百九十四


 七月二日水曜日。六時半起床。雨が降っている。カズちゃんとメイ子と三人で風呂に入った。
「もう少し寝てればよかったのに」
「八時に菅野さんがくる。居間にジャージを置いといて。玄関には合羽ね」
「わかった」
 彼女たちは風呂と部屋の掃除にかかる。こういうとき私たち三人は北村席で朝食をとる。そのためにカズちゃんは北村席に過分な食費を入れている。どんなに拒否されても、直人の玩具代と言ってトモヨさんの口座に振りこむ。
「アイリスが儲かって仕方ないのよ」
 決まってそう言う。たしかに儲かっている証拠に、お盆の時期には従業員たちに半月分のボーナスを出すと公言している。
 雨が激しくなった。八時。菅野から、中止にしましょうという電話が入る。
「ムッちゃんと千佳ちゃんをマンションから駅まで送ってきます」
「OK。きょうはゆっくりしてます」
 カズちゃんたちが出かけた。やっぱりランニングに出よう。パンツ一丁に、ジャージを着、眼鏡をかけ、運動靴を履く。畳んだ合羽を手に、傘差して出る。
 駅前からタクシーに乗り、名城公園へ。菅野といきそこなった公園なので一度走っておきたかった。白髪の年配の運転手は手に持った黄色い合羽に注目したくらいで、まったく私に気づかない。外出しても何の障害もないとつくづく思う。騒がれるのと騒がれないのとおおよそ半々だ。騒がれたいと思う芸能人やスポーツ選手しか騒がれない。芸やスポーツを披露することより、騒がれることが彼らの念願だったので、自然と騒がれるような目立った振舞いをする。サングラスをかけたり、奇矯な服装をしたり、供の者を引き連れたり……。
 噴水前の門で降ろされる。正体を知られていないので釣りをちゃんと受け取る。目立ったことはしない。名古屋城を望む広大な緑の公園。周辺の三キロの道がランニングコースになっていることをたまたま知る。雨に傘差してでは走りにくいので、簡易傘をベンチに置き捨てる。合羽を着て走り出す。併行して石の道があり、サイクリングコースになっているようだ。湿った緑の中を走る。たまに私のように合羽を着て走っている人もいる。沿道のアジサイや藤棚が美しい。グワー、グワーというアオサギの鳴き声が聞こえる。
 園の内部に入る。ここも二レーンのコースができている。曲がりくねっているので、ここも三キロある。あたりの趣から公園全体が総合運動場になっていると気づく。潅木の陰にかわいらしい白猫の姿を瞥見する。動物は野生が似合う。かわいらしくても凛々しさがある。
 公園の中心部に有料駐車場があり、ポツポツ車が停まっている。すぐそばに野球場があった。一瞬胸が躍る。遊具付きの児童公園がある。枝葉だけの桜の立木に囲まれている。コースから外れて歩きだすと、緑に濁った小池があった。御深井(おふけ)池と言うらしい。カキツバタ。絶景。正面に雨に煙る名古屋城が見える。
 西門から出て、お堀に架かる橋を渡り、西高の方向へ走り出す。運動靴が濡れた音を響かせる。靴の中は素足なので指の股が気持ち悪い。ひどく古い町並を一途に直進する。十五分近く走って、天神山南の信号に出た。いつもの市電道だ。西警察署前の信号を右折して、警察署の周囲を迂回する。何もないので市電道に戻る。少し腹がへってきた。食い物屋は見当たらない。押し切りの大交差点。知った人間には一人も出会わない(会いたくもない)。菊井町の交差点まできた。そろそろ足を休めたい。那古野の脇道を覗くが、開店前の飲み屋しかない。
 ついに亀島のトンネルまでやってきた。浅野の炭屋のほうへいかずに、ガード沿いに河合塾のほうへ走る。滝澤書道塾を過ぎ、笈瀬川筋を進んでコメダ珈琲店、右折して自宅の門前に立つ。十時半。さまよってきたという感じだ。
 ジムトレ三十分。音楽部屋へいき、ロビン・ウォード、テディ・ベアーズ……。ようやく人恋しくなる。
 じっちゃ、ばっちゃ、奥山先生、縦貫タクシーの清川さん、葛西さんのご主人、ユリさん、西沢先生、相馬先生、山田一子、加藤雅江一家、飛島の社員たち、クマさん……。
 傘を差して家の裏手の小さな椿郵便局へいく。玄関前の赤ポストがなつかしい。ドアを押して入り、ベンチに腰を下ろす。局員は男一人、女二人。みんなでお辞儀をするので焦った。私に気づいているのかどうかわからないが、応対の丁寧さに感銘して、思わずハガキを二十枚買う。家に帰り、ついいままで頭に浮かんでいた人びとにしてきた不義理を思い起こし、一通の便りくらいでは取り返しがつかないとあきらめ、ハガキを机の抽斗に放りこんだ。
 枇杷島の北にあるドラゴンズの室内練習場にいってみようか。いったところで……。
