二十八  

 あれから五年が経った。プロ野球選手。それがいまの私のただ一つの呼称だ。それ以上でも以下でもない唯一の存在のあり方。心のままにその険路を歩み、歩みつづけるプロセスこそ、私にとって命の台(うてな)だ。
 観衆三万三千人、私を私としてあらしめる人びと、私を私としてあらしめるフィールド、私を私としてあらしめる才能ある仲間たち。
 六時半プレイボール。
 一回表。一番高田、小野の初球真ん中高目の大きなカーブを引っ張ってレフト線の二塁打。捕り慣れた中日球場のクッションボール。セカンドへ低いワンバウンドで返す。二番黒江、ツーワンから高目のストレートを振って三振。王、外角へ逃げるカーブをライト前へ痛打。高田生還して一点。長嶋、ワンワンから外角低目のストレートを打ってライト前ヒット。ワンアウト一、三塁。槌田初球の真ん中カーブを打ってショートゴロゲッツー。何か危うい。ベンチに戻る小野の背中が少し丸い。
「さ、まず三点!」
 田宮コーチの檄が空元気に聞こえる。
 一回裏、中、城之内の初球の外角ストレートを三塁線へファール、二球目真ん中高目の速球をバックネットへチップファール、三球目、外角へ大きく曲がり落ちるシュートを振って三振。まずあれを打とうと決める。背中をいったんセンターへ向け、こちらに振り返り首を振りながら荒々しく投げこむダイナミックなフォーム。速球に威力がある。武器はシュート。去年ノーヒットノーランをやっている。その城之内が今シーズンは広島の外木場と同じくらい調子が悪い。現在三勝四敗、防御率四・九四。かならず打ち崩せる。
 高木、ワンツーから内角シュートを叩いてレフト前ワンバウンドのヒット。江藤、初球の外角ストレートを叩いてセンターライナー。私、ツーツーから、内角カーブをライト前へヒット。ツーアウト一、三塁。木俣ワンナッシングのあと、真ん中高目のボール球をレフトスタンド中段へ二十九号スリーラン。よし! 始まった。田宮コーチの言うとおりまず三点。菱川セカンドゴロ。一対三。
 二回表から五回表まで巨人は、打者十三人、土井のヒット一本。ゼロ行進。
 中日も二回裏無得点、太田三振、一枝三振、小野三振。三回裏、中フォアボール、すぐさま二盗、高木ライトフライ、中三塁へ、江藤ライト犠牲フライ、一対四。私外角カーブを打ってショートライナー。四回裏、木俣、低目のシュートを掬ってレフトスタンド上段へ二打席連続の三十号ソロ。一対五。城之内から渡辺秀武に交代。菱川、初球のスライダーをひょいとライト前へヒット。太田内角カーブに詰まってショートゴロゲッツー、一枝真ん中カーブをレフトフライ。五回裏、小野そのまま打って、ファーストゴロ。中、ツースリーから低目のカーブを叩いて得意の右中間三塁打。ひさしぶりのホーバークラフト。噴き上がる大喝采。高木、初球のカーブに軽く合わせてセンター犠牲フライ。一対六。江藤、内角シュートに詰まってサードゴロ。
 先発小野は、六回表土井をセカンドゴロに打ち取ったワンアウトまで絶好調だった。森の代打吉田孝司をフォアボールで出してからおかしくなった。両肩を上下させたり、左肩を回したりする。渡辺の代打滝安治をフォアボール、高田をツースリーからどうにか三振に切って取り、ツーアウト一、二塁。黒江にライト前に打たれて二対六。王にライトスタンド上段に二十二号スリーランを打ちこまれて五対六。長嶋に左中間前段に突き刺さる十三号ソロを打たれて、ついに同点。スタンドが沸騰した。一塁ベンチ上で睦子と千佳子がしきりに拍手している。二人とも敵味方を問わずホームランが大好きだ。
 ここで水原監督は躊躇なく門岡にピッチャー交代。門岡は槌田の代打国松をフォアボールで出し(これは痛い!)、柴田にレフト前ヒットを打たれ、吉田孝司にセンター前に打たれて、七対六と逆転された。ここで止まってくれ。ピッチャー伊藤久敏に交代。渡辺を三振に切って取りスリーアウト。ようやく巨人の攻撃が終了した。ベンチの気分がいやが上にも高揚する。
「さ、いけ、金太郎さん! 景気つけよろしく!」
「ガツンといったれ!」
 六回裏、先頭打者の私は渡辺の内角低目のカーブをバットの先に引っかけて、ライト最前列へ百十号ソロを放った。バットスピードだけで持っていった。七対七の同点。一塁を回るとき、
「ひさしぶりに詰まってたね」
 王の声。三塁を回るとき、水原監督に尻をやさしく叩かれる。
「これで勝ったよ!」
 つづく木俣左中間二塁打、当たりに当たっている。菱川レフトフライ、太田の代打葛城サードゴロ、一枝レフトフライ。後続三者凡退。勝てるだろうか? 勝てるだろう。水原監督の言葉は絶対だ。
