百七十九

 部屋に戻りユニフォームに着替える。生乾きの帽子をかぶり、ズック靴を履く。ダッフルを肩に、バットケースを提げ、十一時半玄関前集合。しばらくフラッシュと嬌声を浴びる。出発。バスの中で田宮コーチのメンバー発表。
「五番まで同じ。六番ライト菱川、七番サード太田、ピッチャー水谷寿伸。小野さんはアガリ。控えで入れてるのは、水谷則博と土屋のほかに五名、健太郎、伊藤久敏、門岡、山中、若生」
 森下コーチが、
「小野やんと星野は、真っ昼間から鶴見のストリップにいきよったで、小野親分は若いやつの面倒見がええよってな」
「整鎮(セイチン)さん、雑音入れるなよ。代打代走の控えは、葛城、徳武、伊藤竜、江島、千原、江藤省三、新宅、高木時、伊熊、日野、吉沢。以上二十五名。さ、ダブルヘッダー」 
 吉沢さんの名が呼ばれた。最近、吉沢さんの顔を見ない。そう思って後部ベンチを見返ると、最後列の窓際でぼんやり外の景色を眺めていた。やはり今年かぎりで現役を退くのがさびしいのだろう。江島が、
「森下コーチ、名前やっぱりセイチンというんですか。俺もそう読んでましたが」
「整鎮(のぶやす)や。セイチンさんのほうがええわ。寺坊主みたいで」
 江藤が、
「小野さん、ストリップの帰りは、川崎のトルコへ連れていくんやなかと?」
「たぶん、ほうやろな。親分やさかいな。連れてっても、本人は待合ベンチでずっと雑誌を読んどるだけらしいわ」
「多鶴さんとはオシドリ夫婦やけんのう」
 仙人のような小野の風貌が浮かんだ。
 バスを降り、正面入場口から三塁側ロッカールームに向かう。観客と隔てなく内野コンコースを通って関係者用の空間に移動するのは神宮球場だけだ。アトムズチームの選手はそれを嫌って、機材などの搬入口からクラブハウスとグランドを往復しているようだ。
 ダッフルの底の眼鏡ケースを確認してロッカーにしまう。第一試合には必要ない。
 バッティング練習を十本で切り上げる。外野でポール間ダッシュと三種の神器。フェンスの前で木俣と十分ほどキャッチボール。三十メートルと四十メートルを緩やかに。ベンチに戻る。一時半。かなりの曇り空。ダッグアウト内の気温二十五・七度。
 メンバー表交換。スタンドを見やる。満員。客足はきのうとまったく同じだ。二日目に客が減る現象は広島だけの傾向だったのだろうか。ネット裏に見知った顔の群れがある。東大の野球部員たちだ。カメラを構えた白川以外の全員が学生服を着ていたのですぐわかった。私がベンチ前に立って眺めているのに気づいて、手を振ってきた。振り返した。観客が沸くが、これ以上の余裕はない。真剣に試合に臨まなければならない。
 トンボ、ライン引き―高校や大学のベンチやグランドとちがって、土と石灰の入り混じったにおいがまったくただよってこない。消石灰の成分は全国同じはずなので、ラインパウダーを吸収する土の質がちがうのだろう。
「冷たいビール、いかがァっすかあ!」
 売り子の声。耳を澄ますと、アイスクリーム、ホットドッグ、コーヒーの売り声も聞こえる。観客席は基本的に舞台を見下ろす弁当桟敷だ。胸躍る娯楽の場所だ。
 タイミングよく足木マネージャーから鶏唐揚げの差し入れ。一人二個あて。食っておく。
 石岡が一塁側ブルペンへ。やや遅れて水谷寿伸(ひさのぶ)が三塁側ブルペンへ。二時十分前、どの球場よりも粛々とした声のアナウンスが流れる。
「本日は明治神宮野球場へご来場くださいまして、まことにありがとうございます。長らくお待たせいたしました。ただいまより、アトムズ対中日ドラゴンズ十二回戦、および十三回戦を行います」
 ざわざわとスタンドに人声の波が立ちはじめる。いつもの試合開始どきの小波だ。
「間もなくアトムズ対中日ドラゴンズ十二回戦の開始でございます。両軍のスターティングメンバーを発表いたします。先攻中日ドラゴンズ、一番センター中、センター中、背番号3、二番セカンド高木、セカンド高木、背番号1、三番ファースト江藤、ファースト江藤、背番号9、四番レフト神無月、レフト神無月、背番号8」
 ざわめいていた喚声がいっときにまとまる。まるで試合中の喚声のようだ。
「五番キャッチャー木俣、キャッチャー木俣、背番号23、六番ライト菱川、ライト菱川、背番号10、七番サード太田、サード太田、背番号40、八番ショート一枝、ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー水谷寿伸、ピッチャー水谷寿伸、背番号47」
 水谷寿伸、二十八歳、百七十七センチ、八十二キロ。中商、東邦、享栄と並んで愛知四商と呼ばれる愛知商業出身、九年目。四十年に十五勝を挙げた。武器はスリークォーターからのシュート、スライダー、カーブ。自軍の選手をパンフレットで調べる。私が自分の目で見て知っているのは、たいていスライダーを決め球にしていることだけ。
 アトムズの選手が守備位置へ散っていく。喚声の波が静まる。
「対しまして後攻のアトムズは(この球場のアナウンスを聞くとかならず、オープン戦で死んだジャクソンのことを思い出す)、一番セカンド武上、セカンド武上、背番号2、二番ショート東条、ショート東条、背番号38、三番ファーストロバーツ、ファーストロバーツ、背番号5、四番レフト高山、レフト高山、背番号10、五番センター福富、センター福富、背番号34、六番ライト久代、ライト久代、背番号33、七番サード丸山、サード丸山、背番号8、八番キャッチャー加藤、キャッチャー加藤、背番号27、九番ピッチャー石岡、ピッチャー石岡、背番号15」
