二百四十二

 及川は少し指を開いて叩きつけるように腕を振った。インコース低目、スライダーが足首めがけて曲がりこもうとする。地面から十センチもない。黙っていれば足首へのデッドボールになる。曲がりぎわをひっぱたく。
「よーし、いったー!」
 田宮コーチの声。
「場外だろ!」
「ヤッター!」
 いちどきにベンチに歓声が上がる。静まっていたスタンドが一瞬のうちに沸騰する。白球は一直線に看板を越えて右翼場外の黒い空へ吸いこまれた。ライトの近藤和彦が打球の消えた空を見上げている。森下コーチとバンザイの形で手を拍ち合わせる。黙々とダイヤモンドを回る。
「神無月選手、百一号のホームランでございます。なお、あしたの表彰式は百号記念ですのでご了解願います」
 場内をふるわす爆笑。水原監督と両手を握り合う。
「小川くんと山中くんが泣いて喜んでるよ。ありがとう」
 仲間たちの荒々しい祝福の中へ飛びこんでいく。首や頬にキスをされる。小川がいつまでも腕を解かない。半田コーチから差し出されたバヤリースを断ると、宇野ヘッドコーチが奪ってうまそうに飲んだ。賑やかな笑い声がベンチからスタンドへ感染していく。
 七対十三。木俣、内角高目のシュートを右肘を畳んで振り抜きレフトフェンス直撃の二塁打。一枝、真ん中カーブを叩きつけ高いバウンドでサードの頭を越えるツーベース。一点追加。七対十四。菱川のライトフライで一枝三進。太田、センターバックスクリーンへ十九号ツーラン。七対十六。田宮コーチの蛮声。
「撃ちかたやめェ!」
 これで中日は七、八回を残して全攻撃を終了した。山中は一度もバットを振らずに三振。中、初球をショートゴロ。
 それ以後は、山中の肩を冷やさないように、七、八回の攻撃を高木から太田まで全員ゴロを打って終わらせた。私もファーストゴロだった。そうなると観客の見どころはホエールズの反撃だけだったが、七、八、九回と山中はスピードボールをビシビシと決め、打者十三人、三安打、一四球、失点ゼロに抑え切った。それもまたすばらしい見どころになった。最後のライトフライを菱川がグローブに収めると、木俣も先発の小川も山中と固く握手し、勝利投手のようにもてなした。
 インタビューのフラッシュに曝されたのは、十一勝を挙げた小川と好リリーフをした山中、そしていつものとおり選手の疲労を考慮してマイクを引き受ける水原監督だった。百号、百一号ホームランを打った私は、
「あしたあらためて」
 とロッカールームへ引き揚げた。もちろん新聞やテレビの記者たちはしつこく追いかけてきた。
「一試合、一・五本という驚異的なペースで打ちつづけているわけですが、この先も一試合一本のペースで打てば、百五十本を超えます」
「そうですか」
「きょうも四打数三安打。六割九分を維持してます。ホームランとちがって打率のペースは落ちるでしょうね」
「どちらも落ちるでしょう。とりわけ、ホームランのペースは落ちます。残り六十六試合、あと二十本ぐらいじゃないでしょうか」
「リーグ優勝の先の日本シリーズが見えてきました。西本阪急と三原近鉄がパリーグの覇権を争っています。どちらと戦いたいですか」
「さあ、なんとも……。三原野球には興味ありますが」
 彼らの質問に、そうですか、さあ、そのとおりです、ありがたいです、あしたもがんばります、などと適当に受け応えしながらスパイクを運動靴に履き替えていると、水原監督や小川たちといっしょに戻ってきた山中が、もう一度みんなに深く頭を下げた。テレビカメラとデンスケがそちらに向いた。小川が先輩の山中に、
「この試合をまかされたのは山中さんで、実質勝利投手も山中さんですよ。あのまま俺が投げてたら負けてました。ありがたいす」
 と言って握手した。私は澄み切った気持ちになった。あらゆる不都合な問題の根もとにあるのは、たった一つ、自分に愛着する心だ。この男たちにはそれがない。あるのかもしれないが、慎み深さを大上段に振舞うことで、自己愛を無きものにしている。私たちを幸福にするのは、私たちの周りのすべての人たちを大切に思う心だ。すべての……。
 水原監督が、
「あしたからは金太郎さんのホームランは、三冠王の受賞まで騒がれなくなる。気を使わずに、思う存分めいめいのプレーをしてほしい。試合前の表彰式と始球式はお祭気分でね。表彰式には小山オーナーがくる。―そろそろ負けるよ。無理に勝とうとしなくていいからね。あしたの先発は小野くんだ。継投予定は水谷寿伸くん。じゃ解散。きょうはご苦労さまでした」
「ウース!」
 水原監督はじめ三十人もの手が、一つひとつ私と握手して廊下へ出ていった。記者やカメラマンにも握手を求める者がいて、彼らとも素朴に見つめ合いながら握手した。壁沿いの記者連の中に蒲原の熱い目があった。廊下から通用口に出た私は、警備員数名と組員たちに前と横を守られながら人波の中を歩いた。私の背後に防壁を作るようにコーチ陣が歩いた。人びとが悲鳴を上げて飛びつき、触り、つかんできた。ハイエースの周囲で待っていた北村席の人たちの手で車の中へ押しこまれた。コーチ陣が手伝った。そうでもしないかぎり振り払えない狂乱だった。
 帰り着くと十一時に近かった。門前にぎっしりと脚立が立ち並び、記者やカメラマンで混雑していた。何台もの中継車が大きなアンテナを立て、記者たちがマイクやボールペンを手に何やらわめいていた。路上に百人に余るファンたちがいる。松葉会の組員はもちろん、数人の地元警官まで出動している。思わずため息が出た。菅野に、
「警官まで出動するわけ?」
「交通整理の名目で出てくるんですよ」
 ハイエースから身を縮めて降り立った私たちを、組員や警官たちが包みこむように門へいざなった。記者団から、おめでとう! のかけ声とともに拍手が湧き起こった。
「百号おめでとうございます。ひとことお願いします!」
 私はカメラに向かって手を振り、
「ホームランの好きなチームメイトやファンたちのために、これからも打ちつづけます。彼らの応援がなければ百号は不可能でした。中日ドラゴンズに入団しなければ、百本なんかぜったい打てませんでした」
「島田源太郎投手にひとこと!」
「ヒットを一本打たれたと思ってください」
「目標は二百号ですか!」
「自己記録の更新と、チームの優勝です」
「チームメイトについてひとこと」
「彼らのやさしい笑顔と涙もろさが生きる励みです。以上!」
