二百 

 からだを隅々まで拭いてもらい、下着とジャージをさっぱりと着こんで、居間にいく。トモヨさんは百江に電話をし、コーヒーをいれる。
「すぐきますよ。コーヒーを飲んだらお客部屋で休んでらっしゃい。あしたはゆっくり起きて、用具のお手入れでもしながらノンビリして」
「うん、十一時からランニングだ」
「お帽子、クリーニングに出しておきます。新しい帽子はでき上がってきてます」
「新しいタオルといっしょにダッフルに入れといて」
 縁側にいって腰を下ろす。ラグビーボールを立てたような月が出ている。
「あら、いらっしゃい、文江さん」
 着物姿の文江さんとスカート姿の百江が座敷に入ってきた。文江さんが、
「百ちゃんが誘ってくれたんよ、疲れとらんかったらおいでって。お腹すいてまった。ホテルで食べてこんかったで。百ちゃんは?」
「そういえば、すいてます」
 女二人で顔を見合わせて笑う。トモヨさんが、
「冷やし中華作ります。みなさんで食べてください」
 百江が、
「私もお手伝いします」
 百江はスカートを脱ぎシュミーズ姿になって厨房にいった。文江さんも着物と白襦袢を脱いで畳むと脇へどけ、腰巻だけの姿で百江のあとを追う。
 やがて、黄色い麺の冷やし中華が出てくる。ハムではなくチャーシュー、千切りキュウリ、半月切りトマト、刻みレタス、千切り卵焼きが載っている。
「じゃ、私はこれで休ませていただきます。お客部屋にお床をとっておきますから、食事をしてからゆっくりお休みください」
「トモヨさん、ありがと。ごめんね、きついからだを使わして」
「奥さま、あしたの朝はお手伝いしてからアイリスに出ますので、直ちゃんといっしょにゆっくり起きてきてください」
「ありがとう。からだ具合にまかせます。お休みなさい」
「お休みなさい」
 三人で深夜の食卓につく。文江さんが、
「一本目から三本目のホームランは見られんかったけど、最後の四本目は家のテレビで見たわ。ワンストライク、ワンボールからの三球目、内角に曲がってくるカーブ、真ん中低目。カキン! ギューン。だれも動かん。ライトスタンド中段へグサリ。いつ見ても気持ちええね、キョウちゃんのホームランは」
「詳しくなったねェ! 野球」
「そりゃ、キョウちゃんの女やもの」
 百江が拍手する。
「文江さん、すごーい!」
「えへん」
「ピッチャーはだれだった?」
「さあ、わからん。眉毛の太い人やった」
「安仁屋と言うんだ。初の沖縄出身のプロ」
「ふうん、そうなん」
 女二人で楽しそうに笑う。皿の縁に塗ったカラシをタレに溶かしこみながら麺をすする。美味。
「キャッチャー田中の代打に宮川が出て、そのあとでキャッチャーに入った久保という選手は知ってる?」
「さあ、さっぱり。だれがいつ交代しとるのかもわからん」
「久保祥次、広島大学出身、七年目、田中の控え捕手、百七十五センチ、七十八キロ、肥り気味。去年、外木場が完全試合をしたときのキャッチャーだよ」
「がんばって覚えるわ」
 百江が、
「無理ですよ。書道で忙しい身なんですよ。神無月さんたら、野球ファンはみんな、旦那さんや菅野さんみたいな野球通だと思ってるんですから」
「ごめん、ごめん。ついうれしくなっちゃって」
 カラシの混じった酢っぱみがなんとも言えずうまい。たちまち平らげた。文江さんたちも小盛りの麺を平らげる。
「ああ、人心地ついた。ナイターは腹がへる。遠征先でもみんなナイターのあとはもりもり食う。特別に深夜までバイキングをやってくれるホテルもある。人心地ついたら……」
 二人で恥ずかしそうにうつむいた。流しへ皿を片づけにいき、しばらく洗い物をする。
「百ちゃん、ありがとね」
「いいえ、五十女のあちらの具合はよくわかりますから。どんなに口で遠慮したようなことを言っても、毎日でもしてほしいくらいですから」
 などと話し合っている。やがて二人にこにこやってきて、それぞれスカートと着物を拾い上げる。文江さんを先頭に三人で客部屋へいく。目の前の百江の尻をなぜる。ビクッとするが文江さんに気兼ねして声を出さない。
 二組の蒲団に清潔なシーツが敷いてあった。トモヨさんの心映えだ。文江さんは腰巻を取って横たわり、脚を広げた。百江もシュミーズを脱ぎ、ブラジャーを外し、パンティを脱いで脚を広げる。文江さんが覗きこむ。
「あら、百ちゃん興奮したのね、オマメちゃんが大きなって、ピクピク動いとる。キョウちゃん、舐めたげて。イッたら私もね」
 少し舐め上げただけで陰核が姿をぜんぶ現した。わずかに動いている。唇に挟み、舌でいじる。大きいので舌に転がしやすい。
