七十九
 
 座敷でみんなと『TBS歌のグランプリ』、『おやじ太鼓』とだらだら観ていると、アヤメの遅番組の百江や丸たちが帰ってきた。さっそくソテツやイネたちにおさんどんされながら、丸が、
「後片づけはどう効率よくやっても、一時間はかかりますね。料理人さんは、早く帰れって言ってくれるんですけど、ホールの掃除はまかせるわけにはいきませんから」
 カズちゃんが、
「その気持ちがあるから、毎日たくさんのお客さんがきてくれるのよ。がんばってね。結局、どの番も四時間以上の労働になってるみたいだけど、その分はいずれ―」
「いいえ、じゅうぶんお給料はいただいてます。とても働き甲斐のある職場ですから、何の不満もありません」
「店員のスケジュール表は北村で作るからいいとして、三交代制の経理はたいへん。おとうさんが前もって計理士を雇ったのはそのためよ。毎晩かよってきてくれるから安心でしょ?」
 百江が、
「はい、毎日夜の八時から伝票整理を始めてくれてます。あれは素人じゃできません」
「一般の会社とちがって月次(げつじ)決算とか、四半期決算、年次決算なんて大げさなことがないから多少はラクだけど、日銭の管理と年末の総決算はしっかりやってもらわないと。アヤメの二階事務所で仕事するからじゃまにならないわよね」
「はい、タイムカードのある部屋ですね」
「そう。アイリスも、ちゃんと計理士の人に伝票処理なんかやってもらってるわ。私たちじゃわからない仕事がいろいろあるの。現金の出納(い)りとか、経費の精算、受注事務、銀行振込、飲食業組合保険の納入なんていう細かい仕事がたくさんあってね。アヤメも同じよ。年末の確定申告なんかは、税理士や公認会計士にやってもらうとしても、日銭の計算はまめにかよってくれる計理士でないとね。どちらも大所帯だから」
 難しすぎる話をしている。聞き耳、撤退。素子が、
「店仕舞いのときの現金集めは、松葉さんの組員の人がやっとるん?」
「いいえ、計理士さんが店の金庫に入れておいた売上金を、翌日の午前中か午後早くに菅野さんがとりにいって銀行に預けるんです」
「アイリスはメイ子ちゃんがその役目やが。羽衣やシャトー鯱なんかは松葉さんがやってるみたいやで」
 丸は話題を変えて、
「アイリスにテレビ取材がきたらしいですけど、アヤメにもこのあいだきて、驚きました」
 ようやくわかりやすい話になった。千佳子が飛びつく。
「どういう取材でした?」
 カズちゃんが、
「おとうさんが取材の申しこみを受けたんだけど、アヤメの店長という触れこみでマイクを受けたらしいわ。私は恥ずかしいからいかなかった。お店の説明は部長という名目で菅野さんがしたみたい。アイリスが受けた取材は、コーヒーのおいしいお店というテーマよ」
「アヤメは、カユイところに手の届く定食屋さん、でした」
「テレビ局の狙いは、どちらのお店も神無月郷がときどきくるお店ということなのよ。当座はその宣伝効果を利用させてもらいましょう」
 百江と丸たちが食事を終えた。見知らぬ顔がニ、三いるが、トルコから移ってきた女たちで、今月から北村席に寄宿している。年配者ばかりなので、賄いたちのいい話相手になっている。牌を掻き混ぜる音が聞こえてくる。厨房の片づけの音も聞こえる。ソテツにコーヒーのお代わりを頼む。
「千佳子は帰省どうするの?」
「年末に帰ります。ムッちゃんといっしょに。イネさんもそうすると言ってたので、三人で帰ってきます」
「わかった。たぶん、野辺地では同窓会もやられちゃうから、ぼくも単独行動のほうがよかったよ。東北の冬は、はとバスみたいに集団では動けない。寒さと雪がきびしい」
 千佳子が、
「すンばれる」
 カズちゃんが、
「あ、その言葉なつかしい。私は冬から暮らしたから。やっぱりいってこようかな。お祖父さんお祖母さんにも会いたいし、もともとその予定だったから」
 その季節の北村和子の情熱をいちばん大切な思い出にして、私は生きている。睦子が、
「いっしょにいってくればいいと思います。だれにもまねのできないことです。仕事を辞めて、北国まで追っていくなんて」
 私の気持ちをわかっている。素子が、
「私とメイ子ちゃんでお店の留守番ちゃんとするから、いってきたらええがね」
「言ってみただけ。いろいろ考えると、無理よ。キョウちゃん、忙しすぎる。東奥日報さんも連れ歩くし」
 千佳子が、
「撮影のロケハンがあるでしょうしね」
 素子が、
「何やの、ロケハンて」