 七回表、高田セカンドゴロ、黒江レフト前ヒット、王ライト上段へ二打席連続二十三号ツーラン。ベンチの水原監督がニッコリ笑った。コーチ陣も、
「オーシャ!」
 とどよめいた。宇野ヘッドコーチが、
「ものすごくおもしろくなってきたぞ!」
 ベンチの壁をバンバン叩いた。一塁スタンドが賑やかになる。巨人応援で有名な関屋さんが、三塁ベンチ上で肥ったからだをバタつかせながら紙吹雪を撒く。九対七。
「バッター、四番、サード長嶋」
 どこの球場で聞いてもいい響きだ。小学校時代から何百回も聞いてきたアナウンスと拍手と喝采。王貞治には風格があるが長嶋茂雄にはない。しかしそれが国民的人気の最大ポイントなのだ。幼いころはそのことに気づかなかった。風格というのは勝敗と関係のないその人間の息づかいのようなもので、勝負の場ではメリハリが利かない。勝ち敗けの明瞭さを喜ぶ野球ファンは、メリハリの利かないものを切り捨てる習慣がある。私は、作為的でない不明瞭な風格に魅かれる。
 ここで伊藤久敏から土屋紘に交代。ブルペンへ星野秀孝が走る。総動員だ。
 土屋初球、スピードの乗ったストレートが高目にいった! ギシュ! ひしゃげるような快音。レフト上空を見上げながら走り出そうとする長嶋の姿が美しい。私は夜空高く長嶋茂雄の打球を見送った。レフトスタンド上段へ二打席連続十四号ソロホームラン。ダブルアベックホームラン。大歓声が空へ昇る。三塁ベンチ上で紙吹雪が舞っている。
 十対七。ワンアウトランナーなし。国松、右中間を抜く二塁打、柴田の代打末次、ライトへ深いフライ、国松三塁へ。ツーアウト三塁。土井ライトライト前ヒット、国松生還。十一対七。胸が躍る。これこそ野球だ。吉田孝司セカンドゴロ。チェンジ。
 七回裏、巨人のピッチャー渡辺から〈衣紋掛け〉高橋一三に交代。彼は現在十三勝を挙げ、十二勝の小野、小川とハーラーを争っている。土屋にピンチヒッター星野秀孝! スタンドが揺れる。水原監督のパンパンパンが激しい。ネクストバッターズサークルの中が、
「秀孝、好きに打て!」
 菱川が、
「ぜんぶ振れ!」
 初球外角低目ストレート、ストライク。速い! 星野にたじろいだ様子はない。二球目同じコースへストレート、星野は前にのめって尻を突き出しながら、右手一本でセンター前へ打ち返した。
「うまい!」
 高木が思わず叫んだ。水原監督がにんまり笑っている。星野の打撃センスが抜群だったことを思い出した。バッティングでも第二の金田になれるかもしれない。いや、金田のスイングは片手バタバタ打ちだから、星野とは比べものにならない。第二の堀内といったところか。中、粘ってフォアボール。さすがチャンスメーカーだ。高木三塁前セーフティバント、ダッシュしてきた長嶋、ボールをつかんだきり動けず。
「ヨホホ、ホ、ホ、ホーイ!」
「さあ、一挙にいこ!」
「逆転しちゃお!」
 ノーアウト満塁。怒り肩高橋一三がしきりにロジンバッグを叩く。残り三回。ジャイアンツは背水の陣を敷いている。彼が打たれたら一巻の終わりだ。江藤、初球の外角シュートボールを打ち上げて、センター定位置より少し前へのフライ。末次の弱肩を知らない星野突っこめず。水原監督は何の指示も出していなかった。
「オッケー、オッケー!」
 長谷川コーチの声。この慎重さは許される。私はヘルメットを深くかぶり、ウェイティングサークルを出た。球場が騒がしくなった。悲鳴のような歓声が上がる。
「金太郎さーん! イッパーツ!」
「頼むゥゥゥ!」
「神無月打てェ! ヒットでいいぞォ!」
「金太郎さん、がんばってェ!」
 鉦、太鼓、旗。水原監督が顔の前で手を激しく叩いている。外野フライでいい。きょうは木俣が爆発している。彼にまかせる。ゲッツーだけは避けなければいけない。狙いは高目のストレート一本。外野へ打ち上げることだけを意識する。
 初球、二球目と、予想どおり外角低目のストレート。しかもコースいっぱいのみごとなストライク。フライを打たせないようにしている。吉田が、
「神無月くんの見逃し作戦は怖いからね」
 とひとこと言うと、三球目にすっぽ抜けのような顔のあたりのカーブを要求した。軽くよける。ツーワン。最終的に外角の低目で勝負にくる公算が大きくなった。王がマウンドに駆け寄り、首を突き出して何か声をかける。長嶋は足もとを丁寧に均している。土井と黒江はかなり深い守備位置だ。外野三人はほとんど塀に背を接している。四球目、内角高目のカーブ。真ん中へ落ちるが、ボールの判定。ツーツー。もう高目はきそうもない。次は外角低目のカーブと読む。打球を上げられるだろうか。内野が腰を落とす。五球目、外角へとてつもない低目のストレート! 
