五十八

 八月二十二日金曜日。九時起床。曇。二十七・五度。ルーティーン。と言っても、ランニングとジムトレとシャワー抜き。
 きょうから二日間の中休み。選手たちはほとんど出払っている。午前十一時、ブレザーを着てフロントに降りる。
「いちばん近い美術館はどこですか?」
「青山の根津美術館です。タクシーで十分ほどです。日本、東洋の古美術品を主に展示しているようです。入館料はたしか四百円……」
「ありがとう」
 ロビーのソファにくつろぎ、スポーツ新聞を読む。だれのじゃまも入らない。仲間たちの姿もない。見出しに星野の名前が見えた。大きな見出しだ。ゆっくり読む。

  
星野の球威なら直球待ちの四番も抑えられる
   
一四一三試合出場の捕手が驚いた! こんな球筋見たことがない
 中日ドラゴンズ一昨年度ドラフト八位星野秀孝投手(一九=沼田高校)が十九日、川崎球場のブルペンで行なった投球練習を往年の名捕手土井垣武氏(四八=前報知新聞評論家・前阪神バッテリーコーチ)が視察した。新宅相手に立ち投げ四十四球。土井垣氏は課題を指摘しつつも、そのストレートの威力に驚きを隠さなかった。
「これを見るために大阪からきた。捕手のほぼ真後ろで星野のストレートを体感してみた。すごかった。評判の高さ、テレビ映像などから大いに期待してきたが、期待以上のすごさだった。江夏のように足を高く上げ、剛速球を投げこんでくる。私がこれまで受けた投手、対戦した投手の中にこんな球筋があったか? いや、なかったと思う。四十四球のうち、リリースポイントが乱れて左下に流れるボールや、シュート回転するボールが七、八球あったが、それ以外はしっかり指にかかっていた。このボールがあれば、試合の正念場でも、四番打者相手にストレートで勝負できる。たとえ打者がストレートに的を絞っていたとしても、この威力なら勝負球として通用する。力を入れた投球もいくつかあったが、最後の最後までからだが開かず、ボールの出どころが見づらい。一年半の二軍生活でだいぶ逞しくなったと聞いた。しかし、まだからだが細い。ときどきフォームにブレが出るのも下半身のひ弱さからだ。これからトレーニングを積んで下半身を鍛えたあとの星野はどんな球を投げるか、非常に楽しみだ。投球後、太田一軍投手コーチ、新宅捕手と星野の四人で話をした際、星野はさりげなくパームの握りを見せてくれた。ボールを親指と小指で挟むその仕草に、得意球に対する自信を感じた。あのストレートにさらにパームかと思わずにいられなかった。どれほどのピッチャーになるのか、もはや想像を超えている」
 太田コーチの話。
「パーム以外の変化球を投げようとするとき、フォームにブレが出る。フォークやナックルを隠れて練習しているのは知っているが、私は見て見ぬふりをしている。いずれモノにするんじゃないかな。機嫌よく何の心配もなく投げてくれれば、余計な変化球がなくても球界ナンバーワンのピッチャーであることはまちがいない」


 絶賛がうれしかった。星野が表舞台に立ったと確信した。
 玄関に待機しているタクシーに乗る。いつか乗せてくれた運転手ではなかった。無口そうな中年の男だ。行き先を告げると走り出した。弁慶橋を渡り、赤坂見附の信号から青山通りに入り、高橋是清記念公園、赤坂郵便局、青山一丁目。左折。運転手がポツリと、
「根津嘉一郎というのは明治から昭和の初めにかけての政治家で、根津財閥の初代ですよ。いろんな鉄道会社の再建に取り組んだ人で、火中の栗を拾う男とか、ボロ〈買い一郎〉とも言われました。結局は鉄道王と呼ばれましたがね」
 本田技研本社を過ぎ、青山斎場を過ぎる。何やら奇妙な円筒と角柱の寄せ木のようにでこぼこしたビルの手前を右折。上り坂になる。左右に広々と墓地が拡がる。見渡すかぎり緑に包まれた墓石の群れ。これが有名な青山墓地か。
「青山墓地ですね」
「はい、青山霊園です。東京都の運営で、個人の敷地は貸付じゃなく買い取りです。二百万から四百万。一般人は手が出ません。まあ、園の六割が緑地で二キロの桜並木があるくらいですから、高くてもうなずけますけどね」
「どういう人たちが眠ってるんですか」
 運転手は暗誦するように、
「有名どころでは、大久保利通はじめ維新の志士のほとんど、犬養毅、池田勇人、上野教授と忠犬ハチ公、北里柴三郎、代々の市川団十郎、作家では国木田独歩、斉藤茂吉、志賀直哉、実業家では御木本幸吉」
「根津という人は?」
「武蔵野の多磨霊園です」
 青山陸橋を渡る。緩やかに左へカーブする下り坂。不意に根津美術館に到着した。初乗り料金プラス六十円でこれた。運転手はサインを求めなかった。
