百五十五
 
 幣原が早めに直人にミニハンバーグとゴマおにぎりを作って食べさせた。添え物はポテトサラダとポタージュ。幣原は、
「まだお肉は消化できませんから」
 トモヨさんとうなずき合う。私たちのためのおさんどんがすぐにたけなわになる。このごろ直人は、夕食後にトモヨさんと風呂へいくまでのあいだ、週に二度、ひとり座敷でテレビを観る。火曜日は『ウメ星デンカ』、水曜日は『赤胴鈴之助』、どちららも十五分番組だ。観終わると、歯磨き、とか、お風呂、と叫ぶ。きょうは火曜日なので『ウメ星デンカ』。
 ソテツやイネたちが腕によりをかけてフィレステーキを焼いている。何枚かまとめて焼くのに時間がかかり、五枚ほど焼き上がるつど、トルコ嬢たちに優先的に皿出しをした。一家の者たちにも遅れて配られる。
「やるわね、ソテツちゃん、ソースがおいしいし、焼き具合も満点」
「下ごしらえをきちんとしましたから。じょうおんで一時間置いてから、切れ目を入れたり叩いたり。ソースはフォンドボーと赤ワインを煮詰めて、お塩少々」
 カズちゃんに褒められて、ソテツたちはますます夢中になって肉を焼いた。ときどき食卓にやってきて、私と菅野に真剣な顔で訊く。
「松葉会と比べてどうですか」
 菅野が、 
「比べものにならないくらいうまい」
「こっちのほうがずっとうまいよ。脂身がなくてもコクがある。めしも進む」
「やった!」
 ポテトサラダのできも上々だった。ニンジンの代わりの付け合せにマイタケの天ぷらを添え、カブのポタージュをスープとして並べたことにも驚いた。
「ソテツはほんとに料理名人なんだね」
「ありがとうございます。ご褒美に、いつでも……」
「うん、そのうちね」
 千佳子が、
「ま! ちゃっかりしてる」
 トルコ嬢たちが笑う。カズちゃんが、
「これならご褒美の価値があるわよ」
 直人が私の皿に指をつけてソースを舐めた。
「おいち」
 座の微笑みを誘う。私に指を差し出す。含んでやる。
「うん、おいち。さ、歯を磨いて、お風呂に入って、オネムしなさい」
「はーい」
 トモヨさんに手を引かれて風呂へいった。
 食後こぞって駅前の東宝映画館に出かけた。霧雨だったが傘を差した。ソテツとイネとかよいの賄いたちがあと片付けに厨房に残り、睦子と千佳子の二人が女将と茶飲みに残った。同行は案外多人数になった。キッコは学校を休んだ。
 駅西に広がるのは、日本全国どこでも見かけるような、まばらなビルに旧態の民家が挟まっている光景だ。北村席からここまで出てくるのに虫歯みたいにはまりこむスーパーマーケットや、ガソリンスタンドや、レストランのチェーン店などを抜けてきた。ボンヤリ駅の方角を意識しなければコンコースの入口にたどり着けない迷路だ。こういう建物の並びはどうやって決まっていくのだろう。
 コンコースに入ると、ひんやりとした空気に包まれる。真夏はまだ遠い感じだ。駅前に出る。駅裏ほどではないが、だだっ広く、駅前なりに大きな建物もあるのに密集していない。東京とまったくちがう。
 映画館には何度入っても胸が高鳴る。柔らかそうな厚いドアを開けて、明るく輝くスクリーンの前の闇に腰を落ち着けるときは特にそうだ。座り心地のいい椅子に納まり、カズちゃんと素子に挟まれてスクリーンを眺める。その両側に木村しずかと近記れん。かすかに冷房が効いていて、館内の空気がすがすがしく乾いている。二本立ての一本目を途中から観るというのも、何とも言えない観劇の醍醐味だ。森繁の『続・社長えんま帖』―ふつうの大きさに切られた画面だ。森繁は好きでないので、小林桂樹や加東大介との掛け合いを楽しむことにする。客たちが大笑いしている。荒唐無稽な科白のやり取りを聞いて、ふだんのコチコチに凝ったからだを解凍された気分になるのだろう。
 短い休憩時間になり、キッコと丸信子が希望者何人かにソフトクリームを買ってきた。女たちは特別のごちそうのように、甘たるいクリームを舐める。私たちの前列に、主人、菅野、メイ子、百江、優子、信子、キッコの頭がある。総勢十二人。幕が限度ギリギリまで開いて大画面になると、その頭が驚いて後ろへ引いた。私はすぐに画面の大きさを忘れてストーリーに入りこんだ。
 越前福井が舞台ということだったが、どう見ても青森の下北の景色だった。藩財政救済のために御用金を積んだ船を沈没させ、引揚げを手伝った寒村の漁民たちを皆殺しにするという設定はリアルだったけれども、悪事を団結して働いた首謀者間で、漁民に対する残虐さの是非をめぐる議論があとあと生じてくるという筋立てはリアルでなかった。いったん悪に手を染めた者が分裂して、片や反省して雌伏し、悪を倒す策を練るとは支離滅裂すぎる。全編を通して、居合い抜きあり、女賭博師ありで飽きさせなかったが、しっくりしない展開に退屈した。あとでパンフレットを読むと、やはり撮影場所は下北半島だった。