 ―くそボールだ、外角と読んだ以上とにかく打とう。
 屁っぴり腰ではない形で力強く踏みこみ、ゴルフスイングで打ち上げる。鈍い手応え。またバットの先だ。レフト線へ上がる。
 ―よし、フライになった。
 高田が背を丸めて敏捷に走り、打球の落下点に入る。深い。フェンスぎりぎりだ。ボールが少しファール方向へ流れる。星野がタッチアップの構えをする。私は高木が待機している一塁の手前で足を止めた。とつぜん線審の右手が回った。高田がファールグランドに転がったボールを見つめている。打球がポールの上部に当たったのだ。歓声が重なって爆発する。グランドスラム! 十一対十一、同点! 三人の走者がバンザイをして走りだす。森下コーチとタッチ。大歓声に包まれて走る。満面の笑みをぶつけ合いながら水原監督と抱擁。
「マイ、サン!」
「マイ、ファーザー!」
 花道へ胸を預けるように飛びこむ。頬にいろいろな男たちの唇が吸いつく。
「神無月選手、百十一号ホームランでございます」
 下通の声が弾む。バックネットへ手を振る。一塁スタンドへ手を振る。
 木俣、気負って初球を打ち、サードライナー。菱川レフトへ詰まったフライ、葛城の代打徳武三振。高橋一三は死んでいない。
 八回表。高橋一三、懸命にバットを振るがかすりもせずに三球三振。一番高田、ストレート、ストレート、パーム、パーム、ストレート、五球で三振。黒江ストレートのみ四球で三振。
 八回裏。
「ここで決めちゃお!」
「ビッグイニーング!」
「修ちゃん、見てけヨー!」
 早打ちの一枝、ファールを打ちながら粘って四球で出る。ファールを右に左に五本も打った。
 星野、勇躍バッターボックスへ。ツーツーまで強振するもバットに当たらず。五球目胸もとのスピードボールを窮屈そうにバント敢行! 高橋の左側に転がるナイスバント。
「ヨシャァァ!」
 一枝二進。ベンチに戻ってきた星野と全員タッチ。
 一番中。ここまで三振、フォアボール、右中間三塁打、フォアボール。出塁率七割五分。何かやってくれそうだ。ベンチが固唾を呑む。初球、半速球が内角にグッと沈む。中、からだを低くして堪える。ストライク。いまのはシンカー? 長谷川コーチが、
「おいおい、もったいない使い方するなよ。初球かよ。それ決め球だろ」
「シンカーですか」
「そう、スクリューとも言うな。直球の軌道から落ちればシンカー、カーブの軌道から落ちればスクリュー」
 大した差はなさそうだ。二球目、胸もとの速球。ストライク。中、腰を深く沈めて構え直す。三球勝負でくるか? いや、外角高目の釣り球、カーブと読む。三球目、外角低目の速球。ボール。読みが外れた。中が待っているのはシンカー? キャッチャーの吉田が大きく股を広げる。パスボールを避ける姿勢だ。
 ―内角シンカーか外角低目の速いカーブ……。
 四球目、高橋一三は全力で左腕を叩きつけた。顔が地面にくっつくほど上体を伏せる。ど真ん中にストレートがきた。
「中さん、それカーブです!」
 中も読んでいた。高速で低目に落ちてくるカーブを掬い上げる。ドンピシャ。弾き飛ばされた弾丸ライナーが右中間センター寄りのフェンスを目がけて伸びていく。ワンバウンドでフェンスにぶつかった。末次がおたついてボールを追いかける。ホーバークラフトが二塁を蹴る。一枝ホームイン。中の丸っこい小さなからだが三塁上にスックと立つ。歓声が逆巻く。十一対十二。逆転。
 江藤、みごとなセンターフライ。中生還。十一対十三。これでOK。私はお役御免だが一応打席に立ち、内角シンカーを打って強烈なファーストゴロ。


         二十九

 九回表。星野は剛速球とパームの二本立てで力投する。三番王をたちまちツーナッシングに追いこんだ。星野が何者かになりつつある。王は三球目の山なりのスローパームを強振し、右中間へ大飛球を打ち上げた。三打席連続? 快足の中、フェンスに向かってダッシュ。ライト徳武も走る。私は中継のためにショート後方へ走る。中、フェンスに片手を突いてジャンプ。捕った!
 ―ナイスキャッチ!
