百八十二

 五台のテールランプが去ると、私たちのワゴンがスロープを昇ってやってきた。江藤のワゴンに、私、一枝、菱川、太田、水谷則博、星野秀孝、江島、千原、伊藤竜彦の十人が、中のワゴンに高木、小川、土屋、若生、木俣、小野、葛城、高木時、伊藤久敏、門岡の十一人が乗った。吉沢や新宅や日野はこなかった。それぞれ早々と家路についたのかもしれない。
 弁慶橋を渡って246号線に入り、首都高4号線に沿って灰白色の雲の下を直進する。ホテル付きの白髪の中年運転手が、
「このゆるい坂は富士見坂と言います」
「富士見ゆう名前はそこらじゅうにあるのう」
「はい、関東に百二十八もあります」
 私を含めて、人は数を覚えようとする習性を持っているのかもしれない。運転手は、
「ここのいただきからも、天気のいい日は富士山が見えます。右手一帯が永田町です。政治の街ですね。いつも警戒がきびしい地域です。衆議院と参議院議長の公邸があります」
 私は、
「見附ってどういう意味ですか」
 私の質問癖が始まったという顔で、みんなにやにやしている。
「見附というのは、江戸城外堀の、石垣と門で造った見張り所のことです。敵を〈見つけ〉るということですね」
 だれも笑わない。
「すみません、シャレっぽいことを言って。あながち外れてもいないんですけどね。あ、もう平河町です」
 みんな遅れてザワザワと笑った。千原が、
「シャレじゃなく、おっしゃるとおりでしょう。目付は目をつける、見附は見当をつける」
 左折。まばらな高層ビルの通り。
「右の茶色い建物が砂防会館です。三年前まで自民党本部が入ってました。そのころは自民党最大派閥の木曜クラブの事務所や、角栄さんの個人事務所がありました。平河町といえば角栄さんの代名詞でしたからね」
 得体の知れない話題だ。さらに左折。
「海運クラブビルです。会議や宴会のためのビルですが、豪華なもんですね。はい、着きました」
 その豪華なビルの斜向かいに、四川飯店の看板が出ている。大イチョウの並木が夜目に涼しい。
「お帰りのときは電話でホテルのほうにお知らせください。五分で参ります」
 ワゴンを降りて店舗内に入る。コック長のようないでたちの男と、黒いお仕着せを着た男女の従業員が三人低頭して出迎える。
「中日ドラゴンズのみなさま、ようこそいらっしゃいませ。貸切部屋をご用意してございます。六人掛け円卓四つですから、ゆったり座れます。どうぞおくつろぎください。ご案内いたします」
 順番待ちの客が廊下にたむろしている。その中を私たちがぞろぞろ進むと、いわく言いがたい嘆声が上がった。
「おう、ドラゴンズだ! 江藤!」
「神無月、格好いいな!」
「でっけえ!」
「あの黒い人、菱川さんでしょ」
「中も高木も、あんなに美男子だったのか」
「一枝さんのホクロ、あのまんま」
「小川って、あのからだで速球びしびしだろ。筋肉のデキがちがうんだな」
 大広間に通される。赤い回転盤のついた丸テーブルがきちんと用意されている。江藤がコック長に、
「これ、みなさんの残業に感謝して、料理人さんたちと従業員さんへのチップ。適当に配分してください」
 十万円ほど渡す。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます。どうぞごゆるりとおすごしください」
 いくつかのテーブルから紫煙が上がる。小川、葛城、伊藤竜彦だ。ほとんどの選手は吸うのだが、まず火を点けたのはその三人だ。江藤たちが黒服の従業員に、コースではなく単品で注文していく。
「まずビール、テーブルに十本ずつ。五目スープそばと、豚肉入り辛味チャーハン。おーい、食いたいもの、どんどん注文いけよ」
 私は海鮮スープそばと五目チャーハンを頼んだ。メニューを睨んでいた中が、
「ここに載ってる四川料理三種類の大皿を、各テーブルに一個ずつ置いてください。麻婆豆腐はかならずね。それから、めし櫃とどんぶり碗を各テーブルに」
 高木が、
「エビチリと、鶏肉料理はたっぷりね。野菜炒めもいくつか混ぜて」
 ビールを飲んでいるうちに、テーブルがどんどん皿で埋まっていく。テーブルを回しながら、箸を動かしながら、めしを盛りながらの会話が始まる。一枝が、
「ベストナイン一回、オールスター一回なんてことを誇りに思ってた去年までが、何だったんだろうって感じだよ。慎ちゃんなんか、首位打者二回、ベストナイン……」
「六回、オールスター今年で十回」
 高木が、
「盗塁王二回、ベストナイン五回、オールスター二回。中さんは盗塁王一回、ベストナイン四回、首位打者一回、三塁打王四回。オールスター……」
「今年で五回」
 一枝は、 