 敷地の引き道に導かれて歩いていき、三鷹の禅林寺の山門に似た格調高い趣の門をくぐる。自宅を改造した建物だと一目でわかる。収蔵庫の中の清潔な展示室に入る。大ガラス戸の中におもしろい造形の灯籠のようなものが二つ立っている。一瞬で飽きた。いろいろな展示室への導路が見えるが、進まずに裏手の出入り口から庭へ出る。
 池がある。水中を覗きこむと、たくさんのメダカが泳いでいる。丸々と太った魚影がある。肩も立派に張り出したヘラ鮒だった。錦鯉もちゃんといる。石造りの流れこみから青灰色の水が注いでいる。岸辺に小さな石菩薩が立っている。巡っていくと、茶室弘仁亭という建物に出た。熱田神宮の又兵衛に似た腰掛待合があったので、ベンチに坐る。左端に木舞竹を組んだ下地窓、その左下に石塔婆と表示された仏像がちんまり立っている。左端はふつうの板壁。
 大石を飛び石に埋め込んだ木立の下の遊歩道を歩き出す。石のあいだに土があるので足の感触が柔らかい。男性器のような不思議な形の石柱が立っている。望柱石という標示板が添えてある。手前にサツキの灌木が植わっている。
 望柱石の道を隔てた向かいにでんと収蔵庫が据わっている。そこへ戻る前に、岩を組んだ階段を五段登って、屋外サロンのような空間に出る。突き当たりにマントルピースらしきものがある。なんとも用途不明の空間だ。こういう場所が好きだ。推測するに、戦火で根津邸が焼け落ち、マントルピースだけが残った、それを補強し、シンボルにして、とりあえず屋外の休憩スペースとした―。美術館に期待していた雰囲気ではなかったが、あてもなくやってきた気持ちにまとまりがついた。これでよかった。根津という男が何者なのかはどうでもよい。遠くにマンションの高架水槽が見える。
 庭の散策を終え、黒ずんだ板塀の重厚な美術収蔵本館へ戻っていく。外界から閉ざされた収蔵庫の中で美術品を鑑賞するという感じ。主役が美術品か来館者かのちがいとも言える。中に入って鑑賞する気はない。収蔵庫の前に存在感のある金属製の灯籠が立っている。金銅八角燈籠と標示があり、説明文がついていた。
『天平勝宝四年(752)、東大寺大仏の開眼供養が挙行された。大仏殿の正面には八角の燈籠が置かれた。この燈籠はそのレプリカである』
 東大寺なら千年小学校の修学流行でいった。康男のいないさびしい旅だった。ひたすらうつむいて行列について歩いていたのでよく憶えていないが、巨大な大仏殿を見上げた記憶はある。その大仏殿と朱色の中門とのあいだの砂利敷きの境内に、大きな鉄灯籠が丸い柵に囲まれて立っていたような気もする。ここからも収蔵庫の屋根の向こうに高架水槽が見えた。
 館前の駐車場に停まっていたタクシーの一台に乗り、ニューオータニへ帰った。やはり仲間たちの姿はない。野球が恋しくなった。部屋に戻って、机に載せてあったテレビ・ラジオ番組表を見ると、金曜日なのでセリーグは全試合がなく、パリーグはすべての試合があり、後楽園では東映―西鉄戦をやることになっている。現場に観にいけばファンたちに取り囲まれることになるだろうし、現場で観ないならば何のおもしろ味もない。
 軟便を出し、シャワーを浴びる。二時。腹がへっている。朝から食っていない。ロビー階のサツキへいく。十七階のサツキは円盤の中なので好まない。ガーリック醤油風味のポークソテー、野菜サラダ、ライス。
 考えてもいくところがない。だれも恋しくない。名画座。三番館。埋もれた名作。オールナイト。テアトル新宿へいくことに決める。もう一度タクシーに乗り、新宿へ。弁慶橋とは逆方向の新宿通りへ出て、四谷、四谷三丁目、一曲がり二曲がりして、新宿五丁目の交差点に着く。東口のテアトルビルの前の雑踏の中に降ろされる。二百八十円。
 焦げ茶色の入口脇の張り出しビラを見る。殺しの分け前、俺たちに明日はない、暗くなるまで待っての三本立て。入場料は百五十円。十時からのオールナイト上映はと見ると、土曜日のみの興行で、喜劇駅前開運、喜劇駅前火山、喜劇駅前桟橋、社長繁盛記、続・社長繁盛記の五本立て。急に興味が失せる。三本立てを観て帰ろうかとも思ったが、やっぱりどこかの封切館で一本立てを観て引き揚げることにする。
 すでに三時。歌舞伎町を歩き、ミラノ座で、サム・ペキンパーのワイルド・バンチを観ることに決定。三時二十分から五時三十五分まで。ピッタシ。八百円の券を買い、大ガラスの入口からツヤのある石の回廊を進む。ロビーへ通じる吹き抜けの階段を昇る。新宿の喧騒とは対照的な落ち着きがある。座席後方の出入り口から入る。豪華な館内。椅子もゆったりしている。
 ときは二十世紀初頭。登場するのはワイルドバンチと呼ばれる実在の強盗団と、専制政治を求めながら革命軍と苦闘しているメキシコ政府軍。その両者の駆け引き。こういう映画はわかりにくいのでじっくり観る。
