四

 五回裏。醍醐の代打に南海のブレイザーが出て、二塁前のセーフティバントで出塁した(六回の表から彼は山崎の代わりに二塁に入ることになり、キャッチャーには阪急の岡村が入った)。ブレイザーはすかさず盗塁。金田留広の代打に南海の広瀬が出た。ヒッチバッティングの職人広瀬、センター前のヒット。ノーアウト一、三塁。山崎の代打に近鉄の土井が出る。初球、バックネットへファールチップ。
「バッチシのタイミングだ」
 私が言うと、江夏が、
「危ないね」
 小野と小川もうなずく。瞬間、土井の打球がセンターの上空へ弾け飛んでいった。顔の大きな土井が軽やかにダイヤモンドを回る。燦々とカクテル光線が降り注ぐ。九対四。川上が帰ってきた。
「神無月くん、水原氏からきみを引っこめた事情を訊かれました。正直に答えた。もろもろのわだかまりが解けて、いちばん望んでいた形になったと心底喜んでもらえました。ドラゴンズ球団本部と鈴木セリーグ会長には、折り返し状況説明と謝罪をしておきました。私が勇気を持って行動すればすむことだった。じつに申しわけないことをした。信じがたい存在に出会うと、平凡な人間はパニックになる。私もその一人だった。きょうこそきみの透き通った人格と特異な才能を確信させていただいた。心置きなく、十年でも二十年でも野球をやってくれたまえ。もうけっしてきみの行く手を妨害するようなことはしない」
 金田が、
「監督、よう言った! ワハハハハ。ワシは今年で引退やが、これからも巨人軍を陰に日に応援させてもらうで」
 川上監督が、
「金やん、きょうは気を使ってもらってすまなかった。ありがとう。神無月くん、あしたからの二戦、活躍を期待しています」
「はい。安心して野球をやらせてもらいます」
 ベンチ内が割れんばかりの拍手になった。江夏が泣いていた。
 石戸から村山に交代した。永淵、三振。長池、レフトフライ。張本、レフト前ヒット。大杉の代打広野、センターフライ。
 結局九対五でセリーグの勝利となった。九時五十分試合終了。
 九回裏に投げた金田が、張本に適時打を打たれて一点取られたのを、試合が盛り上がったと監督コーチ陣が喜んだ。
 試合後の派手な表彰式。敢闘賞王貞治、打撃賞江藤慎一、優秀投手賞村山実、優秀選手賞土井正博、第一戦のMVPは私だった。禿頭の男から受け取った大きなトロフィーと賞金二百万円の小切手は足木に預けた。副賞は風呂屋にあるようなマッサージチェアだったが、置き場所は景品小屋しかないと一目でわかった。四人の賞金はそれぞれ五十万円だった。副賞はわからなかった。オールスターは祭りなので、三試合を通じてふだんのペナントレースにはない賞や賞金が設けられている。受け取るときに現実感が湧かなかったのは言うまでもない。副賞は来場者に配られる団扇に印刷されているらしい。
 観客は帰宅を急がずに、いつまでも飽かず拍手を送っていた。インタビューは、
「最高にうれしいです。あしたも狙います」
 と応えたきり、あとは江藤ら四人にまかせ、ロッカールームに着替えにいった。インタビュー放送はロッカールームまで流れてきた。三人とも当たり障りのない受け応えをしていた。
 十一時に近く、めいめいバスや自家用車に乗り、めいめいの塒に引き揚げた。赤坂の小料理屋でドラゴンズの仲間たちと飲んで食った。あしたの移動は強行軍なので、十時半に切り上げた。
         †
 翌朝の新聞に、川上監督たちが頭を下げている望遠写真が載った。ついに和解、という見出しが躍っていた。私が怒鳴ったことは記事の内容になく、彼らが私に一方的に謝罪したことになっていた。ドラマは作り上げられていなかった。読売ジャイアンツ球団のスポークスマンが、
「球団側もようやく胸のつかえが下りました。バット事件以来、神無月くんはじめ諸処の関係者には悩ましい思いをさせてきましたが、川上氏の素直な謝罪によってその気分が一挙に晴れ上がってくれたものと信じます。神無月くんの末永い活躍を祈念します」
 と語っていた。その脇に、ホームラン競争とMVPの記事が載っていた。
 朝六時三十三分、新大阪へ移動する新幹線に乗る。四時間ほどの旅のあとホテルで昼食をとれるように移動するので、遅い組でも七時半には乗車する。いちばん遅いのは阪神チームだ。甲子園のそばに自宅や寮があるせいで、好きな時間に食事がとれるからだ。私たちのひかりには、別の箱に分かれて二十人あまり乗りこんだ。小野が、
「あの感動的な啖呵は、やっぱり記事として不適切なのかな。これだと、あのときのベンチの雰囲気や、神無月くんの怒りが伝わらないよね」
 中が、
「たしかにそうなんだけど、マスコミも金太郎さんの異常性を際立たせないほうが得策だと思ったんだろうね。金太郎さんの去就に関わる問題に発展させたくなかったんだよ。異常でなくちゃ金太郎さんじゃないし、だからこそ私たちはついていってるんだけどね」
 江藤が、
「読売新聞の腰ぎんちゃくどもという言葉には飛び上がったばい。ワシらはスカッとしたばってん、世間じゃ物議をかもすやろうもん」
 小川が、
「そこまで言ったということは、金太郎さん自身が進退を決めてた、ということだろうなあ。その迫力は岩をも動かす。水原さんは泣いたろう。……金太郎さん、俺たちを見捨てないでくれよ」
