二百九

 ロッカールームで短いミーティングがあった。水原監督は肩に氷袋を乗せている星野秀孝を見つめ、
「三回と三分の二、打者十一人、三振五、凡打六、そのご褒美が二勝目だ。これで星野くんは完全にローテに入った。すでに十勝と十一勝を挙げている小川くんと小野くんには少し骨休めをしてもらって、十日の巨人戦から、十二、十三日の阪神戦までの三連戦は、星野くん、水谷寿伸くん、水谷則博くん、土屋くんから先発を選ぶことを考えている。そのほかのピッチャーは常に継投の心構えをしておくように。星野くんと水谷寿伸くんには十勝を目指してもらうよ。張り切ってやってください。オールスター後の二十五日の大洋戦からは、小川くんと小野くんと星野くんを中心にいく。小川くんと小野くんは、二十勝と沢村賞を目指しなさい。きょうの村山くんは沢村賞を三回も獲っている。試合前に彼と話したら、あと五年はやると言っていた。三十三歳がだよ。小川くんも小野くんも負けていられない。後半戦は小川くんを中心に、小野くん、星野秀孝くん、水谷寿伸くん、水谷則博くん、土屋紘くん、六人の先発ローテになる。中継ぎの山中くん、若生くん、門岡くんも、準備おさおさ怠りなく。勝ち星は、準備万端のときに思いがけなく転がりこんでくるものだからね」
「はい!」
「オス!」
「きょうの反省点は、思い切りの悪さだ。打ちにいってバットを途中で止める選手が多かった。中くん、高木くん、木俣くん、一枝くんまでその伝だった。打ちにいったら振ってしまいなさい。空振りでいい。きみたちはスターなんだ。魅せる人なんです。中途半端はみっともない。ヒットがたった七本、金太郎さんが三、江藤くんが二、菱川くん一、太田くん一。みんな思い切り振った人ばかりだ。山かけ、大いによろしい。とにかく思い切り振ること。いいですね」
「オィース!」
「それから、森下コーチ、江藤省三くんを正式に二軍から一軍に上げてください」
「わかりました」
「総力戦の形をとりますが、控え選手はここを先途(せんど)と覚悟して、全力を尽くしてください」
「オーシャ!」
         †
 七月七日の七夕はみごとに雨が降った。十日まで雨の予報だという。信じがたいことだが、三日と六日だけ降らなかったことになる。
 カズちゃんやキッコたちといっしょに朝食をすませ、彼女たちを玄関に見送ると、縁側に寝転んで、しとしと降りつづける雨を眺めた。直人を腰に乗せ、木の葉が立てる音に聴き入る。色とりどりの短冊を吊るした笹竹が座敷の隅に立ててある。
「タナバタサマ」
「うん、夜、お星さまに願いごとをするんだよ。きょうは雨でお星さまが見えないから、お空にお願いしよう。直人は何をお願いするの?」
「おとうちゃんとたくさんあそぶこと」
 トモヨさんが短冊とマジックペンを持ってきて、
「郷くんも何か書いてください。北村の女の人たちは、きのうのうちにほとんど書きました」
 美しく、と書いた。字が書けない直人の分も書く。おとうちゃとたくさんあそべますように。笹竹に吊るしにいく。一家の短冊を見つめる。

 北村耕三―争いごとのない世界。
 北村トク―ほんとにありがと。いつも言わせてや。
 北村和子―毎日笑っていましょうね。
 北村智代―直人が健やかに育ちますように。郷くんのお腹が強くなりますように。
 兵藤素子―生まれ変わってもまたキョウちゃんに会わせて。
 菅野茂文―天地がひっくり返っても神無月さんの手を離さない。
 鈴木睦子―みなさまといっしょに暮らせて幸せです。感謝。
 木谷千佳子―生きてるかぎりどんなことにも全力。
 新庄百江―世界じゅうの人が幸福になってください。
 大胡季子―願いは叶いました。もうありません。
 天童優子―長生きさせて。
 丸信子―お金はいりません。体重をください。
 近記蓮(れん)―アヤメの繁盛祈ります。旦那さん、女将さん、ありがとう。
 木村しずか―いつもなんだかうれしい。胸いっぱい。このままでいたい。
 三上ルリ子―来年は周防で娘と暮らしたい。
 田所イネ―いつまでもずっといっしょにいてください。
 喜屋武(きゃん)ソテツ―これ以上馬鹿になりませんように。料理の腕が上がりますように。
 賄い十二名代表幣原照子―お台所は健康の源。がんばります。
 スミレ―いい男に会いたいがや。なんとかしてや。
 愛子―結婚したい。
 つらら―宝くじが当たりますように。
 らん―また家族と暮らせますように。
 のぞみ―自分でありたい。

 最後の五人はたぶんトルコ嬢だろう。
「さ、直人、お仕度よ」
「はーい」
