百七十 

 六月二十六日木曜日。八時起床。広島にきてからよく寝ている。カーテンを引く。曇り空。タイメックスは二十二・九度。畳の上で三種の神器、九コース二十本ずつバットを振る。部屋でバットを振れるのはありがたい。しっかり汗を出した。痛みのないふつうの下痢便、シャワー、歯磨き、洗髪。耳垢を取り、手足の爪を切る。
 九時。浴衣を着て、選手用の宴会場ではなく、畳の大広間にいき、一般客たちと遠く離れた座布団にあぐらをかく。こういう場所でも何気なく、特別あしらえではない食事をしてみたい。一瞬私の周囲で小さなざわめきが起きたが、すぐに静まった。見回すと、七、八人しかいない。この時間帯はとっくに朝食を終えて、観光にでも出かける頃合なのにちがいない。仲居が膳を運んできて、おさんどをする。おっ、と気づく。たまたま、ここに到着した夜にルームサービスを持ってきた女だった。
「びっくりしました。選手のかたがこの広間にお見えになったのは初めてです。お子さんたちが熱い目で見てますよ」
 お子さんと言っても、二人しかいない。
「はあ、食べているところへは近づいてこないでしょう。納豆や海苔や干し魚の開きが食べたくなって」
「プロ野球選手用のごはんは、ごちそうたっぷりですからね」
 ふと見ると、四十あと先、葛西さんの奥さんに似ている。思い出して、妙な親近感からとつぜん下腹が疼いた。グングン勃起してくる。
 ―まずい!
 やってきてしまったという感じだ。懸命に意識を逸らす。浴衣の前が盛り上がってきたので、前屈みになる。半勃ちの状態だ。ここですんでくれ。太腿に肘を突いて膳を覗きこむようにしながらとぼけてしゃべる。
「キンメの煮つけとは、朝から豪華ですね」
「神無月さんの姿が見えたので、球団のかた用のおかずをお持ちしました。ドラゴンズのみなさんは朝夜ともにルームサービスをとるか、選手用の食事会場にお出向きになるのに、一般の会場にいらっしゃるなんてほんとに驚きました」
 目尻に細かい皺を寄せて笑う。キンメに意識を集中し、少しこごんだ姿勢でめしをもりもり食う。漬物も味噌汁も味わわずに食う。箸を口に運ぶ都度、手首を浴衣の股間に置くようにする。それが刺激になって、いよいよ勃起の度合いが強くなる。
「すごい食欲!」
「これだけガランとしてると、サインも求められなさそうだし、落ち着いてゆっくり食べられます」
 仲居はにこやかにうなずきながら、二杯目のめしを盛ろうとする。女の白い手の動きを見ているうちに完全に勃起し切った。処置に困る状態になった。
「食べすぎは厳禁です。そろそろ引き揚げます」
 箸と茶碗を置いたとたん、仲居が気づき、
「あら、神無月さん!」
 必死で屈み、盛り上がった股間を隠そうとする。彼女は凝視し、頬を真っ赤にした。
「どうしましょう……座を立てませんね」
「すみません、恥ずかしいところをお見せして。予期せずこんなふうになってしまって」
 不都合なことを隠すのも、さらけ出しすぎるのも問題だ。嫌悪感を催されないように、じょうずに伝えるしかない。
「そんなことありませんよ。若いんですから、気にしないでください。スターだって人間です。恥ずかしくなんかありません。治まるのを待ちましょうか?」
「はい」
 窮屈そうに屈んでいる姿を気の毒に思ったか、
「―ちょっと待っててください」
 仲居は言い置いて、早足で襖の外へ出ていく。すぐにバスタオルを持ってきた。
「これで前を隠して、お風呂にいくふりをしながら、お部屋にお戻りください」
「はい。ほんとにすみません。ありがとうございます、ほんとに」
 仲居はさらに頬を赤らめ、
「……お部屋の鍵を開けといてください。すぐ参ります」
 と小声で早口に言った。欲望のにおわない、不思議に澄んだ声だった。不自然にならないように腰を真っすぐ伸ばして立ち上がり、腕にバスタオルをさりげない格好でぶら提げる。座敷を出て階段を小走りに上がった。処置のしようもなくコチコチになっている。菅野と羽衣に向かったときと同じありさまだ。部屋に入ると、素裸になって勃起の障害物を取り除き、椅子に座って見下ろした。脈打ち、怪異な様相を呈している。
 二分もしないうちに仲居はドアを開けて忍び入ってきた。あわててバスタオルで隠す。仲居は鍵を内側から閉めると、私を見もしないで、すぐに押入から下布団だけを出して敷いた。
「あまり長くなると、同僚がへんに思いますから」
「ありがとう。感謝します。だいじょうぶです。溜まってますからすぐ終わります。あなたへの心づけは?」