「だろ? 自慢の種があればみんなでそんなふうに競えるだろ? でもさ、小学時代からずっとホームラン王で、プロにきたらホームラン王はおろか、賞という賞を独り占めする大天才とは競えないわけよ。そんなのを見ちゃったら、もう見残したものはないわけだろ。性格まで極上品ときている。スランプになったり、病気したり、ケガしたりしたら、ようやく人間だってわかる。でもそうなってほしくないんだな、わかる? モリミチさん」
「わかるよ、みんなそう思ってるよ。惚れたんだね」
 小川が、
「俺、いまが二十歳だったらなあって思うよ。十五年ぐらい金太郎さんといっしょに野球できたわけじゃない」
 葛城が、
「職人のイメージを神無月くんが変えてしまったからといって、俺たちはやっぱり職人のままなんだな。職人仲間として見るからおかしくなる。具体的な仲間じゃない。自分に野球をさせてくれる抽象的な動機そのものと言えるんじゃないか」
 星野秀孝が、
「俺、神無月さんを仲間だと思ったことなんか一度もありません。ただ、抱きつきたかっただけで。抱きついて、満足しました」
 太田がうなずき、
「俺も、中学のとき、笠寺球場で抱きついた。神無月さんの打球が、大人でも越えたことがないという外野ネットを越えて、民家の屋根に落ちた。静かにベースを回ってホームに向かってきた神無月さんに抱きついた。何人も握手したり抱きついたりしてたけど、神無月さんはぜんぜん浮かれないで、一人ひとりの顔をやさしくじっと見てました。人間じゃないと思った。腹の底から感激しました。あの感激がほしくていまも抱きついてるようなもんです」
 江藤が、
「ホームランを打って戻ってくると、百人が百人、笑って浮かれて、だれの顔も見んとベンチへ引っこむが、金太郎さんはたしかにやさしい目で一人ひとりを見るばい。それをされるとワシはいつも泣いてしまう」
 中が、
「金太郎さんも職人にはちがいないんだけど、ダビンチなんだな。俺たちは徒弟。ちょっと有望な徒弟。やっぱりお師匠を尊敬して、同等以上の努力をして、仕事を助け、基本的には素直に従わないとね。百三みたいになっちゃいけない。すごい者に反発したからって、自分が高められるわけじゃない」
 小野が、
「私のような超ベテランは、ただ衰えて、使われなくなって消えていくのみと、まあ静かにあきらめてドラゴンズにきたんだけど、神無月くんに予期せず花道を作ってもらった。隆(たか)さんも同じだろ」
 葛城はうなずき、
「そうだ。きょうこなかった吉沢も、新宅も、発奮すりゃ将来木俣とタッチ交代できるかもしれないのに、自分勝手に萎んでる。こうやって神無月くんといるだけで楽しいし、ファイトも湧いてくるのに」
 木俣が、
「発奮もさせれば、絶望もさせる、でも野球が大好きだった子供時代へ戻してくれる。それが大金太郎の役目なんだろう。健太郎さんなんか、王を打ち取りたいというより、大金太郎に見せたくて背面投げをやったんでしょう。その気持ちがよくわかる」
 江島が、
「去年まで口うるさかったコーチたちも、にこにこして、みんないいおじさんになってしまいましたね。秀孝の話じゃないけど、みんな神無月さんに抱きつきたくてウズウズしてる。ある意味、いまのドラゴンズはオカマの集団でしょう」
 ガハハハといっせいに笑いが上がった。菱川が、
「俺、神無月さんと永遠に生きていたいですよ。でも永遠には生きられない。いまが大事なんです。精いっぱい生きないと」
 千原が、
「菱川、おまえ人間変わっちゃったな。去年までは、練習のときも外野で寝てただろ。打球が危ないんで、俺、おまえの前で守ってたもん」
「変えられたんですよ。無理やりじゃなく、細胞を変えられた。野球と言うよりは、人間的なものです」
 若生と高木時がタンタン麺を頼んだ。江藤が、
「トキ、おまえ、去年は二軍コーチを兼任しとったばってんが、今年は選手専任に戻ったとやろう。期するところがあったのとちがうね」
「はあ、ばりばりやるつもりで戻してもらいました。福井で浜野の勝利をアシストしたところまではよかったんだけど、なんせ俺、バッティングがイマイチで。……来年あたりからコーチに専業して、縁の下でいきますよ」
 若生が、
「トキさんは面倒見がいいです。二年目の俺がベンチ入りできてるのも、トキさんが投げこみを手伝ってくれたからです。……今年は俺、一回しかリリーフ登板がないし、来年あたりは正念場だと思ってます」
 高木時が、
「俺もだ」
「トキさんは田宮さんが日大の先輩だから、将来は安泰ですよ。俺なんか、おととし立正佼成会が解散してから、何のコネもありません」
 現実的な話が座を静かにした。みな黙々と箸を動かす。江藤が、
