二百十八

 九時を回った。キクエと節子が名残惜しげに立ち上がって、ソテツとイネたちにごちそうさまを言った。遅番出勤だ。菅野もいっしょに立ち上がる。節子が、
「山口さん、その歌、私にも教えてください。……唄いたいの」
「うん。名古屋に移ってきたら教える」
 キクエが、
「すばらしい一夜でした。ありがとうございました。九月のイタリアのコンクール、がんばってください。いつか名古屋におトキさんと帰ってきら、おたがい行き来できることを楽しみにしてます」
「うん、俺たちも楽しみにしてる。二人とも仕事がんばってね。トモヨさんをよろしく」
「ご心配なく。私と節ちゃんが出産の担当になりましたから。それじゃ、みなさん、失礼します。キョウちゃん、さよなら。胸が苦しくなるほどすてきな歌、ありがとう」
「どういたしまして。仕事がんばってね」
 節子が私にキスをした。キクエもキスをした。カズちゃんとおトキさんが二人に傘を差しかけて門へ送っていった。女将が、
「ああ、ほんとにすてきやったね」
 主人が、
「こういう世界のこと、何て言ったかなあ」
 睦子が、
「桃源郷、ユートピア」
「それや。政治も法律もあれせんのに、みんなで仲良う暮らしとる世界や」
 千佳子が、
「隔離された世界ですから、神無月くんといるときだけのもの。神無月くんも、私たちといるときだけのもの」
 イネが、
「神無月さんがいねぐなったら、桃源郷でなくなるんだべ。そたらふうになったら、オラはおしまいだすけ、死ぬしかね。だども死ねながったら……ほかのふとたぢと暮らすのはおっかね」
 おトキさんといっしょにカズちゃんが戻ってきて、会話を聞きつけ、
「キョウちゃんがいなくなっても生き延びたいなら、ほかの人とうまくやってくしかないわね。怖くないわよ。生き延びたらもうキョウちゃんの女じゃないから、だれもいじめないもの。キョウちゃんがいなくなることこそ怖がらなくちゃ」
 素子が、
「ほうよほうよ。おトキさん、山口さんがいなくなったらどうするん?」
「死にます」
「生き別れでも」
「はい」
 カズちゃんが、
「その気持ちがあれば長生きできるわよ。山口くん、長生きしてね」
「当然だよ。長生きしなくちゃ何のために巡り合ったかわからない」
 カズちゃんが強くうなずき、
「イネちゃん、キョウちゃんが死んだらどうするかなんて、だれだって計画が立たないのよ。死ぬ覚悟もする必要がないの。キョウちゃんが生きてるあいだだけはしっかり生きようと思ってれば、何も怖くないでしょう。計画も立てなくていいし」
「はい―」
 洗い物の終わったかよいの賄いたちが帰り、一家が座敷の長卓二つにまとまった。おトキさんはソテツやイネや幣原と拭き始末と水屋の整理にいった。ついでにコーヒーを出す。節子たちを送っていった菅野が帰ってきたのを潮に、山口が、
「神無月、二曲目どうする」
「きょうはもういい。お腹いっぱいだ。あしたはさっきの歌を教えてもらう。それよりおまえとゆっくり話がしたい」
「そうか。おまえとの会話はいつも語り残しがないから、里の村人同士のような積もる話はない。胸の内がないようなもんだな。世間話でもするか」
 主人が、
「それは無理ですよ。神無月さんには世間がないから」
「そうですね。じゃ、小一時間、まじめに野球談義をしますか。国を代表する野球人の親友が野球に詳しくないのはおかしいし、後ろめたい」
「殊勝なことですな。お付き合いしますよ」
 菅野が、
「私も付き合います。お二人は知恵話も知識話も超一流ですから楽しい」
 丸信子が、
「知恵と知識ってちがうんですか?」
 私は、
「知恵は絵の具を載せる土台のパレット、知識はパレットにこびりついた絵の具。水ですぐ洗い流せる。乾燥してこびりつくと、なかなか洗い流せない」
「いい比喩だ。野球の知恵話は専門的になるので、女性陣は適当にミコシを上げてくださいよ」
「聞きたいです!」
 千佳子が睦子とうれしそうにステージ部屋の明かりを落としにいった。女将が、
「私はお先に失礼して、寝ますよ。野球の話はチンプンカンプンやから。神無月さんを中日球場で観たからもう満足。お休みなさい」
 みんなでお休みなさいを言う。いつものように麻雀卓が立って、女たちの一部が縁近くに移動した。主人が、
「―まず、野球の歴史からいきましょうか」
 私は、
「歴史と言うからには、ちょっと長い話になりますね」
 山口は、
「お願いします」
「あまり古い歴史を聞いてもピンとこないところもあるでしょうから、適当に聞き流してください」