 徳武へトス。歓声、喚声、巨人ファンの怒声。
 四番長嶋。初球内角低目へパワーカーブ。空振り。二球目外角低目へパワーカーブ。空振り。曲がりに角度とキレがある。三球目外角高目へ猛速球。空振り三振! ホンモノだ。
 国松、ワンナッシングから、真ん中ストレートを打ってファーストライナー。江藤拝み捕り。ゲームセット。全員マウンドへ走っていく。全員星野と握手。巨人軍がすみやかに引き揚げていく。
 星野早くも五勝目。三者連続三球三振でデビューした彼は、前節の巨人戦で二十一イニング連続無失点記録を途絶させられてから、ふたたび二十イニング近くまで無失点の記録を伸ばしつつある。ベンチの隅にいた長谷川コーチがすぐに計算した。
「四十五イニングで自責点六、防御率一・二。今年の最優秀防御率は星野だな。二十勝すれば沢村賞だろう。―それはないか」
 どういう計算かわからない。しかしすごい数字だ。あと三十数試合で十四勝するのは不可能だとしても(彼をそんなに酷使する水原監督ではないし、そういうチーム状態でもない)十勝ぐらいでシーズンを終えて、最優秀防御率はいけるかもしれない。沢村賞はたぶん小川だろう。監督インタビュー。
「水原監督、巨人三連戦の初戦勝利おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ものすごい打撃戦をみごとにモノにされました。勝因は?」
「むろん打撃陣の好調さに尽きます」
「星野投手のピンチヒッター起用、当たりましたね」
「あれはわれながらファインプレーでした」
 スタンドの歓声。一人ひとり記憶の彼方へ遠く去っていった愛する人びと―彼らはあのスタンドにいない。味噌屋のけいこちゃん、三島平五郎ちゃん、福田雅子ちゃん、成田くん、千葉三郎ちゃん、内田由紀子ちゃん、柴山くん、酒井リサちゃん、クマさん、荒田さん……。あと何人去っていくのだろう。
         †
   
神無月百十一号 芸術的ゴルフ弾 
    
地上25センチを掬う
 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(20)が、今季百十一本目の本塁打を放った。対巨人十三回戦、七回裏無死満塁、ツーツーからの五球目、外角低目の完全なボール球をゴルフスイングでレフトポールまで運んだ。地面から約二十五センチのストレートをすくい上げたグランドスラムは、入団後のフェンスオーバーで二番目に低いボール。最も低かったのは、七月六日対阪神戦九回裏村山から打ったサヨナラツーランで、外角のショートバウンドのフォークボールをやはりレフトボールに打ち当てたものだった。なお身長百六十センチの選手の場合、ストライクゾーンの下限は地表から約五十五センチの高さである。地面まであと二十五センチのボールを上空にかち上げる技術は驚異的なものだとしか言いようがない。
「上がった瞬間はいくとは思いませんでした。外野フライで一点取って、星野さんに守り切ってもらおうと思ってました」
 十一対七からの同点打となる満塁ホームラン。地元テレビのレポーターも、ゴルフみたい! と興奮気味に叫んだ芸術的な一撃だった。先天的な感覚。内角低目に食いこむ右投手の変化球に対し、ポイントを前に設定してからだの内側からバットを絞り出し、スタンドまで運ぶ離れ業はこれまで何度も目にしている。外角は彼の苦手のコース。だからこそ屁っぴり腰打法を編み出した。水原監督は試合後のインタビューで、
「弓矢で言えば、後ろに引いて、真っすぐ放つ。そうすれば内角に対応できる。神無月はいつもそうしている。六回のライトぎりぎりのホームラン、当たり損ねだったが、キッチリと弓を引いて放っていた。甘い球をしっかり打つ、つまり好球必打が神無月のバッティングの基本だけれども、神無月に基本はあってないようなものだ。ときには悪球も打つ。ツーストライクからああいうボール球をホームランにできるという技術を見せつけられるだけで、バッテリーは恐怖のドン底に落ちる。その恐怖の中で配球を懸命に考えることになる。神無月は好球必打と天性の〈ヤマハリ〉を兼ね備えたバッターなので、極力ストライクを避けて、配球で打ち取るしかない。コースや球種では、魔球でも投げないかぎり封じられない」
 わが子の手柄を誇る父親の表情で語った。

         †
 八月六日水曜日。晴。六時、三十二・二度。対巨人十四回戦。観衆三万二千五百人。
 堀内に二点に抑えられた。しかし一対二で勝った。辛勝。
 得点は江藤と葛城の適時打のみ。私は一回と四回に敬遠気味のフォアボール、右中間二塁打、ファーストゴロ、四回に盗塁一。二塁打で出たとき、葛城のセンター前ヒットでホームを踏んだ。高木は三塁打二、シングル一本の大暴れで、江藤の適時打でホームを踏んだ。巨人は高田の適時打で一点を取っただけだった。