「ピンキリの話をしたら、それこそキリがなくなるけん、いまプロ野球選手でいられる喜びを祝い合おうや。キリの自覚のあるやつは、もう少し粘って、上に昇る努力をすればよか。考えてみたら、ワシらぜんぶ、自分をキリやと思って、ピンになりとうて努力してきたんやなかね。金太郎さんを見とったら、この世にはどげんもならんこともあるゆうんはわかるばってん、それで努力せんでもええゆうことにはならん。若生も去年一勝したやろう。たった一勝でも、プロ野球選手相手に挙げた一勝や。これから何勝もする可能性があるっちゃん。トキも十年間で一本ホームラン打ったやろう。プロのピッチャーから打った一本たい。これから何本も打つ可能性がある。憶えとるで、おまえのホームラン。昭和三十九年六月十八日、後楽園の巨人戦や。延長十二回、三対二。権藤が投げ切って四勝目を挙げた試合ばい。おまえはずっと交代せずにキャッチャーばしとった。五回やったな、おまえが伊藤芳明からツーラン打って、二対二の同点にした。十二回の表に決勝打を打ったのは権藤やったがな。権藤は三安打も打ちおった。おまえと伊藤竜彦が二安打。あとは全員ノーヒットやった」
 伊藤竜彦が、
「俺も憶えてる。伊藤芳明を引きずり下ろして藤田を引っ張り出したのが、トキのホームランだった。あの数年は、俺もほとんど全試合出場していたころで、記憶がハッキリしてる。慎ちゃんのほかに、マーシャルという大砲がいた」
 高木モリミチが、
「いたいた、三十本もホームランを打った。その前の年、一年こっきりだったけど、ニーマンというやつもいただろ」
 中が、
「いた。大砲じゃなかったけど、三割打った。マーシャルとニーマンは現役大リーガーが日本に移籍しためずらしい例だったから、いまの助っ人と桁がちがう。そういえば、いまスカウトやってる法元もいたね」
 小野が、
「スカウト? 去年も選手でいたよね。背番号40、代打の法元」
「今年からスカウトになった。榊さんの下で見習いやってる」
 江藤が、
「五年前のあの年は、健太郎が入団して、隆ちゃんが移籍してきた年やった。健太郎はほとんど登板なし、隆ちゃんは打ちまくり。最下位やった」
 私は高木時に、
「錚々たるメンバーの中で、レギュラーとしてやってたんですね」
「木俣が入団したてのルーキーイヤーで、ほとんど使われなかったからね。キャッチャーのライバルがいなかった」


         百八十三

「それにしても、最下位になる要因が見当たりませんね」
 中が、
「投手力なんだよ。それまで権藤一人に頼ってたから、権藤が下り坂に入って雲行きが怪しくなった。翌年から健太郎が活躍しはじめて、最下位を脱した。ところが去年はまた最下位だ。健太郎が調子を落としたからだよ。健太郎におんぶに抱っこになっちゃったんだね。今年からはだいじょうぶ。健太郎と小野さんに星野秀孝、水谷則博、土屋紘が加わった。これで水谷寿伸も若生も山中も門岡も、デンと構えて地力を発揮できる。来年一人加わるそうだから、中日は巨人を凌ぐ投手王国になる」
 細面好男子の門岡が、
「俺は九年前、入団交渉の先走りで世間を騒がせて以来、新人の年に十勝を挙げたきり泣かず飛ばず、頭打ちです。金太郎さんに幸運をもらわないと、単なる努力ではもう乗り切れんです」
 私は、
「騒がせたというのは?」
「退部届を出したあとでないと、プロと交渉しちゃいけないことになってるんです」
「知ってます。ぼくもぎりぎり、東大の監督に頼んで間に合わせました。プロ野球選手になりたかったですから」
「甲子園で一回戦負けして、大分に帰る途中のフェリーで入団表明をしちゃった。そのせいで、母校の高田高校は一年間の対外試合禁止処分を受けた。申しわけないことをした」
「名投手になって母校にツケを返さないといけないって焦ったわけですね。で、十勝。たっぷり謝罪したことになると思いますよ。高田高校の出世頭でしょう」
「いまのところはね」
 三年目の伊藤久敏が、
「俺も左の速球派として期待されて入団したものの、おととし一勝、去年三勝で、泣かず飛ばずでした。でも、今年四勝して、とうとう軌道に乗った感じです。門岡さんのおっしゃるとおり、神無月さんから幸運をもらったんです。俺は幸運をもらうのと同時に、神無月さんのきびしい自己トレーニングもまねしてます」
 江藤が、
「なんで知っとるんや、金太郎さんの自己トレのこと」
「雑誌に朝のランニングや、不気味な素振りの写真が載ってますよ。一升瓶を使った手首の訓練、両手腕立て、片手腕立て、腹筋、背筋。球場に出てくれば、あのダッシュでしょう。だからバッティング練習や守備練習はほとんどしない。ピッチャーで言うと、投げこみをしないのと同じです。コーチたちもあまり投げこみをするなと言い出したのは、神無月さんの影響でしょう」
 小川が、
「大リーグでも、投げこみはだめだと言われてる。キャンプの投げこみで投手生命を絶たれるピッチャーが多いのはそのせいだ」
 中が、
「やりすぎるな、少量を集中的に長期間やれ、だね。千本ノック、千本素振りの時代にそれは革命だよ」
