二百六 

 二人シャワーで局部だけを洗い、母と姉が帰らないうちに家を出た。自転車を牽いて歩くジャージ姿の私の傍らを、ジーパン姿の金原が歩く。性欲を解放し終えた晴ればれとした顔だ。
「いやや、じっと見て」
 母と姉に目鼻の造りが似ていない。出会ったころは、たしかに彼らに似たような顔をしていた。
「きれいになったね」
「うん、自分でも不思議やわ。整形したのって訊かれることもあるんよ。顔まで丸なってまった。頬っぺたふくらんで、女らしなったわ」
「目も大きくなった。変身だ」
 ハナノキの並木道。町名にちなんで植えたのだろう。車が路上に駐車し、軒下に自転車が並んでいるのに、人はほとんど歩いていない。晴れ上がった青空に大きな雲が浮かんでいる。
「何時?」
 私が尋くと金原は腕時計を見る。
「九時四十分」
「二十分もしてなかったんだね」
「一時間ぐらいに感じた。オマンコが気持ちええってゆうより、すごく愛されてるって感じがした。そう感じるだけで、何十回もイッてまった。うれしいわ」
 まぶたを拭う。空を見上げる。
「北村席や則武には遊びにこないの」
「いかん。あそこは鉄壁の砦や。神無月くんを手離さん力を感じる。まだ私は入れてもらえん。もっともっと神無月くんを愛さんと」
 金原を駅玄関に残して、自転車で則武に戻った。ブレザーに着替えて、革靴を履いた。金原の待つ駅前へ戻る。
         †
 豊田講堂前にタクシーをつける。用心の傘を手にした人だかりがある。金原はタクシーを降りると、
「またね。理学部はあっちやから」
 右手を遠く指差す。
「逢いたいときは、私のほうから則武に訪ねてく。私のこと気にしたり、思い出したりしたらいかんよ。さよなら」
 手を振って、ジーパンの尻を振りながら信号のある構内を歩いていった。睦子と千佳子には会う気がないようだった。私の気疲れを倍加させたくなかったのだろう。
 バスが到着して、睦子と千佳子が降りてきた。私を見つけて走ってくる。
「会場は豊田講堂だね。ぼくはこのあたりを散歩してる。それがきょうの目的だから」
 睦子が、
「はい、私たちも少し聴いたら、適当に出てきます」
 千佳子が、
「散歩もしたいけど、校舎にも案内したい」
 彼女たちの知り合いが五人、六人とやってきた。
「あ、やっぱり! 神無月!」
 千佳子が彼らに向かって唇に指を当てた。睦子が、
「あの左の四階建ての長い校舎が、文系総合館です」
「わかった。じゃ、詳しい案内はあとで」
 私は緑の構内へ入っていった。いくつもの長大な四階建て校舎に沿ってシナノキのプロムナードが連なっている。駐車の列、駐輪の列。突き当たって、小振りな運動場を眺めながら右折。さらに曲がりこむ。図書館。向かいに、さっき金原が歩いていった理工学部棟が建っている。果てのないプロムナード、駐車と駐輪の列。そういう道が何筋もある。見飽きて豊田講堂前に戻る。芝生に切られた誘導路を通って講堂の内部に入る。映画館のように閉じられたドアをわずかに開けて覗く。すでに討論が始まっている。整然とした聴衆の後頭部が見える。討論の声を聴く。
「だから、学生自治会はどうなってるんだ!」
 予想どおりの怒鳴り声が聞こえてきた。入りこみ、空いている席に座る。新宿の映画館のような階段式の講堂に据えられた豪華な椅子だ。
「一九四九年の大学管理法案反対運動に端を発して、名大の学生運動は……一九五○年のレッドパージ反対運動……五十二年には、大須事件への参加がありまして……五十九年から六十年の安保闘争を経まして……学生、つまり、教養学部生自治会などですね……」
「学長は? 教授会の回答は?」
「教職員の活動は、集会、デモ、スト等の開催、参加、支援といった……政治的学生運動の衰退が……六十年代後半の大学紛争の時代へと突入するわけです……医学部紛争、すなわち、インターン・無給医闘争、小児科講座選考問題……東山地区への波及……学長の豊講への軟禁、教養部封鎖……大学改革の模索の途上に……」
「わかった、わかった。じゃおまえたちは、この末期の虚しい民主主義闘争と心中するのか!」
 ああいう連中は、日夜、どこかで開かれる学生集会で口角泡を飛ばしている万年学生にちがいない。かつてバリケードを挟んで大学当局と対峙して、否定と否定の堂々巡りの世界にどっぷり浸ったやつらだ。他人の話をするのは簡単だが、自分のことを話すのは難しいものだ。自分のことは客観的に見られないから……自分を知るのは難しい。
 そうだとわかっていても、言葉を乱反射させる場所で燃え尽きる純潔とセンチメントを選んだ彼らを私は心の底で認め、同時に軽蔑した。男と女の外界へ、味噌汁のにおいのする外界へ開かれるべき目や耳を閉ざして、それこそ昆虫の幼虫のように小さくからだを丸めているからだ。
 拡がり、縮まる言葉が波になって意味不明のまま耳に飛びこんでくる。汚れた社会を掃き清める、と彼らは言っているようだ。たとえそんな改革が成って新しい世界ができあがり、その世界を引き受ける人間がいるとしても、それは彼らではないことは確かだ。彼らはそんな世界が大嫌いだからだ。
 またそっと回廊へ出る。廊下の奥へいき、大窓のそばのラウンジに立つ。窓の外に空はあるけれども、ここを明るくしているのは屋内の文明の灯りだ。椅子に座り、どんより曇った空を眺める。
 ―あれが同じ人間か? 別の進化物だ。進化? 青森高校の講堂にもいたではないか。彼らはいつ進化したのだ。小学校で? 中学校で? 