 水谷寿よりも歓声が大きい。不吉だ。この不吉な感じはこれから何百回もあるにちがいない。耳に記憶しておこう。
「審判は、球審井筒、一塁大谷、二塁丸山、三塁鈴木、ライト柏木、レフト中田、以上でございます」
 太田の話だと、きのうの控えは柏木だったのだな。第一試合は大里が控えに入り、第二試合は井筒が控えに入り、控えの大里がライト線審に入る。はっきり言って、意に介して記憶することではまったくない。井筒のコール。
「プレイ!」
 石岡康三、明治大学出身、二十八歳、百八十二センチ、七十五キロ、本格派右腕。昭和三十九年国鉄入団。私は石岡から、四月の一回戦で四打席連続ホームランを打っている。これまで九回対戦して、六ホームラン、二シングルヒット、一フォアボールだ。十割。彼の私に対するコメントを新聞で見たことがある。
 ―呪われたように打たれてますが、それほど苦手意識はないんです。天才特有の威圧感はすごいものがあります。ただ、どうしても敵わない相手と思えません。神無月くんのがんらい持っている穏やかな雰囲気のせいでしょうか。その気持ちのままブラックホールに吸いこまれるように、スーッと絶好球を放ってしまう。
 嘘だ。彼が私に絶好球を投げたことはない。
 中、ツーツーから高目のカーブを空振りして三振。高木、初球のスローカーブを早打ちして当たり損ねのピッチャーゴロ。江藤、ツースリーまで粘って内角高目のシュートに詰まってサードフライ。
 一回裏。武上、ワンワンからセカンドゴロ。東条、ノーツーから私の前へ強いゴロのヒット。打球が転がってくるのを見つめながら、ふと、これまで自分が失策ゼロであることを思い出しからだが緊張感で固まった。慎重に腰を下して捕球する。ロバーツ、ツーワンから高目のストレートを振って三振。高山、初球ただのムチャ振りでサードゴロ。十年選手水谷寿伸はいい滑り出しだ。クイックモーションとスリークォーターからの外角スライダーが奏効している。しかし気に食わない。スピードボールを主体にしないといつか切り崩される。太田の話だと、水谷は打撃のいいことと汗をかかないことで有名らしい。ブッといつもふくれっ面をしているので、一度も口を利いたことはない(はずだ)。
 二回表。先頭打者で出た私は、初球の外角シュートをレフトオーバーの二塁打。まずランナーで出ることが肝心だ。石岡に対して十割がつづいている。木俣、内角高目のストレートを高いバウンドのショートゴロ。私、動けず。菱川、内角高目のシュートに詰まってサードフライ。太田、フォアボール。一枝、一塁線痛烈なファールのあと、二度連続して空振り、三振。あれれ……。
 その裏。福富、初球のスローカーブをライトライナー。久代、ワンワンから真ん中高目のストレートをファーストフライ。丸山、ツースリーから外角スライダーを見逃し三振。水谷も負けじと好投している。
 三回表。水谷寿、三振。中、ライト前へ痛打。高木、ライト前へゴロのヒット。中俊足を飛ばして三塁へ。一塁、三塁になる。江藤、サードゴロゲッツー。あれれれ……。
 その裏。加藤、セカンドライナー。石岡、セカンドゴロ。武上、レフトへライナーの十三号ソロホームラン。アトムズ待望の一本だが、ソロだと弱い。アトムズファンが慎ましく鉦を叩き、太鼓を打ち、旗を振って、なんとか盛り上がろうとする。東条スローカーブを打って、またも私の前へヒット。きちんと腰を下して捕球。鉦、太鼓が遠慮がちに盛り上がる。ロバーツ、セカンドゴロ。盛り下がる。ゼロ対一。
 四回表。私、外角高目攻めでフォアボール。すかさず盗塁成功。木俣、サードライナー。菱川、センター前ヒット。浅くて強い当たりだったので、私は三塁を回ったところで自重した。その直後、福富からストライクのボールがホームに返ってきた。胸を撫で下ろす。ワンアウト一塁、三塁。太田、ショートゴロゲッツー。たいへんなことになってきた。これほど得点に苦心した試合を思い出せない。
 その裏。福富、ライトスタンドへ四号ソロホームラン。走者もいないのに水谷がむだなクイックモーションで投げたせいだ。不安そうなレフトスタンドの嘆息が背後から押してくる。鉦が鳴り、太鼓が響き、旗がなびく。久代、フォアボール。丸山、セカンドゴロゲッツー。加藤、フォアボール。石岡、ファーストゴロ。ゼロ対二。
 五回表。一枝、レフト前ヒット。中、今季初めての送りバント! 試合を動かさないと一点が取れない。江藤、三遊間奥へ強い打球、東条ハンブルエラー。一枝三塁へ。ワンアウト一、三塁。私、ライトフェンスぎわへ犠牲フライ。ようやく一点。木俣、ショートゴロ。一対二。
 五回裏から水谷が猫だましの小手先ピッチングをやめ、速い小さなカーブをコーナーに決めはじめた。七回の裏までピシャリと抑える。私たちも石岡に八回表までピシャリと抑えられた。私の四回目の打席はセカンドゴロだった。対石岡十割が崩れた。
 一対二のまま、八回裏アトムズの攻撃。きょう三打数三安打の東条が、レフト線へ三塁打を放つ。クッションボールがジャンプしてよけた中田線審の足に当たり、私の処理が遅れたせいだった。中田がひどく気にしているようだったので、私は明るく声をかけた。
「中田さん、ドンマイ。当たりが速すぎたんですよ」
 中田は審判仲間から金ちゃんと呼ばれている快活な雰囲気の男で、笑いながら空を見上げた。彼はポール下ではなく、左翼手の右斜め後ろに立つのですぐ声が届く。ロバーツ、フォアボール。高山、キャッチャーフライ。合間に、中田に話しかける。