「あああ、もう、イキます!」
 するどい快感だったのか、勢いよく愛液を飛ばした。
「キョウちゃんが女のからだに飽きないのがようわかるわ。お汁は出すわ、締めるわ、ブルブルするわ、よがり声は出すわ。楽しくてしょうがないやろ。私もそういうからだなのがうれしい」
「男は出すだけだからつまらない」
「でも、そのあいだにたくさん仕事をしてくれるから、女はありがたいわ。じゃ、今度は私を舐めてイクのを楽しんでね」
 百江と同じ手順で舐める。文江さんのクリトリスは少し皮の奥にあるので、舌先で押してふくらませる。出てきた。周囲を舐め、小陰唇を含み、最後に舌で硬いクリトリスを押し回す。
「も、あかん、あああ、キョウちゃん、愛しとる!」
 腹をなぜ、痙攣を宥める。文江さんは膣が達したときしか愛液を飛ばさない。百江に挿入する。
「ああ、神無月さん、愛してます、明石で最初に遇ったときからずっと、ずっと、愛してます、あああ、気持ちいいい! もうイキます、イク!」
 抜いて文江さんに入れる。
「も、あかん、すぐイッてまう、キョウちゃん、イクよ、イク、イク!」
 とつぜん迫った。乳房を強く握ると、
「お乳恋しいんやね、握って、強う握って! ううん、イク、ああ、キョウちゃん、イクんやね、いっしょに、イクイク、イク!」
 文江さんは愛液を発射し、跳ね上がった。私は射精しないようにゆっくり抜いて、百江に挿入した。
「神無月さん! 好き、好き好き、あああ、気持ちいい!」
 百江の高潮に合わせて射精する。襞が掌のように陰茎の腹をこそぐ。まかせて搾り取らせる。文江さんが丸くなって動かない。喪心している。百江の反応が止み静かになる。安堵して引き抜く。二人のあいだに横たわり目をつぶる。気を戻した文江さんが私の胴を抱き締め、
「いつも、いちばん最初にしたときを思い出して泣きたなる」
 百江の乳房を握った。肥り肉(じし)の彼女の胸は文江さんに劣らず豊かだ。
「タオルを絞って持ってくる」
 文江さんはそう言って客部屋の隅の洗面所へいった。タオルを絞りながら背中で百江に語りかける。
「聖書を勉強しとる同志社の子、学費足りとる?」
「だいじょうぶです。じゅうぶん仕送りしてます。アルバイトもやめて、まじめに学問をしてるようです。何の心配もいりません」
「ほかにも何人かおるんでしょう?」
「はい、その子たちはもう自立してます」
「遊びにはこんの?」
「先ごろまではときどき椿町の家に訪ねてきてたんですけど、置屋の賄いをしてると言ったら、もうすっかり……。手紙はたまにくれますけど」
「置屋というだけでそれなら、こういうことはぜったい知られたらあかんよ」
「はい、知られたら、かならず神無月さんにご迷惑がかかります。みんな頭が固くて口が軽い常識人ですから。男の子も宗教を学んでるとはいえ、根は常識人です。宗教って道徳を尊ぶという意味ではいちばん大きな常識でしょう?」
 文江さんが絞ったタオルを持ってきた。亀頭を含みながら、性器の付け根を丁寧に拭う。
「二人で好きなだけお汁かけてまったね」
「もう満足した?」
「はい、たっぷり。今夜は一回だけって決めとったの。一回でも何度もイッてまうわけやから、すぐに満腹になるんよ。二回目が楽しめないくらい年とったんやね。しょっちゅう気ィ失うようになってまったし。もう一回は百ちゃんとしてあげて」
 百江が文江さんの手を握り、
「文江さんは重い病気もしたし、書道の根詰め仕事もあるし、同じ五十歳でも疲れる度合いがちがうんですよ。私はだいじょうぶ。でも、神無月さんがどんなにすごい人でも、スーパーマンじゃないんですから、しっかり睡眠をとらなくちゃいけません。私たちの安心のためにもちゃんと寝てくださいね」
「うん、もう寝る。あしたの十時ぐらいまで、たっぷり寝る」
「そうしてください」
 私は二人の顔をじっと見つめ、
「二人ともあと三十年生きられるかどうかだね。自分が死んだあと、どうなるか気にならない?」
 文江さんが、
「銅像建てられようが、忘れられようが、どっちでもええわ」
「だれだって忘れられたくないんじゃないかな」
「人から忘れられんゆうんは、生きているあいだの幻やろうね。死ねば気にならん。だから生きとるうちに、うんと仕事に励んだり、おいしいもの食べたり、抱いてもらったりするんよ」
 百江は深くうなずき、文江さんの横顔に微笑みかけた。
「それじゃ私たち帰ります。ゆっくり寝てくださいね」
「したいときはいつでも言ってね。性欲ってとつぜん湧いてくるから」