 千佳子と睦子が出てきた。
「神無月くん!」
「郷さん! ここにいたの」
 走ってきて座る。
「チラッと聞いたけど、野球と同じようには理解できないから、出てきた」
 千佳子が、
「名古屋大学も、ちゃんと流行の学生運動をやりましたって言いたいんでしょ」
 睦子が、
「なぜおたがいの意見に茶々を入れるのかわかりませんでした。人の話を聞かない訓練かしら」
「政治討論はみんなああいうふうだよ。威張り合いたいだけで、決着をつけたくないから」
「ですね。あ、校舎を案内します」
 講堂を出て、バス停を渡り、さっきの並木路に入る。私は左手の校舎を指差し、
「あれは?」
 千佳子が、
「この四棟は、手前から法経共用カンファレンスホール、その奥の右手は法経共用館、隣が国際開発棟、左も法経共用館」
 次の校舎群に移る。睦子が、
「ここにも四棟あって、いちばん手前から文学部本館、次が文系総合カンファレンスホール、その右はコンビニエンスストア、いちばん奥が教育学部本館。終わり」
「え? まだ五十も百もあるよ」
「法学部と文学部はこれで終わりです。あとは食堂と売店ぐらいしか知らないんです。気が遠くなるほど広くて、施設も多いから」
「野球グランドある?」
「あります!」
 二人で声を合わせた。睦子が、
「野球場と陸上競技場が豊田講堂の裏手にあります。少し歩きますけど、いってみます?」
「いこう」
 千佳子が、
「神無月くん、足が浮きうきしてる。野球となったら別人」
「ほかにも別人になることがあるよ」
「やだ、する場所なんかありません」
 睦子が笑いながら、
「郷さん、大好き。でも構内はだめですよ」
「言ってみただけ」
 両脇から二人に腕を組まれ、講堂脇の広い道へ戻っていく。学生たちがいつのまにか遠巻きに、前になり後ろになってついてくる。男二人、女三人。顔見知りのようだ。睦子は知らんぷりして、右手の二階建ての建物を指差し、
「これは名古屋大学博物館。無料で入れます」
「あとで寄っていこう。常設展示室が見たい。ここは何区?」
「千種区です。東山キャンパス」
 周りからザワッと意味不明の笑いが上がる。私のしゃべり方がおかしかったのだろうか。千佳子と同じ学部らしい男子学生が、
「常設展示室には、木曽馬第三春山号の骨格標本、木曽の大ヒノキの輪切り標本、放散虫の化石、重力異常図、一九四○年に開発された電子解析装置、医療教育に使用されたムラージュなどが展示されてます」
「聞いてるだけで、なんだか満腹になっちゃったなあ。やっぱり帰りにここには寄らないことにする」
 ワッと笑う。
「ムラージュって、ロウ模型のこと?」
「はい。気持ち悪いですよ」
「重力異常図ってのは、あえて訊かない。聞いてもわからないから」
 またワッと笑う。
「大きくて、きれい」
 女の声がする。
「背は俺のほうが大きいぜ」
「そういう物理的なことじゃなく」
「それに、東大でしょ?」
「ムッちゃんもそうだぜ」
「鈴木って何者なんだよ」
 車も通る緩やかなアスファルトの坂を上っていく。睦子が、
「この人たちはみんなソフトボールをとってる体育仲間です。男の子は法学部、女の子はみんな文学部です」
 もう一人の男子学生が、
「高校時代、木谷と鈴木が神無月さんのマネージャーだったというのは知ってましたけど、こんなに仲がいいなんて知りませんでした。ちっとも自慢しないから」
 曇っているが、空が広いのですがすがしい。
「この建物は?」
 ほかの女が答える。
「名古屋大学出版会です」
 坂のいただきの大きな建物に突き当たる。どこからともなく声が飛んでくる。
「ここは本部事務局」
 右折する。通用門のようなものから学外の一般路に出る。森と民家に挟まれた二車線の上り坂。
「遠いね」
 坂のいただきから、別の坂へ曲がりこむ。
「もう少しです」
「この坂を毎日上り下りしたら、足腰鍛えられるぞ」
 上り切り、右折。大きな建物と森に囲まれた道を百メートルほど直進すると、とつぜん四方を立木に囲まれたさびしい平地になった。一応黒土だが、芝生もスタンドもスコアボードもない。椅子一列のダッグアウト。
「スコアボードは?」
 女の一人が、
「ダッグアウト横の小さな黒板に、チョークで手書きします。私、準硬式野球部のマネージャーをしてるんですが、ここで軟式、準硬式、硬式野球部の練習をします。高校生を招いて練習に参加してもらうこともあります」
「硬式野球部は、七帝戦ではどのくらいの強さですか」
 男の一人が、
「七帝戦は昭和三十七年から始まったんですけど、名大は過去七年で、優勝二回、二位三回、三位二回、四位、五位それぞれ一回です」
「優秀だなあ」
 この練習グランドなら、常に最下位だと思ったが、ちがった。