「プロ審判というのは、選手のことなら何でも知っていると聞きましたが」
 彼は気兼ねなく答える。
「六球団のレギュラークラスの情報なら、ほとんど頭に入ってる。肩の強さ、走力、打球の方向、癖、性格」
「性格も!」
「大雑把なところはね。神無月くんの性格はわからない。無色透明。湖」
「バカは七難隠す」
「そういうふうに言うのが性格かもしれないね。松橋さんが褒めてた」
 腰を沈めて構えたとたん、福富、センター前へクリーンヒット。東条生還。一対三。別所監督の声。
「井筒くん、代打、赤井!」
 久代の代打赤井、右中間を深く抜く二塁打。ロバーツ生還。一対四。中田を振り返って苦笑いする。
「ダメ押しかな。球審をやるときもいろいろ情報を持ってるんですか」
「各投手の球種、ウィニングボール。―神無月くん、声をかけすぎだよ。きみが審判に声をかけるのは有名だ。みんな期待してるんだけどね。でも自重して」
「はい」
 丸山、サードゴロ。面構えのいいキャッチャー加藤、センターフライ。
 九回表。石岡完投ペース。そうはさせじと、江藤三球目内角低目のストレートを掬い上げて、左翼ポールを巻く三十八号ソロ。中田が勢いよく白手袋を回す。二対四。私、初球外角低目のストレートを屁っぴり腰で打って左中間二塁打。木俣、初球外角カーブを流し打って右中間スタンドに二十号同点ツーラン。歓声が突風のようにスタンドを薙(な)いでいく。
 菱川、ライト前ヒット。歓声に歓声が重なる。太田、送りバント! みんな自発的にやっている。一枝、レフト前へ速いゴロのヒット。菱川、生還できず。一枝が一塁ベース上で、しまった! と指を鳴らす。思わず引っ張ってしまったと悔いているのだ。
 この逆転の好機に、水谷に代打を出さない。水谷の顔が興奮して真っ赤になった。初球真ん中高目のストレートをムチャ振り。彼の勝利を見越して代打を出さなかった水原監督の温情を義に感じたのだ。この空振りを見て、スタンドの歓声が頂点に達した。二球目、外角カーブを強振。ファール。
「当たる、当たる!」
 田宮コーチが叫ぶ。三球目、外角ボール球のカーブをつんのめるようにして強振。バットの先端でこすった。ピッチャーゴロ。ボールがグルグルへんな回転をして、石岡のグローブの先で暴れた。捕りきれずにジャッグル。白線のほうへ転がっていく。石岡素手でつかみ、倒れこむようにして一塁へ送球。セーフ! 菱川生還。逆転。歓声が津波になる。水原監督が激しく手を拍つ。ワンアウト、一、二塁。中、すかさず初球のスライダーを打ってロバーツの右を抜くライト線の二塁打。一枝生還。六対四。ワンアウト二塁、三塁。高木、ライトへ犠牲フライ。水谷が手を拍ってホームインする。中、タッチアップして三塁へ。七対四。ツーアウト三塁。


         百八十

 江藤に廻ってきて、打者一巡した。
「どうにかして出ちゃるけん!」
 私を振り返る。
「お願いします! 狙います」
 江藤はツースリーからファールを何本か打って粘り、みごとにフォアボールで出た。別所監督が走り出てきて、マウンドで石岡と話をする。キャッチャーの加藤も呼ばれた。ピッチャー交替。巽の名が告げられる。これまで三打席しか対戦していないが、シュートを振らないようにすればだいじょうぶだという印象がある。ちかいの魔球の二宮光のような下手投げのサウスポーで、直球がめっぽう速い。からだのそばに近づいてくるボールは怖くないが、あのスピードでシュートを曲げられたら避け切れない。三点差。勝ったかもしれない。しかし得点できる可能性のあるうちは懸命に打たなければいけない。井筒がプレイのジェスチャー。
 ツーアウト、一塁、三塁。一挙に引き離すために、狙いはホームラン一本。初球、外角に遠く外すストレート。これは届かない。金太郎コールがとつぜん耳に入ってくる。悪い右の耳にもゴンゴンと響く。二球目、胸もとの速球。ボール。シュートならユニフォームをかすっていた。敬遠ではない。満塁にすればマサカリ木俣が怖い。次は外角カーブと読んだ。踏みこむ心構えをする。三球目、真ん中速球の腕の振り。手首が少し寝ていた。外角へ逃げるカーブだ。
 ―逃げていく前に叩く。
 屁っぴり腰で踏みこんで、するどく曲がろうとするまぎわの一点を叩きつぶすように振り抜く。少しバットの先の手応えだ。中がバンザイをした。水原監督といっしょに振り返って打球を追っている。スタンドのウオーというどよめき。走りかけていた高山がグローブをだらりと垂らした格好でレフトフェンスに向かって歩きだす。そのはるか頭上を白球が越えていって中段に刺さった。落下点の観客が花弁のように開く。中田の白手袋が回る。森下コーチとタッチ。
「平らげたな! みごとであるぞ!」
「はい!」
 ロバーツが大声で、
「グレイト・ジョブ!」
「サンクス!」
 江藤が全身に喜びを表しながら跳びはねるようにして走る。追いかける。二人前後に並んで水原監督と片手タッチ。江藤に声がかかる。
「ナイスセン!」
「サンキュー、ヨンキュー、ゴキュー、六球スーパー!」
 よくわからないシャレを叫んで、跳びはねながらホームに向かう。水原監督が私の背中に声をかける。
「久保田バット一本やられたね!」
「ヒビが入りました! もう一本あるのでだいじょうぶです」
 二人の姿が隠れるほど揉みくちゃになる。
「神無月選手、九十一号のホームランでございます」
 十対四。九回表に九点。いつもの爆発力だ。これで勝ったろう。木俣、安心してピッチャーゴロ。