 文江さんが、
「お言葉に甘えるわ。濡れてしょうもないときがあるから―」
 二人はゆっくり服を着、私に口づけをすると廊下へ出ていった。玄関の戸がカラリと開く音がした。
         †
 七月四日金曜日。八時半に目覚めると、客部屋のガラス障子の外の縁側に激しい雨。ひどく蒸す。二十・九度。カズちゃんたちの、いってきます、の声が聞こえる。直人のはしゃぎ声。
 雨天順延の調整戦が一つ終わり、もう一試合は、六日の阪神戦。きょうから二日のお休み。二日間とも雨だろう。
 ―二日間をどうすごそうか。
 風呂場の洗面台で、うがいをし、歯を磨き、居間に出ていくと、主人夫婦とトモヨさん母子、菅野、睦子と千佳子、金曜日が休みの丸信子がいる。女将は涼しげな一重の着物を着ている。菅野に、
「きょうは完全に無理ですね」
「無理です」
 主人が、
「大門へ出かけていく女もほとんどおらん。寮組の稼ぎどきやろう。きょうはお花の稽古の日ですわ。月曜は唄の稽古。どっちも八時から十時。ちょうどよかったわ」
「睦子たちは生花に出ないの?」
「私は月に一回の、万葉集特集のときだけ」
「私は着物を着るのが面倒だから、見学」
「書道は?」
 丸が、
「めいめいが決めた曜日に滝沢塾へいきます」
 千佳子が、
「私たちはいってません。文江さんがふた月に一度名大の書道部に教えにきたときは、部外特別参加させてもらってます」
 直人が膝に乗ってくる。彼のかわいい腹を抱え、あらためて居間を見回す。角火鉢以外じっくり見たことがない。左を見れば、神棚と大きな柱時計。右を見れば、水屋の上に大ぶりの羽子板、かつての記念の品だろう〈大門芸妓組合〉の提灯の列。さまざまな大きさのガラスケースには、裲襠(うちかけ)を着た種々の動物の人形、舞扇、鴨居には一家や寄食者やプロ野球選手たちの写真など。主人が、
「めずらしいですか? 旧宅には畳敷きの客席つきの舞台があったんですよ。いまのステージ部屋の位置に、二倍ほどの大きさでありました。芸妓たちの踊りや鳴り物の練習と発表の場所でした。昭和三十年代には、大門の芸者は二百人を超えとって、置屋、検番も四十軒を超えとった。北村も六人の内芸者を置いて繁盛しとった。いまは一人もおらん。花や唄の稽古ごとをやることで、心意気だけでも残しておかんとね」


         二百一

 ソテツに促されて私の膝を離れた直人が、睦子と千佳子の手で食事を与えられる。女将が、
「売防法ができるゆう話が持ち上がってから、だんだん曖昧屋みたいな商売に手を出すようになって、青線のまずい乾パンを齧っとった時期もある。北村席で居稼ぎだけはさせんかったけどな。それも三、四年やっただけのことで、揚屋に女を廻すだけのきれいな商売に戻ったわ」
 丸が、
「青線の三、四年がいちばんつらかった。いまは夢みたい」
「……和子が潔癖症だったのが大きかったな。根拠のないわがままでなかったでな。そこへ五年前の神無月さんや。決定打やった」
 菅野が食事を終えた直人に、
「直人、そろそろいくぞ」
「うん」
 トモヨさんが園児服を着せ、カバンを襷にかけて玄関に送り出す。私は彼を抱き上げ頬にキスをする。
「いじめられてないか」
「うん!」
「何でもおとうちゃんに言うんだぞ。おまえの望むように何とかしてやる」
「うん」
 車まで送っていき、もう一度頭を撫ぜた。事が起きたらかならず〈避難〉させようと決意している。戦ってもロクなことはない。
 座敷へ戻りテレビの仲間に入る。〈大臣訪米の日のできごと〉と銘打った短い特集ニュース番組。機動隊と、デモ隊と、周辺住民の様子が、不安げな音楽とともに映し出される。睦子と千佳子もテレビを観にくる。
「四千人の機動隊に護られた五月三十一日の東京羽田空港周辺。沖縄返還交渉のため、アメリカを訪れる愛知さん。外務大臣一人送り出すのもたいへんな苦労です。デモに慣れっこになったとは言え、やはり不安を隠せない住民。大臣出発前に空港突入を目指す半日共系学生千五百名。九時二十分、厳重な警備の中をバンザイの声に迎えられて、愛知外務大臣が到着しました。そのころ空港近くは異様な空気がみなぎっていました。この日だけで、蒲田駅前などで半日共系学生三百六十九名が逮捕されました。核抜き本土並みの基地では基地の機能が低下する、と力説するアメリカをどう説得するか。大臣は予定どおり午前十時、アメリカへ向かって出発しました。機動隊に蹴散らされた欲求不満の若者たち。夕刻、新宿駅西口の広場は学生たちで埋め尽くされました。それに加えて、ベ平連の若者たちによるフォークソングの集い(ウイ・シャル・オーバーカムが流れる)。たちまち広場の機能はマヒ。唄う人、そして野次馬、合わせて五千名を超えました。通行が止まり、不協和音のエスカレーション。異常なことがまったく日常化してしまった東京の日々です」
