百六十七

 広島球場は道端の立木の陰にとつぜん現れる。立木の周囲は、灰色のビルの殺風景な並びだ。正面ゲートの前に広大な駐車場が拡がる。バスを降りる。七月間近。陽射しがきつい。まばらな緑の中にコンクリートの敷地しかないような場所にいると、下からの照り返しで足もとが熱くなってくる。
 ロッカールームで運動靴をスパイクに履き替え、一人で選手食堂にいき、大盛り天麩羅そばをすすった。この時間の食事はたとえささやかでも重要だ。疲労感を覚えずにプレイに集中できる。わけても試合が長引いたときには絶大な効果を発揮する。
 眼鏡をかけ、ベンチからグランドに出ると、広島のバッティング練習が終わったばかりだった。内野の土をスクーターが大きなトンボを引いて均している。試合開始前にもう一度グランドキーパーの小さなトンボが入る。
 せっかくの青空がとつぜん曇ってきた。雨がくる気配ではない。眼鏡を鼻梁深くかけ直す。四時。フリーバッティングに入る。バッティングピッチャーは水谷則博と本格派の若生。若生を打つ。衣笠と山本浩司がケージ裏にやってきて、水原監督と田宮コーチの背中につく。流し打ちを頭に置いて打席に入ったが、初球のスライダーを思わず引っ張ってしまう。照明塔の脚に当たった。
「ヒョー!」
 衣笠のハスキーな叫び。おためごかしでない温かみがある。
「芸術的!」
 山本浩司は純粋に感動している。快い。広島球場の外野照明塔二基が、甲子園のスフィンクスのそれに似た前脚を右中間と左中間の中段に突き立てている。内野照明塔四基もスタンドの中段に前脚を突き立てている。一部の観衆には柱の陰になってグランドが見にくいだろうが、グランドから見た姿は美しい。センターの右奥にスコアボードがあり、百四十メートルも飛べば四角いシチズンの時計を直撃する。照明球の位置はとんでもなく高いので、そこに当たる心配はない。時計に打球が衝突するのが気がかりなので、センターからレフト方向へ、前段か中段に入るほどのホームランを五本打って終了。衣笠が、
「見たかコージ、ぜんぶ流し打ちだぜ」
「しかも、ほとんど踏みこんでませんでしたね。踏みこんだら場外になっちゃうのもわかりますよ」
「恐ろしいな」
 五十五本打ったら報道陣は集まるけれども、五十六本では集まらないと、五月に広島球場のレポーターに答えた。そのとおりだった。あれから三十本打ったが、記者はいっさい寄ってこない。人は節目を好む。今度騒がれるのは百号だ。山本浩司が、
「神無月さん、オールスターがんばってね。広島からは、外木場さん、山内さん、一義さんだけだ」
 衣笠が、
「根本さんもコーチで出るぞ。セリーグの新人は三人、きみと田淵と平松。パリーグは一人、金田留だけ。まあ、きみは三試合で五、六本打つんだろう。テレビで観るのを楽しみにしてるよ」
「がんばります」
 球拾いに回る。観客が急速に埋まりはじめる。ポール間ダッシュを一本やってベンチへ戻る。広島の守備練習。ドラゴンズの守備練習。絶え間なくフラッシュが光る。まじめに六投。セカンドへ二本、サードへ二本、ホームへ二本。相変わらずバックホームにスタンドがどよめく。
         †
 試合途中から霧雨になった。両軍の選手たちがカクテル光線の下を走り回る。濡れた芝がきらめく。眼鏡に影響はなかった。
 中、五の三、盗塁一、高木、五の二、江藤、四の一、フォアボール一、私、四の三、犠打一、盗塁一、木俣、四の一、フォアボール一、葛城、三のゼロ、葛城の代打太田、一の一、菱川、四の二、犠打一、一枝、四の三、フォアボール一、五回を投げた水谷寿伸、三のゼロ、一回を投げた土屋、打席回らず、三回を投げた星野秀孝、一のゼロ、水谷の代打千原、一の一。合計十七安打。ホームランは高木十七号ツーラン、私ライト場外へ八十六号ツーラン。十三対八で勝利。
 六点を取られて降板した水谷寿伸のあと、土屋が五回だけを投げて二点取られた。土屋に代わって六回から登板した星野秀孝が勝ち投手、プロ入り初勝利。六回で降板するまで四対八で勝っていた白石に代わって登板した秋本が敗戦投手。ドラゴンズは、秋本から五点、継投の池田から四点取った。
