百七十三

 奇妙なことに、風呂から上がったとたんにいつもの硬度を回復したので、蒲団で顔を見つめ合いながらもう一度交わった。自分の体積が増したせいで、彼女のものがぬめり心地のよい、収縮の激しい卓越した性器だとあらためて知った。腰の動きはトシさんかと見まがうばかりで、なつかしい思いをした。仲居は今度も極力声を抑え、短いあいだに全力で高潮を繰り返した。硬直する腹をさすってやりながら、私も心置きなく射精した。
 仲居は存分にアクメを堪能し終えると、脱力した腕を私の胸に預けて、
「……広島の女になっていいですか? こんなおばさんですけど」
「いいモノを持ってるおばさんは大歓迎です」
「そんなに、私のはいいですか? いままでだれにも言われたことがありませんでしたから、とても恥ずかしい」
「名器です。ぼくの女神たちにひけを取らない」
「うれしい! 女神たちって、インタビューで言ってた……」
「うん、最愛の女たち。ぼくには神のような存在です。ぼくと滅んでいくために、完璧な秘密主義を通してくれてる」
「……私も、秘密を守ります」
「秘密を持つことはつらいですよ」
「いいえ、生甲斐ができました。何もない人生でしたから」
「子供は?」
「似島に男の子三人。いちばん上が二十五で、もとの夫と漁師をして暮らしてます。海沿いの道路と、山しかないような島です」
「どうして別れたんですか?」
「小学校のころの初恋の人と、一度だけ浮気をしたんです。その人がぺらぺら言いふらしてしまって。女たらしの軽い男だとあとで知ったんですけど。……小さな島ですから、あっという間に……」
「それじゃ、八月に似島に遊びにいけないね」
「神無月さんを案内すると言えば、島のおえらいさんたちは喜ぶでしょう。別れた夫も子供たちも、私を避けて近寄ってこないと思います」
「江藤さんたちも連れていこう。ぼくだけだと、また噂を立てられるから」
「そうしてもらえるとありがたいです。上を下への大騒ぎになりますよ」
「カメラマンたちもついてくるだろうしね。何かおいしい名産品は?」
「似島のカキは広島のカキの中でもトップランクだと言われてます。バウムクーヘンは似島が発祥なんですよ」
「その二つは食べよう」
「……ここのフロント主任が、部屋じゅうに神無月さんの写真を貼るほどの大ファンらしいんです。そのかたもお誘いしていいですか」
「ぜひ。彼が似島の案内役を買って出てくれるかもしれない。広島の夏は暑いですか?」
「とても。毎日三十度を越えます」
「麦わらをかぶらなくちゃ」
「主任さん、さっそく八月の計画を立てると思います。あしたから東京ですね。お宿はどちらに?」
「ホテルニューオータニ。最後の日はかならず吉祥寺の女たちのところに泊まる。五十歳と六十歳」
「……女神」
「うん、女神たちの中の二人。一人は五十三歳の子持ちのヤモメ。もう一人は六十二歳の天涯孤独のヤモメ。六十二歳の人は、ぼくに吉祥寺の家をくれた」
「そんなに女神さんがいると、もちろん中にはお子さんのいらっしゃるかたもいるんでしょう?」
「名古屋の四十歳の女にだけ産ませました。もうすぐ二歳になる男の子が一人いる。女神たちや彼女たちの親族が協力し合って子育てを助けてます。いま彼女のお腹にもう一人いるので、この八月に二人の子持ちになる」
「幸せなおかた。……ほかの女神さんたちも、みなさんご高齢なんですか?」
「じつは、十六歳から六十二歳にまでわたってる。二十代以下がほぼ半数います」
「気が遠くなりそう……。そのうち百人にもなるんでしょうか」
「ならないと思う。ぼくは見境のない人間じゃないし、根が多情じゃないから、やむを得ない事情が絡まないかぎり女は抱きません。あなたのような親切な女がポツポツ増えるとしても、あと数人でしょうね」
「ほんとに私、幸運でした。名古屋と吉祥寺……。雑誌を見ると、吉祥寺は東京で住みたい街ナンバーワンになってます。すてきなところなんでしょうね」
「いいのは公園があるくらいことかな。ぼくとしては、住みたいとは特に思わない。都市というのはほとんどの商店や文化施設を完備してるので、その街だけで完結してしまってますからね。完結してるものは好みじゃないんです。そこから出ていく必要がなくなる」