「いりません。私の気持ちですから」
 私はごく自然な調子で、
「妊娠はだいじょうぶですか? 外に出しましょうか」
「いいえ、ご心配なく。もう四十九、偶然きょうが誕生日です。三年ほど前から月のものはありませんし、夫もいません。ご安心ください」
「すみません。ぼくは純粋な性欲というよりも、ひょんなことがきっかけでときどきこうなってしまうんです」
「若いんですもの、仕方ありません」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「あのう……」
「はい?」
「あなたがイッてくれないと、ぼくはイクのに時間がかかります」
「……だいじょうぶです、五分もあればちゃんとイキます」
 五分もかかるというのは、ごくふつうの膣なのだと思った。私は話題を変えた。
「出身は広島ですか?」
「はい、広島の似島(にのしま)です。広島港のすぐそばです。そこから出稼ぎにきてるんです」
「今度遠征できたとき、似島へ案内してくださいね」
「はい。喜んで。……着物を脱ぐ時間はないので、裾をまくるだけにします」
 仲居は蒲団に仰向くと、枕もとにティシュの箱を引き寄せ、着物の裾を腹まで引き上げた。下着をつけていなかった。トイレで脱いできたのだろう、ふところに下着がチラリと見えた。窓からの明かりを避けるように手で繁みを隠しながら、股を広げる。私はバスタオルを取り去り、両脚の間にひざまづいた。仲居はチラリと私のものを見た。
「……わ、立派!」
 屈みこみ、手をよけると、濃い繁みが割れ、蝶の翅のように開いた不思議な小陰唇が現れた。大きな陰核の下に薄赤い前庭が光っていた。口をつけて舌で陰核を愛撫しようとする。
「あ、それはしてくれなくても……時間が……。すぐ入れてください」
 押しこむと、よくぬめる膣壁に亀頭をなぜられた。快い感触だ。
「ああ、ピッタリくっついてる感じです。すぐイッてくださいね。無理に私をイカせようとしなくていいですから」
 促されて思わず激しく腰を動かした。一分もしないうちに、
「あ、いや、神無月さん、すごく気持ちいいです、気持ちいい! どうしましょ、どうしましょ、うそうそ、イッちゃいます、私のほうが先にイッちゃいます、ごめんなさい!」
「イッて」
「あああ、気持ちいい! イクイクイク、イク!」
 上の壁がとつぜん下りてきて、トシさんのするどい摩擦になった。すぐに射精が迫った。 強く吐き出す。律動を繰り返す。仲居はまくった着物の裾を噛んで、声を押し殺し、全力で痙攣する。トシさんとそっくりな腰の動きをする。ただ、トシさんより上壁が柔らかいので、するどいけれども絶妙な感触だ。めずらしく射精の律動が何度もつづいた。仲居は私にきつく抱きついて、究極までからだを硬直させた。痙攣が止まらなくなった。
「だめええ、ク、イク、イク!」
 際限なくつづきそうになったので、引き抜いて彼女の股間にティシューを当てた。仲居は腹を縮めては伸ばしてしばらく痙攣しつづける。太腿が白いのに気づいた。そっとなぜる。
「だめ、イクウ!」
 私は彼女を放って風呂へいき、性器のぬめりを落とした。愛液で濡れた股間まで石鹸で洗う。ついでに頭も洗った。バスタオルを腰に巻いて出てくると、女はようやく起き上がり、下半身を曝したまま蒲団に横坐りになった。しきりに下腹をさする。
「すみません、みっともないところをお見せして。こんなに強くイッたのは初めてでしたから」
「いままで触られたことのない敏感なところに当たっちゃったんですね」
「……はい」
 ティシューで股間を拭うと、よろよろ立ち上がってふところから取り出したパンティを穿き、着物の裾を下ろした。
「十分も経っちゃっいましたね」
「いいんです。お腹が渋いからトイレにいってくると言ってきましたから。選手のお部屋の掃除は午後にやりますので、廊下にはだれもいませんし。……心配しないでくださいね。悪さしたなんて思わないで。私のオナニーを手伝ってやったと思えばいいんですから。とてもいいことをしてくれたんですよ」
 ティシューを握ってトイレにいく。戻ってくると、テーブルに向かって正座し、
「まだジーンとしてます。目、充血してませんか? 思い切り感じたので心配です」
「だいじょうぶ、きれいな目をしてます。今夜もう一度きてくれませんか。一回すると、一日、二日のあいだ性欲が途切れないタチなんです。それがまた厄介で」
 仲居は乱れた髪を掌で撫でつけ、
「願ったりです……わかりました。十一時半に参ります。夜はゆっくりできます。こんなに強いセックス……どうなってしまうんでしょう」
