七十

 小山オーナーが、
「とにかく、どのチームもまじめに野球をやるようになった。野球人なら誰もが認める金太郎さんの精神的貢献だよ。ファンたちの胸にも沁みるものがあると思う。もう半年もすれば、こういった脅迫は激減するだろうね」
 水原監督が、
「話がつかめない人も一部いるようだが、じつは球団事務所に金太郎さん宛てで、背中に気をつけろといったような手紙がかなり舞いこむようになったんだよ。それでここ数日の厳戒態勢になったわけだ。オーナーも心配して駆けつけてくれた。単なる成り上がり者と思われているうちは、こういう迫害も仕方のないことだ。評価が確立すれば自然消滅する」
 小山オーナーが、
「もうすぐ優勝だということへ眼を向けましょう。足踏みは付きものだから、焦らずやりなさい。五連敗ぐらいしたら世間も盛り上がるんじゃないの。シーズン優勝のお祝いは名古屋観光ホテルでの祝勝会までオアズケにします。日本シリーズに優勝したら、オープンカーで行進します」
 ウオー! と歓声が上がる。
 盛会になった。料理がどんどん運びこまれ、店主の城山や仲居たちがときおり顔を出してはビールをつぐ。金田の話になった。小野が、
「金田さんはあと三勝か。消化試合のとき、一度は中日にぶつけてくるだろう」
 長谷川コーチが、
「そのときはベテラン同士、こっちも小野くんか小川くんでいこう。勝てそうなゲームのリリーフでくるはずだから、金田の勝利が見えてきたら、全力で反撃にかかる。手を抜いたら失礼だからね」
 星野秀孝が、
「巨人は金田さんに勝たせようとして必死でくるだろうなあ」
 長谷川コーチは、
「だろうね。チームが必死のときは、伏兵が活躍する。気をつけないとね」
 太田ピッチングコーチが、
「プロ野球が二リーグに分裂したのが昭和二十五年だ。その年に金田は入団した。今年で二十年目。二十六年に二十二勝を挙げたのを皮切りに、三十九年まで弱小国鉄のエースとして十四年連続二十勝以上、三振奪取王十回、巨人に移って五年で四十四勝、あと三勝で四百勝達成だ」
 私は、
「超人ですね」
 宇野ヘッドコーチが、
「ああ。肩も肘もボロボロの超人だ。私が国鉄の監督時代、彼が打たれてピッチャー交代を審判に告げる前に、勝手にベンチへ戻ってしまうことが多くてね、感情的に対立することは多かったけど、なんせ〈天皇〉だから心の底で崇拝していたよ。しかし、超人も衰えた。今年はここまで二勝四敗、三振四十個、防御率は四点台だ。花道を飾らせてやるためには、全力で戦ってたまたま負けるしかない」
 中が、
「そんなにうまくいきますかね。消化試合ということで、レギュラーを引っこめるしかないんじゃないですかね」
 江藤が、
「心配せんでよか。レギュラーを引っこめたら失礼やろう。反撃するように見せて、〈真剣に〉凡打するけん。勝負に影響せんようにな。最後のホームランは金太郎さんが打つ。苦笑いで四百勝。よかろ?」
 私は中の口まねをして、
「そんなにうまくいきますかね。打てなかったらもちろん三振でもいいわけですね」
 水原監督が、
「金田くんが好調で打ち崩せないというのが理想だが、防御率四点台のピッチャーならふつうはつるべ打ちになる。失礼がないように演技するしかないかもしれないな」
 一同の顔を見回す。
「できます!」
「三振も適当に混ぜるんだよ。ここまで四千四百八十個だからね」
「オス!」
 菱川が太田に、
「金田さんに四敗させたのどこのチーム?」
「ぜんぶ阪神です」
「なるほどなあ、なりふりかまわずか。二勝は?」
「アトムズ」
「納得」
 私は、
「当日、金田さんの調子が異常によければ、全力でぶつかっても歯が立たないんじゃないですか。そっちのほうがワクワクしますね」
 水原監督が、
「そう祈りましょう。ところで吉沢くん、来季のバッテリー陣の細かい面倒見、よろしくお願いしますね」
「は、まことに今回のありがたい抜擢に感謝しております。野球から離れる決意でおったところへ、うれしい寝耳に水でした。私にとっては二度目となる優勝経験で現役の括弧を閉じさせていただきます」
 大窓の外の木の間越しに、黒い夜空が見えた。木俣が立っていって吉沢にビールをついだ。それを機に酒宴がさらに騒がしくなった。江藤が星野秀孝に、
「きのうは王と長嶋にホームランば打たれて、一皮剥けたやろ」
「ゴソッと剥けました。けっこう気持ちいいですね。二人ともライナーでしたから」
 大物だ。
「勝利投手にしてやれんですまんかった」
「とんでもない。バッティングというのは成功失敗紙一重の、ひどく技術的なものだとわかっただけでも収穫でした」
 私は、
「技術というより、ヤマかけと、思い切りですね。ヤマが外れても、躊躇しないで振る」
 小川が、