 唄ったり、通行人に理解不能の言葉で議論を吹きかけたりする同世代の男女たち(話題はお決まりの天皇制と安保とベトナム戦争のみ)、その傍らでシンナーを吸う長髪の男や女たち。
 これは何だ? 愛知さん、反日共系学生、核抜き本土並み。きょうも理解不能の言葉に襲われる。どうでもいい。球場の外の喧騒だ。千佳子が、
「横山さんが好みそうな集まりね」
 睦子が、
「国を心配してるふり」
 概要はわかった。
「憂国か。何を選ぶかでその人が決まる。国を憂うという大義は、彼らの甘露なんだろうね。ぼくは国を選ばない。野辺地から流れてきたぼくがそんな大義を持ちようがない。彼らはどこからきたの。国の恩恵を最大限に受ける階層なの。搾り取られてる人たちだろう。なんで搾取者を憂いてあげるの?」
 千佳子が、
「そういう理屈がわからない人たちなんでしょうね」
「理屈そのものをを考えたこともないんじゃないかしら」
「あ、九時半。ちょっとムッちゃんといっしょに河合塾にいってきます。名大で文江さんのイベントに出席した男子と女子が一人ずつ、滝澤書道塾に入会したいと言ってたので、きょう駅で会って河合塾に連れてってあげることになってるんです」
「ふうん。いってらっしゃい」
 菅野が保育所から帰ってきたのを潮におさんどんが始まり、みんなで遅い朝食にかかる。
         †
 十時を回った。どしゃ降りになった。腕時計の気温は二十一・六度。きのうより十度も低い。朝食の皿の片づいた北村席の食卓で、主人や菅野たちと歓談する。主人が、
「今朝和子に先日の××の話をしたら、たいして仕事もできんのに、よく店の従業員を差配したがる男らしくてな、ズル休みも多いんやそうや。仲間内でも評判が悪い。これまでそういう人間に苦しめられてきたキョウちゃんに追い討ちをかけるわけにはいかん、辞めてもらうて言っとった」
「それ、人権侵害じゃ……」
「休みが多ければちゃんとした解雇の理由になるそうや。三浪か四浪しとるそうで、大学受かったらこんなバイトは辞める、男のやる仕事じゃないといつも言っとるんやと」
 菅野が、
「けしからん男だな。どうも突っかかる感じがすると思った。クビ切りをごねたら、ちょっと蛯名さんに懲らしめてもらいましょうか」
「そこまでせんでもだいじょうぶや。ただのサボリ男やろ。ヤクザに辞めさせられたなんて警察にチクられたら、えらいことになる」
「たしかにね。あの手はほんとに始末が悪いですね」
「帰りぎわ、ちゃんとお辞儀したのに」
 私が言うと、
「世渡りはしっかりしとるんやな」
 主人は中日スポーツを開き『野村十二号、十三号』、『心機一転五番島谷一号』の記事を見る。
「島谷、やるやないか」
「巨人にいった浜野とは大ちがいですね。二カ月経ってゼロ勝ですよ」
「今年は中日で挙げた四勝で終わりやな。巨人はきのう堀内で阪神に勝った」
「完投で八勝目か。高橋一三が十一勝。巨人には高橋一三と堀内しかいないというのが最大の弱みですね」
「その二人も中日には勝てん」
 西京極球場、南海―阪急十二回戦、五対四で阪急は負けていたが、五番島谷は三打数三安打、四球一、打点一だった。心が安らいだ。彼はついに阪急に新天地を見出し、主力候補として名乗りを上げたのだ。もちろんドラゴンズの記事が紙面の中心だった。

 
超弩級軍団 
 三番一発・四番四発・五番一発・九番一発
 得点二十 チーム本塁打七本 二者連続二回

 まるでホームラン競争だった。中日対広島十五回戦は中日が一対二十で大勝、連勝記録を二十五に伸ばした。
 夜空に向かって七本のアーチが架かった。そのうちの六本を中日クリーンアップが架けた。一回の神無月・木俣、六回の江藤・神無月とつづく二度の二者連続アーチをハイライトに、四番神無月がスコアボード直撃を含む四発、三番江藤がレフトあわや場外の一発、五番木俣がレフト最上段に突き刺さる一発、九番ピッチャー小川までがレフト中段へ高々と放りこんだ。
 初回の神無月の華々しい号砲に騒然となったスタンドがようやく静まったのは、敗戦処理の白石が登板した七回になってからだった。白石はいつもとちがって昂ぶることもなく、淡々と二回を六人で抑えた。神無月はセカンドゴロだった。先発全員安打の十七安打二十得点の大勝に、水原監督は、