「したあとしっかり休んで、目覚めたら帰ればいいでしょう」
「そうします。ああ、ようやくからだの痺れが取れました」
「名前は訊かないことにしますね」
「はい、仲居さんでけっこうです」
「出稼ぎということは、ここは住みこみですか」
「はい。一階廊下の裏階段を降りたところにある、十人ほどで住んでる平屋です。四畳半一間、台所、トイレ付き」
 薄い皺のある目尻が涼しく張っている。つくづく葛西さんの奥さんに似ていた。
「セックスはひさしぶりだったんですか?」
「はい。十年前、似島の亭主と別れてすぐこちらに出てきて、二人ほどの男の人と付き合いました。神無月さんで三人目です。最後の人とは、おととし別れましたから、二年ぶりのセックスになります。この手の仕事をする人間は、むかしからけっこうサバケてるんですよ。若い人は週に二、三回はデートに出ていきます。もちろん恋人とですけど。身持ちの固い家庭持ちの人もけっこういます。その人たちはかよいです。お客さんとこういうことをしたのは、私が初めてだと思います。神無月さんとしたなんて告白したら、みんなから総スカンを食ってしまいます。じゃ、私、いきます。試合がんばってくださいね。また夜に―」
 女の顔を引き寄せ、唇にキスをする。身をよじってうれしがる。ふとうつむき、ようやく萎みかけた私のものに屈みこみ、亀頭の割れ目にチョンと唇をつけた。思わずペロリと舐めた。茎をギュッと握りしめた手を名残惜しげに離し、おもむろに立ち上がると、部屋の戸をそっと開け、廊下の気配を確かめてから出ていった。四十九歳とは思えない若々しい背中だった。
 午前十一時。江藤から部屋に電話がかかる。
「遅なったばってん、適当に走るばい」
「いきましょう」
 ジャージを着る。膝の大事をとった中と、葛城、徳武、ピッチャー陣(小川だけは参加した)を除いたレギュラー全員が、ジャージ姿で玄関前に集合。半田コーチは不参加。薄曇。気温二十六・○度。
「金太郎さん、きょうはどぎゃんコースば走ろうか」
 中日ドラゴンズには、二軍も合わせて広島出身の選手は一人もいない。菱川が、
「四月に猿猴川へ向かったコースと逆をたどって、道なりに広島球場の北へ出て、広島城を眺めながら官庁街を走りましょうか」
「球団バスで走る道たいね。おもしろそうやな」
 木俣が、
「鏑木さんが、ロードランニングはみなさんにおまかせします、みなさん自主性がすごいですからって言ってたぞ。私はもっぱら試合前の人になりますってさ」
 新川場通りから平和大通りへ。いつものようにほとんど人が歩いていない。きょうは右折。涼しい並木の下を国道54号線まで一気に加速する。太田が、
「神無月さん、速すぎる!」
 白神社前の交差点で足踏みしながらみんなを待ち、信号を渡る。広島駅行の三輌連結の市電を眺める。
「めずらしかね。名古屋でも三輌はめったに見ん」
 高木が、
「外国のようだな」
ペースを落としてビル群のふもとを直進する。袋町、本通、紙屋町。左折。原爆ドームはビルの陰になって見えない。林立するビルが切れたあたりを右折。左手に広島球場を見て、整然とした官庁街に入る。美術館、市民病院、県庁、図書館や公民館なども収容する庁舎。そういうものがあると話に聞くだけで、どれがどれだかわからない。ここにかよってくる者だけがわかる建造物の群れ。そして、それらを囲む退屈なアスファルト道。建物の脇にはかならず小さな公園がある。気温は二十六度もあるのに、雨上がりの舗道の風が冷たい。公園のベンチに座っている老人たちのからだがかじかんでいるように見える。
「戻りましょう」
「ウィース!」


         百七十一

 五分ほどウォーキング。右も左も正体不明の背高のビル。それらの陰になって広島城は見えない。走り出す。
「思ったほど楽しくありませんでしたね。景色なんかないほうが一心に走れるという考え方もあるけど」
 私が言うと一枝が、
「それにしても、どの定宿の周辺もおもしろくなさすぎだ。俺の難波のホテルのほうがマシだな」
 室内派の小川が、
「修ちゃんのホテルの周りで走ったら、ギュウに引っ張りこまれるだろ。まあ、今後ホテルの周囲で走るのは趣味人にまかせることにするわ。俺は自宅近辺と、ジムと、球場で走ることにする」
 江島が、
「昇竜館にジムを作ってもらえたので、名古屋にいるときは、ランニングマシーンで毎日走ってますよ」
 私は、
「ホテルにはなかなかジムはないですからね。ニューオータニみたいなのはめずらしい」 千原が、