 強盗団はテキサスでの強盗に成功したが(ここでまず彼らの首を狙うならず者の賞金稼ぎたちとの派手な銃撃戦)、戦利品の袋を開けて見ると銀貨のはずが鉄屑だった。賞金稼ぎたちの仕掛けた罠だったと知り、彼らの追跡を逃れるために強盗団のリーダーの故郷であるメキシコに逃れる。そこはゲリラじみた革命軍のせいで荒れ果てていた。強盗団はその革命軍に援けを求める。政府軍との戦いに苦慮していた革命軍の首魁は、強盗団の庇護を条件に、アメリカでの武器略奪を持ちかける。強盗団のリーダーは了承する。
 ここから双方の裏切りによって話が入り組む。それを単純化するための卓越した列車強盗のシーン、ならず者たちまで入り混じった凄まじい銃撃戦、大量の流血。ワイルドバンチどもは滅びたいのだろうと思った。滅びは認識であって、気質ではない。彼らは金と欲にまみれた悖徳漢だったが、友情に篤い気質だった。悖徳と愛は両立すると知った。いい映画を観た。
 池袋に出て、文芸坐に向かった。ハシゴ。山手線はラッシュ時で、ブレザー着た眼鏡の背高ノッポは目立たない。東口から文芸坐通りへ。いつかここでレズビアンショーをめぐって一悶着あった。パチンコ屋、ヌードスタジオ、ストリップ劇場。妖しい通りだ。文芸坐到着。一九五○年代のアカデミー賞特集をやっていた。フレッド・ジンネマンの地上(ここ)より永遠(とわ)に、ジョセフ・マンキウィッツのイヴの総(すべ)ての二本立て。入場料二百円。地上よりは二時間、イヴは二時間半の映画で、終映九時五十分となっている。
 場内に入るとすでに地上よりは半ばに差しかかっていた。この映画は去年の春、東京に出てきたばかりのころに、新宿か中央線沿線のオールナイト館で一度観たことがあったので、安心して席に着く。客席にはアベック以外のさまざまな人種がいる。後頭部だけでわかる。人種は揃っていても、満席にはほど遠い。スクリーン脇の〈禁煙〉のライトがタバコの煙に霞んでいるのがおもしろい。
 パールハーバー間近のハワイ駐在陸軍兵営内の話。好きな俳優バート・ランカスターとあまり好きでない俳優デボラ・カーの不倫。ランカスターだけが純愛を秘めている。やるせない瞳のモンゴメリー・クリフト。ランカスターへの反撥と和解。記憶をなつかしみながら眺める。モンゴメリーの顔は渋みがあるのに初々しい。交通事故で顔面をやられる前のきれいな顔だ。陽のあたる場所や終着駅の彼も美しい。顔をやられたあとはゴツゴツした雰囲気になった。奇跡的に整形をして復帰したというが、荒馬と女では目がへんにギョロギョロしてぎこちなかった。映画がエンディングに近づく。やるせない瞳が予感させるとおり、モンゴメリーが最後には死ぬことがわかっているので、そっとロビーに出て売店のコーラを飲む。命の停止は目撃したくない。
 席に戻る。近隣のいくつかの商店の短い宣伝フィルムのあと、イヴの総てになった。神秘的な目の〈目というよりは目玉の〉ベティ・デイビスと骨太で顔の大きいアン・バクスター。わくわくする。
 二時間半、身動きせず観た。希望のない憐れな映画だった。バクスターの嘘の人生歴と貪欲な上昇志向と姦計、そして彼女に騙されていく人びと。驕った人間同士の協和と駆け引きがあるだけで、胸を揺すぶる人間が一人も登場しない。人間信頼が薄れていく。わくわくするどころではなく、心が塞(ふさ)がった。
 イヴの素朴な面貌に潜むドロドロした野望が生々しい。私が本能的に芸能界を嫌うのもゆえのないことではないと感じた。上昇欲に費やす頭が切れすぎるからだろう。誇り高き頭脳に不安がないので、不安のある器に関心が集まり、切れる頭脳に見合った万全の器を売り出そうとする。売り出さなくても、いずれ相応の器が完成するのに……。拍車がかかる野心は見るに忍びない。すてきな頭脳をくるむ溶液に滓(おり)が溜まるからだ。底知れない闇のような滓。
 私のようにもともと頭脳に不安がある人間は、それを磨き高めることにばかり関心が集まり、劣った頭脳をくるむ溶液をどうにかして純化しようとする。誇大な外づらを打ち出す野心など掻き立てる余裕がない。想像すらできない。魂の大仰な容れものにあこがれる人間は、魂そのものを不安の滓に浸している。滓の闇に沈んだ魂が発酵して憐れなにおいを放っている。それが人間の名望欲というもので、少しも異常なものではない、嫌悪する者の魂こそ悪臭を発していると人は言うかもしれない。それならば、私はそのにおいを嗅がれないようにその人たちから遠ざかろうと思う。
 映画館の外の夜道に出る。保土ヶ谷日活からの帰り道のようなすがすがしさがない。空しさだけがある。ハシゴなどしなければよかった。


         五十九

 八月二十三日土曜日。目覚めると十二時半だ。しっかり寝た。カーテンを開けると雨が降っている。江藤たちが恋しい。そう思ったとたん、ドアがノックされた。
「金太郎さん、だいじょうぶね!」
「はーい!」