「出ていかないのもいいことだと思います。出歩くことが嫌いな人もいるでしょうから。ふつうの人間は、じっとしてるのが好きなんです。私たち田舎者もそう」
「じっとしているのは理想かもしれないですね。ぼくは、文化のないような漁村で祖父母に預けられて育ったから、じっとしているしかなかったし、それで満足してました。でも陽が当たってるように見えても、そういう場所は日陰なんです。日陰は安全ですけど、永遠にはいたくない。五歳のとき母が迎えにきて、あちこち歩き回るようになりました。そのうち転々とすることがおもしろくなって、引きこもりを促すような町に魅力を感じなくなったんです。プロ野球の仕事はぼくの好みにぴったりです。全国を飛び歩く」
「私は一カ所にいるのが好きです。あっちこっちは性に合いません。一つところにじっくり住みたいです」
「ぼくには都合がいい。待っていてくれるから」
「私も、出かけていくより待っているほうがいいです」
 私は裸体の仲居を抱き寄せてキスをし、四つん這いにすると尻をつかんで挿入した。
「ああ、もう一度してくれるんですね、うれしい!」
 私の精液でヌルヌルしている。それでも極限まで締まっているので、動き出すと摩擦が強い。
「あああ、気持ちいい!」
 背中の大きさから案外小柄だとわかった。肥ってもいなければ痩せてもいない。両乳をつかむとズッシリとした手応えがある。顔をねじ向けて口を吸う。恍惚の表情で吸い返す。大きな眼窩の目尻に浅い皺が寄っている。だれかに似ている。ユリさん、百江、雅子、文江さん……だれでもいい。
「あ、神無月さん、好き、イクイク、イク! あああ、よすぎ、よすぎ、ううう、イクウウ! もうだめです、く、苦しい、ああイク、イクウウ! あああ、気持ちいい! もう限界、イ、イ、イクウウウ!」
「イクよ!」
「は、はい! あああ、うれしい! 愛してます! イックウウウ!」
 尻を突き出しては引っこめ、全身の筋肉を硬くして痙攣する。乳房をしっかり握る。抜いて仰向けにし、口を吸う。激しく応えてくる。クリトリスに指を置くとビクンと跳ねた。あふれてくる精液にティシュを当てる。
「私、私、神無月さんのこと好きです、大好きです」
 懸命に目を見開いて言う。腹をさすり、陰阜をさする。硬く突き出している乳首をつまむ。腹が縮み、上半身が揺れる。
「いつもお待ちしてます。あ、もう一時になります。寮の人が怪しみます。名残惜しいですけど、帰ります。きょうはほんとうにありがとうございました。しばらく逢えませんけど、どうかお元気で。いつもテレビで応援してます」
 股間をきちんと拭い、お仕着せをまとう。
「ぼくこそありがとう。それじゃ、八月に。さよなら」
「さようなら。……あの、私、園山勢子といいます。勢いの勢、です。大正九年六月二十六日生まれで、きょうのお昼に言ったように、四十九歳になったばかりです」
 そのことに何の感懐もない。
「今度抱くときは、名前を呼ぶね」
「まあ、うれしい!」
 勢子は私の唇に軽くキスをして、ドアの外へ出ていった。
 粘ついている局部をシャワーで洗う。こうするときいつも、個体差のない男と女の反応の均一性に思いを深くする。均一性が種を維持し、愛情と嫉妬の温床になる。人間の肉体は骨の髄まで、個別であり得ない。カズちゃんでさえ―。下着交換。
 机に向かい、赤と黒のあとがきを読む。小説の時代背景や成立過程についての小論文になっていたので、興味が失せ、読み止める。もうこの小説は二度と読まないだろう。就寝。
        †
 六月二十七日金曜日。七時十分起床。快晴。二十一・三度。左耳に意識するほどの間断ない耳鳴り。下痢便、シャワー、歯磨き。
 ジャージを着てフロントに降りる。昨夜段ボール箱詰めした荷物の上に、ヒビの入ったバット一本を載せて、北村席宛てに送料着払いで預ける。荷物の送付手続完了。ダッフルとスポーツバッグとバット二本を入れたケースを取りに部屋へ戻る。
 淡いブルーのワイシャツに紺のブレザーをはおる。ロビーに降り、ラウンジの喫茶部でコーヒーを注文。テーブルでしばしくつろぐ。強い陽射しが竹のブラインドから洩れてくる。隣のテーブルの小野が手渡してよこした新聞を見る。
「すごいホームランだったね。インタビューの放映直後だったから感激したよ」
「ありがとうございます。二度とないマグレです」

