四十九

 セドリックでの帰り道、主人が、
「村山を代える必要はなかったですよね」
「はい、ほぼ完璧でした。伊藤も代える必要がなかった。後藤監督のミスです。村山さんは九勝目を損しました。自分で勝ち越し点を挙げたのに」
 公民館や学校前の広場で盆踊りを踊る人たちの姿が見えた。菅野が、
「太鼓は九時に終了することになってるんですがね、みんな出店にたむろして、十時、十一時まで涼むんですよ」
「竹橋町の盆踊りは?」
「あした、あさっての二日間、牧野公園です。試合から戻ったら駄菓子でも食いにいきますか」
「いきましょう!」
 十時半に北村席に帰り着く。私を門前に降ろし、二人は最後の見回りに出る。玄関前にソテツとキッコと優子が立っていた。ソテツがツイとやってきて、
「キッコさん、きょう、私とお願いできますか。私、いちばんあぶないときなんです。でも抱いてほしくて」
「ごめん。あたし、いま赤チン発射まで秒読み段階。イネちゃんもほうやったさかい、火曜日に焦って二人で抱いてもらったんよ。イネちゃんなんかいま生理痛がひどくて、きのうから部屋で寝とるわ。すごい頭痛なんやって。天童ちゃんにいってもらったら?」
「私も始まったばかりなの。ごめんなさい」
 天童は廊下の奥へいって、幣原を連れてきた。
「私はだいじょうぶです。でも、ついこのあいだしてもらったばかりで……。ソテツちゃんが一人でしてもらえばいいんじゃないかしら?」
 ソテツがキッコにツンと肩を突かれる。
「ほうよ、怖いん? 一人でするんが」
「いえ、きちんと受けてもらえる人がいないと……」
「わがままやねえ。何でも人に助けてもらえると思ったらあかんよ」
 幣原が、
「わかりました。じゃ、神無月さん、私の部屋でお願いします。うれしいお鉢が回ってきました」
 キッコが、
「あたし、もう寝るわ。お休み」
 微笑んで、優子といっしょに廊下へ去った。私はユニフォームを脱ぎ真っ裸になる。
「とにかく汗を流さなくちゃ」
 脱衣室で二人揃って全裸になり、私と湯殿に入る。さっそく三人が湯船に浸かって和やかに会話を始める。幣原が、
「神無月さんは、人を愛し、信じる人……青年にはめずらしく……。心の捻じ曲がった人にはそこを疎まれるかもしれません」
「疎まれるのはこういう行動だよ」
 ソテツの股間を触る。キャッとうれしそうな声を上げる。
「オマンコ舐めるよ。イッてもいいからね」
 二人は湯船に沈んだからだを立ち上げ、湯船の縁に並んで素直に腰を下ろす。浴槽の縁が三十センチ以上もあるので腰をかけやすい。脚を拡げ、目をつぶっている幣原の局部を舐める。
「ああ、神無月さん、愛してます、あ、すぐイッてしまう」
 舌を離し、ソテツに移る。
「好き好き、神無月さん、好き、あ、だめ、イ……」
 もう一度幣原に移り、
「あああ、神無月さん、愛してます、気持ちいい、あああ、イ……」
 これを数秒ずつ順に繰り返すうちに二人ほとんど同時に達して、トーンのちがう愉悦の声を上げた。めいめい自由な格好で湯殿に下りて横たわり、陰阜を前後させて痙攣する。好色の徴(しるし)が私の下腹に芽生える。これが、私の疎まれる唯一の行動だろう。疎まれることはできるかぎり継続しなければならない。命を見据えるエネルギーが途絶える。尻を抱えて後ろから挿入し、交互に往復を繰り返す。二人ともたちまち腹をすぼめ、意識もなく愛液を飛ばした。苦しいほど達したのだとわかる。私は二人から離れて、浴槽に沈む。いち早く回復した幣原が湯に入ってきて、愛しげに私のものを握った。私が立ち上がるとおのずと含んだ。遅れて回復したソテツも湯殿にひざまづいたまま、幣原と交代して含む。じつに大切そうに含む。幣原が、
「羨ましい。十七歳で最愛の人に抱いてもらえるなんて」
「幣原さんも、ちょっと遅れただけです。ふつうは最愛の人なんか現れないんじゃないかなあ」
 脱衣場にすでに夜の早いうちに席のだれかが私の下着を用意してある。からだを拭き合ってから私は下着とジャージを、女二人はめいめいの衣服を手に幣原の部屋に入った。T字廊下に突き当たった右横、引き戸を立てた八畳が幣原の部屋だ。幣原が、
「神無月さん、パンパンにふくらんでますね。もうすぐですか」
「二、三分かな」
「そんな大きいのを入れてこすられるとすぐイッてしまいます。一度入れて、そっと抜いてくださると、イキそうなままの状態がつづくので長い時間耐えられます。一突きだけにしてくださいね。二、三回突かれるとイッてしまいます」
「私も」
 ソテツもうなずく。リクエストどおりに一突きしては移る。四、五突き繰り返すと、二人ぶるぶるしはじめたので、幣原に強く一突きする。
「だめ、神無月さん、もうだめ、ううん、イク!」
 うめいて達したので、ソテツを奥深く一突きして気をやらせる。
「好きです! 神無月さん、イクウ!」
 達しつづける二人に突いては抜きを繰り返し、二人とも息絶えだえとなったのを見計らって、幣原の奥深く一気に吐き出す。
「ク、ク、ク、神無月さん、死ぬう!」
