六十七

 中日レギュラーが次々とケージに入っていく。水原監督が、
「ワンちゃん、金太郎さんは〈人間〉の模範じゃないよ。そこが大きな誤解なんだ。とにかく巨人が勝ちつづければ、大詰めのペナントレースは盛り上がるよ。金太郎さんも無事でいられる」
「は? どういうことですか」
「いや、国民から嫌われずにすむということだよ。巨人が強いことが球界の和の根本です。伝統と言っていい。彼らは和を乱すものを憎むからね」
「……ははあ、きょうの警戒態勢ですね。新聞に大々的に載りましたよ。巨人軍にとってはありがたくも何ともない。まったくの迷惑です。神無月さん、気にしないでください。ドラゴンズに三連勝なんかさせませんよ。この先、うちが発奮して好ゲームをつづければ、あんな投書は自然消滅します。がんばります。優勝云々と関係なく中日に全勝するつもりでぶつかります。神無月さんを危険な目に遭わせるわけにはいかない」
 ケージの江藤が振り向き、
「巨人戦はきょうから十一戦あるばい。巨人が七、八勝すれば、世間の不満も鎮まるやろう。うちは全勝のつもりでいくけん。好きな野球をやるのに人気なんか気にしとれん。金太郎さん、次打て」
「はい」
 二本の照明塔のあいだを狙って五本打つ。二本中段、二本上段、一本場外。王の、ナイスバッティング、という声が聞こえたほかは、巨人軍の選手たちからいっさい声は飛んでこなかった。ただ、ほとんど全員がベンチの前に立って見ていた。
 グローブを持ち、外野へ走っていく。正面スコアボードの上方に、黄金比で作られた長方形のスコアボード。左右にパイオニアの広告。振り返ると、ネット裏二階席の外壁の白色がまばゆい。スタンド最上段をぐるりと巡る看板も色鮮やかだ。
 巨人の先発は城之内、中日はついに小野。球審山本、塁審一塁筒井、二塁松橋、三塁岡田、線審レフト平光、ライト柏木、控え大里(ネット下部に、少し歯の出た小山田さんのような顔がある。私は気に入っている)。
 巨人の守備練習のあいだに、なだ万焼肉弁当。自軍の守備練習のときは、鏑木の手拍子に合わせてダッシュする選手の列に加わった。
 スターティングメンバー発表。ドラゴンズは不動。中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝。巨人は、一番センター柴田、二番ショート黒江、三番ファースト王、四番サード長嶋、五番レフト高田、六番ライト相羽、七番キャッチャー森、八番ピッチャー城之内、九番セカンド土井」
 木俣が私に、
「相羽というのは、中商で俺の一年先輩だよ。やつの同期は山中さんと省三さん。左ピッチャーにめっぽう強い」
「中商は尾崎と戦ったんですよね」
「うん。完封された。三十六年か。その年に尾崎は中退してる。俺は控え捕手だったんで彼をブルペンで眺めてただけで対戦はしてない。レギュラーとして翌年の春夏出て、二回とも準優勝だった」
 山本のプレイボールのコール。スタンドを眺める。超満員ではない。一塁側の内外野席に多少の隙がある。中日の勝利を見たくない人たちが空けた席だ。伝統、和。城之内はここまで三勝五敗。今年は不振だ。マウンドに上がるとき川上監督に何やらカツを入れられていた。新聞記事によると、シュートの曲がりが小さくなったせいらしいが、そのほうが微妙なコントロールが利いて有利な配球ができると思うのだが、どうなのだろう。三十九年から四十二年までチームの最多勝投手、去年はノーヒットノーランまでやったエースのジョー。きょうにかぎって言えば、ダイナミックな投球フォームからのストレートが冴えている。
 中が打席に入った。初球内角高目のストレート。ストライク。スリークォーターからブーメランを叩きつけるような投球フォーム。からだを沈めて投げ出すので、中は高低の判断が即座にできず、アコーディオンのタイミングをつかめない。二球目の真ん中低目のストレートを打ってセカンドゴロ。苦労しそうだ。
 二番高木、外角ストレートのストライクをツーナッシングまで見逃す。三球目、曲がりの悪いシュートに詰まってサードゴロ。やはり小さいシュートは効果がある。大きく曲がって見逃されるよりずっといい。三番江藤。初球真ん中高目のストレートを打ち上げてセンターフライ。ストレート狙いは正解だ。
 そのストレートにきょうは威力があるせいで、打ち崩せないまま六回まで散発三安打、零点に抑えられた。三安打は私と太田と一枝。私は二回、ライト前ヒットで出て、盗塁するも残塁。五回にセンターフライ。
 巨人は三回に黒江が小野から三号ソロ、五回に柴田が小野から一点適時打、八回に相羽の代打国松が伊藤久敏から四号ツーランを放って、計四得点。小野に不調の様子はなかった。軽く流す試運転の感じがした。一度水原監督がマウンドにいって、やさしい笑顔で語りかけたが、小野もやさしい笑顔で応えていた。
 七回表、小野の代打千原が城之内から六号ソロを打ったのが唯一の得点になった。私の残りの二打席はレフトフライとフォアボール。