 
ドラゴンズ引分け挟んで二十七連勝 
  
ニューヨーク・ジャイアンツを超える世界新記録
         純粋二十一連勝 シカゴ・カブスと並ぶ世界タイ記録も樹立 


 細かく書いてあるが、こちらの記事には見るべき内容はない。 

 
神無月あっぱれ八十八号 児童招待席贈答弾
        
星野秀孝・水谷則博初勝利揃い踏み

 ヘルメットを抑えながら一塁へ走り出す私の姿と、スコアボードの時計脇のRCCの文字に当たった瞬間のボールが大きく写っている。真ん中のCの文字に当たっていた。私はぽっかり口を開け、するどい目で打球の方向を見つめている。最高のスイング、百四十二メートル決勝弾。見出しのあとの内容は読まなくてもわかる。左隅に則博の泣き笑いの写真も載っていた。小野が、
「いつかサイクルヒットをやれるといいね」
「サイクルヒットは運が百パーセントです。運よりは、狙い打つホームラン。六打席連続をやったので、次の狙いは七打席連続です」
「二試合に渡らないといけないね。一試合六打席連続はインパクト強いけど、じつは神無月くんは、二試合にわたる六打席連続も一回やってるんだよ。新聞は採り上げなかったけどね。四月十三日の広島戦と、十五日の巨人戦だ。運じゃなく才能でホームランを打つ人だから、七打席連続もやってしまうかもなあ」
「才能ではなく訓練で身につけた技術でどうにか打ってるんです。運でないのは確かです。純粋な運否天賦で打ったホームランは二十パーセントもありません」
「みんな金太郎さんのその二十パーセントの範囲内でシーズンを終わるんだよ」
 小野は新聞に戻った。
 売店の書籍部へいき、岩波文庫のレ・ミゼラブル上下二巻を買ってきた。有名な小説だが、読むのは初めてだ。読み出してすぐ、純文学というよりは冒険小説だと気づく。モンテクリスト伯と重なる。没入しはじめる。スリルとサスペンス。俗な表現だが、それに精妙な文章のオブラートがかかっている分、飽きがこない。やはりモンテクリスト伯を読んでいるときと同じ気分だ。
 背広姿の江藤たちがやってくる。バスの横腹に荷物を積んでこいと言われる。積みこみが終わり、会食場へ。水原監督以下チーム全員揃って和気藹々と朝めしを食ったあと、十人に余る従業員に見送られてバスに乗りこむ。列の中ほどで勢子が手を振っていた。花火が弾けるようなストロボとフラッシュの光。いくつものテレビ局のビデオカメラが一人ひとりの選手を追いかける。RCCもビデオを回している。ロープ越しに声援が飛んでくる。
「招待席、ありがとな!」
「広島は川と橋もきれいなのよー。今度案内してあげる」
「オールスターは来年までがまんせいや」
「八月に優勝決めてまえ!」
「水原ァ、七十歳までやって十連覇したってや」
「ノースリーブすてきよォ」
「菱川さんのお尻もすてきィ」
 足木がニヤニヤしながら、みんながバスに乗りこむのを確認する。アトムズ三連戦に向けて東京へ出発だ。