「すみませんでした。あと先考えずに……。まさかあんなラッキーな結果になるとは思わなかったもので。ダッフル担いで夜の新幹線ホームに立ってる自分の姿を思い浮かべてましたから。冷静になって、自分は死ぬほどがまんするんだと一度心に決めてたことを思い出したんです。そうやってみんなと幸福に生きていくと決めたじゃないかって。頭の構造が粗雑なんですよ。決意を忘れてしまうなんてね。江藤さんがベンチの様子を窺ってから、気のないスイングでセンターフライを打ったとき、プチンと切れました。江藤さんに遠慮させたこいつらを叩き潰してやると思ったんです。ぼくを怒鳴りつけたり、えらそうに理を説いて食ってかかったりするやつがいたら、一人残らず腕力でひねり潰す気でいました。ドラゴンズのみんなの迷惑は考えもしなかった。ひどいもんです。ぼくはみんなと離れたくないのに、あえて離れるようなことをしている。野球が好きなのに、あえて捨てるようなことをしている。小学生中学生のころと全く変わらない。……こんな好結果になるなんて……マグレです」
 江藤がドッと涙を噴き出し、
「愛しとるぞ、金太郎さん、愛しとるぞ」
 私を抱き締めた。小川が、
「金太郎さんに惚れたということは、そういうことがぜんぶわかってるということなんだよ。俗人のわがままというんじゃない、金太郎さんは神人の霹靂(へきえき)を抱えてるんだ。畏怖すべき人間だという印象を連中が持ててよかった。いい気になってる連中は、理不尽に打ち据えないとますますつけ上がる。ふつうの人間にはそうやって打ち据える能力がない。俺は心からありがとうと言いたいよ」
 江藤が、
「迷惑かけたな、金太郎さん。ワシも残り少ない野球人生、気を強くしてがんばらないかん。ちょっと弱気になると、目のある人間にはすぐ見抜かれる」
 中が、
「見抜くだけじゃない、叱るんだよ、金太郎神さまが」
 小野が、
「きょうは私、先発だ。がんばろう」
「打っちゃるけんな。二十点ぐらい取るか」
「取りましょう!」
 小川がチッチと指を振り、
「オールスターだよ。そりゃ無理だ」
         †
 九時三十三分新大阪着。快晴。阪神バスに乗り換え、十時半に芦屋に着いた。バスに同乗した人員を見回し、芦屋竹園旅館ではジャイアンツ・阪神・広島と同宿だとわかる。みんな同じひかりできたのだ。ドラゴンズの五名を合わせて二十五名。各チームのマネージャー、トレーナー、スコアラーを数えれば、四十人近くになる。全体の三分の一以上が竹園にきた計算だ。
 各チームそれぞれのマネージャー格に導かれてチェックイン。玄関先にファンやカメラマンがひしめいているけれども、一般の宿泊客は締め出されている。水原監督がいないのがさびしい。フロントでいつもとちがった五階の一部屋を指定される。四階に監督、コーチ、マネージャー、トレーナー、五階には選手が泊まる。
 ざわめくロビーを嫌ってエレベーターに乗る。選手たちが廊下をうろうろ歩いているので、設楽ハツと出会っても声をかけられる状態ではない。実際、仲居たちは各部屋の接待で忙しいので出会いそうもない。荷物が届いている。段ボール箱を開けてユニフォームをソファに広げる。
 下着の上にバスローブをまとい、室内履きで廊下に出る。専用エレベーターで六階の大風呂へいく。何人か先客がいて、からだを洗っている。高田、黒江、土井の巨人組。話をしたくない。する話などない。まず洗髪をしてから、前を隠し、ゆったり湯に浸かる。大窓から遠く六甲山系が望める。高田が湯に入り、寄ってくる。
「初めまして、高田です」
「あなたを知らない人はいません」
「……感激しました。地面から湧きあがるような声にふるえ上がりました。みんなふるえてましたよ。監督が神無月さんに謝罪するのは、チームのみんなが願ってたことだったんです。とんとん拍子にああなるとは思わなかった。神無月さんの怒声に、監督もいっぺんに本音が押し寄せたんでしょう。監督の誠実な態度にも感激しました。ああいう大将なら、みんなやる気になります」
 私は笑いながら湯に浸したタオルで顔を拭った。話すことがない。土井と黒江が湯に入ってきた。
「黒江です。六年目、立正佼成会出身。馬鹿なもんで、気分を悪くさせちゃいました。すみません」
「小川さんといっしょにプレーしてたんですね」
「そうです。ご存知でしたか」
「はい」
「土井です。五年目、立教大学出身。同期に阪急の森本がいます。おととしはオールスターに出てたんですけどね。今年はいないなあ」
「そうですか。サングラスの人ですね」
「今回はほんとうに申しわけないことをしました。……小粒の人間の嫉妬だと思ってご勘弁ください。しかし、読売の腰ぎんちゃくはグサリときました」
「すみません。ひどいことを言いました」
 私は頭を下げ、浴槽の縁のタイルに腰を下ろした。
「ぼくは十歳のころから、自分が野球選手であることに奇跡を感じながら、いつも感激を絶やさないようにしてきました。……ぼくは野球が好きなんです。工夫したことが成果につながり、その成果を喜んでくれる人びとがいる。そんな純粋な世界がどうしようもなく好きなんです。ぼくは馬鹿な一徹者ですから、この世は人間同士の思惑や集団のシステムがあって、対人関係や場所柄をわきまえる必要のある世界だけれども、球界は野球以外の思惑やシステムのない特殊な夢の世界だと信じていました。この数カ月、いろいろな問題が起きて、その神聖な気持ちに疑惑が生じてきました。きのうはその気持ちがピークに達して、ここはだめだ、これじゃまるきりふつうの世界じゃないか、それなら、いっそ別の信頼できる世界へ去ろうと思ったんです。それであんなありさまになってしまいました。どうも誤解だったようですが、実際にことを起こしたわけですから、何らかの処罰がなされなければならない。最悪の結果になったとしても、ことを仕掛けたぼくが相応の処罰をされ、すっきりとその場所を去ればすむだろう。累は仲間に及ばない。そういう確信がありました。しかし、複雑な思いでした。いますぐはここを去りたくはないなと思ってましたから。たとえ夢の世界ではないとしても、野球と仲間に未練があったんです。川上監督の臨機の対応がなければ、ぼくはその好きな野球と仲間から永久に引き離されていたでしょう。愛する野球にいっときでも留め置いてくださって、こちらこそ感謝しています。ありがとうございました」