 ソテツはそんな幣原に頓着なく、シーツを握り締めて苦しげに悶えている。幣原はからだをまっすぐ硬直させたまま気を失ったようになった。抜き去り、彼女が息を吹き返すまでじっと眺める。ほのぼのとした幸福に浸る時間だ。やがて幣原は深く息を吸いこみ、すがすがしそうに呼吸する。彼女に合わせるように新鮮な呼吸をするソテツの背中を眺める。呼吸が落ち着くと、幣原はティシュで股間を拭く。ソテツは私のものに屈みこみ、時間をかけて清潔にする。幣原がほっとした顔で見つめている。晴ればれとした顔で下着と服をつける。私もソテツも下着とジャージをつけた。
「じゃ、ぼく帰るね」
「送っていきます」
 人けのない玄関を出る。この二人と夜道を歩くのは初めてだ。ソテツが、
「神無月さんに遇えただけでも、とんでもないご褒美なのに……」
「私も、いつもそう思ってるのよ。だれでも経験できることじゃないって思って感謝してます。ソテツちゃんは十六歳でそういう気持ちになれて幸せね」
「はい。その、幸せを大切にするためにも、これからは神無月さんに失礼なお願いをしないで、じっとがまんすることにします」
「そうね。あなたは厨房の柱でもあるんだし、責任を持って台所を守らなくちゃね。いつも神無月さんのことばかり考えてちゃいけないわ。その気持ちとてもよくわかるけど……私も同じ。でも、やっぱり抑えないと」
「はい」
「厨房のみんなはあなたを頼りにしてるから、上の空になられると困っちゃうの。よろしくね」
「はい、すみませんでした」
「神無月さん、きょうはお疲れさまでした。―ほんとうにありがとうございました。生き返りました」
「どういたしまして。則武のほうに帰ったって菅野さんに連絡しといてね」
「はい。朝、電話しておきます。お休みなさい」
「お休み」
 椿神社から二人で引き返していった。
 カズちゃんの寝室へいき、無意識にすり寄ってくる彼女の腰に脚をかけて眠った。
         †
 八月十六日土曜日。カズちゃんやメイ子より三十分遅く、七時起床。快晴。二十四・九度。うがい、ふつうの軟便、シャワー、歯磨き、ひさしぶりに洗髪。
 一連の鍛練のあと、菅野と名駅通を則武新町まで二・五キロのランニング。腕時計は二十七・六度。ただ引き返すのも芸がないので、左折して、線路沿いの道を引き返す。マンションビル、駐車場、民家、倉庫、木造アパート。殺風景。ガードがあったので、くぐって右折。ガード下に店舗が並ぶ見慣れた風景。毎度の則武一丁目のガードを左に、中村郡道を右に見て、笈瀬川筋に入る。このまま走れば帰還だ。この道を知らなければ、右も左もわからない迷路に入りこむ。あっという間にコメダ珈琲。わが家。往復。五キロ。
「じゃ、シャワー浴びたら席へいきます」
「ほーい、待ってまーす」
 涼しいジム部屋で素振り百八十本。バーベル、百十キロ二回。庭に出て一升瓶二十回ずつ。シャワーを浴びて、すぐに北村席へ。
 赤ん坊を抱いたトモヨさんが退院してきていた。一家で母子を取り囲んでいる。直人は私に抱きつき、ひとしきり妹の頬っぺたをつついてから、みんなに手を振りながら菅野に連れられて保育所へいった。彼は自由登園の土曜日も仲間を求めて明朗な表情で出かけていく。
 カンナは泣きもせずに、順繰り人びとの腕から腕へ盥回しされた。何人もの手で祝いの席がせっせと整えられる。スマートになったトモヨさんが厨房に立つ。
「何してるんだば、奥さん。ゆっくり坐ってんだ」
「何か手伝わせて」
「だめだ。カンナちゃんに乳でもやってたらいがべ」
「早く元気にならないと、郷くんにしてもらえないもの」
「だめだめ、まんだ、まんだ」
 土日休日のカズちゃんが笑いながら、
「十人も産むつもり?」
「いいえ、これからは危険日にはしません。純粋に楽しませてもらいます」
「来月末まで禁欲しなさい。悪露(おろ)が出切るまでよ。それからはいくらでもどうぞ。それに子宮が弱ってるときは強くイケないわよ」
「わかりました。そうします」
 素直にうなずく。ソテツが、
「説得力あるゥ」
 主人がトモヨさんを呼び、先夜の誕生会の写真を見せる。
「わあ、賑やかで楽しそう。直人が伸びのびしてるわ。野球選手って、顔に輝きがあってすてき」
 私はトモヨさんの横顔に笑いかけ、
「トモヨさんは行動に輝きがある」
「どういうこと?」
「ぼくがそう思うだけ。頼りにしてるよ」
「はい。あら、ぐずりだした。お医者さんの言ったとおり、二時間ごとのお乳ね」
 着物の胸をはだけて授乳する。覗きこむ。小さな手で乳房を圧し揉みながら、斜視のような目で私を見る。
「ロンパリ?」
「二、三カ月は黒目が定まらないんです。直人もそうでした」
「ふうん、心配だな」
 メイ子や百江たち経産婦同士で、私の〈ロンパリ〉をネタに大笑いしながら、和やかな昼食になる。私はトモヨさんの胸に吸いついているカンナを見つめ、
「あっという間に北村席に溶けこんだね。生まれてまだ一週間なのに」
         †