「ドラゴンズは若き将軍を中心にでき上がった軍隊そのものです。気力、規律ともに完全な軍隊です」
 と表情を緩めた。三十九本打ってホームランダービー堂々二位につけている江藤は、
「神無月くんは、あらゆる意味で最高の活性剤です。ライバルなんかではなく、野球でも、人間的にも、一方的に高めていただく存在。金太郎さんが打つたびに、涙が流れてくる。全力で生きている結果がホームランになっているとわかるからです。野球選手であるかぎり彼といっしょに野球をやりたいし、命あるかぎり彼といっしょに生きていきたい」 
 と涙ながらに語った。
 五十三勝目。憑かれたように勝ちつづける中日ドラゴンズ。小川、小野の肩にかかっていた重い荷物を下ろすべく、突如第二の天馬星野秀孝が舞い降り、いっそう強力になった超弩級軍団の驀進を、いつ、どのチームが止めるのか。弱冠二十歳の神人プレーヤー神無月郷―ナポレオンのごときこの快男児に率いられる昇竜に、いつか停滞という苦しみが訪れることはあるのだろうか。


 主人が何度もうなずきながら、
「江藤さんの気持ちは、チームみんなの気持ちやろ。胸が熱くなるわ。ワシらの気持ちでもあるからな」
「江藤さんがこんなことをインタビューでしゃべっていたとは……うれしいです」
 菅野が、
「さすが中日スポーツ、江藤さんの存在を押し出す書き方もじつにいいですね。―うまくいっているときはいい、しかしうまくいかなくなったときは、他人の行動や自分の行動すら疑い、チーム全体が疑心暗鬼のかたまりになってバラバラになる。濃人時代のように。そうなったとき果たしてドラゴンズは?―なんて書き方がふつうでしょう。そういう懸念を全面的に否定してます。勝負ですから、うまくいかなくなるときだってあります。そんなときもチームが空中分解しないで団結を保てるのは、神無月さんの人間性を核にして結束してるからだ、そういう信頼感にあふれた記事です」
 千佳子と睦子が河合塾から戻ってきた。睦子が、
「二人とも滝澤書道塾に入会しました。ついていってあげて入会を確認してきました。毎日展入賞が新聞に載って、たった一日で二十人も入会したんですって」
 女将が、
「二人とも、朝ごはん食べんと出かけたやろ」
「はい」
 トモヨさんとソテツたちが食卓の仕度をし、イネがおさんどんをする。
「二人、中日球場で四打席連続ホームラン、見たんだべ? 羨ましな」
 睦子が、
「いけなかったの、授業で。阪神戦はいくつもり」
 千佳子が、
「あさって阪神戦、いっしょにいって、一塁スタンドからしっかり見ましょうよ」
「いってこい。厨房からは一人ずつにするんやぞ」
 主人が言う。私は菅野に、
「しとしと雨になってきた。やっぱり、走ってきます」
「いきますか? じゃ、私も」
 二人フード付きのビニール合羽を着、小粒の雨の中をランニングに出た。
「あしたも雨だそうですよ」
「あしたはちゃんと中止にしましょう。きょうは堀川沿いを四、五キロ走ってみませんか。人けがないでしょうし」
「そうしますか。錦通を錦橋まで走って右折ですね。橋を渡って右折よりも、渡らずに右折したほうが、緑が多いです」
 コンコースから駅前へ出て信号を渡り、笹島交差点の一本手前の錦通へ左折する。七、八百メートルで錦橋到着。橋の西詰めを右折。アメリカフウの並木がつづく少しさびしげなビル街。道筋から堀川の姿は見えない。二百メートルほど走って納屋橋西交差点。市電に出会う。たもとに柳の枝がしだれている。
 広小路通の信号を渡って、そのまま堀川沿いに直進。ビルの谷間にひっそりと額縁店がある。高山額縁店。代を重ねてきたような古びた店だ。ときどき、申しわけに潅木を植えた空間がある。川に向かってベンチが用意されている。だれかが座ることがあるのだろうか。せっせと走る。天王崎橋。
「四、五キロなら、このあたりで引き返しどきです」
「オッケー。川が見たいから、いちいち欄干から覗きましょう」
「直接、川沿いを歩けますよ」
「いや、流れを見ればいいだけだから」
 天王崎橋、納屋橋、錦橋と覗いていく。下流に近い熱田区の大瀬子橋の下を流れる堀川がいかに雄大かわかった。雨に濡れた市電の姿が美しい。
「堀川の水源は庄内川ですか」
「そうです。伊勢湾から名古屋城まで掘削した運河へ、並行して流れていた庄内川の水を引いたんです。堀川はむかしは濁った川でしてね」
「はい、悪臭のウンコ川でした」
