十三

 女たちは立ったりしゃがんだりして眺めていた。性欲から遠にいるとき、女たちは美しく悲しい。もし彼女たちが生まれ故郷から都会へ出てこないで、田舎人のままだったらどんな人生を送ったろう。確かなことは、都会、田舎、どこにいようと舞台裏は変わらないということだ。働き、男と結びつき、何人か子供を産み、育てる。……男も同じだ。ひたすら働き、女と結びつき、何人か子供を産ませ、育てる。女と多少ちがうのは、町の場末のいきつけのスナックで酒を飲み、そこでわかりもしないことをしゃべり合うことぐらいだ。政治や経済や社会構造について。―そしてだれも実家を出ず、最後にみんな家族に思い出を残して同じように死んでいく。尊い死かどうかは知らない。しかし、人は彼らのように家族の愛情に包まれて孤独でなく死ぬべきだ。孤独は死に近いので、生に近い大勢でいるほうが気持ちに溌溂とした感覚が芽生える。……彼女たちはそうやって死んでいく機会を逃した。哀れだ。私が彼女たちの家族になる。
「今度、店のみんなで野球を観にきて」
 戸惑ったふうにたがいに顔を見合う。主人が私の気持ちを知ってか知らずか、
「店を休みにして、優勝戦に連れてったる」
 主人が言うと、女たちはうれしそうに拍手しながら居間のほうを見た。私は、
「来年の春にはどこかへ花見にいこう」
 女将が、
「名古屋城は芸がないで、少し遠出せんと」
「それも連れてったる」
 トモヨさんに呼ばれて直人は縁を上がった。
「手を洗って。おやつよ」
「はーい」
「さあ、テレビでも観ながらまたゴロゴロするかな」
 横たわってみたものの、おもしろそうなチャンネルはなく、直人と千佳子を誘って散歩に出る。二人で直人の手を引いて牧野小学校の周囲を一回りする。人けもなく車も通らない。アスファルト道の陽射しがきついので、すぐ戻る。もっと散歩したいと直人が玄関でグズるので、菅野に頼んで千佳子といっしょにクラウンに乗せてもらう。
「庄内川へいってみますか」
 直人は千佳子の膝に乗ったり、窓ガラスに貼りついたり、後部座席をいったりきたりして大喜びだ。則武のガードから中央郵便局に出、左折して、名駅通のビル街を走る。
「初めて通る道だ」
「道なりにいくと、環状線の栄生駅に出ます」
「そこを右へいけば八坂荘だね」
「はい、上更の交差点から北へ走ります」
 五、六分で栄生駅。右折して上更に出、枇杷島青果市場を左折して北上する。窓の景色が寂れはじめると、直人はなおさらキャッキャッと声立てて喜びはじめる。庄内川に架かる枇杷島橋に出る。橋を渡らず水べりを走る。分岐路の行き止まりで車を寄せて止め、川面を眺める。直人に、
「庄内川だよ。川を見たことがなかっただろ?」
「うん。おおきなミズだね。このミズはどこからきたの?」
「空から。雲が雨になって」
「クモはどこからきたの?」
「海から。いつか海を見せてあげるね」
「ウミはどこから?」
「おとうちゃんは知らないな。千佳子に訊いてごらん。理科が得意だから」
 千佳子の地学の成績がよかったことを思い出した。直人は千佳子の手をとり、
「チカちゃん、どこから?」
 千佳子はにっこりうなずき、
「ずっとむかし地球が生まれたころ、地球の中から湧いたのよ。火山の爆発で、地球の中の水蒸気と二酸化炭素が外に吐き出されたの。それが雲のもと。地球がだんだん冷えていくと、雲が水になった。それが雨になって降ったのよ。大きな水溜りができた。それが海のもと。山に滲みこんだ水は、流れ出して川になったの」
「わからない」
「わからなくていいの。大きくなったらわかるわ」
 四人車を降りる。直人は私を見上げる。
「大きくなってもわからなくていいよ。好きなことだけわかれば」
「おとうちゃん、あのしろいはなは?」