 下着のままドアを開ける。江藤たちが立っている。中、高木、木俣、一枝、菱川、太田、星野。
「どうしたんですか、みんなで」
 高木が、
「どうしたもあるか。めしも食わないで何してるんだ。二日間寝てたのか。さ、歯を磨いて、めしいくぞ」
「はい!」
 全員部屋に入ってくる。ベッドに腰を下ろす。窓の外を眺めたり、机の上を見たり、テレビを点けてみたりする。私はブレザーを着て風呂場にいって歯を磨く。
 十七階の回転式展望台にあるサツキでランチ。ここの品出しはセルフサービスだ。平均千円前後。四割引のお子さま料金というのもある。一枝が、
「回転展望テーブルは六十、四人掛け三十、二人掛け三十で合計百八十席。厨房カウンターは回らないから、二度目のセルフにいって戻ってくると、席は多少変わってるぞ」
 めいめい、メンチカツライス、ビーフカレー、ハヤシライス、チキンオムライス、きのう私が食べたポークソテー、黒毛和牛のハンバーグライス、高木はアメリカンクラブハウスサンド、私はスパゲティミートソースを受け取って、ウェイターに案内され、七十分で時計回りに一周する座席に着く。ん、眼下の地面が動いている。
「ほう、何度きてもすごかのう! ここはあっという間に満席になってしまうけん、予約ば入れんと座れんたい。十時に予約入れといた」
「めし食うの忘れるほど速いと、酔ってしまう客がいるのでこのスピードにしたそうだ」
 中が言う。オリンピックの年にできてから五年、ベテランたちは何度もきているようだ。濃緑の木立の向こうに、薄いロクショウ色の屋根を覗かせる迎賓館赤坂離宮、都会のビル群、東京タワーなどが次々と望まれる。たしかに手もとがおろそかになる。太田が、
「飲み物は追加料金だそうです」
 菱川が、
「サツキ以外の店も入ってるから、和洋中、何でも食えます」
 秀孝が、
「タイ料理もありましたよ」
 木俣が、
「寿司も、天ぷらも、鉄板もある。こんどきたらステーキを食おう」
 絶えずウェイターやウェイトレスが水を継ぎ足しにくる。一枝が、
「デザートのケーキがすごい。不二家パーラー並だ。アイスクリームも六種類ある。……俺、酒も好きだけど、甘党でもあるんだ」
 雨に煙る景色を眺めやる。近くにニューオータニの庭園、池。色鮮やかな鯉が泳いでいる。遠くにビルの群。こうして見ると、新宿も池袋も近い。中が、
「二日間顔を出さないんで、みんな心配してたんだ」
「きのうは午前から根津美術館、一度帰って、ロビーのサツキでめしを食ってから、新宿と池袋を回って、映画のハシゴをしてきました」
 一枝が、
「クラシックと映画はまかせてよ。何観てきたの」
「新宿ミラノ座で今月封切りのワイルドバンチ、池袋の文芸坐でイヴの総て」
 木俣と菱川がステーキを注文しにいった。
「イヴの総ては、味のよくない映画だよな」
「そうでした。登場人物を愛せなくて。あと味のいい映画は、たとえばどんなものがありますか」
「フランク・キャプラかな。スミス都へ行く、素晴しきかな人生。人間味満点だ」
 中が、
「我が家の楽園もね」
「ワシはいっちょ映画観んけんな」
 若い太田と星野も自分も同じだというふうにうなずく。残念そうでもない。これでいい。時間の使い方は、人それぞれのリズムで決められている。私は、
「今夜後楽園へいきませんか。東映―西鉄戦。四位と五位の戦いですけど、何か見どころはあるでしょう」
 江藤がたちどころに、
「なか。尾崎が出ん。張さんが、これまで見てきた最高のピッチャーは、右は尾崎、左は江夏と言っとる」
「どちらも利き腕を替えた選手です」
「江夏は世間で言われとるとおり、兄貴が左投げのほうが格好ええから左投げにせんねって勧めたゆうんが掛け値なしのところやろうが、尾崎は周りの話とちがっとった」
「父親に矯正されたという話ですね」
「おお。尾崎は張さんの浪商の後輩たい。そこの事情をよう知っとる。尾崎は昭和十九年生まれでいま二十五歳。野球をやりだした戦後まもなくのころは、左利き用のグローブなんぞほとんどないけん、買いとうても高くて買えんかったから右で投げるしかなかったと。それが幸いした。金太郎さん、尾崎の握力はプロに入って計ったら、右が八十五、左が六十五やったとたい。金太郎さんとほとんど同じやろう。高目に伸びるボールば放る速球投手はなんぼでもおるばってん、低目のホップボールはその二人しかおらんて。ワシもオールスターで対戦して三振ば喰らったが、低目に見えたボールが横ぶれしながら胸まで上がってきたのには仰天したばい。秀孝も尾崎に近づいてきとる」
 高木が、
「尾崎は百六十キロと言われてたからな。平安高校時代から彼のことを知ってた衣笠も、史上最速は尾崎だって言ってた。秀孝もいまプロでいちばん速いだろうけど、尾崎まではあと四、五キロだろう。体重つければ球速は増すし、低目もホップする。おまえいま何キロだ?」