「優勝は、名大のほかに、東大二回、京大、九大、東北大がそれぞれ一回です。東大と京大は三回しか参加してません。参加自由なので」
「三回に二回優勝してる東大がいちばん強いってこと?」
「はい。六大学で鍛えられてますから」
 千佳子が睦子に、
「七帝って何?」
「旧七帝国大学のこと。東大、京大、九大、大阪大、名古屋大、東北大、北大」
 千佳子は、
「名大ってそんなに伝統があるんのね! 知らなかった。きちんと植樹されてるし、新しい校舎がズラッとあるから、歴史の新しい大学だと思ってたわ」
 法学部の一人が馴れなれしく、
「木谷、おまえ浪人したんだろ? 受験のベテランがそんなことも知らんかったんか」
 睦子が、
「千佳ちゃんは去年の夏まで青森で家事手伝いしてて、上京して半年しか勉強してないんです」
「それで名大の法学部に受かったってか!」
「青森高校だから」
 そう言って千佳子は胸を張った。青森高校を知らない学生たちも、遠い土地の権威を眺めるような目つきをした。


         二百七

「腹へった?」
 睦子と千佳子に尋く。千佳子が、
「すいちゃった。朝食べたきりだから」
「よし、食おう。大学の学食はまずいけど、経験だから食っておこう。このあたりじゃレストランなんかありそうもないしね」
 睦子が、
「南部食堂にいきましょう」
 男の一人が、
「しかし、木谷も鈴木も美人だよなあ。名大ミスコンに出てみたらどう?」
 睦子が、
「そんな時間ありません」
「私も。司法試験組だから」
 女の一人が、
「ミス名大より、ミス名古屋がいいんじゃない? 優勝したら名大の名が上がるわよ」
「とにかく、へんな時間は使いたくありません」
 長い坂を下り、バス停に出る。左折して信号一つ歩き、裏門から南部食堂に入る。書籍店に接した清潔そうな建物だ。たらふく食った朝めしはもうこなれている。空腹感がやってきた。品物の陳列棚を見る。
 ―安い!
 めし類、麺類、その他。三十ぐらいメニューがある。カレー九十円、カツカレー百四十円、五目そば百五十円、シチュー三十円、ライス大盛り三十円、ラーメン八十円、ホウレンソウを載せたかけそば、かけうどん六十円。
 自販で食券を買う。三人ともラーメンになった。私は豚辛ラーメンと大盛りライス、睦子は手羽先ラーメン、千佳子は味噌ラーメン。五人の男女は定食やカレーライスやスパゲティを注文した。盆に載せて品出しされたものを取りにいく。大テーブルにズラリと向き合って食う。学生たちがほかに百人はいる。
「きみたちはみんな一年生?」
「はい!」
「じゃ、この千佳子と睦子は年上だね」
 男の一人は一浪だと手を挙げ、もう一人の男は二浪で、マネージャーの女は一浪、ほかの二人の女は現役だと言った。
「いただきます」
 私がレンゲを使いはじめると、彼らもいっせいに箸をとった。
「ソフトボールはあの球場でやるの?」
 それほど辛くない豚肉を齧りながら一浪の男に尋く。
「いえ、野球場の隣の総合運動場の片隅を使ってやります」
「やっぱりあそこまで歩くわけだ」
「神無月さんのふだんの練習に比べたら、ウォーミングアップにもなりません。一日どのくらい走るんですか?」
「五、六キロから、十キロ前後。もっと少ない日もある。気ままにそのつど思いついたコースを走る。きょうは走ってない。二人と会って構内を歩く予定だったから」
「俺たちも参加しましたけど、チンプンカンプンでした。当時はお祭気分だったんでしょうね。そんな気分の中で殺し合いまでしたというのが解せません。あんなわけのわからない言葉を使いながら」
「わけのわからない言葉にしないと、権威の信憑性が薄れると思ってるんだろうね。政治って、もともと、わけがわかっちゃいけないものかもしれないよ」
 睦子が手羽先を両手で口に持っていきながら、
「日常語で対話できないなんて、つらい世界ですね」
「学問も似たようなものだ。日常語で論文は書けない。非日常語の鎧を着てる。権威を非日常語で作り上げるわけだ。学者だってふだんは、おはようとか、さようならとか、ウンコ、オシッコなんて日常語を使うんだけどね。ぼくのような日常語の世界の人間は、彼らの学術語は記号として理解する以外対処しようがない。くだらないことで疲れたくないから、政治と学問には近づかないことにしてる」
 千佳子が箸を止め、
「私たちのしていることは政治や学問に近いですけど、神無月くんはとても親密に近づいてくれてますよね」