「たとえホテルにジムはあっても、ランニングマシーンを備えていないのは困りものですね」
 江藤が、
「中さんは群馬のジムで足の筋肉を鍛えとるだけや。あとは球場で少し走る。ワシらはそれに毛が生えた程度でじゅうぶんやないか。な、金太郎さん」
「はい。小川さんのように自宅近辺を走るだけでいいんじゃないかという気がします。ぼくは北村席の周りをほとんど毎日走ってます。グランドでも走りますし、遠征先まできて走る必要はないかもしれませんね」
 列の後方から太田が、
「排気ガスも、からだに悪いし。なんとかPPMと言われてますよね」
 菱川が、
「二酸化炭素濃度な。でも、景色のいいところだったら走りたいな。とにかくきょうのところは帰りましょうか」
 みんなで速力を増した。木俣が尻を振って無理やり先頭に飛び出した。
 帰り着いて、みんなで大浴場へ。背中を流し合う。
「これまで菱と太田の背中がいちばんデカかったけんが、いまは金太郎さんになってしもうたな。なんや、この筋肉は!」
 高木が、
「江島も隆々だね。バット振ってるな」
「いやあ、こんな筋肉では、まだ五、六番手ですよ。菱川さんぐらいつけないと。筋肉は木俣さんの専売特許でしょ」
「いや、俺はもう大金太郎に抜かれた」
 江藤が、
「江島は今年、何本や?」
「一本です」
「出場機会が少ないけんな。千原は?」
「三本です」
「ふつうに出とれば、おまえら二十本は打つな」
 伊藤竜彦が、
「俺もまだ二本だ。慎ちゃんと同期で十一年目だぜ。去年までまともに出させてもらってたんだけど、多い年でも十本だった。ガタイがないからな。七十キロだもの」
「一枝なんか六十二キロやぞ。八本いっとる。身長体重は関係なか。竜(りゅう)ちゃんは二塁打男たい。それでええやないか。水原さんは悪いようにはせん。出してもらったら、ありがとう言うて、このままいっしょにやっていこうや。五、六年もすればワシも竜ちゃんも衰える。中さんは持病があるけんもっと早いかも知れん。ごっそり抜けるゆう感じやろ。金太郎さん中心に、若いやつらががんばらんば」
 菱川が、
「江藤さんはもう三十五本でしょ。六十本は確実です。神無月さんがいなければ、王の記録を破るのは江藤さんだったんですね」
「それはちゃう。金太郎さんに刺激されて、みんな打ちよるんや。菱も太田も、木俣や高木や中まで十本以上打っとる。一枝でさえ八本やぞ。金太郎さんがおらんかったら、みんないつものとおりたい」
 高木が、
「たしかにどのピッチャーもおかしな逃げ球を投げてこなくなった。根性出して投げてくる。自分の最高のボールを投げようとする。そうなるとピッチャーの潜在能力が引き出される。いいボールを投げてやるぞという覇気が出てきたら、勝負根性が出てくる。勝負されると、こっちも潜在能力が引き出されるから、これまで以上に打てるようになる。ホームランを打つなら、金太郎さんがいるあいだだけだね。ドラゴンズだけじゃない。金太郎さんは球界全体のレベルを引き上げた」
 木俣が、
「ピッチャーが全力で投げてくるせいで打ちにくくなった分、打ち甲斐が出てきたということだな。ああ、腹へった、めしだめしだ」
 ロビーの一角にある喫茶部のテレビの前に、中や葛城が集まってテレビを観ていた。徳武が、
「神無月くんの突撃インタビューだ。ちょっと見てみろ」
 私は恥ずかしくて、遠い椅子に座った。江藤が、
「ワシらを尊敬しとるて! うれしかなあ。このアナウンサーの言うとおりたい。感謝しとるのはワシらのほうやぞ」
 江藤がタオルで顔を拭いはじめた。菱川が、
「いつもながら、天才的な受け答えですね。感動します。全国の人も、これですっかり神無月さんのことをわかってくれたでしょう」
 そう言って泣いている。太田が、
「だといいけど……。神無月さんは、人に理解されたいと思ってないから」
 やはり彼もまぶたをこすっていた。
 仲居たちが立ち働く宴会場へいった。何十人も選手たちがいる。さっきの仲居もいて、私に気づくとニッコリ笑った。仲居たちの手で膳が運ばれてきて、十人ほど散らばっておさんどんについた。中と一枝がやってきた。中が、
「金太郎さんに看取られながら球界を去ることができて、ほんとうによかった」
「看取るだなんて」
「いや、膝だけじゃなく、もう二、三年で思いどおりにからだが利かなくなる。私はまだ二十本ホームランを打ったことがないんだ。今年打って、花道を飾りたい。ほんとにありがとう」