「ピッチャーの腕振りと同じだな。ヤマかけて思い切り振る。俺はときどきサボるけど」
 星野は、
「サボりじゃなくて、あれは技巧でしょう」
「そう言ってくれるかね、来年の沢村賞。今度パームボールを教えてくれ。あれだけ落ちれば、王、長嶋を打ち取れそうだ。とにかく王にはやられる」
「パームも腕の振りが命です。思い切り腕を振って、抜くんです。ストレートとパームは肘を壊さないので、ぼくはこの二種類しか投げません」
 ほかの変化球も練習していると聞いている。不言実行型だ。
「ぼくにもバッティング練習で投げてみてください」
 私が言うと、
「神無月さんはだめですよ。落ちるまで待ってくれないですから。ストレートは打ち損なわないし。速球や変化球では無理。先天的なハイアベレージヒッターです。神無月さんを打ち取るにはコースと緩急を工夫しないとだめですね。最高に打ち取れても五割打たれます。あとの五割は打ちそこない。味方チームでよかった」
 葛城が、
「それにしても、浜野の態度は最悪だったな。もう、今シーズンの登板はないだろう。中日にいて、巨人相手に戦ってこそ生きる性格だったのにな。彼を登板させるくらいなら、金田に投げさせたほうがましだ」
 徳武が、
「選手としての将来性というより、あいつは上層部受けがいいから、うまくやっていくと思うよ。タダで、しかもいわくつきで採ったし、当分はクビにならんだろう」
 小野が、
「なんだろうね、あの吼え声は。スピードボールがないんだから、もう少し工夫して生き延びないと」
 小川が、
「臆病なんだろう。球の遅さを声でカバーしてるんだな。切れのいい変化球をマスターすれば、七、八勝のピッチャーにはなれる」
 もと女房役だった木俣が腕組みしている。ボソッと、
「威張りたいだけの単純野郎だから、調子に乗せてやればいい投球するんだがな。ただ態度が悪すぎる。楯突かれた森も困り切ってたじゃないか。当分登板させてもらえないだろう。悪くすれば二軍いきだ」
 小野が、
「……健ちゃん、私やっぱり肩の調子が悪いんで、登録を抹消してもらうことにしたよ。十日間ボールを握らずに、二軍で走りこむことにした。少しでも具合がよくなればいいんだけど、だめならこのまま来年引退かも」
「冗談言わないでよ。大黒柱なんだぜ。優勝決まったら、消化試合で日本シリーズの肩慣らしをしておかないと」
「そうできればいいけど。……十四年投げつづけてきたからなあ」
「とにかくじゅうぶん肩を休ませて、早く復帰してよ」
「うん。来月中日球場の大洋戦までには間に合わせようと思う。しばらく星野くんと二本柱で頼む。山中さんも同じく登録抹消。彼は体力の限界だね」
「小野親分はまだまだ限界じゃないよ」
「サンキュー。精々がんばるよ」
「秀孝、伊藤久敏、水谷則博、水谷寿伸、左が四人。俺、門岡、若生、土屋、右が四人か。何とかなるんじゃないの。親分が抜けてるあいだは、水谷則博と土屋の登板機会が増えて、成長が期待できるかもしれんしな。ほかに抹消は?」
 高木が、
「いない。外山、松本、大場はたぶん十月の戦力外通告組だけど、バッティングピッチャーで手伝いに出てくる。一応一軍登録。実力不足ということで二軍落ちするのは、金、佐々木、伊熊、あたりかな」
 二十八人のベンチ登録者を頭に浮かべてみた。野手は、キャッチャー木俣、新宅、ブルペンキャッチャー吉沢、高木時、ファースト江藤兄、千原、セカンド高木、江藤弟、サード菱川、徳武、ショート一枝、日野、レフト私、伊藤竜彦、センター中、江島、ライト太田、葛城。ピッチャーは、小川、星野、伊藤久敏、水谷寿伸、水谷則博、土屋、門岡、若生、外山、松本、大場。ベンチに入ることができるのは二十五人までだから、余った三人はバッティングピッチャーでやりくりするか、あるいは二軍落ちで調整することになる。
 オーナー、監督、コーチらスタッフ一同は、十一時ごろに引き揚げた。それからも、タバコの煙に燻されながら、馳走をつまんで、つぎつ、つがれつ、十二時すぎまで飲んで食った。
 したたかに酔い、ベッドまでようやくたどり着くと、上着だけ脱いで横たわった。アルコールが目の奥を重くする。首の血のめぐり具合が悪く、後頭部が凝ったみたいになっている。シャーと大きな耳鳴りといっしょに心臓の鼓動が聞こえる。聴こうとするとうるさいくらいだ。耳鳴りと鼓動の調和を測りながら聴いているうちに、やがて意識もなく寝入った。
         †
 九月一日月曜日。起きたのは九時だった。いつのまにか衣服を剥いで裸になっていた。まだ頭がグラグラする。カーテンの外は強い陽射し。