「ロケーションハンティング、撮影場所の下調べです」
 落ち着かなくなってきた。旅に出ると考えると億劫な気持ちが湧いてくる。会わなければばならない人がいる。―強制的な感覚に冒される。一つひとつの顔が走馬灯のようにめまぐるしく巡る。顔を浮かべるだけでなにも全員に会うわけではないのだが、浮かべた人に会わなければ彼らを失望させると思いこんでしまう。のこのこ会いにいって迷惑がられたらどうするのだという不安も胸底に動く。結局私が〈会う〉のは、じっちゃばっちゃのほかに、数人の女だけだろう。それでもなぜか心が重い。
 キッコが定時制から帰ってきた。入れちがいに、千佳子が睦子を送りに出た。カズちゃんが、
「お疲れ、キッコちゃん。定時制も、夏休みあるんでしょう?」
 ペタッとテーブル前に坐ったキッコに訊く。
「はい、全日制と同じです。あたしいま、一般受験対象者の英数国の補習を受けてまんねん。難しいけどがんばってます」
「期待してるわよ」
 イネが、
「キッコちゃん、インスタントラーメン食うが」
「いらない、お弁当食べたから。いまから復習」
「えれなァ」
 千鶴が寄り添うように腰を下ろし、
「うちも来年からがんばります」
 ソテツもやってきて、
「お弁当、量はあれでいいですか」
「適量。おかずの味も名人」
 カズちゃんが、
「キッコちゃん、仕事つらかったらサボっていいのよ」
「冗談やろう。さあ、勉強、勉強」
 と言いながら二階へ上がっていった。
「じゃ、私たちも帰りましょうか」
 カズちゃんが立ち上がった。私も立ちあがる。帳場と厨房にお休みなさいの声を投げると、お休みなさいの声がいっせいに上がった。ソテツとイネがトモヨさんといっしょに門まで送ってきた。
         †
 九月三日水曜日。熟睡して、六時起床。カーテンを開けると霧雨。二十三・二度。うがい、軟便、シャワー、歯磨き。ジムトレ二十分。最後に百二十キロを一回挙げる。からだに幹ができた感じが強くなったので、きょうから素振りを四掛ける六、二百四十回に増やした。
 二人が起きてきて、すぐ洗面所にいく。歯を磨いてからキッチンに入る。女はなぜか朝のシャワーを浴びない。
「中日スポーツよ!」
「ホーイ」
 キッチンテーブルで新聞を読む。

  
中日アトムズ三連戦で優勝決定か
 中日ドラゴンズの優勝がいよいよ目前に迫った。開幕九十五試合目で、七十九勝十二敗四分け。五十二勝三十五敗六分けで二位につけている巨人が、残り三十七試合を全勝したとしても、八十九勝三十五敗六分け。勝率七割一分七厘。中日は九十一勝三十五敗四分けで、勝率七割二分二厘。勝率計算の関係で、前節の勝敗の結果、マジックは14から三つ減らず二つ減って、現在マジックは12だが、これは単に十二勝しなければならないというのではない。この先のマジックは停滞したり揺れ動いたりすることになる。最短は中日六連勝の巨人六連敗でマジック6であるが、しかしこれまでの両チームの動向を考えるとそれはまず起こり得ないので、中日の優勝は早くても九月中旬の大洋戦かアトムズ戦で決まるものと予測されている。


 菅野とひさしぶりに西高往復。途中で霧雨が上がった。雨上がりの大気を胸いっぱいに吸いながら走る。
「小笠原、早稲田を中退したんだよね。いまごろ自分でせっせと走りこみしてるんだろうな。肩も休まって完治するだろう。ドラフト下位指名でもいいから中日にこないかな。もし戸板が獲れなかったら、埋め合わせできるのはやつしかいない。―彼らといっしょなら、また新たな気分で野球ができそうだ」

「二人とも獲れたら最高ですね。柳沢は六月にアトムズ入っちゃったから、いまや敵です」
「早く対戦したいけど、なかなか出てこない」
「二軍戦でも出てないようです。体力作り真っ最中でしょう」
 花屋に寄る。
「何カ月かにいっぺんは顔を出さないとね」
「顔見知りのファンは貴重ですからね。新聞やテレビの大騒ぎは一時的なものなので、結局どうでもいいことですけど」
「何が起きて、何が騒がれてるのか、よくわからないんだ。重大なことだとは感じるけど」
「十五年ぶりの優勝ですよ。たいへんなことです。やっぱり大騒ぎすることです」
「街はこんなに静かだよ」
「ですね」

 中日ドラゴンズ マジック12 優勝へカウントダウン 

 垂れ幕が花屋のドアを覆っている。
「十分だけ! オーダーなし!」
 と菅野は叫んで花屋に入る。女将が奇声を上げる。
