六十四

 主人の指示で大名古屋ビルヂング地下の築地青空に寄る。
「ここは年中無休で十一時までやっとる。ゆっくり食える」
 真っ白いお仕着せをつけた店員が二人いた。
「いらっしゃいませ! あ、神無……」
 店内が一瞬ざわついたが、私たちが隅のテーブル席に着くと静まった。店員もあえて声をかけにこない。ありがたい。壁にもサインなどいっさいない。
 おまかせコース三千円。アルコールは別料金。まずキリンのラガービールを注文。ツマミに出たのは、ガリとセロリの漬け物、玉子、サワラの握り、わかめに載せたタコ。つづいて、小鉢に鯖の焼き物、載せ台にボタンエビ、数の子、中トロ。一つひとつが丁寧な握り方で、かつうまい。三人でうなって食う。
「うますぎる」
「ヤバイですね」
「ホームランやな」
 ガリとセロリ、無料でお替わり。次に、ノドグロ、アジ、イカ。ビール追加。茶碗蒸しと煮ダコ。コースが終わった。
「最後に無料で一品どうぞ!」
 私はシソカッパ巻き、主人は赤貝、菅野は大トロ炙り。大猪口に盛った味噌汁で〆。運んできた大将に主人があたりに通らない声で、
「優勝会のときも出張頼めますか」
「もちろんです。お電話ください。神無月選手、百五十本を期待してます」
「がんばります」
 三人大満足で北村席に帰り着く。菅野はそのままセドリックで帰宅。十時五十分。ダッフルを玄関に置く。居間にも座敷にも人けはない。主人はお休みなさいと言って離れへ引っこみ、私はお休みなさいと応えて母屋の風呂へ。下着とジャージが用意してある。ユニフォームを脱ぎ捨て、湯殿に踏みこむ。全身にシャボンを使い、頭をザッとシャワーで流し、少しぬるめの湯に浸かる。最高。からだを丁寧に拭い、下着とジャージを着る。涼風に吹かれて則武へ帰ろう。
 下駄をつっかけて玄関から出ると、千鶴が立っていた。ハッと驚くと、千鶴は寄ってきて手を握った。万感の思いをこめた目で見上げる。
「しばらくご無沙汰だったね」
「ええ助け舟出してくれるね。ありがと。お姉さんに話したら、事情はようわかった、これからはうちに遠慮せんでもええからって言ってくれた」
 手を引かれて、厨房の勝手口の裏に出る。洗濯小屋の脇にある物置の裏手の植えこみの陰にいく。どこの窓からも死角になっている場所だ。
「客部屋でもよかったのに」
 抱きついてきた。キスをしたまま離れない。いつまでも舌を絡めて抱き締めている。
「好き好き、神無月さん、大好き。キスだけでええと思ったけど、やっぱり抱いてもらうわ。もうからだが限界や」
 パンティを脱ぎ、私のズボンを引き下ろし、いとしげに両手で揉みながら咥える。たちまちそそり立つ。千鶴は枇杷の木に両手を突いて尻を向けた。スカートをまくり上げ、突き入れる。
「ううう、気持ちええ、好きィ! 神無月さん、好き好き、愛しとる、イク、イクイク、イク!」
 腹の収縮が激しかったので尻が逃げていき、ヌルリと抜けた。とたん、
「ひ! イク!」
 クン、クンと尻を突き上げて痙攣する。間を置いてまた尻を上げて前後させる。初めてのときより痙攣が長い。せつなそうに前後する愛しい尻にキスをする。
「あ、ありがと、神無月さん、ありがと」
 片脚を持ち上げて屈みこみ、舌で襞を探ってクリトリスを舐める。
「あ、あかん、イク! ああ、イク!」
 指を入れ、蠕動を愉しむ。愛液とともに小便が迸り出た。掌を当てて温もりを受け止める。耐え切れず、もう一度陰茎を挿し入れて大きく往復する。感覚が高揚し、あっという間に射精した。
「あああ、うれしい! 好きいい、イクウウ!」
 収縮する腹を抱えこみ、膣の痙攣に合わせて律動する。
「愛してるよ、千鶴」
「あたしも愛しとる! 死ぬほど愛しとる!」
 ようやく小便が止んだので、壁を刺激しないようにそっと抜いた。千鶴は細かく痙攣をつづけながら精液を太腿に伝わせた。これまでの同じような光景がいくつも重なって流れる。欲望の鎮まった千鶴は振り向くと、唇にむしゃぶりついた。
「好き好き、愛しとる。神無月さんが帰ってくるまでなんとかがまんできたのに、旦那さんと話す声を聴いたとたん、ジュクジュクになってまった」
 顔も、言葉も、柔らかいからだも、何もかも愛しい。千鶴はふと見下ろし、
「ありがと」
 私のものに微笑みかけ、しゃがみこんで清めはじめた。陰嚢まで含んで舐めてすっかり満足すると、私の下着とジャージをきちんと引き上げた。気恥ずかしげに、千鶴はそのままティシュも使わずにパンティを穿き、私の手を引いて玄関へいった。
「ありがと、きょうのこと一生忘れんよ」
「……何度でもできるよ」
「ちがうんよ。料理の仕事をして、勉強して、ちゃんとした別の女になってまた抱いてもらうんよ。その記念やったことを一生忘れんの」
「そう……じゃぼくも忘れない。お休み」
「お休みなさい。いつも想っとる。うちのこともときどき思い出してね」
 応える代わりに口を吸った。二人で門まで歩いた。
「さよなら」
「さよなら」
 手を振って、夜道に歩み出した。
         †