 起きがたの夢をふと思い出した。降りつづける雪が窓枠に積もり、しだいに盛り上がって窓全体が白い綿に覆われたようになる。窓の中央の雪が解けて、周囲の雪へ溶けこむ。丸い枠の中を見知らぬ人びとが通り過ぎる。除雪車が横切り、雪が噴き上がる。それだけの夢だ。幼いころあの町に暮らした記憶も、流謫時代の記憶も、ほとんど海にある。一子と腰を降ろしたことを除けば、遠浅の金沢海岸にはあまりいったことがない。突堤(チッコ)のある波の荒い海岸にばかりいった。荒海のせいか近くで漁をする船の影はなく、浜はいつも静まり返っていた。砂浜は広く、赤いハマナスや黄色い先代萩がまばらに生えていた。浜辺の道沿いの家々の屋根には、トタンが風に飛ばされないように重石が並べられていた。
 合船場は借り土地に建っていて、だれだったか祖父母以外の人間から(浜の坂本だったかもしれない)月に一度不在地主が地代を集めにくるというような話を聞いた。佐藤家所有の土地は海浜を望む崖の上にあるとばっちゃから教えられた。どうしてそういう具合になっているのか考えたこともない。どうでもいい。とにかく野辺地は、私にとって、夢に結晶されている唯一の土地だ。ふるさとと呼べるほどなつかしい土地なのかどうかはわからない。
 歯を磨き、下痢をし、シャワーで尻と頭を洗う。湯を入れて狭い浴槽に浸かった。からだが温もってくるうちに、かなり体調が回復してきた。下着を替え、ジャケットに着替える。郵送する荷物を整理するのが少々きつい。途中でもう一度トイレへいき下痢をする。


         七十一

 ノックの音がして、中が訪れた。なつかしい人。
「あ、中さん、おはようございます」
 部屋に入ってきてベッドに腰を下ろす。
「だいじょうぶ? きのうは飲んだね。吐かなかった?」
「はい、なんとか」
「金太郎さんは酒が弱いって、慎ちゃんやタコから聞いてたから、きのうの飲みっぷりは意外だった。やっぱり無理してたんだな」
「みんなと好きなことをしゃべりながら、飲んだり食ったりできるのがなんだかうれしくて、調子に乗ってしまったんです」
「よろけながらなだ万から出てったとき、慎ちゃんが手を貸すなと言うから、タコと菱があとをつけていって、部屋のドアを開けて入ったことを確認して戻ってきた。孤独のバリアを張ったときの金太郎さんには近寄っちゃいけないと慎ちゃんが言ってね。そういうときの金太郎さんは数万キロの彼方にいるんだそうだ。死を思っているときだから、声をかけたら逆効果だとね」
「死って……江藤さん、考えすぎだな」
「みんないっしょに死ぬつもりでいるからだよ。自殺というわけじゃなく、いっしょに野球をやめようと思ってる。それを不自然なこととは思わない。……金太郎さんは、死という感覚をひどく身近に飼っている感じがするよ。あっけらかんとしてね。でも、金太郎さんは苦しみながらも人生を愛してるとわかる。自殺なんかするはずがないってみんな信じてる。……ずっと、くたばれ、のことを考えてたの?」
「いえ、ただ酔っ払ってふらふしたので、横になりたかっただけです。恥ずかしいほど酒に弱くて」
「……オーナーまで出てきて、かえって気兼ねしちゃったんだね。自分のためにみんなが動くのが金太郎さんは気兼ねなんだよ。そういう人だ。わかってるよ。でもね、金太郎さん、きみは私たちの宝であると同時に、国の宝でもあるんだ。そういう人間に向かってあんな言葉を吐く気持ちがさびしい。いや、許せない。金太郎さんはそんな人間のさびしさも考えてしまう。金太郎さんに救われないやつらのさびしさなんか、背負ってやることはないんだよ。ファン、私たち、その他大勢が金太郎さんに救われてる。喜びでいっぱいなんだよ。その喜びを浴びて生きてほしいな」
「ありがとうございます、中さん。身に余るもったいない言葉です。でも中さん、ぼくは思いのほかぼんやり生きてる人間ですから、悩みなんかないんですよ。ましてや、死ぬなんて大それたこと。安心してください。そもそも、会ったことも口を利いたこともない大勢の人がぼくに救われてるというのが眉唾です。中さんたちならわかりますよ。きっとそうなんだろうと思います。ぼくが中さんたちに救われてるのと同じ気持ちでしょうから。めし、終わりましたか」
「これだ。人に気を使わせまいとするんだ。やさしい気持ちからなんだろうけど。めしなんかとっくに終わったよ。さっきオーナーと水原さんたちが一足先に名古屋に発った。選手たちも二十人ぐらい帰ったな。いつものメンバーが下で待ってる。昼めしは新幹線のビュッフェで食おう。どうせ朝めしなんか食えないだろ?」
「はい」
 中は私の段ボール箱を抱えた。
 四階のロビーに降りると、江藤たちがソファにたむろして待っていた。
「吐いたと?」
「いや、だいじょうぶでした。ご心配かけました」
 菱川と太田が潤んだ目で私を見上げた。

  
言語道断 クタバレ!