 腹がへっている。台所に下りてきのうの味噌汁を沸かした。冷蔵庫から玉子を一個取り出して落とす。それをゆっくりすすった。冷蔵庫からハムを取り出して齧る。
 野球をしていないときの私は何者だろう。アタマのない人間の正体。家庭と仕事と学習の義務を埋めこまないかぎり、無能な人間は生きていけない。能無しにとって自由は最強の毒だ。シャワーを浴びて仮眠。
 二時。雨が小止みになった。ワイシャツにブレザーを着、近眼鏡をかけ、靴下を履く。革靴を履いて、傘を手にふたたび名古屋駅まで歩く。正面玄関に出てタクシーに乗り、大須へと告げる。名古屋市で最大の映画館街だと菅野に聞いたことがある。
 十分ほどで到着。大須観音の出入口で降ろしてもらい、観音通りを進む。名画座、太陽館、OS劇場。赤門通りを歩いて新天地通りへ曲がりこむと、あるわ、あるわ、日活シネマ、大須大映劇場、名古屋劇場、万松寺日活。洋画が観たかったので、二本立てをやっていた日活シネマの切符を買って入る。ジョン・ウェインの『勇気ある追跡』と、グレゴリー・ペックの『レッド・ムーン』。レッド・ムーンを上映中だった。
 週日の昼間なので、暗い館内はガラガラ。真ん中あたりの席でゆったり観る。インディアンと騎兵隊もの。五分もしないうちに飽きて眠りこむ。
 館内の明るさと足音に目覚め、小便をし、ソフトクリームを買って嘗めながら座席にふんぞり返る。勇気ある追跡の開幕。片目の大酒飲みと美男子のテキサス・レンジャーが、父親を殺された少女の復讐を手伝うという話。引きこまれる。美男子は復讐相手に撃たれて死に、少女はガラガラ蛇に咬まれて瀕死と、息を継がせない展開。スリルとサスペンスの果てのめでたしめでたしモノだったが、とにかくジョン・ウェインがよかった。西部劇は彼にかぎる。
 五時間近。もう一度タクシーを拾い、
「円頓寺(えんどうじ)商店街へ」
 これも菅野の噂話で、日本最古のストリップ劇場『開慶(かいけい)座』が那古野の円頓寺商店街にあり、〈マナ板本番ショー〉をやっていると耳に挟んでいたからだ。人が恋しいということは人の営みが恋しいということだ。踊るアホウに見るアホウ―。
 商店街の入口で降ろされ、左右を観ながら古風な家並を歩く。高円寺や中野の商店街とは似ても似つかない骨董的な懐旧の趣がある。店先を照らす明かりがまぶしい。花の木にいたころカズちゃんと一度きたことがある。商店街の途中に落ち着いたたたずまいの長久山円頓寺が紛れこんでいる。金比羅さんがあり、名古屋弁おみくじというのを売っていたので、三十円で買う。吉。

 自分の足もとをちゃんと見とかんとせっかくの輝かしい運も逃げてってまうよ 幸運を見きわめるチャンスに乗りゃあせ 身を持ち崩したらかん
 恋愛 浮気ならやめやあ あとで泣くで
 願望 努力で叶うわ
 商売 いまがチャンスだで思うとおりやりゃあ
 お勤 将来ええもんで 正義に立ちゃあ
(正義心に従って好きなようにやっても将来が保証されているということだろう。宗教的とも言える楽観だ)
 賭け まあ潮時だがね
 相場 いまが売るときだがね
 病気 急なことあるで気をつけやあ
 失物 思わんとこから出てくるわ
 就職 気に入らんでも決めときゃあ
 縁談 立派な人だで 親の言うとおりにしときゃあ


 声を出して読んでみた。おもしろい。
 外れまで歩き切り、黒ギボシの美しい五條橋のたもとに出る。少し堀川がにおう。振り返る。商店街出口右手に堂々とカイケイ座の看板が出ていた。
 入口脇のガラスケースの〈香番(こうばん)表〉に、出演者の踊る順番が掲示されている。出演は六組(独演も含む)。第一部開演は十一時半から一時半、午後の二部は二時から四時、三部は四時半から六時半、四部は七時から九時、終演は九時半から十一時半。腕時計は五時二十分過ぎ。第三部を一時間余り見られる。じゅうぶんだろう。
 ドームのような小さな入口を入ると切符売場がある。四、五人並んでいる。千三百円なり。すぐにドアがあり、《いらっしゃいませ。駐車場あります》の貼紙。押して入ると黒いカーテン。くぐる。
 すでにショーの真っ最中だ。人いきれがすごい。仕事帰りのサラリーマンでいまが客入りのピークのようだ。ワァ、ワァという歓声が聞こえる。八割程度の入り。スポットライトの当たる巨大な赤い円盤を三十脚くらいの二列のスツールが取り囲み、股を広げながら尻と掌で回周する中年の踊り子に、三人、四人の男どもが神妙にかぶりつく。厚化粧で長い付け睫毛の女が、彼らの頭部を愛しそうな目で見下ろす。胸にきた。女が見られることを喜んでいる。彼らの後方、私のいる入口付近まで、映画館に似た十脚五列の背つき椅子が並んでいる。最後部の座席の一つに座る。次に現れた年増と若い女のカップルが、ナンシー・シナトラの『にくい貴方』に合わせてダンスをし、何やら寸劇をする。そして踊りが終わるとやはり、円座の縁に沿って股間を見せていく。
