四十六

 野球選手の一日が始まる。汗にまみれ、ほんのわずかの風でも感じながら野球をやりたいので、きょうも替えのアンダーシャツは用意しない。十四日までアトムズ三連戦。二時十五分出発。カンカン照り。三十三・九度。
「きょうもぼくたち三人ですか。このごろは、いっしょに試合を観にいきたがる人はいないんですね」
 菅野が、
「アトムズ戦ですし、優勝はもう少し先ですからね。それでなくても野球観戦は金のかかる娯楽です。一般の人は、しょっちゅう球場に足を運んで高い金を出していられないんです。そのためにラジオやテレビがある。私たちのような野球かぶれは例外です」
「ふつうは時間がないのがあたりまえでな。残業、会議、勉強会、出張、飲み会、家庭サービス、旅行。たまの休みにはダラッとしていたくなる。さあ、外に出ようという気になかなかなれん。それだけに、パチンと気分がはまって、時間を作って外に出て、高い入場料を払って観戦するときの野球は最高や。球場はそういうたまの娯楽客であふれとる」
 私は、
「たしかにそうですね。野球を現場に観にいくのは金がかかります。小さいころを思い出してもそんな感じでした。ぼくはよく会社の人に連れてってもらったけど、まちがいなく最高の娯楽でした」
 主人が、
「あえて金を払いたいんですよ」
 私は、
「そういう観客にいいプレイを見せないと、バチが当たりますね。……年間席も高い金を払ってますよ。せっかくタダで観れるんですから、どんどん申し出て、いっしょに観ればいいのに」
「最高の娯楽をタダで観るのは気兼ねなんでしょう。ワシらみたいな野球キチガイは、有料もタダも同じですけどね。とにかくきょうも打ってくださいよ」
「はい。継投、継投でくるでしょう。いまのドラゴンズは、一人じゃなかなか抑えられない」
 中日対アトムズ十六回戦。先発小川健太郎。中が休みをとって、代わりに江島がセンターに入った。ほかのメンバーも多少変えてきた。一番セカンド高木、二番センター江島、三番ファースト江藤、四番レフト神無月、五番キャッチャー木俣、六番ライト千原、七番ショート一枝、八番サード菱川、九番ピッチャー小川。
 アトムズの先発は石岡康三。一番セカンド武上、二番ショート東条、三番レフトロバーツ、四番ファーストチャンス。春に死んだジャクソンの後釜として、大リーグのエンゼルスから七月三十日に入団した男。右投左打、百九十センチの大男だ。太田が、
「今月三日の対大洋ダブルヘッダーで、本塁打を二本かっ飛ばしてます。大リーグではホームランバッターではなかったんですけどね」
 五番センター福富、六番ライト小淵、七番サード城戸、八番キャッチャー久代、九番ピッチャー石岡。もう知らない顔がない。
 一塁ベンチ上の客席のトランジスタラジオから実況アナウンサーの声が聞こえてくる。試合が始まるとラジオは消されるのが習いだ。観客も選手も試合の経過を刻々と知らされると目の前のプレイに集中できなくなるからだ。
「ここ中日スタジアム……三万一千人の観衆、連日の満員御礼……中日ドラゴンズの十五年ぶりの優勝が一戦ごとに迫ってきて……達成の瞬間をフアンのだれもが待ちわび……先発ピッチャーは、小川健太郎、打の中心は、静かなる……フルスイング……天馬神無月郷、すでに百十三本のホームランを……さあ、プレイボールです」
 一回表。武上三振、東条三塁前にセーフティバント成功、ロバーツライト前へライナーのヒット、チャンスショート奥へ内野安打。ワンアウト満塁。福富いい当たりのライト前ヒット。東条生還。ロバーツ突っこまず。四連打で一点。この効率の悪さではドラゴンズに勝てない。小淵セカンドフライ、城戸三振。小川はちょっと肩慣らしをしたという顔でマウンドを降りていく。この先は打たれないだろう。
 一回裏。高木三振。江島三遊間ヒット。江藤、二球目の内角高目のストレートをレフト上段へ四十六号ツーラン。水原監督とさりげなくタッチ、尻ポーン。私、外角低目のシュートをレフト中段へ百十四号ソロ。水原監督とさりげなくタッチ、尻ポーン。木俣、初球のインコース高目カーブを左中間前段へライナーの三十二号ソロ。水原監督とさりげなくタッチ、尻ポーン。千原、ツーツーからセンター前へ痛打、一枝三振、菱川、三塁線二塁打。ツーアウト二、三塁から、小川右中間を抜く二塁打。二者生還。打者一巡して、高木フォアボール。江島サードゴロ。一対六。
 二回裏、レフト前ヒットで江藤が出塁、私のセンターオーバーの三塁打で生還。木俣、千原、一枝と凡退。一対七。
 三回、松岡に投手交代してから五回まで試合が膠着した。その間私はセカンドゴロ。
 六回表ツーアウト、小川が福富に九号ソロを打たれ、二対七となったところで、伊藤久敏にピッチャー交代。小淵の代打赤井ファーストゴロ。
 松岡続投。打ち崩しどきだ。下通のツヤのある声が響く。
「六回裏、ドラゴンズの攻撃は、七番ショート一枝」
 初球内角低目のストレートをサードへ痛打、城戸ハンブル、一塁セーフ。歓声が戻ってきた。
