十

 つるべ打ちになった。木俣、内角ストレートを無理やりライト線に流して二塁打、太田内角シュートを三塁線へ引っ張って二塁打、二対五。一枝左中間フェンス直撃の二塁打、二対六。金までが一、二塁間を抜いて一枝を返した。二対七。怒涛の攻撃は留まるところを知らず、山中までがレフト前ヒット。ノーアウト一、二塁。
 酒仙に投げさせておけばこんなことにならなかった。ここでアトムズのピッチャー交代。今年で引退を囁かれている村田元一が出てきた。彼からは五月十四日に六打席連続ホームランを記録したとき、五十号と五十一号を打っている。プロ野球タイ記録の三十二得点を挙げた日だ。それきり対戦していない。
 村田はマスコミ嫌いの奇人で通っている。義俠の人であることでも有名だ。三十五年にチームメイトの金田と十八勝同士で並んでいて、先に二十勝させてくれと金田に頼まれると、サッサと二軍落ちを志願してシーズンの残りを二軍で暮らした。その年、金田は二十勝、村田は十八勝だった。すごい話だ。しかし、彼はむかしの彼ならず。往時の球威はない。中、右中間三塁打、二点入って九点目。高木左中間へ二十六号ツーラン。十一点。江藤、センターオーバーの二塁打、私、右翼場外へ百五号ツーラン。十三点。
「ただいまの神無月選手の百五号ホームランをもちまして、一イニング十者連続安打となり、プロ野球新記録達成でございます」
 木俣センター左へ二十五号ソロ。十四点。
「ただいまの木俣選手のホームランをもちまして、五月二十七日に阪神タイガースがアトムズ戦六回表に挙げた十三得点のプロ野球記録を抜き、一イニング十四得点のプロ野球新記録達成でございます。同時に一イニング連続安打の記録も更新でございます」
 大歓声が渦巻く中、太田セカンドライナー。ワンアウト。一枝ひさしぶりにレフトオーバー九号ソロ。十五点目。一イニングの得点記録更新。山中レフトフライ。ここで村田から懸河のドロップの権藤に交代。中、ピッチャーゴロ。私たちが守備に散り終わるまで、怒号と拍手が鳴り止まなかった。喜べない。観客とのあいだに霞(かすみ)が立ったような気分だ。
 七回、八回もドラゴンズの攻撃は止まらなかった。七回は、高木レフトライナー、江藤強烈なラインドライブでレフトの頭を越えるシングルヒット、ワンアウト一塁から、私ライトオーバーの二塁打。江藤生還。十六点。ワンアウト二塁。木俣のセカンドゴロの間にツーアウト三塁。太田、ショート右へ内野安打。私生還。十七点。ツーアウト一塁。一枝ライト前ヒット。ツーアウト一、二塁、金の代打菱川、右中間二塁打。太田還って十八点。ツーアウト二、三塁。山中三振。八回は、中、低目のドロップを掬って、ライト中段へ十四号ソロ。十九点。高木三遊間を抜くヒット。江藤、ショートゴロゲッツー。私フォアボール。木俣一塁線三塁打。私が還って二十点。太田サードゴロ。二連敗の鬱憤晴らしのように、八安打で、五点もぎ取った。
 七、八、九回を水谷則博、土屋、伊藤久敏、一回ずつ投げた。打たれたヒットは東条とロバーツの短打のみだった。二対二十。ホームラン七本。勝利投手は山中。五勝目を挙げた。おそらく最後の白星だろう。胸にくるものがあった。
 試合後のインタビューは水原監督と江藤と私と、そしてヘッドスライディングで胸を泥だらけにした高木になった。まず江藤にマイクが突き出される。
「二連敗が嘘のようですね」
「勝つも負けるも微妙な運の天秤ばい。武上くんのハンブルから始まったったい。一グラムでも重ければ、天秤はグンと傾く。あしたはわからん」
 水原監督に、
「きょうの勝因は」
「六回裏の高木くんの闘志あふれるプレイがすべてです」
 高木にマイクが向けられる。
「油断からくるミスがいちばん危ない。去年で凝りてます。浮いた気分でいると、十連勝しても十連敗してしまう。野球を真剣にやっていれば、心配ないだろうと思います。今年は、弱いと言われていたピッチャー陣がいいので、どのチームも先に失点してはいけないという意識があるようです。うちは畳みかけていきますから」
「神無月選手、ひとこと」
「先輩たちと野球をする一瞬一瞬が至福のときです。江藤さんの言う天秤の傾きの大もとは、山中さんの好投です。彼の懸命な投球に水原監督が続投を決め、ぼくたち打撃陣も懸命に応えようとした結果、高木さんのセカンドゴロイレギュラーと武上さんのハンブルを誘い出しました。さらに高木さんのヘッドスライディングの情熱が、江藤さんの四十一号を引き寄せました」
「振り返っても追う者の姿が見えない独走態勢に入りましたね」
「常にうまくいくわけではないですが、一回でも先に点を取るよう心がけています。クリーンアップ以降もドラゴンズはスイングのするどい選手が多いので、畳みかけることが可能です。ピッチャーが次の打者を意識して萎縮し、集中打を浴びる可能性が高くなるからです」
「ドラゴンズの勝率が高いのは一目瞭然ですが、驚くべきは六回までにリードを許した試合が極端に少ないことです。つまり、序盤からリードして自分たちの戦いに持ちこんでいる試合が圧倒的に多いということです」
 江藤が、
「打ち勝とうというチーム方針の成果やな」