「走り出したのは大学時代からです。まだ二年経ってません。筋トレも二年弱。素振りだけは十年ですが、まじめに振ってるのはプロ入りしてからです。高校時代は合わせて千本も振ってません。つまり小中学校時代の貯金で野球をやってます。そろそろ貯金も底を突きはじめたので、いませっせと自己鍛錬で貯蓄を再開してます。プロ野球界に長くいたいので、ハードな鍛錬はしません。それを革命と言ってもらえるのはうれしいです。ほかに心がけてるのは食うことです。中学時代は母が弁当を作ってくれない人だったので、いつも空腹状態で野球をやってました。このごろよく食うおかげで、きちんと走れるようになりました。そうしたらスタミナもついてきた。二塁打、三塁打、盗塁が楽しい」
 みんな、ポカンとしている。江藤が、
「ワシは鬼のおふくろさんに会った。金太郎さんはこれでも遠慮してしゃべっとる。……まあ、それはそれとして、食おう。食うのはプロ野球選手の基本たい」
 あわただしく箸が動くなか、高木の食の講義が始まった。
「プロ野球のような過酷な仕事をしていて、しかも現役を長くつづけていくには強靭な体力が必要だ。体力を作るには、練習だけではだめで、食事が不可欠だ。本来、子供のころから食事は注意する必要があるけれども、金太郎さんは例外として、家庭の経済的な事情でそれがじゅうぶんでなかった人も多いだろう。いま、取り戻そう」
「オウ!」
「理想的なメニューの一例を言うから、参考にしてくれ。それ以上に食ってもいいぞ。朝食、バターとジャムを塗った食パン二枚、目玉焼き、ホウレンソウ炒め、グレープフルーツジュース。昼食、めし、豚の生姜焼き、冷奴、もやしとニラの炒めもの、豚汁。夕食、めし、マグロの刺身、鶏の唐揚げ、ナス味噌炒め、かぼちゃの煮物、みかん。オッケー?」
 だれも聞いていなかった。私は、
「よかった、それ以上は食ってます」
「嫌いなものは?」
「食パン、かぼちゃ」
「食パンはめしに替えてもいいけど、カボチャは食うようにしなさい」
「はい」
 水谷則博が、
「小野さん、葛城さん、プロ野球界でセ・パを跨いで一流選手としてやってきて、俺たちに参考にしてほしいと思うことがあったら教えてください。たとえば、一流になれない選手の特徴ってありますか」
 小野が、
「一つだけ。神経質な人。神経質だと、落ちこんだときに立て直すのに時間がかかる。投手は打たれるのがあたりまえの仕事だし、捕手は投手以上に打たれた原因を考えなければならない仕事だから、気楽に考えられる人ほど伸びる」
 土屋が手を挙げ、
「それ、神無月さんに言われました! 打たれてしまえって。そういう気持ちで投げろって。打たれたら自分の全責任だ、そしたらクビになっちまえばい、そう思えば気がラクだろう、でもその気持ちで投げたらまず打たれないよって。小野さんのおっしゃったこととまったく同じです。俺……その気持ちで投げました……打たれませんでした。……感激です!」
 葛城が、
「気楽な人間は、圧倒的な吸収力があるからね。しかし、昇竜館の寮長が言ってたよ。神経質と礼儀はちがう。どんなに気が回っても、礼儀の杜撰なやつは伸びないってね。電気を消し忘れない、小声の挨拶をしない、玄関に靴を、風呂場の入口にスリッパを脱ぎ捨てない。それは神経質とはちがう。礼儀だ。打たれたらクビになっちまえばいい、用いられずんば去る、人間としての礼儀の基本ラインだ」
 何人かの選手がうなだれた。小野が、
「それから、一流選手の特徴も言っておかないと。―目。神無月くんの静かに睨みつけてくるような目は強烈です。鬼気迫る瞳に気圧(けお)されました。真剣というより、全力なんです。あらためてチームのメンバーを見回すと、レギュラーの全員がその目をしていました。私もこういう目をしていなければ先がないなと思いましたよ」
 葛城が、
「それから、同調、協調、ね。神無月くんはよく相手選手に近づいていくでしょう。オープン戦も公式戦も。尾崎の背中に頬っぺたをつけたり(頬をつけた憶えはない。たぶん背番号に触っただけだ)、杉浦と握手したり、特殊な状況だったけど金田にバットを借りたり、審判に挨拶したり声をかけたり。物怖じせず、恥ずかしがりもしない。相手に甘えきって自分の領域に引き入れているんだ。傲岸不遜とはちがう、恐ろしい才能だ。これまたうちの連中のほとんどがそれだったんで驚いた。人は大いに甘えないと人を甘えさすこともできない。人に便宜を図ってもらえるならすべて甘える、相手に便宜が図れるならすべて図ってやる。ギブンアンドテイクじゃない。それが真の自立だ。財布の紐を握って、自炊して暮らすことが自立じゃないんだ。一流になるための最初の必須事項は、習慣の確立だ。神無月くんは、自主トレは言わずもがな、食うという習慣を確立した。食わないと、からだが弱くなるばかりでなく、集中力が低下し、大ケガの原因にもなる。食わなかったのが小中学生の軟式野球の時代でよかった。微妙なところで動きが鈍かったはずだからね。とにかく、練習不熱心で、食の細い選手はそれだけでぜったい使ってもらえない」
 小野が、