「もうひとこと、もうひとこと、百号目のボールは何でしたか!」
「外角のカーブです」
 いくつかの腕で無理やり門の中へ押しこまれた。
 トモヨさん母子も、賄いや一家の者たちも寝静まっていた。メイ子も百江も帰宅していた。ハイエースで帰ってきた者たちで打ち解けたときをすごす。女たちが菅野と秀樹くん母子を大福と茶でもてなす。
「すごい一日だったわね。みなさんお疲れさま」
 千佳子と睦子がコーヒーをいれた。菅野が、
「百号ホームランのボールは、良心的なファンが球場事務所に届けたそうです。三十代の男性で、見返りはいらない、いつか神無月選手の百号と書いた色紙をいただければいいと言って、自分の名前を書いて立ち去ったとラジオで言ってました」
「そうですか。あした事務所にいって、色紙を書きます」
 主人が、
「ボールを飾る場所が必要やな」
「球団側は、中日球場に飾る予定でいるようです」
「そうですか。これからは賞状や楯の類がどんどん増えていくやろう。景品小屋の隣にくっつけて、賞状や記念品を収める小屋も造らんとあかんな。庭が学校の物置みたいな造作になっていくなァ。楽しいわ。いずれガレージの裏に、ファインホースと並べて山口さんの事務所も造らんとあかんし」
「菅野さんの家はカラーテレビ?」
 私が尋くと、
「いえ、まだ白黒です。どうしてですか」
「太田が言ってたんだけど、あしたの賞品、二十一インチのカラーテレビみたいなんですよ。ここに届いたら持ってってくれる?」
「え、それはいけません。五十万円以上もするものですよ。いただけるなら、この座敷のテレビをいただきます。二十一インチのほうはここに置けばいいでしょう。社長、それでいいですか」
「どうせなら、新しいテレビをもらっといたほうがいい。うちはまだ買って一年も経たんから」
「菅野さん、遠慮なくもらってください。秀樹くん、カラーはきれいだぞ」
「はい! うれしいな。お母さん、よかったね」
「ほんとに、神無月さん、ありがとうございます」
「ただでもらうものですから、どうぞ遠慮なく。あ、秀樹くん、もう目が眠そうだ。早く帰って寝なさい。きょうは応援ありがとう」
「今度は甲子園です。楽しみだなあ」
 菅野が、
「あしたどうします。走りますか」
「午前の見回りが終わったあとにしましょう」
「十時半ですね」
「わかりました。北村席でめしを食ってから、少し休んだあとですね」
「了解」
「じゃ、ワシは風呂に入って寝ますわ。菅ちゃん、またあしたな」
「はい、お休みなさい」
「お休み」
 みんなでお休みの声をかけた。菅野が、
「ムッちゃん、お城に帰りますか」
「はい。あした午前から授業がありますし、金太郎も心配なので帰ります。あしたもあさっても試合は観にいきます」
「帰るついでに送っていきますよ」
「ありがとうございます。郷さん、百号ホームランおめでとう。センターへ飛んでいったボールの白い線、一生忘れません」
「ありがとう」
「じゃ千佳ちゃん、あした、南部食堂で。お休みなさい」
「お休みなさい」
 睦子は菅野と主人といっしょに出ていった。
 コーヒーを飲み干して、カズちゃんと素子と三人で腰を上げた。千佳子が門まで見送った。報道陣は跡形もなく消えていた。千佳子が、
「神無月くん」
「なに」
「ユニフォーム姿の神無月くん輝いてました。ほんとに一人だけ光ってたんです。ムッちゃんもそう言ってました」
「カクテル光線のせいだと思うよ。ぼくは色が白いから。ユニフォーム脱いだときも輝いてればいいけど」
「輝いてます。どんなときも、何もかも。……愛してます」
「ぼくも愛してる。お休み」
「お休みなさい。和子さん、素子さん、お休みなさい」
「お休みなさい」
 歩きだすと、素子が、
「ほんとにええ子やなあ。何の下心もあれせん。おまけに頭はええし、美人やし」
「みんなキョウちゃんのために生まれてきたのよ。私も、素ちゃんも、みんな」
 アイリスの前までくると、カズちゃんはポケットから鍵を取り出して店のドアを開けた。
 店内の灯りを点け、一とおり見回してから、うなずき、灯りを切った。
「ちゃんと始末できとったね」
「そうね、期待以上。オールスターのときは、きちんとお休みにするわ」
「甲子園球場、もうすぐやね。楽しみやわ。きょうはなんだか神経張ってまって、すごく疲れた。すぐ寝るわ」
「そうね、球場が百一号からは静まり返るくらいだったものね。ピーンと神経が張っちゃったわ。私もすぐ寝る」
 外に出てドアの鍵を閉め、素子を隘路に見送った。
 カズちゃんと二人、腕を組んで歩く。
「素ちゃんと早めに店を出て中日球場にいったから、従業員さんたちがきちんと後始末をしてるか気になったの。上出来だったわ。雅江さん、球場にきてた?」
「うん、親子でレフトスタンドにいた。満足して帰ってくれたと思う」
「そりゃそうよ、歴史的な事件を目撃したんだもの。いま、さりげなくこうしているのが恐ろしい感じよ。―すばらしい人」
「きょうはいっしょに寝る?」
「いいえ、百号を噛みしめてゆっくり寝なさい。あと二日、しっかりがんばって」
「うん」
 カズちゃんは頭を私の二の腕に預けてきた。
「キョウちゃんといままで歩いた道は、ぜんぶ覚えてるのよ。きょうのこの道も、一生忘れないわ」
 深夜の玄関にメイ子が出迎えた。
「お帰りなさい。大記録おめでとうございます!」
「ありがとう。ガラス窓が一階も二階もピカピカしてる」
「業者さんに拭いてもらいました。きょうでぜんぶ終わりです。庭の掃除もしてもらいました」
「夢の御殿だ。新聞記者も押しかけてこないし。―メイ子は、あしたは年間予約席だね」
「はい、ソテツちゃんといっしょに。いろいろなセレモニーがあるみたいで、楽しみです」
「そんなものより、キョウちゃんのバッティングをしっかり見てきなさい。ホームランだろうと、ゴロだろうと、キョウちゃんのバッティングは美の極致よ。よく目に焼きつけておいてね」
「はい。あさってもイネちゃんと内野指定席で見ます」
「じゃ、私きょうは休むわね。キョウちゃんは目が覚めるまでゆっくり寝かせておきましょう。キョウちゃん、きょうはクタクタのはずよ。よく寝てちょうだい。起きたら、私たちは出かけてるけど、ランニングのあと、北村で食事をしてね。ソテツちゃんに言っとくから」
「わかった」 
 百号か。あしたも打てるかな。そんなことはどうでもいい。あしたがどうなろうと、一日一日ホームラン目指してがんばろう。


