第三部


九章 大差逃げ



         一

 二時、赤坂ニューオータニ、チェックイン。五階八号室に入り、ユニフォームを準備する。ジャージでロビーに降りてなだ万の弁当を注文。仲間たちがわいわいやっている。高木に、
「きょうの先発はだれですか?」
「小野さんの予定。このあいだからどうも肩の具合が悪いらしい。痛みはないけど、重く張ってるって」
 私は小野に、
「どこかで診てもらったんですか」
「肩は自然治癒を待つしかないよ。治らなければ引退。プロってそういうもんだ。チームとファンに応えられなくなったら去る」
 早い回のノックアウトの可能性がある。この三連戦はきびしそうだ。
 部屋に戻り、紺のアンダーシャツ、白木綿のアンダーストッキングの上に紺のストッキングを穿き、スカイブルーのユニフォームで全身を固める。睦子を想いながらお守りの確認。ミズノのグローブの開閉具合を確かめ少し違和感があるので、併せて送ってもらったカズちゃんのグローブにする。狭い球場は塀ぎわのプレーが多くなる。使い慣れているほうがいい。富沢マスターのスパイク、タオル、眼鏡ケースをダッフルに入れる。紺の帽子をかぶり、移動用の運動靴を履き、二本入りのバットケースを持つ。
 ウィンドブレーカーを着た水原監督たちがロビーに集まっている。挨拶をする。
「オールスター記録をぜんぶ塗り替えたね。みごとみごと」
 川上監督の件は、詳しく知っているのにあえて口に出さない。意に介していないようだ。気がラクになる。トレーニングコーチの鏑木が、
「二十球中十九本ホームランにしていただき、ありがとうございました」
「鏑木さんはコントロールのよかけん、ワシも八本打てた」
 江藤が鏑木の肩を叩く。高木が、
「俺たちが出たら、赤っ恥だった。ゆるいボールは非力なバッターだと飛ばせないからね。菱、タコ、来年はおまえらだ。春先二十本打ったら、ホームラン競争に出られる」
「その前に、オールスターに選ばれないと」
 二人で渋面を見合わせる。
 玄関前にいつもの人混み。嬌声と雄叫び。フラッシュ。人垣を整理する時田の背広姿が目に入った。目顔でうなずき合う。配下が四人いる。彼らに守られてバスに乗りこみ、三時四十分出発。揃って頭を下げる五人の男を監督やコーチが見下ろしている。水原監督が、
「感動的だ。いい光景を目にすると、ものごとがはっきり見えてくる。どれほど金太郎さんが人間としてすぐれているか―。彼らはいつまでああやって金太郎さんを守るつもりだろうね」
 菱川が、
「俺が彼らなら、一生守りますよ」
 田宮コーチから先発と控えの発表。先発小野、控え伊藤久敏、門岡。二軍から上がってきた小柄な新顔が一人いる。太田に、
「あれは?」
「また忘れましたか。金です。新幹線で自己紹介し合ったでしょう」
「ああ、立正佼成会で小川さんや若生さんと同期だった人か」
「きょうは代打ですね。三十歳で、プロ入り何打席目ですかね。今季かぎりの恩情出場です」
 素っ気なく言う。後部座席に江藤省三のちんまりした顔もあった。中商の後輩の木俣と歓談していた。省三も代打だろう。水原監督が、
「この三連戦は、いろいろな選手に出てもらう。控えの選手は万々準備よろしく」
 四時半川崎球場到着。ロッカールームでスパイクを履き、ダッグアウトに入る。プロ用スパイクのいちばんいいところは、金具がゴツゴツ足裏を突き上げてこないことだ。そのほかの用具は造りが高級になるだけで、使い心地はほとんど小学校以来変わらないように感じる。中の古ぼけたグローブを見てもわかるように、道具は使いようだ。
 オールスター前の大洋三連戦に次いで、ふたたび大洋三連戦。
 四時四十五分、ホエールズのバッティング練習終了、ドラゴンズのバッティング練習開始。ピッチャーは外山と大場。まず太田と菱川が入る。菱川が当たっていない。力のない速球と切れないカーブにジャストミートできず、ケージの天井に当たるようなポップフライばかり打ち上げている。数年の練習不足が祟って、まじめに練習しだした今年にドッと疲れが出たのだ。きょうの出番はないだろう。太田は心配なかった。バットも波打たず、当たりもまともだ。太田と交代でケージに入り、千原の守っているライトの定位置へライナーをつづけて打つ。バッティングを終えた菱川もおもしろがって千原の後ろにつき交互に捕球する。水原監督が、
「バットに目がついてるみたいだね。ほとんど同じ場所にいく。まるでキャッチボールだ」
 田宮コーチが、
「その目で、右中間、左中間を抜くのは簡単じゃないの?」
「実戦となるとまったくちがいます」
 私は外野フィールドへ走っていき、鏑木の手拍子でポール間ダッシュを休み休み二本。千原とキャッチボール。千原は肘を畳み、美しいフォームで投げてくる。いい肩だ。もと東都大学リーグの最優秀ピッチャー。ドラゴンズに入団して、ゼロ勝二敗。プロではよくあるパターンだ。肘を壊していなければ、私も左腕でこんなふうに投げられたかも知れない。入団六年目の千原は、打者に転向したおととし、そして去年と、ようやく花開いた。