「ちゃんと聞きます」
「ぼくもしっかり復習しておきたい」
 幣原がウイロウを切ってきた。すぐにお休みなさいを言って引っこんだ。
「プロ野球が始まったのは昭和十一年のことで、終戦直後までは職業野球と呼ばれとりました。アマチュア野球人からは見世物野球として軽蔑されとったんですが、それでもだんだん庶民に人気が出てきましてね。巨人一色みたいなもんやったがね。それが戦争でしっちゃかめっちゃかになった。日本復興政策の一環として、野球の復興はGHQの占領政策の眼目の一つだったんですよ。昭和二十年の十一月に、日本野球連盟の復活が発表されました。二十一年から八球団によるプロ野球ペナントレースの開幕」
「その球団の名前は?」
 山口がすぐさま問う。私も興味が出てきた。
「近畿グレートリング、巨人、大阪、阪急、セネタース、ゴールドスター、中部日本、パシフィック。ところが新たに毎日と近鉄が加盟を希望してきたことから悶着が起きた。巨人と中部日本とパシフィックが反対したからです。このあたりゴチャゴチャするから適当に聞いてな。それからも続々加入希望チームが増えて、結局、二十四年十一月のオーナー会議で、既存八球団と新たな七球団を加えた十五チームを二つに分け、セントラル・パシフィック両リーグ制にすることになった」
 あまりに詳しい知識にすぎるので、ソテツやイネたち住みこみの賄いが交えていた膝を解いて、そっと腰を上げた。天童と丸も腰を上げた。
「その内訳を訊いていいですか」
「はいはい。セリーグは、読売ジャイアンツ、大阪タイガース、中日ドラゴンズ、国鉄スワローズ、広島カープ、西日本パイレーツ、大洋ホエールズ、松竹ロビンスの八球団。パリーグは、東急フライヤーズ、大映スターズ、阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄パールズ、毎日オリオンズ、西鉄クリッパーズの七球団になった。この十五球団はコロコロ名前を変えていきますけどね。昭和二十四年の中日ドラゴンズについてはあとで話します」
 私は、
「お父さんと菅野さんは、プロ野球の生き字引なんだ。すごいだろ」
「すごすぎる。おまえの野球生活のしっかりしたバックボーンになってる」
「二十五年にライオン歯磨が、広告宣伝をプロ野球とタイアップすることにしました。後楽園球場のスコアボードの両脇にあるライオン歯磨がそうです。梅田劇場でのパリーグ発足式には、ライオン歯磨は大花輪を送っとります。GHQからは近畿民事部長のオモハンドロ大佐が駆けつけて祝辞を述べた。パリーグ発足の日に、人力の輪タクで大阪市中パレードまでやっとる。一キロのパレードのしんがりにくっついて、ライオン歯磨と大書した飾り車が、四万枚の公式戦招待券を配りながら進んだんですわ。この年から初めて日本シリーズが行なわれるようになった」
「神無月がそんな時代に生まれたことに並々でない因縁を感じるなあ。俺も生まれたんだけど、俺の因縁にはならなかった」
「ところで、昭和二十四年のドラゴンズやが―」
「お、いいところにきましたね」
 菅野は嬉々としてあぐらを組む。カズちゃんが、
「菅野さん、帰らなくていいの? あしたがつらいわよ」
「この話だけ聞いたら帰ります」
「じゃ、私たちは帰りましょ。男たちが野球の話をしだしたら長いんだから。キョウちゃん、今夜はどうするの?」
「話を聴いたら、コーヒーを一杯飲んで帰る。あした走るから」
「そう? じゃ、私たち帰るわね。あなたたちも長話に付き合わないで寝ちゃいなさい」
 カズちゃんは睦子と千佳子に声をかけて、素子、メイ子、百江といっしょに玄関へ出ていった。睦子はコーヒーをいれに立ち、千佳子はステージの後始末の確認にいった。キッコは、お休みなさいを言って、近記やしずかたちと引き揚げた。しばらく厨房でおトキさんの後片づけの音がゴトゴトしていた。主人はコーヒーをゆっくりすすって話しはじめた。
「二十三年に技術顧問やった天知俊一が監督に就任した。大映スターズからきた突貫小僧坪内道則、千試合出場と千本安打の第一号やが、そいつと生え抜きの西沢道夫が助監督兼プレーヤーになって天知体制を固めた。一番センター坪内、二番ライト原田督三、三番ファースト西沢、四番ショート杉浦、五番キャッチャー野口明、六番サード土屋、七番レフト杉山の強力打線。八番セカンドはだれやったかな。そこへ明治出の杉下茂が恩師の天知を慕って入団した」
 山口が、
「あのフォークボールの杉下ですか」