         二百四十三 

 書斎にいき、ベーブ・ルース語録を書棚から取り出す。
 ―ファンは二塁打三本じゃなくて、ホームラン一本打つのを見にきてるんだ。
 彼はバッターボックスのギリギリ前に出て、先端のラインを踵で踏みつけながらスイングした。彼も私と同じ考えにいき着いたのにちがいない。
 ―できるかぎり両手で強くバットを振り、ボールを振り抜いて、だれもいないところへ、場外へ打とうとする。バットを強く握れば握るほど、ボールを振り抜くことができるし、ボールも遠くに飛ぶ。秘訣は絶えず工夫しながら練習することだ。工夫することは簡単ではない。でも〈できない〉という理由にはならない。
 いちばん私の胸を打つ彼の信念は、
 ―野球は世の中で最もすばらしいスポーツゲームであり、最善を尽くすに値するものである。
 中日ドラゴンズで野球をやっていくことができさえすれば、十五年ぶりの優勝の悲願なぞ叶おうと叶うまいと知ったことではない。ただ、水原監督が望むことは、何を措(お)いても成し遂げたい。
         †
 七月十六日水曜日。九時起床。晴。二十五・三度。うがい、髭当て剃り、ひさしぶりにふつうの排便(親指大一本、小指大三本)、シャワー、歯磨き。爪切り、耳垢取り。一連のルーティーンを終えてから北村席へ出かけていく。主人と菅野は見回りでいない。直人は保育所。女将とトモヨさんは帳場。
 ソテツとイネのおさんどんで軽い朝めし。刻みキュウリと天カスを載せた冷奴、セロリの和風漬け、根菜の味噌汁(具はベーコン、大根、ニンジン、ごぼう、シラタキ)、めし二杯。座敷で中日スポーツ。