 一対四で敗北。勝ち投手城之内、負け投手小野。三敗目を喫した。マジック減らず。なぜか負けてホッとする。みんな上機嫌で引き揚げた。球場でも沿道でもファンからの罵声はなかった。それどころか、
「負けるなよ、金太郎!」
「負けるな、ドラゴンズ!」
 と声がかかった。テレビカメラが何台か回っていた。私は、身の危険などどこにもないのに、針を棒に解釈されて警護されていることを気恥ずかしく感じた。声のやってきたほうへ心をこめて手を振った。
 ホテルの玄関は夜十時に近いにもかかわらず、黒山の人だかりだった。子供たちも混じっている。だれもが過剰に反応していた。
「神無月さーん、がんばって」
「遠慮しないで打て!」
 何人かの子供が張り縄の内から手帳や色紙を差し出した。私と江藤は警備員を背にして立ち、率先して子供たちにサインをした。結局、レギュラー全員十五分余りにわたってサインをすることになった。
 夜食はみんなルームサービスですました。私はなだ万から豚生姜焼き弁当をとった。いつのまにか肉食いの男になってしまった。シャワー、洗髪、早寝。
         †
 翌三十日土曜日。晴。六時起床。二十一・八度。ルーティーン。人生で最も形のいい便をする。軟便ではなかった。体質が丈夫なものへ変わってきたのだろうか。耳鳴り極小。ひそやかな喜び。部屋で三種の神器、倒立腕立て五回。清水谷公園三周。
 対巨人十七回戦。微風。高橋明、星野秀孝で白熱する投げ合いの結果、十二回、四対四の時間切れ引き分けとなった。私は二打数二安打二ソロホームラン、二フォアボール、盗塁二。九回新宅の代打で出た千原が連日の七号ツーランを打ち、都合八安打で四点。
 巨人は四回に王の三十一号ソロ、九回に長嶋の二十二号ソロ含む五安打で、効率よく四点。星野は初めてプロのホームランの洗礼を受けた。十回から十二回までは、高橋一三と伊藤久敏が無失点に抑えた。太田の単純法則ではたぶんマジックが一つ減った。勝率の帳尻合わせがあるので、ちがうかもしれない。とにかくきのうにつづいてホッとして引き揚げる。
 ホテルに着いたのが十時半を過ぎていたので、厳重な警戒の中、全員サインを断りユニフォーム姿のまま宴会場に入った。水原監督が、
「あしたはふつうに勝ってください。当分いくら勝っても優勝はありません」
 笑いが蔓延する。水原監督が、
「きのうもファンから温かい声が飛んできましたが、たしかに諸君は心なしか遠慮してますね。しかし、そろそろ勝たないと、ドラゴンズの良心と覇気を疑われます。これからは何十連勝してもいいですよ。ただし、あしたの帰りは重々気をつけてね。ここを乗り切ればもう諸君の身の危険はないと思う。この先、後楽園でやる巨人戦は十月中旬の三試合しかありません。消化試合なのでファンの熱も冷めているでしょう。あしたは完勝して、とっとと名古屋に逃げ帰りましょう」
 鬨(とき)の声が上がり、笑いが弾ける。足木が一同での会食を提案したが、大半の選手が汗に湿ったユニフォームを早く脱ぎたがり、フロントでルームサービスを注文しがてら早ばやと引き揚げた。汗を気にしない私と、汗をかいていない監督コーチ陣、スタッフ連中だけが残った。江藤が出口で振り返り、菱川と太田と星野に声をかけて戻ってきた。
「ニューオータニは大風呂がなかけん、つらか。ひとっ風呂浴びたら、あいつらといっしょにまたくる。ゆっくり食っとってくれ」
 私は鏑木や池藤やスコアラーたちのテーブルについた。すぐ隣が監督たちの円卓だった。みんな決められた料理を注文していた。私はウェイターにコース料理ではなく、うなぎとソーメンを頼んだ。
「池藤さん、いつもお世話にならずにすみません」
「いや、神無月さんにわれわれは用なしです。サポートしようにも、完璧なからだの持ち主ですから手を出せません。ケガでもしたらこちらで喰らいつきますよ。できれば五、六試合に一回でも、試合後のケアを受けてほしいんですがね。われわれの仕事は筋トレのメニューを作ったり、氷で肩を冷やしたりすることですが、肘や肩に慢性の痛みを抱えている選手には、試合の前後にマッサージをします。江藤さんは肘、中さんは膝、高木さんは腰を中心にというふうにね。五分でもいいんですよ。からだの強さを維持できます」
 鏑木が、
「トレーナーさんは、よく勉強するので知識が豊富です。対応も素早い。頼ったほうがいいと思いますけど、神無月さんはねえ」
「小学校のときに、左肘の神経にカルシュームが沈積していて手術無効だったんです。いま診てもらえますか」
 私はアンダーシャツの袖をまくって、左肘の傷跡を曝した。
「ふうん、インオペで閉じたんですね」
 池藤は目診してから、傷の周囲の筋肉をさすり揉みし、それから肘の窪みを親指で押した。だんだん強くする。
「ツ……」
「神経を圧迫しました。痛くて当然です。これが神経の痛みで、正常な反応ですよ。こういう痛みでしたか?」