 映画館を出るときは十一時に近かった。十二人ぞろぞろコンコースを歩き、錦之助や仲代達矢の殺陣のすごさを語り合った。またいこう、と主人が上機嫌に言っている。素子が私の手を揺すって、
「今夜じゅうに帰るなら、アイリスの二階に寄って。キッコちゃんと百江さんと三人で待っとる」
「うん、一回したら帰る」
 カズちゃんが、
「朝は則武でゆっくり寝てなさいね」
「そうする」
「朝食はアイリスでとってね」
「うん」
 西口でカズちゃんたち四人と別れた。北村席は女将以外寝静まっていた。信子や優子たちそれぞれ部屋に戻っていく女たちにお休みを言う。睦子と千佳子は女将の傍らに腰を据えた。
 主人の問わず語りで、アヤメの地鎮祭が終わって土台造りが始まったという話になった。ソテツとイネが寝巻姿でコーヒーを盆に載せて出てきた。
「お帰りなさい」
「なんや、おまえらまだ起きとったんか」
「女将さんとお話してました」
「映画どんでした」
 イネが私に顔を向ける。
「おもしろかった。ストーリーはチャランポランだったけど、色彩がきれいだった」
 ソテツがさびしそうな目の色をする。
「今度映画にいくときは、いっしょにいこう」 
「お願いします!」
「ワはむがしから暗れとご、オッカネすけ、遠慮します」
 男三人、思わず笑った。アヤメの話に戻る。
「六、七十人は入れるそうや。駅前のいろんな会社からドッとくるでな。二階に三つの住みこみ部屋と、広い着替え部屋を一つ造る。休憩部屋も兼ねるから、ぜんぶの部屋にガス水道もつけんとな。早番は七時から十一時、一時間休憩のあいだに交代、中番は十二時から四時、一時間休憩のあいだに交代、遅番は五時から九時までや。三交代制でやってもらう。厨房は専門の料理人が三人三交代で九人、洗い場と調理手伝い四人三交代で十二人、品出しが五人三交代で十五人かな。それぞれの時間帯に十二人の従業員が詰めることになる。総勢三十六人や。丼もの、麺類、焼きもの、煮もの、炒めものの厨房を、店の真ん中にデンと据える。その周りに品出しカウンターを帽子の庇みたいにぐるっとくっつける。カウンターの要所々々に惣菜を並べる。その周りは回廊にして、四人がけの飯台を二十くらい置いた広い畳の小上がりで囲むんや」
 菅野が、
「すごいですね。聞いただけで食いにいきたくなりますよ」
 女将が、
「肝心の職人さんは、森さんと島さんがぼちぼち当たってくれとる。九人も集めるのはきついで、腕のいい女の人を何人か雇うかもしれん。うちの寮の厨房からスカウトすることにしとる。北村の厨房からは出さん。たまに手伝うことはあると思うけどな。アイリスからは、百江と信子と優子がホールの責任者で勤めることになっとる」
 千佳子が主人に、
「一日の労働時間が四時間ということですか」
「ほうや。着替えと後始末を入れても四時間半やろ。早番と遅番には、ふつうの会社員並の給料を払う。早番の仕度には飯炊きが加わるし、遅番には帰り始末があるからな。中番の給料はその七分あて。厨房の料理人は、男、女に関わらず、ホールの従業員の二倍出す。それでもアイリスぐらい客がくれば黒字になる」
 女将が、
「朝昼晩やから、アイリスの三倍はくるわ。一日三回の客もおるやろし。味で評判が立ったら、しばらくてんてこ舞いやわ」
 睦子が、
「私、ときどきバイトさせてもらいます」
「どうぞ。ホールは学生バイトも多なると思うで」
 主人が菅野に、
「年季明けでトルコを退職したいやつは、働こうゆう気持ちがあるなら、アヤメに回ってもらう。トルコはその分、面接で補充すればええ。面接希望者はひっきりなしやで」
「そうですね。二店で、月に多くて三、四人ですかね」
「ああ、ようやっと眠なった。風呂入って寝るわ。おトク、いくで」
 夫婦で離れへ去った。
「ソテツ、こってりした肉料理もいいけど、ぼくは佃煮なんか好きだな。今度、朝めしなんかにちょこっと出してみて」
「はい」
 睦子が、
「四万十川のノリ佃煮のことをキクエさんから聞いたことがあります。高知の特産品なんですって」
「ソテツ、厨房を預かってるんだから、全国の名産ぐらい知ってるよね。教えて」
「日本各地でいろいろな種類のものを作っているので、特にと言うのは難しいんですけど、小豆島の昆布、信州のイナゴ、葉ワサビ、伊勢のアサリ、京都のチリメン山椒、石川のクルミ」
 菅野が耳を立てながら手帳にメモをとっている。そして訊いた。
「ソテツちゃん、沖縄は?」
「あります。モズク」
「モズク! あれも佃煮になるのか」
「いつか、取り寄せてみます」
「さ、そろそろ帰る。みんなも寝て」
 睦子と千佳子、ソテツとイネにお休みを言い、菅野と玄関を出た。雨が上がっている。庭石を歩きながらしゃべる。
