二十五

 フロントに荷物を出し、会食場で朝めしを終え、ロビーでくつろぐ。九時。すでに二十九度。
 監督、コーチ連がのんびりコーヒーを飲んでいる。小川が大阪日刊スポーツの紙面を眺めながら、
「巨人が三十二勝三十三敗、阪神が三十三勝三十五敗。二位はマッチレースだな」
 一枝が、
「四位の大洋だって三十一勝四十三敗だ。ちょっと連勝すれば二位になる。この三チームはドングリだね。Aクラス争いが熾烈になる」

   
カープ玉砕!

 扇状に広げたトランプのように五人の写真が一面の紙面に並んでいる。左から江藤、私、菱川、太田、星野秀孝。現在までのホームラン本数と勝敗数も書き添えられている。その下に大きく似島の人びとの応援風景も載せてある。事情が詳しく書かれている。八月六日の原爆慰霊祭で、中日ドラゴンズの善行が似島住民によって報告される予定だとも書いてある。
 広島からきょうじゅうに帰名する組がほぼ全員で、道草を食いながら帰る男は一人しかいない。島根出身の新宅だけだ。彼は早朝に発っている。水原監督が、
「今月末の九連戦はたいへんですよ。たぶん、そこで優勝が決まります。踏ん張ってください」
「オイース!」
「じゃ、名古屋に帰りましょう。玄関前で、十五分ほどファンたちにサインしてあげてください。今度広島にくるのは十月です。ファンも名残惜しいでしょう」
 十時チェックアウト。ダッフルやスポーツバッグを担いだ私たちを斉木に率いられた従業員たちが玄関前まで送って出る。勢子も混じっている。主だった選手がファンに取り囲まれる。まとわりつかれない選手は早々と広島空港行のバスに乗りこむ。サインは主に子供たちにした。彼らがからだじゅうを触りまくるのにまかせた。
「では二カ月後!」
 バスの中から私たちが手を振ると、世羅別館従業員一同は深々と辞儀をした。私は最後まで勢子を見ていた。馴染んだ女がかならず美しく見えてくるのがやるせなかった。
 広島空港からは、大阪伊丹空港までも、名古屋までも飛行機は飛んでいない。じつに不便だ。足木マネージャーの指示に従って、国鉄広島駅からほぼ全員在来線の鈍行に乗る。車両は満杯だが、一箱ですむ。そのせいで一般の客と顔を合わせることもない。糸崎と岡山と姫路、三度の乗換えが大儀なだけだ。ファンはプロ野球選手が大挙して移動していると、歓声は上げても近づいてこない。この半年で知った。煩わしさを避けるには、一人で歩かなければよい。
 山陽本線普通列車。十時五十分、糸崎行。三々五々、コーチ、トレーナー、マネージャーも交えた賑やかな会話が車内に満ちる。私は江藤に、
「水原監督はこの列車に乗らなかったんですか」
「根本さんと会食やら言うとったな。昼過ぎの飛行機には乗るやろう。いったん羽田に出て、本宅に寄って、夜に名古屋にUターンやな。あしたから巨人三連戦やけん」
 中が、
「根本さんは何のコミュニケーションをとるつもりだろうね。ドラフトの話なんか持ちかけても、水原さんはがんとして動かないよ」
 小野が、
「談合のための会食というより、根本さんの接待だね。五月の連続敬遠以来チームを立て直せないでいるから、直接的なアドバイスか、再建のヒントでももらおうということなんだろう。主力伯仲のペナントレースじゃないから、そういう話もしやすい。しかし考えてみれば、そんな話、他チームの監督である水原さんができるはずがない。敵を再建させたって何の得もないし、何より、事情を知らないチームをどうやって再建させるかなんて考えつかないだろう」
 広島から一時間十八分、糸崎駅で下車して乗り換え。そこから一時間三十七分かかって岡山駅到着。会話があるので長時間の乗車が苦痛でない。足木マネージャーが、
「乗り換えです!」
 ホームの駅弁売りからめいめい弁当を買いこむ。押し寿司弁当、すき焼き牛弁当、あなご弁当。私はふつうの幕の内弁当。腹がくちると車内に紫煙が立ち昇り、当座の話の種も尽きておのずとみな睡眠に入る。私は起きている。岡山から一時間半ほどで姫路到着。
「乗り換えでーす!」
 全員ぞろぞろホームを移動し、山陽本線の快速に乗り換える。会話が復活して賑やかになる。神戸を経由して一時間十分、新大阪に到着。ここまで五時間四十五分。現在四時半を回ったところ。ようやく新幹線だ。
 各駅停車のこだま組と快速のひかり組に分かれる。ほとんどの連中は名古屋まで途中下車の必要がないので、足木マネージャーも含めてひかりに乗った。私たち仲良し組は、こだまに乗った。高木が、こだましか停まらない岐阜羽島で降りて実家に寄ると言ったからだ。名古屋までたった四駅だし、ひかりと十五分もちがわない。
