百六十一

「そろそろごはんですよ!」
 ソテツの声に促されて食卓を囲むと、よしのりの話になった。主人が、
「神無月さんと山口さんに挟まれて暮らしとったら、身も世もなくなるが。有名になりたくて、世間体を忘れてシャカリキになる。男というものは、女みたいにぼんやりあこがれるだけじゃすまんからな」
 女将が、
「有名の陰で、神無月さんも山口さんも、どんだけ努力しとるかわからんのよ。おトキが電話で言っとったわ。山口さんが練習しとるときは、怖くてそばに寄れんて。神無月さんもほうやろ。練習しとるときはそばに寄れんわ」
 菅野が、
「いっしょに走りながら、同じ息をしていても、そばに寄れない雰囲気がありますよ。ドラゴンズの選手たちもきっと同じでしょう。横山さんはけっしてそこを見ようとしなかったし、野球をする現場も見ようとしなかった。野球選手は横山さんがなりたいものじゃないからです。なりたいものはなかなか見つからなくても、なりたくないものはすぐ肌でわかるんです。きっと詩人になりたかったんでしょうね。でも、神無月さんの詩は暗記するけれども、詩を書く現場は目撃しないし、詩を書く努力もしない。でき上がった結果だけを見て、俺もと意気ごむ。踊りも、民謡も、浪曲も、並たいていな努力じゃ名人になれません。瞬間記憶力だけじゃだめなんです。幅広い感情がないと」
 カズちゃんが、
「人と自分を比べたがる人は処置に困るわね。世の中そんな人ばっかり。よしのりさんは自分が何かで有名になったら、キョウちゃんを訪ねてくるわよ。心に余裕のあるときのよしのりさんは、いい人だから」
 主人が、
「ワシも横山さんは嫌いじゃないな。いつだったか彼に、女運が悪いですね、と言ったことがあったんやが、彼いわく、神無月を試金石にして女をこすりつけてみれば俺の女なんかみんなすぐノーグッドが出ますよ。それがわかってるんで、神無月には女を会わせません、と言っとった。神無月さんの眼鏡にかなった女はホンモノで、自分はニセモノばかりつかまされる人生だと言いたかったんですよ。悲しい顔やったなあ。あ、そうだ、今朝の雨天中止の電話で、代替日は七月十日と言っとりました。後楽園、木曜日ですな」
 玄関におとないの声がして、女将がハイと応えて出ると、塙席の夫婦だった。洋服を着ている。若い男たちに今回も酒樽を担がせていた。
「日ごろお世話になっとるお礼をひとこと申し上げたくて参りました。酒は余っとると聞いとったが、シルシのものやから」
 ご苦労さんと言って若者を帰し、居間ではなく座敷に案内されてきて、主人の前で一礼し、あぐらをかいた。塙の女房は額づいた。
「食事どきに申しわけありません。神無月さんや、直人ちゃんや、お嬢さんがたのお顔も拝見したかったので、図々しくこの時間にやってまいりました」
「トモヨと直人に会いにきたんやろ?」
「あ、いや、ハハハ。十九連勝の新記録も先んじてお祝いしたかったし」
「直人、こっちおいで。このおじさんとおばさんに、チュしてあげて」
 素直にチョコチョコやってきて、二人の頬に唇をつける。
「あ、ハハハ、ありがと」
 走り去って、睦子の膝にいく。
「トモヨ、お腹、大きなったなあ」
「再来月が産み月です。順調です」
「ほうか。北村さんは、どんどん跡継ぎができて、ええですな」
「跡を継ぐかどうかわからんよ。次に継ぐのはこの菅ちゃんや。そのあいだに直人は世間に出てしまうやろ。あんたんとこはみんなまじめなサラリーマンやから、一代で終わりかもしれんな」
「ま、それも時の流れや、仕方ないわ。ところで会長、このたびは、送迎の運転手を手配していただきまして、まことにありがとうございました」
「なんの、うちも松葉さんにお世話になっとるで、できれば塙さんもよろしくと言っといたんですわ。ま、忙しいやろうが、少し飲んで、つまんでいってください」
「は、ありがとうございます。うちもハイエースを買いましたよ。あれはいい。たっぷり乗れる」
 トモヨさんが二人にビールをつぎ、皿のつまみを整える。
「北村さんの家のあたりは、最近静かになりましたな。神無月さんが百号打ったとか、三冠王を獲ったなんてときは、たいへんなことになるでしょうな」
 みんながめしの箸を動かすなか、うまそうにビールをすすり、皿のものをつまむ。女房とカズちゃんたちがトモヨさんのおさんどんでめしにした。