 五分ほどの休憩。とつぜん場内が暗転し、舞台にスポットライトが当たる。北欧系かロシア系の真っ白な肌の金髪娘が二人登場する。二十代の後半。ただの美人ではない。肉体もはち切れそうだ。客席がそれまでとはちがったテンションで盛り上がる。女二人はほぼ全透明の薄いショールを脱ぎ捨てる。大きさも形も張りもみごとな乳房だ。節子、カズちゃん、睦子、イネ、優子に引けをとらない。しかし吉永先生には敵わない。陰部は剃ってあるのか、雅子や金原のように無毛だ。ブルンブルンと胸を揺すって最前列の客たちに披露していく。ふと女たちの目尻と頬の皺に気づいた。罪のない痴態を披露すること数分、とつぜんパフォーマンスが終わり、白い背広に赤い蝶ネクタイをした司会者が壇上に登場する。
「えー、みなさま、ご来場、ありがとうございます。いつもご贔屓にしていただき、まことにありがとうございます。ではいまから、みなさまお待ちかねの、濃密なひととき。いかがですか、いかがですか!」
 声を張り上げた。舞台上にマットが敷かれる。それまでのヌードショートは一転した状況だ。客たちがいっせいに手を挙げる。その数二、三十人。中年、老年、若者。
「では、始めまーす!」
 応募者が壇上に登り、ジャンケンを始める。数分の激戦の結果、勝利を得たのは、いかにももてなさそうな学生服だった。
 ―どうなるのだろう。
「にいちゃーん!」
「がんばれェ!」
 彼ははにかみ笑いを浮かべた。左右の金髪娘を見て、思わず視線を逸らす。金髪たちは商売っ気たっぷりの笑顔を見せた。学生服をまさぐり、慣れた様子で服を脱がす。全裸になった彼をマットに寝かせる。学生は陰部を手で覆っている。
「ジュンビ、ネ」
 一人の女が言い、学生の手をよけると、包茎を剥き、アルコールを含ませたガーゼらしき布で彼のものを拭いていく。そうしているうちに彼は十全に勃起した。亀頭が小さく(よしのりよりは大きい)、平均よりわずかに長い。音楽が流れる。マジックショーでよく聞くあの、チャラララララーというやつだ。もう一人の女が舞台の裾で尻を突き出し、無毛の陰部をかぶりつきの客たち見せびらかす。小陰唇に色がないのか、私の席からはのっぺらぼうに見える。客たちは感嘆の声を洩らし、拍手する。ガーゼを使った女は学生に寄り添い、陰茎にコンドームをかぶせて尺八をする。彼女は濡れていないのだ。
「エロー!」
「羨ましい!」
「気持ちええかァ!」
 歓声と雄叫び。私は笑いをこらえるのに苦労する。娘は学生の股間から口を離すと、それにそっと跨った。
「そりゃ!」
「入ったァ!」
 場内に声援が響く。間髪を置かず金髪女は、オオ、オオオオ、と大げさにあえぐ。これはおよそ交情とは言えない。もう一人の女が跨っている女と唇を合わせる。歓声が最高潮になる。時間にして一分強。学生は意外な早さで終焉を迎えた。
「なんだ!」
「早えな!」
「早漏にいちゃん!」
「もっとがんばれや!」
 そしてなぜか拍手。二人の女は舞台の奥のカーテンへそそくさと引き揚げた。場内アナウンス。
「これで本日の第三部公演はすべて終わりました。えー、ただいまショーに出演いたしましたイリーナとルースお二人は、別室にて特別サービスをご提供いたします。えー、みなさま、ぜひとも、ぜひとも、美女を間近で味わってくださいませ。ぜひ、ぜひ、ご利用ください!」
 客の数人がいっせいに席を立ち、数枚の千円札を手に行儀よく壁ぎわに並んだ。これがいつもの一連の流れなのだろう。空しさは襲ってこない。本能の充足に非合法も合法もない。生理的な反応が完遂できればいい。しかし、それは人恋しさを満たす行為ではない。恋し合う人間同士の営みはたがいに独自のものだ。恋する相手をなつかしむレベルが一人ひとりちがうからだ。
 他人の(生理的に)一律な充足行為を見ても、まったく興奮しないということをしみじみ知った。学生を声援していた観客のほとんどもそのようだった。一度入店すれば何時間でも居座れる決まりなのに、休憩時間のあいだに帰っていく客のほうが圧倒的に多かった。
 則武に歩いて帰りついて、ドッと一日の疲れが出、早々と蒲団に入った。七時を回ったばかりだ。眠気がすぐにやってきた。やがて北村席から帰った二人は、二階の寝室の襖を開けて覗き、寝こんでいる私を見て起こすのを遠慮したようだった。

         