 四時五十四分発。一等指定席をとったが、一般客が混じった。彼らの目を気にして口数が少なくなる。かなり窮屈な感じ。車内販売の北海道厚岸(あっけし)の牡蠣めし弁当をみんなで買う。さっそく平らげた。米原を過ぎたあたりで、江藤が左手の窓を見やりながら、
「この一帯が関ケ原たい」
 どこからどこまでと区別がつかない大平原だ。空一面に綿雲が折り重なっている。伊吹山、という声が客席から聞こえてきた。彼の指差した先を見ると、平べったいゴツゴツいびつな形をした高峰だった。関ケ原トンネル通過。二千八百十メートルという声が聞こえた。星野秀孝が、
「高木さんは短気と聞いてますけど、ぼくの目にはホンワカしてるように見えますが」
「そのとおりだよ。三十五年に入団したときから、守備の天才ってちやほやされて、そのくせ二軍に置かれてのんびり暮らしてた」
 江藤が、
「開幕からたったひと月な。春のキャンプで杉下監督と天知ヘッドコーチが言うとった。あれが高校生のやるプレーか、完成の域やてな。その年の五月に代走で出て、初打席初ホームラン」
「でも、背番号1をもらってレギュラーになったのは四年目ですよ。ホームランを打てるようになったから」
「無口、燻し銀、職人肌なんちイメージが強かけんが、モリミチはおしゃれで派手なところがあるんぞ」
 足木マネージャーが、
「洋服代に毎月いくら使ってますかって訊いたら、ぜんぶて答えたくらいです」
 楽しそうに笑う。私は、
「ストッキングも毎試合替えてますね」
「お客さんに見てもらうのが仕事だからね」
 木俣が、
「そこまでは見ないだろう。使わなくなったストッキングは俺がこっそりいただいて使ってたよ」
 私の目に隠れているのはこの木俣だ。彼こそ燻し銀と言っていい。高木は目立たないようでいて常に表面にいる。淡々とした美技はもちろん、ときおり見せる笑顔がじつに美しいせいかもしれない。菱川が、
「モリミチさんは服だけじゃない。車も派手。アメ車のムスタングだもん」
「アメ車はもうやめた。ガソリン食うから」
 長良川を渡ったあたりで、高木は荷物を棚から下ろし、
「じゃあしたね」
 と言って、岐阜羽島で降りた。みんなでホームの高木に手を振る。人が人に手を振る習慣はうれしい。百歳になってもだれもやめないだろう。中が、
「二、三年したら、広島まで新幹線でいけるようになるし、五、六年したら博多までいけるようになる。飛行機が広島まで運航するようになったら、やっぱり飛行機を使うだろうなあ」
 私は、
「乗換えがないなら、二、三時間増えても新幹線に乗ります」
「ワシもそうするばい。飛行機は好かん。寝台特急ちゅう手もあるばってん、あれはグッタリ疲れる」
「江藤さん、試合開始前によく新聞記者の背中をどついて、本日はやりまっせ! と言いますよね。あれ、ぼくもやりたいんですが」
「金太郎さんには似合わん。ワシは仁王、金太郎さんは観音さまたい。バッターボックスの構えでわかる。金太郎さんのフォームは、シーンとしとって、まるで印呪を結んどる観音さまや。ワシは相手を睨みつける。ワシや長嶋は大向こう受けを狙うタイプやな」
 中が、
「私もじつはスタンドプレイ派だ」
「かもしれんのう。利ちゃんのフォームは変わっとる。風に揺れる提灯のごたる。フラフラしとるようやが、なかなかのクセモノで、伸び縮み自在たい。金太郎さんは何も考えとらん。自分のイメージば作ろうとせん。ただそこにおる」
 菱川が、
「ただそこにいて、偉大なことをする」
 太田が、
「しかも一人でやる。家来を作ろうとしない。偉大といわれる人は、たいてい家来を作りますけどね」
 一枝が、
「そんな偉大は格好つけだろう。ほんとに偉大な人間は人を引きずりこもうとしないもんだ。引きずりこまないで、従わせる」
「じゃけん、ワシらは安心してそばにおらるったい。そぎゃん大将のごたる人間に、本日はやりまっせ、は、まこと似合わん」
 小川が、
「金太郎さんは自分に根本的に関心がないんだよ。しかし、他人には関心がある。いつもやさしい目で見てる。むかしは、スッといなくなっちまうんじゃないかと思ってたが、このごろは安心してる。仏さまだからな、俺たちがくっついてるかぎり、いつもそばにいてくれる」
 小野が、
「女房といっしょにいるよりホッとするからね」
 江藤が、
「水原さんも言うとった。女房子供とおると、ちょっと縛らるる感じがする、金太郎さんといると、グニャグニャになるて」