「いや、もっと深いところの、重い……」
「神経に沈積したんじゃなく、いま押した神経の奥の腱や靭帯にカルシュームがくっついて悪さしてたんでしょう。現在の神無月さんは筋肉も骨も完璧です。排尿は?」
「小学生のころは、一日二回ぐらいでした。いまは四、五回かな」
「少なかったんですね。人体は必要なカルシューム量を維持するために、余分なカルシュームは腸が吸収したり、小便で排出したりします。排尿が少ないと、関節内の腱や靭帯に蓄積してしまいます。神経に沈着したというのは診断ミスで、腱か靭帯に蓄積したんですね。カルシュームは、沈積してるだけだと痛みのもとにはならないんですが、その部分の過激な運動が起こると、異物として排除しようとする自己防衛機能で攻撃されます。そのとき激痛が走ります。若いからだは防衛機能が強いので、痛みも激しい。ただ、休養をとれば、吸収されたり排出されたりするまでの期間が短いんです。一年もあればじゅうぶんです。手術失敗のあと神無月さんは、すぐ右投げに変えましたよね」
「はい。七年前です。腕立てをやりだしたのは学生野球の時期からです」
「そのカルシュームはとっくに排除されてるでしょう。肘は完治してます」
「そうですか!」
「そして、その後の運動で非常にすばらしい筋肉の発達を伴ってます」
 田宮コーチが隣のテーブルから、
「片手腕立て伏せを十回、二十回とやるんだよ」
「知ってます。常人の技じゃない」
 水原監督たちは和やかに食事を進めていた。私を見つめて微笑しながらうなずく。
「懸垂はむかしから大してできませんでした」
「それでいいんです。上膊(じょうはく)部、つまり二の腕は鍛えすぎちゃいけません。重量挙げをするわけじゃないんですから。手首の強靭さ、前腕の瞬発力がバッティングのカナメです。ピッチャーとちがって、握る力もそれほど必要じゃない。二の腕は前腕から先を回転させる支えで、金槌で言えば柄の役割をするんです。先天的にそういう筋肉のあつらえだったんですね。神の賜物だ」
 ジャージを着た江藤たちが入ってきた。監督らの隣のテーブルについた。全員、ステーキを注文した。
「池藤さん、また金太郎さんの筋肉を褒めとったんね」
「左肘が完治してることをお伝えしました」
「そうね! よかったのう、金太郎さん」
「右投げに直して、数カ月のあいだに治癒したものと思われます。腱や靭帯をいじらずに閉じて幸いしました。神無月さんの今日があるのも、そのインオペと、右投げに替えた決断のおかげです」
 菱川が、
「やっぱり奇跡のかたまりがここにいるんですね。大きな何かが神無月さんに、野球をやれと命じたんですよ」
 太田が出てきたステーキにナイフを入れかけ、
「下の校庭から三角巾をして上の校庭に上がってきたときの、希望に満ちた真っ白い顔が忘れられません。手術失敗の直後ですよ。俺なら絶望してます。神無月さんが帰ったあとのデブシの顔ったらなかった。この世の終わりみたいな顔だった。……それから二カ月もしないで、右投げになって戻ってきたんです。びっくりした!」
「驚いたのはぼくだよ。バカ肩だったんで」
 鏑木が、
「柔らかい筋肉が最大限に緊張して瞬間爆発するんで、とんでもなく速くて低い球を投げられるんです。四十五度の角度で投げ出せば、百三十メートルを越えるんじゃないかな」
「ウヒョー、世界一でなかね」
「そう思います。とにかく低い球の遠投とその球速は世界一でしょう。肩を使いすぎないよう自粛してるのも遠投力を保っている秘訣です。ただ、内外野の守備は、ステップして投げる投球法なのに対して、ピッチャーは両足を据えて投げる投球法です。これだけ強い肩でピッチャーをやると壊します。ピッチングは筋肉の連動というまた別の才能です。星野さんは天才ですね。パームは肩をほとんど使いませんから、ときおり混ぜるのことで肩のスタミナを保ってます。シュートやカーブも投げすぎると肘を壊します」
 星野は照れくさそうに頭を掻いた。
「池藤さん、ワシの肘は完治せんかの」
「いまも痛みますか?」
「だいぶマシになった」
「そうでしょう。一塁守備をつづけていれば、そのまま完治します。去年まで外野でしたからね。高校ではキャッチャーだったし。三十歳過ぎまで人一倍守備練習をやって酷使しすぎたんですよ。コンバートは救いの神でした」
 水原監督が、
「走りすぎない、投げすぎない。みんな万全の状態で何年も野球をやっていきたいものだね」
「ウィース!」


         六十八

 八月三十一日日曜日。対ジャイアンツ十八回戦。一段ときびしい警戒態勢。
 太田となだ万弁当を食い終えて、ベンチに戻る。巨人の守備練習が終わったばかりだ。すごしやすい曇天。夕刻のロッカールームとベンチの気温は三十・一度、風のあるグランドはおそらく二十八度くらい。涼しい風がベンチに吹きこむ。眼鏡をかける。ドラゴンズの守備練習。グローブを持ってグランドに上がる。外野守備はいち早く終わる。内野の練習に入る。ベンチに引き揚げない外野手連中は、控え選手やコーチたちにくっついて、鏑木さんといっしょにポール間をゆっくり往復する。光の洪水。青い芝生と、しっとりと湿り気を帯びた土との配合が美しい。太田に、