「七十キロです」
「尾崎は八十三キロだぞ。もっとめし食って、筋肉つけろ」
「はい!」
 木俣と菱川が持ち帰ってきたステーキをナイフとフォークで食いはじめる。一枝が、
「十年前に契約金六千万は、いや付帯金を合わせると一億円以上と言われた金は、いまの金太郎さんの七千万の優に三倍の価値だろう。甲子園で目立ったか目立たなかったかの差なのにな。くだらん」
「張さんが言うには、肩を壊したんはボーリングのせいやなかかて。何しろボーリングが好きで、せっせとボーリング場通いをしとったっち。めちゃくちゃ力をこめて投げるけん、ピンが壊れてしまったこともあるげな。で、ある日、ガクッと肩に違和感たい。ワシはボーリングやら指のマメやらがほんとうの理由やなかったと思うばい。高校からの蓄積疲労やと思う。金太郎さんが尾崎にバリあこがれとったけたけん、ワシも張さんに尾崎がとつぜん投げられんようになった理由ばしつこく訊いたっちゃん。おととしのシーズンの途中のことやったと。九月の初め、先発登板前にブルペンで投球練習ばしとったとき、目の前八メートルぐらいのところにボトッとボールが落ちたそうや。次のボールを投げようとしたら激痛が走って、もういっさい投げれんようになったっち。そこまで六勝十四敗、その年はそれからいっさい登板なし。痛みばこらえて去年今年と投げて、零勝二敗。投球回数はぜんぶでたった三十六回、奪三振十、被本塁打十、自責点六。悲惨たい」
 中が、
「……つくづく惜しい選手だ。田宮コーチが言ってた。尾崎のデビューは、昭和三十七年の四月八日、大毎との開幕第二戦、場所は神宮球場、ダブルヘッダーの第一試合だったそうだ。三対三の延長十回の表に中継ぎで出てきた。まず葛城さんをピッチャーゴロに打ち取り、榎本、山内を連続三振に切って取った。山内があとで言った感想は、あの内角に投げこまれる剛速球には死の危険さえ感じたというものだった。鮮烈なデビューだよ。しかもその裏に決勝点が入ってサヨナラ勝ち、記念すべきプロ入り初勝利を飾った」
 太田が、
「高校一年からエースとして甲子園のマウンドに立ち、プロにきてからも、とつぜん投げられなくなるまで平均五十試合に登板していた数字を見ただけでも、酷使が最大の原因だったことは疑いようがないですね」
 中が、
「尾崎の背番号19は水原さんの巨人現役時代の背番号なんだ。そのくらい目にかけてた選手だった。金太郎さんと同じように、監督自身で実家まで獲りにいった選手だったからね。彼を大事に育てるために、高商の後輩で、巨人と近鉄でプレイしたあとスポーツ紙で評論家をしていた多田文久三(ふくぞう)さんを東映の一軍ピッチングコーチとして招いた。尾崎のコンディション管理に当たらせるためだ。それで尾崎は四年間ヘタに過剰な練習やブルペン準備をしないですんだ。三年前、多田さんが大川博オーナーと対立したとき、水原さんがうまく庇えなくて、多田さんは二軍コーチに降格された。それからは尾崎のコンディションを管理する人間がいなくなって、登板のない試合でもブルペンで準備させられるようになった。で、翌年、ボトッとボールが落ちた。水原さんが常々、尾崎がつぶれたのは自分のせいだと言ってるのはそのことなんだ」
 私は、
「不世出の剛球投手が、ほとんど無冠なんですね。しみじみとうれしいです」
 江藤が、
「無冠と言ってええやろうのう。三十七年に新人王、四十年に最多勝利二十七勝、最優秀防御率……タコ」
「0・86です」
「その年にベストナイン。それだけやけん。日本プロ野球史上最速ピッチャーがのう」
 一枝が、
「……ま、とにかく尾崎がいなけりゃ、話のタネがない。慎ちゃんの言うとおり、観にいってもつまらんな」
 こんなふうに尾崎行雄は忘れられてはならない。衰えを惜しまれて忘れられてはならない。全盛時代をもっと認識され、讃えられ、人びとの記憶に残らなければいけない。比類のない剛球は彼の唯一の才能であり、だれにも持てるものではない才能であり、彼の命を最も盛んに燃やしたエネルギーだったのだから。そういう人間の個人史にだけ惜しみない賞賛は降り注ぐ。
「からだがなまる。走らんね」
「そうしましょう」
 中が、
「だめだめ、雨が降ってるじゃないの。それに外は三十度をとっくに超えてるよ。せっかくの二連休だ。しっかりからだを休めておかないと。優勝前の大事なからだだ」
「それもそうやの」
 ラウンジに降りて、大窓から庭の緑を眺めながらコーヒーを飲んだり新聞を読んだりすることにする。よく見るとジャージ姿は私だけで、みんな半袖ワイシャツにズボンを履いている。
「ちょっと着替えてきます。腹も渋ってるし」
「ほうやの。タコ、ついてけ。またフラフラどっかにいってしまうけん」
「はい」