「八番サード菱川章、百八十三センチ、八十三キロ、岡山倉敷工業高校出身、二十二歳七カ月。星野秀孝、江島巧、太田安治、神無月郷と並び、ドラゴンズ若手五人衆の一人ございます。拍手!」
 奇妙なアナウンスにスタンドがドッと沸いた。下通の景気づけだ。ベンチも沸いた。
「アキラ、打たんと食らわすぞ!」
 江藤の檄が飛ぶ。
「打たないと、あとをまかせられんぞ!」
 徳武の檄。ここまで三打数一安打二塁打一本。菱川はブンブンと素振りをする。初球外角パワーカーブ、一枝が走った。菱川空振り。二盗成功。二球目外角高目のカーブをのめってミート。フラフラと右中間に上がる。菱川は怪力だ。意外に打球が伸びていく。一枝がタッチアップで三塁へ進む身構えをする。ライトの赤井が塀ぎわでジャンプした。捕球したように見えたが、間近まで走っていったライト線審がクルクルと右手を回した。田宮コーチが、
「ほう、入ったか!」
 ベンチの歓声にスタンドの歓声が重なる。菱川はヘルメットを直しながら恥ずかしそうにダイヤモンドを回っている。ナイス怪力。デブシを思い出した。デブシはどうしているだろう。
「菱川選手、二十四号のホームランでございます」
 水原監督とガッチリ握手、尻ポーン。仲間たちの手荒い祝福。半田コーチの復活バヤリース。一文字太眉の菱川はうれしそうに飲み干した。二対九。伊藤久敏ショートゴロ。高木ライトライナー。
 七回表。城戸の代打豊田泰光ショートゴロ。久代センター前ヒット。松岡の代打高倉三振。武上セカンドゴロ。
 七回裏。江島ライト前ヒット。江藤ライト前ヒット。松岡から眼鏡の細身浅野へピッチャー交代。私、ライト前ヒット。江島が還って二対十。ノーアウト一、三塁。木俣レフト前ヒット。江藤還って二対十一。ノーアウト一、二塁。千原の代打太田、初球内角低目のシュートを掬い上げて、レフト看板直撃の二十一号スリーラン。二対十四。右手を突き上げ跳びはねながらダイヤモンドを回る。水原監督、尻バシーン。スーパーマンのような格好で中空に身を投げ出したのをみんなで受け止める。
「目標四十本!」
 叫んだとたん、みんなに腕を外され落とされる。スタンドの爆笑。
 一枝ファーストゴロ。菱川サードゴロ。伊藤久敏ライトフライ。
 八回表。二番東条フォアボール。ロバーツフォアボール。ボブ・チャンス三振。福富の代打大塚ショート内野安打。ワンアウト満塁。赤井の代打丸山サードゴロゲッツー。菱川のセカンド送球が目に鮮やかに残った。日本一のサードになると確信した。
 八回裏。一番高木レフト線二塁打。浅野から緒方へピッチャー交代。カーブとシュートが不気味に切れる。江島詰まったショートハーフライナー。江藤左中間テキサスヒット、高木三塁ストップ。私右中間テキサスヒット、高木還って二対十五。テキサスまで江藤とアベックなのがうれしい。木俣サードフライ。菱川ライト線二塁打、江藤と私が還って二対十七。太田センターフライ。全攻撃終了。
 九回表。クローザーに水谷則博登板。豊田キャッチャーフライ、久代ライトフライ、緒方の代打奥柿をセンターフライに打ち取ってゲームセット。小川十四勝目。ドラゴンズ六十七勝目。スコアボードの速報で、巨人が阪神に七対四で勝利していた。巨人四十三勝三十一敗四分。残り五十二試合。貯金があるとかないとか言っていたのに、いつの間にそんなに勝っていたのか。優勝はまだまだ確定ではない。
 インタビューのあとの帰り道がなんだかざわつくようになった。まさかファンたちが悪さするはずはないが、彼らの浮ついている挙動を窺う松葉会の連中の眼光も心なしかするどい。これからますますするどくなりそうだ。
         †
 八月十三日水曜日。快晴。対アトムズ十七回戦。午後三時のベンチ気温三十五・九度。ネット裏にきょうも主人と菅野のみ。ドラゴンズの先発は連投の伊藤久敏、アトムズは藤原真。
 ドラゴンズは四人、アトムズは五人のピッチャーを小刻みにつぎこみ、延長十回のシーソーゲームになった。結局六対六の引分けになったが、両軍適当にホームランも飛び出して、観客は大喜びだった。
 六回ワンアウトまで伊藤が投げ、残り三分の二イニングを山中巽が、七、八回を水谷寿伸が、九、十回を門岡信行が投げて、都合六点取られた。伊藤は五番チャンスにツーランを、山中が八番丸山にツーランを浴びた。水谷寿伸は四番高倉の代打奥柿と、チャンスに適時打を打たれて二点を失った。門岡は無失点に抑えた。
 ドラゴンズの六点の内わけは、初回に江藤が藤原から四十七号ソロで一点、高木が三回藤原から二十七号ツーラン、七回村田元一から二十八号ソロを放ち、九回にも浅野から一点適時打を打って計四点。私は四打数二安打一適時打(ショート内野安打とライト前ヒット)で一打点。多少の貢献はしたけれども、総じて目立たない一日だった。下り調子。中はきょうもベンチでお休み。
「あしたも休ませていただいて、阪神戦から出ます。膝の水を抜いてラクになりましたから、またひと月はいけます」
 そう水原監督に言っていた。十回時間切れ、六対六の引き分けに終わった。そろそろ一敗するかなと思っていたので、少しホッとした。引き分けはこれで三つ目。