 という見出しが目についた。星野がすぐ新聞を閉じた。江藤が、
「オーナーが心配して帰ったばい」
 星野が、
「神無月くんには中日ドラゴンズと北村席しかないんだからね、庶民には愛されない人だから、と言ってました。ほんとですか」
「極論たい。金太郎さんを嫌う人間がおるもんね。しかし、ワシらはオーナーのような気持ちでおらんとな」
 高木が、
「水原さんはね、燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんやだが、いくら金太郎さんでも脅迫と罵倒がつづけば神経をやられる、憂鬱が積み重なるのはよくない、今度ああいう野次が飛んできたら私が怒鳴り返すって」
 小川が、
「これきりだろう。そんなに翼をもぎたいかとマスコミが騒いでるし、テレビも朝から実際の音声を流した。甲高くて気持ち悪い声だったなあ。叫んだ本人も恥ずかしくなったろう。アメリカの新聞も、嫉妬深い国民性と大々的に報じたらしい。大リーグのいくつかのチームがカンナヅキ獲得に本腰を入れだしたようだ。オフは球団もたいへんだぞ。それより金太郎さん、ホームランのペースがゆるんでるぞ。そろそろ量産しないと、慎ちゃんたちも歩みがのろくなっちまう」
「広島戦は打ちますよ。三連戦で十本」
「おお、その意気だ」
 品川から真昼の新幹線に乗る。星野秀孝と中が崎陽軒のシュウマイ弁当を抱えて通路を往復する。小野が一枝に、
「小山オーナーは〈人〉だね。トップは〈人〉でないとだめだ」
「はあ……。親分は中日にくる前に、大洋に何年いたんでしたっけ」
「三年。四十年から四十二年」
「左ピッチャーがほしいと思ってた大洋の中部オーナーが、大毎の永田オーナーとだれか政治家を交えて雑談してたときに決まったらしいですね」
「うん。副総理で国務大臣だった河野一郎さん。二人のオーナーと懇意にしてたから、すぐに決まったみたいだね。いつの時代もスポーツ選手なんて、資本家や政治家のオモチャだからね。右から左の贈答品だ。〈人〉のやることじゃない。ま、東京オリオンズでとつぜん成績を落としたときだったから、私としては渡りに船の気分だった。さあ新天地でやってみるかってわけ。……まだ肩の具合がいいころだったけど、三年間で十六勝しか挙げられなかった。四十三年に中日にきて六勝、やっぱりもうだめだなと思っていたら、今年狂い咲きの十三勝。肩もお役御免の日が近い」
「……深刻なんですか」
「二年はもたないね。なんだかわかる。わかるまでは永久に投げられるような気がしてたんだけどね。……私がパリーグに在籍した最後の年は昭和三十九年でね、東京オリンピックの年だった。そう言えば、河野一郎さんもオリンピック担当大臣だったな」
「春に平凡パンチが創刊されたのをよく憶えてますよ」
 野辺地に送られた年だ。聞き耳を立てる。
「前の年は西鉄が優勝、三十ゲーム差で西本阪急が最下位、オリオンズは五位だった。その阪急が、四月終了時点で、二位のオリオンズに四ゲーム差をつけて首位に飛び出したんだ。春の椿事というやつだね。河野旭輝の復帰、スペンサー、ウィンディの活躍、石井茂雄の開幕九連勝、米田、梶本の復調など、いろいろな要素が重なったんだろう。西本さんがその後語ったところによるとね、阪急の小林オーナーが納会で、私は趣味や道楽で球団を持ってるわけではないとニコニコ顔で言ったとき、みんなの背筋がピンと伸びたということだった。うちの小山オーナーはぜったいそんな功利的なことは言わない。しかし、オーナーの存在が私たちの気を引き締めてるのはたしかだ。彼もそのことがよくわかってて、今回わざわざ顔を出したんだ。ぼくたちの守り神である神無月くんを励ますためにね。彼は神無月くんを大リーグに売り渡すようなことはぜったいしない」
 一枝が、
「それを言いたかったんですか」
「そう」
 小野は照れたふうにあごの先をさすった。私は弁当を開けて箸を割り、
「大リーグなんかいくわけがないでしょう。ぼくの意志をオーナーが尊重してくれることはわかってます。あんな野次で運命が変わるなんて馬鹿げてますよ」
 シューマイが硬い。一枝が、
「球団が財政難に陥ってるわけでもないからな」