 私は、
「選手個々の能力の高さがドラゴンズの強さであることは確かですが、最大の強みはスワというときの団結力です。一丸となって相手にぶつかる。ぼく自身バッターボックスに立つとき、投手と打者の一対一の勝負の背後に団結力という圧力を感じて、非常に頼もしくなります。束になって全員が同じ方向を見て、やっと五分五分に戦える。そこへその信頼感が加わって、爆発力になる。運では勝てません。試合が終わると極端に疲労します。心地よい疲労です」
 ふたたび水原監督にマイクが向けられる。
「ドラゴンズに弱点はございますか」
「先制点を取られると苦しくなるチームです。ドラゴンズの投手陣を考えると、継投後の試合運びが苦しくなります。ただ、極力五点以上の先制点を許さないようにがんばっています。そうして打線がかならずチャンスを作って追いこむことを期待します。実際、今年大差負けした試合は、アトムズ四回戦の五対十五、大洋十四回戦の十一対四の二試合しかありません。こちらが『きょうはだめか』と思えば相手は一気にくる。試合を最後まであきらめず、ドラゴンズらしい野球をやることが肝心です。ドラゴンズはいやだなと思わせる戦いを一試合でも多くやって、相手がミスをしたときにそこでひっくり返せるような精神と技量の鍛練をつづけていきたいですね」
 浅野継投のミスのことを言っている。
「ありがとうございました。このまま最後まで突っ走って下さい。ドラゴンズファンばかりでなく、全国のプロ野球ファンも、一日も早い中日ドラゴンズの優勝を願っています」
「は、がんばります。―三連敗しなくてよかったです」
 江藤がウハハハと笑った。
「きょう負けとれば三連敗やった。ますますスタンドの汚い野次を聞かんといけんところやった。ファンも選手もおたがい信じ合いたいけんな。―がまんし合わんと」
 江藤もわかっていたのだ。インタビューが終わってベンチへ引き揚げるとき、客席から聞いたことのない凱歌の合唱が流れてきたが、何の歌なのかわからなかった。ドラゴンズの歌ではないので、ファンクラブの応援歌なのかもしれない。いずれにせよ、気を取り直して喜ばなければいけないことに思えた。
 ロッカールームで水原監督が、
「あした勝たないと、きょうの勝利はすぐに忘れられます。しかし、ファンがどう罵ろうと無理に勝つ必要はない。自然にね。ファンの冷酷な一面を、きょう、しかと耳に刻んだでしょう? 彼らは自分の気持ちを預けるものが負けることに耐えられないんです。心と財を投資しているからです。幸運にも勝てば彼らは報われる。そして、勝てば勝つほどスーパーマンを求める。しかし心を寄せるものがスーパーマンである保証はない。その力量の範囲内で戦っているだけの人間です。そんな理屈はファンには通じません。私たちは勝てるときに勝ち、負けざるを得ないときは負けましょう。そうやってプロ野球選手の力量を最大限に示していくしかないんです。じゃ、またあしたがんばろう!」
「よしきた!」
「まかしとけ!」
「あしたは俺ですか」
 小川が尋く。
「そう。控えは星野くん。小川くんには最低五回、完投まであるつもりでいってもらう」
「ウス!」
 駐車場からめいめいが帰路についた。いつもに倍する人だかりだった。警備員や組員が人びとを制する中、通路で求められる握手はすべてした。少し手がひりひりした。高木や中たちも痛そうに手を振っていた。
 車中で棟梁が、
「驚きましたな。五打数五安打、二ホームラン。そのホームランもバックスクリーンと場外ときとる。日本を代表する人だということを実感しましたわ。しかし、こうしていっしょに車に乗っていると、その実感が消えていくのが妙ですな」
 菅野が、
「光の中から闇の中へじょうずに紛れる人ですからね。私たちのようなふつうの人間に接するときは、単なる若造に自分を戻そうとするんですよ。私たちから見てもすごいオーラだとわかりますが、才能ある人たちから見れば、さらにものすごいオーラを発しているんでしょうね。そのことを知らないのは本人だけです。教えてあげると否定しますから、手に負えません」
 愉快そうに笑う。主人が、
「褒められることを心底嫌う変人やものな。他人を褒めても自分は褒められたくない。それだけにこちらが気を使う必要がない。理想的な人ですよ」
 棟梁はうなずき、
「とんでもないものを拝見させていただきました。ありがとうございました。配下に神無月さんのファンがけっこういるので、また呼んでやってください」
「いつでもどうぞ。あしたも一人連れていきましょう」
「ありがとうございます。則武の家を造った責任者を遣(や)りますかな。井上というやつです。飛び上がって喜びますよ。アヤメのほうはあと五日ほどですっかり完成です。残りは水周りと、ガス、電気系統。ファインホースやアイリスのほうの拡張工事も、それから一週間ですみます。井上が仕切ります」
         †
 七月三十日水曜日。快晴。ランニングから始まるふだんどおりの生活。五百野、綿密に読む。数箇所手を入れ、完全に終わった。
 昼に三十五度を超えた。日盛りの中を北村席へいく。