 試合後水原監督に、江藤、中、菱川、太田、私の五人が、あしたの後発を言い渡された。コーチたちが一瞬心配そうな顔をしたが、
「いまチーム力が下り坂です。あしたの敗色は濃い。そういう状況で、レギュラーをむだ働きさせたくないんです。高木くんと、一枝くんと、カナメの木俣くんはフル出場、後発五人は、お呼びがかかるまでベンチの声出しに励んでください。高木くん以下三人は、あさって後発になってもらいます。あしたの試合を捨てるつもりはありませんよ。ただ、二軍の何人かにチャンスを与えたいと思うのでね」
 帰りの車の中でそのことを主人と菅野に言うと、主人が、
「そう言われれば、みんな疲れとるような感じがしたなあ。休みどきやろ」
「あしたは私ども、観戦なしの送迎だけにします。主要メンバーが出るとしても、ピンチヒッターでしょう。くれぐれもベンチで喉を潰さんようにしてくださいよ」
 直人の添い寝から解放されたイネのおさんどんで遅いめしを食い、なんだかぐったり疲れて、風呂にも入らず、ステージ部屋で寝た。水原監督の眼力は大したものだと感心しながら、すぐ眠りについた。途中で何度も目覚める寝苦しい熱帯夜だった。
         †
 熱帯夜が明けた。八月十四日木曜日。柱時計は九時半を回っている。十時間寝た。寝貯めの効果あり。からだが軽い。柱時計は三十・八度。ビッショリ寝汗をかいている。どんなに暑くても、スポーツ選手がエアコンや扇風機をかけて寝るのは厳禁だ。座敷との仕切りの襖が閉まっている。気を使ってくれたのだ。
 朝勃ちしているが、性欲はない。廊下に出、便所へ寄ったついでに風呂場へいく。新しい湯がみなぎっている。湯船に浸かって、歯を磨き、浴槽の湯を掬って口をすすぐ。
 脈絡もなくとつぜん思い出した。七歳。高島台。鹿島建設の事務所の出入口。鼻の脇にガーゼをあて、パンツ一丁、大人の下駄を履いて大股開きにしゃがみ、うれしそうに笑っている。その写真をたしかに憶えている。少年クラブの懸賞で少年探偵団手帳を当てたころだった。浅間下ではもうその写真を見かけなかった。母はあらゆる思い出を捨て去って移動する。一つの苦い思い出に拘りながら。

 ぼ ぼ ぼくらは少年探偵団
 勇気 りんりん 瑠璃の色
 望みに燃える 呼び声は
 朝焼け空に こだまする
 ぼ ぼ ぼくらは少年探偵団

 歌いながら頭を丁寧に洗う。髪が伸びた。そろそろ床屋へいかないといけない。磨りガラスからまぶしい陽が射しこんでくる。快晴に次ぐ快晴。きょうはベンチで声出しを仰せつかったけれども、ピンチヒッターの出番はかならずある。水原監督は、きょうしかこられない観客のことをかならず考える。
「下着、お願い」
「はーい」
 イネが下着とジャージを持ってきた。
「朝方、いびき、うだでかいでましたよ。ガー、ガーて」
「それで襖をピッタリか。人事不省というやつだね。独り寝でよかった」


         四十七    

 廊下を居間のほうへ戻ってくると、主人夫婦とカズちゃんたちの声が聞こえた。
「かわいいわねェ、直人。やっぱりキョウちゃん似ね。キョウちゃんの顔が優性遺伝だとすると、何人生まれてもこういう顔になるということだから、敵なしの感じだわ」
 カズちゃんの言葉にソテツが、
「優性遺伝て、ふつう醜いほうが出るんでないんですか」
「トモヨさんもきれいな人だから、どっちが出ても優性遺伝よ」
 適当なことを言っている。ところで、優性遺伝て、何だったっけ? 居間に入ると、テーブルに並べた写真をソテツも両膝突いて覗きこんでいる。女将が、
「いいお風呂やった?」
「はい」
「いびき、すごかったがね」
「イネに聞きました。水原監督の言ったとおり、疲れてたんですね。きょうはベンチでのんびりします。何ですか、それ」
「保育所の芋掘り会の写真。このあいだの土曜日。イネがいっしょにいってくれたんよ」
「西京極にいってた日か」
 長靴履いて、スコップを手に、一心に畝を掘っている直人にイネが寄り添っている。カズちゃんが、
「イネちゃんもトモヨさんに負けないほどきれいねえ。直人のお母さんと言っても、みんな信じるわね」
 イネはモジモジした。一枚の写真を指差し、
「直ちゃんが持ち上げてるこのサツマイモ、芋掘り会でいちばん大っきたイモだったんです」
「そのイモどうしたの」
「ふかし芋にして、その日のうちに直ちゃんに食べさせました。大っきたのを五つも採ってきたはんで、あとは天ぷらにして、北村でオヤツにして食べました」
 菅野が保育所から帰ってきた。
「菅野さん、昼めしのあと、すぐ中日球場に連れてってください。からだが軽いので走りこみたいから」
「了解」
         †
 早出の二軍選手たちと離れて、じっくり走りこむ。ほとんど見知らぬ顔だ。井手がブルペンのあたりでキャッチボールをしていた。走り寄って挨拶した。
「きょうは出番ですか」
 井手は軽く顔を横に振って応え、