 レフトの守備位置に戻って、ラインぎわと左中間、それぞれの捕球と追跡練習。二塁送球をまじめにやる。バックホームはなし。
 スターティングメンバーの発表。中日も大洋も前回とほぼ変わらなかった。バッティング練習で当たっていなかった菱川の代わりに江島が入った。アナウンスのあいだに選手控室で、中となだ万の弁当を食う。半田コーチや徳武も同じ弁当を食っていた。
「給湯室の外の蕎麦屋の肉うどんはうまいらしいですね。江藤さんはラーメンがうまいと言ってましたが」
 私が言うと中が、
「うん、金子の肉うどんね。名物はあれだけだね。三塁側にあるせいで、ビジターしか注文できないみたいだけど」
 徳武が、
「場内売店は貧弱だもんなあ。今年は川崎球場にニワカ景気がやってきたんで、客用のトイレを改築したそうですよ。男子便所を通り抜けないと女子便所にいけないというお粗末なものだったらしいね」
 半田コーチが、
「選手用はマトモですのにねェ。平和台は、選手用も汚かったです」
 中が、
「川崎はスタンドも手を入れないと。内野席なんか、あちこちの板が剥ぎ取られて、コンクリート剥きだしだもの。ライトスタンドのネットも工夫の必要があるね。王がよく場外に叩き出すんで防球ネットをつけたけど、それでも足りずに追加ネットをつけた。金太郎さんはその上を越えていっちまう。今度は金太郎ネットをつけないと。すぐ外が民家だから」 
 食い終わって給湯室へ。
「今夜きますか?」
「いけないんです。きょうの昼から息子が孫を連れて遊びにきてるので。球団スタッフのおかげで日曜日の切符がようやくとれて、ネット裏で観戦できることになりました。月末までいるみたいです」
「よかったですね。一家で出てきてるんですか?」
「はい。大学から夏休みをもらったようです。二十八日の月曜日は、はとバスに乗ることになってます」
「思い切り楽しんでね。……当分逢えないけど」
「そうですね。ほぼひと月。八月の十九日と二十一日が川崎球場です。そのときを楽しみにしてます」
「じゃ、十九日の晩にね」
「かならずいきます。……愛してます」
「ぼくも」
 ベンチ気温三十一・五度。大洋の守備練習終了。監督コーチ連がホームベースのあたりをうろうろしている。別当、秋山、土井。からだを弾ませて投げるサイドスローの秋山を小学校時代にテレビでよく観た。カミソリシュートと言われていた。同じ異名をいただいた平松と球質がどうちがっていたのか、打席に立ったことがないのでわからない。キャッチャー土井は、強肩という以外は印象が淡い。とぼけてよく一塁へ矢のような牽制球を投げていた。ノッポで丸眼鏡の別当監督のことは、彼の成績や行状をいくら聞かされてもまったく記憶に残らない。つまりこのチームに関しては、エイトマン桑田のほかに知識がほとんどないということだ。
 大洋チームと審判五人がグランドに散った。眼鏡のすわりを確かめる。お守りも確認。
 ピッチャー、ここまで七勝の山下、キャッチャー伊藤勲、ファースト中塚、セカンド近藤昭仁、ショート松岡、サード松原、レフト重松、センター江尻、ライト近藤和彦。宇野ヘッドコーチが、
「公式発表三万人か。実質二万七千人だな」
 それでもビッシリのスタンドだ。球審原田のプレイボール。ここまで六十六試合、いよいよペナントレース後半戦が開始された。
「ヨ、利ちゃん、いこ!」
 一番中、アンダースローからの初球、切れの悪いシュートを打って、三遊間ヒット。
「ヨシャ!」
「モリ、叩いてこ、叩いてこ!」
 二番高木の二球目に盗塁、伊藤に刺される! 中の盗塁失敗を初めて見た。みんな疲れている。高木、切れのいいスライダーを引っかけてセカンドゴロ。山下の持ち味は切れのいいカーブとシュートだ。江藤、真ん中高目のストレートを叩いてセンター前ヒット。一転して私は敬遠気味のフォアボールで出される。木俣速球、カーブ、速球で三球三振。どんより疲れている。疲れが伝染してきた。気力を振り絞らないと。
 一回裏。小野のボールが走らない。彼も疲れている。それでも、近藤昭仁をツーツーから、近藤和彦をツースリーから、中塚をツーツーから、それぞれどうにか内野ゴロに打ち取った。ブルペンにはだれもいかなかった。
 二回表。太田、江島、一枝とすべてライトフライ。山下の外角の変化球は打ちにくい。
 二回裏。松原フォアボール。江尻ライト前ヒット。きょうは負けると感じた。太田ピッチングコーチも同じ気持ちのようで、ブルペンに伊藤久敏を走らせた。六番重松、チビの怪力、チャンスメーカー。小野のカーブを二球見逃したあと、三球目のストレートを私の頭上へ高く打ち上げた。ボールの勢いからして追う必要がないとわかった。レフトスタンド中段に飛びこむスリーランホームラン。線審有津の白手袋が美しく回る。オールスターで初めて見た審判だった。重松の小さなからだがダイヤモンドを回る。チャンスメーカーというより、チャンス請負人だ。ゼロ対三。