 どこか江藤たちに話すのとはちがう粉飾があった。居心地が悪い。黒江が、
「……度を超えた奇人ですなァ。許してもらいたい、謝りたい、なんて生易しい気持ちで頭を下げたんじゃなく、最初からただただ頭を下げるしかなかったんですよ。ほんとうに申しわけないことをしました」
 きつく手を握った。私はそれ以上話すこともなく、いや、話すまいと決意して、笑いながら黙っていた。
「今夜、がんばりましょう。また三本いきますか」
「一本はいきたいですね」
 黒江と土井は上機嫌に湯を漕いで浴槽の縁に凭れた。この過剰に好意的な待遇を信じていいのだろうか。どうにでもなれと思った。こうなったのだ。後戻りはできない。他人の作り出した虚構に自分の実人生を乗せて、走りつづけるしかない。私は湯船に深くからだを沈めた。私から離れない高田が、
「神無月さんの尊敬する尾崎は、浪商で私の一年先輩です。彼が二年生のとき、いっしょに甲子園にいき、うちの柴田さんと投げ合いました」
「準決勝で勝って、決勝では桐蔭に勝って優勝したんでしたね」
「はい。尾崎はそのまま中退してプロにいっちゃったから、私は二年生からピッチャーをやらされたんですよ。ふつうのピッチャーでした」
「高田さんは大学野球では、いろいろ記録を作ったんでしょう?」
「二つです。通算百二十七安打と、ベストナイン七回。ささやかな勲章です。神無月さんのような神の足跡じゃありません。神には勲章なんかいりませんからね。背番号が同じ8なのは、何かのシャレだと思ってください」
 遠くから黒江が、
「おととしのドラ一で入団してからも、そいつは記録男なんですよ。新人で三割、二十盗塁、新人王。日本シリーズMVP。俺の五年も後輩だってのに、まいっちゃう」
「黒江さん、恥ずかしいからやめてください。神無月さんを前にしてそんな自慢をしても、やるせなくなるだけです。そういえば、神無月さんは目が悪いですね。私もです。コンタクトをしてます」
「そうですか。目にゴミが入るのが怖いですね」
 何の興味もなかった。


         五

 黒江と土井が、お先に、と言って上がっていった。高田が伸びのびと足を伸ばし、
「中日のコーチに長谷川さんてかたがいますよね。彼は柴田さんの二つの初記録に絡んでるんです。昭和三十八年の初盗塁のときのピッチャーでしたし、同じ年の初ホームランも長谷川さんからでした」
「初ヒットは?」
「中日の権藤さんからです」
「他人の記録をよく憶えてますね。ぼくは自分のことも憶えてません。打った瞬間に忘れてしまいます。初ホームランはおろか、このあいだの百号ホームランも憶えてません」
「神無月さんは開幕戦初打席初ホームラン、ピッチャーは安仁屋、左中間に打ちこんでます。百号は島田源太郎、バックスクリーン左です」
「舌を巻くなあ」
「何も覚えない神無月さんが羨ましいです。うちではチョーさんぐらいですよ、何も憶えてないのは。人間の天才と神は似てますね」
「さ、上がって宴会場へいきましょうか」
「はい」
 宴会場に入ると、田淵が江夏といっしょにニコニコ顔で新聞を持ってきた。関西のスポーツ紙には、例の望遠写真は載っていなかった。オールスター関係の華やかな記事ばかりだ。ホームランダービー神無月十の十、三打席連続ホームラン、MVP。私のことに終始している。片隅に金田兄弟対決の記事がぽつんとある。江夏が、
「神無月さん一色ですよ」
 田淵が、
「当然といえば当然だけどね」
 私は田淵に、
「浜野さんとは連絡とり合ってますか。ベンチでさびしそうにしてましたが」
「最近はちょっと……心苦しくてね。オールスターでは投げさせてもらえないでしょう」
 たまたまそばのテーブルにいた川上監督が、
「スピードがつかないと、しばらくはね……。コントロールはいいんだが」
 そう言って立ち上がり、
「こちらに移動するのはあわただしくてたいへんだったですな。あしたはゆっくり出発です。今夜は延長戦でも何でもやってください」
 ドラゴンズの宴席のような和やかな笑いが満ちた。私は江藤に、
「あしたの移動は飛行機だからラクですね」
「おお。すぐ博多ラーメンたい」
         †
 オールスター第二戦、阪神甲子園球場。
 ロッカールームに向かう通路の棚籠から、オールスター出場選手紹介パンフレットをちょうだいする。便利。尻ポケットにしまう。
 観衆三万五千人。先攻はパリーグ。一番センター池辺(ロッテ)、二番ショート阪本(阪急)、三番ライト長池(阪急)、四番レフト土井(近鉄)、五番ファースト大杉(東映)、六番サード船田(西鉄)、七番セカンド山崎(ロッテ)、八番キャッチャー岡村(阪急)、九番ピッチャー鈴木啓示(近鉄)。鈴木とは中日球場の最終オープン戦で一度だけ対決している。たしか右翼中段にホームランを打ったはずだが、球種は憶えていない。いやにボールの散るピッチャーで、棒球の豪速球と明らかにボールになる逸らし球がきっちり見分けられる印象だった。