 九回裏。巽の代打城戸、サードライナー。武上、私への浅いフライ。東条、右中間を抜く三塁打。五打数五安打。これといって目立たない中背の痩せっぽちだが、振りがシャープだ。足も速い。ロバーツ、初球を掬い上げる。ライト上段へ目の覚めるような十二号ツーランホームラン。十対六。高山、ショートゴロ。一枝華麗にさばいてゲームセット。四時四十八分。
 水谷寿伸、今季初完投、四勝目。みんなで駆け寄り祝福する。二十八歳のベテランははしゃがない。水原監督と静かに握手。私はダッグアウトの中で声をかけた。
「おめでとうございます。水谷さんの内野安打の逆転打がきっかけで勝ったようなものですよ」
「ありがとう。ようやく四勝だ」
 水谷はベンチに坐ってタオルを使いながら、昭和三十四年から数えて今年の一勝目がちょうど四十勝目だったから、これで四十三勝か、十一年かかった、と感慨深げに言う。
「完投は二十回目。十年目でいい区切りの数字になった」
 アットランダムにインタビューのマイクが回る。私は退避。ロッカールームでユニフォームの上着を脱ぎ、洗顔し、タオルを絞って上半身の汗を拭った。初めてアンダーシャツを替える。なだ万弁当を食う。きょうは長丁場なので、ほとんどの連中がニューオータニの弁当だ。江藤が、
「バット折れたんやなかか? フラフラ飛ばんで突き刺さったけん、だれもわからんかったやろ」
 木俣が、
「俺はわかったぞ。ギシャッという音がした。それより、カーブが曲がりぎわのあのポイントで打つのは俺にはできん。どうやっても空振りか、ファールチップだ。カメレオンの目だな」
 一枝が、
「アトラクションだと思えば楽しめるよ。第二試合は百パー松岡だ。あの野郎、ストレートもカーブも打ちにくいんだ。カメレオン金太郎も苦労するぞ」
 細身で長身、垂れ目のニヤケ面を思い浮かべる。まだ二十二歳なのに、どこにでもいる説教好きのおっさんの風貌。そこらの町工場で機械油にまみれていそうな雰囲気。それが油断になる。
「ぼくもだいぶ凡打を打たされてます」
 太田が、
「神無月さん、四割近くいってますよ。長打ばっかり。ホームラン二本」
「そうだっけ。でも三割台だよね。やっぱり苦手の部類だ」
 中が、
「金太郎さんが打たないと、やばいよ」
         † 
 第二試合。中日の先発は伊藤久敏。三年目。久留米商業から駒澤大学。土屋と同期。百七十五センチ、六十九キロ、細身で中背。明石公園で少し口を利いたことはあるが、ふだんからまったく目立たないのは水谷寿伸と双璧なので、パンフレットで探るしかない。中日でただ一人左投げ右打ち。
 不安が的中した。きょうの松岡は、直球にふだん以上の伸びがあった。
 一回表、中が内角のカーブを掬ってセンター右にゆるく落とす二塁打で出ると、高木が同じように外角のカーブをライト前へ打ち返してすぐさま中を還した。そこまではよかったが、加藤が直球中心に攻めるリードに切り替えたせいで、江藤は外角低目の速球を振って三振、私は外角低目のシュートをこすってセンターフライ、木俣も外角高目のストレートを空振り三振して後続を断たれた。
 四回表、先頭打者の私は、外角高目のストレートをバックスクリーン左へライナーで打ちこんだ。しかし後続は三者凡退。きのう使ったバットの手応えがまったく変わらなかったので安心する。ケースに入れて持ってきてよかった。
 四回裏、ストレートの走っている伊藤久敏から、ロバーツがタイミングバッチリの十三号ツーランを放って、たちまち二対二の同点。
 六回裏、これまたロバーツの十四号ソロホームランで一点。二対三。
 八回裏、ヒットの東条をロバーツが三塁ボテボテのゴロで進め、福富の右中間二塁打で一点、久代の代打赤井三振のあと、丸山の代打城戸がセンター前ヒットで福富を還した。二対五。
 一方ドラゴンズは、八回表まで三者凡退をつづけ(三打席目の私は外角から真ん中へ強烈に食いこんでくるカーブに詰まってセカンドフライだった。松岡には打率三割前後で終始しそうだ。
 九回表になった。八番一枝からの打順。三点ビハインド。第一試合の幻はそう簡単には見られそうもない。一枝、初球ファールチップ。シッペのようにするどく振り抜く松岡の手首。あの手首にはハガネが入っている。倉敷商業時代は浜野百三の後輩だったらしいが、浜野の口から聞いたことはない。バカでかいからだがそのころ目立たなかったのは、球が遅かったからだろう。快速球を投げられるようになったのは社会人野球に進んでからにちがいない。左膝を高く折り曲げて胸に引き上げる整った投球フォーム。長く伸びてしなる腕。理想的なバランスのとれたフォームだ。持ち球は直球とカーブのみ。江夏、堀内、平松は打てるのに、なぜこの男が打てない? ストレートは江夏より速く見える。とは言え平松よりは遅く、星野秀孝よりも遅い。ボールの浮き具合は、平松と星野のほうがまちがいなく上だ。……フォームがダイナミックでないからだろうか。あのニヤケ顔のせいで剛球のイメージが霞んでしまうからか? 顔を見ないようにしよう。
 二球目、ストレート真ん中高目、ボール。
 ―制球力が悪い。三球に一球は高目に浮いてくる。思わず手を出してしまうと、もともと球威があるので、空振りしたり、打ち上げたりしてしまう。ものは試しだ。打順が回ってきたら、まともにくる球を見逃して、浮いてきた球の上から叩いてみよう。
 三球目、外角へ逃げるするどいカーブ。ぎりぎりストライクだ。ガシッと打つ。
 ―ぶつけた!