         †
 六時二分。七時間十五分かけて名古屋に帰り着いた。夏の夕暮が迫っている。夜気が暑い。江藤が、
「十月までこんな修学旅行とはお別れやのう。楽しかったっち」
 中が、
「さ、またあしたから精いっぱいだ」
「オス!」
 遠巻きにファンたちに視つめられながらみんなと握手をし、あしたを約して足木マネージャーや江藤たちとコンコースで別れた。駅裏に出ると、カズちゃん一党が出迎えにきていた。カズちゃんが、
「見当つけて三十分くらい待ってたのよ」
 ぞろぞろみんなで歩く。メイ子が、
「やっと帰ってきましたね! お帰りなさい」
「ただいま。アヤメの開店は?」
「十一日からです」
 素子が、
「ヘルメットの上通った外木場の球、危なかったねえ」
「ボールをよく見ていれば、なんてことないんだよ。内角攻めなくちゃバッターは牛耳れないしね。野球ってああいうものだよ」
 百江が、
「似島のお話、すばらしかった。きのうの昼のニュースでも、江藤さんたちといっしょに島を歩いてる神無月さんの姿が少し流れました」
 カズちゃんが、
「ごはんのあとでいっしょにお風呂に入りましょ」
「うん」
 玄関を入ると、
「お帰りなさーい!」
 睦子と千佳子が式台に立った。北村席は夕餉の仕度におおわらわだ。
「女将さんとイネさんは病院です」
 主人や菅野がスプーンを持った直人といっしょにどたどた出てきた。
「お疲れさん。さあ、ゆったりして」
 直人が飛びついてきた。
「おかあちゃん、にゅういん」
「そうだな、おかあちゃんが赤ちゃんを産んだら、直人はおにいちゃんになるんだよ」
「うん」


         二十六 

 睦子たちとエアコンの効いた座敷にくつろいだ。幣原が直人にスプーンを含ませる。ステージ部屋でジャケット、ワイシャツ、ズボンを脱ぎ捨てる。非番の天童が拾い集める。汗っぽいので下着も脱ぎ捨てる。座敷にいた店の女たちが小さく息を呑んで目を逸らした。直人がまたスプーンを持って走ってきて、じっと私の股間を見つめ、チョンチョンと指先で突っつく。
「おとうちゃんのオチンチン、おおきくて、ちっちゃい。ぼくもこうなる?」
「なるよ、直人は、大きくて、大きくなる」
 主人が、
「そりゃたいへんだ。危険物になるな」
 と言って大声で笑った。千佳子や睦子も明るく笑った。ふたたび幣原が直人をテーブルに連れ戻す。濡れタオルと下着とジャージを持ってきたソテツが私の全身を拭く。
「汗ビッショリ。あとでちゃんとお風呂に入ってくださいね」
「うん。新幹線の冷房が弱くてね、びっしょり汗をかいた。直人はお風呂入ったの?」
「幣原さんに入れてもらいました」
 新しい下着をつけ、ジャージを着、テーブルに向かってあぐらをかく。食事を終えた直人が膝に乗ってくる。ソテツとイネと幣原のおさんどんでカズちゃんたちの箸が賑やかに動き出す。直人がカズちゃんの膝に移る。賄いたちが一家のおさんどんを手伝いがてら、トルコ嬢たちに食前酒のビールと枝豆を用意した。主人と菅野も箸を置いて相伴する。幣原が、
「神無月さん、ごはんは?」
「京都あたりで駅弁食ってきた」
「じゃ、冷えたソーメンにしますね」
「いいね」
 菅野が、
「きょうから真夏日の予報ですよ。三十五度がつづくそうです」
「ナイターは二十七、八度か。みんなゲーム中に一度アンダーシャツを替えるけど、ぼくは、汗に濡れたアンダーシャツやユニフォームで野球をやるのが好きなんだ。風を感じられる」
「ああ、なんだかわかりますね」
 睦子が、
「そう言えば郷さん、青高や東大のときもぜんぜんシャツを替えませんでしたね」
「小中学校時代のクセが染みついてるんだ。重たいユニフォームでやると、ああ野球をやってるって思う」
 主人が茶碗に箸を戻して、
「それはそうと、慈善家として騒がれちゃいましたね。RCCの看板、そして今回と重なって、ま、当然の結果でしょうが」
 菅野も箸をとり、
「チャリティショーに引っ張り出されないように注意します」
「すみません。たまたまみんなで似島観光をしようということになって、原爆で有名な島だって知らずにいきました。孤児院めいた施設の事情を聞いて、賞金や景品を寄付しましょうって、なりゆきで口走ってしまった」
「もちろんよいことをしましたよ。とにかく身辺が忙しくならないよう心します」
「感謝状なんかくれないように言いました。おこぼれを進呈しただけなんですから」