「ヒョー!」
「神無月さん、菅野さん、いらっしゃい!」
 女将が私の手を握りながら跳びはねる。お婆さんがペコペコお辞儀をする。私たちの到来を予期していたようにクラッカーが鳴る。客が九分どおり入っている。品出しカウンターから顔を覗かせたマスターが、
「やっぱりきてくれましたね。ありがとうございます! みんなでくるこないの賭けをしたんですよ。全員〈くる〉に賭けて、賭けが成立しませんでしたけどね」
 女将が、
「優勝したら、忙しくなって当分これなくなるものね。優勝前ならぜったいきてくれるって、ここ何日か待機してたんですよ」
 客たちがばらばら立ち上がり、
「マジック12!」
 いっせいに拍手。私はお辞儀をしながら一人ひとりと握手した。菅野もひたすらお辞儀をする。
「ありがとうございます。おかげさまで確実に優勝に近づきました」
「だれのおかげでもあれせんが。じぶんのおかげやろ」
 そばの客が詰めて二人分の席を空けた。壁に全品三割引と大書され、花丸で縁取りしたビクトリー丼というメニューが増えている。私は指差して、
「こんどきたとき、これ食いますよ」
 女将が、
「海老天丼をイカと野菜の天丼にしただけなのよ。やっぱり金太郎ミックス丼がいちばん栄養があるわね」
 中年の客が、
「消化試合は、レギュラーの出番は少なくなるの?」
「さあ、ダブルヘッダーが多くなりますから、そのどちらかの試合でレギュラーを休ませることは増えるでしょうね。連続試合出場に情熱を燃やしている人は別として」
 ほかの客が、
「二線級の選手とか、引退する予定の選手とかを出すことも多くなるんじゃないの。俺も去年の秋に巨人戦を観にいったことがあるけど、クリーンアップは客寄せだからしっかり出すとして、巨人は田中久寿男、大橋勲、中日は堀込、金、日野、松本なんか出してチンタラやってたな。客があんまりいないし、歓声も少なくてさびしかったけど、ふだん見かけない選手をのんびりナマで見れるのはうれしかったよ。どうのこうの言っても、あいつら期待の選手なんだろ?」
 女の客が、
「神無月さんが出れば、消化試合だって満員でしょう」


         八十

 客同士てんでにしゃべりだした。
「たとえ神無月さんが出てても、野球そのものより勝ち負けに興味のある連中はこなくなるよ。少なくとも、満員じゃなくなる」
「下位同士の順位争いが絡んで、個人の記録達成ぐらいしか見どころがなくなるでしょ。だいたい、優勝あっての記録だから、それほど魅力はないわね」
「客はがた減りになりますよ。レギュラーにケガをさせないように、今年活躍できなかったルーキーや控えをたくさん投入するわけやもの」
 私は、
「そういう静かな球場、好きだなあ。いろいろな野球の音が聞けるし、お客さんの顔もよく見えるし」
「でもさ、ラジオやテレビの中継もやらなくなるよ。やるのは大阪や広島の一部のラジオだけ」
「雑音がなくていいですよ。限られた中継時間の中で、打った、捕った、勝った、負けたばかり聞かされてたんじゃ、勝ち負けしか関心がなくなる。野球は現場で、野球そのものを見なくちゃいけません。打つ音、グローブの音、審判のコールの声、ウグイス嬢の柔らかい声、拍手、野次、歓声。それが醍醐味です。中継アナウンサーの声なんて、ときどき聞こえてくるだけの雑音です。それにしてもみなさんが野球に詳しいので驚きました。ファンの気持ちを知るうえでとても勉強になりました。やっぱり、優勝というものはファンの希望のシンボルとして、プロ野球のチームが目指さなければならないものですね。でも覚えておいてほしいんです。優勝はフロント陣の目標であって、野球選手というのはとにかく野球をやってるのが好きなだけの馬鹿だということをね。たしかに野球をやってるときに勝ち負けを意識することはありますが、ぼくたちが関心を持っているのは、基本的に自分の技術だけなんです。それがチームに役立った結果が優勝なら、やたらにうれしくて、ビールかけの馬鹿騒ぎになるわけです」
「なるほどなあ!」
「ファンは別として、優勝、優勝と口走る選手は二流やな」
「一年じゅう言ってたら、そうなりますね。野球選手として骨がない。大したプレーもできない選手でしょう」
「なんか野球が楽しなってきたわ」
「じゃ、もう少し走ります。ごちそうさまでした。オフにはまた寄らせていただきます」
 婆さんが、