 菱川も部屋までついてきた。排便し、シャワーを浴び、長袖のワイシャツとズボンに着替える。菱川が、
「煩わしいでしょうけど、……心配なんですよ」
「わかってる。ありがたいと思ってます。ぼくもとてもうれしいんです。人恋しくなってたところだし」
 太田が、
「きょうは夕食が終わるまでは、だれかが神無月さんについてるってことになったんです。監督と江藤さんの命令です。……菱川さんが言い出したことなんですけど」
「すみません。俺、ほんとに心配なんですよ。できることなら、一日じゅうついていたい気持ちです。そうもいきませんけど。……ときどき、……試合中でさえ、神無月さんは遠くを見る目つきをすることがあるんです。ゾッとするんです。……俺、いや俺たちみんな神無月さんと別れたくないんです」
 私は菱川の手を握った。
「ぼく、頭はたしかですからだいじょうぶです。ぼくこそ、できればいつもみんなといたいんです。ほんとにありがとうございます」
 ラウンジに降りた。私たちが降りるとすぐに、みんなホッとしたような表情になり、
「じゃ、晩めしでな」
「優勝前の最終ミーティングがあるそうだぞ」
 などと言いながら、各部屋へ戻っていった。私たち三人は秀孝も交えてあらためてコーヒーを飲んだ。秀孝が、
「夕食会にカメラが入るそうです。中さんが気にしないようにと言ってました」
 三十分ほどで解散し、部屋に戻ってテレビを点けた。NHK教育をぼんやり流す。


         六十

 会食場で、水原監督が十分ほどしゃべった。報道陣のカメラが回った。
「ミーティングと言うと集まりがいいのでミーティングと言っただけで、ミーティングではありません」
 爆笑。
「二敗して連勝、一敗して連勝、引き分けて連勝、勝ったり、負けたり、勝負なしだったり、野球は楽しいですね。しかし所詮、戦争の楽しさです。人はそんなことを本気で楽しんではいけない。戦いを基本とすることを楽しんではいけない。この世のものごとは、勝ち負けを忘れた静かな心を通してこそ輝きます。友情と愛情が渾然となった静かな心。それさえ保っているなら、きみたちの天賦に従って戦争ゲームを楽しみなさい。私も混じって楽しみます。その心があれば、ドラゴンズは利口者ではなく信頼できる人びとの集団になるでしょう。そういうチームならいくら勝ってもいいし、いくら負けてもいい。堂々としていて、見苦しくない。堂々と戦った結果の勝利も敗北も、胸を張るべきものになりますからね」
 盛大な拍手。
「ところで、これからは味方スタンドからも野次が増えます。確実に。しかしそれは怠慢なプレイを見せた選手にだけです。内野ゴロでも全力疾走を欠かさないような選手にはけっして拍手を惜しみません。巨人時代にも、東映時代にも、今年はもうダメだ、今年はやられたというあきらめたらしい気配の者もありました。こうなったら早くオフになったほうがいいという気配の選手です。そのたびに私は、彼らには言いませんでしたが、まだ終わっていない、まだチャンスは残されている、私は勝とうとする者だけといっしょに試合をする、と思ったものです。ドラゴンズにはそんな選手はただの一人もおりません。ここになら私は骨を埋められます。―優勝が近づいてきました。さりげなく優勝しましょう。本多二軍監督、吉沢くん、足木くん、その三人以外のメンバーは初体験になります。しかし、さりげなくです。叫んでもよろしい、泣いてもよろしい。それが人生の最大価値でないということをキッチリと胸にしまっておきながら、狂喜乱舞してください。私も中空に舞います」
 盛大な拍手の中で会食になった。
 その夜、ベッドの枕もとに埋めこまれたラジオで、ニッポン放送ショウアップナイター西鉄―東映戦を聴いた。初回から最終回までじっくり耳をそばだてた。二対三で東映がα勝ちをした。西鉄の村上公康が二回に第十号ツーランホームランを打った。得点はそれだけ。東映は金田留広が投げ、打者四十人に十安打を打たれながら完投勝ちをおさめ十五勝目を挙げた。西鉄は新人の東尾修、七年目の中井悦雄、永易将之が投げ、六安打しか打たれなかった。大下剛史の二点適時打、大杉勝男の一点適時打を打たれ、五回三分の一を投げた中井が負け投手になった。
 平和台のオールスター第三戦で、金田留広からセンター前ヒットを打ったことを思い出した。尾崎は登板しなかったが、いつ彼が中継ぎに出てきてもいいように神経を尖らせつづけた。
         †
 神宮球場。アトムズ―中日戦。八月二十四日日曜日、十九、二十回戦のダブルヘッダーと、二十五日月曜日の二十一回戦は、すべて晴れ上がった空のもとで行なわれた。
 七対三という同じスコアで三連勝した。勝利投手は、小川健太郎、水谷則博、土屋紘。小川十六勝目、水谷則博三勝目、土屋は二つ目の勝ち星を挙げた。則博の喜びようは尋常でなかった。