 中日対阪神十五回戦。阪神の先発は待ちに待った江夏。さっきからブルペンでビシビシ投げている。中日は、中、江藤弟、江藤兄、神無月、菱川、太田、伊藤竜彦、新宅、の打順。セカンド高木の代わりに江藤省三、キャッチャー木俣の代わりに新宅、ショート一枝の代わりに伊藤竜彦が先発した。レギュラーを少しでも休ませるためだ。ドラゴンズの先発ピッチャーは今期四勝四敗の左腕伊藤久敏、阪神は九勝八敗の江夏。
 一回表。藤田平ショートゴロ、安藤三振、遠井セカンドゴロ。
 一回裏。高木セカンドゴロ、中三振、江藤弟セカンドゴロ。
 二回表。カークランド三振、藤井センター前ヒット、田淵三振。池田純一センターフライ。
 二回裏。私三振。江夏から二つ目、今シーズン計五個目。外角へほんのわずかに逃げるカーブだった。そこからドラゴンズは八回まで、三振、凡打の山を築いた。私の第二、第三打席は、キャッチャーフライ、セカンドフライだった。どちらも内角高目の力あるストレートを打ち損じた。
 三回表。大倉サードゴロ、江夏レフト前ヒット(はい、いつものとおり)、藤田平フォアボール、安藤が右中間の浅いところに落として江夏生還。一対ゼロ。阪神もそこから九回表まで三振と凡打の山を築いた。
 一対ゼロで迎えた九回裏。新宅がボテボテのセンター前ヒットで出塁。江夏がきょう打たれた三本目のヒットだ。伊藤久敏送りバント失敗、中三塁前セーフティバント成功。江藤弟に代わって高木がピンチヒッターで出る。乾坤一擲の一塁線バント! 成功してバンザイをしながらベンチに戻ってきた。ツーアウト二、三塁。スタンドの喧騒。江藤兄、内角高目のストレート二球見逃して、ノーツー。そこからカーブ、シュート、ストレート、三球連続ファール。六球目外角低目シュート、見逃し、ボール。ツースリー。七球目、江夏渾身のストレート、内角高目、江藤思い留まった。フォアボール! 水原監督が激しく拍手している。一塁ベース上の怒り肩に向かって私はヘルメットを挙げた。


         五十

 江夏がいつものようにプレートに屈んで、ロジンバッグにそっと手を触れる。ここで敬遠はできない。三打数ヒットなしの選手を敬遠したら、たとえそれが四番でもエースの名が廃れる。しかも押し出しで同点になれば、怖い怖いライト打ちの名人菱川がいる。
「ホーイ、金太郎さん、決めちゃお!」
「野手のあいだに打ってね!」
「外野の向こうでもいいよ!」
 金太郎さん! 金太郎! スタンドの喚声が沸騰する。
 ―外角低目のストレートを外野フェンスへ。
 イメージができ上がる。それがくるまでは振らない。初球、内角ストレート、ストライク、打ち気なく見逃す。二球目真ん中パワーカーブ、低目いっぱい、ストライク、微動だにせず見逃す。よし、これで一本外してくる。三球目、胸もとストレート、ボール。きょう私が打ち損なっているボールを投げてくる。もう一球外してくるだろう。まちがいなく外角低目だ。カーブかストレート。四球目、きた! 明らかにホームベースを外れる外角ストレート。大きく踏みこみ手首を絞って叩きつける。芯を外れた。バットが折れて内野グランドに飛ぶ。
 ―打球は?
 藤田平の頭を越えた。ゆるい球足で左中間へ転がっていく。新宅生還、つづいてホーバークラフトの中が三塁を蹴って風のようにホームに突進する。藤井から藤田平へ中継、藤田平から田淵へ矢のような送球、タッチ、セーフ! サヨナラ! ゲーム! のコール。私と江藤は肩を組み合って跳びはねながらホームベースの賑わいの中へ駆けていく。江夏は彼の尊敬する村山のようにすたすたとベンチへ歩いていく。
 インタビューは私と伊藤久敏だけだった。
「打ったボールは?」
「外角低目のストレートです」
「ツーアウト満塁、どのような気持ちでバッターボックスに立たれましたか」
「きょうは一日当たっていませんでしたが、塁を埋めてくれた仲間の奮闘に応えたい、その一心でした。江夏さんが敬遠満塁策をとらずに敢然と勝負してくれたことで、闘志が最大限に高まりました。最高のラッキーはツーワンから外角に一つ遊んでくれたことです。そのおかげでようやく打てたという感じです。ほかのボールはどの一球も打てるとは思えませんでした。内角を攻められたら三振していました」
「バットが真っ二つでしたね」
「はい、非常に力のあるボールで、おまけに芯に当てられないほどのスピードでした。飛んだコースがラッキーそのものでした」
「二試合連続サヨナラ勝ちはドラゴンズ今季初です」
「きょうも瀬戸際で勝てましたが、しっかり九三振を喰らっています。チームは絶好調とは言えません。あしたも苦しい戦いになると思います」
 水原監督の代弁のつもりだった。
「伊藤投手、五勝目おめでとうございます」
「ありがとうございます。去年一勝しか挙げられなかったのがウソのようです」
「両投手九回完投。両チームホームランなし。すばらしい投手戦でした」
「江夏さんと投手戦なんて……できすぎです。とにかく、毎試合、自分の投げない試合も含めて、意外な試合展開にドキドキして、野球ドラマを見てるようです」
 伊藤久敏はインタビューマイクの前で目を真赤に潤ませた。水原監督はベンチの前に立ち、穏やかな笑顔で私たち二人を見つめていた。コーチ陣や選手たちは盛んに拍手していた。
         †