「自分のかなえた夢の大切さに気づいて、最後まで大事に歩く道のことを花道って言うんでしょう? 最初から最後まで花道だったんですよ」
 一枝が、
「なるほどね……明石キャンプの衝撃が、ずっとつづいてるよ。足柄山から腹掛けした金太郎さんが下りてきて、俺たちの脳味噌に電気のマサカリを入れた」
 あの仲居が、
「インタビューのとおり、みなさん、ほんとうに神無月さんを愛していらっしゃるんですね。見ていて胸が熱くなります」
 江藤が、
「この男ば愛さんやつは、人間のモグリばい。ドラゴンズは全員愛しとるぞ。試合を観とってわかるやろ」
 菱川が、
「愛さなかったやつは去っていった。いまのドラゴンズは一丸ですよ」
 私は仲居に、
「この旅館は古いんですか?」
「はい。戦争直後からです。むかしは世羅旅館と言ってました。もともと呉服屋だったんですが、戦争で何もかも失って、それで取引先の問屋さんのご援助で高木屋呉服店として商売を再開したんです。当時広島は、原爆からの復興の真っただ中で、京都の呉服屋さんが広島にきても満足に泊まれるところが少ないというわけで、やむを得ず旅館を始めることになったんです」
「初代が世羅という名前だったんですか?」
「世羅郡出身だったんです」
 太田が、
「部屋で素振りするのを許しているのはどうしてですか」
「王さんと長嶋さんがやるようになったからです。畳はボロボロ、壁も傷んで、お二人が東京へお帰りになるとすぐ内装修理にかかります。修理費は請求しません。お二人以外素振りはしないんですよ。ほかのみなさんは、この近くの袋町公園でやってます。お二人の人気は広島でも群を抜いていて、巨人戦ともなれば、カープが三連敗してもONのホームランは見たいというありさまですから。いまではそれが、江藤さんと神無月さんに変わってしまいました」
 菱川が、
「神無月さんて、口数が少ないでしょう? でもしゃべりだすと、あのインタビュー。最高ですよ」
 中が、
「プロ野球の選手は、野球がうまくて、プレーが華々しいのはあたりまえだ。少年たちのあこがれの的になる。でも、それだけじゃいけないと思うんだ。金太郎さんのように、すぐれた人柄の輝きで、大人も感動させなくちゃいけない。きょうのようなインタビューはその効果が絶大だ。ねえ、金太郎さん、スタジオにはぜったいいかないわけだから、きょうみたいな突撃インタビューくらいは避けないようにしてあげないとね」
「はい」
 離れた膳にいた木俣が、
「優勝したら、テレビに出ないわけにいかんだろう。東大優勝のときも、大金太郎はテレビに出てたぞ」
 太田が、
「隅のほうでしたよ。ほとんどしゃべりませんでした」
「それでも出たことは出た。大金太郎は出るだけでいい。そこにいればいいんだ」
 私は皿に載った魚を指差し、
「この大きな焼き魚は何ですか?」
 年配の肥った女が、
「キジハタです。アコウとも言います。瀬戸内海の高級魚です。横のお刺身もアコウ。おいしいですよ」
         †
 三時過ぎにバスで出発。きょうの試合開始も六時だ。三時十五分広島球場到着。フラッシュ、歓声、泣き叫んでいる女性フアンまでいる。感激の過剰さに奇異な思いを抱く。飽きないのだろうか。姿を現すまで待ちつづける忍耐の強さはどこからくるのだろう。彼らと私たちは恋愛関係にない。ビートルズの公演中に失神者が出たと聞いたときも、ひどく奇異に感じた。演技なのかとも思うが、その当時のフィルムに写っている人びとの真剣な表情を見ると、下心は感じられない。
 水原監督がバスの中から帽子を振りながら、
「ありがたいことだね。しかし、どうしてあそこまで熱狂できるんだろう。どう思う、金太郎さん」
「……ぼくもいま同じ疑問を感じてました。たぶん、相手にされないという安心感から、徹底してハメを外せるんでしょうね。相手にされると、冷静になって、わがままが出る」
「ふうん、なるほどね。ファンというのは、ふつうに理性のある人間がハイテンションになった姿だ。相手にしなければあきらめて、群衆の一人として騒ぐだけでがまんする。理性的だね。相手にすると、フッと個人の打算が目覚めて、利己的になる。これも理性のなせるわざだ。ついには名望欲まで出てきて、マスコミにでもチクってみるかという仕組みだね。きみたちも気をつけたまえよ」
 足木マネージャーが、
「ファンのためにと総称で褒めているのが、いちばん誠実な態度ですね。ファンがいなければプロ野球は成り立たない。しかし、個人的に歓迎すれば、親密にしてあげないかぎりシッペ返しを食らう」
「身につまされるね。金太郎さんは苦労してないかい?」