「重松選手、第七号のホームランでございます」
 ピッチャー交代、伊藤久敏がマウンドに上がった。懸命に変化球の投球練習をする。
 七番伊藤勲。ホームラン警戒。と思ったら、セーフティバントをした。しめた! この消極性は買えない。太田、俊敏にさばいてワンアウト。八番松岡功祐。ローアベレージ、三年間でホームラン二本。どうということない。しかし伊藤久敏はさんざん粘られ、真ん中低目に力のないカーブを投げてセンター前に弾き返された。山下、ピッチャーゴロゲッツー。助かった。
 三回表。伊藤久敏に代わって千原が代打で出る。あっけなく三球三振。山下を打ち崩せない。一番中。二球つづけてスライダーをファール。三球目真ん中高目のストレート、アコーディオンが伸び上がり、強振。出た! ひさしぶりの弾丸ライナー。あっという間にライトスタンドに突き刺さった。線審佐藤の右手が回る。さっきまで気配を消していた水原監督が、パンパンパンと手を拍っている。
「中選手、第十三号のホームランでございます」
「さあ、いけ!」
「ドンドンいけ!」
 一対三。ベンチが景気づく。三塁スタンドも活気づく。
「いくばい、いくばい!」
「ビッグイニーング!」
 高木、レフト前へ詰まったヒット。江藤、レフト前へクリーンヒット。私、ノースリーから二球無理に外角遠いクソボールを振ったが、かすりもせず、結局ツースリーから敬遠された。ウェイティングサークルから極端なダウンスイングをしながら歩いてくる木俣に、バットを掲げてあとを託す。木俣はピースサインで応えた。一塁ベース上で森下コーチと軽くタッチ。ワンアウト満塁。ボールボーイがヘルメットを受け取りにきた。
「きょうは大人しくしとらんとあかんみたいやな」
「はい。木俣さんが逆転してくれれば、それでじゅうぶんです。きょうは打たせてもらえないでしょう」
 木俣は、初球、顔のあたりのストレートを理想的なダウンスイングで叩き下ろした。火を吹くような当たりがセンターの左を襲う。江尻、走りながらジャンプ。届かない。コンクリートフェンスに当たったクッションボールが江尻に都合よく戻ってきたので、私は三塁止まり。二者生還、三対三。水原監督がコーチャーズボックスから私に、
「たぶんピッチャー交代だから、次を狙いなさい」
「はい、狙います」
 サードの松原がグローブを腰に当てて聴いている。ワンアウト二塁、三塁。ピッチャー交代はなかった。打たれるだけ打たれろという、いつもの別当監督の突き放しだ。山下はかえって意気に感じたか、太田と江島を連続して三振に切って取った。


         二

 三回裏。伊藤久敏に代わった門岡が打ちこまれる。近藤昭仁、近藤和彦、中塚三者連続ヒットで一点。松原フォアボール。江尻、内角に食いこんでくるスライダーを掬って、ライトスタンドへ十号満塁ホームラン。三対八。急遽水谷則博に交代。オールスターのようなめまぐるしさだ。星野秀孝がブルペンに向かう。六番重松、ショート内野安打、伊藤勲、私の前へ地を這うゴロのヒット、松岡送りバント。ワンアウト二塁、三塁。山下の代打ポパイ長田がライトフェンスぎわへ犠牲フライ。重松生還、伊藤勲も三塁へ。三対九。則博も追加点を取られた。たまらず水原監督は、マウンドに駆け寄って則博にカツを入れた。その甲斐なく、近藤昭仁をフォアボールで出す。ツーアウト一、三塁。ピッチャー交代。星野秀孝が大股で溌溂とマウンドに上がった。そうして二球で近藤和彦をセカンドゴロに仕留めた。私は駆け戻ったベンチで星野に、
「三勝目をプレゼントしますからね。六点差なんてアッと言う間ですよ。調子いい相手には打ち勝つしかないんです」
 江藤が、ベンチ裏に向かおうとしていた伊藤久敏や門岡や水谷則博に、
「負けとる試合の中継ぎピッチャーは災難ばってん、気を落とさんと待っとれ。かならず逆転しちゃるけん。負け投手にはせん」
「お願いします!」
 アイシングをしていた小野も、
「頼むよ!」
 と声を合わせた。
 四回表。山下に代わって平松が出てきた。勝ちにきたのだ。とうとう恵まれた登板が巡ってきた。平松は張り切って投球練習をする。なんと美しい投球フォームだろう! 惚れぼれする。
 ―狙いは山下と同じ。ストレートとシュート。
 長谷川コーチが、
「伊藤勲が土井淳の薫陶を受けているとするなら、ダンス式リードのはずだ。変、変、ストか、変、変、スト、ストだ」
 つまり、シュート、シュート、ストレートか、シュート、シュート、ストレート、ストレート。スロー、スロー、クィックのしゃれか。カーブが混じるかもしれない。六点差で敬遠はない。ましてや平松は、敬遠など毫も考えない男だ。