「もう一つ最後に言いたいんですが、必要以上の金を稼ぐ欲望をエネルギーの素にする選手は伸びないんです。もちろん、生活費を稼ぐことに力をこめるのはおかしなことじゃない。生活のための費用を心配せずにすめば、本職に全力を注げますからね。つまり、生活できればいいんですよ。余ったらモリミチさんみたいに車とかステレオといった贅沢品を買うのもいいでしょう。私も外車を持ってます。ただ、必要以上の金をもっと稼ぎたいとなると、人格的に問題が出てきて、本職への情熱が希薄な人間になります。贅沢のための物品を求めることは、人生の意義の中で最も小さいものだからです。そういう人はもう純粋にスポーツに打ちこめない」
 最後に江藤は、五目焼きソバを大皿で頼んだ。太田が江藤に、
「ここの払いは球団にいくんですか」
「いつもならな。二十人分の夕食代として球団にいく。ばってん、きょうはワシのおごりたい。いい話も聞けたし、安いもんたい。オールスターが終わったら、また寮生におごっちゃる」
「オールスターも有給ですか」
「ほんとうは無給やが、選手に休んでほしくないんで、日本野球機構から手当てが出る。すずめの涙やけどな。おまえらにおごる程度は出る」
 最後にもう一度ビールで乾杯し終えると、江藤はニューオータニに電話をかけにいった。紫煙がいっせいに立ち昇った。
 大粒の雨がきていた。帰りのワゴン車に揺られながら、小野の潔い言葉を浮かべた。浜野百三の暴言が頭の中でぐるぐる回った。私は自分の心の底にひさしぶりに重苦しい感情が生まれていることを意識した。怒りだった。水原監督や江藤を揶揄するような態度、からかうような物言い。和やかに談笑しているチームメイトを見回した。菱川と目が合った。
「うまかったすねェ」
「うん」
「楽しかったすねェ」
「うん。ところで、この四試合、巨人の浜野は投げてる?」
 菱川と並んで座っていた太田が、
「投げてます。きのうの広島戦の初戦で、九回表一回だけ。敗戦処理、三者凡退。……怖い目つきして何を言うかと思ったら、どうしたんすか、何か気になるんすか」
「江藤さんと水原監督に向かって吐いたひどい言葉を思い出してた。きょうの小野さんの高潔な言葉と比べて、ムカムカきた」
 菱川が半田コーチの口まねをして、
「ほっときなさーい。金太郎さん、アングリー似合わなーい」
 一枝が、
「そ、金太郎さんは神棚でじっとしてないと。あいつはもっと儲かると皮算用して、勝手に店仕舞いしちゃったんだよ。監督や俺たちのことを甘ちゃんと言ったんだって? それって、金太郎さんのことを甘ちゃんと言ったのと同じだよね。権力嫌って、好き勝手やって、それでつつがなくプロ野球選手になれたのは、才能が引き寄せた単なるラッキーのせいだと思ったんだろう。そんなやつを祀り上げてついていく俺たちは、もっと甘ちゃんだってね。バカだね。なるほど、金太郎さんは好き勝手やってきたように見えるよ。でもそうじゃないんだ。金太郎さんの人生は、幼いころから、自分じゃコントロールできない力に流されてきたんだ。慎ちゃんだって、水原監督だって、そう言おうと思ったはずだ。でも、あんなバカヤロウに説明する必要はないと思い直して、口をつぐんだんだな」
 江藤が、
「金太郎さんはもともと、バリ短気な人間たい。死ぬ思いでこらえとるだけばい。何がラッキーと言って、あの場で金太郎さんに張り倒されんかった浜野のほうがラッキーたい。アハハハ……。修ちゃん、泣かすなよ、涙が出てきた」
 涙のような雨をワイパーが掃いている。運転手が、
「このひと月、浜野は先発ゼロです。勝ちも負けもなく、移籍の意味がなかった状態ですね。来月から二軍に落とされるんじゃないんですか」
 葛城が、
「せっかくドラ一で入ってなあ。あのまま中日にいたら、うんと使ってもらって、水爆打線に助けられて七、八勝はしただろうに。一生に関わる問題だったのに。……人生懸けて才能ある人間から逃げたがる人間もいるんだな」
 星野秀孝が、
「逃げたんじゃなくて、巨人の選手たちのほうが神無月さんより才能があると信じていたんですよ。王、長嶋ですもん。神無月さんが太陽で彼らは月だってわかってなかった。その後どう思っているか知りませんけど、やっぱり後悔してない気がします。天下の読売に雇われてるんですから。才能は権力より一段下に見られることは世の常ですけど、プロ野球選手って世の人じゃありませんからね。世の常とは関係ないですよ。それに、どんな権力の傘の下に入っても、使ってもらえないんじゃ意味がありません」
 木俣が、
「おい、二十歳、切れるね」
「自然に囲まれた県立尾瀬高校卒です。自然観察の目はあります。人間観察は自信ないですけど。現代の権力って、金力って意味でしょう? さっき小野さんが言いましたよ、そういうものをエネルギーの素にする人は伸びないって」
 運転手が、
「大人同士のいい会話ですね。権力の子供っぽさを見抜いてます。ドラゴンズが強い理由がわかりました。大人のチームです。子供のチームには芯が入りません。次回からも、お出かけのときはお役に立ちます。どこへなりともお申しつけください」