「見学。俺は来年あたりから、まず代走でいく。打ったり守ったりさせてもらえるのはその先だな」
 三種の神器のあと、一試合分運動するつもりで、フリーバッティングを二十本。左ピッチャーの竹田和史がなげていたのですべて流し打ち。十二本スタンドに打ちこむ。そのあと守備練習に加わる。ノッカーは二軍の岩本信一コーチ。十本打ってもらう。返球のたびにコーチや選手たちの感嘆の声がしきりに上がる。カメラマンが入り混じりはじめたので、ベンチに避難。本多二軍監督がやってきた。
「いい刺激になった。ありがとう」
「とんでもない。きょうの前半は控えを命じられてるので、からだを動かしておこうと思って」
 塚田直和コーチもやってきて、
「おかげで一軍のレベルを教えてやることができました。大幸レベルしか知らないやつらにはほんとにいい刺激ですわ。きょうの試合には何人か出さしてもらえるし、感謝、感謝」
 三時に本隊が合流してからは、私はもっぱら球拾いをした。早出の選手はほぼ全員引き揚げていった。太田が、
「もうきてたんですか。電話くれれば、俺も出てきたのに」
「からだがなまりそうだったんでね。知らない顔がほとんどだった」
「二軍はこの時間帯、中日球場を使うことが多いんですよ。井出さんの三塁コンバートは無理くさいな。捕球はいいんだけど、肩がない。となると、外野はもちろん無理だ」
 チームメイトがバッティング練習をしているあいだ、ベンチ裏の通路から正面玄関に出て、全体を眺め、もう一度入ってレフト側の通路を見渡す。十五人ほどの選手の写真がズラリと掲げてある。映画館の通路とそっくりだ。映画スターのような写真で、ファンが引き寄せられる雰囲気を醸し出そうとしているのだろう。
 ネット裏席への階段を登る。見下ろす。両翼九十一メートル四十センチ、センター百十九メートル、フェンスは金網を足しても低い。二メートル十三センチ。スタンドとグランドがかなり近い。ファンは接戦になるとネットを揺さぶりながら野次る。ちょうど左中間のあたりに両チームのファンの国境のような接触点があり、特に巨人戦になると、そこでかならずと言っていいほど罵り合いや小突き合いが起こる。
 中の話では、今年はレフトを私が守っていて見物に熱心なせいでいやに平穏だが、去年までは異相の江藤が守っていたので、鬼に豆を投げるようにしょっちゅうモノが飛んできたということだ。ウィスキーの平瓶も飛んでくるので、江藤は巨人戦だけはヘルメットをかぶって守備をしたらしい。また、今年は一度も見かけないけれども、ドラゴンズの選手が決勝ホームランを打つと、ファンが低いフェンスを乗り越えてグランドに降り、選手の背中を追いかけてダイヤモンドを回るということもあったらしい。今年は陰と陽が穏やかに混在してしまった。真の〈観客〉になった。
 スコアボードの旗がバタついている。強い風だ。そもそも風がホームランに関係するなどということがあるのだろうか。風に押されたり、押し戻されたり、そんなことは私には一度も経験がない。迷信とは言わないが、影響を受けるのは弱く高く上がった打球だけだろう。
 ベンチに戻り、四時半に姿を現したアトムズ連中のバッティング練習を仔細に見る。特に、右投げ左打ちのボブ・チャンスを観察する。百八十八センチ、百キロ。来日以来この十一試合で、三割六分六厘、ホームラン四本を打っている。強打者だ。見ると、飛距離がないダウンスイング。ホームランバッターではない。しかし数字は軽視できない。ほかに練習で当たっているのはキャッチャーの加藤、ライトのロバーツ。
 六時半。対アトムズ十八回戦開始。アトムズの先発は石戸四六。ドラゴンズは門岡。四回から大羽隆広に、七回から松本忍につないだ。典型的な捨て試合。アトムズは十四安打とまんべんなく打ち、その中にチャンスの六号スリーランと七号ソロ、加藤俊夫の六号ツーラン、ロバーツの二十六号満塁弾が含まれていた。大量得点をされることは必至だったので驚かない。
 水原監督は打線も変則メンバーを組んだ。一番セカンド高木、二番ファースト千原、三番サード徳武、四番キャッチャー木俣、五番ライト葛城、六番センター江島、七番レフト佐々木孝次(先日の二軍戦を観ているので、なぜ一軍に引き上げられたかわからない。あのあとヒットでも打ったのだろうか)、八番ショート一枝。
 ドラゴンズもヒットを六本打ったが、結局木俣の三十三号ツーランと一点適時打で三点取っただけだった。チャンスを与えられた選手たちは、無気力なプレイはしなかったものの、せっかくの好機を生かそうというファイトも感じられなかった。
 八回に太田、菱川、九回に江藤、私とピンチヒッターで出たが、それぞれ外野フライに打ち取られた。そもそも顔見世のための代打なので、だれにも打つ気はなかった。
 十二対三で小気味よく大敗。石戸が九回を投げ切って十勝目を挙げた。負け投手門岡。ドラゴンズは十一敗目を喫した。
「じゃ、あしたから二十連勝いくよ。高木くん、木俣くん、一枝くんは九回のピンチヒッターだ。優勝は九月中旬のアトムズ三連戦かな。十連勝ぐらいで決まってくれれば、今月末の大洋二連戦でということもある」
