十

「ワンタン麺一つとラーメン四つ。高菜ばつけてな。それと一口餃子五皿」
 中が、
「私もワンタン麺で」
「ほいよ、ラーメン三丁、ワンタン麺二丁!」
「へーい!」
 三人の若い店員たちでせっせと作る。出てきた品物は脂肪の浮いた豚骨スープ。レンゲで掬って飲んでみると、滋味というのか、くどくない。胡椒を振る。辛子高菜と麺がよく合う。ワンタンの噛み心地がよく、キクラゲと青ネギもすばらしい味わいだ。
「うまいですねェ!」
 小川たち三人も、うまいうまいと連発しながら食っている。
「うまか店しか連れてこん」
 江藤が得意げに笑う。テーブル席にいたスナックのママらしき女が、皿うどんをサッと平らげて出ていった。格好よかった。小野が、
「神無月くんにはライバルっていないね。そんなもの意識したこともないんだろうね」
「特定の人にあこがれるだけでしたね。幼いころのぼくのヒーローです。その人のようになりたいとは思いませんでした。競争心はなかった。自分を自分が好ましいと思える人間にすることで手いっぱい。そういう毎日がいまも基本です」
 中が、
「青森のことをほとんど話さないけど、気に入ってることはあるんでしょ?」
「はい。凍った道と、吹雪です」
「……」
「気に入らないのは食いもののまずさです。煮るか焼くか炒めるだけで、微妙な味付けということをしません。暖かい地方ほど食いものがうまい。群馬はどうですか」
「バラエティがすごいよ。まず家庭料理、おっきりこみ」
「なんじゃ、それは」
「しいたけ、ニンジン、大根、ゴボウ、さといも、長ねぎ、油揚げなんかを味噌か醤油で煮こんだ鍋。切っては投げこみ、切っては投げこみするから、そう呼ばれる。ほかには水沢うどん、ソースカツ丼、湯の花まんじゅう、駅弁だけど峠の釜めし、上州御用鳥めし」
 あまりうまそうに思えなかった。小川が、
「金太郎さんが冬の寒さが好きみたいに、からっ風は好きじゃないの」
「赤城おろしか。ひどく冷たいし、砂混じりの風が強すぎて、好きにはなれないね」
 菅野とするような会話が彼らともできるようになった。そのつどいき当たりばったりの言葉を探してする会話だ。江藤が、
「金太郎さんは趣味も広かぞ。読書、音楽、映画」
 小川が、
「クラッシックも聴く?」
「はい、ふつうに。アメリカンポップスとジャズが主ですが」
「今度、何かクラッシックのレコード持ってきてやるよ。オフあたりだな。忘れっぽいから、思い出したらまた声をかける」
「ありがとうございます。大切に聴きます」
「あげるよ。どうせ大阪の実家に眠ってるレコードだから」
 私は中に、
「遠征のとき、どんなものをもってきますか。よくわからなくて」
「金太郎さんといっしょでないものはわかる。化粧水、乳液、ハンドクリーム」
「へえ!」
「乾燥肌でね。からっ風のせいかな」
 店員や客たちが笑った。
「金太郎さんはスキンケアをしてないの。プロ野球選手は将来シミだらけになるよ」
「肌は弱いので何もつけないようにしてます。風をひきやすいので喉のケアはします。枇杷酒でうがいしてます」
 客の一人が、
「神無月さんに怖いものありますか」
「ゴキブリです。見たら、戸の外へ逃げます」
 一同大笑いになった。一口餃子がうまいので、みんなお替わりをする。店員の一人が私に、
「ホームランを打つコツってありますか」
「ありません。真剣に練習するしかない」
「ホームランは狙って打つものですか」
「狙って打ちます。打ちそこないがヒットか凡打です」
 続々と客たちの専門的な質問が始まる。五人のだれかれとなく答える。
「グローブを立てるってどういうことですか」
「捕球面をボールに向けること」
「追走のときフェンスが気になりませんか」
「ギリギリのプレイをしないようにしてます」
「太陽がまぶしいとき、どう守りますか」
 通の質問だ。
「ボールの軌道を予測することで、見失っても捕球できます」
「内角の速いボールに詰まらないようにするには?」
「理想のポイントを見つけておくことやな」
 キャッチャー経験者の江藤に、
「いいキャッチャーの条件て何ですか」
「キャッチングのうまかこと」
 小野に、
「よく外角低目がピッチングの基本と言いますけど、どうしてですか」
