七

 縁側の離れたテーブルにいた三十代後半の女が、
「神無月さん、私、心に自信がないどころか、いつも不幸を感じてるんですけど、なぜでしょうか」
 真剣な声色(こわいろ)だった。いつも縁側に近いテーブルの片隅で萎れて頬杖を突いている女だった。顔立ちも表情も萎れていた。いつもの寛容な気持ちが湧いてこず、私は思ったとおりのことを言って遠ざけようとした。
「孤独で、愛されず、全盛期も過ぎたからです」
「きつ!」
 ほかの女から声が上がった。私はかまわず、
「自分以外のみんながあなたより刺激的な人生を送ってると感じてるでしょう? いつか自分の人生もそういう人生に変化すると期待しながらね」
「はい。でも、変化を待つのには飽きました」
「待つのをやめたらどうですか」
「え?……」
「愚痴るのもやめたほうがいい。ぼくたちは自分の人生の作者なんです。あなたの人生はあなたが書くんです。待っていて人に書かれるんじゃない。人生を変えられるのはあなただけなんですよ。どうやって変えるかはあなたが考えるべきです。愚痴ってる暇はない」
「……そうですね」
「そうです」
 偶然いい解決策になったようだった。
「……ありがとう……変えてみます」
「そうしてください。その気がないならあきらめるべきだけど、その気があるなら焦ることはありませんよ。じっくり変えていってみてください」
 女将が、
「よかったな、コハク、ええアドバイスもらって」
「はい」
 私は、
「いいアドバイスかどうかわかりませんよ。ひょっとして不幸のもとは、ぼくの言ったことではなくて、金かもしれないし、仕事かもしれない。それなら話は簡単です」
カズちゃんたちが風呂から戻ってくると、あらためてビールのコップを打ち合わせて夕食が始まった。コハクが、
「お金でも仕事でもありません。それは心の中で解決がついてます。不幸の原因は神無月さんがおっしゃったとおりのことです。さびしくて、年とってしまって、人から振り向かれなくなったからです。人生を明るく変えるようがんばります」
 やさしい気持ちが戻ってきた。
「たぶん、ぼくは望まれない子だったせいで、親とうまく愛情交換ができなかった。そのせいでいまだに、いわゆる社会人と大人の関係を築けない社会恐怖症です。意思疎通がへたで、だれかれに非現実的な期待をし、エラーをする。……そんなぼくでも、人生を変えて幸福になれました。失礼なことを言ってすみませんでした」
 主人が、
「神無月さん、そこまでや。もう何も言わんでええ」
 カズちゃんがすべてを悟ったように、
「そ、コハクさんはキョウちゃんとおしゃべりできて、もう幸せになったわよ。キョウちゃんとおしゃべりすると、みんな自分がひどいまちがいをしてたことに気づくの。ふつうであろうと拘(こだわ)りすぎてたことにね。ほんとうはみんなへんなのよ。それに気づかないから不幸な感じがするの。キョウちゃんはへんな人間だから、けっして逃げない。キョウちゃんに触れて自分もへんだと気づく。逃げない人間だと気づく。それは最高の幸せよ」
 千佳子と睦子のあいだに直人が坐って、スプーンを使いだす。ソテツがめしを盛りながら、
「これからいろいろな授賞式があると、背広を着てネクタイを締めるという機会が多くなりますね。神無月さんはどうします?」
「締めない」
「ネクタイが嫌いですか」
「堅苦しそうに見えるけど、嫌いじゃない。背広がサマになるからね。じつは締められないんだ」
 素子が、
「お姉さんとうちが買ってきたワンタッチがあるがね。首に引っかけるだけやから面倒ないで。キョウちゃんぜったいネクタイ似合うからつけてって」
 主人が、
「あれならええわ。これからは冠婚葬祭の機会も増えてくるやろから」
 百江が、
「神無月さんはネクタイをしなくても、最近流行りのノーネクタイの文化人とちがって嫌味な感じがしませんし、自然でいいんじゃないでしょうか。ただ、周りがネクタイだらけだと目立ってしまいますよね。神無月さんは目立つのがお嫌いなのに」
 私は素子に、
「やっぱりそのネクタイ、つけてくよ」
 カズちゃんが、
「ふつうに締めるネクタイも五本ぐらい買っときましょう。家で締めていくのは道々窮屈な思いをするから、ポケットに入れていって、現場で江藤さんたちに締めてもらえばいいのよ。俺が俺がって、みんな喜ぶわよ」
 菅野が自分のネクタイをいじりながら、
「私もそう思います。私が現場についていって締めてあげたいくらいです」
「そうしたら? 車から降りたときに締めてあげるのよ」