「仕方ありませんわな。たいへんな人が住んどるわけですから」
「町内の餅搗きなんかに出てもらったら、それこそお祭り騒ぎになりますな」
 私は、
「肩、肘に悪いので、餅搗きは遠慮させていただきます」
 菅野が、
「それ以前に、町内会費じゃ賄えないくらいの出演料ですよ」
「いや、ぼくはそんなもの……」
「わかってます。冗談です。ところで塙さん、店の年季が明けて、もっと働きたいと言ってる女がいたら、アヤメのほうに応募するように言っといてください。うちに面接にきた子で手余りの子は、塙さんのほうへ紹介するようにしますから」
「ありがとうございます。大門で合わせて三軒の大店やからね、持ちつ持たれつです。今年で明ける子が何人かおるで、声をかけときます。直人の誕生日のときは、私たちも呼んでいただけますか」
 女将が、
「もちろん、どうぞいらしてちょうよ」
 蛯名が中番の女たちを玄関まで送り届けてきた。主人に勧められて蛯名は座敷に上がり、一杯だけいただきます、とビールを含む。塙夫婦が挨拶する。
「このたびは送迎の運転手さんを紹介していただき、ありがとうございました」
「ああ、いや、あれはうちの三下ですが、信用できる男です。あれで三十ですよ。用心棒代わりにもなるし、重宝に使えるでしょう。めしさえ食わせとけば文句のない野郎です」
「給料のことをいっさい聞いていないんですが」
「従業員の三分の一でも四分の一でも払ってやってください。配下にでもおごる小遣い銭にしますよ。そのくらいでも手下(てか)に鼻を高くできる。それ以上はあかんです。組長の好意がムダになるので」
「わかりました。つくづくお世話さまです」
 蛯名の小遣いは先日主人が牧原に渡した心づけから分与されている。そのことは、蛯名自身が主人に伝えていたのを耳に挟んだ。海老名はコップを置いて、
「じゃ、最終のレディたちは深夜にお届けします」
 主人が、
「レディときましたか。うちは二人ですが、そのあと何人か送っていくんですか」
「五人ほど。送るコースはもうだいたい暗記しました。遠くても天神山なんで、ぐるっと回っても三十分ぐらいのもんですわ」
「そのあとは熱田のほうへ?」
「はあ、車で帰ります。よほどのときは交替で詰めることになっとりますんで、ご心配なく。じゃ、私はこれで」
「ご苦労さまでした」
 塙夫婦も挨拶する。私は立ち上がって頭を下げた。
「くれぐれも組長さんにお礼を」
「やめてください、神無月さん。もったいない。私たちはゴキブリ扱いでいいですよ。きちんと伝えておきます」
 ほうほうの体で玄関へ去る。私はテーブルについて箸を動かしながらカズちゃんに、
「よほどのときって、出入りのことかな」
「他県への出張とか、風邪をひいたりしたときのことだと思うわ。ここ最近は、出入りみたいな物騒なことはないんじゃないかしら。大きな組だから、そうそう喧嘩を売られることもないでしょう」
 塙の女房がカズちゃんに、
「あんたと素ちゃん目当てにアイリスにくる客が多いんやて。美人は得やなあ」
「うちは味とサービスで人気があるのよ。家族連れが多いんだから。いま最大の目当てといったら、神無月郷でしょう。たとえ私たち目当てのお客さんが一部いるとしても、花の盛りは何とやらで、あと四、五年もしたら、若い女の子目当てになるわよ。でも、キッコちゃんや素ちゃんみたいなきれいな子がお店にいるのは悪いことじゃないわね。花が咲いたみたいで」
「トルコは、二、三人きれいな子が客寄せでいてくれればじゅうぶんなんやけど、なかなかなあ。千鶴ちゃんみたいな子は応募してこん」
「客を寄せられるのは女の子じゃないと思うわよ。くつろぐ感じよ。お客さんをホッとさせるお店の雰囲気。女の子が明るくのんびり働くことができればそうなるわ。それでなくても苦しい思いをして働いてる子たちなんだから、お店に締めつけられたら真っ暗くなっちゃう。それがお店の雰囲気に響くの。この商売は、十年二十年は傾かない商売なんだから、じっくりやらないと」
 素子が、
「塙にいたころトモヨさんが売れんかったこと考えると、やっぱり客商売はシナモノの外見やないようやね」
 素子は、塙の金銭的な待遇の悪さと、明るさのない経営姿勢が問題だと言いたいようだが、気を差してそれしか言わない。塙の女房は、