     
神無月100号
 
ルーキーイヤー最年少二十歳二カ月
 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(20)が歴代五十二人目となる百号本塁打を達成した。ルーキーイヤー六十四試合目の超スピード達成。これまでの最速は昭和二十六年毎日オリオンズの別当薫(当時三十歳八カ月)が記録した三百七十四試合目である。年齢も最速で、これまでの最年少は昭和三十年西鉄ライオンズの中西太が記録した二十二歳三カ月である。四百三十八試合目であった。
 ちなみに二十五歳以下の達成者を挙げると、張本勲二十三歳五百六十五試合目、王貞治二十三歳二カ月五百六十三試合目、豊田泰光二十三歳四カ月七百十二試合目、土井正博二十三歳五カ月七百二十二試合目、山内一弘二十五歳一カ月五百七十九試合目、野村克也二十五歳二カ月六百二十四試合目、葛城隆雄二十五歳六カ月八百七十七試合目、町田行彦二十五歳六カ月七百九十七試合目、長嶋茂雄二十五歳七カ月五百四試合目、榎本喜八二十五歳九カ月千七十一試合目、青田昇二十五歳十一カ月七百四十五試合目。名にし負うホームランバッターの大下弘でも二十七歳八カ月五百五十二試合目、小鶴誠二十七歳八カ月七百二十七試合目である。過去のレジェンドを薙ぎ倒す、比較にならない猛スピードでの達成である。
 なお神無月の現在の僚友江藤慎一は二十六歳五カ月六百七十五試合目、高木守道は今季六月二十八日のアトムズ十一回戦で、二十七歳十一カ月九百八十四試合目にして百号を達成している。中利夫は三十歳三カ月千二百七十試合目の達成だった。現在二十一本打っている木俣達彦は、百号まであと二十三本と迫っている。現在二十二本打っているので、五十五号目がそれに当たるが、残り六十六試合の今季はギリギリ叶わないかもしれない。来季早々には達成可能だろう。なおその場合、達成試合数は七百前後になる


 サンケイスポーツの記事。

     
警告! 不可能が可能になったこと
 一度きりの記録

 五月十七日から十八日にかけて、広島カープは神無月郷に対して五打席連続敬遠をした。現在彼に対する敬遠は十四、四死球は二十七、つまり勝負せずに出塁を許した数は四十一である。全日程のほぼ半数を終えての数にしてはかなり少ない。王貞治にしてすでに敬遠六、四死球五十六である。実際のところ、プロとして無策のまま神無月のような超強打者に対して、ふつうの強打者並の対処をしてきたことが手落ちであった。痴呆と言えるほどに思慮が不足していた。
 環境や相手が変化すれば、それに応じて最適な戦略を組み立てるのが人間である。勝利を望む人間なら、出塁率と長打率を足し合わせた数値が異常に高い選手とまともに勝負せずに、せめてどちらも半分の率にきっちり封じこめるという対策を講じるはずである。これまで日米のホームラン記録が五、六十本に留まっているのはそういう正常な勝負の結果なのである。
 結論としては、そういった対処をしていれば、神無月郷はまず絶対出現するはずのないバッターであったということだ。なぜ絶対と言い切れるのか。通常の強打者と勝負する場合、最高七百打席立つとして、王に対するように四球を百以上は与えるだろうから、彼は年間五百打数から六百打数で、百本塁打を叩き出すという計算になる。つまり五打数か、六打数に一本ホームランを打つ。本塁打率二割。そんな超人的な強打者にプロ野球のピッチャーのだれが勝負するだろうか。プロは試合に勝つために戦っているのであるかぎり、まず四死球よりも敬遠する策を用いてその超強打者を封じこめにかかるはずだ。年間、王のほぼ五倍にあたる二百回敬遠したとして、十打席のうち三回強敬遠することになり、一試合に二回弱という数字になる。敬遠ボールまでもスタンドに放りこむ宇宙人のようなバッターに対しては、ごくあたりまえの数字だと言える。つまり、その対処を怠らないかぎり、神無月郷はぜったいに現れないバッターだったということである。
 百号ホームランは一度きりの記録になるだろう。起こりえない祝祭野球であった。プロ野球人こぞって、天馬神無月郷の魅力にほだされたのである。迂闊であったと言えるだろう。プロは勝たねばならない。楽しむとか、正当に勝負するなど、もってのほかである。懲罰こそ喰らいはしたが、広島カープの策は正当であった。まずかったのは、露骨な連続敬遠をしたことである。露骨な行為は経営の根幹を担う観衆の顰蹙を買う愚作である。プロのするべきことではない。来季は必然的に、諸チーム時宜を得た敬遠のオンパレードとなり、神無月のホームランは七十本前後に落ち着くにちがいない。祝祭も今年一度かぎりである。 
  