「ノイバラ」
「きいろいのは?」
「棒のように背の高いのはブタクサ、小っちゃくてかわいらしい桜の花びらのようなのはカワラサイコ」
 菅野が、
「おとうちゃんは何でも知ってるな」
「うん、なんでもしってるナ」
 口まねをする。千佳子が、
「うれしい?」
「うれしい」
 千佳子に手を引かれて車に戻る。私は助手席へ。
「さあ、お家に帰ろう」
「おさんぽ、おわり?」
「いきはね。帰り道もお散歩だぞ」
 川から遠ざかる。氾濫原の森しか見えない。なつかしい名城大学付属高校グラウンドを右手に見て、土手道を下りる。東邦ガスの巨大な二つの球形タンクを左手に見ながらゆっくり戻っていく。日比津公園で車を停め、草野球を眺める。
「やきゅう、やきゅう」
 直人がはしゃぐ。
「やりたいか」
「やりたい」
「帰ったら、牧野公園でやろう」
「あのおにいちゃんたちの、ちっちゃなボールでやりたい」
「もっと大きくなったら、お父ちゃんがちゃんとしたグローブとバットとボールを買って教えてやる」
「うん! おおきくなったら」
 小さな頭をなぜる。菅野が、
「さすが神無月さんの子ですね。まだ二歳なのに、おもちゃのバットとボールじゃいやなんだ」
 青森の花園町のような旧(ふる)い家の並ぶ細道をクネクネ走る。
「まるで迷路だ。こんな脳神経みたいな道をよく記憶してるね」
「何百回も走ってますから。このあたりは日比津の高級住宅街です」
 千佳子が静かに眺めている。
「ひょんなことから千佳子もここにいるね。お父さんお母さんは元気?」
「のんびりやってるみたいです。二人でまじめに働いて。……冬に私が帰るのを楽しみにしてるって手紙がきました」
「……親子か。菅野さんにも両親がいるんだよね」
「はい。浄心のほうで夫婦健在で老後を送ってます。ときどき天神山に遊びにきます。秀樹を猫っかわいがりですよ」
 千佳子が、
「私も浜町の母方の祖父母にかわいがられました。父方は岩手なので、小さいころ遊びにいったきり。たしかどちらももう七十の後半じゃなかったかなあ」
「血は連綿という感じだね。ぼくがその流れをじゃましてる。正常に戻さないと」
 すぐさま菅野が、
「これが正常です。血だけで生きていくのは異常です。神無月さんが偏りをなくしてくれたんですよ。感謝してます。神無月さんが仏心を起こしたら、私たちは異常に逆戻りしてしまいます」
 千佳子が、
「神無月くんが自分の重みを知ることは永遠にないみたい。しっかりつかんで離さないようにしないと」
「同感です。離れず、まとわりつかず」
 二人の言うとおり、血に偏った人生は、嫉妬するほど羨ましい完成形ではない。血に偏れば、大事な他人を疎んじ、人生が未完に終わる。とは言え、下降や上昇を繰り返すことで精いっぱいの他人にすがりつき、すがりつく屈託を生甲斐に暮らすのはいよいよ完成形ではない。……いずれにしても、人生に完成形はない。
 大通りに出る。
「国道200号、本陣通です。きょうの朝走りましたね。右にいけば中村公園、名古屋競輪場です。このまま突っ走りますよ」
 道なりに直進する。アパートの混在する目に馴染んだ家並になる。浅野の家のような二階家も雑じる。菅野は前方を指差し、
「中村小学校です」
「中村高校の四分の一くらいかな」
「これでも小学校としては大きいほうなんですよ」
「中村高校はバカでかい。青森高校の二、三倍ある」
「そんなに!」
 千佳子が驚いた。直人が、そんなに、と口まねをした。広い通りに出て左折。鳥居通の中村日赤前に出る。
「ここまできたか。けっこうな散歩だった」
 声のしなくなった直人を見ると、千佳子の膝に耳をつけて眠っている。
「神無月くんのミニチュアを見てるみたい。神無月くんて、いつまでもこの雰囲気なのよ」