 八月二十八日木曜日。八時起床。快晴。二十六・三度。三十度を超えていた気温がこの数日二十度の後半を保っている。排便から始まるルーティーン。鮭茶漬け一膳。八時半にきた菅野についてもらって百キロを五回挙げる。さすがに難なくというわけにはいかない。三日置きに八十キロ五回に落とそう。脱臼しないような肩ができたら、百三十キロに挑戦だ。大鳥居往復。
 いのちの記録ノートの題名を再考する。質のちがう青春が始まったと感じたからだ。しばらく考え、新しいノートに『袪(きょ)痰』と書いた。恨みがましい題名だ。すぐに考え直し『懐風』と書いて心が落ち着いた。
 対大洋二十二回戦。九連戦の六試合目。あとにも先にも今年の九連戦はこれっきりだ。あしたの午前には、九連戦の最後の三試合である巨人戦のために東京に向かう。
 中日の先発は三勝目を狙う門岡、大洋はサイドスローの山下律夫。五月に川崎球場の照明塔に打ち当て光球を割ったときのピッチャーだ。これまでの対戦成績はたしか、三打数三安打、二ホームラン。まちがいなくカモだ。
 試合開始早々、中塚の何でもないショートゴロを一枝がエラー。門岡はうろたえ、近藤和彦をフォアボールで出した。江藤が走り寄り、ひとこと言って背中をグローブでをポンと叩いた。効あって江尻三振。長田ファーストライナー。松原、私の前へゆるい当たりの三遊間ヒット。猛然とダッシュして捕球し、三本間で待ち構えていた菱川へダイレクトの返球、中塚三塁ストップ。伊藤勲三遊間へ内野安打。中塚還って一点。近藤昭仁三遊間のヒット。近藤和彦還って一点。松岡サードゴロでチェンジ。二対ゼロ。門岡が右バッターに楽々引っ張られている。このままだとホームランの連発がある。ベンチに戻って木俣に、
「内角で押してるんですか?」
「真ん中にきちまうんだ。危ないな。外、外に集めないと」
 一回裏。中、カーブを右中間へ弾き返して二塁打で出塁。高木ショートゴロ、江藤サードゴロ。中動けず。ここは一点ではない。ツーランしかない。
「ナックルが冴えとる。金太郎さん頼むわ」
 江藤がネクストバッターズサークルから出ていく私に声をかける。私はバットを挙げて微笑んだ。沸き返る歓声の中、バッターボックスに入り、大洋の左バッター陣が掘り返した足跡を精いっぱい均す。穴に足がはまりこむのは好まない。踏みこむときと、フォロースルーのあとの足先のスムーズな移動が妨げられる。穴など掘らなくても踏みこたえることはできる。幼いころからそうしてきた。なぜほとんどの選手がこんな馬鹿げたことをするのだろう。掘り返すときに後方に蹴り上げる格好は犬か猫に似ている。ドラゴンズの選手は私のように土を均すのが全員で、掘り返す者はいない。左バッターボックスできょうこれをやったのは、両チーム一番から四番まで四人の左バッターのうち、中塚と長田だ。
 山下はコンビネーションの中にかならず内角のスライダーかカーブを混ぜてくる。それを狙い打とう。モミアゲの長いふてぶてしい面相が不快だ。長く見ていられない。広島の眼鏡男白石が同じ髪形をしているが、顔つきも同じようにふてぶてしい。
 山下の投球に集中する。二球つづけて内角と外角にナックル、ツーストライク。ナックルボールは右か左に揺れて予想できない変化をするので、ピッチャー自身も出たとこ勝負の要素が大きい。暴投が傷にならない早いカウントで投げてくることが多い。たまたまストライクゾーンにいったボールを引っかけて、ファールか凡フライか凡ゴロでも打ってくれれば儲けもの。
 ―一か八かでカウントを整えるために投げてくるクセ球を打つのは得策でない。ランナーがいるときのツーストライクからは投げてこない。同じ意味で、スリーボールからは百パーセント投げてこない。ここはスリーボールになる可能性は低い。次はコントロールできる外し球だ。ストレートかカーブかシュート。三球つづけるかもしれない。そして勝負球は外角いっぱいのシュートだろう。
 ツーナッシングから二球つづけてシュートがきた。ぎりぎりバットの届かないコースだったので、遊び球と見て捨てる。ツーツー。山下は帽子からはみ出した髪を指で耳の後ろへ梳(す)いた。広島の白石もそうだが、裾毛とモミアゲをあそこまで長く伸ばすのは、ビートルズをまねたおしゃれのつもりだろう。ビートルズのような好男子ならまだしも、白石や山下はオヤジ面なので見苦しい。五球目、内角カーブ、膝もとボールのコースに低く落ちてきた。私にはストライクだ。思い切り掬い上げる。ジャストミート。
「ヨッシャー!」
 私は大声を上げた。あっという間にライト場外へ飛び出ていった。ダイヤモンドを回るさなかに下通の気の早いアナウンスが流れる。
「神無月選手、百二十一号のホームランでございます」
 水原監督とハイタッチ。
「ひさしぶりの場外、気持ちいいね!」
「はい!」
 二対二の同点。試合が振り出しに戻った。木俣が打ち気満々でバッターボックスに入る。初球、真ん中低目ストレート、ストライク。二球目、内角腰の高さのシュート、ストライク。三球目、内から中へ落ちるナックル。空振り三振。      
 二回表。門岡は、伊藤勲、近藤昭仁、松岡功祐をすべて内野ゴロに打ち取った。調子を取り戻したか?