「ホームランと長打を防ぐためです。短打ならば仕方がないという考え方。神無月くんには通用しないよ」
「屁っぴり腰打法がありますからね」
 私に、
「クッションボールの処理には苦労しますか」
「フェンスの状態を試合前に確認しておきます」
「ああ、今回もうまかった。ごっそさん。さ、そろそろいくばい。店長、お客さん、よか雰囲気ば作ってくれてありがとう。あしたの試合、楽しんでな」
「はい! 応援してます。みなさんも楽しんで」
「おお、よかことば言う。お休み」
「お休みなさい!」
 小野が支払いをした。
         †
 蝶ネクタイをした牛太郎たちに声をかけられながら、タクシーを探した。探す場所をまちがったのか、なかなか見つからない。那珂川通りまで出て、川面に映るネオンを眺めながら、ところどころに丸傘の四阿のある〈福博(ふくはく)であい橋〉を渡った。街灯の美しい、妙に幻想的な川端に出る。公園になっているようだ。
「広か公園たい。ここはよかなあ!」
「はい」
 小川が、教会とはちがった六角柱の尖り帽を載せた建物の掲示板を見て、
「貴賓館?」
「その建物は飾りやろう。入口がなか」
 ぞろぞろ川沿いを歩き、公園通り橋という橋のたもとでうまくタクシーを拾えた。天神中央公園沿いに走り、市役所通りを右折して広い明治通りに出、天神西の交差点までひとっ走り、十分足らずで西鉄グランドホテルに戻った。フロントで鍵を受け取り、みんな別れがたいので、地下一階のバーにいって一杯やる。ちょうどラストオーダーだった。中が、
「中日球場の収容人員は立ち見が出なければ三万五千人。立ち見を入れると三万八千。これまでは巨人戦でも二万五千が最高だった。年間百万人を超えなかった。ところが、現時点ですでに百万を超えたと足木さんが言っていた」
「春からずっと首位を突っ走っていますからね」
 私が言うと、小野が、
「南海はむかし、首位を走っているときもガラガラの球場でやってた。順位は関係ない」
 小川が、
「自明だね。天馬が放つホームランという目玉商品があるからだよ。三年でも五年でも連続で三冠王を獲るような英雄がいれば、ファンはお伊勢参りになる。しかし、フロントも選手もそれに甘えていると、先がなくなる。俺たちは何年もしないうちに去っていく。金太郎さん一人じゃ背負いきれなくなるだろう。若手を育てないと未来は暗い」
 中が、
「今の若手じゃ足りない。新しい才能が入ってこないと」
 江藤が、
「とにかくこれからも勝ちつづけるしかなかろうもん。どげん才能も弱かドラゴンズには入りたがらん」
 小野が、
「水原さんがドラフトでクズを指名しないように祈らないと」
 中が、
「水原さんはだいじょうぶだ」
 バーテンが申しわけなさそうに閉店を告げた。ここも小野が払った。廊下でみんなと別れ、部屋の安楽椅子に落ち着く。しばらくぼんやりする。
 ―勝ちつづけたいと思う。有能な若手を引き寄せるためや、チームの未来のためではなく、水原監督とチームメイトのために。私が彼らをどれほど愛しているか言葉で表せない。行動で示すしかない。
         †
 七月二十二日火曜日。晴。午前中から気温二十九・三度。うがい、下痢便、歯を磨きながらシャワー。
 部屋のテレビを点けると、またあの奇妙な画面が映っている。宇宙服の男が、白っぽい砂の上をスローモーションで跳びはねるように歩いている。アナウンサーが、アポロ11号が人類初の月面到着をしたと言っている。きのうかおとといのことのようだ。同時通訳の声も交えて、何度も同じ映像を繰り返し映しながら大騒ぎという感じだ。
 All systems are go. という英語を、
「すべて順調」
 とうまく訳していたが、goの品詞がわからなかった。たぶん名詞か形容詞で、うまくいっていること、あるいはうまくいっている、という意味にちがいない。人間の知恵の粋を集めての結果なのだろうが、月にいきたいとも住みたいとも思わないので、まったく関心が湧かない。男たちの彼方に見える真っ暗な宇宙が底なしに虚しく恐ろしい。
 朝食の和食セットをルームサービスでとり、一心に食い終えたあと、茂吉の『赤光』を開く。
 死にたまふ母、其の一から其の四までの四部構成五十九首。其の一、十一首のうち佳品二つ。