 一枝が、
「ときどき、甘えさしてもらいます。いろいろお店も教えてくださいよ。このあたり、官庁街なんで、俺たちでは見つからない」
「承知しました」
 ロビーで、たがいに握手し合い、来月三日の再会を約して別れた。私は窓際のテーブルに残り、しばらくまばらな高層ビルの夜景を眺めた。怒りがくすぶっている。浜野が哀れな使われ方をし、勝ち星に恵まれないということぐらいで相殺される怒りではない。吐いた言葉が消えることはないのだ。いつか呼び出して鉄拳を加えようか。それとも康男に仕置きしてもらおうか。想像が勝手に翼を広げ、心に暗い影を落とす。


         百八十四

 暗い気持ちのまま寝つかれずに、ぼんやりテレビを観ていた。エフレム・ジンバリストジュニア、FBIアメリカ連邦警察。葛西さんの下宿にいたころ、どういう風の吹き回しだったか日曜日の夜遅く、赤井と一度観たことがあった。そのときと同じ印象だ。組織ギャングの行動に日本のヤクザのような義侠に基づいた深みがない。銃弾による人びとの死に方がひどくあっけないし、警察側の捜査も紋切りで意外性に欠けているので、犯罪ドラマとしてはおもしろ味がない。
 十一時半を回ってドアがそっと叩かれた。テレビを消す。ドアを引くなり、傘を持った柴田ネネがしなだれかかってきた。
「すみません、とつぜん押しかけて。八月まで逢えないと思うと、恋しくて恋しくて……きてしまいました」
「いいんだ。ぼくも逢いたいと思っていたところだった。ネネに逢って明るい心を取り戻したいと思ってた。よくきてくれたね」
 口もとを見下ろし、ふと、ジャズ歌手のミルドレッド・ベイリーのような顔をしていると思った。おのずと勃起始まったので、ジャージを脱いで下半身を曝した。ネネは驚いて私のものを凝視した。それからドアきちんと閉めると、膝を突いて、陰茎を大事そうに両手で挟み持ち、頬ずりした。陰嚢を揉みながら口を大きく開けて含む。湿った気分でいたところへタイミングよく現れたネネに、なぜか強い感謝の気持ちが湧いた。心ゆくまで感じさせてやりたいと思った。
 机の抽斗に備え置きの裁縫箱があったことを思い出し、取り出して箱を開けて見る。糸切り用の小鋏が入っていた。いつかサッちゃんがひどく興奮して乱れた光景を思い出している。
「ちょっと待って。パンティだけで仰向けになって。穿かないで帰ってもかまわないよね」
「……はい」
 ネネは期待に燃える表情で服を脱ぎ、パンティだけの姿になって横たわった。私は全裸になってネネの腿のあいだに両膝を入れた。クリトリスのあたりから下へなぞって溝を作り、門渡の箇所を切って少しずつ切り上げていく。溝が湿ってきた。ネネは首を挙げて覗きこみ、目を瞠った。
「わ、興奮します!」
 さらに切り上げていくうちに、ヌラヌラした淫猥なかたまりで現れた小陰唇の先端でクリトリスがひくつきはじめ、一瞬大きく膨らんだかと思うと、そのあたりから愛液が飛び出した。うーん、と両脚を硬直させて寄せる。
「ごめんなさい! イッちゃいました!」
 ふた筋目の愛液が勢いよく顔にかかった。包皮から突き出た白い陰核が何度もひくつく。それを見て私は極限までそそり立った。
「すぐしよう」
「はい!」
 ネネは元気よく応える。私はベッドに仰向いた。ネネは裸体を私に摺り寄せ、もう一度含んだ。私は仰臥したまま彼女の陰部に指を使った。ひどく濡れていて、何ほどもしないうちに太腿をふるわせはじめる。
「あ、すみません、もうそこはいいです。入れますね」
 ネネは上になり、大きく開脚して合体する。手のひらを重ね合わせる。結合部を凝視すると、私を包みこむ小陰唇のいただきに、達したばかりのクリトリスが妖しく光っている。
「神無月さん……愛してます」
 手を握るネネが目を潤ませながら囁く。私はうなずき、
「よく濡れて、きつく締まってるよ」
「うれしい……」
 圧力のある壁がゆっくり亀頭をこする。おびただしく潤ってきて、脈動が始まった。
「あ、イキそうです、神無月さん、愛してます、イクイクイク、イク!」
 一度だけ腹が締まり、下腹がプルンプルンと痙攣した。ふたたびゆっくり往復する。
「ああ、だめ、神無月さん、またイッちゃいます、イク、イクイク、神無月さん、イク!」
 かすかに吸引が始まる。奥の襞が亀頭をなぶりながらうごめく。
「ううう、気持ちいい! 愛してます、死ぬほど好き、好き好き好き、ううーん、またイク、ククク、もうだめ、神無月さん、もう、げん……ああああ、またイッちゃう! イクウ!」
 脈動する膣にしばらく浸っている。ふるえる腹に手を置き、硬く収縮している筋肉を感じ取る。神秘だ。
「気持ちいいの?」
「は、はい、すごく! ああ、あ、またイク!」
 三度、四度と奥を突いてやる。