「ぼくは沿道のファンを個人的に相手にしません。気さくな会話のない関係は好きでありませんから。でも、総称としてのファンに対しては、嫌悪感ではなく感謝の気持ちを抱いています」
「それがないと観客の中で野球はできない」
 本多コーチが、
「ファンを抽象的な集団として眺められないので、自分を認める具体的な存在としてファンをおのれに引きこんで受け入れ、そのせいで足もとを掬われるというのは、上に上がれない選手がよく引き起こす問題ですよ。未来を誇大に考えたり、ヤケになったりという個人的な迷いは、そんなふうに迷いようのない有能な同僚には打ち明けられない。だから自分に夢中になっているかぎられたファンを理解者として選び出して、苦しみを分かち合おうとする」
 みんなある種の同情から静まり返った。江藤が、
「上は上で、太か悪事ば働くけんのう。可愛くなかタチの悪さになる。ワシらはそっちのほうば警戒せんと」
 水原監督がうなずき、
「かたまりとしてのファンを頭に置いて、何不自由なく野球ができる立場にいられるんですから、わざわざ野球を汚さないようにしないとね」


         百七十二

 中日対広島十四回戦。観客はおとといより六千人少ない二万五千人の発表だった。連敗を見たくないという広島ファンの足が渋ったからにちがいない。球場のスタンドが満員にならなかったのは、開幕以来初めてのことだ。こういう減り方もあることを知った。私はスタンドに少し空きのあるほうが野球場らしいと思っているが、チームメートには言わなかった。ファンは、ペナントレース全体ばかりでなく、一試合一試合もデッドヒートを望むのだ。実力差がありすぎると興味を失う。しかし、そんなことを意に介していたら野球に没頭できない。
 外木場と小川が投げ合い、初回から打撃戦になった。外木場は五回までに六点取られて降板、広島は、六、七回を宮本が無失点に抑え、八、九回を西本へつないで反撃に備えたが、西本がさらに五点を毟り取られた。
 小川は五回まで投げ、五点献上して六対五の時点で降板、六、七回を土屋が継投した。土屋は打者六人を三振四、凡打二でみごとに抑え切り、六対五のまま笑顔で水谷則博にスイッチした。則博は八回、九回を打者七人、三振一と力投、被安打は山本浩司のソロ一本に抑えた。興津の三振でスリーアウトになったとき、彼は跳び上がって木俣に走り寄った。ボールを渡され、二人で固く抱き合った。背番号45の肩が泣いているようだった。山本浩司にソロを打たれて小川の勝ちを消してしまったが、五点の追加点に守られてプロ入り初勝利を挙げたのだ。喜びもひとしおだっただろう。土屋は最高の継投をした。彼の勝利も近い。
 十二安打、十一対六で中日ドラゴンズの勝利。すべてホームランの得点だった。中十一号ソロ、十二号ツーラン、江藤三十六号スリーラン、私八十七号ソロ、八十八号スリーラン、菱川十八号ソロ。中が四安打、高木二安打、江藤一安打、私二安打、菱川一安打、小川二安打。木俣と太田と一枝には当たりが出なかった。喜ばしいことにドラゴンズは、ひさしぶりに盗塁を五回も敢行して、すべて成功させた。高木二つ、中、江藤、私が一つずつだった。江藤はきっちり足から滑りこんだ。彼は五月あたりからユニフォームのストッキングのめくりこみを整え、菱川と並んでユニフォーム姿が球界を代表するほど美しい選手になったので、足を松葉形に開いて滑りこむ格好はこの上なく華麗に見えた。得点はすべてホームランで挙げたものだったが、打って、走って、守って、じつに後味のいい試合だった。
 広島の六点の内わけは、衣笠の適時二塁打で二点、古葉の適時単打で一点、山本浩司の適時単打とソロで三点だった。広島は十一安打も放ったが、散発のうえにホームランがたった一本だったので、六点に留まった。
 この日のハイライトと目されるできごとがあった。なんと、八十八号ホームランがライナーでスコアボードを直撃し、時計の右脇のRCCの広告板に当たったのだ。昼のインタビュー放送を観ていたにちがい人びとの絶叫がいちどきに上がった。ひとしきりネット裏の実況放送の声がやかましく入り乱れた。ダイヤモンドを回っているあいだ、途切れない拍手に温かみが加わった。広島の野手陣がみんなグローブを叩いている。打たれた外木場まで叩いていた。水原監督としばし抱擁し合った。
「子供たちのためにいい仕事をしたね。まるでベーブ・ルースだ。誇りに思うよ」