「厄介なのは、面倒くさがりの神無月さんが面倒を嫌わない人だという誤解を受けることです。今月の原爆慰霊祭に参列してほしいという依頼がさっそくファインホースにありましたけど、スケジュールが合わないので断りました」
「スケジュールが合っても、公の会合の出席は断ってくださいね」
「ラージャー」
 カズちゃんが、
「だれだったっけ、ロッテの足長オジサン」
「アルトマン。アルトマン・シート。ああいうのは気持ちが落ち着かないんです」
「わかってます。とにかく、ラージャー」
 直人がビールのコップに指を突っこんだ。
「舐めてごらん」
 直人は舐め、顔をゆがめた。優子が、
「だめですよ神無月さん、そんなことさせちゃ」
「からだで覚えないとね」
 女将が、
「病院はあしたの朝いくん?」
「このソーメンを食ったあとで、菅野さんといきます」
 カズちゃんが、
「みんなでいきましょ。面会時間は七時までだけど、特別に入れてもらいましょ」
 菅野があわただしくめしを掻きこみ、見舞い用の果物籠を買いに出た。 
「さ、とにかくお風呂入らなくちゃ」
 私たちも食事を手早くすまし、カズちゃん、素子、百江、メイ子、優子、千佳子、睦子たち七人と風呂にいく。湯船と洗い場に五人ずつ分かれる。すぐにキッコが入ってきた。
「早引けしてきたわ。神無月さんが帰ってくる日やったさかい」
 カズちゃんが私を立たせてからだを洗う。洗い終わると、百江は私を床几に坐らせ、頭を洗う。その格好で話しかけてくる。
「優勝が近いようですね」
「今月末だろうね。あと五十六試合のうち、十試合勝てばそろそろだ。四十試合以上は消化試合だね。ゆっくりホームランを打つよ」
 百江が頭にシャワーを当てる。カズちゃんが、
「さあ、みんな、お風呂に浸かって。キョウちゃんは先に出て、ソウメンを食べてなさい」
「ほい」
 脱衣場でからだを拭っていると、女たちの声が聞こえた。キッコが、
「百江さん、アヤメのチーフでいくの、いつからなん?」
「十一日の月曜からです。チーフというんじゃなく、優子さんと信子さんと三人で、早番中番遅番順繰りの責任者という形です。どうして?」
「アイリス辞めて、来年の夏までに検定とってもうて、それから半年間大学受験の勉強しろって和子お嬢さんに言われたんよ。そんなの贅沢すぎやわ。迷惑かけたないんよ。仕事すっかり辞めてまわんと、検定とるまではアヤメで一日四時間のお勤めをしたほうがええ思って。ちゃんと勉強に時間がとれるし、そのほうが店のためにもなるさかい」
 カズちゃんが、
「いい心がけだけど、試験勉強はそんなにラクじゃないわよ。高円寺にいたころムッちゃんと千佳ちゃんを見てたからよくわかる。言うとおりにしなさい」
 百江が、
「私もそうしたほうがいいと思う。このあいだも神無月さんに、徹底的に勉強しろって言われたでしょう?」
「ほうやけど……」
 カズちゃんが、
「とにかくそうしなさい。向学心て、勉強以外で忙しくしてるといつの間にか消えてしまうものなのよ。再来年大学にいったらまたアイリスでバイトをすればいいでしょ。せっかくコーヒーを覚えたんだから」
「覚えたゆうても、素ちゃんほど詳しいわけちゃう。ほやさかい、大学いったらアヤメと掛け持ちで働かせてもらおう思っとる。ええやろか?」
「だめ。大学の勉強がおろそかになるわ」
「……学費を出してもらって、食べさせてもらって、ほんとに申しわけない気持ちでいっぱいやわ」
 素子が、
「頭ええ子は得するんよ。中村高校の一番やないの。うちらのだれも一番なんかなれんわ」
 睦子が、
「あとにつづくソテツさんや千鶴さんの模範になってください。私や千佳ちゃんみたいな順調に暮らしてきた人間は、苦しい経験をしてきた人たちの模範になれません。神無月さんは苦労してきた人ですけど、一人じゃ足りない。もっともっとたくさんの人たちが模範にならないと。和子さんも神無月さんも、勉強するべきときにはしっかり勉強した人たちです」
 カズちゃんが、
「わかったわね。じゃ、百江さん、天童さん、十一日からよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしく」
 さっきソテツに濡れタオルで拭いてもらったときに替えた下着とジャージをもう一度着て、食卓に戻る。幣原が、中鉢に盛って氷と刻みキュウリを載せたソウメンを運んでくる。さっそくツルツルやりだす。直人がじっと見ている。
「直人はソウメン食わないのか?」
 イネが、
「麺類はすするのが危ねすけ。スパゲティはいいんだども」