 私は、
「菅野さん、お願いします」
「わかりました。格好よく結んであげます」
 素子が、
「菅ちゃんがついていけんイベントもあるやろから、引っかけるだけのネクタイも用意しとかんと」
 千佳子に、
「青森高校の先生たちって、ネクタイしてたっけ?」
「してました。ほとんど全員」
 睦子が直人の口をティシュで拭いてやりながら、
「西沢先生は、ワイシャツに白衣だけでした」
 ひとしきり、西沢とバス旅行の話で盛り上がった。青高出身者のあいだでくどいほど繰り返される話だ。初耳の主人が、
「そんな奇特な人が、いまどきおるんやなあ」
「オフに青森にいったら、西沢先生と相馬先生にあらためてお礼を言いたい。―スケジュール的に無理か」
 カズちゃんが、
「……そうねえ。野辺地にも一泊か二泊してあげたいでしょうし。ゆっくり案を練ってあげるわ」
 キッコが、
「青森いってみたいなあ。でも、お嬢さんの言うとおり、金魚の糞は迷惑やし、今年は勉強しようっと。早く検定とらんとあかんし」
 私は、
「いったん目指したからには、生やさしい気持ちでいちゃだめだよ。あと一年半死んだ気になって勉強しないと」
「似合わんわ、神無月さんがそんなこと言うの。神無月さんは学歴を馬鹿にしとる人でしょ?」
「まさか! ぼくは学業を中途半端にした人間だけど、勉強の楽しさと、上昇志向の楽しさを知ってる。その結果ついてくるのが学歴だけど、ひけらかさないかぎり、みっともないものじゃない。家柄や金や人脈があるせいで努力もせずにうまくやっていける人は、上昇の楽しさを知らないから、自信満々に学歴社会を否定するけど、少なくともふつうの人間にとっては、いつまで経っても日本は厳然とした学歴社会だ」
「ふつうでなく生まれとれば要らんものやったんよね」
「そうだよ。才能でできる仕事にありつけるように生まれてればね。そんな人間はほんの一握りだ。もともと存在しないような人たちだ。ふつうの人間が、才能もないのに学歴を否定するような能天気なやつらのまねをしてみなよ。三十、四十になったら仕事もなければ金もない。ただの穀潰しになる。キッコは、そうならないために勉強して、大学というところに足を突っこもうとしたんだ。素子も栄養士の免許を取るために、来年から養成学校にいく。世の中には肩書になんか頓着しないで、何億も稼ぐ商才のある人がいる。北村席のお父さんのようにね。中学校を途中でやめても、詩や小説を書いて名を売る人もいる。啄木や中原中也のようにね。しかしそれは、才能のある努力家が大成した特殊な例だ。そういう人はけっして人の学歴や肩書を否定しない。上昇志向の楽しさ、すばらしさを知ってるからだ。ぼくも知ってる。だから、自分がつけた肩書には興味はないけど、肩書をつけようとする他人の努力には大いに惹きつけられる」
 イネが、
「ここの賄いの人たぢや、トルコ風呂の人たぢや、アイリスの人たぢみてに、肩書もねくて、肩書きをつけようともしね人は?」
「身を粉にして働くまじめさが、すべての肩書を凌ぐ輝きを発してる。そのままでもちっともかまわない。でも、自分に何かが足りないと感じて、それまでの自分とはちがった種類の道を目指したくなる人は、たぶん目指すだけの才能があるので、それを追求してみたくなったにちがいないんだ。ただ、目指すと宣言した以上は、やり遂げないとみっともない。人に宣言したという十字架を背負ったんだから。とにかく、あと一年半だ。それでキッコを取り巻く環境が、願ったものに変わるはずだ。しかるべき大学に入って、しかるべき職業に就き、才能を生かし、満足のいく環境に取り囲まれればいい。ここで挫折したら大きな悔いを残すぞ。悔いは心の傷になる。がんばれ!」
 キッコが抱きついた。みんなが拍手した。直人もびっくりして拍手した。菅野が、
「一気にしゃべりましたね。いつもの一瀉千里だ。わくわく、ドキドキしました。神無月さんはどうしてそこまで人のことを応援できるんですか」
「ぼくは幼いころから学業に親しまなかったので、正規のものを受け入れる訓練ができてない。おまけに、敗者復活で生き延びた人間なので、初めから正規の勝者がもっと勝ち上がろうとする姿を見るとうれしくて仕方がないんです」
 素子が、
「キッコちゃんはもともと勝っとったの」
「素子もね。ここにいるみんなは勝利者だ。人を包みこむ愛情を生まれながらに持っていて、そのうえ正規の道をきちんと進もうとする。根が勤勉で努力を怠らない。何もかも勝者の証しだ。そういう人たちのエネルギーが、ぼくを復活させてくれた。これからはぼくも、そのエネルギーを見習わなくちゃいけない」