    
 正論だと判断できた。営利に基づいたプロの優勝劣敗へのこだわりに哀感を覚えたけれども、怪訝とも笑止とも思わなかった。来シーズンはこのとおりになるだろう。少なくとも、チャンスには打たせてもらえなくなる。ただ、敬遠などしなくても、コントロールのいいスピードボールや変化球で攻めれば、どんな強打者でもそれほど打てないものだと私にはわかっている。きびしい攻められ方をした場合、注意しなくてはならないのは、精神的に極端なスランプに陥らないようにすることだ。自信喪失に陥ったり、嫌気が差さないようにすること。そのためには鍛えられる肉体の鍛練で、鍛えられない精神の裏打ちをするしかない。ただし肉体の機能を痛めない程度に。
 十時半から菅野と日赤を往復。
「サンケイの記事……くるものがきましたね」
「うん。でもあの記事によると、一試合に二回は打たせてもらえますよ。そこでヒットかホームランを打てばいい。打数が三分の一に減るだけのことです。その分、盗塁を楽しもうと思う」
「……つくづくすばらしい人ですね」
 牧野公園で三種の神器、五十メートルダッシュ五往復。菅野は三往復。席に帰って菅野とシャワー。昼めし。豚肉、しめじ、刻みネギ、卵黄二個を載せた大盛りうどん。これでじゅうぶん。
 午後三時中日球場へ出発。ソテツ弁当は鮭とワラビの煮つけの幕の内。
 対大洋十三回戦。ベンチ気温三十・七度。
 ソテツ弁当を食い終わった直後の、試合開始四十分前に、ホームベース前で表彰式があった。満員の観衆が水を打ったように静まり返った。下通のアナウンス。
「ただいまより、中日ドラゴンズ神無月郷選手の第百号ホームランを記念して表彰式を行ないます。まずはきょうの始球式のゲスト、奥村チヨさんからの花束贈呈です。奥村チヨさんは、黛ジュン、小川知子と並ぶ東芝三人娘のお一人です。ごめんネ・ジロー、北国の青い空、恋の奴隷といったヒット曲で有名な実力派シンガーです」

 化粧の濃い、つけ睫毛の三角顔が近づいてきて、笑いながら花束を差し出す。リキ・ホルモのパンチの利いたCMソングをいいなと思ったことがある。好みの歌声だった。しかし好みの顔ではない。歯の尖った口もともイヤで、正直、不細工な面立ちに感じる。

「おめでとうございます」
 フラッシュがいっせいに光る。
「ありがとう。パンチの利いた歌声、いいですね」
 顔以外のところを褒める。
「ほんとですか! うれしいです」
 上気した顔で握手を求めてくる。掌の湿りがいやで、すぐに指を解いた。奥村は一瞬不審の色を浮かべたが、始球式の準備のために塁審といっしょに急いで一塁ベンチ脇の通路に引っこんだ。浮きうきと跳ねるような後ろ姿だった。私は花束をバックネットスタンドに向かって掲げて拍手を誘ったあと、さっさと足木マネージャーに手渡した。足木はボールボーイに手渡す。ボールボーイはベンチに走っていって、適当に選手の一人を選んで手渡す。やはり太田だった。太田はそれをロッカールームへ持っていき、長テーブルに並べておく。試合が終わったら仲間たちに手伝ってもらってそれらをハイエースに運ぶ。足木は式のあいだ、花束や楯や賞品の類を私から受け取っては処理する役回りを務めることになっている。
 奥村チヨが去った通路から、球場職員に連れられて黒背広姿の男五人がぞろぞろ出てきた。愛知県知事、名古屋市長、さらに村迫球団代表と榊スカウト部長を随えた小山オーナー。最初に小山オーナーがマイクの前に立つ。下通のアナウンス。
「中日ドラゴンズオーナー小山武夫による表彰状の授与でございます」
 小山オーナーはマイクの前で私に向かって一礼し、深く息を吸うと、音吐朗々と表彰状を読み上げはじめた。

 
表彰状  神無月郷殿
 あなたは昭和四四年七月十五日、中日スタジアムにおける対大洋十二回戦で、一シーズン公式戦通算一○○号ホームランという、プロ野球史上に燦然と輝く大記録を樹立なされました。昭和四三年十一月中日ドラゴンズに入団以来、世上に轟く名声に甘えることなく精進され、開幕六十四試合目という短期間のうちにこの前代未聞の記録を達成されましたことに敬意を表し、ここに記念品を贈って歴史的な偉業を讃えるとともに、さらなる精進の下に目覚ましい記録を積み重ねていかれるよう切に望みます。
     昭和四四年七月十六日
       株式会社中日ドラゴンズ社長 小山武夫(印)