「とにかく、北村さんの中堅どころは美形ばっかしや。厨房もかわいらしいしな。塙の厨房なんかゴボウかサツマイモやわ」
 カズちゃんが、
「おばさん、身内への愛情が足りないわよ。うちの女の人が輝いてるのは、ここにいる耕三トク夫婦のおかげ」
 塙の主人が、 
「それと、お内裏さまの神無月さんやろう。官女たちもすごいけど、内裏雛が桁外れにすごいですもんな。その立派なお雛さまを後援できる財力を築き上げた北村さんが、いちばんすごい。のほほんとしとるようで、私らでは到底敵わんほど頭が切れる。しかし、頭が切れるだけで成功できるなら、世の中の相当な数の人間が成功できることになりますわ。秘訣は何やろな」
 塙の主人にビールを継がれた北村席の主人が、
「ワシは、女子従業員と男子スタッフのみんなが、どうやったら幸せになれるかしか考えとらんのよ。これにはまだ確実な答えが出とらん。というのはな、そういう問題は、規則とか仕組みを作るだけでは解決せんからや。週に二日休ませる、危ない客は金を返して追い返す、病気になる可能性のあるやり方で本番をさせん、そういう規則は徹底して実行しとる。しかし、みんなの幸せを考えるゆうんは、青臭いこと言うようやが、一人ひとりと真剣に向き合っていくことやと思う。規則とか仕組みみたいな〈きれいごと〉では、みんなは幸せになれん。矛盾したことを言うようやが、みんなにとってベストの答えというやつはないと思う。毎日の業務に向き合うなかで、一人ひとりのことを気にかけて、その一人ひとりを少しでもよくしていくことを心がけるしかないんやないのかな」
 キッコが、
「そのおかげでうちは高校にやらしてもらっとる」
 トモヨさんは、あくびをしはじめた直人を風呂へ連れていくついでに、
「私は養女にしてもらって、母子の人生を救っていただきました」
 主人夫婦に頭を下げて廊下へ出ていった。直人は廊下から塙夫婦に笑顔を向けて、
「おじちゃん、おばちゃんバイバイ」
「はい、バイバイ」
 素子が、
「お姉さんと北村席には、どれほど世話になっとるかわからん。こうやって生きとるのが自分でも不思議や。ここにいるみんなそうや」
 主人は、
「女のからだを商売の種にするゆうんが社会にとってどういうことなのか、それにもベストの答えがあれせん。汚い商売やと世間から思われとるからこそ、商品になっとる弱い立場の者や、それを売っとる男子店員に、少しでもええことしとるゆう自信を持たせて、安心させてやりたい思うんや。それもこれも、ぜんぶ、この神無月さんに遇って初めて感じた心持ちや。神無月さんは世間常識とはまったく正反対のものの考え方をする人で、ワシらみたいにわざわざ心持ちを決めんでも、最初からこの家業を汚いと思っとらんかったし、やさしい心遣いで周りの弱い人間を一人ひとり救ってまう。救うゆう意識もあれせん。気ままに思いどおりに生きとるだけなんやな。やさしく、気ままに。で、ワシは、そうや、これや、と思った。ひょっとしたらこれが解決策なんやないかと思った」


         百六十二

 塙の主人は、
「そのとおりですわ。私も神無月さんを商売の顧問にしたいわ。そんなふうに自然には振舞えんから、心がけの顧問にな。そんな環境におったら、女たちも明るい人間になるやろう。客足の運びもええわけや。ええ話聞いた。きょうあすには変われんけど、少しずつ考え方を変えていくようにするわ。まず、二十人くらい住める寮を建てんとあかんな。かよいばかりやと、事情を抱えて困っとる人間を収容できん」
 菅野が食後の茶を飲みながら、
「塙さん、きびしいことを言うようですが、そういう慈善心だけではうまくいかんのです。社長は締めるところは締めてます。昭和三十三年の売春防止法以来、売春は法律で禁止されてるのはご存知のとおりです。露見したら裁かれることになっとるんです。サックつけるつけないの問題じゃない。バレたら裁かれる。トルコ風呂として届け出れば、建前上〈風呂屋〉と警察側が認識しているふりをする。それに乗っかって商売してるだけなんですよ」
「わかってます。お目こぼしで商売しとるということでしょう」