 星野は霧雨が落ちかかる中でインタビューを受け、明るい笑顔でスタンドに両手を振った。水谷寿伸が打者二十三人を相手に、山内ツーラン、衣笠スリーランを含む被安打八、三振四、自責点六だったのに対して、星野秀孝は打者十一人、被安打一(朝井に外角高目のカーブをセンター前へ打たれた。ストレートかシュートを投げていたらたぶん三振だった)、三振二(今津と山本浩司。二人とも三球三振だった)、フォアボール一つ(衣笠にワンスリーから)、自責点ゼロ。堂々たるエースの誕生だ。
 土屋は、打者五人、今津三振、古葉ライト前ヒット、山内レフトフライ、山本一義ライト上段へ十四号ツーラン、衣笠サードゴロ。自責点二。投げ下ろす腕が縮んで、持ち前の低目の重い速球がお辞儀していた。高目のストレートも走らず、とにかく惨めなピッチングだった。星野秀孝と比べて、実際のマウンドで見せる度胸の小ささが目立った。
         †
 夜十一時を回って強い雨。
「あしたは大雨でしょう」
 廊下に太田の声がした。江藤たちが星野の初勝利を祝うために、あの運転手の先導するタクシー三台に分乗し、大挙して中心街へ出かけていった。私はルームサービスのハンバーグライスを食ったあと、竹製のブラインドの窓から雨が見たくなって一階へ降りた。本は深夜にゆっくり読むつもりだった。
 土屋がひっそりとロビーのベンチに座っていた。あまりもさびしそうだったので近づきかねたが、いつものお節介心が湧いた。
「土屋さん……」
「あ、神無月さん、会えてよかった。話したかったんです。……謝りたくて。きょうは申しわけありませんでした。せっかく推薦していただいたのに」
「打たれてしまえ」
「は?」
「自分はこういうボールしか投げられない。だから打たれてしまえ。次からはそういう気持ちで投げてください。抑えようと思っちゃいけない」
「はあ―」
 私は向かい合わせに座った。
「出身高校はどちらですか」
「長野県の臼田(うすだ)高校です」
「名門じゃないですね」
「はい。まったく。開校以来プロにいったのは私一人です。駒大に進み、同期に伊藤久敏が、三年先輩に新宅さんがいます。社会人のときには、山田久志さんや平松さんとも投げ合って……」
「過去の輝きはどうでもいいです。その栄光があったからプロにきたんでしょう。あなたはカーブも切れますが、特に低目の速球がいい。速くて、重くて、少し上のほうへシュートする。一流の球威です。それがきょうはお辞儀していました。打たれてしまえ、エイ、ヤ! という気持ちで投げなかったから、腕が縮んでいたんです。何度も木俣さんがマウンドにいってましたね。よしいいぞ、とか、ビクビクするな、とか言われたんでしょう」
「はい……」
「一度ぐらいキャッチャーのサインにイヤイヤしてみたらどうですか。そのうえで、打たれてしまえって投げるんです。それなら責任はぜんぶ自分に降りかかる。打たれたせいでクビになるかもしれないから命懸けです。好きなことを死ぬつもりでやらなければ、ほんとに好きだと言えませんよ」
「はい!」
「今度チャンスがあったら、そうしてください。―打たれませんよ」
「ありがとうございます、落ち着きました」
「あなたを見こんだぼくをガッカリさせないでください。慎重に生きないことです。臆病は悪徳です。こうやってぼんやり反省してる暇があったら、寝転がって投球のイメージトレーニングでもするか、あしたの敵チームメンバーの名前を覚えたりするほうがマシですよ。あしたの試合は中止ですね。江藤さんや菱川さんや太田としゃべってごらんなさい。明るい気分になりますよ。じゃ、ぼくはこれで。お休みなさい」
「お休みなさい」
 部屋に戻り、赤と黒を冒頭から少し読み、夜中に大浴場にいってのんびり汗を流した。
 部屋の机の抽斗に、保健所から配布された健康パンフレットなるものが入っていた。睡眠薬とアルコールの同時摂取を戒める警告が書いてあった。快眠したまま心不全で死に至ることもある、と太字になっている。ホテルではそういう事故がときどき起こるのかもしれない。悪くない死に方だなとチラと思った。熟睡した。
         †
 六月二十五日水曜日。強い雨。午前九時に十九・八度。うがい、ひさしぶりにふつうの排便、シャワー。
