からだだけを求める女と付き合ったら悲惨なことになるわよ。気をつけてね。自分から手を出さないことよ」
 ヤスコがニッコリ笑い、
「小夜子、ちゃんとイケたの?」
「生まれて初めて強くイッたわ。イキ切ったって感じ。むかしからイクのは早かったんだけど、こんなにしっかりイッたことはなかったの。おかあさんほどじゃないけど……私が声を出してるあいだ、ずっと気を失ってるんだから驚いちゃう」
 ヤスコはフフフと笑い、
「恋しい人にひさしぶりに抱かれたんだもの、気も失うわよ」
 どれほど深い愛があろうと、その果ての肉体は単純だ。ヤスコの言う単純なからだというのはそのことだろう。単純なことに倦まずに、人に対する深い愛へ沈んでいけるかどうか、そのためには頭を複雑にする必要があるとヤスコは考えている。単純と複雑の一致こそ、人間の営みと呼ぶに値する〈われもひとつ〉だと考えている。深く複雑な思いを注いだ結果のホームラン、ファインプレー、剛速球、すべて単純だ。単純と複雑の一致から野球に対する深い愛に沈んでいけるか。受験も、就職も、結婚、出産、どれもこれも複雑な思いの単純な結果だ。そこから人生に対する深い愛に沈んでいけるかどうか。二つの肉体に愛しさが湧いてくる。二つのみぞおちに口づけをする。
 二人で私の清掃にかかった。念入りにやる。
「じゃ、そろそろ帰るね」
「私たちも仕こみがあるので、いっしょに出ます。神無月さん、きょうは忙しいなかをほんとうにありがとうございました」
「試合が雨で中止になったんだ。すっかりからだが空いたら、急に船方が浮かんだ。めったにこれないから、いつも心にかかってた。くると、結局オマンコだけで終わっちゃうけど、それでもいいやって思って」
「そうですよ、こんなにうれしいことをしてもらって、心から感謝してます」
 小夜子が、
「いまのところ、ゆっくりお話できる時間がないわけだから、セックスだけになっちゃうのもあたりまえじゃない。若い男を愛したら、思春期のホルモンを理解しなくちゃ。どんなにやさしい心があったって、自然にオチンチンが勃っちゃうんだもの。それをむだにしないで駆けつけてくれたのよ。私たちおばさんにはとてもありがたいことよ。私は飛び入りだったけど、ほんとにうれしい経験だったわ。ドラマの科白みたいなこと、神無月くんに抱かれる女ならだれも考えないし、言いもしないわ」
「ドラマの科白?」
「結局、からだだけなのね、って」
 三人で微笑み合う。ヤスコが、
「からだだけでもかわいがってもらえなくなったら、女はオシマイ。かわいがってもらえるうちが花」
 ノラの仕こみ時間に合わせて、三人で神宮前までタクシーで出る。雨の商店街で買い物に付き合う。ピーマン、トマト、ナス、キュウリ、サヤエンドウ、枝豆、オレンジ、ライム、ピーナッツ、柿の種、コーラ、オレンジジュース、グレープジュース、洋酒一本、ウィンナー、チーズ類、レーズンバター、クラッカー、ボテトチップ、えびせん、スパゲティの麺、ゴミ袋……楽しい。
 ノラのカウンターに落ち着き、コーヒーを振舞われる。ようやく私の領域のプロ野球の話が出る。小夜子が、
「ホームラン百本て、この先ぜったい破られない記録ですってね」
「ぜったいとは思わないけど、五十年くらいは。あと二十本か……。プロとは言え、年間二十本打てないバッターがほとんどだ。それを考えると、あと二十本打つのは確実とは言えない。ただ、春先に公約した八十本を打てたので、少しホッとしてる。五十六本の新記録も作ったし」
 小夜子が、
「七年前このカウンターに座ってオレンジジュース飲んでた子が、テレビに映って、打ったり走ったり大活躍してるのを観ると、とっても不思議な感じ。あれは十三歳でしょう? 七年後にとうとうその子と結ばれちゃった」