「それを清流にするために千年の下水処理場を作ったんです。オリンピックの年に完成して、処理した水を堀川へ放流したんですね。記念的な工事の現場に神無月さんはいたんですよ。それで堀川は二級河川に指定されました。翌年名城下水処理場が完成して、どんどん処理水の放流が増え、今年、堀川は一級河川に指定されました」
 柳がしだれている錦橋から、ナンキンハゼの並木に縁どられた錦通の大ビル街を走り戻っていく。濃い灰色の空。街路の気温は二十度もない。大きな交差点ごとの標識を呟きながら見る。西柳町、西柳公園東、西柳公園西。初めて聞く名前ばかりだ。
 空が広くなり、名鉄百貨店に突き当たる。左が笹島、右が名古屋駅。このあたりにくるとホッとする。胸が温かくなり、戻ってきたと感じる。雨が降りつづいている。


         二百二

 北村席に帰り着き、菅野とシャワーを浴びてから、トモヨさんの部屋に引きこもる。机に向かう。昼食どきの喧騒が聞こえてくる。昼なのに窓の外が夕暮れのように暗い。原稿用紙に鉛筆を立てる。ひさしぶりに詩を書く。

  沛はいと降る雨……
  この美しい雨も かつて
  暦年を生きた人びとの額(ぬか)に落ち
  愛し合う者の庭を濡らした
  その雨は もう記憶されていない
  繊(こま)やかな雨音!
  小さな尊厳に耳をそばだて
  想いの逝くまで
  新しい記憶に身を浸す


 学んだり思考したりするのは、命の歓びを祝う宴の席に似合わない無礼な冷やかしだ。動物のように、能(あた)うかぎり熱心に命を消費しなければいけない。いったい人は学習したり思考したりする生きものではない。その揺るぎない真実への反発として、知性という虚偽が生まれた。
         †
 机の足もとに蒲団を敷き、仮眠をとる。起きるとまだ二時を回ったばかりだ。居間に出ていく。コーヒー。玄関の電話が鳴り、ソテツが出る。
「神無月さん、中日新聞から電話です」
 何だろうと出てみる。しっとり落ち着いた女の声が受話器から滲み出してきた。
「中日新聞文芸部の落合と申します」
「あ、はい、何でしょう」
「これまで生きてきて、思うところを、自伝ふうに書いていただけないでしょうか」
「生きてきてって……まだ二十歳ですよ」
「何おか言わんやです。神無月さまの場合、だれの目から見てもじゅうぶんな人生です。つきましては、掲載に関してですが、この九月から一年間、週一で、文化欄一ページそっくり使う予定です」
 つい先刻、机で雨音を聴きながら、知性に背を向けて自分のなし得る仕事を肌に感じたばかりだったので、厄介なことになったと不安を覚えた。学習や思考のために書いてきたのではない文章を、私を愛する人びと以外と共有できるだろうか。たぶんできない。しかし、中学生のころから願っていた〈文章を書いて生きる〉人生がかすかに習慣に近づくのは喜ばしいことだろう。そう思うと、淡く胸がときめいた。私は落合という女に、正直に胸中にある危惧を言った。
「ぼくは深い思索ができません。深い知識も教養もありません。だから、知恵のあふれた人びとが読んだ場合、意を尽くさない文章になっているきらいがあります。つまり、知的に浅いものしか書けません」
「とにかく、お引き受けくださるんですね」
「はい」
「ところで、教養小説的に書かれたのでは、読者がうろたえます。お好きなように、力をこめず、思ったとおりに書いてください。連載終了の時点で、単行本として出版したいと考えております。稿料については、プロの作家の場合、四百字詰原稿用紙一枚三千円から五千円でございますが、神無月さまには一万円お支払いするようにと申しつけられております。新聞片面一ページですと、原稿用紙十五枚から十六枚になります。いかがでしょうか」
「報酬などどうでもいいというわけにはいかないんでしょうから、そちらのお決めになったとおりにお支払いください。……完成はしていませんが、一編、ほぼ書き終えたものがあります。イオノという題名です。五百の野原と書きます。題名はそれでよろしいですか」
「もちろん著者のおつけになった題名でけっこうです。第一回目の原稿は、八月十七日の日曜日、午前中に受け取りに参ります。その日は六時半から阪神戦の予定が組まれております」
「そうですか」
「はい。上がったゲラは一度八月中に見ていただき、それを最終稿としてこちらで慎重に校正させていただきます。初回掲載は九月七日の日曜版になります」
「……ゲラって何ですか? 生れて初めての原稿依頼なので、まったく要領を得ません」