 ひろき葉は 樹にひるがへり 光りつつ かくろひにつつ しづ心なけれ

 葉の戦ぎに怯えながら、悲哀の予感を限界までつかまえている。居ても立ってもいられないほど恐ろしい。

 吾妻(あづま)やまに 雪かがやけば みちのくの 我が母の国に汽車入りにけり

 母親への思慕の深さに打たれる。この思慕がかつて私にもあった。この男は三十二歳にして豊潤な愛を失わないでいる。其の二、十四首のうち佳品二つ。

 死に近き母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ 天に聞ゆる

 悲しみの激情の高まり。死に近い母の枕もとを離れられない。国際ホテルの母のうめき声。洗面器。

 のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて 足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり

 強烈な映像性。命ある生きものの呼吸から、死が逆照射される。慟哭を懸命に鎮めようとする男の心が悼ましい。其の三、十四首のうち佳品一つ。

 星のゐる夜ぞらのもとに 赤赤と ははそはの母は 燃えゆきにけり

 火葬場の煙突から立ち昇る紅に染まった煙。哀々切々たる赤光の歌。其の四、二十首のうち絶唱二つ。

 笹はらを ただかき分けて行きゆけど 母を尋ねんわれならなくに

 尋ねていっても母に会える私ではないのに、笹原を掻き分けてさまよう……。最終首。

 山ゆゑに 笹竹の子を食ひにけり ははそはの母よははそはの母よ

 母親の葬儀を終え、温泉に逗留して食事をした。むかし母と食べた筍が出た。母が偲ばれる。山ゆゑに―茂吉の母は都会に一度も出たことがなかった。
 カズちゃんは、私に何を思えと願ってこの歌集を送ったのか。子の本姿を私に覚醒させたいからではないだろう。それはいまさら無理な願いだ。たぶん彼女は、私が実現できなかった母と子の心情のあり方を一歌人の詩(うた)を介して示すことで、私が一身の事情を深い痛みとして記憶し、その記憶を生きていくバネにしてほしいと願ったのだろう。
 ルームサービスで昼食。ビーフカレー。歯を磨き、三時十分まで仮眠。