         百九十五

 七月三日水曜日。ぴったり七時半、部屋の暑さで目覚めた。腕時計は二十・七度。暑くない。それなのに寝汗をかいている。十二時間以上熟睡した。もの心ついて以来の記録かもしれない。
 カーテンを開けると、すばらしい快晴。芝生から蒸気が立ち上っている。まちがいなく三十度になる。ジャージを着て、歯を磨き、洗顔。侘びしい音を立てて電気ヒゲ剃り。キッチンに降りていく。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「よく寝たわね!」
 カズちゃんとメイ子の笑顔を見て、快適な一日が始まると感じる。たとえ暗く湿った気持ちでいても、生きていれば思いがけなく晴れ上がる一瞬が訪れる。片手腕立てを二十回やりおおせたとき、もう少し素振りをしようかと悩むとき、芯を食った打球の行方を探しながら一塁へ走り出すとき、監督や仲間と抱き合うとき、愛する女のオーガズムに合わせて射精するとき、蛍光灯の紐を引いて眠りにつくとき―。
 排便とシャワーはランニングのあとに回す。
「きのう、ごはん食べなかったのね」
 それで便意がなかったとわかった。
「うん、タマポン味噌汁一杯、ハム二切れ。七時ぐらいに寝ちゃった」
「キョウちゃんの気まぐれがわかってるから、おとうさんたちは驚かなかったけど、さびしい夕食だったわよ。直人は、おとうちゃん、おとうちゃんて言うし。みんなには寝貯めしてるのよって言っといた」
 めしを盛る。食卓が満艦飾だ。玉子スープ、サトイモの煮つけ、ミートソース、レタスとキュウリのサラダ。中心にステーキが置いてある。サトイモに齧りつく。
 女二人は食卓で顔にパフをはたいた。美しい顔を醜くするための余計な努力をしている。美しさを主張する真正な努力をしなくてはいけない。いや、その努力はふだんしっかりやっているので、人目を安堵させるためのカモフラージュをしているのかもしれない。
「きれいなのにどうして?」
「女の身だしなみなのよ。きれいだからといって、お化粧しないわけにはいかないの。特にお仕事をしてるときにはね」
「私たちなんかこれでしないほうなんですよ。お嬢さんが素顔に近いから、みんなまねしてます。とても清潔な感じ」
「私的自己意識を満足させる化粧よ」
「私的自己意識? 難しいことを言い出したね」
「人目を気にしてとか、自分以上に美しく見せたくてとか、流行の水準に近づきたくてとかいう理由で行動するのを公的自己意識と言うの。つまり、他人に見せるために外面を飾ろうとする意識。それと反対に、自分の価値観など内面的なものを重視するのを私的自己意識と言うの。そういう人は素顔で外出したり、ふだんとまったく変わらないくらい薄く化粧したりするのよ」
「なるほど。ちょっとこっち向いて。……ほんとだ、薄いピンクの口紅以外ぜんぜん変わらない」
 二人は上機嫌で出かけていった。すぐに菅野の声。
「いきますよう!」
「ほーい!」
 自転車に乗ってきている。北村席まで自転車を取りにいくのが面倒なので、芝庭の物置からカズちゃんの前籠つき自転車を牽き出して、サドルを高くする。
「大鳥居から中村高校を通って、庄内川までいきます。そこでバットを振ったりしましょう」
 麦藁帽子の紐をアゴで結んで、バットを担ぐ。
「ピエロっぽいですよ」
「きつい陽射しは煩わしいからね」
 大鳥居まで一気に走り、交差点からふた筋先の道を曲がって中村公園へ。牧野公園の何倍もあるような広々とした空間。主人たちと花見にきたときに見物した名古屋競輪場に突き当たる。入場門に人がたかっている。菅野の後ろに従ってくねくね走り抜ける。麦藁帽子が暑い。まぶたに汗が流れ落ちる。陽射しの煩わしさより暑さに負けて、帽子を脱いだ。前籠に押しこむ。涼しい風が顔に当たる。
「カイケイ座でマナ板ショーを見てきました。金髪ショー」
「つまらなかったでしょう」
「はい、深く思うところはありませんでした」
「私も一度いきましたが、侘びしく感じましたよ」
 景色が寂れてきた。民家、空地、アパート、空地、民家、倉庫。とつぜん視界が拡がり、青空の下に二階建ての大きい建物が見えてきた。
「あれです。トモヨ奥さんの母校、キッコのかよっている中村高校」
 青森高校に倍する長大な校舎と広々としたグランド。正門に回る。周囲の家々の景観が日赤の門前からの眺めとよく似ている。門からグランドを覗きこむ。駐車場、駐輪場、主だった校舎、付属の校舎。一帯すべて中村高校だ。