「ええ子やねえ、神無月さんは。欲がなくて、ちっともえらそうにせん。今年はだいぶいじめられたけど、来年はピタッと止むでね」
「俺、中日球場の消化試合はぜんぶ観にいくつもりだよ」
「うちも巨人戦に家族でいきます。神無月さんが出れば、やっぱりシーズンの終わりまで満員だと思いますよ」
 女将が、
「ここはいつきても無料ですからね」
「ありがとうございます」
 マスターが、
「金太郎丼は、神無月さんがホームラン一本打つたびに半額です。よーし、バンザイ三唱いくぞ。中日ドラゴンズ、バンザーイ!」
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
         †
 中日球場。対広島十九回戦、二十回戦。
 十一時、ドラゴンズのバッティング練習。江藤が立てつづけに五本ほど放りこんだ。田宮コーチが、フーンという顔をしている。
「慎ちゃん、どうしたんだ」
「肘の調子がよかったい。いつもより思い切り振った。試合ではいつも思い切り振るばってん、練習ではここ数年、適当に流して打っとった」
「そう言えば、梅雨時も乗り切ってたな」
「そぎゃんたい。今年は痛まんかった。池藤しゃんの言ったとおりばい。コンバートが効いたァ」
 長谷川コーチが、
「親分の投球フォームが大きくなって、大毎時代に戻ったようだったんだけど、足踏みしちゃったな。ま、二週間も休めば多少復活するだろう。消化試合であまり投げさせんようにしないと来季に響く」
 十二時、バッティング練習終了。真昼のグランドの気温二十九・○度、ベンチの気温二十九・三度。試合が始まるころは二度ほど、終わるころには四度ほど下がる。微風。グリーンのスコアボードがまぶしい。
 めずらしい水曜日のダブルヘッダー。観客三万五千人。満員。通路や看板に貼りついて立ち見が出ている。午前にひと雨きたにも関わらず、グランドの整備が効いて、フィールドがしっとりと湿っている。芝は濡れているが、水は捌(は)けている。江藤とベンチに並んで腰をおろす。
「寮から中日球場にくるのにどのくらい時間がかかりますか。ぼくは車で二十分です」
「堀越から栄生、名駅を通って、中日球場まで寮バスで二十五分たい。金太郎さんと五分しかちがわんな。堀越の前は、あの飛島寮の一キロほど東の豊正中学校と同朋高校のあいだに向島合宿所があってな。そのときは二十分やった」
「あのあたりはいま物寂しい住宅街になってます」
「菅野さんの車で飛島寮にいったときはたまがったなあ。むかしの合宿所のすぐそばを通るんやけん……不思議な縁ば感じたっちゃん」
「縁以上のものですね。おたがい熊本生れですし」
 江藤は左袖の竜のエンブレムをさすりながら、
「生まれてから引き合っとったんやな。キャンプで会ったときは、初めての気がせんかった」
「ほんとにそうでした。幼馴染みのにおいと言うか。ぜったい小さいころいっしょに遊んでたんですよ」
「ワシは金太郎さんよりひと回り年上やけん、暦ひと巡り待っても十二歳とゼロ歳やけん遊びようがなかよ。ばってん、そう思うとうれしか。ハハハハ」
 太田と菱川がじっと聴いている。
「……その合宿所から堀越へ移転したんですね」
「おお、向島寮は伊勢湾台風で壊滅したけんな。ワシはその年の入団やけん、向島には半年しか入っとらんかった」
 またなつかしそうに笑った。
「中日球場に屋内練習場があるの知っとうと?」
「いえ」
「三塁スタンド下。いったことなかろ」
「はい」
「ちょっと更衣室があるくらいの粗末なもんばってん、素振りくらいはでくっぞ」
 太田が、
「三塁側にわざわざいくのは遠いですね。ビジターと顔を合わせることも多いし。ところで今朝の新聞でとうとう書かれましたね。神無月さんがバッターボックスの前半分、一メートル八十八センチの九分の五、つまり百五センチの足場で打つという事実。変化球が効かない理由と書いてありました」
「変化球は大体ホームベースの前一メートル五十センチくらいから曲がりはじめるから、曲がり鼻を叩くことになるんだよ。落ちてくる変化球は簡単には打てない」
 ベンチから広島のバッティング練習を見つめる。朝井が右方向へ打つことに専念し、ポパイ井上は入念にラインぎわにバントを転がしている。バッティングピッチャーは、門岡と水谷寿伸を想定して、重い速球の城野と、大きく曲がるカーブの西川が投げている。どちらも五年目か六年目で、余命幾ばくもなさそうな右投手だ。ふつうバッティングピッチャーというのは、決して試合に出ない打撃練習専門の投手のことを言うけれども、ときどき一軍のピッチャーが調整を兼ねて務めることもある。