         十一

 ユニフォームを着、ダッフルを担ぎ、バットケースにバットを入れてロビーへ。江藤と自販で冷たい缶コーヒー一本。
 三時半、駐車場へ。荷物をバスの腹に収める。セパ両リーグ監督、コーチ、選手スタッフ全員、西鉄大型バス四台で出発。春とちがってバスにはガイドが乗っていなかった。奈緒が言ったとおり、平和台球場への客の輸送で大わらわなのだ。ドラゴンズの選手たちは、先回バスガイドが乗っていたということすら憶えていないようだった。たぶん観光バスで選手が球場に向かうことは例にないことで、小山オーナーか村迫代表の計らいだったのにちがいない。
 鏑木が緊張し切った顔で、足木マネージャーや池藤トレーナーたちと話をしている。ホームランダービーの私の優勝がひとえに自分の肩にかかっていると思っているようだ。
「鏑木さん、暴投以外はぜんぶ打ちますから、気楽に投げてください」
「はい、気楽にいきます」
 明治通りのケヤキ並木。すぐに舞鶴の森。球場の照明塔が見える。夜間はこの路上にもまぶしく照り映えるだろう。昭和二十三年の国体開催のときに使ったサッカー場を造り替えて、翌年平和台球場を建設したという。グランドホテルの机の抽斗にあったパンフレットから得た知識。昭和二十四年の開場となると私と同じ二十歳。なぜかうれしい。福岡城址の中にある球場。周りには濠がある。千本桜の名所。興味なし。
 三時四十五分、ひしめく人混みの中へ到着。祝オールスター戦と書かれた歓迎門を群衆が列を成して通っていく。白壁のシンプルな平和台野球場の赤文字。その下のプラットフォームにMVPの賞品が展示してある。大型カラーテレビを含む家電一式だった。平べったい球場。川崎球場に似ているが、少し大きい。低い塀の周囲をビッシリ下草のように人びとが取り巻いている。
 関係者専用駐車場で降り、三塁側ロッカールームへ。きょうは先攻だ。運動靴をスパイクに履き替え、ベルトを締め直し、お守りを確かめ、眼鏡をかける。オールスター最後の身仕舞い。バット三本を手にダッグアウトへ。すでに業者から届いたヘルメットや予備バットが整頓して並べてある。
 グランドに出る。パリーグの選手たちがバッティング練習をしている。ケージを使わず、実際にプロテクターをつけたキャッチャーを坐らせている。長池が打っていた。みんな数本で打ちやめる。江藤が、
「バッティング練習は三十分やと。セリーグは四時から四時半」
 大観衆。試合開始三時間以上前に開門したようだ。色彩に満ちたスタンド。騒音。レフトの看板に目がいく。丸一鋼管、リコー、共栄火災、サンヨー……。スコアボードにはデンと東芝テレビ。てっぺんの時計の両脇に旗が一本ずつ。ほとんど無風。スコアボードの向こうにアドバルーンが上がっている。
「三万四千。これ以上は入れないそうだ」
 根本コーチが言う。両翼九十二メートル、中堅百二十二メートル。案外大きな球場だ。暑い。かなり低空で飛行機が飛んでいく。ホームベースの真後ろのバックネットスタンドにテレビカメラ、ビデオカメラ。
 四時、パリーグのバッティング練習終了。しばらく間を置いてセリーグの選手が素のバッターボックスに入る。王、田淵、江藤、松原、山内、伊藤勲と打っていく。長嶋の姿はない。ベンチにもいない。投げるピッチャーは上がりの小川と小野。江藤の左腋を開ける独特のバッティングフォームが美しい。川上監督が、
「金太郎さんも打たないと客が承知しない。二、三本打ちなさい」
「はい。長嶋さんは?」
「体調不良で、昨夜東京に帰った」
 体調不良は空嘘だろう。自分が目立つことのできない宴がいやになって引き揚げたのにちがいない。それでなくても、彼はオールスターでは過去一度もMVPを獲得したことがない。王は一度獲っている。長嶋はよく練習するし、極力試合にも出ようとする。華々しい舞台を放棄する気持ちになったのはよくせきのことだ。野村がかつて、
「少しは休んだらどうだ」
 と進言したとき、
「ファンはぼくを見にきているのだから休めない」
 と答えて、野村をいたく感動させたそうだが、主役として見にきてくれなくなったらガッカリしてしまうわがままな人間でもあるということだ。ファンが〈私〉を見にくるなどと、私は一度も思ったことはない。ホームランという〈プレイ〉を見にくるのだ。どれほど主役を張れなくても、プロのプレイを見にきているファンを裏切ってはならない。
 小川に投げてもらって三本打つ。右翼場外へ二本、スコアボードの東芝テレビへ一本。試合中のような大歓声が湧き上がる。四時半から両チーム十分ずつの守備練習。これも三本捕球して、一本全力でバックホームし、大喝采を浴びた。
 選手食堂で大盛り丸天うどん。めいめいけっこう腹に入れた。
 五時十分からホームラン競争。田淵対大杉、山本一義対山崎。だれがスタンドに打ちこんでも、
「こんなの、いらんわい!」
 とファンがスタンドに投げ返す。西鉄の選手でないからだ。地元西鉄のバッターは船田と広野しか登録されていないし、ホームラン競争にも出ていない。野村が辞退したことで補充された村上という西鉄のキャッチャーがいるが、三人の捕手の一人としてきょう一打席出るくらいのところだろう。きのうは代打で出て凡退している。