「毎日野球をするのはきびしい仕事になるだろうと思ってたけど、そうでもない。練習を絶やさないようにしてケガを防げば、十年は保ちそうだ」
「セックスでストレス解消はできますか。これだけ人数が多いと、かえって精神的な負担になるんじゃないですか」
「そうだね。なるべく気持ちを好色にして、気がついたり、目についたりしたら、そのたびに抱いてやろうと構えてはいるけど、五、六人の好きな女とするとき以外は、義務感が先立つこともある。その分、からだじゃなく、気持ちが疲れる。セックスそのものに嫌悪感はないんだけどね」
「……きのうのイネちゃんも?」
「イネのことは好きだから、義務感はない。……ただ、あいだが空いたなァとか、待ってるだろうなァって思うと、少しね……。このあいだの千鶴ちゃんみたいに、生理的に処理したいときは義務感なんか起こらないけど―」
「重なったあとは一週間ぐらい無視したらどうですか。勃っちゃったら、その五、六人のだれかとして、あとは放っておくんです。ふつうの家庭の女房みたいにね。女房なんて、そうそう亭主にしてもらえるものじゃないんですよ」
「そうなの?」
「はい、二年にいっぺんなんて夫婦もざらにいますよ。うちの社長みたいにひと月にいっぺんなんてのはいいほうです。その社長にしても何年も女将さんを放っておいたのに、神無月さんに刺激されていまのようになったんです。じつは私も刺激されて、二、三週間にいっぺんぐらいするようになりましたが、そうなるとやっぱり義務感が湧いてきます。……もっとあいだを置こうと思ってます。神無月さんも放っておきなさい」
「そう言われて、なんかホッとした。ありがとう」
「どういたしまして。男にとって義理マンほどつらいものはないですから。一人でもつらいのに、二十人も三十人もとなったら、とんでもない重荷です」
 数寄屋門の前で菅野に、
「あした十一時くらいからランニングね」
「はい。映画を観たのは五年ぶりくらいです。楽しかったな。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
 菅野はガレージのクラウンに乗りこみ、道に出ると運転席から手を振った。
 アイリスの素子の部屋に寄り、三人の女を相手に抵抗のない〈義務〉を果たした。声と表情の感受がなければ、射精だけに没頭できる。その二つは素子だけを感じ取るようにした。カズちゃんと素子と睦子とトモヨさんには常に感動を覚える。大勢の中に混じればいつも彼女たちに視線がいく。
 則武に戻って、自分の寝室で一人寝をした。一人で寝室に入った私の様子に緊張感が滲んでいたのか、玄関に出迎えたカズちゃんもメイ子もあとを追ってこなかった。このごろどんなに短時間のセックスをしても、疲れの薄膜のようなものがからだに貼りついている感じになってきた。グランドを走り回ったあとの筋肉の疲れとは異質なものだ。筋肉の局部に集中する鋭角的な疲れではなく、全身にどんより蔓延する疲れだ。金土日の巨人三連戦を境に、あらゆる試合に最善の体調で臨もう。倦怠に似た疲れを残してはならない。


         百五十六

 六月二十日金曜日。七時に目覚めて、カーテンを開けると空が気持ちよく晴れわたっている。五日ぶりの青空を見上げる。陽射しが朝から熱を帯びている。部屋の温度計はすでに二十二度。キッチンに涼しげな音がしている。二階から下へ呼びかける。
「おはよう!」
「おはよう!」
 うがい。下痢気味の快便。シャワーを浴び、歯を磨き、髪を洗う。
 朝食のテーブルにつく。アジの南蛮漬け、ごぼうとアサリのしぐれ煮、キュウリの浅漬け、味噌汁にはナス、青菜、きのこ、かぼちゃ、わかめなどの具がたっぷり入っていた。どんぶりめし。メイ子に尋く。
「化粧品、使った?」 
「美容液はきのうの晩から使ってます。オーデコロンと口紅はもったいなくて、まだ」
「舞のにおいって、どんなものなの」
「シプレ系というんですけど、バラ、ジャスミン、柑橘類、杉の香りをブレンドして、樫の木につくコケから採った油を加えたにおいです。森と土のにおいですね」
「お店では、それつけてね」
「はい……口紅も塗ります」
「私も同じようにするわ。メイ子ちゃん、貸してね」
「はい」
 中日スポーツを開き、セリーグ打率十傑を見ておく。神無月六割八分二厘、江藤四割一分九厘、菱川三割六分零厘、中三割五分七厘、木俣三割四分四厘、高木三割二分六厘、藤田平三割一分四厘、黒江三割一分二厘、太田三割零分八厘、王三割零分四厘。十人中七人が中日だ。

  
田中勉投手退団
 
 肩の調子すぐれず
 今季すでに七勝を挙げ、小野、小川とともに中日の三本柱として活躍著しかった田中勉投手(30)が、突如退団することになった。十九日二時、中日ドラゴンズ球団事務所の公式記者会見場で、同席した小山オーナーと水原監督に見守られながら、西鉄時代に痛めた肩が本格的に悪化したため、と苦渋の表情で語った。