「よっしゃ、ライト線! 無理するな。二塁で止まれ!」
 ベンチから飛び出した田宮コーチが叫ぶ。ポール下のライトフェンスにワンバウンドでぶつかった。赤井がクッションボールを捕って、賢明に返球する。一枝悠々二塁へ。
 伊藤久敏に代打千原が出る。背番号43、千原陽三郎、二十七歳、六年目、百七十七センチ、七十六キロ、日大三高から日大。昭和三十四年にエースとしてセンバツに出た。日大でもエース。甲子園を経験し、大学野球の優勝を経験し、投手として日の当たる道を歩いてきた。三十九年、オリンピックの年に中日に入団。プロ入り後一勝もできず、バッターに転向してから少し陽が射した。四十二年に広野の移籍もあって一塁手に転じ、二割五分を打てる打者だったので三番を打たされた。去年は十四本もホームランを打ち、オールスターにも出た。江藤が私のせいでレフトから一塁へコンバートを強いられたので、千原はベンチへ追いやられた。無念を感じているだろう。他のチームにいけば、島谷や江島と同様クリーンアップを打てるはずだ。この半年のうちにトレードの話が聞こえてきたこともある。このまま散るのは惜しい。
 千原は強い素振りを三度、四度とくれる。三塁側ブルペンへ土屋と水谷則博が向かった。
「千原、見ていかなくていいけど、高目は捨てろよ!」
 田宮コーチの声。千原は愛想よくうなずき、素振りを繰り返しながらバッターボックスへ歩いていく。私は叫んだ。
「千原さん、ぶちかませ!」
 千原は私を振り返って微笑した。そうして足もとの土を均すと、顔より十センチほど高くバットを構えた。一打席で結果を出すのは難しい。一打席では何も考えられない。しかし千原は、松岡の投球をベンチで観察していて何かを思いついたのだ。たぶん私と同じアイデアだ。田宮コーチのアドバイスに逆らい、高目を打ちにいくつもりだ。
 初球真ん中低目のストレート。ワンバウンド。千原の高い構えを見て、あえて低目を突いてきた。千原はピクリとバットを動かして、引いた。低目を狙っているというフェイクだ。もう一、二球待てば高目にくる。しかも制球できていない高目が。
「千原さん、一発!」
 私はもう一度叫んだ。二球目、胸もとへ渾身のスピードボールがきた。千原は刀のように振り下ろした。瞬間、田宮コーチと半田コーチが叫んだ。
「オッケ、オッケ、オッケエ!」
「グッ、グッ、グッジョッブ!」
 水原監督が頭上でパチンと手を叩く。低く伸びていく。舞い上がらずに一直線に伸びていく。千原独特の美しい軌道だ。ベンチ全員飛びだして打球を追う。ライトのフェンスを越えて最前段に飛びこんだ。沸き上がる喚声。仲間たちがバンザイしながら跳びはねる。太田コーチと長谷川コーチも手を取り合い、うなずき合っている。両軍のベンチ脇からフラッシュが矢のように何本も飛んでくる。千原は森下コーチと掌を打ち合わせると、黙々とダイヤモンドを回った。私は心の底から感動した。一振りだ。こんな実力者がベンチを暖めている。なんというチームだ。
 イの一番に迎えるためにホームベースへ走り出た。水原監督が喜びのあまり千原といっしょに走ってくる。私はホームインした千原に抱きついた。
「すばらしいホームランでした!」
「ありがとう!」
 彼は涙を流していた。黙々とベースを回りながら泣いていたのだ。手荒い上にも手荒い祝福。
「千原選手、第四号のホームランでございます」
 すでに三本打っていたのか。
「はーい、バヤリース!」
 千原は興奮気味の半田コーチに差し出された瓶を握り、
「ひさしぶりだ、うまい!」
 腰に手を当てて飲み干した。尻ポケットから取り出した雑巾のようなタオルで涙を拭きながら、
「ああ、生きてるな」
 と呟いた。江藤が、
「一撃必殺やったな。感心したばい。松岡の荒れ球を打つ。これできょうも勝つぞ!」
 田宮コーチが、
「千原、このままドラゴンズでいいのか?」
 明るくうなずき、
「俺、ドラゴンズに骨を埋めることにしたんです。何年でも順番待ちします」
 野球はすばらしい。すべての既視感(デジャブ)から解放される。強い既視感がいまも私の根深い倦怠の素だ。何をしても新鮮味がなく、常に退屈している感覚。恐怖にさえ揺さぶられることがない麻痺。恐怖でもかまわないから感じたいという飢渇。そんな倦怠に冒されていても、ボールを追いかけ、ボールを捕え、ボールを打つ喜びだけは常に新しく、すべての既視感を突き抜ける。野球はすばらしい。既視感のない喜びのドラマのかたまりだ。
 もう一つ、既視感を突き抜けるものがある。愛―人を愛し、人から愛される情緒の仕組みを既に視た覚えはない。愛する人との抱擁も一度として既視感を覚えたことのないすばらしいドラマだ。そのドラマの中に、愛する者を失えば心を痛める新鮮な彼らが生きている。私は彼らを深く愛することで生き延びる。命を懸けてボールと戯れ、命を懸けて彼らを抱擁しよう。そこに既に視た景色はない。始まる景色しかない。
