二十二

 次打者が江藤なので走らないのがセオリーだ。しかし初球、真ん中ストレートの見逃し方を見て、盗塁を待っていると踏み、二球目にみごとなスタートで二塁を盗んだ。ツーボール。江藤の美しい立ち姿。オープンに踏み出し、ボールも潰れよとばかり叩きつけるイメージが浮かぶ。
 ネクストバッターズサークルにいる私の背中に、ファンが静かに声を投げる。スタンドとの距離がひどく近いので、話しかけるように小さい声だ。広島球場は三塁スタンドもほとんど広島ファンだ。中日の攻撃でシャモジを鳴らしたり鉦太鼓を打つ連中はほんの一握りしかいない。
「神無月、おまえ、遠慮ゆう言葉を知らんのか」
 無視。女二人の便乗する声。
「そうよ、そうよ」
「ほうじゃねえ、嫌いじゃ」
 野次というより、話しかけられている感覚だ。無視。いつか葛城が、野球選手は野次られなければ一流でないと言ったことがあった。
 三球目、内角から落ちてくるかなりスピードの乗ったカーブ。江藤はまさに私のイメージどおりのスイングでひっぱたいた。打った瞬間にボールが豆粒になった。遮光板に音立ててぶつかった。ファンファーレ。線審田中が告げるまでもないといったふうにゆるく腕を回す。山内の背番号8が遮光板を見上げている。おそらく広島球場始まって以来の大ホームランなのだろう。水原監督の尻ポーン。ベンチがワッショイ状態になる。
「江藤選手、第四十三号のホームランでございます」
 三対ゼロ。衣笠がマウンドに駆け寄り、外木場に声をかける。外木場は私のきょうのバッティング練習を見ている。外角は投げてこない。内角の高低だけで打ち取ろうとするだろう。この半年で、私は低目が非常に得意なバッターだという定評が浸透している。フォアボール覚悟の内角高目攻めになる。デッドボールの危険もあるが、そんなことにビクビクしていられない。
 バッターボックスで足場を均しているとき、いつもとちがって場内が静まった。背筋に冷気が走った。百パーセントの成功を期待するときの静寂だ。味方ベンチからも声が飛んでこない。初球、浮き上がるストレートが、胸もとではなく、ヘルメットにきた。スッとしゃがむ。キャッチャーの久保が、ヒャッと声を上げて伸び上がるように捕球した。
「コラー!」
 水原監督がマウンドの外木場向かって口ラッパを作って叫んだ。一瞬駆け寄ろうとしたが、サードの朝井が胸を突き出して止めた。お約束どおり両ベンチが色めき立つ。松橋のマスクを見ると、大きく目を見開いている。私は松橋に笑いかけ、水原監督と三塁ベンチに向かって高くバットを掲げた。スタンドの喚声が静まる。毎度のことだ。私は何ごともなかったように二度素振りをした。木俣がネクストバッターズサークルから走ってきて、松橋に、
「もう一球同じようなボールがきたら、何らかの判断をしてください」
 ひとこと強く言って走り戻った。私は、
「松橋さん、何も判断しなくていいです。これは勝負ですから。作戦の一環です」
 キャッチャーの久保は、すんません、と呟き、外木場はマウンドで帽子を取った。
 腰を引かせるためのあたりまえの投球だ。デッドボールの危険を冒さない内角球はスラッガーの餌食になる。すっぽ抜けないかぎりもう頭には投げてこない。真ん中か内角の高目で打ち取りを狙う。
 二球目、真ん中、顔の高さの速球。私は思い切り空振りした。敬遠されたくなかったからだ。ワンストライクでも与えておく。私の空振りはめずらしい。喚声がフィールドを満たす。久保がマウンドに駆け寄り、何かを言ってすぐ戻った。
 三球目、外角高目のシュート。空振り。
「口惜しかったら打ってみろよ! 六割バッター」
「どうせ打てんじゃろう!」
「慈善家ぶんなや!」
 ワーワーという喚声がつづく。振り返ると、野次のやってきた一塁ベンチ中段に神無月選手ありがとうの横断幕が掲げられている。ツーワン。このカウントならピッチャーは勝負する気になる。ふたたび場内が静まった。久保が私の空振りを〈ほんもの〉と取るかどうか。次に投げるボールのコースはそれにかかっている。たぶんマウンドに駆け寄った久保は空振りをフェイクと取っている。それなら勝負球は最初の作戦に戻る。胸もとの速球かカーブだ。サインが長くなった。外木場がうなずき、四球目を投げた。外角低目のカーブ、ショートバウンド。ツーツー。次はまちがいなく内角高目だ。
 外木場が振りかぶると、私はボックスの先端へにじり出た。五球目、胸の高さへ速いスライダーがきた。真ん中ストレートの感覚で押しかぶせて叩く。心地よく芯を食った。ウワッ! と歓声が上がる。内外野、だれも一歩も動いていない。打球は低い弾道でライトスタンド上段の看板にぶち当たった。