 トモヨさんが園児服を着せ、菅野が傘を差し、門まで手を引いていく。私と主人と幣原が門まで見送った。
「じゃ菅野さん、お願いします」
「ほい。きょうは雨で外遊びがないので、給食前に迎えにいきましょう」
 幣原もクラウンに乗りこんだ。降りつづく雨にも関わらず、朝から北村席の門前は中継車やカメラマンの脚立が並ぶ賑わいを見せている。主人が、
「連中の動きの速さには驚きますよ。しかし、ショートバウンドのホームランの取材にしては大げさですね。何やろ」
「さあ」
 座敷に戻ると、主人が新聞を持ってきた。
「あれはとてつもないホームランでしたな。生まれて初めて見ましたわ。ショートバウンドのホームランは世界初です」

 
村山快投実らず 神無月逆転サヨナラツーラン
     ワンバウンドのフォークをレフトポールへ

 プロ野球開闢以来初の珍(?)ホームランが飛び出した。中日―阪神九回戦、三対二と阪神リードの九回裏ツーアウト。闘将江藤は必死の形相で粘りに粘り、八球目ついにフォアボールをもぎ取った。その瞬間江藤はバットを掲げ、天に向かって吼えた。神無月につないだ、という喜びの咆哮だった。
 この日の村山は絶好調で、六回まで江藤と神無月それぞれに二本ずつ打たれた四安打に抑えていた。その四本で二点取られたが、六回裏山尾のスリーランで逆転。村山のできから見て、まちがいなく勝ち試合の流れだった。
 九回ツーアウトまできて、逃げ切り寸前。神無月四度目のバッターボックス。まず内角高目のストレートでのけぞらせ、二球目外角高目のシュートでストライクを取る。神無月はボックスを外し、スコアボードをぼんやり見つめた。めったにないことである。顔の高さの素振りを三回した。その高さのボールをスコアボードまで飛ばすというデモンストレーションのように見えた。観衆が轟々と沸いた。三球目、珍事が起きた。誘うつもりの外角低目のフォークがベースの角にするどく落ちた。パスボールかと見まがうほどのワンバウンドだ。田淵が上半身を前に倒して捕球動作に入りかけた一瞬、アッ! という短い叫びを上げた。ネット裏の記者席までその声が聞こえてきた。神無月が例の屁っぴり腰でボールの撥ねぎわを叩いたのだ。沸いていた観衆が息を呑み、打球の行方を見つめる。信じられないスピードで伸びていく。捕球範囲と見た山尾が背走してボール下でジャンプ。ほんのわずか届かない。打球は黄色いポールの内側に当たり、観客席に落ちた。山尾はボール下に両脚を投げ出してへたりこんだ。球場に喚声の渦が逆巻いた。
 ワンバウンドのボールを打つ―短打、長打の記録はある。ホームランはない。大リーグにもない。物理的に不可能ではないが、だれも打とうとしない。ストライクコースを打てと幼いころから教育されているし、そんなボールを打っても凡打の確率が極めて高いからだ。
 九十七号。私たちが親しんできた巨人・大鵬・卵焼きの狂騒が、金太郎・金太郎・金太郎の神秘世界に取りこまれた。人びとは一瞬息を呑み、喝采するのを忘れ、現実からはるか隔たった夢幻の境地に恍惚となった。これこそ〈金を払って観る〉アトラクションの精華であろう。
 神無月郷は球場で鬼神と化し、球場を出ると平凡な市民に戻る―そう信じたい。噂では、球場の外でも相変わらずその行動の逐一が人離れしているという。やはり、どこか遠くの異星から隕石のごとく地上に落ちてきた神人と見るのが妥当なのだろうか。
「また一つ、神さまの手品を見させてもらいましたわ」
 そうひとこと呟くと、村山は明るい足どりで球場をあとにした。


 菅野と幣原が帰ってきた。菅野が、
「記者連中、私たちに見向きもしませんよ」
 主人が首をひねり、
「何かあるな」
 結局彼らが何を目的に陣を張っているのかわからないので、私は座敷やトモヨさんの部屋の机で、買ったばかりの古本を読んですごした。正木ひろしの『ある殺人事件』はハラワタに沁みた。千佳子に進呈した。
「こんな弁護士を目指すのもいいね。日本のペリー・メースン」
「法学部では有名な人です。いま七十三歳で主に執筆活動してます。名古屋大学の理科を中退して、鹿児島大学の文科、東大法と移り、東大在学中に千葉県の佐倉高校や長野県の飯田高校で英語の先生をしたそうです。卒業後、東京の麹町に弁護士事務所を開業してます。受験ハウツー本も書いたりして、かなり儲けたみたい。天才ですね。四十代から個人雑誌『近きより』を発刊して、政府批判を繰り返しました。昭和十九年の首なし事件がよく知られてます。警官に取調べで殴られて死んだ男の墓を掘り返し、首を切断して持ち帰ったんです。東大の法医学教室で鑑定してもらい、他殺とわかりました。どうにか裁判にまでたどり着き、警官は三年の懲役刑を科されました。人を殺したのに軽いですね」