 初めての母親不在で眠れないのか、直人がイネに甘えかかる。
「きょうはおとうちゃんと寝るか?」
「ううん、バーバとねる」 
 主人が、
「イネとソテツとは寝ないのか」
「あついからねれない」
 菅野が、
「プ! 神無月さんの口ぶりそのものじゃないですか」
「バーバとねると、つめたくていいきもち」
「スモール神無月ですな。頼もしい」
 女将が、
「閉経すると女の体温は下がるから。毎日は面倒見切れんわな。ソテツたちと交代交代やないと」
 女たちがわいわい風呂から上がってきた。カズちゃんが、
「ちょっとおかあさん、メジャー貸して」
「どうしたん」
「キョウちゃんの身長が伸びたような気がするのよ。キョウちゃん、この柱に立ってみて」
 私は立ち上がり、座敷の柱に背中をつけた。カズちゃんは頭頂のところで柱に爪で傷をつけ、母親の手渡したメジャーを伸ばす。
「やっぱり。百八十四センチ近くあるわ」
「ホー!」
 主人の嘆声。私は、
「へえ、二センチ伸びたのか。ここ五年で、五、六センチ。今度こそ打ち止めだな。百八十センチ以上の選手はいくらでもいるから、それほどうれしがることじゃないけど」
 足もとにきて私を見上げている直人を抱き上げる。菅野が、
「身長なんかより、筋肉の瞬発力と、それを使うタイミングがすごいですよ。全身がどう動いているかわからないくらいです。ひとことで言うと、ウルトラマシーンですかね」
「マシーンはいいね。天馬なんていう宗教的なにおいが消える。野球をするのに勉強するほどは不自由しないので、たしかに野球のマシーンということなんでしょうね」
 直人を食卓に戻す。素子が、
「勉強するの不自由なん? そんなに頭ええのに?」
「不自由だよ。なんだかいつもモヤモヤしてる。さ、直人、早く寝なさい。ちゃんと歯を磨いてね」
「はーい」
「イネ、しばらく添い寝したったって。みんな出かけたら寝にいくで」
「はい」
 イネが直人を女将の離れへ連れていった。
 そうめんをすすり終え、ブレザーに着替える。イネを除いた賄いたちが卓につく。
「じゃ、菅野さん、お願いします。大勢ですからハイエースでいきましょう」
 カズちゃんが、
「私もローバーでいくわ。試運転」
「うちお姉さんのローバーに乗る」
 素子が立ち上がった。総勢十人ほどになった。女将が、
「大勢でいかんほうがええよ。面会時間過ぎとるし、病院でうるさくしたらあかんから」
 結局菅野のクラウンに私、千佳子、睦子が、カズちゃんのローバーに素子とメイ子が乗っていくことになった。主人が、
「神無月さん、子供の名前、憶えてますか」
「トモヨさんがいつか言ってた名前だね。女だったらカンナ、男は……」
 女将が、
「恵(めぐむ)。神無月さんが恵んでくれた命やからと言っとったわ」
「恵は恩着せがましいな。智代の智をとって、直人の人を足せば智人(ともひと)」
 キッコが、
「恵まれたんやなく、人に恵むと考えればええがね。智人は覚えにくいわ」
「そうだね。ケイと一音で読むのがいい響きだ」
 千佳子が、
「キョウとケイ。いいですね。安産でありますように」
 百江が、
「二人目だからラクに生まれるというわけじゃないみたいですよ。二人目で難産を経験する人も多いらしいんです。でも、日赤の助産婦さんは腕がいいという評判ですから、まんいちそうなってもだいじょうぶでしょう」
 メイ子が、
「百江さんも私も子供を何人も産んでるでしょう。ラクな出産てあった? 私はなかった気がするわ」
「一度目がつらかったです。徹夜で苦しんで、朝方生まれたの。羊水が子供のウンコで汚れてて、おまけに首に臍の緒が巻きついてたから、死産になるところでした」
「私はぜんぶつらかった」
 睦子が、
「どんなに苦しくても、郷さんの子供を産めるのはすばらしいことです」
 優子は睦子の顔を感に耐えた表情で見つめていた。


         二十七

 大小の車を列(つら)ねて太閤通を走り、八時ぴったりに中村日赤の駐車場に入った。
「九時に車の出入り口を閉鎖します」
 と守衛に告げられる。受付で面会の許可をとり、あの神無月選手の知人見舞いだということで特別に許された。カズちゃんに連れられて、何本もの階段が複雑に入り組んだ館内の二階へ上がる。廊下に消毒薬のにおいがしない。治療の現場からしっかり隔離されている病棟のようだ。