 ―よし、看板だ。新庄みそ。賞品と賞金が出る。
 森下コーチとタッチ。衣笠の、
「ビューティフル、神無月くん」
 という小さな称賛の声。ありがとう、と応えた。ファンファーレ。水原監督が両手を広げて待っている。さっきの朝井のようにドンと胸をぶつけて抱き合う。三塁スタンドの大拍手。花道で何人もの腕に抱き締められる。江藤の力がすごい。フラッシュの瞬き。
「神無月選手、百七号ホームランでございます。江藤選手、神無月選手、今シーズン三十四本目のアベックホームランでございます。なお、これまでのアベックホームランの記録は昨年度の王選手と長嶋選手の十四本でございました」
 半田コーチが、
「飲み物品切れね。バヤリースは五日の中日球場の巨人戦からよ」
「了解!」
 タオルを濡らして絞り、顔を拭う。四対ゼロ。
「達ちゃん、店仕舞いするな!」
 内角ストレートにゆるい空振りをした木俣へ田宮コーチの怒声。二球目、外角低目のパワーカーブ。火を吹くような当たりが外木場の足もとを襲った。いびつに弾んでセンター前へ抜けていく。広島市民球場のピッチャースマウンドはものすごく掘れている。ほかの球場も多少は掘れているが、広島球場は特別だ。バッターボックスも同じで、キャッチャーにいちばん近い部分は軸足が埋まるほど深く掘れている。ボックスの前方に足を据える私には影響ない。
 たまらずピッチャー交代。大石弥太郎。すべてのスタンドから外木場へ惜しみない拍手が送られる。
 菱川、タコ踊り大石の初球をレフト前へこれまた火の出るような当たり。攻撃が長引きそうだ。長谷川コーチの声。
「肩をあっためとけ」
 門岡が伊藤久敏といっしょにブルペンへ出て、投球練習を始める。太田の初球、なんと木俣が三盗! 久保あわてて送球。ショートバウンド。セーフ。大歓声。宇野ヘッドコーチの大声。
「達ちゃん、ナイス!」
 広島ファンの野次。
「ブタ、走ったらあかんやろ! 盗塁のサイン出たんか!」
「久保、しっかり投げんかい!」
 負けても負けても野次を飛ばしにくるファンは貴重だ。ノーアウト一、三塁。太田、期待に応えて右中間深く打ち返す。木俣生還、菱川も長駆生還。ふんぞり返って走る足の遅い太田は二塁止まり。六対ゼロ。ノーアウト二塁。一枝、ワンスリーからレフト線を痛烈に破る二塁打。太田躍り上がって生還。七対ゼロ。門岡三振。ようやくワンアウト。中三振。店仕舞いのようだ。高木見逃し三振。追いつかれるまで小休止。
 門岡はスライダーとフォークが冴えわたり、七回まで被安打四、三振七、フォアボール三、失点二に抑えた。二点の内わけは、二回に衣笠のバックスクリーンへの十号ソロ、七回に衣笠を二塁に置いて、久保の代打宮川にライト前へ打たれた適時打だった。八、九回と小川が後始末を買って出て、六人で抑えた。
 中日は二回から出てきた安仁屋をぼちぼち打って、九回まで打者二十八人、六安打で三点を取った。三振は私を除いた全選手均等に七つ喫した。フォアボールは三個、高木と中と一枝だった。私は右中間二塁打一本、シングルヒットを二本打ち、二盗塁した。二塁打で江藤を置いて打点一を挙げた。私以外の二打点は、八回に門岡の代打で出た江島が一枝を一塁に置いて放った二号ツーランだった。一回以外はふつうの試合運びになったが、江島のツーランホームランがその印象を引き締まったものにした。
 びっくりしたことがあった。二回に右中間の二塁打で江藤を還して塁上に立ったとき、思わぬ場内放送があった。
「神無月選手はこのヒットをもちまして、シーズン安打が百九十二本となり、昭和二十五年に阪神藤村富美男選手が作りましたシーズン百九十一本の記録を破って、日本新記録を樹立いたしました。盛大な拍手で祝福くださいませ。神無月選手、おめでとうございました」
 球場内が割れんばかりの拍手で満たされた。私は四方のスタンドに手を振った。
 十対二で勝利。試合後、場内放送に促されてホームプレート前にボンヤリ立つと、広島ベンチ脇の通路から大皿と花束を持った振袖姿の女が出てきて、おめでとうございますと言いながら、祝192安打とレリーフが施された花柄のガラス皿と、胸に余る花束を差し出した。辞儀をして受け取った。すさまじい大歓声が巻き起こる。走ってきた足木マネージャーに引き渡す。さらに、広島市長の山田節男という男からシーズン安打記録の記念楯と賞状を授与された。種々の義捐行為に関してと銘打って、ごもごもと謝辞を述べられた。私はわけもわからず彼と握手した。それから、四方のスタンドに帽子を振りながら足木マネージャーといっしょにベンチに走り戻った。同僚たちの暖かい拍手に迎えられる。