 後攻セリーグ。一番ショート、藤田平、二番センター中、三番ファースト王、四番レフト神無月、五番ライト江藤。王と江藤の打順が入れ替わった。六番サード長嶋、七番キャッチャー田淵、八番セカンド武上、九番ピッチャー小野。王が言う。
「三万五千か。四万八千人入る甲子園にしちゃ少ないね」
 平松が、
「川崎球場じゃ考えられませんよ。神無月さんがきて超満員になっても三万人だもの」
 平松と同僚の伊藤勲が、
「九十人とか百人という記録も残ってる。プロ野球じゃないね」
 ホームラン競争。長嶋対張本、江藤対土井。それぞれ三本対四本、七本対六本で、江藤の勝ち抜け。また鏑木が江藤に抱きついた。川上監督が、
「あさっては田淵くんか大杉くんだな。金太郎さんと、江藤くんと、田淵くんか大杉くんの争いだ。セリーグ同士になるといいね」
 金太郎さんと言った。仏顔に変わっている。田淵が、
「すでに勝負あったですよ。神無月さんの優勝です。俺なりに一生懸命やりますけどね」
「田淵くん、いま何本?」
 王が尋くと、
「十本です。先月の十九日に大洋戦で打ったきりです」
「二十本ペースだね。ぼくは入団から三年間、二十本打てなかった。新人で二十本はすごいよ。神無月くんがいなければ新人王だったのに」
「まったく残念じゃありません。ハナからデッドヒートというものと無縁な人とカチ会っちゃったわけですから」
 王は茶目っ気のある目で、
「盗塁王が残ってるよ」
「冗談はヨシコさん。球界ナンバーワンの鈍足です」
 ワハハと川上監督が笑った。長嶋が戻ってきて、
「いやあ、いいライナー打てたんだけどね。ライナー競争じゃないから最下位」
 サバサバとした顔で笑う。イベントは、どこかの小学校の鼓笛隊の行進だった。芸能人の開会宣言はなく、セリーグ選手が守備につく。始球式は、元防衛庁長官で現大阪府知事左藤義詮(ぎせん)。万博知事と言われる七十歳の温顔の老人が投じたボールは、ツーバウンドで池辺の足もとに届いた。池辺は思い切り空振りをした。
 キャッチボールの最終ボールを中から受け取り、三塁側のボールボーイにゴロで投げ返す。パリーグのスタメン。一番池辺巌(ロッテ)、背番号34。パンフレット。八年目二十五歳。確実で手堅いいわゆるシュアな中距離ヒッター。二度目のオールスター。
 二番阪本敏三(阪急)、背番号4、三年目二十五歳、小柄、俊足、二割後半の打者。
 三番長池徳二(阪急)、背番号3、四年目二十五歳、ただいま十六本でホームランダービートップ、肩にあごを乗せた独特の構え。
 四番土井正博(近鉄)、背番号3、九年目二十六歳、〈円月殺法〉。アトムズの福富と同じムダの多い構えだ。百八十センチもあるのに、顔の大きい幼児体型なので小さく見える。
 五番大杉勝男(東映)、背番号51、五年目二十四歳、三振王、彼も百八十センチある。張本と並ぶ喧嘩屋と言われている。
 六番船田和英(西鉄)、背番号8、八年目二十七歳、巨人時代の長四角の顔を憶えている。背番号は22で、ショートを守っていた。低打率の男だった。
 七番山崎裕之(ロッテ)、背番号2、五年目二十三歳、特徴のない二割五分打者。埼玉県の上尾高校時代は天才と呼ばれ、ショートストップで甲子園に出場し、派手な守備で大騒ぎされていた。中学二年の春、西松の食堂のテレビで観た覚えがある。送球のときチャールストンのように足を跳ね上げたりして、派手というより気取った守備をしていた印象がある。
 八番岡村浩二(阪急)、背番号29、九年目二十九歳。きのうの醍醐と言い、きょうの岡村と言い、キャッチャーがドッシリとした体躯をしていることは、ピッチャーはもちろんチームメイトを安心させる条件にちがいない。技術というよりも、同朋に強い安心感を与える雰囲気を持っていることこそすぐれたキャッチャーの条件だろう。しかし、安心感には雰囲気ばかりでなく実際の攻撃力も含まれる。野村や木俣と並び称される名キャッチャーの誉れを得るためには、徹底したバッティングの鍛練が必要だ。
 九番鈴木啓示(近鉄)、背番号1、四年目二十二歳、二年連続三振奪取王。土井と同様頭の大きい幼児体型をしているので、百八十センチあると言われても目が信じない。
 川上監督と西本監督がホームプレート前で握手を交わす。
 一回表。先頭打者の池辺がバッターボックスに入る。
「プレイ!」
 宣した球審は吉田(パ)、一塁塁審有津(セ)、二塁田川(パ)、三塁柏木(セ)、レフト線審久保山(パ)、ライト富沢(セ)。
 小野の初球、胸もとの速球。池辺のけぞってよける。小野のボールが走っている。二球目、外角カーブを強引に引っ張って、私の前へのヒット。阪本ツーナッシングからセカンドゴロゲッツー。長池ツーツーから高目のストレートを美しいダウンスイングで三振。
 一回裏。鈴木啓示のスピードボールがうなりを上げる。藤田平、三球三振。中、ワンワンからサードゴロ、王ツーワンから速球で三振。
 二回表。四番土井、初球の高目のストレートに詰まって私への平凡なフライ。ヘッドアップ気味のスイングがはっきり見えた。五番大杉、初球をセンターフライ。相当な腕力なのだろう、バットを軽そうにスイと振るのが印象的だ。六番船田、ワンスリーからライト前ヒット。七番山崎、ノーツーからショートゴロ。