「警察と裁判所は〈お友だち〉だから」
「でしょうね。でも、公然の秘密とされていた警官暴行のタブーを打ち破ったんです」
 睦子や、月曜日が休みの天童や、ソテツやイネを中心とする賄いの女たちも一心に聴きはじめた。幣原たち数人は家うちの掃除にかかった。当番制になっているようだ。
「昭和三十年の静岡県の丸正事件もよく知られてます。丸正運送店の女店主が殺されて貯金通帳を奪われた事件です。在日韓国人が犯人として起訴されました。正木は被害者の親族が犯人だと記者会見を開いて発表しました。貯金通帳を持っていたからです。結局、東京地裁が取り合わず、冤罪と見なされる容疑者の実刑が確定しました。無期懲役です」
 女将が、
「すごい話やね。証拠があってもだめなの」
「はい。いまも上告中ですが、逆に正木がその親族から名誉毀損で告訴される羽目になりそうです」
 菅野が、
「七十過ぎて、たいへんだ」
「いやになるでしょう? 正木ひろしは、真実を究明する行動がもたらす希望の光をチラっと投げたんですけど、真実よりも形式を重んじる裁判というものに大きな絶望の影も落としたんです。国家に正義はありません」
 私はまたしゃべりだす。
「もともと搾取機関だからね。人間よりも金が好きだ。国家のコモをかぶった人のする仕事は、登竜門通過のための勉強と、搾取と、賄賂。金好きに人倫を求めてもむだということ。搾取の象徴の税金を払ってあげて、あとはお付き合いしないのがいちばんいい。不幸にして、無実の罪で死刑裁判にかかったら、無実だけ主張したあとは、さっさとあきらめて刑務所生活になれることだね。勉強や読書ができるし、適度な運動もできるし、芸術活動もできる」
 主人が、
「神無月さんらしい考え方ですね。こっぴどい苦労をしてきたから、すべてをあきらめとる。命あっての物種という考え方をせん。しかし、ほんとうに死刑になったら、どうしますか」
「そこまで一生懸命生きてきたから、悔いはありません。どうせ人間は誤解されて生きていく動物ですから。……いまの幸運がありがたくて仕方ない。感謝してます」
 みんなうつむく。主人が、
「……神無月さんを殺させませんよ」
 睦子が、
「そのためだけに、私、生きてます」
 菅野が、
「みんなそうですよ、ムッちゃん。しかし、神さまというのは徹底してあきらめてるんですね」
 私は話題を変えるために言った。
「幸運のあいだはあきらめません。ラッキーを楽しまないと。きのう、五百野の手入れをしたあと、なんだかむかしふうの風景に触れたくなって、傘差して、大門通りへ散歩に出かけたんです。何度も歩いたり走ったりしたあの古風な通りが見つからなかった。山口や東奥日報の人たちと一度いったし、菅野さんとも一、二度走ったのにね。市電通りに出て大門のゲートを発見してくぐったまではよかったけど、道筋をまちがえて迷っちゃった。羽衣の通りに出るまで苦労しました。そのときに古本を買ってきたんです」
 菅野が、
「この近辺から大門へ出るあたりは高級住宅地なんですが、地名がゴチャゴチャしてるし、一方通行も多い車泣かせの場所なんです。タクシーの運転手になってからは、それこそ地図を塗り潰すようにあちこちにお客さんを降ろしながら記憶しましたけど、もうその記憶も薄れかけてます。まちがわずに走れるのは、羽衣と鯱のあたりだけですよ。大門近辺は難しい。なんせ蜘蛛の巣通りですから」


         二百十

 三十分ほどで家うちの掃除が終わり、賄い打ち揃って洗濯小屋へ出ていった。雨でも洗濯をしないわけにはいかない。
 雨よけ棟に洗濯物を干し終わってから、ソテツたちが午前のおやつのドラヤキとコーヒーを運んできた。イネが、
「門の外がギッシリだ。ほんとに何かあるんだべか」
 主人が、
「どうもよくわからんな。菅ちゃん、何か聞いてる?」
「いえ、別に」
「神無月さんて、むかしに興味があるんですね」
 ソテツが言う。睦子が、
「ものを書く人って、いまよりも過去に惹かれるんです。書く行為が、過去の記憶に頼らなければできないことだからかもしれません。書いているそばから、現在がどんどん過去になることとは関係ありません。記憶に残っている遠い過去です。子供時代から逃げ出した人は、大人になる時期を失うんです。逃げ出さなかった神無月さんは完全な大人です。行動は赤ちゃんのように天真爛漫ですけど、精神はわがままな子供ではありません。むかしのことはどうでもいいという〈子供のままの人〉は、作家になれないと思います」