 水原監督は挙手の礼をして、ベンチからサッサと引き上げた。江藤が試合後のロッカールームで、
「金太郎さんがおらんと、試合はお通夜やの」
 中が、
「コーチャーズボックスの水原さんがいちばん声を出してたね」
 菱川が、
「俺たちも張り切って声を出しましたよ。そうしないと、せっかく休養させてくれた水原さんに申しわけがなかったですから」
 コーチ連も静かにしていた。わざと取りこぼした一敗は残念そうだった。
「きょうの巨人は勝ってますか」
 私が尋くと、田宮コーチが、
「きのうは一対三、きょうは五対八で負け。四十一勝勝三十五敗、貯金六で二位。阪神が三十六勝三十八敗、借金二つで三位だ。阪神はもう圏外だね」
 小柄な佐々木孝次が折畳み椅子から立ち上がり、
「選手生活最後の三打席に立たせてもらいました。監督の情け深い配慮です。三十九年の入団以来、江藤さんのようなハッスルプレーが目標でがんばってきました。長いあいだ、いいところなしで、ご迷惑をおかけしました。一軍実働五年間で七十四打数十四安打、一割八分九厘、一ホームラン。フンギリがつきました。今季で引退します」
 江藤が手を差し出して握手した。渡哲也によく似た松本忍が、
「俺も来年引退です。三十八年入団、実働四年間で五十三試合登板して、四勝七敗でした。おととし、板東さんを四回からリリーフしたサンケイ戦で、初勝利を挙げたときがピークでした。きょう大場さんと佐々木さんと三人、二軍から呼ばれたんです。悔いのないようにしっかり投げてこいと言われました。ボブ・チャンスにソロ、加藤にツーラン、ロバーツに満塁ホームランを浴びました。プロで通用する力じゃありません。これまでほんとうにありがとうございました」
 ガタイのいい大場が、
「俺は三年間ゼロ勝です。来年は二軍いきです。トレードかもしれません。拾ってくれる球団があったら、バッティングピッチャー何でもやらせてもらいます。いい思い出になりました。ありがとうございました」
 ドラ一があえなくクビかと思った。門岡が、
「きょうは投げ納めの覚悟できたんですよ。監督は俺たちの力をあらためて認識させたかったんだと思います。チャンスにツーランを打たれて、つくづく自分の実力を思い知りました。来年もう一年と言われました。一年後の結果が凶と出ても、悔いはないです」
 江藤が、
「おまえらさびしいこと言いなしゃんな。まだ二十一、二やろうが」
 門岡が、
「俺は二十六です」
「……ま、齢は関係なか。とにかくプロをあきらめただけの話で、野球をあきらめたわけやなか。どげん野球の道も用意しゃれとう。簡単にあきらめたらいけんばい」
「はい」
 みんな明るくうなずいたが、えも言えない翳りがあった。
         †
 八月十五日金曜日。七時起床。快晴。二十六・一度。ひさしぶりに枇杷酒で長いうがい。口がスッキリする。つづけて歯磨き、ふつうの軟便、シャワー。玉子かけめし一膳、納豆めし一膳。単純な惣菜しか食えない。からだの芯が疲れている。カズちゃんからツバの長いメッシュのジョギング帽を二つ渡される。
「真っ白だね」
「白は光と紫外線を反射してくれるから、陽射しが強いときはいいのよ。一つは菅野さんにね」
 三人で北村へいく。カズちゃんが、
「冬の野辺地だけど―」
「うん、大移動は無理だね。みんなもそう思って、とっくに了解してるよ」
「それぞれ仕事や事情ができちゃったし、キョウちゃんだって、スケジュール組むのがたいへん。キョウちゃん一人でいってくるのがいいと思う」
「そのつもり。ふつうのサイクルでは生きられなくなった」
 青いビニールを垂らしたアイリスの前を過ぎる。
「改築はどうなってるの」
「今週で終わり。月曜から広い店になるわよ」
 庭で一升瓶をやってから、門の外で菅野を待つ。ジャージを着て迎えにきた菅野に帽子を渡す。
「お、ランニングキャップですね。高級品だ
 日赤まで走る。最近、ところどころのT字路にカーブミラーが設置されるようになった。見方がよくわからないし、へたに見ると実際の路上に神経が行き届かなくなって、思わぬ事故が起こりそうな気がする。菅野が、
「阪神は叩かないとだめですね。まんいちを考えて」
「阪神と巨人はぜひね」
「ドラゴンズが三十連敗して、むこうが三十連勝したら、もう背中か脇にいるわけですからね。現実的な展開じゃないですけど、あり得ないとも断言できません」
「実際にそういうことってあるんでしょう」
「三十まではないですが、今年の南海が引分け挟んで十五連敗してます。大リーグでは、一八九九年にクリーブランド・スパイダーズが二十四連敗、昭和三十六年にフィラデルフィア・フィリーズが二十三連敗してます」
「くわばら、くわばら」