 衣笠と山本浩司は気合を入れてボールを遠くへ飛ばしている。正一時、広島のバッティング練習終了。
 シートノック。外野芝での転倒を危ぶんで、ドラゴンズは内野のみ。菱川、一枝、高木、千原が出ていく。江藤が、
「中日球場の内野の土の質が日本一やと知っとうね?」
 太田が、
「痛感してます。ほかの球場を経験してわかりました」
「辻さんちゅう名人が、土を厳選してきびしく管理しとるけんな。打球がバウンドするたびにスピードが落ちて低くなるけん、無難に処理でくる」
 十分でノック終わり。広島は、外野手の二塁、三塁への送球中心。山内の肩が弱い。井上と山本浩司はふつう。小森コーチのキャッチャーフライ打ち上げで終了。いろいろなチームのこれを見るといつも、大した技量だと思う。田宮コーチは三塁フライを打ち上げてしまうことが多い。いつも一人で苦笑いしている。
 一時半。メンバー表交換。一時四十分、下通の涼しく透き通った声。すし詰めのスタンドを見回す。先月までは白一色だったのに、黒っぽい色が混じりはじめている。
「本日は中日スタジアムにご来場いただきましてまことにありがとうございます。間もなく中日ドラゴンズ対広島カープ十九回戦の開始でございます。先攻は広島カープ、一番ライト井上、ライト井上、背番号25、二番サード朝井、サード朝井、背番号15、三番センター山本浩司、センター山本浩司、背番号27、四番レフト山内、レフト山内、背番号8、五番ファースト衣笠、ファースト衣笠、背番号28、六番セカンド三村、セカンド三村、背番号48、七番キャッチャー久保、キャッチャー久保、背番号24、八番ピッチャー大羽、ピッチャー大羽、背番号29、九番ショート今津、ショート今津、背番号6」
 淡々と放送する抑揚がやや緊張している。
 ドラゴンズは固定メンバー、中、高木、江藤、神無月、木俣、菱川、太田、一枝、先発ピッチャーは門岡。
 球審は今年で引退すると新聞に出ていた井筒、一塁塁審は江藤の先輩熊商出身原田、二塁はこれも今年引退予定の有津、三塁は関西地区で勤務することの多い太田、ライト線審はいつもにこやかな手沢、レフト線審は長嶋の幻のホームランの一塁塁審竹元。
 観客も審判も緊張している。場内が静まりかえっているので、鉦太鼓が鳴りわたる音がハッキリ聞こえる。野手のかけ声やグローブの捕球音が鼓膜を貫くように聞こえてくる。
 フラミンゴ大羽進、十年選手、小型のサウスポー、直球ほとんどなし。カーブ、シュート、フォーク、ときどきスローカーブ。これまでの対戦成績は、四打数二安打、右翼ホームラン、左翼線二塁打、セカンドゴロ二つ。初の四打席連続ホームランのときの四人目のピッチャーだった。得意でも不得意でもない。右足をわざとゆっくり上げるときに少し打ちづらく感じる。
 二時。井筒の甲高い声。
「プレイ!」
 一瞬歓呼の声。
「うおおぉぉ!」
 一回表。おととしのドラ一、大阪北陽高校出身、大洋の長田と同じポパイというあだ名の井上弘昭。もともとの老け顔がやっと実年齢に追いついたような顔をしている。バットをかなり前に倒してわずかに屈みこむ。ワンスリーから特大のファール、そして、空振り三振。いいスイングだ。要注意。二番朝井、カーブ、スライダーのコンビネーションでセカンドゴロ。三番山本浩司、初球のカーブを私へのフライ。簡単に捕球してスリーアウト。
 一回裏。中、初球の外角カーブを流し打ってサードゴロ。高木、江藤、二人とも切れこんでくる外角シュートを見逃し三振。静かな滑り出しだ。観客席も水を打ったように静まり返っている。
 二回表。山内、衣笠、三村と右打者三人が連続セカンドゴロ。門岡のスライダーがふつうにキレている。
 二回裏。私からの打順。
「キャー!」
「金太郎さーん!」
 ベンチの声も高まる。
「ヨ、ホ!」
「さ、一発!」
 鉦、平太鼓、応援旗。気の早い優勝の横断幕。からだが軽い。ワンスリーから、外角低目のカーブを屁っぴり腰で左中間スタンド中段へ突き刺す。連続するフラッシュ。百二十四号ソロホームラン。下通の晴れやかな声に背中を押されて、気分よくダイヤモンドを回る。水原監督の握手。強めの尻ポーン。
「のんびりいくよ。大詰めはまだまだ少し先だ」
「はい!」