「当然だよ。千佳子や睦子は、非日常的な学術語を振り回したくて世に言う〈学者〉になろうとしてるんじゃない。自分の目指した学問で人助けをしたくて勉強してる。ぼくにはそれががわかる。千佳子は法律か経済の実務家になって、このセチ辛い現実世界の手続上の問題を解決することで人助けをしようとしてるし、睦子は文学者になって人間の豊かな情緒を刺激することで人助けをしようとしてる。二人の目指す世界は、記号化された学術用語とは無縁の世界だ。人間同士の愛の中で暮らす心やさしき勉強家の世界だ。立派な学問人になってほしい。できれば論文も、テクニカルターム以外は、日常的な言い回しで書いてね」
 麺を音立ててすすっていた二浪の男が箸を止め、
「神無月さん、頭よすぎません? 野球選手ですよね。ちょっと腕を見せてもらっていいですか」
「いいよ」
 前腕の筋肉に目を瞠る。
「太い! ポパイみたいだ」
 みんな箸を置いて寄ってくる。
「ウヘ! やっぱり素人の腕じゃないよ」
 と一浪の男。現役の女が私の腕を両手で握って、
「二の腕は太くないけど、筋肉がギッシリ。キャッ、柔らかい!」
 マネージャーの女が、
「手がゴツゴツしてますけど、大きさはふつうですね。握力はどのくらいですか」
「人が言うには、八十前後かな。高校のときは七十チョイだった」
「すごい! 百メートルは?」
「十一秒ちょい。もう少し年数が経てば、十一秒を切れるかもしれない」
「野球界ではきっとトップクラスの速さですね。遠投は?」
 矢継ぎ早に質問してくる。
「百二十五メートル強」
「それ、大リーグでも最高峰です!」
 ほかのテーブルの学生たちも何だ何だという顔をしはじめた。睦子が、
「とにかく食べてしまいましょう。周りがうるさくなると落ち着きませんから」
 全員座席に戻り、
「信じられないなあ。同じ人間が異常なスポーツ能力と、頭脳と、美しさを与えられてるなんてさ」
 二浪が言う。千佳子が、
「同じ人間と思うのはまちがいよ。質問なんかしないで眺めてればいいの」
「そうだよな。予想した答えなんか返ってくるわけないもん」
 みんなせっせと食べる。一浪の男が、
「いまドラゴンズは三敗ですけど、最終的に何敗ぐらいすると思いますか」
 やはりホームランよりも勝敗に関心がある。才能よりも共同作業。個人のホームラン百本よりも協力し合った結果の優勝に彼らの認める価値がある。水原監督が一度優勝したいと言った気持ちが痛いほどわかった。人の集団は能力を分担し合いながら共同作業によって向上してきた。それが正しい考えの筋道なのに、まずコンビネーションの〈成果〉を示し、向上した共同体の〈威勢〉を示してから、その共同体を支えた特殊な個人の分担能力を称揚するという順番にしてしまう。集団の顕彰、ブランド化、そこへ個人礼讃の花飾りという順番だ。その逆が正しいと思うのだけれど、まず賞から権威づけへ、そして個人の才能へ、という方向をたどる。その逆へたどることはない。
「三十敗から三十五敗だと思う」
「そんなに負けますか」
「うん。ひと月に六敗はすると考えればいい。足掛け七カ月、正味六カ月、ひと月平均二十二試合とすると、十六勝六敗でだいだい計算が合う。九十六勝、三十六敗。計百三十二試合。ね」
「ほんとですね。百三十試合だから、勝ちと負けを一つずつ減らしてピッタリだ。九十五勝三十五敗。三カ月でほんとは十五敗してるはずなのが、三敗しかしてないということですか。このペースではいかないんですね」
「まず無理。ヒヤヒヤの試合とか、負け試合が増えてくる。選手の疲労が積み重なってくるにつれて、勝利のペースが落ちてくるんだ。どのチームも同じだと思うだろうけど、前半突っ走ったチームのほうが疲労度は高い。でも、迎え酒みたいに、疲労は疲労でやっつけるしかないんだよ。それが長期的な体力として貯えられる。さあ、帰って試合に備えなくちゃ。きみたちもサッサと食べ終えて、授業にいったほうがいいよ」
「みんな、日曜日は授業なんか取ってませんよ」
 睦子と千佳子の顔を見ると、笑いながらうなずく。
「じゃ、そのへんの喫茶店で若者たちにコーヒーをおごってあげよう」
 いっせいに拍手する。ふと、私も若い人間なのだと気づいて、細胞がきしむような感覚に襲われた。
 学生たちに付属図書館内のコーヒーラウンジに案内された。がらんとした天井の高い空間にコーヒーのにおいがただよっている。嗜好品をたしなむには、もう少し圧迫感があったほうがいいと感じた。ところどころのテーブルにビーチパラソルふうの傘がかざしてあるのも興醒めだった。出てきたコーヒーはやはりまずかった。
 結局彼らの手帳やノートにサインをした。それでようやく解放された。一時を回っていた。バス停でタクシーを拾い、三人で乗りこむと五人の男女に手を振った。
「きょうもサービスご苦労さま」
 睦子が言った。
「そんなつもりはないよ。楽しかった。名古屋大学は大きくてきれいだね。勉強がはかどるだろう」
 千佳子が、
「勉強より目の保養になる大学です。神無月くん、これからバット振るんですか?」