 インタビューは、決勝ホームランを打った江藤と、二勝目を挙げた門岡だった。門岡はボロボロ泣いた。星野秀孝がもらい泣きをしていた。
         †
 帰館後、小川たちピッチャー陣がその門岡を連れて飲みに出た。私と菱川と太田は江藤といっしょにだるま寿司へいった。酒は飲まなかった。
「百九十二安打、おめでとう。ポカンとしとったな」
「はあ、ホームランじゃなくヒットの本数の価値というのがよくわからなくて」
「ハハハハ、たしかにそうたいね」
 きょうの囁くような野次の話をすると、客の一人が、
「憎いわけじゃないんじゃ。大声で言わんかったのがその証拠じゃ。多少は中日ファンがいるけぇな」
「はあ、ときどきシャモジで応援する人たちがいますね」
「一塁側にいったら袋叩きじゃ」
 遮光板に当てたのは江藤が初めてだという話題が店主から出た。
「百五十メートルは飛んだじゃろう」
「何メートル飛んでも、人間の距離たい。百八十メートル飛んでも自慢せん男がここにおる。それよりあの賞金と賞品は似島の養護学校に送ることになっとるばい。金太郎さんの高い志を見習わんば」 似島と原爆の話が、常連客たちも交えてしばらくつづいた。地元民にとって原爆の話の種は、永遠に尽きないようだった。被爆者として、濃人や張本の名前も出た。ヨイトマケの丸山明宏は長崎で被爆したということだった。私は、
「張本さんは広島で育ったんですか」
 客の一人が標準語で、
「家族が朝鮮から引き揚げてきてから、広島で生まれたんですよ」
 右手の黒革の手袋のことは訊かなかった。問わなくてもその客が語った。
「四歳のときに焚き火に転げて右手をやられてね、神無月さんも左利きを右利きに替えたでしょ。彼は右利きを左利きに替えたんです」
 余儀なくではないが江夏と同じだ。
「朝鮮戦争のときに飛んできた爆弾の破片で、右手の小指を吹き飛ばされたんじゃないんですか。そんなふうな雑誌記事を読んだことがありますが」
「朝鮮戦争は昭和二十五年でしょう。張本が広島で生まれたのは昭和十五年ですよ」
「なんだ、デマか」
 菱川が、
「舟木一夫が風呂屋でスカウトされたというのも大デマらしいですからね。いやあ、張本さん、右から左に替えたのか。江夏と同じだ」
 私は、
「尾崎はぼくと同じように左利きを右利きに替えた。けっこう似たような境遇の人がいるんですね」
 尾崎も余儀なくではない。太田が、
「みんな大選手になってるのがすごいな。張本さんは被爆したのにどうして助かったんですか」
 ほかの客が、
「段原に住んどったけ。比治山の陰になっとるもんで、熱線がこんかった。爆風で家は壊れたそうやが」
 江藤が、
「浪商の二年のとき、水原監督がピッチャーで巨人にこいとスカウトにいっとる。兄貴が高校だけは出とけてきびしく言ったけん、断った。そのすぐあとで肩ば壊して、バッターに転向ばい。うまくできとる。ついとらんのは、野球部の不祥事で一度も甲子園に出られんかったこったい。三年のとき、ついにセンバツに出場が決まったばってん、チームの暴力事件が発覚してオジャンになった。ハリさんは首謀者の濡れ衣を着せられたげな。監督が朝鮮人を好かんかったからやて」
 張本という男はみんなから関心を持たれ、愛されている男だとわかった。王と親友だという話も出て、さもありなんと思った。太田が、
「江藤さんの闘魂というサインは、もともと張本さんのものだったんですよね」
「力道山が使っとったサインばハリさんが好きで、何度か使ってみたばってん、野球に合わんて思ってやめたっちゃん。それば俺がもろうた。ところで金太郎さん、水原さんは東映の監督ばしとったころ、ハリさんや尾崎といっしょにヤクザ映画に出とる。貧しか環境の中で暮らす子供たちに野球ば教えるゆう役や」
 菱川が、
「観ました。『地獄の野良犬』という映画です。ヤクザに牛耳られる港町が舞台でした」
「水原監督は、金太郎さんに遇って以来、どんな映画の話も断っとる。ドキュメンタリーならご自由にと言ってな。ワシらも駆り出されんですむけん、ありがたか」
「小野さんみたいに女優と知り合うチャンスを失いますよ」
「くだらん。小野さんもワシも腹いっぱいたい。そぎゃんものに惑わされんほうが、野球に打ちこめるっち。さ、チラシ食ったら帰るばい」


         二十三

 深夜を回って、勢子がそっと入ってきた。
「穿かないできました」