 花道の仲間とハイタッチ。木俣三振、菱川三振。太田ライト前へ地面すれすれの惜しいライナー。チェンジ。
 三回表。右手をベンチの屋根に置き、左足をベンチの登り段に置く。まれに右と左が逆転することもある。味方が守備のときの水原監督のお決まりのポーズだ。その姿がレフトの守備位置から望見できる。心が安らぐ。
 久保ショートゴロ。
「プロ野球選手は特殊な我のかたまりです。どこを棲み家としようと人の知ったことではない。棲みたいところに棲む。タニマチもいろいろだよ。とてもきれいごとで話はすまない。ただ、火種から話を大きくするのは、申しわけないが、いつもマスコミだ」
 報道陣に北村席のことを訊かれたときの水原監督の答えだ。感激した。
 大羽、サードゴロ。


         八十一

 巨人の監督時代、負けたときの彼の口癖は決まって、
 ―胸を張れ。堂々と引き揚げるんだ。
 だったと聞いた。試合後彼は背広にネクタイに着替え、しゃれた帽子をかぶって銀座のなじみのおでん屋にいく。山県運転手の車に乗っていくのだろう。店を出ると、ネオンの銀座を少し歩く。花売り娘が近づいてくるとかならず買う。焼き栗の店が出ていると、買ってポケットに収める。そのころの竹園旅館の水原監督の部屋は離れの桜の間だったそうだが、彼が部屋に入ったあとの庭下駄が乱れていることはなかったと聞いた。
 今津、三遊間のヒット。
 巨人を解任されるとすぐに、東映フライヤーズの大川博が、水原監督の自宅まできて、じきじき監督に、と言った。わざわざ家まできてくださった人にお断りしたら人間として非礼になる、お受けします、と応えた。
 ふた回り目の井上。立ち姿が力感にあふれている。ワンワンから門岡の高目のカーブが内角から真ん中へ落ちた。豪快なスイング。あれよあれよという間にラインドライブしながらレフト上段へ突き刺さった。みごとな打球だ。惚れぼれと見上げる。当たっているバッターは失投を見逃さない。
「井上選手、七号ホームランでございます」
 二対一。
 水原監督は契約書も交わさず、契約金交渉をしたこともなかった。で、おまえの面倒は一生俺が見る、と言っていた正力松太郎にクビを切られた。東映も同じだった。大川博の息子に切られた。巨人は川上を、東映は大下を監督にするためだった。中日ではしっかり契約をしたようだ。ものすごい年俸だと聞いている。あれほど強く私の契約金を小山オーナーに談判したのも、私に世知辛い思いをさせたくないという理由からだったろう。プロ球団の商法を信用していなかったのだ。
 朝井、初球を私の前へライナーのヒット。押せ押せになってはまずい。山内、鈍い振りでショートフライ。きょうの山内は安全パイだ。―敬愛する山内に失礼なことを言ってしまった。
 水原監督の東映時代の有名な言葉。
 ―尾崎の魅力は、何と言っても、バネのある肉体と、ナチュラルにシュートしてアウトコースに決まるフロートボールにある。それと重くて伸びのある速球だ。だから私はコーチに、高校時代のままのフォームでやらせろ、けっしてフォームをいじるなと言ってある。
 その尾崎は五年間で九十八勝を挙げた。そして彼の衰退とともに水原監督は東映を追われた。そんなことは意に介さず、水原監督は尾崎を酷使したことを悔いた。
 三回裏。一枝ライト前へワンバウンドのヒット。
 水原監督と仲のいい小村というぶら下がりの記者から、監督がたった一度愚痴を言ったことがあるという話を聞いた。川上監督と鶴岡監督が同時に野球殿堂入りした昭和四十年の暮れ、水原監督は小村と大阪ミナミの料亭で飲んだ。
 ―それにしても、なんでテツやツルなんだ。いったい記者連中はどこに目がついてるんだ。俺は甲子園で全国優勝もしたし、神宮でも鳴らしたんだぞ。プロでも最高殊勲選手賞を獲った(応召前の昭和十七年)、その功労者を差し置いてなぜだ。―ま、たしかにあいつらも、俺が戦地にいたあいだの功労者だ。大人げない愚痴ををこぼして悪かったね。あいつらのために乾杯してやろう。
 愚痴を言わないような人間はカスだ。その話を聞いて私は胸を撫で下ろした。天然の嫌われ者、マスコミに顰蹙されつづけてきた彼が、生まれて五十六年経って初めて洩らした愚痴だ。貴い。 
 門岡ボテボテのセンター前ヒット。ノーアウト一、二塁。中、ショートの深いところへゴロ。今津三塁送球。一枝間一髪セーフ。ノーアウト満塁。波が寄せてきた。最近半田コーチの、ビッグイニング! の叫びが聞こえない。今年かぎりで去る日本を思って感傷に浸っているのか、ベンチの隅でニコニコ笑ったり、グランドをさびしそうに見つめたりしている。バヤリースを差し出すときだけは、心から喜んでいる目つきをする。