 勝利投手小川。完投。十三勝一敗。長谷川コーチに小川の防御率を訊くと、二・三四と答えた。
         †
 翌七日木曜日。晴。六時の気温三十三・○度。対巨人十五回戦。観衆三万五千人。
 敗戦。高橋明に一点に抑えこまれた。三回ずつ投げた山中、門岡、伊藤久敏の三人がそれぞれ一点、三点、六点を取られ、十対一で大敗した。門岡は初の一敗目。中日の一点は九回裏に出た木俣の三十一号ソロホームラン。私の四打席は、センターオーバーの二塁打、セカンドライナー、左中間二塁打、ライトライナーだった。
 巨人は打者三十九人、十三安打、三本塁打。高田八号ソロ、長嶋十五号スリーラン、柴田八号ツーラン。長嶋と柴田のホームランは九回に出た。巨人の猛攻に、三塁スタンドが鬱憤を晴らすように沸き立った。一回から九回までドラゴンズはほとんど守備をしている格好だった。私の前に飛んできたヒットは四本、レフトフライも四本飛んできた。三本のホームランはすべて私の頭上を越えていった。
 起用されたピッチャーの力量を考えると、水原監督が選手の気持ちをへたに緊張させないために、わざと負け試合を用意して、この先の二勝一敗のペースを示唆したのにちがいないと思った。負けは大敗にかぎる。スカッとする。
 水曜木曜とネット裏には主人と菅野しかこなかった。帰りのマークⅡの車中が話しやすい部屋空間になった。
「プロでやっていけそうです。首を切られるまでやります」
 主人が、
「何をいまさら、わかり切ってることを」
「いまさらだから言えることです。小さいころから脅かされすぎて萎縮したところがありました」
「神無月さんを脅かす?」
「はい。プロはちがう、素人にはプロの球は打てない、何万人に一人しかプロになれない……そんなふうに言われてきました。たしかにそういう素人くさい野球選手も、小学校から大学までたくさん見てきましたし、まるでひり出されたウンコみたいな、名ばかりのプロ野球選手も見てきました。彼らはプロの空気に触れたとたんにパッと活躍できなくなってしまう。きみはおいしい選手だ、きみは栄養があると褒められながら、安全な胃袋や腸の中を運ばれてきて、地面にひり出されたとたんに正体がウンコだと知られてしまう素人たちです。あまりにもそういう人たちの数が多いんで、自分だけ例外だと長いこと信じられませんでした。……関節は弱い、足も大して速くない、懸垂すら人並にできない、マラソンはビリ、百メートル全力疾走すれば吐いてしまう―自分があらゆる面で無能すぎるんで、坂道を転げるように転落していって、早々と死んでしまうんじゃないかと思ってました。いや、そういう言い方は格好よすぎます。ただ、無能を曝しながら生きつづけて野垂れ死にするんじゃないかと思ってました。無能のせいで、立ち止まって途方に暮れる生き方をするんじゃないかと思ってました。……怖がりすぎでした。要するに、学校の校庭で野球をやっているぼくを、野球を夢中でやったこともない、そして野球の才能もない人たちが、ただプロという言葉の響きを怖がって、プロはちがうプロはちがうと大げさに言ってただけだったんです。ぼくは、野球だけは学校の校庭にいたころから無能でなかったということです。最初からプロだったんです。それなのに、ほとんどの人たちは、プロにいっても同じようにできるかなとぼくのことを疑っていました。その疑いがぼくに伝染したんです。でもそのおかげで、コツコツ肩や肘を強化し、懸垂も人並にできるようになり、スピードを上げて走っても吐かない体力をつけることができました。努力を継続して、ホンモノのプロとしての自信をつけることができました。ぼくは野垂れ死にしません」
 菅野が、
「……許してやって、神無月さん。素人って、才能を見抜けないんです。マスコミを通じて才能があると報告されないと、何一つ断言できないんですよ」
「彼らを許す許さないじゃなくて、一瞬でも自分を疑ったことが恥ずかしいんです。プロ野球で半年やってきて、その疑いが消え、自分を疑った恥ずかしさもようやく消えてきました。ぼくはプロでやっていけると確信しました。このままやっていきます。立ち止まって疑うことはしません。生きつづけるには、何かをやりつづけなければいけない。人生にはたしかに始めと終わりがありますけど、その途中で始めと終わりを設定するのは不自然です」
 主人が、
「神無月さん、お母さんや西松建設の所長みたいな人たちは、これからもいなくなることはあれせんよ。ただ、残念やが、神無月さんに謝ってくれることもぜったいせん。陰で悪く言うだけや、遠吠えやけどな。神無月さんはそんなやつらに潰されずに野球をやりつづけて、いまこうしてホームランを打っとる。そういう神無月さんをワシらは心から尊敬しとるし、心から愛しとる。ワシらが神無月さんを疑って傷つけることはぜったいあれせん。だから、神無月さんを野球以外のくだらないことで失いたくないんよ。そのためには、神無月さんの自由な姿を世間の目から隠しつづけますよ。ワシらの目に自然に見えることをいくら彼らに言い聞かせも、彼らの目にはだめの皮に映ることがわかってますから」