「強引に結んじゃったんでしょう」
「ウフ。人生は何でもありだなって思う」
「七年長生きしてよかったわね」
「ほんと」
「神無月さん、とにかく、ケガと病気に気をつけてくださいね。偏食は禁物。夜更かしもだめ。神無月さんが健康でいてくれることが、いちばんうれしいんです」
「ありがとう」
 小夜子はしみじみと握手し、
「ほんとの悦びを教えてくれて、感謝感激よ。テレビでしか応援できないけど、いつも見守ってるわ」
 ヤスコも微笑みながら私の手を握った。
「心から愛してます。われもひとつ。神無月さんは、私の生きる力なんです」
 母親の微笑に法子の微笑が重なった。
         †
 北村席にタクシーで四時過ぎに帰り着いた。これほど動き回ったのに三時間ぐらいしか経っていない。時間がゆっくり進んだのだ。居間に千佳子と睦子がいた。
「あれ? 試験勉強は?」
「食事なんかがいろいろ不便なんで、千佳ちゃんの部屋でやることにしました。金太郎とムッちゃんにはマツモを浮かべてきたのでだいじょうぶです。三日に一度くらい帰ってあげます」
 重そうなからだで横坐りになっているトモヨさんが、
「お帰りなさい。長い散歩でしたね」
「神宮にいったついでに、法子のお母さんとお姉さんに会ってきた。新店舗の話も聞きたくて」
「開店はいつからですか?」
「七、八月かけて基礎普請を終わって、四カ月かけてウワモノをじっくり建て、一月中に働き手を揃えて、二月から開店だって」
「法子さんは一月に帰ってくるんですよね」
「うん」
 女将が、
「お祝いの花輪を手配せんと」
「まだまだ先の話ですよ」
 主人が、
「どでかいやつを贈ろう。開店の日は、客で入るよ」
「ぼくはそのころキャンプだな」
 ちょうど直人を迎えにいくところだった菅野が、
「私も客でいって、神無月さんの分も祝ってきます」
 菅野は立ち上がろうとするトモヨさんを手で制した。
「ぼくが菅野さんといってくるよ」
「私たちもいきます」
 雨の庭石を歩き、菅野のクラウンに乗りこんだ。
「席に帰ったら、二人と名鉄百貨店にいきたいんだけど」
 睦子が、
「メイ子さんですね。きょうが誕生日だから」
「うん」


         百五十四

 保育所につくと、室内の遊び場にいた子供たちが大騒ぎになった。窓ガラス越しに、
「神無月選手だ! 神無月選手だ!」
「ホームラン王だ!」
 彼らの背後で直人がさびしげな顔をしているので、オヤと思った。これまでのトモヨさんの話だと、明るく元気に保育所で遊んでいるのではなかったか。一人の中老の保育士がお辞儀をしてドアに出てきて、
「ようこそいらっしゃいました。神無月選手は子供たちの話題の人です。みんなひとかたでない喜びようです」
 もう一人の若い保育士が大きな画帖とマジックペンを持ってきたので、止みかけている雨に傘を差しかけながら、平仮名でしっかりサインした。その下に文江サインも添えた。
「額に入れて飾っておきます。ありがとうございました」
 子供たちが大喜びで画帳を奪い合う。直人を手招きすると、ようやく得意そうな表情を見せて仲間の前へチョコチョコ出てきた。睦子が何かを感じて抱き締めた。
「いつもこんなに引っ込み思案なのかな。いじめられてるんだろうか」
 千佳子が、
「奥ゆかしいんじゃないのかしら。きっと、ふだんからみんなに遠慮してるのよ。神無月さんの小さいころと瓜二つの性質なんだと思う」
 睦子が、
「いじめられる理由はないと思います。身内自慢のできる年齢じゃないですし、おとうさんが神無月さんだということを自然と知られて、子供なりの気持ちで敬遠されてたのかもしれません」