 北村席に戻ってすぐ、菅野やカズちゃんたちと、盆踊りの出店を見にいった。すでに踊りと太鼓は終わっていて、幼い子供の姿も、ほろ酔いの男たちの姿もなかった。簡易屋根をかぶせた露店の明かりが煌々と灯り、あちこちのベンチで浴衣を着た男女や小中学生たちが団扇を手に涼んでいる。菅野と私は長串に刺した焼きイカを買い、主人夫婦は焼きソバを、女たちは綿飴とソフトクリームを買った。硬い焼きイカを歯でむしって齧りながら、紅白の垂れ幕に囲まれた櫓を見上げる。
「あしたはみんなで踊りにいくんよ」
 キッコが言った。女たちは興奮していた。ソテツが、
「直ちゃんもいきたいと言って、朝からグズッてたんですけど」
 カズちゃんが、
「連れていきましょ。ちゃんと浴衣着せて。八時ぐらいに戻って寝かせればいいから。活発な子だから、お祭りが好きなのよ。おとうちゃんに似なかったわね。お好み焼きなんか食べさせたら、大喜びするんじゃない」
 私は、
「太鼓や笛の音にじっと耳を澄ますんじゃないかな。子供はメリーゴーランドの音楽とか、ラッパの音が好きだから。犬みたいに耳をピクピクさせるぞ」
「まさか!」
 女たちが笑った。私はカズちゃんに、
「小物を買ってあげてね。思い出になる。ビー球でもメンコでもいい」
 イネが、
「ビー玉は口さ入れるすけ、危ねじゃ」
「そうだ、ぼくも野辺地で死にぞこなったことがある」
 カズちゃんが、
「お面ぐらいしか売ってないわよ」
「じゃ、それでいい。九時、十時まで帰りたがらなかったら、ぼくが迎えにいって連れ帰る。子供はお祭りの場所をあとにする気にならないものだからね。直人が世之介の気質なら、踊りに目を凝らすかもしれないな。もともと盆踊りは男女の交わりのための歌垣だったから、あの動作には微妙に猥褻なところがあるんだ」
 百江が、
「それじゃ、神無月さん、直ちゃんのお迎えは遠慮したほうがいいですよ。ミイラ取りになってしまいます。私たちが責任を持って、早めに連れて帰ります」
 また女たちが大笑いした。
         †
 八月十七日日曜日。八時起床。曇。二十五・八度。室内ルーティーン三十分。則武で朝食。カズちゃんとメイ子は、アイリスの様子見に出かける。
「五百野の原稿四回分、茶封筒に入れて机の上に置いてあるわ」
「わかった」
「適当に受け応えするのよ。肩肘張らずにね。キョウちゃんの文章は折り紙つきなんだから」
「うん」
 菅野と北村席から駅裏の太閤通口へ出て、清正公通を中村郡道との落ち合い点まで二キロ弱を往復。合計四キロ。落ち合い点の右に西福寺、左に光明寺。どちらも瓦屋根の民家ふうの寺。ここまでの家並がとてつもなく古い。崩れ落ちそうな民家や商家もある。古寂(さ)びた家並を太閤口へ戻っていく。復路はキョロキョロ目を走らせる。百日紅(さるすべり)のピンクの花が咲いている庭がある。と思ったら、そのあたりから百日紅の並木路に変わった。めずらしい。往路では気づかなかった。並木が途切れたありに枇杷島新道、さらに進むと環状線。街が繁華で背高になる。
 則武で菅野と別れ、シャワーを浴び、そっとシェーバーをあてる。爪を切り、耳垢を取る。十時十五分前、新しいジャージを着、原稿を持って北村席へいく。主人たちとコーヒーを飲みながら、きのうの試合について話し合う。
「きょうは、和子はこんのか」
 女将が、
「アイリスの食器整理と、お掃除やて」
「掃除よりこっちのほうが大事やろ。ミズノの契約のときにもいっしょにおったやないか。ほうやろ」
「和子は神無月さんが困ったり、混乱したりしてるときしか、そばについとらんて言うとった」
「困ったときというのはわかるけど、混乱て?」
「たとえ話をしおったけど、神無月さんがまんいち、自分が消えれば和子が人生をやりなおせるなんてことを言い出したときに、これが自分の人生だ、自分と神無月さんの人生だって、愛しとるからやって言うために、そばについとるんやて。ミズノのときは、手続きの仕方がわからんと困るやろうと思ったんよ。今回はなんも困ることも、混乱することもないでしょ」
「なるほどな」
「神無月さんが消えたら自分はどうなるかわからん、自分はずっと迷子だったのを神無月さんに助け出してもらったから、そういう重大なときはぜったいそばを離れんて、自分は神無月さんさえいればええんやって」
「なるほどな」
 主人の声が少しふるえた。
 午前十時少し前、中日新聞文芸部の編集員と名乗る女が北村席を訪れた。三十あと先、眼鏡をかけた、痩せぎすで、真摯な感じの女だ。仕事柄いつも机に向かっているせいだろう、少し猫背だ。それも誠実さを感じさせた。畳に正座し、座敷に居並ぶ連中に挨拶をする。
「中日新聞文芸部副編集長の落合早苗でございます。神無月さまにはお忙しい中、ご無理を申し上げました。お引き受けいただき、心より感謝しております。今後ともよろしくお願いいたします」
 彼女にコーヒーが出る。ソテツが、
「ガテマラです」
「ありがとうございます」
 卓について一口すすり、
「おいしい」
 と言って微笑んだ。私が四回分の原稿を入れた封筒を渡すと、