 チラッと運転手がバックミラーを見たが、話しかけてこなかった。
「菅野さんと出かけるまで少し振る。―いや、やめとこう」
 個人の力、共同体の成果、そればかりが頭をめぐる。その二重構造が煩わしい。服部先生を思い出す。
 ―一人で野球やってるんじゃないんだぞ。
 一人で生きてるんじゃないんだぞ。あまりにも正しくわかりやすい有無を言わさぬ圧力。この圧力を近ごろ快適に感じはじめた。独りきりで学問をしたり、芸術にいそしんだりことのなんと容易なことだろう。その容易さにゲップが出る。個人の才能だけですませる暢気。その暢気さを許されて当然と居直る傲岸。私はそういう独りになりたくない。愛する人びとを独りにはしたくないから。
 北村席に到着。日曜日。アイリス組以外はみんないる。直人がじゃれついてくる。抱き上げ、抱き締める。菅野が、
「雨が降りそうで、降りませんでしたね。けっこう風もあったし、グランドはグッドコンディションでしょう」
 主人が、
「江夏は三日の巨人戦に投げたので、きょうの登板はないでしょう」
 菅野が、
「堀越二丁目の昇竜館が改築を終えましたよ。四階建て、一階にトレーニングルーム、共同風呂、トレーナー室。二階に食堂。三階四階が選手部屋。新しい室内練習場はいち早く館の南にできてました。野球をしていくうえで最高の環境ですね。高卒大卒の選手は、二年から四年の寮暮らしです。それがだいたい二軍生活の年数でもあるんです。そのあいだに二軍を抜け出せない選手は、それっきりですね」
「ぼくは新人合同トレに参加しなかったけど、いったいどういう練習をやるんですか」
「基礎体力の強化メニューですね。ランニング、ダッシュ、キャッチボール、フリーバッティング、守備練習、ウエイトトレーニング。内容は一軍と変わりないです。連帯責任のような脅しをかけながらやるのが特徴で」
「二軍にもマネージャーはいますか」
「いますよ、名前は知りませんけど。足木マネージャーのように、上と下の橋渡しをしてます」
「ドラゴンズの二軍球場は大幸球場ですが、巨人や阪神は?」
「巨人は多摩川グランド、阪神は鳴尾浜球場、大洋は追浜球場ですね。ほかの二軍の球場は知りません」
 主人が、
「十年ほど前、新規で北村席に入る女を西宮の鳴尾浜に迎えにいったとき、チラッと鳴尾浜球場に立ち寄ったことがあります。大幸とそっくりのガランとしただだっ広い球場ですわ。わびしく二軍が練習しとりました。ま、だいたい二軍の球場は似たようなもんじゃないですかね」
 いつもながら別世界の話を聞く思いだった。


         二百八

 中日球場。三時半。二十七・五度。朝から木の葉がざわつくほどの風が吹いているので暑くはない。ロッカールームで星野秀孝にビニール袋を進呈した。
「氷袋に使ってください」
「えー! いいんですか。ありがとうございます」
「もっと必要になったら言ってください。近くの商店街で売ってますから、また買ってきます」
「とんでもない。自分で買います。堀越に大きな雑貨店がありますから。ほんとにありがとうございます。神無月さんにこんなことをしてもらえるなんて感激です」
 ホームのバッティング練習開始。曇り空の下にまだ観客はいない。監督とコーチと選手、そのほかいろいろ球団関係者や報道関係者がフィールドに散らばっている。小学校、中学校、高校のグランドはとんでもなく閑散としていて、監督と選手しかいなかった。純粋に野球をしていると強く感じる空間だった。あのなつかしい風景を目の裏に蘇らせる。
 大学に入ってその風景に徐々に変化が生じ、プロに入ってすっかり変わった。監督一人の持ち分だった指令が細かく系統立てられ、石ころだらけの固いグランドが整備された美しい〈舞台〉に変わった。おそろしく手入れの利いた土と芝。―変わらないことは? 投げることと、打つこと。
 バッティングケージ二台。バッティングピッチャー用の抉れた台形の防球ネット二つ。右のケージで打っているのは背番号3の中。投げているのは背番号56の外山。受けているのは背番号19の新宅。左のケージで打っているのは背番号1の高木。投げているのは背番号34の大場。受けているのは背番号33の吉沢。右のケージの外に控えているのは、背番号8の私。左は、背番号10の菱川。私と菱川の後ろで見守っているのは、背番号68の水原監督、背番号67の田宮コーチ、背番号61の宇野ヘッドコーチ、背番号63の太田コーチ、背番号66の長谷川コーチ、背番号65の森下コーチ。その後方に、審判員数名、ケージ後方も含めてフィールド各所に新聞記者、カメラマン十数名。内野守備に背番号9の江藤、背番号43の千原、背番号2の一枝、背番号7の伊藤竜彦、背番号5の葛城、背番号40の太田がつき、外野フィールドに背番号37の江島、背番号11の徳武、池藤トレーナー、鏑木ランニングコーチ、背番号64の半田コーチがうろついている。新聞記者の一人が水原監督に、