 早打ちの一枝がバッターボックスに入る。初球、膝もとのシュート。腰を引いてよける。ストライク! 一枝が天を見上げる。二球目、外にするどく曲がり落ちるカーブ。ハーフスイング。ストライク。間髪を置かずストレートで三振を取りにくる。低目はない。当てられてしまうから。胸のあたりのスピードボールだ。みごとにそこへきた。一枝フルスイング。ジャストミート。レフト重松の頭上をライナーが襲った。重松グローブを差し出したが届かず、フェンスを直撃したボールが芝に撥ね返る。一枝セカンドへ滑りこむ。田宮コーチが、
「さあ、一気に追い抜くぞ!」
 屈んで構えていた星野秀孝は、胸もとのストレートにのけぞってひっくり返り尻餅をついた。平松は薄笑いを浮かべた。同じ速球投手同士でライバル心が湧いたのだろう。星野は尻を叩いてボックスに入りなおし、屈みの少ない姿勢に修正した。二球目、やはりストレート。ただし外角いっぱい。星野はからだを伸ばして薙(な)ぎ払うように片手打ちした。球足の速いゴロが三遊間目がけて転がっていく。松岡が飛びついて押さえた。投げられない。一枝は三塁へスライディング。大歓声が上がる。ベンチは大騒ぎだ。水原監督が激しく手を叩いている。ノーアウト一、三塁。歓声が冷めやらぬうちに、高木が浅い守備をしているセカンド前にわざわざドラッグバントをした。一種のスクイズだ。これは消極的ではない。犠牲フライでアウトを増やすよりはるかに得策だ。前進する近藤昭仁の背中を星野が走っていき、一枝はホームに突入した。近藤は一瞬キョロキョロすると、ダブルプレーもホーム封殺も無理と見て、仕方なく振り向きざま一塁へ送球した。あらら、間一髪セーフになった。これだ! このセーフが大きいのだ。犠牲フライだとワンアウト一塁になっているところが、ノーアウト一、二塁だ。大きな希望をつないだ。四対九。私は、
「エエエ、イグゼ、イグゼ、イグゼエエ!」
 と、馬鹿の一つ覚えの叫び声を上げながらネクストバッターズサークルに向かった。ベンチの全員が、イグゼ! イグゼ! と呼応した。江藤のスリーランホームランが飛び出しそうな気がした。オールスター前、七月半ばの大洋戦で彼は私の百号に花を添える特大の四十号を放った。中日球場のレフト最上段へ一直線、三十一本目のアベックホームランだった。弾道が目に浮かんだ。左肘を突き出し少し屈んだ独特の構え。初球外角高速カーブ。例のオーバーな空振り! 江藤はよたよたと審判の背中を回って、ホームベース前から打席に戻った。スタンドが大笑いになる。いつものフェイクだ。
 ピッチャーにとってこれはけっこう厄介で、フェイクだと思ってしまうと、同じコースに投げ切れない。もう一度空振りを取ろうとして外角へカーブを投げたらみごとに打ち返されるかもしれないと考えるからだ。勇気を持ってほかの球種とコースを投げようとしても、最初からそこを待っているかもしれないと考えて躊躇する。つまり次の球をなかなか投げられないのだ。江藤はスッとオープンスタンスにした。これもフェイクだ。内角はもちろん打つが、外角にも思い切り踏みこむ。
 これまで私が学んだ傾向では、ピッチャーはだいたい空振りを取ったコースと同じコースにつづけて投げる。平松はどうだろう。二球目、内角低目へカミソリシュート。さすがだ。同じコースに放らない。見逃す。ストライク。もう一度懲りずにオープンスタンス。
 ―スロー、スロー、クイック。変、変、スト。
 三球目、外角低目に渾身のストレートがきた。待ってましたとばかりしっかり踏みこんで豪快に振り抜く。三塁ベンチがドッと沸き、白球が漆黒の空に舞い上がった。
「いったあ!」
 私はネクストバッターズサークルでバンザイをした。防球ネットの下の看板にライナーでぶち当たった。佐藤線審の右手がふたたび回る。怒り肩が森下コーチとタッチして一塁を回る。のしのし二塁を回り、三塁コーチャーズボックスの水原監督と片手で高々とハイタッチ。
「江藤選手、第四十一号のホームランでございます」
 私はホームに戻ってくる江藤に飛び上がって抱きついた。
「ナイスバッティング! ないすフェイク!」
「ひさしぶりの打点ばい」
「ぼくもいきます。平松は勝負してきますから」
 七対九。もう一息だ。
「神無月さーん、もう一発!」
 星野秀孝がブルペンから大声で声援する。〈野球〉の渦中に巻きこまれる。
「金太郎さん!」
「金太郎!」
 金太郎コールがスタンドで波のようにうねる。
「平松、勝負しろォ!」
「男対男!」