「だめえ、あああ、またイク! こわい、こわい、いやだ、イク! ううん、イク!」
 寸秒に迫ったので引き抜き、ネネを仰向けにして、陰毛に亀頭を載せて射精する。精液がネネの顔に飛んだ。つづけて乳房と胸の谷間に飛ぶ。ネネは、ウン、とうめいて、
「あああ、すごく気持ちいい、イク!」
 最後の律動で精液があごまで飛んだ。ようやくネネの反射が終わったのを確かめ、ティシュで顔と胸と腹の精液を拭った。それが刺激になったのか、もう一度ネネはうなって痙攣した。ネネを抱き寄せ、キスをする。ネネはむしゃぶりつき、最後の痙攣を私の腹にいとしそうにぶつける。たがいの腹が精液で糊づけられる。私は新しいティシュを束にしてネネに手渡した。
「神無月さん、外になんか出してどうしたんですか」
「どのくらい出るものか見てみたかったんだ。出るもんだね!」
「不思議な感じで興奮してしまいました。……かわいらしい人」
 私はネネに亀頭を含んで精液をしっかり吸い取るように言った。ネネは律儀に言われるとおりにした。
「いつもの形になろう。上にきて」
「はい」
 ネネは跨って収めると、そっと抱きついてきた。キスをする。少し突き上げてやるだけで、自動的にネネの腰が動きはじめ、
「あ、早すぎる、どうしよう、気持ちいい! だめだめ、イクイクイク、あああ、イク!」
 腰を抱えて、
「今度は少し長くするからね、好きなだけ何度でもイッて」
 完全に奉仕の気持ちになっている。射精の意思はまったくない。
「私がもうだめってときは、神無月さんもイッてくださいね」
「ぼくはもう終わり。ネネだけ」
 突き上げるように往復する。うねりと吸引が密着する。うめきながらわずかに陰阜を引き、快楽に負けまいとまた恥骨を寄せてくる。
「あ、いや、イク! あ、強くイク! あ、またイクイク! だめだめ、神無月さんもうだめ、無理、無理、うううん、イクウウ!」
 うなりながら私の腹をペチペチ叩く。
「あああ、愛してます、愛し……イク! あ、死ぬ、神無月さん、死んじゃう、 もうイケない! あ、死ぬ! うううーん、く、く、苦しい! 神無月さん、ごめんなさい、あああ、イク! ググ、イグ! やめて、やめて、あああ、イクウウウ!」
 離れればラクになるのに、そうしようとしない。やめてと言いながら、極限まで感じつづけようと決めたようだ。
「吐きそう、つ、つらい!」
 引き抜く。ネネは私の上に乳房から伏し倒れ、尻を突き上げて痙攣する。痙攣しやすいように横に倒してやる。小山のように揺れつづけるなまめかしいネネを背中から抱き締め、目をつぶった。なんという情熱だろう。目が痛くなり、私はネネの背中にぴったり寄り添ったまま、硬直とふるえをしばらく胸と腹に感じた。自分ではままならないふるえが治まった先に、思いどおりにできる言葉がある。私はいつもその言葉に耳を立てる。やがてネネはのろのろと振り向き、
「……泣いてるんですか? どうして」
「うれしくてたまらないんだ。ネネのいまの姿が、いつも給湯室でさびしそうに煙草を吸っていた姿に重なって―」
「……私も、あの日の神無月さんを思い出してばかりいるの。不思議なひとときだったなあって。もう、煙草はやめました。神無月さんと不思議な時間の中で暮らすために、もっともっと長生きしなくちゃ」
 ネネが目をゆっくりつぶり寝息を立てはじめたので、風呂にいった。浴槽の縁に尻を落として湯を入れながら、飛島寮の風呂掃除を思い出した。
『洗剤をつけたスポンジで浴槽を洗い、シャワーで流す。排水口にからみついた毛の束をつかみ取って、湯殿の溝に流す。それほど汚れていない壁の隅のわずかな黴をこする。物がきれいになっていく仕事は楽しい。もう一度浴槽と壁にシャワーを当て、栓をし、蛇口をひねり、湯を入れる』
 見下ろすと、性器が赤く腫れている。微笑む。脱衣場に出て、洗面台の歯ブラシとコップを持ってくる。湯が溜まってきたので、蛇口を小さく絞り、湯船に立ちながら歯を磨く。
「なんてきれいなお尻なんでしょう。彫刻みたい」
 振り返ると、ネネが両手で陰毛を慎ましく隠して立っている。私は口を漱いだ。
「眠らなかったの?」
「はい、休んでただけです。パンティはバッグにしまいました。洗わずにしばらくとっておきます。いつかちゃんと洗って、思い出の小箱に入れます。……こんなおばさんと大切な時間をすごしてくれて、ほんとにありがとうございます」
「人間はみんななるべくしてそうなるし、するべくしてそうする」
「つらい思いをして生きてきた神無月さんに、これ以上の重荷を背負わせないようにといつも思ってます」
「つらい思いなんか、大してしてきてないよ」
「いいえ、トラックに積むぐらいの荷物を背中に載せて生きてきたような人です。いまも積みつづけてます。……気楽に生きてほしいんです。好きなことをして、好きに時間を使って」
「手を伸ばせば、いつでもそこに女のからだがあって……それも気楽の一つだよね。奪うつもり?」