「ぼくが奔放な言動ですね。申しわけありません」
「言動に伴う神無月さんの極端な自由さです。何ごとにつけ、不良は隠れてじめじめ生きるもんです。言うこと為すことにじめじめかまけると、そこで男の値打ちが決まってまう。神無月さんはちがいます。じめじめしていない。何を言うにもやるにも、明るく、ある種の善行と腹をくくって、人に幸せを与えて歩く。気力がないときは無理して歩かない。歩く歩かない、そのどっちにもだれ一人不満を覚えとりません。神の業ですよ。世間にとやかく言われたくないですな。その自由さをやつらに見られないのがいちばんです。とにかく野球をがんばってやりつづけてください」
「ありがとうございます」
 菅野が、
「ギッシリ並んだ試合を消化していっても、その向こうにも試合は並んでます。シーズンの切れ目を一応の目安にして、そこにいきついたとたんに、再契約、締めくくりのイベント、退団、トレード、その先にまた新しいシーズンがあります。そんなこと考えたら鬱陶しくなります。ボーッと野球をやってればいいんですよ」
「はい、そうですね。毎日つづく勝ち負けの試合に、ふっと薄っぺらい精神性を感じたこともありましたが、だれでも日々勝ったり負けたりに精力を注いでいるんですよね。学校でも、世間でもね。薄っぺらいはずがない。要はそういうものはすべて、人間の生き方の中でも、かなり自然なものの一つと考えられるようになりました」
「よかった。社長も私も世間やマスコミの目を怖がってるわけじゃないんですよ。彼らが神無月さんを陥れることを危惧してるんです。じつは楽観してるんですけどね。彼らが騒ぎ立てるということは、怖いもの見たさに似ていて、何度でも覗いてみたくなるということです。その気持ちがあるかぎり、まんいちそんな事態になっても、徹底的には痛めつけない。野球界から追放するまではいかない。なんせ神無月さんはスーパースターですからね。スーパースターが生まれつき持ってる特徴は、言動や感情の特異さと、禁欲的な雰囲気です。そういう人間を徹底的にはこき下ろせない。もちろんそういう楽観はしているにしても、まんいちのことが起こらないように細心の注意を払ってます」
「ありがとう、菅野さん」
「なんの、私の生き死にが懸かってますから。あさっては西京極ですね。名古屋から五十二分で京都、地下鉄と私鉄で十分もかからずに西京極。乗換えが面倒かも。旅館はどこでしたっけ、社長」
「今年開業したばかりの京都グランドホテル」
「ああ、それなら京都駅から歩いて七、八分ですね。球場へはホテルからバスが出るでしょう」
「二時試合開始やから、当日いく手もあるけど、やっぱりちゃんと食事したほうがええからね。あしたの夜から入っとるのが上策でしょ。荷物もきょう送ったことだし」
 菅野が、
「そうですね、車だと十二時間かかりますから、新幹線しかないですね。あしたの午前に切符買っときます。二時十七分のひかりです。あしたはランニング、オミットしましょう」
「はい、そうします」


         三十

 北村席に寄らずにアイリスの前で降ろしてもらい、九日に岐阜へ出かけてしまう素子の部屋にいった。素子は全身に喜びをあふれさせながら、せっせと具だくさんのインスタントラーメンを作った。キャベツ、モヤシ、ニンジン、メンマ、薄切りハム、玉ポン。麺をすすりながら微笑み合う。
「メイ子ちゃんも、キッコちゃんも、ほかの人たちも何ということなく足抜けできたでしょう?」
「うん」
「もちろんキョウちゃんの顔というのは大きいんやけど、ひとむかし前ならこう簡単にはいかんかったんよ。遊郭で働く子たちは、馴染みの客に身請けされるか、病気かなんかで死なんかぎり、年季が明ける前に足抜けすることはできんかった。借金の利息がすごかったからやよ。蒲団、衣装、アクセサリーなんかの必要経費も、ぜんぶ借金に上乗せされて利息をつけられた。ものすごい人気の女の子も、年季が終わる前に借金を返し終わることは無理やったんよ。戦後は、貧しい親が子を売るなんてことはほとんどなくなって、女のほうからサラリーマンにでもなるような感じで応募してくるようになった。女の子たちを縛っとるのは前借金(バンス)の問題だけ。それをお姉さんとキョウちゃんがぜんぶ払ってあげたんよ。お父さんは受け取らん言って、結局自腹切ったけど、キョウちゃんは北村家に給料から何からぜんぶ預けとる。もうみんな、キョウちゃんの人間の大きさにひれ伏しとる格好やわ。うちはバンスなんてものなかったけど、足抜けしたあとの生活費がたいへんやった。それをお姉さんがみんな出してくれた」