 菅野が、
「しつこいほどセンチメンタルジャーニーをしましたもんね」
「何の手はずも整えずにね」
「はい。でも、一回一回意味のある感じが胸にきて、しみじみしました」
「センチメンタルジャーニーをするのは、幸福な思い出よりも不幸な思い出をたどりたいからじゃないかな。幸福はだれの幸福も似ているけど、不幸は人さまざまだから。……不幸を思う悲しみに意味のある感じがして、飽きないんだね」
「はあ……不幸の中で起こるマグレも、胸にくるものがあります。ところで、きのうの阪神戦、チャンスが三回あって三回とも神無月さんの打順だったというのも、インタビューで言ってた雪だるま式のマグレというやつですね」
 トモヨさんが、
「ほんとだ! 人生に実力なんかないって言った郷くんの気持ちが、つくづくわかるわ。まず苦しみありきで、その苦しみを才能が確かなマグレに変えるのね」
「あれは水原監督の作り話だよ。実力など存在しないなんて口癖、ぼくにはないもの。監督はぼくを変人と思われないようにしてくれたんだ」
 主人が訊く。
「そうやったんですか? あれが神無月さんの気持ちそのものやと思いますがね。しかし、ザトペック村山は打ちにくいでしょう」
「変則的な投げ方は、ボールさえ見きわめられれば何ということもありません。六大学で当たった法政の江本なんか、最初驚きましたから。振りかぶり、くしゃくしゃからだが折れ曲がるようなぎこちないフォームから、速いストレートが飛び出してくる。でもベースにやってくるのはくねくねしたからだじゃなく、ボールなんです。打ちにくいのはボールそのものです。おとといの村山さんはストレートが速かった。さすが江夏が現れるまでの三振奪取王ですね。そのスピードを見たあとでのあのするどいフォークですから、もう手が出ない。きりきり舞い。足を移動させても予想したより前から落ちはじめるのでつかまえられない。四打席立って、四回バットを振っただけです。ピッチャーゴロ、ボテボテのセンター前、ようやく芯で捉えたライト前、ショートバウンドを打ったふらふらホームラン。勝負としてはライト前ヒット一勝、残り三敗でした」
 イネが、
「ふらふらでもホームランになったべ。オラにはピューッて飛んでったふうに見えた」
 菅野が、
「たしかにするどい打球でしたよ」
 睦子が、
「ほんとね。一直線でした。千佳ちゃんが、きれいって叫んでた」
「真芯に当たって強烈なレフト前ヒットになってたら、江藤さんは還れなかった。へたすると、三塁を回りすぎた江藤さんが、頭から戻ってタッチアウトなんてことがあったかもしれない。それでゲームセット。実質負けたのにサヨナラホームラン。それだけでも、とんでもないマグレでしょう?」
 女将が、
「神無月さん、ええかげんにマグレの話はやめにせんと。能がなけりゃ、ツキにも恵まれせんわ。インタビューはあれでええけど、私らには気ィ使わんと、ちゃんと自慢しなさいや。神無月さんの人生は、まず不幸ありきやったけど、それを幸福に変えたのはマグレでのうて、神無月さんの意志と能力や。その力に惚れてみんな寄り集まったんよ」
 睦子が、
「そうですね。郷さんの幸運とは関係のない、何か強いもの、華々しいもの、大きくてやさしいもの、そういうものに私たちは惹きつけられたんですよね。でも、郷さんの謙虚な考え方は、私たちのようなふつうの人間には大きな励みになります。努力しなければ幸運はやってこないということがわかって、努力を忘れなくなりますから」
 千佳子が、
「そのおかげで、私、名大に受かったんです」
「私もよ。大学なんて、そうそう簡単に受かるものじゃないから」
 アイリス組が陣をたがえて休憩に帰ってきた。菅野が直人を迎えに出た。
         †
 昼食を終え、カズちゃんたちがアイリスに戻っていった昼下がり、門前にしきりにストロボが焚かれて、騒がしくなった。事情を確かめにいったソテツと天童が飛んで戻ってきた。
「長嶋選手と王選手です! 水原監督もいっしょです」
「何やて! 水原さんも!」
 主人が大声を上げると、女将と菅野がおのずと腰を浮かした。女将が、
「何しにきたんやろ。水原さんまで」
 主人が、
「マスコミがうろうろしとったんは、そういうことやったんか……」
「ちょっと、ぼくいってきます」
「ワシもいくわ。座敷のテーブルちゃんとしといてや。トモヨ、直人は?」
「お昼を食べて寝てます。五時ぐらいまで起きませんから、だいじょうぶです」
「ほうか。まったく、どのツラさげてきたんやろな。水原さんがいっしょやなかったら、門前払いを食わせるところや」