 ―直人、おまえはもっと胸を張っていい。おとうちゃんはプロ野球選手だと自慢していいんだ。私みたいな孤独な子に育っちゃいけない。自分の感情だけを大切に思い、自虐的で、自信が持てず、いつもおどおどしているような子になっちゃいけない。
 菅野が二人の保育士に近寄り、ドア口で耳打ちするように話した。直人の手を引いて戻ってくる。千佳子が、
「何を話してたんですか」
「もう神無月郷の子供だということは園内に知れているだろうから、無理に秘密にしてくれなくていい、ただくれぐれも保育所界隈の人たちや、訪ねてくるマスコミ関係者に訊かれたらシラを切ってほしい、とお頼みしたら、いのいちばんにそのことを積極的に宣伝しないよう、入園のとき直人くんのお母さまからご依頼されてます、さまざまな事情のお子さまがいらっしゃるので、秘密厳守に関しては園児の父兄間にも徹底しております、どうかご安心ください、と言ってました」
 睦子が、ね、と私に微笑んだ。
「うん。いじめられる理由はなさそうだ。直人には、ぼくやトモヨさんといういちばん濃い血縁者が身近にいるんだ。暗くすごした野辺地のぼくとはぜんぜんちがう。……ぼくは母や父とも疎遠だったけど、ほとんどの親族とも疎遠だった。野辺地の血縁者はたいてい都会に出て働いてたからね。親族という実感を持てたのは、じっちゃとばっちゃだけだった。なんだろう、都会で働いてると、ふるさとはだんだん縁遠くなるんだろうね。華やかさのない田舎を嫌いになるのかもしれない。ぼくは顔も知らない出稼ぎ人たちのふるさとで育ったわけだ。彼らの子供たちも、父母のふるさとにいっさい関心を持たなかった。だからイトコにもほとんど会ったことがない。……北村席には、ぼくがいて、トモヨさんがいて、親族以上の親族がいる。この子はそれだけで幸福だと思う」
 五人で車に乗りこむ。直人は睦子の膝に抱えられた。菅野が、
「都会にあこがれる県人気質の親族たちが神無月さんを孤独にしたんですね。青森県の他県への転出率はダントツで東北ナンバーワンですから。しかし、結婚して子供でもできたら、ふるさとと復縁するのがふつうです。祖父母に会わせたいとか、ふるさとの自然を見せてやりたいとか―。そうしない人たちの神経は理解できないな」
「故郷に戻りたがらない気持ちもわからないじゃないけどね。青森県にかぎらず、もともとふるさとに根づいている人がふるさとを愛しているかというと、そうでもないんだ。たいていの人が何のこだわりもなく家業を継ぐか、競争の少ない地元でエリートになりたがる。そういう人の心にあるのは、愛着じゃなく、ひたすら安定なんだね。ふるさとは臆病者の安住の地だ」
 千佳子が、
「都会に出た人たちがふるさとを嫌がるほどの野心を抱いていることもまれなのよね。のし上がってやるとか、金持ちになりたいとか、そんな波乱万丈の人生を求める人はほとんどいないでしょう。就職率のいい土地で、堅実に定年まで働きたいと思ってるだけ。ふるさとを嫌う理由がないんです」
「……いろいろな意味で、純粋に青森県野辺地町に関心を持っているのは、流人のぼくだけのような気がしてきた。愛情とまでは言わないけど」
 睦子が、
「冬には野辺地に帰るんでしょう?」
「うん。直人も五、六歳になったら連れていこう。退屈だけど、やさしい土地だ。じっちゃやばっちゃにも会わせてやりたいし……生きてるうちにね」
 菅野が、
「神無月さんを見てるとほんとうに感心しますよ。野心も安定志向も何もない。人間というのは何も目指す必要がないんだとわからせてくれる。社長もそんなところがありましてね、成功を求めず成功してしまった人ですが、いつか言ってましたよ、ワシは親の生業を継いだだけのウスノロだ、でもかえってそれでよかった、成功を求める人間は自分で起業しようとする、そして、三年以内にヘタを打って七割が倒産するって」