 高木が、
「金なんか知ったことか。金太郎さんはだれとも別れない。金太郎さんは日本で俺たちの引退をきっちり目撃してから、身の振り方を決めるんだ」
 高木の強い調子の言葉に安心したように、みんなの箸が規則的にめしと口を往復しはじめる。
「ぼくはアメリカにあこがれたことはありません。中日ドラゴンズに入りたくて、小さいころから野球をしてきたんです。ドラゴンズで野球をやりつづけます」
 みんな箸を持った手で拍手した。気恥ずかしかったが、新たな覚悟を自分に強いる意味で、私は立ち上がって礼をした。座席に腰を降ろし、
「星野さんは、オリンピックのころは群馬の中学校で軟式をやってたんですよね」
「はい。草野球みたいなものでしたけど。あのう、星野さんはやめてください。冷や汗が出ます」
「先輩ですから、当然の礼儀です。で、高校でも軟式を?」
「そうです。野球部もない高校で、同好会みたいなものを作って、それなりに真剣に軟式をやってました。おととし、田村スカウトが、ぼくの噂を聞いて沼田高校にやってきて、ストレートがいいね、ドラゴンズにこないかって。みんなびっくりしましたよ。ただの校庭野球でしたからね。伸び悩んでいる井出さんの後釜を探してたらしいんです」
 小野が、
「後釜って、井手くんも戦力として採ってたわけ? 話題作りだとばかり思ってた。星野くんは後釜というより、本式のスカウトだよ」
「スカウト……。山奥で趣味の野球をやってる男に目をつけてくれたんですね。ありがたいです。契約金二十万円は大金でした。でも今年ドラ一で入ってきた浜野さんは一千万です。すごいちがいですね。差をつけるのはさすがプロらしいやり方だと思いました。それより驚いたのは、神無月さんが契約金などいらないと言ったことです」
 私は、
「正確に言うと、眼中にないと言ったと思うけど」
「いえ、だれもそういう受け取り方をしてません。お会いして、やっぱり本気だったとわかり、自分が恥ずかしくなりました。神無月さんが十億もらっても当然だと思います。無欲な神無月さんには要らない金でしょうが。……ぼくはついこのあいだまで二軍暮らしでしたが、木俣さんが、プロに入って一勝もせずに二軍のまま身を引くのは悔しいと思わんか、男なら一軍にきて活躍しろ、とハッパをかけてくれて―そこへ、降って湧いたように一軍の話がきて……」
 車中に木俣はいなかった。菱川も太田も控えの野手たちも控えの投手陣もいない。広島戦に備えて自主的に打ちこみや投げこみをしに一足早く戻ったのだろう。中が、
「金太郎さんに認められたらホンモノだ。来年はウン千万だぞ。浜野をはるかに越えたじゃないか。よかったな」
「やめてください。とにかく、ちょっとでも金のことを考えた自分が恥ずかしいんですよ」
 高木が、
「金太郎さんみたいに、くれるものはもらっておくかって思ってればいいだろ。とにかく今年は安月給なんだからさ。月給一万五千円くらいなんだろ」
「はい」
「サラリーマンの五分の一じゃないか」
「寮費を引いたらほとんど残りません。漫画くらいしか買えない」
 江藤が自分の弁当の折り箱を始末し、私の残したシューマイをつまみながら、
「漫画て」
「週刊サンデー、週刊マガジン」
「ガキやのう。おもしろいか」
「おもしろいというか、寝る前の時間つぶしにはなります。このごろは、床に入るとすぐ寝てしまいますけど」
 私が、
「どんな漫画ですか? ぼくも小四くらいまで貸本少年だったけど、最近の漫画は知らないなあ」
「サンデーだと、伊賀の影丸、おそ松くん、オバケのQ太郎、マガジンはストーリー物が多くて、ハリスの旋風(かぜ)、巨人の星、あしたのジョー」
「やっぱり一つも読んだことがない。誓いの魔球は?」
「ひとむかし前のスポコン物ですね。三十六年から三十七年のマガジン。巨人の星は誓いの魔球の焼き直しです」
「スポーツマン金太郎って知ってます?」
「はい、三十四年から三十九年のサンデーです。いまも小学館の学年誌に連載中です」
「ぼくの金太郎というあだ名は、小学校時代にその主人公にちなんで付けられたものなんです」