「すばらしいなあ、野球場は」
「はい、胸が一杯になりますね」
「山口誓子という俳人にこの光景を詠んだ句があるんだ」
「はあ、どんな句ですか」
 呟いてみる。

 
ナイターに見る 夜の土 不思議な土

 私の声を聞きつけた長谷川コーチが、
「ナイターの球場は別世界だね。色彩と光。日本の初ナイターは巨人―中日戦なんだ。昭和二十三年八月。場所は横浜ゲーリッグ球場。昭和九年に全日本対米大リーグオールスターの日米親善野球が行われた球場だよ。その当時は横浜公園球場と言ってた。ベーブ・ルースとルー・ゲーリッグがきた試合だ。四対二十一で大敗」
「初ナイターの巨人―中日戦はどうだったんですか」
「二対三で中日の勝ち。前日にベーブ・ルースが亡くなったので、試合前に黙祷を捧げた」
「太田、そのときのメンバーを調べられる?」
「無理ですよ」
 中が、
「うろ覚えだけど、何人か……。中日は、ピッチャー星田次郎、レフト杉山悟、ショート杉浦清、センター原田徳光、サード国枝利通、あとは憶えてないな。巨人は、ピッチャー中尾硯志、キャッチャー内堀保、ファースト川上、セカンド千葉、センター青田、ライト呉、ほかは思い出せない。いまの照明の十分の一ぐらいの明るさでね、ほとんど見えないわけ。初回、青田は球が見えなくて顔面にデッドボールを食らって退場した。サイドスロー星田の速球だった。川上の外野飛球がワンバンでスタンドインして撥ね返ったか、フェンスに当たって撥ね返ったかでもめた」
 田宮コーチが、
「結局、エンタイトルツーベースにしたんじゃなかった? いまのナイターは天国だよ」
 人工美の極みを見下ろす観客は、開襟シャツや浴衣の軽装。楽しそうだ。警戒しなければいけないような剣呑な気配はない。子供のころ、ナイターがないと夜の時間を頼りなく感じたものだった。ナイター中継が終わると、何をしたらいいかわからなかった。
 スターティングメンバーの発表。先発は小川と浜野百三。スタンドに不満のどよめきが拡がる。浜野は移籍以来、敗戦処理でしか使われてこなかったからだ。今回は浜野自身が申し出たにちがいない。こんな大事な試合に―。
 中日はきょうも不動のメンバー。巨人もライトが末次から国松に代わっただけ。球審は目玉のマッちゃん。なぜか浮きうき楽しくなる。大勝の予感がする。
 一回表。中はヘルメットを脱ぎ松橋に挨拶をしてから打席に入った。私もできるかぎりこの挨拶をする。一部の新聞で、審判の機嫌を取って贔屓してもらうアピールプレイだと批判されたこともあったが、気にしない。ただ、最近ではふと忘れてしまうことが多くなった。
 浜野の首から上が赤くなっている。初球、アコーディオンが伸びる。カーブがワンバウンドしてベース上で弾むと、キャッチャーミットをかすめてバックネットへ転がった。浜野は片頬に笑みを浮かべて、松橋から投げ返されたボールをしごく。この不遜な態度があるかぎり、彼は球界で肩身の狭い思いをするだろう。浜野は前屈みになり、森の出すサインに一度首を振った。だれが考えても二球目はストレートだろう。ふんぞり返って投げこんだ低目のストレートが甘く入った。中は、ギン! と掬い上げライト中段へライナーで運んだ。森下コーチと水原監督が思わずバンザイをする。先頭打者ホームランにベンチが活気づく。三塁側スタンドが大騒ぎになる。浜野は、何が起こったんだという表情でライトスタンドを見やりながら首を振っている。めずらしく半田コーチが大喜びで拍手した。ファンファーレと噴水。百六十八センチの小さなからだがスッスッとダイヤモンドを回る。これも百七十センチの小柄な水原監督とハイタッチして三塁を回る。
 この二日間とちがってきょうは一塁側スタンドもびっしり埋まっている。星野秀孝が新聞で言っていた〈立ち上がり一気〉が始まる気配だ。
「中選手、十八号のホームランでございます」
 一対ゼロ。二番高木、初球、内角低目のカーブ、見逃し。
「ストライー!」
 松橋は右横を向き、右手を差し上げてくるくる回す。二球目、内角ストレートをいい当たりのショートゴロ。当たりのよさにベンチが景気づく。まるで難なく打ち取ったかのように浜野が吼える。バカか。一回もたないな。
 三番江藤、初球真ん中高目のカーブをバックネットへファール。口惜しそうにバットを地面に叩きつける格好をする。叩きつけない。これもスタンドプレーだ。二球目、懲りずに投げてきた内角高目のカーブを打ち下ろして、火の出るような当たりのレフト前ヒット。
 歓声が爆発する。ワッセ、ワッセ。金太郎! 金太郎さん! 森がマウンドに駆け寄り、何やら言葉を交わす。浜野はすごい形相でいやいやをしている。私が松橋の背中を回って打席に入ると、一塁側スタンドから、