「はい。捕手は阪急から野口明がきて、五年間二割七分前後を打った。内野には南海から土屋亨を補強した。そうやった、セカンドは土屋やった。昭和二十四年は、西沢が三十七本三割、杉山が三十一本二割六分、杉浦が二十三本二割六分を打った。シーズン三本の満塁ホームランの新記録を作った原田督三もおった。天才服部受広が二十四勝して球団創設以来最高の勝ち星、打ってはリーグ最高の三割一分を記録した。それでもチーム成績は五位、優勝は相変わらず巨人やったけど、ようやく強いチームへ前進するための地盤が固められた年やった。巨人の受けは悪かった。前の年の暮れ、優勝チームの南海からエースの別所を強引に引き抜いたせいや。セパ両リーグに分裂したあと、対立のミゾが深まった原因も一つはそこにある。とにかく、昭和二十四年が一リーグ時代への最後のシーズンになって、球界が新しい時代へ突入していったわけや」
 私は、
「昭和二十五年の二リーグ分裂以降の、チーム名の変遷を知りたいんですが」
 主人が菅野に頼むという顔をした。菅野は天井を睨み、
「まずセリーグですが、読売、中日、広島、大洋、国鉄は変わらず。大阪タイガースは保護権が大阪府から兵庫県に移ったので、三十六年に阪神タイガースに変更。松竹ロビンスは二十八年に大洋ホエールズに吸収合併されました。次にパリーグ。西日本パイレーツは二十六年にパリーグの西鉄クリッパーズと合併して西鉄ライオンズになりました。大映スターズは昭和三十二年に高橋ユニオンズを吸収して大映ユニオンズ、三十三年に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズ、昭和三十九年に改称して東京オリオンズ、今年ロッテと業務提携を結んでロッテオリオンズ。東急フライヤーズは二十九年に東映に経営を委託して東映フライヤーズ。近鉄パールズは、三十三年に近鉄バファローに改名、三十七年に近鉄バファローズに改名。阪急、南海はそのままです」
「お二人はほんとに生き字引ですね。畏れ入りました。両リーグ六チームずつになったのはいつからですか」
「パリーグは、長嶋の入団した昭和三十三年からです。セリーグのほうが五年早く、二十八年に六チームになってました」
 千佳子が、
「長嶋という人も節目にいる人ですね」
 主人が、
「星でしょうね。長嶋と王が巨人の黄金時代を築く星の下にあったなら、ドラゴンズの黄金時代を築く星の下にあるのは神無月さんです。しかし彼らは、正確には黄金時代を築いたとは言えない。長嶋や王が入団する前に巨人は、水原監督のおかげで八年間に六回も優勝しております。二人はその勢いに乗って川上監督の黄金時代を築いてやっただけです。中日はこの十五年間優勝しとりません。ゼロから黄金時代を築き上げるのは神無月さんです」
 睦子が、
「東大も、神無月さんがいてくれたら、四年間の黄金時代を築いてたでしょうね」
 山口が、
「青森高校もな」
 菅野が、
「北の怪物時代を見てみたかったなあ」
 山口が、
「いまと同じです。青森じゅうが驚愕しましたよ」
 主人が、
「その時代の新聞は和子が送ってくれたからぜんぶ切り抜いてあるけど、ワシも実際に見たかった」


         二百十九 

 厨房から戻ったおトキさんが、
「さあ、旦那さん、もう寝てください」
「ほうやな。じゃ、寝るか。山口さん、酒もビールも神無月さんの看板直撃のおかげでたっぷりありますから、飲みたければお好きにどうぞ」
 山口が、
「いや、きょうはもう飲みません。あした一日ゆっくりできますから、あしたに回して寝ます。お休みなさい」
 主人が去っていくと、おトキさんが山口に、
「今夜はご苦労さまでした。あしたもよろしくお願いいたします。ゆっくりお風呂に浸かってください。あしたの朝、私は厨房のお手伝いで早く起きますけど、気にせず寝ててくださいね」
「わかった。じゃ、神無月、あしたの昼、ステージで練習しよう」
「うん」
「テープ忘れないで持ってけよ」
「もちろん」
 二人が去ると、睦子が、
「あしたは私たち、一限から授業ね」
 千佳子が、
「雨で鬱陶しいけど、がんばろう」
「うん。郷さんを門まで送ってく」
「私もいく」
 菅野が、
「私が則武まで送ります」
 睦子と千佳子は門の前で私とキスをして、手を振った。石坂洋次郎でも読んで少し夜更かしをしようと思いながら、菅野に則武まで送ってもらった。
「……あすあさってあたり、梅雨明けらしいですよ。あしたは何時から走りますか」