「そう思ってました。漫画を地でいってるので、タマゲました。漫画の金太郎の打撃成績は、よくホームランを打つということ以外は謎ですが、神無月さんは漫画どころじゃないです」
 一枝が、
「おまえ、漫画博士か」
「中学、高校と遊びで軟式をやってたんで、暇がいくらでもありました。尾瀬あたりの田舎じゃ、テレビなんかほとんどの家になかったし、子供の楽しみといえば漫画くらいしかなかったんですよ。最近は漫画を読んでるどころじゃなくなりましたけど」
「ドラ八の大飛躍だからな」
 頭を荒っぽく撫でられる。
「寮暮らしは快適だろ?」
「はい。同期の村上真二さんと相部屋です。彼は中川区の八田でアパート暮らしをしてたんですが、今年寮に移ってきました」
「村上って、おととしきた?」
「はい。高校球界ナンバーワンのショートという評判で、ドラ四でドラゴンズに入りましたが、一枝さんの壁は崩せず、いまも二軍暮らしです」
 一枝は胸を反らし、
「簡単に崩されてたまるか。俺はモリミチの恋女房だよ。簡単に離婚はせん」


         七十二

 名古屋駅に時田や蛯名をはじめとする背広姿の組員八人、北村の主人と菅野が緊張した様子で出迎えた。江藤が、
「ご苦労さまです」
 と頭を下げた。みんなで私たちをオブラートのようにくるみながら改札を出る。組員のうち二人が小野と小川と高木をタクシー乗り場まで送っていった。私を含め江藤以下の選手らはいったん北村席の門まで導かれた。マイクやテレビカメラを抱えた記者たちがごっそり路上にたかっていたが、時田らの雰囲気に恐れをなして近寄ってこなかった。蛯名がハイエースの運転席に乗りこみ、
「昇竜館までお送りします。心配ご無用です。われわれのことは警備会社の者だと寮のほうに連絡してありますので」
 ハイエースには蛯名のほか四人の組員が乗りこんだ。小川たちを送って戻った組員らとともに時田が門前に残った。江藤たちを見送ると、私は主人と菅野といっしょに門を入った。時田たちは門前に残った。
「しばらくして何ごともなかったら引き揚げますので、気になさらずに」
「ほんとにご苦労さまです」
 私たちは頭を下げ、庭石を歩き出す。主人が、
「広島戦が終わるまではこの態勢でいくらしいですわ。牧原さんが連絡を寄こしましてな。朝からニュースは、中日の優勝そっちのけで、あのクタバレ一色ですよ」
「牧原さんが気を揉むほどの大事件なんですか。ただの野次なのに」
 菅野が、
「大事件も大事件、優勝以上の大事件です。天下の神無月郷ですよ。甲子園の太田幸司なんか目じゃない。いっしょになって笑った周りのやつらも責められてます。巨人ファンはいつになったら神無月イジメをやめるのかってね。あの集音マイクの録音はすごい。だれが聞いてもふるえ上がりますよ。川上監督と正力オーナーが今朝、テレビの前で謝罪のコメントを出しました。もってのほかの野次を受けた神無月選手に対し心から陳謝する、相手チームの選手をおとしめる顰蹙行為は巨人軍の恥になるばかりでなく、プロ野球界の質を低下させる、いまの状態がつづけば後楽園球場を訪れる観客の足が遠のき、ひいては巨人軍選手の士気にも響いて来季の捲土重来が望み薄となる、巨人ファンのかたがたの猛省と自粛を求める、とね」
 ファンレターの話は出さなかったようなので胸を撫で下ろした。悪意の手紙は匿名がほとんどであるだけに、新聞に載る程度ですんでいればいいけれども、テレビで騒がれると大流行する。そうなるとまた細かく球団本部が要らない対応をしなければならない。野次ということなら、少なくともその張本人は目撃されている。同じことを二度やったら、周りの人間から袋叩きに遭うだろう。主人は、
「ここまでマスコミが騒ぐのは、興味本位もあるかしれんが、瓶が飛んでくる前に予防策をとりたかったんやろな。釘を刺しておきたかったということですな。神無月さんがケガでもすれば、もうどうやったって取り返しがつかん」
 菅野は、
「後楽園球場は金網フェンスを張ってませんから、瓶が真横から飛んでくる危険があります。スタンドの上から加速をつけて飛んできたら命に関わります。殺したいやつは何だってしますからね」
 玄関に女将やトモヨさんたちが心配顔で出迎えた。冷房のひんやりとした空気が流れてくる。