「……手を伸ばして、安らぎになってくれればいいんですけど、負担になっていたら申しわけありません。……神無月さんは女のためにセックスをするようなところがあるんです。それはとてもつらいことでしょう?」
「ちっともつらくない。反応のない女を抱くのはつらいけどね。ぼくを愛してくれる女にそんな女は一人もいない。みんな最高の反応をしてくれる。それがうれしい」
「なんだか恥ずかしい……。女のからだが神無月さんにちゃんと応えるのは、みんな神無月さんを心から愛してるからです」
「応えてもらえるうちは、ぼくは愛されてるってことだね」
「はい。神無月さんが私のあそこで気持ちよくなるのは、私が愛してる証拠だと思います。愛する人は輝くし、愛さなければくすんでしまいます。人を愛するように生まれついた神無月さんはむかしから輝いてましたけど、私もやっと輝きはじめました。神無月さんは私に輝きをくれたんです」
 ネネは私の手をとった。
「お湯に浸かりましょ。別れを惜しみたいんです。球場の人たちには毎日会えますけど、神無月さんにはせいぜいひと月に一度しか会えない」
 湯があふれそうになっていた。ネネは、あら、と言って屈み、蛇口をひねった。二人で湯船に沈む。大量の湯があふれる。重たい乳房を両手でもてあそぶ。いずれこの胸は肉が削がれ、骨になる。そう思うと無性にさびしくなった。尻を撫ぜる。ネネは私の顔を見つめながら微笑する。私の首を抱き締め、跨ってくる。
「かわいい人! 忘れないでくださいね、私のこと忘れないでくださいね。いつもいつも想ってます」
 二度、三度下から突き上げると、
「ごめんなさい、一回……」
 グンと背筋が伸び上がる。跨っている両脚がぶるぶるする。
「どうして、すぐイッちゃうの?」
「自分じゃわからないんです。神無月さんのせいだとしか」
「ネネが五、六回イッたら、ぼくもイッちゃうな。ものすごく気持ちいいオマンコだから」
「イッてください。もう離れないようにしますから。がまんします」
 二度、三度と、高潮に達するたびに、自動的に私の射精を促すように緊縛してくる。頬に頬を密着させて、次の高潮をこらえる。ウププ、ウププ、とサッちゃんのような声を出す。快楽の発声をするとよけい刺激の強さが増すのだろう。無言になった。何度も達しているのが膣の収縮でわかる。私も近いことを告げ、唇を吸う。
「あああ、もうだめええ、イクイクイク、イク、イグ!」
 両腕でしっかりと私に巻きついた。私は疼痛を伴った放出をした。飯場の畳の上に初めて白い液体を吐き出して以来、長く忘れていた痛みだった。ネネは歯を食いしばって全身をふるわせる。膣がドクドクと脈打つ。乳房と腹が私の胸に打ち当たる。ついに巻きつけたバネが弾けるように両腕がほどけ、伸び上がって離れると、浴槽の縁に両手をついて尻を向けた。腹をせせり上げながら痙攣する。精液が太腿に伝い、白い縞模様になって湯船の中に拡がる。これもいつか見た絵だ。いや、既に視た絵などない。すべて、いま始まる光景だ。
「大好きだよ、ネネ」
 私は立ち上がり、背中から抱きしめた。
「私も、世界でいちばん好きです。……ああごめんなさい、もう少しで治まります……。どうしましょう、ジンジンして、狂いそうなほど気持ちいいんです」
 ネネは脇腹を縮めて、ギュ、ギュ、と最後の痙攣をした。
「幸せの棒、しっかり見せてください。目に焼きつけておきます」
 ネネは振り返ってゆっくり湯船にからだを沈めると、掌で私のものをゆるく握りながらしげしげと見つめた。ひねったり、裏返したりする。自分を快楽に導くものとして見つめる目とはちがっていた。別種の愛情にあふれていた。口に含んで舌を使いながら思う存分舐めまわすと、見上げてこぼれるような笑みを浮かべた。
「勇気を出してやってきてよかった。こんなにやさしくしてもらえるなんて―」
 ベッドの傍らで丁寧にからだを拭いてやった。
         †
 いつのまにか一時間ほど眠りこけた。ネネが帰り支度をしていた。
「何時?」
「二時です。寝ていてください。いっしょにここを出て人に遇ったら、神無月さんにつらい思いをさせてしまいます」
 ネネは夏物の薄緑の開襟シャツに白のカーディガンをはおり、素脚にじかにたくし上げたパンストの上に濃い灰色のスカートを穿いた。唇を突き出した。深く吸った。
「……また来月、この部屋で」
「うん。もう一度キスしていって」
 ネネは枕もとに顔を寄せて、やさしくキスをした。
「……さようなら。お休みなさい」
「さよなら」
 ネネはドアのところで、振り返って手を振った。ドアが閉まった。私は立っていってもう一度ドアを開けた。首を出して覗いた。ネネの背中が廊下の突き当りを曲がって消えていくところだった。




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