 山下は二回裏から、ストレートやシュートでカウントを整え、ウィニングショットをナックルに切り替えてきた。そのコントロールがいい! こうなるととんと打てなくなる。私はファーストドゴロ。ゲームが膠着してくれることを願ったけれども、やはり門岡の調子がいま一つで、打線の勢いが止まったのはドラゴンズのほうだけだった。
 大洋は着々と得点を重ねていった。三回表重松八号ソロ、四回表近藤昭仁三号ソロ、五回表松原二点適時打。六対二。
 七回表から門岡に代わって土屋登板。松岡の代打林健造を三振、山下を三振、中塚を三振、重い低目の速球で三者連続三振に切って取った。俄然中日ベンチが賑やかになってきた。上がりなのにベンチ奥に立ち見にきていた小川が、
「若手の看板三枚出揃ったな。これで何の心配もなく引退できるぜ。俺もあと二年がいいとこだからな」
 七回裏。先頭打者の江藤、ナックルの連投に痺れを切らしてライトフライ。私はナックルの下を叩きすぎてライトフライ。ツーアウト。木俣は気のない様子でバッターボックスに入った。やってくれそうだ。山下はシュートとカーブでトントンとツーナッシングに追いこむ。調子に乗って三球三振を狙ってきた内角高目のストレートを木俣は大根切りで弾き返した。レフト中段へ一直線。ピンポン玉の三十五号ソロ。六対三。ベンチの高揚に拍車がかかったもかかわらず、菱川が三振して、反撃はそこでストップした。
 一方土屋は八回表も好調で、近藤和彦、江尻、長田の二、三、四番をすべて低目の重い速球で凡ゴロに仕留めた。
 八回裏を迎えて、七番太田。これまでレフトフライ、センターフライ、レフトライナー。ぜんぶシュートを打っている。コンピューター分析は完了したようだ。シュートはもう打たないだろう。二回から山下は決め球にナックルを投げてきている。それを打つにちがいない。ナックルは百十キロ程度の球だが、コントロールしにくいので暴投もありうる。盗塁もされやすい。三点差はワンチャンスだ。とにかく太田は先頭打者として塁に出ることに集中しなければならない。
 初球、外角高目の速球、ボール。二球目、外角ナックル。左へ揺れてストライクコースに落ちてきた。セーフティバント! 一塁線に転がる。ファール。なるほど、ナックルをバントか。私がおととい池田に試した手だ。三球目、つづけてナックル、ワンバウンドのボールが伊藤勲のマスクにぶつかった。四球目外角スライダー、ストライク。ツーツー。太田は目の前にバットを立ててじっと考えた。次は十中八九ナックルだ。バントを失敗すれば三振になる。ベース近くに落ちてきたら、お祈りしながら出たとこ勝負、思い切り振るしかない。五球目真ん中高目ストレート! え? 山下は考えすぎて墓穴を掘った。太田渾身の強振。サード松原ジャンプ。越えた。太田がどすどす走る。不器用そうな長田が小さな足をチョコマカさせながらクッションボールを追いかける。トンネル! ボールが左中間へ無情に転がる。太田二塁を回って一生懸命走り、足からジャンプするように三塁ベースへ滑りこむ。水原監督が塁審をまねて両手を広げた。大歓声。ノーアウト三塁。田宮コーチが次打者の一枝に、
「見(けん)でいけ、ツーストライクまで振るな!」
 一枝はきょうノーヒットだ。太田コーチが、
「三振でも何でもしてこい!」


         六十五

 そのとたん、水原監督がコーチャーズボックスから主審佐藤のところに走ってきて、ピンチヒッターを告げた。
「バッター一枝に代わりまして、星野秀孝、バッター星野、背番号20」
 ドーッと歓声が上がる。星野のピンチヒッターはこれで二度目だ。胸が躍った。太田コーチがもう一度、
「三振でいいぞ!」
 一枝にかけたのと同じ言葉を叫んだ。やっと意味がわかった。スクイズだ! ランナー三塁なのでナックルは投げてこない。
 速いシュートでたちまちツーストライク。星野は二球ともみごとな空振りをした。これで確実にスクイズだと思った。星野はバットに当てるのがうまい。三球目、星野は山下が安心して投げてきた外角高目のストレートに飛びついて三塁前に転がした。切れると踏んで、松原と山下はラインぎわをのろのろ追いかける。その隙に太田がどすどすとホームインする。打球はライン上でピタリと止まった。
「よくやった!」
 太田コーチがベンチ前に飛び出してパンパン手を拍つ。星野は森下一塁ベースコーチと握手している。六対四。代走に江藤省三が出る。内外野のスタンドが、ワッセ、ワッセになった。
 ―野球場! コンクリートのにおいのしない、土と草に造形されたまぶしい児童公園。ここにいることに心から幸福を感じる。
「バッター土屋、背番号26」