 五本、七本、三本、二本で、大杉の勝ち抜けになった。五分後、私、江藤、大杉の三人で決勝戦が行なわれた。
 鏑木がすばらしい投球をした。十球のうち八球を内角低目に投げてくれたのだ。スピードは百キロから百十キロ。トスバッティングのように打てた。九本、八本、七本で私の優勝となった。鏑木と固く抱き合う。ベンチで江藤と握手し合う。
「ドラゴンズで一位と二位。面目保ったったい」
「鏑木さんと賞金山分けしましょう」
「よしゃ、足木マネージャーに伝えとく」
 賞金は、五十万、三十万、二十万だった。賞金授与の簡略な式のあと、すぐに開会式になった。これが長かった。一時間以上にわたった。
 開会式のセレモニーは両リーグの選手たちが、パシフィックとセントラルの板看板を掲げたミニスカートの女性に従って外野の仕切り通路から入場行進をし、一周してセンターに一列に並び、つづけて入場行進してきた自衛隊の楽隊の周回に合わせてあらためてグランド中央に集合するという手のこんだもので、一人ひとりの選手の横に名前を書いた(中日・小川投手というふうに)プラカードを掲げた少女が随行して導いた。彼女たちの動くとおりに動いていればいいのだった。みんな白鉢巻をして白いミニスカートを穿き、プラカードは観客席に向けられていた。
 両軍が勢揃いすると、とつぜん爆竹が鳴り、白煙がグランド一面に上がる中、マウンド上からハトと風船が飛ばされた。やがて白煙が治まり、喫茶店員のような服装をして白いヒールを履いた女たちの手で両監督に花束が贈呈される。両監督握手。胸に花飾りをつけた地元の重鎮たちがなぜか三十人ほども立ち並び、その中のに、三人が歓迎の言葉を述べた。退屈この上ない。
 彼らが引き揚げると、薄暮の中カクテル光線がいっせいに点いた。場内アナウンスによる選手紹介。国旗に向かって君が代。選手退場(と言っても裏回廊を通ってベンチに戻ってこなければならない)。
 阿部源蔵福岡市長による始球式。なんとバッターに立ったのは、去年の東映監督、往年の西鉄黄金時代を築いた青バット大下弘だった。
「大下弘選手は、昭和二十四年札幌円山球場にて、推定百七十メートルという大ホームランを打ちました。今年神無月郷選手に甲子園球場場外ホームランを打たれるまで、二十年間だれも打ち破れない記録でした」
 と紹介された。たぶんだれもが、中西太が最長不倒だと思っていただろう。中西本人も知らなかったのではないか。私も中に教えられるまで知らなかった。大下は市長の天に向かって投じた山なりのボールを、敬意をこめてしっかり空振りした。
 セレモニーの片づけが終わり、選手同士めいめい寄り集まって記念撮影。私は長池、広瀬とそれぞれツーショットを撮った。バックネット下の来賓部屋にさっきの重鎮たちが悠然と居並んでいる。
 六時半。カクテル光線がいよいよ美しく輝きだした。ようやくスターティングメンバーの発表。
「先攻のセントラルリーグ、一番センター中、背番号3……」
 二番ショート藤田、背番号6、三番ファースト王、背番号1、四番レフト神無月、背番号8、五番ライト江藤、背番号9、六番サード松原、背番号25、七番キャッチャー田淵、背番号22、八番ピッチャー堀内、背番号18、九番セカンド土井、背番号6。
「後攻のパシフィックリーグ……」
 スターティングメンバーの発表アナウンスを受けながら、一人ひとりパリーグの選手が軽やかに守備位置へ走っていく。変則的だ。一番サード船田、背番号8、二番セカンドブレイザー、背番号1、三番ライト永淵、背番号10、四番レフト張本、背番号10、五番センター長池、背番号3、六番ファースト広野、背番号3、七番ショート安井、背番号6、八番キャッチャー村上(先発できた)、背番号10、九番ピッチャー池永(なるほど西鉄が四人か)、背番号20。球審平光、セリーグ、塁審一塁田川、パリーグ、二塁有津、セリーグ、三塁坂本、パリーグ、線審レフト柏木、セリーグ、ライト久保山、パリーグ。
「プレイ!」
 七時二分試合開始。ウオー! というスタンドを揺るがす喚声。中は打席に入るやいなや池永の初球を三塁前にセーフティバントをした! 悠々成功。驚愕の喚声。藤田平の初球に二盗成功。さらに驚愕の喚声。セリーグベンチも拍手にまみれる。ゲッツーを避けるためではない。パフォーマンスだ。
 藤田二球目をセカンドゴロ。中三塁へ。セーフティで生き、盗塁をしていなければツーアウトランナーなしだった。体高を低くして投げこむ池永のストレートが速い。左足が着地するまでは浜野百三とそっくりだが、そこからの腕のしなりと叩き下ろしがまったくちがう。上半身が地面にかぶさるほどの勢いだ。球種は直球と縦のカーブだけだとみんな思っているが、微妙に切れるシュートもある。希代の好投手だ。そのシュートを三球つづけた。王外野フライを打てず一塁ゴロ。中動けず。ツーアウト三塁。
 オープン戦でインコースの外し球を場外へ叩き出したことを思い出す。そう言えばあのときもキャッチャーは村上だった。初球真ん中高目のスピードボール。顔のあたり。ボール。オープン戦のころと球威がちがっている。