    
みんなで連敗止めた
      
ハリケーン再び
 神無月五の五・二本塁打 チーム新記録づくめ
 取りも取ったり二十点。一イニング連続安打新記録、一イニング得点新記録。ファンをやきもきさせていた二連敗は何だったのか。クリーンアップが鳴りをひそめた前二戦から考え、ファンがひそかに恐れてきた三連敗は杞憂に終わった。ふたたび昇竜を甦らせるイカズチがけたたましく鳴った。
 頭から一塁ベースに突っこんだ。一点ビハインドの六回裏無死ランナーなし、高木守道内野手(28)は、浅野啓司投手(20)がツースリーから投じた六球目を打ちそこなってセカンド前の凡ゴロ。しかし二塁手の武上四郎(28)が一瞬ジャッグルしたのを見逃さず、ヘッドスライディングを敢行して一塁セーフをもぎ取った。これがチームにカツを入れた。その直後に江藤慎一内野手(32)のライトオーバーのツーランが飛び出した。〈瞬間湯沸し器〉と〈闘将〉の二人が、二連敗中の重苦しかったチームの空気を一掃した。つづいて神無月のライト場外のソロが花を添える。いつもの花火だった。
 水原茂監督(60)はインタビューで「高木くんの闘志あふれるプレイがすべてだった」と絶賛した。この日、高木は同じ回に村田元一投手(31)から二十五号ツーランを放った。


「巨人が三十勝三十敗四分け、五割、阪神三十勝三十三敗二分け、四割七分六厘、大洋三十勝三十八敗五分け、四割四分一厘。巨人がこの勝率でいけば、六十三勝でシーズン終了です。中日はきのう六十勝目を挙げました。追い上げを考慮しても、もう優勝が決まったも同然ですな」
 主人が言う。
「でしょうね。でも、各チーム、中日を全敗させ、自分たちは全勝するつもりでぶつかってきますから、優勝までは長引くでしょう」
 ミズノのグローブと黒革のスパイクを革袋に入れる。直人が菅野と帰ってきて、いっとき私にまとわりつくと、安心して座敷へいった。
 蛯名を呼んで、二台のローバーミニで出発。菅野の白いローバーに乗る。具合を見るために試運転するのだと言う。私を球場に送り届けたあと、二台で引き返し、あらためて主人たちを乗せてクラウンでくるということだった。
「エンジンやブレーキの調子を前もってみておかないと、千佳ちゃんたちの身が危うくなりますからね」
 駐車場に到着。蛯名の赤いローバーはすぐに引き返していく。
「蛯名さんに時間とらせちゃったね」
「コマ鼠のようにやってくれます。会全体が神無月さんに心酔してますから。命に代えても護れと牧原組長は常々言ってるそうです。牧原さんは刀架に刀と並べてバットを飾ってるらしいですよ」
「ありがたいですね。武士の魂と並べて置いてくれるなんて」
 試合開始一時間前。守備練習を終えて、ソテツのトンカツ弁当。卵焼きとタコウィンナーも添えてある。