「たいへんなことになってるようですね」
 トモヨさんがおろおろした顔で見上げ、イネが心ここにあらずの面持ちでダッフルを受け取る。
「優勝があっという間に近づいたね」
「とぼけたこと言わないでください。優勝は何度でもあるでしょう。命は一度かぎりです」
「みんな心配しすぎだよ。こういうことは芸能人やスポーツ選手には付きものだから」
「付きものだから怖いんです。刺し殺された力道山や、塩酸をかけられた美空ひばりのことを思い出してくださいね」
「力道山は自分から暴力団員に喧嘩を売ったんだ。まったく事情がちがう。美空ひばりに塩酸をかけたのは、熱烈なファンの少女だった。このあいだの刃物男みたいに、反感を持ったファンに襲われるという事件はとてもめずらしい。アンチはめったに直接行動しないからね。陰湿に動くんだ。今回だって野次だけですんでる」
 主人が、
「ま、ま、神無月さんもぜんぜん気に留めてないようやし、危ない目にも遭わずに帰ってきてくれたんやから、これ以上ごちゃごちゃ言うのはやめましょうや。新聞でも読んでゆっくりしてください」
 優子たちアヤメの早番組が戻ってくる。百江やキッコの中番組が出かけていく。丸信子は遅番組の責任者で控えている。居間でパンツ一枚とランニング姿になる。トモヨさんが服を片づける。
「千佳子たちは?」
 女将が、
「昼からローバーで鶴舞(つるま)公園にいったわ。スイフヨウを観に」
「スイフヨウ?」
「鶴舞の名物や。朝白く咲きはじめて、午後に薄ピンクに変わって、夜に萎んでまう一日花やがね。今週から見ごろに入ったらしいわ」
 ソテツが、
「蓮の花も名物ですけど、そろそろ開花の時期は終わりです。鶴舞公園には、おいしいアイスクリームを出す喫茶店があるんですよ。桜の風味とかハスの風味とか。私も食べたかったな」
 少女らしいことを言う。幣原のいれたコーヒーをすすりながら、主人の差し出した新聞を読む。夏の甲子園の決勝戦が引き分けに終わった翌日と翌々日の朝刊だ。

 
深紅の優勝旗初めて白川の関を越えるか?
 色白の美少年、三沢高校のエース太田の人気も手伝い、注目を集めた夏の甲子園大会決勝は、八月十八日午後一時に試合開始のサイレンが鳴った。松山商業井上明投手と三沢高校太田幸司投手の両エースが初回から息詰まる投手戦を展開。0―0のまま、試合は延長戦へと突入した。三沢は十五、十六回の二度、一死満塁のチャンスを作るが、松山商の堅い守りに阻まれ、スクイズを失敗するなどしてサヨナラを逃した。松山商も十回以降六安打を放ったが、太田が要所を締めて点を与えず、結局井上二百五十三球、太田二百六十二球を投げ、四時間十六分に及んだ激闘は、延長十八回、0―0で引き分けとなった。


 翌日の再試合の記事。

 初回松山商業は三番樋野和寿選手の二点本塁打で先制。その裏、三沢高校も四番桃井久男選手の適時打で一点を返した。二回以降は投手戦となり、太田は気力を振り絞って力投するも六回に二失点。松山商は井上と右翼の中村哲選手を小刻みにチェンジして継投させ、三沢高校を一点に抑えこみ、4―2で勝利した。二日間二十七回に及ぶ死闘は名門松山商業の四度目の優勝で幕を閉じた。
  
 主人が、
「東奥日報さんから写真が送られてきました。青森高校の顕彰碑がバックネット裏に移されて、その脇に神無月さんの銅像が建てられたということです。バットを担いで斜め上を向いとる立像です。このポーズ、よくベンチ前でとっとりますよ。実際の写真を見て作ったんやろね。台座の後ろには、寺山修司の寄贈文が彫られとるそうです」
 読むと、

 
神無月郷はかつてホームを好んだが、棍棒で言葉を手の届かないところへ弾き飛ばしてしまったので二度とホームへ戻れなかった。

 と書いてあった。皆目意味がわからなかったが、ゾッとした。過去形の文字が私の孤独を的確に言い当てていた。
「寺山修司は青森高校の十年以上前の先輩です」
 菅野が一服つけながら、
「青森高校から講演依頼がきてます。その寺山が出席する予定ですが、どうしますか」