 興奮している。賄いたちが走り回る。私は傘を差して主人と門前に出た。脚立が何本も立っている。フラッシュが間断なく光る。スーツで正装をした長嶋と王が、付き人に傘を差しかけられてにこやかに立っている。背後に黒塗りの大きな車が停まっている。私は王と長嶋にお辞儀をした。二人も深々とお辞儀をする。車の脇に、運転手の傘に守られて水原監督が立っている。黒の帽子に膝上までの灰色のチェスターコートをはおり、レザーのズボンを穿いていた。
「監督! 何ごとですか。長嶋さんと王さんまで」
 水原監督はこちらに進み出て、
「きのうのインタビューに感激して、長嶋くんと王くんがぜひ金太郎さんに会いたいと言うんでね。前もって電話をしたら十中八九断られると踏んで、二人で直接、名古屋観光ホテルに私を訪ねてきました。金太郎さんの都合はどうですか?」
 テレビカメラが二台、三台と接近する。竿マイクが垂れてくる。
「まったくかまいません。こちらはぼくの後援者の北村さんです」
 長嶋と王がお辞儀をする。主人も辞儀を返し、空元気だとすぐわかる声で、
「こんなむさくるしいところへようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください」
 記者たちが押し寄せる。しっかりと松葉会の組員たちがガードしていた。レポーター一人がマイクを突き出し、
「長嶋選手、王選手、きょうの訪問の理由は?」
「尊敬する神無月くんとお話するためです」
「一連の騒動と関係ありますか」
「まったくありません」
「では話というのは?」
「できれば親睦を深めたい、いや神無月くんの大きな人間性に触れて、野球生活をリフレッシュしたいということです」
 王が一人でしゃべる。主人が、
「マスコミのかたは、ここまででご遠慮ください。この家はいささか特殊な商売の家でして、内部の人間を写してもらいたくない事情がございます。プライバシーに関わることですので、どうかよろしくお願いします」
 門の引き戸が閉められる。私と主人に導かれて三人の客と付き人が庭石を歩く。
「とつぜんのことで、ジャージを着たままですみません」
 振り向いて言う。王が、
「当然ですよ。気を使わないでください」
「わざわざ東京からですか?」
「はい、午前早くに発ってきました。女房子供はご迷惑と思って、おたがい連れてきませんでした」
 王に子供がいることを初めて知った。玄関の式台に北村席一同が控えて叩頭した。
「いらっしゃいませ!」
 二人のスーパースターは仰天したようだった。
「長嶋茂雄です」
「王貞治です。とつぜん押しかけて申しわけありません」
 私は下駄を脱ぎ、水原監督の小さな手を引いてイの一番に式台に上げた。長嶋と王がつづく。付き人は土間に控えた。ソテツが気の毒がり、客部屋へ連れていった。車の運転手はガレージに車を入れ、運転席で待機しているのだろう。長嶋が、
「いい造りの家ね。うん、いい家だ。ここが天馬神無月くんの地上のハウス? うん、すばらしいね」
 主人はまず居間に導き、ソテツに命じてコーヒーを振舞う。気づかれないように渋面を作っている。トモヨさんが水原監督の帽子とコートを受け取り、帽子は壁のフックに、コートは衣桁に掛けて鴨居に吊るした。女将が、
「監督、おひさしぶりです。長嶋さん、王さん、北村の家内でございます」
「娘の智代です」
「居候の名大生、木谷千佳子です」
「同じく、鈴木睦子です」
 みんなを見知っている水原監督が、
「抜き打ちでおじゃまして、ごめんなさいね」
 トモヨさんが長嶋と王に、
「あちらは賄いの者たちです」
 廊下に突っ立っていたイネたちがいっせいにお辞儀をする。長嶋と王が頭を下げる。王が、
「大所帯だと聞いていましたが、なるほど。でも家が広いので大勢の感じがしませんね」
 水原監督が、
「どこで聞きつけたか、門前がうるさくなっちゃって申しわけなかったね。金太郎さんのいちばん嫌いな状況になってしまった」
 私は、
「水原監督やONが動くとなったら、雨が降ろうとヤリが降ろうとマスコミは放っておきませんよ。ぼくはいまこの賑やかさを楽しんでます。気になさらないでください」
 長嶋が、
「どうしても神無月くんに会いたくてね。水原さんに無理を言っちゃったのよ」
「身に余る光栄です」
 水原監督がトモヨさんの大きな腹を見て、
「トモヨさん、来月?」
「はい。みっともない姿を曝してすみません」
「丈夫な赤ちゃんを産んでくださいよ。直人くんは?」
「離れで昼寝してます。連れてまいりましょうか」