「きみに何を語っても粗辞になる。言葉はありません。おめでとう」
 小山オーナーはガラス額入りの賞状を私に渡し終えると、固く握手し、とつぜん私を抱き締めた。観客がざわめいた。
「いつも見守ってるからね。きみは私の生甲斐なんだよ。オフには一日付き合ってくれたまえ」
 誠実な声で言った。
 カメラマン連中がバックネット前に並べた折畳み椅子に腰を下ろし、身を乗り出してストロボやフラッシュを光らせている。彼らの背後でバックネットに貼りつくように佇立している審判員たちは拍手するだけの黒子の役割だった。
「次に、愛知県知事桑原幹根さまより、お祝辞をいただきます」
 桑原は小山オーナーと入れ替わりにスタンドマイクに寄り、
「神無月くん、ようやく会えましたね。美しく威風堂々とした実物の貴君を目の前に見ることができて至福のいたりです。これ以上言うべき祝辞などありません。ただただ貴君の業績に驚きを覚えます。ホームランを打つことだけでも並大抵のことではないと聞いております。かの王選手でさえ、四百本打つのに十年かかりました。それを四カ月で百本とは! 私はいま、各界の人間に感銘を与える日本国最高の英雄に謁(えっ)しています。どうかその偉大な手と握手させてください。その手の感触を墓に入るまで覚えていようと思います。なお、今朝の某紙で、貴君への対策を各球団が誤ったせいでこの記録が達成されたようなことが書かれていましたが、たとえ対策を誤らずに二百打席敬遠で遇されるとしても、シーズンの終わりには公約の八十号ホームランを達成していたことと思う。諸事、四方からの荒波にめげずにホームランを打ちつづけてください。以上、精いっぱいの賛辞とさせていただきます」
 球場じゅうに盛大な拍手が立ち昇った。桑原は私の右手を両手で包みこむようにして握手した。
 名古屋市長杉戸清は、記憶に残らない言葉で簡略な祝辞を述べたあと、年明けには市民栄誉賞授与の予定があること、名古屋市のさまざまな産業界における、神無月郷がもたらした経済効果のことなどを語った。最後に進み出た村迫代表は記念楯とトロフィーを、榊渉外部長は賞金と賞品の目録を、二人とも無言の笑顔で手渡した。二人は私にかけるべきひとことの先に涙を優先させた。賞金は五百万円、賞品は太田の言ったとおりソニーの最新型カラーテレビだった。私は村迫と榊ともしっかり握手した。私は小声で村迫に言った。
「野球小僧が何とか世の中に出してもらって形になりました。ありがとうございました」
 村迫がハンカチで目を拭いながら、マイクがようやく拾える声で、
「あなたは打たれて鋼鉄になったんじゃありません。もともと鋼鉄として存在していたんです。そのうえ、あなたの精神は、きらめくダイヤモンドです。私たちの手で引き上げられたのではなく、その鋼鉄の心身を人びとに求められ、迎え入れられたんです。いまさらわれわれに表彰などされなくても、とっくに大勢の人びとに顕彰されています。いつまでも健康でいてください。それだけを祈っています」
 と言った。そうして二人で深く礼をした。球場全体に歓呼と拍手が轟きわたった。