「寺山は教養人みたいなので、会いたくないな。でも依頼なら仕方がない。帰省ついでにいってきます。日程を組んでおいてください。木俣さん同伴の中商も予定してるので、うまい具合に調整をお願いします。木俣さんには早めに連絡を」
「わかりました。十二月はたいへんですよ。各賞の授賞式もありますから」
「餅つき大会とか、そんなものもあったと思いますけど、断ってください」
「はい、しっかりスケジュールを組みます」
 座敷の縁側で、トモヨさんの持ってきた浴衣に着替え、正座して見守る彼女の前でゴロリと大の字になる。至福のときだ。縁側に優子がやってきたので、膝枕で耳糞を取ってもらう。いっときとちがって太腿が危うくふるえることがなくなっている。
「堪え性ができたんだね」
「はい、イキたい感じは抑えられませんけど、がまんしようという気持ちはあります。もうビショビショです……」
 膝の温かさを耳に感じているうちに、性欲が回復してきた。
「ぼくもひさしぶりに勃ってきた。握ってみて」
「そんな、図々しいです。―奥さまの前で」
 優子はトモヨさんを見つめる。トモヨさんが浴衣の下に手を入れて握る。
「まあ! 溜まってるんですね。優子さん、すぐしてあげて」
「はい」
「その前に爪も切ってあげてね」
「はい」
 手を差し出す。足の爪はトモヨさんが切った。
「イク瞬間の感じじゃなくて、イキたい感じ、それってよくわかるわ。イキたくなってイクのを急いじゃう感じでしょ? イキたい感じを抑えて急がなければ、けっこうがまんできるとは思うんだけど」
「はい、急がないでイケるようにはなかなかなれませんけど、がまんしようという気持ちは出てきました」
「いいことよ。がまんするとすごく強く気持ちよくイケるから。あら、雨。直人を迎えにいってきます」
 にわか雨なのだろうが、大粒だ。賄いの連中が洗濯物や蒲団を取り入れに、大挙して裏庭へ飛び出す。菅野とトモヨさんが玄関へ出ていった。あっという間に、どしゃ降りに近くなった。
「ほう、いい雨だ!」
 居間で主人が声を上げる。
「雨の音を聴きながら、優子」
「はい、いただきます」
 すぐ隣のステージ部屋に入って襖を閉めると、優子はパンティを脱ぎ、スカートを穿いたまま上になる。私の肩に口を押しつけて声を殺す準備をすると、おそるおそる腰を落とした。さっそく〈がまん〉のうめき声を上げながら、〈急いで〉数回達する。決意と肉体は喧嘩をするようだ。雨音がアクメの声と協和する。
「……もうだめ、神無月さん、あ、大きくなりました、きょうは危ないんです、神無月さん出さないで、あ、イク! ソソ、ソテツちゃん!」
「はい!」
 遠く厨房で返事がし、駆け足で廊下の襖のほうから入ってくる。きょうから賄いに入った千鶴だった。
「ソテツちゃんは、いま手が放せなくて」
「千鶴ちゃん、受けて、受けて、すぐお願い、私危ないの、ククク、イク!」
 離れて横へ転げる。千鶴ははあわてて下着を脱いで、私の胸に手を突き、腰を落とす。
「あ、神無月さん、もうすぐなんやね、すごい、引っかかる、だめだめ、あ、イク、イック! あああ、愛してる、神無月さん、気持ちいい! 好き好き、いっしょにイッて、いっしょに、好き好き、いっしょに、ああ、イク! うーん、イク!」
 吐き出した。千鶴は腰を振って痙攣しつづける。短い時間の交接だったので、細かいふるえを繰り返しながらすぐに鎮まっていく。優子が起き上がり、ティシュを持ってきて千鶴に渡した。
「ああ、たくさんイッてまった。優子ちゃん、ありがと。神無月さん、ありがとうございました。とつぜんタナボタでビックリしちゃった。ありがとう、ほんとに」
 千鶴は名残惜しそうに膣口にティシュを当てて引き抜いた。グンともう一度からだが引き攣った。私は畳の上にじかに裸の尻を接していたことに気づいた。
「優子、ここに床をとってくれる? 夕方まで少し寝る」
「はい」
 千鶴はそっと厨房に去り、優子は蒲団部屋から蒲団を一組持ってきて敷いた。イネが顔を覗かせ、頬を赤らめながらシーツを延べる。昨夜の酔いが急に戻ってきたようだ。優子が濡れタオルで陰茎を拭った。イネが掛布をかけた。すぐに寝入った。



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