「きょうは少し本を読んで寝るから、九時ぐらいにしましょう。早番の子を送った帰りに寄ってくれればいいです。北村の門で降りて、行く先を決めましょう」
「了解。……連覇してくださいね。セパに分裂して以来、中日で三シーズン監督を務めた人は、おととしまでの西沢だけなんです。水原さんにはぜひ、最低十年は監督をやってもらいましょう」
 監督が長期間務めることは連覇の必須条件だ。夢ではないように思われた。少なくとも三連覇は―。則武の家の玄関前で車を停めて、しばらく話す。
「どうして西沢監督は三年で終わっちゃったの?」
「ドラフトの貧しさですね。大場隆広、伊熊博一、伊藤久敏、井手峻の四人を採りましたが、伊藤以外はオシャカ。それでもチームは二位に踏ん張りました」
 粉雪の明石公園で出会ったのは井手と伊藤久敏だったことを思い出した。井手が大場の悪口を言っていたことも。
「伊熊博一って、どういう人だったかなあ。たしか左利きだったな」
「中商出身の背高ノッポです。ライト、四番で甲子園春夏連覇したんですがね。泣かず飛ばずのまま、そろそろ引退でしょう。西沢さんが三年で終わったもう一つの原因は、ちっとも悪いことではないと思いますが、六年ぶりに外人抜きのチームを編成したことです。南海から井上登も戻ってきて、意欲満々で出発した一年だったんですけどね。明るい話題は小川さんが二十九勝を挙げて沢村賞を獲ったことだけです」
「二位なのに、西沢さん、辞めさせられちゃったんだね」
「いえ、年明けに十二指腸潰瘍悪化で辞任したんです。後任は二度目になる杉下さんが引き受けました」
「二位から最下位に転落した理由は?」
「野崎利夫オーナーから代わって、小山武夫オーナーが球団のトップに立って、前年の勢いをベースにチーム改革に乗り出したんですが、ドラフトで採ったのが土屋紘、江島巧、若生和也、村上真二、星野秀孝、金博昭。江島と若生はまあまあ、土屋は今年少し芽が出はじめ、星野はここにきて浅間山の噴火みたいにとつぜん爆発しましたけど、残りの二人がオシャカ。土屋と星野にしても丸一年二軍暮らしでしたからね。大映から小野、西鉄から田中勉、サンケイに河村保彦を出して徳武を交換トレードで獲得。万全の態勢で臨んだ年だったんです。その結果、開幕直後五勝五敗のあと、四月二十日から五月一日まで九連勝、これはいけると思ったとたんに八連敗。小川の不調がたたりました。それに加えて、中が眼病、高木が死球で長期戦線離脱。五月下旬から十一連敗、つづけて六連敗とドン底に落ちました。六月下旬には杉下が就任八十日で休養、本多二軍ヘッドが代理監督になって再起を図ったものの、その後も二桁連敗がつづき、球団創設以来全球団に負け越して、結局最下位です。例の赤黒のノースリーブユニフォームも受けが悪く、この年かぎりで廃止になりました。……そこへ神無月さんが現れたわけです」
「まるで救世主の現れ方だけど、現実に救世主になれてよかった。ぼくのせいで浜野百三とか島谷の問題が起きたし、川上監督や暴漢の事件なんかも起きたけど、プラス・マイナスで見ればプラスのほうだね」
「大プラスです。神無月さんの登場はドラゴンズだけでなく、全プロ野球チーム、日本の全野球愛好家の大プラスです。ドラゴンズ球団フロントは、その貢献に金銭で報いるだけでなく、神無月さんをいろいろな暴力に蹂躙されないよう最大限の努力をするはずです。一連の問題は、巨人軍でないチームに救世主が現れたことに、巨人軍はじめ巨人軍を贔屓チームにする市民があわてふためいて引き起こしたものです」
 則武の玄関の石畳に菅野と立つと、カズちゃんが傘を差して出てきた。私は菅野に、
「じゃ、あした九時」
「はい、車できます。お休みなさい」
「お休み」
 カズちゃんが菅野を呼び止め、
「菅野さん、毎日遅くまでいろいろありがとうございます。奥さんに電話して謝っておいたから。ゆっくり休んでね」
「はい、お気遣いありがとうございます。そのいろいろなことが楽しいんですから、お気になさらないでください。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
 カズちゃんが私に傘を差しかけ、
「早く寝なさい。もうすぐ十二時よ」
 キッチンに入ると、メイ子も起きてきた。カズちゃんがコーンスープを温めて出す。三人でテーブルに落ち着く。
「ありがとう。石坂洋次郎でも読んで寝るよ」
「そんなことやめて寝なさい。石坂洋次郎なんて」
「知ってるの」
「ほとんど読んだわ。映画も観たし」
 メイ子が、