 四対五、ノーアウト。もう勝ったも同然だ。その予感にスタンドが荒れ狂っている。中がレフト線に打ち返した。二塁へ滑りこむ。私の頭の中で進軍ラッパが鳴り、腕を振っていつもの行進が始まる。既視感のない新しい場所を進んでいく。鉦、太鼓、球団旗、スタンドがうねる。
 高木が二球つづけて低目のストライクを捨てた。三球目、顔のあたりの高目のストレート。木俣のような大根切り。ピンポン玉の勢いで飛んでいき、左翼ポールに激しく打ち当たってグランドに落ちた。柏木がくどいほど右手を回す。高木は森下コーチと思い切りタッチすると、こぶしを突き上げて一塁ベースを蹴る。水原監督が両手を挙げて迎える。その両手にタッチ。暴徒のようになったチームメイトが取り囲む。高木のヘルメットが飛ぶ。ついに逆転。六対五。
「高木選手、二十号のホームランでございます」
 漆黒の空からカクテル光線がきらめきながら降ってくる。三塁側内外野スタンドで鉦や太鼓に合わせて臙脂の球団旗が振られている。ああ生きてるな、という千原の言葉が胸に沁みる。


         百八十一

 松岡交代。私が監督なら代えないのにと思う。実際、きょうのドラゴンズは私を含めて松岡を打ちあぐねている。ここを凌げば、アトムズにサヨナラの可能性があるのだ。松岡はニヤケ顔をゆがめ、うつむいてベンチに下がった。小さな丸眼鏡をかけた浅野が出てきた。きのうの第一戦では、ショートライナーとレフト犠牲フライに打ち取られた。速球派だが多彩な変化球を投げる。きのうは外角のシュート二本に手を出した。江藤が、
「浅野のシュートは切れるばい。カーブば右に打つ。ランナーば貯めるぞ」
「わかりました、つづきます」
 江藤、ツーワンから三球ファールで粘って、七球目のカーブを約束どおりライト前ヒット。私はシュートにこだわり、二球目を三遊間へゴロのヒット。一点逆転ぐらいでは足りない。ランナーを貯めなければ。木俣、初球のストレートを右中間浅いところへシングルヒット。江藤、機関車のようにからだを揺すって生還。七対五。私は二塁でストップ。塁上から菱川に大きくスイングをして見せる。菱川がうなずく。浅野は内角高目のストレートを三球つづけた。菱川はピクリともしない。ワンツー。待っていると明らかにわかる外角へ投げるのは勇気が要る。もう一球内角か。菱川は内角も不得手ではない。少しでも甘くきたら確実に打ち返す。浅野はロジンバッグをいじったり、マウンドの砂をスパイクで蹴ったりしてぐずついている。
 タイムを取ってファーストのロバーツと三塁の城戸がマウンドに駆けていく。山根ピッチングコーチも小走りにいく。遅延行為を禁じるために、二塁塁審の大谷も走ってくる。キャッチャーがマウンドへいくときは球審が寄ってくるが、内野手が集まるときは二塁塁審がいく。言葉の通じないロバーツは肩を叩くだけだが、城戸はひとことふたことしゃべった。浅野は強くうなずき、ロジンバッグを足もとに放った。セットポジションに入る。投げた。外角低目のカーブ。空振りを取って並行カウントにするか、ゲッツーを取る狙いで投げた外し球だ。しかし、そこは菱川が辛抱強く待っていたコースだった。彼の目には外れたボールに見えない。クロスに大きく踏みこみ、腰を思い切りひねって叩いた。バットの先のほうだが芯を食った。
「ヒャワワ!」
 田宮コーチの奇声にベンチの連中が首を伸ばす。一塁の森下コーチが大声で、
「いったろ!」
 私は二塁ベース上から振り返って打球を凝視した。足りないか。ラインドライブのかかった打球が赤井の頭上へ伸びていく。うかつに走れない。第二試合でライト線審に回っている中田の動きも赤井と合わせて見る。赤井がフェンスに貼りついた。三進のためにタッチアップの用意をする。赤井、ジャンプ! 同時に中田の右手が回る。タッチアップの姿勢を解いて、ゆっくり走り出す。スピードを上げ、水原監督とタッチし、ホームベースを踏む。つづいて木俣、しばらく置いて菱川が祝福の輪にぶつかるように駆けこんでくる。
「菱川選手、十九号ホームランでございます」
 九対五。退きどきだ。土屋と水谷則博の投球練習に力がこもる。
 きょうノーヒットの太田、ついでとばかり大ぶりしたバットに高目の直球がまともに当たり、あっという間にバックスクリーンに飛びこんだ。十六号。手荒い祝福はなく、ベンチタッチのみ。十対五。田宮コーチが、
「退きどきを知らんのか。おのおのがた、退け、退け!」
「もっと喜んでくださいよ。つまらないなあ。半田コーチ、バヤリース」
「名古屋でね」
 私は太田の肩を叩き、
「おめでとう! 長距離ヒッター」
「へへへ、フライでも打って凡退しようと思ってたら、まともに当たっちゃったんですよ」
 一枝セカンドゴロ、千原セカンドゴロ、中セカンドゴロ。みんな初球を打ってしっかり退いた。
 九回裏。胸を張ってマウンドに上がった土屋の投球練習。
 ―打たれてしまえ。