「もう一球も投げられない状態です。メスを入れることは考えていません。肩が完治した場合、どこかのチームが拾ってくれれば復帰もあり得ます」


 私は田中勉のダイナミックなフォームを思い出しながら、その記事を心さびしく読んだ。私が新聞を見ているあいだ、二人は話しかけなかった。
 ―向き不向き。それだけのことだ。
 仕事、遊び、いずれにせよ私は野球に向いているのにちがいない。野球をする喜びのために私はいろいろなものを捨ててきた。たとえ拾い戻す時間があっても、拾うつもりはない。未練なく捨てたいどうでもいいものだったから。
 能なき者にとっての絶好の隠れ家から抜け出すつもりはない。抜け出して無能を曝し、袋叩きに遭わないためには、アイデアが必要だ。勢いと信念のあるアイデアが。野球以外のものを捨てる……拒絶し、逼塞する。無能なのでそれ以外のアイデアを思いつかない。
 田中勉さん、あなたは野球に向いている。運命があなたを選んだ。選ばれた幸運な人間はそれを甘受するのが宿命だ。本当の自分を受け入れるべきだった。たとえ不本意だろうと、途中で投げ出していいわけがないのだ。金のために、選ばれた責任を放棄したんですか? 放棄していいのは、人生と愛を教えてくれる人と生きようと決意したときだけです。
 カズちゃんとメイ子が出勤したあと、庭に出て片手腕立てと片手振り、交互にゆっくり念入りに二十回ずつやった。芝に湯気が立っている。
 机にいき、十一時前まで五百野。野毛山の産婦人科の項の手入れ。心静かに書く。
 菅野と桜通を往復。強い陽射しに炙られ、ビッショリ汗をかく。シャワー。北村席のみんなと賑やかに昼食。緊張感が高まってくる。菅野が、
「きょうの目つき、走ってたときからふつうじゃないですよ」
「この三連戦、堀内と高橋一三と城之内を叩いて、巨人の息の根を止めたいんだ」
「その意気だと、二本ずつ六本はいきますね」
「オープン戦から四カ月、もうほとんどのピッチャーと対戦した。さすがにホームランを打ちやすいピッチャーはいないとわかった。考えて、練習して、最後は直観で打つしかないんです。基本は一つ。こうと決めて振り出したときのバットコントロールだけ。ただ、コントロールするための筋力を常に鍛えておかないと打ち損じる」
 主人が、
「筋力? 動体視力じゃないんですか」
「素早く動くものを見きわめるというよりも、静止したものをじっくり見る癖が小さいころからあるんです。走ってるときも、家や景色をじっくり見ます。動くものは一瞬見たらもう見ない」
 菅野が、
「それだ! 動く軌道を一瞬見て、静止させて記憶するんですね! 球筋ですよ。ある位置へボールがやってくるのを一瞬見て、次にどういう軌跡をたどるかを記憶してる。そこへバットを振り出す。動体視力でボールを追いかけてるわけじゃないんだ。わかりましたよ! 記憶しているコースにくるとわかってたら、静止したものを打つのと同じことになる。どんなに動体視力がよくたって、百五、六十キロのボールを追いかけるのは至難の業です。だからすぐれたバッターも、せいぜい三割しか打てない。いい動体視力で追いかけようとするからですよ」
 主人が、
「それが神無月さんの打率六割の秘密やな。目の記憶力がよかったんやな。目で頭に記憶したものは、運動能力とちがって一生衰えんわけや。鍛えるのは記憶に反応する筋力だけというわけか。わしもようわかったわ」
 菅野が、
「それでも打ち損じが四割近くあるわけでしょ。バッティングって難しいですねえ」
「テストで百点取るみたいにはいきません」
         †
 巨人の守備練習のあいだ、堀内が三塁側ブルペンでキャッチャーと二十メートルほどの間隔をとってウォーミングアップをしている。腕の畳みと回転がすばらしく、ボールが真っすぐ伸びる。二十メートルの距離を感じさせない。球は速いが被本塁打率は高い。美しいフォームと素直な球筋のせいだ。だからパワーカーブが最大の武器になる。きょうは七回までは投げるだろうから、なるべくストレートを打って二本のホームランを狙おう。
「ジャイアンツの練習時間、あと十分でございます」
 下通のいい声が流れてくる。バックネットの放送席前に走っていって、金網越しに下通にピースサインをする。下通も笑いながら人差し指と中指を広げて応える。江藤も走ってきてピースサインをする。
「ワシも一発いくけんな、ええ声で頼むで」
「おまかせください。あと四本で自己記録更新ですよ」
「去年の三十六本が自己記録か。三十七本、今月中に達成したる。金太郎さんの三分の一は打つつもりたい。狙いはホームランダービー二位やけんな。王の記録も超えたる」
「がんばってください。打率は?」