「得点、防御率、チーム打率すべてリーグトップ。去年最下位だったというのが信じられませんね」
「レギュラーの二割打者が太田一人。それでも二割八分です。控えもみんな二割を切ってません。金太郎さんだけでなく、みんなが打っておたがいを引っ張ってる。日替わりヒーローがいない。ある意味ヒーロー不在だ。できすぎですね」
「巨人が星をイーブンに戻しましたよ」
「あそう」
 外野の芝生で徳武と池藤が向き合ってストレッチをやっている。そのそばで孤独にストレッチしているのは、きょうの球審福井だ。甲子園ラバー。自宅も甲子園のすぐそばにあるという話は有名だ。中がいい当たりの一本をスタンドに放りこみ、私に替わった。大男の外山博。いつ見ても痛々しい気分になる。三年前に入団以来、一軍登板の経験はなく、ずっとバッティングピッチャーをやっている。ふつうの速さの素直なストレートとシュートしか投げられない。五球打ち、場外四本、スタンド一本。外野守備へ走る。高木がようやく納得がいき、菱川に交替。菱川、二本連発でライトスタンド。江藤が入れ替わる。まず看板へ一本。みんな当たっている。江島が寄ってきて、
「神無月くんは、どうしてチャンスに強いの?」
「チャンスでないときは、無意識にバットを振ります。凡ゴロ、凡フライ、短打が出るのはそういうときです。チャンスには意識してホームランを狙います。ピッチャーというのはどんなときも、打たれたくないと思って投げてきます。こちらの意識レベルが低いときは凡打が増えて当然です。チャンスのときは、ピッチャーはもっと打たれたくないと思うでしょう。そうなるとぼくもめまぐるしく考えて、意識をいよいよ高めて球を打つように心がけるので、必然的にチャンスに高い確率で打てるということになります」
「ホームランの狙い球は?」
「失投でないかぎり、ぼくが得意にしているインコース低目にはまず投げてきません。そこから外れるようなところへ、自分のいちばん得意な持ち球を投げてくるんです。それを狙い打ちます。江島さんは代打が多い。不利です。実際打席に立って、それまでの二、三打席の球筋を見極めることができない。ですから、ぼくのような方法は有効でないかもしれません。とにかくピッチャーはバッターの得意コースは知り尽くしてますから、自分の得意でないコースを待つように心がけていればいいと思います」
         †
 六時半。中日小野、阪神村山で試合が始まった。巨人に次いで僅差の三位につけている阪神にとって、この九回戦はぜひとも勝っておきたい試合だ。
 ネット裏に主人と菅野の姿を確認する。一塁スタンドベンチ上の最前列に、睦子、千佳子、イネの姿。守備につくとき、ベンチ前からどちらにも帽子を振った。
         †
 村山のフォークは冴えわたっていて、見きわめられる落ちぎわなどいっさいなく、振り出したバットからまるで蠅のような自在さで身をかわして逃げた。三回まで両軍三者凡退。私の第一打席は低目のフォークを引っかけて当たり損ねのピッチャーゴロだった。ストレートを待っていたが一球もこなかった。
 四回裏ツーアウトから江藤が、外角高目のストレートを引っ張って左中間ツーベースを放った。つづく私はフォークの上っ面を叩いてセンター前へ高いバウンドで抜いた。一点先取。打ち取られた打球だったが、飛んだコースが幸いした。さらに七回裏、ワンアウトから江藤が内角に落ちるフォークを叩いて、きょう二本目のツーベースを三塁線に放ち、それを私が低目のフォークをきっちりライト前に打って還した。きっちりミートできたのはマグレだった。ゼロ対二。
 六回表、カークランドがきょう三つ目の三振を喫したあと、田淵フォアボール、藤井センター前ヒット。ワンアウト一、二塁。ゲッツーでチェンジかなと思っていたら、七番打者の山尾が私の頭上へバカでかいスリーランホームランをかっ飛ばした。三対二。急遽星野秀孝が登板して後続を断った。
 村山は張り切って、四回と七回の三、四番の二連打以外は、さりげなく凡打の山を築いていった。バットがギンッという湿った音を連発する。一方われらが星野もテキパキと手際のいい投球をつづけた。速球がうなりを上げ、カーブがするどくベースをよぎる。毎回ノーヒットに抑えるたびに、それが当然といった感じで、マウンドからゆっくり一歩ずつ踏みしめるような足どりでベンチへ戻っていく。ベンチに腰を下ろしても、ナイスピッチングという声もかけられないような粛然とした雰囲気をかもしている。まるでノーヒットノーランがかかっているような張り詰め方だ。彼のために点を入れてやりたいと思っても、われらドラゴンズは村山のフォークに手こずり、たった一点差をひっくり返せそうもなかった。チャンスが訪れないので、水原監督は一人の代打も出さなかった。名大連中に説明したとおり、ひさしぶりの負け試合を覚悟した。