「クタバレェェ!」
 という怒声が背中に飛んできた。同調するように、
「クタバレェ!」
 の声がつづき、嗤い声が混じる。
「タイム!」
 の声が上がり、王が一塁ベースからフェンスぎわへ猛スピードで走っていくと、
「失礼な野次は飛ばさないでください!」
 と叫んだ。
「金払ってるんだ。何を言おうと勝手だろう!」
 どこから声がくるのか見定められない。王も視点を定めずにするどい目で見上げながら、
「お金を払ってぼくたちのプレイを観にきたんでしょう。拍手しにきたんでしょう。贔屓の引き倒しはみっともない。巨人ファンの沽券に関わりますよ」
 戻ってくる言葉はなく、守備位置に戻る王の背中に盛大な拍手が送られた。両軍ベンチも拍手をした。私は王にヘルメット脱いで応えた。王はかすかにコックリをした。浜野はマウンドの土を蹴った。不機嫌な顔をしている。
「プレイ!」
 一球目、外角高目のシュート、ボール。二球目、外角はるか遠くのゆるいシュート、ボールツー。水原監督が手を叩きながらレフトを見やった。レフトの高田が少しセンター寄りに守備位置をとっているので、ラインぎわが広く空いている。
 ―アイ、ガット、イット。
 森が外角低く構えた。三球目、サインに反して内角高目のストレート。ボールと見切って見逃す。
「ストライー!」
 森があわてて立ち上がる。外へ低く、外へ低く、という格好をする。浜野はうなずきもせず、セットポジションから一塁へ無意味な牽制。江藤は動いていない。四球目、外角へ低く逃げていく速いシュート。見逃せばボール。見逃さず思い切り踏みこみ、屁っぴり腰でひっぱたく。レフトの白線の内側を低く伸びていく。浜野がグローブを叩きつけた。ホームベースのカバーに走らない。江藤、肩を揺すって快走。足から滑りこんでホームイン。私はスタンダップダブル。二点先取。
 川上監督がのしのし歩いてきて、審判にピッチャー交代を告げる。やっぱり一回もたなかった。森がマウンドへいって何か叱りつける。川上監督が浜野の目の前へいき、ボールを受け取る。浜野はベンチへ駆けこみ、グローブを椅子に投げつけた。彼はいつも何かに怒っている。
 ピッチャー渡辺秀武に交代。こうなったらだれが出てこようと関係ない。木俣、浮き上がって内角に沈むシュートにバットを真っ二つに折られたが、ハーフライナーで三塁の頭を越えるヒット。高田が回りこんでスライディングする。私生還して三対ゼロ。木俣は高田の肩を警戒したのか一塁にストップ。菱川、外角のスライダーを得意の右中間突破。ワンアウト二塁、三塁。ワッセ、ワッセ。太田センター後方へ大きな犠牲フライ。木俣ホームイン。菱川、三塁へヘッドスライディング。長嶋、柴田からのワンバウンドの返球を華麗に捕球して倒れこみ菱川にタッチ、セーフ。四対ゼロ。一枝、一、二塁間へ流し打ち、ゴロで抜けていくヒット。菱川還って五対ゼロ。ピッチャー堀内に交代。相変わらずの猛速球とするどいカーブ。小川三球三振。
 一回裏。柴田三振。黒江ショートゴロ。王、ワンツーから小川の真ん中シュートをライト中段に突き刺さるホームラン。少しバットの先でなかったら、看板か場外まで飛んでいったろう。小川はほんとうに王が苦手なのだ。魅せられたようにボールが真ん中にいく。
「王選手、三十二号ホームランでございます」
 うつむきながら逞しいふくらはぎで足早に回る。ホームの花道に長嶋以下が勢ぞろいしてタッチする。川上監督と握手。尻を叩かれる。五対一。
 四番長嶋、神経質にコースを狙う小川からフォアボール。五番高田、外角速球を二球見逃し、スローカーブを引っ張ってサードゴロ。
 二回表から堀内に徹底的に封じこめられた。ヒットは中、小川の短打、江藤の三塁打の三本のみ。私は、フォアボール、外角シュートをレフトフライ、真ん中のカーブドロップをセカンドゴロ。フォアボールのときに盗塁を一個した。凡打と三振を繰り返すドラゴンズ選手の姿に、巨人ファンは溜飲を下げている様子だった。返すがえす浜野先発が悔やまれる。エースを温存して捨て試合を作る? まさか! 優勝街道をひた走っているチームでないかぎり、そんなことをするはずがない。やっぱり浜野がゴリ押しで先発を申し出たのにちがいない。
 小川も、王のソロホームラン以外は、長嶋、国松にシングル、土井に二塁打を許しただけで、四安打に抑えこんだ。両チーム初回の得点のみ。三振中日七、巨人一、ともに盗塁なし。
 そのまま五対一で中日が勝った。大勝とは言えなかった。小川十八勝。堀内は好投をむだにした。試合直後川上監督が王を連れてベンチにやってきて、
「球場の内外における一部のファンの無礼な振舞いをお許しください。もとはと言えば私の腑甲斐ない言動のせいです。それがチームの戦いぶりにも響きました。今後はどんな意味でもファンに不満を抱かせないような試合をするつもりです」