「そんなふうに面倒くさく考えないほうがいいよ。持っててもしょうがない金はだれかに利用してもらえばいいし、それでも余ったら、いちばん役に立ててくれそうな人に預かってもらうのがあたりまえだ。ところで免許取ったら、ローバーでどこへいくの?」
「お姉さんとドライブ。たまにキョウちゃんやムッちゃんの送り迎え。自分一人だと、どこへいったらいいかわからん」
「来年から栄養士の養成所にもかよえるよ」
「ほうやね。でも事故起こしたらあかんから電車でかようわ」
「電車か―。いつかもう一度、電車で瀬戸へいこう。うなぎを食いに」
「うん!」
 自然と抱き合い、交わる。素子は精いっぱいの快感に耐える。私もあわただしく腰を動かし、一分とかけずに射精をすませた。
「ごめんね、キョウちゃん。ここまで敏感やと、キョウちゃんもゆっくりこすってられんから、つらいでしょ」
「つらくない。女の早漏は理想だよ。ぼくも疲れないし、何回もできて楽しい」
「ありがとう」
 涙を流して抱きついた。このまま一度だけですましてしまうと、素子の心ではなく、からだにわずかに不満が残るし、二人ともまだ寝るには早い時間を持て余すことになる。私は素子のむかし語りやアイリスの噂話に耳を傾け、あいだを置いて、正常位で交わり、射精をせずに素子を満足させた。最後に後背位で交わり、痙攣する背中にぴたりと抱きついて、乳房をつかみながら射精した。その姿勢で素子が鎮まるのを待った。汗の滲んだうなじのほつれ毛が愛しかった。そのうなじを見ているうちに深い疲労に襲われ、いつしか素子に添いかけて何時間か寝入った。
         †
 八月八日金曜日。則武の寝室で九時起床。夜中の三時過ぎに帰ったので、カズちゃんたちには会わずじまい。快晴。二十九・三度。風強し。
 ランニングなしの一連のルーティーンを終え、シャワーを浴びてから、昇竜館の江藤に電話。出発前に早めに北村席の昼食にくるように言う。
 十一時前、寮住まいのレギュラーほぼ全員が北村席にやってきた。江藤、太田、菱川、星野、江島、千原、江藤省三、門岡、水谷則博の九人だった。私たちにはトンカツ、カニピラフ、テクダンスープ、リクエストがあればどんぶりめし、それにビール。一家は、簡便にカニピラフとテクダンスープですませる。江藤兄弟が、
「うまか!」
 と顔を見合わせる。
「省三も星野も、水原さんと金太郎さんの引きで一軍にきたけんが、顔ば潰さんようにせんとな」
「はい!」
 太田が、
「俺なんか、もろビキですよ。〈引っ張られた〉という意味では、みんなそうでしょう」
 全員うなずく。菱川が、
「俺は引っ張られたどころじゃない。首根っこを捕まえられた」
 なで肩、ガッチリ男の江島が、つぶらな目を私に泳がせながら、
「俺が、気合をこめずに凡打に終わったときの神無月さんの視線が怖い。やめちまえ、とでも言うようにするどく睨んでくる。日野が、あの目だけは怖い、一軍に上がるのはうれしいけど、あの目に睨まれるとスタコラ逃げ出したくなるって言ってた」
 星野が、
「ぼくにはやさしい目に見えますけど」
「才能があって、なおかつ努力するやつにだけだよ。才能だけとか、努力だけのやつは、石ころを見るみたいな目で見られる」
 水谷則博が、
「神無月さんとちがうチームにいる恐ろしさは、身をもって経験してます。いまだに浜野さんの気持ちがわかりませんよ。大学時代に相当やられたんでしょう」
 だれもその話題に乗らなかった。門岡が、
「とにかく浜野は新天地で一勝しないとね」
「寮はいつ出るんですか」
 八年選手の門岡に訊く。
「大卒は二年以上いなくちゃいけないし、高卒は四年以上という原則があるんだけど、ぜんぜん守られてないね。独身のあいだいられるだけいて、結婚したら出ていくという形のやつが多い」
 六年選手の千原が、
「二軍選手に混じって朝は七時に屋外でラジオ体操、それからめし、これがうまい。もちろん、北村席の食事よりはぜんぜんうまくないですがね。めしのあとは、めいめいグランドに出て練習したり、試合したりして、帰ってまた夕めし。そのあと屋内練習場に入る。汗を流して、風呂。できたばかりのサウナつきの風呂はものすごく広くて快適です。二軍に居ついた選手はもちろん、寮住みの一軍選手も、ちょっと出ていけません。辞めてクニに帰るときだな、出ていくのは」
「実家は東京の靴屋さんでしたね」
「うん、継ぐつもりはない」
 賑やかに昼めしを食っているとき、トモヨさんがとつぜん産気づいて女の子を産んだという連絡が入った。
「カンナだ! 八月八日、ぞろ目か!」
 新幹線の出発は二時十七分なので、日赤に駆けつけるつもりで立ち上がると、女将とカズちゃんが止め、
「私たちがいってくるから、ゆっくり食べて、のんびり出発してください」
 江藤が、
「いや、金太郎さんは顔を出さんば。ワシもいってくる。すぐ戻ってくるけん、みんな待っとれや」