 二回裏。ネクストバッターズサークルから鈴木の投球練習に目を凝らす。振りかぶらずに腹にグローブを置くだけのセットポジションから、胸を大きく張り、右膝を腋の下まで持ち上げ、足先を顔の高さに撥ねる。足が下りてくるにつれ背番号1がはっきり見えるほど上体をひねって前方へ倒し、低く辞儀をするように上半身を前へのめらせながら、スリークォーター気味の腕の振りで投げ下ろす。速い。このピッチャーをどうやって打ったか思い出せない。
「金太郎さん!」
「天馬!」
 期待の歓声が上がる。外角低目の速球に絞り、うまくいけば三遊間を抜けるような内野ゴロを打っておくことにする。そのときのバットの手応えで、彼の球の重さ軽さを思い出せるだろう。真ん中や内角で勝負してきたら、強振する。
 初球、外角低目へ外れるストレート。目にも留まらない。こんなに速かったか。振り出しを早くしなければならない。めずらしくバッターボックスを外し、バットが滑らないように、握りに砂をすりつけ、それから王のようにこぶしに息を吹きこむ。意味のない行為に見えるけれども、握りが少し汚れた感覚がいいのだ。太っちょのキャッチャー岡村を見る。マスク越しにするどい目で見つめ返す。
「敬遠はせんぞ。鈴木はど根性男や」
「わかります。勝負のし甲斐があります」
 いまの外角低目のストレートは勝負球の伏線だ。何球かあとで、ほとんど同じコースに突き刺してくるだろう。岡村は低く構えた。二球目、ど真ん中低目ストレート。とてつもなく速い。ボール。ノーツー。私の得意な低目で打ち気を探っている。高目はこない。やはり外角低目を三遊間へ打とう。三球目、外角低目猛速球、ぎりぎりストライクコースだ。踏みこみ、ショートの阪本目がけて振り抜く。芯の少し先だ。バットが折れた感触があった。ライナー性の打球がわずかにホップする。阪本ジャンプ。グローブの先を越えた。芝生に殺されながら左中間へ転がっていく。土井と池辺が追いかける。私は一塁を回る。池辺が頭から飛びついて押さえた。すかさず立ち上がり二塁へ送球。滑りこみ、間一髪セーフ。どよめきが大歓声へ変わる。バッターズサークルの江藤が拍手している。ベンチもしきりに拍手している。尻をはたきながら、巨大な甲子園を見回す。無慮大数に思える観衆が拍手している。
 江藤、ツーナッシングから内角速球に詰まってショートゴロ。私動けず。長嶋、ツースリーからフォアボール。田淵、三球三振。武上、キャッチャーゴロ。
 三回表。小野続投。八番岡村は二球でセカンドゴロに切って取られた。九番鈴木、小野の初球の棒玉を打ってセンター前ヒット。中日ピッチャー陣のいつもの悪癖をオールスターまで持ってきた。一番に戻って、池辺、セカンドゴロゲッツー。小野の責任回数が終わった。
「ナイス、ピッチング!」
 中日三人組の外野手が小野に声をかけながら駆け戻る。
「サンキュー。これであしたからのんびりできる。シャワー浴びようっと」
 三回裏。小野の代打高田、ツースリーから内角高目速球で三振。一番藤田平、ツーナッシングから速球に合わせただけのセカンドゴロ。私はダッグアウトの出入り口に立ち、手をラッパにして、
「中さーん、三塁打!」
 と大声を投げた。
「利ちゃん、いけェ!」
「ヨー、そりゃ!」
 私と江藤と小川が飛ばした檄に中がバットを掲げた。ほかのベンチ連中も、
「ヘイヘイヘイ!」
「ノーコン、ノーコン!」
 などと声を上げだした。速球、カーブ、カーブで、ツーワン。鈴木のコントロールがいい。オープン戦で対戦したときはたしかにボールが散るノーコンの印象だったが、きょうの鈴木にはその片鱗が窺えない。オールスターということで気持ちが引き締まっているのだろう。岡村が体勢を低くして外角に構えた。快速ストレート。コン! 中が軽くバットを投げ出す。地を這うゴロがレフト前へ転がっていった。私と江藤はベンチ後方から叫んだ。
「ナイス、バッティング!」
 王が打席に入り、私は新しいバットを持ってネクストバッターズサークルに入る。七年連続ホームラン王に送られる惜しみない拍手と喚声。甲子園のダッグアウトの屋根と観客席のあいだは金網で仕切られているので、巨人の私設応援団長の関屋さんは入ってこられない。スタンドで紙吹雪が舞っていないところを見ると、甲子園にはきていないのかもしれない。喚声にまぎれて早口のラジオ放送が切れぎれに聞こえてくる。芝生の美しさが目に沁みる。日本一美しいと言われるカクテル光線が、緑の芝生に降り注ぐ。美しいが、東京球場ほど明るくはない。
 左ピッチャーの鈴木に睨まれて中が走れないでいる。一本素早い牽制球がくる。足から戻る。王、初球、真ん中から外へ曲がるカーブを打ってセンター前へ詰まったフライ。ポトリと池辺の前に落ちる。実質打ち取ったのに、鈴木は口惜しいだろう。ツーアウト一、二塁。打順が巡ってきた。ふたたび轟く喚声。
「さ、いこ!」
 岡村が立ち上がって鈴木に声をかける。外野がフェンスぎりぎりまでバックする。ライトスタンドを見やる。遠く、高い。この球場で場外ホームランを打ったことが信じられない。
 ―全力でスイングしよう。当たりどころがよければ、ボールは信じられないほど飛んでいく。それが硬球の魔術だ。


         六

 初球、内角腰のあたりの速いシュート。ストライク。鈴木の投球間隔は短い。キャッチャーからボールを受け取ると、うなずき、すぐに次の球を投げてくる。二球目、真ん中から外へ流れ落ちるカーブ。王を〈打ち取った〉ボールだ。振り出しを溜め、ホームベースをよぎろうとしたところを渾身の力で叩く。理想的に食った。歓声が爆発する。右中間スタンドに突き立つライオンの脚に向かって伸びていく。行方を見ずに後藤コーチとタッチ。大杉が、