 巨人時代の水原監督について、ある若者が週刊ベースボールに寄稿していた。『水原監督の思い出』。宮崎のとある花屋の長男である彼は、大学の後輩というだけの理由で、宮崎キャンプのあいだ頻繁に監督の運転手を務めた。

 弱冠二十歳の若造のぼくに、ただ単に大学の後輩というだけのことで、卒業までの三年間、春休みの期間だけでしたが、滞在なさるあいだの移動の運転手をさせてくださいました。監督のなさったいろいろな話が記憶に残っています。選手個々の調子、二人の息子さんの逸話、その人たちのことを深く思っていることがひしひしと伝わってきました。お話のじょうずなかたでした(息子がいたとは知らなかった。そう言えば監督には女の子の孫がいる。来年ダークダックスといっしょにレコードを吹きこむと聞いた)
 あるときぼくが花屋の店頭に立っていたとき、わざわざ訪ねてきてくださって、二万円の花束を注文してお持ち帰りくださいました。監督のような大スターが、ほんとうに忙しい中を縫ってぼくのような若造のために時間を割いてくださったという感動は、生涯忘れられないものとなりました(若者の肩を抱いて笑っている監督の写真が載っていた)。真のスーパースターは、そのパワーで、弱い者や夢を抱く者たちに勇気を与えることができるということをちゃんと知っていて、さりげなくそのための行動や気遣いをされるのだなあと思いました。


 水原監督は明石でも、いろいろな選手と肩を組んで写真を撮っていた。東映時代は、暴れん坊張本の肩に手を置いている写真まである。愁えず、惑わず、恐れず、が水原監督の座右の銘だ。私は終生彼を愛しつづける。水原監督、私たちはあなたのためにかならず優勝をプレゼントします。
 高木、センター前ヒット。一枝生還。二対二の同点。ノーアウト満塁のまま。ネクストバッターズサークルに入る。
 江藤、ノースリーから外角カーブを打ちにいって、ライトへ深いフライ。門岡生還。二対三。カークランドが返球を誤って地面に叩きつけたのを見て、中は二塁から長駆本塁へ。セカンド三村の返球でタッチアウト。高木は二塁へ。ツーアウト二塁。
 早々とピッチャー秋本に交代。阪急から去年広島にきた三十四歳のベテラン。阪急在籍十三年間で二十八勝しか挙げていない。昭和三十三年に最高勝率を獲っている。十四勝四敗。それから十一年で十四勝しかしていない。大した力もないのに十三年以上もプロにいられたのは、それなりの長所があるからだ。小柄な彼はウォーミングアップが極端に短くてすむことで有名だ。強心臓そうなふてぶてしい顔。上から、横から、下からも自在に投げる。これまで彼との対戦成績は五打数二安打、左中間のホームラン、ライト前ヒット、あとはファーストライナー、ファーストフライ、ファーストゴロ。どちらかと言えば苦手なピッチャーに属する。スコッと打ち損なうことが多い。
「四番、神無月、背番号8」
 歓声が渦巻く。お願いしますと井筒に頭を下げ、バッターボックスに入る。交代したばかりのピッチャーの初球を私はよく見逃す。ケンすることで威圧感を与えたいからではなく、たいてい打たせてくれないからだ。ここは少し無理な球でも打つ。水原監督と顔を見合わせてうなずく。秋本がセットポジションに入り、二塁の高木を横目で睨みつける。秋本のコンビネーションが手に取るようにわかる。初球外角低目のシュートで様子見、二球目内角低目のスライダーでストライクをとり、三球目アウトハイへストレートで遊び、四球目アウトローに落ちるカーブで打ち取る。
 初球、秋本の上体が少し右へ傾く。スリークォーターだ。ボールを弾き出す指先が最初から横を向いている。ベースをかなり遠く外れるシュート。踏みこんでも届かない。またも初球打ちを外された。
「ヨ!」
「そりゃ!」
「ラクにいこ!」
 スタンドから叫び声が降ってくる。
「金太郎さん、ホームラン!」
「打ってェ!」
 二球目、内角くるぶしのあたりのスライダー。両足で飛び上がってよける。キャッチャーが横倒しに捕球した瞬間、二塁走者の高木が走る様子を見せた。久保も三塁へ送球する格好をする。高木はゆっくりセカンドベースに戻った。三球目、外角顔の高さのストレート。上から叩きつけるようにかぶせて流し打つ。
「ヨシャー!」