「神無月さまの原稿をこうして手にできて、光栄でございます。東奥日報紙の特集記事のエピグラフを拝見して胸を打たれて以来、どうにか小説を書いていただけまいかと思っておりました。念願が叶いました」
 すぐに取り出し、十枚ほど素早く目を通して、
「……天才ですね。……あらためて驚きました」
「読むのが速いなあ!」
「一応プロなので―」
 眼鏡の奥の目を輝かせながら、
「思ったとおりでした。……これはすばらしいものです。題名にも意匠が凝らされていて、著者のセンスが窺われます。連載終了後に書籍として出版されるのが楽しみです。弊社にも出版部はございますが、発表されたとたんに、大手出版社からどしどし制作の申し入れがあると思います」
「大手はお断りです。もし出版することになったら、中日新聞社のほうでお引き受けください」
「ありがとうございます。それでは今後、そのような心づもりで編集に携わらせていただきます」
 薄い革鞄の中身を探り、
「こちらは執筆契約書でございます。稿料ほか、校正箇所に同意できない場合は著者の責任のもとに原本に戻すことができるといったことが記されております。一読なさって、ご署名ください」
「読まなくていいです」
 主人が、
「いやいや」
 と言って、たった一枚の紙をじっくり読み、うなずいた。私は署名捺印した。
「作中の歌詞等の著作権はこちらで確認いたします。まことに些少ですが、これは執筆を了承いただいたことに対する謝礼金五十万円の小切手でございます。四回分の原稿料はノンブルを確認しまして、謝礼金とは別にあしたの午前中に振り込ませていただきます。一掲載分、原稿用紙で十五枚程度を予定しておりますから、お約束どおり原稿用紙一枚一万円で、四回分六十枚、六十万円前後になります。税金の処理はこちらでいたしましょうか? 微々たるものですが」
「お願いします」
「わかりました。今回の分も含めて、次回からもこちらで処理させていただきます。では領収証にサインをお願いいたします」
 落合はゆっくりコーヒーを飲んだ。
「北村席さまは永代顧客ということで、来月から朝夕、近所の新聞店から弊紙をお届けするようお取り計らいいたします。次回原稿は第三日曜日に受け取りにまいります。今回のゲラは四回分まとめて、一週間後にお送りします。もう一度手を入れた場合も入れなかった場合も、その日から二、三日中に送り返してくださいませ」
「わかりました。もうぜんぶ書き上がっているので、きょうお渡ししようと思ったんですが、思いついて手入れをすることもあるかもしれませんから、次回すべてお渡しいたします。早く手もとから離したいので」
「わかりました。受け取った原稿は、回数をこちらで割り振って校正いたします。そのつどゲラ稿の手入れや、返送の手続はお知らせしますのでご安心ください」
 主人が、
「新聞小説に新人を登用するというのは、冒険でしょうな」
 落合は眼鏡を押し上げ、
「たしかに試みとしては冒険でしょうが、この作品は成功を保証されています。一読してわかりました。冒険と呼ぶほどあやふやなものではありません。天分のままに、想像力を駆使して、資料や取材と関係のないリアルな作品を書ける作家を現今の日本に見出すことは難しいです」
 私は、
「これはフィクションだと?」
「まちがいありません。自然な表現なので、私どものようなプロの編集者か、作品に登場するモデルでなければフィクションだと気づかない描写があります。神無月さまの身の上は、噂や報道物に頼らずに、小学校、中学校と遡ってできるだけ細かく下調べをいたしました。噂以上のものでした。お母さまが神無月さまにしてきた仕打ちを考えると、とうていこの作品の内容は信じられるものではありません。お母さんが実際より美しく描かれています。理想の母親像を作り上げた想像の産物です。でも、そこが読者の胸を打ちます。これほどの想像力があれば、いずれ多作家になるでしょう。野球で国民を代表するかたが、いずれ文学で国民を代表するかたになることはまちがいありません」
「ほう!」
 主人のため息に合わせて菅野がうなずいている。静かにしているトモヨさんは目に涙を浮かべ、座敷や厨房はざわめいている。私は、
「ぜんぶで十六章から二十章になると思います」
「先ほど数えたところ、章立てがそれぞれ十七枚、十四枚などと散っておりますから、その枚数のまま毎週掲載いたします。来年単行本化した場合、印税は三%から十三%でございますが、野球等による中日新聞社への多大な貢献度を鑑みて、最高限の十三パーセントをお支払いいたします。本の定価は六百円から八百円を予定しております」
 そう言って、正座をした格好でもう一度畳に向かって頭を下げた。


         五十一

 対阪神十六回戦。この試合が終わると、中一日の休みを挟んで川崎へ飛び、十九日、二十一日と、大洋と隔日で二連戦、二日置いて二十四日から神宮でアトムズ三連戦、即日帰名して二十六日から大洋三連戦、翌日上京して二十九日から巨人と三連戦と超ハードなスケジュールになる。この間に優勝が決まるかもしれない。