 平松の顔を見る。頬が引き攣るほど緊張している。むろん勝負の顔だ。外カーブ、内シュート、それから外か内のストレートだろう。その三種類を恣意的に混ぜてきたとしても、私の得意な低目はこない。ぜんぶ高目だ。振りかぶって、投げ下ろす。内角、うなりを上げるストレート! 腰の高さ、ストライク。手を出していたら振り遅れだった。高目だが失投ではない。内角をえぐっていたからだ。変、変、スではなく、ス、ス、変か。手に土をつけて擦り合わせる。構える。二球目、少し手のひらが遅れて出た。外角低目に速いシュート。ストライク。ス、ス、変ではない。彼はもともとコース、高低、球種ともにパターンでは投げていないのだ。いい勝負になる。ここから二球外すだろう。三球目、外角高目、速いカーブ。
「ボー!」
 ツーワン。次が勝負球だ。しかし、微妙に外した勝負球か? 高低すべてを待ち構えなければならない。四球目、内角スライダー。ベースをかすって膝もとへ。払う。一塁スタンドへファール。よし、高低はわからないが外角のストレート一本。浮いてくるはずだ。平松が振りかぶると同時にボックスの前方へ出る。六球目、平松はきっちり手首を打ち下ろした。速い! かぶせる。絞る。食った。ウオオオという歓声。センターへ一直線に伸びていく。
「あ! 打った! 打ちましたァ! 文句なーし、ホームランだあ! 百三号ォ!」
 実況中継アナウンサーの叫び声が聞こえた。
「スコアボード、いや、やや、皓々と輝く時計盤を激しく直撃しましたあァァ! 江尻茫然と見上げております」
 ドワァーと地鳴りのような叫喚。森下コーチとタッチ。
「なんという豪快なホームランでしょうか! 天馬神無月、ゆっくりと、ゆっくりと一塁ベースを回っております!」
 こんなにハッキリと聞こえるはずがない。たぶんベンチ脇カメラマン席のラジオだ。観客はラジオを持ちこまない。どの球場でもタブーになっている。吹雪のように横殴りにフラッシュの光が襲ってくる。平松が腕組みをして遠く時計を見やっている。あの時計は壊れていない。たしか五月にいろいろな球場が防御ケースを取りつけたはずだ。水原監督と固く抱擁し合う。拍手が雨のごとく降り注ぐ。技芸のすばらしさに称讃の歓呼を与える単純で美しい世界。何かのまちがいで夢幻の世界にいま私はいる。たとえ短期間でも味わい尽くそう。
「金太郎さん、ありがとう、また夢のようなホームランを見ることができた」
 水原監督も夢だと思っているのだ。仲間たちの中へ突入する。江藤が受け止める。次打者の木俣が背中に抱きつく。そのままみんなにベンチへ押されていく。いくつもの掌とタッチ。木俣がわれに返ったように打席に走った。
 八対九。追いついたも同然だ。いままですっかり忘れていたのだろう、半田コーチが、中、江藤、私にバヤリースを差し出す。あごを上げて飲む。うまい。太田が、
「何度目のアベックホームランかわかりませんが、とっくに記録をを塗り替えてると思います。この五月二十二日に、ONがアトムズ戦でダブルアベック本塁打を記録してます」
「一人二本ずつのアベックやろ? そんな記録はどうでんよかばってん、この調子で野球やっとったら、いつかトリプルアベックホームランも打てるやろ」
 別当監督がピッチャー交代を告げた。瞬く間に五点を取られた平松が帽子を取り、なんと中日ベンチに向かって礼をした。鬼門に向かって敬意を表したのだ。私が手を振ると、平松も帽子を振った。鬼頭洋(ひろし)というサウスポーが出てきた。初対決。スリークォーターからの変化球ピッチャー。阪神の権藤に似たタイプだ。次打者の木俣がベンチ前に立って投球練習を眺めている。球種はカーブ、シュート、フォーク。木俣はベンチを振り向いて、
「愛知大学リーグの同期だ。万年二位の名商大のエース。あのころは中京大の天下だったからな。変化球が切れる。俺たちには通用せん」
 言い置いてバッターボックスに入った。初球のカーブを叩いて、高いレフトフライを打ち上げた。江藤がベンチから首を突き出し、
「いったんやなかね!」
 田宮コーチが、
「いった、いった、同点だ!」
 打球の上がり具合を見た瞬間、捕球されると思ったが、意外に伸びてレフトスタンド最前列に落ちた。
「オッシャー!」
 六点取られて六点取り返した。歓声が大きくうねる。木俣がこぶしを突き上げ小躍りしながらベースを回る。両手を広げて水原監督に飛びつく。ホームベースに突入する木俣の丸いからだを全員で抱き止める。
「木俣選手二十四号のホームランでございます」
 九対九。太田はボテボテのサードゴロを必死に走って内野安打にした。松原があせって一塁へ高投したせいだ。江島にピンチヒッター江藤省三が出る。
「省三、凡打したら食らわすぞ!」
 兄が叫ぶ。弟は初球、ストライクの外角シュートを見逃し、二球目三球目とカーブをファール。ツーナッシング。次はムダに外してくる。私は兄に、
「次、外し球ですね。狙いです」
「省三、次ぜんぶ振れ!」
 兄の声が届いた。キャッチャーボックスから伊藤勲が振り向いた。四球目、弟は首のあたりのストレートの釣り球を大根切りした。ゴカ!