         百七十四

 十一時五十分、JAL256便搭乗。座席に着いてシートベルトを締めるや否や、レギュラー全員睡眠に入る。私はレ・ミゼラブル。スーパーマンの主人公の冒険の底に、少女への深い愛が貫いている。スチュワーデスが一度コーヒーを持ってきた。一時十五分羽田着。あっという間だった。ジャン・バル・ジャンとコゼット。心の友ができた。
 迎えの大型バスに乗り、天王洲アイルから汐先橋を通って、午後二時ちょうどニューオータニ着。玄関にファンの姿はない。従業員の盛大な出迎えになぜかホッとする。
「お帰りなさいませ!」
「お疲れさまでした!」
 五階八号室のキーを渡される。すぐにランニングに出たくなったが、その前に部屋に落ち着き、柴田ネネに電話を入れる。
「わ、神無月さん、お帰りなさい。恋しかった! やっぱり約束どおり今月末に連絡くれたんですね」
「あしたは神宮球場、六時半から。―今夜きて」
「はい、今夜参ります」
「早めに、七時ぐらいにきて」
「はい、かならず」
「きょうはたっぷりできるよ」
「ありがとうございます。最近、お腹の奥がイキたいって感じるようになって。……こんなこと初めてです。歩いてるときにもとつぜんそうなるから困ります」
 私の女たちは、ほかの女の前でアクメの発声をすることを恥じらわない。男はほかの男の前でそんなことはできない。女同士の気の許し合いには、想像を超えた寛容がある。高潮に浸されているほかの人間のからだをさすってやるなんてことが、男にできるはずがない。オーガズムというのは、出産と同様、その本質は苦しみなのかもしれない。ただ、ネネだけはほかの女といっしょに抱かれることを拒否する女のような気がする。古風な貞淑のにおいがする。
「広島球場では、すばらしいことをしましたね。いま大評判ですよ。同じことをいろいろなスポンサーが申し出るだろうって新聞に載ってました」
「どこに当てればいいんだろうね」
「ちょっと待ってください、切り抜きましたから。……ええと、神宮球場の時計は二百二十メートルぐらい飛ばなければ無理なので、バックスクリーンを越えたところにある看板ですって。百四十五メートルくらい。そこにしか賞金を出す広告がないらしくて。コカコーラか、東芝か、キリンビール。甲子園も時計は無理なので、スコアボードのどこでもオーケー、百五十メートル。後楽園もバックスクリーン越えの看板、日産自動車か、東洋紡か、月星シューズか、同和火災、百四十七メートル。川崎球場は時計の横、サントリービール、百三十五メートル」
「中日球場は?」
「神無月さんのホームランと関係なく、八月から児童招待を実施するそうです。養護施設の子供たちを優先して招待するらしいですよ。……ほんとにすばらしいことをしました」
「思いつきだったんだけど、いいことしたみたいだね。じゃ、七時に」
「ちょうどにまいります」
 詩織にも、三十日の昼に吉祥寺にくるよう電話する。安全日なので、思い切りセックスができると喜ぶ。
「今年の春季リーグ、東大は三勝して五位だったんですよ」
「へえ! 最下位が決まってたんじゃなかったの」
「神無月さんが檄を飛ばしてから盛り返したんです」
「六位は立教?」
「はい。打率は岩田くん、野添くん、風馬くんの三人が二割二、三分、ピッチャーは村入くん、那智くんが一勝ずつ、三井くんが一勝。みんなよくやりました」
「でもマネージャーには戻らないんだろう?」
「ええ。一度失望した気持ちはもとに戻りません。でも、ときどき応援にはいくつもりです」
 詩織のうれしそうな笑い声に安心して電話を切る。
 シャワーを浴びてからアイリスに電話する。メイ子がカズちゃんに代わる。
「広島のお菓子、みんなで食べたわよ。五箱ずつ送ってくるんだもの、驚いちゃった」
「新しい女が二人増えた」
「そんなのどうでもいいの。報告する必要もないわ。私はキョウちゃんよ。自分に報告してどうするの。キョウちゃんが楽しければ、私も楽しいと思ってね。つまらないことで反省しないこと。一生懸命努力して、一生懸命楽しくすごして。いつも私を離さないでね」
「うん」
 電話の最後にカズちゃんは、
「キョウちゃんの愛に包まれていつまでも生きていたい」
 と小さな声で言った。
「カズちゃんの生きていない世界にぼくはいないよ。カズちゃんが見えなくなるまでぼくは目を開けて見つづける。カズちゃんも?」
「見えなくなってからもよ。……しばらくのあいだだけ」
 三十日は吉祥寺に泊まり、七月一日の午後早く帰名することを告げて、電話を切る。
 ジャージを着てロビーへ降りる。めずらしく歌謡曲の有線が小音量でかかっている。黛ジュンの雲に乗りたい。変わった声だ。メロディは単純すぎて耳に障る。
 玄関スロープからランニングに出る。午前中にひと雨きたらしく、舗道が湿っている。気温は二十二・三度。熱を奪われたアスファルト道が冷えびえとしている。清水谷公園の湿った土の道を走る。背後に足音がするので、振り向くと江藤だった。
「金太郎さんが玄関を出てったと聞いてな。追っかけてきたばい」
 二人で走り出す。
「こういう一日は、気が抜けるっち。しかし、走っておかんば」
「そうですよ。住宅街は走ってもまったく楽しくありませんが、こういう場所なら緑を楽しめます。できれば、朝日で臙脂色に染められた道というのが理想ですが、そこまで早起きはできないので。しかし、ベテラン組の体力はすごいですね。舌を巻きますよ」