         十一

 中日―アトムズ十五回戦。スターティングメンバー発表。アトムズは四番に小淵泰輔という三十四歳のベテランを入れてきた。あの日本シリーズの(長嶋ファール)の男だ。太田に、
「小六ぐらいのとき、中日に小淵という選手がいたけど」
「その人です。西鉄四年、中日三年、国鉄にきて今年で六年。中日時代は年間三十試合ぐらいしか出てませんでしたが、けっこう打ったようです。江藤さんと同期の日鉄二瀬の三番打者ですよ。西鉄時代にサイクルヒットを打ってます。国鉄にきて一、二年は中軸打者でしたが、その後くだり坂。今年引退なので、温情四番ですね」
 今年引退する選手ばかりだ。どうも私はプロ野球の新旧交代の時期にやってきたようだ。
 五番福富、六番ファースト奥柿(きのうピンチヒッターで出た。ロバーツはレフトへ回った)、七番城戸、八番加藤、九番石岡。
 きのうから出ている左バッターの奥柿を名鑑で見ていなかった。太田からパンフレット借りて見る。百八十センチ、八十キロ。二十一歳、三年目。背番号1。高校時代から王二世と呼ばれていた。二年間で打率一割台、ホームラン二本。才能を感じさせないウスノロの顔をしている。
 三塁側のブルペンで石岡が投げている。石岡からは八打席七打数七安打五ホームラン一フォアボール。十割だ。石岡はいやな気持ちでいるだろう。中日のメンバーはきょうもライトに金が入り、サードは葛城。二人とも一打席か二打席で交代だ。球審は井上、一塁塁審岡田、二塁富澤、三塁山本、レフト線審丸山、ライト目玉のマッちゃん。筒井は控えに回った。
 一回表。小川が速球中心で颯爽と押していく。武上三振、東条私の前へヒット、ロバーツ三振、小渕三振。
 一回裏。中、高木、江藤、三者連続三振。全員ツースリーからやられた。石岡はカーブでカウントを稼ぎ、決め球は内角ストレートか外角シュート。
 二回表。福富三振、奥柿三振、城戸三振。これで五者連続三振。小川は軟投で遊びだしたらポカがある。その調子でお願いします。
 二回裏。私からの打順。石岡の胸に atoms の真っ赤なロゴが貼りついているのに気づく。白地に赤はさわやかでない。二球目の内角低目のカーブを叩きつけてライト前ヒット。木俣の初球に盗塁。加藤俊夫が矢のような送球。かろうじてセーフ。マスクを外してこちらを見ている加藤の顔が美男子なのに驚く。木俣ツースリーから左中間の深いところへ二十六号ツーラン、葛城レフト前ヒット、一枝ライト前ヒット、金三振、小川三振、中セカンドゴロ。ゼロ対二。ヒットの効率が悪い。
 三回表。加藤当たり損ねのファーストゴロ、石岡スローカーブをセンター前ヒット、小川さん! 武上レフト前段へ十七号ツーラン、ほらね。遊んじゃだめですよ。それにして武上はよく打つ男だ。東条私の前へライナーのヒット、彼も当たり屋だ。ロバーツセカンドゴロゲッツー。二対二。
「いやあ、わりい、わりい」
 小川がベンチのみんなに謝っている。高木が、
「ゲームをおもしろくしようとしてるんだろうが、いいかげんにしろよ」
 三回裏。高木ショートゴロ。江藤サードゴロ、私ボンヤリ早打ちして、真ん中高目のカーブをセンターフライ。スピードボールがベースのかなり前から変化しはじめるので、視点が定まらない。言いわけ無用。ボールの見きわめが足りないということだ。
 四回表。小淵三振、福富セカンドゴロ、奥柿サードゴロ。この男はだめだ。だれの二世にもなれない。
 淡々と回が進んでいく。二時間もかからずに終わりそうだ。観客もホームランで歓声を上げるほかは声援のしどころがなく、じっと試合に見入っている。
 四回裏。木俣高目のカーブをみごとにかぶせて、ライトスタンドへ二十七号ソロ。二打席連続。森下コーチと激しくタッチ、水原監督とソフトにタッチ。葛城高目の絶好球を打ち損ねてレフトフライ、一枝、左中間二塁打、金の代打江藤省三、外角のスライダーをつんのめって打ってライト前ヒット、一枝生還。小川ショートゴロゲッツー。二対四。
 五回表。城戸セカンドゴロ、加藤セカンドゴロ、石岡センターフライ。小川の責任回数終了。