         二百四十四

 表彰式が終わってドラゴンズチームが守備に散ると、ミニスカートの奥村チヨがマウンドの裾に立った。榊原るみよりは笑顔がわざとらしくなかった。エイ、と投げたボールはワンバウンドでまともにキャッチャーに届き、近藤和彦がきちんと空振りをした。富沢球審の右手が上がった。
 下通がスターティングメンバーの発表をする。先攻大洋、一番セカンド近藤昭仁、二番ライト江尻、三番レフトジョンソン、四番サード松原、五番センター重松、六番ファースト中塚、七番キャッチャー大橋、八番ショート米田、九番ピッチャー平松。中日はピッチャーの小野以外は昨夜とまったく同じ。
 †
 試合は零対零のまま延長戦になり、十一回の裏に木俣の二十三号サヨナラソロホームランが飛び出して、ゼロ対一で辛勝した。チームは平松から散発八安打を打ち、そのうちクリーンアップが七本打った。私は勝負を避けない〈痴呆〉の平松から四打数三安打、センター前ヒット、レフト前ヒット、四球、右中間二塁打、ショートライナー。中と高木と江藤と木俣は五打数一安打だった。残りの一本は小野がレフト前にポテンヒットを打った。
 大洋は七安打、近藤昭仁が二本、中塚が三本、重松と平松がそれぞれ一本だった。水谷寿伸の出番はなく、小野が十二勝目を挙げて小川を星一つ抜いた。一本のホームランもない印象の薄い試合だった。野球に詳しい好事家は投手戦を楽しむことができるかもしれないが、ほとんどの観客は打撃戦に興奮する。きょう観にきた北村一家が気の毒だった。
 ロッカールームの水原監督は上機嫌だった。
「よく接戦をものにしてくれた。私は期待も絶望もしない。きみたちが自由に野球をやった結果を常によしとして受け入れる気持ちでいるだけだ。ひとこと言っておきます。早く三十敗してくれると、心が安らぎます」
 ウハハ、ワハハとロッカールームが沸き立った。
 解散したあと、球場係員と太田に頼んで、カラーテレビをハイエースの荷台まで運んでもらった。額入りの賞状と花束は自分で運んだ。
「太田、どうもありがとう。じゃ、あした三時に」
「神無月さん、少し顔色悪いですよ。よく休んでくださいね」
「ありがとう。イベントごとがあるとこうなる。心配ないよ」
 握手して別れる。
 メイ子、ソテツが後部前座席、私と優子、信子が中列、菅野と主人が運転席と助手席に座って帰路についた。主人が、
「神無月さん、きょうの夜からまたハブ酒をお飲みなさい。知り合いの酒屋から質のいいやつを手に入れました。オールスターにも持っていってもらいますよ。ここんところ、顔色もからだの動きもすぐれませんよ。いくら平松でも、ホームランが一本も出んのはおかしい。由々しき問題です。もう少し睡眠時間をとらんと」
「はい、心がけます。大洋戦が終わったら、オールスターまでゴロゴロしてすごします」
 菅野が、
「あしたはゆっくり寝ててください。ランニングはあさってからにしましょう」
「うん、そうしましょう」
 ソテツが、
「スタミナのつく食事をうんと作ります」
 性の神秘に疎い丸信子が、
「女は受け身ですからラクですけど、男はたいへんですよね」
「そっちはええんだよ。神無月さんのエネルギーの素やから。日ごろ見とると、どうも寝が足りん。仮眠、仮眠で調整しとるようやけど、つづけて八時間は眠らんと休んだことにはならん。あっちのほうは、神無月さんが急にやりたなったら、そこにたまたまいた女がすぐ相手したればええ」
 メイ子が、
「野球選手としての環境作りをきちんとしなければだめだってお嬢さんと話し合って、来月からアイリスの仕事を減らして、則武の家をしっかり守ることになりました。掃除、洗濯、布団干し、お使い、お料理。神無月さんの健康管理のためです」
 ソテツが、
「神無月さん、早くからだの調子を取り戻してくださいね」
「調子はいいんだ。睡眠は足りてるし。でも、もっと寝るようにするよ」
 菅野が、
「ジムに入れる道具、追加したいものありませんか」
「バーベルの器機を一つ入れてくれませんか。百キロまで組み合わせられるようにリングを揃えてね。六十、七十、八十、九十、百まで作れればいいかな。めったに使わないだろうけど」
「わかりました。オールスターから帰ってくるまでに入れておきます」
 主人が夜遅く表彰状を客室の鴨居に掲げた。帰らずに待っていたカズちゃんたちが、睦子や千佳子といっしょにその墨字の賞状をしみじみ見上げた。楯とトロフィーは、ひとまず庭の景品小屋の隅に置いた。近いうちに景品小屋にくっつけてこの種のものを納める専用小屋を造り、そこに二階のファインホースの事務部屋も移転して設えるということになった。五百万円の小切手はカズちゃんに預け、いったん球団事務所に送って税処理してもらうことにした。
 帰りぎわに、猪口一杯の沖縄のハブ酒を飲まされた。黄金色の液体は少し生臭く、薬草のにおいがした。
「オールスターには持っていきません。北村席と則武に置いてかならず飲みます」
「きちんと飲んでくださいよ」
         †
 七月十七日木曜日。熟睡して六時半起床。曇。二十四・四度。
 だるい気分が吹っ飛んでいる。首から上が透明になった感じだ。朝勃ちが激しく、亀頭が異様にふくれ上がり、茎が自分のからだから切り離された別の物体に思われるほどだった。ハブ酒の効果だろう。尿意や性欲とは関係のない現象だったので、安心してジム部屋のルーティーンをこなした。
 七時から一人で日赤へランニング。やはりサボれない。汗をかいて戻ってからも、半勃ちの状態だったので、シャワーを浴び、キッチンにいって、食事の仕度をしていたカズちゃんとメイ子に示した。
「ハブ酒のせいだと思うけど」
「その気もないのに、無理しちゃだめ」
 無理と言われて、ますます膨張してきた。
「そこまで大きくなると、出さなくちゃだめかも。メイ子ちゃん、ちょっと入れてみて」
「はい!」
 スカートとパンティを脱ぎ下ろしたメイ子の尻へ突き入れる。
「あ、だめ、神無月さん、抜いてください、抜いて」
 ぞろりと抜くと、
「ヒ! イク!」
 椅子の背につかまってしゃがみこんだ。
「私は確実に危ないのよね。ちょっと待って」
 カズちゃんは電話口にいき、母親に言って千佳子を呼び出した。
「……そういうわけなの。お願いね、すぐきて」