 口づけをしながら私を蒲団に押し倒す。私は逆に彼女を押し倒して、スカートを腹までまくって、脚をあぐらの形に広げる。命の神秘を感じながら、蝶の形の小陰唇を交互に吸い、慎ましく包皮の奥で光っている陰核を舌先で押し回す。勢子はあえぎながら、上着を畳に脱ぎ捨てた。大きな胸を揉みながら、陰茎の腹でクリトリスをこする。十秒もしてブルンと達した。達したばかりの性器を眺める。膣口が出たり入ったりし、蝶の小陰唇がアワビのようにうごめいている。神秘だ。亀頭を膣口に当てて二センチほど挿入すると、襞が愛撫を始める。勢子は腰を突き出して奥深く飲みこんだ。トシさんそっくりの動きが始まる。ヤスリが微妙に緊縛し、亀頭を集中的にこする。私も合わせてやる。
「ク! 気持ちいい! イク!」
 シーツを空しくつかみながら、無意識の前後運動をつづける。私はがまんできなくなってきた。
「勢子、イクよ!」
「ククウ、死ぬ、イッック!」
 私は律動を三度、四度とする。勢子は歯を食いしばり、目を固くとじて何度も達しつづける。離れないかぎり、アクメをやめない。私はティシュを門渡に当て、ヤスリにこすりつけるように強く引き抜いた。
「あああ、イクイク、イク! あ、あ、イック!」
 勢子はうめいて、腹をバウンドさせる。大きく弾み、小さく縮む。何度もそれを繰り返す。腹に触ると石になったり綿になったりする筋肉を確かめることができた。痙攣が間歇的になり、ようやく最後の引き攣りがやむ。とろんとした顔にキスをする。二重まぶたのせいでするどさのない柔和な表情に見える。
「……どこかにいってしまいました。……ありがとうございます」
「今夜は、このまま目覚めるまで抱き合っていようね」
「はい。明け方にお暇します。ああ、愛してます」
 しがみついて唇を求める。柔らかくなった腹をさすりながら強く吸い返す。
「十月四日まで逢えないよ。明け方にもう一回しようね」
「はい、ありがとうございます」
 濡れた陰茎を勢子の腹に押しつけたまま眠った。
 四時間ほど熟睡して目覚めた。勃起していたので、勢子に押しかぶさり、乳首を吸いながら交わった。勢子は烈しいオーガズムのせいで数分のあいだ喪心した。意識を失いながらも、からだだけは引き攣らせつづけた。回復にかなりの時間がかかった。
 二人で風呂に入った。勢子は私のからだに石鹸を塗りながら、
「こんな幸せ、また二カ月後にやってくるんでしょうか」
「辛抱すれば、どんな幸せだってやってくるよ」
「……たまたまあの場にいて幸運でした。人生が百八十度変わってしまいました」
「最初のとき?」
「はい」
「よく受け入れてくれたね。常識知らずだった」
「……常識知らずになってくれて、ありがとうございました。神無月さんはあまりにも純真で真っ正直なので、常識のないことを言ってるように見えませんでしたし、私にしても自分が常識をなくしているように感じなかったんです。似島でもそう思いました。ホームランの懸賞の話は、よく考えると、ひどく常識外れの話だとわかるんですけど、神無月さんの口から言われると、お受けして当然という感じになります。島の主婦たちがそうでした。ビールやお酒は私たちがいただきますなんて冗談まで言って」
 勢子は私にあぐらをかかせて頭髪を丁寧に洗い、シャワーでシャボンを流した。
「大きな人に包まれて、ほんとに幸せです」
 からだを拭い合うとき、勢子の黒い小陰唇がクレパスから愛らしくはみ出ているのが見えた。
 口づけをし、薄っすらと陽の射す廊下へ送り出した。人けのない廊下を二度も三度も振り返りながら勢子は帰っていった。私はもう一度寝にかかった。
         †
 八時に目覚めた。頭がスッキリしている。日曜日、ダブルヘッダーの日だ。
 うがいをし、歯を磨き、下痢をしてから、シャワーを浴びる。ジャージに部屋履きのスリッパでロビーへ降りる。早めに食事をすましたチームメイトたちが、竹簾(す)を下ろした窓辺のテーブルやソファでくつろいでいる。手を挙げ合って挨拶する。フロントで爪切りを借りて部屋に戻り、手と足の爪を切る。大して伸びていないが、念入りに切る。爪切りを返しにもう一度ロビーに降りると、ちょうど私に電話がかかったようで、フロントの受話器に呼ばれた。カズちゃんからだった。
「あ、キョウちゃん、おはよう。いまからトモヨさん、入院の準備。すべて順調よ。私たちがついていくから心配しないでね。千佳ちゃんたちはきょうで定期試験終わり。あしたみんなで待ってます。夕方になるわね」
「そうだね。帰ったら、ゴロゴロするよ」
「付き合うわ。みんなでノンビリしましょう」
「うん。楽しみだ。じゃ、くれぐれもトモヨさんをお願い。節ちゃんやキクエにお礼をよろしく」
「了解」 
 熟睡してサッパリした顔で一枝や小野たちが新聞を読んでいる。

    中だ! 江藤だ! 神無月だ!