 二人すぐに汗まみれになった。きょうの最高気温は三十五度の予想が出ている。三十度を超す猛暑日がもう半月もつづいている。青森の夏は七月の末から八月初めのわずか二週間で終わる。三十度を超えて海水が恋しくなるような期間は一週間もない。わずかな盛夏が過ぎ去り、盆がくるころの朝夕はすでに肌寒い。海にはとても入れない。八月末の大気は冷たく、半袖の人はいなくなる。それに比べると、東京や名古屋の夏は揺るぎがない。陽が昇りはじめたとたんに確実に暑くなる。人びとは暑さに呑みこまれる。吹雪や凍てた舗道には胸がふるえるが、暑い夏には辟易する。しかし、暑さで消耗することは気にならない。その消耗を撥ね返すことに喜びを覚える。
 ランニングから戻ると、
「無理せんと、夕方涼しくなってから、球場で走ればええんやないの」
 女将に諭される。
「汗をかいて、衣服が重くなって、あとでからだが冷えていく感じが好きなんです。もちろん球場でも走ります」
 そう言いながら、菅野と二人でシャワーを浴びにいく。シャワーのあと、主人と菅野は午前の見回りに出る。
 疲れている。音楽部屋で仮眠をとる。


         四十八

 夕刻の温度は三十一・四度。阪神三連戦初日。きょうも観戦は主人と菅野のみ。
 鏑木の命令でポール間腿上げのバック走、十メートルを休み休み十回。尻の筋肉によさそうだ。ときどきやってみよう。ミズノのスパイクが足に馴染むようになってきた。七三の割合でミズノのグローブもときどき使う。九月からはカズちゃんのグローブと五分五分でいこう。鏑木とポール間ジョギング一往復併走。百メートルダッシュ、往路復路一本ずつ。
「きょうから中さんが出られますね。芯が入る」
「中さんはこれまで十五年間で八十弱の三塁打を打ってるんですが、上には上がいて、先週東映の毒島が同じ十五年目で百三個目の三塁打を打って、金田正泰の日本記録に並びました」
「毒島の次はだれですか」
「川上の九十九、広瀬の七十六。中さんの次には、長嶋、張本とつづきます」
「長嶋の三塁打美学は有名ですよね」
「今年の中さんはちがいますが、これまでバッティングポイントの近さではプロ野球界ナンバーワンでした。引きつけて打つというやつです。キャッチャーがもう打たないなと思ってミットを差し出したところでひょいとバットが出てくる。ミットを殴って打撃妨害で出塁というわけです。これまでプロ野球で記録された七十回のうち、中さんが二十回記録してます。〈当て〉のうまさについては江夏も言ってます。中さんと近藤和彦さんは、ストライクをかならずファールするのでイヤだ、特に中さんはキャッチャーミットの直前でファールするので頭にくる、何度もやられているうちに甘い球がいってガツンとやられるって」
「すごいなあ! 一年でも長くやってほしい」
「いや、そういう技で一年でも長くはもうやらないでしょう。実際もうやってません。中さんは神無月さんがふだん言ってるようなことを、じつは、って感じでしゃべってました。入団前に、プロのボールは恐ろしく速いし、キレも並じゃないっていろんな人から脅かされてたけど、それほどじゃない、金太郎さんの言うとおり見切れるって。それで自分もいままで余裕を持ってからだの前まで引きつけて打つようにしてきた。でも、それじゃだめだ、バットスピードが出ない。せっかくボールが見切れるんだから、金太郎さんのように前で、つまり右肩より前で叩くようにしてるって。おかげで、ホームラン自己記録の十八本を今年は破れそうだって。そういう技術で一年でも長くやるでしょう」
「ぼくも相変わらずボールはよく見えるんだけど、このごろ、ホームランのペースが落ちてきちゃった。ひと月二十一試合で十六本。ホームランなしの試合が八つ、ノーヒットの試合が二つもある」
「微妙にスイングの軌道が狂ってるんでしょう。新人の疲れは予想以上です。だれも心配してません。ヒットは相変わらず打ってますからね。八月二日には、藤村富美男さんのシーズン最多安打記録百九十一本も塗り替えましたし」
「そうだったね」
「広島球場でフラワープレートを受け取りましたね」
「ああ、その日も激励の横断幕が掲げられてたけど、翌日は似島の少年たちが応援にきてくれた」
「いま二百十三本ですが、シーズンが終われば、今後だれも破れない記録になってますよ」
「そう言えば、あのガラスの皿、どこに飾ったんだっけ。北村席の賞品小屋かな」
「いつかその北村席に呼んでくださいね」
「はい」
         †
 対阪神十四回戦。ドラゴンズの先発はひさしぶりに小野。じゅうぶんあいだを空けた登板だけれども、肩の具合が心配だ。プロ野球のピッチャーの肩や肘の仕様はふつうとちがうのだと信じるしかない。
 阪神は伊藤幸雄。去年近鉄から阪神に移籍してきた二十六歳。百八十センチ八十キロの大男。四月二十日に十四号と十五号を連続で打ち、七月十二日に、ファーストゴロと一塁線二塁打を打って以来、一カ月ぶりの対戦だ。オーバースローからくねくね曲げてくるピッチャーだ。からだの奥に疲れがあるので、変化球に対応できるかどうか。長谷川コーチが、
「伊藤の嫁さんは演歌歌手の花村菊江だよ。五つ年上」
「花村菊江?」
「潮来花嫁さん」
「ああ」