 江藤が得意げにうなずき、
「ワシらの世代は高校で鍛えられとる。ヘドを吐くほどの特訓たい。その貯金やな。いまは名門高校以外きつすぎる練習はあまりせんようになった。大学は相変わらずやっとるみたいやが。東大は別にしてな」
「ぼくは、高校、大学と、特訓はゼロです。東大時代は自力で貯金を増やしましたが、高校はほんとにゼロです。青森高校は適当な準備体操だけ、名古屋西高は野球から離れて受験勉強一本でしたから。ランニングと素振りはときどきやってましたけど」
 江藤は道端のベンチに腰を下ろし、
「そこが金太郎さんのすごかところよ。三年間大して練習もせんと、とんでもなか体力ばちゃんと維持したちゅうことやけん」
 私も腰を下ろす。
「いや、徐々に衰えてたんですよ。取り戻しがたいへんでした。とくに大学野球を始めてから、スタミナのなさをいやというほど思い知りました」
「明石でもダントツの練習量やったもんな。さりげなくやっとるようやが、近くで見ると鬼気迫るちゅうやつばい。天才にあぎゃんがんばられたら、ワシら凡人も奮起するしかなかろうもん」
「投手陣の練習って、ピッチング以外は見かけたことがないですね」
「去年の秋季キャンプからずっと、主力とか控えとか区別せんと、投手陣のほとんどがまとまってランニングの自主トレをやっとる。ピッチングはたいてい西区の堀越の室内練習場やが、設備のある各球場の室内練習場でもやっとる。ほかのチームとちがって投手陣の結束力が固いのはそのせいや」
 表情がきびしくなる。
「もう二周ぐらいしようかの」
「はい。……秋季キャンプはぼく、参加しません」
「聞いとる。三カ月の完全休暇を契約事項に入れたて。最初は、新人のくせになんやこいつ思ったが、いまは納得や。安心して自分の計画ばこなせばよか。どうせどこへいっても走るんやろ」
「そのつもりです」
「サラリーマン社会には、福利厚生やら、住宅補助やらあるけんが、プロ野球選手は個人事業主やけん、きちんと自分で管理せんと。厄介ごとを抱えて先送りするごたる生活にならんように、ちゃんと自己管理せんばな。ワシも新人のときに一回出たぎり、秋季キャンプはずっと参加せんかった。去年出たんは、まだ衰えとらんゆうところを見せるデモンストレーションやった。もうやらん」
「……江藤さん、いつも見守っててくれて、ありがとう」
「中が言うとったやろ、みんなで守るて。世間ばかりやない、仲間内の風当たりからも守る。百三が消えてから風は吹かんようになったばってん、これからどんどん新人たちが入ってくる。いらん風を吹かせるやつも出てきよるやろうもん。陰口は止められんが、金太郎さんにつっかかっていきよったら叩きつぶす」
 ニューオータニに戻って、フロントで別れる。部屋に戻り、きょう二度目のシャワー。すでに下腹に力がみなぎりはじめている。この生理反応はいつまでつづくのだろう。勃起を宥めるのに苦労する生活は不便極まりない。水で濡らしたタオルを絞って巻きつけ、ベッドに横たわる。十分ほどで鎮まる。
 江藤たちを誘って山茶花荘へいく。控えを除いたレギュラー打撃陣全員、悠然と竹垣の玄関道から店内に入る。城山店主と二人の仲居の案内で、庭の見える掘炬燵式の部屋に通される。この時間にめしを入れれば、夕食は九時過ぎのルームサービスになる。
「おひさしぶりです。きょうは豪華メンバーですね」
 私は、
「二開催に一回はこようと思ってましたから。―鰻せいろ蒸し御膳」
「かしこまりました。アサヒの生ビール十本をサービスでお付けします。みなさんのご注文は?」
 高木が和牛ステーキ御膳と言うと、江藤ら四人がなびき、中と菱川がお造り御膳になった。
「鰻はぼくだけか」
「金太郎さんとちがってワシらは精をつける必要がなかけんな」
「バレてます?」
 菱川が、
「とっくですよ。顔はわかりませんけど、四十代くらいのおばさんが夜中に出ていくのを一度見ました。二十歳前後の若い女の人も見かけました。あ、神無月さんのところから出てきたなと思って、思わず笑いました。俺、ロビーでよく夜中に新聞読んでるんですよ。みんな一度は見かけてます」
「まいったな」
「まいることはなかよ。英雄色を好む。和子さんのお墨付きが出とるて、みんな知っとるしな。水原監督に悩み相談しとったやろ。勃って困るて。そのエネルギーでホームラン打っとるのがようわかる。みんなも納得しとったやろう」
「今後とも、よろしくお願いします」
「おお、お願いされちゃる。安心せい」
 卓の周囲に暖かい笑い声が上がった。きちんとした服装をしていたせいか、見かけたその中年女が川崎球場の柴田のオバチャンだということはわからなかったようだ。ビールをつぎ合う。 
「そろそろ甲子園の季節ですね。受験勉強に入れこんでたころ、ときどきテレビで夏の大会を観ましたが、閉会式の行進曲に泣きました」
 太田が、
「栄冠はきみに輝く」
「唄える人、いますか。聴きたいんです。あの二年間は、その曲を聴いて、野球のできない自分を励ましていたものですから」
 木俣が丸顔をほころばせて、
「一番だけなら唄えるぞ」
 太田が、
「俺、三番まで唄えます」
 菱川が、
「俺も唄える」
「お願いします!」
 江藤が、
「よし、まず乾杯せんば」
 みんなでコップを捧げ持ち、打ち合わせる。
「乾杯!」
 一気に飲み干す。