「はい。その警察も、客や従業員からのチクリを無視するわけにはいかない。すぐに内偵が入り、逮捕ということになります。社長は慣例として逮捕を免れますが、客、女、従業員の三者が逮捕されます。うちが松葉会さんと手を結んだのは、根本的には、神無月さんをかわいがる組長に感動して甘えた格好ではあるんですが、便宜的には政界と結びついている牧原さんに頼って、その筋を通じて警察と仲良くするためです。チクリが入っても内偵までいかないという保証を得るためです」
「うちもそのおかげをこうむっとります。ありがとうございます」
「いくら仲良くしていても、噂や密告が度重なれば、警察も動かざるを得ません。たまたま社長の方針が、おのずとチクリの防止になってます。つまり、神無月さんは、この太閤通全体の風俗店の安全を保証してくれてることになるんです。鎮守の森に祀ってもいいくらいの人なんですよ。どうか一人ひとりへの気配りをよろしくお願いします。まんいち客に対する応対の悪い女がいたら、松葉さんに頼んで辞めてもらってください。その前に面接を慎重に」
「よくわかりました。うちにもしものことがあったら、北村席さんにご迷惑をかけることになる、ひいては神無月さんに迷惑がいく。心します」
 目を丸くして聴いていた千佳子が菅野に、
「トルコ風呂って合法ですよね。たしかそう習いましたけど」
「合法です。きっちり風営法に基づいて許可された接待サービス業です。中でしていることも、風呂設備を提供して、三助のようなサービスをする業務だけなら違法ではありません。ただ、警察への届出で許可される商売なので、警察の監視下にあります。監視しているのは売春行為です。業務に売春が入りこむと違法行為とされるんです。三十三年からそうなりました。しかし、もてない男たちに人並の喜びを与えるという意味で、立派な仕事だと私は信じています。つづけるには警察のお目こぼしが重要になるわけです」
 睦子が、
「合法でも違法でも、その商売のおかげで救われる人がいるなら、宗教に近いものだと思います。宗教は法律にのっとって行なわれません。商売をつづけるのに不都合があるなら、だれの力を借りてもいいから、その不都合を取り除く策を採るべきです」
 メイ子が、
「宗教じみた仕事だと割り切れればいいんですけど、どうしても女には後ろ暗い仕事をしているという気持ちが残ります。菅野さんや睦子さんが弁護してくれるほどすばらしいことをやってると思えないんです。毎日宙ぶらりんな気持ち。だから、私のように足抜けしたがる子も出てくるの。そんなとき、ふだんやさしくしてくれるだけじゃなく、借金を肩代わりして足抜けを前倒しで承知してもらえるとなったら、どれほどありがたいか。借金は足抜けしてから、新しい仕事でゆっくり返してくれればいいと言うんですから。……旦那さんは、まるで仏さまです」
 塙は、
「そりゃまた北村さん、思い切ったことをしとりますなあ」
「そういう子は何人もおりませんが、足抜けしたいと言うのを無理に止めたら、のちのちロクなことになりませんからな。足抜けなんかしないで稼ぎたがっとる子もようけおりますからこの業界はもっとるわけですよ。ところで、松葉さんには町内会全体の上納金を百万納れとります。それで一軒一軒のミカジメを免除してもらっとるんです」
「それなんですわ。牧原さんがここを仕切る前は、いくつか小さい組にチョコチョコ払うと、七、八百万になっとった。町内会の予算がごっそり持っていかれとったのが、ここにきて百万でしょう。神無月さんサマサマですよ」
 カズちゃんが、
「ムッちゃんの言う宗教的な行為に対しても、法人組織でないかぎり法律は情け容赦ないから、とにかくできるだけがんばって長つづきさせないとね。立派な仕事だという菅野さんの信念を持ってがんばりましょう。私としては、自分が生まれた家の仕事を応援しないのは、人間としてのミチに外れると思ってるの。メイ子ちゃんも、後ろ暗い気持ちなんか持っちゃだめ。後ろ暗くなんかないわ。性欲を満たすのは人間のあたりまえの行為だもの。人間が下半身でつながってるなんて、考えただけでうれしくなるでしょう。仕事上イヤな人ともつながらなくちゃいけないのがつらいところだけど、いったん就いたどんな仕事も同じようにつらいんだと思って、それ以上は考えないこと。とにかく足抜けできたんだから、むかしの気持ちは忘れなさい。でも、実際にお仕事してる女の人を侮辱しちゃだめ。男も女も義理と人情がいちばん大切よ」