 ロッカールームへ仲間たちと揚々と歩いていく。回廊をすれちがうほとんどの球団関係者が頭を下げる。一歩退がって道を空ける人もいる。花園町から青高へかよった堤川の土手道を思い出す。他校の学生たちがよくそうしたものだった。あのころの得意な気分はまったくない。ロッカールームに入る。
「おはようございます!」
 一枝が銜(くわ)えていたタバコの灰を叩きながら、
「おはよす。金太郎さんはいつも元気だな。見ていて気持ちがいい。俺は青息吐息だ。勝ちつづけるのもけっこうつらい」
 中が、
「でも、そろそろランナーズハイになるんじゃないの」
「快楽ホルモン? だといいけど。選手生活六年、このしんどさは初めての経験だ。金太郎さんの爪の垢を煎じて飲みたいよ」
 みんなでベンチに入る。十年間愛しつづけた中日球場を一望する。外野を照らすポール間四基の照明塔。黒いバックスクリーンの右奥の緑のスコアボード。土と芝の扇形の美しい内外野フィールド。ベンチ。バッティングサークル。ホームベース脇に二台据えられたケージ。吊り下げネット。内外野スタンド。ネット裏特別席。内野とバッテリー間を照らす四基の照明塔。
「ちょっと内野スタンドの通路を歩いてきます。お客さんが入らないうちに」
 先日散策しなかったコースだ。関係者通用口のドアを開けて一般入場ゲートへいく。《内野席入口》の表示。三塁側内野席裏の通路を歩く。ところどころの階段から球場の光が入ってくる。
 回廊に食い物店が延々とつづく。ビール・酒、たばこ、ジュース、たこ焼、焼そば・うどん、氷、コカコーラ、ラーメン、カレーライス、牛どん、ポカリスエット、どて煮、フランクフルト、串かつ、いか焼、みたらし、とん焼、手羽さき。こんなに食い物屋があるとは知らなかった。避難経路図。公衆電話。トイレの男女標識もある。雲を見上げながら光の階段を昇る。眺め渡す。
 かすかな弧を描くフェンス。客席へ降りていく。青い座席、B―516。腰を下ろしてグランドを見る。美しい! 選手たちが動いている。私もああいうふうにスタンドから見えるのだ。十年前、何度もここに坐った。そして、緑と焦げ茶のコントラストに打ちふるえた。カクテル光線の放射に酔った。観客のざわめきに胸を轟かせた。
「独り歩きは危なかよ」
 後ろに江藤と太田と菱川が立っている。三人、私に並びかけて腰を下ろす。菱川が言う。
「野球場は美しいですね。神無月さんみたいです」
「ぼくは……。こんな美しい場所に引き止めてくれた人たちに、何と言って感謝すればいいかわからない」
「何も言わんとホームランを打っとればよか。いつまでも遊んどろうや。金太郎さんの遊び場やろ」
「はい」
 高木や中たちがフィールドから私たちに手を振った。水原監督も宇野ヘッドコーチも気づいて手を振った。振り返す。
「遊びにいくか」
「ウス!」
 阪神のバッティング練習のあいだに観客がギッシリ埋まった。光球のほとんどに灯が入る。ネット裏の予約席に菅野だけが座っている。六時両チーム守備練習終了。メンバー表交換。スターティングメンバー発表のアナウンス。パンフレットと照らし合わせながら聴く。
 先攻阪神タイガース、藤田平、四年目二十二歳、背番号6、安藤統夫(もとお)、八年目三十歳、背番号9、遠井吾郎、十二年目三十歳、背番号24、ドンくさい動きが気にかかるが、眼鏡をかけた飄々とした風貌が好きだ。ウィリー・カークランド、二年目三十五歳、右投げ左打ち、背番号31、爪楊枝のモンジロー、往時のサンフランシスコ・ジャイアンツでトリプル・ウイリーとしてウィリー・マッコビー、ウィリー・メイズとクリーンアップを打った男、去年三十七本塁打。藤井栄治、八年目二十九歳、右投げ左打ち、背番号19、外野守備の名人と言われている。田淵幸一、言わずもがな。池田純一、五年目二十三歳、右投げ左打ち、背番号32、バッティングフォームが往年の並木に似ている。大倉英貴、三年目二十五歳、背番号1、エラー男で有名。先発は村山。
 後攻中日ドラゴンズ、中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝。先発は小川健太郎。ブルペンで張り切っている。いつもより変化球の切れがするどい。まず打たれないだろう。
 左耳にいつもの、サーン、という耳鳴りがある。もともと聞こえない右耳にはない。あの森の夜から始まった音だ。物心つかないうちに右耳を失って以来、左耳を使いすぎたせいもあるかもしれない。物音を聞き取るのに支障はない。背負う障害はいくつあってもいい。うれしくなる。どうしてうれしくなるのか考えたことがあった。障害が人生の象徴でも神秘でも夢でもなく〈事実〉だからだった。事実を体感して生きる充実感を覚えるからだった。明滅霧消が自在な夢幻には不足感がない。曲げられない事実には、悲しみや怒りや驚愕や絶望という感覚の躍動がある。