「ドスコイ!」
 左翼ボールに向かって飛んでいく。
「ホー!」
 というどよめき。わずかにポールの左へ逸れた。竹元が両手を外へ押し出すようなジェスチャーをする。失望のため息が球場を満たす。
 久保が立ち上がり、ベンチをチラッと振り返る。敬遠するか、私の思惑どおり外角にカーブを落としてくるか。コーチらしき一人の男がうなずき、すぐに勝負と決まったようだ。水原監督の激しいパンパンパン。久保が外角に低く構える。四球目、腕が真上から振り下ろされる。外角から内へのカーブだ。低く落ちきらないうちに、いざって前へ出る。外角の絶好球になる。したたかに叩き上げる。ギュンと弾き出された瞬間、フラッシュが連続で光った。高木がバックスクリーンに向かって右こぶしを突き上げる。爆発する歓声。白球が黒い板のはるか上方を越えていった。森下コーチがタッチの形に両掌を掲げている。パーンと強くタッチ。右腕を突き上げたまま走る高木の背中を追う。
「ナイス、ホームラン」
 セカンドの三村が小声で言った。いつものようにタイミングの早い下通の声が流れる。
「神無月選手、百二十五号のホームラン、九十六試合目で達成でございます」
 水原監督とタッチ。
「仕事終わっていいよ!」
「まだまだです!」
 ホームイン。久保と井筒がベースを凝視する。江藤が抱き止め、抱き上げ、スタンドの観客にお披露目するようにベンチ前で一回りする。カズちゃんたちに手を振る。菅野たちに手を振る。菱川が抱きついて頬にキスをする。私を目がけて記者席からフラッシュの矢が無数に飛んでくる。
 太田がスコアボードを指差す。川崎の巨人―大洋戦、四回終了時点、一対三で大洋がリードしている。勝たなければならない。ベンチに飛びこみ、バヤリース。
「はーい、バヤリース大盛り!」
 カン! と乾いた音がし、木俣がバンザイをしながら一塁へ走り出す。フラッシュ、フラッシュ。白球が左中間へ伸びていく。森下コーチと強烈なタッチ。バックスクリーン左のスタンドへ突き刺さった。
「木俣選手、三十六号のホームランでございます」
 下通の浮きうきとした声が流れる。二対六。
「もう、よかぞ!」
 江藤が叫んだとたん、ガシッ! 痛烈なライナーがライトスタンドに飛びこんだ。
「菱川選手、二十八号のホームランでございます」
 宇野ヘッドコーチが、
「まだまだ遠慮しないでいけ!」
 二対七。ピッチャー安仁屋に交代。田宮コーチが、
「安仁屋といえば、プロ野球史上唯一のキャッチャーライナーってのがあってさ、四十年の巨人戦で、滝の打ったピッチャーライナーが安仁屋の膝に当たってホームにノーバンで撥ね返った。それをキャッチャーの久保が捕ってキャッチャーライナー」
「よく膝が割れなかったですね」
「琉球鉄でできてんだろう」
「有名なんですか」
「さあ、なんかありそうな気がするだろ」
 太田奇しくもピッチャーライナー。ベンチが笑いで盛り上がった。
 四回表。衣笠フォアボール。三村セカンドライナー。久保ショートゴロゲッツー。門岡の好投がつづいている。ベンチへ駆け戻る。
 四回裏。水原監督が三塁コーチャーズボックスへ歩いていく後ろ姿を見ながら、私は事情通の中に語りかける。
「水原監督が政財界の大物たちと懇意にできるのはなぜですか」
「四国はもともと教育熱心な土地柄でね、特に高松商業は経済人の養成校として設立されたから、のちの日本経済を支えた錚々たるメンバーが輩出されたんだね。彼らは母校の出世頭である水原さんを放っておかない」
 一枝ショート後方のポテンヒット。門岡ファーストフライ。中、サードライナー。高木右中間を抜く三塁打。一枝生還。二対八。
 江藤二本つづけて空振り。三球目、食いこんでくるシュートを美しいオープンスタンスで強打。
「出たあ!」
「ひさしぶり!」
 レフトスタンド目がけて高く舞い上がる。ベンチが飛び出してバンザイをする。フラッシュがしきりに瞬く。森下コーチに尻を叩かれた江藤が右腕を突き上げて走る。
「江藤選手、五十四号のホームランでございます。通算二百九十七号、あと二本で王選手のシーズン記録を破り、三本で十一年目にして三百号達成でございます」
 轟々たる歓声のなか水原監督と握手。私は真っ先に飛び出して抱きついた。抱え上げて一回りする。重い。
「重かろ、腰に悪かぞ」



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