「たしかにそうですね。青年という感じじゃない」
 日赤病院の厳かな姿がビルの隙から仄見える。大きな赤鳥居が見えてきた。
「きょうで七月も終わりか。青森はそろそろねぶただな。名前だけは小さいころから知ってたけど、一度も見たことがなかった。エトランゼの宿命だね。……四年前のいまごろだったかな、小笠原と見にいこうって約束したのは。……結局いかなかったけど。どうしてるかなあ、テルヨシ。春のキャンプで故障したって詩織から聞いたきりだ。早稲田の一年生のころは有望だったのに」
「神無月くんがそう思ってるだけじゃない? 有望だなんて噂聞いたこともないし、ぜんぜん新聞にも載らないわ。故障して終わっちゃったのね」
「終わってない。彼はかならずプロにくる。その前にどうにか故障を治して、社会人野球ででも鍛練を積んでほしい。いや、肩を酷使しないうちにプロにきたほうがいいな」
 菅野が、
「いま早稲田の二年生ですか」
「そう。青森高校出身のピッチャー、小笠原照芳、右の本格派。六大学野球で何度か対戦した」
「ふうん、たしかにその名前を最近チラッと新聞で見た覚えがありますよ。だいじょうぶです、神無月さんが認めた選手ならそのうちかならず出てきます」
「もうだめだとは思えないんですよ。まだボロボロになるほど投げてない。青高でいっしょにプレイしてて、関節はぼくより頑丈だと感じた。少なくとも大きな故障じゃないと思う。故障したとしてもかならず治るという確信があるな。プロの水面まで浮かび上がれる器じゃないと、マスコミは勝手に判断してるみたいだけど、ぼくはそう思わない。小笠原は浜野百三よりボールが速かった。かならず立ち直り、軟投派に切り替えることなんかしないで生き延びられるはずだよ。おそらく無理な投げこみをして、一時的に肩か肘をヤラレたのにちがいないんだ」
「神無月くんがそこまで言うんだから、ほんものなのね。新聞を注意して見ておきます」
「そうして。ぼくの左肘のような奇病じゃない。かならず回復する。ケガをしない基礎体力も才能のうちだというのはまちがってる。才能というのは運動能力のことだよ。テルヨシより長く投げているはずの戸板は、故障もせずにしっかり社会人で活躍してる。そういう関節と腱の頑丈さを持って生まれたラッキーな人はときどきいる。うちの小川さんもその口だし、阪急の米田なんかもそうだね。ただのラッキーだ。才能じゃない。ふつうはぼくのように鍛えてものにするものだ。頑健さに運動能力が加わって初めてしっかり活躍できる。テルヨシもぼくよりは頑健な体質だし、運動能力もある。痛みが出ない程度にまで治して、適度な基礎鍛錬を積めば、これからいくらでも才能で生き延びられる」
 マスコミの判断以前に早々と姿を消した仲間たち―千年小の長崎くん、宮中の本間さん、デブシや関、青高の阿部キャプテン、東大の横平もみな、いまとなってみれば、ただの野球仲間だったということがわかる。彼らは継続の情熱が、いや継続のチャンスがなかった。しかし、すでにこの目で見た才能あるプロ野球人のことを冷静に分析してみて、かつての仲間たちの中にプロ向きの素材がいなかったとは思えない。それなのに彼らは何らかの理由でみずからを見かぎり、プロにならなかった。
 考えても詮ないことだ。太田、水谷則博―プロ野球の同期に二人の知己がいるだけでもじゅうぶんな珍事だし、彼らといっしょのフィールドで野球ができることはそれ以上の珍事だ。喜ばなければならない。それにしても、どこからをプロとして持ち上げ、どこからをアマチュアとして切り捨てるのだろう。いったいプロとは何だろう。高校入試や大学入試の登竜門をくぐっても、入試のプロという冠はもらえないし、入試のアマチュアとも呼ばれない。