 がやがやみんなで朝食をとったあと、ラウンジのソファにたむろしてコーヒーを飲む。竹のブラインドを上げた大窓を透かして通りを眺める。玄関前の通りと別館に挟まれた小庭越しに、真っすぐ強い雨脚が見える。さすがにファンの姿はない。小川と小野と江藤のそばに土屋がちょこんと座り、その隣に星野秀孝も座っていた。離れた席で菱川と太田が新聞を読んでいる。森下コーチが半田コーチに、
「こりゃあかんで、カールトンさん。やっぱり中止やな」
「ソみたいネ。うちのバッターとしては、雨が雪でもやりたいでショ」
 江藤が、
「そこまでやなかばってん、練習ぐらいはやりたか。広島球場は室内練習場がないけん、雨が降ったらボールもいじられん」
 小野が小川に、
「よく降るなあ。きょうの予定は健太郎さんだった?」
「おう、肩が休まって得した。一勝損したけどさ」
「順延であした投げさせてもらえるでしょ」
「ファイトが持続するかな。土屋に投げてもらうか。打たれたら助けてやる。打たれなかったら、そのまま一勝だ」
 長谷川コーチが売店で買ってきたホープの封を切って、一服吹かした。足木マネージャーが降りてきて、
「広島カープから電話があり、中止と決定しました」
 長谷川コーチが、
「せっかく転がりこんだ休みだ、ドラゴンズの伊達男ども、夕方になったらネオン旅といくか」
 まじめな中が、
「だめですよ、コーチ、試合の前日に精を使っちゃ」
 一枝が、
「アルコールのほうですよ、中さん」
 私が、
「中日の夜の帝王はだれですか」
 みんなで顔を見合わせる。小野が、
「金太郎さんをがっかりさせたくないが、慎ちゃんとモリミチだ」
「がっかりしませんよ。男らしいと思います」
 江藤が、
「ワシは足を洗ったばい」
 高木が、
「俺も。―今年から」
 爆笑になる。長谷川コーチが、
「伊熊と大場は、二人とも高校生のドラ一できて、西沢さんに銀座に連れてってもらったとたんに萎んでしまった。遊ぶことばかり覚えて、フラフラ腰でいまも二軍暮らしだ。まじめな土屋は金太郎さんのおかげで這い上がってきた」
 江藤が、
「秀孝もまじめばい。野球選手は腰が命やけん、夜の帝王ば目指したらいけん。夜の皇太子ぐらいにしとかんば。ワシは銀座なんぞ腐るほどいったっちゃん。〈バット〉ば担いでな。ほいほいされるのをうれしがるバカやったけん。伊熊たちが凋んだんは、バカ止まりの器やったからやろ」
 太田と菱川が江藤に、
「今度銀座へ連れてってください」
「おお、オールスター前の大洋戦が終わった晩に連れてっちゃる。ワリカンな」
「ええ!」
「冗談たい。冗談抜きで、銀座なんかいっとる暇はなかぞ。そん代わりにいまから広島〈銀座〉にラーメン連れてっちゃる」
「またですか」
「どんな道も極めんばいかん」
 また大きな笑いが上がる。
「下痢して、寝ます」
 こういうじめじめと生暖かい日は腹がくだる。タイミングがよかったのか大笑いになった。一枝が、
「俺もクソして、昼寝しよ」
「ワシらはやっぱりラーメンいくばい」
 部屋に戻って、内風呂で下痢腹を温めたあと、ほとんど液体のみごとな便をする。爽快この上なし。幼稚園のころからほとんどこういう便だが、これほど勢いよく出ることはめったにない。


         百六十八

 赤と黒を手にもう一度ラウンジに降りる。予想どおり、めいめい外出したり部屋に籠もったりしたあとなので、ラウンジが捌(は)けている。のんびり窓際のテーブルに落ち着く。栞を抜いて読みはじめる。この名高い西洋の物語は江戸後期に書かれた。外国小説の出版の最盛期は明治初期であることを念頭に置く。レナール婦人の裏切りの項。ときどき雨を見つめながら一時間ほど読む。
「読書かね?」
 見上げると、背広をビシッと着た水原監督だった。
「はい」
「ほう、ジュリアン・ソレルか。私も慶應のころに読んだ。もう忘れてしまったな。最後にギロチンにかけられたことしか憶えていない」
「読み返しなんですが、なぜここまで身分的な出世にこだわるのか、相変わらず理解できません。悲痛な感じがします。理解できないだけに、つい読み返します」