「校正用に刷った印刷物です。著者に校正してもらって、それを刷ったものが最終稿になります。目の回るほどのスケジュールの中で、ほんとうにたいへんでしょうが、どうかよろしくお願いいたします。神無月さまの文才の評判はとみに聞こえておりますし、当編集部のスタッフも東奥日報紙上等で確認しております。期待するところ大なんです。どうかよろしくお願いいたします」
 電話を切った。そばにいた主人夫婦とトモヨさんに電話の内容を話した。トモヨさんが、
「とうとう公式に書けるんですね! すてき」
 女将が、
「ええことや、山口さんも、和子も、みんな喜ぶで。ほんとによかったなあ」
 金曜休日の丸もやってきて、話の様子を伺い、千佳子と睦子を呼びにいった。菅野が、
「野球選手で小説家か。どこまで天馬なんですかねえ」
「小説じゃありませんよ。作文です。ただ、表現することには中学生のころからずっと興味があったから、これで少し心の隙間が埋まる感じがします。そのことがうれしい」
 千佳子と睦子が飛んできて、抱きつき、頬にキスをした。睦子が、
「ようやく郷さんのもう一つの才能が、私たち以外の人びとの目に触れるんですね。郷さんにとってというよりも、その人たちにとってもすばらしいことです」
 千佳子が、
「東奥日報さんのお手柄よ。浜中さんが神無月くんの文才を世間に知らせたんだわ。詩も発表するんですよね」
「いや、イオノだけ」
「五百野っていうん題名なんですね」
「うん、五百の野原」
 睦子が、
「いい題名! 詩もこつこつ推敲しておいたほうがいいですね。いつ発表のチャンスがあるかわかりませんから」
「できればそうしたいけど、その暇はないと思う。ぼくの本道は野球。固く決意していることなんだ。学習や思考に人生を費やしていられない。動物のように生きいきと命をまっとうすることが生れてきた意味だって、きょうも決意したばかりだ」
 主人が、
「それでいいんですよ。動物のように―人間の基本です。そうしてもらわないと、ワシらも女たちも報われません。ワシらの目には、野球で真剣におもちゃ遊びをしてる赤ちゃんが、ちょっと退屈しのぎで文章を書いてるとしか見えませんから。その文章にも才能があったというだけのことでしょう。なんせ、天馬なんですから、だれも不思議に思いません。ただ、根を詰めないようにしてくださいよ。神無月さんに倒れられたら、ワシら生きてられませんわ」
 もう一度時分どきまでトモヨさんの離れで仮眠をとった。きょうはいやに眠い。
         †
 ドンドンと直人が走ってくる足音で目覚める。蒲団にジャンプして飛びついた。小さなからだを抱き締めて頬ずりする。
「おとうちゃん、ごはん」
「はいはい、いまいくよ。先にいってなさい」
 歯を磨く。居間に顔を出すと、アイリスから帰ってきたばかりのカズちゃんたちが父親から話を聞いている。睦子たちもいる。カズちゃんは私に向かって開口一番、
「少しずつ書くのよ。根を詰めちゃだめ。適当に書いて渡せばいいの。キョウちゃんの文章はダイヤなんだから。原石のままでもいいの。時間をかけすぎて疲れないこと。遠征先ではぜったい書かないこと。夢中になって早死にしちゃう。私たちを不幸のどん底に落とさないでね。さ、お風呂いこ」
 主人が、
「和子、××はどうなった」
 素子が、
「クビ、クビ」
「きょうも無断欠勤してたから、電話して辞めてもらったわ。害虫駆除。みんなのためよ」
「仕事のできる男やと思ったが、眼鏡ちがいやったか」
 カズちゃんたちが揃って風呂へいった。キッコと百江が私の頬にキスをしてあとを追った。丸が、
「××さんて、どうにもならない男なんです。東大を狙ってるというだけで、自分が高いランクの人間だって思いこんでるの。人を小馬鹿にしたようなことばかり言うのよ」
 主人が、
「何年も浪人しとると皮肉れてまうのかな」
 睦子が、
「固く決意すれば何年もやらなくてすみます。千佳ちゃんを見ればわかります。千佳ちゃんは半年で受かりました」
「ムッちゃんは三カ月半よ」
 菅野が、
「千佳ちゃんやムッちゃんは頭いいから、たとえ何年やったって皮肉れなかったでしょう。要は、分を知るということですよ。名古屋にだって大学はいくらでもあるでしょうが。何も東大を……」
 厨(くりや)の音が繁くなった。直人が居間で早い夕食をすまして、食事中の私たちをよそ目にステージ部屋の積み木へいった。幣原が相手をする。睦子が、
「イオノの原稿はどこで書いてるんですか?」
「則武。思い出したできごとを集中的に書く。あとで並べる。ジグソーパズルだね」