「青い山脈、陽のあたる坂道、何処へ、霧の中の少女、乳母車、山のかなたに、あいつと私、若い人、あじさいの歌、雨の中に消えて」
「裕次郎の出てる映画が多いね。陽のあたる坂道、乳母車、あいつと私、若い人、あじさいの歌、ぜんぶ観たよ。軽い映画ばかりだ」
「百万人の作家と言われてる人よ。セックスは健全だと謳うけど、セックスの喜びと神秘を書かない偽善者ね。青森弘前の人でしょ。七十歳近いはずよ。慶應の国文を出たお坊ちゃん。傑作は二十五のときに書いた、海を見に行く。すごい夫婦喧嘩が書いてあるわ」
「映画は軽いけど、文章はどうかな。石中先生行状記、三巻本。題名がいい」
「昭和二十五年に成瀬己喜男が映画にしてる。本も映画も馬鹿っぽい」
「カズちゃんがそこまで貶すということは、よほど真実味がないということだね」
「皆無。海を見に行くは、私持ってるから、机の上に置いとく。東京へ持っていくなりして読んで」
「うん。じゃ、きょうは寝る」
 三人、キスをして、それぞれの部屋に引っこんだ。
 音楽部屋で寝る。山口のくれたレスター・ヤングのテープを小さい音量で流しながら目をつぶる。やさしさ。二曲で止め、コールマン・ホーキンスのリールテープを回す。荒々しい。好みではない。聴き比べろという意味だったのにちがいない。
 レスター・ヤングに戻して、やはり石中先生を開く。連作。まず、田舎の人間の心の窓はこれほど疎開者に都合よくは開かないという不満が湧く。カズちゃんの言う真実味のなさというのはこのことか。たしかにふるさとの津軽を舞台に戦後の農村の開けっ広げな風俗を活写している(バルザックの風流滑稽譚を読み返したくなった)。ただ、ツヤっぽく書こうとはするのだが、カズちゃんの言うとおり、性の本質にとぼける姿勢が強い。最終的にカタルシスを起こさない作品だと、読んでいる途中からわかる。テープを止めにいき、蒲団に入って目を閉じ、眠りを引き寄せる。
         †
 七月九日水曜日。八時起床。カズちゃんたちの気配はない。カーテンを開けると、窓から射しこむ朝の光が弱々しい。曇り空。十九・七度。軟便。うがいをし、シャワーを浴びながら歯を磨く。
 食卓に、いなり寿司四個、ステーキ一枚、玉子スープ。平らげる。
 ジムトレ、羽ばたきダンベル、三種の神器、片手腕立て二十回ずつ、倒立腕立て十回、素振り百八十本。二度目のシャワー。
 玄関に警笛の音。ジャージを着て、菅野のクラウンに乗って北村席までいき、数寄屋門の前から二人でぼんやり笹島方向へ走り出す。笹島の交差点から巨大なオフィスビルの建ち並ぶ広小路通へ。歩道が広いので走りやすい。いかにも最先端のビジネス街の趣だ。納屋橋。堀川を渡る。雨に洗われた枝垂れ柳が美しい。ホテルのそびえる並木道。右にヒルトン名古屋、左に名古屋観光ホテル。広小路堅三蔵交差点。堅三蔵?
「カタサンゾウでいいんですか」
「タテミツクラです。尾張藩の蔵があった場所です。名古屋城の築城と同じころです。福島正則の清洲には、長さ五十五メートルもの蔵が三つあって、それを納屋橋まで運んできて、その周囲にもたくさん蔵を建てたんです。二十六あったそうです。米十八万俵、一万トンというのだから驚きます」
「いつの時代も国は思い切り搾取しますね。蔵の遺構は?」
「ありません。江戸期にはずっと藩の年貢米を保管していましたが、明治になると、税金は金で払うようになって、蔵は取り壊されました。その場所に牢屋が移築されたり、海運会社が倉庫を建てたりしましたが、いまは跡形もありません」
 広小路中ノ町。
「グルメ街です。澤正のうなぎ、田中寿司、山本屋の味噌煮こみうどんが有名です」
 広小路伏見。見覚えはあるけれども、歩いた記憶のない広い通りだ。それなのに、なぜかなつかしいたたずまいだ。巨大な御園座の建物が右手に見える。あの前を何度か往復した記憶があるのは幻だろうか。
「御園座の大看板を見上げた経験はありますか」
「あります」
「いつ? だれと?」
「小さいころ、一人で」
「やっぱり! ぼくもです。あんなところに、小学生が一人で立つはずがない。それなのに、一人きりの記憶がある」
「たしかに……。私も天神山からこんなところまで一人でくるわけないですもんね」
 小山田さんや吉冨さんやクマさんと歩いたことがあったのだろうか。ミッちゃんや郁子や法子と? 浅野と? まさか。