「庶民だけの世の中だと、有名であることが価値だけど、貴族の支配する世の中では階級が価値になるんだろうね。いつの世も、人は支配者になりたいんだよ。金太郎さんのような何ごとも達観している先天的な支配者には、永遠にわからない心持ちだ。あしたは天気だよ。がんばろうね」
「はい」
 監督は傘を差して玄関を出ていった。秘密の女のところにいってほしいと願った。
 昼めしは部屋に戻って、また彩御膳をルームサービスでとった。先回とちがう仲居が膳を運んできて、めしを盛るとすぐに去った。活字を追いかけながら食うので、味わう気持ちになれなかった。食い終えた膳を廊下に出し、本格的に昼寝をした。
 四時に起きて歯を磨き、ふたたび赤と黒。雨は止んでいない。六時過ぎに、レナール婦人の裏切りの項を読み終えた。
 ―倦怠、この精神的窒息。
 今回も印象に残った一行だった。最上層の階級の人びとにジュリアンが抱いた感懐だ。

 それが自分の求めてきた〈立身出世〉だとすると……彼は泣きたいような気持ちになった。私のような人間が愛されるに値するだろうか、生まれてきた意味があるのか。

 懐疑の病に罹ると、自分に向けられる無邪気な自己愛さえ信じられなくなる。
 夜七時。ルームサービスで鰻重をとった。今度はボーイが運んできた。食ってばかりいる。食いながらテレビを観る。NHKニュース。海水浴場浄化基準決まる、南ベトナム解放民族戦線が革命政府を樹立、日本のGNP世界二位となる(いつか聞いた)、日本初の原子力船むつが進水式(いつか聞いた)、数秒後に忘れる情報だ。
 チャンネル変更。マンガ紅三四郎。つまらない。スター千一夜。『赤ひげ』のころの純朴な雰囲気を失った加山雄三が出ていた。お茶の間寄席。横山やすし・きよしの掛け合いに生理的な嫌悪感がある。
 八時を回って星野秀孝と水谷則博が訪ねてきた。太田も誘って、自分らしくもなく〈一杯引っかけ〉に出る。別館の傘を差す。眼鏡をかけた。太田が、
「胡町(えびすちょう)の『越田』へいきましょう。うまいお好み焼きを食わせてくれます。春に江藤さんが連れてってくれた店とドッコイです。昼に下調べしてきたんですよ。ここから五分です」
「あ、土屋さんを誘うのを忘れた」
 星野が、
「誘ったけど断られました。ピッチングのイメトレをすると言ってました。あした中継ぎにでも使われたらたいへんだからって。あの人の低目のカーブはいいですね」
 ストレートのいい星野には、彼のスピードは目に留まるほどのものでもないのだろう。水谷則博は、
「低目のストレートもいいですよ」
 と言った。
「きのうはみんなでラーメン?」
「はい。江藤さんにごちそうになりました」
「きょうも?」
「きょうは江藤さんの単独行動です」
 星野が、
「うまかったです。神無月さんの話で盛り上がりました。神無月さんが極めつきの変人に見えるのは、人ではなく神だからだと教えられました。ドラゴンズの本尊みたいな人なので、人から汚されないように護らなくちゃいけないと。太田さんとは中学の同級生で、則博さんとは中学のころに戦ったことがあると聞いて驚きました」
 太田が、
「あの当時からこの雰囲気だったんだ。まず驚いたのは、昼めしを食わんこと。校庭の桜の木の下に寝そべってた」
「おふくろが弁当を作らなかったからだよ。ときどきカズちゃんが、握りめしや菓子パンを渡してくれた。寺田康男もくれたな」
 則博が、
「カズちゃんて、お姉さんですか」
「そんなものだね。他人だけど」
 秀孝が、
「めしも食わずに、クラブをやったんですか!」
 太田が、
「おお、バリバリな。信じられんかった。いまとちがって、ベーランのスタミナがなかった。しょうがないよな」
「だからいまは、昼も夜もとにかく食うようにしてるんだ」
 赤暖簾の小振りな店に着く。店内は広く、長い鉄板カウンターをコの字形にめぐらせた中で、紺のお仕着せを着た鉢巻姿の三人が立ち働いている。私たちに気づいた客たちが、
「オオ!」