 腰の抜けているメイ子を二人で抱き上げ、一階のカズちゃんの寝室へ連れていった。カズちゃんはメイ子を横たえ、私の屹立したものに舌の愛撫をしながらお茶を濁す。
「もう少し待っててね。焼き物の火を止めてくる」
 そのままキッチンへいった。五分ほどして、フレアスカート姿の千佳子と睦子がカズちゃんといっしょに現れた。小走りできた様子で息が弾んでいる。私のものを見て睦子が、
「いつもより頭が大きくなってます! 私たち下着を穿いてきませんでしたから、すぐ入れてください。だいじょうぶな日です」
 睦子はスカートを脱ぎ、敷布団に四つん這いになって尻を向けた。挿し入れる。千佳子は私たちの様子を伺いながらスカートを脱いだ。
「うう、郷さん! 愛してる! うん! イク!」
 カズちゃんは安心した表情でもう一度キッチンへいった。千佳子が裸の尻を向けたので、睦子から抜いて挿入する。たちまち激しく気をやっておのずと離れた。睦子にもう一度挿し入れて発射した。よほどの快感だったようで、睦子は尻を高く上げて苦しげに痙攣した。私はすぐに離れ、シャワーを浴びにいった。ついでに頭を洗い、全身に石鹸を立てる。ようやく鎮まったものが股間にダラリと垂れている。尿意を催してきたので、そのまま湯殿に小便をした。手桶で流す。新しい下着とジャージを着て寝室に戻り、睦子の脇に横たわる。メイ子が、
「ハブ酒、てきめんですね。でもこれで心配が吹き飛びました。ほんとにきのうは疲れた顔をしてましたから。よかった」
 メイ子はタオルを絞って持ってきて、睦子と千佳子の腹や胸を拭いてやった。二人の名大生はそれでようやく回復し、芯から満足した表情でスカートを穿いた。メイ子は半裸のままキッチンへいき、すぐに床から下着とスカートを拾って穿いた。カズちゃんが、
「やたらにハブ酒を飲まないようにしてね。若い人には強い薬効があるみたいだから。これからは連戦の最終戦のあとで飲むようにすればいいわ」
「そうする。翌日がないときにね。球場であんなふうになったら恥ずかしい」
         †
 午後二時。きょうの最高気温三十・○度。対大洋十四回戦。開幕六十六試合目。オールスター前の最後の試合だ。ソテツの甘辛焼肉弁当。じつに美味。
 中村晃子という歌手は当代の人気者らしかったが、品のないタラコのような唇が気になって、下通の紹介が耳に入らなかった。彼女が振りかぶり、投げ、中塚が振り終わるまでスタンドはヤンヤの喝采だった。水原監督がベンチの連中に、
「もうこういう浮ついたことは企画しないように小山オーナーに申し入れたからね。三日間の辛抱、ご苦労さん」
 私は、
「水原監督、気を使わないでください。野球そのものを妨害されないかぎり、忍耐の範囲内です。これからは、みんなでテレビスタジオに呼ばれる機会も増えるでしょうし、いちいち目くじらを立ててるわけにはいきません」
 江藤が、
「ほうよ、監督、気にせんでよかよ。金太郎さんもああいう連中ば軽蔑しとるだけで、積極的に嫌っとるわけやなか。くっついてきたら振り払う……ほうやなければ無視。ドラゴンズのためになる企画なら、ワシら進んで受け入れますけん」
 西の空を切り裂くように光が走り、あいだを置いて雷鳴が轟いた。ポツポツ雨が落ちてきたが、本格的な降りにはならないような空の色だった。
         †
 十一対四で六敗目を喫した。最善は尽くした。ふだんの生活と同じだ。やるなら懸命にやらなければならないし、しかも思惑どおりにいかない場合の覚悟が要る。
 私は先発の高橋重行に初打席をファーストゴロに打ち取られたが、三回にライト中段へ百二号スリーランを放って撃ち崩し、四番の役割を果たした。しかし三打席目は、二番手の平岡一郎にセカンドゴロに打ち取られ、八回の最終打席は同じ平岡にフォアボールで出された。三回から最終回までチームこぞってリリーフエースの平岡に抑えこまれ、九回ツーアウトからようやく太田の代打に出た徳武の三号ソロホームランが出て一矢報いた。チーム安打は私と徳武のホームランを含めてたった七本だった。クリーンアップはみごとに散発一安打ずつに抑えこまれ、八番の一枝が六回裏にライト前へヒットを打って出たときも、後続三人は凡打と三振に切って取られた。
 対する大洋は三回まで先発水谷寿伸に三者凡退に抑えられていたが、打者一巡した四回、近藤昭仁と中塚がシングルヒットで出て、江尻三振のワンアウトから、松原がレフトスタンドへ十二号同点スリーランを放った。それを皮切りに、リリーフした伊藤久敏をジョンソン、重松、伊藤勲、米田が四連打で潰して、さらに四点を搾り取った。米田の二塁打でとどめを刺された格好だった。初対面の米田慶三郎というショートストップは、二年目の小柄な痩せぎすの男で、社会人上がりの二十六歳、去年ドラ三で入団し、二軍でホームラン王と打点王を獲得、将来を大いに嘱望されている男だということだった。伊藤久敏を継投した門岡はさらに四点をボーナスとして献上し、敗北に弔花を添えた具合になった。水谷則博や土屋の出番はなかった。別当監督のようなもったいない使い方をしたくなかったのだろう。
 ロッカールームで監督コーチ交えて、平岡をめぐる反省会を十五分ほど。大きな音立ててうがいした水を洗面台にぶちまけた高木が、
「ゆるいボールの練習もしなくちゃいかんな。あのゆるさは球界ナンバーワンだろ」
 江藤が、
「インタビューで、神無月くんは怖くない言いよったな。小癪な」
 中が、
「クリーンアップは怖くないとも言ったな」
 私は、
「球種の多さに面食らいますね。しかし慣れれば……」
 木俣が、
「ゆるいカーブが中心だよな。スライダー、シュート、なんだかわからんが落ちる球、百二十キロぐらいのストレート。打てないはずはないんだけど、決め打ちするには球種が多すぎる」
 水原監督が、
「去年、リーグ最多登板というのもうなずけるね。効率は悪いけど、やっぱり決め打ちしかないんじゃないかな。……カーブ。金太郎さんは対戦成績どうなの」
「二打数二凡打、二フォアボールです。とにかく次の対戦では、一本ホームランを打ちます」
「期待してるよ。じゃ、あさってからのオールスター、出場選手はがんばっていってらっしゃい。テレビで応援してます。それじゃみなさん、八日後、二十五日の川崎球場で会いましょう」
「オース!」
「また大洋戦!」




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