         十四 

 常々疑問に思うのは、才能の希薄な二軍選手をプロと呼ぶ理由は何だろうということだ。思うに、ある時期、マスコミの設定した登竜門をくぐったからにちがいない。
 ―マスコミと共存して生きることが、プロの基本なのだ。
 大場や外山たち二軍選手のことを考えると、プロとは単なる〈プロ野球選手〉のことであって、報道される頻度とは関係していないとわかる。かならずしも高給取りのことでもない。プロスポーツとして認(みとめ)印を捺された集団に属し、マスコミに多少なりとも知られることであるようだ。一度報道されたら、生涯にわたってまったく報道されなくてもいい。彼の身分を追究した結果、プロ集団に属していることが証明されるだけでいい。したがって、プロイコール才能ではなく、金でもなければ名誉でもないことは明らかだ。プロイコール、マスコミのかつての覚えだ。プロ歌手、プロゴルファー、プロ棋士、みんなかつてマスコミの認印を捺された人間ばかりだ。マスコミが判子を捺したのは、彼らの価値基準で設定された登竜門を通過したからだ。
 単なる〈プロ野球選手〉とは何だろう。小中高と、私はどんなにホームランを打っても認印を捺されなかった。だから、あのまま途中で野球をやめていたら、私はプロ野球選手になれかった。そうなった場合、彼らは私をどう扱っただろう。どうも扱わなかっただろう。しかし、勧誘を受け、入団の契約をしたとたんにプロ扱いを始めた。その扱いのおかげで私は、大観衆つきで好きなことをして駆け回る場所を得た。プロと呼ばれるようになったからには、もう、私は引退するまで好きなことだけをしながら生きられる。プロプロと囃されて、給料までもらえる。
 いまこそ〈プロ〉の正体が理解できる。幾許(いくばく)でも観客を動員できる可能性のある個人や集団のことだ。それだけでプロと呼ばれるに足る。報酬の多寡は重要ではない。かつがつの賃金でも、もらっていさえすれば体裁は整う。観客を動員し、その様子や結果をマスコミが報道する頻度が高まれば、プロとしての評価も高まる。
 あの人はプロの教師だ、プロの潜水夫だ、プロの料理人だ、プロの医者だ、プロの刀匠だ、などと言う。それは純粋に個人の技能の呼称だ。技能を見守る観客はいない。彼らは自分の技能だけで賃金を得る。そういう個人に対しては、よほど世間の話題にならないかぎり、マスコミも見物に出向いていかない。私はそういう個人的な技能のプロでありたい。自己完成だけが最大の関心事である個人という意味でのプロならば、プロの呼称はありがたく、貴重なものとなる。やたらに自分のことをプロプロと言いたがる輩ほど、自己精進に徹していないものだ。観客に媚びるプロ集団には、そういう人びとが大勢いる。観客を恃(たの)むからだ。真のプロは観客を恃んではならない。
 北村席に帰り着いた。目覚めたばかりの直人は、厨房の母親のもとへ走っていき、たのしかったと伝え、主人夫婦の膝に走り戻る。最後は千佳子の膝に甘える。
「ええとね、ええとね―」
 大きな川の様子、花の名を教えてもらったこと、野球を観たこと、球形タンクや、きれいな家々や、崩れ落ちそうなアパートや、一直線に連なる並木や、道をたくさん走ったことなどを次から次とたどたどしい言葉で際限なくしゃべる。
「そうかそうか、そんなに楽しかったか。よかったなあ」
 カズちゃんが素子や百江たちを引き具して帰ってきた。
「今夜から雨みたい。あした、大阪からの飛行機の移動が心配だわ」
 私は、
「大阪から広島に飛行機は飛んでないよ。名古屋空港から飛んでないのと同じ。広島へいくのは不便なんだ。大阪から在来線でいくしかない」
「そう。たいへんだけど、飛行機でないから少し安心ね。菅野さん、ローバーの試運転どうだった?」
「小型特有のハンドルの固さは少しありますが、駆動性は抜群で、乗り心地のいい車です。蛯名さんも同じことを言ってました」
「じゃ、名大を何往復かすれば慣れるわね。千佳ちゃん、教習がんばってね」
「はい。しっかり腕を磨いてきます」
「それまで私が乗って、二台ともエンジン馴らしとくから」
 トモヨさんが、
「直人、お姉ちゃんたちとお風呂入ってきなさい。上がったらごはんよ」