「はい!」
 塙が、
「何やら、やる気の出てくるお話ですな。うちの息子や娘たちは塙に寄りつきませんよ。義理人情なんてこれっぽっちもない」
「そういう生き方も黙認してあげないと。身内なんだから。私もさんざん反抗したほうよ」
「はあ、そうでしたな。なつかしいですな。あのころ乗ってたカワサキのオートバイはどうしました」
「とっくに売り飛ばしたわ。節子さん、キクエさん、きょうはお仕事何時から?」
 キクエが、
「十一時からです。九時ごろ帰ります。もう少しゆっくりできます」
 菅野が、
「私が送っていきますよ、新車でね」
 塙の女将が、
「トモヨは相変わらず車で直人の送り迎えしとるの?」
 菅野が、
「これまではほとんど奥さんが歩いて往復してたんですが、最近は私が一人でやってます。この先はそろそろそうしないと無理です」
 塙の女将は節子とキクエに、
「二度目のお産は軽いって言うけど、ほんとやの? うちもたしかにラクやったけど」
 節子が、
「それは若い人の話で、トモヨさんは四十歳という高齢ですから、二度目がラクになるとはかぎらないんです。ただ、一度目の出産が七回か八回いきんだだけのスピード出産でしたから、二度目もそれほどつらくはないと思います。会陰は切開しますが、体力はあまり消耗しないでしょうね。痛みと言っても、尾骶骨が痛くなるくらいです」
 睦子が、
「出産て、お腹じゃなく、お尻が痛むんですね」
 キクエが、
「そうなの。あとは、切開した会陰に麻酔して縫うときにチクチクするくらいです。でも最後まで何が起こるかわからないのが出産なので、ナメた気持ちでいてはぜったいいけません」
 トモヨさんが直人を寝かせて戻ってきたのを潮に、塙夫婦が立ち上がり、
「出産祝いに、また届け物をさせてもらいますわ。トモヨ、精々からだ労わってな。北村会長、あしたの寄り合いは、椿神明社の祭りの準備についてですな」
「はあ、十月のことなので先の話やが、準備を怠ったらいかんです。駐車場やら、籤引き会場やら、いろいろありますから」
「そうですな、何週間かかけてじっくり煮詰めましょう。じゃ、あしたの昼の十二時に町会館で。きょうはごちそうさまでした。食事どきに長居してごめんなさい。神無月さん、無事これ名馬。ケガをせんようにね」
「はい、気をつけます」
 主人夫婦とトモヨさんが式台まで見送りに出た。玄関の戸の向こうに雨が降っている。ソテツとイネが傘を持って玄関灯の下までついて出た。菅野が、
「アキレス靴から百万円、それから靴のカタログと、三十足の注文券が届きましたが、どうします?」
「ぼくの運動靴はミズノで足りてますから、三十足は幼児靴と女性の靴にしましょう。みんなの寸法を訊いて注文しといてください。厨房とトルコの人の分も。お父さんと菅野さんと、森さん、島さんの紳士靴もついでに。ぼくはいいです。イタリア製の靴が甲高二十七・五センチにはピッタリですから」
 カズちゃんが、
「もう二十八センチじゃないと無理よ。オールスター前に新しいの買いましょ」
 菅野がカタログを持ち出してきてテーブルに置くと、店の女たちが覗きこみ、笑いで沸いた。女将も覗きこむ。私はソテツに、
「腹がいっぱいだけど、別腹でお好み焼が食いたいな」
 素子が立ち上がって、
「作ったるわ。まだ食べれる人おる?」
 菅野と、箸を使いはじめたばかりのトモヨさんが手を上げた。カズちゃんと百江とメイ子も立ち上がる。キッコが、
「お好み焼は大阪が本場やで。あたしが作るわ。トモヨさん、薄力粉、ダシの素、揚げ玉、キャベツ、豚バラ、それからトンカツソース、マヨネーズ、洋ガラシ、鰹節、青海苔、あります?」
「ぜんぶありますよ。トンカツソースもお好みソースもあります。あなた、学校は?」
「土曜日は英数国の補講やさかい、出んでもええんよ」
 ソテツとイネが厨房からやってきて、
「お好み焼き? 食べたーい!」
「二枚焼けるフライパンが三つあるべ?」
「あるある」
 厨房に五人、六人が立ち混じる。瞬く間に六枚焼き上がる。こうなるとほとんど全員が私も、私もとなる。主人夫婦まで手を上げた。夕食の惣菜を下げ残したままの食卓に、全員のお好み焼きの皿が並ぶ。