         百七十五

 木俣が目をつぶって唄いだした。ドスの効いた低音だ。

  雲は湧き 光あふれて
  天高く 
  純白の球 きょうぞ飛ぶ

 途中から全員が合わせる。

 若人よ いざ
  まなじりは歓呼に応え いさぎよし
  微笑む希望
  ああ 栄冠はきみに輝く

 たまらず涙があふれ出した。太田と菱川が二番を唄いだす。一番を唄い終えた仲間も、うろ覚えの口をパクパクさせながら涙を流しはじめた。

  風を打ち 大地を蹴りて
  悔ゆるなき 
  白熱の力ぞ 技ぞ
  若人よ いざ
  一球に 一打に懸けて
  青春の 賛歌をつづれ
  ああ 栄冠はきみに輝く

 涙が止まらない。

  空を切る 球の命に
  かようもの
  美しくにおえる 健康
  若人よ いざ
  みどり濃き 棕櫚の葉かざす
  感激を まぶたに描け
  ああ 栄冠はきみに輝く

 私はとうとう背中を屈めて慟哭した。その背中を江藤が抱いて、
「野球選手でよかったのう! 金太郎さん、ほんなこつ、よかったのう!」
 みんなで膝を摺って寄ってきて、
「瀬戸際だったんだよ、瀬戸際で神無月くんはこの行進曲を聴いてたんだよ。苦しかったろうな、ほんとに苦しかったろうな」
 中が私の手を握ってぼろぼろ涙を落とした。一枝がみんなにビールをつぎ、
「よし、もう一度乾杯だ」
 木俣が目を真っ赤にしながら、
「大金太郎が、そして俺たちが野球選手であることに乾杯!」
 料理を運びこむ仲居たちも目を潤ませている。
「いいですねえ、男同士ってほんとにいいですね。廊下でうかがってて、ホロリとしました。旦那さんは涙を乾かしてから顔を出すと言ってました」
 菱川が、
「男同士だからってこうはいかないすよ。神無月さんだから……。ああ、すまんです、胸がいっぱいになりました。俺は、去年まで怠け野郎だった! 今年からすっかり心を入れ替えた。神無月さんみたいに泣くほど野球に飢えてないと、人目に堪(た)える野球選手にはなれん。がんばります!」
「おお、おたがいがんばろう!」
 高木の音頭でいっせいに箸が動きはじめた。目を赤くした城山が入ってきて、
「中選手、瀬戸際というのは、巷間で言われているように、母親を篭絡しなかったら神無月さんの今日がなかったということですね」
 中は大きくうなずき、
「そうです。野球選手になる人間は、楽しく野球をやってて、スカウトされたり、テスト生として試験を受けたりしながら、能力さえあれば順調に階段を上がっていきます。少なくともその行動を妨げられることはありません。神無月くんはあふれる才能がありながら、それをことごとく妨げられてきた。おまけに遠島を喰らったり、受験を強いられたりしてきた。しかも東大以外の大学は許されないときた。ふつうの追い詰められ方じゃありません。薄氷どころの瀬戸際じゃない。親の承認がないと、大学野球部やプロ球団は未成年を勧誘してはいけないことになってるんです。神無月くんのお母さんは典型的な権力志向の人間です。他の大学へいっても、まちがいなく野球をすることを許さなかったでしょう」
 江藤がステーキを切り分けながら、
「プロ野球選手の親に、そんなやつは一人もおらんたい。その意味でワシらは全員幸せ者ばい。金太郎さんに比べたら、みんな甘ちゃんたい」
 太田がしきりに大きなあごを動かし、
「親友の見舞いで夜遅く帰ることが重なっただけで、島流しにしてしまう親ですよ。それきり見放してくれれば話は簡単ですが、いざ階段を上りはじめるとじゃまをする。その妨害を神無月さんはことごとく克服してきた。そういう親に、契約金までくれてやった。いまここにこうやって野球選手として神無月さんが坐っているのは、自力更生の奇跡ですよ。泣かずにはいられないす!」