 土屋がそのままバッターボックスに入った。さらに大きな歓声が上がる。星野は土屋のリリーフを見越してではなく純粋に一枝のピンチヒッターとして起用されたのだ。水原監督は九回裏を考えていない。この回に賭けている。とにかくここで逆転して九回表を押さえてほしいという土屋に対する信頼だ。胸が躍る。
 初球ストレート、大きな空振り。三振だな。それでいい。中に回る。山下は相手がピッチャーだと思って油断している。ナメてストレートでひねり潰そうとしている。ノーアウトランナー一塁なら、相手がだれだろうとゲッツーを狙ってナックルを投げるべきだ。土屋は振りが大きい。しかしまともに当たれば振りの大きさががかえって幸いするかもしれない。二球目、ナックル、ファールチップ。伊藤勲のマスクを直撃した。三球目、ナックル、一塁右へライナーのファール。
「オオ! やるな土屋!」
 ベンチが色めき立った。土屋は必死の形相だ。三振するつもりなどない。逆転のランナーで出たい。逆転すれば勝利投手だ。当然そう考える。私は優勝の近いことをひしひしと感じた。四球目、ナックル。ベースの前でショートバウンド。伊藤勲はうつ伏せになって抑えた。江藤省三がいつの間にかひょいひょい走っている。滑りこまずにセーフ。ノーアウトランナー二塁。
「土屋ァ、かっ飛ばせェ!」
「放りこんだれェ!」
 一塁スタンドから冗談とも思えない声援が飛んでくる。ワッセ、ワッセ、ワッセ。五球目、懲りずにナックル。コースは? ベースの前で弾みそうな同じような場所だ。百十キロ。土屋、大きく踏みこんでソフトボールのように掬い上げる。食った。ベンチが立ち上がった。
「ウソだろ!」
「ヨッシャー! ヒロシ!」
 一年後輩の水谷則博が叫ぶ。白球がセンターとレフトのあいだへスライスしながら飛んでいく。きれいに抜いた。星野勇躍生還。六対五。土屋が二塁上でこぶしを突き上げる。水原監督、パンパンパンパン。興奮している。ベンチの、ヨ、ホ、イヨー! スタンドのワッセ、ワッセ、ワッセ。
 一番中。三球つづけてのナックルに、激しくアコーディオンをする。ノースリー。フォアボールで出てやろうとする雰囲気が中の背中に感じられない。次にくるボールはだれでもわかる。ストレートかカーブかシュート。問題は高さだ。中はアッパーヒッターだ。低目にきたら一発だろう。四球目、内角膝もとのカーブ、一塁側フェンスへライナーのファール。惜しい。バットの出が早かった。
「タイム!」
 伊藤勲がマウンドへ走る。中は味方ベンチを向いて慎ましく素振りをする。伊藤が小走りに戻ってきてプレイ再開。五点取られてもまだモミアゲ男が投げている。こういうときこそ平松を使うべきなのに。
 山下はセットポジションから五球目を投げた。ナックル! 中はアコーディオンをやめてピタリと中腰に構え、外角へ揺れながら落ちていくボールをみごとに芯で捉えた。打球がレフトポール目がけてライン上を伸びていく。ポールの直前でワンバウンドしてフェンスに打ち当たった。土屋ホームに滑りこむ。六対六。同点。歓声が夜空に噴き上がる。淵上と及川がブルペンへ急ぐ。
 二番高木。ノーアウト二塁。中が三盗をにおわせながら、ショートの前まで大きなリードをとる。ナックルを投げさせないためのデモンストレーションだ。功を奏し、高木は外角のスライダーを流し打ち、高く弾むゴロで一、二塁間を抜いた。中悠々生還。六対七。これで門岡の負けは消えた。このままいけば勝利投手は土屋になる。
 山下から右の本格派の淵上に交代。対戦一回、フォアボール一。得意球はシュートだったはずだ。まだノーアウト。ランナー一塁に高木。江藤が打席に入る。もう一点で勝ちだろう。江藤の背中の雰囲気から大きいのを狙っているとわかる。
 初球、真ん中高目のストレートを空振り。ひさしぶりの尻餅。名にし負う名演だ。観客が笑いさざめく。江藤が尻の土を払う。尻餅のあとの江藤は怖い。二球目、芸のない内角のシュート。やっぱりそうくるか。後ろ足に体重を残してラクに振り抜く。完璧なフォロースルー。反射的に一塁へ走り出すからだが前方へ傾いて移動する。感嘆する美しさだ。左中間へするどいライナーが真っすぐ抜けていく。スタンダップダブル。高木長駆生還。六対八。私はいつものように二塁ベース上の江藤にバットを掲げた。江藤は両手を上げて応える。金太郎コール、いつまでもつづく金太郎コール。