「カズちゃん、洋がらしとケチャップとマヨネーズを混ぜたのを、小皿でちょうだい」
「はーい」
 まず主人が舌鼓を打ち、味を絶賛する。
「こりゃ、ええ! うまい」
「ほんと、おいしい!」
 睦子と千佳子がはしゃぐ。千佳子が、
「神無月くん、どうしてお好み焼きを?」
 私はもっともらしい顔で、
「いつもごちそうだから、こういうチープな味も食べたくなってね」
 主人が、
「女と同じですな」
 女将がギロッと睨み、
「だれのこと?」
「いや、もののたとえやが。わしは、ずっとおまえ一本や」
 菅野がむしゃむしゃ口を動かしながら、
「社長、ない腹を探られてもつまりませんよ。軽口もほどほどにしとかないと」
「いやあ、お好み焼きがうますぎてな」
 みんな笑いながら一心に箸を使う。


         百六十三

 節子とキクエを門の外まで見送った。傘を叩く雨の音が涼しい。
「また近いうちにね」
 キクエが、
「きょうは、キョウちゃんに抱いてもらったうえに、おいしいものを食べて、いろいろな話も聞けて、ほんとに楽しかった。今夜からまた張り切って働きます。愛してます」
 節子は、
「キョウちゃんの女でいることの幸せをいつも噛み締めてるわ。ケガに気をつけて、あしたもがんばってね」
 傘の下で二人にキスをした。菅野が運転席から見守っている。いまの自分以上の存在にも以下にもなりたくないと思った。新品のクラウンに二人乗りこみ、私に手を振った。この自分が差し引きなしの自分であることを信じながら、手を振り返した。
 飛び石を戻りながら、ふと足を止めて、庭園灯に照らされた木群れを眺める。ぼんやり光る池、黒い絨毯のような芝、窓の明るい二階家。ここは私の棲家ではない。私を納める器は、笹薮を庭にする飯場の三畳小屋がふさわしい。合船場、国際ホテル、鉄道官舎、崖の家、箪笥ベッド付きの浅間下の板の間でさえ、私のねぐらには贅沢だった。高島台や平畑や岩塚の飯場、そこの畳部屋が私の棲み家だ。私が私でいられるのはそこしかない。
 カズちゃんが、傘を差してボーッと立って屋敷を眺めている私を迎えにきた。玄関へ腕を組んで戻りながら、いま考えたことを話す。
「どこにいても自分でいる人よ、キョウちゃんは。……人間の器は、容れもので決まらないの。容れものはその人自身でしょ?」
「そうだけどね。ぼくの言いたいのは、ぼくの器量のことじゃなく、ぼくが等身大でいられるための容器のことなんだ。でも、カズちゃんがいてくれれば、ぼくはどこにいても等身大でいられる。カズちゃんは、ぼくという心臓を納める容器だからね。極端なことを言うと、カズちゃん一人がいてくれればいい。睦子やトモヨさんやほかの女たちも愛しいけれど、カズちゃんがいなければ、彼女たちも全力で愛せない。等身大で対応できないということなんだ」
「私はいつまでも元気でキョウちゃんの容器でいるわ。容器が元気でないと、心臓も元気でいられないもの」
 傘を差して千佳子が走ってきた。
「神無月くん、まだ英語に自信ある?」
「ない」
「それでもちょっとキッコちゃんを見てあげて。五、六行の全訳。月曜提出なんですって」
「遠慮する。甘やかしちゃだめだ。独学を基本にさせなくちゃ」
「そう言うと思った。ムッちゃんも反対したのよね」
 千佳子はキッコと睦子のいるテーブルに戻った。自分に挑戦するつもりで、少しだけ見たくなった。
「どれ、ちょっと見せて」
「これなんよ。さっぱりや」
「千佳子も睦子もわからないの?」
 睦子が、
「単語と熟語が会話ふうでわかりにくいの。主人公が機械に挟まれて指を潰しちゃったことはわかるんですけど」

 When I was six, I got fed up with being in the gleaning- field with all the women, so I ran off to help the boy who worked the cattle-cake machine. In no time, my hand was caught and my fingers were squashed. The farmer was just coming up by the granary on his horse when he heard me screaming.