 私は三試合で二本のホームランを打った。二十回戦の石岡と二十一回戦の緒方勝からだった。十九回戦の松岡からは打てず、四打数一安打(ライトフライ、ライトフライ、二者を還すレフトオーバーの二塁打、センターフライ)に抑えられた。二十回戦は三打数三安打(二者を還すセンターオーバーの三塁打、ライト上段へ百十八号ツーラン、レフト前ヒット、四球二)、二十一回戦は三打数一安打(四球、セカンドゴロ、バックスクリーンオーバーの百十九号スリーラン、ショートライナー、四球)。三試合十打数、五安打、二塁打一、三塁打一、フォアボール四、打点九。この三試合の私以外のドラゴンズのホームランは、江藤四十九、五十号、高木二十九、三十号、菱川が二十六、二十七号、一枝と代打の千原が十二号と五号を打った。江藤はついに五十号の大台に載せた。星野は小川の中継ぎで四回投げ、水谷則博の中継ぎで門岡が四回投げ、土屋は完投した。最終二十一回戦は九時五分に終わった。
 ニューオータニに戻って、返送荷物をフロントに差し出し、あわただしくチェックアウト。あしたは夕方六時半から中日球場で大洋戦だ。その翌日から巨人と三連戦という強行軍。この二日間、巨人は広島に三連勝で、四十八勝三十三敗五分け、ドラゴンズは七十五勝十一敗三分け。あとのチームは借金が十前後かそれ以上あり、相手はしっかり巨人だけに絞られた。巨人は残り四十四試合。二十四・五ゲーム差。刻々と優勝が近づいてきたけれども、今月末には決まりそうもない。来月中旬までにというところか。
 江藤、菱川、太田といっしょに、夜十時六分発名古屋止まりのひかり最終に品川から乗りこむ。太田が、
「毎年、巨人は八月末から負けなくなるんですよ。三年連続で二十五、六勝、十七、八敗です。残り四十四試合をまんいち全勝すると、九十二勝三十三敗五分け、勝率七割三分六厘。うちがいま七十五勝十一敗三分けですから、残り四十一戦中、十七勝二十四敗で勝ち数は同じになりますが、ただ、負けが三十五になるので、勝率七割二分四厘で巨人の優勝です。十八勝二十三敗だと、九十三勝三十四敗三分け、勝率七割三分二厘で、やっぱり巨人の優勝。十九勝二十二敗だと、九十四勝三十三敗で、勝率七割四分零厘でうちの優勝です。ただこれから巨人も負けるでしょうから、十九勝もしないうちに優勝でしょう」
 江藤が、
「とにかくあと十九勝すれば優勝やろうもん」
「そうです。このあと二十二敗しても優勝です」
 菱川が、
「常に相手が全勝することが基準だから、現時点では、理論上うちは九十四勝しないと優勝は決まらないということでしょう。あと十六勝。マジック計算は面倒だから、とにかく十九回勝てばいいと考えましょうよ。相手も何回か負けることを考えると、うまくいくと、九月九日から十四日にかけての大洋戦かアトムズ戦、いずれにしても中日球場で優勝が決まると思います」
「そうなるとよかばってん、なかなかうまくいかんものばい。アウェイの球場で決めるのはしっくりこん。ビールかけはホテルの物置部屋みたいなところになるやろ。やっぱり中日球場のロッカールームか特別室でやりたいのう」
 私は、
「祈るしかないですね。ところで、本多二軍監督と吉沢さんはさておき、足木マネージャーが優勝経験者だったのには驚きました」
「二十八年に守備で一試合に出ただけで、翌年いっぱいで退団した。二十九年の優勝はベンチでちゃんと目撃しとる。いまうちでいちばん興奮しとるのは足木さんばい」
 私は足木の上品な顔を思い浮かべた。
「足木マネージャーはどういう経歴の人なんですか」
「昭和二十八年に愛知の豊川高校からピッチャーでドラゴンズに入った。すぐ肩ばやられて外野の控えになった。守備機会一回でベンチに退げられた。それでプロ野球選手生活おしまい。しばらくトレーナーばやったあと、三十八年にボブ・ニーマンが入団したのをきっかけに猛勉強ばして通訳になったっちゃん。すごかもんたい。外人選手はハウ・アー・ユー・トゥデイやら言わん、ワット・ザ・ファックス・ハプニング・マンと言う、このやろ、元気かヨー、ちゅう意味たい。ようそんなことを言っとったばい。最初はわがままな外人ばえろう嫌っとったばってん、どうにかうもうやっていくごとなった。足木さんが言うには、アメリカ人の率直な面が理解できるようになったて。日本人は肚の底で考えとることをそのまま表現せんと、本心の周りをぐるぐる迂回するように話す、アメリカ人は心に思っとることを包み隠さず態度にも言葉にも表す。金太郎さんがそれや、大好きやと言っとった」
 菱川が、
「アメリカ人は練習に取り組む姿勢も、日本人よりずっとわかりやすいですよ。たとえば流し打ちを徹底的にやるとかね。常に具体的な目的に沿った練習をします。まるで神無月さんです」