 とどよめく。端の曲がりこんだ席を勧められる。壁に芸能人やプロ野球選手の色紙がズラリと貼ってある。すでに太田の色紙が末尾に並んでいた。店主らしき五十年配の男が丁寧にからだを折って、三枚の色紙とマジックペンを差し出した。髪に白いものが混じっているが、顔には皺もなくつやつやしていた。三人すらすらと書いて渡した。さっそく壁にピンで留める。客たちが拍手した。星野の《十勝》という楷書が新鮮だ。太田が、
「肉玉。それから瓶ビール三本」
「へい」
 星野がメニューをじっと見て、
「ネギ玉」
 水谷は、
「イカ玉」
「へい。神無月選手は?」
「お好み焼きじゃなく、単品で焼きソバ、イカ焼き、ホタテ焼き。それからサーロインステーキを四人前」
「へーい! ありがとうございます! 牡蠣焼きもつけときます。みなさんでどうぞ」
 曇る眼鏡を外して胸ポケットにしまった。ビールをつぎ合う。則博が、
「星野秀孝さんの初勝利に、乾杯!」
「乾杯!」
「どうもです!」
 星野が深々と頭を下げる。客の一人が、
「おお、きのうの星野かよ。あんた、げに、タマ速えなあ! リーグナンバーワンじゃないの」
「ありがとうさんです! 軟式野球出身です」
「ほんま?」
「ほんとうです。硬球を初めて握ったときは、重くて投げるのが怖かったです。肩や肘を壊すんじゃないかと思って。いらない心配でした。軽いボールを思い切り投げるほうが危ないんです」
 角刈りの細面をほころばせる。則博が、
「地肩が強いんですよ。俺も強いほうだけど、スッと打ちやすいコースに入っちゃう。星野さんにはそれがない。俺は中学時代、練習試合で神無月さんにパカーンとバカでかいホームランを打たれた。入団式のときにも言ったんだけど、神無月さんは憶えてなかった」
「ごめん」
「北山中と言っても、思い出せない?」
「……鶴舞公園の北山中? 鳴海球場のそばの」
「はい!」
「思い出した! 地区予選の準決勝だ。強豪北山中。六回まで三対ゼロで負けてたのを七対三にひっくり返した。九回の表に左の速球ピッチャーが出てきた。外角高目。鉄筋校舎の二階の窓ガラスを割った。得意のコースじゃないけど、自然とバットが出た」
「うん、それです。ダメ押しのスリーラン。よかった、思い出してくれた!」
 太田が、
「憶えてないなあ。二階の窓ガラスへズボッだけは憶えてる。ガチャンじゃなく、ズボ。あれが則博だったのか」
「うん、俺だった。外角の打ちごろのコースにいっちゃった。そこをパカーン。だいたい中学生でホームランを打つやつ自体がめずらしかったから、ショックだった。きのう寿伸さんが山内と衣笠に打たれたよね。名古屋に戻ったら二軍だろうなって言ってた。甘いコースにスッといく癖を直さなければ、遠からずクビになるって。俺はあしたの継投でいいピッチングをしないと、即二軍、そして一、二年後にはトレードだな」
 太田が、
「おまえ、ドラ二のプライドはどこいっちゃったの? さびしいこと言うなよ。寿伸さんは、多少見くびってた山内にやられてガクッときたんだろ。しょうがない。衰えたりと言えども、十四本。ホームランダービー六位か七位だよ。生涯打率も三割近い。すごい三十七歳だよな」
 別の客が、
「しかし、神無月選手、八十六本て何ごとかいね。ふつうの長距離打者の三倍、よく打つホームランバッターの二倍。それを三カ月で打ってしもうたんですよ」
 店主が私に、
「飛距離もとんでもないでしょ。広島球場の時計が危ないって記事が中国新聞に出ましたよ。神無月対策で、来月から分厚い防弾ガラスで覆うことになったそうです。きょうも右中間場外でしょ。ヒヤヒヤしましたわ。あしたはこらえてつかあさいよ。しかし、太田選手より小さいですよね」
 太田が、
「俺とまったくいっしょ。百八十二センチ、八十三キロ。体重が二、三キロ軽い。菱川さんより一センチ低くて、体重はいっしょ。俺と菱川さんは、せいぜいウドの大木にならんように気をつけようって誓い合ってるんですよ」
 店主は配下に焼き物をやらせながら、四人にビールをつぐ。太田が、
「神無月さんはね、からだの大小とか、筋肉の多い少ないとか、そういう物理的な説明で処理し切れない人なんですよ。毎日いっしょにやってる俺たちから見ても、あらゆるプレイが信じられない。きのうも、セカンドゴロとか、ライト犠牲フライとか、凡打がちゃんとあったでしょ? ああいうめったにやらない打ち損ないを見て、人間らしいところにホッとするしかないんです。とにかく、打ち損なわないときの技量は神ワザだから学べない。中学時代からそうだった」