「三割五分。金太郎さんは五割五分前後に落ち着くと思うばい。六割は打てんやろう。打点は三百ぐらいやな。ワシは百五十。打率も打点も二位を狙う。つまり準三冠王たいね」
 たまたま控え審判の平光が隅のテーブルで茶を飲んでいて、ニコニコこちらを見ている。私のバット事件で五試合出場停止を食らった審判だ。
「平光さん、このあいだは申しわけないことをしました。お許しください」
「それはこちらの言葉です。いろいろご苦労がありましょうが、あなたの人徳で克服していってください。あなたに対する審判団の敬愛は甚だしいものがあります。贔屓の判定はいたしませんがね」
「当然です。きょうは堀内ですよ。おととしのノーヒットノーランのときの球審だったんでしょう」
「はい、自分でも三本のホームランを打って、ゼロ対十一で完封しました」
「彼は練習嫌いで有名ですよね」
「その年の春の強制参加の自主トレで椎間板を痛めて、以来持病になってしまったんです。七月まで投げられなかったんですよ。強いられた自主トレは危ないですね。それで特訓は無意味だと言い出した。そのせいで悪太郎と呼ばれるようになったんです。しかし、それでも十月にノーヒットノーランですから、よほどの才能です。神無月さんの特訓否定説に手放しで喜んでましたね。ただ、チーム上層部の受けは相当悪いはずです」
 下通が、
「平光さんがこんなにしゃべるなんて初めて」
 なんだなんだと、中や高木や一枝がやってくる。一枝が、
「二人でナンパしてるのか。妻帯者に勝ち目はないぞ」
「何ばぬかしよっとか。きょうもええ声ご苦労さんて、言うとったとたい」
 平光が声を出して笑った。水原監督がやってきて、
「こらこら、メンバー表交換のじゃまだ」
 高木が、
「お、もうそんな時間か」
 みんなで走ってベンチに戻る。トンボが入り、白線が引き直される。眼鏡をかける。
「まもなく中日ドラゴンズ対読売ジャイアンツ、十回戦の開始でございます」
 ざわめきの中スターティングメンバーの発表。
 読売ジャイアンツ、一番黒江、二番高田、三番王、四番長嶋、五番国松、六番末次、七番土井、八番槌田、九番堀内。王と長嶋のところで多少場内に拍手の波が立った程度だった。
 中日ドラゴンズ、一番中、二番高木、三番江藤、四番神無月、五番木俣、六番菱川、七番太田、八番一枝、九番小川。一人ひとりに大歓声と盛んな拍手が送られる。
 ビール売り、アイスクリーム売りの声がさわやかに空に昇る。
「球審は山本、塁審は一塁丸山、二塁福井、三塁原田、外審はライト中田、レフト手沢でございます。なお、ただいまの観衆三万五千二十人、グランド状態良好、気温二十四・一度、南南西の風六・五、涼しい風でございます」
 情報が細かい。下通は革命を起こしている。お守りを確認し、眼鏡の掛かりを落ち着ける。川上がベンチ最前列にドッカと腰を下している。小川がマウンドに上がる。彼の背中に促されて守備に散る。主審以外の審判が持ち場に散る。拍手が追いかける。中とキャッチボール。中から菱川へ、菱川から中へ、中から私へ、私から中へ、中から菱川へ、菱川からボールボーイへ。
 スコアボードの旗が開いてはためいている。小川が伸びのびと投球練習をしている。オーバースロー、スリークォーター、サイドスロー、アンダースロー。右腕が自在なマシンのようだ。アンダースローからのストレートが速い。黒江が素振りをしながらバッターボックスに近づいてくる。
「一番、ショート黒江、背番号5」
 立正佼成会で小川と同期だった男。三十一歳。百六十五センチ、七十五キロ。身長のわりに体重がある。豆タンクと呼ばれている。去年ベストナイン。やはりオールスター選出は、一枝より格上ということか。いや、黒江はハンブルエラーの多い遊撃手だ。年間二十個は失策をする。一枝は一つするかしないかだ。三年前にはベストナインにも選ばれている。格は大差ない。打率が多少低いだけだ。今年の黒江は三割一分で当たっているが、一枝も二割九分を打っている。ホームランは一枝が八本、黒江が一本だ。事実を言ったところで詮がない。不満は試合にぶつける。一巡目の九人をどう打ち取るかで、きょうの試合の動向が決まる。頭を抜かれたくないので守備位置は深めにとろう。黒江にも土井にもたまにホームランがある。
 初球オーバースローからスローカーブ、見逃し、ストライク。バッターボックスを外してブンブンと素振りをする。二球目サイドスローから内角ストレート。詰まって打ち上げた。私への浅い打球だ。少し前方へ動いて楽々捕球。一枝へ下手投げで返す。
 二番高田、初球アンダースローからの内角シュートを打って太田へのゴロ。簡単にさばいて江藤のミットへ。王アンダースローからの内角カーブに詰まってライトフライ。勝ったろう。取られるのは早い回に二点までか。