 太田が、
「日本人は練習のための練習という色合が濃いですね。ただ汗をかくだけのために素振りをしたり、フライを追いかけたりして、それですごい練習をしたような気分になって満足する。実戦的じゃない」
 江藤は、
「そんくせ金太郎さんは、アメリカ人の欠点ば持っとらん。足木さんが、外人は素直なのはよかばってん、カネの不満ば口にしすぎる、カネについてチマチマ言い争い、一日の食費のことまで問題にする、三億ももろうとる外人選手が、球団が電気ガス水道代ば払わんちゅうて頭に血ばのぼせる、払わんならユニフォームを着んと言う、それが一流のスタープレーヤーと言うんやからびっくりばい、日本人のスタープレーヤーなら、年俸がその十分の一でも起こり得んことや、て言うとった」
「今年のフォックスでも手を焼いたでしょうね」
「ほうやろな。クニに帰ってくれて、足木さんもドラゴンズもホッとしたやろう」
 深夜の十一時四十九分に名古屋駅に着いた。タクシー乗り場で江藤たちと別れ、則武の家に向かって歩いた。深く安らいだ気持ちで玄関の戸を引いた。カズちゃんが寝ないで待っていた。私に飛びついて抱き締め、
「お帰りなさい! 疲れたでしょう。お風呂入る?」
「うん。いっしょに」
 メイ子が起きてきて、コーヒーをいれた。二人にキスをする。
「アヤメとアイリス、どう?」
「目の回る忙しさ。大繁盛よ。溜まってる?」
「うん」
「じゃ、ひさしぶりにご馳走になろうっと。その前にお茶漬けでも食べて、お風呂に入りましょ」
「素子も呼んで。起きてくるよね」
「もちろん。きのう岐阜から帰ってきたばかり」
「私、呼んできます」
 メイ子がすぐに玄関を出ていった。
 カズちゃんと抱き合い、股間に指を入れる。ぬめった水気がある。
「ふふ……」
 深く指を挿し入れる。湯があふれている。
「準備完了だね」
「はい、いつでも」
 茶漬けの用意にかかる。五分もしないでメイ子と素子が入ってきた。
「お帰り! キョウちゃん」
「うわ、茶色い」
「二週間で焼けたんよ。千佳ちゃんも南国美人になったよ」
「まだ寝てなかった?」
「寝ない、寝ない、テレビ観とった。抱いてもらうのひさしぶり! でもあした試合やろ」
「うん、ナイター。ゆっくり出ればいいから。みんなは朝早いよね」
「四、五時間寝ればなんてことないわ」
 カズちゃんもメイ子もうなずく。昆布の佃煮とナスの糠漬けで四人いっしょにお茶漬けを食べた。
「きのうの夜、東山のほうまで試運転にいってきたの。二人ともすごく運転の素質があるのよ」
 メイ子が、
「私は千佳子さんのローバーに乗りました。ハンドルさばきもブレーキもじょうずで、安心して乗っていられました」
「二学期から千佳ちゃんは、ムッちゃんを乗せて大学がよいができるわね。素ちゃんは宝の持ち腐れかもしれないけど、適当に役には立つでしょう。千鶴ちゃんとドライブしてもいいし」
 風呂に誘うと、メイ子は、
「私はもういただきましたので、離れにお蒲団を敷いてお待ちしてます」
「じゃみんなですぐいきましょ。お風呂はそのあと」
 メイ子の離れで、カズちゃんと素子は私の射精までの仲立ち役に回って、しばらくメイ子を待たせながら存分にアクメを味わったあとで、射精前の数分をメイ子に譲った。メイ子は激しく悶え、シーツをしとどに濡らした。
 深夜一時過ぎ、四人肩を寄せ合って湯船に浸かった。
         † 
 八月二十六日火曜日。机部屋で三時間ほど寝て、まだ窓が薄暗いうちに起きだした。カーテンを引き開けると、黒い東の空の下に淡い紫の横縞が浮き出している。きょうは快晴にならないだろう。
 ジムの鍛錬のあと、二時間かけて五百野のゲラの確認。赤ボールペンで数箇所の削除と書きこみをして最終稿とする。学術のにおいのいっさいしない、少年少女向けの文章。スポーツ選手の手慰み。ノートの落書きが活字になっただけのもの。文学史の欄外にも残らない作品だ。落合女史の称賛が訝しい。どんな過大な評価も私は信用しない。偉大な先人の後塵を拝する人間に、評価など要らない。顔見知りの人びとに愛されるだけでじゅうぶんだ。たとえ顔見知りであっても、一人でも多くとは望まない。
 カズちゃんとメイ子と素子はきちんと朝食、私はコーヒー。
「早く起きてたわね」
「ゲラをザッと見てた」
「何時間も寝てないでしょう。私たちが出たら、グーッと寝ちゃいなさい」
「うん」
「菅野さんには十時ごろくるように言っとくから」
 深く眠る。三人を送り出す。二時間ほど仮眠。
 起きると疲れが吹き飛んでいた。原稿を封筒に納め、自転車で椿郵便局へ出かける。封筒の重さに相応する切手を買って貼り、速達で預ける。



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