 直人は大人の会話の意味がわからず、睦子の膝に乗ってキョロキョロ窓の外の雨の街を見ていた。
 席に帰ると、主人が直人を肩車し、開口一番、
「巨人が引き分け三、借金二、勝率四割八分で、辛うじて二位です。広島とアトムズは圏外ですが、阪神と大洋が巨人とすれすれで競ってるので、今年の巨人はAクラスが危なさそうですな。そうなると川上監督は瀬戸際です。今年かぎりかもしれん」
「四連覇してるのに?」
「いろいろ騒ぎも起こしましたしね」
「もう少し……フロントの決断がつくまで二、三年はつづくと思います」
 トモヨさんが直人を抱き取り、座敷へ連れていく。幣原とシャトー鯱の近記れんが真剣に花札をしていた。れんの背中に直人が甘えかかる。幣原が私を見てなぜか恥ずかしそうにする。菅野が、
「神無月さん、秀樹が一度、キャッチボールしてほしいと言ってるんですが、いいですか」
「喜んで。広島へいくまでに天気のいい日があったら。軟式でね」
「はい、ありがとうございます。いい思い出になります」
 主人が、
「村山がコーチ兼任から、投手専任に戻りましたよ。シーズン途中はめずらしいですな」
「当然ですね。あのフォークはまだ宝刀です」
「腕の血行障害で、おととしからエースの座を江夏に譲ってたので、意地もあるんでしょう。ここに江夏のおもしろいコメントが載ってます」
 夕刊フジを押してよこす。

 村山さんは入団以前からあこがれの人です。入団が決まったときに、自宅に挨拶にいきましたが、その後はなかなか近寄りがたいものがありました。俺のする挨拶に短く応えてくれる程度で、話しこむことなどまったくないんですよ。初めてのキャンプで、旅館の大広間で食事してたとき、藤本監督の隣に座って村山さんをじっと観察してました。味噌汁から手をつけるか、ごはんから食いはじめるか、おかずからか、そんなことをじっと見てたんです。まねをしようと思ったわけじゃなくて、この偉大な人の人間ぽい仕草に興味があったんです。練習場やブルペンでは、彼の動作の一つひとつが気になりました。村山さん自身は生涯のライバルを長嶋茂雄と決めていて、天覧ホーマーを打たれて以来リベンジに燃え、千五百奪三振、二千奪三振を長嶋から狙って取りました。ふだんの試合でも、長嶋が打席に立つと目の色が変わりました。俺はその姿を見て、自分もああいう勝負がしてみたいと思ったんです。そのとき村山さんから、
「ユタカ、おまえの終生のライバルは、あの一本足の王貞治だぞ」
 と言われたんです。俺はその言葉を聞いて感激しました。それがあの好勝負につながったと思います。いま俺のライバルに神無月郷選手が加わりましたが、村山さんはいつまでも長嶋さん一本です。胸が熱くなります。俺はその白熱した好勝負を目に焼きつけながら、王さんと、そして神無月くんに挑んでいくつもりです。
 村山さんは投手専任でまだまだやれる人です。コーチというよりは監督の器の人ですから、現役を引退するときは監督になるときだと思っています。

 なぜかファイトが湧き、私は土間へ出て一升瓶をやった。三和土に両手を突き、腕立て伏せ。直人が飛んできて背中に乗ったので、落ちないようにゆっくり五十回やった。直人はキャッキャと声を上げて喜んだ。
 居間に戻ると、
「いまやってる『御用金』という映画は、日本初のパナビジョンだそうや。日本映画では初の70ミリの大画面」
 菅野が、
「本邦初となったら一見の価値ありですね。夕食後、いってみませんか」