 則博が、
「チーム全員が、神のように崇めてますよ。最初はいきすぎじゃないのってシャクな気がしたけど、毎日いっしょにいるとその感じがわかってくる。神さまにひざまずいて何もかも委ねるから、安心して自分のプレーに没頭できる。レギュラーみんなすごい成績ですもんね。俺も毎日いっしょにやらせてもらえたら、いい成績挙げられるのにと思いますよ」
 星野が、
「初めて抱きついたときの神無月さん、大きくて、厚くて、柔らかかったです。ホワーッとなりました。ボールがどこまで飛んでいっても不思議じゃないと思いました」
 則博が、
「神無月さん、二、三年待っててよ。かならず百勝ピッチャーになってみせる」
「もちろん待ってるさ。ぼくはドラゴンズに骨を埋めるんだから。息の長いピッチャーになってね」
「オス!」
 焼き物がすべてでき上がり、みんなでホクホクつまんだ。うまい。ステーキもちょうどいい柔らかさだ。
「うまいなあ」
「うまい!」
 店主が、
「ステーキだけじゃなく、牡蠣やホタテもつまんでください」
 私は、
「焼きソバは好物だからあげない」
 太田が、
「焼きソバ食いてえ」
「焼きソバ、あと三つ焼いてください」
「ほーい!」


         百六十九

 客が立てこんできた。会社帰りのサラリーマンふうの三人が入ってくる。ワイシャツのネクタイを緩める仕草をしながら、私たちを発見していちいち驚く。
「お、神無月!」
「太田もおるやないか」
「あれ、だれや」
「星野やないか? エース登場の」
 水谷則博のことはわからないようだ。則博はさびしそうな顔で微笑する。
「マスター、たちまちビール三本ね」
「たちまち?」
 私が店主の顔を見ると、
「とりあえず、という意味です」
 笑いながら説明する。三人の新参客たちが鉄板に向かって活発に動きだした。焼いてもらいたがる客のサービスもきちんとするけれども、客に焼かせるのが基本だと店主が言う。ビールが空になった。ステーキやイカ焼きを食いながら、二本追加注文する。
「野菜炒めもついでに」
「へーい!」
 星野が、
「食いますねえ!」
「そう、とにかく食う。食わないと瞬発力が出ない」
 則博が、 
「ところで、浜野さんはどうなってるんですか? 移籍してひと月でしょ」
 私たち四人に接するように坐った客が、
「毎たんび、ぶち、打ちこまれて、使い物にならん。えらそうなこと言うて中日を飛び出した罰食らっとるんやな。ポンスーよ」
「ポン酢?」
「馬鹿よ、馬鹿。肩メゲたやら言うてごまかしとるげな」
 ほかの客が、
「打たれると、すぐ、はてぶって、かばちたれるで見てられんわ」
 不貞腐れて文句たれる、と店主が注を入れる。
「よく登板してるんですか」
「負け試合でイツイキ出てきよる。球が遅いき、傷口広げるばっかやで、はがええわ。何で使うんかな」
「巨人にしてみりゃ、えっと高い買い物やったけんのう」
「中日がくれちゃったんやろう。金いらんて」
「ただでもろたゆうても、給料がのう。首脳陣の手前、使わんといけまあが」
「負けたら元も子もないじゃろう。出さんでもええやないか」
「おお、もう使わんやろ」
 浜野百三はこのまま終わってしまうのだろうか。敗戦処理ピッチャーとして何年か細々とやり、フロントの覚えをめでたくして、いずれ権力集団の片隅にでも置かせてもらうつもりだろうか。ドラゴンズのマウンドで吠えつづけていれば、もっと洋々たる未来があったかもしれないのに。
「あんた、今年入った水谷則博やろ。ドラフト二位の」
「はい!」
 則博はようやく大きく笑った。
「あんた、息の長いピッチャーになるで。肩の使い方がええ。わい、会社の出張で二カ月くらい名古屋にいっとったんよ。二軍戦、ぶち、観たわ。土屋紘、星野秀孝、水谷則博、ええて思った三人がボチボチ出てきよった。そこの秀孝さんは初勝利や。遅れんようにつづいてや」
「はい、がんばります!」
 鉄板の上が空になった。ビールも終わった。私は三人の顔を見回し、
「腹ふくれた? ビールもオッケー?」