 という見出しが見えた。小宴会場へいく。修学旅行のように明るくざわめいている。高木と中のいるテーブルに坐る。監督たちに近い端の席だった。足木と池藤もいた。
「おはようございます」
 水原監督が、
「おはよう。すごい反響だよ。似島学園からすぐ中国新聞に連絡がいったようでね、きょうはそれがトップ記事だ。江藤くんのことも追記で書いてある。いいことをしたね。広島ではこれで二度目の善行だ」
「お騒がせして、すみません」
 コーチ陣が大声で笑った。足木が、
「ファンレター半年分、千通にもなりましたんで、先日北村席のほうへ送っておきました。甲乙つけがたい熱い手紙が多くて、選び切れないんですよ」
 中が、
「半年でたった千通?」
 私は、
「学校の教室が五十人のことを考えれば、それでもたっぷりですよ。菅野さんにぼちぼち読んでもらってます。目ぼしいものがあったら、報告をくれるでしょう」
 水原監督が高木に、
「高木くんはどうしてるの?」
「女房に読ませて、その中から……。基本的には返事を書きません。時間がないし、ベーブ・ルースと病気の少年みたいなドラマチックなことは、まず起こり得ないんで」
「そうだよね。その代わりに、ファン感謝デーといったものを設けてるわけだから」
         †
 グローブ、スパイク、眼鏡。すべて新しいものに替える。耳鳴りがしている。どんなことにも飽きてはいけない。明るい気持ちで。
 薄曇。三十二・八度。私がノースリーブをやめたせいで、チーム全員が黒の半袖アンダーシャツを着ている。対広島十七、十八回戦。ダブルヘッダー。少年のころの高揚。ときを遡り、少年の気持ちになること。あのスタンドにも、このスタンドにもあのころの私がいる。
 二時、十七回戦プレイボール。猛暑。広島の先発は、左腕のオーバースロー、フラミンゴ大羽進。十一年目、二十九歳。巨人キラー。ということは、王キラー。彼との対戦はこれまで、開幕戦でレフト線二塁打、二戦目にスコアボードの右下に当てた八号ホームラン。五月十八日セカンドゴロ、六月一日四打数二安打、計七打数四安打。ときおり混ぜるスローカーブがクセモノだ。王はストレートとフォークで打ち取られている。
 烈しい陽射しが照りつける。あまりの暑さにベンチの気勢が上がらない。からだに力が入らないのだ。水原監督はベンチに退避しないで、コーチャーズボックスに立ちつづけている。
 大羽のスローカーブとフォークにタイミングを狂わされて、六回表まで二点に抑えられた。江藤凡打一、ヒット一、私も凡打一、ヒット一。いずれもランナーなしの散発で点には結びつかなかった。二点の内わけは、二回表、先頭打者の菱川がレフト前ヒットで出塁すると、太田の代わりに先発で出場した伊藤竜彦がライト前ヒットで菱川を進塁させ、これをピッチャーの若生がセンター前ヒットで返した。五回表にもまったく同じことが起こり、菱川ヒット、伊藤竜ヒット、若生ヒットで一点。不思議なリフレインで二回と五回に一点ずつ取った。観る分にはおもしろいかもしれないが、ベンチはちっともおもしろくなく、負け気分でいた。
 若生は無失点のまま責任回数の五回まで投げ終えた時点では、このままいけるかと思ったが、完投経験のない彼は六回に入ってとつぜん崩れた。九番の今津にライト前へ打たれ、つづく古葉を詰まったショートライナーに打ち取ったものの、井上センター前ヒット、ワンアウト一、二塁から山内センター前ヒット、今津生還。ふたたびワンアウト一、二塁から山本一義センター前ヒット、井上生還、三連打を浴び二点取られて同点になった。防御率五点台のピッチャーの脆さを目の当たりに見た。水原監督は冷静な表情で若生を引っこめ、急遽左の速球派伊藤久敏を出した。みたびワンアウト一、二塁から、衣笠のライト前ヒットで一点、都合三点取られた。ワンアウト一塁、三塁になったところで、水原監督はさすがに不機嫌になって土屋にスイッチ。土屋は朝井をセカンドゴロゲッツーに打ち取って後続を抑えた。
 広島は七、八回を西本、九回をきのうにつづいて連投の安仁屋につないで、中日を無得点に抑えた。リリーフピッチャーに〈上がり〉の不文律は適用されない。リリーフ専門になるとピッチャーはボロボロになる。
 私は西本にセカンドゴロに打ち取られ、安仁屋からはレフト前にヒットを打った。三回の大羽、九回の安仁屋と、ヒットで出るたびに盗塁を成功させたが、後続が凡打して空しく残塁した。土屋は七、八回、打者八人を散発二安打、無得点に抑えた。味方の援護はなかった。