 桑名町、長島町、長者町、本町、黙々と走る。市電が行き交う。七間町、呉服町。マルエイ。大津通にたどり着く。栄の大交差点。左にテレビ塔、右に三越。まだまだビルの群れはつづくが、ここで終点という雰囲気がある。この先は、千種、今池、東山動物園だ。あちらからこちらへ向かってくる人びとも、テレビ塔のあるこの交差点を終点だと感じているにちがいない。名古屋駅は旅の関所だ。その証拠に、栄ほどビルの密度は濃くない。
「引き返しましょう。十時には北村に着きます」
「オールライト」
 久屋大通を走ってテレビ塔を遠目に、錦通へ曲がる。一筋ちがえて引き返す形になる。菅野と自転車で走った道だ。ビルが古びて、少し低くなる。アスファルトの道路もヒビ割れている箇所が多くなる。錦通伊勢町、錦通呉服町、錦通七間町、錦通本町、錦通の冠詞がつく町筋を通り過ぎていく。ケヤキ並木が美しい。この街から離れられない。
 長者町、長島町、桑名町、伏見、中ノ町、錦橋東、錦橋西、西柳町、西柳公園東、西柳公園西、名駅通に出る。名鉄百貨店。走り切った。この街並をあと何十回走るだろうか。左折。笹島の信号を渡らずに右折。笹島のガード。このガード下の店で母と味噌煮こみうどんを食ったことがあったなと思い出すのは何度目だろう。
 英夫兄さん一家の暮らす春日井から(彼ら一家は、伊勝の次に春日井の公団住宅に移った)、がらがらのバスに乗って名鉄バスターミナルまで戻ってきて、市電に乗り換えて千年に帰る途(みち)で立寄ったのではなかったか。とすると、英夫兄さんの家で晩めしを食ってこなかったということになる。何カ月かにいっぺん、母は私を連れて何をしに春日井へいっていたのだろう。数カ月にいっぺん弟一家を訪ねる彼女の習慣は、東京の青梅を皮切りに、名古屋の伊勝、春日井とつづいた。西高時代はさすがに私を連れて歩くことはなかったが、彼女本人は、埼玉県の入間の借家から千葉県の稲毛の公団住宅に、さらにもう一度入間の購入住宅に移ったサイドさん一家を遠路はるばる半年に一度は訪ねていた。
 笹島のガードから右へ曲がりこむ。ガード沿いに歩きだす。蜘蛛の巣通りの入口だった露地を見通す。居酒屋や商店の小ぎれいな区域になっている。ヤリテ婆もギュウ太郎もいない。
「菅野さん、このガード下のちょうどこのあたりに、きしめん屋があったんですが。横浜から名古屋に着いてすぐ、母とその店できしめんを食ったんです」
「はあ、きしめん亭ですね。獅子文六が名付けた店です。オリンピックの年にエスカ地下街が完成したんで、そちらに移りました。寄っていきましょうか」
 康男の見舞いにせっせとかよっていたころ、小山田さんや吉冨さんたちは新幹線の橋梁ばかりでなく、名古屋駅の地下街も作っていたことを思い出した。
「寄っていきましょう」
「……お母さんに教えてあげたいですよ。そのころを忘れずに、神無月さんがこうしてきしめんを食べようとしていることをね」
「そのときの母のことはこれっぽっちも憶えてないんですよ。きしめんがうまかったということしか」


         二百二十

 エスカレーターを下って、ピカピカの地下回廊を一番奥まで歩く。ドアを入ると、広い店内だ。ガード下で肩を寄せ合う〈立ちカウンター〉ではない。一瞬ざわざわとなる。神無月という囁き声が聞こえる。客の少ない〈坐りカウンター〉に着く。五十代半ばの白前掛けの男一人、女一人がカウンターの中にいて、二十代の同じ格好をした女の店員がホールの端に立っている。男が親しげな表情を作る。
「いらっしゃいませ、神無月選手」
 新聞で知った顔はファンにとって隣人だ。親しく呼びかけるのに躊躇はない。
「きしめん二つ」
 二人で溌溂と動きはじめる。
「この店は古いですか」
「昭和三年創業です」
「四十一年目……。ぼくが十歳のとき、つまり伊勢湾台風の昭和三十四年は、創業三十一年目だったのか。ガード下の食堂街にありましたね」
「そうです」
「オリンピックの年に地下街が完成して……あれから五年後にここに移ったんですね。そして移って五年。いまもあのときと同じきしめんですか」
「創業以来変わりません。油揚げふた切れと、蒲鉾ふた切れと、ホウレンソウと、ネギです」
 あのときのままの形で出てくる。少なめの麺、小さな油揚げ二枚、どんぶりの縁に青々としたホウレンソウ、白い薄切りの蒲鉾二枚、油揚げの上にネギがちょこんと載っている。醤油だれをすする。これだ。菅野が、うまい、と呟く。たちまち食い終えると、色紙が差し出された。黙って文江サインをし、店名を書き、日付を書き、美味天下一と添えた。
「ありがとうございます!」
 ずらりと一列に並んだビニールで密封された色紙の上段に、一枚突き出して、画鋲で留められた。並んでいる色紙には聞いたような芸能人の名前ばかり書かれていた。野球選手の名前はなかった。