“What have you been up to, young scamp?” he shouted. “My fingers ― they are in the cake-breaker!” And he said ― I shall never forget it ― “Get you off home then!” But when he saw my hand he changed his tune and said, “Get up to the house.” The farmer’s wife tied some rag round my hand and took me home and my mother wheeled me miles to the doctor’s in a pram.

「六歳のころ、ぼくは女たちみんなと落穂拾いの畑にいるのに飽きあきしていた。get fed up with は何々に飽きあきする」
 キッコは懸命にノートをとる。
「そこで、run off その場から去って、飼料粉砕機を動かしている少年の手伝いにいった。この to は結果の to で、左から、て、と訳す。手伝いだしてすぐに、巻きこまれて指が潰れた。ちょうどそのとき、農夫が馬に乗ってこちらへやってきて穀物倉庫のところを通りかかり、ぼくが叫ぶのを聞いた。―このあたりはわかるね」
「うん」
「be up to は、何々している」
「そうなんですか!」
 睦子が驚く。
「何しとったんだ、いたずら小僧、と彼は叫んだ。scamp は悪ガキ。指が粉砕機に巻きこまれちゃったんだ。すると彼が言った―ぼくはけっして忘れない―それなら家に帰れ! でも彼はぼくの手を見たとき、声の調子を変えて、俺の家に連れてってやろう、と言った」
 睦子が、
「get だれだれ off home は?」
「だれだれを帰宅させる。自分を帰宅させろ」
「で、家に帰れ、ですね。get up to the houseは?」
「家にいく、家に達する。俺の家に連れてってやろう、と訳せばいい」
「すばらしい意訳!」
「農夫の女房が私の手にボロ切れを巻いてくれ、ぼくの家に送っていった。すると母がぼくを荷車に乗せて何マイルも先の病院に連れていった」
 キッコが、
「すごいわ!」
 千佳子が、
「tie 何々 round は、何々を巻く、ね」
「そう」
 睦子が、
「この最後の行の、ホイール・イン・ア・プラムは荷車に乗せていくという意味だというのはわかるんですけど、マイルズ・トゥ・ザ・ドクターズは?」
「副詞で、何マイルも医者のクリニックへ。ドクターズのアポストロフィーは、クリニックの省略形」
「いまも英語の達人ですね」
「読むのだけ」
「ありがとう、神無月さん!」
 キッコがすがりついた。居間で主人夫婦と話していた菅野が、
「あしたは晴れるそうです。午前に秀樹とキャッチボールをお願いできますか」
「約束は破りませんよ。やりましょう。軟式ボールでね」
 主人が、
「神無月さんの観客動員のおかげで各球場大幅収入増、と夕刊に出てます。とくに中日球場は昨年の九月期までの収入に並んだそうですよ。来年度の神無月さんの年俸は、一億五千万と予想されてます」
「何の根拠もない予想ですね」
「中日フロントが囁いてるということですよ。予想には根拠があります」
「そうだとしても、ほとんど税金でしょうから、優秀納税者にはなれます」
 カズちゃんが、
「そろそろ帰りましょ」
「うん。菅野さん、あしたは秀樹くんもいっしょに太閤通を大鳥居まで走ってもらうよ」
「はい、往復四キロぐらいでちょうどいいでしょう」
「いっしょにゆっくり走ってあげて。ぼくは先に大鳥居にいってるから。帰りは伴走する」
「了解。キャッチボールは牧野公園ですね」
「そうだね。ぼくは素手でやる」
 主人が、
「あしたは、中日球場に、れんと幣原さんを観にいかせます。ワシは寄り合いが長引くやろうからいけません」
「野球場は美しいものですから、一度は見ておくべきです。アイリス、北村席の厨房、羽衣、シャトー鯱、順繰り観にくれば、一年間ムダなく消化できるでしょう」
 テーブルでキッコと顔を寄せ合って私を見つめている睦子と千佳子に、お休みの手を振った。台所でソテツやイネたちの洗い物の音がしていた。
         †
 六月二十二日日曜日。七時起床。独りだけの書斎で八時間も眠った。ほぼ完成した五百野の原稿が机の上に載っている。細かな推敲はときどきする予定だ。抽斗にしまいこむ。