「ボールがあんなに飛ぶんかい!」
 と叫んでセンター方向を見つめた。釣られて私も見る。打球が照明塔の右脚に当たったのを確認しながら二塁ベースへ向かう。セカンドの山崎が、
「百六十メートル!」
 と声をかける。ショートの坂本が、
「ぶったまげた!」
 サードの船田は黙って、ベースを踏む私の足を確認する。笑いかける根本コーチと無表情にタッチ。ホームベース前にきょう初めて花道ができた。一人ひとりと握手。列の後尾に眼鏡の川上監督が立っている。握手。笑いながら尻をポン。わざとらしくない彼の笑顔を初めて見た。ゼロ対三。畳みかけるように、江藤がセンター前にヒットを放つ。長嶋もセンター前ヒット。田淵、レフトオーバーの二塁打。江藤生還。長嶋三塁へ。田淵ライトフライ。ゼロ対四。鈴木、責任回数終了。口惜しそうな表情はない。
 四回表。全セのピッチャーは若生デンスケ。全パの先頭バッター二番阪本に代打永淵が出て、あえなくピッチャーゴロ。三番長池、速球に詰まってセンターフライ。四番円月殺法土井三振。
 四回裏。パリーグの守備は、池辺が引っこんで長池がライトからセンターへ移動し、代わりに永淵がライトに入る。阪本に代わってショートに近鉄の安井。打順は一番安井、二番永淵になる。攻守交替のあいだトンボが入るとき、軽やかなバックグラウンドミュージックが流れるのは甲子園独特のものだ。一回早くトンボが入ったのはオールスターだからだろう。パリーグのピッチャーは近鉄のアンダースロー佐々木宏一郎。背番号16の背高ノッポ。シュートとスライダーだけのピッチャー。
 八番武上、レフトオーバーの二塁打。若生デンスケ、ライトフライ。武上タッチアップして三塁へ。藤田平、ライトフライ。武上タッチアップして生還。ゼロ対五。中、右翼線へ二塁打。王、フォアボール。私、スライダーを引っかけてボテボテのファーストゴロ。大杉芝に足を取られてエラー。ツーアウト満塁。江藤、外角スライダーの下を叩きすぎてファーストフライ。クネクネ曲がる打ちにくいピッチャーだ。
 五回表。大杉、デンスケの高目速球にやられて空振り三振。五番船田。初球、センター中の前へ渋い当たりのヒット。六番山崎に代わって南海のブレイザー。ファールで粘ったが、結局私へのフライでツーアウト。岡村に代わって同じ阪急の矢野がピンチヒッターで出てくる。ツースリーからライト前ヒット。西鉄のピッチャー池永が代走で出る。風変わりな選手起用だ。ツーアウト一、二塁。佐々木の代打張本、早打ちしてキャッチャーフライ。
 五回裏。六番長嶋、ファーストフライ。田淵ショートゴロ。武上センター前ヒット、若生デンスケの代打松原詰まったショートライナー。みんな打ちにくそうだ。
 六回表。セリーグのピッチャー江夏に交代。ここは甲子園だ。歓声が轟音となって立ち昇る。しかし、めまぐるしい選手交代に戸惑い、歓声に酔い痴れることができない。
 一番安井、真ん中低目の速球を私の前へ痛烈なヒット。永淵、シュートに詰まってセカンド横へ内野安打。江夏のボールはしっかり切れている。長池、ツーナッシングからボテボテのサードゴロ、三塁封殺のみ。まったく当たっていない。土井、ショートフライ。大杉、ライトフライ。きょうは江藤へのフライが多いが、もと外野手の江藤は難なくこなしている。
 六回裏。全パのピッチャー交代。阪急のサウスポー梶本隆夫。でかい! オールスターの常連。スリークォーターの静かなフォームから、意外な速球を投げこんでくる。背番号33、十六年目、三十四歳。中日球場のオープン戦で対戦ずみ。ファーストゴロとライト場外ホームラン。外角のパームに手を出してはいけない。二十勝したのに新人王を獲れなかったとパンフレットに書いてある。一イニング三者連続三球三振を二度やったという武勇伝の持ち主だ。野辺地の佐藤製菓のボッケに似た穏やかな顔をベンチからあらためて見つめる。タラコ唇が相変わらず不気味だが、穏やかな表情のせいで俗界から遠く離れている雰囲気がある。
 藤田平、ストレートを早打ちしてライトフライ。中、パームにタイミングを狂わされキャッチャーフライ。王、真ん中高目の〈意外な〉速球に詰まってレフトフライ。ボールが手もとで伸びている。引きつけて打つ選手にはつらい。王はそのタイプではないが、みごとに詰まらされた。
 七回表。船田、フォアボール。ブレイザー、三振。矢野に代打が出る。南海の広瀬。やられる予感。初球外角シュート、ストライク、二球目も外角シュート、一塁スタンドへファール。中日球場のオールスター戦のファールボールをどうしても忘れられない。ヒッチするぎくしゃくしたバッティングフォームだが、速球にはめっぽう強い。
「南海からはブレイザーとおまえしか出とらんのやぞ! 二人でシュンとしとったら、野村に合わせる顔がないやろ! あほんだら!」
 三塁スタンドから飛んだ野次が終わらないうちに、広瀬は胸の高さのストレートを叩いてレフトラッキーゾーンへツーランホームランを打ちこんだ。私の頭上を低い弾道で越えていった。三十三歳の広瀬がからだをかしげながら二塁ベースを回る。あの日も決勝ホームランを打ったと聞いたことを思い出した。二対五。ようやく試合が動きはじめた。張本に西鉄のキャッチャー村上が代打で出る。サードゴロ。 
 七回裏。甲子園の大きな擂鉢をざわめきが吹き回っている。ホームランでアクセントをつける試合運びに満足しているのだ。ざわめきを狂喜の大歓声に変えなければならない。