 ストレートが走っている。シュートに切れがある。彼にも一勝やりたいが、ドラゴンズが逆転した回にその直前までマウンドに立っていた伊藤久敏が勝ち投手になる。
 浅野の代打にベテラン小淵が出た。日鉄二瀬時代の江藤の同僚。西鉄、中日、国鉄と渡り歩いてきた。三割を打ったこともある。昭和三十三年の日本シリーズ、長嶋の二出川ファール事件の張本人だ。初球、内角カーブ、切れる。足もとにファール。二球目真ん中シュート、引っかけてショートゴロ。よし! 武上、初球内角高目のシュートを打って、私への深いフライ。フェンス際で捕球。東条、ツースリーから一、二塁間へカーブを流し打つゴロのヒット。うまい。よくヒットを打つ男として二人の名前が頭に刻まれた。阪神藤田平、アトムズ東条文博。中塚、ツーツーから低目のストレートで空振り三振。十五球で後始末完了。伊藤久敏四勝目。ドラゴンズはアトムズ戦負けなし。すぐさま静かなアナウンスが流れる。
「中日ドラゴンズは本日の勝利によりまして二十四連勝となりました。引き分けを挟んで三十連勝でございます。昨日純粋二十二連勝の新記録を樹立し、二十六日の対広島戦で引分けを挟んでの二十七連勝の新記録を樹立して以来、一勝一勝がすべて世界記録の更新になっております」
 拍手の小波がたちまち大波になった。両軍ベンチ、立ち上がって拍手をする。カメラマンがフィールドに入り乱れる。森下コーチが、
「うちに十八連勝を破られた南海が、球団記録の十二連敗をして、十五連敗まで更新しよった。おととい一勝して、きのうまた負けた」
 長谷川コーチが、
「古巣のことは気にかかるでしょう。私も広島のことは気にかかります。どちらも、今年は最下位でしょうなあ」
「南海は確実やな」
 インタビューを逃れてロッカールームへ。水原監督と水谷寿伸以外はほとんど逃げてくる。私を除いてみんな、ダッフルから取り出したスーツに着替え、ユニフォームやグローブなどをダッフルに詰めこむ。江藤が、
「この三連戦は大事な試合やったんぞ。ペナントレースを左右する夏場の戦いは六月下旬から始まるけん。首位攻防戦なんかが絡んどったら、グッタリくるところやった。今年はチームが強かったけんラッキーやったばい。とにかく、つつがなく終わってよかった。連勝記録やら、どうでんよか。そげなもん、ふつうにやっとりゃ頭に入ってこんけんな。興味もなか。金太郎さん、きょうはラーメン付き合わんね?」
「いきます」
「赤坂の四川飯店にいこ。十時までやっとる店やけど、九時半にいくて予約入れといた。十二時ぐらいまで延長オーケーやろう」
 水原監督と水谷寿伸とコーチ連が戻ってきた。監督が、
「みんな、きょうはご苦労さん。二戦連続で逆転だったね。土屋くんが好救援してくれたので、水谷くんがめでたく四勝目を挙げることができた」
 ひとしきり拍手。水谷寿伸がからだを折り、土屋がぺこぺこお辞儀をする。
「星野秀孝、水谷則博、土屋紘、この三人の急成長は大きい。優勝、ひいては連覇を占う三人だからね。うちはいまピークだ。千原くんのホームランはそれを象徴していた。涙が出たよ。太田くんのホームランで涙が退いた」
 ドッと笑う。太田が恥ずかしそうに頭を掻いた。
「それは冗談。ホームランはどれもうれしい。ピークの維持は難しい。来月は調整試合の広島戦から始まって、十日まで雨天順延の調整試合がつづく。それも雨が降ったらまた中止だ。その調整試合はどこに持っていかれるかわからない。来週あたりからアゴが出はじめるかもしれないね。五、六連敗まで計算済みだよ。オールスター前までは連敗を覚悟で気楽に戦ってほしい」
「オイース!」
 殺人的な人混みとフラッシュの中を正面ゲートから関係者駐車場のバスまで歩く。奮闘する松葉会の連中に帽子を取って挨拶した。彼らは最敬礼しかけたが思いとどまった。こちらの挨拶はかえって彼らの仕事を妨げる。彼らは秘密裡に行動するようにと命じられているからだ。これからは親しく笑いかけたり辞儀をしたりするのは極力控えよう。
 バスの中はにぎやかだった。連勝記録の話は出ない。高橋一三がきょう勝って、小野に並ぶリーディングトップの十一勝目を挙げたということや、神宮球場のグリーンフェンスの広告の話になった。中が、
「去年までの神宮の外野フェンスは、すっきりしてたのにね。無理やり広告なんか出さないで、すっきりさせたままでいいんじゃないかと思うけど」
 水原監督が、
「私もそう思う。しかし、毎試合中日ドラゴンズのような人気チームと戦えるわけじゃないからね。ほかのチームとの戦いではたいして観客を動員できない。球場維持費がたいへんなんだよ。いま、大幅黒字は中日球場だけだ。チョイ黒字は後楽園と甲子園と川崎。広島球場と神宮球場はトントン。どの球場も赤字にならないのは金太郎効果のせいだ。パリーグなんかいくら広告出しても、西宮以外はぺんぺん草だ。そんな中で神宮球場は学生野球の聖地のイメージを保持して、外野スタンドに看板広告を設けないのはさすがだ」