 菅野が、
「まだ努力が足りないですか」
「足りないです。ときどきさびしい風が吹くうちは、まだだめです。全力で生きる努力が足りない証拠です。エネルギー全開で生きてない。何ごとも没頭することこそ、命への恩返しです。倒れてのち止む。倒れるまでは全力で―」
 キッコが、
「そういう百パーセントの人のそばで暮らしとると息苦しくなると思うんやけど、神無月さんとおってもそんな感じがせん。どうしてなんやろ」
 カズちゃんが、
「行動が自然で、柔らかいユーモアがあるからよ。ユーモアって、さびしくて悲しい人からしか生まれないの。だから、キョウちゃんはいつもさびしい風が吹いていていいのよ」
 睦子が、
「息苦しくならないどころか、腑に落ちることばかりで、すばらしい解放感です。正規の生き方では応用問題が処理できないから」
「ムッちゃんは頭のいい子ね。そうだ、キョウちゃんにサマーウールのジャケットを買ってきたんだった。遠征のとき着ていってね。一張羅みたいなブレザーばかり着てたから」
 素子が、
「AB体7号、濃紺の格子縞。立ち襟のワイシャツは似合わんから買わんかった」
 千佳子が、
「立ち襟って、怪しい宗教の教祖さまみたいでいやですよね」
 言葉の意味がわからない。直人がコックリを始めた。母子の風呂の時間だ。トモヨさんが直人を抱いてヨイショと立ち上がり、
「じゃ、私たちはこれで休みます」
「お休みなさい」
「直人、お休み」
 懸命に目を開け、
「おやすみなちゃい」
 食卓が片づいていく。ソテツやイネたちの手でお茶とコーヒーが出る。メイ子と百江が茶菓子出しを手伝う。


         八

 主人が、
「あしたは、お稲荷さんの掃除をせんといかんな」
 門を入って、左隅の垣根沿いに祀ってある社のことだ。
「お参りしたことがありませんでした」
 女将が、
「ええんよ。先祖が祀ったのを受け継いどるだけやから。お稲荷さんは粗末にすると祟りがあるゆうから、ときどきお掃除してあげるんよ」
「何の神さまなんですか」
「商売繁盛。お百姓さんやったら豊作祈願やな。椿神社にお願いして、造り替えてもらってもええんやけど、なんやろ、手をつけたらあかん感じがするんだわ」
 睦子が、
「お家の中に仏壇はありますけど、神棚がありませんね」
 主人が、
「ワシら夫婦の離れにあります。仏壇は現在の一家を守る祭壇、神棚は祖先の御霊(みたま)を祀る祭壇だと思っとります。祖先の御霊は親族が祀らんとあかんですからな。松葉会の座敷の窓ぎわにしつらえてあったのは、幅一間ほどの須弥壇(しゃみだん)やったかな」
 女将が、
「ほうや。真ん中に置いてあったのは、大日如来の金色像やった。その手前に密壇があって、その上に蓮の花の造花と、ごはんを盛った器が置いてあったわ。ここいらの集会所なんかよりずっと立派な祭壇やったな。松葉一家を守る祭壇やな。夫婦の部屋には、たぶん神棚を祀っとるでしょう」
 主人は思い出そうとするふうに目を細め、
「中小企業の社長室なんかで、ときおり神棚を見かけるな。あんなところに祖先の霊を祀ってどうするつもりやろな」
 カズちゃんが、
「そういう社長さんて、おとうさんやおかあさんとぜんぜんちがう。血筋以外信頼してない孤独な感じね。だから祖先にすがる」
「他人の部下が頼りにならんから、神頼みか?」
「そう、自分の血縁の守り神。北村席の仏壇や松葉会の祭壇は一家の守り神よ。信頼感がにおってくるもの。配下を見ても、注進に及ぶような告げ口屋さえいない感じ」
 私は、
「そういう意味では、ドラゴンズはヤクザ集団だね。仏壇はないけど」
「水原監督を祭壇に仕立てた、最高のヤクザよ」
 賄いたちが座敷に食事をしにきた。いってこよか、と言って主人が立ち上がり、菅野と出ていった。女将が帳場へ入る。睦子も立ち上がった。
「じゃ、私は帰ります。郷さん、お休みなさい」
「お休み。金太郎によろしく」
「はい」
 千佳子が笹島まで送っていった。笹島の交差点から自転車で孤独に帰っていく睦子の後ろ姿が浮かんだ。
「ぼくも帰ります」
 コーヒーを一杯飲み、主人夫婦や天童優子、丸信子、三上ルリ子たちに挨拶をして立ち上がる。主人の水屋からプロ野球選手名鑑を借りた。ソテツとイネと幣原が門まで見送りに出た。カズちゃんと素子とメイ子と百江と五人で帰る。口数の少ない、静かな、いつもの夜道だった。
         †