 みんなうなずく。
「マスター、ごちそうさま。帰ります」
「お粗末さまでした。サイン、ありがとうございました。あしたの試合もがんばってください」
「がんばります。みなさん、お先に失礼します」
 客たちに頭を下げる。拍手が湧いた。さっさと勘定をすませる。
「オールスター前に、百本いったれや」
「星野、大エースになれよ」
「太田、はよ江藤に並べや。将来神無月さんとあんたと菱川でクリーンアップ打つんやろが」
「水谷、二、三年なんぞ言わんと、今年出てこい」
 激励を背に店を出る。雨が少し小降りになっている。則博が、
「あしたは小川さんか。登板の機会があるといいけど」
 フロントの前で別れ、思うこともなく、ロビーのソファにしばらくくつろいだ。ガラス窓から表のさびしい通りを眺める。ロビーにストロボが瞬き、テレビカメラのライトが周囲を明るくした。
「RCC中国放送です。少しインタビューのお時間をいただいてもよろしいでしょうか」緑のセーターを着た中年女性アナウンサーで、ひどく緊張している。
「いいですよ。十分程度なら」
 竿マイク係やカメラ係の男たちがドッと声をあげて喜ぶ。ロビーにいた一般客たちもこちらを注目している。
「いつ放送ですか」
「あしたのお昼のニュースで流す予定です」
「試合前ですか。観客動員に効果的ですね。好ましいものに編集してください。ぼくは口が滑りがちですから」
「だいじょうぶです。これまでのインタビューの内容は研究ずみですから。編集なしですばらしいものです。まず、広島の街の印象からお聞きします」
「街並がごちゃつかず、道路が緑に縁取られてすっきりしてます。道と川の静かな調和が気持ちいいですね。市電が美しい。並木が整っている。悪夢に襲われた街のさびしさを感じさせません。めげないで肩肘張らずに、こつこつ復興に精を出したせいですね」
「すてきなご感想、ありがとうございます。ただいま八十六本と、驚異的なペースでホームランを打ちつづけている神無月選手ですが、オールスター前に百本いくのではないかと言われています。そのあたりは?」
「ぎりぎりですね。ペースが落ちなければ……」
「本数ばかりでなく、いつも特大のホームランを打たれるので、ファンは大喜びです。広島球場は防御策として、スコアボードの時計を強化ガラスで覆うことになりました」
「ぼくもいつも心配していたので安心しました。時計の両脇にRCCと書いてありますよね。あそこに当てたら、商品は何ですか」
「まだ会社のほうでも考えていないと思いますが、神無月選手に何かご希望がございますか?」
「小学生中学生、毎回一名ずつの、ネット裏年間優待席です。まじめな野球少年、恵まれない家庭の子供、からだの悪い子供等、彼らを選ぶ基準は何でもあります。あの一点に当てるのは夢物語ですが、ほんとうに当てたら、どうかご一考ください」
「わかりました、会社のほうにかならず伝えておきます。女性ファンを代表してお聞きします。並外れて容姿のすぐれた神無月選手は、ファンのあこがれの的です。いま神無月選手に恋人はおりますか。立ち入った質問で申しわけありまん」
「恋人のような対等の存在ではなく、一方的な支援を惜しまない女性ファンが何人かいます。人間として気高い存在と考えていますので、ぼくにとっての女神と言うにふさわしい人たちです」
「神秘的なおっしゃり方ですね。どういう女性たちですか」
「十代から六十代。もの心ついて以来、折々に出会い、元気に生きるようぼくを励ましつづけてくれた人たちです。親友のように長く交流しています」
「友情が愛に変わって、将来結婚ということは?」
「畏れ多いです。このまま何十年でも親友として交際したいと思います」
「そう聞いても、私は女ですので、いろいろ深く突っこみたくなります。でも、野暮は避け、このあたりでやめておきましょう。神無月選手はこれまで、神、天馬、怪物、天才、スーパースター、鬼神、魔神など、いろいろな呼ばれ方をしてきましたが、そう呼ばれることを自分ではどう思われますか」
「畏れ多いです。そういういろいろな呼称には関心がありませんが、ただ、こんなふうに世間に持ち上げられた経験がないので、新鮮な感じはします」