 ―簡単には打てない。まずヒットを狙おう。全力で振るのは次の打席だ。
 二球目、ギュンとカーブが外角へ落ちてきた。チョンと払う。ショートの頭上をライナーで越えていった。左中間を抜く勢いではない。中生還。これでいい。一塁上で後藤コーチとタッチ。江藤、同じカーブに詰まって一塁ゴロ。一対ゼロ。
 ボールボーイからグローブを受け取り、ヘルメットを渡して、レフトの守備位置へ走る。中とキャッチボール。オールスターは三戦ともミズノのグローブを使っている。快適な手応えだ。かなり強いボールを投げ合う。中と深く理解し合っている。うれしい。
 堀内のできがいい。ストレートが走り、カーブも切れている。先頭打者船田、二球目の外角ストレートを打ってライトフライ。ブレイザー、二球目のシュートに詰まってショートゴロ。三番永淵、ツーツーからカーブをうまく叩いて、ライトスタンド前段ぎりぎりのホームラン。スタンドからボールが投げ返された。近くの子供に与えればいいのにと思う。四番張本、外角シュートを流し打ってショートライナー。一対一。一回から白熱したいい試合だ。
 二回表。二人か三人しか出場していないチームの先発内外野手と、ホームチームの先発内外野手は一試合まるまる代えられない(はずだ)。そういう規則はないだろうが、たぶんそうじゃないかと思う。六番大洋松原。彼はまる一試合代えられないだろう。あとの二人は平松、伊藤のバッテリーだ。これは代えられる。それから西鉄の野手の船田と広野は代えられない。池永と村上はバッテリーなので代えられる。松原、ツーワンと追いこまれて三振。田淵、センターフライ。堀内、サードゴロ。しばらくゼロ行進がつづく気配になってきた。
 二回裏。長池、ライトフライ。彼は三日間何もしていない。歯がゆい。六番広野。堀内が投げづらそうだ。三年前の逆転満塁ホームランか。広野フォアボール。安井、ライトフライ。村上、センターライナー。堀内にはめずらしく三振がない。
 三回表。土井正三、三振。中、センター前ヒット。藤田、ライトフライ。王、三振。
 三回裏。池永に代打ロッテの池辺が出る。センターフライ。船田、ピッチャーゴロ。ブレイザー、ライトフライ。結局堀内は一つの三振も取れなかった。
 四回表。一昨夜私からサヨナラホームランを食らった近鉄の清(せい)が出てくる。連投。キャッチャーは阪急の矢野に代わる。清は西鉄で伸び悩み、近鉄で花開いた右腕だ。小太り。端正な顔立ち。フォームが美しく、優雅という表現がぴったりくる。川上が私に、
「勝ち越しホームラン、お願いしますよ」
 と声をかけて送り出した。私はうなずきバッターボックスに向かった。バット事件の平光にヘルメットを上げて軽く礼。
 初球、嘘のようにするどいカーブが外から中へ入ってくる。茫然と見逃す。ストライク。少し前へ出る。二球目、美しいフォームで内角低目のストレート。
「ストーライ!」
 平光の甲高いコール。三球目、外角シュート。驚いてファールチップ。まともに振れない。なるほど、フォームが美しく、大人しすぎるので、ボールの伸びが際立つのだ。ある種のアンバランスだ。いまの三球のうちいちばん意外だったのは、内角の伸びるストレートか。きのう打った〈絶品のスライダー〉は、払ってファールにするつもりだ。高低関係なくストレートに的を絞ろう。
 四球目、曲がりのいいスライダー。払う。一塁側カメラマン席に飛びこむ。五球目、しつこくスライダー。払う。一塁スタンドへ。ツーナッシングのまま。ここで投げられたら危ないのは、落ちるカーブと外へ逃げるシュート、そして高目の速球だ。三種類しかない。六球目、外角低目シュート。
「ボー!」
 七球目、内角高目カーブ。
「ボー!」
 ツーツー。読んだ。フルカウントにしてから変化球で打ち取るつもりだろう。次は高目のボールになる速球で釣ってくる。足幅を広く、バットを高く構える。顔のあたりまでなら仕留める。八球目、手首をしならせて打ちおろす渾身のストレート。外角、首の高さの糞ボール。半歩踏みこみ、腰を高く据えたまま、スコアボードの彼方に向かってレベルに振り抜く。こぶしが頭上で回転するようにバットを振った。いい音を発して高く舞い上がる。
「ヒョオオ!」
 ネクストバッターズサークルの江藤の悲鳴が上がると同時に、大歓声が地鳴りのように押し寄せてきた。ゆっくり走り出す。フラッシュがいっせいに光る。十五回まで切られたスコアボードに向かって打球が伸びていく。一塁を回るとき、シチズン時計の広告の右上へ消える白球を目に焼きつけた。ザーザーという地鳴りの中を走る。フラッシュが瞬く。江藤と川上監督が迎えに出る。江藤は両手で私の顔を挟みつけてごしごしなぜた。川上監督は固く手を握りながら、
「いまのが大下の打撃フォームですよ」
 と眼鏡を潤ませて言った。整列する選手たちとタッチしていった。王が目をギョロつかせて握手する。森が、すごい、とひとこと言って握手。堀内が肩を抱き背中をポンポン叩いた。ラジオやテレビの放送がガナリ立てている。