 試合後のインタビューは、もっぱら水原監督と私と中と水谷則博が受けた。フラッシュがひっきりなしに瞬く。コーチ陣とほか一同はベンチからその様子を眺めていた。
「ドラフト二位の新人水谷則博選手がついに初勝利を挙げました。先日初勝利を挙げた星野秀孝投手と並んで、二人目の有力新人の登場です」
 ネット裏からパチパチパチ。ドラゴンズベンチの拍手のほうが大きい。
「小川投手の勝利が消えた瞬間、どう思われましたか」
「……はい、ほんとに申しわけないって。せっかく土屋さんがすばらしいリリーフをしてくれたのに、それもむだにしてしまって……」
 水原監督が、
「一点差でしょう? 健太郎くんは五点も取られてたから、あきらめがつくでしょう」
 ベンチの小川を手招きして、ひとことしゃべらせる。
「あのまま投げてたら、もう三、四点いかれてましたよ。土屋も則博もよく抑えた。こいつが自力で手に入れた一勝です。以上」
 則博を抱き締め、おめでとう、と肩を叩くと、走ってベンチへ戻る。ワーッという喚声。やはり則博より人気者だ。
「では水谷さん、もう一度、プロ初勝利にひとこと!」
「うれしいです! 天にも昇る気持ちです」
 ベンチの連中が飛び出してきて、おめでとう、おめでとう、と握手する。則博はまた新しい涙を流した。
「中選手、五の四、大当たりですね」
「先鋒の責任を果たせて、ホッとしてます」
「ホームランも二本」
「できすぎですね。これで十二本。去年の五本を七本も超えました。自己記録の十八本突破を目指します」
「オールスターにも選ばれました」
「オールスターもそろそろ最後でしょうから、最低限の活躍をしたいですね」
 あのRCCの女性アナウンサーが、カメラとマイクを引き連れて走ってきた。
「神無月選手、おめでとうございます! RCCの看板直撃。約束したその日に実現してしまうなんて信じられません」
「ぼくも信じられませんよ」
「局側は了承しました。広島球場で試合があるごとに、安全なRCCの放送席に、小中学生二名を招待するそうです。来年度からは内野指定席に五名招待する予定です」
「あの看板の賞金は二百万くらいですか」
「いいえ、三百万円です」
「じゃ、当分だいじょうぶですね」
「いえ、それは賞金として別のものです。招待の費用は会社側の副賞です」
「子供さんの今後の招待に使ってください。五、六年は保つでしょう」
「ほんとうにありがたいことなのですが、諸もろの手続が面倒なので、とりあえず賞金はドラゴンズ球団事務所のほうにお送りしておきます」
「……わかりました」
「水原監督、神無月選手はいつもこのような―」
「はい、変人です。契約金をいらないと言った人物ですから。しかも、売名行為から言っているのではない。この無欲さは、われわれの心を浄化します。しかし、金太郎さんが何と言おうと、球団はその才能に対する対価を払わせていただく。あなたがたスポンサーも同様です。金太郎さんに甘えてはいけない。RCCの態度は立派でした」
 マイクが何十本も伸びてきた。中が、
「神無月くんが野球選手でなく一般の勤め人なら、いつも喜んでただ働きしているでしょう。その窮状を周りのやさしき人びとが救ってやる、そういう悪循環の中で生きていくしかない。この大天才がですよ。ここまで無欲だと、周囲は利用してずるく放っておくでしょう。活用されない天才は、イの一番に捨てられるんです。幸い、彼はプロ野球界に飛びこんできた。彼は助かったし、私たちも救われた。私たちは彼を全力で守ります」
 則博が私に抱きついてきた。フラッシュが連続で光る。
「神無月さん、五年前にホームランを打たれたときにこうしたかった。秀孝に先を越されてしまいましたけど」
 女のアナウンサーが頬を拭っていた。
 十時を回った。スタンドに残っている観衆に手を振り、ナイーブな聖人から無神経な好色漢に戻るためにバスに乗った。
「監督、若いころは何人ぐらいの女の人と付き合いましたか」
「金太郎さんには正直に言わなくちゃね。一夜かぎりの女も入れれば、二百人くらいかな」
 車中に純粋な驚きの嘆声が上がった。
「どうしてそんなことを訊くのかね。何か悩みでも?」
「悩みというより、雑念があるわけじゃないのに、とつぜん勃っちゃうことがあって往生してるんです。野球をしてるときはまったくありません」
 嘆声の小波が安堵の笑いに変わる。水原監督も微笑しながら、