 七月二十九日火曜日。七時起床。曇。朝から二十五度超え。うがい、軟便、ジムトレ二種のあと、バーベル百キロを三回。素振りゆっくり六十本、一升瓶左右十回ずつ、庭の芝の上で三種の神器、汗みどろ、シャワー。
 三人で朝食。ロースステーキ二百グラム。腹八分目。付け合わせのジャガイモ海苔チーズ炒め。磯風味とチーズの塩気で手が止まらなくなり、満腹になった。メイ子が、
「八月からの女中専業は、やっぱりお断りすることにしました」
 カズちゃんが、
「昼、夜、食事を一人でとるなんてたまらないものね」
「はい。アイリスに毎日昼から出勤することにしたんです。それでお掃除、洗濯、蒲団干し、じゅうぶんできます。雨模様の日は、家じゅうが物干し場になりますし」
「百江さんもそうだけど、メイ子ちゃんも働き虫」
「自分に都合のいい生活を送るのがいちばんだよ」
 迎えにきた菅野と日赤までランニング。きょうも暑くなる気配。
「アトムズのロバーツを調べようと思って、お父さんの水屋から選手名鑑を借りてきました」
「ああ、王泣かせのデーブ・ロバーツですか。四十一年に大リーグのパイレーツからきた助っ人ですね。パナマ出身の助っ人は日本初です。ハズレ外人の多い中では大当たりでしたね。スワローズが待ちに待った大砲かつ主砲と言っていいでしょう。親友のジャクソンが死んで、さびしい思いをしてるんじゃないですかね」
 菅野はさっそく詳しく話し出す。
「大人しい印象だけど、顔は怖いね。笑顔はすばらしかった。ロバーツしか打てないチーム……前を打つ選手の出塁が少なくて気の毒だな。そうでなければ、去年、おととしと連続で三冠王を獲ってたかもしれない」
「大リーグの出稼ぎに三冠王を獲らせるなって、マスコミの批判がすごかったですからね。四番、ファースト、ロバーツ、背番号5、か。今年ももう十八本打ってるんですよ。王が二十本。神無月さんにしてみれば下界の争いでしょうけどね。ロバーツは日本人以上の日本人と呼ばれてるんですよ。オフはクニに帰らず、上智大学で聴講生になるんです。数学とか英文学を勉強してるらしい。人格者でしてね、怠慢プレーをした選手を本気で叱るんです。ほとんどの外人選手が日本人を見下してる中で、じつに奇特なことですよ」
「名鑑なんか要らなかったなあ」
 日赤から引き返す。
「おととし、武上やロバーツや浅野がサンケイに入団したんですが、西鉄から城戸も採りました。そのせいで徳武は三塁を追われただけじゃなく、八百何試合かの連続出場もストップしてしちゃいましてね。飯田監督が徳武の記録が継続中だったことを度忘れしたからだと言われてますが、どうも自身が記録保持者の飯田の嫉妬からではないかと勘ぐられてます。真偽のほどはわかりません」
「飯田監督とセッてたんですか?」
「いや、飯田は千二百いくつかの日本記録保持者ですよ」
「それじゃ、嫉妬じゃないですね」
 徳武の中日移籍の内情がわかったような気がした。〈度忘れされた〉からだ。
「飯田監督はどうなりました?」
「徳武問題でチームがギクシャクして、翌年ヘッドコーチで南海に移りました」
 則武に帰り着いて、菅野とコーヒー。
「きょうあすが終わったら、広島か。自分がこんなに律儀に暮らせる男だとは思わなかった」
「神無月さんは不気味なほどまじめな人ですよ。私たちが神無月さんを人間的に信頼する大もとです」
 菅野が帰ってから音楽を一時間。山口の置いていったテープ。マイルス・デイビスをたっぷり。選手名鑑を見る気はまったくなくなった。
 昼、アイリスでホットドッグを食いながら、フランクル『夜と霧』読了。夜と霧というのは、夜陰に紛れて非ドイツ国民を霧のように消し去ることを意図したヒトラーの特別命令のことだと知った。夜、と、霧。どれほど深い問いを発し、どれほど明哲な結論を導き出そうとも、学者の書いた冷たいドキュメンタリーやノンフィクションでは、エリ・ヴィーゼルの偉大な作品『夜』を凌駕できない。彼は特異を普遍に昇華させた真の芸術家だ。しかし夜と霧にも印象に残る部分はあった。私自身の生き方が肯定されている部分だった。
 ――生きることから何を期待するかではなく、生きることから何を期待されているかだ。
 二時まで五百野の推敲の書き継ぎ。全稿ほぼ終了。
 二時四十五分、北村席でユニフォームに着替え、菅野のクラウンで出発。主人と宗近棟梁が同乗する。棟梁は私たち三人に深々と辞儀をした。主人も頭を下げ、
「棟梁、今回は、ええ店造ってもらってありがとうございました。ファインホースもご面倒おかけしました。アイリスの改装のほうもよろしく」