 一枝がクイとグラスを傾け、
「それなのに金太郎さんは、いつまでも自分にきびしいんだよ。そして、不気味に人にやさしいんだ。二十歳にして、還暦の人間も敵わぬ苦労人だからね。言ってみれば俺たちの永遠の師匠で、かつ、守り神的な存在だ」
 冷やしたタオルで巻いた性器が浮かぶ。木俣が肉をもぐもぐ噛みながら、
「極論を言うとだな、大金太郎が屁をしようと、ウンコ漏らそうと、遅刻しようと、約束をすっぽかそうと、練習サボろうと、どうでもいいわけよ。ところがそんなこと一度もしたことがない。目につくのは、女を堂々と侍らしてることぐらいだ。でもそのせいで人に迷惑をかけたことなんか一度もないわけだから、生き神の愛嬌と思えばいい。これで女っ気のない聖人君子だったら、取りつく島がないよ。大金太郎は成功一色でつるりとした人間じゃない。けっこうゴツゴツ取っ掛かりがあって、取りつく島はちゃんとある」
 仲居たちがホホホと笑う。高木が、
「その女にしたって、タラしたわけじゃない。くる者拒まずの結果だ。と言っても身近なファンには手を出さない。芸能人にも近づかない。すべて身の周りの知り合いだ。マスコミ人が俺たちと同じように、そういう金太郎さんに惚れて、スキャンダルで傷つけようとしないのも理の当然だね。この才能の器からすれば、女が百人いたっておかしくないからね。大して才能もないくせに、千人斬りとか言ってる男がけっこういるけど、笑えるよ」
 店主がにこにこして、
「話がおもしろくて、この場を動けませんよ。それにしても、みなさん、すごい食欲ですね。もうほとんど平らげましたよ。鮨桶を三枚用意しましょう」
 江藤が、
「ありがとう! それで完璧たい。ところで金太郎さん、このごろサッパリ質問せんようになったな。知りたいことはもうなかね?」
「ときどき質問したくなるんですが、しつこくなると思って訊けませんでした。じゃ、一ついきます。外野でキャッチしたウィニングボールは、スタンドに放りこんではいけないんですか」
 きたきたきた! と拍手が上がる。中が、
「初勝利のピッチャーとか、節目の勝利をしたピッチャーがほしがらなければ、そうしてもいいんだろうけど、やっぱり投げこまないほうがいいね。たいてい遠くに投げないから、前列にいた人の得になる。みんなボールがほしいから不公平感が残る。もう一つ、投げこむことが意識にあると、アウトカウントをまちがえたりして、たいへんなことになる。走者に二個の安全進塁権が与えられるんだ。満塁なら二点入る」
「わかりました。そんなことになったらほんとにたいへんだ。ファールボールは係員が回収してますが、あれは費用の関係ですか」
「そう。使用球はホームチームの負担だ。ぜんぶあげてたら、膨大な金額になる」
「それもわかりました。最後に、ネット裏の控え審判というのをどういう人がやるのか、いまだによくわからないんですが」
「審判のことなら、太田だ」
「初戦の控えはあらかじめ決められた人です。二戦目の控えは初戦で球審をした人、三戦目の控えは二戦目で球審をした人です。一度でも球審をした人は、翌日は百パーセントアガリだからです。質問とは関係ないですけど、審判は試合開始の二時間から一時間半前に球場に入ります。控え審判室で着替えをして、グランドへ出る。外野グランドでストレッチやランニングをします。一軍の審判は年齢が高目なので、じゅうぶんウォーミングアップする必要があるんです」
「ローテーションはどうなってるの」
「球審、控え、ライト線審、レフト線審、三塁、二塁、一塁、球審というサイクルで一試合ごとに動きます」
「内野は時計回り、外野は反時計回りか」
「基本はそうです。けっこう適当に持ち回る場合もあります」