 生垣沿いに自転車を走らせる。青森高校の倍ではない、三倍ある。西高の五倍ある。こんな巨大な高校を初めて見た。生垣の周囲の建物を囲む景色は閑散とし、空地やアパートのあいだに、閉鎖された大工場や、崩れ落ちて年月を経たような錆びついた廃屋もある。正門から覗く以外は、背の高い生垣のせいで学校の全容が見通せない。
 自転車を庄内川に向ける。早い午前なので通りに人がいない。岩塚近辺に似た景色の中に、緑の土手の斜面が迫った。土手への登り道を探しながら走る。延々と走ったが、ついに登り道がないとわかり、細道をたどって幹線道路に出、もう一度庄内川を目指す。
 民家の群れを跨ぐ長大な陸橋に出た。豊公橋。渡る。庄内川の氾濫原が百メートルもつづき、ようやく川の姿に巡り会う。渡り終えてまた道なりに三百メートル近い氾濫原を走り、もう一本の川にぶつかる。
「新川です。萓津(かやつ)橋」
 自転車を停め、見渡す。川と、幅広い草の岸と、空。
「自転車でたった三、四十分で、大都会から石器時代へやってきた」
 引き返す。豊公橋のたもとから流野に沿って平行に自転車を走らせながら、下の野球場やテニスコートを眺める。原始的すぎて景色に温か味がない。
「戻りましょうか。野球場へ下っていく道もわからない。素振りは取り止め」
「ですね」
 中村高校へ引き返す。いい運動をした。きょうはもうこれでじゅうぶん。
 鳥居通りを走って大鳥居へ。左折して太閤通を進み、さらに大門の市電停留所を左折する。《祭・大門》のアーチから大門通りを眺める。アーチをくぐり、直進する。風俗店はなく、ごくふつうの下町の商店街の風情だ。右折して一本目の小路に入る。節子母子が暮らしていた葵荘はもうなかった。代わりに瀟洒な民家が建っている。
「このあたりは名楽町です」
 大門通りに戻り、北へ直進する。賑町、羽衣町、大門町、かつての妓楼をそのまま使っている八百屋がある。寿町、辻の右手に長寿庵。壁面に、行灯のもとで煙管を手に読書する美人画。
「大正十二年に中村遊郭ができたころからつづく貴重な妓楼建築です。木造建築の粋を結集してます。名古屋市の都市景観重要建築物に指定されてます」
 一階の連子格子窓、二階の高欄を見つめる。窓だらけの建物だ。
 日吉町までいかずに、名楽町の辻へ引き返す。左折すると、町並に飲み屋が雑じりだす。大門小路。黒茶のブチ猫がいたので呼びかけると、人なつこく鳴いた。怪しい中村観音白王寺。への字形の屋根を載せた玄関。屋根の左右に接した真四角なコンクリートの建物が見るからに異様だ。道沿いに、南無十一面観世音菩薩と白く染め抜いた赤い幟が何十本も立ち並んでいる。
「ここは娼妓たちの無縁仏の寺です。この寺の本堂に高さ八メートル、重さ十五トンの十一面観世音菩薩が祀ってありますが、笹島のそばの米野(こめの)の火葬場に放置されていた無縁の遺骨を供養するために、昭和四年に建立された骨仏(こつぼとけ)です。遺骨を粘土のように練り固めて作ったんです。音頭をとったのは初代住職鬼頭旦舟、デザインはフランス帰りの仏師花井探嶺」
「悲しいなあ……」
 骨仏―悲しくてそのひとこと以外に言葉が出なかった。
「女というものは、好きでもない男に抱かれるのは死ぬほどつらいことなんです。金髪ショーの外人も同じですよ。貧しい国から出稼ぎか何かで出てきて、やむなく見つけた仕事でしょう。トルコ嬢に似てます。もっと悲しい話をします。……中村遊郭を作るためにたくさんの土砂を掘ったので、遊郭の西どなりに遊里ヶ池というのができました。夏はボートや釣りなんかで賑わい、中村周辺の人たちの憩いの場でした。遊郭名物の花火もその池から打ち上げられました。池の真ん中には半島が伸びていて、弁天寺が建てられました」
「悲しい話って……自殺―」
「はい。遊里ヶ池に身投げする娼妓たちがひきも切らなかったんです。自殺した娼妓の霊を慰めるためと、自殺防止のために、琵琶湖の竹生(ちくぶ)島から弁財天を迎えて建立されました。いまは池は埋め立てられて、中村日赤になってます。日赤の敷地内にはいまも弁財天の祠があります」
「へえ……」
 陽射しが猛烈に強くなってきた。もう一度麦藁帽子をかぶる。
「きょうの試合、ナイターじゃなかったら地獄ですよ。早く帰って涼みましょう」
 若宮町。成人映画専門の中村映劇。しもた屋ふうの映画館だ。
「名古屋市内でいちばん古い映画館です。大須で古いのは三十八年に閉館した港座ですね。昭和三十年ごろ『尼寺変態愛戯史』という映画を上映して、袈裟を着た尼僧団体が抗議に詰めかけたことがあります。私、偶然その日、乗務の合間にサボってその映画を観てましてね、騒がしいので入口にいってみたら、くりくり坊主の尼さんたちが大声を上げているので驚きました」