「おまかせください。こちらこそ、おかげさまで商売繁盛ですわ。このクラウン、乗り心地ええですな」
 菅野が、
「最高級です。クラウンもピンキリですよ。ピンはこのスーパーデラックスです。まず十年は故障しない高級車です。百二十万円します」
「いままでのクラウンは?」
「スタンダードです。九十万。私用で使わせてもらってます。社長からの身に余るプレゼントなので、何の不満もございません。それに、二台の車に交互に乗ってるので、スタンダードもデラックスも私の車のようなものです。へへ」
 主人が、
「棟梁は何乗ってるの」
「カローラ。一家共有ですわ」
「ワシもそういうのでじゅうぶんやとは思うんやが、プロ野球選手の車やからね」
「そりゃそうですよ。カローラなんか乗ってたら、しみったれたやつだと思われますよ」
 菅野が、
「中日球場の駐車場見ると、外車だらけだもの。リンカーン、ジャガー、ポルシェ、ベンツ。国産に乗ってるの、水原さんだけでしょう」
 私は、
「水原監督は外面を飾らない人です。セドリック、どうなりました?」
 菅野が、
「結局みんなで乗ろうということになりました。二千cc、直列6気筒、百五馬力、百五十キロ出せる六人乗りの高級車です。蛯名さんにも勧めてみたんですが、牧原さんに叱られるということで断られました。ローバーに飽きたら、素ちゃんか千佳ちゃんが乗るんじゃないですか」
 棟梁が、
「……神無月さん、九月から小説を連載すると新聞に宣伝されてますけど、野球で天下を取った人が、小説なぞ書く意味があるんですかね。ちょっとした余裕ですか」
「その逆で、苦行です。ぼくにとっては、たとえ苦しくても、書くことに意味があるんです。小説は芸術と呼ばれるものの一部です。仮に、ぼくたちの財産を増やしたり、社会的な階級を高めたりしてくれるような仕事だけが価値あるものだとしたら、芸術には価値がないことになるでしょうね。でも、富や社会的出世と関係なくぼくたちを内面からもっと幸福にし、もっと充実したものにする離れ業を芸術がやってのけるとしたら、芸術は特上の価値のある仕事だと言えるでしょう。人間社会を維持する愛情と同じ価値があるということになりますから。芸術家は人が進む道の模範を示します。人間の徳と固く手を結び合って、心を充実させることで幸福を実現してくれます。それこそ小説を書くことが持っている価値です。ただ、ちゃんとした離れ業でないと、人を幸福にはできません。熟達した職人技が必要です。ぼくはまだ世界の職人の弟子の段階です。職人になれるかどうかもわかりません。もっともっと苦しまないと」
「……なるほど。芸術家が職人だとすると、私らのように腕を磨かんといかんということですね」
「そのとおりです。頭が働くかぎり、死ぬ日まで。そこが、若い時代しかできない野球とちがうところです」
 菅野が、
「棟梁、こんな風変わりなことを考えてる人間が、野球をやってるのは不思議でしょ?」
「不思議ですな」
「神無月さんはどんなことでも、人を充実させ、幸福にするために職人になろうとするんですよ。若い時代かぎりかもしれませんが、野球もそうです。棟梁、野球は好きですか」
「北村さんと同じで、キ印ですわ。現場にはめったに出かけませんが、ようラジオは聴きます。小っちゃいころから大の中日ファンでしてね、じつは私、野球の〈現場〉にいくのは、若いころに一度中日球場にいって以来なんです。神無月さん、きょうはじっくり楽しませてもらいます。二連敗を吹き飛ばしてくださいよ」
「期待に添えるようがんばります」


         九
 
 中日球場。ロッカールームで水原監督、コーチ陣、チームメイトたちに挨拶。宇野ヘッドコーチがベンチ入りメンバーを発表する。
「三日間休養、伊藤竜彦、門岡、小野。一軍登録、日野茂、堀込基明。ベンチ入り、星野秀孝、小川、土屋、伊藤久敏、水谷寿伸、水谷則博、山中、若生、中、高木守道、江藤慎一、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、千原、江島、葛城、徳武、新宅、高木時夫、江藤省三、吉沢、金博昭。外国人枠なし。登録抹消なし。以上」
 三時二十五分、二十五人ベンチ入り。ダッグアウトの温度三十四・九度。スコアボードの旗を見る。かなりはためいている。蒸し暑くはない。球場の上空をヘリコプターが飛んでいる。木俣が、
「守山の自衛隊だろう。ヘリコプターの飛行体験が最近流行ってるらしいから。二十分ぐらいで名城公園から庄内緑地まで一周するって話だぜ」