 五回裏。中レフトフライ、高木キャッチャーフライ。微妙に石岡のボールが変化している。江藤は冷静に見逃しとファールで五球粘って、祈りをこめたフォアボール。これがきょうドラゴンズの唯一のフォアボールになった。江藤の祈りには応えなければならない。
 中押しの一発を期待する大歓声。さっきのセンターフライの感触が悪かったので、ストライク二つまで見逃して球筋を見きわめることにする。初球ストンと内角に落ちるカーブ、ボール。二球目外角高目シュート、ボールくさいストライク。三球目真ん中低目スライダー、ボール。四球目内角高目ストレート、ストライク。内低、外高、中低、内高。次は外内中三コースどれかの低目、球種は不明。低目に備えて並行スタンスに構える。五球目、外角低目シュート、屁っぴり腰で大きく踏みこみ、しっかり叩く。
「いったー!」
「そ、そ、そ、ソリャー!」
 センター、レフト一歩も動かず、ライナーで左中間上段に突き刺さった。松橋線審が手も回さず両手を腰に当てて眺めている。森下コーチが帽子をとって最敬礼。水原監督とロータッチ。ひさしぶりに尻をポーン。下通の弾む声。
「神無月選手、百六号のホームランでございます」
 江藤とホームで固い抱擁。仲間とタッチ、タッチ、タッチ。二対六。最近トンとバヤリースが出ない。
「半田コーチ、品切れですか?」
「はーい、いま注文中でーす」
「カンパしましょうか」
 宇野ヘッドコーチが、
「だいじょうぶ、カールトンさんにはこれまでの尽力に報いてボーナスが出ることになったから」
「よかったですね」
「はーい、うれしいでーす」
 木俣、高目のストレートを叩きつけ猛烈なラインドライブでレフト線を抜く。二塁へ豪快な滑りこみ。葛城の代打太田、全く同じようなコースに落ちてくるカーブをレフト線へ痛打。水原監督の腕がぐるぐる回る。木俣尻を振って生還。二対七。一枝高いセンターフライ。チェンジ。
 きょうも勝ちが見えてきた。六十一勝目。
 球場の夜空を見上げる。私が生まれる一年前に完成し、大火災のあと再建された中日スタジアム。煌々とグランドを照らす八基の照明灯。光の彼方の夜空が深い。
 六回の表。武上いい当たりのサードゴロ。東条スローボールをまともにミートしてセカンドライナー。ロバーツ、外角低目のシュートを長いリーチでうまく掬ってライト上段へ十九号ソロ。力あるシュートだったが、まともに合わされた。ホームランはこんなふうに何気なく飛び出す。小淵外角ストレートを引っかけてショートゴロ。三対七。
 六回の裏。江藤省三レフトライナー。小川の代打江島、シュートをコンパクトに振ったが詰まって三遊間のボテボテのゴロ、間一髪アウト。中、内角スライダーを掬ってライトフライ。きょうの中はまったく当たっていない。
 七回表。星野秀孝登場。これで勝った。腕のしなりの美しさ、ボールのスピードに惚れぼれする。球界ナンバーワンだろう。目の覚めるような速球で福富三振。奥柿の代打高倉パームにヘッドアップして三振。城戸真ん中ストレートを振り遅れてセカンドゴロ。
 七回裏。きのうにつづいて浅野がマウンドに上がる。
「さ、いけ!」
「あと五点!」
 高木素直なストレートを打って三遊間ヒット、江藤素直なカーブを打って右中間二塁打。ノーアウト二、三塁。私の出番だ。星野が投げるからにはホームランは要らない。予想どおり浅野は初球から外角高目の遠いシュートを投げてきた。ショートの頭へコツンと打ち返す。左中間の浅いところに落ちるシングルヒット。二者生還。三対九。木俣、彼らしくなく外角のカーブにチョンと合わせて一、二塁間へ深いゴロ。一塁だけアウト。私は二塁へ。太田の二球目、浅野の横顔を見つめながら何気なく三盗を敢行した。驚いた城戸が三塁に入るのが遅れて加藤送球できず。ただのベーラン滑りこみになる。歓声が極限まで高まる。太田センター深く犠牲フライ。タッチアップしてホームイン。三対十。一枝粘りなくライトフライ。
 八回表。加藤平凡なサードゴロ。太田の送球スナップがすばらしい。宮中のころから守備のうまい男だった。名手になった。ただ、身のこなし全体に内野手の華麗さがない。サード菱川―もし実現すれば、中日の内野にもう一輪の花が咲く。浅野バットの根っこに当たるピッチャーフライ。武上パームにまったくバットが合わず三振。