「ハハハハ」
 辻にきては道なりに直進し、直進してはT字路に突き当たり、突き当たっては右か左に曲がる。楽しい。環状線に出た。道を渡るのが苦労なので、中村区役所を正面に見て右折する。バットがじゃまだ。担ぐ肩を換える。太閤通に出る。市電が走っている。毎度のことうれしい。竹橋町を左折。遠目にアヤメの屋根が見える。三人ほどの大工が金槌をふるっている。牧野公園。帰ってきた。
「いやあ、自転車で往復一時間半か」
「はい。いままでで最長でしたね。ランニングだったらたいへんでした」
 数寄屋門脇のガレージに自転車を停め、玄関まで二人で走る。
「ただいまあ! シャワー!」
 居間に着物姿の文江さんがいて、主人夫婦やトモヨさんと話をしていた。
「キョウちゃん、お帰りなさい!」
「文江さん相変わらずきれいだね」
「ありがと。毎日展で入賞したんよ。詩文書部。その報告。これから新幹線で東京いって、賞状を受けてくる」
「おめでとう! ちょっと待ってて、シャワー」
 廊下にジャージを脱ぎ落としながら、菅野と風呂場へいく。脱ぎ落としたあとからイネが拾い上げる。
「菅野さんの下着とジャージも用意しておくすけ。ミズノのジャージ」
「サンキュー。脱いだのはビニール袋に入れといて」
「はい」
「菅野さん、身長は?」
「百七十四。これでけっこうあるんですよ」
「じゃ、ミズノでもだいじょうぶだな」
 頭とからだを水しぶきで冷やしながら、
「文江さんはえらいね。精進して、どんどん階段を上っていく」
「神無月さんを身近に見てたら、だれでも張り切りますよ。私みたいな石ころ野郎だって、いつのまにか努力家になりましたからね。がんばらないと、生きてる気がしない」
「並でない褒め方だね。菅野さん、好きだよ」
「照れます」


         百九十六

 下着を替え、枇杷酒でうがい。菅野も倣う。ジャージを着て居間に戻る。ソテツがコーヒーを出す。美しい文江さんの顔を見つめ、 
「どんな詩?」
「キョウちゃんの詩。キクエさんから借りたノートから写したんよ。―きょうも光のなかにいる、きょうも一つの夜を越えて、光のなかに生きている。泣きながら何度も書いたわ」
 トモヨさんが、
「悲しい詩―。でも、希望と、安らぎがありますね」
「ありがとう、ぼくの詩を……。初めてノートから抜け出して人の目に触れたね」
「あんなええ詩、ノートにとっとくのはもったいないがね。神無月郷というのはあの有名な野球選手かって電話で訊かれたから、そうですって答えたら、審査員の人が目剥いとったわ」
 女将が、
「お昼、食べてってよ。向こういったら食べとる暇ないんやろ」
「はい、じゃ、そうさせてもらうわ。夕食会があるんやけど、それを食べたらホテルに泊まらんと帰ってくる」
「泊まってくればええがね」
「あかんあかん、修業の時間が少のうなる」
「えらいね、お師匠さんは」
 座敷に昼前のテレビが点いた。正午に近い時間帯はほとんどのチャンネルで五分程度のスポーツニュースをやっている。百号にあと八本という私の話題ばかりだ。みんな食い入るように見つめている。星野秀孝の勇姿が大器登場というテロップといっしょにチラリと流れたりして、とにかく世間のスポーツメディアは中日ドラゴンズ一色だ。
 キッコと百江がアイリスの第一陣で帰ってきて、昼食のテーブルに交じる。チキンカレー、ひやむぎ、グリーンサラダ。ソテツと幣原とイネがテキパキ動いている。百江が、
「お嬢さんと素子さん、それからメイ子さんと丸さんは、アヤメを見てからくるそうです」
 文江さんの話題になる。すごい、すごいとみんなに肩を叩かれる。天童が、
「入賞したらどうなるんですか」
「入選でなく入賞したら、毎日展の会員になれるんよ。入選は十回せんとなれん。会員になると、胸張って書道家とか書家とか言えるんです。書家になると、毎日展や読売展とは別格の日展に出品できます。名刺に、書家、書道師範と書けるんよ。段位の国家認定はないんで、八段から十段まで好きな段位を名乗ればええの。私は八段にします」
 キッコが、
「審査って、どういうところを見るん?」
「黒の迫力、線のキレ、白の存在感」
「難しそうやね。上手ゆうのともちがうようや。とにかく、文江さんすごいわ」
 座敷から中庭を見ると、一家の洗濯物がズラリと物干しに並んでいる。裏庭にはトルコ嬢たちの洗濯物が並んでいるだろう。陽がギラギラ降ってくる。梅雨の間のとんでもない晴天だ。