「いえいえ。起こさないで。睡眠は子供の仕事です。きょうは無理を通しちゃったね。この二人がどうしても金太郎さんと話をしたいと言うんでね。金太郎さん、きょうのスケジュールは?」
「何もありません。長嶋さんと王さんとお話できる思わぬ機会を持てて、こちらこそうれしいです」
 長嶋はコーヒーをキュッと飲み、
「ノー、ノー、きみはゴッド、私たちは人間。ゴッドとお話したかったのよ」
 王が、
「しばらくお話させていただいたらおいとまします」
 女将が、
「せっかくいらっしゃったんですから、ゆっくりしてってちょうよ。どうせ、ホテルにお泊りでしょ」
「はい、今夜は監督と同じ名古屋観光ホテルに泊まることにしてます」
 トモヨさんが、
「夕食を食べていってください」
「いや、ありがたいですが、水原監督とホテルで食事をすることになってるので。もしお誘いいただけるなら、またの機会に」
「そうですか、じゃ、時間の許すかぎりゆっくりしていってください」
「はい、お気遣いありがとうございます」
 菅野がシラッとした顔で、
「あしたは、雨でなければ、名古屋城を見てからお帰りになったらどうですか。なかなか壮観ですよ」
「そうですね、天気しだいで」


         二百十一 

 主人が、
「自己紹介もすんだし、座敷へ移ってゆっくりしましょう」
 座敷へいくと、トルコ嬢たちが平伏した。
「うちの店の女たちです。プライバシーと言ったのはこのことです」
 王が、
「監督からこちらの事情はほとんど聞いてます。私どもの口に関してはご心配なく」
 果物が出される。サクランボ、マクワウリ、メロン。長嶋がメロンをしきりに食う。冷えたビールと、つまみが何皿も運びこまれる。女たちがビールをつぎ、長嶋と王はうまそうにグラスを空けた。トモヨさんがワイシャツとブレザーを持ってきたので、縁側にいってパンツ一枚になって着替えた。長嶋が、
「ウッホッホ、噂どおり。これが天馬ね。開けっぴろげだ」
 王が、
「長嶋さんだって、素っ裸でよく素振りしてるじゃないですか」
 女将や女たちがニコニコ笑っている。私はブレザー姿でテーブルに戻り、
「王さんはいま何本ですか」
「百本打っている人に訊かれるのは恥ずかしいですが、十六本です。例年のペースより少し遅いです」
 長嶋が、
「ぼくは十一本。二人とも少しスランプ」
 王が頭を描きながら、
「三日の阪神戦で五番を打たされました。四番は柴田。気楽に打たせてもらっても三打数ノーヒット、一フォアボール、一三振。……神無月くん、あらためてお詫びをさせていただきたいんですが、いつかはほんとに失礼しました。侮辱されてるきみに、何の味方もすることができなかった。許してください」
 ツツッと後ろに下がり、畳に両手を突いた。長嶋も同じことをする。
「ああ、そんなことをしてはいけません、ぼくごときに、やめてください。日本の英雄にそんなことをされる理由がありません。逆にご心配かけてしまいましたね。すみませんでした」
 私も同じように彼らの前に頭を下げた。三人握手し合い、あらためて席に戻る。王は水原監督につがれたグラスを握り、
「水原監督、ほんとに申しわけありませんでした。巨人の顔であるぼくたちが腑甲斐なかった」
「金太郎さんが気にしてないってわかったんだから、もういいんじゃないの。きみたちには何の悪意もなかったんだから」
 トモヨさんは長嶋にビールをついだ。主人が水原監督にビールをつぐ。長嶋が、
「あのとき、ワンちゃんはぼくに、川上監督を説得していっしょに謝罪にいきましょうって提案したんだけど、ちょっと尻ごみしちゃった。川上監督はえらい人だし、ぼくを信頼してくれてる人だしね」
 上司への意見を控えたのは長嶋の自己防衛本能だ。信頼されていたい、つまり、よく思われていたいという本能だ。主人は、
「それは組織の一員としての常識でしょう。波風は立てたくないですからな。金田さんは組織の和をいったん捨てて、個人の正義のために波風を立てたんですよ。スポーツマンとして恥ずかしいことをしたと思いませんかって。クビ覚悟でね。四百勝がかかっているのに……。四百勝は巨人軍の目玉商品ですから、記録を達成するまでは金田さんは巨人に留め置かれるでしょうが、達成したとたんにクビになりますよ。穏やかにね」
 王が、
「それはちょっと……。五百勝するつもりだと金田さんは常々言っていますから。少なくともあと二、三年は」
「それは甘いですね。金田さん本人と王さん以外、だれもそう思っていないと思いますよ」