「お! 伸びるぞ!」
 木俣が身を乗り出した。鬼頭がチラとレフトを見返って、グローブをマウンドに叩きつけた。ラインドライブした打球がポールを巻いた。
「よくやったァ!」
 兄が叫ぶ。江藤省三はまじめに腕を振って一塁ベースを目指し、拍手している森下コーチと強くタッチすると一跳ねして、ふたたびまじめに腕を振って二塁を目指す。三塁ベースを回って立ち止まり、水原監督と握手しながら深々と辞儀をした。私たちといっしょにコーチ陣までホームベースに集まる。ホームインした太田が握手し、星野が抱きついた。
「江藤省三選手、今シーズン第一号のホームランでございます」
 手荒い歓迎の中で高木が、
「ナイスミート!」
 兄が、
「ナイスバッチン!」
 握手し、さりげなく抱き寄せ、肩を叩く。二人の焦点の定まらない目が潤んでいる。私が手を差し出すと、
「金太郎さん!」
 省三はその手を引いて抱き締めた。
「ビッグ、ビッグ、ビッグイニーング!」
 半田コーチのバヤリース。省三はうまそうに一気に飲み干した。十一対九。このまま勝てば省三が決勝打を放ったヒーローだ。長谷川コーチが、
「あとは星野が〆る。ホームランは単品でいいぞ!」
 一枝が、
「単品が必要か、秀」
「必要です!」
「よし、まかしとけ!」
 打席に入った。胸を叩いたはずが、大きなカーブにやられて三振した。星野も変化球にかすらず三振。中痛烈なファーストゴロ。


         三

 星野秀孝は四回裏からの大洋の攻撃をシャットアウトした。六回三分の一、打者二十一人、被安打二(江尻、伊藤勲)、三振七、四死球ゼロ、自責点ゼロ。
 結局ドラゴンズはさらに二点を追加して、十三対九で勝った。六回に高木の二十四号ソロ、七回に江藤省三のピンチヒッターで出た菱川の二十一号ソロが飛び出した。クリーンアップはノーヒットに抑えられた。江藤と私はアベックホームラン以降は二打席連続フォアボール、木俣はサードゴロとセカンドゴロだった。
 報道陣のマイクは五勝目を挙げた星野秀孝と、一号決勝ツーランを打った江藤省三に向けられた。二人とも泣いていた。それを見てベンチの兄がまた目を赤くした。
「省三さんが一本打ったのはオープン戦でしたっけ?」
「おお、三月六日のロッテ戦。東京スタジアムやったな」
「あのときも、木俣さんとおなじような大根切りでしたね」
「ほうやった。最前列。アルトマンの頭を越えていきおった。ピッチャーは成田やなかったか?」
「忘れました。すみません」
 バスに戻るまでの警備はいつにも増してきびしかった。川上監督の謝罪と関係があるのだろうとおもった。拍手の嵐の中を私たちは手を振りながら悠揚と歩いた。私の目の前に背番号23の頼もしい背中があった。木俣は江藤省三に大声で話しかけていた。
「大根切りじゃない。上段斬りだ。スパッ!」
         †
 夜の食事会のとき水原監督が、あたりの耳をはばからず、
「直人くんの誕生日祝いは、西京極の阪神戦から戻った八月十日の夕方にいくことになりました。五日も早まったけど、遅まきになるよりはいいでしょう。小山オーナー、村迫くん、榊くん、それからチームメイトの有志でいきます。よろしくお伝えください」
「わかりました。わざわざありがとうございます」
「十二日からのアトムズ、阪神六連戦は中日球場だから好都合だね」
 小さな顔が微笑む。
「太田くん、きみの全力疾走が勝因だ。それが松原くんのミスと省三くんのホームランを呼んだ。よくやった」
 足木マネージャーが、
「時計はカバーがしてあって無事だったそうです」
 菱川が、
「推定百五十五メートルらしいけど、百七十はいったと思いますよ。弾道が低かったから」
 田宮コーチが、
「俺もそのくらいは飛んだと思うがね。ま、金太郎さんのホームランは、ぜんぶ大ホームランで一括しちまえばいいんだよ」
 十一時ぐらいまで宴はつづき、やがておのずと散会になった。江藤兄と弟が肩を並べて飲みにいき、ほかの者はそれぞれの部屋に引き揚げた。私は北村席に電話して、まだ起きていた幣原に、来月十日に訪れる水原監督一行のことを伝言した。
 カズちゃんの書棚から持ってきた新刊本の茨木のり子詩集を開く。『六月』という詩に惹かれる。

  どこかに美しい街はないか
  食べられる実をつけた街路樹が
  どこまでも続き すみれいろした夕暮は
  若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

  どこかに美しい人と人の力はないか
  同じ時代をともに生きる
  したしさとおかしさとそうして怒りが
  鋭い力となって たちあらわれる


 すばらしい。何世紀も連綿と絶えないように見える前衛芸術など、長い歴史の中ではしょせん一発芸だ。意味不明のハッタリやごまかしを新鮮と捉える愚鈍な時代にしか、そんな芸は生きられない。大物ではなく小物だからだ。現実の人間ドラマのほうがそんな芸術を超えてしまっている。人の心の営みを深く鮮やかに描くことができた作品だけが、結局人の魂を根底から揺さぶる。
         †
 七月二十六日土曜日。晴。きょうも暑い。三十度は超えている。
 第二戦出発前のラウンジで、いつだったか玄関の灰皿の前で親しく口を利いた覚えのあるボーイから今朝のスポーツ紙を渡された。
「甲子園の飛距離は破れませんでしたが、川崎球場始まって以来のスコアボード直撃の大ホームランでした」
 お辞儀をし、微笑みながら去っていった。

 
神無月時計直撃砲 百六十メートル!