 初球インハイのストレート、ボール。紋切り型の内角攻めだ。球速に自信があるので高目を攻めてくる。次は外角のシュートだ、二球目外角低目カーブ、ストライク。予想が外れた。何でもありか。この先は考えない。打てる球を打つ。三球目、胸もとへ速球、ボール。淵上は無意味に江藤を振り向いて牽制の格好をする。四球目、外角ストレート、ショートバウンド。ワンスリー。伊藤勲はもう無理をさせない。五球目、彼は立ち上がり外角へ高く外して敬遠。スタンドから深い失望のどよめきが立ち昇る。ノーアウト一、二塁。ベース上に立ちスコアボードを眺める。巨人戦の試合経過が表示されていない。きょうは試合がないのだろう。阪神対広島は一―六終と出た。ボールボーイにヘルメットを渡す。尻ポケットから帽子を出してかぶる。
 五番木俣ショートライナー。松岡から代わった米田がガッチリキャッチ。菱川セカンドゴロ。近藤昭仁から米田、中塚と渡ってゲッツー。
 九回表、土屋は淵上の代打重松を三振、中塚を三振、近藤和彦フォアボール、江尻を三振に切って取り、ゲームセット。
「ゲーム!」
 佐藤球審の短く太い声。土屋は三勝目を挙げた。ドラゴンズは七十八勝目。この間、巨人は二勝零敗で、五十一勝三十四敗五分け、残り試合が四十なので、全勝しても九十一勝止まり。勝率は七割二分八厘。中日が九十二勝すれば勝率七割三分零厘。中日があと十四勝するあいだに優勝が決まることになった。秒読みに入った。
 勝利インタビューは水原監督一人。マジック14という言葉が何度も聞こえてきた。
「あしたからの巨人戦に三連勝すればマジックが一桁になりますね」
「はい。でもジャイアンツはいまの勢いで勝ちつづけるでしょうから、そうそうたやすくはいかないでしょう。早くて九月半ば以降の大洋戦から先ですね。できれば中日球場で決めたいと思いますが、三日からの広島三連戦ではちょっと無理でしょう。とにかく、コツコツ一つずつ勝っていくだけです」
 ロッカールームで足木マネージャーがみんなの中心に立ち、
「目の前に優勝が迫りましたが、最後の一勝まで気を抜かずがんばってください。一部の選手たちにはきょうまで知らせておりませんでしたが、ファンレターの形で剣呑な手紙が球団事務所に届くようになりました。死ね、とか、背中に気をつけろといった類のものです。すべて神無月さん宛てのものです。しかし、神無月さん一人の問題とせずにチーム全体で気をつけてほしい。警備は警察にも加わってもらって、ふだんよりも一段ときびしくしてあります。それでも、子供以外のファンの妙な接近には特に警戒してください」
 水原監督が、
「ファンレターはぜんぶ県外消印のものなので、中日球場はだいじょうぶだと思うが、まんいちということがあるからね。東京や川崎、甲子園、広島等の球場にはそれぞれ二十名の警官の出動を要請してあります。金太郎さんは無心に笑っているが、彼は命を捨てている人なのでね。われわれはそうはいかない。私は捨てているが、犬死はしたくないから精々目を配りますよ」
 江藤が、
「ワシらも捨てとるっち! まんいちのときは、自分より金太郎さんを護るばい」
 徳武の大きなガタイが立ち上がって叫んだ。
「まかせてください! 俺も早稲田時代はラフプレーのお騒がせ男で、さんざんファンに脅された口だから」
 水原監督が、
「リンゴ事件の再来と言われたっけね」
「はい、怪しい感じの人間はすぐわかります。つまみ出してやりますよ」
「進んで危険なことをしちゃいけない。気の荒い連中は何をするかわからないよ」
 菱川が、
「俺の領分です。俺にまかせてください」
「喧嘩じゃないんだ、菱川くん、一人じゃどうにもならない。そのためにガードマンや警官がいる。それを頼みにして、一人ひとりが細かく警戒するんだよ」
「はい―」
「さあ、あしたから後楽園で巨人三連戦だ。三連敗するつもりでゆったり、かつ、真剣に戦ってください」
「ウィース!」
 足木マネージャーが、
「じゃ、駐車場まで警備員の先導に従って進んでください」
 出口の警備員に混じってすでに時田一行が立っていた。ダッフルを担ぎ、スポーツバッグやバットケースを提げて、みんなぞろぞろ駐車場に向かう。仕切り縄の向こうのファンの様子は穏やかだ。選手の車が誘導されて一般道に出された。時田は私をセドリックの後部座席に押しこみ、手振りで車を少し進ませたあと、私の隣に乗りこんだ。
「しばらくは気を抜けませんわ。関東関西では、バスに乗りこむときには特に注意してくださいよ」
「はい。ファンに近づいていくような自殺行為はしません」
「ファンレターの内容からすると、巨人ファンです。後楽園は厳戒態勢です。おかしなことをされたときの勝手な立ち回りはあかんですよ、神無月さん」
「とにかく自殺行為は避けます。恵まれすぎてる人生に未練がありますから」
 主人が、
「恵みはワシらに分けとるでしょ。自分の分がどれだけあるか怪しいもんですわ」
 菅野が、