 一回裏、中、ワンワンから堀内の速球の下をこすってセンターフライ。高木、ストレート、カーブ、ドロップ、ストレートで三振。江藤ファールを四球打ったあと三振。みんなしっかり振っているので心配ない。
 二回表、長嶋、カーブファール、カーブファール、高目ストレート空振りで三球三振。国松初球のスローボールを打ってファーストフライ。末次ツーワンから高目ストレートで三振。
 二回裏、私の第一打席だ。堀内はベンチを見やる。川上は足を組み、そっぽを向いている。堀内はマウンドをスパイクで均し、屈んで槌田のサインを覗きこみ、うなずく。初球外角低目のストレート、速い。ストライク。二球目外角遠くへ大きなカーブ、ボール。三球目内角高目ストレート、ストライク。すべて切れのいいボールだ。三球つづけて見逃し、ツーワンになる。仲間内で不遇の男。つい表情を見てしまう。彼もしきりにグローブの先で口をこすりながら私の顔を見つめている。通じ合うものがある。
 ―心を閉じろ。引金を引け。
 二十センチほどいざって前へ出る。四球目、予想どおり真ん中にきた大きなカーブの落ちぎわを叩いて、右中間スコアボードの足もとへ八十一号ソロ。森下コーチと強いハイタッチ。水原監督と笑顔のハイタッチ。
「あと十九本!」
「はい!」
 揉みくちゃ。半田コーチのバヤリース。下通のつややかな声。きょうはホームインしてからだ。
「神無月選手、八十一号のホームランでございます」


         百五十七

 木俣、二球目の高目ストレートを叩いて、レフト上段へ十八号ソロ。菱川、初球外角カーブを打って、ライトフェンス直撃の二塁打。一塁側スタンドもベンチもお祭り騒ぎになる。太田、ツーナッシングから外角低目のストレートを叩いて、ライト前ヒット。菱川生還。ゼロ対三。一枝、カーブ、カーブ、シュート、カーブの変化球攻めに遭って三振。ワンアウト。小川、直球で三球三振。中、高目のストレートを叩いて右中間へ詰まったシングルヒット。ツーアウト一、三塁。高木、二球目のカーブを引っ張って、三遊間へ痛烈なヒット。太田手を拍って生還。四点目。ツーアウト一、二塁。三番江藤。ツースリーまで粘って、フォアボールで出る。ツーアウト満塁。打者一巡。川上の貧乏ゆすりが始まる。
 金太郎コールの中、槌田がマウンドに走る。牧野コーチがやってくる。堀内が首を振っている。敬遠して押し出しの一点ですまそうという作戦だろうか。スタンドから不満のどよめきが上がる。ネクストバッターズサークルの、ふだん色白な木俣のマシュマロ顔が真っ赤になっている。怒っている。俺と勝負する気か、一点どころじゃすまなくなるぞ、という怒りだ。
 勝負と決まった。牧野コーチがゆっくりベンチに退がる。初球、高目のストレート。江夏と同じボールだ。強いスイングでバックネットへファール。二球目、もろに顔のそばへスライダーが食いこんできた。軽くしゃがんでよける。顔を引いてよけるとボールが追ってくるので危険だ。中日ベンチが立ち上がり、盛んに怒鳴り声を発する。高木の件がある。水原監督のするどいパンパンパン。川上監督を見ると、うつむいている。わかりやすい配球だ。球種は予測できないけれども、次は百パーセント外角だ。平行スタンスから踏みこめるように、気持ちと筋肉を整える。三球目、やはり外角低目の猛速球がきた。クローズドに踏みこみ、ガッチリ芯を食わせる。堀内がグローブで膝をポーンと叩いた。悲鳴のような歓声が上がる。ひさしぶりに森下コーチの、
「ロケットー!」
 が出た。ボールはグングン伸びていき、左中間の照明塔の脇を通ってレフト場外に飛び出した。手沢線審がジェスチャーを忘れて上空を見上げている。ふと目覚めたように頭の上でくるくると白手袋を回した。ひさしぶりのグランドスラムだ。アナウンサーの声が重なって聞こえてくる。王、土井、黒江の前を通り過ぎる。長嶋がレフトスタンドを眺めながら、打球が浮き上がる手振りをしている。水原監督が抱きついてくる。花道のだれもかれもが抱きついてくる。ゼロ対八。
「神無月選手、八十二号のホームランでございます。グランドスラムは今季六本目、オープン戦も含めると八本目でございます。なお、シーズン満塁本塁打六本は、昭和二十五年わが中日ドラゴンズの西沢道夫選手が記録した五本を抜く日本新記録でございます」
 割れんばかりの拍手、怒涛の喚声。川上監督がのしのしと出てくる。球審山本にピッチャー交代を告げる。山本がバックネットの裾へいって下通にしゃべりかける。
「読売ジャイアンツ、ピッチャーの交代をお知らせいたします。ピッチャー、堀内に代わりまして、高橋明、ピッチャー高橋明、背番号20」