 私からの打順だ。ピッチャー米田に交代。ヨネカジコンビの米田哲也、十四年目三十一歳。スタミナ抜群で人間機関車のあだ名がある。金田と並んで四百勝を上げるだろうと言われている。オープン戦で梶本と対戦した同じ日に、米田からもレフトへ場外ホームランを打った。捕っては投げちぎっては投げのキャッチボールスタイル。もちろん体高を低くしての本格的な投球だ。私はバッターボックスを外さないほうなので、相性はいい。直球を主に、シンカー以外の変化球をすべて投げる。梶本と同様軽く投げているようだが、かなりスピードがある。フォークはよく落ちる。手を出してはいけない。内角のシュートも手を出してはいけない。
 ほとんどセリーグファンで埋まっている内外野のスタンドが盛り上がる。ふとネット裏が気になった。北村一家が観戦にきているはずだ。私は一塁ベンチ前に出て、大鉄傘を見やった。あまりにも人の数が多くて、どこに座っているのかまったくわからないので、帽子を大きく振った。ドッと歓声が返ってきた。川上監督が、
「知り合いでもいるのかね」
「そのはずです」
 江藤たちがにやついていた。王に訊く。
「米田のカーブは切れますか?」
「切れる。ストレートを狙っているとカーブでスカされます。カーブを狙うとフォークでスカされる。タイミングのとりづらいピッチャーです」
 江藤が聞き耳を立てている。長嶋はポカンと外野スタンドを眺めていた。伸びのいいストレートを狙うことに決めた。バッターボックスに向かいながら、もう一度バックネットを振り返ってバットを掲げた。嵐のような喚声が湧き上がった。吉田球審にヘルメットを取って挨拶する。ウンともスンとも応えない。キャッチャーは西鉄の小柄な正捕手村上公康。やさしげな目がマスクから覗いている。ボックスの足もとを均し、眼鏡のはまり具合を確かめる。尻のお守りに手をやる。
 初球はストレートだろう。まず自分のボールの威力を見せたいのがピッチャーの性(さが)だからだ。好球なら打つ、悪球なら球種に関わらず次のボールを打つ。米田は小さく振りかぶり、歩くように踏み出した。指が揃っていない。ストレートだ。腕を振り下ろす。半歩ボックスの前方ににじり出る。内角高目だ。もとの位置だと伸びのいいボールを空振りしたか、せいぜいファールチップだった。瞬時に足先をオープンに開き、浮き上がる前にしっかりかぶせ打つ。芯の少し内側か。バットが折れた音ではない。ライトポールに向かって高く舞い上がる。
 ―ぎりぎり捕られたかも。
 嘆息の混じった喚声が上がる。全速で走る。永淵が上空を見上げながらゆっくりポールの下へ移動する。打球の行方を見やりながら一塁を蹴る。永淵がジャンプしないで見送った。ラッキーゾーンのブルペンで平松の相手をしていたキャッチャーが捕球した。冨澤の白い手袋がクルクル回った。あらためて明るい歓声が上がる。ヘルメットを高く掲げながらゆっくり走る。米田がスパイクでマウンドを均している。セカンドの船田が、
「漫画を見てるようだよ」
 と声をかけた。花道を走っていく。タッチ、握手、タッチ、握手。列の後尾の川上が私の両手を握り、大きく笑った。もう一度バックネットに向かってヘルメットを振る。左上方で立ち上がった一群がある。北村一家だった。跳びはねている。ベンチの外に居並ぶ選手たちとタッチ。二対六。
 江藤、ワンツーから外角のカーブを打ってレフトフライ。長嶋、外角のカーブをコンパクトに打ち返してライト前ヒット。田淵、サードゴロゲッツー。たしかに二十点獲るのは無理だった。
 八回表。平松が登板した。キャッチャーは同じ大洋の伊藤勲。投球練習の速球がうなりを上げる。平松は打ちにくいピッチャーなので、九回まで投げ切れるだろう。しかし私は打たれて接戦になるほうが楽しい。一番安井からの打順。トントンと追いこまれ、三球目のストレートに詰まってセンターフライ。永淵、ツーワンから外のシュートを空振り三振。長池、初球高目の速球を打ってサードファールフライ。
 八回裏。米田から東映の金田留広に交代。連日登板。捕手も村上から東映の醍醐に代わった。あごを上げる担ぎ投げ。あごを上げなければ島田源太郎だ。直球とカーブ、たまにシュート、スライダー。球質は重い。武上の代打に山本一義が出る。初球、たぶん兄直伝の大きなカーブ。山本、思わず打ってしまってライトフライ。平松やはり初球のカーブを打ってレフトフライ。藤田平、速球に差しこまれてセンターフライ。なぜか不吉な感じがした。攻撃が素っ気なさすぎる。
 九回表。四番土井正博、カーブを打ってサードゴロ。カーブ? 平松の悪いクセが出ている。アウトが早くほしくて凡打を取りにいくクセだ。三振を取るのは時間がかかるので自然そうなる。それならシュートを投げればいいのに。いや、デッドボールがある。スター選手を傷つけるのは怖いと思ったのかもしれない。
 ―しかし、あとアウト二つだ。四点差をひっくり返されることはないだろう。
 納得しようとしたとたん、大杉がそのカーブををセンター前に弾き返し、船田がカーブをライト前へ転がし、ブレイザーもカーブをセンター前ヒットを打って三連打。大杉ホームインして三対六。ワンアウト一塁、三塁。ここから平松の投球がストレート一本に切り替わった。曲がりの小さいカーブの通用度をしつこく試していたのにちがいない。