 星野の好投をむだにしたくないという気持ちが空回りするまま、九回裏ツーアウトまできた。鉦太鼓が空しく響く。江藤がボールになるフォークを必死に見逃し、ストライクになりそうなフォークには喰らいついてファールにする。ネクストバッターズサークルを見つめる目が充血しているのがわかった。私は何度もうなずいた。フォークがショートバウンドになった。江藤がバットを高く挙げてウオーと吼えた。フォアボール。スタンドも吼えた。
 ―外角のフォークだ。
 彼が吼えた瞬間、狙い球を決めた。きょうの村山はクリーンアップに対してほとんどフォーク一辺倒できている。他の打者には五球に二球ぐらいの割合でフォークを混ぜ、うまく打ち取っていた。三振も十個奪っている。田淵がスイングをアピールし、一塁塁審が右手を上げるシーンが続出した。
「キンタロウ!」
「大明神!」
「お願い!」
「頼むウゥゥ、金太郎さん!」
 金太郎さん、金太郎さんのシュプレヒコール。鉦、太鼓、旗。
 初球、内角高目のストレート。田淵が立ち上がるほどの糞ボール。村山はけっして敬遠などしない。彼は熱血漢だ。外角低目で打ち取るための布石にちがいない。それにしても相変わらず速い。三十三歳のスピードとは思えない。二球目、外角高目のシュート。ギリギリ入っている。福井主審が甲高い声でストライクのコールをする。コレも布石だ。眼鏡の付け根を押さえ、ヘルメットを深くかぶり直す。ボックスの少し前に出て、並行スタンスをとる。金太郎コールが激しくなる。水原監督がパンパン激しく手を叩いている。次こそ外角低目のフォークだ。まちがいない。小さく外して打ち取るつもりでくるだろう。かならず打つ。
 三球目、切れのするどいフォークが外からやや中へ曲がり落ちてきた。ホームベースの角でショートバウンドになった。私は撥ね上がった瞬間を捕まえ、屁っぴり腰打法で思い切り叩いた。田淵が、アッ! と声を上げた。村山が中腰のまま首をレフト方向へ振り向けた。一塁ベンチがドッと沸く。内外野のスタンドから、ため息とも驚嘆ともつかない歓声が湧き上がる。打ち上げた瞬間は芯を食ういい当たりように思ったが、少しバットの先だったのか、ふらふらとレフトのポールのほうへ力弱く飛んでいく。ランニングキャッチされて終わりに見えた。全力で一塁を蹴った。江藤も全力疾走している。山尾の動きを凝視しながら走る。右利きの選手は右方向の動きが苦手だ。ランニングキャッチのグローブも逆シングルなので出しにくい。エラーしてくれれば同点打になる。
 斜めに背走する山尾の足がポールの下で止まった。ジャンプ。グローブの五十センチほど上で、打球がやさしくポールにぶつかるのが見えた。球場をふるわすどよめきが上がった。原田線審の白手袋がゆっくり回る。山尾が91・5мと書かれたフェンスを背に両足を投げ出すように坐りこんでいる。観客が総立ちになった。一気に湧き上がった歓声が四囲のスタンドを満たす。水原監督がレフト方向を眺めながらピョンピョン跳び上がっている。ベンチ前の仲間たちもピョンピョン跳びはねている。村山がすたすたベンチへ歩いていく。長嶋の天覧試合のときはもっとゆっくり歩いていた。ダイヤモンドを回る私を祝福する下通のアナウンスが流れる。
「神無月選手、九十七号のホームランでございます。ただいま神無月選手は、二百三十四打数、百六十五安打、打率七割零分五厘、二百十五打点、二十六四死球、十四敬遠―」
 球場全体が和やかにさざめく。水原監督としばしの抱擁。レギュラーたちの花道をタッチしながら通り抜け、江藤と抱擁。
「ホームイン! ゲーム!」
 福井球審の試合終了宣告の声。下通のアナウンスがつづく。
「なお六月三日にお知らせしたとおり、打点二百十五は、昭和二十五年、松竹小鶴誠選手が記録したシーズン百六十一打点を破って、すでに六月十三日の巨人戦の時点で日本新記録でございました。後楽園球場では放送されなかった模様ですので、当中日球場でもう一度お知らせしておきます」
 ネット裏、高い位置にあるいくつかのラジオ放送用ブースで、アナウンサーたちがマイクに向かって思い思いに何か叫んでいる。ゲストがうなずいている。球場のざわつきで何も聞こえないが、何をしゃべっているか想像できる。入り乱れる記者やカメラマンたちを掻き分け、ベンチのチームメイトたちとタッチ。二勝目を挙げた星野秀孝と抱擁。半田コーチと抱擁。
「あんなホームラン、初めてヨ。もうバヤリースいらないね、インタビューだから」