「小学時代から持ち上げられてきたんじゃありませんか?」
「野球のうまい人、程度にはね。大々的に持ち上げられたことがなかったので、当時の多くの人びとは、これほど持ち上げられるいまの私を疑っていると思います。持ち上げられたのは高校時代の一年間と、大学時代の一年間と、そしてこの半年です」
「野球をするうえで、悩みや障害はありますか」
「ありません。人に恵まれていますので満点の状況です。その状況のもとで、後ろめたさのようなものはあります。過去、現在の偉大な選手たちや、監督やチームメイトに対する尊敬心をうまく表現できないことです。尊敬は無論のこと、感謝さえしているのに、つい友だち風を吹かしてしまいます。彼らとぼくが対等であるはずがないのに……。いつも申しわけないと思っています」
「不思議な感覚ですね。尊敬し感謝しているのはチームメイトのほうだと思いますが。神無月選手のような、それこそ偉大な野球人と友だち付き合いができて、とても喜んでいるんじゃないでしょうか」
「偉大は措(お)くとして、喜ぶだけでなく、愛してくれています。遠回りしたぼくを救済してくれたご恩には、かならず報いるつもりです」
「すてきですね。あ、制限時間の十分を越えてしまいました。最後に、広島カープというチームと、個々の選手についてはどう思われますか」
「地理的に、チームの移動の便に恵まれていないのを気の毒に思います。年間の疲労が積み重なるでしょうね。交通網の整備などでそれが改善されれば、じゅうぶん優勝に手の届くチームだと思います。ピッチャーも打者も野球好きで、明るい人たちばかりだし、ファンの応援も熱心なものがありますから。いつぞやの連続敬遠は卑劣な策と言うよりも、昨年、球団創設以来初めてカープをAクラス押し上げた根本監督の安全策が神経過敏になったものでしょう。罰金は気の毒だったと思います。他のチームを戒めるためのスケープゴートになったんですね」
「そこまで共感してもらって、カープ球団関係者も慰められるでしょう」
「選手個々に関してですが、山内さんのバッティングは、技術を極めた人のものです。幼いころはあの驚異的な手首の技術に気づきませんでした。何かを感じてはいましたが―。からだにバットを巻きつけてホームランを打てる、日本で唯一の人です。山本浩司選手のミートは力強く、卓越したものがあります。いずれ頭角を現すでしょう。個人的には、衣笠さんのフルスイングが好きです。哲学を感じます」
「きょうは興味深いお話、ありがとうございました。中日ドラゴンズの神無月郷選手でした。中区三川町の世羅別館からお送りいたしました。これでRCC突撃インタビューを終わります」
 ライトが消え、ロビーに集まった人たちから盛大な拍手が上がった。パチリ、パチリ写真を撮りはじめる。テレビ局の男子職員が、紙袋を差し出した。
「三原港町の八天堂のクリームパンです。昭和八年からの伝統の味です」
「ありがとうございます」
「これは些少ですが、出演料です」
 別の男が封筒を差し出す。
「面倒くさいでしょうが、明細をつけて球団本部へ送っておいてください。そういうものはいろいろ計算があるでしょうから」
「わかりました」
 バリバリ箱を破ると、アンパンのような丸パンが五個入っている。一つ咥え、ちょうど四人いたテレビスタッフに勧める。驚きながらも、彼らは手を出し、うまそうに食う。たしかに深い味わいのあるカスタードクリームだ。たちまち食い終わり、にこやかに笑うスタッフ全員と握手する。アナウンサーが、
「底知れない魅力をお持ちのかたですね。いっぺんに大ファンになりました。後(あと)録でそのことをしゃべります」
 私が立ち上がったとたんに、あたりのざわめきが高まった。ふたたびライトが点き、しゃべりはじめた女性アナウンサーに向かってカメラが回りはじめる。私はフロントで鍵を受け取り、館内の客たちに頭を下げ、二階へ通じる階段を上がった。客たちがサーッと引き揚げていった。彼らにすれば、写真だけ撮れればそれでじゅうぶんな手土産になるのだ。



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