 人間の一生は奇跡的な受精から始まる。精子と卵子の出会いの確立は天文学的な数字になるので計算できない。しかもほかの組合せの受精なら〈彼〉として生まれなかったのだから〈彼〉の誕生は凄絶(せいぜつ)な確立の奇跡と幸運の結果だと言うほかない。とうてい現実ではない。夢幻だ。人間一人ひとりがその夢幻を背中に貼りつけて生まれてくる。いつ儚く消えてもよいという認定のラベルだ。
 ノックして入った立派な個人部屋で、トモヨさんがベッドの灯りでノートを読んでいた。私の詩稿ノートだとすぐわかった。
「あ、郷くん、お帰りなさい。遠征ご苦労さまでした。みなさん、わざわざすみません。病気じゃないんですから、お気遣いなく」
 菅野が果物籠を水屋の上に載せる。千佳子が、
「神無月くんの詩のノートですね」
「はい、キクエさんが持ってきてくれて、夢中で読んでました。魔法みたいな言葉……」
 睦子がトモヨさんの手をとった。
「具合はどうですか?」
「順調です。お医者さんは、あと四、五日とおっしゃってます」
 息せき切ってキクエがやってきた。
「よかった。キョウちゃんがファンたちにつかまってるんじゃないかと思って。そうなったらトモヨさんの気持ちが落ち着かなくなってしまいます。産科病棟にも、神無月ファンはうろうろしてますから。受付の××さんも大ファンなんです。ちょうど見舞いが退く時間帯だったので助かりました。今月は私か節ちゃんが朝まで詰めてます。安心してください。ただ、お見舞いはきちんと時間を守ってください」
 キクエは私に微笑みかけ、詰所に去った。カズちゃんが、
「じゃ、トモヨさん、失礼するわね。毎日お昼にかならず顔を出すから」
「ありがとうございます。でもほんとにお気遣いなく」
 菅野が、
「いやあ、あらためてこうやって二人を並べて眺めると、つくづく双子ですね。妙な感じだ」
「唇の厚さが少しちがうし、ホクロも私のほうが多いんですよ」
 トモヨさんが明るく笑った。私は、
「たぶん、出産のときは遠征中だ。出発前ならかならず会いにくる」
「無理しないで。ほんとに、大勢の人がついててくれてますから」
 みんなでトモヨさんと握手する。私は唇にキスをした。
 菅野は数寄屋門の前で私たちを降ろし、
「じゃ、神無月さん、あした八時、則武の家にいきます」
「よろしく。ジム、いっしょにね」
「はい」
 百江ソテツとイネと幣原、それに主人が玄関に迎えに出る。優子と丸信子とキッコは座敷で話をしていた。ほかの女たちは自分の部屋に上がっている。まだ九時前なのに女将の姿はなかった。きっと夫婦の離れで直人に寄り添って寝たのだろう。イネ、ソテツ、北村夫婦。これからトモヨさんが退院してくるまでの数週間、彼らは就寝時間を子供に合わせる日々をつづける。主人がみんなにコーヒーをいれた。カズちゃんが、
「元気だったわよ、心配ないわ。あと四、五日だって」
 百江が、
「トモヨ奥さん、最後の一仕事ですね」
 真剣な顔をしている百江を見て、ふと彼女の家を思い出した。小さな庭にモミジとバナナツリーが植わっているモルタルの二階家。新庄という表札のある門扉を浮かべる。もう間取りを忘れている。奇をてらって造らないかぎり、どの家のこしらえも似たようなものなる。
「百江の家に何カ月もいってないね」
 言ったとたんに、台所、六畳の居間、居間の隣が調度を揃えた八畳の寝室、便所、風呂場、意外に大きな家だったことが甦った。
「お気遣いなく。狭い家ですけど、小ぎれいにして暮らしてます。もともと近所付き合いもしないので、お客さんがくることがだんだんめずらしくなって、最近ではほとんど一人きりの生活です。朝起きると、象のようにいつも寝っころがってるなあって感じます」
 寂寞(せきばく)とした思いが押し寄せてきた。さびしい人びとを思いやることで彼らを地上にあらしめる行為が悖徳(はいとく)であるはずがないのに、ふと気づくといつも私は寂とした思いに浸されている。思いを噛みしめる。このさびしさを忌み嫌うことこそ悖徳だろう。さびしさの中にいるかぎり、私は彼らと生きる価値がある。私も彼らもさびしさの中から生まれてきたのだ。さびしい人びとにさびしく寄り添わなければならない。さびしさがおたがいの価値だからこそ、私たちはさびしさの中で何度も出会い、出会いつづける。睦子が、
「ときどき遊びにいっていいですか?」
「どうぞ、どうぞ、歓迎します」
「裁縫とかも教えてもらえたらうれしいんですけど」
 千佳子がみんなに、
「百江さん、着物も縫えるのよ。着物縫えるなんて最高」
         †
 八月五日火曜日。客部屋で目覚めたのは六時半だった。カズちゃんはまだ眠っている。百江とメイ子と素子はカズちゃんに遠慮して、きのう夜の更けないうちに帰った。