「詩の書き方ですね」
「うん。そういう自由なペースを崩さないようにして、どうにか完成に近づいた」
 カズちゃんたちが風呂から戻ってきた。おさんどんが始まる。ソテツが、
「ものを書くのってたいへんですよね。私なんか、ハガキを書くのにもフウフウ言ってます」
 イネが、
「オラなんか、ハガキも書がねよ。すぐ眠たくなる」
 カズちゃんが、
「文章は総合力だから。理解、分析、創造。いちばん難しいわね。才能がないと、スラスラは書けない。才能ある人も書く時間が必要よ」
 全員うなずく。睦子が、
「郷さんはフルスロットルで何年も暮らしてきたんですね。時間を作りながら」
 素子が、
「本が出て、有名になったら、野球やめるん?」
「やめない。どちらも有名になるためにやってるわけじゃないから。野球より文章のほうが苦しい仕事だし、苦しい仕事は全力をこめられる時期じゃないとできない。野球の引退が見えてきてからだね。それまでは、ケガをしないかぎり野球をやる」
 丸が、
「九月が楽しみです。私、神無月さんの文章を読んだことがないから」
 素子が、
「信じられんくらいきれいやよ。人間が書いたものと思えん。お姉さんが、野球の才能をはるかに越えた才能やって言っとった。嘘でないわ。あの歌声が文章になったと思えばええんよ」
 主人が、
「中日新聞さんもよう声をかけてくれたな」
 菅野が、
「エポックメイキングのことをするのはいつも、その世界のリーダーじゃないですね」
「ほんとにそうや。朝日も読売も毎日も、神無月さんのことを大きく採り上げたことがないもんな。政治と経済と三面記事。スポーツなんかほんのちょこっと。それも巨人と甲子園の高校野球のことばっか。どうなっとるんやろな」
「ぼくはそのほうがいいです。大新聞は、国家の飾りの芸能やスポーツに根本的に興味のない人たちの指導者ですから。朝から晩まで〈国〉の浮き沈みに興味のある人たちのリーダー。もともと芸能やスポーツをやったことのない人ばかりが中枢に寄り集まって、自分たちの同類の国民を頭でっかちの愛国者に仕立てあげる。ぼくはそんな人たちには注目されたくない。スポーツ嫌いの彼らが巨人軍に注目するのは、巨人軍がただのスポーツ集団じゃないからです。権威集団。スポーツ嫌いでも、権威だけは好む。権威の勝ち負けには興味津々です」
 丸が、
「巨人の勝ち負けじゃなく、権威の勝ち負けなんですね」
「うん。優勝という実績を重ねて権威が築き上げられると、名門になる。名門という信仰だ。信仰は伝統を作り上げる。人は命を取るとでも脅されないかぎり、信仰に基づいた伝統を捨てられない。つまり名門意識を捨てられない。中日ドラゴンズには伝統がない。かつて権威を得て名門になれなかったからだ。いつまで経っても野球の無名校のようなものだね。人は無名がノシ上がるマグレは許せない。だから、たとえ五連覇しても、ドラゴンズは無名のままだよ。権威主義者である大手の新聞は、無名を採り上げない」
「そんなこと、ほんとですか」
 もの言えば―しかし止まらない。
「ほんとだ。だから権威主義者のぼくの母親は、すばらしい野球選手になることより、そして、すばらしい野球選手になって記録を残すことより、何も残せない東大を選んだ。ホームラン百本より、東大のほうが世間的に権威があるからだよ。でも、過去の実績に無関心な生き方こそ、できれば過去の実績を冷笑する生き方こそ、ぼくの気質にぴったりなんだ。だから、ぼくのことなど採り上げてくれないほうがいい。だいたい権威にタテついたり嘲笑ったりする人間は、主流として採り上げられない。大塩平八郎しかり、淀屋辰五郎しかり。ぼくもひっそりこの世の片隅に、無関心と反逆の痕跡を残すだけで、永遠に有名にならずに死んでいく。本望だ」
 寒い唇できょうもしゃべってしまった。素子が目をこすりながら、
「キョウちゃんは反逆者になるために生まれてきたんやね。反逆者でなければ、うちらみたいな者は救えんよね。……うんとホームラン打って、うんとええ文章書いてな」
 信子も目頭をこすった。
「ムスコが勃つうちはがんばる。反社会のバロメーターだから」
 愚か者の留めの言葉だ。菅野が、
「こういうサリゲなさはまねできませんよね」
 カズちゃんが、
「そう、だれもまねできないわ。オチンチン出して自由に走り回ってる赤ちゃんだもの」
 一座に晴ればれとした笑いが拡がった。




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