「天ぷらきしめん、二つ追加」
「はい!」
 菅野が、
「やっぱりそうきますか」
「そうきます」
 やがて出てきたどんぶりには、いま食ったばかりのきしめんの上に揚げ立ての大きな海老が二本載っていた。菅野が天ぷらを一本くれた。私は油揚げを一枚進呈した。やっぱり商品としての天ぷらきしめんはむかしからあったのだ。きしめん二百円、天ぷらきしめんは三百二十円だった。二人で黙々とすする。店主に、
「うまいなあ。さすが老舗の商いだ」
「ありがとうございます。神無月選手が竹橋町の北村席さんに住んでいらっしゃることはみんな知ってます。いつ食べにくるかと、どの店も色紙を用意して待ち構えているんですよ。マスコミ嫌いだということはわかってますから、大騒ぎしないように心がけようと言い合ってね。きてもらってほんとうにうれしいです」
 店内に拍手が上がる。
「神無月!」
「神無月さん! いい男!」
「巨人戦で百号決めちゃってよ」
「ありがとうございます。ピッチャー側の研究が行き届いてきたせいで、最近打ちづらくなったんです。ペースが落ちてきてもガッカリしないでください。ドラゴンズの優勝は確実ですから。それだけはお約束できます」
「いよ!」
「大統領!」
 二人食い終わって立ち上がり、菅野がレジに立つ。拍手をする客たちに辞儀をし、回廊をゆっくり歩いて地上に出た。霧雨が降っている。
「あれェ、あしただいじょうぶかな」
「天気雨です。いよいよ夏がきますよ」
         †
 菅野とシャワーを浴びているうちに勃起してきた。思わず菅野に背を向ける。
 ―連日これか。しょうのない生理だ。
「やや、神無月さん、やばいですね。ちょっとがまんしててください」
「いいです、なんとかなります」
 いつまでこんなことがつづくのだろう。人生の苦悩とは思わないが、情けない。
「なんともなりませんよ。このあいだと同じじゃないですか。賄いで都合のいい人を呼んできましょう」
「賄いさんはやめてください。トルコの空き番の女の人をお願い」
「了解」
 あわてて出ていく。一分もしないうちに、特徴のない顔立ちの、胸の薄い痩せぎすの女が裸身で入ってきた。座敷で何度も見かけている女だった。
「あれ?」
「はい、シャトー鯱の三上ルリ子です」
「……ああ、三上さん。来年年季が明けたら子供を引き取るとか言ってた、大阪の養老院のツテを頼ってどうとか」
「はい、あの話は反故にしました」
「七夕の短冊にまで書いたのに」
「よく考えたら、子供の環境をころころ変えちゃいけないって思い直しました。旦那さんにお話して、年季が明けたらアヤメのほうに勤めさせてもらうことになりました。実家のほうも、それがいいと言ってくれて。……きょうはよろしくお願いします。……神無月さんとできるなんて夢みたいです」
「ぼくに気があったの? そんなふうには見えなかったけど」
「たとえ気があっても、露骨な態度はとれません。北村にいる女の人はみんなとぼけた態度をとってます。キッコちゃんや優子ちゃんなんかは、ラッキーの中でもラッキーな人たちです」
「声を出す?」
「だいじょうぶです、声を上げるほど感じたことはありませんから。もちろんニセの声もきょうは上げません」
「ゴムなしでするけど、いい? 危なければ外に出すけど」
「生理日から計算すると、だいじょうぶな日です。ナマでするのはお店に入って以来初めてなので、少し感じちゃうかもしれません」
 私は腰を突き出して自分のものを示した。
「わ! 大きいですね! こんなの初めて。神無月さんのものはカリのお化けって素ちゃんが言ってましたけど、ほんとだったんですね。……どうしよう。ちょっと待ってください」
 脱衣場に出てタオルを持ってくる。鉢巻のようにひねって丸め、口に咥えた。
「そんなことしなくていいよ。ぼくとする女はみんな声を出すから。さっき訊いたのは、声を出してもいいよっていう意味だったんだ」
「……そんなの入れたら、きっとすごく感じちゃうし……イッちゃうと思います」
「イクの、ひさしぶりなの?」
「二十三でこちらにきて、十年ぶりくらいです」
「そんなにイッてなかったんだ。よくがまんしたね。イキたい?」
「もちろんイキたいです。喉から声が出て、からだがガクガクふるえる感じを憶えてますから。……イキそうになったら、やっぱりタオル咥えます」
「後ろからするよ。たいていの女がよく締まって、早くイケるから」
「はい。後ろでするのも十年ぶりです」