 長嶋が気まずそうにうつむいた。千佳子と睦子がビールをついで回る。私は、
「ぼくが気になったのは久保田さんのことだけでした。その話はもうお蔵入りにしましょう。川上監督は球界にとって大事な人です。それより四百勝達成以前に、金田さんの身に何か起こるのが心配です」
「それはぜったいないですよ」
 うつむいていた長嶋が顔を上げて明るく言った。その確信ありげな長嶋の様子に、王は疑わしい視線を向けた。四百勝達成以後は主人の言ったとおりになるということを知っている口ぶりだったからだ。王は視線をそっとテーブルに戻すと、気を取り直したように私にビールをつぎ、ギョロ目で見つめた。
「ありがとう、神無月くん、そう言ってもらえて気分がラクになった。金田さんも喜ぶでしょう。それでですね、きょうお話したかったのは、謝罪のことのほかに、チームの和気のことなんです。あれ以来ギクシャクしてるんですよ。それがチーム成績にも個人成績にも悪影響を与えてる。ドラゴンズのように明るくいかない。先日のインタビューであなたがおっしゃってた、人生はマグレの寄せ木細工といったみたいな、ある種超人的な心境は望むべくもありませんが、具体的に何かいい打開策はないでしょうか」
 私はグラスを空け、
「策なんてものはありません。自分の行動を思い返して考えるしかないですけど、そうですね、男の肌を女の肌だと思えばいいんじゃないでしょうか。生来、競争を旨とする男と男のあいだには、微妙な壁があります。肌を触れ合えないんですね。必然的に自分一人の肌の中に閉じこもってしまう。ぼくは七年も飯場生活をしてきたおかげで、それがなくなりました。何の違和感もなく男と抱き合えるんですよ。ドラゴンズの人たちは、みんなそういう気質です。キスまでしてくる人もいます。東大の野球部の連中もそうでした」
 水原監督が、
「金太郎さんが起こした奇跡だね。そういうことが自然にできるようになった。キャンプのころにはまだギクシャクしていた。金太郎さんをライバルと考える人間が多かったからね。それはそれでかまわない。ライバルととろうと、師匠ととろうとかまわない。ただ愛しさが湧いてくればいいだけだ。私も含めてドラゴンズメンバーは、いつのまにかそうなった。真剣で、純粋な、人なつこい人間と暮らしていれば、みんなそうなる。その人間が自分たちに触れてきたら、触れ返したくなるだろう?」
 王は、
「そうですね。肌……ですか」
「大上段でもいいから、まず触れ合うことです。恥ずかしさが消え、そのうち習慣になります。習慣になれば違和感がなくなります。すべてはそこからじゃないでしょうか」
「わかりました。まず触れ合いの実践。ホームラン打ったら、握手だけじゃなく、抱きついてみます」
「金田さんが抱きつきやすそうですよ」
 長嶋が、
「アハハハ、ぼくは川上監督にやってみよう」
 主人がギョッとした。長嶋茂雄は異星人だ。私たちの言葉が通じない。彼はサクランボをまとめて頬張りながら、
「ところで天馬くん、きみを心底野球に開眼させたのは、昭和三十五年の日米親善野球だったと聞いたけど」
「はい、九年前、小学校六年生でした。飯場の社員たちに中日球場へ連れていってもらいました」
「ぼくもワンちゃんもその試合に出てるんだよ。サンフランシスコ・ジャイアンツは、十月二十二日に来日して、巨人軍とは後楽園で一試合、全日本軍とそのほかの球場で十六試合戦った。十一勝四敗一分け。自分やワンちゃんの成績はどうだったか、細かいところは忘れちゃったけど、この年デビューしたファン・マリシャル、二年目のウィリー・マッコビー、それから十年目のベテランウィリー・メイズのことは鮮やかに憶えてる」
 王が餃子のつまみに箸を出し、大きなアゴを動かしながら咀嚼する。
「おいしいですね。五十番にヒケをとらない」
 女将が、
「五十番て、お父さんのお店?」
「はい。四年前に引退して、一番弟子の関さんという人が跡を継いでやってます。ラーメンもうまいですよ。ところで日米親善野球に話を戻しますが、マリシャルはすごかったですね。五色の投球。あれ以来二十五勝以上を三度も挙げて、今年も二十勝、最優秀防御率の最右翼です」
 王も根本的に能天気だ。合わせなければならない。
「背番号27。左足を高く上げるピッチャーでしたね。真っすぐではなく、くの字に上げてました。それ以外はあまりよく憶えてません。とにかくマッコビーが強烈だったので。背番号44。四打数四ホームラン、すべてライナーの場外」
 菅野も合わせる。