 まんいちを考えて神無月対策に設置した強化プラスチックが、みごとに功を奏した。平松との白熱勝負の六球目、神無月が放った打球はとてつもないものだった。本塁から百二十メートル先のフェンスを越え、高さ十メートルのバックスクリーンを越え、高さ二十二メートルのスコアボードの時計に激突した。強化プラスチックのケースで覆われていなければ長針も短針も砕け散っていたところだった。
「推定百五十五メートル? 弾道の低さから考えて、百七十メートルを超えているだろうね」
 と野球評論家の小西得郎氏は言う。いずれにせよ、川崎球場創設以来の大ホームランだ。試合後のインタビューで水原監督は、
「終点が見えなかった甲子園の場外ホームランより迫力を感じた。夢を見ているようだった。川崎では、ライトスタンドの照明灯を割った最長不倒を記録しているが、センターも変則的にくびれこんでいるから、距離的に遜色はないんじゃないかと思う。いくら金剛力があっても、いろいろなものが合致しないとあそこまで飛ばない」 
 と満足そうに目を細めた。


 小西という御仁は菱川と同じようなことを言っていた。飛距離はバッターの勲章なのだろう。記録の認定は持てる才能とそれを磨いた努力を顕彰する。顕彰者には喜びの表現をもって応えなければならない。
 川崎球場に向かうバスに揺られながら、装飾と顕彰のちがいについて考えた。幼いころにあこがれた石原裕次郎を思い出した。彼はなぜ、生活の足ではないボートの操縦免許を取ったのか。才能の切磋琢磨に関係しない〈飾り〉の希求に彼がかかずらわっていた時間を考えると、少年のころ彼に感じたあこがれが揺らぐ。生身の自分を糊塗するための装飾は、飾ることを思い立ってそれにかかずらった時間を考えるとき、精神性の不毛な、かなりマメで滑稽な営みに感じられる。なぜ髪にドライヤーをかけるのか、なぜヒゲを伸ばすのか……。空しい質問だ。格好よく見せるため、と答えて終わりだ。格好よく見せる必要のあった人間の、ただあたりまえの答えが返ってくるだけだ。格好よさを否定する人間はいない。だれもがうなずく。
 なぜ勲章をともなう認定を望むのかという問いかけには、格好よさの希求とはちがってシンプルな回答ができないので、韜晦じみた不分明な答えしか返せない。格好ではなく存在の根幹の価値を認められたいという露骨な権威願望がにおうので、徒手空拳に価値を見出す人間は恥ずかしくなるからだ。おそらく社会的な顕彰には、個の存続に関わる深刻な意味があると考えられているだろう。―才能は礼賛される必要がある。要するに、人間は優劣の顕別をあえて求める生きものだということだ。それを求めないのは、人間ではなく、神性具有者だけだと考えられているだろう。私は神性具有者でないので、金や物のような装飾は希求しないけれども、ホームラン打者としての優劣は顕別してほしいと願ってきたし、いまも願っている。なぜならその顕別が私の個としての存続に関わっているからだ。生き延びるエネルギーにしていると言っていい。しかし、そういう願望を私が持っているという事実は、ふだんの私の権威否定の素っ気ない言動にそぐわないので、私は才能と技能に勲章を与えられることを礼讃者の前で無意味なように振舞ってしまう。脳の後天的な部分で喜びながら、その韜晦を脳の原始的な部分で恥じ入っている。じつに面倒な精神構造だ。
 大洋はきのう中継ぎして打ちこまれた平松の連投できた。ワンアウトも取れず五点を献上した平松が、きのうとは別人のように力みが抜けている。水原監督が、
「ああ、この試合は危ないな。しゃかりきにならないでね。負けていいですよ」
 監督の予想したとおり、平松の切れのいいストレートとシュートとパワーカーブに抑えられ、三シングルヒット、七三振、三フォアボール、みごとにゼロ対二で完封された。中日の三安打は、高木、木俣、九回に小川の代打で出た金の一本ずつ。中も江藤も私も三振こそなかったが、揃って三のゼロ、一フォアボール(盗塁を一つした)。凡ゴロと凡フライに切って取られた。平松のボールは勢いとキレがよく、バッターボックスの前に出ても、後ろに下がっても、うまくタイミングがとれなかった。九回まで好投した小川は、被安打四、自責点二。四回裏の江尻の十一号ツーランにやられた。小川は初めての敗北を喫した。
         †
 第三戦も敗北した。負けていいよとは監督に言われなかったが、平岡、池田、島田の継投にやられて、三対七で連敗を喫した。