 便所にいき、ゆっくり柔らかい便をする。きょうから巨人三連戦だ。野球のことを考える。野球選手であることを考える。野球という単純な世界で遊ぶことの喜びを考える。野球の世界から滅んでいく日のことを考える。からだの細胞をなるべく単一の模様に並べ替えようとするが、うまくいかない。カズちゃんのことや、睦子のことや、しばらく逢っていない女のことを考える。生まれてくるわが子のことを考える。胸が温かくなる。シャワーを浴びにいく。歯を磨き、シャワーで口をすすぐ。
 睦子と千佳子がソテツやイネや幣原たちといっしょに広い台所で立ち動いていた。目玉焼きのいいにおいがする。食卓につく。起き出してきたカズちゃんは、歯を磨いてきますと言って洗面所にいった。直人が廊下を走ってきた。イネが水屋の抽斗から予備の歯ブラシを出して洗面所へ連れていく。則武組がやってくる。主人夫婦も起き出してきた。直人は女将の膝につく。幣原が大人と別メニューのプレートを用意する。
「直人は早起きやわ。夜中に動き回るし。一晩で頭と足が一回転するんよ」
 みんなで笑いながら箸をとる。ハムエッグ、メンマ、丸干し、豆腐とワカメの味噌汁、板海苔。しみじみうまい。二杯食う。
「キッコは勉強訊いてくる?」
 千佳子が、
「あの人、天才的に勉強できるの。一度か二度、英語を訊かれただけ。和訳を聞いてって言うから、聞いて上げたら、非の打ちどころがなかったわ。来年の夏を待たなくても、今年の冬までに検定とってしまうんじゃないかしら」
 睦子が、
「でも、そこから一年、受験勉強が必要だと思うわ。そうすれば確実に受かります」
 そのキッコが目をこすりながら起きてきた。つづけて優子、丸、三上、しずか、れんといった連中もやってきた。食卓が賑わう。カズちゃんが、
「九時に菅野さんがくるわよ。お昼は北村ね」
「うん。三時前に菅野さん運転のマークⅡで中日球場。巨人三連戦は観にくるの?」
「今週はアヤメ開店準備の詰めだからいけないのよ。二十六日からの大洋三連戦を考えてるわ。そのあたりで優勝が決まると思うし」
 八時。アイリス組がドッと北村席を出る。早めしのキッコは勉強に戻る。
「キッコ、がんばれよ」
「アイアイサー」
 廊下から振り返ってニッコリ笑う。
「あ、そうだ、蒲団に凭れると縁起に障るって、どうゆう意味なん。ここに蒲団部屋があるやろ。静かやさかい入りこんで本読んどったら、賄いさんにそう言われたんよ。意味わからんかったけど、はい、ゆって自分の部屋に戻ったわ」
「長患いに罹って床につくようになるから、縁起が悪いということだよ。圓生の落語の居残り佐平次で聞いたことがある」
「わかった、ありがと」
 睦子が、きょうは二人で巨人戦を見にいくことになっていると言った。
「一塁側スタンドです」
 菅野が玄関に呼びかける声がした。
 晴天。九時の気温、二十七・四度。微風。菅野と天神山電停まで走って折り返す。
「水原監督がドラゴンズにくることが決定したのは、去年のいつですか」
「十一月十四日。中日ビルの五階、中日パレス〈橋の間〉で水原監督就任の記者会見をしましたが、それ以前に、おそらく十月までには決まっていたでしょう。その記者会見が神無月さんの電撃入団よりもあとですからそうなります。百五十人近い報道陣が詰めかけました。これまでで最高の数です。華やかなムードの新聞写真でしたよ。去年の九月、十月には、ドラゴンズはすごい負けっぷりで最下位を独走してたので、小山オーナーとしても藁にもすがる思いで、弱体ドラゴンズを立て直すべく、名将水原さんに白羽の矢を立てたんでしょう。東映を追われて一年間、TBSの野球解説をして浪人中でしたからね。名古屋とは縁もゆかりもない水原さんを説得するために小山オーナーは、水原さんと同じ高松出身の大同特殊鋼の石井社長、慶大OBの愛知トヨタ自動車の山口社長、幼馴染の野村証券増田専務取締役ら財界人の協力を得て、次期監督として秘密裡に水原さんの招聘を画策したんです。そしてついに就任に漕ぎつけました。就任会見では、その御三かたを両脇に従えるという異例の形式で行なわれました。就任会見前の彼の最初の腕試しが、神無月さんの電撃入団だったわけです」
「やっぱり運命的な出会いを感じますね」
「私も感じます。……中日球場というと、神無月さんは何を思い出しますか」