 残り四十九試合。六十七勝十一敗三分けのうち、阪神に九勝三敗、大洋に十三勝三敗一分け、巨人に十二勝二敗一分け、アトムズに十五勝二敗一分け、広島に十七勝一敗。阪神には三回に一回負けている。いちばんの難敵だ。気を引き締めてかからなければいけない。プレイボール。
 阪神、初回。藤田ファーストゴロ、安藤三振、遠井三振。三者凡退。ビュンビュンとはいかないが、小野のボールがかなり走っている。肩の具合を気にしている様子はない。それでも心配だ。
 中日一回裏。中、スライダー、シュート、フォーク、すべて見逃して、ワンツー。四球目低目のカーブを狙い打って、ライトスタンド中段へ目の覚める一直線の十七号ソロ。
「ヨシャー!」
「レッツ、ビギン!」
 二、三、四番と凡退。私は真ん中にするどく落ちるシュートを打ち損ねてカスッたピッチャーゴロ。ゼロ対一。
 二回表、カークランドライト前ヒット、藤井三振、田淵右中間二塁打、カークランド意外に速い大股でドスドス還って、一対一の同点。山尾フォアボール、大倉センター前ヒット、田淵三塁ストップ、ワンアウト満塁。田淵の走塁ミスだ。伊藤三振。藤田平センターフライ。こうなる。
 二回裏、木俣カーブをレフト前ヒット、千原カーブをライト前ヒット、菱川フォークで三振、一枝落ちるシュートでサードゴロゲッツー。シュートがいい。
 三回表、安藤左中間二塁打、遠井センター前ヒット、安藤還って二対一。田淵三振。山尾セカンドゴロゲッツー。味のないふつうの展開。九回まで接戦だろう。
 三回裏、小野、伊藤がめずらしく投げたストレートを打って、ライトスタンド前段へ二号ソロホームラン。田宮コーチが、
「中日に移って四本目か。通算五本目だ」
 と呟いた。長谷川コーチが、
「小野くんは、バッティングも並以上なんだ。昭和三十六年の大毎時代にホームランを一本打ってる。中日にきた去年は二本打った。ピッチングは……三十三勝を挙げた昭和三十五年に、投手三冠とベストナインを獲ったきり、不思議なことに九年間無冠だ。この五、六年は十勝を挙げることがめずらしかった。しかし、今年十三勝もして百七十七勝に到達したね。十四年でだよ。三十六歳。どう見ても天才ピッチャーなんだ。静かで目立たないけどね。大毎、大洋、中日と、渡り歩いたすべてのチームの屋台骨になってひっそり支えてきたということだ。とうとう肩にきちゃったみたいだけど、乗り越えるだろう」
 二人のコーチは単なる事実を言いたいのではないだろう。
 ―大変革期を迎えている中日ドラゴンズにあって、山の端に沈みかけているベテランは小野一人にかぎったわけではない、小川、中、江藤……たとえもうしばらくの命運だとしても、だれもがその命運の中での狂い咲きなのだ、咲いているかぎり危惧することは何もない、反省も内省も必要ない、ただ咲けばいい。
 そう言いたいのにちがいない。小野、水原監督と固い握手。チームメイトと温かい握手。
「小野さん、ナイスホームラン!」
「親分、みごと!」
 二対二の同点。振り出し。中ショートライナー、高木レフト前へ渋いヒット、江藤サード強襲の内野安打。ワンアウト一、二塁。金太郎コールが始まる。
 ピッチャー交代。左対左、そのための交代だ。直角カーブの権藤正利。全球ドロップでくる。しかし安易だ。継投ミス。私は打つ。きょうの伊藤だったら、シュートで攻められて凡打したかもしれない。権藤は、去年王のヘルメットに当てた死球のように天井から落ちてくる感じなので、ボールを見上げてはいけない。脇目で視界に捉えながら、接近の危険度を量る。危険と思ったら極端に低くしゃがめばいい。ボールは頭の上を通過していく。王は突っ立ってキャッチャー方向にからだを傾けているだけだ。しゃがまなくてもからだに当たらないと見切ったら、肩口に落ちてくる瞬間を叩く。からだを縮めてホームベース方向へよけると頭や肩や背中に当たる。権藤からはライトぎりぎりのホームランを二本打っている。得意なピッチャーだ。きょうは大きなホームランを打ちたい。
 初球意外なスピードで外角低目に直球が刺さる。ストライク。彼はストレートも一級品だ。二球目、予想どおりの軌道でやってきたドロップを胸のあたりから叩き上げる。まともに芯を食った。いちどきに大歓声が上がる。高く舞い上がる。私にはめずらしいフライの軌道だ。時間をかけてライト場外へ消えていった。百十五号スリーラン。森下コーチとハイタッチ、ファーストの遠井に長グラブで尻を叩かれた。
「神無月選手、百十五号のホームランでございます」
 足早にダイヤモンドを回る。水原監督とひさしぶりに長い抱擁。ホームイン。木俣と初めての抱擁。高木と握手、江藤のヘッドロック。ベンチ連中と順々にタッチ。
「ダイナマイト、ホームラン!」
 半田コーチのバヤリース。木俣、千原、菱川とドロップに牛耳られて空振り三振。二対五。小野の勝利のためにはもっと必要だ。