「神無月さんのそういう言い方って、つくづく怖くなるんですよね。他人が恵んだ人生なんかに未練を持たずに、自分で切り開いた人生に未練を持ってくださいよ」
「そうですね。オフになれば周りも穏やかになると思います。人は同じことに長いあいだ関心を持てない。あと一年のがまんです。ホームランも打率も、来年は今年の二分の一になるでしょうから」
「まさか!」
「それでもなんとか三冠王は獲れるでしょう。人がぼくを殺したくなるもとは、そういう成績ではなく、〈長いものに巻かれない〉言行と雰囲気だと思うんです。そんなやつに〈長いもの〉のほうから進んで高給を払うのも癪の種でしょう。ぼくも年俸に関しては心苦しく思ってます。王、長嶋レベル以上の給料をいただこうとするのは不遜です」
 主人が、
「そんなことじゃないんですよ、神無月さん。……神無月さんの人格と実績が、有無を言わさんとやつらを殴り倒してしまうもんで、殺したくなるんです。やつらの知っとる世間にあるはずのない人格と才能は、やつらにしてみれば、あっちゃいかんのですわ。給料も関係ないでしょうな。そのへんは、上の決めたこととしてやつらはあきらめとりますからな。実際の話、並の人間をはるかに超えとる人格と才能には、どんな長いものも糸目をつけんと金を払いますよ。二億や三億なんぞハシタ金でしょう。そんなちびた金、ワシでも払えますからな。わかる人間はわかっとる。とにかく時田さん、神無月さんを護ったってや」
「はい。今回牧原組長が動いたのは、北村さんの連絡を受けて、手紙の内容に不吉なものを感じたからなんですわ。それで、あえて球団事務所のほうに電話して、神無月選手のガードを請け負ってる会社の者だが手紙の危険度を知っておきたい、と信用させて、ほかの脅迫の文面も聞き出したんです。たとえばですね、〈まじめな野球選手〉を殺すおまえのような犯罪者は吊るし首にされろ。おまえがニセ神だと白状しなければ、ほんものの神が遣わす天使がおまえもおまえの仲間も殺すだろう」
 菅野は、
「……ひどいな。出てる杭をどうしても自分の背の高さと同じにしたいんですね」
 時田が、
「同じじゃなく、それ以下にでしょう。神無月さんの存在自体がいやなんですよ。そういう手紙は千通に一通もないそうで、警察が動けば消印からすぐに探し出せるみたいなんですが、ワシらヤクザはそいつらに手を出せません。出したら神無月さんがやばいことになる。護るしかないんです」
「〈まじめな野球選手〉というのは?」
「自分らに長いこと認められてきたという意味でしょう。手紙を書いたやつらにもその意味はわかってないと思いますがね」
 私は、
「時田さん、ほんとにご迷惑かけました。くれぐれもワカにはぼくの感謝の気持ちを伝えておいてください」
「はい、伝えます。ヤッさんにもね。気を揉んどりましたから。今夜までは羽衣の管理人部屋に泊まります。あした神無月さんが無事に出発したのを確認してから、白鳥に戻ります」
 主人が、
「めしを食っていってください」
「いや、そのへんで夜鳴きそばでもすすりますわ」


         六十六
   
 トモヨさんのおさんどんで遅い食事をすませ、シャワーを浴びる。十一時過ぎ、母子の離れの机で、原稿用紙に『懐風』のメモをとる。暇なときにあらためて則武のノートに清書するつもりだ。

 強い感動に奮い立つときは、低俗な考えなどいっさい振り捨ててしまうものだが、そんな気高くすぐれた瞬間はたちまちのうちに消え去る。人間の精神の万古変わらぬ最大の構成要素は、卑俗さだ。もし彼らを〈生命の躍動〉などという甘美な目的にのみ縛りつけたとすれば―そんなことをすれば、その目的に愛想をつかして脱落するものが数え切れないほど出てくるだろう。感動など安定した生活を脅かす生理現象にすぎないからだ。

 ひどいことを書く。処女ページは、不本意な気取りということにしておこう。トモヨさんが茶と菓子を持って部屋に入ってきて、
「私は寝ますね。則武にお帰りになるんでしょう?」
「うん。朝、遠征前の顔を見せておかないとね。今度は九日間だから。今夜は、トモヨとは姫始めをしないと」
「え? ほんとですか」
「うん、いまできる?」
「できます。退院して三週間経ったので、だいじょうぶです」
「とんでもなくあいだが空いちゃったものね」
「ほんとに……」
 私はズボンと下着を脱ぎ、
「こんなに勃っちゃった」
「わあ、うれしい!」
 瞳を輝かせるトモヨさんを見て、私もうれしくなる。
「直人とカンナは?」
「ぐっすりです。半年ぐらいは妊娠しないので、安心して出してくださいね」
「うん」
 私の性器に頬ずりする。口に含む。
「ああ、なつかしい」