 宇野ヘッドコーチが、
「レギュラーおよびベンチ組の給料は、来年だいぶアップするぞ。査定担当部長は小山オーナーの腹心の遠藤氏だ。彼の話だと、今年末の契約更改のときに事務所でもめる選手はいないだろうということだった。マスコミには低い推定金額を流すと言ってた。きみたちが新しい契約書を前にしたときの喜びは大きいだろう。遠藤氏と村迫さんと榊さんで面接する。顔見知りの人ばかりで気ラクなはずだ」
 みんな晴れやかに笑う。水原監督が、
「私たちはホテルに帰って着替えたら、タクシーで自宅に戻る。私やコーチ連中は、東京に自宅を構えている人間が多いからね。徳武くんと千原くんもそうだろ」
 徳武が、
「はい。私も着替えたら、荷物抱えて実家へ帰ります」
 千原が、
「ぼくは名古屋の寮に帰ります」
「帰名組はあしたの十二時までにゆっくりチェックアウトすればいい。じゃ、三日の広島戦で会おう。来月の上旬で梅雨が明けるそうだ」
 ホテルの玄関に従業員たちが並び、私たちの遅い帰還を丁重に迎えた。監督やコーチたちは鍵を受け取り、三十分後にタクシーを呼ぶよう頼んでエレベーターへ向かった。私たちはいったんロビーに落ち着いた。ソファにからだを伸ばして口数少なく談笑し、一息つくと、めいめい鍵を受け取り、部屋へ戻った。私は部屋に落ち着くと、ゆっくりシャワーを浴び、ブレザーに着替え、整理を終えた荷物を抱えてロビーへ下りた。ヨイショとカウンターに置く。
「お預かりいたします」
 書式を書いて、決まった郵送料を払う。ヨイショ、ヨイショと言いながら段ボール箱抱えてやってきた高木も、ドサッと置いた。
「グローブもみんな送っちゃうんですか」
「ああ、ぜんぶ送る。俺も金太郎さんと同じで、汚れたユニフォームは嫌いでね、毎回荷物送りがたいへんだ。往きは女房がやってくれるんだけど、帰りは俺がやるしかないからね。中さんや慎ちゃんたちは、二試合も三試合も同じユニフォームで通す。アンダーシャツや下着は風呂で洗って乾かす。控え選手もそうだろう。持ち歩くのは、着替えとタオルが入ったダッフルかバッグ一つ。残りはバットもグローブもスパイクも、ぜんぶ最終日に球場から業者まかせで送り返す。きょうもユニフォームで帰ってきたのは俺と金太郎さんだけだ」
「中さんは、グローブは肌身離さずですよ」
「だね。俺も金太郎さんもそうだ」
 江藤たちが下りてきた。すぐにタクシーを四台頼む。フロント係が、
「どちらへ?」
「平河町の四川飯店」
「それなら当ホテルから五分で到着でございます。これだけのご人数さまなら、オータニから十二人乗りワゴン車を二台お出ししましょう。帰りもお電話くだされば、お店にお迎えに参ります」
「ありがたか。そうしてもらうかのう」
 みんな自分なりにおしゃれをしている。一枝のスーツのサイズが合っていない。肩が落ちている。
「一枝さん、背広大きいですよ」
「これがシャレた身だしなみなんだよ。大正ふうのな。モボって聞いたことがあるだろ」
「モボ?」
「モダンボーイ」
 とつぜん父の太いズボンを思い出した。自転車屋の二階から下りてきた太いズボン。母が大正十一年生まれだから、一歳年下の父は十二年。私が生まれるまでに父は大正を二年間、昭和を二十四年間すごした。昭和ボーイだ。一枝も昭和ボーイ。
「昭和時代に入ってから、リバイバルで太いズボンが流行ったんじゃないですか」
 中が、
「リバイバルというより、大正の末から昭和の初めまで、太いダークなズボンと白い靴がずっと流行ってたんだよ。その時代の男と女をモボとモガって言うんだ。モガはアッパッパ、ショートカットの髪、釣鐘型の頭にピッタリのクローシュ帽、ローヒール」
「アッパッパ?」
「大きめのワンピース。修ちゃんは昭和十五年生まれだから、きっと小さいころそんな格好をしてる人を見て、いいなと思ったんだろ。私も十一年生まれで、モボの父がこういうズボンを穿いてるの見たことあるもの」
 バッグを提げた監督たちが降りてきて、私たちに手を振りながら玄関へ出る。水原監督はハンチングをかぶっている。やはりみんなバリッとした格好をしていた。従業員が見送りに出る。私たちも玄関にぞろぞろと出て、五台のタクシーに乗りこむ彼らを見送る。半田コーチと森下コーチは水原監督の車に乗った。大阪住まいの彼らは帰阪せずに、水原監督の自宅で饗応を受けるのだろう。太田コーチと宇野ヘッドコーチは同乗し、田宮コーチと長谷川コーチと徳武はばらばらに一人ずつ乗った。辛抱強いファンたちがチラホラいて、盛んにフラッシュを光らせる。水原監督が、
「じゃ、ごきげんよう。三日間、しっかり骨休めしなさい。ホテルのみなさん、今回もお世話さまでした」
 従業員がうち揃って深く辞儀をする。



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