 八回裏。江藤省三粘った末にピッチャーライナー。星野初球をライトフライ。中、ツーワンから真ん中低目のストレートをライト中段へ弾き返す十四号ソロ。さすがローボールヒッター。きょうようやく出た一本がホームランだ。水原監督がうれしそうに片手ハイタッチ。小さな中が跳び上がって仲間の群れへ突入する。三対十一。高木、シュートを掬って大きなレフトフライ。打ち方やめ。
 九回表。東条私への滞空時間の長いフライ。ロバーツ、またまたうまくミートしたがセンターライナー。きょうずっと使われてきた高倉に代打が出る。丸山。ストレートとパームに面食らって三振。二試合連続α勝ちで終了。八時二十五分。二時間もかからずに終わった。勝利投手小川健太郎。小野と並ぶ十二勝目。
 さっそくインタビューが始まる。四回に決勝打を放った江藤省三と勝利投手の小川と水原監督。私たちはベンチに待機。
「十二勝目、おめでとうございます」
「どうも。星野が気を抜かずに投げたおかげだよ。それにしても、うちはよく打つねェ」
 私たちを振り返る。微笑んでいる水原監督にマイクが突き出される。
「早ばやと六十一勝目ですね」
「ここからだね、苦しい上り坂は。あと十勝、二十勝がとんでもなくきつい」
「江藤省三選手、決勝打おめでとうございます。ご兄弟でドラゴンズを盛り上げてらっしゃいますね。打ったボールは何でした?」
「外角のスライダー。のめったけど、うまく芯に当たりました。……プロに入って初めてヒーローになりました。感無量です」
「これまでも少ないチャンスをものになささってますが」
「代打、レギュラー、ぼくには関係ありません。まず出場できること。兄の裾野にたどり着けるよう精進します」
「お兄さんは山ですか」
「そびえる山です」
「小川選手、中日投手陣はほんとうによくピッチャーに打たれますね」
「プロにくるほどのやつは、もともとバッティングもいいんだよ。俺だって四本もホームラン打ってるでしょ。ただ、相手がピッチャーだと、ちょっと配球が甘くなるね。これからは心します」
「監督、神無月選手は相当の変人だと伺っていますが、そのことがチームメイトに及ぼす影響はどのようなものでしょうか」
「プロ野球選手としての適性評価には限界があります。性格の評価が含まれていないという点です。したがって、入団時に当然変人性は見落とされます。と言うより、そんなことは評価対象にならない。チームプレイを旨として生きてきた野球選手のほとんどは、社会的に協調性の豊かな、変人とはほど遠い人びとだと安心して、個性的な突出など考えもしないんです。考えなかったとは言え、神無月くんが飛び抜けた変人であることは、入団当初から選手やスタッフのあいだで周知のことでした。で、チームメイトとうまくいくかどうか、非常に危惧されていました。あけてビックリ、私どもはその彼を何の抵抗もなく好意的に、かつ感動をもって受け入れました。変人である以上に、飛び抜けて豊かな人間性を備えた人物だったからです。ある意味、彼を受け入れた私どもも並でない変人だったということでしょう。彼もわれも変人となると、結果的にどんな際立った変人もひとし並に普通人ということになります。いずれにせよ、若くて頭抜けた才能を受け入れる以上、その選手の心的外傷や屈折した感情がついてくると考えるのがあたりまえです。それでこそプロの世界です」
「なるほど、よくわかります。―さあ監督、いよいよ来月にも優勝が近づいてきました。ファンのみなさまにひとこと」
「はい、開幕以来信じられないほど順調にきました。今年急に強くなって、かえってそれが選手たちプレッシャーになっているなら、今後躓くこともあり得ます。ただ、がんらい素質の高い選手が揃っているからこそいまの成績であり、そこへ勝ち癖がついたということもありますので、プレッシャーも感じないでこのまま一気に駆け抜けてくれるでしょう。しかし、勝つためにはあくまでも投打の噛み合いと、選手たちのコンディションが肝心です。それから、ファンのみなさま、この胸突き八丁の上り坂にあって、今後ぶざまに足踏みをしても、短気を起こさず、ドラゴンズを信頼して、根気よく応援してください」
 監督はベンチを振り返り、
「―さあ、みんな、帰った帰った。よく食べて、よく寝なさい」
「ウィース!」