「えらくザックバランに言うもんだね。男はみんなそうですよ。私も二十代の半ばまでは性欲が抑えられないことが多くてね。とつぜんふくらんじゃって苦労したものです。男ならだれでも通る道ですよ。恥ずかしいことじゃない。その意味で、私はチーム内に倫理的規律を設けない。大人なんだから、じょうずに処理できると思うのでね。ただその種のことは秘密の時間帯で行なわれることが多いので、大事な時間をロスしたり、人の都合を狂わせたりする。度を越えた漁色はだめだということだね。本多コーチの言った二軍の一部の選手のように問題を起こしやすい。これまで半年、金太郎さんを見てきて、ごくあたりまえの性欲の持ち主だとわかっています。しかも、清潔に処理していて、だれの感情にも都合にもヒビを入れない。チームの仲間たちもみんなそうです。巨人軍の寮生の朝帰りのような武勇伝をだれも持っていません。私が渡り歩いてきたチームの中で、ドラゴンズはいちばん清潔なチームです。いまのまま、どんどん遊びなさい」
 拍手が湧いた。田宮コーチが、
「俺たちもみんな若いころはどっさり遊んでたよ。シーズン中はなかなか時間が作れないけどね。それでもみんな人に迷惑をかけないように工夫して遊んでた。さ、あしたは移動だ。移動のあいだは遊べないぞ。今夜のうちに遊んどけ。腹ごしらえしてな」
「ウィース!」
 バスを降り、数人の従業員に拍手で迎えられる。
「お帰りなさいませ!」
 水原監督、コーチ連、マネージャー、トレーナーたちはフロントで鍵を受け取ると、
「お休みなさい」
 と挨拶して、揃ってエレベーターへいった。彼らは特別室で少しミーティングをし、自室に戻ってルームサービスをとり、家族や、名古屋の二軍スタッフと連絡をとり合ったあと、風呂に入って寝る。ロビーの椅子にユニフォームを着たまま体重を預けているベテラン連中(葛城・徳武・小野)は、煙草をのんびりふかしながら名残の会話をしたあと引き揚げ、夜遅いルームサービスをとり、たぶん電話で家族の安否を確かめてから、テレビを観て寝る。ベテランたちの会話にしばらく加わるが、一足先に部屋に引き揚げる連中(小川・江藤・中・高木・一枝・菱川・太田・水谷則博・土屋紘)は、風呂に入ってサッパリしたあと、申し合わせて外食に出かけるにちがいない。外食を億劫がって、フロントでルームサービスを頼む連中(伊藤久敏・伊藤竜彦・星野秀孝・出番のなかった控え選手)はユニフォームも脱がずに、部屋でまず空腹を満たす。それからシャワーを浴び、テレビでも観ながら寝るだろう。いずれにせよ、みんなめしを食わなければ寝られない。私は最後の連中に混じって、玉子雑炊にお新香のお粥セットをフロントで注文した。たっぷり土鍋一つある粥なので腹がふくれる。
 ゆっくり時間をかけて土鍋を浚っていると、どやどやと廊下が賑わう。江藤たちが出かける足音だ。
 土鍋を廊下に出し、ユニフォームを脱ぎ、シャワーを浴びる。汚れ物をビニール袋に納れ、段ボール箱に詰める。あした送付する荷を造り終え、ベッドの脇に積む。
 十一時半。ノックの音がして、お仕着せ姿のままの仲居が入ってきた。
「着替えもしないですぐにきました」
「ありがとう。この階のみんなは出払ったみたいです」
「はい、江藤さんたちが五、六人で出かけました」
「めでたいことがあったからね。小野さん以外の左の柱が二本立った」
「星野選手と水谷選手ですね。おめでとうございます。テレビもラジオもすごい騒ぎでしたよ。RCCの広告に神無月さんのホームランがぶつかったって」
「奇跡以外の何ものでもないけど、ほんとによかった」
「水原監督や中選手たちが、レポーターに神無月さんのことを熱心に伝えているのを聞いて、涙が流れました。テレビのアナウンサーと司会者も声をふるわせてました。みなさんに愛されているんですね。……神無月さんが畏れ多い人だとわかりました。……ほんとにもう一度抱いてくださいますか?」
「すぐしよう。エネルギーモリモリになった。ほら」
「ほんとですね!」
 私の伸びはじめたものを見て思わずひざまづいて両手で握り、口を寄せる。
「まずいっしょに風呂に入ろう。一日汗をかいたでしょう」
「はい」
 狭い内風呂でゆっくりからだを流し合う。そのあとで、浴槽の縁に腰を下ろさせ、蝶のように開いた奇異な小陰唇を指で分けながら、大きな陰核を舌で愛撫した。昼間彼女が経験しそびれたことだった。仲居はそれだけに奔放に反応し、懸命に声を抑えながら烈しいアクメに達した。その場で後ろを向かせ、半ば屹立したものを挿入する。
「はあァァ―」
 感に堪えない深い声が上がった。ゆっくりと動き、幾度も気をやらせながら射精した。午前よりも勃起の度合いが弱く、仲居の反応とは裏腹に射精の快感も穏やかなものだった。




(次へ)