 全裸になって机の傍らに蒲団を延べているトモヨさんの尻をおし開き、きれいな肛門を見つめながら、ゆっくり、深く挿入する。少しゆるい。トモヨさんは首を下げ、潜りこんでいく私の性器を感じ取ろうとしている。
「入る瞬間がどうしようもなく気持ちいいんです。ああ、いい!」
 いつもの感じでうねり、締まってきた。
「あ、郷くん、もうイキます、ああ、愛してます、イク!」
 強く達した。腹をさすってやる。痙攣するからだを仰向けにし、美しい性器にもう一度挿入する。狂おしく求めてくる口を吸い、舌を絡ませながら往復する。
「あ、走る、走る、うーん、イク! あああ、たいへんたいへん、クッ、イックウ! あああ、走る! 郷くん、またイキます、おお、気持ちいい! 好き好き、愛してます、郷くん、愛し……イク! あ、あああ、ま、イクウ!」
 尋常でなく締まってくる。以前とまったく変わらない膣になった。前後に動く陰阜の動きに合わせて子宮の奥へ突き入れる。
「クウウ! 電気! もうだめ、郷くん降参、あああ、イックウウウ!」
 激しく腰を前後させるので、どうしても亀頭を強くこすられ、たちまち迫ってきた。
「ああ、大きくなった、すごい、大きい! イキたいのね郷くん、イッて、そのままイッてください! ううーん、私もイク!」
 射精に合わせてトモヨさんは強烈にからだを収縮させる。喉を絞ってうめき声だけを発する。首が横に傾いたので、すぐ引き抜くと、瞬間、彼女の股間から長い放物線の愛液が飛んだ。腹を絞るたびに吐き出す。傍らに横たわろうとすると、トモヨさんは私をきつく抱き締め新しい痙攣を始めた。もう一度仰向けにして脚を広げたラクな姿勢にしてやる。門渡へ精液がトロリと流れ出す。ときどき愛液が飛ぶ。薄い意識で私に手を伸ばしてくる。手を握り、腹ををさすってやった。たまらなく愛しくなって胸や肩にキスをする。トモヨさんはしっかりと目を見開き、もう一度私に抱きついた。
 トモヨさんが寝入ってから、彼女の傍らから抜け出して、則武へ帰った。書斎の机に向かい、懐風ノートにメモを書き写した。遅くまで蒸した。シャワーを浴び直して、寝室に敷いてある蒲団に入った。干しが効いて、ふかふかしていた。
         †
 八月二十九日金曜日。八時起床。快晴。二十五・七度。二階の洗面所で、うがい、歯磨き。階下に二人の気配。トーストとコーヒーを用意して待っていた。
「遠征、名古屋、遠征、名古屋がつづくわね。天王山は九日からの大洋戦とアトムズ戦ね」
「まちがいないね。巨人が負けないで、うちが連敗すれば、もっと長引くかも」
 メイ子が、
「とにかくケガのないことを祈ってます」
「ありがとう」
 二人は私にキスをして出勤した。
 菅野と日赤を往復。
「巨人は連勝するでしょうから、ドラゴンズも勝って一つずつマジックを減らしていくしかないですね」
「うん。マジックマジックってうるさくなりそうだ」
 北村席の庭で三種の神器と一升瓶をやり、座敷にくつろぐ。

 
マジック14点灯! 優勝来月半ばにも
 プロ野球セ・リーグは二十八日、中日ドラゴンズが大洋ホエールズに6―8で勝利して、十五年ぶりの優勝に向けたマジック14が点灯した。二位巨人が残り四十試合を全勝しても、ドラゴンズが十四勝すれば勝率で八厘上回れなくなった。

 
星野秀孝背番号20 輝く十九歳
  
権藤氏よりエースナンバー移譲
 六月二十日の対巨人十回戦に抑え投手として初登板以来、騎虎の勢いで勝利を重ねてきた星野秀孝投手(19)の背番号が、この八月二日の対広島十六回戦より、これまでの35番から20番に変更され、すでに三週間経った。昭和二十年代のドラゴンズの大エース杉下茂氏の推薦、今年二月に引退をにおわせていた伝説の人権藤博氏の諒解もあって、中日エースのシンボルナンバーである背番号20が復活の場を得ることになったものである。いまや20番をつけた星野の背中がフィールドにしっくり溶けこみ、何の違和感もない。
 現在八勝ゼロ敗。おそらく今季は百三十の規定投球回数に達することは危ういだろうが(現在62投球回)、防御率は江夏の一・九八を凌ぎ一・一六で群を抜いたトップである。小川、小野に並ぶ三本柱として来季以降も獅子奮迅の活躍をすることは確実であろう。星野が言うには、
「伝統ある偉大な背番号を譲っていただいたことは光栄の至りですが、重圧に押し潰されたくないのであまり考えないことにしています。ドラゴンズの一軍は、今年から自主的なスケジュール以外は、若手の早出特訓がなくなりました。おかげでナイター明けのときなど、ゆっくり寝て疲労を取ることができます。だからスッキリ勝ってる感じがするんです。バッターも同じで〈立ち上がり一気〉が多いのはそのせいだと思います。とにかく毎日が楽しくて仕方ありません」