         十二

 七月三十一日木曜日。九時まで寝た。曇。すでに二十七度。いつもの中休みなのに、やっと巡ってきた息抜きという気がする。この二戦は連敗してはならないという気持ちが強かったので、とことん疲労した。
 それでもジム部屋でプルトップダウンを十五分やった。菅野とのランニング。きょうは椿神社から環状線に出て栄生まで走り、栄生駅ガードの交差点からガード沿いの道を引き返した。背の低いビルのあいだにマンションや商店などが挟まる落ち着いたビジネス街。緑はポツポツしかない。古びた二階家のきしめん三河屋あたりから、瓦屋根の横長の二階建て民家が多くなる。そのほとんどが商店だ。廃屋が混じったりする。どの小路からも新幹線のガードが見通せる。
「なつかしい感じです。あたかも名古屋ですね。だれだって住みたくなります」
「名古屋は駅の周囲以外は永遠の下町ですからね」
「永遠の下町か。自転車屋と蕎麦屋が多いのがいい」
 井深町交差点。また自転車屋。
「外堀通りです。国道二百号線。これを左へ真っすぐいくと菊井町です」
 左へいかずに突っ切る。ビルはなく、二階家がつづいている。鮨屋、トンカツ屋、スナック、床屋、鉄工所。右折して小さな亀島公園に寄る。粗末な遊具がある。児童公園のようだ。風を感じながらベンチで一休み。
「子供のころとちがって、時間がポンポンと進まない。密度が濃すぎる」
「神無月さんだけですよ。いやですか」
「いやじゃないけど、身がもつかどうか心配だ」
「くだらない娯楽が足りないんですね。麻雀、パチンコ、競輪、競馬、スナック……」
「うーん、すべて、ヨイショというファイトが要るね」
「ふつうは要らないんですけどね。さ、いきますか」
 交差点。内股のだらしない格好でセーラー服が立っている。美しくないものは徹底して美しくない。自転車屋。角々に自転車屋あり。空に青みが増す。綿雲が浮かんでいる。どこまでも店や電信柱に〈亀島〉の表示がある。中村群道に出た。突っ切る。ようやく〈則武〉の表示。大きな道路。
「則武本通です。清正公通りとも言います」
 突っ切る。短パンの男と赤シャツのジーパン女の若者カップル。美しくない。建物の背が高くなり、旅館と駐車場が多くなる。
「北村席が近いね」
「あと二、三分です」
 昭和通りに出た。イコール駅西商店街通り。左へいけば椿神社、右にいけば環状線。突っ切る。見慣れた景色。牧野小学校へ曲がりこむ。牧野公園。
「解散!」
「お疲れさまでした!」
 菅野は北村席へ、私は則武へ。
         †
 シャワーを浴び、真昼までテレビ。名古屋テレビで一時間半の邦画『純愛物語』。昭和三十二年といえば、横浜で裕次郎映画に夢中になっていたころだ。戦災孤児の不良少女と彼女に慕い寄る少年。二人でスリを働いて生計を立てようという姿勢が健気でないし、江原真二郎と中原ひとみはどちらも好みでない俳優なので、原爆症絡みの悲話がいっこうに目にこない。今井正は『また逢う日まで』も撮っているが、別れを基調とする映画には拒絶反応を起こす。せめて作り物のドラマの世界だけでもハッピーエンドであってほしい。
 小半時、曇り空に稲妻が光る。雨の気配なし。ジャージに下駄を履いてアイリスに出かけ、隅のテーブルでオムライスを食う。昼どきで、会社の休憩時間に軽食を求めてやってくる人が多いので、私は注目されずにすんだ。注目しても寄っていく暇などない。それがあたりまえの生活だ。素子の持ってきた食後のサントスを飲み、メイ子に料金を払い、カズちゃんの笑顔に手を振ってから北村席へ足を向ける。みんなに挨拶をし、座敷に寝転がってノンビリ庭を眺める。ムクゲが真っ白い大輪を開いている。女将が座布団を折って私の腋に敷き、
「あしたあたりから天気崩れるそうやで」
 主人と菅野もやってきて、
「広島球場、心配やな。菅ちゃん、あそこ水ハケどうやった」
「ふつうじゃないですか。川崎球場ほど悪くないでしょう」
 ソテツが、
「神無月さん、アイリスでお金出して食べるくらいなら、毎日うちで食べてください」
「うん、北村の厨房は天下一品だものね。でも、昼は外で食うと単品で簡単にすませられるから便利だ。来月からはアヤメでも食うつもり。メニューを征服しようと思ってる。朝晩はなるべくここで食うからね。特に北村の夕食はまるでホテルのディナーだから、目を楽しませながら食える」
 イネがトモヨさんに、
「入院中はお弁当届げますか? 病院食だっきゃ、つまんねでしょ」
「ちゃんと病院のものを食べます。赤ちゃんが産まれるまでは、病院の言いつけどおりにしないと」
「そんですね。専門の栄養の先生がいるすけ」
 新聞を広げながら、菅野が、
「きょうの記事は神無月さんの盗塁のことです。もう書くことがないみたいですね」
「盗塁? ああ、メインのインタビューが終わってベンチの中に戻ってから、ぶら下がりの記者にいろいろ訊かれたやつだ」
 ソテツが、
「ぶら下がりって?」
「グランドや廊下やロッカールームで個人的に貼りついてくる記者」

   
二連勝 竜が戻ってきた!
     
足もごろうじろ 天馬楽々三盗
 絶妙なタイミングで神無月は素早く動いた。七回裏、みずからのバットで二点適時打を放ったばかりのワンアウト二塁。バッター太田。ノーワン。三対七でリードはしていたが、安全な点差ではないと考えたのだろう。塁上からアトムズの右腕浅野をじっと見つめた。二球目を投げようと足が上がった瞬間、走った。スタートの動作が目に留まらないほどのすばらしい発進だった。楽々成功。サードの城戸もキャッチャーの加藤も身動きできないほどだった。これで十六盗塁。たった十六と言うなかれ。神無月は塁上にあることがまれなのである。その数少ない塁上のチャンスで二回に一回の確率で走っている。成功率はなんと百パーセント。
「浅野さんは本格派で、モーションが遅いですからね。そこしか見ていません。モーションが速いピッチャーや、次が速球のコンビネーションのときは走りません。走れるところでしっかり走れば、得点できる機会も多くなります」
 と語る。アトムズのキャッチャー加藤の盗塁阻止率は四割四分と高い。強肩でもある。その加藤が、
「あの足は刺せませんよ」
 と兜を脱いだ。
「じつは神無月くんはチームナンバーワンの俊足なんです。出塁が多くなれば、確実に盗塁王です。でもそれは神無月くんの務めじゃないですからね」
 と中も言う。 
「金太郎さんのいいところは、あえてホームランを狙わないところなんだよ。個人プレーのように見えて、じつはいつもチームの勝利のことを考えている。と言うか、みんなの努力をムダにしたくないと心配している。よき心配性だね。わがままな攻走守なんか一度も見たことがない。それがまた私たちを奮い立てるんだ」
 と水原監督は語る。走れる四番がチームに貢献する。三盗成功で一死三塁とチャンスを広げ、太田のセンター犠牲フライで八点目を搾り取った。
「理想は全打席ホームランですが、それは夢物語です。ヒットでなくても得点できる可能性を高めれば、チームの勝利はより確実なものになります」
 と天馬神無月は満足そうに締めくくった。