 二対三のαゲームで敗北。伊藤久敏に負けがついた。大量点をひっくり返されたわけではないので、選手たちのショックはなかった。九敗目を喫したが、水原監督は土屋を大いに讃えて、巨人戦から水谷則博とともにローテーションに組みこむと約束した。
         †
 五時、十八回戦開始。微風が吹きはじめる。仲間たちの顔に活力が戻った。かすかに西日がブラインドの隙間から射しこんでくる。えも言えない趣がある。
 先発は広島カープ眼鏡の白石、ここまで五勝六敗。中日ドラゴンズ水谷則博、ここまで一勝零敗。水原監督のこだわりだろう。継投をもう一度伊藤久敏に命じた。第一試合の憂さを伊藤の心に残したくないのだ。私たちは緊張した。則博を勝ち投手にして、伊藤に救援投手の手柄を立てさせなければならない。
 初回、中、彼らしくなく見逃し三振。高木、彼らしくなく遅打ちしてサードゴロ。緊張感が裏目に出る。江藤、かろうじて高いバウンドで三遊間を抜けるヒット。私、高目のカーブを気負って打ちにいきセカンドゴロ、江藤二封。チェンジ。シーズン初の私の封殺打のせいでベンチに暗雲がただよい、沈鬱な滑り出しになった。
 連勝を期して打順を入れ替えてきた広島は、第一試合の勢いのまま水谷則博に襲いかかる。今津ファーストゴロのあと、山本浩司右中間二塁打、衣笠左中間二塁打、山本一義ライト前ヒットと畳みかけてきた。二点先取される。水原監督は涼しげな顔をして則博を続投させる。則博は水原監督の意気に感じ、中日打線の反撃を信じて、井上、朝井と速球で三振に切って取った。
 二回表。木俣三振。葛城、号砲一発、レフトへ四号ソロ。菱川、センターバックスクリーンへ一直線の二十三号ソロ。すぐさま二対二の同点。一枝粘ったが三振。左バッターの水谷則博、チョコンとレフト前へ流し打ちのヒット。中、センターフライ。どこかしっくりしない。ふつうピッチャーが打つと得点に結びつくものだが。
 二回裏。水原監督はもう一回則博を投げさせる。久保サードゴロ。菱川が予想どおり豪快で美しい守備を見せる。矢のような送球を江藤が拝み取りする。菱川のスタイルが抜群なので長嶋より映える。スタンドがざわめく。葛城の控えの太田がベンチで手を叩いている。高木以来待ちに待った内野のスター誕生だ。白石振り遅れのレフト前ヒット。腰を落として捕球し二塁へ返球する。九番三村、右中間二塁打。葛城がもたつく間に白石生還。三点目。ピッチャーが打てばふつうはこうなる。三村という小柄な男をいままで見たことがあったかどうか。顔を覚えているということは、北陸の遠征で見たのかもしれない。ショートの今津と途中で守備交替したのだったか。それにしても、ひどくライト打ちのうまい男だ。今津ボテボテのセカンドゴロ。三村三塁へ。山本浩司三振。二対三。
 ベンチの暗雲が晴れない。三回表。高木レフト前に痛烈なライナーのヒット。ネクストバッターズサークルに向かう私に江藤が、
「金太郎さん、スマイル、スマイル!」
 塁上の高木も私に向かってこぶしを突き出している。私は笑った。ベンチに暗雲などただよっていなかったのだ。彼らは初回の私の凡打に気を差していただけだった。
「ヨ!」
「ホ!」
「イヨーオ!」
 コーチ連の明るいかけ声、水原監督のパン、パン、パン。江藤の例の空振りが出た。尻餅。ドッと観客席に笑いが弾ける。
「ビッグ、イニーング!」
 半田コーチの透き通った声が聞こえた。二球目、江藤の打球が弾丸ライナーでライト前へブッ飛んでいった。当たりがよすぎて、高木二塁ストップ。盛り上がる喚声。水原監督のパン、パン、パン。


         二十四

 とつぜん三塁側内野スタンド最上段で横断幕が広げられた。

 似島合同庁舎&主婦連合会&子供会 がんばれ神無月郷選手

 がんばれ江藤選手、がんばれ菱川選手、がんばれ太田選手、がんばれ星野選手の横断幕も揺れている。三十人ほどがしゃもじを叩いたり、手を振ったりしている。子供たちも混じっている。私は高くバットを掲げた。江藤も一塁上でスタンドに向かって手を振り、菱川と太田と星野もベンチ前に飛び出していって手を振った。三塁スタンド全体が大歓声で応える。
 球審の柏木がホームベースを掃く。セットポジションに入った白石の眼鏡が、私の眼鏡を睨みつける。睨み返す。振りかぶり、ドスコイとガニ股に右足を踏み出す。とんでもなく高い球。久保ジャンプして捕球する。カーブのすっぽ抜けだ。次も百パーセント、カーブ。二球目、切れのいいカーブが真ん中低目に生きもののように落ちてきた。見える。落ち切ればボールになる。落ち切らないうちにしっかり軌道を見据えてセンターへ振り抜く。後ろ足に重心を残す。
 ―よし、いった!