 鮨と茶が出てきた。トリガイとアナゴを食う。そのまま店主が仲居たちと部屋の隅に正座して、話を聞く態勢をとった。
「松橋さんが、審判は、監督やコーチや選手とプライベートな接触をしちゃいけないと言ってたけど、ほんとにそうなの」
「ほんとです。審判はあらぬ疑いをかけられることを避けるために、住所も電話番号も教えてはいけないことになってます。……原則ですけど」
 菱川が、
「マッちゃんは、線審のときよく話しかけてきますよ。人なつっこい笑顔でね」
「圧倒的な存在感があるよね。人一倍濃やかな神経の持ち主だし。ぼくもよく彼には話しかける」
 中が、
「マッちゃんにかぎらず、金太郎さんは審判に話しかけてるね。慎ちゃんもそうだ。バッターボックスに入るとき、よろしゅう頼んますという声がよく聞こえてくる」
「ワシャ、あれで自分にハッパかけとうったい」
 太田が、
「審判の仕事ってたいへんなんですよ。まず両軍合わせてピッチャーの投球数が三百くらい、五十一個から五十四個のアウト、ほかにフェア、ファール、ハーフスイング、盗塁、インターフェア、オブストラクションなどなど。つまり、一試合でだいたい全審判合わせて四百回もジャッジをするわけです。延長戦ともなると五百近くになります」
 一枝が、
「たいへんなのはわかるけど、こっちもたいへんだよ。審判一人ひとり、コース取りに癖があるからな。わざと審判に食ってかかって、仲の悪いふりをしてお客さんを喜ばせる人もいたな。去年までうちにいた近藤コーチ」
 江藤が、
「おお、退場の多い人やった。楽しんで抗議しとった。審判もわかって合わせとったみたいやな」
 高木が、
「強気の柏木さんだね。喧嘩好きで有名だ。喧嘩相手を海に突き落として逮捕されたこともあるらしい。近藤さんとは仲がよくてね、あの怒鳴り合いは見えみえのパフォーマンスなんだよ」
 一枝が、
「審判に付け届けをしてるやつもいるって聞いたことがあるぜ。ピッチャーが多いらしい。うちはいないだろうな」
「おらん、おらん。健太郎も小野さんも、贔屓してもらわんでも打ち取れるったい」
 中が、
「付け届けと言えば、いろんな球団が自軍の選手に歳暮や中元を送ってくるよね。ジュース、化粧品、マスコットタオル」
 木俣が、
「阪神はふつうのギフトセットらしいな。変わってるのは広島だ。ドーンと樽一つ、広島菜の漬物を送ってよこすらしい」
 江藤が、
「古葉にお裾分けしてもろうたが、あれはうまか」
 中が、
「長谷川コーチが言うには、食い切れないから、かならず近所にお裾分けするらしくて、これが喜ばれるって」
 一枝が、
「しかし、打者を打ち取るには、高目の速球、低目のスローボールとよく言うけどさ、何か根拠があるのかな」
 菱川が、
「ピッチャーの思いこみでしょう。単なる緩急のまちがいですよ。高低は関係ない。神無月さんを見ていればよくわかる」
 話が尽きないうちに、鮨も食い終わった。新しい茶が出る。中が、
「さあ、腹もふくれたし、ミコシを上げようか」
 ニコニコ話を聞いていた店主が畳にこぶしを突き、
「お話、つくづく楽しませていただきました。いろいろなチームが会食にいらっしゃいますが、ドラゴンズさんほどおもしろいチームはございません。次回の開催のときも、よろしくお引き立てのほどをお願いいたします」
「ここは二度目やが、いやあ、うまかねえ。二開催、三開催に一回と言わず、これからも毎開催一回はきますわ。な、金太郎さん」
「はい。もちろん。みんなときます」
「ありがとうございます」
「きょうはごっそさん!」
「ごっそさん!」
 みんなで声を合わせる。店主、仲居いっしょになって頭を下げた。


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