「はーい。ごはんのあとではみがき」
「そうよ、えらいえらい」
 素子が直人の手を引いて、みんなで風呂へいった。主人が賄いたちにビールを用意させる。
「白川恭介という人から、こんな大封筒が送られてきましたよ」
 私は大きな茶封筒を破り、美装の写真集を取り出した。『天馬(ペガサス)・地を翔ける』。ペガサスが球場へ舞い降りようとしている図柄の表紙だ。定価三千円。高価な本だ。広げる。見開き二ページに、視線を上向け、一塁へ走り出す瞬間の写真がデンとある。写真の脇にエピグラフが書いてある。
『彼は探し求めている。翼の創生前に創られた自分の大地を』
 よく意味がわからないが、響きのいい言葉だ。ページを繰っていく。菅野が覗きこむ。東大野球部に入部した初日から優勝までの対戦大学別の写真、東大球場や部室でのスナップ写真、神宮球場のロッカールームやベンチでのスナップ写真、優勝パレードや祝賀会の写真、プロになってからの球場ごとの写真、あとは部室の壁で見慣れた写真だった。そのすべてに短い書きこみが添えられていた。便箋が一枚挿してあった。
「岩波の意向で一万部刷った。高価であったのに関わらず、予約も含めて発売初日に完売した。現在十万部増刷している。ベストセラーになりそうだ。印税は部費として使わせていただく。全球場へ出かけていくファンクラブの活動は安定した。いつもみんなで見守っている。なおこの本は各新聞社に謹呈した。畏友へ」
 女将が、
「名古屋で出たら、十冊は買わんと」
「もう出とる」
 菅野が主人と私のコップにビールをつぎながら、
「北村席のみんなで買えば、三十冊はいくでしょう」
 賑やかな夕食が始まった。女将とカズちゃんが、アヤメの二階の八畳三室に住みこむメンバーの話をしている。
「女所帯にするのは物騒だから、料理人さんたちに住んでもらうことにしたわ。二人決まった」
「家庭持ちやろ」
「一人は独身、一人はクニが三重県の人。早番や遅番に回ったとき、泊まりがけができるし、一階には大風呂もあるし、泥棒対策にもなって便利なのよ」
 主人が、
「もう一部屋は、蛯名さんの休憩部屋にしたらどうや。立ち寄ってもらったら万全やろ」
 主人がおのずと備え持っている御曹司の雰囲気が好ましい。彼の父親を見たことはないが、政治家でも企業経営者でも、一代目は、たとえ美男子であっても、野心にあふれて脂ぎった、どちらかというと野生的な風貌をしているものだ。それが二代目になると、野生味が削れ、御曹司の雰囲気がただよいはじめる。さらにその子供の代では、品位と知性が加わり、洗練された様子になる。カズちゃんがそれだ。女将が、
「名案やわ。和子から蛯名さんにお願いしてもらお」
 そのカズちゃんが直人を真ん中に風呂から上がってきた。さっそく女将の話を聞いて、
「いいわね」
 と言う。トモヨさんが直人の髪を拭き、服を着せて食卓につかせた。店の女たちが直人の頭を撫ぜ、
「トモヨ奥さんはお雛さまを産んで、女としてちゃんと役目を果たしたがや」
 とか、
「うちらの夢をかなえてくれたようなもんやわ」
 などと空世辞を言い、懸命の笑顔を振りまきながら、彼女たちなりに一心に北村家の意に添おうとしている。それは、貧乏くさい追従ではなく、ビールを添えた夕食を日々与えてもらえることに対する感謝にほかならない。私が見つめているので、彼女たちの一人がビールをつぎにきた。
「ありがとう」
 ムッと血のにおいがした。私は気づかないふりをして、機嫌よくビールを飲み干す。どんな女も繁殖の摂理を背負っているので、そのことに好悪の感懐を抱くのは正当でない。最後は相身、死灰になる。
 とっくに梅雨は上がっているのに、長雨どきのような湿っぽさだ。新しく買い入れた大型扇風機で湿気を吹き飛ばそうとするけれども、シャツといっしょに皮膚にへばりつく汗から逃れられない。カズちゃんがエアコンをつけた。たちまち汗が退いていく。庭に雨が落ちはじめた。主人が、
「きましたね」
「お父さん、きょうは徹底的に唄いましょう」
「ようし! じゃ、丘を越えて」
 千佳子がステージ部屋のスポットライトを点け、カラオケの機械を慎重に操作する。異様に長いマンドリンの前奏が流れる。それがピタと止み、主人が唄いだした。