         十二

 後続の江藤、サードゴロ。松原、サードゴロ。田淵、三振。二対一。空がすっかり黒くなり、照明灯の光が煌々となだれてくる。
 四回裏。セリーグのバッテリー交代。ピッチャー高橋一三、キャッチャー森。永淵、私の前へ渋いヒット。張本、三振。長池、三振。広野、三振。高橋一三、すべて渾身のストレート。
 五回表。高橋一三の代打高田、フォアボール。土井の代打武上、ライト前ヒット。中、ファーストゴロ。3・6・3成らず。二塁封殺のみ。ワンアウト一、三塁。藤田の代打黒江、セカンドゴロゲッツー。
 五回裏。安井の代打土井正博、ショートゴロ。矢野、内角カーブを掬ってレフトスタンド中段へソロホームラン。二対二の同点。たるんだ試合にカツが入る。清の代打大杉、ファーストフライ。船田、センターフライ。トンボが内野フィールドに散る。
 六回表。ピッチャー、東映の田中調に交代。王、ライト上段へ目の覚めるようなソロホームラン。二発目のカツ。三対二。私、ショートゴロ。カツ、台無し。三塁ベンチの上でしゃもじを打ち合わせている連中がいると思ったら、江藤の代打に広島の山内一弘が出てきた。ピッチャーゴロ。松原、レフトフライ。
 六回裏。高橋一三に代わって、浜野百三登板! 温情起用に場内がざわつく。浜野は胸を張り、堂々とマウンドに上がる。偏見のない目で投球練習を見る。球威はないが、中日時代よりカーブの落ちがいい。配球を考えてカーブで打ち取れば、一回ぐらい保つかもしれない。しかし、相手はオールスター選手だ。
 右投げ左打ちのブレイザーがバッターボックスに入る。初球、力のないストレートを打ってライトオーバーの二塁打。浜野はなおもストレートで押す。高橋一三がストレートで押したからだ。永淵、胸もとのストレートを早打ちして、詰まったセカンドフライ。浜野ガッツポーズをとる。私はセンターの中と顔を見合わせて苦笑いする。だめだ、ちっとも変わっていない。これでは連打される。張本、ツーワンから決め球の外角カーブをうまく引っかけてセンター前ヒット。ブレイザー生還。三対三。スタンドの不満のざわめきが大きくなる。川上監督が出ていってピッチャー交代を告げる。ブルペンから金田がのしのしマウンドに登ってくる。オールスターゲームで一イニングも投げずにピッチャー交代した例はないのではないか。長池、外角のドロップカーブを打ってライトフライ。左バッターの広野、同じカーブをよけ切れず、肘をかすめるデッドボール。ツーアウト一、二塁。矢野の代打岡村、真ん中低目のストレートを打ってショートゴロ。観衆は大喜びだ。
 七回表。ピッチャー、田中調から成田へ。三塁ベンチ上の男たちのしゃもじが小旗に替わっている。森の代打伊藤勲、レフト前ヒット。高田、レフト前ヒット。武上、三塁内野安打。よし三連打。ノーアウト満塁。中、ショートライナー。黒江、ピッチャーゴロゲッツー。ノーアウト満塁はなかなか点が入らない。
 七回裏。成田の代打広瀬叔功、セカンドゴロ。船田、三振。ブレイザーの代打阪本、セカンドゴロ。
 八回表。パリーグのピッチャー金田留広に交代。三連投。キャッチャーも醍醐に交代。王、ファーストゴロ。どうしても担ぎ投げにタイミングが合わない。私、辛うじてワンバウンドのセンター前ヒット。山内一弘の二球目、盗塁成功。やんやの喝采。山内、ショートゴロ。松原、キャッチャーフライ。これはお粗末な試合になってきた。
 八回裏。外木場登板。永淵、セカンドゴロ。張本、サードフライ。長池の代打山崎、三振。
 九回表。ピッチャー、近鉄のアンダースローの大男佐々木。連投。きのうの対戦ではファーストゴロエラーで出塁している。カーブ、シュート主体の打ちにくいピッチャーだ。伊藤勲、サードゴロ。外木場そのまま打席に入り、あっけなく三振。武上、かなり粘ったが三振。
 九回裏。ピッチャー、平松。代えるなら、さっき外木場に代打を出さなかった意味がわからない。外木場に続投させるつもりだったが、平松が投げさせてくれと申し出たのかもしれない。平松まず広野を三振に切って取る。これは延長戦だな。醍醐、うまく合わせてライトオーバーの二塁打。佐々木、ショートゴロ。船田、三振。ついに延長戦に入った。
 トントンと試合が進んだせいで、まだ八時二十分を回ったところだ。両チームともピッチャーを出し尽くし、仕方なく佐々木と平松にまかせるしかなくなっている。
 平光がバックネットへ走っていって、マイクを手に、
「オールスター戦の延長戦の場合、ピッチャーの投球回数は三回を超えることが可能ですが、ペナントレースでの影響を鑑み、延長は十一回までで打ち切らせていただきます。ご了承ください」
 十回表。中が痛烈なライト前ヒットで出た。黒江、不甲斐なくキャッチャーフライ。王、根性でフォアボール。私はどうにか外角シュートに喰らいつき、ライト右へテキサスヒットを落とした。中生還。王三塁へ。四対三と勝ち越した。ワンアウト一、三塁。根本コーチとタッチしたとたん、球場の光が消えた。停電だ!
「タイム、タイム!」
「両チーム、ベンチへ!」
 審判たちの声が闇に響きわたった。真っ暗闇で、まったく何も見えない。私は一塁ベースに尻を下ろしてあぐらをかいた。上空に星はなく、真っ二つの上弦の月がかかり、雲間に見え隠れしている。内外野スタンドのあちこちでマッチを擦る小さな火が点る。煙草だ。停電なので、場内放送もできない。無線放送のはずのラジオ・テレビ放送ブースも沈黙している。中と江藤がジッポのライターを点しながら一塁ベースに近づいてきた。二人はたまに喫煙する。
「金太郎さん、ベンチへこんね。ワシの肩に手ば置いて……」
 二人でそろそろと先導する。ベンチでは喫煙家の連中が何人か、マッチやライターを点していた。目が慣れてきたグランドの闇の中で、何人かの選手たちがあぐらをかいて車座になっている。王の声が聞こえる。球場職員が拡声器で、
「送電線に何かが巻きついたことが原因で、球場配電線が焼き切れたとの連絡が入りました。三十分から一時間ほどで復旧するとのことです。ただいま消防署に、その間の投光器利用の要請をいたしました。照明が回復するまで、しばらくお待ちください」
 スタンドで蛍のように煙草の火が明滅する。ベンチに戻ってきた王が平松に、
「煙草の明かりって、なかなかきれいなものだなあ」
 と感心したふうに語りかけた。平松が、
「平光さんも煙草吸ってましたよ」
 二十分ほどして、レフトの仕切り通路から消防車が三台入ってきて、フェンス沿いに間隔を空けて停まり、フィールドを三カ所照らした。スタンドからいっせいに拍手が立ち昇る。実況アナウンサーたちの声がかしましく聞こえはじめた。
「きょう移動でなくてよかったばい。うまいめしば食って、水原さんの餞別ば使い切るぞ」
 江藤がホッとした声で言う。外野スタンドのどこからともなく、応援歌らしきものが湧き上がり、たちまち伝染していった。