 この豪放かつナイーブな野球人気質は、中日ドラゴンズのチームカラーを象徴している。入団三年目にして星野秀孝は早くも優勝戦線を経験することになった。恐れず、動ぜず、最大限の活躍をするよう祈る。
 ちなみに、菱川章内野手(22)も星野投手と並んで同日から、これまでつけていた10番を元どおりの永久欠番として服部受弘氏(49)にお返しし、この五月までフォックス選手(帰国)がつけていた4番をつけることになった。その後の彼の大活躍は周知の通りである。


 浜野百三はたしか22番だった。いずれ20番を背負うだろうと噂されていたが、彼のことは一行も書かれていない。まだ彼は巨人軍で一勝も挙げていないのだ。
「星野さん、よかったなあ」
 新聞を覗きこみながら菅野が言うと、主人が、
「大物やからな、あの青年は。素直で義理にも篤い。使いすぎなければ、これから何年も二十勝、三十勝をつづけるやろ」
「今年は、十五勝は堅いですね」
「水谷則博、土屋も出てきたし、消化試合は五本柱で勝ち星争いやな」
「規定回数を投げさせようとして、星野が使い詰めになることはないですよね」
「水原監督はそんなことはしません」
「来年もありますしね」
 ソテツが直人にめしを食わせている。トモヨさんはカンナに乳を与えている。平和の図だ。離れにいき、トモヨさんの書棚から『太平洋ひとりぼっち』を抜いて、ダッフルに入れた。
         †
 二時に江藤たちと着いたホテルニューオータニの玄関は厳戒を極めていた。数人の警備員に混じって、警官が五人立っていた。ファンたちの前に張った仕切り縄の前には、等間隔に松葉会の組員も四人立っていた。
 部屋に上がり、ユニフォームに着替える。
 四時十五分、山茶花荘に注文したなだ万弁当を受け取り、ホテルバスで後楽園へ出発。底のない秋の空。一枝が、
「これまで十四連勝なんて難なくやってきたけど、こっからは無理だろうなあ」
 中が、
「自力優勝はまちがいないけど、やっぱり九月の半ばから先だろう」
 江藤が、
「ばってん、さすが巨人はしぶとか」
 私は太田に、
「マジックの減り方って、どういうものなの」
 仲間たちが興味深げに太田を見る。
「はい、いきますよ。うちが勝って巨人も勝てば一つ減ります。うちが勝って巨人が負ければ二つ減ります。うちが負けて巨人が負ければ一つ減ります。うちが負けて巨人が勝てば減りません。うちが引き分けて巨人が引き分ければ一つ減ります。残り試合数と最終勝率が絡んでくるので、単純に減らないこともあります」
「理屈がわかったし、単純でもないこともわかったから、これからかえって拘っちゃいそうだな」
 四時半後楽園球場到着。球場周囲に群れ集う人びと。機動警官が彼らの中に点々と配備されている。三塁側の駐車場を出たとたん、ものすごい人混みに揉まれる。警備陣を並木に見立てて後楽園球場の関係者通用口から回廊へ入る。
 ロッカールームでスパイクを履き、ベンチへ昇ると、練習を終えた巨人軍が引き揚げるところだった。ケージの後方にぶら下がりの記者が何十人となく溜まっている。バッティングサークルのそばの記者団の中心に吉沢がいる。何を訊かれているのかわからない。星野の件か。背番号33。百七十センチの小柄なからだがいよいよ小さくさびしく見える。
 ピッチャースマウンドのスプリンクラーが回りはじめる。内野、外野、ファールグランドまで芝を貼った美しい球場。ヘラの両翼九十メートル、センター百二十メートル。これまで戦った球場はすべて場外に叩き出したので、もう球場の大きさの興味は失せた。
 スタンドが観客で埋まっていく。ビールやアイスクリームや選手名鑑の売り子の声が聞こえる。
「中日ドラゴンズの練習開始でございます。ファールボールにはくれぐれもご注意くださいませ」
 小川と若生がバッティングピッチャーで投げ、吉沢と高木時が受ける。ケージの後ろに監督、コーチ、両チームの選手が集まってきて雑談する。水原監督が私を手招きする。王が待っている。近寄って挨拶する。
「神無月さん、きょうもファイトをいただきますよ。監督もチョウさんも、神無月さんから野球選手として大もとになるファイトをもらったと言ってます。野球に徹底的に打ちこむファイトです。森さんが言うには、人間のありようというまじめなことも考えるようになったとのことです……。紳士たれ、ではなく、その前に人間たれ、森さんはよくそう口にするようになりました」
 川上監督と長嶋と森がベンチからじっと見つめていた。



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