 向けた尻の繁みに、使いこんで黒くなった小陰唇が覗いている。前庭やクリトリスは見ない。入れて、出すだけだ。
「入れるよ」
「はい」
 ゆっくり挿入する。よく濡れている。グッとうめいて、尻が上がった。
「すごく大きい。いっぱいです」
 そう言うわりにはゆるい感触なので、安心する。激しい反応を期待せずに存分に往復できるからだ。摩擦の距離を長くして射精を早めるために、大きく腰を動かす。
「あ、それ、だめです、気持ちよすぎます」
「思い出してきた?」
 手を前に回してクリトリスを探る。確かな手ごたえのふくらみがある。腰を止めて押し回す。
「気持ちいい?」
「はい、とても。……私、オマメちゃん、長くかかるんです」
「すぐイケるよ」
 陰茎を前後させながら押し回す。
「ほんとだ、ああ、だめ、イ、イ、イク!」
 しばらく三上の腹を痙攣させてから、往復を再開した。
「あ、うそ……」
 三上はあわててタオルを咥えた。柔らかく緊縛を繰り返す。私も合わせて往復する。 
「あ、ばめ、ウウウ、ウグ、ウグ、ウグ、ウーグウウウ!」
「イッた?」
 首を激しくコクコクする。何度も腹が縮み、尻がトシさんのように前後する。往復を再開すると、ゆるかった膣が急速に緊縛の度を強め、亀頭がしごかれる感じになった。射精が近づく。さらに激しく往復する。
「ウウ、ウグ、ウググ、ウグ、ウウウ! グググ、ウグー!」
 射精した。ほかの女より少しばかり緊縛が穏やかなので、精液が尿道を通る感覚がはっきりわかった。律動する。
「ウグ、ウーグ、ウウグ、ウウウ!」
 引き抜くと口からタオルを外して、
「ううーん、イクウウウ!」
 浴槽の縁に腕ごとしがみつき、尻を突き出して痙攣した。
「あ、気持ちい、あ、気持ちい、イク、イクウ!」
 私はその隙にシャワーで陰部を洗った。洗い終えても、三上は痙攣していた。小陰唇が開いてうごめいている。
「ひさしぶりに気持ちよくなれて、よかったね」
「は、はい、ありがとうございます。ふうううう、気持ちいい、ああ、いつまでも気持ちいい」
 私は精液が流れ出している股間にシャワーを当ててやった。三上はビクンとし、もう一度腹を絞った。よく見るとツヤのいい尻をしていた。クリトリスを見たくなり、片脚を持ち上げて、小陰唇のいただきを注視した。包皮から大きな白い陰核が顔を覗かせ動いている。なぜか口をつける気がしなかった。脚を下し、尻を撫ぜる。三上の息が落ち着いてきた。湯船に入り、私を見上げる。やさしい目をしている。
「お部屋でテレビ観てたんです。菅ちゃんがそっと戸を開けて、口に指当てて、できる? って訊くから、てっきり菅ちゃん、浮気したいのかなと思って、疲れてるからごめん、て答えたんです。奥さんに悪いと思ったから。そしたら、神無月さんのあそこが治まらないから適当な女を探してたんだ、だれかいないかなって―私びっくりして、ドッキリカメラかもって。でも本気の顔をしてるし、冗談でないのかもしれないと思って、できますってすぐ言い直したんです。事情を訊いたら、神無月さんはとつぜん勃っちゃうと治まらなくなる、そういうときなぜか恋人とはしたがらないから、店の女ですませることにしてるって言うの。飛び上がって喜びました。念願が叶ったんですから」
「ごめんね、性欲の道具にしちゃって」
「いいんです、神無月さんの気持ちわかるような気がしますから。好きな人をただの性欲で抱きたくないもの。私たちみたいな商売はそのためにあるんだし、そういう立場はいつも心得てます。立場とかそんなことより、相手が神無月さんとなったら喜ばない女はいません。いつもみんな言ってます、一度でいいから抱かれたいって。……夢みたい」
 私のものに手を差し出し、目を細めて握る。
「大きなカリ……こんなに強くイッたの生まれて初めてです。ほんとにありがとうございました」
 ごめんなさい、と呟いて、そのカリの先を咥えこもうとした。歯に当たって収められない。仕方なく懸命に舌を使う。
「……なんて形がきれいなオチンチンなんでしょう! 刀のように反り返ってます。お嬢さんたちがどんなに幸せかわかります。ほんとにごちそうさまでした」
 湯から上がると、あらためて手桶で陰部を洗い、丁寧に辞儀をし、戸を開けて出ていった。胸の小ささは記憶したが、どうしても顔を覚えられなかった。痩せた女としたのは、幣原以来これで二人目だった。新しい下着とジャージが用意してあった。




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