 大柄でドンくさそう。ヒゲの濃い地味な選手だ。ピッチング練習を観察する。オーバースローの本格派。球威はそれほどないがシュートが切れる。制球力が売りのピッチャーか。たしか昭和三十八年の西鉄相手の日本シリーズで、二つ完投勝利を挙げて胴上げ投手になり、最優秀投手賞に輝いている。以来不調だったが、去年から調子を取り戻して先発に復帰した。先月の半ば富山県営球場で、広島の山本浩司がこのピッチャーからプロ入り第一号を打った。そんな新聞記事を読んだことを思い出した。私はいまのところ高橋明からは、右中間の二塁打一本、敬遠二つだ。
 木俣、丁寧に投げこんできた内角のシュートをレフト前へヒット。そして、なんと菱川の初球に盗塁した。成功! 大きく尻を振って二塁へ豪快な滑りこみ。ベンチじゅうが拍手喝采になる。江藤が、
「達ちゃんは年に五回ぐらい盗塁するっちゃん。成功するのは一つか二つ。おかしな男ばい。達ちゃんが走る試合は負けたことがなか」
 言っている先から、菱川の十七号ツーランが出た。ホームベースに出迎えながら、高木が声を上げる。
「打ち止めだ。健太郎さんの肩が冷えちゃう」
 江藤がブルペンを指差し、
「だいじょうぶたい。ずっと投げこんどるけん」
 太田がライトフライを打ち上げて、いったん〈休止〉になった。ゼロ対十。
 三回表。小川の緩急自在の投球がますます冴えわたる。土井ショートゴロ。槌田キャッチャーフライ。堀内セカンドゴロ。高橋明も息を吹き返し、持ち前の制球力で六回まで凡打の山を築いた。私の第三打席は、外へ沈みこむシュートを引っかけてセカンドライナーだった。
 その間巨人は七回表までに、好調の小川からコツコツと適時打でなんと六点を返した。四回ツーアウトからライト前ヒットで王が出たあと、長嶋が私の前に弾き返し、国松の代打の森永がライト前に打って一点。六回、これまたツーアウトから王一塁強襲ヒット、長嶋センター前ヒット、森永この日二本目の適時打をライト前に放って一点。一塁、三塁から末次の代打の柴田が右中間へ二塁打を放って一点。二塁、三塁から土井の代打上田武司が右中間へ二塁打を放って二点。七回、槌田がセンターフライで凡退したあと、高橋明の代打で出た金田がライト前ヒット。黒江ボテボテのサードゴロの間に金田二塁へ。ツーアウトから、高田が左中間を破る二塁打で金田を還して六点目。王ライトフライでチェンジ。それで巨人の攻勢は終止符を打った。六対十。
 七回裏、かすかに勝利投手を夢見ながら金田登板。高木、懸河のドロップで三振。江藤はツースリーまで踏ん張り、失投気味に入った低目のカーブを掬い上げてレフトスタンドへライナーの三十四号ソロ。監督や仲間の祝福よりも、下通のいい声が聞けて江藤は満足そうだった。六対十一。金田はそこで緊張の糸を切った。私は肩口から力なく落ちてくるカーブドロップをライトのアキレス靴の看板へ打ち当てた。八十三号。一塁ベースを回ろうとすると王がグローブを外して右手を差し出した。私は立ち止まって硬く握手した。
「十回生まれ変わっても、きみには及ばない。生きているうちにきみに会えたことを天に感謝します。百五十本を狙ってほしい」
 私は帽子を取って深く辞儀をした。
「神無月選手、八十三号のホームランでございます。なお、このホームランをもちましてチーム二百二十四本目のホームランとなり、六月十五日の二百五本の新記録達成以来、プロ野球シーズン記録を更新中でございます。新生中日ドラゴンズの偉業に暖かい拍手をお送りくださいませ」
 球場全体が拍手の嵐になった。
 六対十二。たった三人で金田降板。首を振りながらベンチの奥へ引っこんだ。八時二十五分、敗戦処理に宮田が出てきた。フリーバッティングになった。木俣、内角の棒球をレフト線へ二塁打、菱川外角カーブをライト線へ三塁打、十三点目。太田ひさしぶりにレフトスタンドへ十五号ツーラン、十五点。一枝センター前ヒット、小川セカンドゴロ、一枝セカンド封殺、ツーアウト一塁。中レフト線二塁打、ツーアウト二塁、三塁。高木左中間へ十六号スリーラン、十八点。江藤センターライナー。六対十八。
 八回表、小川に代わって背番号35の星野秀孝が初登板した。五回ぐらいから彼はブルペンでずっと投球練習をしていた。太田からの情報によると、彼は群馬の尾瀬の県立高校分校からやってきた軟式野球少年で、昭和二十四年十一月生まれの十九歳。プロでは私の一年先輩で、同学年だが一歳年下。身長百七十八センチ、体重七十キロ。
 強靭な鞭のようなからだをしている。投球フォームに無理がなく、地肩が強いとすぐわかる。スピードのある直球とパームボールが武器。あと六人の抑え方しだいでは、浜野百三や田中勉の代役はおろか、小川、小野を凌いで主戦投手に躍り出るかもしれない。しかし、一軍初登板の最初の打者が長嶋とは! きっとそういう巡り合せの星を運命的に持っている男なのだ。
 中日ベンチが身を乗り出している。木俣がマウンドで何やらじっくり言い聞かせている。ミットで肩をポンと叩いた。