 主人が、
「ホームランの話題は、シーズン終了までお預けでしょう。優勝のときにバーッと盛り上がるくらいかな」
 菅野が、
「針が極端に振れると、生活は静かになるんですね。家の前のマスコミも影をひそめましたし」
「神無月さんのマスコミ嫌いが素直に浸透してくれたんやな。しかし、やっぱり優勝のときはとんでもないことになるぞ」
 女将が、
「松葉さんががんばってくれるやろ」
「おお、あまり目立たんようにな」
 庭に出る。二、三人の名も知らない女たちが縁側から降りてくる。トモヨさんが遠くから微笑んで眺めている。
「なんだかもったいないくらいの天気だな。何がもったいないのかわからないけど」
 女たちが笑う。笑うだけで何も言わない。その奥ゆかしさが胸にくる。下草を見ながら一人が言う。
「こういうのを庭の千草と言うんでしょう?」
「夏じゃなく、冬が近いころに、庭で健気に咲いている草の花のことを庭の千草と言うんだよ。特に白菊のことだね。庭の千草という歌は、伴侶に先立たれて残された人が健気に生きる姿を唄ったものなんだ。唄ってあげようか」
「お願いします!」
 ほかの女たちも縁側に寄ってきた。ためらわず唄い出す。

  庭の千草も 虫の音も
  かれて さびしくなりにけり
  ああ白菊 ああ白菊
  ひとりおくれて咲きにけり

  露にたわむや 菊の花
  霜におごるや 菊の花
  ああ哀れ哀れ ああ白菊
  人の操も かくてこそ

 目を潤ませながら女たちが慎ましく拍手する。主人たちも拍手している。
「〈かれて〉というのは、古語で〈離れて〉と書く。ものごとなら遠ざかり、草花なら枯れ、人間なら心が離れてという意味なんだ。百人一首の、『山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思えば』の〈かれ〉がそうだ。人目も離れ、草も枯れたさびしさを歌ってる。次に、〈おくれて咲きにけり〉だけど、古語のおくるは、死後に残されるという意味だから、死に遅れて生きているということだね。だから白菊の花は、愛する者が先に死んでしまい、独りさびしく生き残った人の象徴なんだよ。この意味がわかると二番の歌詞の意味もよくわかる。露は人生の苦労と涙の比喩。独り残された者は、涙に濡れてうなだれるんだ。おごる、というのは屈しないこと、人の操も云々の歌詞は言わずもがなだね。……孤独の中に残されたものが凛と生きていく歌だ」
 女たちが神妙にうなずく。いつのまにか縁に出てきていた主人が、
「ものを知っとるゆうんは、すばらしいことですなあ。……歌声の美しさは比べもんがない。きょうも思わず目が痛なりましたわ」
「こういうことは、これからは睦子に訊けばいいですよ。彼女は古典学者ですから、詳しく話してくれます」
 女将が居間から、
「北村に学者さんも暮らすようになったんやね。ありがたすぎておそがいわ」
 菅野は相変わらず新聞に目を落としていたが、オッ、と気づいて腕時計を見、直人を迎えにいった。
         †
 やがて直人が帰ってきた。おとうちゃん! と叫びながら、大きなサンダルを突っかけて庭に下りてくる。
「なにしてたの?」
「みんなで庭の花を見てたんだ。ここにはたくさん花が咲いてるぞ」
「おしえて」
「うん、わかるやつだけね」
 勉強していたらしい千佳子がやってきた。庭に下りて仲間に加わる。
「これは?」
「オシロイバナ」
 千佳子が、
「どうしてオシロイバナって言うのかしら」
「種に粉が詰まってるからだよ」
「おとうちゃん、これは?」
「キョウチクトウ。ふさふさしてるね」
 女たちに向かって、
「美空ひばりに『夾竹桃の咲く頃』といういい歌があるよ」
「唄ってくれますか」
「あとでね」
 トケイソウ、ノウゼンカズラ、芙蓉、ムクゲ、朝顔、ゼラニウムと教えていく。女将に、
「則武には朝顔を植えてないんですよ。竹垣を作って水をやるのが面倒で」
 主人が、
「植木屋に作っておいてもらいますよ。水は和子かメイ子にやってもらえばいいでしょう」
「ぼく、これしってる、ヒマワリ。ほいくしょにもさいてる」
「そうか。背の高い大きな花だね。一日じゅうお日さまのほうを向いて回るんだよ」
「しってる。ほいくしょのせんせいにおしえてもらった」
 次の花でつまった。六枚の白い花弁が雪の結晶のように開いている。
「何だろうな」
「ゼフィランサス。花屋さんの店先で覚えたわ」
 千佳子が助け船を出した。
「舌を噛みそうな名前だな」




(次へ)