「いきましょう。その前にちょっと名鉄百貨店にいってきます。メイ子に誕生日のプレゼントを贈ってやりたいので」
 女将が、
「神無月さんもマメなことやな」
 眼鏡をかけ、睦子と千佳子といっしょに傘を差さして出る。駅前に近づくにつれて、視線が二人に集まる。私は二人の唇と頬を見る。信じがたいほど美しい。
「アイリスではマスコット扱いだったろうね」
 睦子が、
「周りがすごすぎて、注目されませんでした」
 千佳子が、
「そうなんです。アイリスは美人のいる店で有名なんですよ。男性客が七割。男ってとにかく美人が好きですから」
「五人の美女って、女性自身に載ったわね」
「週刊現代にも」
「だれ?」
「和子さん、素子さん、メイ子さん、キッコさん、優子さん。百江さんは厨房だから見つけてもらえなかった。和子さんと素子さんは別格」
「そうかな、睦子や千佳子やイネとドッコイだと思うけど」
「欲目です」
 千佳子が、
「欲目がふつうの目になるときがくるのが怖いわ」
「いつもふつうの目で見てるよ。それでも輝いてる」
 名鉄百貨店の二階の化粧品売場にいく。資生堂コーナー。店員や客たちが二人の美女に驚く。おかげで、眼鏡をかけた私に視線が集中しない。たとえ気づいても目引き袖引きですませる。
 透明度のある仕上がりとか、光沢感が少ないとか、ローライト、Cゾーン、などという初耳の用語を聞く。美しい二人は、カウンターから押しつけがましく話しかけるビューティ・アドバイザーなるものをヤンワリとあしらいながら、美容液とオーデコロンと口紅を買う。プレゼント用に包んでもらった。
 帰り道で千佳子が、
「女性の化粧はここ数年、欧米志向になってきたんです。口紅が淡くなって、眉を極端に細く薄くして、上まぶたに二重ラインを引き、付け睫毛をつけ、目の下にシャドーを入れるようになりました」
「遇ったころの素子だ!」
 睦子が、
「理想は西洋人形だったんです。素子さんもとっくにそんな派手な化粧はやめてしまいましたし、もちろん、メイ子さんにも似合いません。口紅はしっかり赤く、眉は濃く、老化に対する抵抗力を肌に持たせる美容液を使い、からだにいいにおいをただよわせる、それで女は満点です」
「また日本人形の時代が戻ってくるわ。メイクアップは繰り返しだから」
「二人がいてくれなかったら、わけもわからずにいろいろ買わされてるところだった。感謝感謝」
 睦子が、
「それより、男の人が一人でコスメカウンターにいくことはまずありません。ビックリされちゃいます。化粧品は何千円もするような高いものですから、ちゃんと効能のある品物を計画的に買わないと、銭失いになります」
「タカモノ買いの銭失い。最悪だ。これ、ぼくの手から渡すのは恥ずかしいから、二人でメイ子に渡しといて。効能も説明してね」
「はい」
 睦子が受け取った。
 六時の時分どきを回って、カズちゃんたちといっしょに帰ってきたメイ子をつかまえ、二人でリボンつきの包みを渡して説明する。
「まあ! 神無月さんが」
 居間のテレビで忍者赤影を観ていた私に礼を言いにきたので、
「思いついたときにしておこうと思って。忘れっぽいからね。誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。大切に使います。美容液、一万円もしたんですって?」
「さあ、ぜんぶで二万円。値段より効果だね。肌に滲みこむんだって。口紅もヤマトナデシコらしい赤だ。香水は舞という名前だよ」
 涙を流している。女将が、
「そりゃメイ子もうれしいやろな。神無月さんイノチやもの」





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