  丘を越えてゆこよ ますみの空は
  ほンがらかに晴れて 楽しい心
  鳴るは胸の血潮よ 讃えよわが青春(はる)を
  いざゆけ はるか希望の丘を越えて

 手拍子が激しく鳴る。私も愉快になって合わせた。長い間奏。女将に尋く。
「いつごろの歌ですか」
「昭和五、六年。耕三さんのオハコ」
 カズちゃんが笑いながら、
「私も小さいころよく聞かされた」

  丘を越えてゆこよ 小春の空は
  うっららかに澄みて うれしい心
  湧くは胸の泉よ 讃えよわが青春を
  いざ聞け 遠く希望の鐘は鳴るよ

「ブラボー!」
「社長、グー!」
 主人は最敬礼。
「千佳子、夾竹桃の咲く頃、かけて」
「はい」
「千佳ちゃん、ゆっくり食べてて」
 千佳子を制してソテツが飛んでいって、機械をいじる。トランペットの高らかな前奏が始まる。
「こういう象牙色の花です」
 両手で花びらの蕚(うてな)を作って見せる。唄い出す。

  夾竹桃の咲くころに 
  あの人は言った
  どうしてもゆくのかと 
  私はうなずいた
  どうしてもゆくわ
  あれから三年 あれから三年
  

「ヒャー!」
「最高!」
「大統領!」

  夾竹桃の散るころに
  あの人の手紙
  どうしても逢いたいと 
  私は泣きながら
  どうしても逢えないわ 
  あれから三年 あれから三年
  ああ夾竹桃の花は
  花は はるか  

 高らかに抒情的なトランペット。女たちは? 微笑んでいる。幸福そうだ。顔がゆがみはじめている女がいたので、唇にマイクを近づけ、
「今晩は、美空ひばりです」
 とやって笑わせた。

  夾竹桃の花の下
  あの人の噂
  嫁さんをもらったと  
  私は空を見て
  呟いた おめでとう 
  あれから三年 あれから三年
  ああ夾竹桃の花は
  花は はるか

 高らかなトランペットの後奏。カズちゃんと素子が泣いている。まずい。拍手が留守になっている。
「拍手ゥ!」
 お辞儀をして叫ぶと、みんな目覚めたように拍手する。女将が、
「ええ歌やねえ! 初めて聞いたわ」
「三年前の歌です」
「そんな最近! 知らんかった」


         十五 

 菅野がまぶたを拭い、
「次、私がいきます。橋幸夫で、潮来笠!」
 明るい空気が戻ってきた。私はホッとして食卓に戻り、菅野の歌声を聞きながら、ゆっくりイネのおさんどんを受けた。