 四回表、大倉センター前ヒット、権藤三振、藤田平右中間二塁打、ワンアウト二塁、三塁。安藤左中間を破る二塁打。二者生還、四対五。遠井センター前ヒット、安藤還って五対五の同点。やはり小野の調子は万全でなかった。水原監督がマウンドに歩いていき、走ってきた主審にひとこと言い、小野からボールを受け取る。敗色の翳りが濃くなってからの苦渋の交代だ。小野の肩をやさしく叩く。長身の背中が丸い。チームメイトも、ファンのだれも、サッサと交代すればよかったとは思わないだろう。ピッチャー交代を告げる下通のアナウンス。星野秀孝がマウンドに上がる。小野が星野の腰を軽く叩き、マウンドを降りていく。星野が水原監督からボールを受け取る。スタンドから小野に心のこもった拍手が降り注ぐ。
「小野ォ、早く帰ってこいよ!」
「きょうのホームラン、覚えとくでェ!」
 復帰の遠さを偲ばせる声援だ。みんな新聞で小野の肩の調子の悪さを知っている。
 四番カークランド、星野天真爛漫な直球勝負、三振。藤井、連続三振。あっという間にチェンジ。
 権藤は、四回裏から六回裏まで打者十四人、散発三安打、四球二で零点に抑える。私はフォアボール。星野は五回表から七回表まで、打者十人、一安打(藤田平にストレートをレフト前へ流し打たれた)、五三振、五凡打、零点に抑える。抜群のリリーフ。
 七回裏、権藤から村山にピッチャー交代。私は先頭打者でバッターボックスに入った。ツースリーから予測した真ん中のフォークを掬って右中間二塁打。村山はここからフォークで三者連続三振。三振の多い試合になった。
 五対五の同点のまま八回表になった。星野続投。大倉パームにのめって差し出したバットにカツンとボールが当たる交通事故。ライト線三塁打。村山高目の速球に歯を食いしばって振ったバットがボールの下にうまく当たってセンター犠牲フライ。六対五で均衡が敗れた。藤田平セカンドゴロ、安藤三振。
「さ、追いつこ!」
 八回裏。一枝、外角ストレートをファーストゴロ、星野三球三振、中、フォークを掬ってライト前ヒット、高木外角ストレートを見逃し三振。内低(ストレート)、中低(フォーク)、外高の絶妙の配球だった。
 九回表。遠井三振、カークランド三振、藤井三振。九個目。すべてストレート。圧巻!
「さ、こっから!」
「こっから、こっから!」
 九回裏、柿本実が出てきた。星野を負け投手にさせるわけにはいかない。ピッチャーはいちばん重労働なのだ。江藤ショートゴロ、一塁上で地団太を踏む。ブルペンから戻ってベンチの奥にいた吉沢が、
「濃人時代に、柿本は江藤の進言で二軍から一軍に引き上げられたんだ。私はその年を最後に追い出されたけどね」
 江藤はむかしから二軍選手の救済者だったのだ。自分がかつて推薦した選手に打ち取られ、新しく推薦した選手を援護してやれない。彼が地団太踏みたい気持ちが痛いほど伝わってきた。
 ―打ちますよ、江藤さん。
 しかし、田淵が立ち上がった。敬遠。怒りの声が球場じゅうに満ちる。私は二球ブンと全力で空振りし、残り四つを無表情に見送る。ピッチャーの球数を少しでも増やすための空振りだ。生きいきと走って一塁ベース上に立ち、森下コーチの目を見つめる。彼はすぐに悟り、首を横に振った。たしかに田淵の強肩を相手に盗塁は危険だ。遠井がベースにへばりつく。自重する。木俣が顔を真っ赤に染めてバッターボックスに入った。水原監督のパンパンパン。
 初球内角シンカー。小癪な、と払ってレフト前へ痛烈なヒット、ワンアウト一、二塁。千原内角スライダーを掬ってライト定位置へのフライ。私はタッチアップを控える。ツーアウト一、二塁。
 菱川がバッターボックスに入り、長嶋のように左袖を捲り上げたのを二塁ベースから見つめた瞬間、はっきり感じた。ホームランだ。サヨナラホームラン。菱川が二塁上の私を見た。私はレフトの上空を指差した。菱川はうなずいた。
 初球内角するどいカーブ。菱川は一瞬左足を引き、美しいフォームで掬い上げた。左手一本のフォロースルー。これほど美しいフォームを見たことがなかった。私は三塁へ走りながら、レフト看板の向こうへゴマ粒のように消えていく白い一点を眺めやった。サヨナラスリーラン! 六対八。水原監督と笑みを交わしながら片手ハイタッチ、木俣ハイタッチ、菱川が水原監督に抱かれる。ベンチの連中が飛び出てくる。
「菱川選手、二十五号のホームランでございます」
 菱川が仲間の袋叩きに遭う。私も木俣も平手打ちの一員になる。星野秀孝が菱川の背中に飛びつく。私は涙が止まらない。祖国にいる彼の父もいまの彼を見たら泣くだろう。
 無性にじっちゃばっちゃに会いたくなった。最後に庭の雪を裸の足裏に感じてから十六年経っている。じっちゃばっちゃがやめろと言うのに、どうしても足袋を脱いで裸足で雪を踏みたかったのだ。彼らが亡くなる前に一度会いたい。いや、何度でも会いたい。私たちはとても仲がよかったのだから。―はっきり思い出す。よくばっちゃに頼まれて、庭のカラシナの葉や、オクラや、ジャガイモを採った。あの当時は面倒だったけれど、いまは……。百歳の彼らをこの目で見たい。そのために私は生きつづけなければならない。
 勝利投手星野秀孝。六勝目。



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