 二人で帽子を取って頭を下げた。ベンチのみんなで辞儀を返し、水原監督が川上監督と握手した。
「一勝一敗一分けにしようなんて、川上くん、つまらない作為を凝らさないでよ」
「そんなつもりはありません。そのままお言葉を返ししたくなりますよ。今回はおたがい偶然そうなっただけでしょう。来月は全勝のつもりでぶつかります。優勝はテレビで観させていただきます。九月、十月の最終六試合、捲土重来を期して全力でぶつかります」
「死闘をくりひろげましょう。ジャイアンツは永遠の宿敵ですから」
 王が、
「神無月くん、きょうは不愉快な思いをさせて申しわけなかった。心置きなくプレイできる環境でなかったことを謝ります。ホームランが出なかったのはそのせいだと思う。ホームランは微妙なものですからね」
「いや、きょうの堀内さんにはやられました。おとといの城之内さん同様、きりきり舞いです」
 新聞記者とテレビカメラが押し寄せてきた。私は、それじゃ、と二人に頭を下げ、ベンチに走っていって、眼鏡を外してケースにしまうと、仲間たちといっしょにいち早くロッカールームへ逃げこんだ。冷蔵庫から麦茶を出して飲む。それから、太田と星野といっしょにみんなについで回った。江藤に、
「堀内から三安打しか打てませんでしたね。中さんのライト前、江藤さんの右中間三塁打、小川さんのセンター前。秀孝さんほどじゃないけど、堀内はストレートが速いなあ。その分、変化球に惑わされます」
「金太郎さん遠慮しとったやろ。ぜんぜん足もと変えんかったもんな」
「どう変えていいかわかりませんでした。江藤さんが打った球種はストレート?」
「おお、外角の棒球たい。同情票やな」
 中が、
「きょうの試合から連勝開始だ」
 菱川が、
「今年も三塁打王ですね。いま何本ですか」
「六本。もう一本ぐらいいけるかな。消化試合は少し休ませてもらうよ。優勝まであとどのくらい?」
 太田が上唇を舐めながら手帳を取り出し、
「きょう二つ減ってマジック11になるところですが、勝率計算から中日は九十一勝しなくちゃいけないので、マジックは12になりました。巨人が勝ちつづけても、あと十二勝すれば優勝です。負けや引分けがポチポチは入れば、そのつど考えなくちゃいけません。巨人は三日の昼に一試合やったあと、五日まで試合がないので、ちょっと退屈になります。せいぜい勝っておきましょう。とにかく中日球場で優勝を決めたいですね」
 一枝が、
「頬っぺたつねりたくなるな。この十五年優勝なし、おまけに去年最下位だったんだから」


         六十九

「しかし、ナイターって、いいですねえ」
 私が江藤に言うと、
「なんや? 藪から棒に。いつもやっとるやろ」
 小川が、
「楽しい、楽しい、聞こうじゃないか。優勝なんか金太郎さんの頭にないんだよ」
 森下コーチが、
「優勝したときの金太郎さんの顔、だれか写真に撮っといてや。一生、酒のつまみにするで」
 温かい笑いがロッカールームに満ちた。
「きょうはしみじみそう思いました。暗闇の中に球場がきれいに照らし出されるので、デーゲームより気が散りません。特に試合が始まるころがすばらしい。試合開始の時間帯はこの季節だと薄暮ですね。まだ明るくて、点灯されていない状態がしばらくつづいたあと、その明るさの中で照明塔にポツポツ灯が入る。それから十五分くらいの時間の中で、芝と土とカクテル光線の色合いが微妙に変わっていきます。その移り変わりの様子は表現しようのないほど美しい。お客さんはそれを見るだけでも金を払ってよかったと思うでしょう。子供のころもきれいだなあと思いましたが、きょうは格別その感が深かった」
「たしかにのう。球場に出かけてくる人は、それに金を払っとる気持ちになることもあるやろな。テレビだとわからんきれいさやけん」
「もう一つ金を払いたくなるすばらしさは、ナイターとはかぎらないんですが、プレーヤーの醸し出す雰囲気ですね、球場全体に散らばってる選手一人ひとりの雰囲気も、テレビじゃわかりません。テレビだとどんな選手も、仕出し弁当みたいに一律に画面に登場してきますが、スタンドから眺めるとちがいます。たとえばグランドの隅にポツンといる外人選手を見ると、ああ、遠くからやってきたんだなと感じます。あの死んだジャクソン、褐色の弾丸などと言われてましたが、グランドでの姿はいつもさびしげでした。思い出すと悲しくなります。そういう貴重な経験にも、お金を出す価値があります」
 星野が、
「グランドでいつもそんなことを考えてるんですか」
「観客の一人だった子供のころにも無意識に考えてたと思います。そういう美しい環境で、そういうふうに人に観察される人間になれないなら、いっそ死のうなんてね。……頭に浮かんだ言葉は、『野球選手になれないなら死のう』くらいのものだったけど、大人になったいま思い返してみても、やっぱりそんな感覚だったんじゃないかと思います」