  田笠の紅緒がちらつくようじゃ
  振り分け荷物重かろに
  わけはきくなと笑ってみせる
  粋な単衣の腕まくり
  なのにヨー
  後ろ髪引く 潮来笠

 ドスの効いた明るい歌声だ。こういう声で唄ってみたい。私の声から悲しみを抜く方法はないものか。たぶんないだろう。少なくともこれからは、哀しい歌は唄わないようにしよう。
「ねえ、カズちゃん、ぼくは悲しくもないのに、なぜ歌声が悲しいんだろう。どうにかできないかな」
「どうにもしなくていいわ。声が悲しいわけじゃないから。透き通った光の槍なのよ。胸の奥に突き刺さるのね。とても気持ちがいいから泣いてしまうの。何を唄っても、どんな唄い方をしてもだめ」
 千佳子が、
「そうよ、神無月くん、何を唄っても同じ」
「キョウちゃんには大きな誤解があるの。自分の悲しい経験が積み重なって声に結晶したんじゃないかって思ってる。それはまちがい。キョウちゃんの声はセンチメンタルじゃないのよ。悲しみも喜びもぜんぶ固めて、大きなダイヤモンドにして喉に埋めこんだ神秘的な声なの。十歳のころ、お風呂場でキョウちゃんが唄っているのを聴いて泣いたことがあったって言ったでしょう? あれからもキョウちゃんは、うんとつらくて悲しい思いをしたけど、歌声は同じだったわ。生まれつきの声。それだけのこと。だいじょうぶよ、みんな嫌がってないから。うれしくて仕方ないの。うれし涙よ」
 素子が、
「ほんとにもう! 嫌がるはずないがね。悲しくて泣いとるんとちがうよ。こんな不思議な声聴けて極楽やわ。心をイカせてもらっとるようなもんやわ。菅ちゃんの声聴いてみい。だれもイカんよ」
 女たちがケラケラ笑った。主人が手を叩いて笑った。菅野もまいったという顔で、声を高めて笑った。千佳子が、
「ほんとにそうなのよ、神無月くん。これからもたくさん歌声を聴かせてね。涙ならいくらでも溜めてあるから」
 イネが、
「めしすませたすけ、離れさいって寝るじゃ。みなさん、お休みなさい」
「お休み」
 イネが去ると、
「離れ?」
 ソテツが、
「奥さんの隣部屋で寝るんです。入院まで、私と一日交代です」
 女将が、
「いつ産気づくかわからんもんでね」
 菅野がステージから戻ってくると、賄いたちが食卓についた。主人が立ってステージにいった。私は菅野のコップにビールをついだ。
「すばらしかったです」
「いやあ、多少は聴いてもらえる声を出せるようになりました」
 うまそうにコップを傾ける。
         †
 八月一日金曜日。六時起床。アルコールが快適に効いたせいで八時間熟睡した。曇。二十三・四度。きょうから八月だ。明石キャンプ初日からちょうど半年経った。ふつうの排便。うれしい。耳鳴りかすかに聞こえる程度。うれしい。一階に降り、全身にシャボンを立てて、ゆっくりシャワーを浴びる。
 広島遠征の日。この先数日分の電気シェーバーをあてておく。多少チリチリと剃り音がするようになったのがほんとうにうれしい。腋毛も心なしか本数が増えたように感じる。脛毛はいっさい生えない。永遠に生えてこないだろう。丁寧に手と足の爪を切る。耳掃除。右耳の垢がネットリと綿棒につく。台所で音がしはじめる。キッチンテーブルにつくと、メイ子がコーヒーをいれる。
「きょうはホンジュラスです。深煎りで甘いコーヒー」
「うん―サントスに似てる」
 カズちゃんが、
「名古屋から広島を往復するのがいちばんたいへんね。小牧から広島まで飛行機が飛んでないなんて知らなかったわ」
「考えたら、四月以来、この経路で移動するのはまだ三度目なんだ。新幹線と在来線を乗り継いで七時間。いや、八時間だったかな。でも江藤さんたちといっしょの旅だから、ちっとも退屈しないよ。先回は本を持っていったけど、今回は手ぶらでいく」
「持っていって。夜はきっと退屈するから。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を買っといたわ。くだらないものでもいいの。いつも何かを感じてないと」
「庄司薫? 聞いたことないな。でも読んでみる。たしかに現実以外の何かを感じてないと、現実に密着して生きるしかなくなるものね。現実は大切なことだけど、それしかないというのはね。小説家はぼくたちの外側に立ちながら、事実と真実をこね合わせて人生を描く。ぼくたちの人生はいくつもの事実と真実からできているので、しっかりとした形がない。だから小説家は柔らかく加工できる。どんな形にもできるし、どんな色に塗ることもできる。現実らしさなど問題じゃない。作られた人生こそ、小説家にとっての真実なんだ。……それは現実じゃない。でも、考えるという人間の大切な営みのきっかけになる。広島に荷物は送った?」
「だいじょうぶよ。ソテツちゃんが一手に引き受けてるわ。百江さん直伝」
「いままで一度も手落ちがなかったんだから、すごいよなあ」
「神経を張りつめてるから」
 食事の仕度をし終え、両脇に座った二人の尻に手を添える。弾力があって温かい。
「したいの?」
「うん。優勝まで禁欲しようかなって、殊勝な気持ちになってたんだけど、勃っちゃった」
「禁欲の雰囲気、におってたわよ。みんなキョウちゃんのからだを気遣ってるから、雰囲気に呑まれてちゃってたけど。おとうさんも、もうすっかりハブ酒を勧めなくなったし」
「よほど疲れてるとき以外、あれは必要ないものだね。菅野さん、重宝してるかな」
「五十過ぎからじゃない? 精力剤が必要になるのは」
「しよう」
「しましょ。したくなったものを無理に抑えつけるのは、からだによくないわ。からだが求めるならそうしないと。メイ子ちゃん、みんなには内緒よ」
「はい。もう四日もしてないんですから、したくなるのはあたりまえです」