 星の瞬きのようなフラッシュ。ラジオ中継のかしましい声。
「神無月打った! 大きいぞ!」
「いったか! いったか!」
「伸びる、伸びる、グングン伸びる!」
 感触はセンターライナーだが急激に昇っていくはずだ。森下コーチがバンザイをしている。山本浩司が背走する。山本一義も走る。二人の足が急ブレーキをかけたように止まった。打球はバックスクリーンの右脇を抜け、スコアボード下部の広島テレビという文字に音立ててぶつかった。衣笠の嘆声。きのうと同じ、
「ビューティフル―」
「サンキュー!」
 上下動する横断幕に手を振りながら走る。ワァー、ウォーという大歓声。水原監督が私と腕を組みながらホームまで走る。仲間に引き渡す。ホームイン。
「神無月選手、百八号のホームランでございます」
 菱川と太田が両側から私の腕に飛びつく。水谷則博が胸に抱きつく。江藤と高木が顔をつかんで頬にキスをする。コーチ、選手総出でベンチ前に並んだ。ゆっくり両手でタッチしていく。感触を確かめながらタッチしていく。もう一度三塁スタンドの横断幕に手を振る。子供たちが跳びはねている。逆転スリーラン。五対三。あと三、四点ほしい。  
「ヘイ、きょうはコカコーラよ」
「ありがとうございます!」
 礼をして半田コーチの手からコーラの瓶をむんずとつかみ取り、ひさしぶりにあごを上げて飲み干す。喉が痛い。
 木俣、めずらしく内角低目のストレートを掬ってレフト前へ痛打。葛城、キャッチャーフライ。ベンチに戻ってきて、みずから、
「太田、次からライトの守備交替だ」
「わかりました!」
 太田はキャッチボールをしに伊藤久敏とブルペンへ走る。伊藤はいつリリーフを命じられてもいいように肩慣らしに入った。
 菱川、みごとなライト打ち。痛烈な打球がライト前へ飛ぶ。山本一義、胸に当てて前に弾く。その隙に木俣三塁へ。一枝、センター定位置よりやや後方へ犠牲フライ。木俣生還。六対三。水谷則博がそのまま打席に入り、三振。
 三回裏。水原監督は太田がライトに入ることを球審に告げた。
 則博がカーブとスライダーを多投しはじめた。小気味よくコーナーに決まる。衣笠、バットを扇風機のように振り回して三振。山本一義、左対左を苦にせず柔らかいスイングで右中間を抜く。太田がどたどた追いかける。クッションボールに戸惑い、中にまかせる。ワンアウト二塁。太田は外野守備は初めてではないので、すぐに慣れるだろう。井上、セカンドライナー。山本危うく帰塁して、ツーアウト二塁。朝井、三球三振。
 四回表。中、胸をかするデッドボール。高木の初球に盗塁。白石、二塁へ不必要な牽制をして三村のグローブの下を抜ける。中三塁へ。高木キッチリ左中間へ犠牲フライを上げる。七対三。ワンアウト、ランナーなし。四点差。こういうとき江藤はかならずホームランを狙う。
 ピッチャー交代。小柄な秋本祐作が出てきた。十四年目、三十四歳、阪急から移籍して二年目。迫力のあるオヤジ顔。球は山なり、変化球は切れない。江藤、ストライク、ボールを一球ずつ見送ったあと、じっくりためて強振。バックスクリーン左上に激突する。
 ファンファーレ。冷静に森下コーチとタッチ。冷静に水原監督とタッチ。
「江藤選手、四十四号のホームランでございます」
 みんなに迎えられ、冷静にホームイン。冷静に握手。三塁スタンドにヘルメットを振る。みんなニヤニヤしている。
「二線級から打ったホームランなんちゃ、自慢にならんけんな。金太郎さん、次もホームランたい。冷静にな」
「はい」
 八対三。もういいだろう。私でダメ押しだ。このピッチャーからは狙ってホームランを打てる。時計を狙おう。外角遠くへ二球ボール。体のいい敬遠だな。そうはさせない。時計は無理だ。ボックスの右前隅に出る。最初からクローズドに構える。かなり派手に動いたのに、久保は私の立ち位置を気にかけていない。敬遠気味に投げさせるつもりだからだ。三球目、外角、ボール二つ外れる顔の高さの棒球。思い切り踏み出し伸び上がるようにレベルスイングをする。よし、いった。かぶせを少し効かせただけなので、距離は大して出ない。左中間中段の支柱を張り出した照明灯の裾にポトリと落ちる。
 冷静に森下コーチとタッチ。ファンファーレ。冷静に水原監督とタッチ。冷静にホームイン。一人ひとりと冷静に握手。みんなニヤニヤしている。なぜ冷静にするのかわからないが、江藤のまねをするのがなぜか快適だ。三塁スタンドにヘルメットを振る。みんなゲラゲラ笑いだした。継投予定の伊藤久敏が最敬礼する。九対三。
「神無月選手、百九号のホームランでございます」
 木俣、初球の外角高目の外し球を大根切り。美しいラインドライブで伸びていき、右翼ボールにぶつかって内外野の仕切りの通路に落ちた。
「木俣選手、二十八号のホームランでございます」
 木俣の冷静な様子を見て、ついにスタンドに爆笑の渦が巻いた。十対三。太田、膝もとのボール球を掬い上げてレフト最上段へ二十号ソロ。太田はおどけて両腕を振り回しながら走る。スタンドの和やかな笑い。水原監督の強烈な尻ポーン。十一対三。中が、
「いまのタコのホームランで、四者連続か。うちは七者連続の世界記録を作ったよね。八者いかないかな」
 突拍子もないことを言い出す。ピッチャーが安仁屋に代わった。三連投。広島の苦しい台所事情が知れる。菱川の初球、内角低目シンカー、ストライク。