 半田コーチが静かに聴いている。日本語があまりよくわからないということもあるが、彼はどんなときもひっそりと私たちのことを見守っている。田宮コーチが、
「ジャクソンの遺体は、横田基地から軍用機でアメリカに運ばれたそうだ。……さびしい気持ちに金を払う価値があるというのは、新鮮な考え方だなあ。二軍選手や控え選手も価値があるということか」
 水原監督と宇野ヘッドコーチが、インタビューを十五分ほどで切り上げて戻ってきたので、一同打ち揃って、十人に余る警備陣の手でバスに押しこまれた。木俣が、
「あのワーワー言ってるやつの中に、脅迫野郎も野次野郎もいるんだろうな。やつらにとって、スターなんて、鬱憤を晴らすための遊び道具でしかないからな」
 長谷川コーチが、
「スターと呼ばれる人間には、ドラゴンズの選手たちみたいに繊細な人間もけっこういるということを知らないんだろう。スターは大金を生み出す。大金を生み出す人間は、甘やかされて人をあごで動かしてる。そんなやつには制裁を加えてやれ、とでも思ってるんじゃないか」
 徳武が長谷川コーチに、
「報復だね。脅迫や野次は有名税と言いふらされたら、スターはペシャンコだ」
 長谷川コーチはうなずき、
「あいつらはそう思ってるところがあるよ。有名人は公共物だ、俺たちの金で食ってる、使い回してやれってね」
 私は隣に座っている太田に語りかけた。
「太田は、あの宮中の校庭にいたときのわが身を考えると、有名になれたことを喜んでるだろう」
「はい……」
「太田の周りの人たちの喜びも大きいしね。……シーズン開幕と同時に、人びとの一喜一憂の生活が始まる。生活の歩調をぼくたちの生活に合わせるんだ。どんな世界でも、有名というのはそういうことだよ。引きずりこむんだ。でも、それを当然と考える人間の精神は病んでる。ぼくは病人でありたくない。ぼくは自分に人気のないことがうれしいし、願ってることでもあるんだ。だからどんな脅迫や野次も気にならない」
 太田は悲しげな目で、
「いままで神無月さんを引きずりこんできた人たちのせいで、あきらめの気持ちが身についてるからじゃありませんか。たとえばお母さんとか……。親は子供にとって最高の有名人ですから、有名人の精神を信じられなくなった……」
 水原監督が、
「太田くん、金太郎さんはだれのことも考えずに言ってるんだよ。彼にも母親はいるけれども、ほとんど念頭にない。私は金太郎さんを人の子と思っていないから、金太郎さんの父親や母親のことは考えないようにしてる。金太郎さんは自分の来し方のことも考えていない。ただ純粋に、人を引きずりこむ人間でありたくない、有名の意味が人を引きずりこむということなら、有名でありたくないと言ってるんだ。それこそ、いわゆる有名人の反省すべき点だよ。自分に引きずりこまれて当然だと考える傲慢さだ」
 小川がようやく肩の氷嚢を外して、
「そうですね、監督。俺たちに生活の歩調を合わせて一喜一憂し、そうすることが幸福だったり生甲斐だったりする人たちに対しては、有名人はあたりまえだなんて傲慢に思っちゃいけない。しかし、せっかく生甲斐を与えてもらいながら、脅迫状を書いたり、あくどい野次を飛ばしたりする狂った連中も自分が引きずりこんだせいだと感じるのは、タコの言うとおり一種の諦念です。そういう形で引きずりこまれたやつらに幻滅はしても、共感してやる必要もあきらめる必要もない。もちろん、金太郎さんもそういう気持ちではあると思う。ただ生まれながらの引いた気質で、右の頬をやられたら左の頬を出してしまうんだろうね。俺は金太郎さんが大好きだから、そういう哲学も受け入れるし、その哲学で危ない目に遭ったら助けてやろうとも思ってる」
 水原監督が、
「よくわかるよ、一枝くん。私もきみたちも意識しないで他人を引きずりこんでいるかもしれないけど、引きずりこむことを当然と思うほど傲慢じゃない。有名なんて浮ついた気分はもともと返上してるし、いまの身のほども好きな努力がマグレ当たりを呼んだ結果だと認識してる。そう認識してる者同士の関係は、有名にあこがれるファンとの関係とは一線を画するものです。同胞愛があるんです。私たちは一方が一方を引きずりこんでるんじゃなくて、おたがいに入れこみ合ってるんです。それはおたがいの有名にあこがれるからじゃなく、力量を認め合い、人格に感動し合い、愛情を感じ合ってるからです。そうじゃないと生きていけないからです」
 江藤が、
「期待どおりドキドキする会話になっとるばってん、金太郎さん本人はでかかテーマをポンとしゃべったぎり、話の埒外でぼんやりしとるんやなかね。アハハハ」
 水谷寿伸が、
「みんな有名になって人を引きずりこみたがってるご時勢に、何か不思議な話ですね。とても気持ちがいい」
 宇野ヘッドコーチが、
「気持ちがよくないと、きょうの浜野みたいな顔になるぞ」
 菱川が、
「引きずりこみ専門の有名人顔ですね」
 星野が、
「有名人揃いの巨人の中でいちばん目立ってました」