 ケージ、防球スタンド二台ずつの準備が終わる。三時半。開場一時間前。雲を透いて照りつける陽射しの下で、フリーバッティング開始。バッティングピッチャーは小川と土屋。中と江藤がケージに入る。ゆるいボールを打つ練習だと言ってバッティングピッチャーを買って出た小川が中に、
「ちょっと、内と外で曲げるよ。ゆるい直球なんてのはプロにはないから」
「オッケー」
 土屋が江藤に、
「軽く曲げる技はないんで、ふつうの直球いきます」
「よし」
 二人は素軽いスイングでほとんどスタンドへ打ちこむ。後続の金、江島、新宅、江藤省三、全員順調。ケージの後ろに私といっしょにいた菱川が、
「金は去年の最終戦で、一度だけ先発してるんですよ。今年も、先発はきょうの一度っきりだろうと言ってました。……がんばってほしいですね」
「じゃ、きょうは菱川さん、出番なしですか」
「たぶん。きょうのライトは金と江島」
 四時半、アトムズとバッティング練習を交代。福富の円月殺法には苦笑するが、やはりいいバッティングをしている。きょうも打ちそうだ。四角いからだの高倉のバッティングに注目する。下から腕だけでこね上げる打法。切りこみ隊長と呼ばれてきたようだが、それほどの迫力なし。西鉄に十四年、巨人に二年、今年、西鉄黄金時代の同僚豊田泰光の引きでアトムズにきた。三十五歳。大きな眼鏡の奥の小さな目が間の抜けた印象を与える。
 まだ腹はへっていなかったけれども、一人ロッカールームでソテツの弁当を食う。手製のシュウマイと残り物のキンピラゴボウがうまい。
 眼鏡をかけ、もう一度スパイクの紐をしっかり締める。お守り袋確認。この時間帯はみんな、相手チームの主力選手やコーチ連や新聞記者たちと和やかに会話をするのが常だ。私には無理だ。カズちゃんの本棚から持ってきた、ブルフィンチの『ギリシャ・ローマ神話』を開く。
 世界の最初に、大地と暗黒と愛があった、とある。愛が暗黒の大地に生命と歓喜を生み出した。いい書き出しだ。ゆっくり読み進める。愛の神キューピッドは、愛と美の女神ビーナスの息子だったと知る。息子はいつも母親といっしょにいた。これにはビーナスも困った。そこで掟の神テミスに愚痴をこぼした。テミスは弟が生まれればキューピッドは変わると言った。そこでビーナスは弟アンテロースを生んだ。キューピッドは母離れし、ぐんぐん大きく、力強く成長した。アンテロースは、軽んじられると復讐するが、愛には愛で報いる子だった。どういう子だ? 兄は軽んじられても復讐しない、愛に愛を返さない子だったのか? 母離れという観点からも、兄と弟の性格の差異が明確にされていない。何も浮き彫りにしない、よくわからない象徴的な書き方だ。いつもの不満が出てきた。読み差したらもう一度取りかかるのに精力が要るだろう。三十ページほど読んで、ベンチに戻る。クリーンアップと並んで腰を下ろす。アトムズのバッティング練習終了。
 外野に回り、ダッシュのあと守備練習。ミズノのグローブで快適に捕球。バックホームの肩が軽い。腕に筋肉がついてきた感覚がある。うれしい。高木がセカンドの守備位置から私に向かって、バックホームの球が浮き上がるというジェスチャーをする。
 アトムズのブルペンで酒仙石戸四六が投げている。わがチームの先発は、おそらく今年で引退する山中巽。権藤の力が衰えたあとにエース格になったピッチャー。大柄な恵まれたからだを活かしてオーバースローからスピードのある重い剛球を投げつづけた男。最高勝率にも二度輝いた男。スタンカによく似た球質と言われた。去年、彼の敬遠に怒った長嶋がバットを持たずに打席に立ったというエピソードは永遠に語り継がれるだろう。慢性の内臓疾患にやられ、いまはもう往時のボールの伸びも、変化球の切れもない。
 アトムズの守備練習が終わる。スタンドの熱気。立錐の余地もなく夏服の観客が埋まっている。スタンドもフィールドも熱い大気に炙られるのは八月からだ。真っ黒いバックスクリーン、緑のスコアボード。薄暮の空がだんだん灰ずんでくる。少し風が凪ぎ、芝生が輝きはじめる。一塁側とライトスタンドの声援が賑やかだ。球団旗の動きも大きい。バックネットを見やる。主人と棟梁と菅野、三人笑いながらビールを飲んでいる。下通の落ち着いた声が流れてきた。
「本日は中日球場にご来場いただき、まことにありがとうございます。間もなく中日ドラゴンズ対アトムズ十四回戦を開始いたします。両チームのスターティングメンバーを発表いたします。先攻のアトムズ、一番セカンド武上、セカンド武上、背番号2、二番ショート東条、ショート東条、背番号38、三番ファーストロバーツ、ファーストロバーツ、背番号5、四番レフト高倉、レフト高倉、背番号25」