 作家は―人間それぞれの異なった事実を取りまとめて、不足感のない夢幻を創り出す虚業だ。胸の内に固持しているその夢幻を〈真実〉と呼んで自得している。虚業に贈られる賞賛には根拠がなく、いずれ不満を覚えて霧消する。作家は人間を総合するという夢幻を捨て、個人の事実だけに固執し、不足感を基に躍動する感覚を読者に与えなければならない。真実の縁飾りは、個人の事実により近いものにし、それでいて落合早苗に見抜かれたようなあからさまなものにしなければならない。叶わない理想だと納得してもらえるからだ。
 ドラゴンズの監督コーチ陣が緊張している。よほど重要な試合と見ているのだ。この三連戦は、負け癖がつくかつかないかの分岐点になる、ということだろう。彼らにはそれが長年の経験でわかるのにちがいない。〈事実〉の集積からもたらされる不安という感覚の躍動。ベテラン選手たちもむだ口を叩かず、ベンチから首を突き出したり、ベンチ前に出たりして小川の投球練習を見守っている。
 六時半試合開始。チームメイトが守備に散る。阪神の球団旗が三塁側の内外野スタンドで翻る。取り消せない〈事実〉を期待するざわめき。藤田平が打席に入る。
「一番、ショート、藤田平、背番号6」
 三塁スタンドの歓声。平太鼓の音。
「プレイ!」
 太田球審の甲高い声。パリーグの露崎に比肩するほどの裂帛の気合ではない。もとボクサーで有名な露崎は、気の毒に線審をやらされることが多い。パフォーマンスに気を使いすぎてストライクとボールをよくまちがえると苦言を呈する選手が多いせいだ。私は別にそうは思わない。言いがかりだろう。オーバーアクションにもかかわらず、彼のコース判定は精密だ。見逃し三振のときは、左足を畳んでジャンプしたあと、ストラッキー! と叫んでワンツーパンチ。空振り三振をコールするときには、バッターアウー! と奇声を上げながら空手の蹴りを見せる。じつにすてきだ。セリーグの松橋は、見逃し三振のとき頭上で右手をクルクルさせる格好がいい。あのクルクルも奥ゆかしくて好きだ。
 藤田はバットを肩に担ぐように寝かせて、スイと振るバッターだ。私はいつでも蹴り出せるように利き足の右足を少し後ろに、前屈みに構える。小川、初球胸もと快速のストレート、ストライク。二球目、外角低目のストレートを流し打って私の前へヒット。私はチャージをかけずに前進し、やや腰を落として捕球すると、セカンドベースに入った一枝へ手首を利かせたノーバウンドで返球する。小川にしては投げ急いだ少し甘い球だった。
 二番安藤の初球、すかさず藤田盗塁。木俣、矢のような送球、高木タッチ、グローブをかいくぐってセーフ。藤田の盗塁を初めて見た。案外速い。判定はボール。ノーアウト二塁。安藤、二球カーブを空振りし、外角シュートを見逃して三振。
 三番遠井、ツースリーから真ん中高目の速球をこすってキャッチャーフライ。
 四番カークランド、外角シュートを器用にセンター前へヒット。当たりがよすぎて藤田還れず。ツーアウト一塁、三塁。
 五番藤井、シュアなバッターに対して、内角へカーブを二球つづける。ファール、ストライク。内角攻め。藤井の弱いコースだ。三球目、内角高目の直球。空振り三振を取りにいった。藤井ふんぞり返るようにしてハッシと打つ。まともに当たった。太田は一瞬追う姿勢を見せたきり一歩も動かない。一直線にライトスタンド中段に突き刺さった。小川がうなずいている。ホームインを確認した木俣もまったく気にしていない様子だ。
「藤井選手、今シーズン第一号のホームランでございます」
 三対ゼロ。長い攻撃になりそうだ。
 六番田淵、やはり内角攻め。高目に詰まってショートフライ。チェンジ。水原監督がベンチからコーチャーズボックスに歩いていく。すれちがいざま、
「さ、焦らないでコツコツいくよ!」
「はい!」
 阪神の先発は村山。後藤監督が彼の耳に何か囁いて送り出す。おととい自分の采配のせいで大ベテランが勝ちを逃した責任を感じているのだろう。肥満が始まった村山のコロリとしたからだに、阪神の縦縞のユニフォームが似合わなくなってきている。
 中がバッターボックスに入った。初球外角高目から沈みこむシュート、ボール。村山のダイナミックなフォームは健在だ。彼を初めて知ったころから〈ザトペック投法〉という代名詞は知っていた。ザトペックとは何のことかは知らなかった。西高のころ中村図書館で調べて知った。昭和二十七年のヘルシンキオリンピックのマラソン優勝者エミール・ザトペックのことだった。彼は当時三十歳のフィンランドの工員で、顔をしかめ、あえぎながら走る姿から人間機関車と言われた。全身を使い闘志剥き出しで打者に向かっていく村山の投法がそのザトペックに似ているというので、ザトペック投法と呼ばれるようになったようだ。阪急の米田の人間機関車のあだ名もザトペックからきているとわかった。しかし村山も米田も苦しげにあえいで投げないし、ザトペック自身、実際の記録フィルムを見ると、首を左右に振るくらいでダイナミックな走法でもない。スイスイ走る。道中カメラを向けられると、おどけた笑顔で応え、まったく苦しげに見えない。円谷の苦しそうな走り方とは対照的だ。ただその追いこみの強烈さから、測り知れないスタミナの持ち主だとわかる。