  起てり 起ちたり ライオンズ ライオンズ
  揺するたてがみ 光に照りて
  金色にまばゆき 王者の姿―

 江藤が、
「西鉄ライオンズの歌ばい」

  九州全土の声援受けて
  空を仰ぎて 勝利を誓う
  ライオンズ ライオンズ
  おお西鉄ライオンズ

 暗いフィールドからも何人かの声が上がっている。ファーストの広野、サードの船田。一塁ベンチからも声がするのは池永と村上だろう。高田が、
「巨人軍は背広で球場とホテルの往復をするんだけど、西鉄選手団はふだんからユニフォームにスパイクという格好でやります。かつて後楽園の日本シリーズのときもそうだったそうです。野武士とか、田舎者と言われました」
 小野が、
「強ければ関係ないね。野武士軍団というネーミングが格好よく聞こえる」
 中が、
「当時の強さを取り戻してほしいね」
 さらに三十分ほど闇の中にすごした。九時半を少し回って、カクテル光線が目もくらむほどの明るさで降り注いだ。スタンドからドオッと喚声が上がる。消防車が引き揚げていく。パリーグが守備陣形を整えた。
「プレイ!」
 めずらしいアクシデントに遭遇して気分が浮き立っている。選手のだれかれもがそのようで、照明塔ばかりを見上げて、ろくにホームベースのほうを見ていない。川上監督が山内の代打ロバーツを告げる。ロバーツ佐々木の初球を打ってショートゴロゲッツー。チェンジ。平松が一点を守りきれば、セリーグの三連勝で祭りが終わる。
 十回の裏。阪本、ライト前ヒット。永淵、三振。張本、サードフライ。山崎、内角シュートを見逃し三振。ゲームセット。両チーム、ベンチ前に整列。
 九時四十五分だ。球場職員があわただしく走り回り、マウンドの周囲を表彰のためにセッティングしていく。カメラマンたちが内野フェンス沿いに腰を下ろす。観客は一人も席を立たない。場内アナウンスが流れる。観客のざわめきの中、柔らかい声でいろいろなことをしゃべっている。背広を着た企業主ふうの男から両監督へ賞金目録と表彰状が渡される。やがて、
「第三戦最優秀選手の発表でございます。三戦連続となるMVPに輝いたのは、セントラルリーグ中日ドラゴンズ神無月郷選手でございます。三戦にわたって本塁打七本、打率八割四分六厘、打点十二。押しも押されもせぬ最優秀選手でございます。盛大な拍手をお願いいたします。神無月選手、どうぞマウンドの前にお立ちください」
 盛んな拍手の中、マウンド前に走っていくと、むにゃむにゃと表彰次第のアナウンスがあり、日本野球機構コミッショナーの宮沢俊義(としよし)という白髪の老人から、賞状と二百万円の小切手と電化製品の賞品目録と大きなトロフィーを渡された。宮沢は満面の笑顔で私と握手した。彼の背後にも飾りのように着物姿が二人控えている。私の真横にカメラマンが数名立ってストロボを焚く。ビデオカメラが回る。内外野のテレビカメラが私に焦点を向けている。目録やトロフィーなどを四方の観客席に掲げ、すぐ足木マネージャーとトレーナー連中に渡す。宮沢に辞儀をし、ベンチ前に走り戻る。
 一戦、二戦と同様、敢闘賞以下四名の表彰に移る。敢闘賞中利夫、打撃賞永淵洋三、優秀投手賞高橋一三、優秀選手賞矢野清、それぞれに賞状と小さな楯と商品の目録と賞金五十万円が渡された。一人ひとりに大きな拍手が送られる。賞を受ける喜びなどささやかなものだ。あしたもあさっても野球をしつづけることができる喜びにすぐるものはない。ささやかな受賞はその楽観をいっとき保証する。マイクが向けられる。
「最後に、神無月選手、野球少年たちにひとことお願いします」
「困難を克服したくなるほど好きなものを見つけること。その好きなものに苦しんでこだわりながら、自分でも信じられないほどの存在になった自分を喜ぶこと。その喜びを愛する人たちと共有して、いっしょに幸福になること」
「ありがとうございました!」
 両リーグメンバー、フィールド集合。記念写真。停電事故を詫びるアナウンスが流れ、観客たちが帰路につきはじめる。ベンチ前から彼らにしばらく手を振る。拍手がこだまになって返ってくる。川上監督が、
「さあ諸君、引き揚げようか」
 とみんなに声をかけたので、全員でロッカールームへ向かった。喧騒に別れを告げて素っ気なく静けさの中へ帰っていく。運動靴に履き替え、ダッフルとバットケースを両手に提げる。
「神無月くん、ええこと言うわ。ワシ、感動したよ」
 村山が目を潤ませながら言った。江夏が、江藤が、平松も田淵も目にタオルを押し当てている。中も小野も、堀内も王も、目を赤く泣き腫らしている。
 川上監督、後藤コーチ、根本コーチが一人ひとりと握手する。最後に川上監督が、
「私を含め、野球人が勝敗と関係なく心から野球を楽しんだ。オールスターなのだからあたりまえと言えばあたりまえだが、たとえ公式戦でも同じ気持ちだったと思う。野球をする喜びを基盤にして戦えば、これほど溌溂とプレイができ、観ている者を感動させるのだとわかった。投手戦に息を潜め、打撃戦に拍手喝采する。この三戦、どれほどファンたちが感動したかわからない。私も身震いするほど感動した。気の荒い博多のファンでさえ手に汗を握りながら静まり返っていた。野次一つ言わなかった。……みんな、ありがとう。心からお礼を言います。とりわけ神無月くん、ありがとう。きみがその喜びを教えてくれた。きみは野球人の鑑だ。飛びぬけた才能に、野球少年の新鮮な精神を厚くまとっている。ここにいるみんなはきみに感激して、少年でありたいと思いながらプレイしたと思う。ああ、すばらしい言葉だった」
 そのとおりだというふうに大拍手が上がった。王が率先して握手しにきた。ドラゴンズの四人も握手攻めに遭った。
「さあ帰りましょう。ご苦労さまでした。それぞれの宿舎で一息ついてください。またペナントレースでシノギを削り合いましょう。野球を楽しみながらね」
 十時十五分。帰宅を急がない人混みに取り囲まれながら、専用駐車場へ引き揚げていく。きょうは巨人軍もユニフォームのままだった。フラッシュがつづけざまに光る。警備員と松葉会の組員たちがみごとに人波をさばく。
 西鉄バスが二台駐車していた。一台は、同じグランドホテルの別棟の駐車場に向かう大洋とアトムズ用のものだった。彼らとはきのうきょうと会席場も別にしている。平松や伊藤勲や松原たちが手を振りながらさびしそうに乗りこんだ。外人の背中が一つある。東京球場で、ナイス・トゥ・シー・ユー・アゲンと言って愛想よく寄ってきたアトムズのロバーツだった。第一戦で守備要員、きょうの第三戦は山内の代打で出てゲッツーを食らった。
「シー・ユー・アゲン・スーン・ミスタ・ロバーツ!」
 私は三十六歳の彼の背中に声をかけた。彼は驚いて振り向き、顔をくしゃくしゃにして笑うと、
「サヨナラ、神無月さん。アイ・マスト・トライ・ハードね。日本語ちゃんと勉強して、あなたとエンジョイ・ア・カンバセイションね」
 大洋やアトムズの連中が車中から手を振ったので、私たちもみんなで手を振ってバスが去っていくのを見送った。



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