 一回の裏、攻守交替でフィールドに飛び出したとき、まだ薄明るかった空が急に暗くなった。中とキャッチボールをしているあいだに、大きな雨粒が落ちてきて、グローブに黒い染みを作った。すぐに小糠雨に変わり、いっとき眼鏡を外して見上げた空に美しい縞模様を作った。その美しい雨も大洋の攻撃中にすっかり上がった。
 私たちは九本もヒットを放ったが、有効打は高木の二十五号ソロで一点、ライト前ヒットで出た私を一塁に置いて木俣が右中間二塁打で一点(私は長駆ホームイン)、二本目の二塁打を打った木俣を葛城の代打で出た江藤省三が還して一点、合計三点だけだった。ほかの四本はすべて効果のない散発のシングルで、中が二本、江藤が一本、水谷寿伸が一本空しく打った。
 水原監督はピッチャー三人(伊藤久敏、水谷寿伸、小野)を含めて、十八人もの選手を使ったが、代打四人のうち期待に応えられたのは江藤省三だけで、あとは信じがたいことに全員三振だった! どんなピッチャー相手でも、たった一度の打席で成功を収めるのは不可能に近いということの証明だった。
 中日も伊藤久敏から、水谷寿伸、小野へつないでがんばったが、三人で自責点四、一枝と太田の失策が絡んで三点取られた。七点のうちの二点は、伊藤勲が小野から打ったツーランホームランだった。彼のホームランが私の頭上を越えていった直後、稲妻が光り、ぱらぱらと雨が落ちてきた。その雨も数分で止んだ。
 九回の表、江藤が、
「まだ終わっとらん!」
 とするどく叫んだ。ダッグアウトが一瞬静まり返った。その直後、最後の打者の一枝がサードゴロに倒れた。
 四回ツーアウトから八回まで投げ切った小野に負けがついた。二敗目だった。
 試合後、ロッカールームで水原監督が、
「ついに二連敗しちゃったね。しかもエースを投入してね。これまででいちばん無様な戦いぶりだった。しかし、そこが重要で、とことんみっともないところを見せられてよかったと考えよう。アウェイだったことも幸いした。落胆する熱烈なファンが少ないという意味でね。名古屋ではファンが、初の二連敗を喫して帰る私たちを励まそうとして盛り上がるぞ。この三日間でいちばん大きかったのは、金太郎さんが人間だということをアピールできたことだ。八打数二安打。時計直撃の大ホームランとは対照的に、凡ゴロ凡フライを打って空しくベンチへ引き揚げる姿を大勢の人たちが目に焼きつけた。遅きに失した感があるが、これは効果的だ。少しは人間らしさを見せないと、アンチ金太郎連中が完全にそっぽを向く。脆いところもあるんだなという記憶が、彼らの希望になる。純粋アンチが増えたら、金太郎さんもやるせないからね。これからはぼちぼち鬼神の活躍をしても、アンチファンも大目に見てくれるようになる。とにかく、今回の二敗で、ドラゴンズの人気がいよいよ高まると思う。もっと負けていい。あと六十試合、コツコツ三十敗するつもりでいこう!」
「オシャー!」
「ソリャー!」
 半田コーチが、
「あと六十一試合で二十敗するのは、とっても難しいネ。十敗も難しいヨ。もうすぐ優勝ネ」
 水原監督が、
「カールトンさん、勝負事にぜったいはないからね」
「ソーリー! そのとおりでーす!」
 大笑いになった。
 もう六十九試合もやったのかという思いが胸にきた。高校野球、大学野球、紅白戦、交流戦、オープン戦を加えれば、ゆうに百五十試合を超えている。小学校から数えれば……気が遠くなる。この十年間、野球だけをやってきた感じだ。ここにいる男たちもみなそうなのだ。何百試合どころではない。何千試合もやってきたのだ。涙が湧いてきた。
「また金太郎さんが泣いてるぜ。優勝という言葉がここにきたか?」
 長谷川コーチが自分の胸を叩きながら尋く。
「それもありますが、みなさんに混じって、この半年に自分が体験したいろいろなできごとを思い返して胸に迫りました。みなさんのようなベテランの中で、ぼくのような嘴の黄色いヒヨッコが……」
 田宮コーチが、
「おいおい、あのできごともこのできごとも、金太郎さんあってこそ起きたことだよ。親鳥がヒヨッコに惚れてくっついてったおかげだ。万感胸に迫るのは俺たちのほうだろう」
「そうだ!」
 高木と小川が声を合わせた。



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