 美しく振りかぶり、グンと胸を張り、右膝を高く上げ、幅広く踏み出し、肘から先をしならせるように腕を振り下ろす。初球胸もとのストレート、ストライク。速い! 手首の叩きつけがすばらしい。長嶋が山本球審に、高い高い、というジェスチャーをする。実際レフトの守備位置からは高く外れているように見えたが、アンパイアがストライクを宣告するからには、予想を超えた球威があるということだ。私のフリーバッティングでは遠慮して投げていたのにちがいない。
 二球目、外角高目ストレート。ファールチップ。とにかく速い。やっぱりエース誕生かもしれない。いちばんほしかった左のエースだ。木俣のアドバイスは、直球で押せということだったのだろう。長嶋が袖をまくって真剣に構え直す。三球目、ストレートとほとんど変わらないスピードのボールが外角に沈んだ。パームボールだ。空振り三振! フラッシュのきらめき。一塁側ベンチとスタンドから大歓声が湧き上がる。こんなやつがどこにいたのだという驚きの歓声だ。星野は偉大な打者長嶋茂雄を三球三振に切って取ったのに、悠々とスタンドを見上げている。あしたの新聞は彼一色になるだろう。
 五番森永。外角ストレートでたちまちツーストライクに追いこみ、長嶋と同様パームで空振り三振に切って取る。そうして星野秀孝は新鮮な空気を吸うようにスタンドを見回す。この美しい投げ方をどこかで見たことがある。幼いころ、どこかで。左ピッチャー……肘と手首のしなり……胸を張ってあたりを見回す身ぶり……。
 ―長崎くんだ! 
 千年小学校の長崎くん。初めて私にDSボールを投げこんだ長崎くん。三階校舎の屋根まで飛ばされて、真っ赤になった長崎くん。星野は長崎くんの成長した姿だ。フリーバッティングのときからなつかしい感じがしていた理由がわかった。
 右打席の柴田。すべて内角ストレート。一球も振らずに三球三振。私たち外野手三人はダッシュして星野の背中に追いつき、
「ナイスピッチング!」
 と肩を叩きながら称賛した。星野は満面の笑顔で、
「ありがとうございます!」
 と帽子を取った。江藤が飛びつくように背中を抱いて、
「新人デビュー、三者連続三球三振は史上初やないか!」
 小川も走ってきて、
「譲った、譲った、きょうからおまえがエースだ。上がりの小野さんにも見せたかったな」
 半田コーチが、
「はーい、バヤリース、ボーナスよ」
「ありがとうございます!」
 星野はうまそうに飲み干した。水原監督が、
「こっそり成長してたんだね。これで連覇の光が見えてきたよ。投げこみすぎないようにしなさい。次回からは中四日か五日のローテで投げてもらう」
「はい!」
 長谷川コーチがうれしそうに手をすり合わせている。木俣が、
「おまえ、権藤さんくらいスピードがある。江夏より速い。毎日の投げこみは五十で止めとけ。十年保たせろ」
「はい!」
 バヤリースの空瓶を半田コーチに返し、ブルペンへ走っていった。
 八回裏。先頭打者でバッターボックスへ。宮田の球がソフトボールのように遅く見える。初球、内角低目の小便カーブ。手首を絞ってゴルフクラブのように叩きつける。低い弾道でぎりぎり右中間最前列に突き刺さった。打球の速さにライトもセンターも一歩も動かなかった。森下コーチとタッチ。轟々という喚声の中、水原監督とタッチ。仲間たちとタッチ。
「神無月選手、八十四号のホームランでございます。一試合四ホーマーは今シーズン四度目でございますが、四月二十二日にアトムズ戦で記録した二度目の四ホーマーからはシーズン世界新記録になっております。その中には五月十四日のアトムズ戦で記録した六打席連続ホームランの世界記録も含まれております」
 巻き上がる怒号と拍手。六対十九。田宮コーチが、
「あと一点とって、キリよく二十点にしとこう」
「オーシャァ!」
 中が私に、
「このごろEK砲と言われなくなったね」
「打ちすぎて呆れられたんでしょう。イケ、イケで、くだらないシャレみたいですし」
 高木が、
「最高のカップルなのに、ONの二番煎じにされるのはいやだよな。何も言われないほうがいい」
 一枝が、
「期待したときに打ってくれれば愛称もつけてやりたくなるけど、期待しようとしまいと打っちゃうから、あんまり親しげなあだ名はつけたくないんだろう」
 菱川が、
「まるで台風ですよね。けど、どんな台風にも名前はついてますよ」
 江藤が、
「いっそのこと、単純に台風打線でどげんな。期待と関係なく台風は吹き荒れるもんたい。そぎゃん名前がついたら、ワシらに呆れるやつも納得してくるうやろう」
 田宮コーチが、
「それでいこう! 台風打線! マスコミの耳に入るように、しょっちゅう口に出してやる」
 トロくさい名前なので、採り上げられないだろうと思った。



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