 田宮コーチ、長谷川コーチ、一塁コーチャーズボックスから走り戻ってきた森下コーチが背中をバンバン叩く。宇野ヘッドコーチ、太田コーチと固く握手した。バックネット前でマイク片手にガナリ立てるレポーターの声がスタンドに反響する。観客がこちらを見下ろしながらぞろぞろ出入口へ移動していく。ほとんどの観客は宴のあとの名残を惜しみながら羊のようにおとなしく帰る。少年のころを思い出す。居残った観客の騒々しい手拍子がいつ果てるともなくつづいている。
「放送席、放送席、サヨナラホームランを打った神無月選手です」
 マイクの前に走っていくとき、主人や睦子たちに手を振った。菅野が水原監督やベンチの連中のように跳びはねていた。
「すばらしいホームランでした」
 マイクが突き出される。
「ありがとうございます。星野さんの好救援と、江藤さんが必死でもぎ取ったフォアボールがすべてです。江藤さんの真赤に充血した目がネクストバッターズサークルのぼくを睨みつけたとき、どうしてもホームランを打たなくちゃいけないと思いました」
 江藤がベンチの前で観客に手を振った。ワーという歓声と拍手。
「球種はフォークですね?」
「はい」
「ワンバウンドを狙い打ったように見えましたが」
「村山さんが絶好調でしたから自信はなかったんですが、外角低目のフォークに絞ってバッターボックスに入りました。地面に弾んだ瞬間がはっきり見えました」
「ワンバウンドのボールを打ってホームランにしたのは、神無月選手がプロ野球史上初めてです。打ったときのお気持ちはどんなでしたか」
「びっくりしました。先っぽでしたけど、うまくバットの重心近くに当たってくれました。でも、ほんとに初めてなんですか?」
「まちがいありません。戦前から戦後にかけて巨人軍に在籍していた、初代三冠王中島康治選手がワンバウンドを本塁打したという伝説がありますが、記録としては残っておりませんし、本人も否定しております。実際はセンター前ヒットだったそうです」
「中島さんはご存命ですか」
「今年還暦をお迎えになりましたが、カクシャクとしていらっしゃいます」
「伝説を汚してしまってすみませんとお伝えください」
 ベンチが大笑いする。水原監督が天を向いて笑っている。記者たちも声立てて笑った。
「九十七号まできました。いよいよ百号まで秒読みです。オールスター前に達成できそうですね」
「はい、たぶん……オールスターまではあと何試合ありますか」
 東海テレビのレポーターは胸ポケットから日程表を取り出し、
「七試合です」
「七試合で三本ならいけると思います。とにかく来年になって研究し尽くされないうちに、だれも追いつけない記録を作っておきたいです。人生の幸運なできごとは、それが何度起きようと、すべてマグレです。記録を残しておけば、後世の人たちは、マグレを実力と思ってくれます」
「百本もホームランを打って、マグレですか? こんな確実な業績をマグレとおっしゃるんですか?」
「何かの巡り合せでぼくはここにいるからです。ここにいるためには、人生の途上で相当のマグレが必要でした。雪だるま式の運命の好転がひつようでした。そのおかげで人生が有卦に入りはじめたとき、ぼくは幸運に感謝して、人知れず努力するようになりました。それがまたマグレに拍車をかけました。いまここにいるぼくも、ぼくの作る記録も、すべてマグレの集大成です」
 水原監督が走ってきて、
「失敬、失敬、横から口を出して申しわけないが、金太郎さんのマグレの定義はわれわれとちがうんですよ。ワル謙虚ととらないでやってほしい。本気なんです。ホームランを打つために身に備わった技術はたしかにマグレではないでしょう。しかし、野球に向かう彼の運命が少しでも狂っていたら、その技術を発揮してホームランを打てなかったかもしれないし、この先、運命に狂いが出れば、来年は一本も打てないかもしれない。それを有卦に入ったと感謝してるんです。運命がいい方向へ傾いたことを金太郎さんはマグレと表現する。彼の口癖は『実力など存在しない』です。マグレというのは、謙虚ではなく、喜びの表現です」
 それだけ言うと、またトコトコとベンチへ走っていった。そんなことを口癖にした覚えはなかった。私は水原監督の小さな背中を見て微笑んだ。
「すばらしいお話ですね。感動いたしました。この放送を聴いている全国の野球ファンのかたがたも感動していることと思います。八月の上旬には、早ばやと、消えないマジックが出るでしょう。一日も早くドラゴンズの優勝が決まることを祈っています」
「がんばります」
 二勝目を挙げた星野秀孝のインタビューは割愛された。星野はそんなことに頓着しないで菱川や太田たちとはしゃいでいた。




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