 高倉が四番? たぶん四番を忙しく入れ替えながら、代打、代打でくるな。
「五番センター福富、センター福富、背番号34、六番ライト高山、ライト高山、背番号10、七番サード城戸、サード城戸、背番号9、八番キャッチャー加藤、キャッチャー加藤、背番号27、九番ピッチャー石戸、ピッチャー石戸、背番号20」
 石戸との対戦成績を思い返す。五月半ばの初対決、左中間二塁打、六月初旬、センター前テキサス、右中間二塁打。これまで三打数三安打。ホームランは打っていない。
「後攻中日ドラゴンズ、一番……」
 中、高木、江藤、神無月、木俣、太田、一枝、金、山中。
「球審岡田、塁審は一塁富澤、二塁山本、三塁丸山、線審はレフト筒井、ライト福井、以上でございます」
 暮れかかる空の下へ散った。中と山なりのキャッチボール。中は金と山なりのキャッチボール。プレイボール。
 出番のあるかぎり全力を尽くす、と言った山中がすばらしい立ち上がり。武上、東条、ロバーツをそれぞれツーツー、ツーワン、ツーツーから三者連続三振。すべてフォーク。体調の悪そうな様子はまったくない。
 つづく一回裏。中、初球をライト前へ痛打。高木のワンナッシングからの二球目、中がリードもせずに何気なく走りだしたのを見て、加藤があわてて送球しようとしてジャッグル。盗塁成功。投球は外角高目のボール。ワンワン。高木、三球目をサード城戸の前へセーフティバント、当たりがよすぎて一塁アウト。中、三塁へ。江藤、センター前へ高く弾むゴロのヒット。中、生還。ゼロ対一。
 大歓声の中をバッターボックスに向かう。ひさしぶりにヘルメットをかぶらない。石戸にスピードのある直球はないからだ。すべてサイドスローからのするどい変化球。シュート、スライダー、シンカー、ナックルのどれかだ。身長は小川と同じくらいだが、大きな赤ら顔、からだもずんぐりしていて、見るからに酒仙だ。これほど変化球を多投できるのは、手首や指が頑丈だからだろう。
 初球から狙う。振り上げた右手の握りがすでにおかしい。投げ下ろすときの指の形でナックルとわかった。遅いボール。向かってくる軌道から、外へ落ちると判断する。芯に衝突することを願って強く振り出す。芯の内側にゴツンという手応え。打球が回転せずに左中間の浅いところに上がって急速に落ちた。テキサスヒット。ワンアウト一、二塁。
 木俣、種々の変化球に難渋してサードフライ。スタンドの失望のざわめき。このざわめきをきょう一日のバックグラウンドにしてはならない。水原監督がしきりに手を拍つ。
 ―太田、頼む。
 簡単に通じる願いなどない。太田、シュートに詰まってサードゴロ。水原監督の拍手(かしわで)が空しくなった。
 フォークは疲れる。握力もおかしくなる。それでも山中は、ほかの変化球もじょうずにとり混ぜて、二回から五回まで十六人のうち十二人を凡打に抑えこんだ。ドラゴンズも同じように石戸の変化球に牛耳られて、五回の裏まで凡打の山を築いた。失望のざわめきに怒声が混じる。
「何連敗する気だ!」
 水原監督は、連敗することもある、がまんしてくれ、と言ったではないか。
「ちゃんと点を取れや! ホームランでしか点を入れられんのか!」
「えらそうなことを言わんと、高校野球を見習え!」
 究極的な野次だ。しかし気にしない。高校野球に見習う点は一つもないからだ。二打席目の私は内角スライダーに詰まったライト前のテキサスヒットだった。力のあるボールにバットが斜めに裂けた。拍手はなかった。
 六回の表。ここまで山中は武上、東条、福富、加藤の散発四安打に抑えている。彼の体力ではここがギリギリのところだろう。五番高山三振。フォークがするどく落ちた。加藤三振。フォークがゆるやかに落ちた。石戸の代打奥柿、センター前ヒット。高目にいったフォークが落ちなかった。山中が肩で息をしている。
「いいかげん代えたれや!」
 水原監督は動かない。力のかぎりやると言った山中の言葉を信頼している。一番武上に戻った。やられるなと思っているうちに、長い投球間隔でノースリーになった。
 ―山中さん、歩かせればいい。そしたらピッチャー交代ですよ。休めます。カウントをとりにいっちゃいけません。
 武上の背中の丸め具合から虎視眈々とノースリーから狙っているのがわかる。四球目、山中の腕が素朴に振り下ろされる。よもやのストレート! 低目か、高目か。高い!