 二球目外角低目のカーブ、ストライク。サードとショートがセーフティバントを警戒して前に出る。三球目、内角へフォーク。ストライク。すごい落差だ。次もくる。四球目、真ん中へフォーク。中、かろうじて当ててセカンドゴロ。ワンアウト。
「モリリチ、初球たい! ぐずぐず待っとるとフォークがくるばい」
 江藤が高木に声をかけながら交代でネクストバッターズサークルに入る。高木は強くうなずき、バッターボックスに向かう。
「ヨッ!」
「ホ!」
「ヨー!」
 コーチたちのいつもより緊張したかけ声。水原監督のパンパン。進撃開始の合図だ。村山は異様に防御率のいい投手だ。これまで四度も一点台の防御率を記録し、最優秀防御率も二度獲っている。得点圏でめったに打たれないということだ。初球、内角低目の速球。ガシッと例の音を立てて白球が三遊間を抜いていく。
「ヨシャ、いけ!」
「一点でも返しとこ!」
 江藤ワンボールから内角のシュートを見逃す。ボール。二球目、ススッと高木が二塁へ走る。外角に投球を外して受けた強肩田淵のセカンド送球が高く逸れ、高木セーフ。ノーツー。三球目外角カーブ、待ってましたとばかりひっぱたく。右中間をあっという間に抜いた。高木、手を拍ちながらゆっくり生還。江藤スタンディングダブル。ヨ、ホ、ヨー! パンパンパン。三対一。
 フォークはつづけて投げると指が痺れるので、要所でしか投げないと新聞か雑誌の記事で読んだことがある。しかし、村山はそんな常識を意に介さない。私には連続で投げてくるだろう。しかも初球から。カウントが悪くなったら、一塁が空いているので歩かせばいい。
 低く踏み出した村山のからだがバタバタと暴れ、エイヤ! と腕を振る。真ん中、胸の高さにストレートがきた。いや、ストレートのはずがない。ブレーキのするどいフォークが落ちた。ワンバウンド。田淵は胸に当てて止めた。これが見せ球だとすると、同じコースの高さへ小さいカーブ。江藤を進塁させない内野フライを狙ってくるだろう。ゆるいゴロだと進塁になるからだ。パンパンパン、水原監督の拍手。
 バットを高く構える。高目を高いまま叩き斬る。二球目真ん中ハイ。速球かカーブかスライダーか。何でもいい。打ち下ろす。真芯でミート。低いライナーになる。ボールが先でお辞儀をする角度だ。外野のあいだへいけ! いかない。カークランドの頭へいった。そのまま伸びろ! 捕球されそうだ。カークランド逆シングルでジャンプ。グローブの先で弾いた。ボールが転々とする。カークランドが追う。江藤生還。私は二塁を蹴り三塁へ滑りこんだ。パンパンパン、歓声、三対二。水原監督がうなずく。スコアボードにHが点っている。
 つるべ打ちになる。木俣左中間二塁打。私生還。三対三。菱川ライト前ヒット。木俣生還、三対四。ワンアウト一塁。太田レフト前ヒット。ワンアウト一、二塁。一枝センター前ヒット。菱川自重して満塁。六連打。小川センター犠牲フライ。菱川生還。三対五。ツーアウト一、二塁。中ライト前ヒット、太田生還。三対六。頑としてピッチャーの交代はない。高木三振。
 三対六のまま二回から試合が止まった。白熱する投手戦になった。二回表から七回の裏まで両チームとも仲よく散発三安打、三振六、ゼロ行進。ヒットは江藤のシングルと三塁打、一枝のライト前。私はセカンドゴロゲッツー(ゲッツーを喰らったのは野球生活で初めてだった)、ファーストボテボテのゴロ(江藤三塁打のとき打点一)、それからレフトライナーだった。七回を終わって三対七。
 八回表、ピッチャー水谷則博に交代。大倉左中間二塁打。村山三振。藤田平一塁線二塁打、大倉生還。四対七。安藤三振。遠井の代打和田徹右中間シングル、藤田生還。五対七。カークランド三振。
 八回裏。村山続投! 三十三歳、スタミナ健在。木俣三振。菱川の代打葛城三振。太田の代打江島レフト前ヒット。一枝サードゴロ。チェンジ。村山はベンチに退がるとき、次の回の交代を言い渡されたのか、それとも自分の意思なのか、内外野のスタンドに向かって高々と手を挙げた。大拍手が湧き上がった。味方が逆転すればクローザーに投げ切ってもらって勝利投手になる可能性があるし、逆転しなければこのまま負け投手だ。たぶんこのまま試合は終わるだろう。人は年をとるとツキが逃げていくものなのだろうか。肩に氷袋を縛りつけた小川が、
「きょうも九勝目を逃したな。村山さんは二十勝以上五回、一・二の最高防御率二回。大投手中の大投手だ。今年も防御率一・八一で江夏と競ってるんだよ。三十三歳でね。俺も三十五歳だなんて弱音吐いてられないよ」
 九回表、則博続投。藤井ライト前ヒット。田淵レフト前ヒット、逆転を喰らわないことを願いながら一枝へ素早く返球する。七番池田純一の代打辻恭彦、三振。村山の代打山尾、サードゴロゲッツー。試合終了。サード守備に入った葛城の大きな背中が軽やかにベンチに駆け戻る。小川十五勝目。ドラゴンズ七十勝目。大事な三連戦が終わった。大勢の報道陣がメモ用紙と鉛筆を手にまとわりつく。いつもより明るい気分でハキハキ応える。


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