 ひときわ大きな笑いが上がった。
         †
 ニューオータニのロビーで小山オーナーが待っていた。
「ご苦労さん。三連戦、緊迫したすばらしいゲームだった。さあ、着替えをしてきてください。うまいものでも食べてくつろぎましょう」
 ファンレター騒ぎに不安を掻き立てられて駆けつけたのだろう。三日間だいじょうぶだったかね、何もなかったかね、と一人ひとりに声をかけながら、選手たちをエレベーターに送りこむ。
 やがて着替えをすました監督コーチ以下、チームメンバー、スタッフ全員、山茶花荘の座敷の長卓についた。仲居たちの運んできたビールで乾杯し、しばらくコップにつぎ合ったあと、上座の小山オーナーが立ち上がり、
「みなさん、巨人戦三日間お疲れさまでした。優勝がいよいよ目前に迫ってきました。マジック12です。巨人が負けなくても、あと十二勝すればお終いです」
「ウース!」
「……ま、そんなことは考えずに、淡々とプレイしてください。金太郎さん、くたばれと野次を飛ばされても、ひるまなかったね。スッとした顔でレフト線にヒットを打った。感服しました」
 水原監督がニヤリとした。
「しごく短気だと聞いていたけれども、バット事件以来、危うい状況の中でことごとく冷静に振舞ってる。これほど冷静さを保っていられるのには、何か……」
「感激できないことに無関心なだけです。心配してくださってありがとうございます。春以来みなさんにご迷惑をおかけしてきたことを申しわけなく思っています」
「そんなことはどうでもいいんだ。きみが起こした騒ぎじゃないんだから。ただ、その冷静さはどこからくるのかと思ってね。無関心というだけでは、納得できない。よければ聞いてみたい。みんなの参考にもなると思う」
「冷静、ですか。……自虐の言葉だと思わないでください。ぼくには自尊心という高邁なものがありません。自分を生まれ損ない、くたばり損ないだと思っているので、生き延びて罵られる人生をさもありなんと感じるんです。クタバレと言われても、何とも思いません。冷静にしてるんじゃなく、そういう仕打ちを受けるのをあたりまえだと思ってるだけなんです。だから怨むということがありません。久保田さんの名誉が傷つけられたときは必死で抵抗しましたが、自分の場合はそもそも名誉なんてありませんから、守るべきものが見つかりせん。自分をいじめてるわけでもないんです。自分を痛めつけようなんて気持ちは、とっくのむかしにどこかに捨ててきました。自分でやらなくても、だれかが痛めつけてくれますから。ただ、やさしいみなさんに生かしめてもらっている命はむだにしたくない思いでいっぱいです。私を愛してくださるみなさんのために、この命を使おうと思っています。そのことにこそ関心があって、ほかのくだらないことには関心が向かないんです。お心遣いの言葉をかけてくださって、ほんとうにありがとうございます」
「こちらこそありがとう!」
 とつぜん小山オーナーは三橋美智也ばりの美声で民謡を一節歌った。

  おどんが うっちんだちゅうて
  だれが泣いちや くりゅきや
  裏の松山 蝉が鳴く

「これは迫害を歌った民謡です。私らは裏の松山の蝉ですよ。金太郎さんがくたばったらうるさく鳴きますよ。だれが金太郎さんをくたばらせるもんですか。クタバレというやつは、私どもが退治してあげます」
 足木マネージャーが、
「正体不明だからなかなか退治できないんですけどね。とにかく無事に後楽園が終わってよかったです」
 そう言って水原監督に視線を向ける。水原監督はうなずき、
「つつがなく終わってよかった、ほんとうに。死ね、首を吊れ、背中に気をつけろなんていうのはどうも手紙のうえだけのようだ。ろくでなしのね」
 高木が、
「金太郎さんを憎んでいる連中がこの世にいるというのが恐ろしい。才能に反発して陰口を叩くというならわかるけど、くたばれというのはなあ……」
 長谷川コーチが、
「そんなやつをわかろうとするのは余計な神経だよ。金太郎さんのようにほっとこう」
 吉沢が、
「神無月さんほどの人物は、他人の生活や環境まで変えてしまいます。と言って神無月さんに責任のとりようなんかないですよ。神無月さんが進んで働きかけたわけじゃないですから」
 小川が、
「自分が金太郎さんと同じように才能や財力に恵まれていれば、彼らだって不正をしない。羨望だね。しかし、羨ましいからといって、不正をしていいわけじゃない。不足を嘆く自分を律し切れていない証拠だからな。相手の恵まれた状況を羨む前に、まず自分の不足の原因を正さないと」
 江藤が、
「そうたい、足りないところば埋めるだけで、人生いっぱいいっぱいたい」
 プロ野球という派手なイメージとは別に、現実に選手一人ひとりは荒々しい下級労働者であり、気のいい男たちなのだ。


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