「今年で十年目のマッコビーは三冠王候補です。サンフランシスコ・ジャイアンツのホーム球場は右翼場外が海で、その入り江のことをマッコビー・コープと呼んでます。場外ホームランの多い人なんです。神無月さんはそのマッコビーを越えて、世界ナンバーワンのホームランバッターになりました」
 王が、
「そのとおりです。神無月くんの記録は、本数、飛距離ともに、もう世界のだれも破れないものになった。しかしおたくはよく野球の事情に通じてますね」
 菅野の顔に静かな笑みが浮かんだ。
「社長もそうです。神無月さんに遇ってから、詳しく調べるようになりました」
 水原監督が、
「私たちは菅野さんの調査でとっくに裸にされてるわけだ。野球だけにしといてね。金太郎さん、中日新聞の白井さんから聞いた。九月から日曜版に小説を載せるらしいね」
「はい。小説などという高級なものじゃなく、作文です。幼いころの記憶を書き溜めたものがありましたから、お受けしました。チームに迷惑をかけることはありません」
「迷惑などと、気遣いはほどほどにしなさい。私は楽しみにしてるんです。金太郎さんのもっと細かい部分を知ることができる。それがうれしくて仕方がない。東京の自宅にも中日新聞をとることにしました」
 王が、
「野球も出てくるんですか」
「いえ、十歳くらいまでのことですから。それに記憶と言っても、ノンフィクションじゃありません。想像をふくらませて書いたものです」
 睦子が、
「神無月さんの文章は芸術そのものです。神無月さんが芸術家になることを願っている人も少なくないんですよ」
「山口くんのようにね。私も最晩年には、芸術家の金太郎さんを眺めながら暮らしたいなあ。いまはいっしょに野球を楽しみたい」
 長嶋が、
「だれですか、山口くんて」
「金太郎さんの友人のギタリストだ。よく新聞に載ってるよ。この数カ月で日本のギターコンテストの主だったところを総なめしたようだ。八月にイタリアのギターコンテストに出場するそうだが、好成績を確実視されている。いずれ日本を代表するギタリストになるだろうね」
 王が、
「神無月くんの世界は広いなあ! そんな人とどこで知り合ったんですか」
「青森高校時代の同級生です。この二人も同級生です」
「この鈴木くんは、東大野球部のマネージャーだった。山口くんは金太郎さんに合わせて東大法学部を一年で中退したが、在学中に東大のコンバットマーチを作ってる」
 長嶋が、
「アンビリバボー! じゃ鈴木さんも一年で中退して、名古屋大学にきたの?」
「はい。木谷さんといっしょに。私たちの目的は神無月さんのそばで暮らすことですから。水原監督と同じですね」
「まさに! しかし、そんなふうにものごとがスイスイと実現するためには、とんでもない努力が必要だね」
「はい。さっきの、肌を触れることに違和感を覚えないところまでいくべきだという神無月さんの哲学に、人は何ごとも懸命に努力すべきだという一般の哲学が加わらないと、肌を触れ合うための信頼感は芽生えません。その信頼感がなければしっかりした人間関係ができあがらないと思うんです。努力ということでは、神無月さんは私たちの先生です」
 水原監督が、
「ドラゴンズの連中も同じですよ。金太郎さんの鍛錬を模範にして懸命に努力してる。あの屁っぴり腰スイングだけはまねできないようだがね。あの形で五十本、百本と振るのは、とんでもない重労働だ。腰をやられるかもしれん。ところで長嶋くん、王くん、巨人の努力頭はきみたち両名だということはとみに有名だ。あとは自然に肌を触れ合うことさえできるようになれば、きみたちは巨人軍の二大金太郎になる。早く立ち直って、強い巨人と戦わせてくれたまえ」
「はい!」
 返事をしながらも長嶋の箸は止まらない。チンジャオロースをつまみ、餃子をつまみ、刺身をつまむ。まちがいなく異星人だ。王が、
「神無月くんは特訓というものを否定してるようだけど、そのきみが腰を痛める危険を冒してまで素振りをするというのは?」
「特訓は無駄骨だと思いますが、鍛練は否定しません。たとえば、素振りはみなさんのように五百本も千本も振ることはなく、丁寧に百数十本振るだけです。疲れますが、からだを傷めることはありません」
 長嶋が、
「それじゃ、プロと言えないんじゃないのかな」
「プロは山籠りして自己啓発する求道家じゃありません。人に技をお見せしなくちゃいけないショーマンです。健康なからだが資本です。プロ野球選手がからだをこわすほど必死で練習するというのはおかしいと思います」
 長嶋の眉間にかすかな皺が寄った。


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