「二十五日からの大洋三連戦の禁欲は、二十八日に帰ってきてすぐ解いた。あれが四日ぶりだった。それからまた四日か。ぼくはだいたいその周期なんだね」
 メイ子はそっと私のものをジャージの上から握って、
「コチコチになってます。女とちがって、男はこんなふうに表にはっきり出てしまうんですね。特に神無月さんは溜まってくると自然とこうなるので、人前で恥ずかしい思いをしないように、私たちでできるだけのことをしておかないと」
「そうね、いっしょに暮らしてる意味がないわね」
 メイ子が私のジャージとパンツを脱がせ、椅子に座らせたまま一物を含んで湿らせる。カズちゃんが下着を取ると、私に向き合うように跨って腰を下ろす。口を吸う。その隙にメイ子も下着を取る。
「ああ、気持ちいい……」
 カズちゃんは数回ゆっくり腰を上下させ、
「あああ、キョウちゃん、愛してる、イク!」
 抱きつき、全身を硬直させる。五本の指で順に締めつけるように襞がうねる。自分の痙攣が刺激になって、連続のアクメが始まる。メイ子は頃合を見計らってカズちゃんを抱え上げ、隣の椅子に座らせる。カズちゃんはテーブルに突っ伏して痙攣をつづける。メイ子が跨ってくる。貪るように口づけをする。
「好きです、好きです」
 アクメに備えて膣が緊縛しはじめる。突いてやる。会わせるようにメイ子の腰が上下する。緊縛と摩擦が激しくに、私にも迫る。
「あ、神無月さん、だめ、お嬢さんに、お嬢さんに、あああ、出しちゃった、いただきますゥ、ごめんなさい! ウウ、イクウウ!」
 離れないように尻を抱える。カズちゃんが顔を挙げ、とろりとした表情で、硬直しつづけるメイ子の背中をさすってやる。メイ子は私の首にかじりついて、痙攣を止めない。カズちゃんがようやく背筋を伸ばし、
「よかった、これで四、五日安心ね。野球に集中できるでしょう」
 メイ子の背中をさすりながら、私にキスをした。
「とつぜんしたくなっても、そのへんの女ですましちゃだめよ。どんな病気を持ってるかわからないから」
「うん、そんなことしない」
 ようやく私から離れたメイ子が股間をティシュで拭いながら、私の顔をじっと見つめる。
「神無月さんは何をするにも自然で、それでいてヒンヤリした何かを抱えてます」
 カズちゃんは私のものを口で浄め終えると、
「メイ子ちゃんはそれを感じるのね。キョウちゃんといっしょに死がすぐそこにあると感じながら生きてないと、そのヒンヤリしたものは感じられないのよ。キョウちゃんにとって死なんてものは、すぐそばにポカンと口を開けてるめずらしくもない風景なの。その入り口へいくまでこちら側にいるのは、好きな人とほんのしばらくのあいだ関わるためで、キョウちゃんはそれをじゅうぶん楽しんで引き延ばしてる。セックスもその一つ。私たちも同じ気持ちにならなくちゃね。そういう私たちと暮らしていれば、キョウちゃんはぜったい死の口に近づかないわ」
「はい」
 私が深い諦念に冒された人間に見誤られるのは、私がものをしゃべるとき、まるで自分が日常生活から超然と離れた人物であるような印象を与えるからにちがいない。私は自分が私以外の人にとって取るに足らぬ人間であると幼いころから心得てきた。私のような人間がこの世に存在しようとしまいと、世の中は何の変化も起こさないと心得てきた。だからその反動で超然と振舞ってきたような気がする。彼らには私の能力のどれかについて重要だと思えることがあるかもしれないが、それはその能力の一つにたまたま話題が集まったとき、たとえば野球とか、文章とか、歌とか、その話題の完遂のために私の存在が重要に思えるからにすぎない。私が確信していることはただ一つ、私について彼らが確信を持てることはまったくないということだ。
 しかし、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、野球をしたり、書いたり、唄ったりすることは私にとってまぎれもない喜びなのだ。大きなホームランを打ちたい、心にかかる人びとのことを書き留めておきたい、自分の歌声を聴きたい。それだけのことだ。打ち、書き、唄う私は、自分も同じことをして喜びたい人びととの総和になる。少なくともふだん感じていなかった喜びを彼らに感じさせる〈作り物〉の提供者になる。
「ほら、また何か考えてる」
「ほんとですね」
「こうやって私たちのそばでグズグズしてくれてるの。ゆっくり成長する赤ちゃんと同じくらい自然。いつも育っていく子供を見守るようにキョウちゃんを眺めることよ。心がノンストップで成長していくから見逃せないわ。育ち切っちゃったところもあるけど」
「はい、フフ……」
 三人身仕舞いを整え、朝食にとりかかる。きょうもステーキ。ウースターソースの味つけが絶妙だ。丸干しも香ばしい。ワカメたっぷりの味噌汁もうまい。好物の黄色い東京たくあん。めしは一膳。
「じゃ、気をつけていってらっしゃい」
「いってらっしゃいませ」
「うん、じゃ四日に」
 二人が出かけるのといれちがいにやってきた菅野とランニングに出る。大鳥居まで。雲の厚い空。すぐにも雨がくる気配だ。
「こつこつファンレター読んでるんですよ」
「どんなことが書いてあるの」
「何も書いてないのといっしょです。ハガキや封筒、切手の同封はゼロです。誤字脱字はあたりまえ。代表的な文面は―いつも神無月選手を応援してます、神無月さんのホームランを見て、勇気が出てがんばろうという気持ちになりました」
「えらく抽象的だね。返事の出しようがない。汚い野次はガッカリするけど、応援や激励はうれしい。恩返しはあくまでもプレーそのものだね」
「はい、返事をくださいなんてのは、もってのほかです」
 帰り道で粘っこい霧雨がきた。帰りついて、北村席でもう一度シャワー。


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