 快音が響いた。白球がバックスクリーンへ一直線に伸びていく。中はピクッと動いたきり追わなかった。逆転ツーラン。二対一。水原監督は動かない。ベンチも動かない。観客だけが口々に怒声を張り上げる。三連敗どころか、去年の二度の十一連敗を心配しているのだ。やるせない状況だ。まずい。
 東条、山中の渾身のフォークで三振! よし、山中さん、なんとかしますよ。
 六回裏。ピッチャー浅野啓司。必要のない継投。チーム勝ち頭の石戸に投げさせておけばいいものを。こうして弱いチームは自滅する。たしかに浅野はオーバースローの本格派で、ストレートが速く、多種類の変化球も投げる抑えの切り札だ。しかし六回で? あと四回、一点差を守り切るつもりか? 無理だろう。石戸なら可能だったかもしれない。浅野とは三度対戦して、ショートライナー、ライト犠牲フライ、三遊間ヒット。得意なピッチャーというのでもない。彼から打ったライト犠牲フライは、今シーズン、いまのところ私の唯一の犠打だ。人には忘れたと惚(とぼ)けてみせるが、私は思いのほか克明な記憶力を持っている。好きなことに関してだけなので、無差別に克明な記憶力の持ち主に出会うと驚愕し、感動する。
 今回はホームランしか狙わない。無慈悲なファンを宥めるためではない、愛する仲間たちを高揚させるためだ。
 高木、ツースリーからセカンドゴロ、おっと、イレギュラー! 武上ハンブル、あわてて拾って一塁送球、高木初めて見せるヘッドスライディング。セーフ!
「ヨ!」
「ホ!」
「ヤー!」
 ベンチが活気づく。赤鬼のようになった江藤が打席に入る。初球高目のストレート。大げさな空振り。劣勢の試合なので、いつもの爆笑がない。ファンは最終的に、ゲームではなく勝敗にしか関心がないのか? 私や水原監督の楽観を怪しむ思いが、そろりそろりと忍びこむ。二球目、外角スライダー、待ってましたとばかりひっぱたいた。いい角度でライトへ上がった。
「よっしゃー!」
 田宮コーチがベンチから飛び出す。みんな柵棒につかまって首を伸ばす。右翼手の高山が懸命に追う。フェンスにたどり着かないうちに背番号10が止まった。ライト中段の観客が左右に割れる。福井の右手が回る。私はウェイティングサークルでばんざいをした。怒り肩が高木を追いかける。
「江藤選手、四十二号のホームランでございます」
 二対三。逆転。現金なものだ。野次が期待に満ちた歓声のうねりに変わった。いつもの強いドラゴンズを期待するうねりだ。江藤はうねる歓声の中で水原監督と両手でハイタッチ。花道で揉みくちゃになる。
 つづく私は、歓声の潮が退かないうちに、初球の外角高目の捨て球をしっかりかぶせて叩いた。少し外へシュート気味に曲がったように見えたが、快適に芯を食った。低いライナーで真っすぐセンターへ向かっていく。森下コーチがぴょんぴょん跳ねる。上昇途中の打球がバックスクリーンの上端に、ドン! と音立ててぶつかった。スタンドが総立ちになって拍手と歓声を送る。苦々しい。水原監督と抱擁。背中や肩や尻を叩かれながら花道を駆け抜ける。
「神無月選手、百四号のホームランでございます。なお、今シーズン何本目のアベックホームランなのかまだ調べておりません。かなりの数でございます。え? ……はい……わかりました。ただいま松橋控え審判員によると、三十三本目のアベックホームランということでございました。江藤選手、神無月選手、おめでとうございます」
 スタンドじゅうにドーッと笑いが湧いた。二対四。



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