 早めしを終え、強い陽射しの芝庭で一升瓶をやった。これくらいなら激しい筋トレにならない。実感からすると、たぶん私は関節が弱い。生まれながらの体質のようだ。手首と肘と肩は、遠投と腕立てで骨周りの筋肉を強化する以外に方法がない。藤波トレーナーが保証したように私の筋肉には素質がある。しかし、腕全体の筋肉も鍛える腕立てはよしとして、肘と関節を酷使する遠投のやりすぎは危険だ。三種の神器と、一升瓶と、ダンベルと、ジム器機で筋肉を鍛えて関節を護るしかない。
 第二陣のカズちゃんたちが庭石伝いに帰ってきた。
「アヤメどうだった?」
「急ピッチで進んでるわ。きょうは九人も大工さんが入ってた。さすが棟梁、天気がいいとなったらどんどんやっつけちゃうのね」
 素子と丸が玄関に戻る私に並びかける。一升瓶をぶら提げ、いっしょに土間に入る。素子が、
「きょうは千佳ちゃんが中日球場。六日はムッちゃん。私とお姉さんは十五日からの大洋戦。千佳ちゃんもムッちゃんも一塁の内野指定席で観るらしいわ」
 カズちゃんが、
「私たちもそうしましょ。アイリスの子たちを一人ひとり、バックネット裏で観戦させてあげたいから」
「ベンチの上やとキョウちゃんがすぐそばに見えるで、そのほうがええわ」
 座敷に入り、食事を終えかけている文江さんを見て、
「あら、文江さん、こんにちは」
 キッコが話を繰り返す。
「そう! おめでとう。これで文江さん、押しも押されもしない書道家ね。日展の入賞というのもあるの?」
「あります。でも全国の選りすぐりの人たちばかりですから、それはしばらく無理やろね」
「とにかく、入賞でもいいから常連でがんばってね」
「はい」
 主人が新聞を広げ、
「神無月封じは内角攻め、と書かれとりますよ。バッテリーの作戦が序盤とは変わってきたって。十一日のアトムズ最終戦で、松岡が二本センターフライに打ち取ったのが内角低目のスライダーやったらしいです。これまで外角中心に攻めて、けっきょくやられていたので、内角中心に変えた、内角は神無月の得意コースなので勝算は少ないが、薄氷を踏む思いで微妙に動くボールを投げこむしかない、か」
 菅野が、
「神無月さんの内角打ちは、ずば抜けた才能ですからね。強打者だからこその内角攻めでしょう。内角の針の穴のようなコースで、打ち損なってくれるのを期待するしかないわけです」
「打ち損なう確率が高いのは、コース関係なく、高目なんだけど、まだ見抜かれてないみたいだね」
 文江さんが、
「そろそろ、いってきます。じゃ、キョウちゃん、がんばって」
「うん、いってらっしゃい」
 みんなで、
「いってらっしゃい!」
 主人夫婦とトモヨさんが門まで見送りに出た。
         †
 菅野といっしょに保育所から帰った直人を足もとにまとわりつかせながら、居間で黒の半袖アンダーシャツを着た。ホーム用のユニフォームを着こみ、水屋の抽斗からお守りを出して尻ポケットに入れる。中日球場用の革のダッフルを開け、グローブとスパイク、帽子、バスタオル、小タオル、眼鏡ケースを確認し、ソテツの焼肉弁当を納める。
 江藤に電話を入れて半袖の件を伝えた。彼もノースリーブをやめて半袖に戻すと応える。
「ワシはもともと恥ずかしかったけん、そのほうがよかったばい。タコと菱にも言っとくけん」
 二時半。運動靴を履き、玄関を出る。トモヨさんに抱かれた直人の額にキスをする。女将を中に家の女たちが見送る。千佳子と睦子は授業に出ているのでいない。
「いってらっしゃいませ!」
 賄いたちがいっせいに辞儀をする。新車の赤いマークⅡで出発。アイリスのウェイター一人を店前で拾う。挨拶をして私の隣に乗りこんだあとは、まったく口を利かない。緊張しているふうではない。助手席の主人も口を利かない。
「名前は?」
「××です」
「野球は好き?」
「ラグビーのほうが……」
「どんな野球選手を知ってる?」
「長嶋、王、金田、江夏」
「稲尾、中西、尾崎、山内は?」
「聞き覚えがありますけど……あまり野球は観ないので」
「じゃ、きょうはどうして?」
「順番が回ってきたもので」
 店の者を無差別に球場へ連れていくのはあまりいいアイデアではないようだ。駐車場で車から降りるとき、隙を見て菅野に言った。
「親切がアダになってます。彼らは気詰まりなんですよ。野球に興味がないから。そうなるとぼくも気詰まりだ。試合開始前の気分が沈んでしまう。きちんとリクエストをとって北村席の人たちを連れていきましょう。そのほうが、いきも帰りも楽しい」
「そうしますか。私も運転しづらいし」
「カズちゃんに、よく……」
「了解」
 ウワーッとファンに取り巻かれる。