「ベージュ色の外壁、その外に突き立っている照明灯の鉄脚です。どちらもそびえてました。外壁に埋めこまれた券売口に大人100円、小人80円と書いてあった。外野席だったのかな。それからベンチ脇のカメラマン席の長さ。すごく長かった。テレビカメラも構えてた。長いフェンスに東海ラジオと書いてあった。いろいろ思い出すけど、すぐ目に浮かぶのはそんなところかな。あ、そうだ、十歳のころには背の高いスタンドネットだったのが、十二歳のころには吊りネットになってた」
「ははあ、そうでしたね、私も憶えてます。ちょうど昭和三十六年です」
 則武の家の前で菅野と別れ、ジム部屋で一とおりの鍛錬。最後に百キロのバーベルを三回挙げる。
         †  
 午後三時半、ドラゴンズのバッティング練習開始。ピッチャーはキャッチャー出身の若生和也。社会人のときにピッチャーに転向したという。立正佼成会から金と同期で入団。無愛想な顔。一度も笑った顔を見たことがない。立正佼成会の先輩小川の推薦でドラフトにかかったようだ。ふつうに速球を投げても百三十キロちょい。バッティング練習にうってつけだ。
「持ち球ぜんぶ投げてください。十球」
 水原監督とコーチ陣が見守る。気温三十・九度。ほぼ無風。
 バッティング練習は楽しんでやるものではない。あまり速くないボールにタイミングを合わせて強く振ることで、バッティングに大切な〈間〉の感覚が養われる。間がなければボールの見極めや変化球打ちができない。練習で速い球を打つと、反発でボールがよく飛ぶので楽しくなり、ボールを見極めて叩き切ることをやめて回転半径を大きくバットを回したくなる。すると肩と腰の回転スピードが鈍り、からだというコマの回りが遅くなる。当然ボールの飛距離が落ちる。回転半径は小さく、バットスピードを速くすればボールは飛んでいく。ふつうのスピードのボールを見極めて叩き切る鍛練のあとで、飛ばす楽しさはついてくる。最初から飛ばして楽しもうとしてはならない。外角シュートをレフトライナー三本、全コースカーブをセンターライナー三本、内角ストレートとスライダーをライトスタンドへライナー四本。終了。
 四時半ドラゴンズのバッティング練習終了。ケージにやってきた川上監督と握手。両監督も握手。フラッシュ。
「野球小僧対野球小僧、全力でいきましょう」
「もちろんです」
 ジャイアンツバッティング練習開始。長嶋が当たっている以外に見どころなく、五時半終了。ドラゴンズ守備練習開始。五時四十五分終了。ジャイアンツ守備練習開始。六時終了。メンバー表交換。
 中日対巨人十三回戦、スターティングメンバー発表。読売ジャイアンツ、高田、黒江、王、長嶋、槌田(ライト)、柴田、土井、森、城之内。一方中日ドラゴンズは不動のメンバー。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川(サード)、太田(ライト)、一枝、小野。
 ベンチの隣に座った太田が、
「前節の阪神―巨人戦で、村山が二千奪三振を達成しました」
「長嶋から?」
「はい。三年前の千五百個目も長嶋からでした」
「すごいこだわりだよね」
「入団が同期だからじゃないですか」
「長嶋のほうが一年先輩だよ。王と江夏も同期じゃないだろ。村山は王と同期だ。そもそも同期なんてのは関係ないと思うな。村山の千奪三振も長嶋からじゃなく中日のマーシャルからだし、同期なんてのはこじつけだよ。結局、天覧試合のホームランの屈辱が忘れられないんだね。江夏のライバル心は、村山から鼓舞されたものだ。どちらも単なる名誉欲だね。ライバル心なんてのはもとを糺せばみんな名誉欲だ」
 太田は愉快そうにうなずいた。知ったようなことを言っている私を疑いもしない。稼業プロ野球選手、それだけの男だ。かつて私が執着していたのは、生きるという方向の未来よりも、生きられないという方向の未来だった。歓喜よりも失望、幸福よりも不幸に惹かれていた。本を読むことがその信仰を支える護符だった。異様な人たちが異様なことをやっている物語を夢中になって読んだ。それは単なる架空の話だったけれども、私はほんとうの話として受け入れた。書かれていることを深く考えたわけではない。ただ別の挫折と不幸の人生に浸ることで心のバランスをとっていた。やがて、他人ではない自分の人生を取り戻そうとして、その本来のつまらなさに気づき、自分独自の人生などないと思い知った。心のバランスに破綻をきたした。そうして、あの森に入っておぞましいことをした。


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