 村上に代わった醍醐の打席。ストレートで押して三球三振。よし、ツーアウト。金田留広の代打に西鉄の広野が出てきた。ヌーッとむだに大きい。バットが小さく見える。田中勉と交換トレードで西鉄にいったのはこの男か。ドンくさそうだ。広野は初球の真ん中ストレートに振り遅れたが、馬鹿力でミートした打球が痛烈なサードゴロになった。
「あ!」
 長嶋が小さく弾いた。三塁ランナー船田動かず。長嶋は一塁送球をあきらめた。ツーアウト満塁。長嶋がしきりにグローブを検見(けみ)している。一番近鉄安井。おそろしくいやな予感がした。私の前にヒットを飛ばしたときのするどいスイングが目に浮かんだ。安井は初球のストレートを気のない空振りをした。カーブを狙っているようだ。だれの目にもそう見えた。平松もそう思っただろう。二球目、猛速球を外角低目へ投げこんだ。ガチッと合わされた。打球がライト線に低く飛ぶ。ストレートを狙っていたのだ! 空振りはフェイクだった。白球が予想外に延びてライトラッキーゾーンに飛びこんだ。グランドスラム! 七対六。目の覚めるような逆転の一打だ。起死回生。とんでもなく愉快になってきた。グワングワンという喚声の中、平松降板。甲子園が興奮の坩堝と化した。きのうにつづいて小川が出てきた! キャッチャーは伊藤勲から巨人の森に交代。もう点は入らない。小川は油断のない直球で次打者の永淵をセカンドゴロに仕留めた。
 九回裏。近鉄の清(せい)が登板する。初対決だ。打順は一番の藤田平から。ここで逆転すれば小川を勝利投手にしてやれる。小野が、
「留広に痛い目を見させたくないという配慮だね。このまま抑えて勝利投手になれるかもしれないのに、もったいない。清は六年目か。とうとう花開いた感じだね。絶品のスライダーと、切れのいいシュート。ピッチングフォームがきれいだなあ」
 清はすでに六勝を挙げている。今年近鉄の柱になっている男だ。日本シリーズのためによく観察しておこう。
 藤田平はカーブとシュートを捨て、三球目のストレートをうまく狙い打ったが、レフトライナーに終わった。ジャストミートを惜しく感じた。中、ツースリーから三球ファールで粘りに粘り、最後の希望をつなぐ。しかし、外角のカーブにやられてショートフライ。きょうヒットの出ていない王。ベンチで小野が江夏に語りかけている。
「どうしたのきょうは? ストレート走ってたけどね」
 江夏はさばさばと、
「カーブで組み立てて試してみたんですけど、だめですね。カーブが通用しない。ただ曲がるだけで、タイミングを外すカーブになってない。かえって狙われちゃう。シーズン後半は、しばらくストレートとシュートでいきます。王さん、がんばって!」
 王がこぶしに唾を吹きこみながらバッターボックスに立った。ベンチの様子が花園町の葛西家で観たオールスター戦とはまったくちがう。いや、小学校以来テレビで観てきた雰囲気とはまったくちがう。これがあたりまえなのだ。ベンチにふんぞり返って、和気藹々と雑談をしながら、試合の進行もロクに見ていないお祭り気分の野球などあっていいはずがない。
 王は必死の形相でツースリーまで粘った。私はネクストバッターズサークルから盛んに拍手を送った。そして六球目、王はみごとなスイングで外角シュートを薙ぎ払った。いっせいに大歓声が上がる。ライトスタンド中段へ低い弾道で飛びこんだ。王がバンザイをしながらダイヤモンドを回る。二塁ベースを蹴るとき私に向かってこぶしを突き出した。私も彼に向かってこぶしを突き出した。七対七の同点。ネクストバッターズサークルに入った江藤が、
「金太郎さん、決めてくれ!」
 声を張り上げ、両手を合わせている。私は大きくうなずいた。狙いは内角スライダー一本。初球、さりげなく外角遠めにカーブ、ストライク。確かにするどい。二球目、真ん中高いところから落ちるカーブ。醍醐の顔のあたりに落ちた。
「ボー!」
 吉田球審のするどい声。ストライクと思った醍醐が思わず立ち上がって吉田を振り返る。三球目、ホームベースから滑り逃げていくシュート。ストライク。ツーワン。次はおそらく、内角低目に食いこむスライダーかカーブ、あるいは外角高目へ釣り球の速いストレート。どれにも対応できるように並行スタンスで構える。
 四球目、真ん中低目のストレート。これは予測できなかった。
「ボー!」
 配球というのはいくら読んでもなかなか読み切れないものだけれども、読むという努力を捨ててはならない。読んでいないと、反応がわずかに遅れる。それが原因の凡打が積み重なると、四割、五割を打てなくなる。三割というのは有能な選手が鍛錬した結果としては感心した打率ではない。ツーツー。バッターボックスを外さず、スライダー狙いも変えずに待つ。五センチほどボックスの先へいざり進む。五球目、真ん中からスライダーが膝もとへ切れこんできた。低すぎるが、私のいちばん飛ぶコースだ。多少オープンに踏み出し、腰を入れて思い切り叩き上げる。ボールが軽い手応えではじき飛ばされた。まちがいなくホームランだ。ゆっくり走り出す。低い弾道でライオンの両脚の間に飛びこんだ。サヨナラホームラン!
 清がうなだれてパリーグベンチへ歩いていく。西本監督がねぎらいの言葉をかけている。セリーグベンチの連中が走り出て、カメラマンや新聞記者たちに立ち雑じる。揉みくちゃにされてホームイン。小川が跳ね上がって飛びついてくる。江藤が私の腰を持ち上げベンチへ抱えていく。私は、バックネットの北村一家に向かって手を振った。



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