「試合開始まで関係者としてベンチから練習を見ててください」
 主人が、
「それはいかん。グランドは神聖な職場や。ワシらはスタンドにおればええ。適当に食い物を調達して、開門時間にちゃんと入ります」
 アイリスの店員は相変わらず無言だ。押し寄せる人波に眉をしかめて、車から降りずに座席の奥へいざった。私は彼の機嫌をとる気もなく、トランクからダッフルを出して担ぎ、主人と菅野に手を振って選手専用ゲートに向かった。とたんにサッと警備員や松葉会の男たちに囲まれる。
 ロッカールームにすでにコーチや選手たちが賑やかにつどっていた。長椅子に腰かけてしゃべり、用具テーブルの横に立ってしゃべり、鏡の前でバットを構えながらしゃべり、ロッカーの前でユニフォームに着替えながらしゃべっている。
 監督と宇野ヘッドコーチは監督室にいる。受話器を置いた机一つ、ソファ二脚、テレビ一台、壁に時計、天知監督優勝時の記念写真、スケジュールを書いた黒板、その横に小型冷蔵庫。統率者の孤独がにおう物さびしい部屋だ。浜野の件があったころ一度、二人にこの部屋に呼ばれて、日本のプロ野球にとって私がいかに大切な存在であるか、ドラゴンズチーム全員にとっていかに精神的な励みになっているか、今回のことで気を悪くせずに、どうかドラゴンズの、ひいては球界の象徴として末永く輝いてほしい、と懇々と言われたことがある。
「オス、金太郎さん」
「グッドアフタヌーン、金太郎」
「神無月さん、こんちわす」
 長椅子に腰を下ろし、運動靴をスパイクに履き替える。太く平たい紐を蝶々結びで固く締め、スパイクの甲の余り皮をかぶせる。ユニフォームのズボンの裾をストッキングの切れこみアーチの上端に合わせる。大切な身だしなみだ。このためにズボンの裾にはゴムが入っているし、ストッキングの上端にも平たいゴムが入っている。
 革ベルトを締め直す。帽子を深くかぶる。グローブと新しいバットを二本持ってベンチに入る。ベンチ気温三十・五度。空のケージの後ろで水原監督と宇野ヘッドコーチが細かい石を拾うような格好で土を手に取り、きのうの雨の影響を見ている。
「監督、コーチ、こんにちは!」
「よ、金太郎さん、こんにちは。調子は?」
「上々です。ピッチャーは外木場ですね」
「まちがいなくね」
 宇野ヘッドが、
「きょうは三本ぐらい、いく?」
「四、五本」
「よっしゃ! きょうも全打席いくつもりなら安心。一本は確実だ。内角攻め、気をつけてね」
「はい。きょうの新聞ですね」
 試合前のバッティング練習は三時半から四時半まで。広島のバッティング練習を挟んで、五時半から守備練習十五分。広島の守備練習十五分。六時半試合開始。
 芝生へ走っていって寝そべる。カメラマンが何人も寄ってくる。私といっしょに寝そべってパチパチやる男がいる。
「あなた、明石からずっと見かける顔ですね」
「はあ、フリーの蒲原(かんばら)と申します。どうぞよろしく」
「四十歳くらいですか」
「ぴったりです。報道カメラマンを目指してこの世界に足を突っこんだんですが、新聞カメラマンからいつの間にかフリーランスになってしまいましてね。政界財界の写真を撮っていたつもりが、ふと気がつけばスポーツカメラマンとして最前線で取材してました。スポーツがとりわけ好きだったわけでもないんですがね。政治経済よりはすがすがしい世界ですから、気に入っちゃって。プロ野球と関わってからもう十四年になります。神無月さんには明石から貼りついてます。少年野球教室もいきましたよ」
「じゃ、あの暴漢のときも?」
「はい、ストロボを焚かずに撮りました。写真は中日スポーツに送りました」
「あの写真がそうだったんですか。写真を撮るのって、撮影環境や条件が整ってないことが多いのでたいへんでしょう」
「はあ、そのとおりでして、いつ終わるともわからない張りこみや、報道陣で揉みくちゃになりながら写真を撮るなんてのを何度も経験しました。あの事件の夜の報道陣ごった返しのときも、北村席の門前にいました。現場であるキャンプ先や、球場や、選手が生活する建物の近辺やらを廻り、直接間接に話を聞き、写真に撮る。巡業みたいに毎日日本全国を廻り、一年三百六十五日、練習、試合、事件、記録達成などで過ぎていきます。すがすがしいとは言え、地面を這い回るような仕事で、自分がこの仕事をこんなに長いあいだつづけてこられるなんて思ってもいませんでしたよ。神無月さんがドカンと現れて、ようやく報われました。すがすがしいなんてもんじゃない。神々しい出現、長くカメラをやってきた甲斐がありました。いつも神無月さんが動く現場にいたいと思ってます」





(次へ)