 カーテンを開ける。霧雨が上がりかけている。渡り廊下に呼びかける。
「メイ子、業者に頼んで草取りとガラス拭きをしてもらって」
「はい。私も気にしてたんです。吹き抜けの天井ガラスや、高いところのガラスは届きませんから。草取りは植木屋さんにやってもらいます」
 カズちゃんが、
「ガラス拭きは、二、三日中にアイリスの業者さんにやらせるわ。北村席のガラスも汚れてたわね。ついでにやってもらいましょ」
 ふつうの軟便。シャワー。耳鳴りは高いままだが、めったに意識しなくなった。
 朝食。ベーコン、スクランブルエッグ、ホウレンソウ炒め、大ナメコの味噌汁、どんぶりめし。
 キッチンテーブルの椅子に足を乗せて腕立てをやっていると、玄関に菅野父子がやってきた。お揃いのジャージを着て、息子のほうは真新しい運動靴を履いている。
「おはようございます!」
「おはよう。グローブは?」
「車のトランクです。バットも持ってきました」
 元気よく答える。菅野はニコニコし、
「じゃ、いきましょうか。秀樹、おとうさんにゆっくりついてこい」
 霧雨の中を走り出す。
「走ってるうちに、上がりますね」
「うん、もうほとんど上がりかけてる」
 太閤通の彼方の空が青い。父子を置いてスピードを乗せる。市電が往き過ぎる。これが思い出の風景になる。人はほとんど同じ道を往復して思い出を積み重ねながら、生涯を終える。むかしを思い出したことがあったと思い出すことが、そのまま思い出になる。
 振り返ると菅野父子が米粒になっている。赤い大鳥居に片手を突いて二人を待つ。懸命に走ってくる。私にたどり着くと、荒い息を吐きながら、
「神無月さんが本気で走ったのは初めてだ。おまえにプロの足を見せるためだよ。よかったな。神無月さんはベーランでもチームナンバーワンなんだ」
「ドラゴンズ内ではね。球界にはぼくより足の速い人はいくらでもいるよ」
「たとえばだれですか」
「すぐには思いつかないけど、確実にいるんだよ。ぼくは遅くないという程度だ。ベースを蹴るとき、風になるように心がけるんだ。そうすれば、自分が速く走ってると感じる」
 雨がすっかり上がった。雨の蒸発で涼しくなった太閤通の舗道を走り戻る。今度は三人縦列でゆっくり走る。
「ここで風呂帰りの節ちゃんを見かけて、あとを追った」
「何度も聞きました」
「立ちん坊のころの素子とこの場所で待ち合わせて、瀬戸へ鰻を食いにいった」
「初耳です」
「西高への通学路だったからね。この通りは思い出が多い」
 席に帰り着き、門脇のガレージに停めてあるクラウンから、秀樹くんのグローブとバットと軟式ボールを取り出す。目の前の牧野公園へいく。しっとり雨を吸った公園の土が心地よい。中学一年生とやるキャッチボール。肘を手術したころの私とのキャッチボール。十五メートルほどの距離をとる。投げさせる。素手で受ける。ペチリとも響かない。転がして返す。
「さ、全力で投げてこい!」
 書道しか経験のない十三歳の全力のボールが山なりで飛んでくる。やはり手のひらに響かない。私もゆっくりと投げ返す。グローブの出し方が危なっかしい。もう少し速い球を投げたら捕り損ねそうだ。菅野が交替して投げてくる。さすがに大人の球だ。同じ山なりでもスピードがある。私は掌を引くようにして捕球し、少しサイドスローから手首だけで投げ返す。菅野が思わず顔を背け、勘で逆シングルのグローブを差し出す。うまくはまりこむ。バチンと音がする。
「ひいい! 手がビリビリ痺れますよ。球が重たい!」
「文句あるの? いい大人でしょ」
「すみませーん」
 息子と三、四球トスのようなキャッチボールをしたあと、バッティングフォームを見てやる。木田ッサーだ。直しようがない。
「バッティングは難しい。軟式はまだ無理だね。ソフトボール大会に積極的に参加しなさい。野球を楽しむんだよ」
「はい。手首だけで投げるなんてすごいですね」
「プロの選手はみんなそうだ」
 軟式用の玩具のようなバットを一振りして見せる。秀樹くんは息を呑み、
「怖いです。バットがブッて音を出すなんて知らなかった。……見えなかったし」
 菅野が、
「感動したか。よかったな。神無月さんがおとうさんの友だちでうれしいだろ」
「うん。すごくうれしい」
「おとうさんはもっとうれしいんだ。出会えたのをいつも神さまに感謝してる」



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