「ああ、だめくさいな」
 中の危惧に反して、菱川は安仁屋の二球目のシンカーを軽く掬ってバックスクリーンに打ちこんだ。ついに球場が大喚声に揺らいだ。興奮の坩堝とはこういう状態を言うのだろう。ワンワンと夜空が鳴っている。
「菱川選手、第二十二号のホームランでございます」
 五者連続。十二対三。一枝がネクストバッターズサークルから振り向いて、
「おいおい、みなさん、そんな目で見ないでよ。期待しても無理だって。俺、短距離ヒッターよ」
「去年、十三本打ったやろ」
「マグレ」
「失策王が、今年失策ゼロ」
「無関係」
 会話が筒抜けなので、ベンチ上の客がしきりに笑いさざめく。一枝は口のわりにはファイト満々で打席に入った。初球、二球目と面目を保つための大きな空振り。ツーストライクのあと、三塁線へ二本つづけてファール。五球目、一転してライト打ちに切り替え、外角のスライダーを素直に掬い上げた。
「ほら、ほら、ほら!」
 田宮コーチが怒鳴る。
「いったか?」
「いったろ!」
 山本一義と山本浩司がフェンス沿いにスルスルと動く。
「ギリギリだ!」
 森下コーチが両手で煽るような格好をしている。
「入れ!」
「入れ!」
 二人でジャンプ。山本一義と山本浩司の左右のグローブがクロスしたわずか向こうへボールが落ちた。一枝が一塁を回ったところでピョーンと跳び上がった。スタンドが沸きに沸く。
「一枝選手、第十号のホームランでございます」
 六者連続。十三対三。一枝で連続ホームランは途絶えた。汐が退いたようにスタンドのざわめきが静まっていく。水谷則博ピッチャーゴロ、中キャッチャーゴロ、高木ファーストフライ。
 五回から九回まで両チームみごとにゼロ行進。初めに花火が打ち上がったきりの、動きの少ない戦いになったけれども、ともに守りのファインプレーが飛び出して、観客はまったく退屈していないようだった。
 高木は華麗なバックトスとグラブトスでダブルプレーを二度完成し、菱川はラインぎわのサードライナーに飛びついた。中は大ジャンプをして山本一義のホームランをフイにし、太田は低いライトライナーを回転レシーブでアウトにした。私もラインぎわにスライディングキャッチを敢行して井上の長打を防ぎ、サードへ渾身の送球をして頭から滑りこんだ衣笠を刺した。
 広島もファインプレーを一つ披露した。中の右中間三塁打になる当たりを山本浩司がサードで間一髪刺したのだ。光線のような返球だった。
 八時半の最終フェリーに乗船しなければならない似島の人たちは、七回が終了したところで幟を畳んで去っていた。私たち五人は彼らに手を振って見送った。事情を知った他の選手たちも、ベンチ前に出て手を振った。
 結局、試合は十三対三のまま終わった。広島は安仁屋が散発四安打フォアボール二で投げ切り(フォアボール二つは私と江藤だった)、中日は六回から継投した伊藤久敏が八回まで九人を無安打、無四球、五三振に封じた。伊藤はすっかり自信を回復した。九回一回だけ星野秀孝が出てきて三人を料理した。星野は巨人戦で六失点して以来、失点ゼロと自責点ゼロの自己記録を何気なく更新しつづけている。おそらく新人の記録はとっくに破ったのではないだろうか。
 時計が九時十分を指している。インタビューの時間。
「三回の決勝スリーランは、センターライナーに見えるほど低い弾道でしたね」
「低目のカーブを叩きました。左足の残しとミートがよかったので、すぐホームランになるとわかりました」
「似島の子供たちが応援に駆けつけました」
「燃えました」
「じつは昨日も、似島婦人会が一塁スタンドに応援にきてたんですよ」
「そうでしたか! あの幟がそうだったんですね。ありがたい」
「ドラゴンズの選手たちは、昨日よりホームランの賞金と賞品をすべて、似島の学校関係施設に寄付することにしたという噂を聞いて、広島市民はみな感動しています」
「噂ではなくほんとうのことです。広島は原爆に打ちひしがれながらも、めげずに立ち上がって復興した街です。援助の手が諸方から差し伸べられて当然でしょう。似島にかぎらず、広島のみなさんに対しては、広島球場のプレイで得た報酬は微少ながら義捐物品として還元していきたいと思っています」
 歓声が上がった。もう野次は飛んでこなかった。
 二勝目を挙げた水谷則博が伊藤久敏や星野秀孝と抱き合っている。フラッシュがひっきりなしに光る。フェンスを越えてきた人びとがフィールドに立ち混じる。子供もいる。紫立った暗い空の彼方に淡く山並がかすんでいる。その対照で、カクテル光線に照らされた球場の芝生と黒土が美しく濡れて見える。水原監督やレギュラーたちとインタビューマイクの前で、私はぼんやりそれを眺めている。
         †
 八月四日月曜日。八時起床。しばらく強い耳鳴り。きのうの偽善的なインタビューが思い出される。慈善には果てがない。似島にかぎったのはまちがいだったか? しかし、原爆投下直後の傷病者たちに対する島民こぞっての壮絶な献身を思うと、義捐を受けて当然だと思える筆頭だろう。老人たちの視線と言葉がやさしかった。




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