 主人夫婦、カズちゃん、私と江藤、睦子と千佳子の七人、菅野の運転するハイエースで日赤の産科病棟に駆けつけた。特別出産室でトモヨさんが、皮膚に白いカスをつけた赤い物体を抱いていた。枕もとにキクエが立ち、助産婦や節子たちがカシャカシャ写真を撮っている。トモヨさんはまだらに茶ばんだ顔にじっとり脂汗を浮かべていたが、疲労している様子ではなかった。
「キョウちゃん! きてくれたの。お嬢さん! あら、江藤さんも! ありがとうございます」
 トモヨさんの手を握り、額にキスをする。カズちゃんがベッドに腰かけ、トモヨさんの頬をさすった。
「ご苦労さま。やつれてなくてよかった」
 菅野が、
「ほんとにトモヨ奥さん、思ったより元気そうですよ。直人と一週間ちがいの誕生日じゃないの。もろに年子ですね」
「ありがとう菅野さん。睦子さん、千佳子さん、わざわざすみません。これが生まれたての赤ちゃんよ、よく見といてくださいね、けっこう大きいでしょう? お義父さん、お義母さん、五体満足な女の子です。安産でした」
「ようやった! おまえに似て、きれいな子や。神無月さんの血も混ざっとるし、超美人になるぞ。これで打ち止めやな。あとはラクに生きィ。お手柄、お手柄、ほんとにようやった」
 キクエが産着にくるまった赤ん坊を抱いて私に寄り添い、間近に示した。ムニャムニャしていた。
「壊れそうだな」
「ものすごい美人よ。何百人もとり上げてるからわかるんです」
 助産婦もうなずきながら、もう一枚撮った。節子が、
「こんな美しい子、私もほしいです。出産のどんな苦しみもがまんできます」
 美しいとは思えなかった。ふと、世の女たちが産みそこなった赤ん坊のことを思った。この世の空気に触れなかった水子も、触れて形になってうごめいているカンナも、五十歩百歩という気がした。私もカズちゃんも……。江藤が、
「西京極に出かける前でよかったばい。トモヨさん、おめでとう。この子は直人くんといっしょに、陰に日に金太郎さんの励みになるやろうもん。あさって十日に、監督たちといっしょに直人くんの誕生日にまいりますけん、トモヨさんはここでゆっくり養生ばしとってください」
 節子がトモヨさんに、
「直ちゃんの誕生日の写真、たっぷり撮っとくわね」
「いまから京都に野球ばしにいってきます。じゃ、十日に」
 江藤は汗が吹き出た顔をハンカチでゴシゴシ拭いた。
「いってらっしゃいませ。きょうはほんとにありがとうございました」
 北村席に戻り、みんなと出発の準備にかかった。新参者たちには、事情が伝わっていないようで、キョトンとしていた。江藤が、
「金太郎さんとずっと野球をやっていきたかて思うなら、このことは見ざる聞かざるにせいよ。悪い頭ば巡らさんでよか」
「オイス!」
 新参者たちが声を上げた。
「じゃ、みなさん、ワシら出かけます。十日の直人くんの誕生日会には、大挙して押し寄せますけん」
 主人が、
「座敷は五、六十人は坐れますよ。どうぞ遠慮なく」
「そこまでの人数はこんばってん、十人くらいはくるかもしれません」
 主人も腰を上げ、
「じゃ、駅まで送りましょう」
「あ、見送らんでよかですよ。切り火も十人は時間を食いますけんよかです。ただの遠征試合ですけん」
 一家の者たちに門で手を振って見送られ、ダッフルやスポーツバッグを肩に十人ぞろぞろ駅に向かう。星野が、
「……感動しました。トモヨさんというのは、たぶん―」
 江藤が、
「それ以上言わんでも、おまえの言いたかことはわかる。天馬のたった一つの人間らしさたい。フロントも水原さんも知っとう。ま、そぎゃんことはどうでんよか。金太郎さん本人が何とも思っとらんけんな。ワシらも同じ気持ちでおらんと、一生の付き合いはでけんぞ。ばってん、気持ちは同じでおっても、まねしたらいけん。ワシら凡人は本気と浮気を分けるけん、決まった女と子供に対してだけがんばって責任ばとる。そのくせ、金太郎さんほど女も子供も面倒見切らん。金太郎さんに浮気はなか。エコヒイキせんけん、ぜんぶ本気たい。そのうえでどの女にもきっちり責任ば果たしとる」
「どの女にも、というと……」
「何人もおる。天然の神さまやけんな」
 千原が、
「女の人たちも神無月さんを見習って天然なんですね」
「おお、何も考えとらん女神さんたちや。男神の金太郎さんに感謝しとるだけたい」
 省三が私に、
「ほか女の人たちは子供をほしがらないんですか?」
「それぞれの心の都合があるんでしょう、産みたいと言い出しません。いずれ、ちらほら産みたがる女が出てくると思いますが、自然にまかせるというわけにも……。当人以外の手を煩わせすぎるんで」
 水谷則博が、
「神経の行き届いた豪傑ですね。女と絆を作ることに少しも遊び心がない」
 太田が、
「神無月さんはだれよりも禁欲的だよ。清潔な雰囲気がするのはそのせいだ」



(次へ)